ヒト、メディア、社会を考える

2016年

第34回上野の森美術館大賞展:現代社会を切り取る視角

■上野の森美術館大賞
 報告が遅くなってしまいました。

 2016年5月5日、第34回上野の森美術館大賞展(4月27日~5月8日)に行ってきました。祝日だったので上野公園は家族連れでにぎわっていましたが、この展覧会は会期も終わりに近づいていたせいか、それほど混み合っておらず、ゆっくりと作品を鑑賞することができました。

こちら →IMG_2228

 今回、全国から712名、1011点の作品が応募されたそうです。その中からまず、164点が入選作品として選ばれ、次いで、一次賞候補が29点、賞候補が13点、最終的に受賞したのが5点でした。8名の審査員による厳正な審査の結果です。

 日本の美術界を担う可能性のある作家として受賞したのは、大賞1名、優秀賞4名の計5名、いずれも23歳から33歳までの若手画家でした。

 大賞が井上舞氏の『メカ盆栽~流れるカタチ~』(日本画)、優秀賞で彫刻の森美術館賞が菅澤薫氏の『赤い蜘蛛の巣』(油彩)、優秀賞でフジテレビ賞が粂原愛氏の『反芻する情景』(日本画)、優秀賞でニッポン放送賞が成田淑恵氏の『Voice』(油彩、アクリル)、優秀賞で産経新聞社賞が櫻井あすみ氏の『fragments』(日本画)でした。プロフィールを見ると、1983年から1993年生まれですから、21世紀に入ってから創作活動を始めた画家たちです。

 上野の森美術館の館長は、本展カタログの冒頭で、「“明日をひらく絵画”を掲げてきた本展にふさわしい、とりわけ若い作家の5点が入賞作品に選ばれました」と書いています。

 公募要項を見ると、「日本画・油絵・水彩画・アクリル画・版画などの素材の違いや、具象・ 抽象にかかわらず、既成の美術団体の枠を越え、21 世紀にふさわしい清新ではつらつとした絵画作品を公募します」と記されています。

こちら →http://www.ueno-mori.org/exhibitions/main/taisho/boshuyoko.pdf

 最終審査では、この展覧会の「明日をひらく」という主旨の下、「21世紀にふさわしい清新ではつらつとした絵画作品」という観点が重視されたのでしょう。たしかに、どの受賞作品にも激動する21世紀社会の片鱗が描出されており、見応えがありました。

■『メカ盆栽~流れるカタチ~』
 受賞作品の中でもっとも印象に残ったのは、大賞を受賞した井上舞氏の作品、『メカ盆栽~流れるカタチ~』でした。

こちら →0x640_taishoartworks_11_0
(162.1×136.4㎝、日本画)

 受賞した5作品は隣り合って展示されていたのですが、私はこの作品にもっとも心惹かれました。一枚の絵の中に21世紀日本の諸相が的確に捉えられ、その特徴が見事に表現されていると思ったからです。モチーフの取り上げ方、構図、色彩の配置など、いたるところに熟慮の跡がうかがえます。一目見て美しく、しかも、観客を考えこませる奥深さがあるのです。感動してしまいました。

 モチーフはマツの木の盆栽です。枝ぶりや幹の肌、植木鉢からはみ出しそうになった根の形状から、このマツが古木であることがわかります。幹の肌の一部は枯れて白くなり、裂け目がいくつも入っています。しかも、それが下方に長く垂れ下がり、その先の方まで白くなっていますから、このマツの木が相当長い年月、生きながらえてきたこともわかります。

 枝の重みでマツの木は折れ曲がり、下方に長く、複雑に湾曲しながら伸びています。白い枝は下に垂れるにつれ、細くなっていき、着地した後、再び、上方に伸びようとしています。この個所はとくにしなやかで、したたかな生命力を感じさせられます。

 細い枝先には小さな松葉がついています。ところどころ緑の松葉が配されているせいか、長く垂れ下がった白い枝はまるで険しい山肌を流れ落ちていく水のようにも見えます。枯れた枝の白さは画面に奥行きを与えるだけではなく、水の流れを感じさせるリアルな動きを生み出しているのです。山水画では水そのものが生命の根源とされています。ですから、水の流れを思わせるこのマツの盆栽の色彩や形状からは、風雅な山水画さえ連想されます。

 さて、植木鉢の中で異彩を放っているのが、マツの木の根元です。大きく膨らみ、植木鉢からはみ出しそうになっています。よく見ると、枯れたマツの白い枝に絡まるようにして金属製の導管、あるいはゴム管のようなものが見えます。大きく裂けた根元に入り込んで、まるで枯れた白い枝を支えるかのように配されています。パッと見ただけでは気にならなかったのですが、よく見ていくと、この金属製の導管が気になってきます。

■機材や工具との調和
 手掛かりを求めてカタログを見ると、井上舞氏はこの絵について、次のように記しています。

*****
私は、もともとエンジンやモーターなどの機械、工場を見るのが好きで、この作品のタイトル「メカ盆栽」は大学1回生の頃の総合基礎実技という共通課題で作った立体作品をきっかけに、「平面で描いてみたいな」という思いから生まれました。
*****
(第34回上野の森美術館大賞展カタログ、p.10より)

 井上氏が「エンジンやモーターなどの機械を見るのが好き」だと知って、なるほどと合点しました。金属製の導管や工具の部品のようなものがとてもリアルに描かれているのに、絵として違和感があるわけではなく、ごく自然に盆栽のモチーフに溶け込んでいるのです。導管や工具のカタチや色彩に詳しくなければ、これほどまでに盆栽に調和させることはできなかったでしょう。自然と人工物が一体化し、21世紀ならではのモノのカタチが創り出されているのです。おかげでこの作品に深みがでたように思います。

 一方、植木鉢を置いたスタンドは、脚部こそはっきりと描かれていますが、台座部分はあいまいに処理されています。そのせいでこの作品は、日本の国旗のように見える植木鉢の赤い丸の模様、横に広がる緑色の松葉、さらには、自在な曲線を描く白い枝ぶりといった要素がひときわ目立つ構成になっています。つまり、マツの葉姿、枝ぶり、鉢、それぞれをたっぷり鑑賞できる構成になっているのです。なにより、枯れた白い枝によって強調されたさまざまな曲線がこの絵に生き生きとした動きを添えていることに私は惹かれました。

 マツの盆栽といえば、日本文化の象徴の一つであり、また、高齢者文化の一つといえるでしょう。それをメインのモチーフにしながら、井上氏はさり気なく、枯れた白い枝のほぼすべてに金属製の導管や工具を絡ませています。ですから、この盆栽が、金属製の導管や工具に支えられてようやく、その生命を維持しているように見えますし、高齢化が進む一方で、機械的処理に依存せざるをえなくなった21世紀の日本社会を象徴しているようにも見えます。

■流動化
 先ほど述べましたように、この作品では、植木鉢を載せたスタンドの台座部分とその周辺をぼかして描かれています。その結果、盆栽はしっかりと観客の目に印象づけることができますが、植木鉢は宙に浮いて見えます。そのことによって、この盆栽自体がまるで居場所を失って漂流しているように見えます。カタチが流れているのです。そういえば、この作品のタイトルは、『メカ盆栽~流れるカタチ~』でした。

「流れる」という概念もまた、グローバル化の進行に伴い、漂流しはじめた日本文化を象徴しているといえます。デジタル技術によってグローバル化が加速され、ヒト、モノ、情報の流動化が進んでいます。まるでこの絵のように、すべてがその存在基盤を失いつつあります。このような現代社会の様相を考えると、『メカ盆栽~流れるカタチ~』の現代的価値がよくわかります。

 盆栽をモチーフに、高齢化し、機械的処理の浸透した21世紀の日本社会を見事に浮き彫りにする一方で、「流れる」要素を取り込んだ構図から、流動化し、漂流しはじめた現代社会を端的に切り取っています。観客からさまざまな思いを引き出す力を持った作品だと思いました。

 その他の受賞作品もどれもレベルが高く、見応えがありました。いずれも現代社会に仕組まれた歪みが端的に捉えられ、訴求力のある絵画作品として仕上げられているところに特徴があると思いました。

■『栗の眼差し』
 入選作品の中にも見るべき作品がいくつもありました。とくに印象づけられたのが、近藤オリガ氏の『栗の眼差し』です。

 この作品を見ると、まず、濃密な画面に惹きつけられてしまいます。描かれたモチーフの意味よりも、キャンバスの上に油絵具で表現された絵画空間そのものに引き込まれてしまうのです。描き方自体が異彩を放っていたからでしょう。画面全体からなんともいえない清らかな静けさが漂ってくるのが印象的です。

こちら →IMG_2252
(162×130㎝、油彩。カタログをうまく撮影できませんでした。実際はもっと透明感のある色彩で、とても迫力があります)

 モチーフは、栗のトゲの部分と割った殻の中に入れ込まれた目玉です。モチーフそれぞれは誰もが知っているものですが、なんとも奇妙な取り合わせです。とはいえ、別に違和感はなく、見ているうちにいつの間にか、日常の空間を超え、はるか遠くに誘い寄せられていくような気持になっていくのが不思議です。

 なぜ、このモチーフが選ばれたのかわかりませんし、画面にどのような意味が込められているのもわかりません。この絵の意味もわからないのに、なぜか引き込まれてしまうのです。

 まず、精緻な筆遣いと深い色調がきわだっています。まるで超高感度カメラのように精巧にモチーフを写し出しているように見えながらも、実は、ヒトの目を通してしか見えない形や色、トーンが創り出されているのです。密度が高く、独特の美しさを湛えた絵画空間が生み出されています。よく見ると、必ずしもリアルではないのですが、フィクショナルなリアリティがあります。おそらく、それが、観客の気持ちを捉える要素の一つなのでしょう。

 たとえば、トゲの描き方を見てみましょう。左側のトゲはまるで毛皮のような密度と柔らかさがあります。ところが、下方のトゲにはしっかりとした強さとしなやかさが添えられています。支えるだけの強度が必要だからでしょうか、一つ一つが大きく、力強く描かれているのです。そして、右側のトゲは逆光の中でその存在感が弱められながらも、トゲ本来の堅さと鋭さが表現されています。トゲの描き方ひとつとってみても、このように、場所ごとに、トゲの色、質感、明るさ、彩度などが微妙に異なって描き込まれているのです。しかも、それぞれが接している背景の色味と見事に調和しており、フィクショナルなリアリティが生み出されています。

■フィクショナルなリアリティ
 それにしても、なぜ、栗のトゲと眼玉がモチーフなのでしょうか。カタログを見ても、説明文は載せられていませんでした。勝手な推測をするしかありません。まず、栗を考えてみることにしましょう。

 そもそも栗の実は、無数のトゲで覆われた堅い殻の中に入っており、何重にも保護され、外部から守られています。

こちら →Kuri02
(Wikipedia より)

 栗の実は一つの殻の中にだいたい2~3個入っているといわれています。まるで家族のように、身を寄せ合って、一つの殻の中に入っているのです。ちなみに、栗は、「純潔」の象徴とされているようです。

こちら →http://www.catholictradition.org/Saints/signs4.htm

 無数のトゲで覆われた堅い殻の中に、実は大切にしまいこまれています。このような状態では誰からも傷つけられることはありません。厳重な保護下に置かれているからこそ、「純潔」の象徴とされているのでしょう。

 上の写真で実際の栗のトゲを見てから、この作品を見ると、この栗のトゲがいかに現実とは異なって描かれているかがわかるでしょう。ところが、高感度カメラで捉えたかのようなリアリティがあります。現実とは異なっているのに、栗のトゲがいかにも細密に描かれているように見えるのです。それはおそらく、この作品にフィクショナルなリアリティがあるからでしょう。そして、リアルに見えて、実はリアルではないからこそ、二つとない美しさが表現されるのかもしれません。近藤オリガ氏の手にかかれば、なんの変哲もない栗のトゲがこのように優雅でしなやかな美しさを見せるようになることがわかります。

■モチーフとしての「眼差し」
 さて、この作品では密集したトゲで覆われた殻の中に、栗の実ではなく、グリーンの目玉が入っています。トゲで覆われた栗の殻の中にどういうわけか、大きな目玉が描かれているのです。こちらは吸い込まれるようなグリーンの色合いで、透明感があります。思慮深さを思わせる、透明感のある奥深さです。

 目は直接、外部に接していますから、身体部位の中では弱く、繊細な器官の一つです。しかも、「見る」という重要な役割を担っていますから、厳重に保護されなければならないのは確かです。ですから、この目玉が、トゲで覆われた堅い殻の中に入れられているのに違和感はないのですが、なぜ、この取り合わせでモチーフが選ばれたのでしょうか。近藤オリガ氏はこのモチーフを描くことによって、何を語ろうとしたのでしょうか。

 タイトルしか読み解く手がかりはありませんが、そのタイトルは、『栗の眼差し』です。これは「gaze of chestnut」なのでしょうか、それとも、「eyes of chestnut」なのでしょうか。「chestnut eyes」なら、文字通り、栗色の目のことですが、この作品の目は濃いグリーンです。とすれば、この絵のモチーフはやはり、「gaze of chestnut」なのでしょう。堅い栗のトゲと殻で守られた「濃いグリーンの目」が何かを見ている・・・、その何かを見ている「眼差し」に意味があるのかもしれません。

 そこで、「green eyes」が何を意味しているのか、調べてみると、「green-eyed monster」という語から派生して、この語には「嫉妬の目」という意味があるようです。とすれば、この作品の栗のトゲは外部から目を守るというより、むき出しになっているグリーンの目(嫉妬の感情)を外部に見せないように防いでいるということになるのでしょうか。

