ヒト、メディア、社会を考える

2018年

紀行2018:創建1250年、春日大社に見た古の心

■春日三条通り
 奈良では、迷うことなく、ホテルフジタ奈良に宿泊しました。ネットで見ると、JR奈良駅や近鉄奈良駅へのアクセスが良く、全般に小綺麗な印象があったからです。行ってみると、ホテルは春日三条通りに面していました。この三条通りは観光客用に整備されており、土産物店などが両側に並んでいます。

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 ホテルは予想通り、快適な設えで、ロビーは外国人客で溢れていました。奈良にもやはり外国人客が押し寄せているのでしょう。日本人とは明らかに異なる欧米の顔、アジアの顔、インドの顔・・・。フロントで忙しそうに立ち働くスタッフの姿を見ていると、訪日外国人たちが、減少の一途を辿る日本の消費者の肩代わりをしてくれていることがわかります。

 そういえば、コンビニのローソンが古い町屋を改築したような建物でした。二階の格子戸に屋根瓦、1階の白壁、焦げ茶色の柱に腰板・・・、古都に合わせたデザインと色調で、周囲ともしっくり調和していました。このような日本風の建物はきっと、外国人消費者にも評判がいいでしょう。

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 日頃、見慣れているローソンとは違って、しっとりとした落ち着きがあります。改めて、私はいま、奈良の街を歩いているのだということを実感しました。

 さて、三条通りでは外国人を比較的多く見かけたのですが、少し歩き回ってみると、拍子抜けするほどヒトが少なく、街全体に活気がありません。

 夜になって、翌朝のバスツアーの出発場所を確認するため、奈良駅前に行ってみました。暗がりの中で、春日大社創建1250年を祝う看板が、照明で浮き上がって見えました。

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 撮影時刻は19:28分、まだヒトが動き回っている時間帯で、しかも駅前です。それなのにヒトが少なく、どちらかといえば、閑散とした印象を受けました。

■春日大社
 翌朝、観光バスを降り、春日大社の入り口に着くと、大きな石碑が置かれています。そこには世界遺産のマークとともに、古都奈良の文化財と刻まれていました。

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 なぜ、春日大社の石碑に、わざわざ「古都奈良の文化財」と刻まれているのかわかりませんでしたが、調べてみて、ようやくその理由がわかりました。春日大社が単独で世界遺産として登録されたわけではなく、東大寺、興福寺、春日原始林など、周辺の寺社と春日原始林とを合わせた8資産が評価されて、1998年にユネスコ世界遺産に登録されたのでした。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/nara/index.html

 そこから、少し歩くと、大きな鳥居があります。

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 これは二之鳥居といいます。一之鳥居はここから約1.2㎞下ったところにありますが、私たちはバスで来たので、二之鳥居から南門に向かいます。

 この鳥居をくぐり、木々が茂ってうっそうとした景観の中を歩いていくと、いよいよ神域に入っていくような思いに駆られます。参拝者を見下ろすように、両側には石燈籠が数多く立ち並んでいます。

 春日大社の境内には石燈籠だけで約2000基あるといわれていますが、すべて春日型といわれる背が高いわりには安定感のある石燈籠でした。燈籠の間を鹿が動き回っています。

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 ガイドの説明によると、これらの石燈籠のほとんどが、「春日社」と刻みこまれていますが、ほんのわずか、「春日大明神」と刻まれたものがあるそうです。それを3つ見つけたヒトはお金持ちになれるということでした。

 説明を聞いてまもなく、「あった」、「あった」という声が後方から聞こえてきます。意外に簡単に見つかるものだと思いながらも、私は最初から諦めていたので、探そうともしませんでした。それよりも苔むした燈籠に惹かれ、ひたすら、見つめていました。

 圧巻でした。石燈籠からは、ここには存在しない多数のヒトの願いを感じさせられます。年数を経てきているだけに、石燈籠に託された無数の思いもまた重く、ひしひしと伝わってきます。

 見上げると、ここにも、「奉祝 春日大社創建1250年」と書かれた横断幕が掲げられていました。しばらく歩くと、やがて本殿南門に着きます。

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 ここには赤と白の垂れ幕が掲げられていました。

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 ここまでの道のりを示した図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://www.kasugataisha.or.jp/guidance/pdf/keidai_map-A4.pdf

 この図を見ると、本殿の東側に御蓋山があるのがわかります。前回、「若草山で古を偲ぶ」でご紹介したあの「御蓋(みかさ)山」です。

■本殿と神木
 春日大社が創建されたのが768年、いまから1250年前です。以来、春日大社本殿は、一般人が立ち入ることのできない聖域として守られてきました。それが、1250周年を迎えた今年、参拝することができるのです。

 本殿前にも、奉祝の立て看板が置かれていました。

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 春日大社のHPによると、平城京ができたころ、国の繁栄と国民の幸せを願って、鹿島神宮(茨城県)から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を、御蓋山の山頂の浮雲峰(ウキグモノミネ)に迎え、その後、御蓋山の中腹にある現在の地に、社殿を造営したといいます。その際、香取神宮(千葉県)、牧岡神社(大阪府)から神様を招き、合わせて祀ったのが、春日大社の始まりだと書かれています。

 鹿島神社も香取神宮も武道の神様です。新しく創建された春日大社(当時は、春日神社)を守護するために、それらの神様が招かれるのも当然といえば当然なのでしょう。ですから、鹿島神社や香取神宮から神様が招かれた理由はわかります。それでは、牧岡神社はどうなのでしょうか、私はこの神社のことを知りません。

 そこで、調べてみると、牧岡神社の主祭神は、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神でした。また、牧岡神社のHPには、鹿島神社や香取神宮から招かれた神様もまた中臣氏と縁が深いと書かれています。

 Wikipediaによれば、中臣氏は、古代日本の神事・祭祀を司った中央豪族で、大化の改新(646年)後、中臣鎌足の子孫は藤原姓になりましたが、本系の中臣氏は姓を変えず、そのまま神事・祭祀職を世襲したと書かれています。

 こうしてみてくると、春日大社は明らかに藤原氏主導で創建されたことがわかります。

 春日大社の創建が768年ですから、ちょうど藤原氏が権勢を誇っていた時期と重なりますし、Wikipediaには、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は藤原氏の氏神だと書かれています。ですから、まさに藤原氏が、この春日大社の創建を契機に、未来永劫、国と権力の安定を願ったのだといえるでしょう。

 本殿に入ると、ガイドから左手に誘導され、少し歩いて右に入ると、暗やみの中、別世界が広がっていました。そこを出ると、今度は、赤い回廊に沿って本殿を出ていくようになっていました。

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 回廊の両側には数多くの釣り燈籠が掛けられており、それがまた、延々と続いています。春日大社の境内には釣り燈籠だけで約1000基はあるといわれています。先ほど、石燈籠の間を歩いてきたときに感じたような神聖な雰囲気が、ここでも漂っていました。大勢のヒトの思いが燈籠から発散されてくるからでしょうか。

■春日大社の神木
 本殿から左手に大きな木が見えました。

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 巨大な幹、空を覆うように大きく伸びた枝や葉、まさに巨木です。幹には注連縄が飾られていますから、神木です。

 回廊を出て、間近でみると、その幹は驚くほど太く、圧倒するエネルギーを感じさせられます。また、幹の樹皮が創り出す文様が美しく、神木ならではの威容を誇っていました。

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 これほどの巨木を目の前にすると、古代の日本人が神聖なものを感じたとしても不思議はないでしょう。注連縄を飾り、霊が籠った存在として大切にしてきたことが窺がわれます。

 境内では、藤もまた大きく根を張り、枝を自由に伸ばしていました。

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 これほどの大きな藤の木をこれまで見たことがありません。
春日大社が藤原氏主導で作られたからでしょうか、境内では至る所で藤の木が目につきました。

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 まるで石燈籠に巻き付くように、藤が枝を伸ばし、根を張り巡らせています。このような藤の古木に、凄まじいまでの繁殖力と生命力を感じさせられました。かつて権勢を誇った藤原氏を象徴しているような気がしました。

■春日大社の鹿
 春日大社を創建する際、鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は白い鹿に乗って、御蓋山の山頂に降り立ったとされています。ですから、遠いところから、神の使いである白い鹿に乗って、ここまでやってきたというのです。降り立ったのが、すぐ上の御蓋山です。ですから、御蓋山は春日大社のご神体であり、鹿は神の使いとして大切にされています。

 春日大社の境内では至る所で、鹿を見かけました。

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 石燈籠の合間を鹿が自由に行き来しています。どことなく弱弱しく、元気がありません。東大寺や奈良公園で見かける鹿と違って、あまり血色はよくなく、どちらかといえば、ヒトを避けて行動しているように見えました。

■春日大社宝物殿
 本殿を出て、向かった先が春日大社宝物殿です。ここには春日大社が所有する国宝352点、重要文化財971点が折々のテーマに沿って、展示されます。私が興味深く思ったのが、1階に展示されていた鼉(が)太鼓です。

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 どちらも装飾が繊細で美しく、実際にこの太鼓からどのような音が生み出されるのか、聞いてみたいような気になります。

 近寄ってみましょう。まずは向かって右に置かれた鼉太鼓です。

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 真ん中に火炎を象った装飾版を配し、中央上部に2羽の鳳凰が向かい合っている姿が刻まれています。鳳凰はすべての鳥の王とされ、優れた君主が現れて乱世が平定されて世の中が平和になったとき、飛んでくる瑞鳥だとされています。

 次は向かって左に置かれた鼉太鼓です。

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 こちらも真ん中に火炎を象った装飾版が配され、中央上部に2匹の龍が向かい合っている姿が象られています。龍は水の支配者として最高権力者のシンボルであり、また、吉祥のシンボルとして装飾品などに刻まれてきました。

 中国では、麒麟、鳳凰、亀、龍は、「四霊」に数えられるとされています。鼉太鼓は野外の舞楽演奏に使われる大型の太鼓を指しますが、この図案を見ると、中国文化の影響が色濃く反映されていることがわかります。

■春日大社の由来
 春日大社は平城京遷都(745年)に伴って創建されました。新しい都が今後、末永く継続し、平和な世の中が訪れるよう、祈願して作られたのです。その春日大社のご神体が御蓋山でした。鹿島神社の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が、遠路はるばるこの地にやってきて、降り立ったといわれる山です。

 それにしても、なぜ、わざわざ鹿島神社、香取神宮から神様を招かなければならなかったのでしょうか。私には、それが不思議でした。そこで、いろいろ調べていると、春日大社宮司の葉室頼昭氏が書かれた「春日大社のご由緒」という文章を見つけることができました。

 春日大社に祭られている神様について、葉室氏は以下のように書いています。

 「春日大社第一殿にお祭りする武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様と、第二殿の経津主命(フツヌシノミコト)様はともに、天照大神様のご子孫が高天原から天降りされるのに先立ち、大国主命様はじめ多くの神々と和平を結ぶ大功あった尊い神々で、関東の利根川のほとりに鹿島神宮と香取神宮に水を治める霊験あらたかでお力の強い神様としてお祭りされていました。第三殿の天児屋根命(アマコヤネノミコト)様は、天の岩戸にお籠りになった天照大神様にお出ましを願うべく、お祭りを行われた政事の神様で、河内国牧岡神社に比売神(ヒメガミ)様とともにお祭りされ、西日本で広く信仰されていました」

 それぞれの神様の春日大社に祭られるまでの状況が書かれています。そして、そのような神々をお招きする理由として、下記のように書かれています。

「それら尊い神様を平城京の鎮護のため、まず、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山と称えられる御蓋山山頂にお祭りし、それから数十年後の神護景雲2年(768)に、藤原氏の血を引く女帝・称徳天皇の思し召しにより、左大臣・藤原永手らが、神々がお鎮まりされるのにもっともふさわしい御蓋山山麓の神地に神殿を創建し、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様ほか経津主命(フツヌシノミコト)様、藤原氏の祖先神となる天児屋根命(アマコヤネノミコト)様・比売神(ヒメガミ)様の三柱の神様をともにお祭りしたのがその始まりとされています」

 本殿には、四柱の神様が祭られています。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://kuyomumairu.com/archives/1834より。)

 それでは、どうして遠方から香取・鹿島の神様が呼んでこられたのでしょうか。それについては、以下のように説明されています。

「(前略)大国主命の国譲りの神話と同様に信仰面で都を治め、ひいては日本全国を平和にご守護いただこうと、お力のある神様を勧請されたのでしょう。(後略)」

***
以上、「  」内の文章は、『日本の古社 春日大社』(淡交社、2003年刊)から引用しました。
***

 一連の文章を読み合わせると、以下のように理解することができます。

 当時は平城京でも水の確保が大変だったといいますから、「関東の利根川のほとりの鹿島神宮と香取神宮の、水を治める霊験あらたかでお力の強い神様」を招かれたのでしょう。この二柱の神様は武術の神様でもありますから、平城京の守護にはぴったりです。

 しかも、全国に知られた神話に登場する神様です。ですから、神話に基づく信仰心で、平城京を治めるだけではなく、日本全国をも平和に守護していただきたいという願いをこめて、この二柱の神様を春日大社にお招きしたのだということがわかりました。

■創建1250年、春日大社に見た古の心
 こうしてみてくると、春日大社の創建が、平城京だけではなく全国を視野に入れ、社会の安定を目指したものだったことがわかります。これだけ徹底して守護に力をいれていたということは、当時、社会状況がよほど不安定だったのでしょう。

 実際、大和朝廷が設立されて以来、何度も遷都を繰り返していました。

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(図をクリックすると、拡大します。http://trendy.nikkeibp.co.jp/より)

 これを見ると、藤原京への遷都(694年)、平城京への遷都(710年)の後、740年になると、聖武天皇は恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と3か所も居所を変えています。「宮」と名付けられているように、このときは遷都ではなく、居所と政務の場所を変えるだけでしたが・・・。

 挙句の果ては743年、聖武天皇は廬舎那仏の造営を発願しています。大仏を造立することでようやく気持ちが落ち着いたのでしょうか、745年、聖武天皇は再び、平城京に遷都しています。

 当時、藤原氏が大きな権勢を振るうようになっており、血なまぐさい事件が次々と起こっていたそうです。権力闘争の結果、政情が安定しなかっただけではなく、恨みに伴う祟りのような事象もさまざま発生していました。

 鎮護への思いはもちろんのこと、争うことなく、共存していこうという思いが高まっていたのでしょう。春日大社には、藤原氏の祖先神もお祭りされていますし、地元の神様、榎本神社も本殿近くにお祭りされています。共に力を合わせ、よりよい国にしていこうという願いが込められたことがわかります。

 先ほど、ご紹介した葉室氏は、これに関し、次のように書かれています。

「人間同士も共生するし、人間と祖先、人間と神様も共生する。そして神様同士もまた共生されるということなのです。これが日本人が古来より培ってきた共生という考え方です。すべてのものが共生してバランスをとる。そこにいのちが現れるという素晴らしい考え方です」(前掲)

 確かに、争うことなく生きていくには、この「共生」という考え方が重要なのかもしれません。ふと、境内で鹿が自由に行き来していたことを思い出しました。

 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が乗ってきたといわれる白鹿ではありませんが、茶色い鹿が参拝者を気にせず、のびのびと我が物顔で、境内を動き回っていました。これもまた「共生」の一つの結果なのでしょう。

 創建1250周年を迎えた春日大社を訪れ、古のヒトが何を考え、どう生きようとしてきたのかが、ちょっとわかるような気がしました。主張を通し、自己利益追求に走れば、そこに必ず衝突が起こります。対立するものを排除すれば、必ず報復されます。なにかとヒトの世にトラブルはつきものですが、対処法がないわけではありません。

 さまざまなトラブルを回避しようとすれば、春日大社の創建の際、企図されたような「共生」の観念を共有していくのがいいのかもしれません。利害のバランスを取って棲み分ける、あるいは、共生する、といったような知恵はおそらく、どんな時代でも、どんな社会でも有効でしょう。

 今回、はじめて春日大社を訪れ、さまざまな発見がありました。そんな中で、もっとも古のヒトの心に近づいたのではないかと思えたのが、この「共生」という考え方でした。ヒトも動物もその他、森羅万象一切が共生できるシステムを、古代の日本人は生み出そうとしていたのです。なかなか実現するものではないとしても、そのように考えることができた古の日本人を素晴らしいと思いました。

 春日大社で束の間、古の心に触れることができました。今の自分、そして、現代社会を振り返ってみる機会を与えられ、もやもやしたものが飛び去ったような気分になりました。(2018/5/11 香取淳子)

紀行2018:若草山で古を偲ぶ

 今年のゴールデンウィークは関西に行ってきました。久しぶりに奈良、京都を訪れ、日本文化の源流に触れて見たくなったのです。奈良と京都ではそれぞれ、現地のバスツアーに参加しました。

 まずは奈良から見ていくことにしましょう。

■新緑の若草山
 奈良観光バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。

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(奈良県公式ホームページより。図をクリックすると、拡大します)

 バスの車窓から見る木々の緑がまばゆいばかりでした。新緑が目にしみます。柔らかな緑色の葉先が風邪に揺らぎ、新しい生命の息吹をまき散らしていました。まさに早緑月です。久しぶりに春の輝きを目にし、なんともいえない幸福感が沸き立ってきました。

