ヒト、メディア、社会を考える

11日

画家たちが愛した「フォンテンブローの森」を見る。

■風景画とアカデミズム

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、社会動向を反映して美術界にも大きな変化が訪れていました。

 たとえば、風景は長い間、肖像画、歴史画の背景でしかありませんでした。ところが、産業革命を経て市民階級が台頭してくると、次第にありのままの光景を描いた風景画が求められるようになります。そのような美術市場の動向を反映し、アカデミズムにも風景画を認める動きが出てきていたのです。

 鈴木一生氏は当時のフランス美術界について、次のように書いています。

 「一般に人気が高かったのは、歴史物語を含まないオランダ絵画に代表される自然主義風景画であった。実際、19世紀初頭の絵画市場において、高い値が付く絵画のほとんどは、アカデミーからは下位ジャンルだと見做されていたオランダの風景画や風俗画であった。(中略)オランダ絵画は、同時代の新古典主義の画家と比べても圧倒的高値で売買されていた」 (※ 鈴木一生、「1810 年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、pp.22. 2017年4月)。

 市民階級には、ありのままに描かれた風景画が好まれていたのです。このような状況をアカデミーも無視することができず、ローマ留学賞に風景画部門を加えるような動きがでてきました

 当時、アカデミーが風景画の理想として挙げたのが、プッサン(Nicolas Poussin、1594年6月15日-1665年11月19日)の作品でした。

 鈴木一生氏は、「イタリアの情景をプッサンやクロードのように描く、それはまさに歴史風景画の理想であった。(中略)歴史画の延長でありながら、独立した風景画を賛美しようとする意図があった。つまり、アカデミーの中での風景画の格上げとは、風景画に精神性を加えること、プッサンといった巨匠と同時代の風景画を結びつけることであった」と書いています(※ 前掲書。pp.34-35. )。

 その代表として挙げられているのが、ニコラ・プッサンの《蛇のいる風景》です。

(油彩、カンヴァス、119.4×198.8㎝、1648年制作、ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 手前に暗褐色の道と土手、中ほど両側に暗緑色の大木、そして、その奥左側に建物、さらに奥右側に建物を配し、上部三分の一ほどは雲がかった空が描かれています。画面には3人の人物が描かれていますが、目を凝らさないとよく見えません。

 とはいえ、葉陰から漏れる陽光に照らし出された人物の動作から、なにやら事件が発生しているようです。まるでライトを浴びた舞台のように、道の一部が照らし出されているので、人物が何をしようとしているのかを想像することができます。

 この作品を見た瞬間は風景画ですが、よく見ると、小さく描かれた人物の動作と配置によって、鑑賞者に物語を想像させるような仕掛けになっています。物語の内容によっては宗教画であり、歴史画でもあるという組み立てになっているのです。

 1810 年代後半から1820 年代にかけてのサロンではようやく、風景画が認められつつありました。とはいえ、風景画に対する見解はさまざまでした。プッサンのような歴史風景画にこだわる人々がいる一方で、市民の嗜好を反映した自然主義的な風景画を認めようとする人々もいました。

 1820 年代以降になると、アカデミーの中でも自然主義的な風景画に好意的な見解がさらに増えていきました。

 一部の画家たちが、そのような風潮に呼応するような動きを見せます。

■フォンテンブローの森

 パリの南方約60㎞のところに、バルビゾンという名の村があります。フォンテンブローの森に隣接しており、19世紀の半ばあたりから画家たちが滞在するようになりました。ここに来れば、ありのままの自然を観察し、作品化することができるので、画家たちに好まれたようです。

 ところが、18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命の影響がフランスにも及び、19世紀半ばごろには、あちこちで環境破壊が起こっていました。人々の利便性を高め、生産性を向上させるための破壊活動でした。