 ひょっとしたら、この作品にそのような象徴的な意味は込められていないのかもしれません。Wikipediaによると、グリーンの目を持つヒトは、「南ヨーロッパや東欧や中東、中央アジアにも多少見られるが大半は北ヨーロッパに集中している」そうです。だとすれば、東欧出身の近藤オリガ氏にとって「グリーンの目」は見慣れた目なのでしょう。いずれにしても、この絵を見ていると想像力がさまざまに刺激されます。

■現代社会を切り取る視角
 第34回上野の森美術館大賞展では、見応えのある作品が数多くみられました。その中で私がもっとも心惹かれたのは、大賞の『メカ盆栽~流れるカタチ~』と入賞作品の『栗の眼差し』でした。いずれもとても印象深い作品です。

 絵画には、観客がその意味を読み解くことができるように思える作品もあれば、そうではない作品もあります。今回、たまたま、その両極端の作品二つを取り上げることになりました。井上舞氏の作品は、過去、現在を踏まえ、未来を見通す力に溢れた作品でした。21世紀の現代社会を切り取る視角が明確に示されていたからこそ、そう思えたのでしょう。

 一方、近藤オリガ氏の作品は、手掛かりが少なく、その意味を読み解くことができませんでした。そのせいか、どこか気になるものが残ります。絵を見て感動すれば、なぜ感動したのか、観客はその理由を求め、半ば条件反射的に作品を読み解こうとします。

 観客は、絵画を納得できる恰好で読み解くことができ、個々の解釈の体系に収めることができてようやく安心するのでしょう。絵を見たときに感動し、作品の意味が理解できてはじめて、観客は満足するといっていいのかもしれません。

 もっとも、理解できるモチーフを使いながら、その意味がわからない作品もまた、21世紀の現代社会の深層から生み出されたものだといっていいのかもしれません。21世紀の現代社会の中では、大量の情報が氾濫しています。ともすれば、モノや事柄はステレオタイプ的な意味が付与されがちですし、思考のプロセスも簡略化されがちです。

 その結果、人々の理解の幅が狭まり、多様性が失われがちになっています。それだけに今後ますます、ステレオタイプ的な解釈が許されず、複雑な思考回路を経て制作された絵画を鑑賞することの重要性が増していくのかもしれません。(2016/5/22 香取淳子)

境界に挑む:花澤洋太氏の作品、武田司氏の作品

■「新鋭美術家2016」ギャラリートーク
 私が都美術館を訪れた2月28日、花澤洋太氏と武田司氏のギャラリートークが行われていました。作家による作品解説を聞く機会など、滅多にあるものではありません。もちろん、私は参加しました。

 翌週、他の3人の方のギャラリートークがあったのですが、残念ながら、私は参加できませんでした。ですから、ここでは、花澤洋太氏、武田司氏の作品を取り上げてみたいと思います。お二人のトークを思い起こしながら、創作の極意を探ってみることにしましょう。

■花澤洋太氏の作品
 花澤氏は「もり」というタイトルの三作品を出品されていました。一目見て、その迫力に圧倒されてしまいました。巨大で、しかも重厚感が強烈なのです。たとえば、最初に展示されていた作品、「もり 2015」を見てみましょう。この絵がどれほど大きいか、立っている花澤氏と見比べてみれば、一目瞭然です。

こちら →花澤絵

 この絵を見ていると、絵画の訴求力が、キャンバスに描かれた内容だけではなく、絵の具やキャンバスといった画材とセットで生み出されていることに、気づかされます。

 私たちは普段、絵を見るとき、何が描かれているのか、どのように描かれているのか、その絵にどういう意味が込められているのか、・・・、といったようなことを把握しようとします。半ば条件反射的に、そのような反応をしてしまうのですが、それはおそらく、私たちが何事に対しても意味を求めてしまう性癖を持っているからでしょう。

 ところが、ごくまれに、絵を見た瞬間、感動してしまうといった場合があります。描かれている内容を理解し、意味を把握する前に心が揺さぶられてしまうのです。なによりもまず、絵の総合的な力によって、観客の五感が刺激され、心が揺さぶられるのでしょう。意識下に働きかける非言語的な力の強さです。

 花澤氏の作品にはその種の訴求力があったのです。きっと、平面キャンバスに描かれた絵画にはない何かがあるはずです。

■曲面に描く

 あらためて、「もり 2015」を正面から見てみました。

こちら →もり2015
(300×300、油彩、コラージュ、レリーフ状パネル、2015年)
(巨大すぎて、私のカメラには収めきれず、画像はyoutubeから引用。)

 暖色系の絵の具を使い、森を象徴的に表現した作品です。ところが、通常の作品とは迫力がまるで違うのです。そこで、絵に近づいてみると、浮き上がったところとそうでないところがあって、画面が平らではないことがわかりました。

こちら →波打つ画面

 絵の下の方を見ると、波打っているのがわかります。平面ではなく、曲面の支持体を使っているのです。支持体のうねりが画面にさまざまな曲面を作り出し、絵の具の表情を豊かなものにしていました。曲面なので、場所ごとに光の当たり方が異なりますから、反射光や影も異なり、絵の具がそれだけ多様な表情をみせるのです。

 しかも、横から見ると、絵の具の量がすごいのに驚かされます。キャンバスの上に厚く盛り上がっています。

こちら →絵の具

 花澤氏は20年ほど、このような手法で、作品タイトル「もり」を制作しているといいます。そういえば、今回、展示された作品もタイトルはすべて、「もり」でした。そして、描画手法もこれまで通り、木製の支持体の上にべニアを貼り、そのうえにさまざまなものを貼り、最終的に布地を貼って、油絵具を載せていくというものです。

 お話しを聞いていると、どうやら花澤氏は、フレスコ画を書いていた時期があったようです。フレスコ画と聞いても、私はよくわからなかったので、調べてみました。花澤氏がいわれたのはおそらく、フレスコレリーフといわれる技法ではないかと思います。

 この技法では、パネルを作り、その上に発砲スチロールなどで盛り上げて整形し、最後にキャンバスを貼ります。そこに漆喰ではなく、絵の具を載せていくのです。この技法であれば、さまざまなイリュージョンを投影できると花澤氏はいいます。レリーフの上の光の当たり方で、絵の具が盛られた画面の表情がさまざまに変化するからでしょう。

■「抵抗感」をテーマに
 花澤氏は、絵画を通して表現したいのは、「抵抗感」だといいます。レリーフ状のキャンバスに油絵の具を載せていけば、物理的抵抗感を表現しやすいだけではなく、ヒトとの関係で生じた溝やわだかまりなど、心理的抵抗感も表現しやすいというのです。 

 先ほど書きましたように、ここ20年来、花澤氏は一貫して「もり」というタイトルで制作をしてきました。森は木々の集合体ですが、ヒトの集合体ともみなすことができます。油絵の具と曲面のある支持体を使うことによって、そのような個と集合体との関係を、森というモチーフの中に「抵抗感」を盛り込みながら、表現できると考えておられるようです。

 油絵の具は色によってそれぞれ乾くスピード、透明感、積層が異なっており、描かれた画面はまるで一つの社会のようだと花澤氏はいいます。油絵の具には時間とともに色褪せていくものもあれば、透明感が出てくるものもあります。油絵の具で表現されたものには色彩の明度、彩度の差異による多様性だけではなく、その種の多様性もあるので、ヒトになぞらえることができるといいます。抽象的な表現によって抵抗感を描き出そうとする花澤氏にとって、油絵の具は恰好の画材なのでしょう。

 しかも、油絵の具には強い匂いがあります。色によって視覚を刺激するだけではなく、匂いによってヒトの嗅覚を刺激するのです。そして、キャンバスを触れば、絵の具の塗りこみ具合によって手触りが異なりますから、触覚も刺激されるのです。油絵の具そのものが、見ているヒトの諸感覚器官に「抵抗感」を与え、インスパイアします。

■平面作家の立体へのこだわり
 花澤氏は、曲面に油絵の具を使って描くという行為を通して、人智を超えた表現効果を得ました。個々の作家が計算しつくし、技術の限りを尽くしても得られない効果を、このような描画方法によって得ているのです。ふと洞窟壁画を思い出しました。

 洞窟の壁面を利用してバイソンの図が描かれているのを、テレビで見たことがあります。先史時代のヒトは、洞窟壁の曲面からバイソンの背中や尻を想起したのでしょう、顔料を適所に置くだけでみごとにリアルなバイソンを造形したのです。自然の形状から動物の形を引き出し、顔料を載せて意味ある像を創り出した表現力に驚いたことを思い出します。

 まだ言葉を創り出していなかったころから、ヒトはすでにモノを対象化し、象形化する力、あるいは概念化する力を持ち合わせていたことがわかります。ヒトに組み込まれた英知のすばらしさを思わずにはいられませんでした。

 花澤氏の作品を見ていて、ふいに、この動物壁画が思い出されたのです。洞窟壁の中に潜む姿を見出して引き出し、質感を持つ絵の具を載せて形にしていますから、絵画といいながら、実はモノとしての存在感も強烈なのです。
 
 メッセージとして伝わってくるのは描かれた内容ですが、その背後で、重みや厚みを持って存在するモチーフのリアリティが感じられます。花澤氏の作品の場合、見る角度や距離を変えると、絵が違って見えてきます。

 常にしなやかな視点を持っていたいと、花澤氏はいいます。そういう思いがあるからでしょう、ワークショップを開催し、さまざまなヒトとの出会いの場を作り出しています。絵を制作するという行為は自己との対話の結果、生み出されるものですが、それ以外に、ヒトを通して見えてくるものもあります。花澤氏はその両方が大切だという考えに基づいて、創作とワークショップの開催を通したヒトとの交流を進めています。

■武田司氏の作品
 ギャラリートークでご本人にお目にかかるまで、私は武田司氏をてっきり男性だと思っていました。お名前から、なんの疑問もなくそう思っていたのです。ところが、実際は白いスーツを着こなしたステキな女性でした。

こちら →画家
(最新作「目覚めの刻」(90×140㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、卵殻螺鈿、蒔絵、2014年)の前で撮影)

 「新鋭美術家」として工芸作家が選ばれるのは武田氏がはじめてなのだそうです。それを意識されていたのでしょうか、武田氏はまず、「工芸が美術として評価されたことが嬉しい」と喜びの言葉を口にされました。

 お父様が漆作家なので、幼いころは絵を描いている父の部屋が遊び場だったようです。日常的に美術の世界に触れ、憧れていながら、作家になるつもりはなかったそうです。創作に悩んでいるときの父の姿を知っているだけに、とても憧れだけでは美術の世界に入っていけないと思っていたと武田氏はいいます。

 ところが、どうしても美術家の魅力には逆らえなかったようで、結局、武田氏はいま、工芸作家として、父と同じ道を進まれています。もっとも、子どものころから創作の苦悩を見てきたせいか、武田氏の場合、絵画性の強い作風で、とても惹きつけられます。

 たとえば、「穣」という作品があります。一見すると、工芸作品ではよく見かける図案のように見えますが、どこか違います。明暗の付け方が絵画的で、奥行きがあり、ストーリーが感じられます。

こちら →穣
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2005年)

 錆絵レリーフといわれるもので、モチーフに立体的な表現を取り込みながら、造形しています。通常、漆といえば、鏡面を想像してしまいますが、武田氏は塗って盛り上げ、削ぐという方法で作品を制作しています。

■錆上げレリーフ
 「積」という作品があります。セーターを着た女性が横になっています。ざっくりしたタートルネックの網目が盛り上がっています。触ってみると、指先に滑らかなレリーフの感触が残ります。

 錆上げは半乾きの状態でカッティングすることで制作しますが、この作品の場合、奥から順に盛り上げていくために、タイミングを見ながら、制作していったそうです。精緻な作業によってリアリティが高められています。絵画的なモチーフを斬新な構図で表現されているので、つい漆作品だということを忘れてしまいそうになります。

こちら →積
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2001年)

 一般の漆作品では見たこともないようなモチーフです。女性が目を閉じて横たわり、その下を紅葉した葉が散っています。背景色は晩秋を思わせます。高齢期の女性と晩秋が巧みな構図の下で描かれており、人生を深く、そして、しみじみと感じさせられます。

 武田氏は作品を制作するとき、同じサイズで絵を描いておき、それを隣に置いて、見ながら制作するのだそうです。それを聞いて納得しました。モチーフの選び方、形状、構図、どれをとってもとても絵画的なのです。漆を使って錆絵の技法で、絵画的なコンテンツを載せていくという制作方法です。これが武田氏独自の美術世界を創り出しているように思えます。

■鬼シリーズ
 会場で面白いと思ったのが、鬼をモチーフにした一連の作品です。先ほど紹介した「穣」も暗い部分に鬼の顔や身体部位がレリーフで表現されています。背景に鬼を配置することによって、この作品に文化史的な深みが滲み出ています。

 鬼が主人公として扱われている作品もあります。「散華」です。

こちら →散華
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2007年)

 二匹の鬼が争っているようにみえる構図が面白くて、私はこの絵に注目しました。対角線上の上方に襲う側、下方に迎え撃つ側が配置されており、それぞれ赤と緑という反対色の帯を付けています。帯の色彩、形状、配置によって、画面に生き生きとした動きが与えられています。左上方と右下方には雲がシンボリックに表現され、鬼の下には星屑のように金粉がちりばめられています。天空での出来事を故事として見せる配慮がうかがえます。

