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マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

■「スイス プチ・パレ美術館展」で出会った、リュスの二つの作品

 2021年11月5日、滋賀県の佐川美術館で開催されていた「スイス プチ・パレ美術館展」に行ってきました。展示作品は、
スイス プチ・パレ美術館展 が所蔵する65点で、いずれも創設者オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-1998)のコレクションです。

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏は図録の冒頭で、父は不当に過小評価されている画家たちの作品を対象に収集していたと記しています。自身の審美眼を信じ、評論家に取り上げられず、美術史からも見落とされがちな画家たちに光を当てようとしていたというのです。そのせいで、いくつかの美術雑誌からは長い間、批判され続けていたそうです。(※ 図録『スイス プチ・パレ美術館展』イントロダクション)

 たしかに、会場に展示されていたのは、ルノワールの作品以外、これまでに見たことのない作品ばかりでした。

 オスカー・ゲーズはコレクションを始めた当初、ユトリロやボッティーニなどモンパルナスとベル・エポックの画家を好んでいました。その後、新印象派とポスト印象派のコレクション、フォーヴィスムへと関心が移り、コレクションの幅が広がっていったといいます。実業家であったオスカー・ゲーズは、次のような方針の下、収集を進めていたようです。要約すれば、①作品購入費の基準を設定し、同じ作家の作品を購入し続ける、②抽象芸術は避ける、というものでした。(※ 前掲。)

 その結果、収集されたのは、オスカー・ゲーズの審美眼に適い、購入することができた19世紀末から20世紀初頭にかけての作品ばかりでした。そして、1965年、彼はジュネーブの旧市街近くに建てられた邸宅を購入し、内装を改修してプチ・パレ美術館を創設しました。1968年のことでした。

ジュネーブ プチ・パレ美術館

 第二帝政時代の古典主義様式の建物です。見るからに優雅な佇まいが印象的です。

 ここに、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで醸成された美術の潮流を表現したコレクションが、展示されているのです。建物といい、コレクションといい、まさに20世紀に向けたパリの夜明けを象徴する美術館だといえます。

 こうして自身の美術館を創設したオスカー・ゲーズは、不当に過小評価されていると思っていたコレクションを次々と、一般公開していったのです。

 さて、展示作品の中で、もっとも印象深かったのが、マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)の《若い女の肖像》(Portrait de jeune femme)です。多くの作品が展示されている会場で、この作品を見た瞬間、惹きつけられてしまいました。1893年に制作されたこの作品は斬新で、小ぶりながら、私にはひときわ輝いて見えました。

(油彩、カンヴァス、55×46㎝、1893年、スイス プチ・パレ美術館)

 若い女性がまばゆい太陽の光を浴びて、こちらを眺めています。かつて見た映画の一シーンのように思え、どこか懐かしい気持ちにさせられました。

 もちろん、初めて見る作品でした。これを描いたマクシミリアン・リュスが、どのような経歴の画家なのかも知りません。画風からわかるのは、ただ、スーラやシニャックの影響を受けているのではないかということだけでした。

 何故、そう思ったのかといえば、境界線や輪郭線を使わずに、さまざまな色を載せた斑点のようなもので、モチーフが造形されていたからです。もっとも、だからといって、はっきりとスーラやシニャックの影響を受けているともいいきれません。

 というのも、確かに、斑点のようなもので、画面全体が構成されているのですが、それは、私が知っているスーラやシニャックなどの作品で見られた点とは明らかに異なっていました。この作品で使われていたのは、粒の揃った小さな点ではなく、大きく、しかも、不揃いでした。

 茫漠とした形状の捉え方に、スーラやシニャックの緻密さは見られませんが、モチーフのエッセンスは見事に捉えられています。しかも、眩いような光と若い女性の輝きが情感たっぷりに表現されているのです。

