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21日

『FALL OUT』から『渚にて』再訪

■『渚にて』と『FALL OUT』
 2015年10月18日、東京大学駒場キャンパス 21KOMCEE East の2F、K212教室で、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』の上映会および討論会が開催されました。ちなみに、fall outとは放射性降下物を指します。

こちら →
http://www.australia.or.jp/repository/ajf/files/whatsnew/fallouttodai.jpg

 オーストラリア学会からこの知らせを受けたとき、私はぜひとも参加したいと思いました。『渚にて』をもう一度、考えてみる機会が欲しかったのです。実は中学2年生のころ、私はこの『渚にて』を見ています。担任の先生に引率されて映画館に見に行ったのですが、見終えてしばらく、人類は放射能汚染によって滅亡するのだという恐怖に捉われていました。この映画を見て、生まれてはじめて死を意識したことを思い出します。

 もちろん、人類が滅亡するといっても悲惨なシーンはどこにも出てきませんし、見た目の恐怖感もありません。むしろビーチで楽しむ人々の様子、とくにアンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルの出会いは微笑ましく、友だちと「いいね」と語り合っていたほどでした。

 ところが、その幸せだったカップルとその子どもがやがて安楽死に追い込まれていきます。放射性降下物の南下がメルボルンにまで及んできたからでした。幸せな生活から一気に絶望のどん底に突き落とされてしまうのです。

 当時、中学生だったせいか、私は、中年のグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーよりも、若いアンソニー・パーキンスが登場したシーンの方をよく覚えています。ですから、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーの関係にそれほど興味はなく、あまり覚えてもいなかったのですが、どうやら、この中年カップルの描き方を巡って原作者のネビル・シュートは、監督のスタンリー・クレイマーに強い不満を抱いていたようなのです。

 上映会で『FALL OUT』を見ると、シュートの娘が、「父はクレイマーが勝手にハリウッド風に変えたと怒っていた」と証言しています。シュートの作品ではそれまで登場人物が婚外交渉を持つよう設定されたことはなかったのだそうです。

 ところが、『渚にて』ではグレゴリー・ペックが演じる原子力潜水艦艦長の恋人役としてエヴァ・ガードナーが登場します。原作にはなかった変更ですが、このラブロマンスが人類滅亡のストーリーに華を添えていることは確かです。これについて、クレイマーの代弁者は「ハリウッドでやっていくにはあらゆる人を満足させなければならないから」と説明しています。

 娯楽映画にロマンスは付き物です。とくにハリウッド映画である限り、メッセージ性の高い社会派映画も決して例外ではありません。『渚にて』には婚姻外のラブロマンスが導入されました。DVDのジャケットを見ると、グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーが抱き合うシーンの写真が使われています。原作者がハリウッド風に変更されたと怒る箇所であり、監督が商業映画として成功するよう調整した箇所でもあります。

 このように、いま、紹介したことは、『FALL OUT』によって明らかにされる『渚にて』の舞台裏のほんの一例です。映画『渚にて』を見ただけではわからなかった当時の諸状況を、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』を見ることによって、より深く知ることができます。

 『FALL OUT』は、ローレンス・ジョンストン監督、ピーター・カウフマン製作によるドキュメンタリ―映画で、上映時間は86分です。映画『渚にて』(スタンレー・クレイマー監督、1959年製作)とその原作である小説『渚にて』(ネビル・シュート、1957年刊行)を題材に、関係者へのインタビューをつなぎ合わせて構成されています。

 18日のイベントはまず、ドキュメンタリー映画『FALL OUT』が上映され、その後、3人の登壇者によるコメントの発表という流れで進められました。

■若いカップルの役割
 『渚にて』には主人公の中年カップルと脇役の若いカップルが登場します。アメリカ原子力潜水艦艦長とその恋人、そして、オーストラリア海軍少佐とその妻、この二つのカップルです。オーストラリア海軍少佐は北半球からの不可解な電波を突き止めるため、この原子力潜水艦に乗り込んだという設定です。メインストーリーの展開には中年カップルがかかわり、サブストーリーを牽引する役割を担わされているのが、若いカップルです。

こちら →

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of "On the Beach" by Stanley KRAMER. 1959.

AUSTRALIA. 1959. From left to right, American actors Gregory PECK, Ava GARDNER, Donna ANDREWS, Anthony PERKINS during the filming of “On the Beach” by Stanley KRAMER. 1959.


http://www.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult&ALID=2K7O3R1PY8GQより。

 上の写真の4人にオーストラリア科学工業研究所の科学者を加えた5人が、放射性物質による人類滅亡のストーリーを展開させていきます。

 改めて『渚にて』を見直してみると、アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが演じた若いカップルが、実は重要な役割を果たしていることに気づきます。彼らはグレゴリー・ペックやエヴァ・ガードナーほど多く登場しているわけではありません。いわば脇役です。ところが、その脇役が一般視聴者の私たちにとても近いところに位置付けられており、この物語をしっかりと支えているのです。