 産業革命後の近代化がパリ郊外にまで及びはじめ、伸びやかに広がったフォンテンブローの森が破壊されそうになりました。周囲に鉄道や工場が建設され、バルビゾン周辺の環境が破壊されそうになっていたのです。それに向かって立ち上がったのがルソーやミレーなどバルビゾンに移住した自然派の画家たちでした。

 たとえば、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)は森の樹木が伐採されていくのを憂え、当時の皇帝ナポレオン3世に伐採禁止を直訴しました。その結果、1853年には森の中のバ・ブレオーやフランシャール、アプルモン谷など風光明媚な場所624ヘクタールが、国の自然保護区に指定されました。1861年になると、保護区はさらに1,097ヘクタールにまで拡大されたといいます(※ 井出洋一郎、『バルビゾン派』、p.5. 東信堂、1993年)。

 もっとも、それで問題が解決したわけではありませんでした。

 政府はその後、手間のかかる広葉樹を切り倒し、成長が早く利用しやすい松などの針葉樹に植え替え作業を進めようとしました。木々を伐採してしまうわけではないので、反対運動は起こらないと思ったのかもしれません。

 木々が伐採してしまわないから問題がないわけではありません。広葉樹から針葉樹への植え替え作業そのものが自然の生態系を壊してしまうことになるのです。

 ルソーは再び、ミレーと共に反対運動を起こし、今度は皇后に働きかけて、森の内部まで植え替えを進めさせないようにしたといいます(前掲)。

 革新的な風景画家であったばかりか、 ルソーは 自然保護活動の先駆けでもあったのです。

 こうしてルソーら画家たちの働きかけがなければ、破壊されかねなかったフォンテーヌの森の原型が保たれました。バルビゾン村の人々はその功績を称え、後の画家たちがルソーとミレーのレリーフを岩に刻んで碑を建てています。

https://www.fra5.net/une/barbizon.htmlより)

 ありのままの自然を好んだ画家たちは、身を挺して、フォンテンブローの森を守ってきたのです。そして、新たな表現世界のトポスとして、この森をモチーフに次々と作品化していきました。

 彼らはバルビゾン村を中心に、隣接するフォンテンブローの森などを写生して風景画を描き、やがてバルビゾン派と称されるようになります。

 たとえば、ルソーは1829年からフォンテンブローの森を訪れ、木々を描くようになっていますが、コローも同年春、バルビゾンに移住し、フォンテンブローで制作し始めています。ルソーは17歳、コローは33歳の時でした。

 そこで、今回は、ルソー(Théodore Rousseau)とコロー(Jean-Baptiste Camille Corot)を取り上げ、トポスとしての「フォンテンブローの森」について考えてみたいと思います。

■ルソー

 バルビゾン村の画家グループの中心人物が、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau、1812年4月15日―1867年12月22日)でした。彼は1829年、17歳の時からフォンテンブローの森を訪れ、木々や情景を観察していは次々と制作していきました。やがて、他の画家たちと共に、「1830年代派」と呼ばれるようになります。

 バルビゾンの自然を愛したルソーの作品にはとくに、これまでの画家には見られない斬新な風景表現が随所に見受けられ、注目されました。制作年が若い順に、三作品をご紹介しましょう。

●《森の大樹》

 たとえば、1835年から40年の間に描かれた《森の大樹》という作品があります。

(油彩、カンヴァス、39.0×30.0㎝、1835-40年、村内美術館所蔵)

 画面中央に、枯れてざっくりと裂け、木肌が剥き出しになった幹が描かれています。背後にはうっそうとした木々の茂みが広がっています。

 木々の葉、枝、幹を、黄褐色、暗褐色、暗緑色の濃淡で描き分け、生い茂る木々の深みが巧みに表現されています。近景、中景、遠景を意識して、色構成を考え、モチーフが配置されているからでしょう。

 空から降り注ぐ陽光が随所に射し込み、葉先や幹が所々、明るく照らし出されており、画面に生気がもたらされています。豊かな森の営みが浮き彫りにされ、見ているだけで、森のひそやかな息遣いが聞こえてくるような気がします。

