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若草山

紀行2018:若草山で古を偲ぶ

 今年のゴールデンウィークは関西に行ってきました。久しぶりに奈良、京都を訪れ、日本文化の源流に触れて見たくなったのです。奈良と京都ではそれぞれ、現地のバスツアーに参加しました。

 まずは奈良から見ていくことにしましょう。

■新緑の若草山
 奈良観光バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。

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(奈良県公式ホームページより。図をクリックすると、拡大します)

 バスの車窓から見る木々の緑がまばゆいばかりでした。新緑が目にしみます。柔らかな緑色の葉先が風邪に揺らぎ、新しい生命の息吹をまき散らしていました。まさに早緑月です。久しぶりに春の輝きを目にし、なんともいえない幸福感が沸き立ってきました。

 若草山といえば子どものころ、祖母に連れられて来たことがあります。遠い記憶を探ってみると、やはり早緑の清々しさ、そして微かに、芝草の上に悠然と座っていた鹿の姿が思い浮かびます。

 「早緑」という言葉を知ったのも、ここでした。聞きなれない言葉でしたが、母から説明され、ようやく理解したことも思い出しました。柔らかく幼く、そして、未熟な緑色です。これが成長していくと、濃い緑色に変化していきます。

 木々が芽吹き始めた頃の葉の色が、「早緑」なのです。緑に「早」という言葉を加えるだけで、若さ、柔らかさ、幼さなどを表現しています。黄緑色ではなく、「早緑」としたところが興味深く、しばらく、子どものころの思い出に浸っていました。

 古の日本人は、芽吹いたばかりの葉の色を、単なる色のスケールとして捉え、表現しているわけではありませんでした。折々の葉の色の微妙な変化を見逃さず、そこに成長の痕跡を見出したのでしょう。「早」に成長の概念を込め、新緑の繊細な色合いを表現しようとしていたことがわかります。

 「早緑」という言葉には、ヒトの想像力を刺激する多様性、柔軟性、斬新さが感じられます。このようなネーミングに、かつての日本人が自然の移り変わりに合わせ、微かな変化も見逃さずに受け入れ、生きてきたプロセスを窺い知ることができます。自然と一体化した色彩の捉え方に惹かれます。

■三重目
 バスを降り、なだらかな斜面に沿って、若草山の頂上付近まで登ってくると、急に視界が大きく開けます。大きな木は見当たらず、芝草で覆われたなだらかな丘陵が不思議な安らぎを与えてくれます。辺り一帯に、柔らかく、優しく、静かに、そこを訪れたヒトを包み込んでくれる鷹揚さがありました。

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 調べてみると、若草山の開山期間は、春(3月15日から6月15日)と秋(9月13日から11月24日)に限られていました。それ以外の期間は芝草を保護するため、立ち入ることができないのです。ここは、いわば聖域でした。

 このことを知ってはじめて、ここを訪れたとき感じた不思議な安らぎの原因が理解できたような気がしました。この地域一帯は、ヒトに保護されながら、古の自然がいまなお生かされていた場所だったのです。脈々と続く自然の営みに、ヒトがそっと寄り添い見守ることで、その姿を保ち続けていることがわかります。

 さて、三重目と書かれた標識の下には眺望が広がっていました。遠くは靄のようなものでけぶって見えますが、ここに立つと、奈良盆地が一目で見渡せます。

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 ガイドの説明によると、ここの山はお椀を伏せたような形なので、「一重目」、「二重目」という数え方をするそうです。そういえば、富士山などは「一合目」「二合目」という数え方をします。不思議だなと思って調べてみました。

■三笠山と御蓋(みかさ)山
 若草山は、麓から見ると、一つの山にしか見えませんが、実は、笠を伏せたような形状の山が三段連なっています。ですから、一重、二重、三重という呼び方をしたのでしょう。笠が三段重なっているように見えるので、昔は「三笠山」といわれていたそうです。

 「三笠山」と聞いて、ふと、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という句を思い出しました。子どものころはお正月になると必ず、百人一首で遊んでいたので、この句はいまでもよく覚えています。

 「春日なる 三笠の山」と歌われていますから、芝草で覆われた、この山を指しているのでしょう。麓には春日大社があります。まさに、「春日にある三笠山」なのです。阿倍仲麻呂が詠んだ和歌で、『古今集』に載っています。

 「三笠の山」と書かれていることが多いので、この若草山と混同してしまいやすいのですが、ここで歌われていたのは「御蓋(みかさ)山」のようです。

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http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2011/tayori2306/manyou2306.htm

 どちらも春日にある隣同士の山なので、混同しやすいのは確かです。春日山原始林には若草山、御蓋(みかさ)山、高円山が連なっています。わかりやすいように単純表記された図を見つけましたので、ご紹介しましょう。

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(http://blog.narasaku.com/?eid=805755より。)

