ヒト、メディア、社会を考える

絵画

黒田清輝氏の《智・感・情》を考えてみる。

■黒田記念館

 2021年3月27日、黒田記念館に行ってきました。3月28日にショップが閉店すると聞いて、行ってみることにしたのです。上野駅の公園口改札を出ると、快晴だったせいか、すでに大勢の人々が公園内を散策していました。それを横目で見ながら、公園を通りぬめると、東京国立博物館の向かい側に、黒田記念館の建物が見えてきました。

 なかなか由緒ある建物です。黒田清輝氏は、1924年(大正13年)に亡くなりましたが、その際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言したそうです。それをうけて、1928年(昭和3年)に建築されたのが、この黒田記念館です。

 正面から見ると、さらに歴史の重みを感じさせられます。

 入口の上部には、黒田記念館と刻印された半円の窓が設えられており、なかなか風情があります。入口の両側にはテラコッタの壺が置かれ、壁面には長めの外灯が備え付けられており、随所に西洋文化の奥ゆかしさが感じられます。設計したのは、当時、黒田氏と同じ東京美術学校で建築の教授を務めた岡田信一郎氏でした。

 建物の中に一歩、足を踏み入れた途端、明治時代にタイムスリップしたような気になりました。内装や調度品のそこかしこから明治近代化の香りが漂ってきたのです。

 内部を撮影することができませんでしたので、東京国立博物館広報室の奥田緑氏の説明をご紹介しておくことにしましょう。

こちら →

https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2017/06/14/%E5%BB%BA%E7%AF%89%E6%8E%A2%E8%A8%AA%E9%BB%92%E7%94%B0%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8/

 上記の写真でわかるように、重厚感のあるアーチといい、アールヌーヴォー様式の階段の手摺りといい、曲線を活かした風雅な佇まいがとても印象的でした。建物の内部に、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの美意識が凝縮されていたのです。日本近代洋画の父といわれた黒田清輝氏の作品を展示するのにふさわしい空間でした。

 この建物は2015年にリニューアルされたそうです。その際に新設されたのが、特別展示室です。そして、この部屋に展示されていたのが、黒田氏の代表作《湖畔》と《智・感・情》でした。


(上記URLより)

 この写真でははっきりを見えませんが、左側の壁に展示されているのが、あの有名な《湖畔》です。この部屋に入った途端、あまりにも小さく見えたので、近づいてサイズを確認したほどでした。実際に見ると、かなり大きく、表示を見ると、69.0×84.7㎝でした。

《湖畔》は、帰国後の1987年に制作された作品です。

 この《湖畔》が極端に小さくみえてしまうほど、その隣の壁面に展示されていた《智・感・情》は巨大な作品でした。1899年に制作された三部作ですが、いずれも180.6×99.8㎝で、それぞれが額装されていますから、いっそう大きく見えます。右側の壁面はこの三作品で占拠されていました。

 今回は、この《智・感・情》を取り上げ、考えてみることにしましょう。

■《智・感・情》

 《湖畔》は誰もが知っている有名な作品ですが、《智》、《感》、《情》もまた、一部にはよく知られた作品です。私も美術書や画集等で何度か見たことがあります。そのときは、三作品がセットで、《智・感・情》として掲載されており、まさかこれほど巨大な作品とは思いもしませんでした。

 この作品で気になったことといえば、絵画作品には珍しいタイトルと、明治時代の作品には珍しい裸婦像だということぐらいです。

 それでは、どのような作品なのか、見ていくことにしましょう。

会場では写真撮影ができませんでしたので、黒田記念館で購入した図録の該当部分を撮影してみました。


(図録、p.10-11.)

 向かって左から順に、《智》、《感》、《情》です。これが会場ではそれぞれ額装され、展示されていました。観客よりも大きな裸婦像が眼前に三体、並んでいるのですから、圧巻でした。

三体はいずれも、裸身の立像であることは共通しているのですが、ヘアスタイル、手のポーズ、顔面や視線の向きなどはそれぞれ異なっています。

 おそらく、その異なり方がタイトルと関連しているのでしょう、真ん中と右は手旗信号のように、何らかのメッセージを送っているように見えます。ところが、左は特に何らかの意味あるポーズのようには見えませんでした。

 もっとも、仮に手のポーズに何らかのメッセージが込められているとしても、それがタイトルとどのように関連づけられているのか、皆目わかりません。見れば見るほど、謎でした。

 黒田氏はこまめに日記をつけていましたが、この《智》、《感》、《情》に関しては、いつ、誰を描いたという記述はあっても、なぜ、そのようなタイトルにしたのかについては書かれていません。しかも、黒田作品のタイトルで、このような抽象的概念を指すものは他に見当たらないのです。

 モデルのポーズの意味がわからないだけではなく、タイトルも謎めいていたのです。

 それでは、画面を見ていくことにしましょう。

■理想のプロポーション

 改めて、《智》、《感》、《情》を見ると、これらの裸婦像はいずれも手足が長く、均整の取れた体つきをしているのに気づきます。日本人女性の顔なのに、体形は明らかに西洋人女性なのです。黒田氏の日記から、この三体の裸婦像は、小川花さん、幸さんという姉妹をモデルに描かれたことがわかっています。

東京文化財団研究所の山梨絵美子氏は、黒田氏が日記で、《智》、《感》、《情》の制作について、1897年2月16日から3月5日までに1枚目、3月10日から4月8日までに2枚目、4月12日から3枚目を描いたと記していると報告しています。(『生誕150年 黒田清輝』、p.205、美術出版社、2016年)

これだけでは、どの作品のモデルが小川姉妹のどちらかなのかはわかりませんが、三作品を見比べてみると、顔つきで、《智》と《感》のモデルが同一人物だということだけはわかります。

当時の日本人女性の体つきを写真や絵で見ると、頭が大きく、胴長で脚の短い体形でした。第二次大戦後、それも高度経済成長期を過ぎてから日本人女性の体形は大きく変貌しましたが、それ以前は生活様式や食生活などの関係で、西洋の女性とは体形に大きな違いがあったのです。

小川花さん、幸さん姉妹の写真が残っているわけではないので、断定はできないのですが、身体部分は実際のモデルとは異なるのではないかと思います。

画面で見るモデルはいずれも、あまりにも当時の日本人女性の体形とはかけ離れています。骨格といい、肉付きといい、プロポーションが良すぎるのです。黒田氏はおそらく、身体部分については西洋的基準に合わせ、大幅に修正していったのでしょう。

パラパラと図録をめくっていると、興味深い作品がありました。

今回、展示作品の中にはありませんでしたが、図録の中に、黒田氏が滞欧時に描いた裸婦像の習作が掲載されていたのです。

(木炭、紙、63.2×47.0㎝、1888年、黒田記念館蔵、図録、p.11より)

 これを見ると、身体部分のポーズが《智》のモデルのポーズとそっくりです。黒田氏がこの作品を描くとき、この西洋人女性の体形やポーズを参考にしたのは明らかです。

 もっとも、よく見比べてみると、この西洋人女性よりも《智》のモデルの方が、脚が長く、すらっとした体形をしています。乳房も張りがあって、若々しく見えます。つまり、黒田氏は日本人モデルを使いながらも、その身体に関しては滞欧時に描いた西洋人女性の体形を参考にし、それをさらに理想形に近づけるよう、創作していたと思えるのです。

 そう考えると、《智》、《感》、《情》という抽象的なタイトルも理解できるような気がしてきます。黒田氏はひょっとしたら、裸婦をモチーフに、ヒトの身体の原初的な意味や機能、そして、理想形を問いかけようとしていたのかもしれません。

 ちなみに、黒田清輝氏はフランスでは、アカデミズムの画家ラファエロ・コラン氏に師事していました。

 そのことを思い返せば、黒田氏が《智・感・情》で表現した裸婦の身体の理想形は、ラファエロ・コラン氏に倣った可能性がありますし、実際、そう思わる節もありました。

■ラファエロ・コラン氏の裸婦像と黒田清輝氏の《智》

 黒田氏が留学した当時のフランス・アカデミズムは、新古典主義とロマン主義を統合しようとしていた時期のようです。師のラファエロ・コラン氏は、アカデミズムの新古典主義やロマン主義を踏まえ、印象派や象徴主義などの影響も受けながら、裸婦像を数多く描いていました。

 黒田記念館では、ラファエロ・コラン氏が1870年に制作した《裸婦》も展示されていました。

(油彩、カンヴァス、88.0×168.4㎝、1870年、国立博物館蔵)

 伸びやかな腿と脛、張りのある胸が印象的です。当時はこのようなポーズが好まれて描かれていたようです。写実的であり、情感豊かな世界が表現されています。

 この作品を見ているうちに、三作品のうち、とくに《智》はこの作品も参考にして描かれたのではないかという気がしてきました。

 さきほどの図録から、《智》を取り出し、見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、180.6×99.8㎝、1899年、黒田記念館蔵)

 立像と仰臥像との違いはありますが、見比べてみると、スラリと伸びた脚、腰骨の張りなど、両作品は身体の捉え方、表現の仕方がとても良く似ています。形状が似ているだけではなく、腿や脛の肌の艶の出し方までに通っています。

 先ほど黒田氏が滞欧時に描いた裸婦を紹介しましたが、同じ西洋人女性でも、コラン氏の作品の方が、《智》で描かれた身体に近いという印象を受けました。いかにも写実的に描こうとしながらも、理想形を優先させているという点に共通性を感じたのです。

 さて、前にもいいましたように、《智》と《感》は顔面が似ており、同一人物だと思えるのですが、身体部分を比較すると、胸の大きさや張り具合はむしろ、《感》と《情》とが似通っています。《智》よりも、《感》と《情》の方が、モデルの乳房が小さく、より日本人女性の体形に近づけて描かれているように思えます。

 こうしてみてくると、黒田氏は西洋人女性を参考に、身体の理想形を目指して描き進めてプロトタイプを創り、二体目からは、わずかながら日本人女性らしさを身体に残そうとしていたように感じられるのです。

 ですから私は、三作品のうち、より西洋人女性の身体の特性を残した《智》が、最初に描かれたのではないかと思います。黒田氏の日記と照らし合わせれば、この作品のモデルは小川幸さんということになります。

 それにしても、黒田氏はなぜ、そこまで西洋的な理想形にこだわったのでしょうか。

■アカデミーの授業

 黒田氏はフランスに滞在し、アカデミー・コラロッシで、ラファエロ・コラン氏に師事しました。そこでは、ヌードのデッサンと彩画をアカデミック絵画の基本として学びました。黒田氏が学んだ西洋画の基礎は裸体画だったのです。

 図録を見ると、男女を問わず、裸体画が何点か掲載されていました。黒田氏がフランス滞在中に人体について多くを学んでいたことがわかります。黒田記念館にはそれらが所蔵されており、古典絵画の模写、石膏デッサン、裸体デッサン、油彩による裸体画といった順で、人体の構造と表現を学んでいたようです。アカデミズム絵画は、このようなカリキュラムの下、体系的に教育されていたのです。

 人体の仕組みを学ぶための解剖学講義の記録も残されていました。

(鉛筆、紙、9.3×15.5㎝、1888年、黒田記念館蔵)

 腕の部分の筋肉がしっかりと描かれています。人体を描くために、黒田氏がその内部組織まで学習していたことがわかります。この図を見ていると、ダヴィンチの有名な人体図が彷彿されます。

 そして、ふと、ルネサンス期の画家たちが、人体の理想的な比率や黄金比率などを研究し、普遍的な美を追求していたことを思い出しました。

 さらに、当時、手作業を重視する職人と、「教養科目を修めた紳士である」芸術家とを区別する風潮が残っていたことも思い出しました。芸術家の作品には知的要素がなければならないとされていたのです。このような状況を考え合わせると、アカデミズムの画家が構想主義、歴史主義、寓意主義に向かうのは当然のことでした。

 黒田氏がフランスからアメリカ経由で帰国したのが1893年、帰国直後は、《昔語り》といった歴史に画題を取った作品を制作しており、アカデミズムで学んだことの痕跡が見受けられます。そして、《智・感・情》を制作したのが1897年、こちらも裸婦をモチーフとしていますが、観念的な画題を扱っており、アカデミズムの影響が色濃く残っています。

■日本の近代化過程での裸婦像

 帰国後の1895年、黒田氏は第4回内国勧業博覧会に、滞欧時に制作した西洋女性の裸婦像《朝粧》を出品しました。それが大騒動を巻き起こしました。1893年に制作されたこの作品はフランスでは大好評でしたが、日本では猥褻物扱いをされ、非難されたのです。

 そして、1897年、第2回白馬会展に出品した《智・感・情》は、日本人をモデルにした初めての裸婦像でした。《朝粧》で大騒動を巻き起こし、そのほとぼりも冷めないうちに再度、裸婦像を出品したのです。黒田氏の強い意志を感じざるをえません。

 留学を終えて帰国した黒田氏は、フランスで習得した西洋的表現方法を伝えようとしてきました。対象を客観的に観察し、それをロジカルに組み立て、表現するという手法で制作した作品を国内の主要な展覧会で立て続けに発表したのです。モチーフは裸婦でした。

 黒田氏が学んだフランスでは、裸体画は人体表現の基礎であり、アカデミズムのカリキュラムの中では必須科目でした。人体を表現しようとすれば、その仕組みを理解するため、まず解剖学を学ばなければならなかったのです。裸体表現は写実の基礎であり、科学的思考法の基礎ともなりうるものだからこそ、黒田氏はまず、日本に裸婦像を導入したのです。

 そもそも日本の近代化過程で求められたのは、写実的表現であり、科学的思考であり、ものごとの構造的な把握でした。アカデミズム絵画を通して、黒田氏はそれらを習得しました。カリキュラムを見てもわかるように、模写、デッサン、油彩画に至る教育の基本は裸体画でした。黒田氏はそれを日本に持ち込もうとしただけでした。

 ところが、そのような作品は日本社会から強く拒否されました。裸婦をモチーフにしたことが受け入れられなかったのです。

 明治期、多くの留学生が当時、先進的な西欧に渡り、さまざまなことを学んできました。技術的、実用的な領域はまだしも、文化が深く関与している領域は、学んだことをそのまま適用できず、強引に持ち込もうとすれば、日本文化の厚い壁に阻まれてしまうことがわかりました。

■裸婦を巡る東西文化の違い

 《智・感・情》はその後、加筆されて、1900年に開催されたパリ万国博覧会に、《女性習作》というタイトルで出品されました。《湖畔》やその他3点とともに出品されたのですが、この作品だけが評価され、日本人に与えられた賞としては最高の銀牌を受賞しています。

 この作品をパリ万博に出品する際、黒田氏はなぜか、《女性習作》というタイトルに変更しています。《智・感・情》という観念的なタイトルはふさわしくないと思ったのか、あるいは、作品がこのタイトルにそぐわないと思ったのか、それとも・・・、いろいろ考えてみても、その理由はよくわかりません。

 理想や観念を掲げ、それに沿って絵を描くのは日本文化に馴染まないのでしょうか。あるいは、日本社会で受け入れられるために、日本文化に再適応する必要があったのでしょうか。いずれにしても、その後、黒田氏がアカデミズム風の作品を描かなくなっているのが気になります

 黒田氏は、西洋絵画で尊重される身体の理想形を追求しながら、日本人女性をモデルに裸婦像を制作しました。そこで優先されたのは、西洋的な理想形でしたが、ほんのわずか、日本人女性の特性の残そうとしたことに、黒田氏の心の揺らぎを感じました。

 ひょっとしたら、このときすでに黒田氏の内面には、フランスで身につけた思考法、表現法を突き崩す日本文化の片鱗が甦っていたのかもしれません。

 特別展示室で、《智・感・情》の隣に展示されていた《湖畔》は、フランスでは受賞できませんでしたが、日本ではとても評判がよく、いまなお、多くの人々から愛されています。《智・感・情》のように考えこませることはなく、意味を求める必要もなく、画面全体から漂ってくるリリシズムを楽しめるからでしょう。

 興味深いことに、《湖畔》にも《智・感・情》にも、観客を心地よくさせる清々しさが感じられました。描く対象が何であれ、黒田氏のフィルターがかかって、画面をそのテイストに染め上げてしまうからでしょう。何を描くかというのも重要ですが、いかに捉えるか、いかに表現するかということの方が重要で、そこにこそ、創作者の世界が構築されるのではないかと思いました。(2021/3/30 香取淳子)

川端龍子作品《海洋を制するもの》に見るジャーナリズム性

■川端龍子展

 2021年2月21日、川端龍子記念館に行ってきました。たまたま図書館で見かけたこの展覧会のキャッチコピーが気になったからでした。絵画の展覧会には珍しく、「時代を描く:龍子作品に見るジャーナリズム」というタイトルだったのです。

 開催期間は2020年12月9日から2021年3月21日です。ずいぶん前に開催されていたようですが、私はこの展覧会のことを知りませんでした。

 

 チラシには《怒る富士》の写真が掲載され、次のように開催趣旨が説明されていました。

「本展では、太平洋戦争末期の不安や憤りを赤富士に表現した《怒る富士》(1944年)や、終戦間際に自宅が爆撃にあった光景を飛び散る草花に著した《爆弾散華》(1945年)、多くの犠牲者を出した狩野川台風の被害から復興を目指す人々の力強さを伝える28メートルの大作《逆説・生々流転》(1959年)等、龍子が時代を力強く描き上げた作品群を紹介します」

 この展覧会では、どうやら、戦争や台風など大きな災禍を画家の目で捉えた作品が、展示されているようです。

 太平洋戦争のさなか(1944年)、終戦の直前(1945年)、そして、戦後の台風禍(1959年)など、折々の災禍を川端龍子氏がどのように捉え、作品化したのか、次第に興味が湧いてきました。

 さて、西馬込駅南口を出て、スマホで道案内を確認しながら、桜のプロムナードを進んでいくと、大田区立龍子記念館らしい建物が見えてきました。木立の下に横断幕が見えます。

 

 この横断幕で使われていたのが、《逆説・生々流転》でした。

 見たことがある絵柄だと思って、チラシを取り出して見ると、その裏側に、やはり《逆説・生々流転》(部分)と書かれた作品の一部が掲載されていました。横断幕で使われていたものはさらに横長でクレーン車で電車を引き上げる様子なども描かれています。おそらく、この展覧会のメインの作品なのでしょう。

 それでは、展示室に入ってみることにしましょう。

■大きさに圧倒され、長さに驚かされた壮大なスケールの画面

 展示室に足を踏み入れた途端、驚いたのは、壁面を覆うほどの作品の大きさでした。最初に展示されていたのが《龍巻》(1933年)で、293.0×355.0㎝の作品です。その隣の《海洋を制するもの》(1936年)はそれよりさらに大きく、289.5×456.0㎝でした。

 次のコーナーで展示されていたのは《杜会を知らぬ子等》(1949年)で、壁面のほとんどを覆ってしまうほど大きく、サイズは243.6×721.7㎝でした。

 その隣にコーナーを跨いで展示されていたのが、チラシや横断幕にその一部分が掲載されていた《逆説・生々流転》で、サイズは48.3×2806.1㎝でした。28メートルにも及ぶ長さだったのです。

 このように、展示室に入ってまず驚いたのは、作品の大きさであり、その長さでした。その他の作品も同様、いずれも予想をはるかに超えたスケールだったのです。かなり引き下がらなければ、とうてい、全体像を視野に収めることはできません。

 これだけ大きな作品、あるいは、長い作品を見るのは初めてでした。おそらく、川端龍子氏は作品のスケールについてなんらかの信念をお持ちなのでしょう。となれば、気軽に作品を鑑賞するわけにはいかないのではないかという気がしてきたのです。

 そもそも、私は、この展覧会のタイトル「時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム」に興味を覚え、やってきました。ですから、今回は、展示作品の中でもとくにジャーナリズム性を強く感じられる作品に絞って、見ていくことにしたいと思います。

 展示作品の中で私が川端龍子氏のジャーナリズム精神を感じたのは、《海洋を制するもの》、《逆説・生々流転》、《怒る富士》、《爆弾散華》、《花摘む雲》、《國亡ぶ》などの6点でした。このうち5点は、モチーフは何であれ、戦争を主題にしたもので、1点が台風による災禍を描いたものです。

 この6点のうち、言葉で説明されなくても、画面からジャーナリズム性を感じることができたのは、《逆説・生々流転》と《海洋を制するもの》でした。

《逆説・生々流転》の場合、複数の画題が時系列に沿って取り上げられ、全体が構成された作品でした。それぞれの画題にジャーナリズム性があり、総体として物語性のある訴求力の強い作品になっていましたが、単体として画面からジャーナリズム性が感じられたのは《海洋を制するもの》だけでした。

 そこで、今回は、《海洋を制するもの》を取り上げ、川端龍子氏のジャーナリズム精神がどのように作品化されたのかを見ていくことにしようと思います。

■《海洋を制するもの》

 私が展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったのが、この作品でした。造船所で働く人々の姿が生き生きと描かれています。

(絹本彩色、額装・六枚一組、289.5×456.0㎝、1936年、龍子記念館所蔵)

 学芸員の説明によると、川端龍子氏は実際に、神戸にある川崎造船所を取材して、この作品を仕上げたそうです。

 画面を見ると、まず、3人の人物に目が留まります。

 画面の中ほどに描かれた3人の作業員は、それぞれの持ち場で働いています。持ち場によって異なった三者三様の姿勢や表情が丁寧に描かれているせいか、この作業現場にリアリティが感じられます。

 全身全霊で作業に取り組んでいる者がいれば、ちょっと気を抜いている者もいるといった状況はおそらく、どのような作業現場でも見られる光景なのでしょう。真剣に作業する2人の背後に手を休めている者を配置することによって、モチーフ間にメリハリをつけることができ、実在感を増すことができています。

 ここでのメインモチーフは、画面手前の青いつなぎを着た作業員でしょう。画面のほとんどを覆っている茶褐色ではなく、その補色である青色のつなぎを着ているところからも、作者がこの人物を中心に据えていることは明らかです。

 しかも、この人だけが顔の表情がはっきりと描かれています。髪を逆立て、目を見開き、口を堅く結んでいます。一見、憤怒の表情に見える形相ですが、よく見ると、怒っているのではなく、全身全霊で取り組んでいるエネルギッシュな表情にも見えます。

 作業員はいずれも半裸で、褐色に日焼けし、肩や胸の筋肉が盛り上がっているのがわかります。しかも、皆、裸足です。ここに作業状況の過酷さが表現されています。その一方で、手前の人物の表情に作業への揺るぎない使命感が表現されており、画面から力強いエネルギーが伝わってきます。

 次に、人物の背景に目を向けると、カーブした鉄板、建造中の船の一部、無数の木材で組み立てられた足場、クレーンなど、作業を支える作業場の光景が丁寧に描かれており、3人の作業の背後にある造船事業が的確に可視化されています。

 この作品が制作されたのが1936年、同年2月26日には陸軍青年将校らが決起して内閣は総辞職に追い込まれています。その前年に開催されたコミンテルン大会で、西洋ではドイツ、東洋では日本を標的に攻撃することが決定されており、中国では抗日戦線が激化しはじめていました。

 そして、翌1937年には日中戦争、1939年には第二次世界大戦が勃発、1941年には太平洋戦争に突入といった具合で、当時は不穏な社会状況の真っただ中にあったのです。このような状況下で造船所は政府の新造船援助を受け、次第に活況を呈し始めていました。この時期、造船所を描くことは間接的に戦争を描くことでもありました。

 そのようなマクロ状況を踏まえ、川端龍子氏は、川崎造船所で働く人々をミクロ的にキャンバスに収めています。

 戦争といえば、兵士、負傷した人、戦車、戦闘機、戦闘シーン、爆撃などを描いて表現するのが常でした。ところが、川端龍子氏は、造船所で働く作業員とその作業場を描くことで戦争を間接的に表現していたのです。

 作品化に際して選択されたこのモチーフは、《花摘雲》の場合と同様、間接的に戦争を表現し、そこに作者の心情を盛り込めるものだったといえるでしょう。

 それでは、作業員はどのように描かれたのかを見てみることにしましょう。

■作業員はどう描かれたのか

まず、手前の青いつなぎを着た作業員からみていくことにしましょう。

 

 足を大きく開いて身体のバランスを取りながら、電気ドリルを使って鉄板に穴をあけています。手には大きな手袋をはめ、真剣な表情で作業をしています。ドリルが鉄板とぶつかった箇所は火花が飛んでいるのか、明るく描かれています。顔も肩も素足もこげ茶色で描かれ、連日の作業で日焼けしていることが示されています。

