ヒト、メディア、社会を考える

06日

FACE展2015:雑誌の切り抜きコラージュによる表現

■FACE展2015
VOCA展の会場に入ると、入り口近くに「FACE展2015」のチラシが置いてありました。見ると、会場は損保ジャパン日本興亜美術館で、開催期間は2015年2月21日から3月29日になっていました。閉幕がせまっています。急遽、VOCA展を見終ったら、FACE展ものぞいてみることにしました。

こちら →FACE展

VOCA展とは違って、FACE展は公募コンクール形式の展覧会です。損保ジャパン日本興亜美術財団が公益財団法人に移行したのを機に創設され、今年で第3回目になります。VOCA展と同様、こちらも新人の登竜門として位置づけられていますが、若手ではなく、新進という言葉が使われていました。募集要項を見ると、「年齢、所属を問わず、真に力がある作品」を公募するとされています。

こちら →http://www.sjnk-museum.org/program/past/2873.html

新たに活躍しそうな作家を発掘するため、年齢とは関係なく、作品本位で審査しようとしているのです。

■審査方式
審査方式もVOCA展とは異なっています。FACE展の方は、公募により全国から幅広く作品を募り、「美術評論家を中心とした審査員の公平な審査」によって選別して「将来国際的にも通用する可能性を秘めた」作品70点を入選作品とし、その中から「合議制でグランプリ、優秀賞、読売新聞社賞を選出し、各審査員が審査員特別賞を決定する」とされています。VOCA展とは違って、全審査過程で審査員による相対評価が貫かれているのです。

FACE展の審査方式は、審査員がすべての応募作品に目を通し、全作品の相対評価を何度も繰り返して最終選考に至るという仕組みです。審査員は大変でしょうが、恣意性が入り込む余地は少なく、より公平性の高い審査が行われます。審査方法および審査経過はカタログの中で開示されていますから、審査の透明性は確保されており、当然のことながら、信頼性も付随してきます。

興味深いことに、審査の際には作者名、年齢、性別、所属、題名などの情報は伏せられていたそうです。作品について審査員から質問があった場合、技法についてのみ、作品裏面に貼付された「作品票」記載の技法が審査員に対して開示されるという徹底ぶりでした。作品本位に審査することこそ、将来有望な新進作家を発掘できるという考えからでしょう。私も「国際的に通用する可能性を秘めた」新進作家を発掘するにはこの種の厳格さが不可欠だと思っています。

「FACE展2015」では、10代から80代にいたる748名が作品を出品したそうです。前回、前々回よりも出品数はかなり減少していますが、入選者数は逆に1点増えています。質の高い作品が多く寄せられたことがわかります。出品作品すべてに対して六次に亘る審査が行われ、入選作品70点が選ばれました。入選作品はすべて会場に展示されています。

入選者の性別は、男性38名、女性32名で、年齢は応募時20歳から69歳におよびました。年齢分布は、20代21名、30代22名、40代4名、50代7名、60代16名で、平均年齢は40.34歳だったそうです。20代、30代の応募が多く、年齢条件を付けなくても、若手作家を発掘できることがわかります。一方、年齢条件を付けなかったからこそ、60代からも多くの有望な作家を発掘することができました。年齢を問わないことは、エイジレス時代の新進作家の発掘に不可欠の要件かもしれません。

■受賞作品
入選作品70点の中から合議制で9点の受賞作品が選ばれました。モチーフ、マチエールとも多種多様で、それぞれに魅力があり、見応えがありました。

グランプリは宮里紘規氏の≪WALL≫(24歳、大学院生)。そして、優秀賞は、大橋麻里子氏の≪La Foret≫(23歳、大学院生)、和田和子氏の≪ガーデン(木洩れ日)≫(64歳、画家)、村上早氏の≪カフカ≫(22歳、画家)の3点でした。

