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2020年

「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

■秀才揃いの「上杜会」のメンバー

 2020年10月3日から12月13日まで、神戸市立小磯記念美術館で、「わが青春の上杜会」展が開催されました。見応えのある作品ばかりではなく、同窓の画家たちの人生を垣間見ることができ、とても印象深い展覧会でした。

 今回は、趣向を変えて、上杜会メンバーの指導教官の作品を見ていくことにしましょう。

 その前にまず、「上杜会」とは何かということを説明しておく必要があるでしょう。実は、この展覧会のチラシを手にしたとき、「上杜会(じょうとかい)」という見慣れない言葉に戸惑いました。一瞬、「上社会」と書かれているのかと思い、見直しましたが、やはり、「上杜会」でした。漢字の横に小さく、「じょうとかい」と振り仮名が振られています。

 チラシを裏返してみてようやく、その意味を理解することができました。「上杜会」とは、「上野にある東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科を1927年に卒業した人々全員(中途退学者を含む44人)が、結成した美術団体」だったのです。

 さて、上杜会が結成されたのは1926年2月、卒業の一年前でした。同年12月25日には、大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が即位されました。急遽、大正から昭和へと元号が変わりました。そして、わずか一週間で1927年1月1日となり、早くも、昭和2年を迎えました。ですから、3月に卒業した彼らは、まさに昭和の幕開けとともに、画家人生のスタートを切ったことになります。

 ところが、1927年9月、彼らは第一回上杜会展を開催しています。卒業早々に展覧会を開催できるだけの力量があったことがわかります。上杜会のメンバーは、美校始まって以来の秀才揃いだといわれていたそうですが、このことからも、なるほどと合点がいきます。

 実際、在学中に帝展(帝国美術院美術展覧会)に入選する者が何人かいましたし、退学して欧州に留学した者もいれば、前衛的な芸術活動に参加し、そこで頭角を現す者もいました。上杜会のメンバーには、創作意欲にあふれた優秀な人材が揃っていたのです。

 その後、「上杜会」という場を得たメンバーたちは、切磋琢磨し合いながら、個性を育み、能力を磨き上げてきたのでしょう。会場を一覧すると、同窓でありながら、画風は似通っておらず、時間が経過するにつて、その個性に輝きが増してきているように見えました。

 ふと気になったのが、彼らは東京美術学校でどのような指導を受けてきたのかということでした。興味深いことに、会場にはまるでその疑問に答えるかのように、序―1のコーナーで、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、長原長太郎の作品が展示されていました。いずれも上杜会メンバー在籍時の教授陣です。

 彼らが入学した当初、西洋画科を創設した黒田清輝氏もおられたようですが、1924年に逝去されており、実際はこの5人が分担して学生の指導に当たっていました。

■西洋画科の教官

 豊田市美術館学芸員の成瀬美幸氏によると、当時の西洋画科は次のようなカリキュラムで指導が行われていました(図録『わが青春の上杜会』、p.8)。

 一年次に長原長太郎に石膏デッサン、二年次に小林萬吾に人体デッサンを学び、三年次に藤島武二、岡田三郎助、和田英作、いずれかの教室を選択するシステムになっていました。今風にいえば、3年次から始まるゼミの担当者が藤島、岡田、和田の三氏だったのです。

 成瀬氏は、「教授たちは、明治期から写実的外光描写を長年追求してきた日本美術界の改革者であり、1920年代にはおおむね50代を迎えていた」と記しています。中には、教授たちの画風に馴染めない学生がいたかもしれません。

 そもそもゼミ担当の三教官をはじめ、デッサン担当の長原長太郎氏、小林萬吾氏など、当時の西洋画科の教官全員が創立時からの白馬会会員でした。

白馬会は、明治美術会を脱会した黒田清輝氏、久米桂一郎氏、山本芳翠氏らが中心となって1896年に設立された美術団体です。旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会に対し、白馬会は明るい画風を特徴としており、新派または紫派とも呼ばれていました。黒田氏を中心としたこの白馬会は、明治の洋画界の主流として、その後の発展に大きく寄与してきたのです。

 一方、明治美術会は白馬会設立後、急速にその勢力が衰え、1901年には解散しています。そもそもは西洋画科を設置しなかった東京美術学校に対抗して設立された美術団体でしたから、1896年に東京美術学校に西洋画科が創設され、黒田氏が指導者として迎え入れられると、もはや存続する意義はなくなってしまったのでしょう。

 1896年に設立された白馬会は1911年には解散しており、上杜会のメンバーが入学した頃は存在していませんでした。ところが、教授陣は全員、創立時からの会員だったのです。創設以来、西洋画科を指導したのが黒田氏ですから、当然といえば当然のことなのですが、西洋画科の教育方針全般に黒田氏の影響が及んでいるのは明らかでした。

 そもそも、西洋画科の教官はそれぞれ、どのような経緯で採用されたのでしょうか。上記5人のうち、3年次以降の指導を担当した藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯

 三者は同校に西洋画科が新設されると、黒田清輝から推薦されて、教官に就任していました。なぜなのでしょうか。その経緯についてざっと調べてみました。

 たとえば、藤島武二氏の場合、黒田氏の推薦を得て、1896年、東京美術学校の助教授に就任しています。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html

 岡田三郎助氏も同様、黒田氏に推薦されて、1896年に東京美術学校西洋画科の助教授に就任しました。ところが、翌年、文部省派遣留学生として渡仏し、1902年に帰国しています。しかも、在仏中は、黒田清輝氏が師事したラファエロ・コランの指導を受けていました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html

 和田英作氏の場合、曾山幸彦氏や原田直次郎氏に学んだ後、天真道場で黒田清輝氏や久保桂一郎氏から、西洋画の指導を受けていました。そして1896年、藤島や岡田と同様、黒田氏に推薦され、東京美術学校の助教授に任命されましたが、早々に教官を辞め、学生として西洋画科に入学し直しています。和田氏自身、助教授として西洋画を教えるにはまだ力量不足だと判断したのでしょう。

 翌年7月に卒業すると、改めて、西洋画科の助手に採用されました。それでもまだ研鑽を積む必要があったのでしょう、今度は1899年、文部省派遣留学生となって渡仏し、やはり、ラファエル・コランに師事しています。そして、1902年に帰国すると、東京美術学校の教授に任命されました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

 このように、三者はいずれも、黒田清輝氏から推薦され、新設された西洋画科の教官として着任していました。そのうち岡田氏と和田氏は、就任後早々に、相次いで渡仏し、黒田氏が師事したラファエル・コラン氏から薫陶を受けていたのです。

 教官採用の経緯といい、教育内容の方向性といい、黒田清輝氏の意向で西洋画科の教育指導体制が基礎づけられていったことがわかります。黒田氏は、ラファエロ・コランの下で学んだアカデミズムを楚とし、西洋画の教育指導体制を構築しようとしていたのです。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html

 黒田氏は留学して学んだフランス・アカデミズムの方針に基づき、日本の西洋画教育の体制を整備していきました。

 採用して間もない岡田氏や和田氏を、ラファエロ・コラン氏の下で学ばせ、指導力の強化を図るとともに、相互交流を深めました。多くの若い才能を育てる一方、日本の洋画界を牽引していきました。

 黒田氏は、洋画界が辛酸をなめていた時期に、東京美術学校西洋画科の指導者として登場し、瞬く間に西洋画教育の基礎を築き、その後の洋画勃興の気運を作りました。黒田氏の行政手腕とその力量には感嘆せざるをえません。

 そもそも1887年に東京美術学校が開設された当初、西洋画科は設置されていませんでした。それがなぜ、1896年に西洋画科が新設されることになったのか。なぜ、黒田清輝氏がその陣頭指揮を執るようになったのか。その経緯をざっと振り返っておくことにしましょう。

■黒田清輝氏らの帰国と明治美術会

 1893年7月、黒田清輝氏と久米桂一郎氏はほぼ10年ぶりにフランスから帰国しました。近代化を推進しようとする社会的気運の高まる中、東京美術学校には依然として西洋画科はなく、日本画中心の教育体制のままでした。

 帰国した黒田氏らは、山本芳翠氏から譲り受けた画塾を天真道場と改称し、フランス留学で得た技術や知識、画法などを指導していました。

 興味深いのは、その教育指針に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」という規定を設けたことでした。

 つまり、描画教育の基礎として、塑像(石膏像)や活人(裸体)をモチーフに素描することを課していたのです。さらに、素描に使う画材も木炭を使用させ、細部の丁寧さよりも全体的な効果を重視する指導方針を取っていました(※ 田中淳、「黒田清輝の生涯と芸術」)。

 素描のモチーフといい、画材といい、黒田氏は、フランスで学んだアカデミズムの思想に基づいて指導に当たっていたのです。

 その一方で、帰国後早々、当時、唯一の洋画の美術団体であった明治美術会にも所属しています。明治美術会から期待されていたこともありますが、黒田氏自身も所属する必要性を感じていたのかもしれません。

 以後、黒田氏は滞欧時に描いた作品を次々に発表していきます。

■黒田清輝氏の「朝妝」

 たとえば、1894年、明治美術会第六回展に、黒田氏は「朝妝(ちょうしょう)」を出品しています。帰国する前に描かれた作品で、鏡の前に立つ裸婦像です。この時、明治美術会の画家たちに衝撃を与えましたが、別段、騒がれることもありませんでした。


(太平洋戦争時に、焼失)

 裸体のまま鏡の前に立ち、身支度する女性が描かれています。鏡を配することによって、後ろ姿と前姿の両方を示される構図になっています。画面中央左寄りに、後ろ姿の女性の裸身が見えます。腰をややひねってポーズを取る立ち姿が圧巻です。うっすらと赤味を帯びた白い肌が情感豊かに描かれています。

 一方、鏡には女性の前姿が映し出されています。陰になっているせいか、やや暗い色合いで描き分けられており、朝の光を意識した筆触が印象的です。

 翌1895年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田氏は再び、この「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受賞しました。優れた技だと評価されたのです。

 実際、この作品は1893年、Société nationale des beaux-arts(国民美術協会)主催のサロンで、日本人ではじめて入選した作品でもありました。黒田氏にとっては、渡仏してラファエロ・コランに師事し、10年に及ぶ学習成果の一つといえるものだったのです。

■明治美術会からの脱会と白馬会の創設

 ところが、この作品をめぐって騒動が起きたのです。一般大衆が作品を鑑賞する博覧会に、裸体画を展示するとは何事かというジャーナリズムからの批判でした。当時の新聞各紙が一斉に、この作品は風俗を乱すものだと非難したのです。これが黒田氏の作品への印象を方向づけたといっても過言ではないでしょう。

 1895年10月、明治美術会の第7回展が開催され、黒田氏は滞欧時に制作した作品21点を出品しました。久米桂一郎氏や天真道場で学ぶ画家たちもそれぞれ渾身作を出品しました。一覧しただけで、誰もが、明治美術会に所属するこれまでの西洋画家の作品とは大幅に異なることがわかるものでした。

 新聞各紙はこぞってその違いを新旧洋画家の違いだと書きたてました。ジャーナリズムが、黒田氏らを新派、明治美術会の画家たちを旧派だとレッテル張りをしたのです(※ 田中淳、前掲)。

 一旦、このようなレッテル張りをされたら最後、その後の洋画作品はどれも、そのフレームワークで見られるようになりがちです。その結果、フレームワークによる差異が強調され、

 案の定、このときの各紙の報道が洋画界の対立構造を顕在化しました。これを契機に1896年6月、黒田氏と久米氏らは明治美術会を脱会し、有志と白馬会を結成することになったのです。

 黒田清輝氏らが率いる白馬会は、若手画家たちの共感を集め、明治後半の洋画界の主流となっていきました。

■西洋画科の創設

 白馬会が結成されたのが1896年6月でした。東京美術学校に西洋画科と図案科が新設されたのはその3か月後の9月ました。創設の経緯はおおよそ次のようなものでした。

 当時の校長、岡倉天心氏は美校の教育環境を整備するため、帝国議会に「美術学校拡張法案」を提出しました。それが修正されて可決されたのが、1895年3月でした。その修正案は、「今後、日本美術と西洋美術をともに奨励するという方針のもとに美校を拡張する」という内容で、天心の意図とは異なるものでした(*吉田千鶴子「東京芸術大学」、2013年10月)。

 法案が可決されると、当時の文相・西園寺公望氏は直ちに、黒田清輝氏と久米桂一郎氏を指導者に選び、西洋画科の教育を任せました。中心になって指導に当たったのが黒田清輝氏でした。教育の骨子を練り上げ、教官を採用し、カリキュラムを制定していきました。1896年は、明治後半の洋画界を牽引する人物として黒田氏が抜擢され、活躍を開始した年だったのです。

 先ほどもいいましたように、黒田らフランス留学経験者は、既存の洋画家たちの団体である明治美術会(脂派)とは馴染みませんでした。だからこそ明治美術会を離れ、白馬会を結成したのです。そのような経緯を思い起こせば、西洋画科の教官として、白馬会創立メンバーから選んだのはしごく当然のことでした。

 上杜会のメンバーが東京美術学校に在籍していた時、教官は皆、白馬会の創設メンバーでした。しかも、全員が黒田清輝氏の推薦で採用されていました。そのカリキュラムもまた、黒田氏がラファエロ・コランから学んだアカデミズムに則ったものでした。こうして官立の西洋画教育が整備され、明治後半の西洋画界を牽引していくことになるのです。

 それでは、ふたたび展示会場に戻り、上杜会のメンバー在籍時の教授陣の作品を振り返ってみることにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像

 「序―1」のコーナーでは、教官5人の作品7点が展示されていました。どういうわけか、藤島武二氏が3点、それ以外が各一点という具合です。興味深いことに、7点のうち2作品が裸婦像でした。藤島武二氏と岡田三郎助氏の作品です。

 見ているうちに、ふと、大正時代になると、もはや裸婦を画題にしても騒がれなくなったのかと不思議に思いました。藤島氏の作品は制作年不詳ですが、岡田氏の作品は1926年の制作です。

 1895年には黒田氏の作品「朝妝」は裸体画だと非難され、大きな騒動になりました。その後、白馬会第二回展に出品された黒田清輝氏の作品「智・感・情」(1897年)もまた、裸婦像を描いたとして物議をかもしました。当時は、風紀を乱すという観点から芸術作品が批判されていたのです。

 あの大騒動から30年以上も経つと、人々は裸婦像を見ても気にならなくなったのでしょうか、それとも、見慣れて問題にしなくなったのでしょうか。

 とりあえず、藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)、岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)

 当時の教官5名の作品が展示されていたコーナーで、藤島氏だけが3作品、展示されていました。「帽子の婦人像」(1908年)、「鉸剪眉(こうせんび)」(1927年)、そして、「裸婦」(制作年不詳)です。

 以前、藤島武二展に出かけたことがあります。そのときに展示されていた諸作品を思い起こすと、「帽子の婦人像」や「鉸剪眉」はいかにも藤島武二氏らしい画風の作品だといえます。

 ところが、「裸婦」は、藤島氏がこんな作品も描いていたのかと意外に思ってしまうほど、典型的な画風ではありませんでした。


(油彩、カンヴァス、63.0×51.0㎝、佐賀県立美術館)

 裸婦像とはいいながら、この作品の場合、まず、油彩ならではの荒削りな筆触に目がいってしまいます。パレットナイフで厚く絵具を置き、その上から荒く削り、さらに色を載せては下色を残しながら、削っていく・・・、そのような作業の繰り返しが、作品に独特の風合いを添えています。

 どことなく、青木繁氏の画風に似たものを感じさせられます。

 頬や脇、乳房、腰から腿にかけて、サーモンピンクが大胆に散らされています。そのせいか、ラフなタッチの中に柔らかで艶やかな肌、コケティッシュな女性の情感を感じさせられます。写実的に描かれるよりもはるかに深く、この女性の内面が表現されているといえるでしょう。

 画面の女性は正面から堂々と、裸身を見せています。やや首をかしげ、恥じることなく、腰をひねった姿勢がなんとも印象的です。全身から、やるせなさ、けだるさ、倦怠感といったようなものがにじみ出ています。当時の日本人女性には稀な興趣が感じられます。

 だからといって、西洋人女性とも思えません。この女性の肩幅は狭く、腰回りもそれほど大きくありません。西洋人女性らしい雰囲気を漂わせているのに、身体つきはそうではないのです。おそらく、西洋文化に馴染んだ日本人女性なのでしょう。

 西洋の雰囲気をまとった日本人女性の裸身が、独特の筆触と豊かな色彩で表現されているところに、この作品の妙味があります。

 一方、岡田三郎助氏の作品は、日本人女性らしい身体特性を備えた裸婦像でした。

■岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)

 藤島氏と同じコーナーに、岡田三郎助氏の「裸婦」が展示されていました。きめ細かなタッチで描かれた裸婦像です。柔らかく、しっとりとした肌にはいかにも日本的な風情が感じられます。


(デトランプ、カンヴァス、53.0×33.0㎝、1926年、ひろしま美術館)

 この作品は、カンヴァスにデトランプで描かれたようです。「デトランプ」という聞きなれない言葉が書かれていたので、調べてみました。すると、これは岩絵の具をポリビニール溶液に混ぜた画材で、比較的早く乾く性質があることがわかりました。

 さて、この作品では、裸婦といいながら、女性の後ろ姿が描かれています。丸味を帯びた肩、平たい臀部からは明らかに日本人女性だということがわかります。凹凸に欠けた裸身で、しかも後ろ姿ですから、どちらかといえば、印象に残りにくい作品です。ただ、この作品を見たとき、私はきめ細かな肌の美しさに強く引き付けられました。

 岡田氏はおそらく、日本人女性特有のきめ細かな肌をどのように表現するか、思案し、工夫を重ねたのでしょう。その結果、しつこさを払拭しきれない油彩ではなく、デトランプを使ったのではないかという気がします。色彩の混合を工夫するだけではなく、材質、技法などを変えて、裸婦像の表現に挑んだのです。

 ただ、残念ながら、この作品には観客の心を射抜く突き抜けたものが感じられませんでした。おそらく、岡田氏自身、そう感じていたのではないかと思います。というのも、この作品を発表した翌年、「あやめの衣」(1927年)を制作しているのです。


(油彩・厚紙、カンヴァス、1927年、ポーラ美術館)

 こちらは裸身ではなく、肩肌を脱いだ女性の後ろ姿ですが、先ほどの裸身よりもはるかに妖艶で、惹きつけられます。

 油彩画は通常、麻布のカンヴァスの上に油絵具を載せます。ところが、この作品の場合、岡田氏はカンヴァスの上にクラフト紙を置いて、その上に油絵具を載せているのです。そうすることによって、クラフト紙が油を吸収し、油絵具独特の光沢がなくなり、落ち着いた色合いになります。

 この技法を、岡田氏はフランス留学中に知ったといいます。

 日本人女性の肌、着物の質感などをリアルに表現するには油絵具は強すぎて、柔らかなニュアンスを表現するのが難しいのですが、このようにクラフト紙を介在させることによって、その難点を低減させることができます。

 興味深いことに、岡田氏は「裸婦」ではデトランプを使い、「あやめの衣」ではクラフト紙を使って油彩特有のテカリを抑えています。ひょっとしたら、岡田氏は油彩で日本人女性を表現することになにがしかの抵抗感をおぼえていたのではないかという気がします。

 ちょっと調べてみました。

 岡田氏は1897年から1902年にかけてフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事していました。コラン氏からは、ホルバイン、レンブラント、ボッチチェリなどの絵を模写するよう指導されていたといいます。

 ルーブル美術館に通って毎日、模写に励みながら、岡田氏は次第に、諸作品に反映された西洋文化の厚みに圧倒されてしまったそうです。模写しながら、日本人である自分はどのような絵を描いていこうかと悩んだといいます。ようやく辿り着いた先が、西洋と日本とが融合した絵でした。

 帰国後、洋画の技法を使って、着物姿の女性を描いていきました。「あやめの衣」は西洋文化と日本文化の融合した作品だといえるでしょう。岡田氏の傑作です。

■和田英作氏の「こだま」(1903年)

 「わが青春の上杜会」展に展示されていたのは、藤島氏と岡田氏の裸婦像でした。和田氏にも裸婦像はないかと調べてみたところ、実は、和田英作氏も裸婦像を描いていることがわかりました。

 和田氏は1900年にフランスに文部省留学生として渡仏し、アカデミイ・コラロッシに在籍してラファエル・コラン氏の指導を受けました。その留学中に制作した裸婦像が、「こだま」と題された作品です。


(油彩、カンヴァス、126.5×92.0㎝、泉屋博古館)

 薄暗い森の中で、大きく目を見開き、両手を両耳に当てた姿がなによりも印象的な作品です。人気のない森の中で、何かが木霊しているのでしょうか。描かれた女性の顔面からは、どことなく不安感がにじみ出ています。

 片腕にまとった薄衣は下半身を覆っていますが、上半身は裸身です。通常なら、観客の視線は身体に引き寄せられるのでしょうが、この作品の場合、両手と顔面に向けられてしまいます。なんといっても、この顔面と耳に手を当てた所作とが気になります。

 見ているうちに、ふと、ムンクの「叫び」を連想してしまいました。


(油彩、カンヴァス、91×73.5㎝、オスロ国立美術館)

 描かれた人物が男性なのか、女性なのか、若いのか老いているのか、基本的な属性すらわかりません。何かに怯えているかのように、耳を両手で塞ぎ、大きく口を開けています。髪の毛がないせいか、不安、恐怖、怯えといった情動がことさらに強調されています。

■「こだま」と「叫び」

「こだま」と「叫び」を見比べてみました。目を大きく見開き、両手を耳に当てているところが共通していますが、ムンクの作品の場合、不安感ばかりか恐怖心までも強く伝わってきます。遠景の赤い空、中景から近景にかけて流れるように落ちてくる黒い濁流のようなものが、手前の人物の恐怖心や不安感を強調しているからでしょう。独特の筆触と色彩とで創り上げられた心象風景です。

 一方、和田氏の作品の場合、両手は耳を塞いでいるのではなく、耳の後ろに当てて、何かを聞き取ろうとしているように見えます。作品タイトルから推察すれば、木々の間で微かに「こだま」する音を聞き取ろうとしているのでしょうか。この作品から不安感は感じられますが、恐怖心は感じられません。

 さて、「こだま」で描かれている裸婦は、顔貌といい、身体つきといい、明らかに西洋人女性です。留学中に描かれた作品なので、当然のことですが、その背景と裸婦の表情とに整合性がみられず、違和感が残ります。

 薄暗い森の中で、半裸で佇む女性を描いても、なんら不思議はありませんが、なぜ、両手を両耳に当てているのか、なぜ、大きく目を開き、口を半開きにしているのか、モチーフの表情と所作が意表を突くものであっただけに、気になりました。しっくりこないのです。

 これが抽象的な描き方なら、別段、不思議に思うこともなかったのでしょうが、リアリズムの手法で描かれていたせいか、違和感を覚えました。

 とくに両手を両耳に当てるという所作が強烈で、ムンクの作品を連想せずにはいられません。二番煎じのそしりを免れないという気がするのです。

 ちなみに、「叫び」が発表されたのが1893年、ムンクの日記によると、自身が感じた幻想を踏まえて描かれた作品だといわれています。

 一方、和田氏が渡仏したのは1900年3月で、以後、1903年7月に帰国するまで、アカデミックな洋画技法を学び、創作活動も展開していました。当然のことながら、1893年に制作されたムンクの「叫び」は知っていたでしょう。

 和田氏がこの作品に接したとき、大きく心を動かされたのではないでしょうか。当時、ラファエル・コランから学んでいたのはアカデミックな画法でした。それだけに、内面を重視したムンクの表現主義的な技法に惹かれるものがあったのではないかという気がします。

 1903年に帰国すると、和田氏は第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品し、2等賞を受賞しています。その後、1927年に開催された明治大正名作展では、「こだま」が展示されました。当時の日本社会では、一風変わったこの裸婦像が評価されていたことになります。

■裸体画は西洋画の基本

 岡田三郎助氏、和田英作氏は共にフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事しました。一方、藤島武二氏は、彼らよりも遅く、1904年に文部省の命を受け、渡欧しています。パリでは私塾に通った後、エコール・ボザールで学び、歴史画や肖像画で名を馳せたフェルナン・コルモンから薫陶を受けました。

 1907年12月にフランスでの滞在を終えた藤島氏は、次にコルモンの紹介で肖像画を得意としていたカロリュス・デュランに師事し、1910年1月に帰国しました。ローマに滞在することによって、ルネサンス期の美術に触れることができ、古代ローマの遺跡を訪ねることもできました。ラファエロ・コラン氏に師事した岡田氏や和田氏とはまた違った美術体験をしていたのです。

 ちなみに、フェルナン・コルモン氏は「海を見る少女」(油彩、カンヴァス、123.0 ×155.0㎝、1882年)という裸婦像を残していますし、カロリュス・デュラン氏も「アンドロメダ」(油彩、カンヴァス、210.0×95.0㎝、1887年頃)というタイトルの裸婦像を描いています。いずれもリアリズムの手法で描かれており、大作です。

