前回は《鍋島直大像》を取り上げ、なぜ、画家でもない日本人が、西洋画の画法でここまで立派な肖像画を描くことができたのか、考えてきました。まず、この作品が描かれたローマでの絵の学びを振り返り、次いで、パリでの学びに遡って、その軌跡を振り返ってみました。百武が西洋人画家から何を学んだのかを辿ってみたのです。
その結果、肖像画の出来栄えに関する疑問は一応、解けました。それでもまだ、なぜ?の思いは去りません。
そもそも、画家になろうとしていたわけでもなかった百武が、なぜ、油彩画を手掛けるようになったのかがわからなかったのです。
そこで、百武の来歴を見ると、ロンドン滞在中に、油彩画を学んでいることがわかりました。
オックスフォード大学に留学していた鍋島直大らは、佐賀の乱が勃発したため、一旦帰国しました。ところが、乱はすでに収まっていました。佐賀に戻ってまもなく、新たな命を受け、再び渡英しています。今度はオックスフォードではなく、ロンドンに居を構えました。
ロンドンで、師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。
そこで今回は、①百武はなぜ、油絵を描くようになったのか、②ロンドンで師事したリチャードソンはどのような画家だったのか、③彼からどのような影響を受けたのか、等々について考えてみたいと思います。
まず、来歴からみていくことにしましょう。
■再び、ロンドンへ
1874年3月、佐賀の乱が起こったことを知らされた鍋島直大は、急遽、百武を伴い、帰国しました。リバプールから乗船し、ニューヨーク、サンフランシスコを経由し、7月20日に横浜港に着きましたが、その頃にはすでに反乱は収まっていました。
鍋島らは東京に2週間滞在して、明治新政府に一時帰国の報告をし、関係者に面会した後、佐賀に戻りました。佐賀には5日間ほど滞在しただけで、鍋島直大は落ち着く間もなく、1874年8月13日に再び、百武らを伴い渡欧します。
前回とは違って、今度は、胤子夫人も同行しました。というのも、この時、鍋島に与えられた任務が、「西洋風の貴族の在り方」を学ぶようにというものだったからです。随員の田中永昌や夫人の世話係の北島以登子を伴っての渡航でした。
長崎を出発し、上海、シンガポール、サイゴンを経由し、紅海からスエズ運河に入りました。そこから地中海に出て、ナポリに上陸しています。50日間にも及ぶ船旅でした。その後は陸路でマルセイユに向かい、胤子夫人の洋服を新調してパリで一時、滞在した後、ロンドンに着いたのは、11月23日でした。すでに雪が降り始めていました。
鍋島は、以前とは違って、オックスフォードではなく、ロンドンに拠点を置きました。ケンジントン宮殿に近い、クランリカード ガーデンズにある大きな家でした(※ Andrew Cobbing, “The Japanese Discovery of Victorian Britain”, JAPAN LIBRARY, 1998, pp.136-137.)。
ロンドンからオックスフォードまでは約80㎞離れています。ですから、今回の渡英で、直大は、大学での学びよりも、イギリスの文化や社交を直接学ぶことに力点を置いていた可能性があります。
コビングは、岩倉、蜂須賀、鍋島のような支配階級の子息は、ケンブリッジやオックスフォードなどに私費留学をし、西洋の文化を身に着けようとしていたと書いています。鍋島直大については、海外留学させてほしいと1871年に父に懇願していたことまで記しています(※ 前掲、p.31)。
