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「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

■秀才揃いの「上杜会」のメンバー

 2020年10月3日から12月13日まで、神戸市立小磯記念美術館で、「わが青春の上杜会」展が開催されました。見応えのある作品ばかりではなく、同窓の画家たちの人生を垣間見ることができ、とても印象深い展覧会でした。

 今回は、趣向を変えて、上杜会メンバーの指導教官の作品を見ていくことにしましょう。

 その前にまず、「上杜会」とは何かということを説明しておく必要があるでしょう。実は、この展覧会のチラシを手にしたとき、「上杜会(じょうとかい)」という見慣れない言葉に戸惑いました。一瞬、「上社会」と書かれているのかと思い、見直しましたが、やはり、「上杜会」でした。漢字の横に小さく、「じょうとかい」と振り仮名が振られています。

 チラシを裏返してみてようやく、その意味を理解することができました。「上杜会」とは、「上野にある東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科を1927年に卒業した人々全員(中途退学者を含む44人)が、結成した美術団体」だったのです。

 さて、上杜会が結成されたのは1926年2月、卒業の一年前でした。同年12月25日には、大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が即位されました。急遽、大正から昭和へと元号が変わりました。そして、わずか一週間で1927年1月1日となり、早くも、昭和2年を迎えました。ですから、3月に卒業した彼らは、まさに昭和の幕開けとともに、画家人生のスタートを切ったことになります。

 ところが、1927年9月、彼らは第一回上杜会展を開催しています。卒業早々に展覧会を開催できるだけの力量があったことがわかります。上杜会のメンバーは、美校始まって以来の秀才揃いだといわれていたそうですが、このことからも、なるほどと合点がいきます。

 実際、在学中に帝展(帝国美術院美術展覧会)に入選する者が何人かいましたし、退学して欧州に留学した者もいれば、前衛的な芸術活動に参加し、そこで頭角を現す者もいました。上杜会のメンバーには、創作意欲にあふれた優秀な人材が揃っていたのです。

 その後、「上杜会」という場を得たメンバーたちは、切磋琢磨し合いながら、個性を育み、能力を磨き上げてきたのでしょう。会場を一覧すると、同窓でありながら、画風は似通っておらず、時間が経過するにつて、その個性に輝きが増してきているように見えました。

 ふと気になったのが、彼らは東京美術学校でどのような指導を受けてきたのかということでした。興味深いことに、会場にはまるでその疑問に答えるかのように、序―1のコーナーで、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、長原長太郎の作品が展示されていました。いずれも上杜会メンバー在籍時の教授陣です。

 彼らが入学した当初、西洋画科を創設した黒田清輝氏もおられたようですが、1924年に逝去されており、実際はこの5人が分担して学生の指導に当たっていました。

■西洋画科の教官

 豊田市美術館学芸員の成瀬美幸氏によると、当時の西洋画科は次のようなカリキュラムで指導が行われていました(図録『わが青春の上杜会』、p.8)。

 一年次に長原長太郎に石膏デッサン、二年次に小林萬吾に人体デッサンを学び、三年次に藤島武二、岡田三郎助、和田英作、いずれかの教室を選択するシステムになっていました。今風にいえば、3年次から始まるゼミの担当者が藤島、岡田、和田の三氏だったのです。

 成瀬氏は、「教授たちは、明治期から写実的外光描写を長年追求してきた日本美術界の改革者であり、1920年代にはおおむね50代を迎えていた」と記しています。中には、教授たちの画風に馴染めない学生がいたかもしれません。

 そもそもゼミ担当の三教官をはじめ、デッサン担当の長原長太郎氏、小林萬吾氏など、当時の西洋画科の教官全員が創立時からの白馬会会員でした。

白馬会は、明治美術会を脱会した黒田清輝氏、久米桂一郎氏、山本芳翠氏らが中心となって1896年に設立された美術団体です。旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会に対し、白馬会は明るい画風を特徴としており、新派または紫派とも呼ばれていました。黒田氏を中心としたこの白馬会は、明治の洋画界の主流として、その後の発展に大きく寄与してきたのです。

 一方、明治美術会は白馬会設立後、急速にその勢力が衰え、1901年には解散しています。そもそもは西洋画科を設置しなかった東京美術学校に対抗して設立された美術団体でしたから、1896年に東京美術学校に西洋画科が創設され、黒田氏が指導者として迎え入れられると、もはや存続する意義はなくなってしまったのでしょう。