 両氏に師事した藤島氏も留学中に、何点か裸体画を描いています。素描であったり、習作だったりするのですが、女性に限らず、男性も、さまざまなポーズで描かれており、西洋画では、裸体を描くことが人物画を習得するうえでの基本だったことがわかります。

 東京美術学校の西洋画科を主導した黒田清輝氏は裸婦像を発表するたび、一大騒動を巻き起こしました。それでも敢えて発表し続けたのは、裸体を描くことが西洋画の基本だったからでした。

 興味深いことに、黒田氏の弟子筋に当たる藤島氏、岡田氏、和田氏の裸婦像については別段、問題視されてはいませんでした。時代が変化したからなのか、観客の意識が変化したからなのかはわかりません。いずれにしても、黒田清輝が巻き込まれた数々の騒動を思い起こせば、創作者は常に変革者であり、そして、世間から非難を浴びる存在なのだということを思い知らされます。(2020/12/27 香取淳子)

「わが青春の上杜会」にみる同窓の力

■「わが青春の上杜会」開催

 神戸市立小磯記念美術館で、いま、「わが青春の上杜会」展が開催されています。開催期間は2020年10月3日から12月13日までなので、関西に出かけたついでに立ち寄ってみました。

 阪神電車の魚崎駅で六甲ライナーに乗り換え、アイランド北口駅で下車すると、すぐでした。六甲アイランド公園を神戸市立小磯記念美術館に向かって歩いていると、「わが青春の上杜会」展のポスターが掲示されていました。

 

 下っていくと、右側に瀟洒な建物が現れてきました。これが小磯記念美術館です。

 この美術館は、神戸で生まれ、神戸で制作を続けた画家・小磯良平氏を記念し、神戸市が1992年に設立したものです。

 小磯氏は1988年12月に亡くなりましたが、その翌年、遺族から、油彩・素描・版画などの約2000点の作品とともに、アトリエや蔵書、諸資料が神戸市に寄贈されたといいます。神戸市はそれらの作品をただ保存するだけではなく、さらに作品の収集に努め、現在、約3200点もの作品を所蔵します。そのような経緯を知ると、この美術館が、「神戸市立小磯記念美術館」と命名された理由がわかります。

 美術館の中庭にはアトリエが移築されていますから、そこで、小磯氏の制作情景を偲ぶことができます。作品を鑑賞するだけではなく、作品を生み出した場所を見て、作品化の過程を追うことができるのです。芸術を鑑賞する醍醐味を徹底的に味わうことができるのです。

 美術館は年に数回、展覧会を開催して、作品の入れ替えを行っています。その上、小磯良平氏に関する特別展も開催しています。今回の展覧会「わが青春の上杜会」はその特別展の一環でした。

 それにしても、「上杜会」というのは、どういう意味なのでしょうか。最初、聞きなれない言葉に戸惑いました。サブタイトルが「昭和を生きて洋画家たち」となっていますから、昭和に活躍した洋画家たちの作品が展示されるのだろうということはわかりますが、それ以外は皆目わかりません。

 パンフレットを見ると、「上杜会(じょうとかい)は、東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”と称された1927年卒業生が、若き情熱を持って結成した美術団体です」と書かれています。これで、「上杜会」が美術団体の名前だということがわかりました。

■上杜会とは

 その後の説明を読み、「上杜」が、東京美術学校(現在;東京芸術大学)のあった「上野の杜(森)」にちなんで名づけられたことがわかりました。つまり、東京美術大学西洋画科を1927年に卒業した人たちのグループ名だったのです。

 パンフレットには、「東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”」と書かれています。どうやら、その秀才たちが互いに刺激し合い、しのぎを削り合って、力を向上させていったようです。

 神戸市立小磯記念美術館の高橋佳苗氏は、小磯良平氏の次のような言葉を紹介しています。

 「油絵(科)はよう勉強した。好きで好きでしょうない連中ばっかりや。自分の技術は生半可なくせして、理想が高いからお互いに容赦せん。なんちゅうたかて、友だちの影響は大きい」(図録『わが青春の上杜会』、p.24)

 小磯氏が懐古していたように、当時、西洋画科の学生たちは、とてもよく勉強したようです。絵が好きでしょうがないから、制作技法にしろ、題材にしろ、議論し合い、遮二無二勉強したのでしょう。

 小磯氏の言葉からは、秀でた能力を持つ若者たちが理想を高くかかげ、切磋琢磨し合いながら、創作に励んでいた様子がうかがえます。

 小磯氏が「友だちの影響は大きい」と指摘していたように、優秀な学生たちは容赦なく相手の作品を批判しました。批判された側は、それに発奮してさらに努力するといった具合で、制作のための好循環が生まれ、メンバーの能力が飛躍的に向上していったのでしょう。

 それを証左する事例があります。

 東京美術学校に1922年に入学した学生たちは、当時もっとも権威のあった「帝国美術院美術展覧会(帝展)」に、次々と出品していました。

 たとえば、小磯氏は、先に帝展に入選した同級生たちから刺激を受け、1925年の第6回帝展で初入選し、1926年の第7回帝展で特選を獲得しました。その小磯氏の刺激を受けて、第7回帝展に猪熊弦一郎氏、矢田清四郎は入選といった具合でした。

 このように華々しい活躍を展開する同級生たちは、互いのつながりこそが創作の源泉になることがわかっていたのでしょう、卒業の一年前に、美校中退者や留学生を含め44人の同級生によって「上杜会」が結成されました。

 青春の真っ只中で結成されたクリエイティブ集団でした。入学した1922年から卒業の1927年までの間、彼らは相互に刺激を受け合いながら学び、創作家としての孵化期間を過ごしていたのです。

■展覧会の構成

 展覧会は、「上杜会」の結成を序とし、その後のメンバーの活躍を、①昭和2年から昭和11年(1927-1936)、②昭和12年から昭和20年(1937-1945)、③昭和21年から平成6年(1946-1994)の三部構成で組み立てられていました。

 同窓で切磋琢磨し合った若者たちが、上杜会を結成しました。メンバーがその後、どのように才能に磨きをかけ、それぞれの人生を切り開いていったのか、折々にどのような作品を残していったのか等々、長いスパンで画家の人生と作品を把握できる構成になっていました。

 上杜会のメンバーが、どのような人生行路を歩んできたのか、大きな時代の節目で創作家としてどう対処し、どのような作風を築き上げていったのか、同窓という観点から構成されていたので、作品をさまざまな観点から、立体的に鑑賞することができ、とても興味深い企画でした。

 展示作品を一覧して、惹かれたのは、小磯良平氏、猪熊弦一郎氏、犬丸順衛氏、牛島憲之氏、高野三三男氏、岡田謙三氏、矢田清四郎氏などの作品でした。このうち、最も若くして亡くなったのが、犬丸順衛氏(1903-1939)で享年35歳でした。最も長寿だったのが、牛島憲之氏(1900-1997)で97歳です。

 同窓でありながら、寿命という点では60年以上の開きがあるのです。

 興味深いことに、美校在籍時は両者とも、岡田三郎助教室に所属していました。青春の一時期、共に濃密な時を過ごしたというのに、一方は早く世を去り、他方は東京芸術大学で後進を指導したばかりか、1983年には文化勲章まで受章しています。運命を感じずにはいられません。

 まず、この両者の作品から見ていくことにしましょう。

■犬丸順衛:「永眠―父市郎次」

 会場でこの作品を見たとき、とても印象深く、しばらく佇んで見ていました。死に顔が描かれているというのに、不思議なほど穏やかに、しかも、尊厳を持って描かれているように思えたからでした。

(油彩、カンヴァス、50.5×60.4㎝、1926年)

 目を閉じた顔になんら迷いはなく、苦しみも感じられず、ひたすら静謐感が漂っています。しかも、額と顔の右側が明るく描かれているせいか、光に包まれて、安らかに昇天している途中のようにも見えます。柔らかな光の下、威厳を失わず、ただ眠っているだけのように描かれているところに、父を慕い、敬う犬丸氏の気持ちが透けて見えます。

 父が旅立ったのは、犬丸順衛氏が23歳、美校の最終学年を迎える年でした。

 絵筆を走らせながらも、静かに永遠の別れを受け入れようとしていたのでしょう。この作品には、悲しみを乗り越えようとする犬丸氏の悟り、あるいは、達観といったようなものが感じられます。心の奥深く語りかけてくるような作品でした。

■牛島憲之:「炎昼」

 会場でこの作品を見たとき、対象の捉え方になんともいえない斬新さを感じました。

(油彩、カンヴァス、121.0×60.5㎝、1946年)

 モチーフすべての境界が曖昧で、朦朧としており、捉えどころがありません。画面いっぱいに描かれた蔓性の植物がいったいどこから生えてきて、どこまで伸びているのかもわかりません。ぶら下がった白い実も同様、まるで周囲の空気に溶け込んでいるかのようにぼんやりと描かれています。

 一方、後ろの方に見える電柱は淡い色彩で描かれていますが、境界がはっきりしているので、小さくても存在感があります。遠方の小さな電柱が、大きく描かれた蔓性の葉と実と拮抗するパワーを持っているのです。

 この作品では全般に、近景のモチーフは大きく描かれているのですが、境界が曖昧で、色彩のコントラストも低く、存在感は希薄です。遠景のモチーフも周囲との色彩のコントラストは決して高いとはいえません。

 ところが、境界がはっきりと描かれているので、視認性が高く、存在感があります。そのせいか、なんの変哲もないモチーフなのに、ストーリー性が感じられます。全体にぼんやりとした色調の中で、近景と遠景のモチーフの描き分けに妙味があります。

 これは1946年、牛島氏が46歳の時の作品です。色合いといい、構図といい、なんともいえない魅力があって、長く見続けていても飽きることがありませんでした。見たものをそのまま描くのではなく、いったん内省化し、改めて作者の観点から組み立て直して、表現しているところに創意が感じられるからでしょう。

 細い線を部分的に取り入れることによって、独特の雰囲気を醸し出している作品がありました。洗練された雰囲気に惹かれました。岡田謙三氏の作品です。

■岡田謙三:「窓辺(ノクターン)

 窓辺で女性が二人、座っています。左側の女性は目を閉じ、肩ひじを窓枠に乗せ、何かに聞き入っているようです。ノクターン(夜想曲)でも聞いているのでしょうか。右側の女性は今にも立ち上がって、踊りだしそうです。

(油彩、カンヴァス、193.8×145.5㎝、1948年)

 この作品を見て、まず気づくのは、随所に細い線を書き込み、モチーフに動きと表情を加えていることです。

 左側の女性の傾いた頭部、そして、右側の女性の片側のフェイスライン、細い線を描き込んだだけで、その場の状況や顔の表情、感情までも表現できています。衣服や身体についても同様、細い線を要所、要所に描き込むだけで、身体の動きや構造、衣服の質感を表現することができています。

 不透明な淡い色調の画面からは、二人の女性が窓辺で過ごす午後のけだるさが伝わってきます。都会的な物憂さと繊細さが表現されています。

 これは1948年、岡田謙三氏が46歳の時の作品です。

 岡田氏は東京美学校を中退し、パリで学んでいます。そう言われて見ると、画面の色調といい、モチーフといい、いかにもフランス的なシャレた感覚が画面全体に満ち溢れています。

 この岡田氏を誘って1924年、共に中退してパリに遊学したのが高野三三男氏でした。彼もまた日本人画家には見られない作風の作品を手掛けています。

■高野三三男:「人形を持ったパリジェンヌ」

 金髪の女性が目を閉じ、赤いマニキュアを塗った指で人形を軽くつかんでいる様子が描かれています。いかにもパリジェンヌといった感じの、優雅でオシャレな女性です。

(油彩、カンヴァス、65.5×4.5㎝、1924-50年)

 全体に淡い色調でまとめられている中で、女性の真っ赤な口紅、金髪の巻き毛がひときわ目立ちます。典型的な西洋の女性美が描かれているのです。1924年から40年にかけて制作されたことになっていますが、おそらく、パリに出かけたときに描き始め、完成させたのが、その十数年後ということになるのでしょう。

 なぜ、そう思うのかといえば、高野氏が1937年に制作した「ヴァイオリンのある静物」の中で描かれた女性が、この「人形を持ったパリジェンヌ」で描かれた女性とそっくりなのです。金髪巻き毛の様子、真っ赤な唇、長いまつげ、透明感のある肌といった要素が驚くほど似ています。ということからは、高野氏がパリジェンヌという女性像をこのころに完成させたことが示されています。

 この作品で描かれているのは、都会的で、ちょっと傲慢なところがある一方で、完璧な美しさを心掛けるという女性の類型です。「人形を持ったパリジェンヌ」は、画面全体が淡い色調で収められているせいか、都会的で、洗練された優雅さが感じられ、惹かれます。

 パリに長く滞在していなければ、決して、このような作品を描くことはできないでしょう。この作品から浮き立ってくるのが、典型的な西洋の女性美の一つでした。

 一方、昭和初期の日本の女性美を過不足なく描いたのが小磯良平氏でした。

■小磯良平:「T嬢の像」

 第7回帝展で小磯氏が特選を獲得したのが、「T嬢の像」でした。

(油彩、カンヴァス、116.8×91.0㎝、1926年)

 着物を着た女性が手を組み、椅子に座っています。視線は窓の外に向けられ、何かに思いを馳せているように見えます。肌の艶、手指の繊細な表現、着物の質感など、見事な表現力です。華奢な女性が醸し出す嫋やかな風情、憂いを含んだちょっと寂し気な表情などが丁寧に捉えられています。日本の女性美の典型の一つといえるでしょう。

 これは小磯氏が23歳の時の作品です。上杜会のメンバーで、最も早く帝展に入選したのは永田一脩と中西利雄でした。小磯氏は彼らの刺激を受けて発奮し、第6回帝展で入選しました。ですから、入選した翌年に特選を受賞したことになります。小磯氏は、藤島武二教室に所属していました。

 小磯氏が特選を受賞した1926年に帝展に初入選したのが、猪熊弦一郎氏の「婦人像」と矢田清四郎氏の「足拭く女」でした。藤島武二教室の猪熊弦一郎氏が24歳、岡田三郎助教室の矢田清四郎氏は26歳でした。上杜会のメンバーが次々と入選していたのです。

 それでは、両者の作品を見ていくことにしましょう。

■矢田清四郎:「足拭く女」

 珍しく、裸婦像です。一見、模写かと思いました。

(油彩、カンヴァス、116.7×90.9㎝、1926年)

 それほど当時の日本人女性には珍しく均整の取れた体つきでした。そのポーズも日本人らしくありません。

 左腕を椅子の縁に置いて身体を支え、右手で足裏を拭いています。日常生活で見かける光景ですが、そこに意図しない美しさがにじみ出ています。足裏を掴んだ腕と身体の側面が三角形を型作り、安定感と適度な揺らぎのある構図になっています。

 左上の壁には小さな鏡が掛けられており、女性の後頭部と肩の一部が映っています。こもモチーフを加えることによって、空間の広がりと奥行きを感じさせるだけではなく、メインモチーフを生活実態のある女性像に仕上げる効果を生んでいます。

 背後に鏡を設定することによって、うつむき加減の女性の表情が、ことさらに印象づけられるからでしょう。そして、想像力がかきたてられます。バランスの取れた構図で品よくまとまっており、ありふれたものの中に見出された美しさとでもいえるようなものが感じられました。

■猪熊弦一郎:「馬と裸婦」

 猪熊弦一郎も1926年、「婦人像」で帝展に入選しました。ところが、その作品は今回の展覧会で展示されていませんでした。ネットで見ると、どうやら裸婦像のようです。そこで、展示作品の中から猪熊氏の裸婦像を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、182.3×291.5㎝、1936年)

 これは、猪熊氏が最初に帝展に入選してから、10年後の作品になります。ネットで見た「婦人像」とは肌の色合いもポーズも異なりますが、リアリズムではない点で、作品の雰囲気は似ています。

 猪熊氏は藤島武二教室に所属していましたが、入学して早々に、肋膜を患い、休学をしていました。1926年に第7回帝展に初入選を果たしますが、その後、再び病状が悪化し、1927年には中退しています。

 それでは、「馬と裸婦」を見てみましょう。

 立っている裸婦と横たわっている裸婦が二人、前景に描かれています。身体に明るいサーモンピックがあしらわれているせいか、若々しく見えます。その背後には、馬が2頭、こちらに顔を向けているものとお尻を見せているものが描かれています。いずれもデフォルメされており、猪熊氏独特のフィルターを通した造形になっています。

 この作品を見てまず、目につくのは、立っている裸婦です。大きな乳房の片方は垂れ下がり、脛よりも長い太腿は太く、がっしりとしています。体形からいえば、日本人女性に見えます。

 黒い髪のおかっぱ頭で、意思の強そうな顔つきです。両手を腰に添え、恥じることなく堂々と裸体を曝して遠方を見据える姿からは、新時代の女性像を象徴しているように見えます。

 先ほどもいいましたように、猪熊氏は藤島武二教室の所属していました。ところが、上記の猪熊氏の作品は藤島武二氏の画風とは大幅に異なります。なぜなのか、ふと、気になり出しました。

 図録を読んでいると、関連する記述がありました。豊田市美術館の成瀬美幸氏が資料に基づき、次のように書いていたのです。

「デッサンが悪い、デッサンが悪いと言ってすーっと帰られる。(中略)教えないけど教えるような教育、心の教育を、昔の教授はしっかりと持っていました」

(図録『わが青春の上杜会』、p.16)

 どうやら、藤島氏はほとんど指導しなかったようです。これを読むと、藤島氏はおそらく、具体的な制作指導をせず、デッサンや作品との向き合い方など制作にかかわる心構えのようなものだけを伝授していたのでしょう。

猪熊氏の場合、美術学校を中退していますし、この時点ではどこかに留学した様子もありません。おそらく、インパクトの強いこの画風は、猪熊氏が独自に開発したものなのでしょう。とても引き付けられます。

■同窓の力

 上杜会のメンバーは44名でしたが、ここでは、たまたま私が興味を覚えた7作品をご紹介しました。いずれも初期の作品を取り上げました。

 作品をご紹介していく中で気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、上杜会の、家族のような支援機能です。

 最初にご紹介した犬丸順衛氏は、35歳で亡くなっていますが、結核性脊椎カリエスのため郷里に引きこもっていました。そのような順衛に対し、多くの上杜会のメンバーがハガキを随時、書き送っています。親族の犬丸哲朗氏によると、それに刺激され、順衛もいつかはパリに行こうとフランス語の勉強をしていたといいます。

 とくに猪熊弦一郎、小磯良平などは頻繁に順衛にハガキを出していました。病床に伏せながらも、どれだけ心慰められていたことでしょう。順衛は卒業後10年余、養生しながらも絵筆を握って風景などを描いていました。絶筆は水仙を描いた色紙だといいますが、上杜会のメンバーとつながっているという意識が大きな心の支えになっていたに違いありません。

 親族の犬丸哲朗氏は、「順衛は妻帯もせず早逝してしまったが、決して不幸ではなかったよと教えてあげたい」と書いています。(図録『わが青春の上杜会』p.64-66)

 また、上杜会は美術情報の共有、外国生活での便宜供与など、画家として活躍するうえでの支援装置としても機能していたようです。

 たとえば、病気がちだった猪熊弦一郎氏は美術学校を中退します。その後も制作活動を続けていましたが、支えになり、刺激になっていたのは上杜会のメンバーとの交流でした。念願かなって35歳のとき、渡仏し、パリにアトリエを構えることができました。そのときも、頼りになったのが、上杜会のメンバーでした。

 実際、留学経験のある小堀四郎氏は、猪熊氏がパリで学ぶことを知ると、現地での生活の方法、美術館情報など事細かに描いて猪熊氏に送っています。また、パリに着いてから、猪熊氏は、現地で生活していた萩須高徳氏、高野三三男氏などと親しく行き来し、生活の便宜を図ってもらい、美術情報等を得ています。

 おかげで猪熊氏は、憧れのパリで数多くの名画に学ぶことができ、貪欲に制作に励むことができました。そればかりか、戦争の気運が高まる中、藤田嗣治氏に誘われ、早々に疎開し、難を逃れることができました。上杜会のメンバーの伝手で藤田氏とも親交を結んでいたおかげでした。

 戦況が悪化し、疎開しなければならなくなると、メンバーは互いに便宜を図り合いました。そして戦後、様々な苦難を乗り越えてきた彼らに待ち受けていたのは、美術の潮流の大きな変化でした。

 こうしてみてくると、上杜会のメンバーは、卒業してもその繋がりのおかげで励まされ、苦難を乗り越えてこられたのだということを実感させられます。上杜会のメンバーは東京美術学校の中でもきわめて優秀な人材が集まったといわれていますが、ただ優秀なだけではなく、お互いに刺激し合い、繋がり合うことによって、上杜会は、画家としての彼らを支え、創作に励むことができる環境作りに寄与してきたのではないかと思いました。

 長いスパンで上杜会を見てくると、メンバーたちは試行錯誤して制作し、相互に作品をチェックし合って、技術力、創作力を高める場として機能していたことがわかります。そもそも芸術など創作に関わる領域では、基本的なこと以外、学校で指導するのは難しいでしょう。それだけに学生たちにとっては刺激し合える環境が大きな意味を持ったのだと思います。

 この展覧会に参加し、上杜会メンバーの個々の作品を鑑賞できただけではなく、創作環境に必要なものとしての繋がりの場の大切さを思い知らされました。興味深い視点からの企画でした。(2020/11/30 香取淳子)

オリンピックは中止か、モデルチェンジか。

■新宿西口の地下道

 久しぶりに新宿西口地下道を歩いていると、昨年と変わらないオリンピック・パラリンピックを伝える一連のパネルの中で、開催日付を告知したパネルが書き換えられているのが目に付きます。

 

 開催日付が「7.23-8.8 2021」となっているのに、その上には「TOKYO 2020」と書かれているのがなんともチグハグデ、妙な感じです。2021年に開催されるというのに、タイトルが「TOKYO 2020」なのです。来年開催予定の東京オリンピックの矛盾がこんなところに端的に示されているような気がしました。

 反対側を見ると、柱に青色や緑色で競技のシンボリックな図案が描かれています。

 

 赤い色の図案もあります。

 

 図案そのものは洗練されており、色調もすばらしいものでした。ところが、どれにも、「TOKYO 2020」と書かれているので、やはり違和感が残ります。来年になると、そのような思いはさらに強くなるでしょう。

 2021年に開催するというのに、「TOKYO 2020」というタイトルは変えていません。そんなところに、なんとしても開催を強行しようとする主催者側の強引な姿勢が透けて見えます。もちろん、コロナ下の今、欧米ではさらに感染者数が増加しています。それでも、相変わらず、主催者側は「開催」の一点張りです。

 2020年5月時点でIOCのジョン・コーツ調整委員長は、オリンピック開催の可否は10月になるだろうといっていました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59434380S0A520C2EAF000/

 ところが、なんの決断も下さないまま、11月を迎えようとしています。バッハ会長が11月中旬に訪日するといわれていますが、果たしてどうなるのでしょうか。IOC、日本政府、組織委員会、東京都、関係者はいずれも表向きの見解はあくまでも開催を主張しています。

■立て続けに報道されたオリンピック対策

 10月20日以降、立て続けにオリンピック対策の関連情報が報道されました。目に付いた記事をざっと紹介しておきましょう。

 2020年10月21日、「五輪選手村に医療体制集約」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGXMZO65230610Q0A021C2CR8000?s=4

 これを読むと、組織委員会と東京都は、選手村の中に発熱外来や検査設備を設け、コロナ感染者が出た場合、宿泊施設で療養できるよう検討しているそうです。一種の隔離政策といえるでしょう。たとえ感染者が出たとしても、選手村周辺に医療体制を集約させておけば、一般の人々への感染を防ぐことができ、東京都全体への波及を防御できるという算段です。

 選手村は21棟の宿泊棟と食堂などの関連施設で構成されています。そこにピーク時にはスタッフを含め約3万人が活動することになるといいます。それだけ多くの人々が選手村で活動すれば、一人でも感染者が出ればたちまちクラスターが発生するのは必然です。

 その感染者が仮に選手村の外で受診したりすると一般の人々に感染していく可能性があります。それを考えての対策なのでしょうが、それでは、ボランティアが感染した場合、それよりはるかに数の多い観客が感染した場合はどうするのでしょうか。参加者全体への目配りに欠けているのが気になります。

 そう思っていると、2020年10月21日には、「五輪観客に顔認証を検討」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGXMZO65291520R21C20A0CC1000

 五輪開催に向けて、政府は顔認証技術を使ったシステムを新型コロナウイルス対策として活用する方向で調整に入ったというのです。

 競技場に入る際、観客の体表面温度を検温するだけではなく、観客の顔を記録するといいます。その画像情報を基に、会場内の防犯カメラで移動経路などを記録し、後に感染が発覚した場合に濃厚接触の可能性ある人を推定し、集団感染を防ぐというのが目的だというのです。