この時、鍋島直大は25歳でした。次代を担う若者として、欧米の技術、文化、制度を学ぶ必要があると判断していたのでしょう。国を背負って立とうとする若者の覇気を感じさせられます。
考えてみれば、当時、アジア諸国は次々と、列強の侵攻を受け、悲惨な目に遭っていました。それを知った日本の支配階級の一部は、その対応策として、列強と並ぶ近代国家を目指しました。開国を迫る列強に対抗するため、自身を変革する必要があると判断し、それに向けて動き出していたのです。
その頃、中国の支配階級は、外国と取引することを恥ずべき事だと考えていたとコビングは記しています。列強との接触を忌避し、近代化を拒否したのです。その結果、中国はたちまち、欧米列強の草刈り場になってしまいました。
一方、日本では、進取の気性に富んだ武士や公家の一部が幕末の時点ですでに、西洋の技術や文化を学ぼうとしていました。列強と同等の技術や文化を学び、身に着けることによって、ようやく、彼らと対等に交流できるということを察知していたのです。
彼らの子息が岩倉具経(1853-1890)であり、蜂須賀茂韶(1846-1918)であり、鍋島直大(1846-1921)でした。
彼らは、明治になると早々、渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で学んでいます。
コビングは、日本から来ていた留学生のうち、蜂須賀と鍋島は妻を伴って来ており、彼女たちは初めてイギリス政府からパスポートを受け取った日本人女性だったと記しています(※ 前掲、p.122)。
胤子夫人もまた、彼らと同様、進取の気性に富んでいたのでしょう。華族の夫人という立場で渡英した彼女は、ロンドンに到着するなり、さまざまなことを学び始めました。貴族階級の女性先駆者として、使命感のようなものを感じていたのではないかと思われます。
さまざまな習い事のうちの一つが絵画でした。
■胤子夫人のお相手として、油彩画を学ぶ
ロンドンに到着すると、胤子夫人には英国老婦人が付き、英語や生活習慣に慣れるよう手配されました。週一回、ダンスやピアノの稽古に励み、さらに、女性の嗜みとして、針仕事や裁縫、西洋刺繍にも取り組んでいました。
日本の貴族階級の女性として、胤子夫人は、相応の西洋文化を身につける必要があったのです。やがて、西洋刺繍には絵画的センスが必要だということがわかってきました。
そこで、胤子夫人は、画家から指導を受けることになりました。週に一度ぐらいの割合で、自宅に来てもらい、絵画を学ぶようになったのです(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、p.25. 1979年7月、至文堂)。
1875年のことでした。
ヨーロッパでは、王侯貴族など名家の子女は、お抱えの家庭教師から、自邸内でマンツーマンのレッスンを受けるのが慣わしでした。学問や教養、芸術、マナー、衣装、美容など一切合切を、彼女たちは、一流の講師から自宅で学んでいたのです。
胤子夫人もその慣わしに倣ったのでしょう。自宅で画家から直接、絵画指導を受けるようになりました。
とはいえ、英国人の男性画家から、油彩画の指導を受けるのですから、多少の不安があったのかもしれません。しかも、油彩画は初めてでした。胤子夫人は後に、次のようなことを書き記しています。
「初めてやるのに一人と云ふ訳にはいかず、百武氏が御相手をすると云ふ事から画の稽古を始めた」(※ 三輪英夫編、前掲、p.26.)