 若草山といえば子どものころ、祖母に連れられて来たことがあります。遠い記憶を探ってみると、やはり早緑の清々しさ、そして微かに、芝草の上に悠然と座っていた鹿の姿が思い浮かびます。

 「早緑」という言葉を知ったのも、ここでした。聞きなれない言葉でしたが、母から説明され、ようやく理解したことも思い出しました。柔らかく幼く、そして、未熟な緑色です。これが成長していくと、濃い緑色に変化していきます。

 木々が芽吹き始めた頃の葉の色が、「早緑」なのです。緑に「早」という言葉を加えるだけで、若さ、柔らかさ、幼さなどを表現しています。黄緑色ではなく、「早緑」としたところが興味深く、しばらく、子どものころの思い出に浸っていました。

 古の日本人は、芽吹いたばかりの葉の色を、単なる色のスケールとして捉え、表現しているわけではありませんでした。折々の葉の色の微妙な変化を見逃さず、そこに成長の痕跡を見出したのでしょう。「早」に成長の概念を込め、新緑の繊細な色合いを表現しようとしていたことがわかります。

 「早緑」という言葉には、ヒトの想像力を刺激する多様性、柔軟性、斬新さが感じられます。このようなネーミングに、かつての日本人が自然の移り変わりに合わせ、微かな変化も見逃さずに受け入れ、生きてきたプロセスを窺い知ることができます。自然と一体化した色彩の捉え方に惹かれます。

■三重目
 バスを降り、なだらかな斜面に沿って、若草山の頂上付近まで登ってくると、急に視界が大きく開けます。大きな木は見当たらず、芝草で覆われたなだらかな丘陵が不思議な安らぎを与えてくれます。辺り一帯に、柔らかく、優しく、静かに、そこを訪れたヒトを包み込んでくれる鷹揚さがありました。

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 調べてみると、若草山の開山期間は、春(3月15日から6月15日)と秋(9月13日から11月24日)に限られていました。それ以外の期間は芝草を保護するため、立ち入ることができないのです。ここは、いわば聖域でした。

 このことを知ってはじめて、ここを訪れたとき感じた不思議な安らぎの原因が理解できたような気がしました。この地域一帯は、ヒトに保護されながら、古の自然がいまなお生かされていた場所だったのです。脈々と続く自然の営みに、ヒトがそっと寄り添い見守ることで、その姿を保ち続けていることがわかります。

 さて、三重目と書かれた標識の下には眺望が広がっていました。遠くは靄のようなものでけぶって見えますが、ここに立つと、奈良盆地が一目で見渡せます。

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 ガイドの説明によると、ここの山はお椀を伏せたような形なので、「一重目」、「二重目」という数え方をするそうです。そういえば、富士山などは「一合目」「二合目」という数え方をします。不思議だなと思って調べてみました。

■三笠山と御蓋(みかさ)山
 若草山は、麓から見ると、一つの山にしか見えませんが、実は、笠を伏せたような形状の山が三段連なっています。ですから、一重、二重、三重という呼び方をしたのでしょう。笠が三段重なっているように見えるので、昔は「三笠山」といわれていたそうです。

 「三笠山」と聞いて、ふと、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という句を思い出しました。子どものころはお正月になると必ず、百人一首で遊んでいたので、この句はいまでもよく覚えています。

 「春日なる 三笠の山」と歌われていますから、芝草で覆われた、この山を指しているのでしょう。麓には春日大社があります。まさに、「春日にある三笠山」なのです。阿倍仲麻呂が詠んだ和歌で、『古今集』に載っています。

 「三笠の山」と書かれていることが多いので、この若草山と混同してしまいやすいのですが、ここで歌われていたのは「御蓋(みかさ)山」のようです。

こちら →
http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2011/tayori2306/manyou2306.htm

 どちらも春日にある隣同士の山なので、混同しやすいのは確かです。春日山原始林には若草山、御蓋(みかさ)山、高円山が連なっています。わかりやすいように単純表記された図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(http://blog.narasaku.com/?eid=805755より。)

 丸く、なだらかな山並みを見ていると、思わず、気持ちがなごんでしまいます。遣唐使としてここから唐に渡った阿部仲麻呂が、望郷の思いに駆られてこの句を詠んだのもわかるような気がします。実際に登ってきてみると、確かに、この山にはヒトを受け入れる優しさがありました。

 さて、この若草山は、標高342m、広さ33haのなだらかな山です。頂上付近が三重目で、そこには鶯塚古墳があります。ここに来るまで、こんなところに古墳があるとは思いもしませんでした。

■鶯塚古墳
 三重目からさらに頂上に向かって登っていくと、史跡がありました。

こちら →
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 近くにその案内板もありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、鶯塚古墳は、全長103m、前方部の幅50m、後円部の径61mの前方後円墳だと書かれています。そして、二段築造の墳丘には葺石や埴輪があり、石製斧や内行花文鏡などが出土していたとも記されています。

 さらに、この案内板では、種々、説明した上で、四世紀末に丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳だと断定されています。

 ところが、Wikipediaを見ると、「山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと考えられたこともあったが、滑石製品の採集で、この古墳については5世紀初頭まで時期が降るのではないかと考えられている」と書かれています。古墳周辺の出土品から判断すると、どうやら、この古墳が築造されたのは案内板に示されているより、もっと新しいようです。

 この古墳は1936年に国の史跡に指定されました。興味深いのは、清少納言の枕草子に、「うぐいすの陵(みささぎ)」と書かれているのがこの古墳だとされていることです。

 調べてみると、枕草子第十六段に「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ かしはぎのみささぎ あめのみささぎ」と書かれています。

 これだけだと何のことかわかりませんが、第一段の有名な一節、「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」を照らし合わせて考えてみると、御陵で素晴らしいのは、「鶯の陵、柏木の陵、・・・」といった具合に、読み解くことができます。

 枕草子の「・・・は」で始まる文章は、第一段と、第十段から第十九段まで続きます。いずれも、「・・・は」で示されたもので素晴らしいものが挙げられています。
 
 おそらく、枕草子が書かれた当時、御陵として素晴らしいのは「鶯の陵」だというイメージが共有されていたのでしょう。山頂の地形を利用して築造されたこの古墳の妙を愛でる当時の識者の感性を、私は興味深く思いました。

 初期古墳は山の麓か丘に築造されていたようです。後に、平野に作られるようになりましたから、長い間、この鶯古墳は前期古墳と考えられていました。ところが、出土品などから、その後、中期の古墳だと修正されました。

 ですから、枕草子が書かれた当時はまだ、鶯の古墳は古い時代の古墳と考えられていたのでしょう。「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ」という評価の中に、古墳の中でも古いものを愛でる気持ち、規模の小さなものを愛おしむ気持ちを読み取ることができます。私には、平安時代の識者がとても身近な存在に思えてきました。

■鹿
 奈良公園一帯には鹿が多数、見かけました。ですから、この若草山の山頂に鹿がいたからといって、とくに驚くことはないのですが、この山頂付近にいる鹿にはどことなく悠然とした面持ちがありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 ヒトが来ても食べ物をねだるわけではなく、近づいて来て、ちょっかいをかけるわけでもありません。視線を向けることすらせず、泰然として座っていました。我関せずの姿勢がとても印象的でした。

 ガイドの話によると、山頂の鹿はここで生まれて、ここで死んでいくそうです。他の世界を知ることなく、この山頂だけを生活の場として生きるのです。そのようにして守られた環境の中で、代々、生を育んできたのでしょう。ビクともしない姿勢には毅然とした優雅ささえ感じられました。

 ホテルに戻って、テレビを見ていると、今年初めての鹿が誕生したというニュースが流れていました。

こちら →https://www.jiji.com/jc/movie?p=n000897

 鹿の出産のピークは5月中旬から6月にかけてで、毎年、250頭ほどが生まれるそうです。

■若草山で見た古の心
 奈良で参加した現地バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。三重目付近の山頂には、古の日本人を感じさせるものがいくつかありました。しばらく佇んでいると、奈良時代にタイムスリップしたような気になってしまいました。

 若草山はヒトの入山が制限されています。そのせいか、若草山の頂上に立っていると、不思議な感覚が立ち上がってきます。かつてこの地で生きたヒトがとても身近に感じられるのです。ふとした瞬間に、彼らと同じ空気を吸い、同じ景色を見ているような錯覚を覚えてしまいます。

 連綿と続いていくもの、繊細で規模の小さいもの、そういうものを愛しむ気持ちこそが、自然を理解し、自然と調和し、共存していけるからではないか、そんな思いがふと、胸をよぎりました。

 若草山で見た、芝草で覆われた山肌、鹿、古墳史跡、いずれもどことなく穏やかで、ヒトを包み込む鷹揚さが見られました。そのせいでしょうか。若草山に、いっとき、古の心を見た思いがしたのです。(2018/5/10 香取淳子)

ネット文学はチャイニーズ・ドリームになりうるか?

 AI、ICTが今、社会を激変させようとしています。多くのことが予測可能になり、可視化されつつあります。いつの間にか、知ろうとしさえすれば、自分の寿命までわかってしまいかねない時代になってしまいました。果たして、ヒトは将来に夢を抱いて生きていけるものなのでしょうか。

 そんなことをぼんやり考えているとき、ふと、「第8回コンテンツ東京」で出会った、ネット文学サイトを運営している中国企業の若い責任者の顔が思い浮かびました。混雑する展示場の一角で、熱く未来を語っていた姿がとても印象的でした。

 振り返ってみましょう。

■第8回コンテンツ東京
 「第8回コンテンツ東京」が東京ビッグサイトで開催されました。期間は2018年4月4日から6日まで、コンテンツに関連する7展が同時に開催され、1540社が出展しました。

 関連する7展とは、「クリエーターEXPO」「グラフィックデザインEXPO」「先端デジタル テクノロジー展」「映像・CG制作展」「コンテンツ マーケティングEXPO」「ライセンシング ジャパン」「コンテンツ配信・管理 ソリューション展」、等々です。

 セミナーであれ、商品やサービスの展示であれ、東展示棟を巡れば、関連事業の内容や各業界の新動向がすぐにもわかる仕組みになっていました。7展が同時に開催されていたので、効率的に激変するコンテンツ業界の動きを把握することができます。

 主催者側が撮影した初日の会場風景をみると、ヒトで溢れかえっているのがわかります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 私は5日と6日の午後に訪れたせいか、これほど混んではいませんでした。アニメの最新動向を知りたくて、最初に訪れたのが映像・CG制作展でした。印象深かったのが、台湾の制作会社が創るキャラクターです。

■コンピュータを駆使した造形
 これを見て、なによりもまず、精緻な造り込みに惹き付けられました。微妙な色彩、光の処理、質感、本物かと見まがうほどの描写力であり、造形力です。しばらく見入ってしまいました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。SHINWORKより)

 素晴らしいと思いました。モチーフの企画力といい、形にしていく技術力といい、リアリティを添える色彩感覚といい、秀逸さがきわだっていたのが印象的です。

 制作したのは、台湾の制作会社「形之遊创意科技有限公司」です。

こちら →http://www.shinwork.com/

 訪れたときはわからなかったのですが、帰宅してネットを見ると、こちらはこのブースの共同出展社でした。主な出展社はXPEC Art Center INC.です。この会社もまた、魅力的なキャラクター造形をしていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。XACより)

 背景色の諧調はまるで絵画のようにきめ細かく、深みがあり、見事としかいいようがありません。これをすべてコンピュータで作り上げているのです。上記の図の画素数は、通常の写真の何倍にも及ぶ精緻なものでした。この会社はゲーム、アニメ、CG映像などを専門分野としており、今回初めて、東京ビッグサイトに出展したようです。

こちら →http://www.xpecartcenter.com/

 これ以外にも、さまざまなテイストのキャラクターや映像が制作されていました。このような制作力の高い会社が、全世界からゲームやアニメのキャラクター造形を請け負い、CG、VFXなどの映像製作を請け負っているのです。

 果たして、日本は大丈夫なのでしょうか。ふと、そんな思いが胸をよぎりました。

 アニメ、ゲームの日本といわれながら、若手の人材不足が続いています。そのせいか、コンピュータを駆使した造形は、日本ではいまひとつです。その一方で、周辺国は技術力、構想力を高め、日本アニメに追随してきています。展示会場では、たまたま台湾の制作会社の作品の一部を見ただけですが、これでは日本の制作会社も決してうかうかしていられないなと思ってしまいました。

 さて、そのコーナーの一角で出展していたのが、中国最大のネットコンテンツ集団、阅文集团(China Literature Ltd.)でした。ふと見た、立て看板のキャッチコピーに惹かれ、思わず、足を止めました。

■阅文集团
 立て看板には、阅文集团はアニメならトップ20のうち80%、オンラインゲームなら累計ダウンロード数でトップ20の75%、そして、国内ドラマならトップ20の75%を占めると書かれていました。アニメであれ、ゲームであれ、ドラマであれ、阅文集团はどうやら、人気作品を量産している企業のようです。

 この立て看板が謳いあげているように、阅文集团が、ジャンルを問わず、中国のネット・エンターテイメントの領域を占拠しているのだとすれば、多少は、このブースの責任者から話を聞いておく必要があるかもしれません。

 実際、中国はいま、E-コマース、ネット決済などの領域で日本よりも一歩進んでいます。ネット・エンターテイメントの領域でも中国になにか新しい動きがあるかもしれません。そう思って、責任者に話を聞いてみることにしました。

 残念ながら、私の中国語はまだ込み入った会話ができるレベルではありません。責任者と話しているうちに、よほどもどかしく思ったのでしょう、通訳を介しての話し合いとなりました。

 おかげで誤解していたことがわかったこともありました。アニメゾーンで出展されていたので、私はてっきり、阅文集团をアニメ会社だと思っていたのですが、話をしているうちに、実はそうではなく、中心はネット文学のサイト運営だということがわかってきました。その派生事業として、ネット小説を原作とし、アニメやドラマなどを制作している事業者でした。

 帰宅してから調べてみると、阅文集团はたしかに中国最大の電子書籍専門サイトで、ネット文学のパイオニアと位置付けられていました。電子書店の運営と著作権マネジメントを収益の柱としており、中国のネット文学市場で過半数のシェアを占めるほどの大手です。

■ネット小説を原作に、多メディア展開
 阅文集团は、中国国内ですでにライセンスを所有しているネット小説を原作に、ドラマ化、映画化、ゲーム化、舞台化、音声小説化を手掛けています。ネット小説を軸に、コンテンツの多メディア展開を行っているのです。

 そのような事業内容を知って、ようやく、阅文集团がアニメ、ゲーム、ドラマ、映画などで、多数のヒット作品を抱えている理由がわかってきました。

 いずれも阅文集团のネット小説に基づいて制作されたコンテンツだったのです。小説の段階で評価の高いものを、アニメ、ゲーム、ドラマなどの原案にしているのですから、ヒットするのも当然なのかもしれません。

 たとえば、「全职高手」というアニメ作品があります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://www.sohu.com/より)

 阅文集团のパンフレットによれば、この作品は、WEBアニメでのリリース後、たった24時間で再生回数が1億回を突破し、総再生回数は10億以上を記録したそうです。Eスポーツのプロゲーマーである葉修が、さまざまな挫折を経験した後、Eスポーツの頂点を極めていくという物語です。

 絵柄やストーリー展開などにやや日本アニメの影響が感じられますが、舞台をEスポーツにしたところ、ITの躍進著しい中国のオリジナリティが感じられます。

 原作は蝴蝶藍のネット小説で、2011年2月28日に連載を開始し、2014年9月30日に完結した作品でした。中国のウィキペディア(维基百科)によると、連載中から好評で、10点満点でなんと9.4点の高評価が付いていたそうです。

 さらに、大ヒットした作品に、WEBアニメの「头破蒼穹」があります。こちらは再生回数13億回を達成し、中国国内の3Dアニメで最高記録を更新したそうです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://yule.52pk.com/より)

 このアニメも原作は、天蚕土豆という作者が手掛けたネット小説です。百度百科を見ると、この作者は1989年生まれですから、まだ29歳です。作者が若ければ、読者も若いですから、ネット上で作品についてのコミュニケーションを交わします。作家と読者がネット上で相互交流を重ねながら、ストーリーを楽しみ、創り上げていくというのが、中国のネット小説の醍醐味のようです。

 ネット小説は、作者と読者の垣根が限りなく低い、というのが一つの特徴です。作者がいつでも読者になり、その反対に、読者がいつでも作者になりえます。そのような可変性、あるいは、強い相互依存性がネット民に支持されて、ネット文学の隆盛を生み出しているのかもしれません。文学の新しい地平を開く現象が中国で生まれているのです。

 そのプラットフォームを提供しているのが、阅文集团でした。中国の若者の潜在欲求に応えるように、阅文集团は、誰もが、いつでも、どこでも、小説を書き、ネットにアップロードしていくことができるプラットフォームを構築しました。実にタイムリーな措置であり、未来の動向を的確に見据えた取り組みだと思いました。

 今回、「第8回コンテンツ東京」の展示場で、私ははじめて、阅文集团のことを知りました。調べれば調べるほど、ネット文学を支えるプラットフォーム構築の意義深さを思い知らされます。