 この対策について、この記事を書いた記者は、「観客への活用はプライバシーの観点から反発も予想され、データ管理のあり方を含めて慎重な検討を求められそうだ」と指摘しています。たしかにコロナ禍を機に中国で普及したこの技術が、日本でも簡単に導入できるとは思えません。

 しかも、ここでは観客の中から感染者が出た場合の医療体制が示されていません。世界の感染者数を見ると、日本はそれほどでもありませんが、欧米をはじめ各国の感染者数は桁違いに多いことに注目すべきでしょう。オリンピックには多数の外国人が参加しますから、観客の中からも感染者が出ることは想定しておく必要があります。

 2020年10月24日、「五輪外国人客の入国許可」(日経新聞)というタイトルの記事が気になりました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65411260T21C20A0EA2000/

 海外からの入国は、五輪観戦を目的とした来日に限定し、一般的な観光目的の入国は認めない方向だといいます。さらに、日本がこれまで入国を原則拒否している国・地域の選手らも特例的に入国を認めるというのです。

 安全を担保するため、コロナ陰性証明書の取得や移動先を記した活動計画書の提出を条件とするとしていますが、いま、欧米を中心に新型コロナの感染は再拡大しています。たとえ、コロナ陰性証明書を持っていたとしても、その後、陽性になることはこれまでも度々報告されています。有効なワクチンも開発されていないというのに、世界各地から観客が多数集まってくるのです。

 彼らはせっかく日本に来たのにオリンピックの観戦だけで済ませようとは思わないでしょう。移動先を記した活動計画書を提出したとしても、どれほどの人々がそれを守るでしょうか。観客がこぞって街中に繰り出せば、日本国内で一気に感染が拡大する可能性は高いといわざるをえません。

 そもそも海外からの受け入れ先である成田、羽田、関西国際の3空港で、現在、入国者検査は1日当り合計で1万人しか対応できないといいます。11月中に新千歳、中部、福岡の各空港でも対応できるようにし、1日合計で2万人に検査できるようにするといいますが、それでは、五輪に合わせて集中して来日する多数の外国人には対応しきれないでしょう。

 現在、五輪に参加する選手は1万5000人程度、大会関係者を含めると、約7,8万人といわれていますが、この数字に観客は含まれていないのです。こうしてみてくると、新型コロナの水際対策の側面からみても、五輪開催は不可能だといわざるをえません。

 こうしてみてくると、安全を確保するには、膨大な観客をコントロールすることができるのかという問題が大きく横たわっていることに気づきます。

2020年10月26日、「五輪開場、開催へ試金石」(日経新聞)という記事がありました。

こちら → https://r.nikkei.com/article/DGKKZO65379570T21C20A0CR8000

 10月30日から11月1日にかけて、横浜スタジアムではDeNA対阪神の3連戦が開催されます。そこで、収容人数8割以上を入れた場合の感染リスクやその対策を把握するための実験を行うというのです。元々、横浜スタジアムは東京五輪の競技会場になる予定になっていますから、多数の観客の動向を把握するには恰好の実験場といえます。

 実験では、スタンドやコンコース、球場外周に計13台の高精細カメラを設置し、3日間をかけて、トイレや売店周辺の混み具合、入退場時の人の流れ調べ、感染者が出た場合に速やかに通知する仕組みを検証するといいます。

 感染防止策としてはスマホを活用し、場内数十カ所に配置したビーコン(電波受発信器)を介して、観客がトイレや売店の混雑状況をリアルタイムで把握できるようにし、密を防ぐといいます。

 果たして、これでどれほどの効果が期待できるのでしょうか。またしても効果があるのか疑問に思えてきました。そもそも密を避けるには、トイレや売店を増やし、観客が集中しないよう分散を図ることの方が重要でしょう。

 一方、スタンド内の二酸化炭素の濃度や風速計による空流のデータなどをスーパーコンピューターで解析し、声援による飛沫の広がりを分析するといいます。3日間のうち、30日は8割、31日は9割、11月1日は満席としたうえで実験するといいますから、粗密の程度が感染にどのように影響するのか、興味深いデータが得られるかもしれません。

 もっとも、それがわかったからといって、どのように感染を防ぐのかといったところまで対策は練られていません。スポーツ大会に声援は付き物で、飛沫の拡散は当然視しておかなければならないでしょう。重要なのは感染者が撒き散らす飛沫をどのように防ぐのかということですが、そこまでは考えられていないのが気になります。

 そして、2020年10月28日「五輪、感染対策へ司令塔」(日経新聞)という記事が出ました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65526560X21C20A0CR8000/

 こちらは、組織委員会の「メインオペレーションセンター」に、新型コロナ対応の司令塔となる「感染症対策センター」を設置し、選手の健康状態を常時モニタリングし、感染者発生時に迅速に対処できる体制を整えるというものです。

 選手村には大会時には最大で1万8000人が宿泊し、スタッフも含めると、約3万人が活動することになります。選手村周辺に感染対応機能を集約させ、ワンストップで新型コロナに対応できる体制を整備するというのです。選手村でのクラスター化を防ぐことができれば、一般市民が利用する医療機関への影響を極力抑えることができるという目論見です。

 この対策は最初にご紹介した「五輪選手村に医療体制集約」という記事の続きで、ただ司令塔を設置したというだけのものです。問題は、この記事を見ても、選手以外の大会関係者に対する対策についてはまだ練り上げられていないことです。IOCや各種競技団体、メディアやボランティアなどについてもまだ今後検討するといった段階です。

 10月20以降に報道された一連の対策をみてみると、全体を俯瞰する視点がみられないのが気になります。選手だけではなく、ボランティア、観客を含めた参加者全体の健康をどうするのか、安全に大会を運営できるのか、さらには、それらの対策にかかる費用を捻出できるのか、といった観点が必要なのですが、これまでのところ、それがなく、ただのプランに過ぎないような気がしてなりません。

■ネットで喧伝されるオリンピック中止

 一方、ネットではオリンピック中止情報が度々、取り上げられています。その中心になっているのが、「一月万冊」というユーチューブの番組で、現在の登録者数は7.93万人です。その番組の中で元博報堂社員の本間龍氏はオリンピック中止について何度も言及してきました。

 本間氏の説は憶測が混じり、確証が持てない部分がありますが、コロナ下の状況では納得できる見解の一つといえるでしょう。ごく最近では、TBSから本間氏への取材が放送されなかったことを巡る一件があります。

 11月からチケットの払い戻しされることが10月25日、各メディアで報道されました。このニュースを目にしたとき、中止が決定されたと私は思いました。そもそもIOCは10月に開催の可否を決断するといっていましたから、その結論が出たと思ったのです。

 おそらく、TV局もそのように読んだのでしょう。

 TBSの朝の番組から本間氏に、オリンピックの中止に関する取材依頼があったといいます。取材の際、スタッフは放送を前提にしていたそうです。ところが、取材に応じたインタビュー映像が放送されることはなく、突如、キャンセルされたというのです。

こちら → https://youtu.be/ZuICN8nhSTQ

 ここでは、この件を巡って、本間氏とTBSとのやり取りが示されていますが、この映像を見ただけではなんともいえません。インタビュー映像が放送されなかったのは、単に裏が取れず、TBS側が放送しなかっただけなのかもしれませんし、本間氏がいうようにTBSが電通に忖度した結果なのかもしれません。

 ただ、今回のオリンピック開催に電通が大きく関与していることは確かです。どうやらオリンピックの誘致を巡る問題にも電通が絡んでいそうです。ロイターによれば、電通がオリンピック誘致に巨額の寄付をしたり、ロビー活動をしたことがIOCの規定に抵触する可能性も指摘されています。

こちら → https://jp.reuters.com/article/insight-dentsu-idJPKBN26Z3AU

 以上、みてきたのはほんの一端です。ユーチューブ上では、さまざまな人がさまざまな観点から、オリンピックの中止を指摘しています。欧米等での感染状況、そして、ワクチンの開発状況をみると、2021年の夏、安全に開催できるとはとうてい思えないのですが、どうでしょうか。

 最近報道されたさまざまなコロナ対策をご紹介してきましたが、いずれも決して万全なものではありません。そもそも、コロナ対策ではなによりも密を避けなければならないのですが、大勢の人が集まって大声を出して声援し、観客が盛り上がることによって、大会の魅力が増すのが、スポーツ大会です。つまり、スポーツ大会そのものが密を基盤に成り立っているという仕組みの中で、密を避けなければならないという矛盾があるのです。

 それにしても、わからないのは、なぜ、さまざまな状況から見て、開催が不可能になっているにもかかわらず、関係者は必死になって開催にこぎつけようとしているのでしょうか。

 主催者側はネット上で行き交うオリンピック中止情報を見つければ、その都度、打ち消す報道をしています。そのことが逆に不信感を呼び、かんぐりたくなる原因にもなっているのですが、主催者側は不自然なほど、開催にこだわっています。

 常識的に考えれば、本間氏が指摘するように、オリンピックは中止しかありえませんが、どういうわけか、IOC、日本政府、組織委員会など主催者側は一貫して開催を主張しています。最近は、まるで開催を確かなものにしようとしているかのように、さまざまな新型コロナ対策を示して見せています。

 ところが、それらの対策は決して万全なものではなく、むしろ新たな課題を浮彫にしています。ですから、調べれば調べるほど、ますます開催は不可能なのではないかと思えてくるのです。

 欧米ではコロナ感染はいっこうに衰える気配をみせず、第二波が訪れたといわれるぐらいです。ところが、欧米の実状を肌でわかっているはずのIOCのバッハ会長は、「現在もスポーツ大会は開かれており、(コロナ下でも)実施できるとわかってきた」といい、「来年はワクチンなど、利用できる対策が増える見通しだ」と説明しています(2020年10月8日、日経新聞)。

 IOCもまた、日本政府や組織委員会と同様、コロナ感染状況よりも「開催ありき」で動いていることがわかります。おそらくその背後に利害に関した何かがあるのでしょう。

■オリンピックは中止か、モデルチェンジか

 新宿西口の地下道は、ビル側にオリンピックの告示パネル、遊歩道側の各柱にさまざまな競技の図案が描かれています。とても華やかに地下道を彩っています。その反面、その間を歩く人々に目を向けると、その後ろ姿のなんと弱弱しく見えることでしょう。

 

 コロナ下では誰もが余裕がなくなり、将来に不安を覚えながら生きています。それを象徴するかのような後ろ姿です。いま、ほとんどの人々にとってオリンピックどころではないのですが、主催者側はいまだにオリンピック開催を声高に主張し続け、無駄な出費を積み重ねています。

 早々にオリンピック中止を決定すれば、無駄な出費や海外からの感染リスクを抑えることができるのではないかと思っているのですが、はたしてどうなのでしょうか。

 一説には中止すれば、莫大な費用がかかるといわれています。そこで調べてみると、第一生命研究所の永濱利廣氏は、過去オリンピックを開催した国の経済成長率をベースに、今回、オリンピックを中止した場合、3兆2000億円分の経済効果が毀損されると試算しています。これは消費税増税で民間部門が失った5兆6000億円の6割に相当するそうです。

 3兆2000億円分の毀損といえば、一見、莫大な金額を喪失するように見えますが、オリンピックを中止したからといっていきなり不況に見舞われることはなく、甚大な被害はないと永濱氏はいいます。なんといっても、日本の実質GDPは約500兆円もの規模です。つまり、いまのところ、目先の利益にこだわらず、人々の健康と安全を優先できるだけの豊かさがあるのです。

 都庁駅から新宿駅に向かう西口地下通路を、人々は力なく歩いていました。この人たちが必死に働き、収めた税金でオリンピックが開催されるのです。そう思うと、ふいに悲しい気分がこみ上げてきました。オリンピック開催のために、どれほど無駄な出費が積み重ねられてきたのでしょう。

 疲れ果てて帰路に向かう人々の後ろ姿を見ていると、健康と安全、誠実と努力が報われることの重要性が身に染みて感じられます。今後、そのようなものこそ、予測できない変化が起こり続けるニューノーマル時代に価値を持つようになってくるのではないかという気がしてきました。

 コロナ禍は社会を大きく変え、ニューノーマル時代を到来させました。オリンピックもまた商業主義化した従来のモデルではなく、ニューノーマル時代のモデルを模索すべきでしょう。(2020年10月29日 香取淳子)

再構築:大小島真木氏の作品について考える。

■本展示を見る

 練馬区立美術館で開催されていた「Re construction 再構築」は、2020年8月9日から本展示が始まり、9月27日に終了します。

 プレ展示で大木島真木氏の制作現場を見た私は、是非とも本展示に参加したいと思い、彼女のアーティストトークが行われる9月12日に訪れる予定にしていました。心待ちにしていたのですが、コロナ感染予防のためにトークは中止になってしまいました。それを知った途端に、熱意が薄れ、訪れたのは9月15日でした。

 大小島真木氏の作品は、展示室3で展示されていました。多種多様のマテリアル、夥しい量の作品がそれぞれ、情報を発信しており、どこから見ていいのかわからないほどでした。暗い展示空間の中で、圧倒されるような作品世界が広がっていたのです。

 写真撮影が許可されていたので、印象に残ったところを何点か撮影しました。まずは、それらの写真を手掛かりに、大小島真木氏の作品を見ていくことにしましょう。

■展示作品の概要

 入口から入ってすぐ正面に展示されていたのが、この作品です。ここで描かれている大きな木はプレ展示の際、見かけたものです。細部が丁寧に描き込まれており、圧倒されるような迫力があります。近づこうとして、思いもかけず、下の台座に人形が置かれていたのに気づき、驚いてしまいました。

 壁面の大きな木と、下に置かれた人形の両方がフレームに収まるよう、やや低い位置から撮影してみました。

やや低い位置から撮影したゴレム

 人形は木の方に下半身を向けて、横たわっています。上半身は裸で、その上に草花が置かれ、下半身からはいくつもの枝木が生えています。枝はそのまま上に伸びて、背後の大きな木につながるようレイアウトされていました。なんとも異様で、グロテスクでした。

 もっとも、やや引いて見てみると、背景に設置された巨木の絵と調和していないというわけでもありません。暗闇が全てを包み込み、異形のものも何もかも、違和感なく共存させていたのです。不思議な空間でした。

 横たえられた人形は「ゴレム」、その背景に掲げられた大木は「胎樹」と名付けられていました。おどろおどろしい幕開けでした。

 意表を突かれ、私はしばらくこの人形を見つめていました。ふと左手を見ると、壁面に多数の心臓の形をベースにした作品が展示されていました。


Entanglement hearts series

 展覧会のポスターに採用されていたのは、この「Entanglement hearts series」30作品の中の一つでした。私はその絵に引き付けられ、プレ展示を見に来たのでした。とても刺激的な作品でしたが、今回、まとめてこのシリーズ作品を見ました。改めて、一連の作品の素晴らしさに引き付けられました。どの作品もオリジナリティにあふれ、見る者を考えこませる深淵さが秘められていたのです。

 つい、見入ってしまいました。そこからやや右に視点をずらすと、奥の方のショーケースが見え、中に黒いワンピースのようなものが展示されていました。

身体構造図

 近づいて見ると、膝から上の胴体部分に骨と血管が描かれています。奇妙なオブジェでしたが、ヒトの身体を構造的にみようとすれば、必要になってくる造形物なのかもしれません。

 そのショーケースの隣側に黒幕があり、矢印が付けられていたので、中に入ってみました。すると、ボディが一つ置かれており、その上にプロジェクションマッピングされた映像が、目まぐるしいほどに変化しながら映し出されています。「ウェヌス」と名付けられた作品でした。


ウェヌス

 ここは完全に真っ暗な空間でした。映像だけが刻々と変化して、ボディに映し出されていきます。暗闇なので、視線はボディに固定せざるをえず、半ば強制的に映像をみることになるのですが、映像そのものの意味はわからず、色彩と形状、動きだけが印象に残っています。

 ふと、どこからともなく、音楽とも音響ともいえないサウンドが流れてくるのに気づきました。映像とは必ずしも連動しているとはいえませんでしたが、闇の中で聞いていると、奇妙な感覚に襲われそうになります。これまで経験したことのない、音と映像によって創り上げられた世界でした。

 大小島氏はここで何を表現しようとしていたのでしょうか。

 気になったので、会場で配布された資料を見てみました。すると、大小島氏は、「ウェヌスの身体を覆う皮膚をなしているのは、岩肌の不毛の惑星を海と土の生命の惑星へと変容させた海中プランクトンたちの映像であり、そこに空を超えて宇宙空間をさまようプラネットたちの映像が重ねられています」と書いていました。

 この説明に従えば、ボディに投影されていた映像は海中プランクトン、あるいは、プラネットということになるのでしょう。

 そういえば、この作品のタイトルは「ウェヌス」でした。

 大小島氏は、「ローマ神話において海の泡から生まれ大地の女神になったウェヌスは、言うなれば、海と土の交点に立つ存在です」と説明しています。この作品もまた、大小島氏の作品世界を支える重要な役割を担っているのでしょう。身体という生命システムを考えるには、なにはともあれ、「海と土の交点」は必要不可欠だからです。

 さて、以上が、展示室3に展示されていた大小島氏の展示作品の概要です。

 大小島氏は果たして、どのような思いを込めて、これらの作品を創ったのでしょうか。

■大小島氏の制作意図と課題作品

 会場で配られた資料の中で、大小島真木氏は次のように作品の意図を説明していました。

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 「身体」を一つの独立した存在としてではなく、複数のものたちがそこに棲まい、協働する「共生圏」としてイメージすること、

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 このような考えの下で制作されたのが、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」でした。「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた生きた人形であり、「ウェヌス」はローマ神話に登場する海の泡から生まれた大地の女神です。

 ゴレムにしても、ウェヌスにしても、大小島氏にとっては、「身体」を独立した存在としてではなく、複数のものがそこに入り込んで生き、暮らしていく場として捉えるための装置といっていいでしょう。

 問題意識として興味深いのは、「身体」を「共栄圏」としてイメージするという発想です。つい、「個体は系統発生を踏襲する」という言葉を思い出してしまいましたが、大小島氏は、「共栄圏」という言葉を持ち出していますから、種を超えた混合がイメージされているのでしょう。

 壮大な問題意識を持つ大小島氏が、練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。

 入口近くに展示されていたのが、荒木十畝氏の作品で、1922年に制作された絹本着色の「閑庭早春」です。


閑庭早春

 会場中ほどのショーケースに展示されていたのが、池上秀畝氏の作品で、1921年に制作された絹本着色の二曲一双の「桜花雙鳩・秋草群鶉図」です。


桜花雙鳩・秋草群鶉図

 一方は掛け軸、他方は屏風として装丁されていますが、ほぼ同時期に制作された花鳥画です。いずれも100年前に制作された日本画です。

 これら二作品が何故、課題作品として選ばれたのか、私にはわかりませんでした。パッと見たところ、再構築された作品と選ばれた作品とはあまりにもかけ離れていました。これらの作品がどのような脈絡で大小島氏の作品につながるのか、私にはとうてい理解できなかったのです。

 大小島氏はこれらの作品をどのように再解釈し、「ゴレム」と「ウェヌス」に再構築していったのでしょうか。

 再び、大小島氏の「作品解説」を見てみましょう。

 大小島氏は「作品解説」の中で、「私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで」、「自然にとりまかれて生きている私たちの生そのもののイメージを再構築してみたい」と説明しています。

 それでは、再構築された作品のうち、まずは「ゴレム」から見ていくことにしましょう。

■ゴレム

 黒い円形の台に横たえられている人形が「ゴレム」です。真上から撮影してみたのが下の写真です。

真上から見たゴレム

 「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた人形です。大小島氏はこの人形から、「人間の原型」となるようなイメージを感じ取ったといいますから、作品全体の中できわめて重要な役割を担うモチーフだといえます。

 それにしても、なんと異様な姿なのでしょうか。展覧会場でなければ、おそらく正視することすらできなかったでしょう。

 目から草花が生え、口には草のようなものがくわえられています。頭部と上半身をつなぐ首は十数本の小枝で作られています。まさに人体を冒瀆しているといってもいいような表現です。肋骨に相当する部分にはその形状に沿って、木の葉が置かれ、その下のおへそが異様に大きいのが印象に残ります。両腕に相当する部分には、カラフルな鳥の羽のようなものが置かれています。

 この作品を見たとき、私はどういうわけか、フェリーニの映画を思い出してしまいました。

 たとえば、『サテリコン』です。この映画を見たときの、なんともいえないおぞましさが甦りました。この映画は、ローマ時代の貴族たちの享楽的で堕落した生活を描いた作品で、内容に共通するところはありませんが、どういうわけか、その絵柄、作品のトーン、さらにはヒトの捉え方に近いものを感じ、思い出してしまったのです。

次のような画像があります。

サテリコン

 猥雑で、グロテスクで、欲望をむき出しにした貴族たちの姿が捉えられています。過剰な欲望は往々にして、ヒトを冒瀆しがちです。

 そういえばた、『フェリーニの道化師』には次のような画像があります。

道化師

 これは、いたぶられ役として登場する道化師たちです。白塗りの顔の下に救いようのない悲哀が透けて見えます。ここでは、道化師に対する観客の態度に、ヒトのおぞましい欲望を見ることができます。内容が似ているわけではないのに、この作品にも、私はその絵柄やヒトの捉え方に、「ゴレム」に感じたものと似たものを感じました。

 フェリーニはこの作品で短いエピソードをつなぎながら、「笑い」を巡るヒトの本性をあぶりだしていきます。彼の作品は全般に、線的な構造をもたず、エピソードをランダムに積み上げ、作品を構築していくところに特徴があります。

 その結果、無駄なものが多いのですが、逆に、ヒトの真髄に迫ることができているのではないかと思っています。そのせいか、私は、「ゴレム」を見たとき、つい、フェリーニを思い出してしまったのです。

 大小島氏の場合、フェリーニのように、作品を線的な構造、面的な構造に封じ込めようとしないだけではありません。さらに一歩進め、時空が堆積した構造の中で、構想を作品化しようとしているようにみえました。その果敢な姿勢に圧倒されてしまいました。

 さて、私は大小島氏の「ゴレム」を見て、フェリーニに近いものを感じました。なぜ、そう感じたのでしょうか。それを仔細に見ていくことで、大小島氏の作品世界に一歩、近づけるかもしれません。

 それでは、「ゴレム」に戻ってみましょう。

 斜め上から撮影したのが下の写真です。

横たわったゴレム

 横たわったゴレムの周囲に、さまざまなものが配置されています。ここからはよく見えないのですが、ゴレムの骨盤の辺りに動物の頭骨が置かれています。そして、手前の半円の中には、貝殻、ヒトの頭部、縄文土器、ガラス玉などが置かれ、それらは黒の円台の所々に描かれた細かな文字によって、他のモチーフとつながっています。

 一見、雑多なモチーフを寄せ集めて造形されています。猥雑で、過剰な印象を受けるのはそのせいでしょう。しかも、メインの「ゴレム」の造形がグロテスクで、おぞましささえ感じさせられます。とはいえ、それもまた現実世界の一側面なのです。

 現実世界は、限りなく多様なものが何段階もの層をなして存在し、相互につながり合っています。円形の黒い台座の上で表現されていたのはその種の世界観でした。私はおそらく、そこにフェリーニに似たものを感じてしまったのでしょう。

 おぞましさといえば、もう一つ、ゴレムの下半身が何本もの木の枝と葉に置き換えられていることでした。しかもそれらは壁面に向けて高く伸びています。まるで枝木が背後の大木に接合されているようでした。

 正面から捉えた写真を見ると、ゴレムの下半身から伸びた木の枝は、その背後に設置された「胎樹」につながっていることがわかります。

正面全体

 これで、「ゴレム」と「胎樹」がつながっていることがわかります。おぞましさを感じてしまったのは、ヒトが植物に接合されて造形されていることに、ヒトへの冒瀆を感じたからでした。とはいえ、冷静に考えると、ヒトが死んで、土に戻ると、そこから木が生え、やがて大樹に成長していくのは自然の摂理でもあります。

 布に描かれた「胎樹」が弧を描くように湾曲して設置されています。ゴレムが横たわる円形の台座に合わせたのでしょうか。「ゴレム」と「胎樹」、両作品を支える支持体に曲線が組み込まれています。

 そのせいか、ここにレイアウトされたすべてのモチーフが柔らかく包み込まれているように見えます。

■胎樹

 それでは、「胎樹」を見ていくことにしましょう。

 正面に大きな木が描かれています。私が大小島氏の制作中に見たものです。その時はまだ、途中までしか描かれておらず、全体像が見えませんでした。それが展示作品では、木はさらに大きく枝を伸ばし、その周辺にさまざまなものが描き込まれています。一つの完結した世界が創り出されていたのです。

 たとえば、木の中心部分は、まるでヒトのように、心臓、肺、背骨で構成されています。その上にさまざまなモチーフが描かれており、それぞれが相互に深く絡まり合っています。