 二匹の鬼はそれぞれ、両手に散華を持ち、その周辺には小さな散華が散っています。散華とは仏を供養するため、ハスの花をかたどった紙をまき散らすことをいうのだそうです。鬼の表情と姿態がどこかユーモラスで、仏の供養のための行事が身近に感じられます。

 私が面白いと思ったのが、「空」です。

こちら →空
(150×105㎝、錆絵レリーフ、螺鈿、蒔絵、2006年)

 この作品には3匹の鬼が登場しますが、顔を見せているのは2匹です。一匹は井戸に映る青空を眺め、もう一匹は格闘中なのでしょうか、すごい形相をして天空をにらみつけています。とはいえ、2匹ともどことなく愛嬌があり、なんともいえない可愛さがあるのです。

 鬼が足で踏みつけているのは屋根瓦だそうです。使わない屋根瓦が土に埋め込まれているのです。そういえば、鬼瓦という言葉があるぐらい、鬼は守り神として、これまで日本人の日常生活に組み込まれてきました。ヒトには姿を見せず、そっと見守ってくれる貴重な存在なのですが、現在、私たちはそんなことを考える余裕もない生活をしています。そもそも鬼の居場所が現代社会からなくなってしまっています。

 2匹の鬼のいる位相が異なっており、鬼の姿態を通して表現されてるものも異なっています。ところが、いずれも鬼がヒトの日常の生活空間の中に潜み、天上を見、下界を見てヒトを見持ってくれているのです。この作品で面白いと思ったモチーフは、土に埋め込まれた屋根瓦と青空を映し出した井戸です。

 鬼というモチーフを設定したことで、鬼シリーズ作品に深みと文化的な味わいを出すことができたと思います。

■女性をモチーフに
 鬼を絡め、女性をモチーフにした「現ー長谷雄草子より」という作品があります。

こちら →現
(150×105㎝、錆漆レリーフ、螺鈿、蒔絵、2009年)

 平安初期の絵巻物「長谷雄草紙」から着想した作品です。

 wikipediaを見ると、以下のように説明されています。少し長いですが、作品を把握するため、引用しましょう。
********
 双六の名手でもある長谷雄のもとに、ある夕暮れに妙な男が現れて双六の勝負を申し込んだ。長谷雄は怪しみながらも、勝負を受けて立った。勝負の場として長谷雄が連れて来られたのは平安京の朱雀門であり、男は何の足がかりもなく門をするすると昇り、昇れずにいた長谷雄を担ぎ上げて楼上に昇った。この男こそ、朱雀門の鬼が化けた姿であった。

 長谷雄は勝負に全財産を賭け、鬼は絶世の美女を賭けると言った。双六は長谷雄が勝ち続けた。勝負に敗れた鬼は後日、美しい女性を連れて長谷雄のもとを訪れ、百日間この女に触れてはならないと言い残し、女を置いて去って行った。
 長谷雄は最初は言いつけを守っていたものの、80日が過ぎる頃には我慢できなくなり、ついにその女を抱いた。たちまち女の体は、水と化して流れ去ってしまった。その女は、鬼が数々の人間の死体から良いところばかりを集めて作り上げたものであり、百日経てば本当の人間になるはずだった。
 さらにその3か月後、長谷雄の乗る牛車のもとにあの鬼が現れ、長谷雄の不誠実を責めて襲い掛かった。長谷雄が北野天神を一心に念じると、天から「そこを去れ」との声があり、鬼は消えるように去って行ったという。
********* 以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%9B%84%E8%8D%89%E7%B4%99より。

 「現ー長谷雄草子より」のモチーフは、この物語に登場する水となって流されてしまった美女でした。百体の死体から鬼が作り上げたという絶世の美女です。左下方に流されていく女性を糸のようなもので操っているのは鬼の手足です。モノトーンの中で表現された水の流れ、揺蕩う長い髪の毛に包まれた女性、しっかりと筋肉のついた鬼の手足、いずれも繊細でしかも鮮やかに描かれています。

 武田氏は、美女が斜めに流れ落ちてくるこの絵の構図を、ヒトが生まれ出てくるときをイメージしたといいます。たしかに、この絵を一目見た瞬間、退廃的な美しさを感じさせられます。ところが、しばらく見ていると、生命の真髄、生きること、存在することの意義を深く考えさせられていきます。表層から深層へと観客の意識を誘導する深さがあるのです。

 女性をモチーフにした武田氏の作品はいずれもとても美しく、流れるように繊細な線が印象的です。

 たとえば、最初に紹介した武田氏の写っている後ろに展示されている「目覚めの刻」は、セミの羽化になぞらえ、子どもが女性になっていく微妙な時期が巧みに表現されています。

 画面両サイドの暗い部分は土の中なのでしょう、植物の根や微生物のようなものがいくつも描かれています。そして、中央の明るい部分はおそらく地上なのでしょう、木の枝に絡まるように、薄いセミの羽をまとってまどろむ少女が描かれています。セミが土から出てきて羽化するように、少女は初潮を迎えました。

 いつでも生命を宿すことができるようになったのですが、まだ子どものように深い眠りの中にいます。やがて目覚めれば、大人になっていくにつれ、さまざまな危険に遭遇していくのでしょう。束の間の安らぎとでもいえばいいのでしょうか、少女の寝顔はとても安らかです。

 武田氏の作品は16点、展示されていました。ここでは一部を紹介しただけですが、表層の美しさに加え、描かれている内容の深さに感動してしまいます。現実の捉え方がとても深く、そして繊細なのです。

■表現の境界に挑む
 「新鋭美術家2016」に選ばれた方々はいずれも表現の境界に挑んでおらるように見受けられました。とくに花澤氏は平面作品に敢えて曲面の支持体を使って表現することで、従来の表現技法だけでは得られない表現の地平を切り拓いていました。

 一方、武田氏は工芸作品に絵画的手法を取り込むことによって、独特の世界を創り出していました。工芸作品の繊細で完成度の高い美しさと、絵画作品ならではの奥行きの深さを生み出していたのです。

 武田氏は、工芸品は美しく作らなければならないというセオリーがあるといいます。ですから、ゴールをしっかりと決めて作業を進めざるをえないのですが、そうすると、途中でこうしようと思っても、それができないのです。自由な発想をコントロールせざるをえなくなります。ですから、最初にアイデアをしっかりと練り込み、完成形を予測しながら制作していくことになります。

 ところが、絵画は積み重ねで世界を作っていきますから、最初の案はいつでも変えることができます。描き始めてからも、試行錯誤が許されるのです。とくに油絵の場合、上から絵の具を塗ってしまえば、別の絵にしてしまうこともできるぐらいですから、自由度はきわめて高いといえるでしょう。

 花澤氏、武田氏、両者とも表現の境界に挑むことによって、新たな表現の地平を切り拓いていました。お二人のギャラリートークを聞いていて、異なる美術領域で制作活動を展開していながら、共通点があることに気づきました。

 それは曲面に対する繊細さです。花澤氏は平面ではなく、敢えて曲面を細工した支持体に描いていましたし、武田氏はレリーフの厚みにミリ単位でこだわっていました。光の反射、影のでき方など微妙に異なるからでしょう。

 今回、ご紹介したお二人はまさに新鋭美術家の名にふさわしい画力と挑戦力を持ち合わせた作家です。今後、グローバルな表現舞台でもおおいに羽ばたかれることでしょう。日本の若手画家が切り拓いた画法がどれほど新しい世界を見せてくれるのか、期待しています。(2016/3/24 香取淳子)

新鋭美術家2016:圧倒される表現力

■「新鋭美術家2016」展の開催
 「都美セレクション 新鋭美術家2016」展(2016年2月19日ー3月15日)が、東京都美術館ギャラリーCで開催されています。

 新鋭美術家展とは、東京都美術館が、27の公募団体から選りすぐった作家を紹介する「公募団体ベストセレクション美術」展の出品作家の中から今後、活躍が期待される50歳以下の作家をさらに選別し、新鋭美術家としてそれぞれ個展形式で紹介する展覧会です。「公募団体ベストセレクション2015」展は以下のような公募団体からの出品がありました。

こちら →http://www.tobikan.jp/media/pdf/20150313_bestselection2015a.pdf

 「新鋭美術家」展は、2012年に都美術館を大規模改修後、公募団体の活性化を目的に毎回、開催されるようになったそうです。今年は第4回目に当たります。先述した「公募団体ベストセレクション2015」展から、花澤洋太(独立美術協会、洋画)、森美樹(日展、日本画)、西村大喜(国画会、彫刻)武田司(日展、工芸)、戸田麻子(二紀会、洋画)の5人の作家が選ばれ、新作を含めた作品が個展形式で展示されています。

こちら →http://www.tobikan.jp/media/pdf/20151225_newwave.pdf

■圧倒される表現力
 2月28日、「新鋭美術家2016」展に行ってみました。まず、花澤洋太氏の作品に驚きました。巨大な曲面を支持体にモチーフが描かれているのです。写真で見るのと違って、圧倒的な迫力があります。

こちら →https://youtu.be/DmC1YJj5_rY
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 その隣りのコーナーに展示されていたのが、森美樹氏の作品です。一連の作品を見ていると、心の奥底に埋もれていた感覚が次第に蘇ってくるような気がします。子どものころ持っていたはずの感覚です。

こちら →https://youtu.be/BQE1vmO4F1M
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 春、木々が芽吹き、花を咲かせ始めます。それを見て喜んだのも束の間、やがて枯れていくのを悲しむ・・・、身の周りで起こるそのような生命現象を、ただひらすらに受入れ、そして、少しずつ、そこからさまざまなことを学んでいった子どものころが思い出されてくるのです。

 モチーフといい、色彩といい、構図といい、森羅万象に対する切ないほどの愛おしさが画面から伝わってきます。静かで深く、観客に訴えかけてくる表現力が素晴らしいと思いました。

 壁面と反対側に展示されていたのが、西村大喜氏の作品です。どの作品にも温かさが感じられ、見ていると触ってみたくなり、気持ちが和んでいきます。

こちら →https://youtu.be/pzkjUoSCx8M
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 写真を見ているだけではわからないかもしれませんが、これはすべて石です。そっと撫でてみると、その形状にふさわしい柔らかさと温もりが感じられます。不思議なことに、一連の作品を見ていくうちに、気持ちが優しくなっていくような気がするのです。微妙な曲線によって作り上げられた調和の世界に居心地の良さが感じられるからでしょうか。硬い石で作り出されたいくつもの球面が、観客の心の底からそっと優しい気持ちを引き出してくれそうです。

 受付を挟んで反対側のコーナーに展示されていたのが武田司氏の作品です。工芸作家として今回、はじめて新鋭美術家に選ばれたのだそうです。どの作品も緻密な仕上がりの中に遊びがあり、豊かな着想力を感じることができます。

こちら →https://youtu.be/6Ww9vNinAtA
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 絵画のようなモチーフ、構図ですが、よく見ると、繊細な技巧で制作された漆工芸です。どの画面にも動きが感じられ、モチーフを超えた奥行きと柔らかさが感じられます。よく見ると、浮彫になっていて、女性や鬼の身体の曲線が巧みに表現されています。

 漆や螺鈿などを使って微妙な細部が表現されているだけではなく、それらを統合した全体像がまた素晴らしいのです。時間をかけて構想し、なんども練り直して制作されているからでしょう。表現力のすばらしさに驚きました。

 その隣のコーナーに展示されていたのが、戸田麻子氏の作品です。作品を一目、見て、衝撃を受けました。そして、戸田氏がまだ20代の女性だと知って、さらに驚きました。一連の作品には深い苦悩と、存在への問いかけが描かれていたのです。

こちら →https://youtu.be/1lBCLtcZsO8
(http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=778 より)

 衝撃を受けたのが、ニワトリの磔刑図です。意表を突くモチーフですが、羽根の白さ、トサカと内臓の赤によって、ニワトリの苦痛が直接的に表現されています。背景も暗い色調で描かれていますから、その苦痛がとてもリアルに伝わってきます。

 見ているうちに、気持ちが痛み、次第に内省的になっていきます。画面上で表現された苦痛が観客の心に投影され、苦悩を引き出すからですからでしょうか。戸田氏の構想力、構成力、そして、表現力に感嘆しました。

■2016年度の新鋭美術家
 2015年度の新鋭美術家展も素晴らしかったですが、今回はそれ以上に野心的な試みが見受けられ、今後がおおいに期待されます。公募展から推薦され出品された作品の中から5人の作家が選ばれるという仕組みの成果でしょうか。あるいは、年齢条件のせいでしょうか。
 
 若手作家としながらも、ここでは50歳以下に年齢が設定されています。その点もよかったのではないかと思いました。若すぎると、その時点で才気が感じられても、将来はまだわかりません。多くの画家は試行錯誤しながら、30代、40代になってようやく画家としての境地を切り開き、安定化させていくのだろうと思います。ですから、「今後活躍が期待される50歳以下」という条件は若すぎなくていいと思いました。

 今回、選ばれた5人の画家のうち、花澤洋太氏は49歳、森美樹氏は48歳、武田司氏は46歳です。もし、「40歳以下」という条件なら、このような圧倒的な画力を見せる画家が選に洩れてしまいます。幅広く年齢設定をしているおかげで、20歳の才気あふれる新人から、技術を蓄え、圧倒的な表現力をもつ中堅までの画家を対象にすることができました。見応えのある展覧会でした。