 若い世代を中心に、デジタルベースで広範囲に展開されているので、今後ますます市場規模を大きくしていく可能性があります。さらに、低額で毎日更新されるシステムなのでコピーされる恐れはなく、ユーザーには有料でコンテンツを消費する習慣が根付いていくでしょう。さまざまな観点から、阅文集团はネット時代にふさわしい文化環境づくりをしていると思いました。

 もちろん、投資家たちはこの動向を見逃してはいませんでした。

■香港市場に上場
 中国のコンテンツ業界を代表する会社として、阅文集团は2017年11月8日、香港株式取引所に上場しました。公募の際には40万人以上が殺到し、倍率は626倍で、5200億香港ドル(約7兆5600億円)集まったそうです。

 これは2017年の香港市場の取引で最高額であったばかりか、史上2番目の高額でした。このことからは、阅文集团がそれだけ多くの投資家から注目されている企業だといえるでしょう。

 それでは、阅文集团の設立経緯と事業内容をみていくことにしましょう。

 阅文集团は2015年3月、テンセントグループの子会社テンセント文学と、盛大グループの傘下にあった盛大文学が統合されて、設立されました。小説や漫画の出版、アニメ、ドラマ、映画などの制作、グッズ販売を手掛けるだけではなく、中国国内の作家を育成できるプラットフォームを持つ会社です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 卢晓明氏は2017年7月4日、『36kr』上で、中国のネット作家の約90%が阅文集团のプラットフォームに登録していると書いています。同社のHP、その他の資料から詳しくみると、2016年12月時点で、阅文集团のプラットフォームはグループ合わせて530万人の作家を抱え、中国全体でネット作家の88.3%に及びます。コンテンツの中核部分を創り出せる人材を、阅文集团が豊富に抱えていることがわかります。

 こうしてみてくると、阅文集团の事業内容がネット時代にふさわしく、今後、さらに発展する可能性があると、多くの投資家から見込まれているのも当然でしょう。

 そこで、阅文集团の業務内容を調べてみました。5分程度、コンパクトに紹介されたビデオがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
https://www.weibo.com/tv/v/Fuk9FdCE9?fid=1034:376650955723ad29bf6f564d363a492b

 興味深いのは、アニメであれ、漫画であれ、映画であれ、原案になるのが、ネット小説だということです。ヒットしたネット小説に基づいて、さまざまなデジタルコンテンツが開発され、さまざまなチャンネルで展開されているのですが、それらの版権は当然、阅文集团が所有しています。

 日本では漫画原作のアニメ化、ドラマ化はすでにお馴染みですが、それと似たような事業展開なのでしょう。中国では漫画ではなく、小説を原作に多メディア展開しているところが面白いと思いました。小説といってもネット小説ですから、連載の過程で、繰り返し、ユーザーの目に留まっています。露出が多いという点で、ヒットにつながりやすい側面があります。

 それでは、ネット作家はどのようにして生まれるのでしょうか。

■作家を育成するプラットフォーム
 阅文集团には作家が作品を発表するためのプラットフォームがあります。そこには作家として作品を発表するための手順が具体的に示されています。

こちら →https://write.qq.com/about/help_center.html

 ネットで作品を発表したいと思えば、①阅文の「作家传区」に作家登録をした後、「作品管理」をクリックし、「创建作品」のボタンを押す。②アップロードしたいサイトを選び、作品名称、作品ジャンル、作品概要などの関連情報を記入する。そして、最後に新しく完成させた作品を提出する。③それが終わるとすぐにも、「作家传区」(作品管理)のページで、新しく書いた文章をアップロードすることができる。

 以上のような流れに沿っていけば、誰もがいつでも、どこでも、ネット上に作品を発表できるようになります。

 もちろん、作品としてふさわしくないものを制限するため、いくつかの条項も設けられています。具体的な条項は「作家自律公约」として、上記のサイトに載せられています。誰もがいつでも、どこでも、作家登録し、作品を発表できるとはいいながら、実際には、最低限のルールは課せられているのです。

 こうしてみてくると、阅文の「作家传区」はまさに、ネット時代の作家を育むための孵化器のように思えてきます。書きたいものがあるのに、それをどのようにして、世の中に発表していけばいいのかわからない新人も、この孵化器の中に入っていけば、なんとか小説の形にしていくことができるようになるのかもしれません。

 展示会場で、阅文集团のブース責任者に、原稿は一括アップロードなのかどうか尋ねたところ、このシステムでは、すべて連載形式で取り扱うといっていました。つまり、作家は、一話ずつネットにアップロードし、それを読んだ読者とやり取りをしながら、ストーリーを展開していくという仕掛けです。

 作家は、読者と相互交流を重ねながら、ストーリーを展開していきますから、場合によっては、当初考えていたストーリーが、読者の意向によって変わってしまうこともあるでしょう。あるいは逆に、読者のコメントを踏まえて、作家がアイデアを巡らせ、当初考えていたストーリーを強化し、より豊かな作品世界を生み出す場合も考えられます。

 阅文集团が構築したプラットフォームは、潜在する作家を発掘するだけではなく、どうやら、ネットを介在させた新しい文学の表現舞台ともなりつつあるようです。

■ネット文学で生活していけるのか?
 それでは、このシステムでネットデビューした作家は、果たして、作家を本職として生活していくことはできるのでしょうか。この点についても、展示会場でブース責任者に尋ねてみました。すると彼は、低額料金なので、ほとんどの登録作家はそれだけで食べていくことはできないが、最近はそれだけで十分、生活できる作家も出てきたといいます。

 ネット作家は毎日3000字原稿を書いて、ネットにアップロードするといいます。読者は読むたびに、お金を支払いますが、1回がせいぜい7円程度なので、大勢の読者を獲得しなければ、大した収入にはなりません。しかも、最初のうちは無料で提供しますから、まったく収入にはなりません。ある程度、進んでからようやく課金システムに組み込まれますが、作品が面白くなければ読者が付かず、収入がほとんどないということにもなります。

 ですから、作家は必然的に、読者の意向に耳を傾けざるをえなくなります。読者とのコミュニケーションが少なければ、読者が離れ、収入が得られなくなりますし、反対に、多くの読者の意向に沿った内容にすれば、収入が増えるというわけです。

 読者はネットで公開された小説を、最初は無料で読めますが、ある程度になると、お金を支払わないと読めないようになっています。無料で読める段階で魅力的な設定、展開にしておかないと、有料になってからの読者を獲得できません。

 面白ければ、有料になっても読者は読み続けます。その後は、読むたびに、自動的に口座から引き落とされていきますから、作家はまさに作品の力そのもので読者を引き付け、稼いでいく仕組みになっているのです。読者からのお金は阅文集团のプラットフォームに入りますが、そこから定期的に、読書回数に応じて作家の口座に振り込まれていきます。

 ネットを検索していて、興味深い記事に出会いました。

「扬子晚报」(2015年10月19日)は以下のように、2015年時点のネット作家の収入状況を報告しています。

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少額課金で毎日小説が読める「ネット文学」の世界で億万長者が誕生し、話題になっている。しかし、そうした「売れっ子作家」は実際には数えるほど。ひとつのサイトに数百人がひしめいているネット作家の大半は、無収入だという。(中略)
ネット作家の9割は無収入だという。収入のある作家でも、1か月に1万元(当時のレートで約19万円)の印税収入のある作家は全体の3%にも満たないとされる。
小説連載の仕事もハードだ。ある程度の収入を得ようとすれば、毎日最低でも3000字を書き続けなければならないので、ほとんどの人は途中で投げ出してしまうのが現実だ。
******

 ブース責任者に尋ねても、ネット作家の収入状況はこのようなものでした。改めて、誰もが参加できる敷居の低さは、誰にも収入に道を開いてくれるわけではないことがわかります。ネット文学は、熾烈な競争をくぐり抜けて、読者を獲得する骨法を掴んだ作家だけがようやく、食べていけるだけの収入が得られる過酷な世界なのです。

■ネット文学はチャイニーズ・ドリームになりうるか?
 ただ、いったん、多数の読者が付くようになれば、その輪が拡大して大ヒットとなり、思いもかけず、大富豪になる場合もあります。

 たとえば、先ほど、ご紹介した「头破蒼穹」の作者、天蚕土豆は、2013年には印税だけで2000万元(約3億4200万円)の収入がありました。この作品は漫画化され、映画化されていますから、そのロイヤリティも入ってきます。総計、どれほど多額の収入を得たことでしょう。

 このような現実を知ると、中国の若者がネット作家になる夢を抱くようになったとしても決して不思議ではありません。

 「KINBRICKS NOW」(2013年6月7日)は、ネット文学について、「個人が自由に創作できる、中国では数少ないジャンル」とし、「無料の海賊版ではなく、有料コンテンツを消費する習慣がユーザーに根付いている数少ないジャンル」だと書いています。つまり、ネット文学は、自由に表現することができ、正当に稼げるジャンルだというのです。しかも、「中国のネット文学は検閲的縛りもない」ようです。

 そうなると、ネット文学は検閲を気にすることなく、個人が自由に創作することができ、しかも、場合によっては巨万の富を稼ぐこともできる夢のようなジャンルだということになります。中国の若者にとって、大きな夢を託すことができる場といえるでしょう。

 もちろん、読者の評価に晒され続けるという厳しさはあります。批判に晒され鍛えられ、作家として磨き抜かれてはじめて、多くの読者に支持される作家に成長していくのです。そのことを考えれば、その種の労苦は成功のための代償として、積極的に受け入れていく必要があるでしょう。

 このようにみてくると、作家と読者がネットでダイレクトにつながるこのプラットフォームはきわめて合理的で、公平性があり、隠れた才能を発掘できる素晴らしいシステムではないかという気がしてきます。「検閲がない」ということを加味すれば、それこそ、ネット作家こそがチャイニーズ・ドリームではないでしょうか。

 このプラットフォームは、中国という膨大な人口を抱える国で開発されました。いわゆる集合知が判断基準として機能するシステムとして、今後、さらに発展していく可能性があります。

 国の力ではなく、組織の力でもなく、個々のヒトの巨大な集合体が育む知の機構として、メイン文化の在り方にも大きく作用するようになるかもしれません。個々のデータの集合体であるビッグデータがさまざまな領域を可視化していくAI時代にふさわしいプラットフォームといえるでしょう。

 このプラットフォームには資格を問わず誰もが参加できますし、そこに政府の介入、検閲も入りません。しかも、努力次第で、巨万の富を稼げますし、社会的地位も得られます。現段階で、少なくとも中国では、ネット文学こそがチャイニーズ・ドリームだといえるのではないでしょうか。(2018/4/25 香取淳子)

第2回AI・人工知能EXPO: AI・人工知能時代の事業価値とは?

■第2回AI・人工知能EXPOの開催
 2018年4月4日から6日まで東京ビッグサイト東展示棟で、「第2回AI・人工知能EXPO」が開催されました。私が訪れたのは4月5日の午後でしたが、国際展示場正門駅を下車すると、人々が続々とビッグサイトに向かっているのが見えました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 展示会場に向かって進むにつれ、ますますヒトの混み具合が激しくなってきました。AI・人工知能への関心がよほど高まっているのでしょう。思い返せば、その予兆はありました。私は、「AIが変えるビジネス」というセミナーに参加したかったのですが、申し込もうとした時点ですでに満席でした。

 代わりに、「注目の海外ベンチャー企業」というタイトルのセミナーに申し込みましたが、それでも、開催日までに二度ほど「キャンセルの場合、早めにご連絡ください」というメールがきました。そういうことはこれまでに経験したことがありませんでした。なんといっても東京ビッグサイトは巨大な催事場です。キャンセル待ちが出るとは思いもしませんでした。ところが、担当者によると、このセミナーにはなんと3000名もの申し込みがあったそうです。

 もちろん、セミナーばかりではありません、展示会場もヒトで溢れかえっていました。主催者が撮影した初日の会場風景を見るだけでも、AI・人工知能に対する人々の関心の高さがわかります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)
 
 改めて周囲を見渡してみると、全国各地からさまざまな領域の人々がビッグサイトに馳せ参じていました。AIこそがこれからの社会の大きな変革要因になると多くのヒトに認識されていることがわかります。

 それでは、4月5日、15:00から始まったセミナーの一端をご紹介していくことにしましょう。

■注目の海外ベンチャー企業
 このセミナーでは、ViSenzeの共同創始者兼CEOのOliver Tan氏と、データサイエンティストでありDataRobotのCEOであるJeremy Achin氏が登壇し、講演されました。とくに私が興味を抱いたのが、Oliver Tan氏の講演内容でした。

 Oliver Tan氏の講演をかいつまんでご紹介しましょう。

 Tan氏は2012年にViSenzeを設立して以来、デジタルコンテンツ、eコマースなどの事業に取り組んできました。その間、①小売りにおける人工知能の活用、②ビジュアル・コンテンツの増進、③映像認識におけるイノベーション、等々の変化が起きているといいます。

 その背景として、Tan氏は3つの要因を挙げます。すなわち、非構造化データが大幅に増えた結果、ネット上はいま、データの洪水状態になっているということ、ハードウエアが高性能化し、演算当りの単価が安価になっているということ、利用可能なアルゴリズムがあるということ、等々です。

 非構造化データがどれほど増えたかといえば、現在、ネット上には30億以上の映像・画像が投稿されていることに示されています。なんと、ネット上の80%以上が映像や画像などのビジュアル・コンテンツだというのです。つまり、膨大な非構造化データがネットには溢れかえっているのです。ところが、タグが付いていないので、これらを利用することができません。せっかくのデータを活用できないのです。これが大きな問題となっているとTan氏はいいます。

 今、急成長しているのがビジュアル・サーチのAIなのだそうです。映像・画像などの非構造化データを利用するためのAIが注目されていますが、ネット上の情報の80%以上が映像・画像情報だということを考えれば、それも当然の成り行きでしょう。AI市場は今後、2022年までに50億規模の市場になるといわれていますが、中でも注目されているのが、非構造化データの処理に関わるAIだといえます。

 Tan氏は、ビジュアル・コンテンツの非構造化データを小売り事業に活用している先進事例の一つとして、アリババのマジックミラーを挙げました。簡単に触れられただけだったので、具体的にどういうものなのか知りたくて、帰宅してから調べてみました。

 内外のいくつかの記事から、このマジックミラーは、アリババの新たな小売り戦略とも関連する実験だったことがわかりました。

■アリババの実験
 アリババは2009年以来、毎年11月11日を独身の日とし、セールを行ってきました。売上は年々増加し、2017年11月11日は1682億元を達成しました。なんとたった一日で、日本円に換算すれば2兆87億円も売り上げたのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://toyokeizai.net/より)

 「独身の日」は中国語で「光棍节」といい、ショッピングイベントとして大きな経済効果を上げています。独身者同士が集まってパーティを開いたり、プレゼントをしたりするための消費が促進されているのです。毎年決まった日にイベントセールを実施することで、独身者の潜在需要を掘り当てたのです。

 実際、この日の売上高を開始期から時系列でみていくと、年々大幅に増加していることがわかります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Alibabaより)

 Yuyu Chen氏は「DIGIDAY」日本語版(2017年11月17日)で、これに関連し、興味深い指摘をしています。つまり、アリババにとって、独身の日はたった1日で数百億ドルの売り上げをもたらすショッピングの祭典というだけではなく、小売業界のイノベーションを誘導するさまざまな実験を行う機会でもある、というのです。

■オンラインとオフライン
 アリババについて調べているうちに、興味深い調査結果を見つけました。E-コマースで多大な実績を上げるアマゾンとアリババについて調査をした結果、人々の消費行動全体でみると、いずれも伝統的な店頭販売にははるかに劣ることが判明したのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://www.cbinsights.com/より)

 アマゾンにしてもアリババにしても現在のところ、E-コマースを圧倒していますが、アメリカでは90%以上、中国も80%以上が店頭販売でモノが購入されていることがわかったのです。ですから、両社にとって、次の大きな成長機会は実店舗での販売をどのように取り込めるかということになります。

 アリババはすでにオフラインとオンラインの統合の利点を了解しており、2017年の「独身の日」で実店舗を中国国内にいくつか設置し、さまざまな実験を行いました。そのうちの一つが、先ほど言いましたマジックミラーです。

■マジックミラー
 これまでアリババはオンライン上にポップアップストア(期間限定ストア)を開設してきましたが、今回の「独身の日」セールで初めて、実店舗のポップアップストアを設置しました。

 中国国内12都市、52か所のショッピングモールでオープンし、10月31日から11月11日まで営業しました。新展開の目玉の一つがマジックミラーでした。

 「マジックミラー」と名付けられた画面では、買い物客はサングラスや化粧品、衣料品などの商品をバーチャルに試着することができます。試着してみて商品が気に入ったら、スクリーン上のQRコードをスキャンして、アリババのモバイル決済サービスAlipay(アリペイ)で購入することができるという仕組みです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。Alibabaより)

 実際に手に取ってみることのできない商品でも、この装置があれば、気軽にさまざまな商品を試してみることができます。消費者にしてみれば、これまでよりもはるかに容易に、納得した上で、意思決定をすることができるようになります。実店舗ならではの実験です。