木の中心部分

 まず、目がいくのは、中心部分の肺、心臓、大動脈などです。そこだけ淡く着色され、一目でここが中心だとわかる仕掛けになっています。それ以外のモチーフは黒の濃淡で描かれており、まるで墨絵のようです。よく見ると、ウィルスのようなもの、胞子のようなもの、クラゲ、ヒトデ、海草など、木の上に存在するはずのないものが無数に描かれています。

 木の枝はヒトの血管のように幾重にも枝分かれし、四方八方に伸びています。そうかと思えば、線状に並べられた小さな文字が、まるで砂地に文様を描くように、縦横に何本も引かれています。おそらく、何らかのメッセージが綴られているのでしょう。

 これらを見ていると、細部に隈なく情報量が盛り込まれ、想像力が刺激されます。その量に圧倒されて、眩暈がするほどです。木の様相を見ていると、グロテスク、猥雑、過剰というキーワードが思い浮かんできます。

 やや視線をずらすと、何か奇妙なものが目に入ってきました。近づいてみると、なんと胎児が二人、羊水に浮かんでいました。淡く着色されています。

胎児

 双子なのでしょか、胎児が二人、羊水の中で身を丸めています。胎盤の外側にはヒトの臓器のようなものが描かれ、無数の血管が描かれています。そして、胎児のへその辺りから太い管が伸び、臓器の下に巻き付いています。きっとへその緒なのでしょう。そのへその緒の行先を辿ると、なんと樹木の維管束のようなものとつながっていました。

 通常、胎児は母親とへその緒を通して、栄養や酸素を補給され、二酸化炭素や老廃物を排出します。へその緒があるからこそ、胎児は胎盤の中で生きることができるのです。

 ところが、この絵には、胎盤と臓器、へその緒しか描かれていません。ヒトが描かれていないので仕方がないのでしょうが、これらの臓器はへその緒を通して樹木の維管束とつながっていたのです。木の生命システムに組み込まれることによって、この胎児たちは生き続けることが示されているといえます。

 ありえない設定ですが、絵の中ではごく自然に、まるで接ぎ木でもするかのような簡便さで、この奇妙な接合が成立していました。

 さらにもう一つ、胎盤の中の子どもが描かれた箇所がありました。

幼児

 こちらは胎児ではなく、幼児でした。髪の毛が生え、指を口にくわえています。目を閉じていますが、表情がしっかりとしており、明らかに意思を持って行動できる幼児に見えます。ところが、ここでも太いへその緒が描かれており、幼児がへその緒を通して白い維管束のようなものに接合されています。

 先ほどとは違って、胎盤の中は水色で描かれています。ちょっと離れてこの箇所を見ると、まるで、幼児は青空の下にいるように見えます。おそらく、この幼児は、いったんは外に出て、外気を吸ったことがあるのでしょう。ところが、どういうわけか、再び、胎盤の中に戻り、へその緒をつけたまま指をしゃぶっているのです。

 ここでも現実にはありえない設定で、モチーフが描かれていました。

 不思議なのは、この幼児が背後から白いもので包まれていることでした。しかも、その白いものは、幼児が入った胎盤そのものを支えているようにも見えます。さらに、胎盤の周辺を取り巻くように、白色と黒色が反転しながら、小さな文字が描かれています。

 ちょっと気になりました。大小島氏はこの箇所で、何を表現しようとしていたのでしょうか。わからないまま、しばらく日が過ぎました。

 9月24日、美術館のHPを見て、大小島氏のアーティストトークの映像が掲載されていることを知りました。

こちら → https://youtu.be/mL7k1kdaT3w

 この映像を見てようやく、理解することができました。

 大小島氏は、インドネシアのトラジャ部族には、まだ乳歯も生えていない子どもが死ぬと、木に穴を掘って、そこに遺体を入れる風習があるといっています。子どもはそのまま木とともに生き、木の寿命とともに亡くなっていくというのです。

 興味深く思って、調べてみると、確かに、インドネシアのトラジャ族には、そのような風習があることがわかりました。

*******

 かつてはトラジャ族の土地では、乳児は死んでも天国には行けず、また生まれ変わると信じられていました。そのため、亡くなった子供がいつもミルクを飲めようにと、白い樹液が多く出るこの木に葬られていたのです。この木の幹に空けられた乳児の墓は、現地では「リアン・ビア」と呼ばれています。

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(※ https://www.ab-road.net/asia/indonesia/tanatoraja/guide/sightseeing/09789.html

 こうしてみると、指をくわえた幼児を背後から包み込んでいた白いものは、白い樹液だったのかもしれません。ミルク代わりに白い樹液のでる木の維管束にへその緒を介してつながれ、この幼児は成長し、木の寿命が来るまで生きるのでしょう。この小さなモチーフの中に、ヒトの生と死が表現されていたのでした。

 さて、会場でこの木の枝を見ていて、ふと気になって撮影していたのが、木の幹や枝にさまざまなものが絡みついている箇所でした。

絡み合い

 まるで水墨画のように、黒の濃淡やかすれ、暈しを活かしながら、柔らかい筆触で描かれています。

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これは、幹から枝が張り出し、その枝からさらに小さな枝がいくつも伸びている部分です。小さな枝は透明度が高く、淡い色調で描かれています。

 そのせいか、小枝がまるで海の中で揺らめく海草のようにも見えます。その周囲にはプランクトンのようなもの、稚魚のようなものが浮遊しており、そこだけ見ると、深い海の底だと錯覚してしまいそうです。ここでも、現実にはありえない光景が描かれています。

■大小島氏はどう再解釈したか

 大小島氏が練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。なぜ、彼らの花鳥図から触発されて、このような作品世界を創り出すことになるのか、私にはどうしてもわかりませんでした。

 ヒントを求め、再び、アーティストトークの映像を見ました。それでようやく、大小島氏がなぜ、荒木氏と池上氏の作品を選んだのかがわかりました。

 彼女は、荒木作品について、「視点が土と近い状態に置き、そこから捉えられている」とし、池上作品については、「鳥が飛ぶ瞬間を自分と同一化し、その瞬間を捉えている」と感じたといいます。

 つまり、いわゆる花鳥図とは違って、両者はモチーフだけを切り取ってみているわけではないと大小島氏は感じたのでしょう。ここに、花であれ、鳥であれ、生きているものはすべて、それだけで存在しているわけではないという認識が透けて見えます。

 だからこそ、「私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と大小島氏は説明しています。

 ちなみに、キメラ(chimera)とは生物学用語で、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」と定義づけられており、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといいます(※ Wikipedia)。

 トーク映像で彼女の説明を聞いた瞬間、どうしてもわからなかった私の疑問が一挙に解き明かされたような気がしました。

■静止画に持ち込まれた動きを生み出す視点

 なぜ、大小島氏は荒木作品、池上作品を課題作品として選んだのかといえば、それは、両作品には、一見、スタティックな花鳥図に見えながら、実は、花や鳥を捉える視点に動的な生命体を把握する観察力が含まれていたからでした。

 荒木氏は視点を下方に置き、土から見る構図で花を描いています。花だけを切り取って捉えるのではなく、生えている根元から捉える視点が構図に示されています(前掲写真を参照)。

一方、池上氏は鳥が飛び立つ瞬間を捉え、作品に組み込んでいます。わかりやすくするため、その該当部分を切り取って、見てみましょう。

該当部分

 枝に留まる鳥と飛び立つ鳥、この二羽を描くことによって、池上氏は動きを表現しています。異なる位置の静止画を二つ配置し、動きをイメージさせる効果を生み出しているのです。これを見て思い出すのはパラパラ漫画であり、マイブリッジの走る馬を捉えた連続写真撮影です。

 1872年、イギリス生まれのアメリカ人、マイブリッジは、24個のカメラを並べて疾走する馬の一瞬、一瞬を撮影しました。これは動画の基礎となる実験でした。その後、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフの特許申請をしたのが1895年です。映像の時代の幕が開けられました。

 ところで、池上作品は1921年、荒木作品は1922年の制作です。日本でも1920年代になると、全国に映画常設館が出来ていました。トーキーとはいいながら、動画を楽しめるようになっていたのです。

 当然のことながら、彼らも動画からなんらかの影響は受けていたでしょう。

 花鳥図の基本を崩さず、彼らは動的な視点を作品に組み込みました。それを大小島氏は見逃さず、多数の中からこの二作品を選択したのでしょう。

 大小島氏は、この二作品には動的な視点が含まれていると再解釈し、それに触発されて再構築したのが、「ゴレムとウェヌス」でした。そして、「だからこそ、私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と説明しています。

 私はここに、大小島氏が作品を再構築する際のキー概念があると思いました。

■キー概念としてのキメラ

 先ほどもいいましたように、キメラとは、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」生物学用語で、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといわれています。

 そういえば、「ゴレム」の腕から鳥の羽が生え、下半身からは木の枝が生い茂っていました。そして、それらの木の枝は「胎樹」に接木され、キメラ植物として大きく育っていました。

 そして、「胎樹」の中心部分にはヒトの心臓や肺、背骨が組み込まれており、枝にはヒトの胎盤が付着していました。胎盤の中の胎児は、へその緒を介して維管束と接合し、木の生命システムにつながっていました。胎児はヒトの身体から切り離されても、木の生命維持システムに組み込まれることによって、生きながらえていました。

 つまり、「ゴレム」と「胎樹」の二作品からは、ヒトと植物のキメラが創り出されていたのです。

 そもそも、泥人形の「ゴレム」は横たえられていました。おそらく、死者を意味していたのでしょう。ヒトは死ぬと土に還ります。その土でできた「ゴレム」から草木が生え、土に還元されたさまざまな栄養分を吸い、やがて大木として成長していきます。

 そこまでは誰もが想像できる領域です。

 大小島氏の発想がユニークなのは、その大木をキメラ植物として設定したことにあります。しかも、ヒトと植物との異質同体です。

 なんと飛躍した発想なのでしょう! 

 彼女は、木の幹にヒトの身体の中心部分を組み込み、胎児のへその緒を木の維管束と接合し、生命維持システムを協働させています。このようにして、木とヒトが融合したキメラが出来上がっているのです。

 「ゴレム」も「胎樹」もキメラをキー概念に構築されています。一見、解釈不能に見えたこの作品もこのキー概念に辿り着くことによって、私は理解することができました。

■再構築された作品

 大小島氏が選んだ課題作品は荒木氏、池上氏の日本画です。荒木、池上両氏の作品から彼女は、花鳥図でも動的な視点を取り入れることで対象を生き生きと捉えられるというエッセンスを汲み取りました。

 そのエッセンスを踏まえ、大小島氏は、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」という作品を再構築しました。

 ところが、配布された「作品解説」を読んでいると、再解釈から再構築までのプロセスにおおきな捻りがあることに気づいたのです。

 大小島氏は、会場で配布された「作品解説」の中で、次のように記しています。

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 今日、私たちの世界は人新世と呼ばれる新たな地質学的年代の中にあるとされています。自然の中で人間というアクターが極端に突出し、地球そのもののあり方さえも大きく変えてしまっている、そうした時代に生きる私たちの身体について、思いを馳せました。そして、私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで、自然にとりまかれて生きている私たちの「生」そのもののイメージを再構築してみたいと考えました。

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 この箇所を読んで、大小島氏が再解釈から再構築までのプロセスに、「人新世」という概念を介入させたことがわかりました。このことは会場で作品を見ただけではわかりませんでした。

 「人新世」とは、人類が生きるために行う経済活動そのものが地球を破壊するという概念です。この概念を作品に組み込むために、大小島氏はキメラを核として、作品を再構築したのです。

 このところ、コロナウィルスの感染爆発にせよ、中国山峡ダムを中心とした洪水被害にせよ、「人新世」の時代に突入したことを示す事例が増えています。ヒトが自然を作り変えてきた結果、予想もしない大きな損害を被る時代に入っています。いずれも中国発の災害ですが、ここ十年余、もっとも経済発展の著しいのが中国でした。経済活動の活性化が自然を大きく改変してきたことの証左ともいえます。

 大小島氏は再構築した作品には、このような時代の潮流が巧に取り込まれていました。斬新な発想力によって再構築された大小島氏の作品は、知的刺激に満ちているだけではなく、近未来を見る重要な視点をも提供してくれているように思えました。

 実は、この種のジャンルの美術を見るのは初めてでした。それですっかり驚いてしまって、作品を見てから、しばらく、何も書けないでいました。なにかすごい作品を見てしまったという気はするのですが、鑑賞後、自分の中でそれをどう受け止めていいのかわからなかったのです。

 なにか言葉にならないものがふつふつと湧いては来るのですが、整理できないまま、時間が経ちました。知らなかった世界を知り、衝撃を受けたことは事実なのですが、それをどう自分の知の体系の中に収めていいのかわからなかったのです。

 会場で配布された大小島氏の「作品解説」を読んで多少わかったような気になりましたが、それでもまだわからないところがありました。ヒントを求めて彷徨い、練馬区立美術館のHPで大小島氏のアーティストトークを見て、わからなかったところもなんとか理解することができたような気がします。

 概念として理解できただけで、まだ腑に落ちるというところまではいっていないと思いますが、大きな衝撃を受けたのは事実です。

 今回の作品はさまざまな知識を動員して、それと照合させながら理解していくというプロセスをたどりました。それを一つ一つ、確認しながら、書いていったので長くなってしまいましたが、実はまだ思いついたことを書ききっていません。

 現代社会は限りなくフラットになる一方で、複雑極まりない側面を持ち、さまざまな知の集積体でもあります。そのような現代社会を表現しようとすれば、並大抵の知力では叶いません。

 展示作品を見ていると、あらゆる媒体、素材を使いこなし、それらをつなぎ合わせ、レイアウトする能力、そして、なにより莫大なエネルギーがなければならないと思いました。大小島真木氏は壮大なスケールの美術家であり、現代社会に関する思想家、プロデューサーだという気がします。

 美術家にとどまらない幅の広さを持つ大小島真木氏の今後の活躍におおいに期待したいと思います。(2020/9/26 香取淳子)

オンライン鑑賞で知ったCAO FEI氏の世界

 コロナ禍で、国内外のさまざまな展覧会が中止になりました。スイスのバーゼルで開催されるアート・バーゼル(Art Basel)も、今年は開催されませんでした。

 アート・バーゼルとは世界最大級の現代アート・フェアで、1970年以来、毎年6月に4日間、開催されています。その後、アート・バーゼル・マイアミビーチ、アート・バーゼル香港なども開催されるようになり、世界的な広がりをもっています。

こちら → https://www.artbasel.com/about/history

■2020年アート・バーゼルの中止

 2020年3月26日、アート・バーゼルは次のような文をホームページに掲載しました。コロナ感染拡大のため、9月17日から20日まで延期したという内容でした。

こちら →

 今年は延期で決定したと思っていたのですが、その後もコロナ感染の勢いは衰えを見せません。3か月後、開催できる見通しが立たなくなってきました。

6月6日、ギャラリー、コレクター、協賛企業、外部専門家などとの協議を経て、今年度のアート・バーゼルの中止が決定されました。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/art-basel-june-edition-postponed-to-september

 海外からの作品輸送は可能なのか、輸送する際の安全を保障できるのか。さらには、出展ギャラリーや協賛企業の経済的な損失を補償できるのか、等々の懸念を払拭することはできなかったのでしょう。2020年のアート・バーゼルは比較的早く、中止という判断が下ささました。

 一方、アート・バーゼル事務局は、6月フェアの代わりにオンラインで鑑賞できるようにし、欧州、南北アメリカ、アジア、中東、アフリカなど35ヵ国と地域から参加した282の主要なギャラリーの国際的ラインアップを紹介します。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/ovr-details-and-highlights

 オンライン・ヴューイング・ルームは6月17日から19日までがプレビューで、6月19日から26日の間、一般公開されました。そこでは、絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、ビデオ、デジタル作品など、近代から戦後、現代までの4,000点を超える優れた作品を見出すことができるようになっています。

 アート・バーゼルのグローバル・ディレクター、マーク・スピーグラー氏は、「デジタルプラットフォームでは、リアルな展示空間が提供できるものと完全に同じものを提供できないことは十分に承知しているが、アートの世界がこのような苦難の時代を乗り越えていけるように、我々はギャラリーや作家たちを支えていきたい」と語っています。

 アート・フェアが中止になって、作品鑑賞の場が失われてしまうよりも、デジタルプラットフォームを立ち上げ、ヴァーチャルな展示空間を提供してギャラリーやアーティストを支えていきたいというのです。

■オンライン・ヴューイング・ルーム

 アート・バーゼルが提供するオンライン・ヴューイング・ルームは、世界の主要なギャラリーとコレクター、芸術愛好家とをつなぐヴァーチャルなプラットフォームです。ここでは、二つの独立したテーマ(「OVR:2020」と「OVR:20c」)が設定され、9月と10月に開催されます。

 「OVR:2020」はこの重要な年に制作された作品に絞ったものであり、9月23日から26日まで展示されます。

 「OVR:20c」は1900年から1999年の間に制作された作品で、2020年10月28日から31日までの間、特集されます。

 どちらも出展者は100以下に抑えられ、それぞれ一度に6作品を展示することができるといいます。

こちら → https://www.artbasel.com/ovr

 興味深いのは、ジョヴァンニ・カーマイン氏、サミュエル・ロイエンバーガー氏、フィリパ・ラモス氏等、3人のアート・バーゼル・キュレーターによる鑑賞ツアーが組まれていることでした。キュレーターたちはいったい、どのような作品を取り上げているのでしょうか。

 試みに、ジョヴァンニ・カーマイン氏が取り上げた作品を見てみることにしましょう。

■キュレーターが取り上げた画像

 自由分野を担当するキュレーター、ジョヴァンニ・カーマイン( Giovanni Carmine)氏がお薦めとして取り上げたのは、サオ・フェイ(Cao Fei)氏, セシールB エヴァンス(Cécile B. Evans)氏, プラニート・ソイ(Praneet Soi)氏の3人です。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/online-viewing-rooms-giovanni-carmine?lang=en

 そのうち、真っ先に紹介されていたのが、北京のアーティスト、サオ・フェイ氏の作品でした。作品概要に、「RMB City: A Second Life City Planning N.4」と書かれていますから、RMB Cityシリーズの一つなのでしょう。

 私はこの画像に最も惹きつけられました。

 この作品についてジョヴァンニ・カーマイン氏は、「サオ・フェイ氏の独創的な企画であるRMB Cityは、VRとデジタル技術が提供するさまざまな可能性を芸術に利用するというやり方で表現している」と解説しています。

 そういわれてみれば、この画像はアニメの一場面のような印象です。さらに、作品のタイトルは「A Second Life City Planning N.4」でしたから、ひょっとしたら、セカンドライフ(Second Life;コミュニケーションツール)を使った動画の一部なのかもしれません。しかも、この作品が制作されたのは2007年です。

 ちょうど2007年ごろ、日本でもセカンドライフ(Second Life)というコミュニケーションツールが話題に上ったことがあります。これは、ネット上の3D仮想空間で自分のアバターを操り、他の参加者とコミュニケーションできるツールです。

 すっかり忘れていましたが、サオ・フェイ氏の作品を見て、私は記憶の底に眠っていたセカンドライフを思い出しました。

 2007年当時のセカンドライフの画像を見てみることにしましょう。


出雲井亨、『日経XTECH』、2007年7月13日

 ここでは、遊園地で一人紅茶を飲んでいる男性が表現されています。描かれている男性はアバターで、湯気の出るティーカップ、その背後の観覧車もすべてユーザーが制作したものです。

 このように、セカンドライフというツールを使えば、ユーザーが設定したアバターを通して、仮想世界でのコミュニケーションを展開することができます。SNSに押され、いまではすっかり忘れ去られてしまいましたが、仮想空間でコミュニケーションできるツールとしてもてはやされた時期がありました。

 再び、サオ・フェイ氏の作品を見てみると、この女性はまさにアバターです。分身として、RMB Cityという仮想空間の中で、さまざまなコミュニケーションを展開しているのでしょう。

 サオ・フェイ氏は2007年から2011年までRMB Cityシリーズを制作し続けてきたといいます。

■サオ・フェイ氏の画像

 それでは、サオ・フェイ氏の画像を詳しく見ていくことにしましょう。


Cao Fei, RMB City: A Second Life City Planning N.4, 2007

 この画像でまず目につくのは、朱色の柱が立ち並ぶ宮殿、その端に立つ白いトサカのような帽子を被った女性、そして、左隅に描かれた車輪です。一見、奇妙なモチーフの取り合わせですが、斬新でしかも調和がとれていて、引き込まれます。

 左端の車輪は銀色で描かれ、白っぽいコスチュームの中で輝いている女性と調和しています。女性の髪の毛、トサカのような帽子、ブレスレット、腕に抱えた円形の造形物、黒いドットの入ったワンピース、いずれも白か銀色で描かれており、女性にメカニックな輝きを添えています。

 女性の背後には朱色の円柱が立ち並び、白色の中で輝く女性と見事な色彩のコントラストを形成しています。モチーフの背後には、紺碧の海と残照に輝く空が見えます。いずれもモチーフをくっきりと際立たせる効果のある色調です。

 女性の後ろには朱に塗られた10本ほどの円柱が続き、観客の視線を遠景に誘導する役割を担っています。半円の車輪から、女性が腕に抱えた円形の造形物へ、円形の造形物から先は垂直方向に変換し、立ち並ぶ円柱へと連鎖の輪が広がっていきます。

 円形を縦横に巧に変換させることによって、視覚的な動きが生み出されているのです。朱の円柱は対角線上に、幾何学的な調和を保ちながら、前景、中景、遠景をつないでいます。目を細めてみると、そうすることによって、画面を構造的に安定させる効果が得られていることがわかります。

 モチーフを見ると、きわめてメカニックな造形になっているのですが、全体にしっとりとした落ち着きがあります。絵画作品としての奥行が感じられるのです。そのような印象を与えるのはおそらく、背景のせいでしょう。海なのでしょうか、濃い青で表現された部分、そして、残照の輝きを見せる空がとても丁寧に絵画的に描かれているのです。

 奇妙なモチーフの取り合わせ、色彩のバランス、前景、中景、遠景をつなぐ幾何学的構造、そして、古典的絵画の味わいのある背景、それらが見事に調和しており、とても美しいと思いました。

 サオ・フェイ氏の独創的なプロジェクトRMB Cityは、VRなどデジタル技術を駆使して作品化されています。彼女が創り上げた仮想空間は魅力的です。

 カーマイン氏は、この作品について、シュールレアリストのユートピアであり、先見の明のあるコミュニティ構築実験だと評しています。

■RMB City: A Second Life City Planning N.4

 カーマイン氏のおかげで、私は彼女の作品の一端を知ることができました。果たして彼女はどのような思いで、この作品を制作したのでしょうか。気になって調べてみると、彼女がこの作品について語っているページが見つかりました。

こちら → https://www.fondationlouisvuitton.fr/en/the-collection/artworks/rmb-city-second-life-city-planning.html

 タイトルの「RMBシティ:セカンドライフシティプランニング」については、「人民の通貨」である人民元の頭字語であるRMBと名付け、ポストモダンの遊園地で、急速に進化する中国の都市の凝縮されたイメージを提供する」と彼女は語っています。

 そして、架空の島には、人民英雄記念碑、国立大劇場、中国北部の工場、レムコールハースのCCTVタワー、仏教寺院、毛沢東の像、三峡ダム、 国立競技場などを配置し、伝統、共産主義、資本主義のシンボルを衝突させ、現代の中国の複雑さを浮き彫りにするといいます。

 たしかに、この画像を見ると、中国を象徴するものが、所狭しとばかりに架空の島の上に表現されています。島に配置できなかったパンダやCCTVタワーなどは空中に浮かぶ格好でレイアウトされ、中国の過去、現在が象徴されています。


RMB City: A Second Life City Planning N.4

 斬新なデザインの建物は、現在目覚ましい勢いで開発を進めている先端セクノロジーを連想させますし、パンダや仏教寺院は中国文化の象徴、そして、黒煙は世界の工場といわれた中国の労働力を示しています。

 現在の中国は、パンダや仏教寺院に象徴される伝統文化を引きずりながらも、実際は共産主義体制の下、国家資本主義によって経済が運営されています。きわめて複雑な社会構造であり、当然のことながら、その社会的な歪みも大きくなっています。その象徴が工場から立ち上がる黒煙です。

 この画像だけでも面白いですが、実はこれは映像作品なのです。さっそく探してみると、彼女が制作した6分1秒の映像が見つかりました。ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/8-ig_lnO7uU

 さらに調べてみると、サオ・フェイ氏は2007年以降、セカンドライフに集中して作品を制作していることがわかりました。

 中国の近代化と資本主義的で理想主義的な展望を参照しながら、彼女はグローバルコミュニケーションが人々の想像力や価値観、生活様式に影響を与える状況をRMB Cityシリーズによって明らかにしていこうとしているのです。

こちら → https://kadist.org/work/rmb-city-a-second-life-city-planning-04/

 サオ・フェイ氏は、マルチメディア・アーティストで、現実世界と架空世界との相互作用に焦点を当てた作品で知られています。写真、パフォーマンス、ビデオ、デジタルメディア等々、境界を越えてさまざまな作品を制作してきた彼女は、20世紀後半の時代精神の権化であり、デジタル時代の若者文化の形成において、映像制作が果たしてきた役割を鮮やかに反映しています。