こちら →images
(西村氏の作品を手前に、左に花澤氏の作品、右に森氏の作品が展示されています)

 花澤氏、武田氏のギャラリートークに参加しましたので、両氏の作品については、あらためて、ご報告したいと思います。(2016/3/11 香取淳子)

「文研フォーラム2016」に参加し、OTT産業の今後を考える。

■OTTはメディア産業をどう変えるか
 2016年3月1日、千代田放送会館で「文研フォーラム2016」が開催されました。私はセクションAの「OTTはメディア産業をどう変えるか」に出席しました。放送事業者、メディア関係者、研究者など大勢の方が参加しておられました。

こちら →IMG_2022

 OTTとは、Over The Topの略語で、動画・音声などのコンテンツサービスを提供する事業者のことを指します。このセクションでは、James Farrell氏(Head of Content-Asia Pacific Amazon Prime Video & Amazon Studios)、David Weiland氏(EVP, Asia BBC Worldwide)、西田宗千佳氏(ITジャーナリスト)を登壇者に迎え、パネルディスカッションが行われました。

こちら →https://www.nhk.or.jp/bunken/forum/2016/program.html

 まず、柴田厚・上級研究員によってアメリカでの概況が説明され、田中孝宜・上級研究員によってイギリスでの概況が説明されました。説明はパワーポイントを使って行われたので、諸状況を把握しやすく、スムーズに議論の展開に入っていくことができました。

■米英のOTTをめぐる概況
 柴田氏は、アメリカではOTTの普及で放送のあり方が大きく変容していると報告しました。Netflix、Hulu、AmazonなどOTT三大事業者がシェアを広げており、それに押されるように、テレビ事業者が新たなOTTサービスを始めたといいます。

 たとえば、Univision NOWは2015年11月からヒスパニック住民のためにスペイン語コンテンツに特化して配信しはじめ、NBC Seesoは2016年1月からコメディ番組に特化して、エッジの効いた番組の配信を開始したそうです。

 柴田氏はアメリカのOTT業界はいま、混戦模様を呈しており、各事業者はパートナーとして協力しあうこともあれば、競合相手として競い合うこともある状況だといいます。そして将来、それらの事業者がシームレスにユーザーにコンテンツを提供するようになるだろうと予測します。

 一方、田中氏は、NetflixやAmazonなどが進出しているが、イギリスではBBC iPlayerがOTT事業をけん引しているといいます。BBC iPlayerは公共サービスとして無料でコンテンツを提供しており、利用者はBBCのテレビやラジオ番組のほぼすべてを視聴することができます。

 もちろん、SKYをはじめ有料サービスを提供している放送事業者もありますが、BBC以外の放送局も独自にOTTサービスを提供していますから、イギリスでは基本的に無料視聴が中心になっているといいます。そのせいか、NetflixやAmazonの影響をそれほど深刻に捉えていないようです。

■Amazon、BBC、ITジャーナリストの見解
 AmazonのJames Farrell氏は、2015年9月に開始されたAmazon Primeの現状を説明されました。プライム会員は翌日配達の便宜に加え、追加料金なしでコンテンツ配信サービスを受けることができます。

 Amazon Primeの加入者は増加し、視聴時間も増えているといいます。現在、コンテンツの70%は日本語で配信されていますが、まもなく、サマーズを起用したコンテンツなど、日本オリジナル版を提供していくといいます。Amazon Primeは日本向けのローカライズを進めているのです。

 一方、BBCのDavid Weiland氏はBBCの現況を説明した後、BBCの戦略として、①質の高いコンテンツ制作、②強力なグローバルブランドの構築、③デジタル化対応、等々を示されました。

 もとはといえば、見逃しサービスから発したBBC iPlayerですが、BBC Storeとリンクさせることによって、視聴者はいつでも番組を購入できます。そして、購入済みの番組はさまざまなデバイスによって視聴できる仕組みになっているのです。

こちら →http://www.bbc.co.uk/iplayer/features/buy-and-keep

 David Weiland氏は、新しいデバイスが登場するたびに、BBCではiPlayerとどうマッチングさせるかを考えるといいます。テクノロジーの進化に合わせ、iPlayerも進化させるというのです。テクノロジーが進化すれば、視聴傾向も変化しますから、新規テクノロジーにマッチングさせておかなければ、視聴者のBBC離れを引き起こしかねません。このような方針で臨むBBCはまさにICT時代の放送事業者といえるでしょう。

 David Weiland氏は、BBCがiPlayerを立ち上げたのは、視聴者が今後、オンライン視聴に移行していくと判断したからだといいます。

 たしかに、若者に限らず現代の視聴者はもっぱらスマホやタブレットで番組を見ており、テレビ番組だからといって必ずしもテレビで見ているわけではありません。このような現実を予想したからこそ、ネット配信に着手しなければ、出遅れてしまうとBBCは判断したのでしょう。BBC iPlayerが運用開始されたのは2007年12月からでした。

 ITジャーナリストの西田氏は、日本のOTT事業は海外に比べ、5年は遅れているといいます。日本の場合、そこから得られる利益が大きくないからだというのですが、その日本でも、現在、スマホやタブレットで映像コンテンツを視聴する人が増えています。となれば、将来、OTT事業が収益を生み出せるようになるかもしれません。

 西田氏は、どのようなコンテンツを提供していくかが大切だといいます。そして、テレビ東京が『妖怪ウォッチ』のネット配信で大成功を収め、全体としてのコンテンツビジネスを変えたことに注目します。

 それを聞いて、私はとても興味を覚えました。後で調べてみると、2015年度、たしかにテレビ東京は大幅に収益を上げていますが、それは、アニメなどのライセンス収入の大幅な増加によるものでした。地上放送では前年同期比1.1%増だったのに、アニメなどのライツ関連が346%も増加していたのです。

こちら →http://gamebiz.jp/?p=156867

 アニメはグローバル展開しやすく、コンテンツ流通のハードルを越えやすいのかもしれません。日本がOTT事業を推進していくうえで、どのようなコンテンツをどのように提供していくか、今後ますます重要になるでしょう。

 最近、目覚ましい躍進ぶりを見せているのが、Netflixです。DVDの宅配レンタルで1997年に事業を開始したNetflixがどのようにしてこのような発展を遂げることができたのか、フォーラムでは詳しく取り上げられなかったので、ここで少し触れておきます。

■Netflixの躍進
 OTTの加入者は増加し、視聴時間も増えてきました。最大手のNetflixは2016年1月現在、世界190か国以上、7000万人以上にサービスを提供しています。

こちら →helloWorld
Netflix media centerより。図をクリックすると拡大されます。

 Netflixはオリジナルシリーズ、ドキュメンタリー、長編映画など、1日、1億2500万時間を超えるコンテンツをオンラインで配信しています。会員はさまざまなオンライン接続デバイスで、いつでも好きな時に、好きな場所からコンテンツを視聴することができます。まさにOTTの最先端をいく事業者といえるでしょう。

 1997年にDVD宅配レンタルサービス事業を始めたNetflixは2007年、一部作品を対象に、VOD方式による動画配信サービスを開始しました。以後、急速に加入者を増やしていきます。

こちら →s2015TS314_3_2-580x327
(吉岡佐和子・情報通信総合研究所より)図をクリックすると拡大されます。

 吉岡佐和子氏は、Netflixの特徴として、他のOTT事業者に比べ、圧倒的にコンテンツが多いことをあげます。もっとも、さほど有名でない作品が多いことも指摘し、Netflixが以下のような工夫をしていることを紹介しています。

「最新のテレビシリーズを放送するHulu Plusとは異なり、ライセンス料が安く、さほど有名でない作品が多い。そのため、Netflixはユーザーの過去の動画視聴状況に関する莫大なデータを分析し、個々のユーザーの好みを把握して、その嗜好に近い作品をレコメンドしている。その結果、これまでユーザーが知らなかったような作品であっても、嗜好に合っているため楽しむことができる。ここがNetflixの最大の強みであり魅力なのである」
(http://www.icr.co.jp/newsletter/s2015ts314_3.htmlより)

 このようにNetflixは、ユーザーの視聴動向に沿ったコンテンツ提供サービスを展開しているというのです。ビッグデータを分析した結果を重視する経営姿勢は、テレビ番組を配信する際、シーズン終了後に一挙に全話を配信するという形式をとっていることにも表れています。

 視聴動向を分析した結果、多くの視聴者が全話を一挙にまとめて視聴するという傾向がみられたことを踏まえ、Netflixはこのような配信形式を採用するようになったというのです。これもまた、ビッグデータに基づくマーケティングを踏まえた戦略といえるでしょう。

 吉岡氏はさらに、Netflixはオリジナルコンテンツを制作する際にも、このようなデータに基づいて行っているといいます。

 「Netflixはオリジナルコンテンツの作成に莫大な投資を行っているが、そのストーリーや俳優は、視聴者がどういうストーリーを好んで見ているか、どの俳優の作品が多く見られているか、といった莫大な視聴データを用いて決定している。「House of Cards」はネットドラマ初となるエミー賞を受賞したが、これはNetflixの綿密な戦略により、受賞が約束されていたといっても過言ではないだろう」
(前掲URLより)

 「House of Cards」は政治・社会派テレビドラマシリーズで、Netflixが番組販売および配信をしています。2013年2月1日からシーズン1、2014年2月14日からシーズン2、2015年2月27日からシーズン3が配信されており、2016年3月4日からシーズン4が放送開始されます。各シリーズはそれぞれ13話配信されています。

こちら →http://www.imdb.com/title/tt1856010/

 この作品はネット配信で初公開されたドラマシリーズとして、2013年に第66回プライムタイム・エミー賞を受賞しました。以後、数々の賞を受賞しています。まさにビッグデータを駆使したコンテンツ制作の成果です。

 それでは、日本市場でOTTはどのような展開を見せるのでしょうか。

■日本市場とOTT
 日本でもNetflix、Hulu、Amazonなど三社のサービスが利用されています。放送コンテンツ配信サービスはいまや急速にグローバル化しつつあります。果たしてこれらの事業者が日本市場で成功するのか、否か。問題は、利用者がどれほどそのサービスを利用したいと思うのか、です。

 この三社にdTV、U-NEXTを加え、各社のサービスを比較したサイトを見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →http://getnavi.jp/11513

 これを読むと、Amazon以外のほとんどのサービスが実質的に月額1000円で抑えられていることがわかります。ですから、現在のところ、価格面で競争優位に立っているところはありません。それではコンテンツの方はどうでしょうか。

 James Farrell氏はAmazonのさまざまな取り組みを紹介したうえで、重要なのはコンテンツだといいます。ヒットするようなコンテンツはそれほど手をかけなくてもヒットするともいいます。ICT時代では、いいコンテンツが埋もれたままになることはなく、いつか誰かの目に留まり、日の目を見るようになるからでしょう。そして、これからAmazonは日本オリジナル版を充実させていくといいます。

 BBCのDavid Weiland氏も質の高いコンテンツを目指しているといいます。コンテンツの制作ではヨーロッパの方が進んでいるが、Broadbandはアジアの方が進んでいるとし、OTTのアジア市場は今後、発展するだろうと予測しています。

 それでは、OTT事業者が配信するコンテンツは現時点で、どう評価されているのでしょうか。

 先ほど紹介したサイトによると、Netflix、Hulu、Amazonについて、コンテンツの面で比較すると、海外ドラマを見たいのならHulu、他では見られないオリジナルコンテンツを求めるならNetflix、そして、Amazonは他に比べ配信コンテンツ数は少ないが、プライム会員なら追加料金がいらないのでお得と、判定しています。(前掲。http://getnavi.jp/11513より)

■視聴者の立場からOTTを考える
 最後に、視聴者の立場からOTTについて考えてみることにしましょう。私の場合、どうだったのか、OTT受入れ状況を含め、最近の視聴傾向を振り返ってみることにしたいと思います。

 I-phone6sに買い替えた際、Netflixが標準装備されていましたが、私は加入しませんでした。ケーブルテレビで十分だと思ったのです。Amazonの場合も同様、私はプライム会員なので追加料金なしに動画コンテンツ提供サービスを利用できるのですが、いまだに利用していません。とくに見たいと思う番組がないのです。

 1日は24時間しかありませんし、見たいと思う動画コンテンツも限られています。どれほど多くの選択肢があったとしても、一人の人間が見られるコンテンツ数には限度があります。これが視聴者がOTTサービスを受け入れる際の大きな制約要因になるのではないかと思います。

 私の場合、現在はケーブルテレビを通して、様々な放送コンテンツを見ています。ニュース系統はCNNやBBC、CCTV大富などを見ていますし、ドラマは主にイギリスのミステリードラマをよく見ています。

 ケーブルテレビでは多数の番組が提供されていますから、私はこれまでいろいろなチャンネルを視聴してみました。視聴したいチャンネルが決まってきたいまも、たまに他のチャンネルに変えてみるのですが、満足できず、結局、上記のようなチャンネルでほぼ固定してしまいました。

 視聴者にはコンテンツに対する固有のニーズがあります。そのニーズに対応できるコンテンツが提供されれば満足し、コンテンツと視聴者の満足感の回路ができあがれば、やがてそれが習慣化されます。そして、視聴行動がいったん習慣化されれば、なかなか崩れないことが経験上、わかります。

 私は以前、iphoneで海外の番組を視聴していました。アルジャジーラの番組も視聴できましたから、シリアの政変などはiphoneで見ていました。その後、ipadで視聴するようになりましたが、長時間見続けると、画面が小さすぎて目が疲れます。