読売新聞社賞は、平野淳子氏の≪記憶≫(59歳、画家)。そして、審査員特別賞は、黒木美都子氏の≪月読≫(23歳、大学院生)、大里早苗氏の≪Echoes≫(64歳、画家)、児玉麻緒氏の≪チュー≫(32歳、画家)、下野哲人氏の≪Black lines on the white White lines on the black≫(59歳、不詳)の4点でした。

20代と30代の若手画家、そして60歳前後の画家が受賞しているのです。さきほど紹介した世代別出品数と照らし合わせると、出品数の多い世代から受賞者の出る比率が高いことがわかります。年令条件を課さなかったからこそ、高齢世代にも希望を与え、多様な画風を掬い上げることができたのでしょう。受賞作品を見ると、さすが多数の作品の中から選ばれただけのことはあります。どの作品にも見る者に強く訴えかける力があり、引き込まれました。

とくに、私は宮里紘規氏の≪WALL≫と、和田和子氏の≪ガーデン(木洩れ日)≫に強く印象づけられました。画風はまったく異なるのですが、たまたま並べて展示されていたので、しばらくそのコーナーに佇んでいたほどです。今回は宮里氏の作品を中心に見ていくことにしましょう。

■宮里紘規氏の≪WALL≫
グランプリの≪WALL≫(ミクストメディア、194×162㎝、2014年)は、巨大な壁の前に佇む小さなヒトという構図の絵ですが、不思議な魅力がありました。何か気になるメッセージが発散されているような気がしてすぐには立ち去り難く、それを読み解きたいという気持ちにさせられてしまったのです。

こちら →wall

≪WALL≫というタイトルだから、勝手に、「壁」だと思って見ているのですが、左下に描かれたヒトに比べると、あまりにも巨大です。とても、通常、「壁」と聞いてイメージするものとはいえません。しかもその色彩がいわゆる壁の色ではないのです。遠目には淡い色調に見えるのですが、近づいてみると、それがさまざまな文字が印刷されたカラフルな紙片だということがわかります。

こちら →クローズアップ

よく見ると、シュレッダーで切り裂いた無数の紙片をコラージュして、「壁」が表現されているのです。それが面白く、何度も近づいては覗き込み、遠ざかっては眺めもしました。このような手法で表現されたこと自体に興味を覚えてしまったのです。その「壁」には、ただ面積が大きいからというだけではない、なんともいえない迫力がありました。しかも、緻密に張り付けられた無数の紙片が紡ぎだす色彩のハーモニーが快く感じられるせいか、巨大であるにもかかわらず、それほど圧迫感がないのです。

手法上の面白さに引きずられ、しばらく見入っていましたが、作品として何を表現しようとしていたのか、なぜ、このような手法を取ったのか、よくわかりませんでした。気になるメッセージを解読する手掛かりを見つけられなかったのです。ネットで検索してみると、宮里氏に対するインタビュー記事を見つけることができました。

こちら →http://netallica.yahoo.co.jp/news/20150216-00003548-cinraneta

なぜ、このような手法を使っているのかとインタビュアーから問われ、宮里氏は次のように答えています。

「絵の具で描いているとウエットというか、湿度があるような絵を描いてしまうんです。(中略)自分が感じている世界はもっとドライだし、うすっぺらい。絵の具は何か違うって疑問を抱いていた頃に、トム・フリードマンの作品と出会って、「これだ!」と絵の具を捨てて、一気にコラージュの方向に行ってしまった感じです」

宮里氏にはおそらく、画材とマチエールに対するきわめて繊細な感受性があるのでしょう。だからこそ彼は、絵の具だと湿度のある絵を描いてしまうと認識していました。絵の具では、彼が描こうとしている「ドライで薄っぺらい」世界を表現することはできなかったのです。制作技法を模索をしていた時期に出会ったのが、トム・フリードマンでした。