■サオ・フェイ氏が語る来歴とRMB City

 サオ・フェイ氏とはいったい、どのような人物なのでしょうか。作品を見ているうちに、俄然、興味が湧いてきました。調べてみると、ユーチューブに短いインタビュー映像がアップされていたのが見つかりました。2016年に開催された「Bentu Exhibition」でインタビューされたものです。

 それでは、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/3hISycCZp9M

 興味深いのは、サオ・フェイ氏の両親がソ連で活動していたアカデミックな芸術家だったということです。当然のことながら、彼女は両親の資質を受け継ぎ、その影響を受けているのでしょう。

 ところが、彼女は1990年代後半の映像作品、とくに芸術映画に深く影響されたと語っています。そこにはアカデミックな教育システムにはない刺激があって、引き込まれ、その後の作品にそれは反映されていると述べています。

 サオ・フェイ氏は、中国の田舎の都市化、現在のグローバル化の動き、そして、人々の生活状況などに関心を抱き、作品化してきたといいます。労働者階級、とくに生産ラインの工場で働く人々が、相互に深くつながり合った世界にいながら、実際は、孤立して生きている状況に焦点を当てて制作してきたと語っています。

 とても興味深く思いました。現代社会の歪みをコンセプチュアルに思考し、デジタル技術を駆使して作品化していくところに現代アート作家ならではの真髄が感じられます。

 RMB city プロジェクトは2007年に始まり2011年に終わりました。この名前をつけたのは、RMBが人民元(Rénmínbì)の略語だからだそうです。RMBをプロジェクト名にすることによって、一連の作品が経済の観点から、中国の都市化のプロセスを凝縮していることが示唆されています。

 RMB cityと名付けられた作品に、次のようなものがあります。


RMB City 5, 2008, digital c-print, 120 × 160 cm

 1978年に広州で生まれた彼女は、改革開放後の中国の市場経済化を目の当たりに見て成長してきています。

 その成長過程で、社会に及ぼす経済の力を様々な局面で見てきたのでしょう。この作品には随所に市場化の要素が見られます。ポップカルチャーの影響も感じられますが、抑制されて表現されています。両親から受け継いだアカデミズムの影響でしょうか。

■現代社会を捉えるアーティストの感受性

 2007年にこのプロジェクトを始めたとき、サオ・フェイ氏はもっと楽観的な見方をしていたといいます。ところが、次第に中国経済は衰退し、2011年にこのプロジェクトを終える頃には、経済危機に陥り始めていたと彼女は述べています。

 当時、まだ世間一般にそのような認識はなく、人々はオプティミスティックで、楽しいことに夢中でした。ところが、彼女はそうではありませんでした。芸術家ならではの繊細な感覚で、彼女なりに中国の経済的危機を感じ取っていたのでしょう。

 作品のモチーフとして現代社会を照射したとき、見えてくるのは労働者の疲弊した姿、あるいは、孤立した姿だったのでしょう。メディアが発達し、相互に深くつながりあえる社会になっていながら、実はそうではないところに、彼女は社会の歪みを感じたのでしょう。

 社会を支え、経済を回していく役割を担っている労働者がそんな姿でいるところに、彼女は危機を感じ取っていたのかもしれません。労働者の心理的危機は社会そのものの危機であり、結果として経済の危機につながっていくのです。

 実際、2011年の中国の実質経済成長率を見ると9.2%で、2010年の10.4%よりも落ちています。しかも、年初から次第に成長率は落ちていき、10月-12月期は8.9%へとペースダウンしています。数字が物語っているように、実際は、もはや楽観的ではいられない状況になっていたことがわかります。

 サオ・フェイ氏の挑戦的な作品に気を取られ、つい、横道にそれてしまいました。2020年アート・バーゼルの中止から、コロナ下の美術市場を考えるつもりが、サオ・フェイ氏の刺激的な作品に出合ってしまいました。改めて、作品の力は作家の洞察力、思考力、感受性に支えられていると感じさせられました。(2020/8/31 香取淳子)

プレ展示「再構築」:大小島真木氏の制作現場を見る

■プレ展示「再構築」

 2020年7月23日、練馬区立美術館に行ってきました。

 今年、開館35周年を迎える同館は、記念事業として、一風変わった展覧会を企画しました。4名の作家(青山悟、大小島真木、冨井大裕、流麻二果)に、練馬区立美術館が所蔵する作品をそれぞれ再解釈し、再構築して制作してもらった作品を展示するというのです。展覧会のタイトルは企画内容そのものの「再構築」(RE CONSTRUCTION)でした。

こちら → https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202006161592286707

 2020年7月8日から8月2日までが、プレ展示「再構築」で、①参加型展示として、流麻二果氏、②公開制作として、大小島真木氏、冨井大裕氏の展示が企画されています。そして、4名の再構築された作品が展示される本展示は、2020年8月9日から9月27日までの期間開催されます。

 練馬区立美術館前に掲げられた看板には、4人の作品がそれぞれ取り上げられていました。

 この看板には、向かって左から冨井大裕氏、大小島真木氏、そして、その右隣りが青山悟氏、右端が流二麻二果氏の順で、代表作が取り上げられています。館内に置かれていたチラシは4パターン用意されており、看板に取り上げられていたのと同様、4人の画家の作品がそれぞれ掲載されていました。これらの作品をちらっと目にするだけでも、個性の異なる気鋭の作家たちだということがわかります。

 4人の作家たちは、同館所蔵の作品をどのように解釈し、再構築してみせてくれるのでしょうか、興味津々です。なんともユニークで、刺激的な企画の展覧会で、期待されます。

 私がもっとも引き付けられたのが、大小島真木氏の作品でした。見た瞬間、心に響くものを感じたのです。

 看板の写真を見ても、遠すぎて、いまひとつその醍醐味が伝わってきません。大小島氏の作品だけを取り出し、クローズアップして見てみることにしましょう。

 真ん中に配置された細長いモチーフの両側に、3個ずつ奇妙なモチーフが置かれています。よく見ると、心臓の形をしています。真ん中の細長いモチーフも、一番下に配置されているのは心臓でした。合計7個のモチーフに共通しているのが心臓だったのです。しかも、それぞれが奇妙なハーモニーを奏で、独特の世界を創り出しています。

■Entanglement hearts series

 チラシを見ると、作品の下に小さく、「Entanglement hearts series」(2020年、アクリル、鉛筆、油性色鉛筆、アルシュ紙)と、その概要が書かれています。タイトルにシリーズと書かれていますから、7つのモチーフに見えたものは、それぞれ独立した一つの作品なのでしょう。この作品が、シリーズ化して制作された「Entanglement hearts」を7点、寄せ集めてレイアウトし、一つの作品として再構築されたものだということがわかります。今回の展覧会のテーマである「再構築」がすでに実践されているのです。

「Entanglement hearts」というタイトルも絶妙です。絵柄をみれば、たしかに、心臓の形をしたモチーフにはそれぞれ、動物や植物、昆虫や海洋生物、爬虫類、人や原始人などが深く複雑に絡み合っています。どのモチーフも生命体を支える心臓をベースに、独特の観点から複雑な生命システムが描かれていました。

 見ているうちに、身体の奥底から原始的な感覚が甦ってくるような思いに襲われてしまいます。それぞれのモチーフが得体の知れない何かを発散しているからでしょうか。見えない何かに、強く刺激され、やがて、気持ちが大きく揺さぶられるようになるのです。

 いつの間にか、異次元の世界に誘われてしまいそうになります。

 異次元といっても、全く知らない世界ではありません。遠い昔に経験した記憶がありながら、普段はすっかり忘れ去っている世界とでもいったらいいのでしょうか。無意識の底に眠っていたものが、突如、甦り、原初的な感覚が呼び覚まされ、刺激されていくのを感じます。

 どのモチーフにも身体の奥底に呼び掛ける力がこもっているように見えます。しかも、どのモチーフからも、しなやかで知的な感性がほとばしっています。だからこそ、わくわくするような知的好奇心が刺激されるのでしょう。

 大小島真木氏はいったい、どのような作家なのでしょうか。チラシに掲載された作品を見ただけで、ふつふつと興味がわいてきました。是非とも、制作現場を見てみたいという気にさせられたのです。

■大小島真木氏の制作現場

 1Fの展示室で、大小島真木氏は制作されていました。すでに何人かの観客が見に来ておられ、大小島氏はにこやかに応対しておられました。

 大小島氏が手にされているのは、チラシに掲載されていたモチーフのうち、真ん中のものです。その左にはチラシの左下に配置されたモチーフがあり、右にはチラシの右上に配置されたモチーフが見えます。尋ねてみると、今回の展覧会のために30点、新作を制作されたそうです。

 それでは、本展示作品のための制作現場を見てみることにしましょう。

 普段はいくつもの作品が展示されている展示室に、大きな布が敷かれ、そこには制作途中のモチーフが描かれています。遠くから見ると、巨木の幹と枝のように見えます。布の周囲には脚立、ボディ、絵の具、筆、資料としての絵などが雑然と置かれていました。

 思わず、覗いてはいけない創造の空間に足を踏み入れた気持ちになります。

 圧倒されて、ぼんやりしていると、大小島氏から、「脚立を使ってもいいですよ」といわれました。ふと、その気になりかけましたが、脚立の高さを見て、気持ちがくじけ、立ったままで撮影したのが、制作途中のモチーフの中心部分です。

 手前に二つの肺があり、水色と赤味がかったピンクで左右、色分けされています。そのすぐ上に心臓があり、そして、その先に背骨がまっすぐ伸びています。

 やや引いて、全体像がわかるように俯瞰してみたのが、下の写真です。

 こうしてみると、先ほどご紹介した写真が、作品の中心部分だということを確認することができます。この作品の全体像は人体のようであり、巨木のようでもあります。俯瞰してみてはじめて、途方もなく大きな構想の下、制作されようとしていることがわかります。

 大小島氏はこの作品を、全体の枠組みを描いた後、肺、心臓、背骨といった中心部分を描いています。まだ制作途中だとはいえ、中心部分の構図はすでに確定されています。まるで、作品に命を吹き込みながら制作を進めているかのように、軸となる中心部分から着手されているのです。

 もちろん、中心を支える細部を固めるための準備も周到です。大きな布の周囲、あちこちに資料のようなもの、画材などが置かれています。

 たとえば、木の枝先のように見える部分の周囲には、それに関するスケッチや色合わせの資料が置かれています。

 また、色の重ね具合、色彩のバランス、さまざまな形状のパターン、それらの組み合わせなどの資料も種々、巨大な布の周囲に置かれていました。

 全体を支えるための細部を制作するための案が精緻に考え抜かれ、作品化するための準備もそれに伴い、万端に整えられていることがわかります。

 まだ制作途上だとはいえ、この制作空間を見るだけで、大小島氏がいかに構想力に長け、構築力に秀で、タフな知力の持ち主であるかがわかります。

■新作から透けて見える大小島氏の芸術観

 大小島氏は今回の展覧会のために、1か月余で新作30枚を仕上げたといいます。そのうち7点がチラシに掲載された作品に取り上げられていました。それぞれが豊かな構想力で練り上げられ、確かな表現技術を駆使して描かれていました。仕上がった作品を見て、大小島氏の旺盛な制作力と巧みな表現力に驚かざるをえませんでした。

 それでは、チラシに掲載されたモチーフの一つを取り上げ、大小島氏の芸術観を探ってみることにしましょう。

 これは、7点のうり、チラシの左上に掲載されていたモチーフです。このモチーフで一番目立つのが、眠ったように見える牛の顔であり、その頭上で大きく羽を広げた鳥です。牛の首の右辺りには大きく牙をむいた虎のような動物の顔、左下には獲物に食いつこうとしている狼のような動物が描かれています。口が赤くなっていますから、おそらく食いちぎった獲物の血なのでしょう。生命を維持するには他の動物、あるいは植物の生命を奪わなければならないことが示唆されています。

 心臓から血液が送り出されることによって、生命体が維持されるわけですが、その営みを支えていくには、他の生命体の命を奪う必要があるのです。残酷ではありますが、それこそが、生命を維持するためのシステムであり、自然の摂理なのだと訴えているかのようです。

 興味深いことに、このモチーフには下方に裸の人間が3人描かれており、何かを探しているように見えます。食べ物を漁っているのでしょうか。足には草のようなものが絡まり、鋭利な牙もなく、柔らかい肌を保護する体毛もない人間の脆さが描かれているように見えます。

 その一方で、モチーフ全体に、六角体で先にとげがある物体が随所に描かれています。この物体は、獰猛な鳥の羽の上、牙をむいた虎の胸倉、さらには、草むらのようなものの中にも多数、描かれています。こうして全体が絡みあい、心臓の形になるようレイアウトされています。

 このモチーフの随所に描かれた不思議な物体は、その造形から、どうやら、コロナウイルスのようです。

 大小島氏はこの作品を示しながら、「コロナが突然やってきたわけではないのに、果たして、コロナを敵と呼べるのか」と問いかけます。そして、「人間と菌を巡る物語を知る必要がある」と言葉を継ぎます。それを聞いていて、私はふと、大小島氏の芸術観を垣間見たような気がしました。

 改めて、コロナウイルスの画像を見てみました。

2020年4月24日付日経新聞より。

 コロナウイルスもまた生命体で、他の生命体に寄生して生き延びています。そのための手段として、他の生命体の内部にしっかりとくっつくための棘を持っています。生き延びるために他の生命体に絡みつくという点で、人や動物とそう大した違いがあるわけではないのです。

 そう考えると、このモチーフには、動物であれ、植物であれ、人であれ、コロナウイルスであれ、生を紡ぐためには相互に絡まり合い、複雑に寄生しながら生きていかざるをえないという現実が示されていることがわかります。

 このモチーフには、大小島氏の作品化のプロセスを端的に見て取ることができます。そればかりか、その芸術観も垣間見えたような気がしました。

■コロナ時代の芸術

 新型コロナウイルスはいっこうに終息する気配を見せず、感染者は日本はもちろん、世界中で日々、増加しています。もはや「アフターコロナ」(after corona)、「ポストコロナ」(post corona)という表現は適切ではなく、「ウィズコロナ」(with corona)と言わざるを得ない状況になっています。

 おそらく、新型コロナウイルス感染の広がりとともに、社会のパラダイムシフトが進んでいくことでしょう。非接触、非対面のコミュニケーションに移行せざるをえなくなり、やがてはテクノロジーに依存した社会に変容せざるをえなくなっています。

 一方、新型コロナウイルスは今回のcovid-19で終わるものではなく、今後も次々と新種が登場し、今回と同様、パンデミック現象を引き起こしていくでしょう。

 それを回避できないのは、世界人口が増加の一途を辿るにつれ、森林の伐採が進み、ウイルスを持っている野生動物と人間との距離が近づかざるをえなくなっているからでしょう。人口が増えると三蜜(密集、密閉、密接)を避けることが難しく、今後、新型ウイルスへの感染リスクが高まっていくと考えられるのです。

 さらに、グローバル化が進み、人が世界中を移動するようになっていることも、感染リスクを高めます。グローバル化がウイルス由来のパンデミック現象を引き起こし、それに拍車をかけるからだといえます。

 このように考えてくると、私がなぜ、大小島氏の作品を見たとき、衝撃を受けたかがわかるような気がしてきました。チラシに掲載されていたモチーフには、現代社会に突き付けられた課題が見事に描かれていたからでした。

 この作品を見ていると、現代社会に果たす芸術の役割が見えてくるような気がします。今回、私が経験したように、優れた作品は、観客に現代社会の矛盾や課題を感じさせ、そして、考えさせる力を持っています。それこそが、テクノロジーが支配するいまなお、芸術が持ち得るパワーなのだという気がするのです。

 大小島氏は今回制作中の作品をどのように完成されるのでしょうか、おおいに期待したいと思います。(2020/7/28 香取淳子)

アマビエ・アートで、新型コロナウイルスを退散?

■「AMIGO! アマビエプロジェクト」の開催

 2020年5月28日、西武線仏子駅で下車し、入間川に向かって歩いていました。途中、坂を下った辺りのT字路で、信号待ちをしていると、赤い屋根の建物の前にたくさんのフレームが掲げられているのが見えました。

 遠目には子どもたちの作品展示のように見えます。

 赤褐色の屋根に、古き良き時代の趣きがあります。そこはかとない郷愁を感じさせられる建物です。見ているうちに、何の施設なのか、気になってきました。

 信号が変わったので、近づいてみると、看板があって、「AMIGO!」と書かれた文字の下に、数人が馬車に乗っている姿が白抜きで描かれていました。いかにもメルヘンチックな絵柄です。下方を見ると、「入間市文化創造アトリエ」と書かれていますから、この建物はどうやら、文化施設のようです。

 看板の周囲には、木造のフレームがいくつも掲げられています。見ると、人魚のような絵が種々、展示されています。絵画教室に通う生徒たちの作品なのでしょうか。

 入口方面をみると、道路沿いには同じような形式で、たくさんの作品が展示されていました。

 興味深いのは、作品の展示方法でした。一連の作品はそれぞれ、手作り感のある木造のフレームに入れられて、子ども椅子の座面、あるいは、その上に木材で固定され、展示されていたのです。

 改めて見直すと、単調にならないよう、木材の位置は適宜、高低差がつけられていることがわかります。木造フレームの背後には植え込みがあって、展示空間を優しく包み込み、作品をさり気なく引き立てていました。

 それにしても、なんと味わい深い路上ギャラリーなのでしょう。昔の小学校で使っていたような木造の椅子といい、素朴な木枠のフレームといい、なんともいえず牧歌的で、見ていると、タイムスリップしたような気持ちになってしまいます。これまで見たことのない、斬新な趣向の展覧会でした。

 ふと、展示作品に交じって、説明書きのようなものがやや高い位置に掲げられているのに気づきました。この写真では、手前に写っているフレームです。ちょっと拡大してみましょう。

 「アマビエ」についての説明書きでした。内容をご紹介しましょう。

 「日本に伝わる半人半魚の妖怪です。アマビエは、豊作と病気の流行を人々に予言し、自分の姿を写して人に見せると病気から逃れられると伝えました。そのことから、アマビエは疫病を鎮める妖怪として言い伝えられております」と書かれています。

 ざっと見たところ、展示作品には、人魚のような絵柄が多いと思っていました。説明書きを読んで、その理由がわかりました。人魚のようなもののその正体は、アマビエだったのです。説明書きによると、このアマビエは、「疫病を鎮める妖怪」だそうです。

 さっそくスマホの検索画面に、「入間市文化創造アトリエ AMIGO!」と入力してみました。すると、この路上ギャラリーは、コロナウイルス感染症の収束を願うプロジェクト、「アマビエアートプロジェクト」として企画された展覧会だということがわかりました。

 ホーム画面から「アマビエギャラリー」のページに移動すると、応募作品が何点か、紹介されていました。

こちら → https://i-amigo.net/pg981.html

■アマビエとは?

 私は知らなかったのですが、厚生労働省もアマビエをアイコンに使い、新型コロナウイルス感染の拡大防止キャンペーンを展開していたようです。

(厚生労働省より)

 ひょっとしたら、まだアマビエ関連のニュースがあるかもしれません。そう思って、調べてみると、KATOKAWAが、3月19日に『怪と幽』の号外を出し、香川雅信氏(兵庫県立歴史博物館学芸員)のアマビエについての解説を掲載していました。

 私が知らない間に、アマビエという妖怪が一躍、時のヒトになっていたのです。

 香川氏はアマビエについて、次のように説明しています。

「弘化3年(1846)、肥後国(熊本県)の海中に毎夜のように光るものがあり、役人が確かめに行ったところ、海中に住む「アマビエ」と名乗る怪物が現れ、当年より6年の間は豊作が続くが、病気が流行するので自分の姿を写して見せるように、と告げて海中に消えた、という。摺物の左半分にはその「アマビエ」の姿が描かれている。一見すると髪の長い人魚のようにも見えるが、鳥のようなクチバシ状の口があり、目や耳は菱形で、まるで「ウルトラマン」に登場する怪獣のようなデザインである。およそ江戸時代離れした造形センスで、一度見たら忘れられない、何とも言えない味わいがある」(※『怪と幽』号外、2020年3月19日)

 このエピソードの出典として、香川氏は、京都大学附属図書館が所蔵する、「肥後国海中の怪(アマビエの図)」を提示しています。右頁に説明文、左頁にアマビエの図が刷られています。説明文を読むと、確かに、右から2行目に、「アマビエ」の文字が見えます。

 興味深いのは、左頁のアマビエの図です。わかりやすくするため、アマビエの図の部分だけ切り取ってみました。

(『怪と幽』号外 2020年3月19日より)

 これを見ると、香川氏が指摘するように、アマビエの図は江戸時代に描かれたとは思えないほど斬新です。まず、目や耳がひし形というのが、意外でしたし、鳥のような嘴に足まで届く長い髪にも意表を突かれました。

 さらに、アマビエの上半身は鱗で覆われ、下半身は尾ひれのようなもので構成されています。ですから、一見、人魚のように見えるのですが、どういうわけか、波間にまっすぐ立っています。まるでヒトが地面に立っているように波間に直立しているのです。脚部に相当する3本の尾ひれのようなものに支えられているといえなくもないのですが、その重力を考えると、実際はありえない構図です。

 妖怪だからこそ、成立する図柄だといっていいのかもしれません。

 この図を見る限り、鳥のようであり、ヒトのようでもあり、魚のようでもあるのが、アマビエです。矛盾をはらみ、なんとも不可思議な存在です。常識的にいえば、そもそも、存在自体がありえない設定なのです。

 もっとも、だからこそ、アマビエはこれまで、妖怪だといわれてきたのでしょうし、得体の知れない疫病を収束させる力を持つと人々に信じられてきたのでしょう。

 アマビエの姿を描けば疫病が退散するという伝承は、江戸時代に始まったそうです。香川氏によれば、妖怪好きの人々の間では、アマビエは比較的よく知られた存在だったそうですが、一般的には、妖怪自体、まだ知名度が高いとはいえません。それが、これほどまでに注目を集めるようになったのは、明らかに、新型コロナウイルスの感染が拡大していったからでしょう。

 香川氏は、「妖怪が病気の流行を予言し、その絵姿を見ることで流行病から逃れることができる、という話は、江戸時代にはたびたび見られ、一種の定型化した伝承であったと言える」とし、さまざまな事例をあげています(※ 前掲)。

 一連の記述の中で、興味深かったのは、香川氏が、「アマビエ」は本来、「アマビコ」という名前であったと考えられるとしている点でした。該当箇所をご紹介しておきましょう。

「本来この妖怪は「アマビエ」ではなく「アマビコ」という名前であったと考えられるのである。というのは、「アマビコ(海彦、天彦、尼彦)」について記した資料は数多く確認できるからである。おそらくは、カタカナの「コ」を「エ」と読み間違えたのであろう。また、「アマビコ」は本来、3本足の猿の姿で描かれていたが、それが次々と描き写されるうちに、人魚のような姿になってしまったものと推測される(海中から現れたという部分に引きつけられたのだろう)」(※ 前掲)

 確かに、その可能性はあるでしょう。

 そこで、調べてみると、福井県の文書館・図書館に勤務する長野栄俊氏が2020年3月11日、関連する見解を披露していることがわかりました。

こちら → https://fupo.jp/article/amabie/

 長野氏の見解で興味深いのは、「アマビエは、早々に私の姿を写して人々に見せよとは告げるが、その御利益は明言していない」とし、「アマビコの方は、私の姿を見る者は無病長寿、早々にこのことを全国に広めよと告げている」としている点です。

 確かに、京都大学が所蔵している文献には、アマビエが疫病の流行を予言し、自分の姿を写して人々に見せるように告げてはいることは記述されています。ところが、正確にいえば、疫病から逃れられるとは書かれていないのです。つまり、アマビエは、肝心の感染予防に役立つとは記されていないのです。

 長野氏は、「拡散すべきはアマビエではなく、アマビコの方かもしれない」と書いています(※ 前掲URL)。

 伝承の内容はどうであれ、アマビエの姿はSNSを通して全国に拡散しました。「アマビエチャレンジ」として、さまざまなイラストが描かれ、シェアされていきました。新型コロナウイルスの感染が世界中に拡大するにつれ、江戸時代に注目されたアマビエに再び、出番がまわってきたのです。

 厚生労働省は、感染防止キャンペーンに、アマビエの絵を逆向きにし、アイコンとして使っていました。アマビエの顔や立ち姿には愛らしさがあり、ヒトを引き付ける魅力があります。キャンペーンに相応しいキャッチ―な絵柄だといえるでしょう。

 簡略化し、特徴を際立たせた絵柄からは、印象的で記憶に残りやすい、優れたデザイン力を感じさせられます。一見、稚拙に思えますが、矛盾に満ちた造形には、なんだろうと思わせる力があり、啓発キャンペーンにはぴったりです。