 たとえば、二人が海岸で出会うシーンがあります。

こちら →On-Beach
http://www.cornel1801.com/video/On-Beach/ より。

 海岸で出会った二人は愛を育くむようになり、やがて子どもが生まれ、家庭を築き上げていく・・・、ごく普通の男女にみられる生活の一コマです。二人にとっては幸せの絶頂であり、決して忘れることのできない大切な思い出です。

 アンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンが安楽死の直前に思い起こすのもこの海岸での出会いでした。互いに愛を確認し、幸せな日々だったと感謝し合った後、ふと、妻のドナ・アンダーソンが「あの子、かわいそう」といい出します。愛を知らないまま、死んでいく運命にあるわが子を嘆いたのです。しかも、その死を自らが与えなければならないのです。

 このシーンでは核爆発の当事者ではないにもかかわらず、このような過酷な運命を受け入れざるをえないことの悲惨さが示されています。

 このように、映画『渚にて』ではラブロマンスが適度にちりばめられ、幸せそうに見える生活シーンが織り込まれていました。だからこそ、深刻なテーマの映画だったにもかかわらず、中学生の私は画面から目を背けることもなく真剣に見入っていたのでしょう。その結果として、ごく自然にこの映画が放ったメッセージを重く受け止めることができたのだと思います。

■強奪された自己決定権
 『FALL OUT』を見ると、原作者のシュートは安楽死についても、映画では米国風に美化していると批判していたといいます。ところが、中学生だった私は若いカップルが安楽死に至るシーンもよく覚えているのです。死を前にして静かに語り合うカップルの会話からは、無念さがひしひしと伝わってきたことを思い出します。見た目の悲惨さが描かれなかったからこそ、逆にメッセージを深く受け止めることができたといえます。

 安楽死のための錠剤を飲む直前に、二人が語り合うシーンをYou tubeで見つけました。4分27秒の映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=AIFvXc_iMiI
最初にCMが流れますので、スキップしてからご覧ください。

 ごく普通に暮らしていた若いカップルの生活が、突如、放射能汚染によって破壊されてしまいます。北半球から南下してきた放射性降下物によって、自分たちの命が奪われるばかりか、愛しいわが子を自分の手で殺めなければならないことを知ったとき、どれほど悔しく、理不尽で、無念な思いに苛まれたことでしょう。それら一切が、若いカップルの静かな語らいの中に見事に表現されています。

 ここにこの映画のメッセージの一端が凝縮されているような気がします。

 このシーンは、コバルト爆弾によって北半球が壊滅し、南下してきた放射性降下物のせいでついにはオーストラリアのメルボルンで暮らしている人々まで死を免れなくなってしまうという状況の一端です。ここで表現されているのは、時空を超えた破壊力を持つ放射性物質の恐さであり、当事者でなくても地球にいる限り、一蓮托生で被害を被ってしまうことの理不尽さです。

 さらに、安楽死を選択せざるをえなくなった若いカップルの姿からは、自己決定権を奪われてしまったことの無念さが浮き彫りにされています。若いカップルとその子どもはヒトの生命力の象徴といえます。その若いカップルと幼い子どもが安楽死に追い込まれていくのです。もはや子孫を残すことはできません。このシーンによって、人類そのもの死滅が表現されているのです。

 2011年3月11日に発生した福島の原発事故以後、ふとした拍子に、記憶の奥底に眠っていたこのシーンが思い出されるようになりました。

■登壇者のコメント
 『FALL OUT』上映後に、制作者のピーター・カウフマン氏、中央大学教授の中尾秀俊氏、法政大学講師の川口悠子氏によるコメントが発表されました。

 制作者のピーター・カウフマン氏は、『渚にて』を深く掘り下げたくてこのドキュメンタリーを制作したといわれました。たしかに、今回、『FALL OUT』を見て、当時の政治状況、ハリウッドの見解、オーストラリア政府の核への見解、英国から見たオーストラリア、当時の政治家の反応、等々がよくわかりました。小説や映画と合わせてこの作品を見ることで、さまざまな観点から核に対する理解が深まります。

 カウフマン氏は福島原発事故からこの作品を着想し、オーストラリアの放送局に企画を持ち込んだそうです。けれども、実現せず、スクリーン・オーストラリアの財政支援によってようやくこの長編ドキュメンタリーが完成したといいます。そして、2015年3月19日、この映画は被爆地広島で公開されました。

こちら →
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ircd/joho/ibent%20428%20(FALL%20OUT).pdf
 
 以後、3月25日に京都で公開され、東京での公開は10月18日に開催されたこのイベントがはじめてだそうです。

 中尾氏は、『渚にて』の政治的文化的背景について、資料を駆使して説明されました。興味深かったのは、アイゼンハワー大統領が原子力の平和利用を唱えた翌年、ビキニ環礁で核実験を行ったこと、ソ連が1961年に実施した核実験「ツァーリ・ボンバ」は世界最大級のもので、広島に投下された原爆の3300倍にも及ぶものであったこと、などです。冷戦時代、核兵器は拡大の一途を辿っていたことがわかります。