 モバイルデバイスはいつでもどこでも見られるというメリットはありますが、長時間、視聴するのは無理です。やはり大画面の高精細度テレビで視聴する魅力にはかないません。現在、視聴者はさまざまな状況下でコンテンツ消費を楽しみたいと思うようになっています。さまざまなデバイスでコンテンツを視聴できるOTT事業は、視聴者のその種のニーズに応えることができますから、大きく伸びていくでしょう。

 視聴者としての経験を踏まえ、OTT事業の今後をざっと見てきました。世界の動向と同様、日本でもOTT事業は進展していくでしょう。ただ、テレビ放送の時代と違ってネット配信の時代には、質の高いコンテンツの提供こそがOTT事業者生き残りのカギになると思います。

 今後、質の高いコンテンツをどのように見せていくのか、質をどのように維持していくのか、ビッグデータを活用した戦略が必要になってくるでしょう。さらに、ネットとテレビ、コンテンツ・ストアをシームレスに連携させる工夫をしていくことが、OTT事業の経営基盤の安定につながるのではないかと思います。(2016/3/9 香取淳子)

第12回中国全国美術展:中国リアリズムの煌めき

■「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展の開催
 2016年2月25日、日中友好会館美術館で「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展(2016年2月25日から4月10日)のオープニングセレモニーが開催されました。中国の全国美術展の一部を日本で鑑賞できる絶好の機会です。開催を楽しみにしていた私は定刻より早く会場に出向きましたが、すでに大勢の方々が談笑しながらフロアで開会を待っておられました。

日中の主催者および来賓の方々が挨拶された後、テープカットが行われました。

こちら →IMG_2565

 「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展は、日本側主催者が第12回「全国美術展」で展示されていた576作品の中から厳選した76作品が展示されています。中国画、油彩画、水彩画・パステル画、版画、漆画、アニメーションなど、幅広いジャンルの美術作品が展示されています。どの作品もすばらしく、現代中国美術の表現力の高さ、多様さの一端をうかがい知ることができます。直近5年間の中国の現代美術の動向を知るまたとないチャンスといえるでしょう。

こちら →http://www.jcfc.or.jp/blog/archives/7421

 中国では5年に一度、政府主催による「全国美術展」が開催されます。2014年12月15日に開催された第12回全国技術展では、中国全土から2万点余りの作品が応募されました。その中から4391点の入選作品が選ばれ、さらに、その中から受賞作品、優秀作品、受賞ノミネート作品576点が、北京の中国美術館で展示されました。そして、その576作品の中から金賞7点、銀賞18点、銅賞49点、優秀賞86点が選ばれました。「全国美術展」はまさに現代中国を代表する美術作品の展覧会なのです。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index.html?hcs=1&clg=2

 中国各地での巡回展の終了後、世界各地でこの展覧会の巡回がおこなわれています。日本では日本人主催者側が選んだ76作品で構成された展覧会がすでに2015年、奈良県立美術館、身延町なかとみ現代工芸美術館、長崎県美術館などで開催されています。日中友好会館美術館での開催は日本では4回目に当たり、本展終了後は福岡アジア美術館で開催されます。

 会場では、日本での展覧会のための作品選定に関わった3人の方々が作品を紹介されました。説明順に、中国画、油彩画、アニメーションの諸作品を見ていくことにしましょう。

■中国画に見るリアリズム
 森園敦氏(長崎県美術館)は中国画の代表作として、「団らんー家族愛」を取り上げられました。この作品は本展の最初に展示され、カタログの表紙にも使われていましたが、中国美術館でもトップに飾られていたそうです。陳治氏と武欣氏のご夫婦が制作された作品で、中国画部門で金賞を受賞しました。

こちら →団らん
(172×200㎝、シルクに顔料、墨、2014年)

 たしかにこの絵には強烈な存在感があります。決して派手ではないのですが、大きな画面から発散される温もりのようなものが観客の気持ちを吸い寄せていくのです。私は中国画を見るのは今回が初めてなのですが、この絵の繊細で優しい色遣いに気持ちがしっくり馴染みます。どこか日本画に通じるものがあるような気がしました。

 森園氏は、中国画には長い歴史があり、宮廷画家が手がけた花鳥風月をモチーフとした作品の系統と、文人による自然をモチーフにした作品の系統があったといいます。とくに、文人は絵の中に“意”を盛り込むことを重視し、制作していたそうです。

 文人は絵を見るヒトになんらかのメッセージを伝えることに意義を見出していたのでしょうか。それとも、写実的に再現するだけでは済まない表現衝動が文人にはあったのでしょうか。いずれにせよ、中国の文人画家たちが具象からなんらかの意味を抽出しようとしていたことに私は興味をおぼえました。具象から抽象に進み、やがて記号化されていった漢字の成り立ちを連想させられたからです。

 この絵は帰省した息子家族と老夫婦の再会を喜び合う光景をモチーフにしています。誰もが経験する日常生活の一コマですが、そのなんでもない日常の中に現代中国の世相が繊細に捉えられており、心を打ちます。リアリズムの手法によって、現代社会の深層が的確に表現されていることに感心しました。この絵については次回、再度取り上げ、掘り下げてみたいと思います。

 中国画部門で他に印象に残ったのは、「光陰の物語」です。

こちら →光陰の物語
(220×185㎝、顔料、紙、2014年)

 これは黄洪涛氏の作品で、中国画部門で銀賞を受賞しました。赤煉瓦の建物を背景に雪の積もった路面電車が詩情豊かに描かれています。淡い色調で表現された都会の風景と雪景色が調和し、美しい光景が描出されています。

 今回初めて、中国画を見たのですが、日本画とも重なる繊細で豊かな表現に感嘆しました。紙あるいはシルクという支持体に顔料あるいは墨で表現された世界には間接表現の奥ゆかしさがあり、惹かれます。

■油彩画に見るリアリズム
 南城守氏(奈良県立美術館)は油彩画部門の代表作として、「広東っ子の日常」を取り上げられました。李智華氏が制作された作品で、油彩画部門で銀賞を受賞しました。

こちら →広東っ子の日常
(176×200㎝、キャンバスに油彩、2014年)

 南城氏は、展示作品選定のため中国美術館を訪れた際、この作品が第一室で際立った存在感を放っていたといいます。日常の一コマを描いた作品ですが、その中に詩が感じられるというのです。

 この絵で描かれているのは、香港でも北京でも上海でも中国のどこでも、日常的に見かけるような光景です。休憩してたばこを吸っていたおじさんのこちらを見据える鋭い目が印象的です。

 そのおじさんの鋭い目につられ、その後ろを見ると、ショーケースがあり、所狭しと、焼き上げられた食肉がぶら下げられています。赤い椅子に座ったおじさんは、照明の下で鮮やかに輝く食肉へと観客の視線を誘導するための導入モチーフにすぎないようです。

 一方、右側の絵の中年女性は客足の途絶えたひととき、一息ついてリラックスしているようです。照明の後ろで顔は暗く、手前に並べられた食肉に目がいきます。こちらもヒトは背景として扱われています。

 ヒトが主人公かと思ってこの絵を見ていくと、光の当て方、色の使い方、画面全体に占めるボリュームなどから、実は食肉が主人公だということがわかります。たとえば、左側の絵は手前を暗く、右側の絵は手前を明るく、画面が構成されています。しかも、光が強く照射され、鮮やかに色彩が塗りこまれているのはいずれもヒトではなく、食肉なのです。

 南城氏はこの絵を見ていると、食欲が出てくるといいます。たしかに、この絵からは食肉のおいしそうな匂いすら感じられます。

 ところが、この絵をよく見ると、それほど細密にディテールが描かれているわけではありません。それでも圧倒的なリアリティが感じられますし、店番をするおじさんや中年女性の心象風景まで感じられます。それこそ緻密に考え抜かれた構図と明暗の付け方、タッチの鋭さのせいでしょう。油絵具の特性を活かした李智華氏の技法が秀逸です。リアリズムの極致といえるでしょう。

■独自性のあるアニメーション
 最後に、五十嵐理奈氏(福岡アジア美術館)はアニメーション部門で紹介したい作品として、「窓からの景色」を挙げられました。于上氏が制作した受賞ノミネート作品です。紙を切って造形し、一コマずつ動かして動画として仕上げた作品です。

こちら →IMG_1889
(5分12秒、アニメーション、2014年)

 上の写真は会場で放映されていた映像をカメラに収めたものです。次のようなカットもあります。

こちら →IMG_1890

中国のサイトではもう少したくさんの画像を見ることができます。

こちら →http://12qgmz.artron.net/index/exhibit_detail.html?id=52689&Cityid=585

 五十嵐氏が中国美術館で作品選定にあたった際、日本アニメと似たような作品、中国細密画に基づいた作品、墨絵風の作品が数多く展示されていたそうです。それだけに、紙を切り張りして制作したこの作品には独自性があって、惹かれたといいます。

 私はこの作品を見て、クレイアニメに似たような手法で制作されていることに興味を覚えました。クレイアニメと同様、着色しない白黒の紙という素材がすでに作品世界を作り上げているのです。テーマを視聴者に伝えるための表現の工夫が随所に見受けられます。

 このような作品が制作されるようになっていることを知り、驚きました。

 私は2011年から12年にかけて北京と河北省で大学生に対する意識調査を実施したことがあります。中国アニメは面白くないというのが学生たちのほぼ一致した見解でした。

 そこで、2013年、北京でアニメ制作者やアニメ会社の担当者に取材しました。彼らが一様に口にしていたのは、独自性のあるアニメーションを制作するのは難しいということでした。ある程度の視聴者数、観客数を見込める作品の制作を目指そうとすれば、オリジナリティはなかなか出せないというのです。

 今回の作品は短編でもあり、白黒の紙制作でもありますから、独自性はあっても商業化には向かないでしょう。ただ、アニメ制作に関し、このようなさまざまな試みが展開されているのはとても重要なことだと思います。制作者の裾野が広がることによって、切磋琢磨しあう機会が増えれば、より魅力的な作品が制作されるようになるでしょうから・・・。

■中国リアリズムの煌き
 学芸員の方々が紹介した作品を中心に、「百花繚乱 中国リアリズムの煌めき」展を概観してきました。会場にはさまざまな作品が展示されています。次々と見ていくうちに、私たち観客が絵に求めるものは、何なのかと思い始めました。

 絵の前に佇んでしばらく見入ってしまう作品があります。別に上手なわけでもなく、モチーフが斬新なわけでもない・・・、なぜだかわからないのに、妙に立ち去りがたい思いにさせられる作品です。

 ちょっと考えてみました。

 その絵の前を立ち去りがたくしているものは、おそらく、作品に込められたメッセージの力なのでしょう。観客との対話を引き出す力といっていいのかもしれません。見る者の目ではなく、気持ちに訴えかけてくる力です。

 私たち観客は、支持体の表層で表現されたリアリティではなく、作家の創作過程からにじみ出る内面のリアリティを見たいのです。どれほど深く現実を省察しているか、どれほど繊細に現実を観察しているか、そして、どれほど深層に近づきえているのかといったことが気になります。だからこそ、少しでもそうした要素を感じ取ることができれば、その絵と対話を始めたくなるのだと思います。

 今回の展示作品はそのような気持ちにさせられる作品が数多くありました。まさにこの展覧会のタイトルのように「百花繚乱」です。その状況が生み出されていることに、中国美術の可能性が感じられました。

今回、紹介できなかった作品で素晴らしいものがいくつもあります。次回、取り上げていきたいと思います。(2016/3/3 香取淳子)

第2回フォーラム:超高齢社会の中で、有効に機能するmHealthを考える。

■ウェルネスライフサポート・フォーラムの開催
 2016年2月18日、東京・お茶の水のソラシティで「超高齢社会の中で、有効に機能するmHealthを考える」をテーマにフォーラムが開催されました。かつて私は高齢者とメディアについて研究していたことがあります。mHealthという語に興味をおぼえ、このフォーラムに参加することにしました。mはメディアかと早とちりしたからですが、調べてみると、mはモバイルでした。mHealthとは、モバイル技術を活用した医療・ヘルスケアサービスを指すのだそうです。
 第1回フォーラムは2015年10月26日に開催されています。

こちら →http://www.yakuji.co.jp/entry46747.html
 
 今回の第2回フォーラムでは、第1部にNPO法人高齢者健康コミュニティ・CCRC研究所代表の窪田昌行氏によるキーノートスピーチ、第2部で、4人の登壇者によるパネルディスカッションが行われました。いずれも興味深いものでしたが、ここでは、「超高齢社会の中で、有効に機能するmHealthを考える」をテーマに展開されたパネルディスカッションを取り上げたいと思います。

■超高齢社会とゼロ成長経済
 まず、東京医科歯科大名誉教授で現在、東北大学メディカル・メガバンク機構長特別補佐の田中博氏が、施設医療から生活圏中心ケアに移行せざるをえなくなった背景について説明されました。田中氏は1991年以降、経済は停滞しゼロ経済成長に、そして奇しくも、1991年以降、それまでとは2倍の速度で高齢化が進んでいるとし、1991年を機に日本社会は新しいステージに入ったと指摘されます。