三輪氏はこの文章から、「百武がすでに洋画になじんでいたというニュアンスを読み取れるように思える」と書いています。
確かに、百武が共に学んでくれれば、胤子夫人も安心して、学び始めることができるでしょう。多少なりとも油彩画の知識があればなおのこと、百武の存在が、夫人が油絵を学び始める大きなプッシュ要因になったと考えられます。
その一方で、胤子夫人は、「此様云ふ事から百武氏の洋画は始まった」(※ 前掲)とも書いています。百武はここで油彩画を学び始めたと明言しているのです。そうだとすれば、先ほどの文章はただ単に、一人ではなく、百武もいるから安心して学べるという程度の意味合いだったにすぎないのかもしれません。
いずれにしても、胤子夫人が油彩画を学ぶ際のお相手として、百武も画家から直接、絵画指導を受け始めたことがわかりました。幼い頃から鍋島直大のお相手として共に勉強をしてきた百武にとって、これもまた公務の一つといえるものなのかもしれません。
■鍋島胤子夫人
ロンドン時代の胤子の写真があります。
(※ http://easthall.blog.jp/archives/16127037.html)
外出用の服装なのでしょう。網のかかった帽子にパラソル、襟と袖回りにフリルのついたドレスを着て、写真に収まっています。いかにも貴族の女性らしい装いです。ロンドンでの生活にも多少、慣れてきたのでしょう、その表情には、自信のようなものさえ醸し出されています。
上記の写真からは、短期間のうちに、一通りの知識やマナーを身につけ、胤子が日本の貴族の女性として、英国上流社会に馴染んでいる様子がうかがわれます。
油彩画についても同様、西洋画法を着実に習得し、たちまち実力をつけていったのでしょう。佐賀市のHPには鍋島胤子について、次のような記述がありました。
「日本閨秀画家の先駆者鍋島胤子があり、現代では久米桂一郎、岡田三郎助などの洋画の大家がある」
(※ https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s33349_20120903053915.pdf)
胤子が女性洋画家の先駆者と位置付けられていることがわかります。実際、油彩画でもそれなりの成果をあげ、評価も得ていたようです。黒田清輝は、「侯爵邸に叢中の卵の画が掲げてあるのを存じていますが、なかなかよく出来ていたように思います」と書き、鍋島胤子は日本の貴婦人の中で最初に油彩画を研究したと紹介しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.25.)。
胤子の作品は現存せず、残念ながら、現在、見ることはできません。とはいえ、黒田が見たという作品の白黒写真はありました。
(※ 三輪英夫編、前掲、p.35.)
色彩がわからないのが残念ですが、画面いっぱいに伸びやかな筆致で捉えられた卵と籠と草花が印象的です。光と影、明と暗がしっかりと描き分けられ、モチーフに立体感と奥行きが感じられます。
西洋刺繍のため、美的センスを磨くことを目的に、胤子夫人は画家から絵画指導を受け始めました。上記の作品を見ると、元々、画才があり、絵を描くのが好きだったのかもしれません。とりわけ、観察力、表現力に優れたものがあるように思えました。
百武兼行と鍋島胤子夫人、二人が師事したのが、風景画家のリチャードソンでした。
■トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)
年譜には、1875年頃から胤子の付き添い役として、百武は、風景画家リチャードソンに師事したと書かれています。
リチャードソンが果たして、どのような画家なのか気になります。調べてみると、確かに、トーマス・マイルズ・リチャードソンという人物がすぐ見つかりました。
こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson
ニューカッスル生まれの風景画家です。ただ、このリチャードソンは1784年生まれで1848年には亡くなっています。百武らが絵を習い始めたのが、1875年頃ですから、どうやら、彼らが師事したリチャードソンではなさそうです。
上記のWikipediaには、リチャードソンの6人の子どもたちはいずれも画家を継いだと書かれています。そのうち、生存期間が明らかなのは、Edward Richardson(1810-1874)と, Thomas Miles Richardson Jr.(1813-1890)だけでした。生没年が判明していることから、この二人は当時、多少は名前を知られた画家だったことがわかります。
しかも、このうちの一人は、父の名前の後にジュニアが付加されたThomas Miles Richardson Jr.です。ジュニアと称されているのは、画家としては父と遜色のないレベルだとみなされていたからと思われます。生存期間から判断すると、百武と鍋島胤子は、このリチャードソン・ジュニアから絵画の指導を受けていたのではないかと思われます。
三輪英夫氏もまた、このリチャードソンについて、「正確なことはわからないが、おそらくニューカッスル生まれのトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアではないか」と推測しています(※ 三輪英夫編、前掲、p.29)。
三輪氏はさらに、次のように詳しく、リチャードソン・ジュニアを紹介しています。
「このリチャードソンは、ニューカッスル水彩画家協会の創立者リチャードソン・シニアを父として、ニューカッスル・アポン・タインに生まれ、父や兄弟同様、風景画家として知られた。油絵も描いたが、1848年以後は主に水彩画をよくし、イギリス国内の各地をはじめ、フランス、スイス、イタリア、ドイツを訪れ、その地に取材した風景画を多く残している。前景に人物を配し遠景を眺望する形の風景画を得意にした。1832年から1889年の間ロイヤル・アカデミーその他に出品を続けるとともに、1842年にはO.W.S.(Old Watercolour Society)の創立会員に、1851年にはスコットランド王立アカデミーの会員になっている」
(※ 三輪英夫編、前掲、p.29.)