 髪は逆立ち、顔は憤怒の表情で描かれ、連日、大変な作業に懸命に取り組んでいる様子が伝わってきます。この人物の表情からは、力強いエネルギーが感じられます。

 次に、溶接をしている真ん中の作業員をみてみましょう。

 

 顔を溶接用のお面のようなもので保護し、大きな手袋をはめて作業をしています。顔の表情はわかりませんが、半裸の背中は褐色に日焼けし、頬や腕も褐色に日焼けしていることがわかります。こちらも連日、熱い太陽の下、溶接作業をしているのでしょう。作業をしている場所からは燃え盛る火が描かれており、どれほどの熱さの下、作業をしているのか、その過酷さを見て取ることができます。この人も靴を履いておらず、裸足です。

 最後に、背後でこの作業を見ている作業員を見てみましょう。

 

 こちら首に手ぬぐいを巻き付けています。汗を拭き取るためでしょう、帽子をかぶり、眼鏡をかけています。やはり手袋をはめ、手に棒のようなものを持っていますが、作業をしているわけではなさそうです。休憩しているのでしょうか、それとも、監督しているのでしょうか。やはり上半身裸で、顔も腕も胸も腹も褐色に日焼けしています。ズボンの下を見ると、やはり裸足でした。

 こうしてみると、作業員それぞれの仕事内容とその表情、身体が描き分けられており、当時の造船所の光景が端的に捉えられていることがわかります。

 それでは、これらの作業を取り巻く背景はどう描かれているのか、画面の上部と下部を取り上げ、見てみることにしましょう。

■背景はどう描かれたのか

 作業員の背景を見ると、建造中の船が3艘、それぞれの周囲を取り囲み、無数の木材で足場が組まれています。そして、その合間に巨大な作業用クレーンが空を覆うように置かれており、どれほど大きな作業現場なのかが示されています。

 

 興味深いことに、日本画家でありながら川端龍子氏は、船も木材もクレーンも消失点を意識し、透視図法を使って描いています。そのせいか、巨大で、雑多な作業現場を描きながらも、安定した構図の画面になっています。

 そして、なにより、この作業所の広さ、奥行きが構造的にしっかりと表現されているのが印象的でした。その背後に見えるやや曇りがちな空には、作者の心情が込められているのでしょうか。

 それでは次に、画面の下部を見ていくことにしましょう。

 

 カーブした鉄板の下には大きな木の支えが何本か用意されています。支え木の下には一列に穴の開いた鉄板が置かれ、その下もまた木で支えられているのが見えます。鉄に穴を上げる作業、鉄を溶接する作業、すべてが巨大な支え木の上で行われているのです。

 この角度から見ると、改めて、作業員たちがすべて裸足で、その足が黒く汚れていること、ズボンの境目、手袋の内側からわずかに白い肌がみえる以外、茶褐色の鉄板よりもさらに黒ずんだ肌をしていることなどがよくわかります。川端龍子氏はさり気なく、作業員たちが身体を酷使して作業を行っていることを示そうとしているのでしょうか。

 この部分からは、作業内容や作業道具、作業を行う際の作業員の姿勢が着実に伝わってきます。色彩表現の確かさが事物を立体的にリアリティのある対象として浮かび上がらせているからでしょう。同系統の色彩を使いながらも、微妙な差異を利用して明暗を表現し、立体感を生み出しながら、労働内容の可視化を実現させているのです。

 驚きました。

 日本画の画材を使いながら、作業現場をここまで丁寧に、実在感のある表現方法で描き、リアリティのある画面に仕上げているとは・・・。この作品は、まさに事実を伝えようとするジャーナリズム精神の賜物といえるでしょう。

■洋画の技法、日本画の技法を使った写実性

 私がなぜ、この作品を展示作品の中でもっともジャーナリスティックだと思ったかといえば、上記で述べてきたように、きわめて写実的に描かれているからでした。

 ジャーナリズムに必要なのは事実に即して情報を伝達することですが、それにはまず対象を写実的に表現しなければなりません。この作品の場合、透視図法、明暗法など洋画の技法を使い、きわめて写実的にモチーフを描き、画面を立体的、構造的に構成していました。

 その一方で、画面全体から柔らかさと温かみが感じられるのは、筆触の痕跡を残した日本画の技法によるのではないかと思います。

 たとえば、作業員の背中や肩、腕などの一部は墨で一振り、黒い線が引かれています。この稜線によって、なんともいえない身体の柔らかさと硬さとが表現されており、洋画にはない味わいが醸し出されています。

 よく見ると、墨による稜線はズボンの襞や木材にも使われており、画面全体を柔らかく、優しい雰囲気に仕上げています。

 私がこの作品をジャーナリスティックだと思った理由はもう一つあります。

■5WIHが描き込まれた画面

 ジャーナリズムで重要なのは、いわゆる5W1Hを踏まえた情報の様式です。事実を伝える際の不可欠の要素として、いつ(when)、誰が(who)、どこで(where)、何を(what)、なぜ(why)、どのように(how)行ったのか、という側面を押さえておく必要があるのです。

 私がこの作品をもっともジャーナリスティックだと思ったのは、画面の中に、いつ、誰が、どこで、何を、どのように行ったのか、という情報の伝達に必要な5W1Hが盛り込まれていたからでした。

 2.26事件の起こった1936年に制作された(when )この作品には、3人の作業員(who)が、造船所(where)で、造船のために(why)、鉄板を(what)、溶接したり、ドリルで穴を開けたりして加工(how)している姿が描かれています。このこと自体に、ミクロ的なジャーナリズム精神が発揮されています。いわゆるベタ記事ともいうべき情報の捉え方であり、伝え方です。

 ところが、その背後に建造中の巨大な3艘の船が描かれており、当時の造船業を巡る社会的情勢が可視化されています。ここにマクロ的なジャーナリズム精神が発揮されていると考えられます。つまり、ベタ記事の背後にある社会情勢、時代の趨勢といったものまで捉えられているのではないかという気がするのです。

■時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る

 改めて、この展覧会のチラシを見てみました。すると、次のような興味深い文章を見つけました。

 「川端龍子は「大衆と芸術接触」を掲げて、戦中、戦後の激動の時代、大衆の心理によりそうように大画面の作品を発表し続けました。そして、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えから、これまで日本画で描かれてこなかった時事的な題材を積極的に作品化しました。それらの作品には、龍子が画家となる前に新聞社に勤めていたことから、時代に対するジャーナリスティックなまなざしが強く表されています」(展覧会チラシより)

 こうしてみると、川端龍子氏はより多くの人々に芸術を知ってもらいたくて大画面の作品を制作し続けていたことがわかりました。さらに、「時代を知るがゆえに時代を超えることが出来る」という考えの下、ジャーナリスティックな画題に挑んでいたこともわかりました。川端龍子氏は、展示されていた諸作品のようにスケールの大きな、興味深い画家でした。

 《海洋を制するもの》を描いた時点で、川端龍子氏には日本がこのまま戦争に突き進んでいることが目に見えていたのでしょう。造船所を取材し、時代がどう動いていくのかを明確に把握したからこそ、青いつなぎの服を着た作業員の顔をあのような表情に描いたのかもしれません。

 あれは、憤怒の表情にも見えますし、真剣に作業に取り組む熱意の表れともとれる表情でした。

 ひたすら働き続けるしかない末端の作業員にしてみれば、たとえ戦争に突入することがわかったとしても、不可抗力のままその波に飲み込まれていかざるをえません。時代の流れに掉さすことはできないのだとすれば、憤怒の表情しか浮かばないでしょう。

 作業員ができることといえば、持ち場で真剣に仕事に打ち込むしかないのです。時代の波に飲み込まれながらも、やがて、時代が変われば、真剣に仕事に打ち込んだことこそが時代を超える礎になるというメッセージを、川端龍子氏は作業員のあの表情に託していたのかもしれません。

 川端龍子氏の作品は今回はじめて見たのですが、スケールが大きい割には威圧感がなく、どの作品も素直に画面を鑑賞することができました。どれも調和のとれた柔らかみのある色彩で表現されていたせいかもしれません。あるいは、モチーフを捉える視点に温かさが感じられたからかもしれません。

 見たこともないようなスケールに圧倒されてしまいましたが、諸作品からは、川端龍子氏の画家として、人としての度量の大きさを感じ取ることができました。(2021/2/28 香取淳子)

模写作品から見る留学時代の小堀四郎氏

■上杜会メンバーの留学

 逸材揃いと評された上杜会メンバーの中で、最も早く留学したのが、岡田謙三氏と高野三三男氏でした。彼らは東京美術学校を中退して、フランスに渡りました。それに刺激を受けた荻須高徳氏と山口長男氏は卒業後、上杜会第1回展を終えた後、早々にフランスに旅立っていきました。

 その荻須たちを横浜港で見送った小堀四郎氏、そして、神戸港で見送った小磯良平氏もまた、フランス留学を目指しました。こうして次々とメンバーがフランスに向かった結果、1929年には上杜会巴里支部を結成できるほどになっていました。同年12月8日には東京美術学校の和田季雄氏を招き、上杜会巴里支部会を開催しています。

 その和田季雄氏の著作を引用して、山田美佐子・荻須記念美術館館長は、上杜会メンバーのパリでの活躍ぶりを次のように記しています。

 「和田によると、1929(昭和4)年にサロン・ドートンヌに入選した美校出身者は、知っている限りで9名、そのうち3名が小磯、中西、荻須だという。荻須は1928年の初入選に続き2回目の入選であった」(※図録『わが青春の上杜会』p.50、2020年10月)

 渡仏して間もない小磯良平氏、中西利雄氏、荻須高徳氏が、サロン・ドートンヌに入選するという快挙を果たしていたのです。

 当時、彼ら以外に、高野三三男氏、荻野暎彦氏、山口長男氏、小堀四郎氏、藤岡一氏、竹中郁氏などが渡仏し、油彩画を極めようとしていました。そして、イギリスに留学した橋口康雄氏は、次第に版画への関心を強め、エッチングやリトグラフ、木版画を学ぶようになったそうです。

 「わが青春の上杜会」展の会場(Ⅰ-1)のコーナーでは、そのような上杜会メンバーの留学時代の作品が種々、展示されていました。どの画面からもいかにも留学生らしい、未熟ながらも、意気揚々とした勢いが感じられます。若いエネルギーが滲み出た諸作品でした。

 そんな中で、場違いな印象の残る作品が一つ、展示されていました。

■展示品の中でただ一つの模写作品

 視界に入った途端、意表を突かれる思いがしたのは、周囲の作品と比べてひときわ大きく、写実的に描かれた裸婦像でした。画題といい、古典的な画法といい、そのコーナーでは明らかに異質でした。


(油彩、カンヴァス、140.0×141.5㎝、1930年、豊田市美術館)

 近づいて表示プレートを見ると、小堀四郎(1902-1998)氏の作品でした。タイトルは「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」と書かれています。

 このタイトルを見た途端、腑に落ちました。

 実は、この作品を見た瞬間、私はなんともいいようのない違和感を覚え、それはすぐには去らなかったのです。

 留学生が描いた作品には、どこかしら、新鮮な驚きと西洋文化に対峙しようとする気迫が感じられます。20世紀のパリの街角や女性、風景などを画題にしたものが多く、目にした光景をなんとか作品化しようとする努力の痕跡が画面の随所に見受けられました。

 ところが、小堀氏の作品の場合、完成度はとても高いのですが、画面からはその種の生々しさが感じられませんでした。それで私はいいようのない違和感を覚えてしまったのですが、タイトルを見て、その理由がわかりました。

 小堀氏が描いていたのは、17世紀の画家レンブラントの作品の模写だったのです。完成度が高いのは当然でした。しかも、画題は旧約聖書から想を得たものでしたから、画面から、日本の留学生ならではの生々しい心情が伝わってこないのも当然でした。

 会場をざっと見渡したところ、模写作品が展示されているのは、小堀氏だけでした。

 見ているうちに、私の関心は次第に画家としての小堀氏に映っていきました。まず、気になったのが、留学生時代の作品として、なぜ、小堀氏だけが模写作品の展示だったのか、さらには、なぜ、同時代ではなく、17世紀の画家レンブラントの模写作品だったのかということでした。

■なぜ、留学時代の代表作が模写作品なのか。

 小堀氏もまた、他の上杜会メンバーと同様、異国の地フランスから得た刺激を基に、スケッチあるいは水彩画、油彩画としてさまざまな作品を残していたはずです。それなのに、なぜ、オリジナル作品ではなく、レンブラントの模写作品が展示されていたのか、私には不思議でなりませんでした。

 何か手がかりはないかと思い、図録を開いてみると、小堀氏について、次のような説明がありました。

 「パリ留学の5年間で小堀が最も時間をかけて取り組んだのは、古典名画の模写だった。1年のうち光線の明るい約4カ月に限って模写を行い、ルーヴル美術館には入館証を1928年から4年間更新し通い続けた。ルーヴルの数多くある名作の中から彼自身が感銘を受けたレンブラントやコロー、ドーミエの作品4点に絞って模写に取りかかり、最大の作品が本作である」(※ 図録『わが青春の上杜会』p.159、2020年10月)

 留学した小堀氏が最大の精力を傾けて取り組んだのが、ルーヴル美術館で展示されている古典名画の模写であり、そのうちの大作が、「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」だったというのです。だとすれば、これを代表作として挙げるのは当然といえるでしょう。

 さらに、図録の説明から、次のようなことがわかりました。

 「2年越しで8カ月かけたその完成度の高さに、顔見知りになった守衛には「まさか本物をもちだすんじゃあるまいね」と冗談めかして言われたという」(※ 前掲)

 小堀氏にとって、どれほど嬉しい誉め言葉だったでしょうか。この一件で、完成度の高い作品だったことが傍証されたといえます。小堀氏の地道な努力に比例して、この模写は完成度の高い作品に仕上がっていたのです。

 また、次のような説明もありました。

 「模写には技術の習得だけではなく、当時は日本人のほとんどが欧州の名画を観ることがかなわないことから、本物の素晴らしさをあまさず持ち帰るという目的も兼ねていた」(※ 前掲)

 小堀氏には、古典名画を模写することによって、西洋画の技術を習得するだけではなく、それを日本に持ち帰って、西洋画の素晴らしさを多くの人に味わってもらいたいという思いがあったようです。

 この時代に長期間、留学する機会を得た者ならではの使命感からなのでしょうか。西洋画を志しながらも留学できなかった人々への思いに、小堀氏の人となりの一端をうかがい知ることができます。

 小堀氏がこの作品の模写に心血注いだこと、完成度が高く仕上がったこと、小堀氏の留学目的にも適っていたこと、等々がわかってきました。これでようやく、この作品が小堀氏の留学時代の代表作とみなされた理由を理解することができました。

 さて、小堀氏は東京美術学校を卒業した翌年の1928年に渡欧し、1933年に帰国しています。帰国後早々、恩師藤島武二氏の奨めで、東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋での滞欧作品展を開催しました。展示作品183点の内のひとつがこの作品でした。

 当時、小堀氏の模写作品を見た熊岡美彦氏は、「コンクリートの基礎を置いて悠々と大作業の準備をして居る様な安固さが見えてたのもしい研究のあとである。古典を深く味わい、相当の渋さを出している」(※「小堀四郎滞欧作品感想」、『美術9-1』1934年1月号):図録『小堀四郎展』p.28より)と感想を述べています。

 原寸大で西欧の古典名画を模写することによって小堀氏が得た、作品の構造的把握や制作過程での堅牢さなどを、熊岡氏は評価しているのです。この時期、日本人留学生が油彩画を体得するには、現地で古典名画を模写することが有効な方法だったのかもしれません。

 それでは、「レンブラント作《ベッサベ・オー・バン》の模写」について見ていくことにしましょう。

■《ベッサべ・オー・バン》とは?

 小堀四郎氏の作品タイトル「ベッサベ・オー・バン」という日本語表記から、原題はフランス語の「Bethsabée au bain」(浴室のバトシェバ)なのでしょう。

 調べてみると、この作品のタイトルは、「Bathsheba at her bath」あるいは、「Bathsheba with King David’s letter」と英語表記されていることが多いのですが、小堀氏が模写したルーヴル美術館では、「Bethsabée au bain」とフランス語表記になっていたのだと思います。

 もちろん、タイトルが「Bathsheba at her bath」であれ、「Bathsheba with King David’s letter」であれ、描かれている内容に変わりはありません。この作品の画題は旧約聖書の有名な一節から引いたもので、『ダビデ王とバトシェバ』(Roberta K. Dorr著、有馬七郎訳、国書刊行会、1993年4月)として書籍化されています。この本の副題を見ると、なんと「歴史を変えた愛」でした。

 実は、浴室のバトシェバについては何人もの画家が取り上げ、さまざまに描いてきました。

こちら → https://en.wikipedia.org/wiki/Bathsheba_at_Her_Bath_(Rembrandt)

 旧約聖書のこの逸話は画題として訴求力があり、レンブラント以前にもいくつも作品化されていたのです。ルネサンス期の画家が好んで描いた画題でした。

 数ある作品の中で、レンブラントの「Bathsheba at her bath」は秀逸だと評されることが多かったようです。


(油彩、カンヴァス、142×142㎝、1654年、ルーヴル美術館)

 それは、レンブラントがこれまでの作品には見られない、豊かな色彩表現と力強い筆さばきによって、エロティックな情感を描いていたからだといわれています。イギリス人美術史家のケネス・クラーク(1903-1983)など、この作品はレンブラントのヌード作品の中でも特筆に値する秀作だといっているぐらいです。

 小堀氏が模写したのは、定評のあるレンブラントの古典名画だったのです。

 調べていると、レンブラントはこれ以外にも、「浴室のバトシェバ」という作品を描いていることがわかりました。1643年に制作された作品で、タイトルは「The toilet of Basheba」です。


(油彩、木板、57.2×76.2㎝、メトロポリタン美術館)

 この作品のバトシェバはリラックスした表情で、侍女の一人に足を洗ってもらい、もう一人の侍女に髪を梳いてもらっています。片手で白い布を抑えて身体を支え、もう一つの手で片方の乳房を抑えています。その表情は明るく輝き、嬉しそうにすら見えます。

 この画面にダヴィデ王からの手紙はなく、バトシェバの表情に不安のかけらもありません。これはおそらく、ダヴィデ王がはじめて見かけたときのバトシェバの姿なのでしょう。視線をまっすぐ観客に向け、微笑んでいる姿はまるで誘いかけているようにも見えます。

 このとき、バトシェバはウリアという兵士の妻でした。バトシェバに横恋慕したダヴィデ王はウリアを危険な戦地に送って戦死させたうえで、バトシェバを妻にしてしまいました。やがて、二人の間に息子が生まれますが、あまりにも非道なふるまいに怒った神はダヴィデ王のところに預言者ナタンを遣わします。ナタンは富者と貧者の譬え話をし、ダヴィデ王に自分が犯した罪を諭します。

 オランダの画家アールト・デ・ヘルダーが、そのシーンを描いています。

(油彩、カンヴァス、99.0×125.5㎝、1683年 東京富士美術館)

 「ダヴィデ王を諫めるナタン」というタイトルです。

 杖を手にしているのが預言者ナタンで、質素な身なりながらも威厳に満ちた表情でなにやら語り掛けています。一方、王冠を戴いたダヴィデ王は手に王笏を持ち、豪華な衣装に身を包んでいますが、その表情には不安と困惑が読み取れます。

 ダヴィデ王の威厳を象徴するように、王冠や王笏、衣装の豪華さが丁寧に描き込まれています。それに反し、ナタンの帽子や服装は見るからに質素です。両者の衣装の対比に、表情の対比を絡ませ、権力よりも道徳の方が尊いというメッセージを的確に表現しています。

 レンブラントが「Bathsheba at her bath」を描いたのが1654年、その11年前に「浴室のバトシェバ」が描かれています。ですから、小堀氏が模写した作品は、浴室のバトシェバを見染めたダヴィデ王が手紙を差し出すというアクションを起こしたときのものとなります。そして、それから29年後にレンブラントの最後の弟子によって描かれたのが、「ダヴィデ王を諫めるナタン」でした。

 一連の作品は旧約聖書の逸話を画題にして展開されていたのです。

 「ダヴィデ王を諫めるナタン」を描いたアールト・デ・ヘルダー(1645-1727)は、レンブラント(1606-1669)の最後の弟子のうちの一人でした。レンブラントに忠実で、18世紀に至るまでレンブラントのスタイルを継承したただ一人のオランダ人画家だとされています。

 小堀氏が真剣に模写したこのレンブラントの作品は、西洋文化に深く根付いた物語を画題に制作されていただけではなく、技術的にも西欧で高く評価されていたのです。

 それでは、小堀氏の模写作品とレンブラントの原作とを比較してみることにしましょう。

■《ベッサベ・オー・バン》の模写作品と原作

 この作品はすでにご紹介しましたが、原作と比較するため、再掲してみました。


(油彩、カンヴァス、142.0×141.5㎝、1930年、豊田市美術館)

 改めて見ると、この模写作品は全般に色調が暗く、メインモチーフのバトシェバの裸身以外はまるで存在していないかのようです。よく見ると、足元でかしづき、爪先を手入れしている侍女が描かれているのですが、その姿が判然としません。あまりにも暗い色調で描かれているので識別できないのです。

 それでは、どれほど暗く描かれているのか、比較のために、レンブラントの原作も再掲しておきましょう。


(油彩、カンヴァス、142×142㎝、1654年、ルーヴル美術館所蔵)

 原題は“Bathsheba at Her Bath”(浴室のバトシェバ)です。浴室のバトシェバを垣間見たダヴィデ王がその美しい姿に魅了され、横恋慕した結果、大きな罪を犯してしまうことになる重要なシーンです。

 バトシェバは手紙を持ち、途方に暮れ、うなだれたように横顔を見せています。その表情は、ダヴィデ王からの求愛の手紙に戸惑っているようにも見えます。乳白色の裸身は輝くように美しく、足の爪先を洗う侍女の首筋にはわずかに光が射しこんでします。

 全般に暗い背景の中で、侍女の顔立ちや手はくっきりと分かるように描かれており、ひそやかながら存在感を示しています。

 画面は、夫を犠牲にして権力の座につくことになる重要なシーンです。

 それだけに、微妙な情感のニュアンスを伝える表現が必要になりますが、レンブラントは、物思いに沈むバトシェバの頬にほんのりと紅色を射すことによって、うっとりとした表情に見えるようにしています。

 ダヴィデ王からの求愛に戸惑う反面、喜ぶ心情をも示しているのです。バトシェバのアンビバレントな感情が見事に表現できているといえるでしょう。

 画面の上半分は暗い色調で覆われ、バトシェバの乳白色の肌の美しさが強調されています。その一方、目立たないながらも、跪く侍女の横顔を暗い中でもわかるように描くことによって、コントラストを明瞭にしています。おかげで、バトシェバの美しさが権力を引き寄せていることを暗示することができています。

 画面の色構成、モチーフの構図によって、その背後にある物語を想起させ、それに説得力を持たせているのです。

 原作の大きさは142×142㎝で、小堀氏の模写作品は142.0×141.5㎝ですから、ほとんど差がありません。原寸通りに描かれていることがわかります。

 原作と模写作品を見比べてみると、ルーヴル美術館の守衛が言った通り、本物と見まがうほど、形状は酷似して描かれています。筆致も遜色ありません。ただ、小堀氏の模写は全体に暗褐色の色調で描かれているので、バトシェバの肌の美しさが表現しきれていませんでした。また、暗すぎて侍女の姿が目立たず、この画面の中で、権力を引き寄せる美の力を暗示しきれていないように思えました。

 それでは、小堀氏の模写作品に見られた暗い色調は、いったい何に由来するのでしょうか。

 「小堀四郎展」(2002年)の図録を開き、留学時代の作品を見てみました。風景作品にそのような傾向は見られませんでしたし、人物画もとくにそのような印象は受けませんでした。

 図録にはドーミエの模写作品が2点掲載されていました。この時期の小堀氏のオリジナルの作品と見比べてみると、レンブラントよりも、どちらかといえば、ドーミエの影響が強いような気がしました。やや荒削りな筆触にドーミエの模写の痕跡が示されているように思ったのです。

 ドーミエの模写作品を見てみることにしましょう。

■ドーミエ作「クリスパンとスカパン」の模写と原作

 ルーヴル美術館に展示されていた作品の中で、小堀氏が感銘を受けたといわれるのが、レンブラント、コロー、ドーミエでした。そのドーミエに、モリエールの喜劇「スカパンの悪だくみ」から着想して描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、60.5×84㎝、1864年頃、オルセー美術館)