 アリババはこのように、新しいテクノロジーを駆使して、さまざまな実験を行い、購入を決意する消費者側のデータを収集しているのです。新しい事業モデルを構築するには不可欠のデータを掘り起こしているともいっていいかもしれません。大量の消費者が集う「独身の日」はまさに、アリババにとって貴重なマーケティングの日だといえるでしょう。

 たとえば、今回、導入したマジックミラーの場合、小売における新しいアイデアが今後、投資に値するものなのか、それとも、修正が必要なものなのかを判断するための根拠として、アリババは消費者の反応と売上の結果を重視します。データ化された情報を駆使し、できるだけ精密に消費行動を把握し、事業モデルを組み立てていきます。

 大量の消費者が動く「独身の日」はアリババにとって、単に大量に商品が売れる場ではなく、大量の消費行動データが得られる場でもあります。つまり、次のステップを踏むための基盤にもなる重要なイベントなのです。

■アリババの「新小売り戦略」
 さて、今回、実店舗を設置した中国の各所で実験されたのが、マジックミラーであり、AR(拡張)ディスプレイエリアでした。いずれも、単なるオンラインイベントを超えた試みでした。Yuyu Chen氏は、これらの実験はアリババの新小売り戦略に沿ったものだと記しています。

 そこで、関連記事をネットで検索してみました。すると、下記のような記事がみつかりました。タイトルは「Jack Ma outlines new strategy to develop ‘Alibaba economy’」(ジャック・マー、「アリババ経済」を開発する新しい戦略を概説する)です。2017年10月17日付の記事ですから、「独身の日」の約1か月前の取材情報です。

こちら →
http://www.thedrum.com/news/2017/10/17/jack-ma-outlines-new-strategy-develop-alibaba-economy

 これを読むと、アリババのCEOジャック・マー氏は、「E-コマースは急速にビジネスモデルを進化させ、「ニューリテール」(新小売り)」の段階に入っているという認識を示しています。やがてはオンラインとオフラインの境界が消滅していくと彼は考えており、その対策として、各消費者の個人的なニーズに焦点を当てたサービスを展開しなければならないとしています。

 さらに彼は、中国ではアリババのニューリテール・イニシアチブ(新小売り戦略)は、5つの新しい戦略の出発点として形を成しつつあるといいます。この5つの新しい戦略とは、「ニューリテール」、ニューファイナンス」、「ニューマニュファクチュアリング」「ニューテクノロジー」「ニューエナジー」を指します。

 このような構想の下、1億の雇用を生み出し、20億の消費者にモノやサービスを提供し、1000億の収益性の高い中小企業を支援するプラットフォームになるよう計画しているとジャック・マーは宣言しています。さらに2036年までには、アリババのインフラがトランザクション価値を結びつける商業活動を支援し、世界ビッグファイブの経済としてランクされるようになるだろうとも予測しています。

 興味深いのは、ジャック・マー氏が、一般株主は我々に利益をあげることを期待しているが、我々の存在価値はお金を稼ぐことだけにあるのではないと強調していることでした。どうやら彼はアリババの事業を通して、商業活動以上の社会的活動を企図しているようです。

 ジャック・マー氏はこんなことも書いています。

「もしアリババが農村部や中国全土の貧困地域を手助けし、テクノロジーによって生活状況を改善することができるとすれば、世界のその他の地域にも大きな影響を与える機会を持てるようになる。テクノロジーは世界の富の格差を広げることの原因になるべきではない」と。

 このような考え方を知ると、アリババの存在価値がお金を稼ぐことだけにあるのではないとジャック・マー氏が強調していたことの背景がわかってきます。

 テクノロジーの力を活用して農村部や貧困地域を豊かにする一方で、この新小売り戦略は、グローバルなサプライチェーンの再構築をもたらし、グローバル化の形勢を大企業から中小企業へと変化させるだろうとジャック・マー氏はいいます。このことから、経済の合理化を進めるだけではなく、社会的公平性をも実現しようとしていることがうかがい知れます。

 三菱総合研究所の劉潇潇氏も、アリババ・グループのCEOジャック・マーク氏が2016年10月に発表した小売り戦略に注目しています。この戦略は、オンラインとオフラインをうまく使い分けることによって、より精密なターゲティングを行い、顧客により深い感動を与えることを目指す戦略だと指摘しています。(https://toyokeizai.net/)

 たしかに、この戦略は消費者の心を捉え、消費者とつながることを目指したものだと思います。とはいえ、2017年10月に取材された記事から、ジャック・マー氏の考え方を推察すると、私には、単なる顧客獲得を超えた大きな世界観に支えられた市場戦略のようにも思えてきます。

■事業が追及する価値とは?
 4月18日、日経新聞を読んでいて、興味深い記事に出会いました。価値創造リーダー育成塾で嶋口充輝氏(慶應義塾大学名誉教授)が行ったキーノート・スピーチを原稿に起こしたものでした。

「事業が追及する価値は、合理性・効率性を追求する「真」の競争から社会的責任や社会貢献を意識した「善」の競争、そして、品位や尊厳、思いやりなどの「美」を追求する競争へと移ってきました」と、まず、事業に対する現状認識を示しています。その上で、嶋口は、今後の展開として、以下のように続けます。

「これからの時代の企業は、その事業姿勢や行動を「美しさ」から発想し、「社会的有益性」を踏まえ、結果的に収益性や効率性に結び付ける「美善真」というスタイルが求められると思います」といい、「美しさ」主導の事業姿勢を「あるべき姿」と打ち出しています。

 一見、理想主義的な意見に思えたのですが、再び読み込むと、実はきわめて長期的展望に立った見解だという気がしてきました。そして、そういえば、ジャック・マー氏も似たようなことを言っていたなと、先ほどご紹介したアリババの新小売り戦略を思い出しました。思い返しているうちに、振り返って、第2回AI・人工知能EXPOの記事を書こうと思い立ったのでした。

■AI・人工知能時代の事業価値とは?
 AI・人工知能が中心になって社会を動かしていく時代に、求められる事業価値とはいったい、何なのでしょうか。今回、第2回AI・人工知能EXPOに参加してみて改めて、そのことを考えさせられました。

 もはやヒトはモノやサービスを、効率性、経済性、有益性だけで購入するわけではなくなってきています。そんな時代に事業活動を継続的に行っていくには、モノやサービスに消費者の心を動かす何かが付随していなければならないでしょう。心のつながりが生まれて初めて、事業活動が消費者から強く支えられ、継続していくことができるようになるのでしょうから・・・。

 そして、心のつながりの動機づけになるのは、なによりも、対象にたいする信頼感であり、尊敬の念であり、憧れであり、崇拝の念でしょう。

 そう考えてくると、AI・人工知能の時代には、美しさや品格といった数値化しがたい要素が価値を持ってくるような気がしてきます。

 今回、「注目の海外ベンチャー企業」というセミナーに参加し、Oliver Tan氏の講演内容から、私は、先進事例として紹介された、アリババの「独身の日」の実験に興味を抱きました。Tan氏はビジュアル・サーチAIの一例としてマジックミラーを紹介されたのですが、私はむしろ、「独身の日」に、実店舗で行われたこの実験の方に興味を覚えてしまったのです。

 種々、調べることになりましたが、その結果、いろんなことがわかってきました。セミナーが一種の触媒の役割を果たし、AI・人工知能時代の事業の意味を考えることになったのです。改めて、ヒトは選択的に話を聞くものなのだということを思い知らされました。(2018/4/20 香取淳子)

「グレーテスト・ショーマン」:人類祝祭への賛歌

■「グレーテスト・ショーマン」
 2018年3月20日、少し時間の余裕ができたので、たまには映画でも観ようかと思い、上映作品の中から選んだのが、「グレーテスト・ショーマン」でした。なんの予備知識もなく観たのですが、久々に身も心も弾むのを感じました。

こちら →http://www.foxmovies-jp.com/greatest-showman/#/boards/showman

 上記映像の「予告D」では主な登場人物、ストーリー展開の重要な場面、パフォーマンス、音楽などが端的に紹介されています。

「グレーテスト・ショーマン」(The Greatest Showman)は、19世紀に活躍した興行師P・T・バーナムの半生を描いたミュージカル映画です。貧しく生まれ育った少年がお金持ちの令嬢と結婚して家庭を築き、紆余曲折を経て、やがて夢を実現させていく、というお定まりの成功譚です。

 ストーリー自体はハリウッドの定石を踏んでいますが、テンポの速い画面展開、リズミカルな画面構成、躍動感あふれるダンス、魂を揺さぶる音楽、そして、なにより、セリフの素晴らしさに酔いしれてしまったのです。

 ミュージカル映画だったからでしょうか、劇中、流れていた楽曲のリズムとサウンドが全身に沁みついてしまい、見終えてしばらくは軽い興奮状態でした。私はいつも映画が終わるとすぐ会場を出てしまうのですが、今回はエンドロールが終わり、場内が明るくなるまで映画の余韻に浸っていました。すぐには立ち去りがたい気分になっていたのです。

■興行師バーナム
 主人公バーナムは実在した人物ですが、ショービジネスに手を染めるまでの経緯は、現代社会に生きる観客が違和感なくストーリーに入り込めるよう、アレンジされています。

 勤務していた会社を解雇されてから、着手した事業が失敗し、次にバーナムが始めたのは、フリークショーでした。これは、大男、髭の濃い女性、全身入れ墨の男性、小人など、それまで世間から隠れるようにして生きていたヒトたちを舞台に登場させ、そのパフォーマンスを見せるショーです。

 バーナムとそのメンバーたちがそれぞれ、ポーズを決めて写真に収まっています。

こちら →
(https://www.eigaongaku.info/265.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 フリークショーは、19世紀から20世紀初頭にかけて盛況を呈したショービジネスです。娯楽の少ない時代の庶民の娯楽でした。バーナムもおそらく、その波に乗って興行師として成功を収めたのでしょう。

 フリークショーを興すことによって、興行主バーナムは、それまでひっそりと隠れて生きていたメンバーたちを次々と、表舞台に引き上げていきます。そして、「みんな違うから、輝くんだ」といって怖気づく彼らを鼓舞し、自信と勇気を引き出していきます。

 一方、不承不承、ショーの一員になることを引き受けたメンバーたちも、ありのままの自分をさらけ出すことによって収入を得、自分の居場所を得られることがわかってくると、自ずと自信が生まれ、堂々と生きていけるようになります。これは、「光を与えてくれた」という言葉に集約されています。

 さきほどの映像で端的に紹介されていましたが、バーナムのセリフ「みんな違うから、輝くんだ」、そして、メンバーのセリフ「光を与えてくれた」に、私はなによりも強く印象づけられました。

 バーナムにとっては収益を上げるショービジネスでしかなかったのかもしれませんが、メンバーにとってはかけがえのない居場所であり、心の拠り所にもなっていたのです。そのようなプロセスを示すセリフとパフォーマンス、音楽とが見事にマッチし、ストーリーの展開にともない、心身ともに引き込まれていきます。

 いつになく感動し、途中、涙を流したりもしました。ヒトの存在自体が放つ哀しさ、切なさ、侘しさに限りなく愛おしさを覚えてしまったのです。リズミカルな音楽とパフォーマンスがその気持ちに拍車をかけます。

 劇中、最も惹きつけられたのが、「This is Me」という曲でした。

■「This is Me」
 おそらく、誰もが同じ思いだったのでしょう、この曲は、第75回ゴールデングローブ賞で主題歌賞を受賞し、第90回アカデミー賞の主題歌賞にもノミネートされました。

 2018年2月21日、映画では髭女のレディ・ルッツを演じた女優キアラ・セトルがこの曲を歌う映像がyou tubeにアップされました。貴重な映像です。ご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=lWtOVl5Cv00

 この映像は、マイケル・グレイシー監督とキアラがトークするシーンから始まっています。当初、マイクの前に決して出ようとしなかったキアラに、マイケル監督は、「堂々とありのままでいようと歌っているんだから」と強く後押ししたようです。それでようやく、キアラは皆の前で美声を披露するようになったということが明かされています。

 「隠れてろ、お前など見たくない」、「消えろ、誰もお前など愛さない」というセリフに続いて、「でも、心の誇りは失わない」、「居場所はきっとあるはず」というセリフ。さらに、「言葉の刃で傷つけるなら」に続いて、「洪水を起こして溺れさせる」というセリフ。そして、「勇気がある、傷もある、ありのままでいる」に続いて、「これが私」(「This is Me」)というセリフでいったん、終わります。

 たとえ逆境にあっても、誇りは失わず、ありのままでいるのが「私」だと、繰り返し確認する姿勢が表現されています。まさに、「This is Me」なのです。

 キーフレーズ「This is Me」はその後、なんども繰り返され、次第に情感が高められていきます。「見られても怖くない、謝る必要もない」、「心に弾を受け続けた」、「でも、撃ち返す」、「恥も跳ね返す」というふうに、使われるフレーズも次第に強くなっていきます。そのたびに声のトーンがあがり、ボリュームもあがっていきます。

 そのようなクレッシェンド効果が最高になったとき、「私たちは戦士」、「戦うために姿を変えた」というフレーズに移り、彼らの状況認識が変わっていったことが示されます。もちろん、そうはいっても、「心の誇りは失わず」、「居場所はあるはず」というフレーズは組み込まれています。彼らを心理的に支えるフレーズを通して、‘待ち’の姿勢が示されており、「輝く私たちのために」という希望が、彼らを支える拠り所になっていることが強調されます。

 一連のフレーズを通して、彼らがバーナムのショービジネスに参加することによって、肯定的に自分を捉えられるように変化していったことを把握することができます。

■危機を跳ね返すバーナムのアイデア
 興行師とパフォーマーたちが一体化したこのショービジネスは、各地で喝采を浴びました。バーナムはようやく、子どものころから夢に見続けた成功を手にします。ところが、富を手にし、有名にはなりましたが、所詮、成り上がり者でしかありません。バーナムが成功するにともない、非難の目を向ける人々も増えていきます。それは、地域の近隣住民であり、社交界であり、劇場評論家でした。彼らは成り上がり者のバーナムや家族を非難し、排除しようとします。

 そのような動きは、子どもたちのコミュニティでも例外ではありませんでした。バレーを習っているバーナムの娘はのけ者にされ、バレーを辞めたいと言い出す始末です。興行主としてビジネスの成功を追い続けていたバーナムに試練が訪れます。

 アイデアマンのバーナムは、彼なりの方法でこの危機を切り抜けます。

 成り上がりに必要なものは権威付けです。パートナーの伝手で、女王との面会を果たし、メンバーとともに出席したその席で、バーナムは著名なオペラ歌手と出会います。もちろん、彼はこの機会を逃しません。機を見て、彼女との公演の約束を取り付けてしまいます。

 そして、上流階級を対象にした公演もまた、大成功を収めます。

こちら →
(http://www.imdb.com/title/tt1485796/mediaviewer/rm2318162944より。図をクリックすると、拡大します)

 清楚で美しく、限りなく上品なオペラ歌手ジェニー・リンドは、気難しい上流階級の人々はもちろん、バーナムを非難し続けてきた劇場評論家さえ虜にしてしまいます。

 またしても、バーナムは危機を乗り越え、いよいよ成功の頂点に上りつめていきます。支えてきたのは、有能なパートナーのフィリップ・カーライルであり、努力の積み重ねで、圧巻のパフォーマンスを披露するメンバーたちでした。

■パフォーマンス、そして、芸と舞台技術
 それでは、メンバーたちのパフォーマンスを見てみることにしましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=abo9ULUk0ok

 「This is Me」の場合、どのように振り付けられ、パフォーマーたちによってダイナミックに演じられていったのか、上記の映像を見るとよくわかります。迫力あるシーンは、最先端の振付師によって効果的に振り付けられ、「This is Me」のフレーズが印象に残るように工夫されていたのです。

 もちろん、メンバーの芸や舞台技術もすばらしいものでした。たとえば、次のようなシーンがあります。

こちら →
(https://www.bustle.com/p/is-the-greatest-showman-a-broadway-musical-the-movie-takes-cues-from-both-stage-screen-7670795より。図をクリックすると、拡大します)

 これは、事業パートナーのフィリップ・カーライルとメンバーのアニーとの出会いのシーンです。アニーが空中から舞い降りてきて、カーライルの心を射止める情景が、幻想的に美しく表現されています。まるで妖精のようなアニーが、空中で浮かんだままポーズを取るための身体機能、舞台技術、それを華麗に見せるための照明技術、そして、優雅な雰囲気を保ったままポーズを維持するための芸、それぞれがマッチしているからこそ、このシーンが見事に輝いて見えるのです。

■作品評価
 私はこの作品を素晴らしいと思いましたが、どうやら米国の批評家たちの評価は違っていたようです。『VULTURE』(2018年2月13日)によると、『Rotten Tomatoes』では、批評家レビュー203のうち、55%が支持し、45%が不支持だったそうで、平均評価は10点中6点でした。また、『Metacritic』では、批評家レビュー43の平均点は100点中、48点でした。

 批評家からの評価が低く、興行一週間の成績が悪ければ、その後、興行的に成功しようがありません。

こちら →
http://www.vulture.com/2018/02/the-sneaky-slow-burn-success-of-the-greatest-showman.html