 丸く、なだらかな山並みを見ていると、思わず、気持ちがなごんでしまいます。遣唐使としてここから唐に渡った阿部仲麻呂が、望郷の思いに駆られてこの句を詠んだのもわかるような気がします。実際に登ってきてみると、確かに、この山にはヒトを受け入れる優しさがありました。

 さて、この若草山は、標高342m、広さ33haのなだらかな山です。頂上付近が三重目で、そこには鶯塚古墳があります。ここに来るまで、こんなところに古墳があるとは思いもしませんでした。

■鶯塚古墳
 三重目からさらに頂上に向かって登っていくと、史跡がありました。

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 近くにその案内板もありました。

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 これを見ると、鶯塚古墳は、全長103m、前方部の幅50m、後円部の径61mの前方後円墳だと書かれています。そして、二段築造の墳丘には葺石や埴輪があり、石製斧や内行花文鏡などが出土していたとも記されています。

 さらに、この案内板では、種々、説明した上で、四世紀末に丘陵頂部に築造された典型的な前期古墳だと断定されています。

 ところが、Wikipediaを見ると、「山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと考えられたこともあったが、滑石製品の採集で、この古墳については5世紀初頭まで時期が降るのではないかと考えられている」と書かれています。古墳周辺の出土品から判断すると、どうやら、この古墳が築造されたのは案内板に示されているより、もっと新しいようです。

 この古墳は1936年に国の史跡に指定されました。興味深いのは、清少納言の枕草子に、「うぐいすの陵(みささぎ)」と書かれているのがこの古墳だとされていることです。

 調べてみると、枕草子第十六段に「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ かしはぎのみささぎ あめのみささぎ」と書かれています。

 これだけだと何のことかわかりませんが、第一段の有名な一節、「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」を照らし合わせて考えてみると、御陵で素晴らしいのは、「鶯の陵、柏木の陵、・・・」といった具合に、読み解くことができます。

 枕草子の「・・・は」で始まる文章は、第一段と、第十段から第十九段まで続きます。いずれも、「・・・は」で示されたもので素晴らしいものが挙げられています。
 
 おそらく、枕草子が書かれた当時、御陵として素晴らしいのは「鶯の陵」だというイメージが共有されていたのでしょう。山頂の地形を利用して築造されたこの古墳の妙を愛でる当時の識者の感性を、私は興味深く思いました。

 初期古墳は山の麓か丘に築造されていたようです。後に、平野に作られるようになりましたから、長い間、この鶯古墳は前期古墳と考えられていました。ところが、出土品などから、その後、中期の古墳だと修正されました。

 ですから、枕草子が書かれた当時はまだ、鶯の古墳は古い時代の古墳と考えられていたのでしょう。「みささぎ(陵)は うぐいすのみささぎ」という評価の中に、古墳の中でも古いものを愛でる気持ち、規模の小さなものを愛おしむ気持ちを読み取ることができます。私には、平安時代の識者がとても身近な存在に思えてきました。

■鹿
 奈良公園一帯には鹿が多数、見かけました。ですから、この若草山の山頂に鹿がいたからといって、とくに驚くことはないのですが、この山頂付近にいる鹿にはどことなく悠然とした面持ちがありました。

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(図をクリックすると、拡大します)

 ヒトが来ても食べ物をねだるわけではなく、近づいて来て、ちょっかいをかけるわけでもありません。視線を向けることすらせず、泰然として座っていました。我関せずの姿勢がとても印象的でした。

 ガイドの話によると、山頂の鹿はここで生まれて、ここで死んでいくそうです。他の世界を知ることなく、この山頂だけを生活の場として生きるのです。そのようにして守られた環境の中で、代々、生を育んできたのでしょう。ビクともしない姿勢には毅然とした優雅ささえ感じられました。

 ホテルに戻って、テレビを見ていると、今年初めての鹿が誕生したというニュースが流れていました。

こちら →https://www.jiji.com/jc/movie?p=n000897

 鹿の出産のピークは5月中旬から6月にかけてで、毎年、250頭ほどが生まれるそうです。

■若草山で見た古の心
 奈良で参加した現地バスツアーの最後に訪れたのが、若草山でした。三重目付近の山頂には、古の日本人を感じさせるものがいくつかありました。しばらく佇んでいると、奈良時代にタイムスリップしたような気になってしまいました。

 若草山はヒトの入山が制限されています。そのせいか、若草山の頂上に立っていると、不思議な感覚が立ち上がってきます。かつてこの地で生きたヒトがとても身近に感じられるのです。ふとした瞬間に、彼らと同じ空気を吸い、同じ景色を見ているような錯覚を覚えてしまいます。

 連綿と続いていくもの、繊細で規模の小さいもの、そういうものを愛しむ気持ちこそが、自然を理解し、自然と調和し、共存していけるからではないか、そんな思いがふと、胸をよぎりました。

 若草山で見た、芝草で覆われた山肌、鹿、古墳史跡、いずれもどことなく穏やかで、ヒトを包み込む鷹揚さが見られました。そのせいでしょうか。若草山に、いっとき、古の心を見た思いがしたのです。(2018/5/10 香取淳子)