 たしかに、経済成長率の推移を調べてみると、1991年以降、多少の変動はありますが、成長率の低下が続いています。

こちら →経済成長率
世界経済のネタ帳より。
図をクリックすると拡大されます。

 一方、厚生労働省のレポートを見ると、1995年以降、すでに高齢化が急速に進んでいることがわかっています。

こちら →高齢化率
厚生労働省政策レポート(2009年刊)より。
図をクリックすると拡大されます。

 このレポートでは、要介護認定された高齢者数が年々、増加していることが報告されています。

 田中氏は、経済成長期の「病院完結型医療」が日本型医療体制だったといいます。ところが、日本人の平均寿命が世界一を達成した1985年以降、その体制が崩壊の兆しを見せ始めました。高齢人口の増加に伴い、医療費が拡大する一方で、日本経済が停滞してしまったからです。もはやこれまでのように施設医療で対応するのは難しく、地域で連携して医療を行っていくシステムに変換する必要があると田中氏は指摘します。

■治療医療から予測医療へ
 統計データを見ると明らかなように、今後、人口の集中する東京圏で高齢者が大幅に増加しますから、事態は深刻です。団塊の世代がいっせいに後期高齢者になる2025年をめどに、医療体制を変換する必要が生じているのです。田中氏はそのためのパラダイムを3つ提案されました。

 ①地域医療情報の連携。これは全国展開をし、どこでも継続した医療サービスを受けられるようにするというものです。②地域包括ケア。これは地域コミュニティを創設し、生活圏を中心に医療・ヘルスケアサービスを提供していくというものです。③生涯にわたる健康医療自己マネジメント。これはICTのサポートによって人々が健康のための自己管理を行うというものです。

 以上のパラダイムいずれにもICTが大きく関与していることがわかります。超高齢社会とゼロ成長経済という日本の社会状況を考えると、今後、治療医療から予測医療へと医療体制そのものを変えていかざるをえないことがわかります。

■都市部の在宅医療
 次に報告されたのが、東京大学・高齢社会総合研究機構の山本拓真氏です。山本氏は現在、千葉県柏市をフィールドに地域社会の在り方を研究されています。柏市と都市再生機構、東京大学等の産学官民、異分野連携の共同事業で、団地の建て替えに合わせて企画された研究プロジェクトのメンバーです。

 この研究プロジェクトのキーワードは「Aging in Place」だそうです。高齢者が住み慣れた地域でいつまでも自分らしく、安心して暮らすための地域社会はどうあるべきか、研究を積み重ね、まちづくりのモデルを見出そうというものです。残念ながら、ここでお見せすることはできませんが、研究成果が集約されて示された図があります。

 それを見て興味深く思ったのは、柏モデルによる超高齢社会のまちづくりに、①高齢者のQOL(Quality of Life)、②家族のQOL(Quality of Life)、③コスト、等々の観点が導入されていることです。

 山本氏の報告では、このモデルに地域コミュニティの質(Quality of Community)が加えられていました。たしかに高齢になれば、地域コミュニティが生活の中心になっていきますし、家族がいない高齢者もいますから、地域コミュニティの質がとても重要になります。Quality of Communityは現実的で適切な概念だと思いました。

 高齢者や家族のQuality of Life、地域社会のQuality of Communityを高め、維持していくため、このプロジェクトでは、①多分野多職種連携の包括ケアシステム、②住民主導の地域交流、社会参加の場づくり、③引きこもらず人と集い楽しむコミュニティ、等々が具体的な達成目標として掲げられています。超高齢社会の課題への総合的な取り組みです。

■IBM Watson
 日本IBMビジネス開発部長の西野均氏は、「Watson」のヘルスクラウドへの取り組みについて報告されました。私はこのWatsonの存在を知りませんでした。そこで調べてみると、IBM Watsonは、自然言語処理と機械学習を通して、大量の非構造化データから洞察するためのテクノロジー・プラットフォームだということがわかりました。これについては2分14分の紹介ビデオがありますので、ご紹介しましょう。

こちら →https://youtu.be/L5QJs6byoaI

 Watsonを医療に適用し、レセプト、クレーム、検査データなどの大量の医療データから法則性を見出し、適切なケアを行っていこうとする動きがいま、アメリカで広がっているようです。IBM Watson Health Cloudによって大量のデータから疾患の進行を予測し、患者に最適の医療サービスを提供するというものです。

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 2016年2月18日、Watson日本語版が提供開始されました。

こちら →http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1602/19/news060.html

 医療の分野ではがん研究など、臨床への応用をめざした実証実験が行われているようです。

こちら →http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1601/02/news007.html

 記事をアップした後、以上のようなことを知りましたので、追記します。(2016/2/23)
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■ ヘルスケア向けウェアラブルデバイス
 東芝デジタルヘルス事業開発部の大内一成氏は、ウェアラブルデバイスの取り組みについて報告されました。環境因子、生活因子、遺伝的因子等を把握することによって、疾病の予測の精度をあげることができるとされます。

 とくに生活因子についてはウェアラブルセンサによって把握することができます。大内氏はリストバンド型のセンサを装着しておられました。東芝はすでにいくつかのウェアラブルセンサを商品化しているようです。
 
 たとえば、2014年8月に東芝が販売開始したリストバンド型活動量計「Actiband™」があります。装着しているだけで自動的にライフログが記録されるという装置です。

こちら  →ttlimg-lifelog
http://www.toshiba.co.jp/healthcare/actmonitor/より。
図をクリックすると拡大されます。

 このようなウェアラブルセンサが利用者には個人の記録として健康維持に活用され、ビッグデータとして集積されて分析されれば、生活習慣の傾向を把握することができます。この「Actiband™」利用者のデータから下記のような生活習慣が明らかになりました。

こちら →http://www.toshiba.co.jp/healthcare/actmonitor/info/report201506a.html

 これはほんの一例です。利用者の日常的な身体データが個々人のバイタルサインとして機能するだけではなく、大量の利用者データが分析されれば、日常生活のあり方と健康との関係に何らかの法則性が見いだされるかもしれません。そうなれば、生活のあり方を見直すことによって、将来の疾病予防に役立つ可能性があります。

■mHealthは有効に機能するか?
 登壇者はそれぞれの立場から現状を報告されました。いずれも大変、興味深いものでした。超高齢社会、ゼロ成長経済下ではICTを活用したヘルスケア対策は不可欠だと思いました。身体に装着して自動的に記録されたデータの利活用は想像以上に多様な成果を生む可能性があります。ライフログのビッグデータからはヘルスケアにつながる発見を期待できます。今後、mHealthを積極的に推進していく必要があるでしょう。

 とはいえ、はたしてmHealthは有効に機能するのでしょうか。

 パネルディスカッション終了後、会場から興味深い質問がありました。それは「ウェアラブルのデータを医者側は信用していないのではないか」というものでした。

 これについて大内氏は、「ウェアラブルデータと医療データの突き合わせを行い、データの信頼度を検証をしている」と回答されました。技術開発者側としては、センサの精度を高めるだけではなく、データの信頼度検証も行っているというのです。このような作業を積み重ねれば、やがて、ウェアラブルセンサによるデータを医療現場で利活用できるようにもなるでしょう。

 さらに、利用者側のmHealthへのインセンティブをどう高めていくかということも今後の課題です。利用者が継続的にデータを取ることによってはじめてビッグデータに価値が生まれるのですから、使い続けてもらうためのインセンティブ喚起のための工夫が必要でしょう。

 このフォーラムに参加して、超高齢社会の課題に向けたさまざまな取り組みを知りました。健康で長寿の社会を構築するには、医者、介護者、技術者が連携して様々な取り組みをするだけではなく、当事者である高齢者自身の意識改革が必要だと思いました。健康を維持するための食、運動、生きがい等々については、メディア研究者を含めた連携が必要になってくるかもしれません。

 かつてアメリカの研究者が、幼児に『セサミストリート』が提供されているように、高齢者にも高齢期の課題を取り扱ったテレビ番組が必要だと記していたことを思い出します。誰もが接触できるメディアを通して高齢者の健康長寿のための意識変容を図っていく必要があるかもしれません。(2016/2/23 香取淳子)

Painting & Essay 1:My Fair Lady

■Preface
  “Painting & Essay”シリーズを始めます。ここでは私が描いた油絵の紹介とそれにちなんだエッセイをつづっていきます。絵を描き上げるまでの試行錯誤の過程を記録することによって思索を深め、着想と表現とのズレを縮めていきたいと考えていますので、何か思いつけば、随時、追記していきますし、コメント欄も用意しました。ニックネームで結構ですので、忌憚のないご意見をお寄せいただければ幸いです。
 なお、コメント欄が表示されていない場合、記事末尾のフッターにある「コメントはありません」をクリックしてください。コメント欄が表示されます。

■Works : My Fair Lady
 第1回として、絵画教室で仕上げた油絵第2作目の「My Fair Lady」を取り上げます。

こちら →P1020073 (768x1024)
My Fair Lady ( 410×318㎝、Oil on canvas、June/2015, by Atsuko KATORI)

 この絵は絵画教室にあった人形をモデルに描きました。顔に興味があったので、腰から上の上半身をキャンバスに収めています。F6サイズに収まるように構図を決め、下塗りを終え、いよいよ描き始める段階になると、今度は、顔が気になって仕方がありません。仔細に観察すると、人形の顔がいかにも通俗的で、生気がないように思えてならないのです。人形は大量生産された人工物ですから、そう思えるのも当然といえば当然なのですが、早くも行き詰ってしまいました。

 改めて、人形を通して私は何を描きたかったのか、思い返してみました。

■Motif
 油絵2作目のモチーフとして、私は人形を選びました。ただの思い付きで選んだわけではなく、デッサンを修得中に、油絵を描く段階になれば、人形を描いてみたいという気持ちを固めていました。人形の姿を借りて、女性の諸相を描いていこうと思うようになっていたのです。

 絵画教室にある5体の人形の中から、私はこの人形を選びました。この人形にどことなく華やかさが感じられたからでした。人形の顔はどれも似ていますから、衣装とヘアスタイル、帽子のせいでそのように感じたのかもしれません。いずれにせよ、華やかさは女性美の一つの要素です。

 ところが、実際に描く段階になってよく観察すると、この人形の顔は通俗的で、それほど華やかでもなく、ヒトをぐいと引き付ける要素に欠けていることに気付いたのです。その後、人形展に行ってみたり、人形を扱った雑誌や本を読んでみたりしたのですが、私が求めるものとはマッチしません。

 参考のため、マリーアントワネットやポンパドール夫人など、私が華やかだと思っている女性の画像をネットで見てみました。いずれも華やかで美しくはありますが、どこか私が求めているものとは異なります。
 
 さらに、ネットでさまざまな女性の画像を見ているうちに、私が求めているのは、華やかさだけではなく、その背後にある野生味だということに気づきました。そして、ようやく、オードリー・ヘップバーンが演じた「My Fair Lady」のイライザを思い出したのです。

 花売り娘のイライザは言語学者のヒギンズ教授によってレディーに仕立て上げられていきます。数か月間の教育の結果、教養のないイライザが野性味を残しながらも正統派のレディーに変貌します。私が描きたかった女性美の一つの姿です。映画の「My Fair Lady」を思い出し、描きたかった顔が明確になってきました。もっとも、映画で見たイライザをこの絵の参考にするには、オードリー・ヘップバーンの印象が強すぎます。

 そこで、私が考える女性の華やかさのエッセンスだけを取り出し、人形でもなく、人間でもない顔を描くことにしました。映画の「My Fair Lady」にヒントを得ながらも、敢えてそれを参考にせず、ちょっと勝気で元気な少女のイメージで顔を創作したのです。タイトルは「My Fair Lady」です。

■Comments
 この絵がヒトからどのように見られるのかを知りたくて、第47回練馬区民美術展(開催期間:2016年1月30日から2月7日)に出品しました。講評日、審査員の方々からさまざまなご講評をいただきました。

 印象に残っているのは、①人形なのか人間なのかわからない、どちらかにしないと見る側が混乱する、②帽子の被り方がしっくり合っていない、③向かって右側の髪の毛が多すぎる、左側と合わせた方がいい、④レースはもっと丁寧に描いた方がいい、⑤全体にグレーゾーンに収まりすぎている・・・、というようなご意見です。

 いずれも納得できるご意見でした。ただ、帽子の被り方がしっくり合っていない、髪の毛が左右でアンバランス、等々は、私としては、レディーになりきれない野性味を表現した部分でもあります。肉づきのいい頬、勝気そうな目、アンバランスな髪の毛はコントロールしきれない野生味、元気のよさを表現したもので、完璧なレディーに仕立て上げられながらも、自由を放棄しきれない本性の反映といえるものです。

 この絵全体について審査員の方々からは、グレーゾーンに収まりすぎているというご意見もあれば、上品にまとまっているというご意見もありました。さらには、上手に描けているが、心に訴えかけてくるものがないというご意見もありました。

 さまざまな思いを込めて絵を描いたとしても、言葉の説明がなければ、その意図を理解してもらうのがいかに難しいか、あらためて認識させられました。(2016/2/8 香取淳子)

 

堀込幸枝氏の個展:塗って、削って、重ねる技法の妙味

■堀込幸枝展
 堀込幸枝展が2016年1月16日から30日まで、銀座のギャラリー椿(GALLERY TSUBAKI、http://gallery-tsubaki.net)で開催されています。私は堀込氏の作品をこれまでに一度、グループ展で見たことがあります。ですから、その後、どのような創作活動を展開されているのか知りたくて、開催初日の16日、画廊を訪れました。

 はじめて堀込幸枝氏の絵を見たのは2015年4月、このとき、『White air』(53×45.5㎝、キャンバスに油彩、2014年)という作品に深く印象づけられました。湿り気を帯びた空気感に引き込まれるように、しばらく、この絵の前に佇んでいたことを思い出します。