 上記にまとめられているように、当初、批評家からの評価が低く、公開後3日間の収益はわずか800万ドルだったそうです。ところが、実際に映画を見た観客の評価がよく、SNSや口コミで広がった結果、公開2週目の週末には1550万ドル、3週目の週末は1380万ドルと上昇しました。

 そこで、Box Office MOJOを見てみると、2018年3月19日時点のデータで、米国内の興行収入は169,836,171ドル、海外収入は229,414,675ドルで、総計399,250,846ドルでした。米国内が42.5%、海外が57.5%という構成比です。製作費が8400万ドルですから、この時点で製作費の4倍以上の収益をあげていることになります。

 19世紀の、それほど著名でもない米興行師を取り上げた伝記ミュージカル作品としては、上出来の数字ではないかと私は思います。21世紀の観客に見てもらうために、製作陣がどれほどの努力を傾けたのか、考えてみるのも一興でしょう。

 まず、批評家の評価が芳しくなかったということ、これは公開第一週の興行収入に大きく影響しますし、その後の展開をも左右します。ですから、批評家の評価を高くするのが、製作陣営の戦略のはずですが、それが機能しなかったということになります。

 たしかに、扱っている人物が19世紀のあまり名の知られていない興行師ですし、ストーリーもハリウッドでは当たり前の成功譚です。しかも、結末があまりパっとしません。

 終盤にかけてのバーナムは、火事で劇場が焼失し、財政困難に陥ります。どうなることかとハラハラさせられますが、事業パートナーのカーライルの支援で劇団そのものは再建させることができました。興行も野外にテントを張って再開することができ、大成功を収めました。いってみれば、クライマックスです。

 その後、バーナムはショービジネスをパートナーのカーライルに譲り、自分は家族の元に戻るという展開です。それまでに妻が実家に帰ってしまうという伏線が敷かれていたとはいえ、この結末は事業欲の塊のようだったバーナムの姿とはマッチしません。

こちら →
(http://www.brandiconimage.com/2018/01/golden-globes-2018-full-list-of-winners.htmlより)

 人物像として一貫性に欠け、安易な結末に走ってしまっています。そんなところが、批評家から辛く評価された原因なのかもしれません。あるいは、ストーリーがハリウッドの定石通りで、新鮮味がなく、訴求ポイントが見当たらなかったところが原因だったのかもしれません。いずれにせよ、批評家としては持ち上げる材料に欠ける作品だったのでしょう。

 ところが、観客主導で、この作品は次第に評価を得ていきます。

■人類の祝祭、そして、賛歌
 さて、これまで見てきたように、批評家たちはこの作品を肯定的に評価しませんでした。ところが、実際にこの映画を見た観客がSNSや口コミでこの映画の良さを拡散していきます。結果として、ヒットにつながっていくわけですが、なぜ、観客は批評家たちと違って、この映画を肯定的に捉えたのでしょうか。

 それに関連すると思われる興味深い記事を見つけました。この記事によれば、アカデミー賞授賞式でキアラが歌った「This is Me」の圧倒的なパフォーマンスに共演者、ブロードウェイが続々と絶賛コメントを寄せているというのです。

こちら →http://front-row.jp/_ct/17151729

 この曲は第90回アカデミー賞歌曲賞にノミネートされましたが、残念ながら、受賞はしませんでした。それでも、多くのヒトがツィートしたり、SNSから賛辞を送ったりしたといいます。この曲こそ、映画「グレーテスト・ショーマン」を成功に導いたといえるでしょう。それでは、この曲が観客の心をぐいと鷲づかみにした理由は一体、なんだったのでしょうか。

 おそらく、「This is Me」には多様なヒトへの賛歌が込められていたからではないかと思います。興行師バーナムが提供したフリークショーに、観客は人類の祝祭への賛歌を感じたでしょうし、翻って、自分自身への賛歌を感じたからかもしれません。ヒトが、何事も恐れることなく、恥じることなく、誇りを抱いて生きていくことへの賛歌を、この映画に感じられたからではないかと思います。音楽とパフォーマンスが素晴らしく、久々に身も心も弾む映画を見た思いがしました。(2018/3/21 香取淳子)

NHK文研フォーラム2018:「メディアの新地図」に何を見たか。

■NHK文研フォーラム2018の開催
 3月7日から9日にかけて、NHK放送文化研究所主催のシンポジウムが開催されました。

こちら →http://www.nhk.or.jp/bunken/forum/2018/pdf/bunken_forum_2018.pdf

 私は時間の都合で、3月7日のセクションA「欧米メディアのマルチプラットフォーム展開」にしか出席できませんでしたが、総じて、充実した内容だったと思います。

 このセクションでは、アメリカから招聘した二人のゲストによるメディアの現状報告、そして、NHK研究員によるイギリスメディアの現状報告が行われました。とくに、アメリカメディアの担当者、お二人のスピーチが、私には興味深く思われました。

 一人はメレディス・アートリー氏(CNNデジタルワールドワイド上席副社長兼編集長)で、もう一人は、エリック・ウォルフ氏(PBSテクノロジー戦略担当副社長)です。民間のメディア組織(CNN)と公共のメディア組織(PBS)をパネリストとして選ばれたのはとても良かったと思います。しかも、お二人には、テクノロジーの変化を重視し、組織改編を行ってきたという点で共通性がありました。

 今回は、お二人のスピーチに触発されて、私も帰宅してからいろいろ調べてみました。その結果、激動する「メディアの新地図」の中になにかしら見えてくるものがありました。まだぼんやりとしているのですが、そのことについて書いてみようと思います。

■マルチプラットフォーム展開は不可避か?
 2017年3月29日、コロンビアジャーナリズムレビューに、「The Platform Press: How Silicon Valley reengineered journalism」というタイトルの論文が発表されました。

こちら →
https://www.cjr.org/tow_center_reports/platform-press-how-silicon-valley-reengineered-journalism.php

 これは、コロンビア大学大学院ジャーナリズム学教授のEmily Bell氏とブリティッシュコロンビア大学デジタルメディア学准教授のTaylor Owen氏による共同執筆の論考です。

 冒頭、ソーシャルメディアのプラットフォームとIT企業が、アメリカのジャーナリズムにかつてないほどの影響力を行使するようになっていると記述されています。2016年の米大統領選でSNSの威力を見せつけられましたが、どうやら、その後さらに、FacebookやSnapchat、Google、Twitterなどのソーシャルメディアが勢いを増しているようです。

 いまや、コンテンツを配信するという役割を超えて、視聴者が何を見るか、誰を登場させれば彼らの注意を引くのか、どんな様式、形態のジャーナリズムが勢いを持つのか、といったようなことまで、SNSのプラットフォームがコントロールするようになっているというのです。

 まさに、論文のタイトル「The Platform Press」通り、プラットフォームこそがメディアになってしまっているのが現状だといえそうです。だとすれば、既存メディアがマルチプラットフォーム対策を取らざるをえなくなっているのも当然のことでしょう。14のニュース組織を調査したところ、それぞれ、多様なプラットフォームを活用していることが判明しました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://www.cjr.org/tow_center_reports/platform-press-how-silicon-valley-reengineered-journalism.php より)

 今回、パネリストとして登壇されたCNNの場合、上記の表にあるように、21のプラットフォームを活用しています。そして、PBSは、この表にはありませんが、9のプラットフォームを展開しています。

 このような現状について論文では、視聴者が情報入手手段として、モバイルメディアやソーシャルメディアにシフトしてしまったため、ニュース組織は選択の余地もなく、これに従わざるをえないと指摘しています。

 この表を見ると、一見、多様で競争的なマルチプラットフォームの選択肢が示されているように見えます。ところが、実は、Facebook、Instagram、WhatsAppなどはすべてFacebookが所有する会社なのです。

 たとえば、Facebookは2012年4月9日、Instagramを買収しています。

こちら →https://japan.cnet.com/print/35016064/

 また、Facebookは2014年2月、WhatsAppも買収しています。

こちら →http://gigazine.net/news/20140220-facebook-buy-whatsapp/

 当然のことながら、FacebookやGoogleはニュースのアクセスにもっとも影響力を行使するようになります。

 視聴者モニター会社Parse.lyによる2016年末の調査では、Facebook経由でニュースサイトを閲覧したものは45%にのぼり、Googleは31%だったと報告されています。マルチプラットフォーム主導でニュースが閲覧される状況が現実のものになっているのです。

 さらに、メディア会社が利用者とつながるには利用者を深く理解することが必要になりますが、そのためには刻々と入手できるデータこそ何よりも重要だとParse.lyのCEOはいいます。(下記URLをクリックし、ホーム画面の「Watch our CEO talk data」をクリックするとCEOのトークページに移動します。)

こちら →https://www.parse.ly/

 利用者がコンテンツの何にどれだけ注目しているか、どの段階で、そのコンテンツから離れたのか、等々について分刻みの情報を得ることができます。その仕組みの一端はParse.ly社のHPのビデオで紹介されています。


(図をクリックすると、拡大します)

 驚きました。コンテンツは、利用者が密接なつながりを感じられるように各種、詳細なデータに基づき、制作されているのです。

 以上が、上記の論文に基づいて関連情報をチェックし、概観してみたアメリカメディアの現状です。

 それでは、お二人の見解をみていくことにしましょう。

■エリック・ウォルフ氏(PBSテクノロジー戦略担当副社長)の見解
 PBSでIT領域を担当してきたウォルフ氏は、まず、デジタル・ファースト時代の放送はコンピュータサイエンスを基盤に展開せざるを得ないという見解を示します。当初、データ主導でコンテンツ制作をするというウォルフ氏にはやや違和感を覚えましたが、さきほどの論文で明らかにされたようなメディア状況下では、当然のことなのかもしれないと思うようになりました。

 SNSやIT会社を通して上がってくる膨大なデータを前にすれば、利用者についての各種データに基づいてコンテンツ制作を展開せざるをえないでしょう。コンテンツ制作にサイエンスが不可欠の状況が訪れているのです。

 ウォルフ氏はこのような現状を踏まえ、2019年に創立50周年を迎えるPBSは、マルチプラットフォームに向けてメディア組織自体を変革し、企業風土そのものも変えていく必要があるといいます。

 さて、2017年5月1日に開催されたNAB(National Association of Broadcasters)大会でウォルフ氏は、2017年1月にPBSはマルチプラットフォームを開始し、24時間放送のPBS KidsをOTT準拠のデジタルマルチ放送で提供していることを報告しています。

さらに、デジタルチャンネルにはHTML5で構築されたインタラクティブゲームも用意し、若年層の取り込みに尽力していることを報告しています。

こちら →
http://www.etcentric.org/nab-2017-nextgen-tv-will-bring-innovation-new-revenues/

 新たに立ち上げたというPBS Kidsをチェックしてみました。

こちら →http://pbskids.org/

 これは、アメリカ国内でしか見ることはできませんが、いつでも、どこでも、利用できるデバイスによって、コンテンツを享受できるヒトが増えるとすれば、公共放送であるPBSの使命を果たしたことになります。

■メレディス・アートリー氏(CNNデジタルワールドワイド上席副社長兼編集長)の見解
 CNNに入社以来8年、デジタルワールドワイドの運営、そして、編集長として400人ものデジタルジャーナリストを抱えるアートリー氏は、メディア会社にとってマルチプラットフォーム戦略は不可欠だという見解を示します。そして、図を示しながら、CNNがどのようなマルチプラットフォーム戦略を展開しているかを説明してくれました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。
https://www.cjr.org/tow_center_reports/platform-press-how-silicon-valley-reengineered-journalism.php より)

 アートリー氏は、メディア会社にとって利用できる選択肢がいまや、きわめて複合的になっている現状を指摘します。

 CNNを基盤に見た場合、そのもっとも内側の円に、CNN Desktop(Sept 1995)、CNN Mobile Web(Feb 1999)、CNN Mobile Apps(Sept 2009)、CNNgo(Jun 2014)など、CNNが所有するプラットフォームを配しています。これらがCNNのメディア組織のコアを形成しています。

 その次のレイヤーには、YouTube、Android TV、Apple TV、Amazon Fire TV、Rokuなど、映像プラットフォームを配しています(この図にはありませんが、2017年7月にSamsungが加わりました)。

 そして、その次のレイヤーにSNSを配しています。Facebook Live、Facebook Instant Articles、Facebook Messenger、Facebook News Feed、Instagram、Instagram Stories、Twitter、Twitter Moments、LINE、Snapchat、Snapchat Discover、Kikなど。これを見て、気づくのは、Facebook関連企業が多いことです。

 外周を形成しているのが、新規サービスおよび既存プラットフォームにはないサービスを提供するプラットフォームです。これは、Samsungが提供するWatch、Edge、VR、Bixbyの4サービス、Appleが提供するWatch、Newsの2サービス、Googleが提供するAMP、Newstand、VR Day Dream、Home、AMP Storiesの5サービス、Amazonが提供するEcho、Showの2サービスで構成されています。

 現時点では、上図にあったOculus Riftがなくなり、新たに、SamsungのBixby(2017年8月)、GoogleのAMP Stories(2018年2月)、AmazonのShow(2017年6月)が加わっています。このようにサービス内容によって適宜、プラットフォームを入れ替えしているようですが、ここで気づくのは、Googleが提供するサービス利用の多さです。

■マルチプラットフォーム展開で重要なのは何なのか
 さて、上図で示した各プラットフォームはレイヤーごとに色分けされています。それぞれ、どのコンテンツをいつ、どのように提供するかを決定するのが重要だとアートレイ氏はいいます。決定に際しては、たった一人で行う場合もあれば、チームで決定することもあるようです。内容と状況によってこれも適宜、迅速に判断されているのでしょう。

 CNNのマルチプラットフォーム展開をざっとみてきました。コントロールしやすいか否か、機能が有効か否か、拡張性があるか否か、等々で弁別されているように思えました。ます、コア部分をCNNが所有する陣営で運営し、それ以外はレイヤーごとに機能分担させていること、コアの次に、映像プラットフォーム、その次に、SNSプラットフォーム、そして、外周に新規プラットフォームを配するという戦略でした。

 これについてアートレイ氏は、視聴者がさまざまなら、プラットフォームもさまざまCNNとしては、幅広く着実にコンテンツ配信ができるようにしていると説明しています。コア部分を取り巻くように、レイヤーで区分けしたマルチプラットフォームを周到に張り巡らし、視聴者をくまなくつなぎとめていく戦略に新たな時代の到来を感じさせられます。

 それでは、マルチプラットフォームの展開に際し、何が重要になってくるのでしょうか。

 アートレイ氏は、5つの教訓を教えてくれました。すなわち、①コントロールできることとできないことを知る、②薄く、手広くやりすぎない、③有能なスタッフを雇用し、育成し、迅速に対応する、④新しいパートナーやプラットフォームに対する成功戦略を決める、⑤最初にやる必要はない、等々。

 とくに印象深かったのが、①自社がコントロールできることとできないことをしっかりと把握する、という教訓でした。この教訓は、Facebookがアルゴリズムを変えたことから得たものだとアートレイ氏はいいます。

 Facebookにとってはアルゴリズムを変えなければならなかったのでしょうが、CNNにとってはそうではありません。この一件から、自社がコントロールできるプラットフォームを持つことが重要だと悟ったというのです。プラットフォームに対するアートレイ氏の考えがよくわかる教訓でした。

■メディアの新地図に向けて
 帰宅してから、ネットをみていると、興味深い記事がみつかりました。2018年1月17日付け「DIGIDAY」の記事で、アートレイ氏に対するインタビューが載っていました。タイトルは「CNN’s Meredith Artley : ‘We don’t put all of our eggs in the Facebook basket’」というものでした。

こちら →
https://digiday.com/podcast/cnns-meredith-artley-dont-put-eggs-facebook-basket/

 ここでアートレイ氏は、「バランスの取れたポートフォリオを持つことが必要だ」と述べています。まさにタイトル通り、いくら有益だといってもFacebookに依存しすぎないよう、プラットフォームの構成にはバランスを考慮する必要があるというのです。

 さきほどの図を見てもわかるように、CNNはニュース配信に際し、さまざまなプラットフォームと提携していることが明らかです。とくに、気になったのが、Facebookとの結びつきの強さでした。

 アートレイ氏はこれについて、「Facebookはとても重要だ。Facebook Watchと提携すると、4分以上CNNを視聴する人が200万人から300万人に増えた。我々はこのことに重大な関心を寄せているが、かといって、Facebookというバスケットに我々の卵をすべて入れるようなことはしない」といっています。ユビキタス環境を提供し、視聴者増加に寄与してくれるFacebookはとても重要だが、それに頼り切ることは危険だというのです。

 一方、PBSのウォルフ氏も、マルチプラットフォームは重要だという認識を示します。2019年には設立50周年を迎えるので、マルチプラットフォームの充実に向けてメディア組織の改革を図らないといけないともいいます。

 ただ、PBSはオンラインでコンテンツを提供しながらも、軸足は放送に置いているようです。ウォルフ氏は、あらゆるヒトにコンテンツを届けるのがPBSの使命なので、まずは、ヒトが繋がりたいと思うコンテンツを制作し、次に、配信チャンネルを考えるというのです。そして、何よりも重視するのが、人々からの信頼だといいます。

 帰宅してから、ネットで調べてみると、PBSは2018年2月5日、「TechConAgenda 2018」という報告書を刊行していました。

こちら →
http://pbs.bento.storage.s3.amazonaws.com/hostedbento-prod/filer_public/TechCon%202018/Agenda%20items%20-%202018/TechConAgenda2018.pdf