これを読むと、リチャードソンは油彩画の画家というより、水彩画の画家として知られていたようです。
ただ、リチャードソン・ジュニアについては、まだWikipediaに掲載されていません。
こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Miles_Richardson_Jr.1813-1890
仕方なく、ネットで調べてみると、クリスティーズや画廊のサイトで、トーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニアの作品がいくつか掲載されていることがわかりました。リチャードソン・ジュニアについては、ネットでそれ以上の情報は得られませんでした。
しかも、ネットで見ることができた作品はいずれも水彩画でした。三輪氏の説明に従うと、1848年以降の作品ということになります。
まずは、百武らが師事したリチャードソン・ジュニアの作品を見てみることにしましょう。
●《The Town and Lake of Nemi, South Italy》(1880年)
イタリアを紀行して描いた作品、《南イタリアのネミの町と湖》です。
(水彩、グワッシュ、紙、パネル、78.3×68㎝、1880年、所蔵先不詳)
柔らかな陽射しに包まれた、穏やかな風景画です。色合いが優しく、繊細な筆遣いが印象的な作品です、
よく見ると、手前には、立ち止まって語り合っている人々が描かれ、その周囲に馬が座り、やや後ろには、数頭の馬と馬追いのような人が見えます。おそらく、旅人がこの峠で休憩している光景を描いたものなのでしょう。生活風景の一環としての風景画といえます。
画面はやや高みから捉えられ、構成されています。そのせいか、辺り一帯を過不足なく、見渡すことができます。湖と遠景の山並み、そして、空を彩る淡い青のグラデーションが、清澄な空気の質感を感じさせます。それが、画面全体を包み込み、当地の人々の安寧な生活を浮き彫りにしています。
上品な色調がなんとも快く、刺繍の絵柄としても、大きな壺や皿の絵柄としても秋の来ない絵柄だと思いました。
さらに、イタリアの風景を描いた作品がありました。
●《Luveno, Lake Maggiori》(ルヴェーノ、マッジョーレ湖)
イタリア北部に位置するマッジョーレ湖 は、イタリア第2の大きさの湖で、観光地としても知られています。
リチャードソン・ジュニアはヨーロッパ各地を訪れ、風景画を描いていたとされていますが、イタリアも好んで訪れた土地の一つだったようです。
マッジョーレ湖の湖畔から捉えられた作品があります。
(※ https://jamesalder.co.uk/thomas-miles-richardson-junior/luveno-lake-maggiori2/1)
手前に、ボートで作業する人の姿が描かれています。オールの先が海に浸かり、そこから波が楕円状に広がっており、湖面の表情が繊細なタッチで捉えられています。中景には湖面に浮かぶ何艘かの船が描かれ、湖畔右手には古城のような建物が建っています。
現在の生活と過去を偲ばせる建物とが調和して描かれているのが印象的です。色調といい、タッチといい、透明感のある画面に詩情が溢れています。
スコットランドの風景を描いた作品もありました。ご紹介しましょう。
●《Scottish Landscape》(スコットランドの風景)
小高い丘の上から遠方の山並みを捉えた風景です。
(水彩、紙、43.18×60.96㎝、制作年不詳、所蔵先不詳)
画面手前、やや中景よりに、二人の男性が岩に腰を下ろして、なにやら語らっています。その先には白い馬か羊のようなものも見えます。旅の途中なのでしょうか。大きな木をアクセントに、背後に山々が広がる風景が描かれています。
穏やかな陽射しが、丘一面に降り注ぎ、中景以降の山並みは、淡い青のグラデーションで描かれており、雲の合間に霞んで見えます。
手前のモチーフに落ちた柔らかい陽射しと、山並みと一体化したような淡い空に、清澄な空気の広がりが感じられます。空気遠近法によるぼかし表現が幻想的で、詩情あふれる空間を作り出しています。