 メインモチーフの選び方といい、構図、筆触を活かした描き方といい、とても斬新で、しかも迫真力があります。

 裂けた幹そのものがドラマティックで、ただの枯れた木にすぎないのに強烈な存在感があります。自然をありのままに描きながらも、そこにモチーフの捉え方一つで大きなドラマが感じられます。近景と遠景とを描き分け、ドラマティックな効果をあげているのです。

 確かに、新古典主義、歴史風景画などとは明らかに異なっています。現代の作品だと言っても違和感のないほど、対象の捉え方にルソーの独自性が見られ、新鮮です。

  この作品を見ると、一部とはいえ当時の人々が、ルソーの斬新な風景表現に注目していた理由がわかります。

 幹の裂けた木肌の描き方には、印象派を想起させるような、光を意識した色遣いが感じられます。明らかに新時代の作品でした。

 風景を背景として描くのではなく、歴史を重ね合わせ、理想的に描くのでもなく、ありのままに描きながらも、独立した一つの作品として存在させているのです。モチーフの切り取り方、構図、色構成などが細密に工夫されているからでしょう。

●《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》

 ルソーは数多くの風景画を描いていますが、構図が面白くて惹きつけられたのが、《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》でした。ルソーが36歳ごろに描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、142×198㎝、1848-49年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 左右と上部が木々、下部が下草で覆われています。そのせいか、四方が暗緑色で囲まれる格好になり、鑑賞者の視線は必然的に、画面中央に誘導されます。

 視線を誘導されるまま、画面に目を凝らすと、右側中央寄りの木の一部は切り取られ、左側中央寄りの木もまた上部が無くなっているのに気づきます。画面中央を取り囲む左右の木の一部が欠損しているのです。さらに、中央右寄りに、褐色で描かれた歪な恰好の木の幹は大きく傾き、今にも倒れそうになっています。

 いずれのモチーフも不安定で、鑑賞者に不安をよびおこすような形状であり、配置でした。鑑賞者の視線を集める画面中央に、欠損状態の木々をレイアウトし、不安感を強調するような画面構成になっているのです。

 王立森林局がフォンテーヌブローの森を切り開こうとしていた時期に描かれたのでしょうか。この作品にはルソーの主張が感じられます。

 傷んだ状態の木々が、鑑賞者の視線を集めやすい中央に配置されています。しかも、中央の目立つ位置に描かれた木の幹は大きく歪み、倒れかかっているように見えます。欠損状態、歪な状態の木々を画面の中央にレイアウトすることによって、ルソーは、森林の伐採に警告を鳴らしているように思えるのです。

 画面中央の左下を見ると、うっかりすると見落としてしまいそうなほど小さく、沈み込む太陽が描かれています。その小さな光源は辺り一面に光を注ぎ込み、日没の哀愁を画面中央近辺で浮彫にしています。見ていると、しみじみとした情感がかき立てられます。

 前景を見ると、手前から中ほどにかけて、牛が群れて水を飲んでいる姿が捉えられています。夕陽の輝きの中で、牛や木々の影が水面に落ち、そこには日没の哀愁と、無事一日が終わったというかすかな安堵が感じられます

 さらに目を凝らすと、画面中央左寄りに人の姿が見えます。牛飼いなのでしょうか。明るい残照の下、風景の中に溶け込んでしまっているように見えます。

 こちらは、不安感を誘うような木々の形状とは逆に、穏やかな陽射しに包まれた人と動物の安らかなひとときが捉えられています。まるで森林が果たしてきた人や動物への恵みを訴えかけているかのような作品でした。

 陽光の扱いと筆触を活かした描法に、印象派の要素が感じられます。この作品は1850年と1851年のサロン、そして、1855年の第1回パリ万博に出品されました。フランス美術界でルソーの評価を高めたといわれています。