 興味深いことに、目次に「closed captioning」の項目がありました。公共放送だからでしょうか、アクセシビリティへの目配りが感じられます。

 ここで議論のポイントとして提示されたのが、コンテンツに字幕をつけることのメリットは何か、ウェブにどう対応させるのか、あらゆるチームサイズ、あらゆる価格帯でのツールとオプションはどのようなものか、FCC規制の変更に先んじることができるのか、アーカイブは急速な変化への対応に寄与するのか、小規模なチームとして働きやすい組織システムはどのようなものか、等々でした。

 マルチプラットフォーム展開を考えていくなら、この点も考えていく必要があるでしょう。ありとあらゆる視聴者に向けてコンテンツを配信するのが使命だというなら、なおのこと、デバイスの違いを超えて、字幕をどうするのかも考えていく必要があるでしょう。

 テクノロジー主導でいま、テレビを見るということ自体に大きな揺らぎが見られるようになっています。電車の中でもイヤホンをつけ、スマホでテレビを見ているヒトを多く見かけるようになりました。いつでも、どこでも、デバイスを超えてコンテンツが配信されるようになっていることが実感されます。

 CNNとPBSのお二人を招いてのシンポジウムは充実しており、現在のメディア状況を考える上で、大変、有意義でした。お二人の話を聞いていると、ユビキタス環境が一段と整備されてきたように思えます。アメリカのメディア状況を通して「メディアの新地図」を見た思いがします。

 コンテンツの配信が、いつでも、どこでも、誰にでも、届けることができるようになった環境下でいったい何が重要になるのか、視聴者の側も改めて、考えていく必要がありそうです。(2018/3/10 香取淳子)

拡大するアニメ市場、いま必要なものは何か。

■「放送文化基金研究報告会2018」への参加
 2018年3月2日、ホテルルポール麹町の2F「サファイア」で、「放送文化基金研究報告会2018」が開催されました。報告は2件、①技術開発部門で平成27年度助成を受けた藤田欣裕氏(愛媛大学大学院理工学研究科教授)、②人文社会・文化部門で平成26,27年度助成を受けた小泉真理子氏(京都精華大学マンガ学部准教授)のお二人でした。

 私は小泉氏の発表に興味がありましたので、第2の報告「日本アニメーション現地化の現状と課題 ~文化ビジネスの発展のために~」が始まるころから出席しました。小泉氏の発表時間は20分でしたが、パワーポイントを使ってわかりやすく調査研究の報告をされました。

■ローカライゼーションの現状と課題
 小泉氏はまず、図を示しながら、これまで文化と経済は別物であったという認識を示されました。

 たとえば、伝統実演芸術、美術館などは経済的な自立が困難で、政府などからの資金援助がなければ存続できません。文化を経済として語ることはできなかったのです。ところが、映画や放送番組、ゲームのように、複製技術による商業化が可能になると、文化も経済的に自立することができます。こうして、いまや、文化は産業の一つのセクターとして位置づけられるようになっています。その一つが海外で人気の高い日本のアニメ産業です。

 小泉氏は、1990年から2010年までの日経平均株価の推移とアニメ産業の市場規模の推移を比較し、日本経済が低迷していた時期でも、日本のアニメ産業の市場規模は拡大し続けたと指摘されました。実体経済に左右されずに収益を得ることができるのがアニメ産業だというわけです。

 ところが、日本のアニメは海外で高い人気を誇っていながら、それに応じた収益を上げるに至っていません。そこで、小泉氏は、「コンテンツビジネスのフレームワークを提示すること」を目的に、ローカライゼーションの現状を把握することに着手されました。

 日本アニメのビジネス環境を整備するため、まずは、ローカライゼーションの現状と課題を明らかにし、日本アニメの輸出に必要なコンテンツビジネスのフレームワークを提示するというのです。米国を事例に、関係者へのインタビュー、関連映像の視聴分析、関連データの分析等々を踏まえ、実態把握が行われました。

 その結果、①ローカライゼーション体制としては、1.全世界を視野に入れた効率的なローカライゼーション体制の構築、2.制作段階からローカライゼーションを視野に入れた手法の確立、②ローカライゼーションのための改変としては、1.ストーリーを理解するための字幕や吹き替え、2.文化の違いによる摩擦を回避するための改変、3.作品の質を高めるための改変、③ローカライゼーションにおける留意点としては、1.オリジナル作品の魅力を維持する配慮が必要、等々が示されました。

 そして、今後のローカライゼーション研究に期待するとともに、的確なローカライゼーションを踏まえたビジネス基盤の整備に向けた努力が必要だと結んでいます。とても有意義な研究内容だと思いました。

 以上、概略をご紹介しただけですので、詳細をお知りになりたい場合、下記をご参照ください。

*****
小泉真理子、「コンテンツのローカライゼーション・フレームワークに関する研究―米国の日本アニメビジネスを基にー」、『文化経済学』第14巻第2号、2017年9月。
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 小泉氏の報告に興味を覚え、帰宅してから、ちょっと調べてみました。日本動画協会の2017年版報告書によると、小泉氏が調査されたころに比べ、日本のアニメ市場は、海外市場で大幅に売り上げを伸ばしていました。

■日本アニメ、海外市場の拡大
 「アニメ産業レポート2017」を読むと、2016年のアニメ産業市場は4年連続で売上を更新しており、前年比109.9%も上昇していました。総額はなんと2兆9億円、2兆円を突破していたのです。

 そこで、アニメ市場をジャンル別でみると、前年比で増加したのが、「映画、配信、音楽、海外、ライブエンタテイメント」の5つです。それに反し、減少したのが、「TV、ビデオ、商品化権、遊興」の4つでした。とても興味深い結果です。

 この結果を見ただけで、アニメの領域でも、明らかにメディアの新旧交代が起こっていることがわかります。

 そこで、過去4年間の売上推移を国内、国外でみると、国内市場は、1.19兆円(2013年)、1.30兆円(2014年)、1.24兆円(2015年)、1.23兆円(2016年)でした。それほど大きな変化はありません。

 一方、海外市場は、2823億円(2013年)、3265億円(2014年)、5823億円(2015年)、7676億円(2016年)といった具合で、大きく伸びているのがわかります。明らかに、海外市場が牽引する格好で、日本アニメの市場規模が拡大していたのです。

 メディアもこのことを大きく報じました。以下は、FNNニュースの一画面です。

こちら →
(http://www.sekainohatemade.com/archives/52003より。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、さらに興味深いことがわかります。総売上に占める金額でもっとも多いのが、海外での売上で7676億円、以下、アニメグッズの5627億円、その他の2829億円、パチンコ・パチスロの2818億円、そして、テレビ局番組の1059億円の順でした。国内のさまざまなアニメ関連ジャンルの売上よりもはるかに海外売上の方が多いのです。これを見ても、海外市場の拡大によって、日本アニメ市場が拡大していることを確認することができます。

 具体例を見てみることにしましょう。

■テレビ東京の場合
 アニメに力を入れているテレビ東京の場合、2017年第3四半期のアニメ事業売上は前年同期比24.2%増の128億円、そのうち粗利益は20.0%増の47億円でした。

こちら →
(http://gamebiz.jp/?p=177948より。図をクリックすると、拡大します)

 テレビ東京によると、アニメ事業については、前年度国内で好調だった「妖怪ウォッチ」の商品化の取り扱いが減少する一方で、海外市場で、「NARUTO」と「BEACH」が、いずれもゲームや配信で売上が増加したといいます。

 テレビ東京の直近のデータを見ても、海外市場と新媒体でアニメ市場が拡大していることがわかります。こうしてみてくると、海外市場をさらに拡大していくには、ローカライゼーション体制の整備だけではなく、新メディアに向けた迅速な対応が求められていることがわかります。

 日本動画協会は、今後アニメビジネスを成長させるエンジンとして、スマートフォンを中心に展開されているアプリゲームだという認識を示しています。実際、「ドラゴンボールZ ドッカンバトル」は中国向けにローカライズされて大きくヒットしたといいます。

 何もアニメに限りません。きめ細かなスマートフォン対策はどの領域でも不可欠になってくるでしょうし、巨大な市場である中国に向けたローカライゼーションも考えていく必要があるでしょう。

■拡大するアニメ市場、いま、何が求められているのか。
さて、2017年10月24日、「アニメ産業市場規模初めて2兆円超え」というニュースについて、慶應義塾大学大学院教授の中村伊知哉氏は、以下のようにコメントしています。

「2兆円届きました!10%の拡大。このうちTV・映画・DVDなど国内コンテンツはわずか3000億円。海外が32%増の7700億円となり、政策の後押しもあっての海外シフトが鮮明になりました。グッズなどの商品化ビジネスも5800億円。アニメはコンテンツ「を」売るから、コンテンツ「で」稼ぐビジネスになっています。」
(https://newspicks.com/news/2577790/より)

 たしかに、2013年から2015年にかけては、ジャパン・コンテンツ ローカライズ&プロモーション支援助成金」(略称:J-LOP)はそれなりの役割を果たしてきたと思います。

海外展開に必要な 「ローカライズ」(字幕や吹替えなど)や「プロモーション」(国際見本市への出展やPRイベント実施など)への支援等に助成金が出されてきました。実際、アニメ関連でも事業者がこの制度の支援を得ていることがわかります。

こちら →https://www.vipo.or.jp/j-lop-case/

 ですから、日本アニメの海外市場拡大についてもなんらかの影響があったのかもしれません。ただ、このページをざっと見た限り、「ドラえもん」など、既存アニメに依存している傾向が感じられます。

 すでにコアな日本アニメファンが世界中に散らばっているのだとすれば、既存コンテンツの新規市場の開拓よりもむしろ、新規コンテンツの開発を目指す必要があるのではないかと思いました。

 日本アニメの海外市場が拡大しているいまこそ、魅力的なコンテンツを継続的に提供していくために、いま、何が必要なのか、考えていく必要があるのではないかと思いました。そのためには、日本アニメのどの側面が海外市場で支持されているのか、ファン層別、国別、文化圏別に、さらにきめ細かな研究が必要になってくるでしょう。(2018/3/4 香取淳子)

光と陰影が紡ぎだす世界:奥田善章氏の作品、そして、近藤オリガ氏の作品

■第81回新制作展受賞作家展
 2018年2月1日、久しぶりに銀座に出かけたついでに、ミキモトG2に隣接するビル9Fの「INOAC 銀座並木通りギャラリー」に立ち寄ってみました。何気なく入ってみたのですが、「第81回新制作展受賞作家展」が開催されていました。開催期間は2018年1月25日から2月2日まで、ちょうど、最終日の前日でした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 画廊に一歩、足を踏み入れた途端、目を奪われた作品があります。一つは第81回新制作展で受賞された奥田善章氏の作品、もう一つは、新制作協会に今回、新たに会員になられた近藤オリガ氏の作品です。いずれも表現スタイルが独特で、惹きつけられました。

 まず、今回の受賞作家、奥田善章氏の作品からみていくことにしましょう。

■受賞作家、奥田善章氏の作品
 意表を突かれたのが、この作品です。

こちら →
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 滅多に見かけないほど豊満な女性が、大きなキャンバスからはみ出さんばかりに描かれています。垂れ下がった胸の下には巨大な三段腹、その下には膨らんだ腿とドッジボールのような膝が二つ、どれもスカートを突き破りそうなほどの肉塊です。

 膝が二つとも外向きに描かれているのもご愛敬です。そうでもしなければ、腿肉に邪魔されて脚をまっすぐ向けることができないでしょう。滑稽感を誘う表現です。

 もちろん、これほど太った身体では脚を組むことなどできません。そのままではだらしなく開いてしまう両膝を、この女性は踵をひっかけるようにしてかろうじて組み、それ以上の広がりを抑えています。その踵といい、足の甲といい、やはり肉が大きく盛り上がっています。

 上半身から下半身にかけて、ぶざまなまでの巨大な肉塊です。それらを次々と見てきたせいか、肉付きのいい踵、足首、足の甲、足指などを見ても、もはや驚きようがありません。これほどの巨体を支える両足がむしろ健気で、とても可愛く思えてしまいます。不思議なモチーフでした。

■中年女性、それとも・・・?
 どんなものであれ、極端なものはヒトに滑稽感を抱かせがちです。この作品も、度を超した肥満がまずは滑稽感を誘います。ところが、しげしげと見ているうちに、私は、なんともいえない親しみと温もりを感じさせられていきました。ともすれば醜悪に見えかねない肥満、あるいは、滑稽にしか見えない肥満が、しばらく見ているうちに、心温まるふくよかさへと、肥満したモチーフに対する見方が変わっていったのです。

 なぜなのでしょうか。

 一つには、モチーフの表情が大きく影響していた可能性があります。このモチーフは、光源に向けて顔を傾け、目を閉じ、口を半開きにしています。肉付きのいい顔や身体の左側が白っぽく描かれており、左上方から明るい光が射し込んできているのがわかります。明度からいえば、かなり強い陽射しです。

 当然のことながら、眩しく感じるはずなのに、この女性は能天気にも、すやすやと眠っています。あまりにも無防備で無邪気な姿勢に驚かされてしまいます。

 その無頓着さ、あっけらかんとしたおおらかさを見ていると、次第に気持ちが緩んでいくのを感じます。現代社会を生きるヒトなら誰しも持っている他者への警戒心を、この女性はいとも簡単に解除させてしまうのです。警戒心が解かれるとともに、当初は滑稽に思えた肥満が、心温まるふくよかさへと認識に変化が起きていきました。

 一方、女性の手の表情は意外なほど、繊細で優雅です。ウエスト辺りから手を下に垂らしているのですが、不思議なことに、脱力しているようには見えません。だらしなく太った身体には不釣り合いなほど、手の甲の形状や指の置き方に気配りが見られ、優雅に描かれているのです。むしろ気取って、シナを作っているようにすら見えます。

 そのナイーブな繊細さに私はふと、乙女心を感じさせられました。姿態からは、羞恥心をなくした中年女性のように見えるのですが、手の表現からは、初心で夢見がちな少女を感じさせられたのです。

 そして、人差し指に絡めた蔦の葉のようなものが、薬指、小指を経て、腕に巻き付いたまま、後ろの茂みにつながっています。この蔦の茎の先で、誰かとつながっているのではないかと、ロマンティックな想像すらかき立てられます。

■光と陰影がもたらす、心温まる優しさ
 蔦の葉に誘導されて、モチーフの背後に目を向けると、周囲には精緻に描かれたさまざまな植物が配されています。女性は、レンガでできたベンチのようなものに腰かけていますから、きっと庭の一隅なのでしょう。よく見ると、このモチーフの足元には猫が潜んでいて、警戒の目をこちらに向けています。まるで、無防備な女主人を守っているかのようです。離れてみると、ここに猫を配することによって、メインモチーフに対立する観念(警戒)を添えることができ、この作品に深みを与えていることがわかります。

 それにしても、面白い画面構成です。メインモチーフの選択や形状、配置に大胆さがみられる一方、その周辺、あるいは背景の事物は精緻で繊細なタッチで描かれています。画面の中で大胆さと精緻さが拮抗しているのです。

 さらに、ボールペンの特性を活かし、光の微妙な射し加減が丁寧に精緻に描かれています。そのせいか、着色もされていないのに、色彩を感じさせられますし、厚みや温もりを感じさせられます。髪の毛や葉陰、身体各部の陰影もまた仔細に描かれていますから、湿度や気温さえも感じられます。まるで画面に描かれたすべてのものが生き生きと呼吸し、身の丈にあった生き方をしているかのように見えます。

残念ながら、この作品のタイトルはわかりません。せっかく撮影を許可されたというのに、タイトル部分を撮り損ねてしまいました。サイズは大きく、100号以上だったような気がします。

この作者の別の作品も展示されていました。

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 こちらもタイトル部分を撮り損ねてしまいました。叢の中に鳥が潜んでいます。丸みを帯びた頬と嘴、目の形状が特徴的です。この鳥もまた、さきほどの太った女性のように、その形状がどことなくユーモラスで愛嬌があります。

 さらに、こんな作品もありました。

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 こちらはタイトルが写っていました。「森で夢を見る」です。タヌキが叢から顔をだしています。はたして、どんな夢を見ているのでしょうか。このタヌキの顔の各部に丸みがあり、その表情もどこか滑稽で、温かさがあります。

■奥田作品から透けて見えるヒューマニティ
 会場に展示されていた奥田作品は、3作品でしたが、いくつか共通性がありました。まず、太った女性はもちろんのこと、鳥にしても、タヌキにしても、メインモチーフの形状はいずれも丸みを帯びていていることです。この丸みが画面全体にユーモラスな情緒と、何事も包み込むような優しさを醸し出していました。

 次に、メインモチーフの周囲には精緻な筆致でさまざまな植物が描かれており、リアリティを添えていたことがあげられます。肥満女性を描いた作品では、画面いっぱいに描かれたメインモチーフの選択とその描き方に大胆さが見られる一方、それを支える背景がきわめて繊細で緻密に処理されていました。そこにコントラストの妙がありました。