こちら →IMG_2432
(今回の個展では展示されていません)
 
 この絵を見たとき、どういうわけか、私は既視感をおぼえました。過去の記憶を手繰っていくと、ほどなく、河瀨直美監督の『萌えの朱雀』(1997年公開)の一シーンが目の前に浮かんできました。もう何年も前に見た映画です。すっかり記憶の底に沈んでいたはずなのに、この絵を見たとき、何かに触発されるように脳裏によみがえったのです。改めてDVDを見て見ました。

 このシーンでは、雨戸を開け放つと、パノラマのようにどこまでも連なる奥深い山々が視界に飛び込んできます。その山々には霧か靄のようなものがかかり、白くけぶって見えます。まるで山々がひそやかに息づいているかのような気配です。座敷では二人の人物が言葉もなく外に向かって静かに座っていますが、山々を見守るような姿勢のシルエットがしっとりとした風景に溶け込んでいます。家の中と外に境界はなく、ヒトと自然が見事に調和しているシーンでした。

こちら →imgef7640d2zikazj

 このシーンの構図は、登場人物の後姿を左右の近景で捉え、遠景に白くけぶった山々を配置したものです。ちょうど真ん中が抜けていますから、観客は左右の視野角にヒトの黒いシルエットを収めて、遠方の風景を見る恰好になります。ですから、これは、そこで生活するヒトと風景を一括りにして捉えた構図といえます。

 『萌えの朱雀』で河瀨監督は史上最年少で、第50回カンヌ国際映画祭の新人監督賞を受賞しました。日本の山村を描いた作品が洋の東西を問わず、文化を超えてヒトを惹きつけ、評価されたのです。ヒトが生きていくことの本質に迫るものがあったからでしょう。ヒトが自然と一体化して暮らしている山村を舞台に、物語は展開されます。その物語を象徴するような構図だったので、私はこのシーンを強く記憶していたのかもしれません。

 堀込氏の『White air』を見た瞬間、私はこの構図を思い出したのです。

 多くの展示作品の中であのとき、なぜ私は堀込氏のこの作品に心を捉われてしまったのか、それはおそらく、この絵に私の知的好奇心を刺激する何かがあったからでしょう。今回、DVDを見てようやく、それが何だったのかわかりました。

 映画の冒頭シーンでは雨戸が開け放たれており、外気がそのまま座敷に入り込んでいます。ヒトと外を隔てる境界はなく、周辺一帯が同じ空気に包まれている安堵感が漂っています。

 一方、堀込氏の絵画ではガラスビンとその奥の風景との境界が希薄でした。ですから、ガラスビンと風景が一体化しており、その相乗効果によって不思議な景観が生み出されていました。ガラスビンを介在させることによって、興趣深い風景が造形されているのです。

 『White air』を見て私は連鎖反応的に、『萌えの朱雀』を思い出しましたが、いずれも境界の処理がきわめて繊細だという点で共通しています。私の知的好奇心を喚起したのは、両者の境界の捉え方の類似性だったことがわかりました。

 この絵をよく見ると、手前中央にガラスのビンが置かれています。ところが、このビンにはガラス特有の反射光はなく、底部がはっきりと描かれているからガラスビンだということがわかる程度です。もちろん、ガラスだから透明で、ビンを通して後ろの山が見えますし、その透け具合もクリアではなく、ビンが置かれた台や風景にしっくりと溶け込んでいます。

 実際、『White air』では、モノとモノ、モノと風景との境界が極めて希薄に描かれています。まるで存在を主張することなく、周囲に溶け込むという存在の在り方そのものが表現されているようにも見えます。こうしてみると、昨年、私が初めてこの絵を見て強く印象づけられたのは、ひょっとしたら、これが本来あるべき、モノ、ヒト、自然の在り方なのかもしれないと思わせられたからかもしれません。あのとき私はおそらく、この絵に触発されて、何か大切なものを発見したのでしょう。

■境界の描き方
 今回、椿ギャラリーに入って最初に目に入ってきたのが、『Magic 2』(130.5×97.0㎝、油彩、2016年)でした。この絵で大きな比重を占めている緑の部分が、『White air』の抑制された緑の色によく似ています。

こちら →IMG_2438

 この作品でも中央に大きくガラスが描かれています。変形ガラスビンなのでしょうか、それとも巨大ガラス玉なのでしょうか、いずれにしてもこの作品では、厚みのあるガラスの存在が強調されています。ガラス玉に写り込んだ風景はガラスの曲線に沿って屈折して描かれており、底部は白く描かれています。ですから、色彩は依然として境界線のない多層化された色彩の連続で構成されているのですが、モチーフの形状は『White air』よりも明瞭になっています。

 明らかに前回とは画風が異なっています。そう思って、展示作品をざっと見渡して見ると、2015年、2016年に制作された作品はいずれもモチーフの形状が明瞭になっているのです。堀込氏に何か、心境の変化でもあったのでしょうか。

■モチーフ的解釈から現実的解釈へ
 変化の理由を堀込氏に尋ねると、「これまではモチーフ的解釈で描いていたが、今回は現実的解釈で描いている」と説明されました。静物画から絵を学び始めた堀込氏は、風景も一種の静物として捉えて描いてきたそうです。堀込氏のいう「モチーフ的解釈」です。ところが、それでは本質を捉えられないのではないかと思い、最近は自然を素直に見つめ、その面白さを取り入れてみることにしたというのです。

 たしかに、『Magic 2』を見ると、ガラスに写り込んだ自然の中には長い葉のようなものがいくつも伸び、水中で揺らぐように描かれています。以前の作品には見られない具象性があります。おそらくそれは、堀込氏がこの時点で捉えた自然の本質の一端なのでしょう。まるでコントロールできない自然の要素が表現されているかのようです。もっとも、観客にしてみれば、そのような表現の中に、変化と自由と動きによる面白さが添えられたように思えるのです。

 作風の変化について堀込氏はさらに、「絵画を教える経験を通して、自分も自然を学ばなければならない、モチーフとして自然を捉えるだけではなく、素直に自然を見つめ、その本質を捉える必要があると思った」と話してくださいました。そして、風景だけではなく、「葉や花も今回はストレートに描いてみた」ともいわれました。

 たとえば、『キンモクセイ』(91.0×72.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

こちら →IMG_2440

 これまでとは違ってこの作品も、ガラスや葉、花などのモチーフの形状がはっきりと認識できるように描かれています。堀込氏のいう「モチーフ的解釈から現実的解釈」に変えて制作されたからでしょうか、私はより素直に花や葉が描かれているという印象を受けました。もちろん、画法はこれまでと変わりませんし、ガラスもクリアな輝きは抑えられ、鈍い透明感で表現されています。

■モチーフとしてのガラスのビン
 展示作品を見ていくと、どの作品にもガラス、水が基本モチーフとして取り上げられているのがわかります。この点について尋ねると、堀込氏はガラスビンの後ろに透けて見える世界を描くのが好きで、ここ10年ぐらいずっとガラスビンを描き続けているといわれました。

 たとえば、『Bottles』(130.5×97㎝、油彩、2007年)という作品があります。

こちら →IMG_2426
(今回の個展では展示されていません)

 オレンジや透き通った薄緑の液体、そして透明の液体が入っているボトルが3本、描かれています。ガラスビンそれぞれの大きさと配置、3本のビンが交差する辺りの描き方などに興趣がありますが、この作品でもモチーフそれぞれの境界は薄く、背景も影もすべてが混然一体になっているかのよう描かれています。そのせいか、どこにでもありそうで、実はどこにもない不思議な世界が描出されているのです。

 ビンをさらに抽象化させた作品もあります。たとえば、『Bottles』(116.5×91㎝、油彩、2008年)という作品です。

こちら →IMG_2428
(今回の個展では展示されていません)

 やはり3本のビンが描かれていますが、こちらはモノトーンで、モチーフの形状が抽象化されています。これらのビンに口はなく、もはや立体でもありません。ですから、見ようによってはただの図形のように見えますが、二つのビンが重なっているところの描き方で、ガラスビンが描かれているということがわかります。

 この絵にはモチーフを引き立てる背景もなければ、ビンが置かれているはずの台も描かれていません。モノの存在を支える諸要素を取り払い、さらには色彩と形状の余分な要素までも剥ぎ取り、ガラスビンの本質を浮き彫りにした作品です。

 それだけに、左上方から差し込み、右下方に落ちる光が印象に残ります。この柔らかい光がガラスビンに微妙な陰影を与え、その存在を繊細に浮き彫りにするという構図です。このようなガラスビンの描き方を見ていくと、堀込氏の画風がこの時期、具象から抽象へと変化していったのがわかります。

■ガラスの質感
 堀込氏は「生理的にガラスの質感が好きだ」といい、「ガラスは飽きない」ともいいます。その理由として、ガラスを通してみた世界は面白いし、ガラスに水を入れてみても、光を添えてみても面白いからと説明してくれました。

 たとえば、展示作品の中に、『Magic 1』(116.5×91、油彩、2015年)という作品があります。

こちら →IMG_2420

 まず、目につくのが水の入ったガラスです。キャンバス中央よりもやや下方にガラス底があり、その曲面に上方から透過した屈折光によって形状が変化した花か葉のようなものが描かれています。花びらなのか葉なのか、わかりません。グレーがかったピンクと緑色の平たく丸い粒状のものがいくつも重なって球の形に凝縮され、水の入ったガラスを支えています。

 背景はモノトーンで、ガラス玉が宙に浮かんだような構図で描かれています。この絵からも実在の基盤が排除されているのがわかります。とくにこの作品ではグレーがかったピンクのグラデーションが印象的です。この色彩のせいか、時空を超えた幽玄の世界が表現されているようにも見えます。

 最新作だと思われる『In the garden』(162.0×130.5㎝、油彩、2016年)という作品があります。

こちら →IMG_2442

 この絵を見ると、白い花と葉が入っているガラス底が平らで、しっかりと接地していますから、安定感があります。左方向から差し込む陽光を受けて、接地面に長く影を落としています。ガラス底面に描かれた白とその右下に小さく塗られた白の反射光が、光の確かな存在を表しており、鮮やかな印象を与えます。シャープな影といい、ガラスに反映された光といい、これまでの堀込氏の作品にはない鋭角性が見られます。

■塗って、削って、重ねる技法
 堀込氏は油絵が好きだといいます。といっても、油がギトギトしたような作品ではなく、パステルのように見えて、実はツヤがあるような油絵が好きだといいます。そういわれてみると、たしかに彼女の作品は淡い色調で、限りなく繊細でありながら、興味深いことに、限りなく強靭でもあります。

 作品を作る場合、堀込氏はまず、F6のキャンバスにパステルで完成形を作成し、その絵で全体のイメージを確認してから、油絵の制作に入るのだそうです。油絵ですから、下地を作ってから形を取り始めますが、興味深いのは、キャンバスに厚く塗った絵の具をナイフでいったん、全部そぎ落としてしまうことです。

 そぎ落とすことによって、キャンバスに残像が残ります。そこに柔らかい刷毛でまた絵の具を塗り、ナイフでそぎ落とすという作業を繰り返します。そのような作業を何度も繰り返していくと、浅い残像が幾重にも積み重なり、パステルの質感が生まれるのだそうです。

 たとえば、さきほど紹介した『Magic 1』で描かれた花弁も、そのような作業の積み重ねの結果、生み出された微妙な色合いで表現されています。

こちら →IMG_2435

 花弁一つとってみても、外側から内側へのグラデーションが見事に表現されています。キャンバスに近づいてみると、絵の具が平坦に均されていることがわかります。大きな刷毛で塗った絵の具をナイフでそぎ落とし、残像を重ねて色を生み出してきたからでしょう。そのような作業の繰り返しの結果、彼女が求める色が現れてくるのです。

 堀込氏は、このような作業工程を経てはじめて、滑らかでいい味の色を出せるといいます。削って、塗って、また、削って・・・、という作業の繰り返しの結果、残像が積み重なって、微妙な色合いがジワッと出てくる、そのような色の出方が好きだといいます。

 『In the garden』では、ナイフで削った痕跡がキャンバスに残っています。

こちら →IMG_2436

 これは痕跡部分を拡大した写真です。ちょっと見えづらいかもしれませんが、上方やや右寄りに縦に白く小さな線があります。これがナイフで削った痕跡です。通常は削った上でまた絵の具を塗って、平らにしていくのですが、この絵ではこの部分が残されています。

 よく見ると、白い花弁のグラデーションの中でこの白い痕跡はめしべの本体である花柱にも見えます。種子や実になる部分です。堀込氏は敢えてこの痕跡を残すことで、この絵の中にひっそりと生命の営みを盛り込んだのかもしれません。

■モチーフを手掛かりに、技法の深化を
 時系列で堀込氏の作品を見ていくと、徹底的にガラスビンにこだわって制作し続けたことで、確かな技法を掴み、それを洗練させていったような気がします。ガラスというモチーフとの出会いを大切にし、それを表現するための技法に妥協しなかったことが彼女の画力を向上させてきたように思います。

 堀込氏は油絵なのにパステルみたいな質感を出すために、工夫して、独特の技法を生み出しました。塗ってはナイフで削り、その浅い残像を重ねて色を生み出し、形を浮き彫りにしていく画法は、聞いていると、気の遠くなるような作業です。ところが、彼女はそのような作業工程を経ないと納得できる色が出ないから、決して苦ではないといいます。