 この作品には、不安感をあおる要素と安堵感をもたらす要素とが混在しており、風景だけを描きながらも、鑑賞者に思索を促すところがあります。そのあたりにアカデミー側が格調の高さを感じたからかもしれません。

 その後も一貫して、ルソーは写実的に風景を描き続けました。自然を愛し、ありのままに描く姿勢を貫き通したのです。

●《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》

 ルソーの代表作の一つとされるものに、《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》があります。40歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、64×100㎝、1852年、オルセー美術館所蔵)

 なんとも壮大な作品です。

 大きな樫の木々の下で牛が三々五々、草をはみ、水を飲んでいます。空いっぱいに雲が広がり、その合間から射しこむ陽射しが柔らかく、辺り一面を明るく照らし出しています。静かで平和なひとときが見事に描かれています。

 手前には緑色の下草が広がっており、中ほどはやや褐色がかった巨木、そして、その背後には所々、水色が混じったどんよりとした曇り空と色彩バランスも巧みです。

 この作品では近景、中景、遠景の色彩バランス、そして、モチーフの配置の妙が際立っています。単なる風景を描いただけのように見える作品ですが、さりげなく、しかも見事にメッセージが描き込まれています。

 圧倒的に大きな存在感を示す自然の下、動物とヒトが調和し、平和裏に生きている姿が暖かく、哀愁をこめて描かれています。自然を愛する者ならではのモチーフの選択、配置、構図といえます。

 この作品は1852年のサロンに出品されました。そして、1855年に開催された第1回パリ万博に出品され、その後、1865年にモルニー公爵に買い上げられました。ようやくアカデミーから評価され、権威筋から購入されたのです。

 ルソーは1867年、第2回パリ万博で審査委員長に任命されました。

 画家としてステップアップしていくにつれ、最初はアカデミーから相手にされなかった風景画が次第に権威づけられ、絵画の一ジャンルとして認められるようになりました。

 ルソーはその後も一貫して、フォンテンブローの森やバルビゾン周辺の自然を描き続けました。ここでご紹介したのはルソーの作品のほんの一部でしかありません。バルビゾンの雰囲気を把握するため、さらに多くのルソーの作品を動画でご紹介しておきましょう。

こちら → https://youtu.be/2JtTg9oYAJI

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■コロー

 カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796年7月16日-1875年2月22日)もまたルソーと同様、自然を愛し、フォンテンブローの森を様々に描いてきました。

 前回、《荷車―マルクーシの思い出》(1855年)、《モルトフォルテーヌの思い出》(1864年)、《孤独》(1866年)をご紹介しましたので、今回は、また別の作品をご紹介していくことにしましょう。

 コローは1840年代から偉大な風景画家として知られるようになりますが、そのきっかけとなったのが、1833年にサロンに出品した《フォンテーヌブローの森の浅瀬》でした。

●《フォンテーヌブローの森の浅瀬》

 1833年、サロンに出品したのが、《フォンテーヌブローの森の浅瀬》(原題はForest of Fontainebleau)です。2等賞を受賞しました。コロー、37歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、90.2×128.8㎝、1830年制作、ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 画面の半分ほどはうっそうと生い茂る木々で占められています。右側には大きな木々が茂って浅瀬に影を落とし、その左手奥には剥き出しになった土手の上に木々が生い茂っています。

 画面中ほどから右下にかけて、蛇行する川に沿った周辺に陽が射し、下草や岩や水を明るく照らし出しています。光と影、明と暗を巧みに配置しながら、水辺に流れる静かなひとときが描出されています。