 なぜ、この作品が気になったのか、そして、惹きつけられていったのかを考えていて、ふと思い出したのがAIDMA理論です。AIDMA(Attention, Interest, Desire, Memory, Action)理論は、古典的な広告理論です。

 会場には作品がいくつも展示されていたのですが、まず、目についたのがこの作品でした。なぜかといえば、画面いっぱいに描かれた巨体が圧巻でしたし、ボールペンで精緻に描かれた光と陰影の関係が絶妙だったのです。良しあしではなく、美醜でもなく、まず、作品の特異性に注意を引き付けられたのです。

興味を抱き、もっと知りたいと思ってこの作品をじっくり見はじめました。そのうちに、この作品の意表を突かれる特異性が、いつのまにか、好ましさに変化していったのです。光の射し込み具合、モチーフへの柔らかな当たり具合が丁寧に、緻密に表現されています。そこに、作者のモチーフに対する温かい思いが感じられるようになったのです。

 一見、現代社会からは置き去りにされそうなモチーフをメインに置きながら、射し込む光とその陰影を精緻に描くことによってリアリティが添えられ、そして、得難いヒューマニティを感じさせられるのです。この絵の前に立つと、温かな幸福感が満ち溢れてくるような気がしてきます。とても味わい深い作品でした。

■新会員、近藤オリガ氏の作品
 もう一つ、会場で印象に残った作品があります。近藤オリガ氏の作品です。

 会場でいただいたパンフレットを見ると、ベラルーシ生まれの近藤オリガ氏は、2007年に来日し、2008年に新制作展に初入選して以来、さまざまな賞を受賞しています。2013年第1回損保ジャパン美術展FACE2013年優秀賞、2017年第2回アートオリンピア入賞、などです。新制作展では第75回と第78回に新作家賞を受賞しています。このような来歴を踏まえ、今回、新会員に推挙されたようです。

 さて、会場で気になったのは、少年を描いた作品でした。

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 残念ながら、こちらもタイトル部分を撮り損ねてしまいました。

 タブレットのようなものを手にした少年が描かれています。まだ10代にもならない少年なのに、全体に哀感が漂っています。あるいは、哀愁とでもいえばいいのでしょうか、ここに存在するのに、心はここにはない・・・、とでもいえるような雰囲気です。とても気になりました。

■光とその陰影が生み出す哀切感
 印象づけられたのは、光と陰影で独特の哀切感が表現されていることでした。

 背後と側面から射し込む光で少年が捉えられています。うつむいた少年の耳と顔の左側面に強い光が当たり、この少年の存在を際立たせています。いったい、何を思っているのでしょうか、この少年の顔の表情はよくわかりませんが、深く考え込んでいる様子です。

 動き回り、はしゃぎ回っているのが、大方の少年だとすれば、この少年はその一般的なイメージから大きく外れています。まるで老成した大人のように沈思黙考し、ひっそりと一人佇んでいます。その風情が気になるのです。少年というモチーフの一般的なイメージと相反するような思慮深さ、そして、描かれた少年を取り巻く情景の深淵さに深く引き込まれていきます。

 色彩が極度に抑制され、射し込む光とそれが織りなす陰影によって、現実社会にはない深遠な世界が描き出されているといえるでしょう。

 こんな作品もあります。

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 こちらはタイトルが写っています。「レモンのある風景」です。

 レモンの皮を前景に、皮を剥きかけたレモンを中景に置き、背景に海と空を描いた作品です。たしかに、タイトル通り「レモンのある風景」ですが、この作品にもそこはかとない哀愁が漂っています。色彩のせいでしょうか、それとも、モチーフのせいでしょうか。ヒトの世の無常を感じさせる哀切感が漂っているのです。

 紅葉した木の葉を描いた作品もあります。

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 この作品のタイトルは、「秋」です。たった一枚の葉ですが、ここにも深い哀切感が漂っています。春には早緑色だった葉も夏には濃い緑色になり、秋になれば、紅葉し、落葉していく、ヒトの人生も同様、衰退に向かって生きているということが感じさせられます。

 秋は収穫の季節であり、成熟の時期でもありますが、一方で、衰退に向かい始める時期でもあるのです。この作品を見ていると、普段は思いもしない、哀切の感情がかき立てられます。誕生して成長し、成熟を迎えた後は衰退していかざるをえない悲しみを思い出させられるのです。

 さらに、こんな作品もありました。

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 タイトルは「貝と海」です。大きな貝殻が海と空を背景に描かれています。夕方なのでしょうか、空も海も暗いのに、画面の半ばあたりで、白い雲がたなびき、砂浜も白く光っています。現実にはありえない光景なのでしょうが、素晴らしい画力によってリアリティを感じさせられます。貝殻の内側の微妙な色彩表現が巧みで美しく、惹きつけられます。

■光と陰影が紡ぎだす作品世界
 たまたま訪れた画廊で、印象に残る作家に出会いました。一人は第81回新制作展で受賞された奥田善章氏、そして、もう一人はこのたび新会員に推挙された近藤オリガ氏です。画廊に入ってすぐ印象づけられたのが、このお二人の作品でした。画風は大幅に異なるのですが、このお二人は光とその陰影にとてもセンシティブだという点で共通していました。

 奥田氏は、ボールペンによる線の組み合わせで、ユーモラスな印象をどこかに残しながら、しっかりとヒューマニティ溢れる作品を手掛けておられました。

 一方、オリガ氏は、油絵ならではの強さと深淵さを込めた画面構成が際立っていました。少年にしても、レモン、木の葉、貝殻にしても、モチーフはなんであれ、ヒトの心に深く訴えかけてくる画風が印象的でした。

 お二人の作品を見ていて、改めて、光とその陰影が織りなす光景の素晴らしさを発見させられた思いがします。今後のご活躍に期待したいと思います。(2018/2/28 香取淳子)

第15回アジア創造美術展:張暁文氏「満洲魂」に見る創作衝動の源泉

■「第15回アジア創造美術展」の開催
 2018年1月24日から2月5日まで、国立新美術館で「第15回アジア創造美術展2018」が開催されました。今回は日中友好を記念して開催されたせいか、日本、中国、韓国、スイス、ポーランドなどから300点余の作品、さらに、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、バングラデシュから子どもたちの作品も展示されていました。まさに「アジア創造美術展」の名の通り、多様性に満ちた創造空間が、他の会場にはない雰囲気を醸し出していました。

 私が訪れたのは最終日でしたが、会場に足を踏み入れると、正面に自由闊達な創造空間が広がっており、異彩を放っていました。

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 まず、目の前に広げられている掛布団のようなものに驚かされます。何かと思って近づいてみると、巨大な白い紙の上に墨汁の濃淡で表現された作品世界が広がっていました。書といえばいいのでしょうか、あるいは墨絵といえばいいのでしょうか。入口のところでまず意表を突かれたのは、濱崎道子氏の作品でした。造形の新領域への挑戦が際立っていました。「胎動」というタイトルがつけられています。

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 根元が太く濃く、力強く上に伸びていく墨の勢いが勇壮で、印象的です。その合間を縫うように、かすれた線、小さな面がバランスを崩すように配置されています。そのせいか、作品全体に微妙な動きが生み出されています。しかも、その下には奇妙な膨らみがあり、そこから何かが新たに立ち上がっていくような気配が感じられます。まさに「胎動」です。

 二次元の世界に三次元の要素が組み入れられた濱崎氏の作品を見ていると、束の間、子ども心を取り戻したような気になります。歳月を経て、硬直化しパターン化してしまった思考の回路に、失われていた柔軟性が蘇ってくるような思いがしました。

■遊び心満載の会場
 さきほどの写真でいえば、会場正面の右上に、歩くヒトの影絵が掲示されています。これが、回り込んでみると、「アジア創造美術展」の幕の左側になります。

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 気になって、会場スタッフに尋ねると、これは亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の作品でした。通常の作品が展示されているラインよりもやや高いところに、さり気なく掲げられており、入口だけではなく随所に展示されていましたから、この影絵がまるで観客を誘導していくガイドのように見えました。

 この影絵もまた、観客の奥深く沈潜していた子ども心を蘇らせてくれます。しかも、これが会場のあちこちに配置されていますから、この影絵を通して、個々の展示作品が有機的に繋がっていくような効果がみられます。とても斬新な仕掛けだと思いました。

 観客は会場の展示作品を見ているうちに、忘れていた童心を思い起こし、日常から解放されていきます。やがて、絵画を素直に鑑賞できる柔軟な心を取り戻していくのです。そればかりではありません。この影絵の存在によって、作品と観客とが童心で結ばれ、それらが会場全体に有機的に繋がり合って、一体化していくように思えました。すばらしいアイデアです。

 書の展示も一風、変わっていました。まるで積木を積み上げたような趣があります。遊び心満載の展示を見て、気持ちが緩みます。

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 このような仕掛けを見ていると、パターン化された日常生活の中で、ともすれば自分を見失いがちになっていることに気づかされます。その一方で、会場にいるだけで、自由奔放な気持ちを取り戻せそうな気持にもなっていきます。

 形を超え、色を超え、表現の次元を超えて飛翔する創造者の集団だからこそ提供できる、居心地の良さを感じました。諸作品を見ていくうちに、私は次第に気持ちが解放され、豊かに広がっていく思いがしました。

 そんな中、気になった作品があります。会場に入ってすぐのコーナーに展示されていた作品です。タイトルは「満洲魂」、張暁文氏の作品でした。後でわかったことですが、張暁文氏はさきほど紹介した亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の奥様で、同会の副会長でした。

 作品サイズが大きいわけではなく、モチーフが目立つわけでもなく、遠目に映える作品でもありませんが、目にした途端、妙に気になったのです。この作品には、気持ちの奥深く、訴えかけてくる何かがありました。

 それでは、詳しく見ていくことにしましょう。

■張暁文氏の「満洲魂」
 この作品は、藍色を基調にした作品を中央に置き、その周囲に、紅色を基調にした作品4つが取り囲む格好で構成されています。離れてみると、5枚のキャンバスの配置が十字架のようにも見えます。このような展示構成のせいでしょうか、それとも色彩のせいでしょうか、見ているうちに、不思議に感情がかき立てられていきます。

こちら →
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 近づいて見ると、左右、下に配置された紅色基調の作品には何やら文字が書かれています。漢字でもなければアルファベットでもなく、見たこともない文字です。タイトルに「満洲魂」とありますから、ひょっとしたら満洲文字なのかもしれません。

 しげしげと見入っていると、作者の張暁文氏が近づいて来られたので、尋ねてみました。やはり、満洲文字でした。紅色基調の4枚のキャンバスのうち、上の絵は門を示しているのだそうです。そう言われてみれば、丸い図形のようなものはドアのノッカーに見えます。どういうわけか、これには文字は書かれていません。

こちら →

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 張氏は、この絵に「家」あるいは「故郷」という意味を託したといいます。

 一方、形状の違うぼんぼりのような灯りが描かれた左、右、下の絵、そして、真ん中に置かれた藍色の絵には、それぞれ満洲文字が添えられています。いったい、どのような意味が込められているのでしょうか。ふたたび、張氏に尋ねてみました。

■絵に添えられた満洲文字
 まず、左側の絵からみていくことにしましょう。

こちら →

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 右側に蓮のつぼみのような形状の紅色のぼんぼりがレイアウトされ、その左側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「高揚民族精神」、「振興満洲族文化」という意味なのだそうです。

 これと似たような形状のぼんぼりが描かれているのが、右側に置かれた絵です。

こちら →

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 こちらは、左側にぼんぼりが置かれ、右側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「満洲文字の歴史を鑑とする」「平和を祈る」という意味だそうです。

 2枚の絵はメインの絵を挟んで配置されています。両方ともぼんぼりが描かれているせいか、まるで左大臣と右大臣のように、紅色の絵が両側から、藍色の絵をしっかりと守る役割を担っているように見えます。

 さて、下の絵にも満洲文字が書かれています。

こちら →

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 張氏によれば、これらは、「尊重」、「重視」、「起源」という意味だそうです。左右の絵に比べて文字数が少ないことを考え合わせれば、文字が添えられていない上の絵に対応して構成されているのかもしれません。そういえば、描かれているぼんぼりも、左右の絵とは形状や色が異なります。この絵のぼんぼりが白色だということは、上の絵のノッカーの白色に対応させたものともいえます。

 そして、真ん中には藍色基調のキャンバスがレイアウトされています。

こちら →

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 ここにも文字が書かれています。張氏によると、「千年に一度、出会う奇跡」、「良書良友」、「永遠の平和」という意味だそうです。

■満洲語から読み解く「満洲魂」
 それでは、満洲語で書かれた文字からこの作品のメッセージを私なりに推測し、読み解いてみることにしましょう。

 まず、メインの藍色の絵の満洲文字からは、素晴らしい書や友に支えられていれば(「良書良友」)、「千年に一度、起こるような奇跡」に出会い、「永遠の平和」が訪れる、ということが示唆されています。これは作者の究極の願望であり、創作の目的でもあるのでしょう。

 ところで、このメインメッセージは4枚の紅色の絵で取り囲まれています。そのうち3枚には満洲文字が書かれていますから、それらを読み解いていけば、おそらく、私の拙い解釈を補ってくれるはずです。上から順にみていくことにしましょう。

 上の絵に文字はなく、ドアのノッカーが二つ描かれているだけです。張氏はこの絵について、「家」、「故郷」を示したといいます。ヒトが依って立つ基盤である「家」、そして、家を包み込む「故郷」です。この作品の発想の原点がここにあるような気がします。自分のアイデンティティを生み出し、支えてくれるのが、「家」(家庭)であり、故郷だという思いが込められています。

 さきほどもいいましたように、この絵と視覚構造的に対になっているのが、下の絵です。そこに書かれている満洲文字は、「尊重」、「重視」、「起源」でした。これを上の絵と関連づけて解釈するとすれば、ヒトの「起源」は家あるいは故郷にあるからこそ、家や故郷を尊重し、重視していかなければならない、と言っているように思えます。つまり、ここではヒトとして生きていくための心構えが説かれているのです。

 そして、左の絵に書かれているのが、「高揚民族精神」、「振興満洲文化」でした。ヒトが依って立つ基盤である家や故郷を存続させるためには、共通の価値基盤である文化を維持し振興していく必要があるということなのでしょう。すなわち、民族の精神を高揚することであり、張氏にとっては満洲文化を振興していくことになります。

 この絵と対になっているのが、右の絵です。ここに書かれているのが、「満洲文字、歴史を鑑とする」、「平和を祈願する」でした。これを左の絵と関連づけて解釈するとすれば、民族精神を高揚させ、満洲文化を振興するには、満洲文字や歴史を鑑とし、平和を祈願して生活し、生きていかなければならないと説いているといえます。

 こうしてみてくると、作品に文字が添えられていることに、二つの効用があるように思えます。私には判読できませんが、流れるような満洲文字が添えられていることによって、視覚的な興趣があります。そして、満洲文字の意味を理解すれば、さらに作品の深みが増すという効用です。

 一般に、日本では絵に文字を添えることをあまりしません。それだけに、私はこの絵に文字が添えられていることに興味をそそられました。調べてみると、中国では絵に文字を書き込むことはよくあるようです。

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中国では「書画同源」ということがしばしばいわれます。中国の文人にとって、書(文字)と絵画とは、絹(または紙)、墨、筆という同じ道具を使って制作する「線の芸術」であり、文人画家は書の筆法で墨竹、墨梅などの絵画を制作したそうです。近代以前の中国では「美術」に相当する語は「書画」でした。(Weblioより)
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「書画同源」という言葉があるぐらいですから、絵に文字を添えるという発想はごく自然なことなのでしょう。「満洲魂」を見ていると、満洲語が添えられていることによって、作品のメッセージ性がより鮮明に打ち出されていると思いました。

■紅色と藍色で表現された世界
 張氏の「満洲魂」は、紅色で制作された4枚の絵と、藍色で制作されたメインの絵で構成されていました。離れてみると、まるで十字架のようにもみえるユニークな画面構成が印象的です。

 赤といっても、元気、陽気、快活を象徴する色合いではなく、暖かさ、温もり、穏やかさを感じさせる落ち着いた紅色です。また、青といっても、澄み渡った晴天を連想させる蒼ではなく、底知れぬ海の深さを連想させる藍色です。一般的な中国人がお祝いの席で使う赤とも少し違うような気がしますし、内モンゴルなど北方の中国人が好む晴天の青とも異なります。

 紅色にしても藍色にしても、この作品で使われている色にはくすみがあります。そのせいか、5枚のキャンバスのすべてから、程度の差はあれ、そこはかとない哀愁を感じさせられます。それが、この作品の魅力の一つになっています。

 それにしても、なぜ、色彩を紅色と藍色に絞り込んでモチーフを表現しているのでしょうか。張氏に尋ねてみました。

 張氏は若いころ、宮廷画を勉強してきたそうです。宮廷画は、彩色が豊かで緻密な画風が特徴です。ところが、それでは自分らしさを表現できないと思い、今の画風になっていったといいます。さまざまな色を使えば、多くのことを表現できますが、逆に、いいたいことを明確に伝えることは難しいと張氏はいうのです。

 宮廷画の経験から、張氏は、シンプルにした方がメッセージを強く伝えられるという考えにたどり着いたようです。その結果、現在では、青と赤と基調に、差し色として何か一色、つまり、二色か三色でモチーフを表現するというスタイルに落ち着きました。