 何とも不思議な作品でした。

 会場には、リュスの作品としてもう一つ、風景画が展示されていました。タイトルは、《La Meuse à Feynor》(フェイノールのムーズ川)です。

(油彩、カンヴァス、60×73㎝、1909年、スイスプチ・パレ美術館)

 夕暮れ前のムーズ川の光景が、色彩バランスとタッチの妙を効かせ、情緒豊かに捉えられています。1909年に制作されたこの作品には、《若い女の肖像》とは違って、どちらかといえば、印象派の趣がありました。

 果たして、リュスはどのような画家だったのでしょうか。

 会場で作品を見てからというもの、気になって仕方がありません。わずか2点しか展示されていなかったというのに、画風がまるで異なっていました。しかも、どちらも、自由でのびのびとした筆遣い、色の使い方、対象の捉え方、そのどれもが魅力的でした。

 帰宅してから、さっそく調べてみました。ところが、リュスの経歴に関する記述としては、Wikipediaぐらいしか見当たりません。それ以外に入手できるものとしては、図録に掲載された作品を紹介する記事の中で、断片的に紹介されている情報ぐらいでした。

 リュスについて日本で得られる情報は、予想外に少なかったのです。展示作品から強い印象を受けていたせいか、意外でした。

 とはいえ、Wikipediaからは、リュスが木版画職人として修業を積んでいたこと、ゴブラン織りの工場で働いていたことなどがわかっています。

 そこで、今回は、リュスの経歴を追いながら、木版画職人がどのようにして画家になっていったのかを考えてみたいと思います。

■マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)

 1858年3月13日、パリのモンパルナスで、リュスは誕生しました。父は鉄道員、母は店員でした。彼は労働者階級の子どもとして生まれ育ったのです。生計を立てるための労働をせずに、画家として生きていけるような出自ではありませんでした。

 リュスは、14歳(1872年)から3年間、木版画職人として修業しています。生活の資を得るため、木版画職人になる道を選択していたのです。おそらく、子どもの頃から絵が好きだったのでしょう。見習いとして働きながら、夜は工芸学校で絵画を学んでいました。リュスが油彩画を始めたのはその時でした。

 修業を終えると、1876年には、版画家のウジェーヌ・フロマン(Eugène Froment, 1844-1926)の工房で働き始めました。元々、絵心があったのでしょう、リュスは、時を経ず、挿し絵入り新聞「イリュストラシオン」や「The  Graphic」などの挿し絵として使う木版画を制作するようになっていきました。

 商業誌のための挿絵を制作していた経験を通して、画力が鍛えられただけではなく、市場ニーズをくみ取るセンスも涵養されていた可能性があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きく変貌を遂げていった美術界の潮流に乗って、リュスは画家としての地位を確立していたようにも思えます。

■版画修業をしながら、絵画を学ぶ

 リュスは仕事として木版画を制作する傍ら、アカデミー・シュイス(Académie Suisse)に通って特別コースを受講していました。

 アカデミー・シュイスは、1815年にパリのシテ島、オルフェーヴル通りに開校された私立の画塾です。授業料が安かったので、貧しい画学生でも、モデルを使った授業を受けることができました。その後、グランド・シュミエール通りに移転し、アカデミー・コラロッシに改名しました。ここで学んだ画家には、カミーユ・コロー、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベなどがいます。

 リュスは、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエで学んでいましたが、デュランも、1859年から1861年まで、アカデミー・シュイスで学んでいました。当時、有為の若手画家が学ぶ画塾だったようです。

 このような来歴をみてくると、リュスが木版画職人にとどまらず、画家に必要とされるさまざまな技量を身に着ける努力を怠らなかったことがわかります。

 ちょうどその頃、制作したのが、《モンルージュの広い庭》です。

(油彩、カンヴァス、43×37、1876年頃、個人蔵)

 まだ18歳ごろの作品ですが、明と暗、そして、暖色と寒色のコントラストが強く、非常に印象的です。

 陽光に照らされた明るい小道が、手前から奥へと観客を誘導するように伸びています。小道は途中で、葉の茂みに中に消えてしまい、その代わりに目につくのが、明るい陽射しを受けた建物の一部です。