 深い暗緑色の葉と暗褐色の幹が背後からの陽射しを遮り、その下の浅瀬に暗い影を落としています。画面は静謐を湛え、寝そべって読書する女性の姿を引き立てています。

 深い静寂がしっかりと描き出されているからこそ、読書するという内省的行為が引き立てられています。風景と人の行為とが見事に調和し、鑑賞者の気持ちを惹き付けます。

 当時のフランス美術界では、アカデミックな風俗画や肖像画がもてはやされていました。風景はその時もまだ、神話や歴史をテーマとした人物画の背景でしかなかったのです。

 そのような風潮の中で、自然主義的な風景画が受賞することはなく、ルソーなど、1836年にサロンに《牛の山下り》という作品を出品しましたが、落選してしまいました。その大胆な自然主義が新古典主義画壇の反感を呼んだのです。以後10年間というもの、サロンに出品しても落選し続けたため、ルソーは「落選王」と揶揄されていたそうです(井出洋一郎、前掲)。

 ところが、コローの《フォンテーヌブローの森の浅瀬》は、風景画でありながら、サロンで2等賞を受賞しています。

 いったい、何故なのでしょうか。

 再び、この作品を見てみると、風景画とはいえ、ここでは風景と人物が等価で描かれています。風景は決して、人物の背景ではありませんが、かといって、風景そのものが自己主張し、メインモチーフとして取り上げられているわけでもないのです。

 ルソーとの違いはおそらく、そのあたりにあるのでしょう。なによりもまず、風景との向き合い方が異なっているように思えます。風景そのものの中に表現する意味を見出すのではなく、人物との調和にその意味が見いだされ、描かれているのです。

 そのせいか、コローの風景はルソーとは違って、ややパターン化された描き方に見えます。

 コローはどのような作品にも人物を描き込んでいます。しかも、女性です。そのせいでしょうか、コローの作品にはどこかしら詩情が感じられ、抒情性が感じられます。

 18世紀末に刊行された『芸術家のための実践遠近法基礎』という本の中で、著者のヴァランシエンヌは自然を捉える方法は二つあるとし、①自然をあるがままに示す方法、②自然を理想的に、豊かな想像力に基づいて描く方法、があるといっています(鈴木一生、「1810年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、p.35. 2017年)。

 バルビゾン派が認められるまではおそらく、風景画はもっぱら、②の要素のある作品が評価されてきたのでしょう。実際、コローの作品には②の要素がありました。その後の作品も同様です。

 たとえば、1850年に制作された《朝、ニンフの踊り》という作品があります。

●《朝、ニンフの踊り》

 こちらも風景と女性(ニンフ)をモチーフにした作品です。とはいえ、風景の描き方が先ほどの作品とはやや異なっています。

(油彩、カンヴァス、98×131㎝、オルセー美術館所蔵)

 大きな木の下でニンフたちが手をつなぎ、踊っています。柔らかな陽光が彼女たちの肩や背に落ち、白く艶やかな肌が煌めいて見えます。朝のさわやかな大気の下、彼女たちの賑やかな声が聞こえてきそうです。

 木々は空高く枝を伸ばし、太い幹に支えられています。右側半分ほどを占める、うっそうと生い茂る暗緑色の葉には所々、陽が射し込み、そこから陽射しが漏れて、踊るニンフたちや下草を明るく輝かせています。

 よく考え抜かれた構図です。

 右側の巨木からは生い茂る葉が中央部分で垂れ下がり、まるでそこだけくり抜いたかのように空洞ができています。その背後には、はるか彼方に、うっすらと丘が見え、空が大きく広がっています。

 木の周辺では、手をつないだニンフたちが弧をえがくように配置されています。朝の陽射しが、木々や下草、ニンフたちの上に明と暗を創り出し、それが画面に動きとリズムを生み出しています。生命の躍動を感じさせる絵柄です。

 伸びやかな自然の下で、自然と万物が調和して生きる、平和なひとときが描かれているといってもいいでしょう。まさに神話の世界です。

 この作品で印象深いのは、中央部分に描かれた背の高い木です。右側の木々とは違って軽やかで、風にそよぐ囁きさえ聞こえてきそうです。枝は細く、枝先に付いた葉は淡色で描かれており、霞がかったように、背後の空に溶け込んでいます。そこになんともいえない幻想的な詩情が感じられ、その下で踊るニンフたちの姿と見事に調和しています。