これまで見てきた作品と同様、手前に人が描かれ、背後に優しい青の空が配された繊細な印象の作品です。描く対象が違っても、似たような絵柄であり、画風です。
いずれも空気遠近法を使って描かれています。遠くなるほど、山並みの青色が薄くなり、白に近づいていきます。その白が、空に浮かぶ雲と重なり合って、まるで空に溶け込んでしまいそうに見えます。
リチャードソン・ジュニアが描く作品のモチーフと画面構成は、優しく安定感があり、西洋刺繍の絵柄にも、磁器の絵柄にも似つかわしいように思えます。
このような画風のリチャードソンを見ると、百武は、果たして、彼から何を学んだのかという気がしました。
それでは、リチャードソン・ジュニアに師事していた頃の百武の作品を、いくつか見てみることにしましょう。
■ロンドンでの百武の作品
● 《城のある風景》 (1876年)
油彩画を習い始めた次の年に描かれたのが、《城のある風景》です。
(油彩、カンヴァス、40×56.1㎝、1876年、微古館)
前景に川と川辺で働く二人の人物を配し、中景に船と工場のような茶色の建物群、遠景にはそびえる城郭と空を配した画面構成です。取り立てて印象に残る作品ではありません。むしろ、中景の建物群の描き方、川面に映る船や建物の影の描き方には、未熟さが感じられます。
構図は、先ほど見てきたリチャードソンの作品に似通ったものがあります。手前に作業する人物を描き、中景に建物あるいは山並み、そして、背後に全体を包み込むような空を配するといったところに、類似性を感じさせられます。
一方、川辺で働く二人の人物の影の付け方には違和感がありますし、中景に描かれた工場の建物群や手前の船は、遠近法が用いられていないせいか、不自然に見えます。
雲の描き方、左側の木々や川面なども、リアリティに欠けて見えます。陽の射し込む方向を気にせず、パースを意識せずに描いていることから、まだ西洋画の技法を習得できていないことがわかります。
とはいえ、これは油彩画を学び始めてまだ1年しか経っていない頃の作品です。しかも、随行員としての仕事や、経済学の勉強の合間に週一回、絵画指導を受けていただけでした。学びの時間の短さを思えば、むしろ上出来だといえるのかもしれません。
1876年には、このような作品を描いていた百武ですが、その2年後の1878年には明らかに画力をあげた作品を仕上げています。
《バーナード城》です。
バーナード城は当時、画題として大変、好まれていたようです。多くの画家がこの城を取り上げ、作品化していました。たとえば、風景画家として有名なターナー、そして、リチャードソン・ジュニアの父などです。
それらの作品を比較してみれば、百武の特徴を見出すことができるかもしれません。
そこで、まず、百武の《バーナード城》を取り上げ、次いで、風景画家として著名なターナーの《バーナード城》、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、リチャードソン・シニアの《バーナード城》をご紹介し、百武の作品の特徴を考えていくことにしたいと思います。
■百武作、《バーナード城》(1878年)
《城のある風景》を描いてから、わずか2年しか経っていないとは思えないほど、上達しています。
(油彩、カンヴァス、83×114㎝、1878年、宮内庁)
この作品も、前作《城のある風景》と同様、前景に川、中景に木々と橋、遠景に聳え立つ城郭と雲が描かれています。
城の窓から空が見えているところに、廃墟となったバーナード城のもの悲しさが伝わってきます。観察した結果を見逃さず、哀感を誘う表現で捉え直しているところに、熟達の跡が見えます。茶褐色を多用し、古色蒼然とした色調で覆われた画面に、哀愁を感じさせられます。
画面上部を見ると、どんよりと立ち込める雲が表情豊かに描かれており、哀切感が強調されています。
そして、手前に視線を落とすと、流れる川の所々に白波が立ち、水の流れは留まることなく、下方に下っているのが見えます。脈々と流れる川が、背後に見える古城の空しさをことさらに強く、印象づけているのです。