 1896年に設立された白馬会は1911年には解散しており、上杜会のメンバーが入学した頃は存在していませんでした。ところが、教授陣は全員、創立時からの会員だったのです。創設以来、西洋画科を指導したのが黒田氏ですから、当然といえば当然のことなのですが、西洋画科の教育方針全般に黒田氏の影響が及んでいるのは明らかでした。

 そもそも、西洋画科の教官はそれぞれ、どのような経緯で採用されたのでしょうか。上記5人のうち、3年次以降の指導を担当した藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯

 三者は同校に西洋画科が新設されると、黒田清輝から推薦されて、教官に就任していました。なぜなのでしょうか。その経緯についてざっと調べてみました。

 たとえば、藤島武二氏の場合、黒田氏の推薦を得て、1896年、東京美術学校の助教授に就任しています。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html

 岡田三郎助氏も同様、黒田氏に推薦されて、1896年に東京美術学校西洋画科の助教授に就任しました。ところが、翌年、文部省派遣留学生として渡仏し、1902年に帰国しています。しかも、在仏中は、黒田清輝氏が師事したラファエロ・コランの指導を受けていました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html

 和田英作氏の場合、曾山幸彦氏や原田直次郎氏に学んだ後、天真道場で黒田清輝氏や久保桂一郎氏から、西洋画の指導を受けていました。そして1896年、藤島や岡田と同様、黒田氏に推薦され、東京美術学校の助教授に任命されましたが、早々に教官を辞め、学生として西洋画科に入学し直しています。和田氏自身、助教授として西洋画を教えるにはまだ力量不足だと判断したのでしょう。

 翌年7月に卒業すると、改めて、西洋画科の助手に採用されました。それでもまだ研鑽を積む必要があったのでしょう、今度は1899年、文部省派遣留学生となって渡仏し、やはり、ラファエル・コランに師事しています。そして、1902年に帰国すると、東京美術学校の教授に任命されました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

 このように、三者はいずれも、黒田清輝氏から推薦され、新設された西洋画科の教官として着任していました。そのうち岡田氏と和田氏は、就任後早々に、相次いで渡仏し、黒田氏が師事したラファエル・コラン氏から薫陶を受けていたのです。

 教官採用の経緯といい、教育内容の方向性といい、黒田清輝氏の意向で西洋画科の教育指導体制が基礎づけられていったことがわかります。黒田氏は、ラファエロ・コランの下で学んだアカデミズムを楚とし、西洋画の教育指導体制を構築しようとしていたのです。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html

 黒田氏は留学して学んだフランス・アカデミズムの方針に基づき、日本の西洋画教育の体制を整備していきました。

 採用して間もない岡田氏や和田氏を、ラファエロ・コラン氏の下で学ばせ、指導力の強化を図るとともに、相互交流を深めました。多くの若い才能を育てる一方、日本の洋画界を牽引していきました。

 黒田氏は、洋画界が辛酸をなめていた時期に、東京美術学校西洋画科の指導者として登場し、瞬く間に西洋画教育の基礎を築き、その後の洋画勃興の気運を作りました。黒田氏の行政手腕とその力量には感嘆せざるをえません。

 そもそも1887年に東京美術学校が開設された当初、西洋画科は設置されていませんでした。それがなぜ、1896年に西洋画科が新設されることになったのか。なぜ、黒田清輝氏がその陣頭指揮を執るようになったのか。その経緯をざっと振り返っておくことにしましょう。

■黒田清輝氏らの帰国と明治美術会

 1893年7月、黒田清輝氏と久米桂一郎氏はほぼ10年ぶりにフランスから帰国しました。近代化を推進しようとする社会的気運の高まる中、東京美術学校には依然として西洋画科はなく、日本画中心の教育体制のままでした。

 帰国した黒田氏らは、山本芳翠氏から譲り受けた画塾を天真道場と改称し、フランス留学で得た技術や知識、画法などを指導していました。

 興味深いのは、その教育指針に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」という規定を設けたことでした。

 つまり、描画教育の基礎として、塑像(石膏像)や活人(裸体)をモチーフに素描することを課していたのです。さらに、素描に使う画材も木炭を使用させ、細部の丁寧さよりも全体的な効果を重視する指導方針を取っていました(※ 田中淳、「黒田清輝の生涯と芸術」)。

 素描のモチーフといい、画材といい、黒田氏は、フランスで学んだアカデミズムの思想に基づいて指導に当たっていたのです。

 その一方で、帰国後早々、当時、唯一の洋画の美術団体であった明治美術会にも所属しています。明治美術会から期待されていたこともありますが、黒田氏自身も所属する必要性を感じていたのかもしれません。