 「クリスパンとスカパン」というタイトルの作品です。小堀氏が模写した当時、この作品はルーヴル美術館に展示されていました。画面中央に、二人の男が顔を寄せ合い、悪だくみの相談をしているシーンが描かれています。腕組みをして耳を貸す男のいかにもずる賢そうな表情が印象的です。

 これを模写した小堀氏の作品があります。


(油彩、カンヴァス、60.3×82.2㎝、1932年、豊田市美術館)

 原作とほぼ同じ大きさのカンヴァスに描かれています。できるだけ原作に忠実に制作しようとしていたのでしょう。ところが、この二つの作品を見比べると、一目瞭然でわかるのが、色調の違いです。

 小堀氏の模写作品は全体に暗い色調で描かれています。そんな色調の中、腕組みをした男の顔の額や白目の部分、頬の一部、顎、そして、耳打ちしている男の手と袖口など、部分的にハイライトが置かれています。

 その結果、観客の視線は半ば必然的に、腕組みをした男の表情に印象づけられます。強引といっていいほどの視線誘導によって、密談の光景に強くスポットライトを当て、この絵の物語性を高めているように見えます。

 なんといっても背景とのコントラストが強く、ハイライトの置き方が劇的です。それだけに、観客の視線は腕組みをしている男に奪われてしまい、耳打ちをしている男の存在感が希薄になっています。

 一方、原作の方は比較的明るい色調で描かれており、明暗が生み出すドラマティックな物語性に力点は置かれていないように思えます。むしろ、腕組みをする男の顔の表情と耳打ちをする男の横顔と手の所作を丁寧に描くことによって、男二人の密談の様子をくっきりと浮かび上がらせています。

 腕組みをした男の眼付、耳打ちをする男の小指を立てた手などの細部が丁寧に描かれています。そのせいか、男たちが悪だくみする様子が強調して表現されており、その光景がコミカルに伝わってきます。ハイライトを使ったドラマティック構成に依存することなく、顔面の表情や手の所作から庶民の生きざまを巧みに表現しているのです。

 こうして原作と比較してみると、あらためて、なぜ、小堀氏の模写作品は画面が暗いのか、気になってきました。

■ドーミエ作《洗濯女》の模写と原作

 そこで、もう一つのドーミエの模写作品「洗濯女」を図録で見てみました。


(油彩、カンヴァス、51.3×35.2㎝、1929年、豊田市美術館)

 こちらも画面が暗褐色で、目を凝らさなければ、人物を識別しにくい状況です。子どもの手を引く女性が描かれており、観客の感情を刺激するシーンであるにもかかわらず、暗いので、それが伝わりにくいのです。

 一方、原作は背景が明るいせいか、女性と子供が階段を上ってくる様子がはっきりとわかります。この作品も小堀氏が模写した当時はルーヴル美術館に展示されていました。

(油彩、カンヴァス、49×33.5㎝、1863年 オルセー美術館)

 女性は子どもの手を引き、袋からはみ出しそうになっているほど大量の洗濯物を抱えています。その姿からは疲労と日々の苦労を感じ取ることができます。

 この作品の画題自体は訴求力が強いはずです。ところが、全体の色調が暗いので、十分に観客を引き付けることができていないように思えました。原作に比べ、模写作品が粗削りな表現に見えてしまうのもおそらく、この色調のせいでしょう。

■小堀氏の模写作品を覆う暗褐色の色調

 ドーミエのこの二作品はいずれもドラマティックな訴求力を持ちうる画題でした。奸計であれ、悲哀であれ、生きている過程で庶民ならいつかは出会う場面が取り上げられ、作品化されていました。

 それだけに微妙な感情のニュアンスが画面上で表現されていなければなりません。それには、観客がモチーフをある程度、識別できるよう、要点を押さえたきめ細かな表現が必要になります。ドーミエの模写作品を図録で見ているうちに、暗い色調の下ではそれは難しいのだという気がしてきました。

 ところが、どういうわけか、図録で見ることができたドーミエの模写作品はどれも同じ傾向の暗い色調で覆われていました。そして、先ほども言いましたが、レンブラントの模写作品にもこれと同じ傾向が見受けられました。

 レンブラントの原作と小堀氏の模写作品を見比べてみると、本物かと見まがうほどによく似ています。時間をかけただけあって、形状も構図もタッチも何もかも丁寧に模写されていました。

 ところが、小堀氏の方はバトシェバの肌色がやや褐色気味に描かれているせいか、頬のほんのりとした赤味を識別できず、バトシェバの戸惑いながらも喜ぶといったアンビバレントな心情が伝わってきませんでした。

 そして、何より、肌が全般に暗褐色気味に描かれているので、乳白色の肌ならではの官能性が弱められているように思えました。また、全般に暗い色調のせいか、侍女の表情や手がわかりにくく、背後の布の描き方なども少し雑に見えました。

 ルーヴル美術館に通いつめ、刻苦精励、模写に励んだ小堀氏です。敢えて暗褐色の色調にしたというよりは、何らかの外部要因が影響した可能性が考えられます。ひょっとしたら、小堀氏が模写していた当時、ルーヴル美術館では描写に必要な光量が不足していたのかもしれません。

 何かヒントはないかと思い、改めて図録を見ると、小堀氏は模写に際し、「1年のうち光線の明るい約4カ月に限って模写を行い」(※ 図録『わが青春の上杜会』p.159、2020年10月)と書かれていました。

 上記の記述から、当時、館内で模写するには明らかに光量不足だったことがわかります。小堀氏自身、光量の少なさが作品に及ぼす悪影響を警戒し、模写する時期を制限していたのです。ですから、模写作品すべてに共通する暗褐色の色調はひとえに、小堀氏が模写した当時のルーヴル美術館の光量不足のせいだと思いました。

■小堀氏の人となりと古典名画の模写

 それにしても小堀氏はなぜ古典名画の模写から西洋画の画法を学ぼうとしたのでしょうか。

 図録をめくっていると、興味深い記述を目にしました。

 「できる限り忠実に模写をした。なかでも《イタリアの女》は先生がご覧になっても出来が良かったらしく、「模写は勉強になるでしょう。形や色だけでなく、雰囲気が出せたらもっと良くなる」とほめて下さった。また、「模写した絵には必ずキャンパル裏に、誰々の模写と銘記するように」と教えてくださった。出典を明らかにする、作者のオリジナルを大切にすることは、絵画のみならず、私たちの医学、生物学の研究分野でも共通した大事なことである」(高山昭三「小堀四郎先生と私」『小堀四郎展』2002年、p.126)

 元国立がんセンター研究所長の高山昭三氏は、小堀四郎氏から油彩画の手ほどきを受けていました。デッサンを習得し、油彩画に進んだ段階で、小堀氏の作品の模写をしていた時期があったそうです。上記の引用は、その際のエピソードですが、模写は勉強になるという考えは変わっていなかったようです。

 高山氏はさらに、小堀氏の恩師藤島武二氏への思いを次のように記していました。

 「先生は藤島武二先生を心から敬愛され、「「芸術は人なり、人間が出来なければ、芸術は生まれない」という教えを忠実に守り、毎日を精進された。更に、「般若心経を読め、碧巌録を読め」と薦めてくださった」(前掲)

 小堀四郎氏は東京美術学校では藤島武二教室の所属でした。人生のさまざまな局面で藤島武二氏に助言を求め、その教えを守っています。たとえば、1935年帝国美術院改組に伴い画壇に混乱が生じた際、「君が真に芸術の道を志すなら、でき得ればどこにも関係するな」といわれ、小堀は以後、官展を離れ、画壇を離れ、新作発表の場を上杜会展だけに絞っていったようです。

 律義な性格はすでにフランス留学時にも見られました。

「ツゥールの朝」(油彩、カンヴァス、50.0×60.8㎝、1928年)というタイトルの作品に添えられた文章です。そこに、当時の小堀氏の心境が次のように書かれていました(※ 図録『小堀四郎展』、p.23、2002年)。

 「僕は、極端な程、人に迷惑をかける事が嫌ひな性であるので到着怱々、言葉が自由でない僕が、先輩や友人達の貴重な勉強時間を妨げることを恐れて巴里に着くや、ルーブル美術館だけ案内して貰ったのみで親切な荻須君とも別れツゥールと云ふ田舎へ先づ語学を勉強するために約半年も引込んでしまったのであった」(※ 小堀四郎「荻須君と僕」『中央美術』40、1936年12月号)

 小堀氏はパリに着くと、ルーヴル美術館の場所だけ教えてもらうと、早々に、パリから列車で1時間ほど離れたツゥールに引き込み、約半年間、フランス語を学んでいたといいます。同朋に迷惑をかけないようにするためでした。

 ツゥールは訛りのない綺麗なフランス語を話す土地として知られていたようですし、歴史的建造物もあったようですから、別段、悪い選択だとはいえません。ただ、このエピソードからは、小堀四郎氏の人となりがひしひしと伝わってきます。

 フランス語に自信がなく、他人に迷惑をかけたくないという気持ちが強いからこそ、古典名画の模写を通して西洋画の骨法を学ぼうとしたのかもしれません。他人に迷惑をかけたくないという気持ちは、独立自尊の精神の現れともいえますが、その一方で、小堀氏の絵画修行に、折々に影響を及ぼしていたのです。

 「わが青春の上杜会」展で、小堀氏の作品はここで取り上げたレンブラントの模写以外に、「冬の花束」(油彩、カンヴァス、60.8×50.2㎝、1946年)と「滝・動中静(命の振源)」(油彩、カンヴァス、194.0×112.2㎝、1991年)でした。

 律義な人となりの小堀氏が世俗を離れ、地道に制作活動をつづけた結果、後年になるにつれ、精神性の高い作品を発表するようになっています。世間に媚びず、自然と人を見つめ、生きてきたことの成果といえるでしょう。「芸術は人なり」という言葉が深く身に沁みます。(2021/1/31 香取淳子)

「わが青春の上杜会」展:藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像をめぐって

■秀才揃いの「上杜会」のメンバー

 2020年10月3日から12月13日まで、神戸市立小磯記念美術館で、「わが青春の上杜会」展が開催されました。見応えのある作品ばかりではなく、同窓の画家たちの人生を垣間見ることができ、とても印象深い展覧会でした。

 今回は、趣向を変えて、上杜会メンバーの指導教官の作品を見ていくことにしましょう。

 その前にまず、「上杜会」とは何かということを説明しておく必要があるでしょう。実は、この展覧会のチラシを手にしたとき、「上杜会(じょうとかい)」という見慣れない言葉に戸惑いました。一瞬、「上社会」と書かれているのかと思い、見直しましたが、やはり、「上杜会」でした。漢字の横に小さく、「じょうとかい」と振り仮名が振られています。

 チラシを裏返してみてようやく、その意味を理解することができました。「上杜会」とは、「上野にある東京美術学校(現東京芸術大学)の西洋画科を1927年に卒業した人々全員(中途退学者を含む44人)が、結成した美術団体」だったのです。

 さて、上杜会が結成されたのは1926年2月、卒業の一年前でした。同年12月25日には、大正天皇が47歳の若さで崩御され、昭和天皇が即位されました。急遽、大正から昭和へと元号が変わりました。そして、わずか一週間で1927年1月1日となり、早くも、昭和2年を迎えました。ですから、3月に卒業した彼らは、まさに昭和の幕開けとともに、画家人生のスタートを切ったことになります。

 ところが、1927年9月、彼らは第一回上杜会展を開催しています。卒業早々に展覧会を開催できるだけの力量があったことがわかります。上杜会のメンバーは、美校始まって以来の秀才揃いだといわれていたそうですが、このことからも、なるほどと合点がいきます。

 実際、在学中に帝展(帝国美術院美術展覧会)に入選する者が何人かいましたし、退学して欧州に留学した者もいれば、前衛的な芸術活動に参加し、そこで頭角を現す者もいました。上杜会のメンバーには、創作意欲にあふれた優秀な人材が揃っていたのです。

 その後、「上杜会」という場を得たメンバーたちは、切磋琢磨し合いながら、個性を育み、能力を磨き上げてきたのでしょう。会場を一覧すると、同窓でありながら、画風は似通っておらず、時間が経過するにつて、その個性に輝きが増してきているように見えました。

 ふと気になったのが、彼らは東京美術学校でどのような指導を受けてきたのかということでした。興味深いことに、会場にはまるでその疑問に答えるかのように、序―1のコーナーで、藤島武二、和田英作、岡田三郎助、小林萬吾、長原長太郎の作品が展示されていました。いずれも上杜会メンバー在籍時の教授陣です。

 彼らが入学した当初、西洋画科を創設した黒田清輝氏もおられたようですが、1924年に逝去されており、実際はこの5人が分担して学生の指導に当たっていました。

■西洋画科の教官

 豊田市美術館学芸員の成瀬美幸氏によると、当時の西洋画科は次のようなカリキュラムで指導が行われていました(図録『わが青春の上杜会』、p.8)。

 一年次に長原長太郎に石膏デッサン、二年次に小林萬吾に人体デッサンを学び、三年次に藤島武二、岡田三郎助、和田英作、いずれかの教室を選択するシステムになっていました。今風にいえば、3年次から始まるゼミの担当者が藤島、岡田、和田の三氏だったのです。

 成瀬氏は、「教授たちは、明治期から写実的外光描写を長年追求してきた日本美術界の改革者であり、1920年代にはおおむね50代を迎えていた」と記しています。中には、教授たちの画風に馴染めない学生がいたかもしれません。

 そもそもゼミ担当の三教官をはじめ、デッサン担当の長原長太郎氏、小林萬吾氏など、当時の西洋画科の教官全員が創立時からの白馬会会員でした。

白馬会は、明治美術会を脱会した黒田清輝氏、久米桂一郎氏、山本芳翠氏らが中心となって1896年に設立された美術団体です。旧派ないし脂派 (やには) と呼ばれた明治美術会に対し、白馬会は明るい画風を特徴としており、新派または紫派とも呼ばれていました。黒田氏を中心としたこの白馬会は、明治の洋画界の主流として、その後の発展に大きく寄与してきたのです。

 一方、明治美術会は白馬会設立後、急速にその勢力が衰え、1901年には解散しています。そもそもは西洋画科を設置しなかった東京美術学校に対抗して設立された美術団体でしたから、1896年に東京美術学校に西洋画科が創設され、黒田氏が指導者として迎え入れられると、もはや存続する意義はなくなってしまったのでしょう。

 1896年に設立された白馬会は1911年には解散しており、上杜会のメンバーが入学した頃は存在していませんでした。ところが、教授陣は全員、創立時からの会員だったのです。創設以来、西洋画科を指導したのが黒田氏ですから、当然といえば当然のことなのですが、西洋画科の教育方針全般に黒田氏の影響が及んでいるのは明らかでした。

 そもそも、西洋画科の教官はそれぞれ、どのような経緯で採用されたのでしょうか。上記5人のうち、3年次以降の指導を担当した藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の就任経緯

 三者は同校に西洋画科が新設されると、黒田清輝から推薦されて、教官に就任していました。なぜなのでしょうか。その経緯についてざっと調べてみました。

 たとえば、藤島武二氏の場合、黒田氏の推薦を得て、1896年、東京美術学校の助教授に就任しています。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8660.html

 岡田三郎助氏も同様、黒田氏に推薦されて、1896年に東京美術学校西洋画科の助教授に就任しました。ところが、翌年、文部省派遣留学生として渡仏し、1902年に帰国しています。しかも、在仏中は、黒田清輝氏が師事したラファエロ・コランの指導を受けていました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8504.html

 和田英作氏の場合、曾山幸彦氏や原田直次郎氏に学んだ後、天真道場で黒田清輝氏や久保桂一郎氏から、西洋画の指導を受けていました。そして1896年、藤島や岡田と同様、黒田氏に推薦され、東京美術学校の助教授に任命されましたが、早々に教官を辞め、学生として西洋画科に入学し直しています。和田氏自身、助教授として西洋画を教えるにはまだ力量不足だと判断したのでしょう。

 翌年7月に卒業すると、改めて、西洋画科の助手に採用されました。それでもまだ研鑽を積む必要があったのでしょう、今度は1899年、文部省派遣留学生となって渡仏し、やはり、ラファエル・コランに師事しています。そして、1902年に帰国すると、東京美術学校の教授に任命されました。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8932.html

 このように、三者はいずれも、黒田清輝氏から推薦され、新設された西洋画科の教官として着任していました。そのうち岡田氏と和田氏は、就任後早々に、相次いで渡仏し、黒田氏が師事したラファエル・コラン氏から薫陶を受けていたのです。

 教官採用の経緯といい、教育内容の方向性といい、黒田清輝氏の意向で西洋画科の教育指導体制が基礎づけられていったことがわかります。黒田氏は、ラファエロ・コランの下で学んだアカデミズムを楚とし、西洋画の教育指導体制を構築しようとしていたのです。

こちら → https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/kuroda.html

 黒田氏は留学して学んだフランス・アカデミズムの方針に基づき、日本の西洋画教育の体制を整備していきました。

 採用して間もない岡田氏や和田氏を、ラファエロ・コラン氏の下で学ばせ、指導力の強化を図るとともに、相互交流を深めました。多くの若い才能を育てる一方、日本の洋画界を牽引していきました。

 黒田氏は、洋画界が辛酸をなめていた時期に、東京美術学校西洋画科の指導者として登場し、瞬く間に西洋画教育の基礎を築き、その後の洋画勃興の気運を作りました。黒田氏の行政手腕とその力量には感嘆せざるをえません。

 そもそも1887年に東京美術学校が開設された当初、西洋画科は設置されていませんでした。それがなぜ、1896年に西洋画科が新設されることになったのか。なぜ、黒田清輝氏がその陣頭指揮を執るようになったのか。その経緯をざっと振り返っておくことにしましょう。

■黒田清輝氏らの帰国と明治美術会

 1893年7月、黒田清輝氏と久米桂一郎氏はほぼ10年ぶりにフランスから帰国しました。近代化を推進しようとする社会的気運の高まる中、東京美術学校には依然として西洋画科はなく、日本画中心の教育体制のままでした。

 帰国した黒田氏らは、山本芳翠氏から譲り受けた画塾を天真道場と改称し、フランス留学で得た技術や知識、画法などを指導していました。

 興味深いのは、その教育指針に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」という規定を設けたことでした。

 つまり、描画教育の基礎として、塑像(石膏像)や活人(裸体)をモチーフに素描することを課していたのです。さらに、素描に使う画材も木炭を使用させ、細部の丁寧さよりも全体的な効果を重視する指導方針を取っていました(※ 田中淳、「黒田清輝の生涯と芸術」)。

 素描のモチーフといい、画材といい、黒田氏は、フランスで学んだアカデミズムの思想に基づいて指導に当たっていたのです。

 その一方で、帰国後早々、当時、唯一の洋画の美術団体であった明治美術会にも所属しています。明治美術会から期待されていたこともありますが、黒田氏自身も所属する必要性を感じていたのかもしれません。

 以後、黒田氏は滞欧時に描いた作品を次々に発表していきます。

■黒田清輝氏の「朝妝」

 たとえば、1894年、明治美術会第六回展に、黒田氏は「朝妝(ちょうしょう)」を出品しています。帰国する前に描かれた作品で、鏡の前に立つ裸婦像です。この時、明治美術会の画家たちに衝撃を与えましたが、別段、騒がれることもありませんでした。


(太平洋戦争時に、焼失)

 裸体のまま鏡の前に立ち、身支度する女性が描かれています。鏡を配することによって、後ろ姿と前姿の両方を示される構図になっています。画面中央左寄りに、後ろ姿の女性の裸身が見えます。腰をややひねってポーズを取る立ち姿が圧巻です。うっすらと赤味を帯びた白い肌が情感豊かに描かれています。

 一方、鏡には女性の前姿が映し出されています。陰になっているせいか、やや暗い色合いで描き分けられており、朝の光を意識した筆触が印象的です。

 翌1895年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に、黒田氏は再び、この「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受賞しました。優れた技だと評価されたのです。

 実際、この作品は1893年、Société nationale des beaux-arts(国民美術協会)主催のサロンで、日本人ではじめて入選した作品でもありました。黒田氏にとっては、渡仏してラファエロ・コランに師事し、10年に及ぶ学習成果の一つといえるものだったのです。

■明治美術会からの脱会と白馬会の創設

 ところが、この作品をめぐって騒動が起きたのです。一般大衆が作品を鑑賞する博覧会に、裸体画を展示するとは何事かというジャーナリズムからの批判でした。当時の新聞各紙が一斉に、この作品は風俗を乱すものだと非難したのです。これが黒田氏の作品への印象を方向づけたといっても過言ではないでしょう。

 1895年10月、明治美術会の第7回展が開催され、黒田氏は滞欧時に制作した作品21点を出品しました。久米桂一郎氏や天真道場で学ぶ画家たちもそれぞれ渾身作を出品しました。一覧しただけで、誰もが、明治美術会に所属するこれまでの西洋画家の作品とは大幅に異なることがわかるものでした。

 新聞各紙はこぞってその違いを新旧洋画家の違いだと書きたてました。ジャーナリズムが、黒田氏らを新派、明治美術会の画家たちを旧派だとレッテル張りをしたのです(※ 田中淳、前掲)。

 一旦、このようなレッテル張りをされたら最後、その後の洋画作品はどれも、そのフレームワークで見られるようになりがちです。その結果、フレームワークによる差異が強調され、

 案の定、このときの各紙の報道が洋画界の対立構造を顕在化しました。これを契機に1896年6月、黒田氏と久米氏らは明治美術会を脱会し、有志と白馬会を結成することになったのです。

 黒田清輝氏らが率いる白馬会は、若手画家たちの共感を集め、明治後半の洋画界の主流となっていきました。

■西洋画科の創設

 白馬会が結成されたのが1896年6月でした。東京美術学校に西洋画科と図案科が新設されたのはその3か月後の9月ました。創設の経緯はおおよそ次のようなものでした。

 当時の校長、岡倉天心氏は美校の教育環境を整備するため、帝国議会に「美術学校拡張法案」を提出しました。それが修正されて可決されたのが、1895年3月でした。その修正案は、「今後、日本美術と西洋美術をともに奨励するという方針のもとに美校を拡張する」という内容で、天心の意図とは異なるものでした(*吉田千鶴子「東京芸術大学」、2013年10月)。

 法案が可決されると、当時の文相・西園寺公望氏は直ちに、黒田清輝氏と久米桂一郎氏を指導者に選び、西洋画科の教育を任せました。中心になって指導に当たったのが黒田清輝氏でした。教育の骨子を練り上げ、教官を採用し、カリキュラムを制定していきました。1896年は、明治後半の洋画界を牽引する人物として黒田氏が抜擢され、活躍を開始した年だったのです。

 先ほどもいいましたように、黒田らフランス留学経験者は、既存の洋画家たちの団体である明治美術会(脂派)とは馴染みませんでした。だからこそ明治美術会を離れ、白馬会を結成したのです。そのような経緯を思い起こせば、西洋画科の教官として、白馬会創立メンバーから選んだのはしごく当然のことでした。

 上杜会のメンバーが東京美術学校に在籍していた時、教官は皆、白馬会の創設メンバーでした。しかも、全員が黒田清輝氏の推薦で採用されていました。そのカリキュラムもまた、黒田氏がラファエロ・コランから学んだアカデミズムに則ったものでした。こうして官立の西洋画教育が整備され、明治後半の西洋画界を牽引していくことになるのです。

 それでは、ふたたび展示会場に戻り、上杜会のメンバー在籍時の教授陣の作品を振り返ってみることにしましょう。

■藤島武二氏、岡田三郎助氏、和田英作氏の裸婦像

 「序―1」のコーナーでは、教官5人の作品7点が展示されていました。どういうわけか、藤島武二氏が3点、それ以外が各一点という具合です。興味深いことに、7点のうち2作品が裸婦像でした。藤島武二氏と岡田三郎助氏の作品です。

 見ているうちに、ふと、大正時代になると、もはや裸婦を画題にしても騒がれなくなったのかと不思議に思いました。藤島氏の作品は制作年不詳ですが、岡田氏の作品は1926年の制作です。

 1895年には黒田氏の作品「朝妝」は裸体画だと非難され、大きな騒動になりました。その後、白馬会第二回展に出品された黒田清輝氏の作品「智・感・情」(1897年)もまた、裸婦像を描いたとして物議をかもしました。当時は、風紀を乱すという観点から芸術作品が批判されていたのです。