 さて、展示作品を見ると、最も多かったのが、アマビエの絵に文字を組み込み、ストレートに感染防止を訴求していた作品でした。

■疫病退散

 アマビエ伝承を意識したのでしょう、展示作品の中で多かったのが、「疫病退散」という文字が書き込まれた作品でした。

 文字でも絵柄でも、メッセージがはっきりとわかるようなデザインです。子どもたちに伝えたいメッセージが、具体的にわかりやすく仕上げられた作品です。

 さらに、こんな作品もありました。

 アマビエの特徴のある耳をヘアアクセサリーとし、上半身を覆う鱗をファッショナブルなデザインの衣装に置き換えています。この作品は、十代の女性に訴求力をもつでしょう。

 また、こんな作品もありました。

 この作品では、ひし形の眼、長い髪、尾ひれのような3本足、アマビエの特徴がしっかりと捉えられています。また、繰り返し押し寄せる波のトップには、一つずつ白い線が配されており、波頭が立っていることがわかります。こういうディテールの描き方に、海中から現れたといわれるアマビエの由来が、さり気なく表現されています。

 画面を構成するモチーフはそれぞれ、原画(「アマビエの図」)に忠実にその特徴が取り入れられています。その一方で、顔や色調には現代的テイストが加えられています。全体を淡い色調でまとめ、かわいらしさをアピールしつつ、メッセージがしっかりと届くよう構成されています。

「疫病退散」という文字が手描き風に淡い色彩で描かれています。そのせいか、この作品には押しつけがましさがありません。さり気なく、そっとメッセージを発信しているのです。どの層にもまんべんなく受け入れられそうな穏やかさと可愛らしが印象的です。

 この作品を見ると、応募作品に中には、プロに近い人の作品もあるのではないかという気がしてきました。

 そこで、スマホで再び、「入間市文化創造アトリエ AMIGO!」検索してみました。すると、館長の5月28日付のブログが見つかりました。それによると、このプロジェクトは、HP、SNS、チラシを使って、幅広く作品の公募を行ったそうです。5月25日で締め切った結果、応募点数は182点にも達したといいます。これだけでも、この企画がタイムリーなものであったことがわかります。

 もう一度、路上ギャラリーに戻ってみましょう。

■さまざまな作品

 多くの作品が、建物の境界線や植え込み、あるいは、路上に展示されています。大きなパネルにまとめて展示されているものもあれば、個別の木枠に入れて展示されているものもあります。

 大きな木造パネルにまとめて展示された作品群がありました。建物の境界に沿って設置されています。

 このパネルを逆方向からみると、このようになります。

 さらに、植え込みの中には、こんなパネルが設置されていました。ここでは、似たような作品が何点か見受けられます。

 この大きなパネルの手前に、印象深い作品がありました。椅子に木材を縛り付けて固定され、やや高い位置に展示されています。作風がユニークなので、しばらく見入ってしまいました。

 この作品をアップしてみましょう。

 まず、丁寧な描き込みが印象的です。

 全身を覆う鱗の描き方や彩色の仕方がとても丁寧で、陰影が感じられます。たとえば、上から下にいくにつれ、鱗の形状が変わり、藍の濃淡で表現された明るい部分と暗い部分の割合が変化していきます。そのせいか、正面を向いて直立しているアマビエの姿に立体感とボリューム感が醸し出されています。

 次に、天使の羽のように見える部分が気になりました。これは、背ヒレなのでしょうか。淡く微妙な色合いで表現されており、そこだけ明るく浮き立つように描かれています。

 一方、顔面は藍一色で描かれており、目はひし形、口は三角、耳は線を数本引いただけで表現されています。藍色の補色である金髪が顔の周囲を多い、足元まで長く伸びています。首から下は暗色が加えられているせいか、金髪といってもそれほど目立たず、周囲に溶け込んでいます。

 脚部は3本の尾ひれのようなものに支えられ、ヒトのように直立しています。身体の線に沿って髪の毛が描かれ、足元が大きく描かれているせいか、末広がりの形状になっており、安定感があります。

 ひし形の目、全身を覆う鱗、長い髪、3本足といった、「アマビエの図」の特徴を踏まえた上で、作者の創造力を加えて造形されており、ユニークで奇妙な魅力的を放っていました。

 アマビエの周囲は、黒地を背景に、様々な形状の青と黄色のモザイクで埋められています。さまざまなモザイクと青を基調とした色構成からは、絵画作品というよりむしろ、イスラムの造形物のような緻密さが感じられます。独特の風合いがあって、見応えのある作品でした。

 さらに、深みのある作品も展示されていました。

 左上に、「アマビエ」と文字が書かれ、中央上部に、鳥のような動物が大きく口を開け、驚いたようなまなざしを下方に向けている動物が描かれています。「アマビエの図」の特徴は見受けられませんが、おそらく、これがアマビエなのでしょう。

 アマビエの周囲は濃淡の藍色で表現され、荒れ狂う海が表現されているように見えます。まるで荒々しい波間をかいくぐって、海中から顔を出したかのようです。顔面と上半身の一部が、浮き立つように明るく描かれており、驚いたような顔面の表情がことさらに印象に残ります。まさに、海中から出てきたばかりの妖怪に見えました。

「アマビエの図」では脚部に描かれていた尾ひれのようなものが、この作品では鳥の前足の爪のように見えます。よく見ると、その爪が何か別の生き物を押さえつけているようです。この構図が、獰猛な動物の捕獲の瞬間を想像させる反面、その顔面の表情にはなんともいえない愛嬌があります。目は丸くて大きく、開いた口は厚ぼったく大きく描かれており、可愛らしい小鳥のように見えます。明と暗、可愛らしさと獰猛さが同居しており、ちょっと不気味な絵柄ですが、そのコントラストが妖怪らしく、観客を画面に引き込む力がありました。

 もう一つ、印象に残る作品がありました。

 この作品では、4段階でオブジェの推移が描かれているように見えます。どう見ても、アマビエには見えませんが、左から右へと、オブジェが少しずつ変化していく段階を表現しているように思えました。

 まず、左端は黄色と青で構成された不定形の図柄です。その右は、黄色と青が薄められ、3箇所の青が強調され、流れるように描かれています。さらに、その右になると、黄色はさらに薄くなり、青も上部に2箇所集中し、下方は黄色と青がさらに淡くなって、溶け合っています。最後に、右端になると、黄色は左上部、青は真ん中と右上部に薄く存在し、新たに赤系の色が薄く加わって、全体が溶け合っています。

 図の変化の様子を見ていくと、原初的なウイルスが変化し、様相を少しずつ変え、ついには別のものが加わり、新種になっていく様子を描いているようにも思えます。抽象的な表現ですが、だからこそ、ウイルスを捉えるには適した描き方といえるのかもしれません。印象に残る作品でした。

■アマビエアートから、何が見えてきたか

 今回、たまたま通りかかった路上で、アマビエアートを見ることができました。おかげで江戸時代の「アマビエ」伝承を知ることができましたし、それを踏まえて表現された数々の作品を鑑賞することができました。

 香川氏は、江戸時代には、アマビエに限らずさまざまな妖怪が病気の流行を予言し、その絵姿を見ることで、疫病から逃れられるという伝承があったといいます(※『怪と幽』号外、3月19日)。

 当時、各地でさまざまな疫病が流行していたようです。だからこそ、そのような伝承が流布していたのでしょうが、興味深いのは、アマビエなどの妖怪が果たした機能の一つが、「病気の流行の予言」だということです。

 新型コロナウイルスの感染拡大に至った経緯から明らかになったことは、疫病の発生・流行をいち早く知ることがいかに重要かということでした。感染したことを知らないまま外出、感染を軽視して行動自粛をしない、・・・、というようなことが、感染を世界中に拡大させ、パンデミック現象を引き起こしてしまいました。いまなお、感染が収束する気配はみえません。

 パンデミックに対処するには、いち早く疫病の発生を知り、人々にそれを告知し、対応策を取って、感染を広げないことがなによりも大切でした。アマビエ伝承では、海中から光って現れ、人々に「疫病の流行を予言」したといいます。できるだけ大勢の人々に知ってもらうために、その姿が認知されやすいよう、アマビエは暗い海の中から光って浮上するという手段を取ったのでしょう。

 アマビエのもう一つの機能は、「その姿を描いて他人に見せる」ことで疫病からまぬがれられるというものでした。つまり、疫病の発生を知った者はより多くのヒトにそれを知らせることで、疫病の蔓延を防止できるという知恵です。

 一方、アマビエの可愛らしい立ち姿(「アマビエの図」)は人々の気持ちを和ませます。アマビエアート展でも、ほとんどの作品が可愛らしいアマビエの姿を描いたものでした。

 得体のしれない新型コロナウイルス感染に怯え、外出自粛、行動自粛を要請されて、人々はこの3か月余を過ごしました。どんなものでもいい、苛立つ気持ちを鎮め、鬱屈した気分を取り除いてくれるものが必要でした。

 「アマビエ」伝承では、その姿を描くことを勧めていました。描くことによって、そのような鬱屈した気分を払拭することができたのでしょう。

 この伝承の中で、私は、なぜ「姿を描いて、ヒトに見せる」ことが奨励されていたのかわかりませんでした。ところが、私たちが現在経験している不安で鬱屈した気分を思い起こすと、当時、「アマビエの姿を描く」という行為が、人々の心理的な危機を救うことにもなっていたのではないかと思えてきたのです。

 これまで、科学的とはいえない民間伝承を顧みることがありませんでした。ところが、このアマビエアート展をきっかけに調べてみると、民間伝承にはそれなりの発生理由があり、社会的な機能を果たしていたことがわかりました。とてもタイムリーな企画の展覧会でした。(2020/6/1 香取淳子)

延期費用の負担を巡って迷走する日本

■IOCの不可解な行動

 2020年4月21日、テレビや新聞各社は、国際オリンピック委員会(IOC)が公式サイトで、オリンピックの追加費用負担について安倍首相が合意したと掲載し、翌日にはそれを削除したと報じました。

 たとえば、朝日新聞は、次のような記事を掲載しています。

こちら → https://www.asahi.com/articles/ASN4P5TW0N4PUTQP018.html

 これを読むと、IOCは4月20日、「安倍首相が現行の契約に沿って日本が引き続き負担することに同意した」と公式サイトに掲載していたようです。ところが、大会組織委員会がその掲載内容を否定し、削除を求めたところ、21日には公式サイトから削除されていたというのです。

 問題の記事は、IOCの公式サイトのQ&Aのページに掲載されていました。もちろん、いま、その文章を見ることはできません。現在、見ることができるのは変更された後のものです。

こちら → https://www.olympic.org/news/ioc/tokyo-2020-q-a

 この中の7項目目、「(UPDATED) WHAT WILL BE THE FINANCIAL IMPACT OF POSTPONING THE GAMES?」というのが、問題視されたものでした。その内容をご紹介しておきましょう。

Tokyo 2020 and the IOC confirm that it was agreed between the IOC and Japan on 24 March 2020 that the Games of the XXXII Olympiad will now be celebrated in 2021. This postponement was made in order to protect the health of all people involved in the staging of the Games, in particular the athletes, and to support the containment of the virus. It will now be the work of the IOC to assess all the challenges induced by the postponement of the Games, including the financial impact for the Olympic Movement.

The Japanese government has reiterated that it stands ready to fulfil its responsibility for hosting successful Games. At the same time, the IOC has stressed its full commitment to successful Olympic Games Tokyo 2020. The IOC and the Japanese side, including the Tokyo 2020 Organising Committee, will continue to assess and discuss jointly about the respective impacts caused by the postponement.

 そもそも、原文は、IOC公式サイトの「オリンピック東京大会に関するよくある質問」のコーナーで取り上げられた、「オリンピック延期後の財政的な影響はどうか?」という質問に対する回答として用意されたものでした。

 ところが、修正された上記の文章では、「安倍首相」の文字もなければ、財政支出に関する文言もありません。ただ、延期に取り組む心構えのようなものが書かれているだけDした。とても、延期後の追加費用に関する質問への回答とはいえません。

 先ほどの朝日新聞によると、日本の組織委員会は、IOCが公式サイトに掲載した記事に対し、「会談では費用負担について取り上げられた事実はなく、双方合意した内容を超えて、このような形で総理の名前が引用されたことは適切でない」ことを理由に、削除を要求したといいます。

 上記の文章を読むと、明らかに、日本の組織委員会から削除を要求され、修正されたものだということがわかります。IOCは日本の組織委員会の要求をいわれるままに聞き入れたのです。

 そこで、4月20日にIOC公式サイトに掲載された原文がどのようなものであったのかが気になってきました。

■原文ではどう書かれていたのか。

 ネットで探してみると、井上美雪氏が「東京オリンピック追加負担に「首相同意」 IOCが翌日削除」というタイトルの記事の中に、IOC公式サイトの該当箇所を写真撮影したものが掲載されていました(※ HUFF POST NEWS, 2020年4月21日)

 写真で記録された文章の文字を一つずつ、起こしてみました。

The postponement was made in order to protect the health of all people involved in the staging of the Games, in particular the athletes, and to support the containment of the virus. It will now be the work of the IOC to assess all challengers induced by the postponement of the Games, including the financial impact. Japanese Prime Minister Abe Shinzo agreed that Japan will continue to cover the costs it would have done under the terms of the existing agreement for 2020, and the IOC will continue responsible for its share of the costs. For the IOC it is already clear that this amounts to several hundred million of dollars costs.

The postponement was not determined by financial interests, because thanks to its risk management policies including insurance, the IOC in any case be able to continue its operations and accomplish its mission to organaise the Games.

 これが、2020年4月20日に掲載されたIOC公式サイトの原文です。

 確かに、ここでは、「日本の安倍晋三首相が、2020年に向けた現行の契約条件の下で引き続き費用を負担し、IOCもその費用の分担について引き続き責任を負うことに同意した」と書かれ、さらに、「IOCにとっては数億ドルのコスト負担になることはすでに明らか」だと記されています。

 ですから、原文では、現行の契約条件の下、安倍首相は延期費用を負担することに同意したことがはっきり書かれているばかりでなく、IOCの負担分についても現行の契約条件下で合意されていることが示唆されているのです。

 上記の朝日新聞は、「追加経費は約3千億円規模の見方があるが、IOCは見解で、自らの負担額は数億ドル(数百億円)規模とした」と書いています。IOCが(独自の)見解で、数億ドルと見積もったということなのでしょう。

 さらに、菅氏は「延期に伴い、必要な費用については、16日に開催されたIOC組織委との会議において、コストを含む影響の取り扱いが共通の課題であることを確認し、今後共同で評価、議論することで合意したと承知している」と述べたと報じています。必要な費用分担については今後、両者で話し合い、協議していくというのです。

 日本側の言い分を見ていると、IOCが公式サイトを利用して、追加費用のうち、わずか5分の1程度しか負担しないと宣言しているように思えてきます。

 果たして、実際はどうなのでしょうか。

■気になるIOCの回答

 朝日新聞は記事の中で、削除理由についてIOCに取材したところ、次のように回答を得たと書いています。

 「IOCの情報発信の場で、安倍首相の名前を出すのは適切ではないと、組織委から合図(連絡)があった。彼らの希望をもちろん尊重した」

 IOCの回答からは、日本側のクレームの中心が、延期費用の負担ではなく、「安倍首相の名前を公式サイトで出した」ことであったことがわかります。ここに、面子にこだわり、国益を軽んじた姿勢が透けて見えます。

 IOCの回答を見て、私が気になったのは、費用負担の金額について、否定せず、訂正もせずにただ、「日本側の希望を尊重して」、該当箇所を削除しただけだということでした。

 確かに、IOCは削除要請を受けて、「安倍首相」の名前や金額を削除し、日本側の要望通り、下記のように文章を修正しています。

The IOC and the Japanese side, including the Tokyo 2020 Organising Committee, will continue to assess and discuss jointly about the respective impacts caused by the postponement.

 原文で具体的に書かれていた、「安倍首相が…、現行契約の下、日本側の負担に同意した」の箇所、そして、具体的な金額は削除され、その代わりに、「延期による影響については、両者は引き続き、共に評価し、議論していく」とだけ記されています。

 これではIOCが原文で表現していた肝心の部分が否定されたことにはなりません。つまり、追加費用のうちIOCが負担するのは数億ドルだけだという見解が否定されたことにはならないのです。

■負担金をめぐるせめぎ合い

 いま、明確に否定しておかなければ、やがてIOCの言い分が既成事実化してしまいかねないでしょう。なにしろ、IOCは原文で、「現行の契約の下、安倍首相が同意した」と記していたのですから・・・。

 一連の流れを見ていると、日本側の対応に危うさを感じざるをえません。

 IOC公式サイトの文章(原文)を読んで、誰もが印象に残るのは延期費用のうち、IOCが負担するのは数億ドルという箇所です。ところが、日本側はその箇所について、明確な訂正を要求していないのです。

 ジャーナリストの江川紹子氏もおそらく、そのことを危惧したのでしょう、自身のツイッターで、「「合意の事実はありません」に留まらず、日本は追加経費については払えません、ということを、日本側はまず宣言してもらいたい」という見解を示しています。(※ 2020年4月22日、ヤフーニュース)

 朝日新聞は記事の中で追加費用を約3千億円と見込んでいました。果たして、実際はどの程度になるのでしょうか。IOCの見解を踏まえれば、日本は途方もない金額を負担しなければならなくなる可能性があります。江川氏のいうように、「合意の事実はない」と指摘するだけではなく、「日本は追加費用の負担はできない」とはっきりというべきでしょう。

 ひょっとしたら、追加費用についてはっきり否定できない何かが、日本側にあるのかもしれません。

■開催への固執から一転して、延期で合意

 これまで何度か、オリンピックが中止されたことがあります。ところが、今回は、「延期」です。オリンピック史上はじめて、「延期」の決定がなされたのです。つまり、IOCは今回、敢えて、前例を覆す決定をしているのです。・・・、ということは、日本側が何らかの条件を提示して、IOCに「延期の決定」を要請した可能性があります。

 思い返せば、延期決定に至る経緯がなんとも不透明で、しかも、唐突でした。

 延期が決定されたのは、2020年3月24日でした。安倍首相がバッハIOC会長と電話で協議し、開催予定だったオリンピック、パラリンピックを1年程度延期することで合意したと報じられたのです。「東京2020」の名称を維持したまま、遅くても2021年夏までに開催することがIOC理事会で承認されたというのです。

 バッハ会長は、WHO(世界保健機構)のパンデミック宣言を踏まえ、日本からの延期の提案を承認したといいます。一方、安倍首相は事前の記者会見の場で、「完全な形での実施」ができなければ、延期も仕方がないと述べ、「中止は選択肢にない」と述べていました。両者の発言を突き合わせると、明らかに日本側の要望をIOCに聞き入れてもらったことになります。

 実際、バッハ会長は4月12日、ドイツ紙のインタビューに答え、「中止と違い、延期はIOCが独断では決められない」と語っています(※ 2020年4月13日、「日経新聞」)。

 こうしてみると、「延期」という選択は日本側の要望であったことがわかります。

 これまで開催予定だったオリンピックが中心になったケースはいくつかありますが、延期になったことは一度もなく、今回が初めてだそうです。

 最初に中止になったのは1916年のベルリン大会で、これは直前に始まった第1次世界大戦のせいでした。東京で開催されるはずだった1940年大会は、日中戦争のため1938年に返上しています。そして、1944年に予定されていたロンドン大会は第2次世界大戦のため、中止になりました(※ 日経新聞2020年3月12日)。

 これまでは、すべて戦争が原因で、予定されていた大会が中止になっています。

 ところが、今回はパンデミックが原因です。なぜ、中止ではなく、延期に決定されたのでしょうか。しかも、いつ収束するかもわからないのに、なぜ、「1年程度の延期」なのでしょうか。当時、私は不思議でなりませんでした。

 しかも、バッハ会長はドイツ紙のインタビューに答え、「中止の場合、IOCの保険が適用されるが、延期では適用されない」と述べています(※ 前掲。2020年4月13日、「日経新聞」)

 日本は保険が適用されなくても、中止ではなく、延期を選択したのです。当時の状況を思い返せば、アスリートや観客などを慮って延期を要望したわけではなさそうです。

■中止を要望する各国選手の声、競技団体の声

 新コロナウイルスの感染者は、中国の武漢市で発生して以来、瞬く間に世界に拡散していきました。感染者数は急増し、いつ収束するかもわかりません。感染は約170ヵ国・地域に広がっており、各国は出入国制限をするようになっていました。当然のことながら、五輪予選の延期や中止が相次いでいました。

 IOCによると、出場枠のうち、43%はまだ決まっていませんでした(※ 2020年3月23日 日経新聞)。誰が考えても、このままの状況では、オリンピックを今年7月に開催することは不可能でした。

 案の定、選手をはじめ現場の関係者から、次々と開催中止の声が上がり始めました。ついにはJOCの理事も中止発言をするようになりました。選手の健康、大会に向けたコンディションを考えたからでした。

 ところが、安倍首相、森大会委員長、小池都知事などの主催者は一様に、当事者の声を無視し、なんとしても開催すると言い張っていました。IOCも同様です。不自然なほど開催へのこだわりを見せていました。

 感染が拡大しはじめてから、IOCやバッハ会長がどのような発言をしてきたか、整理した図がありますので、ご紹介しましょう。


日経新聞、2020年3月23日

 イタリアで感染が急増しはじめた3月4日、バッハ会長は「東京五輪の成功に全力を尽くす」といっています。ところが、フランスやドイツ、スペインに感染が広がり始めた12日、「WHOの助言に従う」といっています。感染者が増えていく中、欧米を中心に選手や団体らがオリンピックの中止あるいは延期を求めるようになりました。IOCはこれらを無視することはできず、各国の選手代表らと電話会議をしたのが、3月18日です。

 翌19日に、バッハ会長はニューヨークタイムスの取材に、「違うシナリオを検討している」と答えており、それまでとはやや見解を変えました。それでも、21日段階ではまだ、「延期することはできない」とドイツのラジオ局の取材に答えていたようです。

 ところが、21日、スポンサーやTV放映権などでIOCに強い影響力のあるアメリカが延期に向けて動きだすと、IOCは、「延期」を含めた対応を検討すると発表したのです。22日の夜のことでした。

このころ、私はなぜ、IOCやJOCは選手や観客の健康に留意せず、ひたすら開催にこだわり続けるのか、不思議で仕方がありませんでした。

■延期決定の背後に見える、経済的損失

 各紙は、関西大学名誉教授の宮本勝浩氏の試算を踏まえ、延期なら6408億円の損失、中止なら4兆5151億円の損失になると報じました。これを読むと、中止ではなく、延期にしなければならなかったのは、損失が膨大になるからだということがわかります。中止になれば、開催することによって得られる収入がゼロになるのですから、当然です。とはいえ、4兆5151億円とは莫大な金額です。

 こうしてみてくると、日本側がIOCに強く要望し、その結果、「延期」が決定されたことが推察されます。

 日刊スポーツは4月29日、組織委員会の森喜朗会長に取材し、その内容を記事にしています。なぜ、中止ではなく、延期だったのか、森氏へのインタビュー結果は以下のようにまとめられています。

「日本での新型コロナウイルス感染者が増え始めた2月上旬、森会長は組織委の幹部に延期した場合のシミュレーションをするよう内々に指示していた。中止を回避するため聖火を日本に持ち帰り、先手を打って日本側からIOCへ延期を提案したことも明かした」(2020年4月29日、「日刊スポーツ」)

 延期の決定から1か月余が過ぎ、ようやく森喜朗会長も口を開く気になったのでしょうか。日本の主催者が一様に、「通常開催を目指す」と言い続けた理由は、「日本側がその姿勢を崩したら、IOCバッハ会長は喜んで「中止」を選択しただろう」と明かしたのです。

 当時、「延期」に持ち込むための不自然な言動が繰り返されていました。経済的損失を考えれば、いまさら中止にするわけにはいかなかったのでしょう。新型コロナウイルスの感染者が日増しに増えているなか、政府、組織委員会、東京都だけは現実を見ないように頬かむりして、「通常の開催」を唱え続けたのです。

「延期」に持ち込むことがどれほど難題だったか、森氏によって、その舞台裏が明かされたわけですが、その理由は、アスリートや観客の気持ちに配慮したからではなく、経済的損失をより少なくするためでした。

■負担金を支払えるのか。

 延期に伴う追加費用について、組織委員会とIOCは最大で3千億円程度と見積もっていました。これは先ほどの宮本氏の試算の半額以下です。主催者側が低い方の数字を取り上げ、采配していることからは、いかにも軽い負担のように人々に印象づけようとしているように思えます。

 新型コロナウイルスの感染は世界中に及び、人々の健康を脅かし、経済を破綻させています。オリンピックのスポンサー企業もまた、経済の悪化により資金の余裕がなくなりつつあります。

 エコノミストの試算によれば、夏ごろまで感染拡大が続けば、日本のGDPは7.8兆円減少し、上場企業の純利益は最大24.4%減ると見積もっています(※ 2020年3月23日、日経新聞)。いまや、追加費用を日本が負担できるのかどうかも危ぶまれる状況になっているのです。