 こんもりと茂った林の向こう側に、聳えるように建物が立っています。観客は、暗い木々の茂みのちょっとした隙間から、覗き見るような恰好で、その建物と向き合うことになります。とても興味深い構図です。

 遠近法を踏まえ、明暗を際立たせた構図で描かれているせいか、単なる風景画に収まらない物語性を感じさせられます。

 荒い筆触と、陽光が生み出すドラマティックな画面構成からは、印象派の影響を受けているようにも見えます。なんとも妙味のある作品でした。

 ちょうど、その頃、リュスは、画家マイヤール(Diogène Ulysse Napoléon Maillart, 1840-1926)から勧められ、ゴブラン国立織物製作所の入学試験を受け、合格しました。当時、肖像画家マイヤールからも指導を受けていたのです。

 マイヤールの経歴を見ると、パリの国立高等装飾学校で教育を受けた後、国立高等美術学校(通称:École des Beaux-Arts)のレオン・コニエ教室で学んでいます。1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの後継だとされています。多くの著名な画家を排出しています

 1864年に23歳でローマ賞を受賞してローマに留学し、1869年に帰国して以来50年間、国立ゴブラン織物製作所で絵画の教授を務めました。1885年にはレジオンドヌール勲章を受勲しており、肖像画家として多数の作品を残しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Diog%C3%A8ne_Maillart

 このゴブラン国立織物製作所で、リュスは、シュヴルールの色彩理論に触れることになりました。

■シュヴルールの色彩理論との出会い

 W. B. アシュアワース氏は、次のように、シュヴルールが色彩理論を構築した経緯を、次のように説明しています。

 化学者のシュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1789-1889)は、1824年、ゴブラン国立織物製作所の工場長になりました。そこで、色彩の研究をするとともに、染色の苦情にも応対していました。

 なぜ、染色にムラが生じるのか、彼は、ゴブラン織物の製造過程をつぶさに調べました。その結果、色ムラは染色の問題ではなく、色の組み合わせによるものではないかということに気づきました。パターンの色と背景になる地色との間に、同時対比によって色の見え方に違いが生じることを突き止めたのです。

 そこで、シュヴルールは、色の組み合わせについて実験を繰り返し、色の対比と調和について研究しました。1839年には、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』を著しています。色彩を「類似色の調和」と「対比色の調和」の2種類に分類し、独自の色彩理論を構築したのです。シュヴルールは、光の混合と色彩の混合とは全く異なると指摘しています。(※ Dr. William B. Ashworth, Jr.:https://www.lindahall.org/michel-chevreul/

 リュスは、国立ゴブラン織物製作所に在籍することができたおかげで、シュヴルール色彩理論の手ほどきを受け、実践しながら、色彩について考える機会を得ていたのです。

 ゴブラン織りは、敷物やバッグなどの日用品だけではなく、鑑賞用のタピストリーも製作されていました。タピストリーの中には、まるで絵画のようにリアリティがあり、情感に富んだものもあります。

 例えば、《チュイルリー公園からのトルコ大使の退場》という作品があります。

(ゴブラン織り、サイズ不詳、1734-37年、ルフェーブルとモメルク工房)

 馬に乗った多数の人々が巨大な広場に集っています。手前の人々の顔がそれぞれ描き分けられており、出発前の慌ただしさが、さらっと表現されています。タイトルからすれば、これがチュイルリー公園なのでしょう。遥か遠方に、パンテオンのドームが見えます。

 さまざまな種類の色糸を使って、モチーフが織り上げられています。当時の様子がありありと目に浮かびます。絵具で表現するのとまったく遜色のない、リアリティのある絵柄に圧倒されてしまいました。この作品を見るだけでも、ゴブラン織りの職人がいかに色彩に敏感でなければ務まらないかがわかります。