 うっそうと葉の生い茂る暗緑色の右側木々、そして、淡色で軽やかに描かれた真ん中の木、そこには、モチーフの色彩、形状、配置などに見事なコントラストの妙味が感じられます。

 コローは自然をありのままに描いたのではなく、想像力を働かせ、美しさの極致を求めて再構成し、このように表現したのでしょう。自然に触発されたとはいえ、理想を求めて画面構成され、創り出された美しさがこの作品にはありました。

 真ん中の木の枝先の葉が、暗緑色の幹にかぶっているところの描き方、そして、下草の描き方には、印象派を彷彿させるところもあります。

 こうしてみてくると、コローの作品が人気を得た理由がわかるような気がします。モチーフを見れば自然主義であり、構図を見ればロマン主義でもあり、新古典派の要素があり、印象派の要素もあるといった多面的要素が見られるのです。

 当時の美術界で目指されたさまざまな要素が取り込まれているようでいて、全体画面を見れば、しっかりとコローの世界が創り出されているのです。

 実は、コローは1821年から22年にかけて当時、風景画家として著名だったアシール=エトナ・ミシャロン(Achille-Etna Michallon、1796年10月22日―1822年9月24日)の下で学んでいます。

 ミシャロンは1817年、初めてローマ賞に風景画部門を設立された際の受賞者でした。受賞作品は《倒れた女性》です。

(油彩、カンヴァス、105×81㎝、1817年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 彼は幼い頃から、美術に興味を抱き、18世紀後半の著名な風景画家ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(Pierre-Henri de Valenciennes、1750年12月6日―1819年2月16日)に学びました。

 ヴァランシエンヌは、先ほどもご紹介しましたように、『芸術家のための実践遠近法基礎』という書物を革命暦8年(1799-1800年)に刊行しています。画家であり、理論家であり、教育者でもあったのです。

 試みに、ヴァランシエンヌが1810年に描いた《バッカスと森の風景》を見てみましょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55㎝、1810年制作、アメリカ、バーミンガム美術館所蔵)

 非常に精緻に風景が描かれています。左手奥から射し込む柔らかな陽光が、巨木の幹や枝や葉に反射して彩りを添え、下草を明るく照らし出しては、鑑賞者の視線を集め、巨木の根元で展開されている物語に関心を誘います。

 モチーフといい、色彩といい、よく出来た新古典主義の作品といえるでしょう。

 コローの作品(1850年)、コローが師事したミシャロンの作品(1817年)、ミシャロンが師事したヴァランシエンヌの作品(1810年)を見比べてみると、いずれも壮大な風景の下、人の姿が小さく描かれているという点で共通しています。

 当時の分類でいえば、歴史風景画です。

 巨木の下で、人々の行為が捉えられ、神話か、歴史を題材にして構想されたという点でも共通しています。風景だけを描いていたのでは鑑賞者に理解されない、あるいは、評価されないという懸念があったのでしょうか。

 三作品を見比べてみると、風景の描き方に違いを見て取ることができます。物語の舞台として巨木が設定されていますが、その巨木の描き方に違いがみられるのです。

 ヴァランシエンヌが葉や枝、幹までも均等に精緻に描いているのに対し、ミシャロンは同系色の明暗で生い茂る葉を描いています。そして、コローはさらに大胆に葉を一塊として捉え、細部を省略して描いています。

 時代が下るにつれ、風景の捉え方、木々の捉え方に違いが見られます。三作品を見ているうちに、それは写実の捉え方が異なってきているからではないかという気がしてきました。

 それでは、再び、コローの作品を見ていくことにしましょう。

 コローは各地を旅行し、風景を描いてきましたが、パリ郊外のヴィル・ダブレーの風景もまた、彼が好んで描いた場所です。両親から譲り受けた邸宅がここにあったからですが、ここで描いた作品の中で、これまでとはいっぷう変わった作品がありました。