 4月28日、古賀茂明氏は一連の騒動について、次のように述べています。

「元々五輪予算1兆3500億円のうち、IOCの負担は850億円で、全体のわずか6%強だ。1年延期のための費用は約3千億円とされるが、IOCに従来の割合を極端に超えて支払えと言える理由は特にない。しかも、小池百合子都知事、安倍晋三総理ともに五輪中止の選択肢はなく、交渉上の立場は弱い。そう考えると、IOCが巨額負担をする可能性はなく、IOCの発表は常識的なものだったと考えられる」(2020年4月28日、「AERAdot.」)

 延期に至る経緯を思い起こせば、古賀氏の指摘はとてもよく納得できます。IOCはおそらく、契約に基づいて、自身の負担金額を算出したと考えられます。算出基盤にゆるぎない自信を持っているからこそ、IOCは日本からクレームを受けても、要望をそのまま聞き入れ、該当箇所を削除したのでしょう。

 日本側も、IOCの算出基盤を理解しているからこそ、該当箇所を削除しただけの修正を是とし、問題にしなかった可能性が考えられます。

■不透明な意思決定過程

 森氏はインタビューに答え、日本側が一丸となって開催を主張し続けなければ、IOCは喜んで中止しただろうと述べていました。本来であれば、オリンピックは「中止」されるはずだったのです。ところが、日本側は経済的損失を恐れ、無理やり、「延期」に持ち込みました。

 当然、延期に伴う費用の負担についても、契約に基づく規定があったはずです。

 新型コロナウイルス感染が世界中に広がっているいま、どの国も経済が停滞し、追い詰められてきています。公式サイトでIOCが敢えて延期費用の負担に言及したのは、日本が規定通り費用を負担するか否か危惧し始めたからかもしれません。

 なにしろ、延期に至る意思決定過程はあまりにも不透明で、不自然でした。日本側は直近の経済的損失だけを考え、強引にオリンピック史上経験のない「延期」に持ち込みました。中止であれば保険が適用され、延期なら保険が適用されないというのに、日本側は敢えて、非合理な決定をしたのです。

 日本側の思考法や意思決定の在り方に、IOCが懸念を覚えていたとしても不思議はありません。バッハ会長がドイツ紙のインタビューに答え、費用負担を「数億ドル」と明かし(2020年4月13日、「日経新聞」)、IOCの公式サイトにも「数億ドル」と記載しました(4月21日)。一連の動きからは、今後の焦点が延期費用負担を巡るものであり、IOCが早々に日本側の動きを制したと考えられます。

 そのような流れのなか、安倍首相は4月28日、延期費用の支払いを約束した事実はないと否定しました。

こちら → https://www.asahi.com/articles/ASN4X4J07N4XUTFK01L.html

 確かに、安倍首相は衆議院予算委員会で、国民民主党の渡辺周氏の質問に答え、「IOCに対して費用を負うと約束した事実はない」と述べたと報じられています。同様の内容を「日刊スポーツ」も報じています。今回、安倍首相は公の場ではじめて、延期費用の負担を否定したのです。

 公式サイトにIOCの見解が掲載された時点(4月21日)では、安倍首相はこれについて言及せず、菅官房長官が、「追加費用に関する合意の事実はない」と述べていました。この文言には、合意には達していないが、話し合いはしたという含みがあります。ですから、両者が今後、話し合いを重ね、協議していくという方向につながります。

 ところが、今回、安倍首相は「IOCに対して費用を負うと約束した事実はない」と述べているのです。これは、責任者である首相がIOCの見解を完全否定したことになります。虚偽だと宣告しているようなものですから、今度はIOCからクレームがつけられても文句はいえません。

■誰のためのオリンピックなのか。

 安倍首相が、新型コロナウイルスの影響で「スポンサーのなかには厳しい状況の中にあるところもあると承知している」との認識を示したと朝日新聞は記しています。ですから、予算委員会で渡辺氏から質問された際、首相はとっさに国内世論やスポンサー企業を思い浮かべ、このような答弁をしたのかもしれません。

 実際、今の状態では、とてもオリンピックどころではないという意見が、国民からもスポンサー企業からも出てくるでしょう。

 IOCの見解を完全否定しておかなければ、大変なことになるという思いが、安倍首相の脳裏をよぎったのかもしれません。オリンピックを強引に、「延期」に持ち込んだように、開催を阻む要因をその場しのぎの答弁で抑え込もうとした可能性があります。

 一国の首相が、そのような行き当たりばったりの対応を繰り返せば、どのような結末を迎えることになるのでしょうか・・・。ふと、日本の将来に暗雲が垂れ込めているような気がしてきました。

 今回、オリンピックの延期に伴う費用負担を巡って、いろいろ調べてみました。はっきりと見えてきたのが、日本政府の意思決定過程がいかに不透明で、その場しのぎに終始しているかということでした。しかも、事後、納得できるような説明がありません。

 不透明だからこそ、非合理なこともまかり通ってしまいます。その結果、一見、思い通りに事が運んだように見えたとしても、最終的には大きな代償を支払うことになってしまうのです。

 延期費用を巡る騒動からは、日本政府の意思決定過程の不透明さが浮き彫りにされました。重大な意思決定が、理念もなく、合理性を欠き、データを踏まえずに行われていました。

 オリンピックはいったい誰のためのものなのか。日本政府をはじめ主催者側はその原点を踏まえず、不透明ななかで意思決定を行いました。経済的損失を第一義的に考えたからでした。その結果、今、延期費用についても迷走しています。理念を置き去りにした日本の態勢には、危うさと不安を感じずにはいられません。(2020/5/2 香取淳子)

新型コロナウイルスが露呈した日本の義務教育

■緊急事態宣言

 安倍首相は2020年4月7日、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に緊急事態宣言を発令すると発表しました。爆発的な感染の拡大や医療崩壊を防ぐには、外出の自粛などを徹底する必要があると判断したためで、この宣言の効力は4月8日の午前0時から5月6日までといいます。

 教育に関していえば、東京都はすでに2020年4月1日、都立高校の休校措置を5月6日まで延長すると発表していました。それに伴い、小中学校を所管する市区町村に対しても、休校の延長およびITを活用した学習支援への対応を要請していました。

このように、緊急事態宣言以前に、小中高の休校期間が5月6日まで延長されていましたから、別段、驚きはしませんでしたが、果たして、子どもたちの教育はどうなっているのか、とても気になりました。というのも、3月2日に全国の小中高が一斉に臨時休校に入ってから2か月間も、子どもたちは教育を受けることができないからでした。

 2020年2月27日、安倍首相は全国の小中高に対し、3月2日から一斉に、臨時休校を要請しました。ですから、今回、非常事態宣言を発令された都市の子どもたちは、2か月間も学校に通わないことになるのです。春休みを挟んでいるとはいえ、

 それにしても、3月2日、全国一斉に出された休校要請は唐突でした。

当時、日本はそれほど感染が広がっていませんでした。高齢者や基礎疾患のある人が多く感染しており、子どもへの感染は北海道以外、報告されていなかったはずです。それだけに、なぜ、安倍首相が感染対策として真っ先に、全国一斉に小中高の休校を要請するのか、私にはまったく理解することができませんでした。

子どもたちの感染率、その感染経路を明らかにしたうえで、一斉休校の措置をとるのならまだしも、そのような事実を踏まえた措置というわけではありませんでした。しかも、事前に対応策を練り上げないまま、突如、一斉休校が要請されたのです。

受験シーズンでしたから、動揺した子どもたちもいたことでしょう。なにより、共働きの家庭、ひとり親家庭の子どもたちは休校期間中、どこで、何をして、過ごすのでしょうか。その後、休校をいいことに、盛り場に出かけたり、ゲームセンター、カラオケなどに出向く中高生もいましたから、かえって、感染の機会を与えたようなものでした。

 果たして、感染症対策本部の基本方針はどうなっていたのでしょうか。

■2月25日に決定された、感染症対策の基本方針

 新型コロナウイルス感染症対策本部が、2020年2月25日に決定した基本方針は、以下のようなものでした。

こちら → https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000599698.pdf

 これを読むと、全国一斉休校をしなければならないほど、子どもへの感染が心配されていたわけではありませんでした。

 感染症に対して現時点で本部が把握していることとして、「飛沫感染、接触感染であり、空気感染は起きていない」、感染力は様々であり、罹患しても軽症であったり、治癒する例も多いとしながらも、「高齢者、基礎疾患を有する者では重症化するリスクが高い」と記されています。対症療法が中心で、感染しても軽症が多く、多くの事例で感染力も低いことが示されています。子どもについてはなんら言及されていません。

 感染拡大防止策として、現行は、「患者クラスターに関係する施設の休業やイベントの自粛」、「高齢者施設等の施設内感染対策を徹底」、「公共交通機関等、多数の人の集まる施設における感染対策を徹底」とされています。そして、今後は、「外出の自粛、患者クラスターへの対応を継続、強化」、「学校等における感染対策の方針の提示及び学校等の臨時休業等の適切な実施に関して都道府県等から設置者等に要請」とされていました(pp.5-6)。子どもに関する事柄といえば、今後、休校もありうるという程度のものでした。

 この基本方針を読む限り、子どもへの感染が心配されるような記述は見られませんでした。ところが、基本方針決定の2日後の27日、全国の小中高の一斉休校が発表されました。この時点で一斉休校の必然性があったのかどうかわかりませんが、大きなインパクトがあったことは確かです。

 それでは、2月28日に開催された文部科学大臣の臨時記者会見の様子を見てみましょう。

こちら → https://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/mext_00039.html

 記者から次のような興味深い質問が寄せられています。

「今段階、感染経路として学校がない状況で、休業することの効果、これについていかがお考えなのかということと、優先順位として、学校が最初だったという必要があったのでしょうか。もっと別のことが普通はあったと思うんですけど、政府内の検討というのはいかがだったんでしょうか」

 これに対し、萩生田光一文部科学大臣は次のように答えています。

「現段階では、学校での集団感染などは確認をされておりません。しかしながらここ数日間、学校関係者による罹患者が確認をされております。日頃から、児童生徒あるいは先生方が集団的な活動をする学校の場合は、これはこのコロナウイルスに限らずですね、やはり一斉に拡大する可能性が極めて高い場所だということを専門家の皆さんからも常々指摘をされてまいりました。(中略)万が一、学校でこのような事態が起これば、本当に児童生徒の生命健康を守ることができない事態になりかねない、こういう判断の中で学校、まず最初学校といいますか、子供たちの集まる学校施設をまず先に、という決断に至りました」

 このやり取りをみてもわかるように、子どもたちにまだ感染者がいない段階で、予防的措置として採られたのが全国一斉休校でした。この決定に違和感を覚えた人も多かったでしょうが、国内外の人々に大きなインパクトを与えたことも確かでした。

 国外に対しては、日本政府が果敢に新型コロナウイルス対策をしているという印象を与え、国内では、過剰に思えるほどの対応で新型コロナウイルスに対する警戒を喚起しました。その結果、子どもや保護者の生活、教育現場、教育業界へのしわ寄せ等々、さまざまな影響を引き起こしています。

 長期にわたる休校で、とくに気になるのが、義務教育課程の子どもたちへの影響です。文科省は義務教育に関し、どのような対策をとっているのでしょうか。

■文科省の対策

 新型コロナウイルスに対する文科省の対策は下記のHPにまとめられています。

こちら → https://www.mext.go.jp/a_menu/coronavirus/index.html

 教育コンテンツとしては、次のようなページが設定されています。

こちら → https://www.mext.go.jp/a_menu/ikusei/gakusyushien/mext_00460.html

 経産省、NHK、徳島教育委員会、文科省などが制作したさまざまなコンテンツがありますが、学校教育の代替となるコンテンツとは言い難く、これだけでは休校中の教育を補完することはできないでしょう。提供されたコンテンツをいろいろ見ていくと、もっとも適しているのが、NHKの教育番組だということがわかります。

こちら → https://www.nhk.or.jp/school/program/

 学年ごと、教科ごとにコンテンツが用意されており、これなら自宅学習の教材にふさわしいでしょう。これらのコンテンツを使った学習方法も紹介されています。

こちら → https://www.nhk.or.jp/school/ouchi/

 学習を進めるには、①ノートを用意、②インターネットでこのサイトにアクセス、③番組タイトルをもとに内容を予測、④番組を見る、⑤どんな番組だったか内容をノートにまとめる、⑥ノートを見せながら、誰かに話す、といった学習手順が推奨されていました。

 この通り実行すれば、おそらく、学習効果もある程度、期待できるのでしょう。それには保護者がある程度、関わっていくことが条件となります。

■一定の教育効果を果たしたTV幼児番組

 思い出すのが、『セサミストリート』というアメリカの幼児教育番組です。放送開始されたのが、1969年ですから、もう50年も前の番組です。

こちら → https://www.sesameworkshop.org/

 以前、私はこの番組について調べたことがあります。ジョンソン政権時に「ヘッドスタート」計画の一環として、幼児教育のために開発されたのが、この番組でした。幼児教育、発達心理学などの学者が参加し、年代に合わせ、必要な知識や技能を習得できるような工夫がされています。その一端をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/BNNcpAcF0GM

 ビッグバードなどのキャラクターに引き付けられ、面白がって番組を見ていれば、自然にアルファベットを覚え、数字を理解し、日常生活のモラルを身につけられるというのが、この番組のセールスポイントでした。

 多くの学者がこの番組の視聴効果について研究しています。3歳児から5歳児までの子どもを対象にした調査結果では、どの年齢層の子どもも保護者とともに視聴した場合、継続的に視聴し続けた場合に学習効果が上がったことが報告されています。

 この番組では何よりも子どもたちが積極的に番組を視聴してくれることを重視していました。ですから、子どもたちの好きそうなぬいぐるみを番組進行のキャラクターとして設定し、1分以下の身近なセグメントにまとめられたアニメーションや歌、動画などに教育目標を盛り込み、制作されていました。

 その後、このような細かくセグメント化した制作手法は子どもたちの学習能力を高めないという見解をもつ人々が批判するようになりましたが、1960年代から1980年代ぐらいまでの間、教育環境に恵まれない幼児にとって学習効果を上げてきたことも事実です。

 もっとも、先ほどもいいましたように、親か保護者がともに視聴し、番組内容について語り合うというのが条件でした。子どもにただ、見せっぱなしにしているのではそれほど効果が期待できないというのです。

 NHKが学習方法を紹介しているように、番組をただ視聴するだけではなく、その内容について子どもがノートに書き留め、番組内容について誰かと話したりすると、学習効果が期待できるということになります。

■感染回避、授業の遅れをどうするか

 ブルック・オークシャー(Brooke Auxier)は、ピュー・リサーチ・センターの調査結果に基づき、教育における格差を指摘しています。

こちら → https://www.pewresearch.org/fact-tank/2020/03/16/as-schools-close-due-to-the-coronavirus-some-u-s-students-face-a-digital-homework-gap/

 新型コロナウイルスで休校になった子どもたちは、家庭学習においてデジタルギャップに直面しているというのです。自宅学習にインターネットを毎日あるいはほぼ毎日利用する13~14歳の子どもは58%、インターネットを学習に利用したことはないという子どもは6%だったといいます。これは居住する地域特性や両親の学習レベル、人種、収入などと相関しており、子どもたちの家庭学習には明らかな差異が見られるというのです。

 休校だからそのまま家庭学習に任せておけばいいということにはならず、学校教育が行われないこの期間に、子どもたちの学習レベルに差異が拡大するということになります。日本ではまだそのような調査結果はありませんが、学校再開後、学習能力の差異は拡大しているかもしれません。

 公立の小学校に通っている子どもは、始業式にプリントを渡された程度だったようですが、私立の小学校に通っている子どもは、ほぼ毎日、学校からオンラインで教材が送られており、保護者が先生の代わりになって学習をさせているようです。

 休校期間が長引けば長引くほど、通っている学校の違い、保護者の支援などで子どもたちの学習能力に差がつくことは明白です。自分で教材を選んだり、学習予定を組んだりすることができない小学生の場合、とくに家庭環境に違いが学習環境に違いとなってくるでしょう。

 小学生の場合、まだ先生か保護者の支援が必要ですから、休校の場合はオンライン学習と気軽にいってしまえない事情があります。このことは、たとえ、オンライン教育のための技術的な環境整備ができたとしても、今後の課題として認識しておく必要があるでしょう。

■日本のICT教育の遅れ

 2020年4月17日の日経新聞に、「ICT教育、海外に後れ」というタイトルの記事が掲載されました。読むと、2019年時点でのパソコン配備は小中学生5.4人に1台にとどまるといいます。

 さらに、2018年OECDの調査によると、1週間の数学の授業で「デジタル機器を利用しない」という日本の生徒の割合は89%で、加盟国平均の55%を大きく上回っています。OECDの加盟国は36ヵ国で、メキシコやチリ、トルコといった新興国も加盟しています。その平均値よりはるかに高く、日本では89%もの生徒がデジタル機器を利用しないと回答しているのです。

 先進国だと思っていた日本の義務教育が、なんとも嘆かわしい状況に置かれていることが露呈しました。

 てっきりインフラ整備の不備のせいだと思っていたのですが、著作権法に」阻まれて教科書のデータをインターネットに公開するのが難しいからだそうです。

 さらに、嘆かわしいことに、教員のITスキル不足が関係しているといいます。ICTを課題や学級活動で活用している日本の中学教員の割合は17.9%で、調査対象国48ヵ国・地域の中で下から2番目だというのです。


(日経新聞2019年6月19日より)

 上図を見ると、一目瞭然です。とくに中学校でICT教育がおざなりになっているのが心配です。これでも、前回より8.0ポイント上昇したというのですから、驚きです。ICT時代といわれながら、これまで日本の義務教育の現場では、なんらICTが活用されていなかったことになります。

 そればかりではありません。創造力や批判的思考力を鍛える指導でも、日本は劣っているというのです。

 「明らかな解法が存在しない課題を提示する」指導を頻繁に行っている中学教員の割合は平均37.5%に対し日本は16.1%でした。また、「批判的に考える必要がある課題を与える」指導では、加盟国平均61.0%に対し、日本は12.6%でした(※ 日経新聞2019年6月19日)。

 とくにクリティカルに考える思考力が鍛えられていないようです。今後、論理的思考能力が重要になる時代に、子どもたちは生きていきます。この子どもたちが義務教育の課程でその能力が鍛えられないとすれば、果たして、いつその能力を獲得できるのでしょうか。

 日本の義務教育では、ICTインフラ、教科書、教員、いずれをとっても、諸国に比べ、圧倒的に劣っているのです。一体、なぜ、ここまで放置されてきたのでしょうか。

 もちろん、教員や子どもばかりを責めることはできません。創造力や批判的思考力を阻む社会的圧力が日本社会に潜んでいることも影響しているでしょうし、競争を嫌う社会風潮も関係しているかもしれません。

 新型コロナウイルスを契機に今後、世界中が新たな社会に変貌していくことになるでしょう。子どもたちは、否応なく、ICTを駆使する力、創造力、批判的思考力を育てていく必要があります。

 日本の義務教育にいったい何が必要なのでしょうか。

 子どもたちの幸せのために、将来の動向を見据えたうえで、基本方針を練り直し、必要な教育を着実に実践していくことがなによりも大切だと思いました。(2020/4/21 香取淳子)

新型コロナウイルス騒動のさ中、5Gネットワークを考える。

■ソフトバンク、5Gサービス開始の発表

 2020年3月5日、ソフトバンクは3月27日から5Gサービスを開始すると発表しました。日本で初めての5Gサービス・商品の発表だったのですが、これはネット中継で行われました。観客のいない会場で行われ、ネットで公開されたのです。

 この変則的な発表は、会場でのウイルス感染を避けるための措置でした。新型コロナウイルス騒動のさ中、不特定多数のヒトが一堂に会すれば、ひょっとしたら、感染者が出るかもしれません。ソフトバンクはそのことを懸念したのです。

 中国の武漢市で見つかった新型コロナウイルスは、瞬く間に世界各地に拡散していきました。日本でも感染者が日々、報道されるようになり、人々の不安は高まる一方でした。感染対策のため、3月2日からは小中高が一斉に休校になりましたし、図書館、美術館、各種施設も休館になりました。地下鉄に乗ると、不必要な外出は避けるよう繰り返しアナウンスされ、人々はマスク、トイレットペーパー、保存食品等などを買い占めるようになっていました。

 そんな騒動のさ中、ソフトバンクの5Gサービスが発表されたのです。

 私はふと、この新型コロナウイルス騒動が、5G導入に向けた大きな契機になるかもしれないと思いました。なにしろ、まるでパンデミックさながら、瞬く間に感染者が世界に拡散していきましたから・・・。

 人々は人混みを避け、さまざまなイベントは中止になり、経済活動が停滞し始めました。このままではいずれ社会生活も成立しなくなります。テレワーク、オンライン会議、オンライン診療など、ヒトとの接触を避けられる遠隔コミュニケーションが注目されるようになりました。

 感染対応策として、まず、テレワークが奨励されるようになりました。

 さらに、厚生労働省は2月28日、慢性疾患の定期受診者に対するオンラインによる診療、処方、服薬指導等について、都道府県の関連部局に通知を出しました(※ https://www.mhlw.go.jp/content/000602230.pdf)。

 オンライン診療はこれまでその必要性が説かれながらも、診療の実施要件が難しく、なかなか普及しませんでした。ところが、今回の新型コロナウイルス騒動を受け、厚生労働省も重い腰を上げ、オンライン診療に踏み切らざるをえなくなったのです。

 もっとも、今回の通知でも、感染が疑われる患者の診療に対しては、依然として、対面診療が求められています。ところが、感染者との濃厚接触が疑われる患者等には、対面診療をせず、健康医療相談や受診勧奨を行っても差し支えないとされたのです。これまでと比べれば、一歩前進といえるでしょう。

 すでに感染が全国に拡散してしまった今、なによりもまず、感染者の行動を制限し、医療現場への感染を避ける手立てが必要でした。

■新型コロナウイルス騒動の中、優先すべきものは何か

 後手後手にまわった感染対策で、日本政府は信用を落としてしまいました。3月12日時点で、日本からの出国者には、35か国・地域から入国が制限され、76か国・地域から入国後14日間の隔離や観察処置などの行動が制限される始末です(※ https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56497330W0A300C2EA2000/)。

 日本政府が感染国からの入国を禁止せず、感染者の行動制限もしなかったせいで、いまや医療関係者が次々と感染しています。医療従事者が感染すれば、別の疾患で病院を訪れている患者も巻き添えをくいます。感染者がこのまま増え続け、制限もなく病院を訪れれば、やがては医療の崩壊といった事態も招きかねないでしょう。

 実際、イタリアでは感染者が急増し、医療崩壊に直面しているといいます。感染しているかどうか確かめるため、多数の人々がPCR検査を求めました。政府はそれに歯止めをかけることができず、無制限に応えてしまいました。その結果、医療従事者に大きな負担を強いただけではなく、医療現場を混乱させたばかりか、いたずらに感染を拡大させてしまったのです(※ https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56642800Q0A310C2910M00/)。

 日本政府はこれを他山の石とし、何を優先して取り組むべきなのかを見極め、今度こそ、適切に対処する必要があるでしょう。緊急事態だからこそ、優先順位をつけ、リーダーシップを発揮して感染対策に取り組んでほしいのですが、政府の動きを見ていると、必ずしもそうとはいえません。政府は感染力の強い新型コロナウイルスを水際で防ぐことができず、国内で感染者を出してしまった後も、感染者の行動に制限をかけていないのです。国民の生活を守ろうという姿勢が見えず、これでは将来が不安になります。

 興味深いことに、発生源の中国はすでに、今回の騒動を機に、5Gを活用したオンライン診療等を積極的に進めているといいます(“The Ecinomist” Mar. 5th 2020)。

 5Gを利用して、高精細画面でリアルタイムに患者とコミュニケーションができるようになれば、確かに、対面診療と遜色のないオンライン診療が可能になるでしょう。5Gは、ヒトが遠隔地とリアルタイムでつながり、リアルな状況下でコミュニケーションできるネットワークなのです。

■中国で進むオンライン診療

 2020年2月7日の『人民日報日本語版』によると、武漢協和病院と武漢科技大学付属天佑医院に、5Gスマート医療用ロボット2台が投入されたといいます。これらのロボットが医療スタッフをサポートし、診療のガイド、消毒、衛生管理、薬の配達などを行うのです。そうすることによって、院内での交差感染を減らし、院内隔離、管理、コントロールの水準を高めることができます。

 これらの病院にロボットを提供したのは、中国移動通信集団の湖北有限公司でした。その責任者によると、サービス用ロボットは、病院のロビーで診療のガイドを行い、予防知識を提供してスタッフの負担を軽減するとともに、院内感染を防止する役割を担うといいます。