 リュスが国立ゴブラン織物製作所に在籍した以前から、光と色彩に敏感な画家たちは、種々の色彩理論に注目しはじめていました。

 たとえば、シャルル・ブラン(Charles Blanc, 1813-1882)の『デッサン諸芸術の文法』(1867年)、アメリカ人物理学者オグデン・ルード(Ogden Nicholas Rood, 1831-1902)の『近代色彩論:芸術および工業への応用』(1881年にフランス語に翻訳)、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対照の法則』(1839年)などです。

■色彩理論を手掛かりに

 当時、光と色彩に敏感な画家たちが、色彩理論に注目するようになっていました。押し出しチューブ式油絵具が発明されて以来、アトリエを出て、戸外で絵を描く画家が増えつつありました。

 1841年、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド(John Goffe Rand, 1801-1873)が、錫製の押し出しチューブ式油絵具を発明しました。その後、彼はキャップの部分をねじ式に改良し、さらに使いやすくなりました。

 チューブ式油絵具のおかげで、画家たちはアトリエから戸外に出て描くようになり、自然がもたらす美しさに気づくようになっていたのです。

 色彩と光を意識して作品を制作していたルノワールは、「チューブ式絵具がなければ、印象派は生まれなかった」と語っていたほどでした。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/John_G._Rand

 印象派の画家たちは、葉陰から洩れる太陽の陽射し、陽光に照らされて、きらきらと輝く水面等々、そのようなものの中に、美しさを見出しました。アトリエにこもって描いていただけでは、決して発見できなかった自然の美でした。

 もちろん、画家たちは輝く陽光や、照らし出された木々や水面の明るさを、画布上で表現しようとしました。ところが、混色を重ねると、次第に、暗く、くすんだ色になってしまいます。彼らが求めた瞬間の輝きを捉え、表現することはできませんでした。

 見たままの色彩を創り出しながらも、明るく、輝くような画面を創り出すにはどうすればいいのか、画家たちは色彩理論を手掛かりに、模索せざるをえなかったのです。

 押し出しチューブ式油絵具が開発され、画家たちが戸外で容易に絵を描けるようになったからこそ、発見できたのが、揺らぎ、輝く、自然の美でした。それを表現するための画法を模索していた画家たちが拠り所にしたのが、色彩理論でした。19世紀の科学技術の発達によって手にすることが出来た画材であり、色彩の理論でした。

 こうしてみてくると、リュスは、画家として正規の道を歩んでいませんでしたが、十代の頃から、物の形をいかに捉えるか、色彩の仕組みを知り、それをどう組み合わせ、画面に反映させていくかについて学ぶ機会があったことがわかります。

■十代で身につけた画家としての技量と知識

 労働者階級の子どもとして生まれたリュスは、生活の資を得るため、まずは木版画職人を目指しました。当時はまだ、挿し絵のための木版画職人に需要があったからです。14歳から3年間、そのための修業をしますが、夜は工芸学校に通い、油彩画を学んでいました。

 修了後は版画家フロマン工房で働きながら、アカデミー・シュイスに通い、さらには、美術アカデミーの会員であった肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエでも学んでいました。1876年のことでした。

 すでに大きな評価を得ていた画家たちから、リュスは貪欲に、描くことについての技量と知識を吸収していったのです。

 ディオジェーヌ・マイヤールはローマ賞を得てローマに留学(1864-1869)し、カロリュス・デュランはリール市の絵画コンクールで受賞し留学資格を得て、イタリアに留学(1862-1864)しています。

 興味深いことに、両者はほぼ同時期に、イタリアに渡って絵画を学んでいるのです。しかも、共に、肖像画を数多く残していますが、いずれも自然主義的な写実主義といえる画風です。イタリアルネサンスに特徴づけられた傾向を引いていることは明らかでした。

 さらに、両者は、レジオンドヌール勲章を受勲しています。ディオジェーヌ・マイヤールは1885年、カロリュス・デュランは1905年です。いずれも、絵画領域で大きな功績を挙げたことが評価され、受勲したのです。