トム・フリードマンは、紙片など日常的な素材を使って表現活動を展開しているアメリカ人の美術家です。たとえば、次のような作品があります。

こちら →http://www.luhringaugustine.com/artists/tom-friedman/#/images/23/

これは、切り抜いたさまざまな雑誌の紙片をコラージュして制作された作品です。

宮里氏はどうやらこのトム・フリードマンの影響を受けて、絵の具の代わりに紙片をコラージュするようになったようです。それ以来、絵の具に感じていた違和感が払拭されて、しっくりきたといいます。ようやく描きたいものを描ける素材と手法に辿り着いたのでしょう。

宮里氏は「壁」を作品のテーマとして制作しつづけていますが、それについては以下のように述べています。

「何か大きいものに向かっている自分」というのは、一貫したテーマとしてあります。いつも目の前に何かが立ちはだかっていると感じているんですけど、その正体がわからないとずっと思っていて、それが何なのかを知るために、実際に「壁」を作品として作ってみよう、という考えでこのシリーズは続けています」

今回受賞した≪WALL≫はまさにその集大成としての作品だったのでしょう。もっとも、「壁」を作品として描いているとはいえ、作品で「壁の厚さ、重さ」を表現しているわけではないと彼はいいます。

「別に閉じ込められているわけではないし、出ようと思えば出られる。だけど、目の前にある邪魔なもの、そんな感じです。なんとなく息苦しい、みたいな」

ひょっとしたら、彼が表現しようとしているのは現代社会の閉塞感のようなものでしょうか。だとしたら、「壁」とはいっても、物理的な遮蔽物をイメージさせるものであってはならず、それこそ、厚みがなく重さもない心理的な遮蔽をイメージさせる表現でなければなりません。絵の具ではとても表現できなかったでしょう。シュレッダーにかけた紙片のコラージュだからこそ、厚みや重さを払拭した「壁」を表現することができたのかもしれません。

■≪WALL≫に見る現代社会の閉塞性
≪WALL≫はテーマといい、モチーフ、構図、マチエールといい、出色の作品です。宮里氏が一貫して「壁」をテーマに制作し続けてきたことの成果といえます。この作品に近づいてみると、コラージュに精緻な仕掛けが施されていることがわかります。ですから、会場で見なければ、この作品の良さを完全に理解することはできないでしょう。

≪WALL≫を離れて見ていると、コラージュされた紙片の色彩が織りなすハーモニーが快く、浮き立つ気分になります。宮里氏が求めた厚みや重さのない「壁」が、華麗でバーチャルな現代社会を連想させるからでしょうか。

一方、絵に近づき、左下に小さく描かれたヒトに感情移入してこの「壁」を見ると、果てしなく広がる巨大な「壁」に息苦しく、鬱陶しい気分にさせられます。「壁」を乗り越えられないことから来る挫折感、虚脱感が呼び覚まされてしまうからでしょうか。

このように、この作品は見る者の感情をさまざまに刺激し、喚起しますが、それだけではありません。宮里氏がテーマにした「壁」には、現代社会に生きるヒトなら誰もが感じているであろう閉塞感に通じるものが内包されています。巨大な「壁」を現代社会そのものと見なすことができるのです。

ですから、いったん目にすると、ヒトはつい引き込まれて見てしまうのでしょう。まさに現代の本質を描出した絵画といえます。このように、この作品には見る者の深層心理に訴えかける力があります。それは、斬新なアイデアと緻密な構成によって可能になったと思われますが、とくに秀逸だと思ったのが、左下に小さくヒトを配したところです。このモチーフを加えるだけで作品に立体感が生まれ、感情移入しやすくなりました。

この絵を見ていると、人目を引く巨大な「壁」に惹き付けられながらも、最終的に小さなヒトに感情移入して見ていることに気づきます。だからこそ、現代社会に生きるヒトが誰しも一度は味わうであろう挫折感、虚脱感に共鳴してしまうのですが、見る者の気持ちをそうさせてしまうのは、この絵に現代社会の本質が見事に表現されているからにほかなりません。

宮里氏には今後も継続して現代社会と切り結ぶような作品世界を展開していただきたいと思います。(2015/4/6 香取淳子)