 あの大騒動から30年以上も経つと、人々は裸婦像を見ても気にならなくなったのでしょうか、それとも、見慣れて問題にしなくなったのでしょうか。

 とりあえず、藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)、岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)を見ていくことにしましょう。

■藤島武二氏の「裸婦」(制作年不詳)

 当時の教官5名の作品が展示されていたコーナーで、藤島氏だけが3作品、展示されていました。「帽子の婦人像」(1908年)、「鉸剪眉(こうせんび)」(1927年)、そして、「裸婦」(制作年不詳)です。

 以前、藤島武二展に出かけたことがあります。そのときに展示されていた諸作品を思い起こすと、「帽子の婦人像」や「鉸剪眉」はいかにも藤島武二氏らしい画風の作品だといえます。

 ところが、「裸婦」は、藤島氏がこんな作品も描いていたのかと意外に思ってしまうほど、典型的な画風ではありませんでした。


(油彩、カンヴァス、63.0×51.0㎝、佐賀県立美術館)

 裸婦像とはいいながら、この作品の場合、まず、油彩ならではの荒削りな筆触に目がいってしまいます。パレットナイフで厚く絵具を置き、その上から荒く削り、さらに色を載せては下色を残しながら、削っていく・・・、そのような作業の繰り返しが、作品に独特の風合いを添えています。

 どことなく、青木繁氏の画風に似たものを感じさせられます。

 頬や脇、乳房、腰から腿にかけて、サーモンピンクが大胆に散らされています。そのせいか、ラフなタッチの中に柔らかで艶やかな肌、コケティッシュな女性の情感を感じさせられます。写実的に描かれるよりもはるかに深く、この女性の内面が表現されているといえるでしょう。

 画面の女性は正面から堂々と、裸身を見せています。やや首をかしげ、恥じることなく、腰をひねった姿勢がなんとも印象的です。全身から、やるせなさ、けだるさ、倦怠感といったようなものがにじみ出ています。当時の日本人女性には稀な興趣が感じられます。

 だからといって、西洋人女性とも思えません。この女性の肩幅は狭く、腰回りもそれほど大きくありません。西洋人女性らしい雰囲気を漂わせているのに、身体つきはそうではないのです。おそらく、西洋文化に馴染んだ日本人女性なのでしょう。

 西洋の雰囲気をまとった日本人女性の裸身が、独特の筆触と豊かな色彩で表現されているところに、この作品の妙味があります。

 一方、岡田三郎助氏の作品は、日本人女性らしい身体特性を備えた裸婦像でした。

■岡田三郎助氏の「裸婦」(1926年)

 藤島氏と同じコーナーに、岡田三郎助氏の「裸婦」が展示されていました。きめ細かなタッチで描かれた裸婦像です。柔らかく、しっとりとした肌にはいかにも日本的な風情が感じられます。


(デトランプ、カンヴァス、53.0×33.0㎝、1926年、ひろしま美術館)

 この作品は、カンヴァスにデトランプで描かれたようです。「デトランプ」という聞きなれない言葉が書かれていたので、調べてみました。すると、これは岩絵の具をポリビニール溶液に混ぜた画材で、比較的早く乾く性質があることがわかりました。

 さて、この作品では、裸婦といいながら、女性の後ろ姿が描かれています。丸味を帯びた肩、平たい臀部からは明らかに日本人女性だということがわかります。凹凸に欠けた裸身で、しかも後ろ姿ですから、どちらかといえば、印象に残りにくい作品です。ただ、この作品を見たとき、私はきめ細かな肌の美しさに強く引き付けられました。

 岡田氏はおそらく、日本人女性特有のきめ細かな肌をどのように表現するか、思案し、工夫を重ねたのでしょう。その結果、しつこさを払拭しきれない油彩ではなく、デトランプを使ったのではないかという気がします。色彩の混合を工夫するだけではなく、材質、技法などを変えて、裸婦像の表現に挑んだのです。

 ただ、残念ながら、この作品には観客の心を射抜く突き抜けたものが感じられませんでした。おそらく、岡田氏自身、そう感じていたのではないかと思います。というのも、この作品を発表した翌年、「あやめの衣」(1927年)を制作しているのです。


(油彩・厚紙、カンヴァス、1927年、ポーラ美術館)

 こちらは裸身ではなく、肩肌を脱いだ女性の後ろ姿ですが、先ほどの裸身よりもはるかに妖艶で、惹きつけられます。

 油彩画は通常、麻布のカンヴァスの上に油絵具を載せます。ところが、この作品の場合、岡田氏はカンヴァスの上にクラフト紙を置いて、その上に油絵具を載せているのです。そうすることによって、クラフト紙が油を吸収し、油絵具独特の光沢がなくなり、落ち着いた色合いになります。

 この技法を、岡田氏はフランス留学中に知ったといいます。

 日本人女性の肌、着物の質感などをリアルに表現するには油絵具は強すぎて、柔らかなニュアンスを表現するのが難しいのですが、このようにクラフト紙を介在させることによって、その難点を低減させることができます。

 興味深いことに、岡田氏は「裸婦」ではデトランプを使い、「あやめの衣」ではクラフト紙を使って油彩特有のテカリを抑えています。ひょっとしたら、岡田氏は油彩で日本人女性を表現することになにがしかの抵抗感をおぼえていたのではないかという気がします。

 ちょっと調べてみました。

 岡田氏は1897年から1902年にかけてフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事していました。コラン氏からは、ホルバイン、レンブラント、ボッチチェリなどの絵を模写するよう指導されていたといいます。

 ルーブル美術館に通って毎日、模写に励みながら、岡田氏は次第に、諸作品に反映された西洋文化の厚みに圧倒されてしまったそうです。模写しながら、日本人である自分はどのような絵を描いていこうかと悩んだといいます。ようやく辿り着いた先が、西洋と日本とが融合した絵でした。

 帰国後、洋画の技法を使って、着物姿の女性を描いていきました。「あやめの衣」は西洋文化と日本文化の融合した作品だといえるでしょう。岡田氏の傑作です。

■和田英作氏の「こだま」(1903年)

 「わが青春の上杜会」展に展示されていたのは、藤島氏と岡田氏の裸婦像でした。和田氏にも裸婦像はないかと調べてみたところ、実は、和田英作氏も裸婦像を描いていることがわかりました。

 和田氏は1900年にフランスに文部省留学生として渡仏し、アカデミイ・コラロッシに在籍してラファエル・コラン氏の指導を受けました。その留学中に制作した裸婦像が、「こだま」と題された作品です。


(油彩、カンヴァス、126.5×92.0㎝、泉屋博古館)

 薄暗い森の中で、大きく目を見開き、両手を両耳に当てた姿がなによりも印象的な作品です。人気のない森の中で、何かが木霊しているのでしょうか。描かれた女性の顔面からは、どことなく不安感がにじみ出ています。

 片腕にまとった薄衣は下半身を覆っていますが、上半身は裸身です。通常なら、観客の視線は身体に引き寄せられるのでしょうが、この作品の場合、両手と顔面に向けられてしまいます。なんといっても、この顔面と耳に手を当てた所作とが気になります。

 見ているうちに、ふと、ムンクの「叫び」を連想してしまいました。


(油彩、カンヴァス、91×73.5㎝、オスロ国立美術館)

 描かれた人物が男性なのか、女性なのか、若いのか老いているのか、基本的な属性すらわかりません。何かに怯えているかのように、耳を両手で塞ぎ、大きく口を開けています。髪の毛がないせいか、不安、恐怖、怯えといった情動がことさらに強調されています。

■「こだま」と「叫び」

「こだま」と「叫び」を見比べてみました。目を大きく見開き、両手を耳に当てているところが共通していますが、ムンクの作品の場合、不安感ばかりか恐怖心までも強く伝わってきます。遠景の赤い空、中景から近景にかけて流れるように落ちてくる黒い濁流のようなものが、手前の人物の恐怖心や不安感を強調しているからでしょう。独特の筆触と色彩とで創り上げられた心象風景です。

 一方、和田氏の作品の場合、両手は耳を塞いでいるのではなく、耳の後ろに当てて、何かを聞き取ろうとしているように見えます。作品タイトルから推察すれば、木々の間で微かに「こだま」する音を聞き取ろうとしているのでしょうか。この作品から不安感は感じられますが、恐怖心は感じられません。

 さて、「こだま」で描かれている裸婦は、顔貌といい、身体つきといい、明らかに西洋人女性です。留学中に描かれた作品なので、当然のことですが、その背景と裸婦の表情とに整合性がみられず、違和感が残ります。

 薄暗い森の中で、半裸で佇む女性を描いても、なんら不思議はありませんが、なぜ、両手を両耳に当てているのか、なぜ、大きく目を開き、口を半開きにしているのか、モチーフの表情と所作が意表を突くものであっただけに、気になりました。しっくりこないのです。

 これが抽象的な描き方なら、別段、不思議に思うこともなかったのでしょうが、リアリズムの手法で描かれていたせいか、違和感を覚えました。

 とくに両手を両耳に当てるという所作が強烈で、ムンクの作品を連想せずにはいられません。二番煎じのそしりを免れないという気がするのです。

 ちなみに、「叫び」が発表されたのが1893年、ムンクの日記によると、自身が感じた幻想を踏まえて描かれた作品だといわれています。

 一方、和田氏が渡仏したのは1900年3月で、以後、1903年7月に帰国するまで、アカデミックな洋画技法を学び、創作活動も展開していました。当然のことながら、1893年に制作されたムンクの「叫び」は知っていたでしょう。

 和田氏がこの作品に接したとき、大きく心を動かされたのではないでしょうか。当時、ラファエル・コランから学んでいたのはアカデミックな画法でした。それだけに、内面を重視したムンクの表現主義的な技法に惹かれるものがあったのではないかという気がします。

 1903年に帰国すると、和田氏は第5回内国勧業博覧会に「こだま」を出品し、2等賞を受賞しています。その後、1927年に開催された明治大正名作展では、「こだま」が展示されました。当時の日本社会では、一風変わったこの裸婦像が評価されていたことになります。

■裸体画は西洋画の基本

 岡田三郎助氏、和田英作氏は共にフランスに留学し、ラファエロ・コラン氏に師事しました。一方、藤島武二氏は、彼らよりも遅く、1904年に文部省の命を受け、渡欧しています。パリでは私塾に通った後、エコール・ボザールで学び、歴史画や肖像画で名を馳せたフェルナン・コルモンから薫陶を受けました。

 1907年12月にフランスでの滞在を終えた藤島氏は、次にコルモンの紹介で肖像画を得意としていたカロリュス・デュランに師事し、1910年1月に帰国しました。ローマに滞在することによって、ルネサンス期の美術に触れることができ、古代ローマの遺跡を訪ねることもできました。ラファエロ・コラン氏に師事した岡田氏や和田氏とはまた違った美術体験をしていたのです。

 ちなみに、フェルナン・コルモン氏は「海を見る少女」(油彩、カンヴァス、123.0 ×155.0㎝、1882年)という裸婦像を残していますし、カロリュス・デュラン氏も「アンドロメダ」(油彩、カンヴァス、210.0×95.0㎝、1887年頃)というタイトルの裸婦像を描いています。いずれもリアリズムの手法で描かれており、大作です。

 両氏に師事した藤島氏も留学中に、何点か裸体画を描いています。素描であったり、習作だったりするのですが、女性に限らず、男性も、さまざまなポーズで描かれており、西洋画では、裸体を描くことが人物画を習得するうえでの基本だったことがわかります。

 東京美術学校の西洋画科を主導した黒田清輝氏は裸婦像を発表するたび、一大騒動を巻き起こしました。それでも敢えて発表し続けたのは、裸体を描くことが西洋画の基本だったからでした。

 興味深いことに、黒田氏の弟子筋に当たる藤島氏、岡田氏、和田氏の裸婦像については別段、問題視されてはいませんでした。時代が変化したからなのか、観客の意識が変化したからなのかはわかりません。いずれにしても、黒田清輝が巻き込まれた数々の騒動を思い起こせば、創作者は常に変革者であり、そして、世間から非難を浴びる存在なのだということを思い知らされます。(2020/12/27 香取淳子)

「わが青春の上杜会」にみる同窓の力

■「わが青春の上杜会」開催

 神戸市立小磯記念美術館で、いま、「わが青春の上杜会」展が開催されています。開催期間は2020年10月3日から12月13日までなので、関西に出かけたついでに立ち寄ってみました。

 阪神電車の魚崎駅で六甲ライナーに乗り換え、アイランド北口駅で下車すると、すぐでした。六甲アイランド公園を神戸市立小磯記念美術館に向かって歩いていると、「わが青春の上杜会」展のポスターが掲示されていました。

 

 下っていくと、右側に瀟洒な建物が現れてきました。これが小磯記念美術館です。

 この美術館は、神戸で生まれ、神戸で制作を続けた画家・小磯良平氏を記念し、神戸市が1992年に設立したものです。

 小磯氏は1988年12月に亡くなりましたが、その翌年、遺族から、油彩・素描・版画などの約2000点の作品とともに、アトリエや蔵書、諸資料が神戸市に寄贈されたといいます。神戸市はそれらの作品をただ保存するだけではなく、さらに作品の収集に努め、現在、約3200点もの作品を所蔵します。そのような経緯を知ると、この美術館が、「神戸市立小磯記念美術館」と命名された理由がわかります。

 美術館の中庭にはアトリエが移築されていますから、そこで、小磯氏の制作情景を偲ぶことができます。作品を鑑賞するだけではなく、作品を生み出した場所を見て、作品化の過程を追うことができるのです。芸術を鑑賞する醍醐味を徹底的に味わうことができるのです。

 美術館は年に数回、展覧会を開催して、作品の入れ替えを行っています。その上、小磯良平氏に関する特別展も開催しています。今回の展覧会「わが青春の上杜会」はその特別展の一環でした。

 それにしても、「上杜会」というのは、どういう意味なのでしょうか。最初、聞きなれない言葉に戸惑いました。サブタイトルが「昭和を生きて洋画家たち」となっていますから、昭和に活躍した洋画家たちの作品が展示されるのだろうということはわかりますが、それ以外は皆目わかりません。

 パンフレットを見ると、「上杜会(じょうとかい)は、東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”と称された1927年卒業生が、若き情熱を持って結成した美術団体です」と書かれています。これで、「上杜会」が美術団体の名前だということがわかりました。

■上杜会とは

 その後の説明を読み、「上杜」が、東京美術学校(現在;東京芸術大学)のあった「上野の杜(森)」にちなんで名づけられたことがわかりました。つまり、東京美術大学西洋画科を1927年に卒業した人たちのグループ名だったのです。

 パンフレットには、「東京美術学校始まって以来の“秀才揃い”」と書かれています。どうやら、その秀才たちが互いに刺激し合い、しのぎを削り合って、力を向上させていったようです。

 神戸市立小磯記念美術館の高橋佳苗氏は、小磯良平氏の次のような言葉を紹介しています。

 「油絵(科)はよう勉強した。好きで好きでしょうない連中ばっかりや。自分の技術は生半可なくせして、理想が高いからお互いに容赦せん。なんちゅうたかて、友だちの影響は大きい」(図録『わが青春の上杜会』、p.24)

 小磯氏が懐古していたように、当時、西洋画科の学生たちは、とてもよく勉強したようです。絵が好きでしょうがないから、制作技法にしろ、題材にしろ、議論し合い、遮二無二勉強したのでしょう。

 小磯氏の言葉からは、秀でた能力を持つ若者たちが理想を高くかかげ、切磋琢磨し合いながら、創作に励んでいた様子がうかがえます。

 小磯氏が「友だちの影響は大きい」と指摘していたように、優秀な学生たちは容赦なく相手の作品を批判しました。批判された側は、それに発奮してさらに努力するといった具合で、制作のための好循環が生まれ、メンバーの能力が飛躍的に向上していったのでしょう。

 それを証左する事例があります。

 東京美術学校に1922年に入学した学生たちは、当時もっとも権威のあった「帝国美術院美術展覧会(帝展)」に、次々と出品していました。

 たとえば、小磯氏は、先に帝展に入選した同級生たちから刺激を受け、1925年の第6回帝展で初入選し、1926年の第7回帝展で特選を獲得しました。その小磯氏の刺激を受けて、第7回帝展に猪熊弦一郎氏、矢田清四郎は入選といった具合でした。

 このように華々しい活躍を展開する同級生たちは、互いのつながりこそが創作の源泉になることがわかっていたのでしょう、卒業の一年前に、美校中退者や留学生を含め44人の同級生によって「上杜会」が結成されました。

 青春の真っ只中で結成されたクリエイティブ集団でした。入学した1922年から卒業の1927年までの間、彼らは相互に刺激を受け合いながら学び、創作家としての孵化期間を過ごしていたのです。

■展覧会の構成

 展覧会は、「上杜会」の結成を序とし、その後のメンバーの活躍を、①昭和2年から昭和11年(1927-1936)、②昭和12年から昭和20年(1937-1945)、③昭和21年から平成6年(1946-1994)の三部構成で組み立てられていました。

 同窓で切磋琢磨し合った若者たちが、上杜会を結成しました。メンバーがその後、どのように才能に磨きをかけ、それぞれの人生を切り開いていったのか、折々にどのような作品を残していったのか等々、長いスパンで画家の人生と作品を把握できる構成になっていました。

 上杜会のメンバーが、どのような人生行路を歩んできたのか、大きな時代の節目で創作家としてどう対処し、どのような作風を築き上げていったのか、同窓という観点から構成されていたので、作品をさまざまな観点から、立体的に鑑賞することができ、とても興味深い企画でした。

 展示作品を一覧して、惹かれたのは、小磯良平氏、猪熊弦一郎氏、犬丸順衛氏、牛島憲之氏、高野三三男氏、岡田謙三氏、矢田清四郎氏などの作品でした。このうち、最も若くして亡くなったのが、犬丸順衛氏(1903-1939)で享年35歳でした。最も長寿だったのが、牛島憲之氏(1900-1997)で97歳です。

 同窓でありながら、寿命という点では60年以上の開きがあるのです。

 興味深いことに、美校在籍時は両者とも、岡田三郎助教室に所属していました。青春の一時期、共に濃密な時を過ごしたというのに、一方は早く世を去り、他方は東京芸術大学で後進を指導したばかりか、1983年には文化勲章まで受章しています。運命を感じずにはいられません。

 まず、この両者の作品から見ていくことにしましょう。

■犬丸順衛:「永眠―父市郎次」

 会場でこの作品を見たとき、とても印象深く、しばらく佇んで見ていました。死に顔が描かれているというのに、不思議なほど穏やかに、しかも、尊厳を持って描かれているように思えたからでした。

(油彩、カンヴァス、50.5×60.4㎝、1926年)

 目を閉じた顔になんら迷いはなく、苦しみも感じられず、ひたすら静謐感が漂っています。しかも、額と顔の右側が明るく描かれているせいか、光に包まれて、安らかに昇天している途中のようにも見えます。柔らかな光の下、威厳を失わず、ただ眠っているだけのように描かれているところに、父を慕い、敬う犬丸氏の気持ちが透けて見えます。

 父が旅立ったのは、犬丸順衛氏が23歳、美校の最終学年を迎える年でした。

 絵筆を走らせながらも、静かに永遠の別れを受け入れようとしていたのでしょう。この作品には、悲しみを乗り越えようとする犬丸氏の悟り、あるいは、達観といったようなものが感じられます。心の奥深く語りかけてくるような作品でした。

■牛島憲之:「炎昼」

 会場でこの作品を見たとき、対象の捉え方になんともいえない斬新さを感じました。

(油彩、カンヴァス、121.0×60.5㎝、1946年)

 モチーフすべての境界が曖昧で、朦朧としており、捉えどころがありません。画面いっぱいに描かれた蔓性の植物がいったいどこから生えてきて、どこまで伸びているのかもわかりません。ぶら下がった白い実も同様、まるで周囲の空気に溶け込んでいるかのようにぼんやりと描かれています。

 一方、後ろの方に見える電柱は淡い色彩で描かれていますが、境界がはっきりしているので、小さくても存在感があります。遠方の小さな電柱が、大きく描かれた蔓性の葉と実と拮抗するパワーを持っているのです。

 この作品では全般に、近景のモチーフは大きく描かれているのですが、境界が曖昧で、色彩のコントラストも低く、存在感は希薄です。遠景のモチーフも周囲との色彩のコントラストは決して高いとはいえません。

 ところが、境界がはっきりと描かれているので、視認性が高く、存在感があります。そのせいか、なんの変哲もないモチーフなのに、ストーリー性が感じられます。全体にぼんやりとした色調の中で、近景と遠景のモチーフの描き分けに妙味があります。

 これは1946年、牛島氏が46歳の時の作品です。色合いといい、構図といい、なんともいえない魅力があって、長く見続けていても飽きることがありませんでした。見たものをそのまま描くのではなく、いったん内省化し、改めて作者の観点から組み立て直して、表現しているところに創意が感じられるからでしょう。

 細い線を部分的に取り入れることによって、独特の雰囲気を醸し出している作品がありました。洗練された雰囲気に惹かれました。岡田謙三氏の作品です。

■岡田謙三:「窓辺(ノクターン)

 窓辺で女性が二人、座っています。左側の女性は目を閉じ、肩ひじを窓枠に乗せ、何かに聞き入っているようです。ノクターン(夜想曲)でも聞いているのでしょうか。右側の女性は今にも立ち上がって、踊りだしそうです。

(油彩、カンヴァス、193.8×145.5㎝、1948年)

 この作品を見て、まず気づくのは、随所に細い線を書き込み、モチーフに動きと表情を加えていることです。

 左側の女性の傾いた頭部、そして、右側の女性の片側のフェイスライン、細い線を描き込んだだけで、その場の状況や顔の表情、感情までも表現できています。衣服や身体についても同様、細い線を要所、要所に描き込むだけで、身体の動きや構造、衣服の質感を表現することができています。

 不透明な淡い色調の画面からは、二人の女性が窓辺で過ごす午後のけだるさが伝わってきます。都会的な物憂さと繊細さが表現されています。

 これは1948年、岡田謙三氏が46歳の時の作品です。

 岡田氏は東京美学校を中退し、パリで学んでいます。そう言われて見ると、画面の色調といい、モチーフといい、いかにもフランス的なシャレた感覚が画面全体に満ち溢れています。

 この岡田氏を誘って1924年、共に中退してパリに遊学したのが高野三三男氏でした。彼もまた日本人画家には見られない作風の作品を手掛けています。

■高野三三男:「人形を持ったパリジェンヌ」

 金髪の女性が目を閉じ、赤いマニキュアを塗った指で人形を軽くつかんでいる様子が描かれています。いかにもパリジェンヌといった感じの、優雅でオシャレな女性です。

(油彩、カンヴァス、65.5×4.5㎝、1924-50年)

 全体に淡い色調でまとめられている中で、女性の真っ赤な口紅、金髪の巻き毛がひときわ目立ちます。典型的な西洋の女性美が描かれているのです。1924年から40年にかけて制作されたことになっていますが、おそらく、パリに出かけたときに描き始め、完成させたのが、その十数年後ということになるのでしょう。

 なぜ、そう思うのかといえば、高野氏が1937年に制作した「ヴァイオリンのある静物」の中で描かれた女性が、この「人形を持ったパリジェンヌ」で描かれた女性とそっくりなのです。金髪巻き毛の様子、真っ赤な唇、長いまつげ、透明感のある肌といった要素が驚くほど似ています。ということからは、高野氏がパリジェンヌという女性像をこのころに完成させたことが示されています。

 この作品で描かれているのは、都会的で、ちょっと傲慢なところがある一方で、完璧な美しさを心掛けるという女性の類型です。「人形を持ったパリジェンヌ」は、画面全体が淡い色調で収められているせいか、都会的で、洗練された優雅さが感じられ、惹かれます。

 パリに長く滞在していなければ、決して、このような作品を描くことはできないでしょう。この作品から浮き立ってくるのが、典型的な西洋の女性美の一つでした。

 一方、昭和初期の日本の女性美を過不足なく描いたのが小磯良平氏でした。

■小磯良平:「T嬢の像」

 第7回帝展で小磯氏が特選を獲得したのが、「T嬢の像」でした。

(油彩、カンヴァス、116.8×91.0㎝、1926年)