●《ヴィル=ダブレ―の池》

 展覧会場でこの作品を見ると、ひょっとしたら、見落としてしまうかもしれません。画面が大きいわけでもなく、色調は地味で暗く、際立ったモチーフもありません。鑑賞者の目を引き付けられる要素が見当たらないので、多数の作品の中では埋もれてしまうのではないかと思いました。コロー71歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、47.5×74㎝、1867年制作、アメリカ、ポートランド美術館所蔵)

 この作品もこれまでと同様、風景と人物が描かれています。ところが、人物の姿はこれまでとは違って、判然と描かれておらず、風景の中に溶け込んでしまっています。近くに2頭、牛が描かれているので、かろうじて牛飼いなのかと思う程度の漠然とした描き方です。

 周辺の木々も草木もなにもかも、形状は不分明ですし、色彩によって識別することもできません。すべてが曖昧模糊とした状態で表現されています。人物や動物は小さく、色彩で識別することもできないほど、目立たないように描かれているせいか、風景が強く印象付けられます。

 もっとも、個々のモチーフを見ると、訴求力が弱く、存在感が希薄です。ところが、画面全体を見ると、幻想的で哀愁を帯びた情感が感じられ、この景観そのものがもたらす漠然とした情緒が感じられます。

 画面を理解するのではなく、何か得体の知れないものが、心の奥深く、ふつふつと沸き起こってくるのを感じさせられるのです。ノスタルジーなのでしょうか。

 近景では地面を覆う下草が暗緑色、所々に水面が光る池やその周辺が暗色で描かれています。周囲には牛飼いや牛なども描かれているのですが、辺り一帯の風景の中に沈み込んでしまっています。

 そして、中景は褐色や暗褐色の草木や灌木、暗緑色の大木、褐色の高い木など、もっぱら木々が大きな面積を占めています。曇り空を背景に、ここで描かれた木々が目立ちます。

 その木々の背後には柔らかな陽射しが射し込み、その奥に広がるエリアを照らし出しています。実際、左側中ほど奥には建物が描かれており、ここで人々が暮らしていることを知らせてくれます。

 背後に曇り空が広がる中、形状、色彩、高低がそれぞれ異なる木々を、波打つように配置することによって、画面に柔らかなリズムと遠近感を生み出しています。

 この作品にも、構図の妙味を感じさせられました。

 さらに、光の使い方が卓越していると思いました。ひっそりとした佇まいの中で暮らす人々の生活を、木々の背後から射し込む鈍い陽光だけで、情感豊かに描き出すことができているのです。暗褐色をベースにした柔らかな色遣いとモチーフの形状が幻想的で、哀愁を感じさせ、その哀愁の中に滔々と流れる詩情を感じさせます。

 老境に入ったコローは明らかに以前とは異なる世界を創出していました。とても深く、心が揺さぶられる思いがします。

■トポスとしてのフォンテーヌブローの森

 今回、ルソーとコローの作品を取り上げ、題材としてのフォンテンブローの森について考えてみました(コローは前回、取り上げた作品を除いて選択したので、フォンテンブロー以外の作品も一つ含まれています)。

 バルビゾン派と呼ばれる画家たちのうち、ルソーとコローだけ取り上げたのですが、彼等の作品を見ていると、フォンテンブローの森は自然を愛する画家たちのトポスとして機能しているように思えました。

 彼等は、フォンテンブローの森やその周辺の風景をさまざまに描いてきました。改めて、二人の作品をいくつか見てみると、モチーフの取り上げ方、描き方、構図、それぞれの個性が明瞭で、しっかりとした作品世界が構築されているのがわかります。

 たとえば、17歳の頃からフォンテンブローの森に着目し、制作してきたルソーは、自然そのものをモチーフにしていました。ありのままの自然を観察し、カンヴァス上に表現してきました。