水の流れが、時間を越えて生き続けているのに対し、人が造った城は、時を経て古び、人が住まなくなれば、その生命を失ってしまうことが対比的に示されているのです。秀逸な画面構成だと思いました。
次に、風景画家として有名なイギリス人画家ターナーが描いた作品を見てみましょう。
■ターナー作、《バーナード城》(1825年)
イギリスの有名な風景画家ターナー(J. M. W. Turner, 1775 –1851)もまた、バーナード城を描いていました。
(油彩、カンヴァス、30.5×41.9㎝、1825年、Yale Center for British Art)
砂州が画面右側に見えますから、百武の作品よりも左寄り、やや高みから城を捉えた光景です。前景に、川を挟む両岸の巨岩、そして遠景に、バーナード城と橋が淡く描かれています。その背後から、太陽が鈍い光を放ち、いまにも沈もうとしています。
微かな陽光は川面を照らし、辺り一帯を穏やかな光で包んでいます。淡い色調で、川と空、そして、巨岩に囲まれた廃墟と橋がうっすらと捉えられ、画面全体に神秘的な雰囲気が漂っています。
淡い色調とぼんやりとした構図の中に、ターナーの作品世界がしっかりと表現されていました。幻想的で、詩情溢れる風景画です。
ターナーが描いた《バーナード城》に夕刻がもたらす幻想性と神秘性が表現されているとするなら、百武が描いた《バーナード城》には、ひしひしと迫る哀切感が、色濃く表現されているといえるでしょう。
二つの作品を見比べているうちに、ふと、百武は、廃墟化した古城に、自身を重ね合わせていたのではないかという気がしてきました。百武が属していた武士階級は、維新で消滅しました。その実感はまだなかったでしょうが、やがてはこの廃城のように、消え去る運命にあることを察知していたような気がします。この作品には、それほど哀感迫るものがありました。
油彩画を学び始めてまだ時間が経っていないというのに、百武の描いた画面からは切々とした情感が浮き彫りにされていたのです。
百武は果たして、師事していたリチャードソン・ジュニアから、このような表現法を学んだのでしょうか。
百武の風景画を2点、見てきましたが、いずれも、師であるリチャードソン・ジュニアの画風とは明らかに異なっていました。モチーフの設定や構成などにわずかに影響の痕跡は見受けられますが、肝心の画風にその痕跡を見出すことはできなかったのです。
念のため、父親のトーマス・マイルズ・リチャードソン(Thomas Miles Richardson, 1784–1848)の作品を見てみることにしました。
調べてみると、数ある風景画の中に、バーナード城を描いた作品がありました。ご紹介しましょう。
■リチャードソン・シニア作、《バーナード城》(1826年)
先ほどご紹介したターナーの作品とほぼ同時期の作品です。
(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1826年、所蔵先不詳)
この作品は、百武の作品とは違って、バーナード城の先、橋の手前から捉えられています。画面右側に、バーナード城が描かれ、手前に二人の子どもが描かれています。
男の子は川をのぞき込み、女の子は、その子が川に落ちてしまわないように、背中に手をまわして支えています。好奇心に満ちた子どもたちの姿が、さり気なく捉えられていたのです。
画面中央左寄りから、沈む夕陽が空から山、そして、川面を照らし出し、まるで観客の視線を垂直方向に誘導しているかのようです。観客はごく自然に、子どもたちの存在に気づくといった画面構成になっていました。
そのせいか、子どもたちの姿が日没の輝きの中で、違和感なく捉えられていました。リアルな生活の一端として捉えられ、活き活きと表現されていたのです。
その一方で、残照がバーナード城の周辺一体を茜色に染め上げ、古城が放つ哀切感を殊更に強く、印象づけています。夕刻の古城と子どもたちを対比的に捉え、静と動、過去と現在が見事に表現されています。