 着物を着た女性が手を組み、椅子に座っています。視線は窓の外に向けられ、何かに思いを馳せているように見えます。肌の艶、手指の繊細な表現、着物の質感など、見事な表現力です。華奢な女性が醸し出す嫋やかな風情、憂いを含んだちょっと寂し気な表情などが丁寧に捉えられています。日本の女性美の典型の一つといえるでしょう。

 これは小磯氏が23歳の時の作品です。上杜会のメンバーで、最も早く帝展に入選したのは永田一脩と中西利雄でした。小磯氏は彼らの刺激を受けて発奮し、第6回帝展で入選しました。ですから、入選した翌年に特選を受賞したことになります。小磯氏は、藤島武二教室に所属していました。

 小磯氏が特選を受賞した1926年に帝展に初入選したのが、猪熊弦一郎氏の「婦人像」と矢田清四郎氏の「足拭く女」でした。藤島武二教室の猪熊弦一郎氏が24歳、岡田三郎助教室の矢田清四郎氏は26歳でした。上杜会のメンバーが次々と入選していたのです。

 それでは、両者の作品を見ていくことにしましょう。

■矢田清四郎:「足拭く女」

 珍しく、裸婦像です。一見、模写かと思いました。

(油彩、カンヴァス、116.7×90.9㎝、1926年)

 それほど当時の日本人女性には珍しく均整の取れた体つきでした。そのポーズも日本人らしくありません。

 左腕を椅子の縁に置いて身体を支え、右手で足裏を拭いています。日常生活で見かける光景ですが、そこに意図しない美しさがにじみ出ています。足裏を掴んだ腕と身体の側面が三角形を型作り、安定感と適度な揺らぎのある構図になっています。

 左上の壁には小さな鏡が掛けられており、女性の後頭部と肩の一部が映っています。こもモチーフを加えることによって、空間の広がりと奥行きを感じさせるだけではなく、メインモチーフを生活実態のある女性像に仕上げる効果を生んでいます。

 背後に鏡を設定することによって、うつむき加減の女性の表情が、ことさらに印象づけられるからでしょう。そして、想像力がかきたてられます。バランスの取れた構図で品よくまとまっており、ありふれたものの中に見出された美しさとでもいえるようなものが感じられました。

■猪熊弦一郎:「馬と裸婦」

 猪熊弦一郎も1926年、「婦人像」で帝展に入選しました。ところが、その作品は今回の展覧会で展示されていませんでした。ネットで見ると、どうやら裸婦像のようです。そこで、展示作品の中から猪熊氏の裸婦像を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、182.3×291.5㎝、1936年)

 これは、猪熊氏が最初に帝展に入選してから、10年後の作品になります。ネットで見た「婦人像」とは肌の色合いもポーズも異なりますが、リアリズムではない点で、作品の雰囲気は似ています。

 猪熊氏は藤島武二教室に所属していましたが、入学して早々に、肋膜を患い、休学をしていました。1926年に第7回帝展に初入選を果たしますが、その後、再び病状が悪化し、1927年には中退しています。

 それでは、「馬と裸婦」を見てみましょう。

 立っている裸婦と横たわっている裸婦が二人、前景に描かれています。身体に明るいサーモンピックがあしらわれているせいか、若々しく見えます。その背後には、馬が2頭、こちらに顔を向けているものとお尻を見せているものが描かれています。いずれもデフォルメされており、猪熊氏独特のフィルターを通した造形になっています。

 この作品を見てまず、目につくのは、立っている裸婦です。大きな乳房の片方は垂れ下がり、脛よりも長い太腿は太く、がっしりとしています。体形からいえば、日本人女性に見えます。

 黒い髪のおかっぱ頭で、意思の強そうな顔つきです。両手を腰に添え、恥じることなく堂々と裸体を曝して遠方を見据える姿からは、新時代の女性像を象徴しているように見えます。

 先ほどもいいましたように、猪熊氏は藤島武二教室の所属していました。ところが、上記の猪熊氏の作品は藤島武二氏の画風とは大幅に異なります。なぜなのか、ふと、気になり出しました。

 図録を読んでいると、関連する記述がありました。豊田市美術館の成瀬美幸氏が資料に基づき、次のように書いていたのです。

「デッサンが悪い、デッサンが悪いと言ってすーっと帰られる。(中略)教えないけど教えるような教育、心の教育を、昔の教授はしっかりと持っていました」

(図録『わが青春の上杜会』、p.16)

 どうやら、藤島氏はほとんど指導しなかったようです。これを読むと、藤島氏はおそらく、具体的な制作指導をせず、デッサンや作品との向き合い方など制作にかかわる心構えのようなものだけを伝授していたのでしょう。

猪熊氏の場合、美術学校を中退していますし、この時点ではどこかに留学した様子もありません。おそらく、インパクトの強いこの画風は、猪熊氏が独自に開発したものなのでしょう。とても引き付けられます。

■同窓の力

 上杜会のメンバーは44名でしたが、ここでは、たまたま私が興味を覚えた7作品をご紹介しました。いずれも初期の作品を取り上げました。

 作品をご紹介していく中で気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、上杜会の、家族のような支援機能です。

 最初にご紹介した犬丸順衛氏は、35歳で亡くなっていますが、結核性脊椎カリエスのため郷里に引きこもっていました。そのような順衛に対し、多くの上杜会のメンバーがハガキを随時、書き送っています。親族の犬丸哲朗氏によると、それに刺激され、順衛もいつかはパリに行こうとフランス語の勉強をしていたといいます。

 とくに猪熊弦一郎、小磯良平などは頻繁に順衛にハガキを出していました。病床に伏せながらも、どれだけ心慰められていたことでしょう。順衛は卒業後10年余、養生しながらも絵筆を握って風景などを描いていました。絶筆は水仙を描いた色紙だといいますが、上杜会のメンバーとつながっているという意識が大きな心の支えになっていたに違いありません。

 親族の犬丸哲朗氏は、「順衛は妻帯もせず早逝してしまったが、決して不幸ではなかったよと教えてあげたい」と書いています。(図録『わが青春の上杜会』p.64-66)

 また、上杜会は美術情報の共有、外国生活での便宜供与など、画家として活躍するうえでの支援装置としても機能していたようです。

 たとえば、病気がちだった猪熊弦一郎氏は美術学校を中退します。その後も制作活動を続けていましたが、支えになり、刺激になっていたのは上杜会のメンバーとの交流でした。念願かなって35歳のとき、渡仏し、パリにアトリエを構えることができました。そのときも、頼りになったのが、上杜会のメンバーでした。

 実際、留学経験のある小堀四郎氏は、猪熊氏がパリで学ぶことを知ると、現地での生活の方法、美術館情報など事細かに描いて猪熊氏に送っています。また、パリに着いてから、猪熊氏は、現地で生活していた萩須高徳氏、高野三三男氏などと親しく行き来し、生活の便宜を図ってもらい、美術情報等を得ています。

 おかげで猪熊氏は、憧れのパリで数多くの名画に学ぶことができ、貪欲に制作に励むことができました。そればかりか、戦争の気運が高まる中、藤田嗣治氏に誘われ、早々に疎開し、難を逃れることができました。上杜会のメンバーの伝手で藤田氏とも親交を結んでいたおかげでした。

 戦況が悪化し、疎開しなければならなくなると、メンバーは互いに便宜を図り合いました。そして戦後、様々な苦難を乗り越えてきた彼らに待ち受けていたのは、美術の潮流の大きな変化でした。

 こうしてみてくると、上杜会のメンバーは、卒業してもその繋がりのおかげで励まされ、苦難を乗り越えてこられたのだということを実感させられます。上杜会のメンバーは東京美術学校の中でもきわめて優秀な人材が集まったといわれていますが、ただ優秀なだけではなく、お互いに刺激し合い、繋がり合うことによって、上杜会は、画家としての彼らを支え、創作に励むことができる環境作りに寄与してきたのではないかと思いました。

 長いスパンで上杜会を見てくると、メンバーたちは試行錯誤して制作し、相互に作品をチェックし合って、技術力、創作力を高める場として機能していたことがわかります。そもそも芸術など創作に関わる領域では、基本的なこと以外、学校で指導するのは難しいでしょう。それだけに学生たちにとっては刺激し合える環境が大きな意味を持ったのだと思います。

 この展覧会に参加し、上杜会メンバーの個々の作品を鑑賞できただけではなく、創作環境に必要なものとしての繋がりの場の大切さを思い知らされました。興味深い視点からの企画でした。(2020/11/30 香取淳子)

再構築:大小島真木氏の作品について考える。

■本展示を見る

 練馬区立美術館で開催されていた「Re construction 再構築」は、2020年8月9日から本展示が始まり、9月27日に終了します。

 プレ展示で大木島真木氏の制作現場を見た私は、是非とも本展示に参加したいと思い、彼女のアーティストトークが行われる9月12日に訪れる予定にしていました。心待ちにしていたのですが、コロナ感染予防のためにトークは中止になってしまいました。それを知った途端に、熱意が薄れ、訪れたのは9月15日でした。

 大小島真木氏の作品は、展示室3で展示されていました。多種多様のマテリアル、夥しい量の作品がそれぞれ、情報を発信しており、どこから見ていいのかわからないほどでした。暗い展示空間の中で、圧倒されるような作品世界が広がっていたのです。

 写真撮影が許可されていたので、印象に残ったところを何点か撮影しました。まずは、それらの写真を手掛かりに、大小島真木氏の作品を見ていくことにしましょう。

■展示作品の概要

 入口から入ってすぐ正面に展示されていたのが、この作品です。ここで描かれている大きな木はプレ展示の際、見かけたものです。細部が丁寧に描き込まれており、圧倒されるような迫力があります。近づこうとして、思いもかけず、下の台座に人形が置かれていたのに気づき、驚いてしまいました。

 壁面の大きな木と、下に置かれた人形の両方がフレームに収まるよう、やや低い位置から撮影してみました。

やや低い位置から撮影したゴレム

 人形は木の方に下半身を向けて、横たわっています。上半身は裸で、その上に草花が置かれ、下半身からはいくつもの枝木が生えています。枝はそのまま上に伸びて、背後の大きな木につながるようレイアウトされていました。なんとも異様で、グロテスクでした。

 もっとも、やや引いて見てみると、背景に設置された巨木の絵と調和していないというわけでもありません。暗闇が全てを包み込み、異形のものも何もかも、違和感なく共存させていたのです。不思議な空間でした。

 横たえられた人形は「ゴレム」、その背景に掲げられた大木は「胎樹」と名付けられていました。おどろおどろしい幕開けでした。

 意表を突かれ、私はしばらくこの人形を見つめていました。ふと左手を見ると、壁面に多数の心臓の形をベースにした作品が展示されていました。


Entanglement hearts series

 展覧会のポスターに採用されていたのは、この「Entanglement hearts series」30作品の中の一つでした。私はその絵に引き付けられ、プレ展示を見に来たのでした。とても刺激的な作品でしたが、今回、まとめてこのシリーズ作品を見ました。改めて、一連の作品の素晴らしさに引き付けられました。どの作品もオリジナリティにあふれ、見る者を考えこませる深淵さが秘められていたのです。

 つい、見入ってしまいました。そこからやや右に視点をずらすと、奥の方のショーケースが見え、中に黒いワンピースのようなものが展示されていました。

身体構造図

 近づいて見ると、膝から上の胴体部分に骨と血管が描かれています。奇妙なオブジェでしたが、ヒトの身体を構造的にみようとすれば、必要になってくる造形物なのかもしれません。

 そのショーケースの隣側に黒幕があり、矢印が付けられていたので、中に入ってみました。すると、ボディが一つ置かれており、その上にプロジェクションマッピングされた映像が、目まぐるしいほどに変化しながら映し出されています。「ウェヌス」と名付けられた作品でした。


ウェヌス

 ここは完全に真っ暗な空間でした。映像だけが刻々と変化して、ボディに映し出されていきます。暗闇なので、視線はボディに固定せざるをえず、半ば強制的に映像をみることになるのですが、映像そのものの意味はわからず、色彩と形状、動きだけが印象に残っています。

 ふと、どこからともなく、音楽とも音響ともいえないサウンドが流れてくるのに気づきました。映像とは必ずしも連動しているとはいえませんでしたが、闇の中で聞いていると、奇妙な感覚に襲われそうになります。これまで経験したことのない、音と映像によって創り上げられた世界でした。

 大小島氏はここで何を表現しようとしていたのでしょうか。

 気になったので、会場で配布された資料を見てみました。すると、大小島氏は、「ウェヌスの身体を覆う皮膚をなしているのは、岩肌の不毛の惑星を海と土の生命の惑星へと変容させた海中プランクトンたちの映像であり、そこに空を超えて宇宙空間をさまようプラネットたちの映像が重ねられています」と書いていました。

 この説明に従えば、ボディに投影されていた映像は海中プランクトン、あるいは、プラネットということになるのでしょう。

 そういえば、この作品のタイトルは「ウェヌス」でした。

 大小島氏は、「ローマ神話において海の泡から生まれ大地の女神になったウェヌスは、言うなれば、海と土の交点に立つ存在です」と説明しています。この作品もまた、大小島氏の作品世界を支える重要な役割を担っているのでしょう。身体という生命システムを考えるには、なにはともあれ、「海と土の交点」は必要不可欠だからです。

 さて、以上が、展示室3に展示されていた大小島氏の展示作品の概要です。

 大小島氏は果たして、どのような思いを込めて、これらの作品を創ったのでしょうか。

■大小島氏の制作意図と課題作品

 会場で配られた資料の中で、大小島真木氏は次のように作品の意図を説明していました。

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 「身体」を一つの独立した存在としてではなく、複数のものたちがそこに棲まい、協働する「共生圏」としてイメージすること、

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 このような考えの下で制作されたのが、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」でした。「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた生きた人形であり、「ウェヌス」はローマ神話に登場する海の泡から生まれた大地の女神です。

 ゴレムにしても、ウェヌスにしても、大小島氏にとっては、「身体」を独立した存在としてではなく、複数のものがそこに入り込んで生き、暮らしていく場として捉えるための装置といっていいでしょう。

 問題意識として興味深いのは、「身体」を「共栄圏」としてイメージするという発想です。つい、「個体は系統発生を踏襲する」という言葉を思い出してしまいましたが、大小島氏は、「共栄圏」という言葉を持ち出していますから、種を超えた混合がイメージされているのでしょう。

 壮大な問題意識を持つ大小島氏が、練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。

 入口近くに展示されていたのが、荒木十畝氏の作品で、1922年に制作された絹本着色の「閑庭早春」です。


閑庭早春

 会場中ほどのショーケースに展示されていたのが、池上秀畝氏の作品で、1921年に制作された絹本着色の二曲一双の「桜花雙鳩・秋草群鶉図」です。


桜花雙鳩・秋草群鶉図

 一方は掛け軸、他方は屏風として装丁されていますが、ほぼ同時期に制作された花鳥画です。いずれも100年前に制作された日本画です。

 これら二作品が何故、課題作品として選ばれたのか、私にはわかりませんでした。パッと見たところ、再構築された作品と選ばれた作品とはあまりにもかけ離れていました。これらの作品がどのような脈絡で大小島氏の作品につながるのか、私にはとうてい理解できなかったのです。

 大小島氏はこれらの作品をどのように再解釈し、「ゴレム」と「ウェヌス」に再構築していったのでしょうか。

 再び、大小島氏の「作品解説」を見てみましょう。

 大小島氏は「作品解説」の中で、「私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで」、「自然にとりまかれて生きている私たちの生そのもののイメージを再構築してみたい」と説明しています。

 それでは、再構築された作品のうち、まずは「ゴレム」から見ていくことにしましょう。

■ゴレム

 黒い円形の台に横たえられている人形が「ゴレム」です。真上から撮影してみたのが下の写真です。

真上から見たゴレム

 「ゴレム」はヘブライ神話の中に登場する「土」から作られた人形です。大小島氏はこの人形から、「人間の原型」となるようなイメージを感じ取ったといいますから、作品全体の中できわめて重要な役割を担うモチーフだといえます。

 それにしても、なんと異様な姿なのでしょうか。展覧会場でなければ、おそらく正視することすらできなかったでしょう。

 目から草花が生え、口には草のようなものがくわえられています。頭部と上半身をつなぐ首は十数本の小枝で作られています。まさに人体を冒瀆しているといってもいいような表現です。肋骨に相当する部分にはその形状に沿って、木の葉が置かれ、その下のおへそが異様に大きいのが印象に残ります。両腕に相当する部分には、カラフルな鳥の羽のようなものが置かれています。

 この作品を見たとき、私はどういうわけか、フェリーニの映画を思い出してしまいました。

 たとえば、『サテリコン』です。この映画を見たときの、なんともいえないおぞましさが甦りました。この映画は、ローマ時代の貴族たちの享楽的で堕落した生活を描いた作品で、内容に共通するところはありませんが、どういうわけか、その絵柄、作品のトーン、さらにはヒトの捉え方に近いものを感じ、思い出してしまったのです。

次のような画像があります。

サテリコン

 猥雑で、グロテスクで、欲望をむき出しにした貴族たちの姿が捉えられています。過剰な欲望は往々にして、ヒトを冒瀆しがちです。

 そういえばた、『フェリーニの道化師』には次のような画像があります。

道化師

 これは、いたぶられ役として登場する道化師たちです。白塗りの顔の下に救いようのない悲哀が透けて見えます。ここでは、道化師に対する観客の態度に、ヒトのおぞましい欲望を見ることができます。内容が似ているわけではないのに、この作品にも、私はその絵柄やヒトの捉え方に、「ゴレム」に感じたものと似たものを感じました。

 フェリーニはこの作品で短いエピソードをつなぎながら、「笑い」を巡るヒトの本性をあぶりだしていきます。彼の作品は全般に、線的な構造をもたず、エピソードをランダムに積み上げ、作品を構築していくところに特徴があります。

 その結果、無駄なものが多いのですが、逆に、ヒトの真髄に迫ることができているのではないかと思っています。そのせいか、私は、「ゴレム」を見たとき、つい、フェリーニを思い出してしまったのです。

 大小島氏の場合、フェリーニのように、作品を線的な構造、面的な構造に封じ込めようとしないだけではありません。さらに一歩進め、時空が堆積した構造の中で、構想を作品化しようとしているようにみえました。その果敢な姿勢に圧倒されてしまいました。

 さて、私は大小島氏の「ゴレム」を見て、フェリーニに近いものを感じました。なぜ、そう感じたのでしょうか。それを仔細に見ていくことで、大小島氏の作品世界に一歩、近づけるかもしれません。

 それでは、「ゴレム」に戻ってみましょう。

 斜め上から撮影したのが下の写真です。

横たわったゴレム

 横たわったゴレムの周囲に、さまざまなものが配置されています。ここからはよく見えないのですが、ゴレムの骨盤の辺りに動物の頭骨が置かれています。そして、手前の半円の中には、貝殻、ヒトの頭部、縄文土器、ガラス玉などが置かれ、それらは黒の円台の所々に描かれた細かな文字によって、他のモチーフとつながっています。

 一見、雑多なモチーフを寄せ集めて造形されています。猥雑で、過剰な印象を受けるのはそのせいでしょう。しかも、メインの「ゴレム」の造形がグロテスクで、おぞましささえ感じさせられます。とはいえ、それもまた現実世界の一側面なのです。

 現実世界は、限りなく多様なものが何段階もの層をなして存在し、相互につながり合っています。円形の黒い台座の上で表現されていたのはその種の世界観でした。私はおそらく、そこにフェリーニに似たものを感じてしまったのでしょう。

 おぞましさといえば、もう一つ、ゴレムの下半身が何本もの木の枝と葉に置き換えられていることでした。しかもそれらは壁面に向けて高く伸びています。まるで枝木が背後の大木に接合されているようでした。

 正面から捉えた写真を見ると、ゴレムの下半身から伸びた木の枝は、その背後に設置された「胎樹」につながっていることがわかります。

正面全体

 これで、「ゴレム」と「胎樹」がつながっていることがわかります。おぞましさを感じてしまったのは、ヒトが植物に接合されて造形されていることに、ヒトへの冒瀆を感じたからでした。とはいえ、冷静に考えると、ヒトが死んで、土に戻ると、そこから木が生え、やがて大樹に成長していくのは自然の摂理でもあります。

 布に描かれた「胎樹」が弧を描くように湾曲して設置されています。ゴレムが横たわる円形の台座に合わせたのでしょうか。「ゴレム」と「胎樹」、両作品を支える支持体に曲線が組み込まれています。

 そのせいか、ここにレイアウトされたすべてのモチーフが柔らかく包み込まれているように見えます。

■胎樹

 それでは、「胎樹」を見ていくことにしましょう。

 正面に大きな木が描かれています。私が大小島氏の制作中に見たものです。その時はまだ、途中までしか描かれておらず、全体像が見えませんでした。それが展示作品では、木はさらに大きく枝を伸ばし、その周辺にさまざまなものが描き込まれています。一つの完結した世界が創り出されていたのです。

 たとえば、木の中心部分は、まるでヒトのように、心臓、肺、背骨で構成されています。その上にさまざまなモチーフが描かれており、それぞれが相互に深く絡まり合っています。

木の中心部分

 まず、目がいくのは、中心部分の肺、心臓、大動脈などです。そこだけ淡く着色され、一目でここが中心だとわかる仕掛けになっています。それ以外のモチーフは黒の濃淡で描かれており、まるで墨絵のようです。よく見ると、ウィルスのようなもの、胞子のようなもの、クラゲ、ヒトデ、海草など、木の上に存在するはずのないものが無数に描かれています。

 木の枝はヒトの血管のように幾重にも枝分かれし、四方八方に伸びています。そうかと思えば、線状に並べられた小さな文字が、まるで砂地に文様を描くように、縦横に何本も引かれています。おそらく、何らかのメッセージが綴られているのでしょう。

 これらを見ていると、細部に隈なく情報量が盛り込まれ、想像力が刺激されます。その量に圧倒されて、眩暈がするほどです。木の様相を見ていると、グロテスク、猥雑、過剰というキーワードが思い浮かんできます。

 やや視線をずらすと、何か奇妙なものが目に入ってきました。近づいてみると、なんと胎児が二人、羊水に浮かんでいました。淡く着色されています。

胎児

 双子なのでしょか、胎児が二人、羊水の中で身を丸めています。胎盤の外側にはヒトの臓器のようなものが描かれ、無数の血管が描かれています。そして、胎児のへその辺りから太い管が伸び、臓器の下に巻き付いています。きっとへその緒なのでしょう。そのへその緒の行先を辿ると、なんと樹木の維管束のようなものとつながっていました。

 通常、胎児は母親とへその緒を通して、栄養や酸素を補給され、二酸化炭素や老廃物を排出します。へその緒があるからこそ、胎児は胎盤の中で生きることができるのです。

 ところが、この絵には、胎盤と臓器、へその緒しか描かれていません。ヒトが描かれていないので仕方がないのでしょうが、これらの臓器はへその緒を通して樹木の維管束とつながっていたのです。木の生命システムに組み込まれることによって、この胎児たちは生き続けることが示されているといえます。

 ありえない設定ですが、絵の中ではごく自然に、まるで接ぎ木でもするかのような簡便さで、この奇妙な接合が成立していました。

 さらにもう一つ、胎盤の中の子どもが描かれた箇所がありました。

幼児

 こちらは胎児ではなく、幼児でした。髪の毛が生え、指を口にくわえています。目を閉じていますが、表情がしっかりとしており、明らかに意思を持って行動できる幼児に見えます。ところが、ここでも太いへその緒が描かれており、幼児がへその緒を通して白い維管束のようなものに接合されています。

 先ほどとは違って、胎盤の中は水色で描かれています。ちょっと離れてこの箇所を見ると、まるで、幼児は青空の下にいるように見えます。おそらく、この幼児は、いったんは外に出て、外気を吸ったことがあるのでしょう。ところが、どういうわけか、再び、胎盤の中に戻り、へその緒をつけたまま指をしゃぶっているのです。

 ここでも現実にはありえない設定で、モチーフが描かれていました。

 不思議なのは、この幼児が背後から白いもので包まれていることでした。しかも、その白いものは、幼児が入った胎盤そのものを支えているようにも見えます。さらに、胎盤の周辺を取り巻くように、白色と黒色が反転しながら、小さな文字が描かれています。