 それまで誰も取り組んでこなかった木々や丘、空などの風景からドラマを引き出し、ストーリーを組み立て、独自の世界を創り上げたのです。歴史主義、古典主義、ロマン主義に束縛された視点からはとうてい生み出せない世界でした。

 ルソーはだからこそ、サロンには受け入れられず、長い間、落選し続けたのです。素直に対象に向き合って作品化されているせいか、ルソーの作品は今見ても、とても斬新です。本質を突いた表現には時空を超えたものがあり、心動かされます。

 松葉良氏はルソーについて、以下のように書いています。

「バルビゾンの画家達の中で風景画においてもっともすぐれた画家はテオドール・ルソーである。彼が求めたものは、大地や丘、そして森や樹木などの不変の姿であり、常に画家と自然との間の共感であったといえる。そして、一個の小画面が宇宙につらなり、森羅万象がことごとく蘇生するアニミズムの神秘の世界が彼の念願であった」

(松葉良「バルビゾンの画家達とカミーユ・コロー」『文藝論叢』第25号、2012年)

 今回、ルソーの作品を見直してみて、私もそのように思いました。彼の作品には、時を経ても古びない永遠性がありました。それはおそらく、自然をしっかりと観察し、本質を見抜き、ありのままに描いたからこそ得られたのだと思います。

 フォンテンブローの森を守るために活動したルソーは、1836年からバルビゾンに定住したそうです。彼が住居兼アトリエとして使っていた建物が残っています。

https://cercledesamisdebarbizon.com/2018/11/11/miracle-a-barbizon-latelier-rousseau-redevient-enfin-un-site-dexposition-magnifique/

 この建物は今、村立博物館として使われています。

 ルソーは生涯、バルビゾンを愛し、住み続け、そして、骨を埋めました。フォンテンブローの森を守っただけではなく、その後、154年を経てもなお、村に貢献しているのです。

 一方、コローは、1821年から22年まで新古典主義のミシャロンに師事していました。ほんの1年ほどで終わってしまったのは、ミシャロンが肺炎を患い、わずか25歳で、生を閉じたからでした。

 そのミシャロンは、風景画家として名を成したヴァランシエンヌに師事していました。ヴァランシエンヌの作品を見ると、まさにアカデミーが認めた歴史風景画でした。ミシュランもその傾向を受け継いでいますが、新古典主義の要素も見られます。

 そのせいか、コローの作品には新古典主義の影響が見られます。時系列で作品を見ていくと、少しずつその影響が消えているのがわかります。とはいえ、容易に脱出しきれないようで、どの作品にも、どこかしら、新古典主義の痕跡が見られます。

 もっとも、老境に入って制作された作品には、独自色が濃厚になっています。風景に人物を添えるという点は崩さず、風景そのものに焦点を当て、語らせるという意図が見えるのです。

 新古典主義を踏まえながらも、試行錯誤を経て、独自の幻想的な世界を創り出したことがわかります。ルソーとは異なったスタイルで、コローもまた風景そのものが語る世界を創り出していたのです。

 美術のジャンルでは下位に位置づけられていた風景画ですが、産業革命を経て台頭してきた市民階級がやがて、美術市場に変容を迫るようになります。彼等がありのままの姿を描いた風景画を求めたからでした。

 当時、オランダ絵画が好まれたのは、人々のありふれた日常が描かれていたからでした。

 ところが、フランスアカデミーには、プッサンのような歴史風景画、あるいはミシャロンのような新古典主義風景画こそが正統だという認識が残っていました。百歩譲って風景画を認めるにしても、格調高い風景画家を目指すには、イタリアの風景を対象に描くべきだという認識だったのです。

 ルソーもコローも自然主義的な風景画を制作し続けた結果、19世紀後半には、フランスアカデミーの認識を覆すことができました。「フォンテンブローの森」が、トポスとして機能していたからでしょう。(2021/10/11 香取淳子)