 『FALL OUT』を見ていると、当時の国際政治の状況、社会状況などがよく見えてきます。『渚にて』はクレイマー監督の戦略で、世界18都市で同時に公開されましたが、そのオープニングには世界の政治家、著名人が多数、鑑賞したそうです。冷戦時代だからこそ、いっそう現実味を帯びて核問題に関心がもたれたのでしょう。『渚にて』は大成功を収め、以後、国連で核軍縮が議論されるようになったそうです。

 さて、川口氏は原作を読んでまず、「そんな感じでいいの?と思った」といわれました。それは、死をめぐる表現、加害者不在の描き方、偶発性が強調されて責任が拡散、等々への違和感からくるものなのでしょう。川口氏が「清潔な死」と表現されたのを興味深く思いました。そして、そこに米国の核イメージの反映を見、広島・長崎の被爆との不連続性を見るところに、氏のシャープな洞察力をみた思いがします。

 さらに、川口氏は、「どの立場から記憶するのか」「何を記憶するのか」という観点を提示し、「認識ギャップを埋める対話の可能性」を強調されました。実際、原爆を体験することは不可能です。だからこそ、誰もが当事者であるという意識をもち、立場の違いからくる認識ギャップを埋めていく必要があるのかもしれません。

 終了後、登壇者の方々を撮影させていただきました。左から順に、中尾氏、カウフマン氏、川口氏です。

こちら →IMG_2328 (2)

■『FALL OUT』、当事者意識
 『FALL OUT』の冒頭のシーンで、「この頭上に核兵器が。地球に住めなくなる日がくる」というアメリカのケネディ大統領のスピーチが流れます。そして、「一般社会に核兵器が溢れてきた。数が増えれば滅亡に近づく」という言葉が続きます。米ソ冷戦下の当時、放射能汚染がきわめて身近だったことがわかります。

 その後、第三次世界大戦は起こらず、核兵器による放射能汚染も起こりませんでしたが、2011年3月11日、将来に禍根を残す原発事故が福島で発生しました。『渚にて』で放射性降下物の破壊力を警告されていたにもかかわらず、この原発事故によって日本は放射性物質の汚染に晒されたのです。その後の対応も適切なものではありませんでした。もちろん、汚染物質が降下したのは日本ばかりではありません。風向きによって汚染物資は3日から6日で米大陸にも届いたそうです。

 福島原発事故からの教訓は、核兵器だけではなく、原子力発電所もまた大きなリスクを抱えていることが判明したことです。福島の原発事故によって、平和利用であれ、産業利用であれ、核物質はいったん爆発すれば、空間的にも時間的にもその破壊力は果てしなく広がり、しかも持続することがわかりました。

 ところが、いま、世界を見渡せば、クリーンエネルギー源として原子力発電所が多数、建設されています。核兵器を所有する国も以前に比べはるかに増えています。いつの間にか、いつでも、だれでも、どこでも、放射性物質の被害者になりうる時代になってしまっているのです。いまこそ、当事者意識を抱いて核問題を考える必要があるのかもしれません。

 『FALL OUT』を製作したカウフマン氏は、両親から『渚にて』がメルボルンで撮影されたことを聞いて育ったそうです。当時のメルボルンにとってこの映画がどれほど重要な価値を持つものであったか、人々がどれほど熱狂してロケハンを迎え入れたか、等々。ですから、『渚にて』に関してカウフマン氏はいわば当事者意識を持っていたといえます。

 さらに、ウラン産出国の国民としての立場からもカウフマン氏は核問題に関心を抱かれているようでした。オーストラリアはウランを大量に産出し、世界中に販売しています。エネルギー源として利用されているのかもしれませんし、核兵器に使われているのかもしれません。いずれにしても、オーストラリアは核問題から逃れられないという認識の中に、カウフマン氏の当事者意識を垣間見ることができます。

 ドキュメンタリー作品の製作にはテーマに関する製作者の当事者意識が深く関与するのでしょう。『FALL OUT』では、マンハッタン計画は取り上げられていますが、広島、長崎の被爆者は取り上げられていませんでした。当事者意識は関心領域とも深くかかわっていますから、これは当然のことかもしれません。

 こうしてみると、視聴者、読者は、どのようなコンテンツにも文化的、政治的、社会的バイヤスがかかっているのだという前提で見たり、聞いたり、読んだりする必要がありそうです。論議を呼ぶようなコンテンツについてはとくに、どの立場から製作されているのかも視野に収めておいた方がいいでしょう。

 『渚にて』が製作された時とは比較にならないほど、いま、世界中に核兵器、原子力発電所が溢れています。いつ何時、核爆発が起こり、放射性降下物によって世界が汚染されてしまわないとも限りません。そう考えると、今後、誰もが当事者なのだという意識を踏まえたうえで、川口氏のいう「認識ギャップを埋める対話」を進めていく必要があるのでしょう。『FALL OUT』を見て、『渚にて』を再訪し、私はさまざまな思いに駆られてしまいました。(2015/10/21 香取淳子)