 ちょっと気になりました。大小島氏はこの箇所で、何を表現しようとしていたのでしょうか。わからないまま、しばらく日が過ぎました。

 9月24日、美術館のHPを見て、大小島氏のアーティストトークの映像が掲載されていることを知りました。

こちら → https://youtu.be/mL7k1kdaT3w

 この映像を見てようやく、理解することができました。

 大小島氏は、インドネシアのトラジャ部族には、まだ乳歯も生えていない子どもが死ぬと、木に穴を掘って、そこに遺体を入れる風習があるといっています。子どもはそのまま木とともに生き、木の寿命とともに亡くなっていくというのです。

 興味深く思って、調べてみると、確かに、インドネシアのトラジャ族には、そのような風習があることがわかりました。

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 かつてはトラジャ族の土地では、乳児は死んでも天国には行けず、また生まれ変わると信じられていました。そのため、亡くなった子供がいつもミルクを飲めようにと、白い樹液が多く出るこの木に葬られていたのです。この木の幹に空けられた乳児の墓は、現地では「リアン・ビア」と呼ばれています。

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(※ https://www.ab-road.net/asia/indonesia/tanatoraja/guide/sightseeing/09789.html

 こうしてみると、指をくわえた幼児を背後から包み込んでいた白いものは、白い樹液だったのかもしれません。ミルク代わりに白い樹液のでる木の維管束にへその緒を介してつながれ、この幼児は成長し、木の寿命が来るまで生きるのでしょう。この小さなモチーフの中に、ヒトの生と死が表現されていたのでした。

 さて、会場でこの木の枝を見ていて、ふと気になって撮影していたのが、木の幹や枝にさまざまなものが絡みついている箇所でした。

絡み合い

 まるで水墨画のように、黒の濃淡やかすれ、暈しを活かしながら、柔らかい筆触で描かれています。

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これは、幹から枝が張り出し、その枝からさらに小さな枝がいくつも伸びている部分です。小さな枝は透明度が高く、淡い色調で描かれています。

 そのせいか、小枝がまるで海の中で揺らめく海草のようにも見えます。その周囲にはプランクトンのようなもの、稚魚のようなものが浮遊しており、そこだけ見ると、深い海の底だと錯覚してしまいそうです。ここでも、現実にはありえない光景が描かれています。

■大小島氏はどう再解釈したか

 大小島氏が練馬区立美術館の所蔵作品の中から選んだのが、荒木十畝氏の掛け軸と、池上秀畝氏の屏風でした。なぜ、彼らの花鳥図から触発されて、このような作品世界を創り出すことになるのか、私にはどうしてもわかりませんでした。

 ヒントを求め、再び、アーティストトークの映像を見ました。それでようやく、大小島氏がなぜ、荒木氏と池上氏の作品を選んだのかがわかりました。

 彼女は、荒木作品について、「視点が土と近い状態に置き、そこから捉えられている」とし、池上作品については、「鳥が飛ぶ瞬間を自分と同一化し、その瞬間を捉えている」と感じたといいます。

 つまり、いわゆる花鳥図とは違って、両者はモチーフだけを切り取ってみているわけではないと大小島氏は感じたのでしょう。ここに、花であれ、鳥であれ、生きているものはすべて、それだけで存在しているわけではないという認識が透けて見えます。

 だからこそ、「私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と大小島氏は説明しています。

 ちなみに、キメラ(chimera)とは生物学用語で、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」と定義づけられており、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといいます(※ Wikipedia)。

 トーク映像で彼女の説明を聞いた瞬間、どうしてもわからなかった私の疑問が一挙に解き明かされたような気がしました。

■静止画に持ち込まれた動きを生み出す視点

 なぜ、大小島氏は荒木作品、池上作品を課題作品として選んだのかといえば、それは、両作品には、一見、スタティックな花鳥図に見えながら、実は、花や鳥を捉える視点に動的な生命体を把握する観察力が含まれていたからでした。

 荒木氏は視点を下方に置き、土から見る構図で花を描いています。花だけを切り取って捉えるのではなく、生えている根元から捉える視点が構図に示されています(前掲写真を参照)。

一方、池上氏は鳥が飛び立つ瞬間を捉え、作品に組み込んでいます。わかりやすくするため、その該当部分を切り取って、見てみましょう。

該当部分

 枝に留まる鳥と飛び立つ鳥、この二羽を描くことによって、池上氏は動きを表現しています。異なる位置の静止画を二つ配置し、動きをイメージさせる効果を生み出しているのです。これを見て思い出すのはパラパラ漫画であり、マイブリッジの走る馬を捉えた連続写真撮影です。

 1872年、イギリス生まれのアメリカ人、マイブリッジは、24個のカメラを並べて疾走する馬の一瞬、一瞬を撮影しました。これは動画の基礎となる実験でした。その後、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフの特許申請をしたのが1895年です。映像の時代の幕が開けられました。

 ところで、池上作品は1921年、荒木作品は1922年の制作です。日本でも1920年代になると、全国に映画常設館が出来ていました。トーキーとはいいながら、動画を楽しめるようになっていたのです。

 当然のことながら、彼らも動画からなんらかの影響は受けていたでしょう。

 花鳥図の基本を崩さず、彼らは動的な視点を作品に組み込みました。それを大小島氏は見逃さず、多数の中からこの二作品を選択したのでしょう。

 大小島氏は、この二作品には動的な視点が含まれていると再解釈し、それに触発されて再構築したのが、「ゴレムとウェヌス」でした。そして、「だからこそ、私が創り出した身体はいろんなキメラ像でできている」と説明しています。

 私はここに、大小島氏が作品を再構築する際のキー概念があると思いました。

■キー概念としてのキメラ

 先ほどもいいましたように、キメラとは、「個体の中に異なる遺伝子の細胞が共存する現象、またはその個体を指す」生物学用語で、ギリシャ神話に登場する生物「キマイラ」に由来するといわれています。

 そういえば、「ゴレム」の腕から鳥の羽が生え、下半身からは木の枝が生い茂っていました。そして、それらの木の枝は「胎樹」に接木され、キメラ植物として大きく育っていました。

 そして、「胎樹」の中心部分にはヒトの心臓や肺、背骨が組み込まれており、枝にはヒトの胎盤が付着していました。胎盤の中の胎児は、へその緒を介して維管束と接合し、木の生命システムにつながっていました。胎児はヒトの身体から切り離されても、木の生命維持システムに組み込まれることによって、生きながらえていました。

 つまり、「ゴレム」と「胎樹」の二作品からは、ヒトと植物のキメラが創り出されていたのです。

 そもそも、泥人形の「ゴレム」は横たえられていました。おそらく、死者を意味していたのでしょう。ヒトは死ぬと土に還ります。その土でできた「ゴレム」から草木が生え、土に還元されたさまざまな栄養分を吸い、やがて大木として成長していきます。

 そこまでは誰もが想像できる領域です。

 大小島氏の発想がユニークなのは、その大木をキメラ植物として設定したことにあります。しかも、ヒトと植物との異質同体です。

 なんと飛躍した発想なのでしょう! 

 彼女は、木の幹にヒトの身体の中心部分を組み込み、胎児のへその緒を木の維管束と接合し、生命維持システムを協働させています。このようにして、木とヒトが融合したキメラが出来上がっているのです。

 「ゴレム」も「胎樹」もキメラをキー概念に構築されています。一見、解釈不能に見えたこの作品もこのキー概念に辿り着くことによって、私は理解することができました。

■再構築された作品

 大小島氏が選んだ課題作品は荒木氏、池上氏の日本画です。荒木、池上両氏の作品から彼女は、花鳥図でも動的な視点を取り入れることで対象を生き生きと捉えられるというエッセンスを汲み取りました。

 そのエッセンスを踏まえ、大小島氏は、「ゴレム」(含む「胎樹」)と「ウェヌス」という作品を再構築しました。

 ところが、配布された「作品解説」を読んでいると、再解釈から再構築までのプロセスにおおきな捻りがあることに気づいたのです。

 大小島氏は、会場で配布された「作品解説」の中で、次のように記しています。

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 今日、私たちの世界は人新世と呼ばれる新たな地質学的年代の中にあるとされています。自然の中で人間というアクターが極端に突出し、地球そのもののあり方さえも大きく変えてしまっている、そうした時代に生きる私たちの身体について、思いを馳せました。そして、私たちの身体のイメージを、ゴレムとウェヌスと名付けた二つの身体によって再構築することで、自然にとりまかれて生きている私たちの「生」そのもののイメージを再構築してみたいと考えました。

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 この箇所を読んで、大小島氏が再解釈から再構築までのプロセスに、「人新世」という概念を介入させたことがわかりました。このことは会場で作品を見ただけではわかりませんでした。

 「人新世」とは、人類が生きるために行う経済活動そのものが地球を破壊するという概念です。この概念を作品に組み込むために、大小島氏はキメラを核として、作品を再構築したのです。

 このところ、コロナウィルスの感染爆発にせよ、中国山峡ダムを中心とした洪水被害にせよ、「人新世」の時代に突入したことを示す事例が増えています。ヒトが自然を作り変えてきた結果、予想もしない大きな損害を被る時代に入っています。いずれも中国発の災害ですが、ここ十年余、もっとも経済発展の著しいのが中国でした。経済活動の活性化が自然を大きく改変してきたことの証左ともいえます。

 大小島氏は再構築した作品には、このような時代の潮流が巧に取り込まれていました。斬新な発想力によって再構築された大小島氏の作品は、知的刺激に満ちているだけではなく、近未来を見る重要な視点をも提供してくれているように思えました。

 実は、この種のジャンルの美術を見るのは初めてでした。それですっかり驚いてしまって、作品を見てから、しばらく、何も書けないでいました。なにかすごい作品を見てしまったという気はするのですが、鑑賞後、自分の中でそれをどう受け止めていいのかわからなかったのです。

 なにか言葉にならないものがふつふつと湧いては来るのですが、整理できないまま、時間が経ちました。知らなかった世界を知り、衝撃を受けたことは事実なのですが、それをどう自分の知の体系の中に収めていいのかわからなかったのです。

 会場で配布された大小島氏の「作品解説」を読んで多少わかったような気になりましたが、それでもまだわからないところがありました。ヒントを求めて彷徨い、練馬区立美術館のHPで大小島氏のアーティストトークを見て、わからなかったところもなんとか理解することができたような気がします。

 概念として理解できただけで、まだ腑に落ちるというところまではいっていないと思いますが、大きな衝撃を受けたのは事実です。

 今回の作品はさまざまな知識を動員して、それと照合させながら理解していくというプロセスをたどりました。それを一つ一つ、確認しながら、書いていったので長くなってしまいましたが、実はまだ思いついたことを書ききっていません。

 現代社会は限りなくフラットになる一方で、複雑極まりない側面を持ち、さまざまな知の集積体でもあります。そのような現代社会を表現しようとすれば、並大抵の知力では叶いません。

 展示作品を見ていると、あらゆる媒体、素材を使いこなし、それらをつなぎ合わせ、レイアウトする能力、そして、なにより莫大なエネルギーがなければならないと思いました。大小島真木氏は壮大なスケールの美術家であり、現代社会に関する思想家、プロデューサーだという気がします。

 美術家にとどまらない幅の広さを持つ大小島真木氏の今後の活躍におおいに期待したいと思います。(2020/9/26 香取淳子)

オンライン鑑賞で知ったCAO FEI氏の世界

 コロナ禍で、国内外のさまざまな展覧会が中止になりました。スイスのバーゼルで開催されるアート・バーゼル(Art Basel)も、今年は開催されませんでした。

 アート・バーゼルとは世界最大級の現代アート・フェアで、1970年以来、毎年6月に4日間、開催されています。その後、アート・バーゼル・マイアミビーチ、アート・バーゼル香港なども開催されるようになり、世界的な広がりをもっています。

こちら → https://www.artbasel.com/about/history

■2020年アート・バーゼルの中止

 2020年3月26日、アート・バーゼルは次のような文をホームページに掲載しました。コロナ感染拡大のため、9月17日から20日まで延期したという内容でした。

こちら →

 今年は延期で決定したと思っていたのですが、その後もコロナ感染の勢いは衰えを見せません。3か月後、開催できる見通しが立たなくなってきました。

6月6日、ギャラリー、コレクター、協賛企業、外部専門家などとの協議を経て、今年度のアート・バーゼルの中止が決定されました。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/art-basel-june-edition-postponed-to-september

 海外からの作品輸送は可能なのか、輸送する際の安全を保障できるのか。さらには、出展ギャラリーや協賛企業の経済的な損失を補償できるのか、等々の懸念を払拭することはできなかったのでしょう。2020年のアート・バーゼルは比較的早く、中止という判断が下ささました。

 一方、アート・バーゼル事務局は、6月フェアの代わりにオンラインで鑑賞できるようにし、欧州、南北アメリカ、アジア、中東、アフリカなど35ヵ国と地域から参加した282の主要なギャラリーの国際的ラインアップを紹介します。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/ovr-details-and-highlights

 オンライン・ヴューイング・ルームは6月17日から19日までがプレビューで、6月19日から26日の間、一般公開されました。そこでは、絵画、彫刻、ドローイング、インスタレーション、写真、ビデオ、デジタル作品など、近代から戦後、現代までの4,000点を超える優れた作品を見出すことができるようになっています。

 アート・バーゼルのグローバル・ディレクター、マーク・スピーグラー氏は、「デジタルプラットフォームでは、リアルな展示空間が提供できるものと完全に同じものを提供できないことは十分に承知しているが、アートの世界がこのような苦難の時代を乗り越えていけるように、我々はギャラリーや作家たちを支えていきたい」と語っています。

 アート・フェアが中止になって、作品鑑賞の場が失われてしまうよりも、デジタルプラットフォームを立ち上げ、ヴァーチャルな展示空間を提供してギャラリーやアーティストを支えていきたいというのです。

■オンライン・ヴューイング・ルーム

 アート・バーゼルが提供するオンライン・ヴューイング・ルームは、世界の主要なギャラリーとコレクター、芸術愛好家とをつなぐヴァーチャルなプラットフォームです。ここでは、二つの独立したテーマ(「OVR:2020」と「OVR:20c」)が設定され、9月と10月に開催されます。

 「OVR:2020」はこの重要な年に制作された作品に絞ったものであり、9月23日から26日まで展示されます。

 「OVR:20c」は1900年から1999年の間に制作された作品で、2020年10月28日から31日までの間、特集されます。

 どちらも出展者は100以下に抑えられ、それぞれ一度に6作品を展示することができるといいます。

こちら → https://www.artbasel.com/ovr

 興味深いのは、ジョヴァンニ・カーマイン氏、サミュエル・ロイエンバーガー氏、フィリパ・ラモス氏等、3人のアート・バーゼル・キュレーターによる鑑賞ツアーが組まれていることでした。キュレーターたちはいったい、どのような作品を取り上げているのでしょうか。

 試みに、ジョヴァンニ・カーマイン氏が取り上げた作品を見てみることにしましょう。

■キュレーターが取り上げた画像

 自由分野を担当するキュレーター、ジョヴァンニ・カーマイン( Giovanni Carmine)氏がお薦めとして取り上げたのは、サオ・フェイ(Cao Fei)氏, セシールB エヴァンス(Cécile B. Evans)氏, プラニート・ソイ(Praneet Soi)氏の3人です。

こちら → https://www.artbasel.com/stories/online-viewing-rooms-giovanni-carmine?lang=en

 そのうち、真っ先に紹介されていたのが、北京のアーティスト、サオ・フェイ氏の作品でした。作品概要に、「RMB City: A Second Life City Planning N.4」と書かれていますから、RMB Cityシリーズの一つなのでしょう。

 私はこの画像に最も惹きつけられました。

 この作品についてジョヴァンニ・カーマイン氏は、「サオ・フェイ氏の独創的な企画であるRMB Cityは、VRとデジタル技術が提供するさまざまな可能性を芸術に利用するというやり方で表現している」と解説しています。

 そういわれてみれば、この画像はアニメの一場面のような印象です。さらに、作品のタイトルは「A Second Life City Planning N.4」でしたから、ひょっとしたら、セカンドライフ(Second Life;コミュニケーションツール)を使った動画の一部なのかもしれません。しかも、この作品が制作されたのは2007年です。

 ちょうど2007年ごろ、日本でもセカンドライフ(Second Life)というコミュニケーションツールが話題に上ったことがあります。これは、ネット上の3D仮想空間で自分のアバターを操り、他の参加者とコミュニケーションできるツールです。

 すっかり忘れていましたが、サオ・フェイ氏の作品を見て、私は記憶の底に眠っていたセカンドライフを思い出しました。

 2007年当時のセカンドライフの画像を見てみることにしましょう。


出雲井亨、『日経XTECH』、2007年7月13日

 ここでは、遊園地で一人紅茶を飲んでいる男性が表現されています。描かれている男性はアバターで、湯気の出るティーカップ、その背後の観覧車もすべてユーザーが制作したものです。

 このように、セカンドライフというツールを使えば、ユーザーが設定したアバターを通して、仮想世界でのコミュニケーションを展開することができます。SNSに押され、いまではすっかり忘れ去られてしまいましたが、仮想空間でコミュニケーションできるツールとしてもてはやされた時期がありました。

 再び、サオ・フェイ氏の作品を見てみると、この女性はまさにアバターです。分身として、RMB Cityという仮想空間の中で、さまざまなコミュニケーションを展開しているのでしょう。

 サオ・フェイ氏は2007年から2011年までRMB Cityシリーズを制作し続けてきたといいます。

■サオ・フェイ氏の画像

 それでは、サオ・フェイ氏の画像を詳しく見ていくことにしましょう。


Cao Fei, RMB City: A Second Life City Planning N.4, 2007

 この画像でまず目につくのは、朱色の柱が立ち並ぶ宮殿、その端に立つ白いトサカのような帽子を被った女性、そして、左隅に描かれた車輪です。一見、奇妙なモチーフの取り合わせですが、斬新でしかも調和がとれていて、引き込まれます。

 左端の車輪は銀色で描かれ、白っぽいコスチュームの中で輝いている女性と調和しています。女性の髪の毛、トサカのような帽子、ブレスレット、腕に抱えた円形の造形物、黒いドットの入ったワンピース、いずれも白か銀色で描かれており、女性にメカニックな輝きを添えています。

 女性の背後には朱色の円柱が立ち並び、白色の中で輝く女性と見事な色彩のコントラストを形成しています。モチーフの背後には、紺碧の海と残照に輝く空が見えます。いずれもモチーフをくっきりと際立たせる効果のある色調です。

 女性の後ろには朱に塗られた10本ほどの円柱が続き、観客の視線を遠景に誘導する役割を担っています。半円の車輪から、女性が腕に抱えた円形の造形物へ、円形の造形物から先は垂直方向に変換し、立ち並ぶ円柱へと連鎖の輪が広がっていきます。

 円形を縦横に巧に変換させることによって、視覚的な動きが生み出されているのです。朱の円柱は対角線上に、幾何学的な調和を保ちながら、前景、中景、遠景をつないでいます。目を細めてみると、そうすることによって、画面を構造的に安定させる効果が得られていることがわかります。

 モチーフを見ると、きわめてメカニックな造形になっているのですが、全体にしっとりとした落ち着きがあります。絵画作品としての奥行が感じられるのです。そのような印象を与えるのはおそらく、背景のせいでしょう。海なのでしょうか、濃い青で表現された部分、そして、残照の輝きを見せる空がとても丁寧に絵画的に描かれているのです。

 奇妙なモチーフの取り合わせ、色彩のバランス、前景、中景、遠景をつなぐ幾何学的構造、そして、古典的絵画の味わいのある背景、それらが見事に調和しており、とても美しいと思いました。

 サオ・フェイ氏の独創的なプロジェクトRMB Cityは、VRなどデジタル技術を駆使して作品化されています。彼女が創り上げた仮想空間は魅力的です。

 カーマイン氏は、この作品について、シュールレアリストのユートピアであり、先見の明のあるコミュニティ構築実験だと評しています。

■RMB City: A Second Life City Planning N.4

 カーマイン氏のおかげで、私は彼女の作品の一端を知ることができました。果たして彼女はどのような思いで、この作品を制作したのでしょうか。気になって調べてみると、彼女がこの作品について語っているページが見つかりました。

こちら → https://www.fondationlouisvuitton.fr/en/the-collection/artworks/rmb-city-second-life-city-planning.html

 タイトルの「RMBシティ:セカンドライフシティプランニング」については、「人民の通貨」である人民元の頭字語であるRMBと名付け、ポストモダンの遊園地で、急速に進化する中国の都市の凝縮されたイメージを提供する」と彼女は語っています。

 そして、架空の島には、人民英雄記念碑、国立大劇場、中国北部の工場、レムコールハースのCCTVタワー、仏教寺院、毛沢東の像、三峡ダム、 国立競技場などを配置し、伝統、共産主義、資本主義のシンボルを衝突させ、現代の中国の複雑さを浮き彫りにするといいます。

 たしかに、この画像を見ると、中国を象徴するものが、所狭しとばかりに架空の島の上に表現されています。島に配置できなかったパンダやCCTVタワーなどは空中に浮かぶ格好でレイアウトされ、中国の過去、現在が象徴されています。


RMB City: A Second Life City Planning N.4

 斬新なデザインの建物は、現在目覚ましい勢いで開発を進めている先端セクノロジーを連想させますし、パンダや仏教寺院は中国文化の象徴、そして、黒煙は世界の工場といわれた中国の労働力を示しています。

 現在の中国は、パンダや仏教寺院に象徴される伝統文化を引きずりながらも、実際は共産主義体制の下、国家資本主義によって経済が運営されています。きわめて複雑な社会構造であり、当然のことながら、その社会的な歪みも大きくなっています。その象徴が工場から立ち上がる黒煙です。

 この画像だけでも面白いですが、実はこれは映像作品なのです。さっそく探してみると、彼女が制作した6分1秒の映像が見つかりました。ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/8-ig_lnO7uU

 さらに調べてみると、サオ・フェイ氏は2007年以降、セカンドライフに集中して作品を制作していることがわかりました。

 中国の近代化と資本主義的で理想主義的な展望を参照しながら、彼女はグローバルコミュニケーションが人々の想像力や価値観、生活様式に影響を与える状況をRMB Cityシリーズによって明らかにしていこうとしているのです。

こちら → https://kadist.org/work/rmb-city-a-second-life-city-planning-04/

 サオ・フェイ氏は、マルチメディア・アーティストで、現実世界と架空世界との相互作用に焦点を当てた作品で知られています。写真、パフォーマンス、ビデオ、デジタルメディア等々、境界を越えてさまざまな作品を制作してきた彼女は、20世紀後半の時代精神の権化であり、デジタル時代の若者文化の形成において、映像制作が果たしてきた役割を鮮やかに反映しています。

■サオ・フェイ氏が語る来歴とRMB City

 サオ・フェイ氏とはいったい、どのような人物なのでしょうか。作品を見ているうちに、俄然、興味が湧いてきました。調べてみると、ユーチューブに短いインタビュー映像がアップされていたのが見つかりました。2016年に開催された「Bentu Exhibition」でインタビューされたものです。

 それでは、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/3hISycCZp9M

 興味深いのは、サオ・フェイ氏の両親がソ連で活動していたアカデミックな芸術家だったということです。当然のことながら、彼女は両親の資質を受け継ぎ、その影響を受けているのでしょう。

 ところが、彼女は1990年代後半の映像作品、とくに芸術映画に深く影響されたと語っています。そこにはアカデミックな教育システムにはない刺激があって、引き込まれ、その後の作品にそれは反映されていると述べています。

 サオ・フェイ氏は、中国の田舎の都市化、現在のグローバル化の動き、そして、人々の生活状況などに関心を抱き、作品化してきたといいます。労働者階級、とくに生産ラインの工場で働く人々が、相互に深くつながり合った世界にいながら、実際は、孤立して生きている状況に焦点を当てて制作してきたと語っています。

 とても興味深く思いました。現代社会の歪みをコンセプチュアルに思考し、デジタル技術を駆使して作品化していくところに現代アート作家ならではの真髄が感じられます。

 RMB city プロジェクトは2007年に始まり2011年に終わりました。この名前をつけたのは、RMBが人民元(Rénmínbì)の略語だからだそうです。RMBをプロジェクト名にすることによって、一連の作品が経済の観点から、中国の都市化のプロセスを凝縮していることが示唆されています。

 RMB cityと名付けられた作品に、次のようなものがあります。


RMB City 5, 2008, digital c-print, 120 × 160 cm

 1978年に広州で生まれた彼女は、改革開放後の中国の市場経済化を目の当たりに見て成長してきています。

 その成長過程で、社会に及ぼす経済の力を様々な局面で見てきたのでしょう。この作品には随所に市場化の要素が見られます。ポップカルチャーの影響も感じられますが、抑制されて表現されています。両親から受け継いだアカデミズムの影響でしょうか。