 以後、黒田氏は滞欧時に描いた作品を次々に発表していきます。

■黒田清輝氏の「朝妝」

 たとえば、1894年、明治美術会第六回展に、黒田氏は「朝妝(ちょうしょう)」を出品しています。帰国する前に描かれた作品で、鏡の前に立つ裸婦像です。この時、明治美術会の画家たちに衝撃を与えましたが、別段、騒がれることもありませんでした。


(太平洋戦争時に、焼失)

 裸体のまま鏡の前に立ち、身支度する女性が描かれています。鏡を配することによって、後ろ姿と前姿の両方を示される構図になっています。画面中央左寄りに、後ろ姿の女性の裸身が見えます。腰をややひねってポーズを取る立ち姿が圧巻です。うっすらと赤味を帯びた白い肌が情感豊かに描かれています。

 一方、鏡には女性の前姿が映し出されています。陰になっているせいか、やや暗い色合いで描き分けられており、朝の光を意識した筆触が印象的です。

 翌1895年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田氏は再び、この「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受賞しました。優れた技だと評価されたのです。

 実際、この作品は1893年、Société nationale des beaux-arts(国民美術協会)主催のサロンで、日本人ではじめて入選した作品でもありました。黒田氏にとっては、渡仏してラファエロ・コランに師事し、10年に及ぶ学習成果の一つといえるものだったのです。

■明治美術会からの脱会と白馬会の創設

 ところが、この作品をめぐって騒動が起きたのです。一般大衆が作品を鑑賞する博覧会に、裸体画を展示するとは何事かというジャーナリズムからの批判でした。当時の新聞各紙が一斉に、この作品は風俗を乱すものだと非難したのです。これが黒田氏の作品への印象を方向づけたといっても過言ではないでしょう。

 1895年10月、明治美術会の第7回展が開催され、黒田氏は滞欧時に制作した作品21点を出品しました。久米桂一郎氏や天真道場で学ぶ画家たちもそれぞれ渾身作を出品しました。一覧しただけで、誰もが、明治美術会に所属するこれまでの西洋画家の作品とは大幅に異なることがわかるものでした。

 新聞各紙はこぞってその違いを新旧洋画家の違いだと書きたてました。ジャーナリズムが、黒田氏らを新派、明治美術会の画家たちを旧派だとレッテル張りをしたのです(※ 田中淳、前掲)。

 一旦、このようなレッテル張りをされたら最後、その後の洋画作品はどれも、そのフレームワークで見られるようになりがちです。その結果、フレームワークによる差異が強調され、

 案の定、このときの各紙の報道が洋画界の対立構造を顕在化しました。これを契機に1896年6月、黒田氏と久米氏らは明治美術会を脱会し、有志と白馬会を結成することになったのです。

 黒田清輝氏らが率いる白馬会は、若手画家たちの共感を集め、明治後半の洋画界の主流となっていきました。

■西洋画科の創設

 白馬会が結成されたのが1896年6月でした。東京美術学校に西洋画科と図案科が新設されたのはその3か月後の9月ました。創設の経緯はおおよそ次のようなものでした。

 当時の校長、岡倉天心氏は美校の教育環境を整備するため、帝国議会に「美術学校拡張法案」を提出しました。それが修正されて可決されたのが、1895年3月でした。その修正案は、「今後、日本美術と西洋美術をともに奨励するという方針のもとに美校を拡張する」という内容で、天心の意図とは異なるものでした(*吉田千鶴子「東京芸術大学」、2013年10月)。

 法案が可決されると、当時の文相・西園寺公望氏は直ちに、黒田清輝氏と久米桂一郎氏を指導者に選び、西洋画科の教育を任せました。中心になって指導に当たったのが黒田清輝氏でした。教育の骨子を練り上げ、教官を採用し、カリキュラムを制定していきました。1896年は、明治後半の洋画界を牽引する人物として黒田氏が抜擢され、活躍を開始した年だったのです。

 先ほどもいいましたように、黒田らフランス留学経験者は、既存の洋画家たちの団体である明治美術会(脂派)とは馴染みませんでした。だからこそ明治美術会を離れ、白馬会を結成したのです。そのような経緯を思い起こせば、西洋画科の教官として、白馬会創立メンバーから選んだのはしごく当然のことでした。