リチャードソン・シニアが表現した陰影のある茜色の色調は、百武の《バーナード城》の色調に似ていました。曇天の下での光景と、日没前の光景との違いはありますが、バーナード城とその周辺を鈍い褐色で表現したところに共通性があったのです。
哀切感のあるこの色調によって、画面に風情が添えられていました。さらに、百武の作品では白波の立つ水の流れ、そして、リチャードソン・シニアの作品では子どもたちの姿を丁寧に描くことによって、逆に、古城が放つ哀切感を強く印象づけていました。
バーナード城を題材にした、百武の作品、当時、イギリスで著名な風景画家ターナーの作品、百武が師事したリチャードソン・ジュニアの父、シニアの油彩画作品を見比べてみました。
その結果、見えてきたのが、モチーフに対する百武の感性でした。
■モチーフに対する百武の感性
バーナード城を描いた油彩画作品を何点か見てきました。百武、ターナー、リチャードソン・シニア、同じ画題を扱いながら、三者三様、切り口が異なれば、込められたメッセージもさまざまでした。それぞれ、独自の世界が表現されていたのです。
百武の作品との類似性を感じたのが、リチャードソン・シニアの作品でした。
ひょっとしたら、百武はリチャードソン・シニアの作品を見たことがあったのかもしれません。通り一遍のものではない情感が画面から滲み出ていたところに、百武の作品と似たものが感じられました。
そう感じたのは、画面の色調のせいかもしれません。
百武が実際にこの作品を見たことがあったのかどうか、わかりません。ただ、古城を含めた周辺一帯を、このような色調で表現したところに、モチーフに対する感性の類似性を感じたのです。
この作品を見た瞬間、百武は師であるリチャードソン・ジュニアよりもむしろ、その父リチャードソン・シニアの影響を受けているのではないかという気がしました。
百武の作品もリチャードソン・シニアの作品も、夕刻の煌めく光景の中に過去と現在を対比的に表現しているところに妙味が感じられます。
リチャードソン・シニアは、好奇心に満ちた子どもたちの振る舞いを画面に組み込み、生の輝きを表現していました。一方、百武は、流れゆく川の水を丁寧に描くことによって、生の姿を捉えていました。古城を背景に生の姿を組み込み、画面構成をしたところに、両者の感性の似かよりを感じさせられたのです。
いずれも廃城となったバーナード城の哀感を際立たせ、作品の興趣を深める点で効果がありました。とはいえ、生の捉え方には大きな違いがありました。
百武が、流れ続ける水を描くことによって、生を表現していたのに対し、リチャードソン・シニアは、好奇心溢れる子どもたちの行為を通して、生を捉えていたのです。
百武が永遠の営みを続ける自然の中に生を見出していたとすれば、リチャードソン・シニアは若い生命体の姿の中に生を見ていたともいえます。このような生の捉え方の違いの中に、両者が背負っている東西文化の差異が見られるような気がします。
水の流れに着目した百武の作品には、滅びては生きる有為転変をさり気なく表現したところに、無常を感じさせられました。「もののあわれ」の中に美しさを感じる日本的感性が見受けられたのです。
ふと、鴨長明の有名な一節、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を思い起こさせられました。
一方、好奇心に満ちた子どもの行為に着目したリチャードソン・シニアの作品には、今まさに生きていることの証である「躍動感」が捉えられていました。この躍動感こそ、ギリシャ彫刻を発端とする西洋美術が追求してきたものでもあります。
西洋画の技法を身につけた百武は、川の流れの中に自然の営みを見出し、その有為転変の中に生の実態を捉えました。百武は、西洋画法でバーナード城周辺をモチーフとして捉えながら、実は、日本的感性を絵筆に載せていたのです。
ロンドンで油彩画指導を受け始めてわずか3年で、百武は、油彩画作品から日本的感性を発信できるようになっていました。肥前の風土、そして、鍋島直大のお相手役として身につけてきた教養や学問によって花開いた日本的感性でした。(2023/7/29 香取淳子)