 制作に時間はかかりますが、この技法のおかげで、どこから見ても一目で、堀込氏の作品だということがわかります。彼女の質感へのこだわりが他の誰も真似のできない画風を作り出しているのです。

 絵の具を塗ったのではなく、染めたような風合いを出すことにこだわり、彼女はヒトがまねることのできない独特の技法を編み出しました。このユニークな技法はすでに大学4年生の時に確立されていたようです。

 今回、一連の展示作品を見ていくと、堀込氏が新たな視点で制作に臨み、新しいステージに進みつつあることがわかります。もちろん、技法そのものは変わりませんし、ガラスや水といったモチーフもこれまでと変わりません。技法もモチーフも継続して深化させることによって、新たな表現の地平を切り拓くことができるでしょう。時間をかけて練り上げてきたことの成果が今後、少しずつ現れてくるような気がしています。

 絵画の極みを求め、奮闘する若手画家の今後に期待したいと思います。(2016/1/18 香取淳子)

絵画のゆくえ2016:近藤オリガ氏の作品

■FACE受賞作家展
 「絵画のゆくえ2016:FACE受賞作家展」(2016年1月9日から2月3日まで)が新宿の損保ジャパン日本興亜美術館で開催されています。FACE展2013からFACE展2015までの3年間に、「グランプリ」および「優秀賞」を受賞した作家たち12名の受賞後の作品約80点が展示されています。

こちら →http://www.sjnk-museum.org/program/current/3405.html

『FACE』は新進作家の登竜門として2012年度に創設された公募コンクールです。応募要件に年齢・所属が問われませんから、毎回、幅広い層から多数の応募があります。今年もFACE展2016が2月20日から3月27日まで開催されますが、その前に開催されるこの展覧会はこれまでの『FACE』総決算といえるでしょう。

 今回の展覧会では、受賞後、作家たちがどのような創作活動を展開しているかに焦点が当てられています。新進作家のフォローアップであり、絵画の直近の動向を把握し、未来を予測する手掛かりにもなるでしょう。とても興味深い展覧会です。私はFACE2015しか見ていませんので、ちょうどいい機会だと思い、開催初日の1月9日、出かけてみました。

 会場は作家ごとに展示コーナーが用意され、12名の作家が受賞後に制作された作品約80点が展示されていました。ざっと見渡したところ、私はFACE2013で受賞された作家の方々の作品に強く引き付けられました。展示されていたのは4人の作家の作品でしたが、いずれも画材に工夫の跡がみられ、画力も優れていました。それぞれ個性が際立っており、それこそ新進作家ならではの斬新さが感じられました。

 とくに印象深かったのが、近藤オリガ氏と永原トミヒロ氏の作品です。

 ちょうどこの日、14時から、FACE2013のグランプリを受賞した堤康将氏、そして、優秀賞を受賞した永原トミヒロ氏、近藤オリガ氏、田中千智氏のアーティストトークが行われました。それぞれの作品の前で30分間、作家によるお話しがあり、その後、観客からの質問に応じるという形式のトークです。

 今回はこのときのトークを踏まえ、近藤オリガ氏の作品を見ていきたいと思います。

 FACE2013で近藤オリガ氏が受賞したのは、『思いに耽る少年』(130×194㎝、油彩画、2012年)でした。

こちら →思いに耽る少年

 今回の展示作品の中には含まれていませんでしたが、ここで描かれた少年は近藤オリガ氏の孫で、重要なモチーフの一つです。色調といい、構図といい、西洋絵画の伝統を踏まえた描き方が印象に残ります。

■ベラルーシ出身の画家、近藤オリガ氏
 近藤オリガ氏は1958年ベラルーシ共和国マギレフ市生まれの画家です。ベラルーシ国立美術大学を卒業後、1980年代はベラルーシ国内および東欧で個展、グループ展などで作品を多数発表し、数多く受賞しています。1988年にはベラルーシ美術家連盟の会員にもなっています。1990年代は西欧にも活動の幅を広げ、とくにドイツでは1995年以降、各地で個展を開催してきたといいます。

 2007年に来日してさっそく創作活動を開始し、2008年以降、毎年、公募コンクールで受賞しています。近藤オリガ氏が洋の東西を問わず、高い評価を受けている画家だということがわかります。

 それでは、近藤オリガ氏の展示作品を見ていくことにしましょう。

■ザクロの樹と父の肖像
 まず、『ザクロの樹と父の肖像』(162×162㎝、油彩画、2014年)から見ていくことにしましょう。

こちら →IMG_1740

 この絵を最初に見たとき、不思議な感覚に捉われました。子どもの姿がとてもリアルに描かれているのに、その存在を支える具体的な背景が台座以外に何も描かれていないのです。しかも、幼児の方は正面を向いているのに、その下で幼児を見上げている少女は後ろ姿しか描かれていません。視線が交差していないのです。そして、この二人を包み込んでいるのが、広大な海を彷彿させる空間です。だからでしょうか、私はこの絵を見たとき、時間も場所も消えているような気がしたのです。

 アーティストトークでは、近藤オリガ氏(以下、オリガ氏)はロシア語で話され、ご主人の近藤靖夫氏(以下、近藤氏)が日本語に通訳されました。

 オリガ氏の説明によると、この絵の幼児は父親だそうです。その下で左手を突いて座っている少女がオリガ氏で、画家であった父から子どものときから絵の手ほどきをうけたといいます。この絵の前で彼女は父親に教えられたことをとても感謝しているといいました。

こちら →IMG_1735

 そのような説明を聞いて、改めてこの絵を見ると、今度は幼児がザクロを手にし、少女が手をついている先にもザクロが描かれているのが気になってきます。そういえば、この絵のタイトルも「ザクロの樹と父の肖像」です。ザクロに何か意味が託されていたのでしょうか。残念なことに、私はオリガ氏にこのことを聞きそびれてしまいました。

 調べてみると、ザクロはギリシャ神話の「ペルセポネの略奪」にちなみ、死と復活を象徴する果物なのだそうです。私は知らなかったのですが、中世ではザクロは「再生」の象徴として聖母像によく描かれていたそうです。

 そのような知識を得て、再びこの絵を見ると、オリガ氏の気持ちが痛いようにわかってきます。時間と空間を敢えて排除したようなこの絵の構図からは、もはや時間と空間を共有できない父親への哀惜の思いが感じられます。そして、幼児が手にし、少女の手の先にも置かれているザクロはおそらく再生を意味しているのでしょう。ザクロを配置することによって、画家であった父がオリガ氏を通して再生し、復活しているというメッセージがこの絵からひしひしと伝わってくるのです。

■みかん?それともザクロ?
 会場で一目見て、私が引き付けられてしまったのが、『みかん?それともザクロ?』(116×116㎝、油彩、2015年)でした。ただザクロの実が描かれているだけなのですが、心が揺さぶられるように美しく、そして、吸い込まれるように深いのです。しばらく佇んで見入っていました。

こちら →IMG_2411
慌てて撮影したので、少しずれてしまいました。

 ザクロは熟したら、割れるといいます。このザクロは割れていて、左側の実に無数の赤いタネが見えています。全体に暗い色調の中で、タネはまるでルビーのような深紅の輝きを見せ、モチーフに華やぎを添えています。

 興味深いことに、外皮はミカンなのです。外皮をミカンの皮にしたことによって、このザクロが割れたのではなく、剝いたように見えるところが興味深く思えました。

 ミカンの皮は剝いたとき、このような形状になりますが、ややしなるように描かれた外皮の形状が割れたザクロに安定感を与えています。外皮にはところどころ黄金の輝きが見られ、したたかな生命力が感じられます。そして、白い内皮がモチーフの構造を際立たせ、奥行きを生み出しています。

 トークの制限時間が30分間だったせいか、この絵についてオリガ氏は説明されませんでした。おそらく説明の必要がなかったのかもしれません。モチーフの形状といい、色彩のバランスといい、構図といい、ヒトの気持ちに訴えかける絵の力が強烈なのです。

■モチーフとしてのザクロ
 4人の画家のアーティストトークが終わり、ショップに立ち寄ると、この作品のエスキースが販売されていました。よほど購入しようかと思ったのですが、会場で見た作品とはどこか違います。深い興趣が感じられないのです。画材が違うのかもしれないと思い、美術館の方に尋ねると、油彩画とのことでした。画材は展示作品と同じです。

 画材が同じだとすると、エスキースだからでしょうか、あるいは、サイズのせいでしょうか。展示作品に込められていた心に深く訴えかけるような美しさに欠けるのです。とはいえ、このエスキースも当然、一点物です。一瞬、購入しようかと思ったのですが、思い直し、本物の方がいいというと、美術館の方は私がコレクターだと勘違いされたようで、オリガ氏のところに案内してくださいました。

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後日、近藤氏からご連絡をいただき、このエスキースがキャンバスではなく、油紙に描かれたものだったこ とがわかりました。これで、私が一目で見て、展示作品とは質感が異なると思った理由が判明しました。画材やサイズが異なれば、同じように描かれたものでも、そこから観客が受ける印象は大幅に異なってくるのですね。写真とは異なる絵画の一側面を認識させられました。
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 『みかん?それともザクロ?』が一番、素晴らしいと思ったというと、ご主人の近藤氏は、この絵はアートオリンピアで入賞した作品だといわれました。

 後で調べてみると、たしかに、この作品はアートオリンピアで入選しています。このときのタイトルは『日本に捧げる』でした。

こちら →https://artolympia.jp/img-template.php?no=11690&type=A

 ザクロをモチーフに、オリガ氏はこれ以外にもいくつか制作されているようです。第75回新制作展で新作家賞を受賞した『ザクロ』(162×162㎝、油彩、2011年)は、すでに海外の方が購入されたようです。

こちら →ザクロ

 赤いタネが少なく、やせ細ったザクロが描かれているせいか、この絵からはまず荒涼感、寂寥感が漂ってきます。その一方で、天空から降りてくる光が地上を照らし、ザクロにも鈍い輝きを与えているのに気づきます。よく見ると、確かな希望が表現されているのです。つまり、この絵にはザクロのシンボルである死と復活が描かれているように思えてきます。ヒトが生きていく上で避けて通れない死と、それを乗り越えた暁に得られる復活が抑制の効いたタッチで描かれているのです。

こうしてみてくると、オリガ氏にとってザクロというモチーフは特別のもののように思えてきます。

■200年、300年通用する絵画を目指して
 展示されていたオリガ氏の作品は7点でしたが、いずれもしっかりとした描写力によってモチーフが捉えられており、観客を力強く引き込み、考えさせる力がありました。伝統的な西洋絵画の技法を踏まえ、オリガ氏ならではの感性で組み立てられた構図やモチーフの造形などが、絵を見た観客に自然に内省を促すからでしょう。

 オリガ氏のトークでもっとも印象に残っているのが、「時代の流れに迎合することなく、200年、300年通用する絵を描いていく」といわれたことでした。それを聞いて私は、なんとなくオリガ氏の画風に納得がいくような気がしました。オリガ氏の作品を見ていくうちにいつしか、時代に迎合せず、凛とした姿勢で伝統的技法を踏襲していくことこそ、作品の生命を永らえさせることに繋がるのではないかと思うようになっていたからでした。

 西洋絵画の伝統的な技法を習得されたオリガ氏は作品を通して、東欧から西欧、そして、近年は日本でも高い評価を受けるようになりました。そのことを思えば、「200年、300年」という言葉がとてもリアルに響いてきます。文化の異なる空間を易々と超えられたからには、時間も容易に越えられるはずです。

 たとえば、私たちがよく知っているベラスケス(1599-1660)やルーベンス(1577-1640)は400年以上前の画家ですし、カレンダーやポスターで日常的にその作品を目にするゴッホ(1853-1890)やルノワール(1841-1919)なども100年以上前の画家です。それを考えると、時代に迎合するのではなく、むしろ時代と対峙し、その本質を表現していくことこそ、作品の命を永らえさせることになるのではないかという気がしてきます。

 オリガ氏に、『ひまわり―福島への祈りー』(130×162㎝、油彩、2012年)という作品があります。これも私が強く心惹かれた作品の一つです。

こちら →ひまわり

 2011年の福島原発事故は、ベラルーシ出身のオリガ氏にとって相当、ショックな出来事だったようです。というのも1986年のチェルノブイリ原発事故でもっとも被害を受けたのがベラルーシだったからです。福島原発事故が起こったとき、オリガ氏はたまたまベラルーシに戻っていたそうですが、当時の記憶がすぐ甦り、日本が心配でたまらずドイツ経由ですぐに戻ってきたそうです。当時、成田空港は日本から脱出する外国人で溢れていたというのに、彼女はわざわざ日本に戻ってきたのです。

 この作品についてオリガ氏は、「ベラルーシの草原に咲いていたひまわりを持ち帰り、福島の復興を祈って、描いた」と述べられました。ひまわりはタネが多く、タネが落ちれば、そこから多くの芽が出て、新しい命が育まれます。福島の再生を祈って、この絵が描かれたのです。

 オリガ氏はトークの最後で、「私にとって芸術とは世界を認識する一つの方法だ」と述べられました。絵画を通して世界を認識するという観点があれば、おそらく、モチーフや構図、色調の中に、時代に迎合することなく、時代の本質を取り込めるはずです。そして、時代の本質を描くことができれば、200年、300年は通用する作品になるでしょう。『ひまわり』はそのような作品の一つになると思います。

 凛とした姿勢で創作活動を展開されているオリガ氏だけに、今後、日本をテーマにどのような作品を制作なさるのか、とても楽しみにしています。(2016/1/14 香取淳子)