 上杜会のメンバーが東京美術学校に在籍していた時、教官は皆、白馬会の創設メンバーでした。しかも、全員が黒田清輝氏の推薦で採用されていました。そのカリキュラムもまた、黒田氏がラファエロ・コランから学んだアカデミズムに則ったものでした。こうして官立の西洋画教育が整備され、明治後半の西洋画界を牽引していくことになるのです。

 それでは、ふたたび展示会場に戻り、上杜会のメンバー在籍時の教授陣の作品を振り返ってみることにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像

 「序―1」のコーナーでは、教官5人の作品7点が展示されていました。どういうわけか、藤島武二氏が3点、それ以外が各一点という具合です。興味深いことに、7点のうち2作品が裸婦像でした。藤島武二氏と岡田三郎助氏の作品です。

 見ているうちに、ふと、大正時代になると、もはや裸婦を画題にしても騒がれなくなったのかと不思議に思いました。藤島氏の作品は制作年不詳ですが、岡田氏の作品は1926年の制作です。

 1895年には黒田氏の作品「朝妝」は裸体画だと非難され、大きな騒動になりました。その後、白馬会第二回展に出品された黒田清輝氏の作品「智・感・情」(1897年)もまた、裸婦像を描いたとして物議をかもしました。当時は、風紀を乱すという観点から芸術作品が批判されていたのです。

 あの大騒動から30年以上も経つと、人々は裸婦像を見ても気にならなくなったのでしょうか、それとも、見慣れて問題にしなくなったのでしょうか。

 とりあえず、藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)、岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)

 当時の教官5名の作品が展示されていたコーナーで、藤島氏だけが3作品、展示されていました。「帽子の婦人像」(1908年)、「鉸剪眉(こうせんび)」(1927年)、そして、「裸婦」(制作年不詳)です。

 以前、藤島武二展に出かけたことがあります。そのときに展示されていた諸作品を思い起こすと、「帽子の婦人像」や「鉸剪眉」はいかにも藤島武二氏らしい画風の作品だといえます。

 ところが、「裸婦」は、藤島氏がこんな作品も描いていたのかと意外に思ってしまうほど、典型的な画風ではありませんでした。


(油彩、カンヴァス、63.0×51.0㎝、佐賀県立美術館)

 裸婦像とはいいながら、この作品の場合、まず、油彩ならではの荒削りな筆触に目がいってしまいます。パレットナイフで厚く絵具を置き、その上から荒く削り、さらに色を載せては下色を残しながら、削っていく・・・、そのような作業の繰り返しが、作品に独特の風合いを添えています。

 どことなく、青木繁氏の画風に似たものを感じさせられます。

 頬や脇、乳房、腰から腿にかけて、サーモンピンクが大胆に散らされています。そのせいか、ラフなタッチの中に柔らかで艶やかな肌、コケティッシュな女性の情感を感じさせられます。写実的に描かれるよりもはるかに深く、この女性の内面が表現されているといえるでしょう。

 画面の女性は正面から堂々と、裸身を見せています。やや首をかしげ、恥じることなく、腰をひねった姿勢がなんとも印象的です。全身から、やるせなさ、けだるさ、倦怠感といったようなものがにじみ出ています。当時の日本人女性には稀な興趣が感じられます。

 だからといって、西洋人女性とも思えません。この女性の肩幅は狭く、腰回りもそれほど大きくありません。西洋人女性らしい雰囲気を漂わせているのに、身体つきはそうではないのです。おそらく、西洋文化に馴染んだ日本人女性なのでしょう。

 西洋の雰囲気をまとった日本人女性の裸身が、独特の筆触と豊かな色彩で表現されているところに、この作品の妙味があります。

 一方、岡田三郎助氏の作品は、日本人女性らしい身体特性を備えた裸婦像でした。

■岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)

 藤島氏と同じコーナーに、岡田三郎助氏の「裸婦」が展示されていました。きめ細かなタッチで描かれた裸婦像です。柔らかく、しっとりとした肌にはいかにも日本的な風情が感じられます。


(デトランプ、カンヴァス、53.0×33.0㎝、1926年、ひろしま美術館)

 この作品は、カンヴァスにデトランプで描かれたようです。「デトランプ」という聞きなれない言葉が書かれていたので、調べてみました。すると、これは岩絵の具をポリビニール溶液に混ぜた画材で、比較的早く乾く性質があることがわかりました。