■現代社会を捉えるアーティストの感受性

 2007年にこのプロジェクトを始めたとき、サオ・フェイ氏はもっと楽観的な見方をしていたといいます。ところが、次第に中国経済は衰退し、2011年にこのプロジェクトを終える頃には、経済危機に陥り始めていたと彼女は述べています。

 当時、まだ世間一般にそのような認識はなく、人々はオプティミスティックで、楽しいことに夢中でした。ところが、彼女はそうではありませんでした。芸術家ならではの繊細な感覚で、彼女なりに中国の経済的危機を感じ取っていたのでしょう。

 作品のモチーフとして現代社会を照射したとき、見えてくるのは労働者の疲弊した姿、あるいは、孤立した姿だったのでしょう。メディアが発達し、相互に深くつながりあえる社会になっていながら、実はそうではないところに、彼女は社会の歪みを感じたのでしょう。

 社会を支え、経済を回していく役割を担っている労働者がそんな姿でいるところに、彼女は危機を感じ取っていたのかもしれません。労働者の心理的危機は社会そのものの危機であり、結果として経済の危機につながっていくのです。

 実際、2011年の中国の実質経済成長率を見ると9.2%で、2010年の10.4%よりも落ちています。しかも、年初から次第に成長率は落ちていき、10月-12月期は8.9%へとペースダウンしています。数字が物語っているように、実際は、もはや楽観的ではいられない状況になっていたことがわかります。

 サオ・フェイ氏の挑戦的な作品に気を取られ、つい、横道にそれてしまいました。2020年アート・バーゼルの中止から、コロナ下の美術市場を考えるつもりが、サオ・フェイ氏の刺激的な作品に出合ってしまいました。改めて、作品の力は作家の洞察力、思考力、感受性に支えられていると感じさせられました。(2020/8/31 香取淳子)

プレ展示「再構築」:大小島真木氏の制作現場を見る

■プレ展示「再構築」

 2020年7月23日、練馬区立美術館に行ってきました。

 今年、開館35周年を迎える同館は、記念事業として、一風変わった展覧会を企画しました。4名の作家(青山悟、大小島真木、冨井大裕、流麻二果)に、練馬区立美術館が所蔵する作品をそれぞれ再解釈し、再構築して制作してもらった作品を展示するというのです。展覧会のタイトルは企画内容そのものの「再構築」(RE CONSTRUCTION)でした。

こちら → https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202006161592286707

 2020年7月8日から8月2日までが、プレ展示「再構築」で、①参加型展示として、流麻二果氏、②公開制作として、大小島真木氏、冨井大裕氏の展示が企画されています。そして、4名の再構築された作品が展示される本展示は、2020年8月9日から9月27日までの期間開催されます。

 練馬区立美術館前に掲げられた看板には、4人の作品がそれぞれ取り上げられていました。

 この看板には、向かって左から冨井大裕氏、大小島真木氏、そして、その右隣りが青山悟氏、右端が流二麻二果氏の順で、代表作が取り上げられています。館内に置かれていたチラシは4パターン用意されており、看板に取り上げられていたのと同様、4人の画家の作品がそれぞれ掲載されていました。これらの作品をちらっと目にするだけでも、個性の異なる気鋭の作家たちだということがわかります。

 4人の作家たちは、同館所蔵の作品をどのように解釈し、再構築してみせてくれるのでしょうか、興味津々です。なんともユニークで、刺激的な企画の展覧会で、期待されます。

 私がもっとも引き付けられたのが、大小島真木氏の作品でした。見た瞬間、心に響くものを感じたのです。

 看板の写真を見ても、遠すぎて、いまひとつその醍醐味が伝わってきません。大小島氏の作品だけを取り出し、クローズアップして見てみることにしましょう。

 真ん中に配置された細長いモチーフの両側に、3個ずつ奇妙なモチーフが置かれています。よく見ると、心臓の形をしています。真ん中の細長いモチーフも、一番下に配置されているのは心臓でした。合計7個のモチーフに共通しているのが心臓だったのです。しかも、それぞれが奇妙なハーモニーを奏で、独特の世界を創り出しています。

■Entanglement hearts series

 チラシを見ると、作品の下に小さく、「Entanglement hearts series」(2020年、アクリル、鉛筆、油性色鉛筆、アルシュ紙)と、その概要が書かれています。タイトルにシリーズと書かれていますから、7つのモチーフに見えたものは、それぞれ独立した一つの作品なのでしょう。この作品が、シリーズ化して制作された「Entanglement hearts」を7点、寄せ集めてレイアウトし、一つの作品として再構築されたものだということがわかります。今回の展覧会のテーマである「再構築」がすでに実践されているのです。

「Entanglement hearts」というタイトルも絶妙です。絵柄をみれば、たしかに、心臓の形をしたモチーフにはそれぞれ、動物や植物、昆虫や海洋生物、爬虫類、人や原始人などが深く複雑に絡み合っています。どのモチーフも生命体を支える心臓をベースに、独特の観点から複雑な生命システムが描かれていました。

 見ているうちに、身体の奥底から原始的な感覚が甦ってくるような思いに襲われてしまいます。それぞれのモチーフが得体の知れない何かを発散しているからでしょうか。見えない何かに、強く刺激され、やがて、気持ちが大きく揺さぶられるようになるのです。

 いつの間にか、異次元の世界に誘われてしまいそうになります。

 異次元といっても、全く知らない世界ではありません。遠い昔に経験した記憶がありながら、普段はすっかり忘れ去っている世界とでもいったらいいのでしょうか。無意識の底に眠っていたものが、突如、甦り、原初的な感覚が呼び覚まされ、刺激されていくのを感じます。

 どのモチーフにも身体の奥底に呼び掛ける力がこもっているように見えます。しかも、どのモチーフからも、しなやかで知的な感性がほとばしっています。だからこそ、わくわくするような知的好奇心が刺激されるのでしょう。

 大小島真木氏はいったい、どのような作家なのでしょうか。チラシに掲載された作品を見ただけで、ふつふつと興味がわいてきました。是非とも、制作現場を見てみたいという気にさせられたのです。

■大小島真木氏の制作現場

 1Fの展示室で、大小島真木氏は制作されていました。すでに何人かの観客が見に来ておられ、大小島氏はにこやかに応対しておられました。

 大小島氏が手にされているのは、チラシに掲載されていたモチーフのうち、真ん中のものです。その左にはチラシの左下に配置されたモチーフがあり、右にはチラシの右上に配置されたモチーフが見えます。尋ねてみると、今回の展覧会のために30点、新作を制作されたそうです。

 それでは、本展示作品のための制作現場を見てみることにしましょう。

 普段はいくつもの作品が展示されている展示室に、大きな布が敷かれ、そこには制作途中のモチーフが描かれています。遠くから見ると、巨木の幹と枝のように見えます。布の周囲には脚立、ボディ、絵の具、筆、資料としての絵などが雑然と置かれていました。

 思わず、覗いてはいけない創造の空間に足を踏み入れた気持ちになります。

 圧倒されて、ぼんやりしていると、大小島氏から、「脚立を使ってもいいですよ」といわれました。ふと、その気になりかけましたが、脚立の高さを見て、気持ちがくじけ、立ったままで撮影したのが、制作途中のモチーフの中心部分です。

 手前に二つの肺があり、水色と赤味がかったピンクで左右、色分けされています。そのすぐ上に心臓があり、そして、その先に背骨がまっすぐ伸びています。

 やや引いて、全体像がわかるように俯瞰してみたのが、下の写真です。

 こうしてみると、先ほどご紹介した写真が、作品の中心部分だということを確認することができます。この作品の全体像は人体のようであり、巨木のようでもあります。俯瞰してみてはじめて、途方もなく大きな構想の下、制作されようとしていることがわかります。

 大小島氏はこの作品を、全体の枠組みを描いた後、肺、心臓、背骨といった中心部分を描いています。まだ制作途中だとはいえ、中心部分の構図はすでに確定されています。まるで、作品に命を吹き込みながら制作を進めているかのように、軸となる中心部分から着手されているのです。

 もちろん、中心を支える細部を固めるための準備も周到です。大きな布の周囲、あちこちに資料のようなもの、画材などが置かれています。

 たとえば、木の枝先のように見える部分の周囲には、それに関するスケッチや色合わせの資料が置かれています。

 また、色の重ね具合、色彩のバランス、さまざまな形状のパターン、それらの組み合わせなどの資料も種々、巨大な布の周囲に置かれていました。

 全体を支えるための細部を制作するための案が精緻に考え抜かれ、作品化するための準備もそれに伴い、万端に整えられていることがわかります。

 まだ制作途上だとはいえ、この制作空間を見るだけで、大小島氏がいかに構想力に長け、構築力に秀で、タフな知力の持ち主であるかがわかります。

■新作から透けて見える大小島氏の芸術観

 大小島氏は今回の展覧会のために、1か月余で新作30枚を仕上げたといいます。そのうち7点がチラシに掲載された作品に取り上げられていました。それぞれが豊かな構想力で練り上げられ、確かな表現技術を駆使して描かれていました。仕上がった作品を見て、大小島氏の旺盛な制作力と巧みな表現力に驚かざるをえませんでした。

 それでは、チラシに掲載されたモチーフの一つを取り上げ、大小島氏の芸術観を探ってみることにしましょう。

 これは、7点のうり、チラシの左上に掲載されていたモチーフです。このモチーフで一番目立つのが、眠ったように見える牛の顔であり、その頭上で大きく羽を広げた鳥です。牛の首の右辺りには大きく牙をむいた虎のような動物の顔、左下には獲物に食いつこうとしている狼のような動物が描かれています。口が赤くなっていますから、おそらく食いちぎった獲物の血なのでしょう。生命を維持するには他の動物、あるいは植物の生命を奪わなければならないことが示唆されています。

 心臓から血液が送り出されることによって、生命体が維持されるわけですが、その営みを支えていくには、他の生命体の命を奪う必要があるのです。残酷ではありますが、それこそが、生命を維持するためのシステムであり、自然の摂理なのだと訴えているかのようです。

 興味深いことに、このモチーフには下方に裸の人間が3人描かれており、何かを探しているように見えます。食べ物を漁っているのでしょうか。足には草のようなものが絡まり、鋭利な牙もなく、柔らかい肌を保護する体毛もない人間の脆さが描かれているように見えます。

 その一方で、モチーフ全体に、六角体で先にとげがある物体が随所に描かれています。この物体は、獰猛な鳥の羽の上、牙をむいた虎の胸倉、さらには、草むらのようなものの中にも多数、描かれています。こうして全体が絡みあい、心臓の形になるようレイアウトされています。

 このモチーフの随所に描かれた不思議な物体は、その造形から、どうやら、コロナウイルスのようです。

 大小島氏はこの作品を示しながら、「コロナが突然やってきたわけではないのに、果たして、コロナを敵と呼べるのか」と問いかけます。そして、「人間と菌を巡る物語を知る必要がある」と言葉を継ぎます。それを聞いていて、私はふと、大小島氏の芸術観を垣間見たような気がしました。

 改めて、コロナウイルスの画像を見てみました。

2020年4月24日付日経新聞より。

 コロナウイルスもまた生命体で、他の生命体に寄生して生き延びています。そのための手段として、他の生命体の内部にしっかりとくっつくための棘を持っています。生き延びるために他の生命体に絡みつくという点で、人や動物とそう大した違いがあるわけではないのです。

 そう考えると、このモチーフには、動物であれ、植物であれ、人であれ、コロナウイルスであれ、生を紡ぐためには相互に絡まり合い、複雑に寄生しながら生きていかざるをえないという現実が示されていることがわかります。

 このモチーフには、大小島氏の作品化のプロセスを端的に見て取ることができます。そればかりか、その芸術観も垣間見えたような気がしました。

■コロナ時代の芸術

 新型コロナウイルスはいっこうに終息する気配を見せず、感染者は日本はもちろん、世界中で日々、増加しています。もはや「アフターコロナ」(after corona)、「ポストコロナ」(post corona)という表現は適切ではなく、「ウィズコロナ」(with corona)と言わざるを得ない状況になっています。

 おそらく、新型コロナウイルス感染の広がりとともに、社会のパラダイムシフトが進んでいくことでしょう。非接触、非対面のコミュニケーションに移行せざるをえなくなり、やがてはテクノロジーに依存した社会に変容せざるをえなくなっています。

 一方、新型コロナウイルスは今回のcovid-19で終わるものではなく、今後も次々と新種が登場し、今回と同様、パンデミック現象を引き起こしていくでしょう。

 それを回避できないのは、世界人口が増加の一途を辿るにつれ、森林の伐採が進み、ウイルスを持っている野生動物と人間との距離が近づかざるをえなくなっているからでしょう。人口が増えると三蜜(密集、密閉、密接)を避けることが難しく、今後、新型ウイルスへの感染リスクが高まっていくと考えられるのです。

 さらに、グローバル化が進み、人が世界中を移動するようになっていることも、感染リスクを高めます。グローバル化がウイルス由来のパンデミック現象を引き起こし、それに拍車をかけるからだといえます。

 このように考えてくると、私がなぜ、大小島氏の作品を見たとき、衝撃を受けたかがわかるような気がしてきました。チラシに掲載されていたモチーフには、現代社会に突き付けられた課題が見事に描かれていたからでした。

 この作品を見ていると、現代社会に果たす芸術の役割が見えてくるような気がします。今回、私が経験したように、優れた作品は、観客に現代社会の矛盾や課題を感じさせ、そして、考えさせる力を持っています。それこそが、テクノロジーが支配するいまなお、芸術が持ち得るパワーなのだという気がするのです。

 大小島氏は今回制作中の作品をどのように完成されるのでしょうか、おおいに期待したいと思います。(2020/7/28 香取淳子)

アマビエ・アートで、新型コロナウイルスを退散?

■「AMIGO! アマビエプロジェクト」の開催

 2020年5月28日、西武線仏子駅で下車し、入間川に向かって歩いていました。途中、坂を下った辺りのT字路で、信号待ちをしていると、赤い屋根の建物の前にたくさんのフレームが掲げられているのが見えました。

 遠目には子どもたちの作品展示のように見えます。

 赤褐色の屋根に、古き良き時代の趣きがあります。そこはかとない郷愁を感じさせられる建物です。見ているうちに、何の施設なのか、気になってきました。

 信号が変わったので、近づいてみると、看板があって、「AMIGO!」と書かれた文字の下に、数人が馬車に乗っている姿が白抜きで描かれていました。いかにもメルヘンチックな絵柄です。下方を見ると、「入間市文化創造アトリエ」と書かれていますから、この建物はどうやら、文化施設のようです。

 看板の周囲には、木造のフレームがいくつも掲げられています。見ると、人魚のような絵が種々、展示されています。絵画教室に通う生徒たちの作品なのでしょうか。

 入口方面をみると、道路沿いには同じような形式で、たくさんの作品が展示されていました。

 興味深いのは、作品の展示方法でした。一連の作品はそれぞれ、手作り感のある木造のフレームに入れられて、子ども椅子の座面、あるいは、その上に木材で固定され、展示されていたのです。

 改めて見直すと、単調にならないよう、木材の位置は適宜、高低差がつけられていることがわかります。木造フレームの背後には植え込みがあって、展示空間を優しく包み込み、作品をさり気なく引き立てていました。

 それにしても、なんと味わい深い路上ギャラリーなのでしょう。昔の小学校で使っていたような木造の椅子といい、素朴な木枠のフレームといい、なんともいえず牧歌的で、見ていると、タイムスリップしたような気持ちになってしまいます。これまで見たことのない、斬新な趣向の展覧会でした。

 ふと、展示作品に交じって、説明書きのようなものがやや高い位置に掲げられているのに気づきました。この写真では、手前に写っているフレームです。ちょっと拡大してみましょう。

 「アマビエ」についての説明書きでした。内容をご紹介しましょう。

 「日本に伝わる半人半魚の妖怪です。アマビエは、豊作と病気の流行を人々に予言し、自分の姿を写して人に見せると病気から逃れられると伝えました。そのことから、アマビエは疫病を鎮める妖怪として言い伝えられております」と書かれています。

 ざっと見たところ、展示作品には、人魚のような絵柄が多いと思っていました。説明書きを読んで、その理由がわかりました。人魚のようなもののその正体は、アマビエだったのです。説明書きによると、このアマビエは、「疫病を鎮める妖怪」だそうです。

 さっそくスマホの検索画面に、「入間市文化創造アトリエ AMIGO!」と入力してみました。すると、この路上ギャラリーは、コロナウイルス感染症の収束を願うプロジェクト、「アマビエアートプロジェクト」として企画された展覧会だということがわかりました。

 ホーム画面から「アマビエギャラリー」のページに移動すると、応募作品が何点か、紹介されていました。

こちら → https://i-amigo.net/pg981.html

■アマビエとは?

 私は知らなかったのですが、厚生労働省もアマビエをアイコンに使い、新型コロナウイルス感染の拡大防止キャンペーンを展開していたようです。

(厚生労働省より)

 ひょっとしたら、まだアマビエ関連のニュースがあるかもしれません。そう思って、調べてみると、KATOKAWAが、3月19日に『怪と幽』の号外を出し、香川雅信氏(兵庫県立歴史博物館学芸員)のアマビエについての解説を掲載していました。

 私が知らない間に、アマビエという妖怪が一躍、時のヒトになっていたのです。

 香川氏はアマビエについて、次のように説明しています。

「弘化3年(1846)、肥後国(熊本県)の海中に毎夜のように光るものがあり、役人が確かめに行ったところ、海中に住む「アマビエ」と名乗る怪物が現れ、当年より6年の間は豊作が続くが、病気が流行するので自分の姿を写して見せるように、と告げて海中に消えた、という。摺物の左半分にはその「アマビエ」の姿が描かれている。一見すると髪の長い人魚のようにも見えるが、鳥のようなクチバシ状の口があり、目や耳は菱形で、まるで「ウルトラマン」に登場する怪獣のようなデザインである。およそ江戸時代離れした造形センスで、一度見たら忘れられない、何とも言えない味わいがある」(※『怪と幽』号外、2020年3月19日)

 このエピソードの出典として、香川氏は、京都大学附属図書館が所蔵する、「肥後国海中の怪(アマビエの図)」を提示しています。右頁に説明文、左頁にアマビエの図が刷られています。説明文を読むと、確かに、右から2行目に、「アマビエ」の文字が見えます。

 興味深いのは、左頁のアマビエの図です。わかりやすくするため、アマビエの図の部分だけ切り取ってみました。

(『怪と幽』号外 2020年3月19日より)

 これを見ると、香川氏が指摘するように、アマビエの図は江戸時代に描かれたとは思えないほど斬新です。まず、目や耳がひし形というのが、意外でしたし、鳥のような嘴に足まで届く長い髪にも意表を突かれました。

 さらに、アマビエの上半身は鱗で覆われ、下半身は尾ひれのようなもので構成されています。ですから、一見、人魚のように見えるのですが、どういうわけか、波間にまっすぐ立っています。まるでヒトが地面に立っているように波間に直立しているのです。脚部に相当する3本の尾ひれのようなものに支えられているといえなくもないのですが、その重力を考えると、実際はありえない構図です。

 妖怪だからこそ、成立する図柄だといっていいのかもしれません。

 この図を見る限り、鳥のようであり、ヒトのようでもあり、魚のようでもあるのが、アマビエです。矛盾をはらみ、なんとも不可思議な存在です。常識的にいえば、そもそも、存在自体がありえない設定なのです。

 もっとも、だからこそ、アマビエはこれまで、妖怪だといわれてきたのでしょうし、得体の知れない疫病を収束させる力を持つと人々に信じられてきたのでしょう。

 アマビエの姿を描けば疫病が退散するという伝承は、江戸時代に始まったそうです。香川氏によれば、妖怪好きの人々の間では、アマビエは比較的よく知られた存在だったそうですが、一般的には、妖怪自体、まだ知名度が高いとはいえません。それが、これほどまでに注目を集めるようになったのは、明らかに、新型コロナウイルスの感染が拡大していったからでしょう。

 香川氏は、「妖怪が病気の流行を予言し、その絵姿を見ることで流行病から逃れることができる、という話は、江戸時代にはたびたび見られ、一種の定型化した伝承であったと言える」とし、さまざまな事例をあげています(※ 前掲)。

 一連の記述の中で、興味深かったのは、香川氏が、「アマビエ」は本来、「アマビコ」という名前であったと考えられるとしている点でした。該当箇所をご紹介しておきましょう。

「本来この妖怪は「アマビエ」ではなく「アマビコ」という名前であったと考えられるのである。というのは、「アマビコ(海彦、天彦、尼彦)」について記した資料は数多く確認できるからである。おそらくは、カタカナの「コ」を「エ」と読み間違えたのであろう。また、「アマビコ」は本来、3本足の猿の姿で描かれていたが、それが次々と描き写されるうちに、人魚のような姿になってしまったものと推測される(海中から現れたという部分に引きつけられたのだろう)」(※ 前掲)

 確かに、その可能性はあるでしょう。

 そこで、調べてみると、福井県の文書館・図書館に勤務する長野栄俊氏が2020年3月11日、関連する見解を披露していることがわかりました。

こちら → https://fupo.jp/article/amabie/

 長野氏の見解で興味深いのは、「アマビエは、早々に私の姿を写して人々に見せよとは告げるが、その御利益は明言していない」とし、「アマビコの方は、私の姿を見る者は無病長寿、早々にこのことを全国に広めよと告げている」としている点です。

 確かに、京都大学が所蔵している文献には、アマビエが疫病の流行を予言し、自分の姿を写して人々に見せるように告げてはいることは記述されています。ところが、正確にいえば、疫病から逃れられるとは書かれていないのです。つまり、アマビエは、肝心の感染予防に役立つとは記されていないのです。

 長野氏は、「拡散すべきはアマビエではなく、アマビコの方かもしれない」と書いています(※ 前掲URL)。

 伝承の内容はどうであれ、アマビエの姿はSNSを通して全国に拡散しました。「アマビエチャレンジ」として、さまざまなイラストが描かれ、シェアされていきました。新型コロナウイルスの感染が世界中に拡大するにつれ、江戸時代に注目されたアマビエに再び、出番がまわってきたのです。

 厚生労働省は、感染防止キャンペーンに、アマビエの絵を逆向きにし、アイコンとして使っていました。アマビエの顔や立ち姿には愛らしさがあり、ヒトを引き付ける魅力があります。キャンペーンに相応しいキャッチ―な絵柄だといえるでしょう。

 簡略化し、特徴を際立たせた絵柄からは、印象的で記憶に残りやすい、優れたデザイン力を感じさせられます。一見、稚拙に思えますが、矛盾に満ちた造形には、なんだろうと思わせる力があり、啓発キャンペーンにはぴったりです。

 さて、展示作品を見ると、最も多かったのが、アマビエの絵に文字を組み込み、ストレートに感染防止を訴求していた作品でした。

■疫病退散

 アマビエ伝承を意識したのでしょう、展示作品の中で多かったのが、「疫病退散」という文字が書き込まれた作品でした。

 文字でも絵柄でも、メッセージがはっきりとわかるようなデザインです。子どもたちに伝えたいメッセージが、具体的にわかりやすく仕上げられた作品です。

 さらに、こんな作品もありました。

 アマビエの特徴のある耳をヘアアクセサリーとし、上半身を覆う鱗をファッショナブルなデザインの衣装に置き換えています。この作品は、十代の女性に訴求力をもつでしょう。

 また、こんな作品もありました。

 この作品では、ひし形の眼、長い髪、尾ひれのような3本足、アマビエの特徴がしっかりと捉えられています。また、繰り返し押し寄せる波のトップには、一つずつ白い線が配されており、波頭が立っていることがわかります。こういうディテールの描き方に、海中から現れたといわれるアマビエの由来が、さり気なく表現されています。

 画面を構成するモチーフはそれぞれ、原画(「アマビエの図」)に忠実にその特徴が取り入れられています。その一方で、顔や色調には現代的テイストが加えられています。全体を淡い色調でまとめ、かわいらしさをアピールしつつ、メッセージがしっかりと届くよう構成されています。

「疫病退散」という文字が手描き風に淡い色彩で描かれています。そのせいか、この作品には押しつけがましさがありません。さり気なく、そっとメッセージを発信しているのです。どの層にもまんべんなく受け入れられそうな穏やかさと可愛らしが印象的です。