 そういえば、中国語に丹青という語があります。これは赤と青を指し、転じて絵具、彩色、絵画を指す言葉のようです。日本語でも、「丹青の妙を尽くす」とか、「丹青の技に長じる」という使われ方をしています。赤と青という色(丹青)は中国人にとって色彩の基本ですし、「丹青」という言葉は日本でも使われていたようです。

■「満洲魂」に込められたメッセージ
 さて、「満洲魂」のメインの絵は藍色基調で構成されていました。そのせいか、しっとりとした落ち着きがあり、どことなく悲しさも感じられました。その一方で、藍色の濃淡で表現されたモチーフには荒々しさも感じられます。不思議なことに、静の感情と動の感情が同時にかき立てられるのです。私は、この多様な感情を喚起する藍色の力に興味を覚えました。

 もちろん、色彩はモチーフと密接に関連しています。

 空さえも覆ってしまうほどの怒涛の海の波間に、よく見ると、右下に嫋やかな女性が顔をのぞかせています。荒々しい海の片隅でひっそりと姿を見せる女性、ここに、動と静、そして、強と弱が表現されています。このコントラストを私は面白いと思いました。

 絵柄から、私は勝手に海と思ってしまったのですが、作者はひっとしたら、時代の潮流を表現したかったのかもしれません。だとすれば、打ち寄せては砕ける波の狭間で、もがくわけでもなく、騒ぐわけでもなく、しっかりと前方を見つめている女性は、嫋やかさの中にしなやかさと芯の強さを併せ持つ存在として表現されているといえるでしょう。

 張氏はこの女性について、満州族の女性を表現したといいます。そう言われて、よく見ると、女性の頭上には大きな髪飾りが描かれています。このような髪飾りを、私は清朝の宮廷ドラマで、女性が着用しているのを見たことがあります。清朝の女性、すなわち、満州族の女性です。

 ネットで調べてみると、満州族の上流家庭の女性はこのような髪飾りをつけ、そこに宝石などの装飾品を縫い付けていたようです。

こちら →
(http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/101223/fuuzoku09.htmlより)

 こうしてみてくると、満洲文字といい、モチーフに添えられた髪飾りといい、明らかに満洲文化とわかるものが絵の中に取り入れられていることがわかります。タイトル通り、「満洲魂」が表現されているのです。

 そして、これまで説明してきたように、メインの絵を取り囲む紅色基調の4枚の絵には、満洲民族にとっての満洲文化の意義が謳われています。

■創作衝動を支えるもの
 張氏は繰り返し、満洲文化を絵の中に取り入れていきたいといいます。それは、自分が依って立つ基盤である民族の精神がなくなると、自分を見失ってしまうからだというのです。

 今回のアジア創造美術展は、日中友好を記念して開催されました。ですから、中国メディアからも取材を受けたようです。ネットで見ると、いくつか取材記事が載っていました。とくに私が興味を覚えたのは、满族文化网の記事でした。

こちら →http://www.sohu.com/a/220126409_115482

 これを読むと、張暁文氏が満洲族の女性であること、両親が「正黄旗」の出身であることなどがわかります。「正黄旗」とは、「鑲黄旗」、「正白旗」と並ぶ上位の貴族です。

 張氏は子どものころは祖母の家で過ごすことが多く、そこで、満洲族の礼儀や伝統文化を身につけたといいます。さまざまな満洲族の生活用品や書画を目にする中で、当然のことながら、宮廷画にも馴染んでいたのでしょう。

 幼いころから絵が好きだったこともあって、張氏は画家を目指し、中国美術学院で学んでいます。当初は宮廷画を学んでいたそうですが、自分のスタイルを創り上げるため、いまの画風に変化させていったようです。

 こうした来歴をみても、張氏の創作衝動の源泉が満洲文化そのものにあることがわかります。「満洲魂」の中で如実に表現されていたように、自分が依って立つ満洲文化を伝え、維持していくために、絵を描いているともいえるでしょう。

 絵は端的にメッセージを伝えることができますし、見る者にさまざまな感情を喚起することもできます。「満洲魂」にひっそりと描かれた女性のように、張氏には、これからも強くしたたかに、満洲文化を振興していっていただきたいと思いました。

 第15回アジア創造美術展で諸作品を鑑賞し、自由な表現の中にこそ、ヒトを感動させる力が潜んでいることを思い知りました。改めて、表現方法をさまざまに模索していくことの大切さを感じました。張氏の作品をはじめ、見ごたえのある作品が多いと思ったのは、この展覧会には自由な創造の軌跡そのものが展示されていたからかもしれません。(2018/2/21 香取淳子)

AI時代のジャーナリズムに何が必要なのか

■「これからのジャーナリズムを考えよう」シンポの開催
 2018年1月29日、東京大学安田講堂で「これからのジャーナリズムを考えよう」というタイトルのシンポジウムが開催されました。日本経済新聞社、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院、東京大学大学院情報学環の主催によるもので、学生を含め、約580人が参加しました。

こちら →https://events.nikkei.co.jp/894/

 日経新聞社社長のあいさつに続き、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院長のスティーブ・コル氏による基調講演が行われました。タイトルは、「フェイクユース時代における報道の自由」というものです。

 コル氏は昨今のメディア状況について、フェイクニュース、ポピュリズムが横行し、ジャーナリズムやジャーナリスト、編集者が脅威にさらされているという現状認識を示しました。そのうえで、ジャーナリズムを守ることは市民を守ることであり、すべてのヒトにメリットがあると述べました。

 次いで、英ファイナンシャル・タイムズ編集長のライオネル・バーバー氏による特別講演がありました。タイトルは、「2018年のFT:デジタル時代をダイナミックに、豊かに、かつ適切に」というものです。

 バーバー氏は、FTではいま、静かな変革が起こっているといいます。「digital first」をモットーに再スタートして以来、「守りに入ってはいけない、チャンスを捉え、戦いに挑む」という姿勢で組織を改編してきた結果、持続可能なプラットフォームができつつあるといいます。

 FTでは、言葉や画像だけではなく、動画、データなど新しいデジタルツールを取り込み、内容を深く掘り下げたニュースを提供しています。その結果、91万人もの有料読者を獲得できるようになりました。この数値は2008年と比べると2倍にも及び、過去最高だといいます。

 興味を覚え、ネットで検索してみると、2016年4月4日、東洋経済オンラインに、「FTの有料読者数、実は過去最大になっていた」というタイトルの記事が掲載されていました。

こちら →http://toyokeizai.net/articles/-/112270?page=2

 この記事では、有料読者数が増加したことの原因として、ニュースの提供方法、課金システムなどデジタル時代に適したものに改変したことの効果に力点が置かれています。グーグル、フェイスブック、ツイッターなどのユーザーがFTの記事にたどり着いた場合、その後も、FTの記事に触れる習慣ができるよう、課金方法に工夫が見られます。ですから、それも大きな要素だといえるでしょう。

 ソーシャルメディアからの効果的な誘導が有料読者数の増加につながったことは確かでしょうが、コンテンツの魅力も影響していることは当然です。FTは読者の傾向を分析し、適切なタイミングで適切なコンテンツを配信するよう工夫もしています。

 バーバー氏は読者が記事にどれだけ「engage」したかがもっとも重要だとし、どの記事をどれだけ時間をかけて読んでいるか、その記事を他人とシェアしているかを解析しているといいます。読者にとって価値ある内容を提供することで、FTを読む習慣を読者の生活スタイルの中に取り込めると考えているからです。

■デジタル時代におけるジャーナリズムの役割
 パネル討論の第一部は、「デジタル時代におけるジャーナリズムの役割」というタイトルの下で行われました。ここからは、パネリストとして、日経新聞専務取締役編集局長の長谷部剛氏、司会者として、東京大学情報学環教授の林香里氏が加わりました。

 長谷部氏はまず、メディア状況が日本と欧米とは大きく異なると指摘します。そして、部数が減っているとはいえ、日本ではまだ全世帯の7割が新聞を読んでおり、フェイクニュースもそれほど深刻ではないという認識を示しました。

とはいえ、デジタル化への対応は不可欠で、メディアとして読者に責任を果たすうえでも、digital firstにならざるをえないといいます。5Gになれば、さまざまなコンテンツを流せるようになります。そのための表現方法を開発しており、平昌オリンピックでVRコンテンツを公開予定だそうです。

そういえば、1月29日付の日経電子版で、カーリングのVRコンテンツを公開するという記事が載っていました。

こちら →http://dsquare.nikkei.com/concierge/service-campaign/vrvr.html

 これは、平昌オリンピックでのVRコンテンツ公開に向けた予行演習とでもいえるものなのでしょうか。スポーツ中継では臨場感のある映像こそ、オーディエンスを惹きつけ、虜にします。VR技術を使った映像を提供すれば、読者はさらに深く「engage」され、日経が提供するコンテンツを好むようになるでしょう。

 一方、コル氏は情報の構造が変化し、アルゴリズムがその源泉になっているという認識を示します。そして、ジャーナリズム教育に関わる者として何をすべきかと模索した結果、コンピューターサイエンスとセットでジャーナリズム教育を行うべきだという結論に達したといいます。

 実際、コル氏はフェイクニュースが横行するようになった社会状況下では、深く調査し、データの積み重ねによって事実に迫るデータジャーナリズムが重要だと指摘しています。

こちら →https://dc.alumni.columbia.edu/data_journalism_deancoll_20171018

 コル氏は大学に移籍するまでは著名な各紙で記者として活躍し、二度もピューリッツア賞を受賞しました。そのコル氏が、データを調査報道に生かすべきだというのです。そして、コロンビア大学大学院にデータジャーナリズムの修士課程を作りました。

こちら →https://journalism.columbia.edu/ms-data-journalism

 ジャーナリストを教育する機関もまた時代の動きに合わせ、デジタル対応を始めているのです。2027年、ジャーナリストはどのような生活を送っているのかを予想したドキュメントが発表されました。これを見ると、米コロンビア大学ジャーナリズム大学院がどれほどAI技術の影響を深刻に考えているかがわかります。

こちら →https://www.cjr.org/innovations/artificial-intelligence-journalism.php

 ここではAIとVRが同時に普及している社会状況下で取材するジャーナリストの生活シーンが紹介されています。10年後、どのような技術を身につけていないとジャーナリストとして生き残れないかが如実に示されています。

 さて、バーバー氏は、かつてジャーナリズムはソフトウエアを支配する側だったが、いまは、ソフトウエアがジャーナリズムを支配する側になっているという認識を示します。だからこそ、ジャーナリストにはこれまでと違うことをしてほしいといいます。

 SNSを通してジャーナリストではない人々が情報を自由に発信できるようになっています。バーバー氏はソーシャルメディアがいまは重要なニュース源になっており、ニュース配信をゆがんだものにしていると指摘しています。

 2017年11月14日、編集者会議に出席したバーバー氏は、フェイスブックとグーグルに広告市場が席巻されている一方で、新たな動きもあることに触れています。

こちら →
http://www.pressgazette.co.uk/ft-editor-lionel-barber-calls-on-deeply-flawed-social-media-networks-to-drop-the-pretence-they-are-not-media-companies/

 さて、バーバー氏は、FTではどのような記事も二つの独立した情報源がなければ記事として公開しないといいます。それは、有料でニュースを提供している組織としての責任があるからですが、信頼に足るジャーナリズムがあってこそ、民主主義が機能します。だからこそ、社会を守るためにも、我々のようなメディア組織が必要なのだというのです。

 林氏は、ニュースをSNSで読んでいる若者が多いという現状を踏まえ、SNSではパーソナルな出来事と同じラインでニュースが切り売りで入ってくる、これはジャーナリズムにとって危険ではないか、という質問を日英米のパネリストにぶつけました。

 長谷部氏は、昨秋の衆院選について調査したところ、安倍首相よりもリツィートの多かった一般人がいたことを明らかにしました。そのメッセージが「投票に行こう」というものだったことを踏まえ、ジャーナリズムの補完としてSNSをうまく仕込むことができるのではないかといいます。

 バーバー氏は、SNSについてジャーナリズム側は明確な態度を取る必要があるといいます。というのも、ジャーナリストはSNSのアカウントを持っており、ポスティングもしています。ですから、そこでの不用意な発言がFTと関連づけられ、FTの信頼を損ねる危険性があると指摘するのです。

 コル氏も同様、情報のスピードが速くなり、SNSが普及した現在、これまでよりはるかに過ちが大きく拡散する危険性があると指摘します。だから、自分でファクトチェックをし、誤りを発見するよう努めなければならないといいます。

■AI/デジタル技術をジャーナリズムの未来
 パネル討論第二部では、技術領域のパネリストが加わって、行われました。このセッションは、上記のコル氏、林氏の他に、東京大学情報学環教授の苗村健氏、日経新聞社常務執行役員の渡辺洋之氏、司会を担当した東京大学情報学環長の佐倉統氏によって展開されました。

 渡辺氏は日経新聞社では、「決算サマリー」、「日経Deep Ocean」「日経自動翻訳」「文章校正」「見出しの自動構成」「レコメンド」などにAIを使って対応していると現状を報告されました。知らないことばかりでしたので、大変、興味深く聞きました。

 まず、「決算サマリー」は、日経のAI記事プロジェクトチームが最初の応用分野として開発し実用化したもので、企業の決算発表です。日本国内の上場企業は約3600社ありますが、AIを活用した「決算サマリー」を使うことで、より早く、より多くの企業動向を伝えることができるといいます。

こちら →http://pr.nikkei.com/qreports-ai/

 これはAIによって自動生成できるシステムで、上場企業のほとんどに対応しているといいます。このシステムは東京大学の松尾研究室との共同開発です。

こちら →http://weblab.t.u-tokyo.ac.jp/project/nikkei/

 上記に示されているように、上場企業が定期的に発行する決算短信から、速報記事を自動で生成するアルゴリズムを日経の担当グループと東大の松尾研究室とが共同で研究・開発したものです。このようなAIによる自動生成システムがすでに実用化されていることを知って、私は驚きました。

 「日経Deep Ocean」も、渡辺氏の報告で初めて知りました。調べてみると、これは日経新聞社が2016年12月に発表した対話型応答エンジンでした。AIを活用し、経済や金融分野の質問に対して自動応答する機能があります。

こちら →http://deepocean.jp/

 顧客からの質問に答えることができますから、たとえば、証券会社の営業を支えるツールとして利用できるでしょう。仕組みとしては以下のようになります。

こちら →
(http://deepocean.jp/より。図をクリックすると、拡大します)

 AIを使えば、情報の収集量が格段に増えますし、それを整理するスピードも抜群に速くなります。膨大な量のデータを数理的に解析することによって、これまで気づかなかった発見があるかもしれません。その結果として、最終的にヒトが行う意思決定がこれまでに比べ、はるかに精緻なものになることは明らかでしょう。

 コル氏は、AIをツールとして調査報道に生かすとすれば、大量のデータから異常値を発見できることだといいます。たしかに、異常値があれば、そこになんらかの利害の相克がありそうだとヒトが判断することができます。取材し、調査するポイントを的確に発見できるというわけです。

 いま、世の中にはデジタル情報があふれかえっており、もはやヒトの手には負えませんが、このようなAIのサポートがあれば、問題の所在を探り当てることができるでしょう。社会に有益な調査報道のためのツールとして画期的なものになることは確かです。

■AI時代のジャーナリズムに何が必要なのか
 それでは、AI時代にジャーナリストに要求されるものは何なのでしょうか。

 渡辺氏は、これからのジャーナリストにはジャーナリズム教育を受け、その関連のテクノロジーを身につけた人材が必要だといいます。コル氏も苗村氏も林氏も同様です。AI時代のジャーナリストにはAIを使いこなすことが必須条件になってくるでしょう。

 一方、統計分析などの数理的素養だけではなく、幅広い素養もまた必要になってくるでしょう。データを数理的に分析し、細分化された情報を適切に読み解くための素養、つまり、社会、哲学、文学といった教養から育まれる全体観が欠かせなくなるからです。

 コル氏は、ジャーナリストには、AIを使いこなす力に加え、人間的な経験知、ジャーナリストとしての理解力が必要だといいます。そして、AIをどのように使うか、どのような局面で使うのか、倫理面で大きな課題があるといいます。

 これについて渡辺氏は、AIを個人情報がかかわる領域、あるいは、AIが暴走する可能性のある領域では使うべきではないといいます。あくまでもツールとして使うべきだといいます。大変、興味深い指摘でした。

 今回のシンポジウムに参加して、改めていま、大きな時代の変革期にいるのだと感じました。AIがジャーナリズムの領域にまで浸透しつつある現状を知って、従来のジャーナリズムにAIのどのような要素を補完的に取り込むことができるのか、考えざるを得ない状況にきていると思いました。先行する米コロンビア大学では大学院にデータジャーナリズムの修士課程を作りました。AI時代のニーズに応えた動きです。日経新聞のデジタルグループはさまざまな実験を試行し、次々とAIを駆使したシステムを構築しています。

 パネリストのお話を聞いていて、技術が急速に進歩しているいまだからこそ、全体観を養う上でも、歴史、哲学、文学、社会学といった文系の学問を連動させていく必要があると思いました。(2018/1/31 香取淳子)