 さて、この作品では、裸婦といいながら、女性の後ろ姿が描かれています。丸味を帯びた肩、平たい臀部からは明らかに日本人女性だということがわかります。凹凸に欠けた裸身で、しかも後ろ姿ですから、どちらかといえば、印象に残りにくい作品です。ただ、この作品を見たとき、私はきめ細かな肌の美しさに強く引き付けられました。

 岡田氏はおそらく、日本人女性特有のきめ細かな肌をどのように表現するか、思案し、工夫を重ねたのでしょう。その結果、しつこさを払拭しきれない油彩ではなく、デトランプを使ったのではないかという気がします。色彩の混合を工夫するだけではなく、材質、技法などを変えて、裸婦像の表現に挑んだのです。

 ただ、残念ながら、この作品には観客の心を射抜く突き抜けたものが感じられませんでした。おそらく、岡田氏自身、そう感じていたのではないかと思います。というのも、この作品を発表した翌年、「あやめの衣」(1927年)を制作しているのです。


(油彩・厚紙、カンヴァス、1927年、ポーラ美術館)

 こちらは裸身ではなく、肩肌を脱いだ女性の後ろ姿ですが、先ほどの裸身よりもはるかに妖艶で、惹きつけられます。

 油彩画は通常、麻布のカンヴァスの上に油絵具を載せます。ところが、この作品の場合、岡田氏はカンヴァスの上にクラフト紙を置いて、その上に油絵具を載せているのです。そうすることによって、クラフト紙が油を吸収し、油絵具独特の光沢がなくなり、落ち着いた色合いになります。

 この技法を、岡田氏はフランス留学中に知ったといいます。

 日本人女性の肌、着物の質感などをリアルに表現するには油絵具は強すぎて、柔らかなニュアンスを表現するのが難しいのですが、このようにクラフト紙を介在させることによって、その難点を低減させることができます。

 興味深いことに、岡田氏は「裸婦」ではデトランプを使い、「あやめの衣」ではクラフト紙を使って油彩特有のテカリを抑えています。ひょっとしたら、岡田氏は油彩で日本人女性を表現することになにがしかの抵抗感をおぼえていたのではないかという気がします。

 ちょっと調べてみました。

 岡田氏は1897年から1902年にかけてフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事していました。コラン氏からは、ホルバイン、レンブラント、ボッチチェリなどの絵を模写するよう指導されていたといいます。

 ルーブル美術館に通って毎日、模写に励みながら、岡田氏は次第に、諸作品に反映された西洋文化の厚みに圧倒されてしまったそうです。模写しながら、日本人である自分はどのような絵を描いていこうかと悩んだといいます。ようやく辿り着いた先が、西洋と日本とが融合した絵でした。

 帰国後、洋画の技法を使って、着物姿の女性を描いていきました。「あやめの衣」は西洋文化と日本文化の融合した作品だといえるでしょう。岡田氏の傑作です。

■和田英作氏の「こだま」(1903年)

 「わが青春の上杜会」展に展示されていたのは、藤島氏と岡田氏の裸婦像でした。和田氏にも裸婦像はないかと調べてみたところ、実は、和田英作氏も裸婦像を描いていることがわかりました。

 和田氏は1900年にフランスに文部省留学生として渡仏し、アカデミイ・コラロッシに在籍してラファエル・コラン氏の指導を受けました。その留学中に制作した裸婦像が、「こだま」と題された作品です。


(油彩、カンヴァス、126.5×92.0㎝、泉屋博古館)

 薄暗い森の中で、大きく目を見開き、両手を両耳に当てた姿がなによりも印象的な作品です。人気のない森の中で、何かが木霊しているのでしょうか。描かれた女性の顔面からは、どことなく不安感がにじみ出ています。

 片腕にまとった薄衣は下半身を覆っていますが、上半身は裸身です。通常なら、観客の視線は身体に引き寄せられるのでしょうが、この作品の場合、両手と顔面に向けられてしまいます。なんといっても、この顔面と耳に手を当てた所作とが気になります。

 見ているうちに、ふと、ムンクの「叫び」を連想してしまいました。


(油彩、カンヴァス、91×73.5㎝、オスロ国立美術館)

 描かれた人物が男性なのか、女性なのか、若いのか老いているのか、基本的な属性すらわかりません。何かに怯えているかのように、耳を両手で塞ぎ、大きく口を開けています。髪の毛がないせいか、不安、恐怖、怯えといった情動がことさらに強調されています。