 また、消毒・衛生管理ロボットは、感染の危険のあるゾーンで医薬品を配布したり、消毒液を適宜散布したり、床面を消毒・掃除するそうです。遠隔操作で決められたルートの消毒、衛生管理を行うことができ、人手によらず、一連の作業を行うことができるというのです(※ https://www.recordchina.co.jp/b779691-s10-c20-d0035.html)。

 驚いたことに、世界中が新型コロナウイルス騒動に手をこまねいているうちに、中国では着々と、医療現場での5Gサービスが展開されていたのです。なんとしたたかなことでしょう。

 オンライン医療に貢献しているといえば、スマホも同様です。医療アプリ「平安好医生」は、中国の大手保険会社が運営していますが、昨年9月、登録者数が3億人を超えたそうです。その勢いで、12月以降、タイにも進出しているといいます。

こちら → https://baike.baidu.com/item/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E5%A5%BD%E5%8C%BB%E7%94%9F

 「平安好医生」は、専門医を紹介し、スマホで予約を取るサービスが好評で、登録者数を伸ばして来ました。今回の新型コロナウィルス対策に関しては、全国に無料でマスクを配布するため、「ウイルス対策司令室」を開設し、対処しているそうです。

 なにも「平安好医生」に限りません。中国で今、大きく躍進しているのが、対面コミュニケーションを必要としないオンライン診療、あるいは、ドローンや自動走行車を活用した無人の小口配送などでした。

 感染報道を見ていて気になるのは、中国が新しいテクノロジーを積極的に、感染対策や治療等に利用していることです。データ収集を兼ねているのでしょうが、今回の騒動を奇貨として、医療現場でさまざまな5Gサービスを展開することによって、5G時代の優位性を目指しているように思えます。

 たとえば、武漢の新型コロナウイルスの専門病院・火神山病院と北京の解放軍病院の専門家たちは、5Gネットワークを使って相互に意見を交わしながら、オンライン診療をしています。

こちら → https://www.afpbb.com/articles/-/3267783

 感染者を多数、受け入れている医療現場が、リアルタイムで感染症の専門家とやり取りをすれば、より適切な処置が可能です。専門家にとっても、これまでの知見を深化させることができ、洗練させていくことができます。さらに、膨大な感染者データを解析して、ワクチンや新薬を開発し、治験を行っていけば、やがては効果的な治療法も見いだせるようになるでしょう。

 武漢市の新型コロナウイルス医療の最前線では、最新のテクノロジーを活かした治療や感染対策が取られていました。事前の備えがあったからこそ、5Gを利用したオンライン会議、オンライン診療を行うことができたのでしょう。

■すでに始まっていた武漢市の5Gサービス

 今回、新型コロナウイルス騒動で一躍、世界的に有名になった武漢市ですが、調べてみると、なんと5Gの実験都市でもありました。

 2019年11月には、5Gを利用した無人の自動運転移動販売車が稼動しています。この自動販売車は、全周をカメラで監視しており、ヒトが手招きをすると近づき、飲み物と菓子のメニューを表示します。購入後の決済はQRコードのスキャンで行い、購入者に課金されるというシステムで動いているといいます。

 中国で初めての路線バスの自動運転も、実は、武漢市の深蘭科技が、東風汽車製の電動バスを使って、運行を開始しました。営業免許はやはり、2019年11月に交付されたそうです。車両には乗客の安全を見守る車内監視モニターが設置され、乗客が手ぶらで乗っても利用できるよう、料金収受のための指静脈認証システムなどが装備されているといいます。

 さらに、百度やアリババ集団などのIT系企業が、武漢市でさまざまな実証実験を行っているといいます(※ https://diamond.jp/articles/-/230317?page=2)。5Gを活用して、各種社会サービスを展開しようとしているのです。

 それにしても、なぜ中国がいち早く、新型コロナウイルスの感染対策として、5Gを適切に活用できたのでしょうか。私には不思議でなりませんでした。

 調べてみると、それは、中国がすでに2019年に実証実験を終了させていたからだということがわかりました。

 ジェトロは2018年5月29日、武漢市が中国移動通信と協力して、5Gの整備を進めていることを報告しています。武漢東湖新技術産業開発区に20基の5G基地局を設置し、実証実験を始めていたのです。

 2018年4月に武漢市政府が発表したロードマップによると、2020年には市内全体をカバーする5Gネットワークが完成し、以後、全面的な商用化を始めるということでした(※ https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/05/bb238269c526dd56.html)。

 確かに、武漢市人民政府は2018年4月3日、5G基地局を設置することについて、通知を出していました。

 この通知で示された全体概念は、①指導理念、②作業目標、です。ご紹介しておきましょう。

 まず、指導理念として、5Gの情報インフラは戦略的で公共的なインフラであると位置づけています。そして、この情報インフラは、企業ニーズにも十分応えることができ、市の公共リソースを合理的に利用しながら、5Gのネットワーク展開と産業の刷新を加速させる基盤になるとしています。5Gネットワークによって、全国に先駆けて武漢市をスマート化し、産業との融合を推進し、武漢市全体の開発レベルを全国トップクラスにするとしているのです。

 次に、作業目標として、武漢市のさまざまな公共リソースを全面的に開放し、3,000基のマクロ基地局と27,000基以上のマイクロ基地局を構築し、5Gネットワ​​ークの実質的な実証実験を2018年末に開始するとしています。そして、2019年には武漢市で開催される第7回世界軍人スポーツ大会に向けて、商用利用のための5Gネットワ​​ークを提供し、2020年には都市全域をカバーする5Gネットワ​​ークを完成させ、それを完全に商用化するとしています(※ 《市人民政府办公厅关于印发武汉市5G基站规划建设实施方案的通知》、武汉办 [2018] 36号、2018年4月3日)。

 このロードマップを見ると、武漢市は中国の5Gネットワークの実験都市でもあることがわかります。2019年には武漢市全域にマクロ基地局、マイクロ基地局が設置され、さまざまな社会サービスに対応できるように計画されていたのです。

■武漢軍人スポーツ大会で示された、5Gとスポーツ融合の魅力

 2019年10月18日から27日までの10日間、武漢市スポーツセンターで第7回世界軍人スポーツ大会が開催されました。世界109か国から9308人の兵士が参加し、射撃、水泳、陸上競技など、さまざまな競技が行われました(※ 「2019年武汉军运会」、百科)。

 この競技大会では、各所に設置された5Gネットワークを活かし、高精細映像で捉えられた競技シーンが現場からリアルタイムで中継され、躍動感あふれるシーンを人々に届けました。

 たとえば、人民日報は、《经济日报》の記事を踏まえ、10月23日、海軍工科大学武漢ムーラン湖キャンパスで、海軍の5つの大会が行われたことを報告しています。競技シーンは5Gネットワークと4Kテクノロジーを利用して高精細画像で伝えられたといいます。

 実際にこの生中継を担当した、湖北モバイル・5G事務所の刘树为氏は、「5Gと4KパノラマHD画像での生中継は、スポーツの魅力とすばらしさを完璧に伝えることができます」と述べています(※ http://it.people.com.cn/n1/2019/1025/c1009-31419546.html)。

 会場には、新華社と中国移動が共同で設立した5Gコミュニケーションイノベーションラボが設置されており、リリースされたばかりの軍事ゲーム《兵兵突击》も展示されていたようです(※ http://www.xinhuanet.com/politics/2019-10/17/c_1125118991.htm)。

 ゲームの開発担当者は、このゲームには5Gならではの「高速、大容量」、「低遅延」という技術的特徴が活かされているので、ユーザーは没頭して楽しめると述べています。

 第7回世界軍人スポーツ大会では、さまざまな競技シーンが5Gならではの迫力ある画面で伝えられ、5Gで楽しめるゲームをリリースされました。スポーツ、ゲーム領域での5Gのデモンストレーションが行われていたのです。国際スポーツ大会が、5Gをアピールする 格好の 場として利用されていたのです。

 いずれにしても、武漢市が全国に先駆けて、5Gネットワークを実装し、公共的な目的は当然のこと、商用的な目的にも対応できるよう計画され、実行されていたことは明らかです。

 そういえば、日本でも、2020年開催のオリンピックを目途に、5Gネットワークの開始が計画されてきました。

 国際スポーツ大会は、国内外の老若男女を巻き込むことができるビッグイベントです。言葉を介さず、誰もが見て、楽しめるスポーツ大会ですから、内外に向けた宣伝装置として、これほどふさわしいものはないでしょう。だからこそ、東京オリンピック大会でも、5Gを駆使した臨場感あふれる映像の活用が企画されていたのです。

 2020年は日本にとって、5Gお披露目の年なのです。その先駆けとなったのが、ソフトバンクの5Gサービスの発表でした。ですから、今回はそのことを取り上げるつもりで、書き進めてきました。

 ところが、ソフトバンクのネット発表について書きはじめると、新型コロナウイルス騒動に触れずにいられなくなり、 つい、横道に逸れてしまったのです。中国の5Gサービスやロボットを活用した感染対策は、それほど興味深いものでした。

 さて、すっかり遅くなってしまいました。それでは、ネット中継で行われたソフトバンクの5Gサービスの発表に戻ることにしましょう。

■ソフトバンクの5Gサービスの内容

 3月5日、ネット中継されたソフトバンクの5Gサービス内容は、次のようなものでした。

こちら → https://youtu.be/XNeDglI_mPQ

 まず、エンタメとしての魅力については、AKB48のメンバーを起用し、①FR(多視点:多様な視点でアイドルを見ることができる)、②AR(拡張現実:アイドルとのつながりをシェアできる)、③VR(仮想現実:アイドルが目の前にいるかのように感じられる)等々をアピールしています。

 スポーツとしての魅力についても同様、野球選手、バスケットボール選手を起用し、FR、AR、VRの観点から訴求しています。これらのエンタメ、スポーツはいずれも独自のコンテンツとして配信するそうです。

 さらに、2020年6月からは、クラウドゲーミングサービスが開始されます。クラウド技術によって、いつでもどこでも、迫力ある映像のゲームを堪能できるとアピールしていました。400タイトル以上を提供するといいますが、これはエンタメやスポーツの倍以上になります。おそらく、ゲームこそが、5Gのスマホ初期ユーザーに訴求力があるコンテンツだという認識なのでしょう。

 ソフトバンクの発表内容からはどうやら、エンタメ、スポーツ、ゲーム中心の5Gサービスになるようです。初期ユーザーを若年層に設定して、サービス内容を考えたからでしょうか。

 確かに、ARやVRの開発者900人に対するXRDCの調査結果によると、AR、VR業界をけん引しているのは依然としてゲームだといいます(※ “WIRED”2019/08/27)。

 それを確認するため、“AR/VR Innovation Report”(XRDC, October 14-15, 2019)をダウンロードして見ました。すると、ARやVRの開発者が手掛けているプロジェクトはゲームが圧倒的に多くて59%、次いで、ゲーム以外のエンタメ(38%)、教育(33%)、トレーニング(27%)といった順でした(※ http://reg.xrdconf.com/AR-VR-Innovation-Report-2019)。

 ソフトバンクが初期ユーザー向けに設定したサービスは、エンタメ、スポーツ、ゲームでした。 XRDCの調査結果と照らし合わせれば、 高精細映像で5Gの魅力を堪能できる領域に集約されていることがわかります。

■日本では当面、対応エリアが限定

 3月27日のネットワーク開始に合わせ、ソフトバンクのデバイスが4機種、販売されます。価格別、機能別にさまざまなユーザーを想定して用意されていますが、留意しなければならないのは、全国どこでも利用できるわけではなく、当面、対応エリアが7都道府県の一部に限定されていることです。(※ 3月31日時点でのエリア https://cdn.softbank.jp/mobile/set/common/pdf/network/area/map/5g-area.pdf)。

 ネットを見ると、対応エリアが限定されていることに不満が高まっているようですが、なにもソフトバンクに限りません。先行するアメリカでも同様、エリアが限定されていることへの不満がありました。

 なぜ、対応エリアが限定されているのかといえば、それは、5Gの電波特性が原因です。5Gは確かに高速で大容量なのですが、届く範囲は狭く、それをカバーするには多数の基地局を設置しなければならないからなのです。

 電波特性をわかりやすく説明した図がありますので、ご紹介しましょう。


2020年3月7日付日経新聞より

 5Gを構成するミリ波は高速で、直進性があり、電波は数百メートルしか飛びません。しかも、建物や樹木ばかりか、雨が降ったりしても電波が遮られてしまうそうです。ですから、5Gネットワークの機能を活かすには、基地局を増やすしかないのですが、現時点ではまだ基地局が十分に設置されておらず、対応エリアが限定されるという現象が起きてくるのです。

 5Gは速度がこれまでの100倍で、タイムラグもほとんどありませんから、これからの産業や人々の生活を大きく変えると期待されています。ところが、5Gを開始しても当面は、対応エリアを限定しなければなりません。通信各社にとっては難題です。

 上図は、「5G、弱点克服へ「脱・自前」というタイトルの記事に添えられたものですが、その内容をみると、携帯大手各社は、通信設備の共用でコスト削減を図り、この弱点を克服しようとしているというものでした。

 基地局を設置する鉄塔や設備などを各社が共用することで、3~4割のコストが抑えられるというのです。ここに、民間で5Gを敷設していくことの難題が見えてきます。

 5Gを導入しなければ、世界に伍していくことができないのが現状です。それなのに、各社が競い合っているのでは競争力が削がれてしまいます。そこで、協同できるところは手を組むという判断に至ったのでしょう。どうやら、日本の通信各社は究極の策として、共用でコストダウンを図り、必要な基地局を設置していく方向に動いているようです。

 さて、この記事には、「5Gは3ステップで進化する」というタイトルの図が添えられていました。今後の展開の様子がわかりやすく図示されていましたので、ご紹介しておきましょう。


2020年3月7日付日経新聞より

 これを見ると、2020年は対応エリアが限定されており、5Gといってもまだ、ゲーム、エンタメ、スポーツなどのAR、VRサービスが主流のようです。これを見て、ようやく、ソフトバンクが提示した5Gサービスが、エンタメ、スポーツ、ゲームに偏っていた理由がわかりました。電波の特性から商用化できるサービスが限られていたのです。

 この図を見ると、5Gの機能を全面的に活用したサービスが可能になるのは、日本の場合、早くても2023年になるようです。

■5Gの取組みに見る日本と中国

 『平成29年版情報通信白書』には、「5Gは、ICT時代のIoT基盤として早期実現が期待されている」と書かれています。日本でも対応が急がれたのは、「世界各国で5Gの早期実現に向けた取組が進められて」いるからでした。

 日本でも2014年9月、 「第5世代モバイル推進フォーラム(5GMF)」 が設立され、5Gの導入に取り組んでいます。

こちら → https://5gmf.jp/

 5GMF は、2020年2月19から20日にかけて、「5G国際シンポジウム2020~5Gが創る未来~」をテーマとした、国際シンポジウムを開催しました。これについての報告は、2020年3月11日、5GMFのHPにアップされました。

こちら → https://5gmf.jp/event/20200311173135/

 第2部で、携帯電話事業各社による今後の事業展開の方向性、アプリ等についてのデモンストレーション、業界内外の連携等についてのパネルディスカッション等が行われたようです。実際に参加していませんので、具体的にどのような内容であったのか、よくわかりませんし、実証実験の展示やデモなども見ていないので、実状はよくわかりません。ですが、シンポジウムの概要や実証実験の写真等を見て、全般にもどかしさを感じました。5Gに関して日本は相当、出遅れているのではないかという印象を抱かざるをえなかったのです。

 このシンポジウムが開催されたのが2月でしたから、新型コロナウィルス騒動のせいかもしれませんが、海外からの参加者がきわめて少ないのです。わずか3か国(トルコ、インドネシア、韓国)からしか参加していません。5Gを先行開始した韓国はまだしも、5G先進国のアメリカや中国から一人も参加していないのが気になりました。

 一方、中国では、今回の新型コロナウィルスの感染対策として、5Gサービスを活用していました。医療現場では、オンライン診療をはじめ、院内感染を防ぐためのロボットによる診療ガイド、清掃、衛生管理が行われていました。また、物資輸送のため、ドローンや自動走行車が利用され、小口配送なども行われていました。実際に5Gによるサービスが稼動していたのです。

 日本が大幅に遅れているのは明らかでした。

 かつては技術立国日本とまでいわれたのに、なぜ、日本が5G領域で遅れを取っているのか、不思議でなりません。調べてみると、5Gの標準必須特許(standard-essential patent:SEP)の出願件数は中国が突出しており、34.02%を占めています(※ 2019年3月、独IPリテイックス調査による)。


2019年5月3日付 日経新聞 より

 企業別シェアをみると、トップがファーウェィで(中国、15.05%)、5位が中興通訊(ZTE)(中国、11.7%)、9位が中国電子科学技術研究院(CATT)(中国、7.27%)とトップテンの中に3社も入っています。中国は圧倒的な存在感を見せているのです。

 日経新聞はその理由について、「3G、4G通信技術で後塵を拝した中国は欧米のライバル企業に多くの特許料を支払わなければならなかった」ため、「次世代通信技術を『中国製造2025』の重点項目に位置づけ、国を挙げて5G関連技術の研究開発を支援してきた」からだと分析しています(※ 2019年5月3日付日経新聞)。

 たとえば、トップにランクされたファーウエイは2018年度、5Gを含む研究開発費に153億ドル(約1兆7100億円)を投じました。2014年度に比べ、2倍以上にも上ったそうです(※ 2019年4月30日付日刊工業新聞)。

 一方、日本企業はトップテンに入っておらず、富士通(日本、4%)がようやく12位にランクされた程度でした。中国に比べ、日本企業は圧倒的に資金力、研究環境、マンパワーなどが不足しています。そんな中、富士通はよく頑張ったといえるのかもしれません。

■5Gサービスの展開、新コロナウイルスの発生

 5Gサービスを2019年に先行開始したのが、アメリカ、韓国、中国でした。中国は11月1日に、国内50都市で5G商用サービスを開始しました。開始時点で1000万人の事前登録者がいたそうです。

 実証実験を経て、さまざまな社会サービス、商用サービスがちょうど実用化段階に達した頃、新型コロナウィルス騒動が発生しました。

 2020年1月23日、中国政府は武漢を封鎖し、周囲から遮断しました。それでも、新型コロナウィルスは瞬く間に世界中に拡散し、2020年3月17日時点で、感染者数は17万7421人、死者数は7044人に達しました。同時点で中国の感染者数は8万881人、死者数は3226人、感染者数、死者数とも中国以外の国の方が多くなりました。

 WHOが「パンデミック宣言」を出したのが、3月11日、遅すぎるといわれましたが、いまや感染の中心は欧米に移動しています。

 2020年3月10日、WHOのパンデミック宣言の前日、習近平主席は武漢市を訪問し、医療従事者や軍兵士、警官、ボランティアらを慰労しました。9日時点で、湖北省での感染者は17人、それ以外では2人と報じられました。おそらく、新型コロナウイルス騒動の終息をアピールするための訪問だったのでしょう。

 さて、中国では感染者がどのように分布しているのか、色分けして示された地図があります。見てみることにしましょう。

 上の図で、こげ茶色(2000人以上)で示されているのが、湖北省です。次いで多いのが、茶色(1500~1999人)で示されている河南省、湖南省です。この二つの省は湖北省に隣接しています。そして、沿岸部の広東省、浙江省です。

 それにしてもなぜ、感染者数、死者数とも湖北省(武漢市)の住民が、他地域に比べ、圧倒的に多いのか、私には不思議でした。そこで、数値で確認してみようと思います。

 CNNは、習氏が武漢を訪問した3月10日時点で、感染者8万754人のうち6万7760人、死者3136人のうち3024人が湖北省の住民だと報じていました。この数字に従えば、なんと、感染者のうち83.9%、死者のうち96.4%が湖北省の住民になります。

 感染者が発見されてまもなく、武漢市は封鎖され、外部との接触を断たれました。そのことが多少は影響しているのかもしれませんが、湖北省(武漢)の感染者の致死率は4.46%です。湖北省以外の中国の感染者の致死率は0.86%でしたから、湖北省(武漢)の致死率はなんと、その5倍以上にもなります。

 新型コロナウイルスは一般に、感染力は強いが、致死率は低いといわれています。それだけに、武漢市での致死率の高さはなんとも不気味です。今後、研究が進み、ウイルスの正体や感染経路が明らかになると、このような疑問も解明されるのでしょうが、いまはまだ腑に落ちません。

 そういえば、武漢市では5Gサービスが開始されていました。感染対策として、ロボットを使って医療現場の作業を軽減し、自動走行車を使って物資を配送していたのです。まだ実証実験段階にとどまっている日本からみれば、まるでデモンストレーション映像のように見えました。

 大勢のヒトの生命を奪い、行動を制限し、経済活動、社会活動を停滞させた新型コロナウイルスは、世界中に感染者を生み出しながら、5Gで駆動されるデータドリブン時代に誘導しているように、私には思えました。

 5Gは今後、さまざまな非接触、非対面作業への需要に応えることができるでしょう。中国は今回、感染対策、オンライン診療、自動走行などを通して大量のデータを収集していますから、そのビッグデータをAIで分析し、より適切な医療サービスに仕上げていくこともできるでしょう・・・。

 そんなことを思っているとき、何の脈絡もなく、ふっと、5Gが影響しているのではないかという思いが脳裏をかすめました。妄想かもしれません。

■ひょっとしたら・・・・?

 武漢市ではいち早く、全市に5Gネットワークが張り巡らされました。武漢市は自動車メーカー各社の集積地でもあります。

 すでに自動走行車が稼働していました。自動走行を可能にするには、5Gネットワークが機能していなければなりません。大量のデータが高速で送信され、受信され、解析され、フィードバックされて無人運転ができるのです。自動運転を可能にする強い電磁波が、身体に何らかの作用をしていたのではないかという疑いが思い浮かんできたのです。というのも、最近、「武漢で眼科医が相次いで新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなっている」という内容の記事を読んだばかりだからでした(※ https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200317-00000017-nkgendai-hlth)。

 思い返せば、いち早く新型肺炎の発生に警鐘を鳴らし、やがて命を落とすことになってしまったのは、まだ30代の武漢市の眼科医でした。

 なぜ、まだ30代の眼科医が感染し、重症化し、死に至ってしまったのか、気になっていました。そこで、調べてみると、「眼球は体表に位置しており、電磁界曝露の影響を受けやすい」とし、家兎に対するマイクロ波とミリ波による曝露の影響を調べた研究がありました。

 報告書を読んでみましたが、専門家ではないので、実験方法やその内容についてよく理解することはできませんでした。とはいえ、「曝露2日の前眼部所見は、角膜混濁がさらに増強され、眼球結膜(眼の白目部分)に充血が見られたことより、眼部の炎症が続いていることが伺えた」と書かれ、最後に、「40GHzと75GHz の周波数で比較した場合、同じ入射電力密度では、角膜および水晶体の温度上昇は75GHzの方が高くなることがわかった」という記述が見られました。

(※ https://www.tele.soumu.go.jp/resource/j/ele/body/report/pdf/h26_01.pdf)素人の私でも、電波の速度が速くなるにつれ、曝露されると眼球に負荷がかかり、発熱しやすいことは理解することができました。

 この結果は、調査のために武漢の病院を訪れた中国人医師がマスクをしていたのに感染し、発症前の数日間、目が充血していたと述べていた(前掲URL)ことと合致します。ひょっとしたら、5Gの強い電波を浴びた結果、眼球に負荷がかかって充血し、ウイルスに感染しやすい状況になっていたのかもしれません。あくまでも素人の推測にすぎませんが・・・。

■日本が、5Gの安全性の確認を

 総務省は、電磁波の影響に関する研究を支援し、人々の不安に対する取り組みを行っているようです。


総務省東海総合通信局より

 先ほどご紹介した眼球への影響に関する研究以外にも、神経作用、遺伝子、脳腫瘍、免疫システムなど、電磁波の影響については多数の関連研究が行われていました(※ https://www.tele.soumu.go.jp/j/sys/ele/seitai/protect/index.htm)。

 さまざまな研究成果を踏まえ、総務省は、現段階ではまだ実施例が少ない研究領域、近年報告が増えているが日本では行われていない研究領域、今後も留意していかなければならない研究領域などがあることを指摘しています。

(※ https://www.soumu.go.jp/main_content/000525626.pdf

 テクノロジー主導で社会が激変していく時代に、突如、新型コロナウィルスが登場し、瞬く間に世界中を混乱に陥れました。今や、各国で出入国の制限や行動制限が加えられるようになり、社会活動、経済活動は停滞してしまいました。この騒動を機に、非接触、非対面のコミュニケーションへの需要は高まり、世界は一挙に、5Gの時代に突入していくことでしょう。

 確かに、このような社会状況だからこそ、5Gの導入を急ぎたくなる気持ちもわかります。とはいえ、ヒトの身体や生物への悪影響を示す知見を無視することはできません。5Gの導入に出遅れた日本こそ、5G先進国にはできない、生命体への影響を調査し、その検証を徹底的に行ってみてはどうでしょうか。それもまた、大きな社会貢献になると思うのですが・・・。(2020/03/18 香取淳子)