 このようにしてリュスは、十代の多感な頃に、すでに大きな社会的評価を得ていた画家たちの知己を得ていたのです。彼らから、それぞれの画論や画法を学ぶことはいうまでもありません。

 さらに、フロマンの工房では、同世代の風景画家レオ・ゴーソンや、点描画家のエミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと出会い、親しく交わるようになっていました。

 ゴブラン織物製作所で実践していたシュヴルールの色彩理論が、スーラの絵画理論に応用されていたことは、彼らから知らされたのです。絵画についての議論が弾み、やがて、共に過ごし、その理論を実践して絵画制作をするようになります。

 当時、木版画職人でしかなかったリュスですが、さまざまな有為の画家たちと出会い、交流し、アドバイスを得てきました。出会いを求め、そのような場所に積極的に出かけていたからでしょう。そして、出会った後、交流が続いたのは、リュスが、画家としての可能性を周囲に感じさせていたからでしょう。

■木版画職人から、画家への道

 実際、リュスには画才があったのでしょう。それはまず、木版画で発揮されました。見習い期間が終わったばかりの若輩ながら、フロマンについてロンドンまで出かけ、当地で木版画を制作して、披露したこともあったのです。

 木版画の修業を終え、軍隊に入るまでのリュスは、木版画職人として働きながらも、絵画に関する技量や知識を極めるため、努力を怠りませんでした。その真摯な姿勢は周囲の人々に快く受け入れられ、交流の幅が広がりました。

 そのような画家たちとの交流の中で才能が豊かに育まれ、徐々に、その才能が周囲に認知されていくことになります。フロマンの工房で働いている間、リュスは着実に、画家としての実力を蓄えていきました。

 その後、1879年から4年間、リュスは兵役に従事しました。ところが、任務を終えた1883年、習得してきた木版画技術がすでに時代遅れになっていることを知ります。リトグラフが主流になりつつあったのです。

 18世紀末に発明されたリトグラフは、19世紀半ば以降、急速に普及していきました。描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りができます。しかも、版を重ねるにつれ、独特の艶のある質感を出すことができますから、リトグラフの普及に拍車がかかったのは当然のことでした。

 リトグラフは、水と油の反発作用を利用した版画なので、製作過程は複雑で、時間もかかりますが、木版画よりも多様で深みのある表現が可能でした。印刷物の需要が高まるにつれ、リトグラフが木版画に取って代わるようになっていたのです。リュスが兵役を終えてパリに戻って来た頃、挿し絵用の木版画職人は必要とされなくなりつつありました。

 たとえば、ドイツ人画家アレクサンダー・ドゥンカー(Alexander Duncker, 1813-1897)が描いた、《1883年のボレク》(Borek (Borkau) in 1883)という作品があります。

(リトグラフ、サイズ不詳、1883年、所蔵先不詳)

 これは、リトグラフで描かれた作品の一例ですが、古典派の作品を想起させる表現方法です。色彩といい、テクスチャといい、タッチの効果といい、この画面を見るだけでも、リトグラフが表現手段として木版画よりはるかに優れていることは明らかです。

 当時、ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa, 1864-1901)やミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860-1939)などが、この技法で版画やポスターなどを制作していました。

 多彩な表現が可能なリトグラフがこのまま普及していけば、早々に、木版画職人は必要なくなるとリュスは考えました。そこで、彼は、木版画職人として生計を立てることを諦め、画家に転向しようと決意します。

 リュスが兵役を終えた1883年、先ほど、ご紹介したドゥンカーが上記の作品をリトグラフで制作し、発表しました。

 19世紀末は技術の進化に合わせ、表現世界にも怒涛の勢いで変化の波が押し寄せてきていたのです。リュスが時代の変わり目を感じて人生を再考し、画家に転向しようとしたのは当然の成り行きでした。

(2021/12/18  香取淳子)

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