■「こだま」と「叫び」

「こだま」と「叫び」を見比べてみました。目を大きく見開き、両手を耳に当てているところが共通していますが、ムンクの作品の場合、不安感ばかりか恐怖心までも強く伝わってきます。遠景の赤い空、中景から近景にかけて流れるように落ちてくる黒い濁流のようなものが、手前の人物の恐怖心や不安感を強調しているからでしょう。独特の筆触と色彩とで創り上げられた心象風景です。

 一方、和田氏の作品の場合、両手は耳を塞いでいるのではなく、耳の後ろに当てて、何かを聞き取ろうとしているように見えます。作品タイトルから推察すれば、木々の間で微かに「こだま」する音を聞き取ろうとしているのでしょうか。この作品から不安感は感じられますが、恐怖心は感じられません。

 さて、「こだま」で描かれている裸婦は、顔貌といい、身体つきといい、明らかに西洋人女性です。留学中に描かれた作品なので、当然のことですが、その背景と裸婦の表情とに整合性がみられず、違和感が残ります。

 薄暗い森の中で、半裸で佇む女性を描いても、なんら不思議はありませんが、なぜ、両手を両耳に当てているのか、なぜ、大きく目を開き、口を半開きにしているのか、モチーフの表情と所作が意表を突くものであっただけに、気になりました。しっくりこないのです。

 これが抽象的な描き方なら、別段、不思議に思うこともなかったのでしょうが、リアリズムの手法で描かれていたせいか、違和感を覚えました。

 とくに両手を両耳に当てるという所作が強烈で、ムンクの作品を連想せずにはいられません。二番煎じのそしりを免れないという気がするのです。

 ちなみに、「叫び」が発表されたのが1893年、ムンクの日記によると、自身が感じた幻想を踏まえて描かれた作品だといわれています。

 一方、和田氏が渡仏したのは1900年3月で、以後、1903年7月に帰国するまで、アカデミックな洋画技法を学び、創作活動も展開していました。当然のことながら、1893年に制作されたムンクの「叫び」は知っていたでしょう。

 和田氏がこの作品に接したとき、大きく心を動かされたのではないでしょうか。当時、ラファエル・コランから学んでいたのはアカデミックな画法でした。それだけに、内面を重視したムンクの表現主義的な技法に惹かれるものがあったのではないかという気がします。

 1903年に帰国すると、和田氏は第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品し、2等賞を受賞しています。その後、1927年に開催された明治大正名作展では、「こだま」が展示されました。当時の日本社会では、一風変わったこの裸婦像が評価されていたことになります。

■裸体画は西洋画の基本

 岡田三郎助氏、和田英作氏は共にフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事しました。一方、藤島武二氏は、彼らよりも遅く、1904年に文部省の命を受け、渡欧しています。パリでは私塾に通った後、エコール・ボザールで学び、歴史画や肖像画で名を馳せたフェルナン・コルモンから薫陶を受けました。

 1907年12月にフランスでの滞在を終えた藤島氏は、次にコルモンの紹介で肖像画を得意としていたカロリュス・デュランに師事し、1910年1月に帰国しました。ローマに滞在することによって、ルネサンス期の美術に触れることができ、古代ローマの遺跡を訪ねることもできました。ラファエロ・コラン氏に師事した岡田氏や和田氏とはまた違った美術体験をしていたのです。

 ちなみに、フェルナン・コルモン氏は「海を見る少女」(油彩、カンヴァス、123.0 ×155.0㎝、1882年)という裸婦像を残していますし、カロリュス・デュラン氏も「アンドロメダ」(油彩、カンヴァス、210.0×95.0㎝、1887年頃)というタイトルの裸婦像を描いています。いずれもリアリズムの手法で描かれており、大作です。

 両氏に師事した藤島氏も留学中に、何点か裸体画を描いています。素描であったり、習作だったりするのですが、女性に限らず、男性も、さまざまなポーズで描かれており、西洋画では、裸体を描くことが人物画を習得するうえでの基本だったことがわかります。

 東京美術学校の西洋画科を主導した黒田清輝氏は裸婦像を発表するたび、一大騒動を巻き起こしました。それでも敢えて発表し続けたのは、裸体を描くことが西洋画の基本だったからでした。

 興味深いことに、黒田氏の弟子筋に当たる藤島氏、岡田氏、和田氏の裸婦像については別段、問題視されてはいませんでした。時代が変化したからなのか、観客の意識が変化したからなのかはわかりません。いずれにしても、黒田清輝が巻き込まれた数々の騒動を思い起こせば、創作者は常に変革者であり、そして、世間から非難を浴びる存在なのだということを思い知らされます。(2020/12/27 香取淳子)

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