 この作品を見ると、応募作品に中には、プロに近い人の作品もあるのではないかという気がしてきました。

 そこで、スマホで再び、「入間市文化創造アトリエ AMIGO!」検索してみました。すると、館長の5月28日付のブログが見つかりました。それによると、このプロジェクトは、HP、SNS、チラシを使って、幅広く作品の公募を行ったそうです。5月25日で締め切った結果、応募点数は182点にも達したといいます。これだけでも、この企画がタイムリーなものであったことがわかります。

 もう一度、路上ギャラリーに戻ってみましょう。

■さまざまな作品

 多くの作品が、建物の境界線や植え込み、あるいは、路上に展示されています。大きなパネルにまとめて展示されているものもあれば、個別の木枠に入れて展示されているものもあります。

 大きな木造パネルにまとめて展示された作品群がありました。建物の境界に沿って設置されています。

 このパネルを逆方向からみると、このようになります。

 さらに、植え込みの中には、こんなパネルが設置されていました。ここでは、似たような作品が何点か見受けられます。

 この大きなパネルの手前に、印象深い作品がありました。椅子に木材を縛り付けて固定され、やや高い位置に展示されています。作風がユニークなので、しばらく見入ってしまいました。

 この作品をアップしてみましょう。

 まず、丁寧な描き込みが印象的です。

 全身を覆う鱗の描き方や彩色の仕方がとても丁寧で、陰影が感じられます。たとえば、上から下にいくにつれ、鱗の形状が変わり、藍の濃淡で表現された明るい部分と暗い部分の割合が変化していきます。そのせいか、正面を向いて直立しているアマビエの姿に立体感とボリューム感が醸し出されています。

 次に、天使の羽のように見える部分が気になりました。これは、背ヒレなのでしょうか。淡く微妙な色合いで表現されており、そこだけ明るく浮き立つように描かれています。

 一方、顔面は藍一色で描かれており、目はひし形、口は三角、耳は線を数本引いただけで表現されています。藍色の補色である金髪が顔の周囲を多い、足元まで長く伸びています。首から下は暗色が加えられているせいか、金髪といってもそれほど目立たず、周囲に溶け込んでいます。

 脚部は3本の尾ひれのようなものに支えられ、ヒトのように直立しています。身体の線に沿って髪の毛が描かれ、足元が大きく描かれているせいか、末広がりの形状になっており、安定感があります。

 ひし形の目、全身を覆う鱗、長い髪、3本足といった、「アマビエの図」の特徴を踏まえた上で、作者の創造力を加えて造形されており、ユニークで奇妙な魅力的を放っていました。

 アマビエの周囲は、黒地を背景に、様々な形状の青と黄色のモザイクで埋められています。さまざまなモザイクと青を基調とした色構成からは、絵画作品というよりむしろ、イスラムの造形物のような緻密さが感じられます。独特の風合いがあって、見応えのある作品でした。

 さらに、深みのある作品も展示されていました。

 左上に、「アマビエ」と文字が書かれ、中央上部に、鳥のような動物が大きく口を開け、驚いたようなまなざしを下方に向けている動物が描かれています。「アマビエの図」の特徴は見受けられませんが、おそらく、これがアマビエなのでしょう。

 アマビエの周囲は濃淡の藍色で表現され、荒れ狂う海が表現されているように見えます。まるで荒々しい波間をかいくぐって、海中から顔を出したかのようです。顔面と上半身の一部が、浮き立つように明るく描かれており、驚いたような顔面の表情がことさらに印象に残ります。まさに、海中から出てきたばかりの妖怪に見えました。

「アマビエの図」では脚部に描かれていた尾ひれのようなものが、この作品では鳥の前足の爪のように見えます。よく見ると、その爪が何か別の生き物を押さえつけているようです。この構図が、獰猛な動物の捕獲の瞬間を想像させる反面、その顔面の表情にはなんともいえない愛嬌があります。目は丸くて大きく、開いた口は厚ぼったく大きく描かれており、可愛らしい小鳥のように見えます。明と暗、可愛らしさと獰猛さが同居しており、ちょっと不気味な絵柄ですが、そのコントラストが妖怪らしく、観客を画面に引き込む力がありました。

 もう一つ、印象に残る作品がありました。

 この作品では、4段階でオブジェの推移が描かれているように見えます。どう見ても、アマビエには見えませんが、左から右へと、オブジェが少しずつ変化していく段階を表現しているように思えました。

 まず、左端は黄色と青で構成された不定形の図柄です。その右は、黄色と青が薄められ、3箇所の青が強調され、流れるように描かれています。さらに、その右になると、黄色はさらに薄くなり、青も上部に2箇所集中し、下方は黄色と青がさらに淡くなって、溶け合っています。最後に、右端になると、黄色は左上部、青は真ん中と右上部に薄く存在し、新たに赤系の色が薄く加わって、全体が溶け合っています。

 図の変化の様子を見ていくと、原初的なウイルスが変化し、様相を少しずつ変え、ついには別のものが加わり、新種になっていく様子を描いているようにも思えます。抽象的な表現ですが、だからこそ、ウイルスを捉えるには適した描き方といえるのかもしれません。印象に残る作品でした。

■アマビエアートから、何が見えてきたか

 今回、たまたま通りかかった路上で、アマビエアートを見ることができました。おかげで江戸時代の「アマビエ」伝承を知ることができましたし、それを踏まえて表現された数々の作品を鑑賞することができました。

 香川氏は、江戸時代には、アマビエに限らずさまざまな妖怪が病気の流行を予言し、その絵姿を見ることで、疫病から逃れられるという伝承があったといいます(※『怪と幽』号外、3月19日)。

 当時、各地でさまざまな疫病が流行していたようです。だからこそ、そのような伝承が流布していたのでしょうが、興味深いのは、アマビエなどの妖怪が果たした機能の一つが、「病気の流行の予言」だということです。

 新型コロナウイルスの感染拡大に至った経緯から明らかになったことは、疫病の発生・流行をいち早く知ることがいかに重要かということでした。感染したことを知らないまま外出、感染を軽視して行動自粛をしない、・・・、というようなことが、感染を世界中に拡大させ、パンデミック現象を引き起こしてしまいました。いまなお、感染が収束する気配はみえません。

 パンデミックに対処するには、いち早く疫病の発生を知り、人々にそれを告知し、対応策を取って、感染を広げないことがなによりも大切でした。アマビエ伝承では、海中から光って現れ、人々に「疫病の流行を予言」したといいます。できるだけ大勢の人々に知ってもらうために、その姿が認知されやすいよう、アマビエは暗い海の中から光って浮上するという手段を取ったのでしょう。

 アマビエのもう一つの機能は、「その姿を描いて他人に見せる」ことで疫病からまぬがれられるというものでした。つまり、疫病の発生を知った者はより多くのヒトにそれを知らせることで、疫病の蔓延を防止できるという知恵です。

 一方、アマビエの可愛らしい立ち姿(「アマビエの図」)は人々の気持ちを和ませます。アマビエアート展でも、ほとんどの作品が可愛らしいアマビエの姿を描いたものでした。

 得体のしれない新型コロナウイルス感染に怯え、外出自粛、行動自粛を要請されて、人々はこの3か月余を過ごしました。どんなものでもいい、苛立つ気持ちを鎮め、鬱屈した気分を取り除いてくれるものが必要でした。

 「アマビエ」伝承では、その姿を描くことを勧めていました。描くことによって、そのような鬱屈した気分を払拭することができたのでしょう。

 この伝承の中で、私は、なぜ「姿を描いて、ヒトに見せる」ことが奨励されていたのかわかりませんでした。ところが、私たちが現在経験している不安で鬱屈した気分を思い起こすと、当時、「アマビエの姿を描く」という行為が、人々の心理的な危機を救うことにもなっていたのではないかと思えてきたのです。

 これまで、科学的とはいえない民間伝承を顧みることがありませんでした。ところが、このアマビエアート展をきっかけに調べてみると、民間伝承にはそれなりの発生理由があり、社会的な機能を果たしていたことがわかりました。とてもタイムリーな企画の展覧会でした。(2020/6/1 香取淳子)

墨・鑑 現代の水墨芸術四人展:王恬氏の作品にみる墨芸術の新領域

■「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」の開催

 中国文化センターで、「墨・鑑 現代の水墨芸術四人展」が開催されました。上海梧桐美術館、中国文化センター、シルクロード生態文化万博組織委員会が主催し、上海龍現代美術館、德荷当代芸術センターの共催で行われました。開催期間は2019年9月2日から6日まで、開催時間は10:30~17:30(最終日は13:00まで)でした。

 出品された4人の水墨芸術家は、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏です。私は開催初日に出かけたのですが、会場に入るとすぐ正面のところに、出品者の顔写真が掲示されていました。


左から順に、王恬氏、汪東東氏、林依峰氏、呉笠帆氏

 この写真の前で、関係者が勢ぞろいしたところで撮影しました。胸に赤いリボンをつけているのが、今回の四人展の画家で、左から、王恬氏、林依峰氏、汪東東氏です。

 四人展なのに、リボンを付けた方が3人です。不思議に思われたかもしれませんが、実は、この日、呉笠帆氏は、残念ながら所用があって出席されませんでした。作品はもちろん、会場に展示されていました。

 展覧会に出品された4人の作家はそれぞれ、長年にわたって墨の力、その奥深さを追求してこられました。会場をざっと一覧しただけでも、彼らがいかに墨芸術に新しい息吹を吹き込もうとし、墨芸術の幅を広げる努力をしてきたかがわかります。展示作品はいずれも現代の鑑賞者の感性を刺激し、新たな表現領域に誘ってくれるものでした。

 中国文化センターのHPに、出展作品の一部が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。

 左から順に、汪東東氏の『半壁』(水墨紙本、30×30㎝、2019年制作)、呉笠帆氏の『風里的密码』(水墨紙本、70×85㎝、2019年制作)、林依峰氏の『岩幽杳冥』(紙本設色、57×25㎝、2017年制作)、王恬氏の『上海小姐』(水墨紙本、137×68㎝、2018年制作)です。

 どの作家も水墨画の伝統を踏まえ、新たな表現領域を開拓して、着想を作品化していることがわかります。墨が持つ表現の可能性、あるいは、筆が持つ表現の可能性を最大限に生かし、個性豊かな表現世界を切り拓いていたのです。

 展示作品を見ていると、この展覧会は「四人展」というより、むしろ、4人の個展が同じ会場で開催されているといった趣きでした。作家の個性が作品を通して相互に刺激し合い、墨芸術のさらなる可塑性を感じさせる空間になっていたのです。

 さて、私は4人の中で、とくに、王恬氏の作品に強く印象づけられました。なによりも、さまざまな現代女性が水墨画で描かれているのが新鮮でした。墨ならではの力強さと繊細さによって、現代女性の諸相が的確に表現されていたことに感心したのです。

 それでは、王恬氏とはいったい、どのような画家なのでしょうか。

 そういえば、入口に掲載されていた写真に、王恬氏の略歴が付けられていたことを思い出しました。その部分を拡大してみることにしましょう。

 これを見ると、王恬氏は、上海師範大学芸術学院水墨画専攻を卒業後、上海美術学院現代水墨画研究科に進み、大学院修了後、著名芸術家の張培礎氏に師事し、一貫して、水墨画を極めてこられてきたようです。

 残念ながら私は張培礎氏を知りません。いったい、どのような画家なのでしょうか。張培礎氏をネットで検索してみると、抒情的な美しさが漂う作品が多いことがわかります。

こちら →https://www.easyatm.com.tw/wiki/%E5%BC%B5%E5%9F%B9%E7%A4%8E

 王恬氏は水墨画を専門的に学び、その後もさまざまな観点から水墨画の可塑性を追求し続け、現在は、華東政法大学文伯学院芸術学部の教授をされています。「墨力」表現手法の創設者であり、中国水墨画界でかなりの影響力を持つ人物のようです。

 それでは、作品をご紹介していくことにしましょう。

■王恬氏が捉えた女性たち

 王恬氏の作品は、会場に9点、展示されていました。いずれも女性の肖像画です。まず、印象に残った作品を何点か取り上げ、紹介していこうと思ったのですが、作品を選ぶ段階で迷ってしまいました。どれも個性的で魅力があって、選ぶことができませんでした。王恬氏の表現世界を伝えようとすれば、出品作品すべてを紹介する必要がありました。

 さて、9点の作品を見ていると、いくつかの属性によってカテゴライズできるように思えました。すなわち、生きてきた歳月(年齢)、職業・階層、色彩、等々です。私が便宜的に設定したこのカテゴリーに従って、作品をご紹介していくことにしましょう。

【生きてきた歳月】

 年齢という観点から女性を捉えた作品が3点ありました。「静かな歳月」、「ときめく少女」「留学中の中学生」です。いずれも女性として生きてきた歳月の長短によって、その精神のあり方、佇まいの様相が異なっていることが示されています。それぞれの作品を見ていると、改めて、生きてきた歳月がいかに女性の佇まいに大きな影響を与えているか、考えさせられます。

●「静かな歳月」

 窓を背に、足を組んで、椅子に深く腰を下ろしている女性が描かれています。タイトルは「静かな歳月」です。清楚で上品な中年女性です。その容姿からは、穏やかに、誠実に、そして、賢明に生きてきた来歴を見て取ることができます。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 眼鏡の奥からまっすぐ観客に向けられた視線が印象的です。正視は通常、相手に緊張感を与えるものですが、この女性の場合、目尻がやや垂れ下がっているせいか、視線は決して強さや冷たさを感じさせるものではなく、むしろ穏やかで、慈愛深さが感じられます。

 ノースリーブの服を着ていますが、襟元は詰まっており、ネックレスなどの装飾品も身につけていません。全体に思慮深く、聡明な印象があります。どのような立場に立たされても、この女性はおそらく、誠実に、賢明に対処してきたのでしょう。その結果、生きてきた歳月が深い味わいとなって、表情、姿勢、佇まいに色濃く反映されています。

●「ときめく少女」

 赤いスポーツウエアをラフに着込んだ若い女性が椅子に座っています。他人の目をまったく意識していないのでしょう、足を外股に大きく広げています。目を閉じて俯き、どうやら、物思いに耽っているようです。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 前髪を垂らし、横の髪を雑に後ろに束ねた様子、あるいは、赤いスポーツウエアをちょっと着崩した姿からは、まだ取り繕うことを知らない幼さが感じられます。

 タイトルは「ときめく少女」です。そういわれてみれば、俯き加減の色白の肌に、ほんのりと朱が差しています。恋心に酔っているのでしょうか。微笑ましい若さが表現されています。

●「留学中の中学生」

 まるでランジェリーのように、露出の高い服を着た若い女性が椅子に座っています。顔や肌は黒く、髪の毛はオレンジ色で描かれています。


紙本に水墨、90×68㎝、2019年制作

 肩幅が広く、胸や太ももの肉付きもよく、身体つきからは、成熟した女性のように見えます。ところが、タイトルを見ると「留学中の中学生」とあります。驚いてしまいますが、この女性はまだ十代半ばの少女なのです。

 母国ではおそらく、このような格好が許されているのでしょう。ひょっとしたら、この女性はまだ危険な目に遭遇していないのかもしれません。あまりにも無防備な姿に、若さの持つ未熟さ、思慮のなさ、奔放さが感じられます。

【職業・階層】

 職業あるいは階層の観点から女性を捉えた作品があります。「キャリアウーマン」、「上海レディ―」、「庶民派美しい娘」の3点です。それぞれの作品を見ていると、職業あるいはその階層がいかに強く女性の佇まいに影響しているかがわかります。

 それでは、見ていくことにしましょう。

●「キャリアウーマン」

 大柄の女性が肩ひじをついて指で頬を抑え、片方の手は膝に置いて足を組んで、椅子に座っています。何か考え事をしているような風情です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 口元をきつく結び、何かを凝視しているかのような視線で、遠方を見つめています。その表情からは意思の強さ、果敢な行動力が感じられます。表題通り、まさに、「キャリアウーマン」です。おそらく、ビジネスの最前線で活躍している女性なのでしょう。白の衣服の上から緑色の大判のスカーフを羽織っており、この女性がオシャレにも気を配っていることがわかります。

●「上海レディ」

 やや小柄の女性がサングラスをかけ、足を横に流して組んで、座っています。目の表情はわからないのですが、プライドの高そうな表情が印象的です。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 最初にご紹介したHPの写真では、この作品のタイトルは「上海小姐」と書かれていましたが、会場では「上海レディ」になっていました。日本人向けに翻訳されたのでしょう。ちょっと気取ったポーズの取り方がまさに、大都会上海に住む誇り高い「上海レディ」を連想させます。

 この女性は、これまで「上海っ子」としての矜持を持って生きてきたのでしょう。サングラスの下から、ちょっとヒトを見下したような表情が見えます。厚底の靴を履き、ショートカットのヘアスタイルからは流行に敏感な女性であることもわかります。その容姿からは誇り高く生きてきた歳月が読み取れます。

 年齢はおそらく、「静かな歳月」で描かれた女性と同世代なのでしょう。眼鏡をかけ、足を組み、ノースリーブで襟元の詰まった服を着ているという点で、両者は共通しています。ところが、その雰囲気は明らかに異なります。この二つの作品からは、どのように生き、何を気持ちの拠り所にして歳月を重ねてきたのか、一定の年齢になれば、それがそのまま容姿に現れてしまうことが示唆されています。

●「庶民派美しい娘」

 若い女性が手をだらりと下げ、足を揃えることもせず、だらしなく椅子に座っています。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 目は大きく、眉も揃えられ、唇は赤く塗られています。しっかりとメイクされた顔は現代的な小顔の美人に見えます。きっとオシャレな女性なのでしょう。黒い服の上から、唇の色に合わせた赤いスカーフを軽く首に巻き付けています。いかにも現代的なファッションセンスを感じさせる格好なのですが、姿勢に締まりがなく、ストイックな精神性が感じられません。

 そういえば、タイトルは「庶民派美しい娘」でした。改めてこの作品を見ると、しっかりとメイクしており、外面的に美しいことは確かなのですが、この女性に精神性は見受けられず、ただ流行を追っているだけという印象を拭えません。大都会でよく見かける若い女性の典型だといえるでしょう。

【色彩】

 タイトルに色彩の名前が入った作品がありました。「白衣のおんな」、「紫色のおんな」、「青色の女の子」の3点です。色彩と関連づけて、女性が捉えられています。

●「白衣のおんな」

 大柄の女性が両手を重ね、足を組んで座っています。組んだ片足のふくらはぎから膝までがスカートの下から見えています。


紙本に水墨、137×66㎝、2018年制作

 白衣といわれてイメージするのは看護師、医者、研究者などですが、この女性はどうやらそのどれでもなく、白い服を着た作業員のように見えます。とろんとした目つきであらぬ方向を眺め、だらしない口元を見ると、どこか捨て鉢で、虚無的なイメージがあります。

 仕事に満足しているわけではなく、かといって、家庭があるようにも思えません。もはや若くもなく、自分の居場所を見つけられないでいる不安感が、このような虚無的な表情を生み出しているのかもしれません。

●「紫色のおんな」

 長い髪を巻き毛にした女性が足を組み、椅子に座っています。都会的なセンスで外見を整えていますが、顔の表情からはやや投げやりな雰囲気が感じられます。


紙本に水墨、137×68㎝、2019年制作

 赤い唇を半開きにした女性の表情からは、物憂く、気だるい気分が漂ってきます。何事も卒なくこなせる女性なのでしょう。濃い赤紫色の服に、同系統のスカーフをまとい、腕には黄土色の時計をつけています。ファッションセンスの良さが感じられます。

 おそらく大都会で働く女性なのでしょう。慌ただしく過ぎていく日常生活の中で、ふと我に返ったとき、すべてがおっくうで、投げやりな気持ちになってしまった・・・、というような瞬間が捉えられているように思えます。目を伏せた表情からは疲れを読み取ることができます。若さはとっくに去ってしまい、時折、老いを感じるようにもなっているのでしょう、この女性の容姿からはどことなく厭世気分が感じられます。

●「青色の女の子」

 若い女性が、足を揃え、背筋をまっすぐ伸ばして座っています。緊張しているのでしょうか。片方の肘をつき、もう一方の手を長く伸ばして、椅子の脚部を抑えています。その姿勢は、まるで必死になって身体を支えているかのように見えます。


紙本に水墨、90×68㎝、2018年制作

 おそらく他人の視線を意識しているのでしょう、ことさらに首筋を伸ばし、強張った表情を見せています。よく見ると、目が大きく、鼻筋の通った美人顔ですが、その表情にはどこか無理をしているような硬さがあります。そして、表情や所作全体からは、生硬な若さが感じられます。

 この作品のタイトルは、「青色の女の子」です。ところが、どういうわけか、この女性は淡いピンクの服を着ています。タイトルにある青色は大きな椅子カバーに使われているだけです。不思議に思って、よく見ると、女性の肌が薄い青色で描かれています。それも、透明感のある薄い青色が、顔や首、腕や足など、部位によって濃淡をつけながら使われていました。

 これで、ようやく、この女性が淡いピンクの服を着ている理由がわかりました。若い女性の青味がかった、透明感のある肌を際立たせるには、淡いピンクの服が必要だったのでしょう。確かに、淡いピンクによって、薄い青色で表現された肌の透明感、ハリの良さが引き立てられていました。

 一方、左腕や肘、スカートからはみ出た両腿と膝は、やや濃い青色で描かれ、椅子カバーの青色と溶け合っています。このように、濃淡を効かせて青色を使うことによって、画面全体から若い女性の持つ生硬さ、清潔感、透明感といったものが巧みに描出されていました。

■墨で描かれた現代女性の諸相

 一連の作品を見ていくと、王恬氏は、若い女性であれ、中年女性であれ、すべての対象を椅子に座った状態で描いていることに気づきます。いわば制限された条件の下で女性を描いているのですが、作品は9人9様、個性豊かに表現されています。彼女たちが見せた表情、所作、態度の中から、王恬氏はその本質を的確に抽出し、瞬間的に、表現していたからでしょう。

 それぞれの作品には、独特の流れがあり、勢いがあり、動きがありました。それこそ水墨画の真髄が存分に発揮されていたのです。ふとした瞬間に見せる女性たちの表情が、筆の大胆なタッチや繊細なタッチ、あるいは、勢いによって見事に捉えられていました。しかも、描き方がとても自然でした。

 そのせいか、写実的に描かれたのではないのに、描かれた女性たちは皆、どこかで見かけたような気がするほど、生き生きとしたリアリティがありました。そして、どの作品にも普遍性が感じられました。現代社会に生きる女性たちの生態が的確に捉えられていたのです。描かれたのは上海の女性たちですが、東京でも見かけそうな女性ばかりでした。

 王恬氏は、大都会で生きる女性たちの本質を見抜き、筆と墨の力で見事に、その生態を描き切っていました。見れば見るほど、王恬氏の観察力の鋭さ、表現力の的確さに感心せざるをえません。対象を捉える鋭さに加え、大胆で洒脱な墨表現が作品を興趣に富んだものにしていました。現代社会で生きる女性たちを、水墨画の技術で描き、それぞれを典型にまで高めて表現していたのです。

■ぼかし表現が浮き彫りにする現代社会の疲弊

 大都会だからこそ、留学生という形で異文化が入り込んできます。「留学中の中学生」にはそれが反映されていました。明らかに東洋人ではない体格、肌色、髪の毛の色、そして、中学生とは思えない所作、服装などに異文化が表現されていたのです。

 顔面にはぼかしが入れられ、表情は判然としませんが、疲れているように見えました。海外からの留学生は、たとえ夢を抱いてやってきたとしても、やがて文化の違いが気になり始め、意思の疎通が十分ではない状況に疲れてくる時期を迎えます。描かれた中学生はおそらく、その時期にさしかかっていたのでしょう。中学生なのに、全身からどことなく、疲弊が感じられました。

 この作品には、異文化との共存が強いられる現代社会の一端が表現されていました。

 顔面にぼかしが入れられていた作品は他にもありました。「庶民派美しい娘」「紫色のおんな」などの作品です。いずれも顔面にぼかしが入れられているので、表情はよくわかりませんが、態度や姿勢、所作などには疲弊している様子が感じられます。流行を追いかけ、見た目は華やかに装っていても、実は疲れ切っている女性たちが描かれていました。

 誰もが競争を強いられて生きていかざるをえない現代社会の一端が、このような形で表現されているといえます。

■墨の線が浮き彫りにする内面世界

 その一方で、顔の表情がはっきりわかる作品もあります。「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」、「ときめく少女」などです。

 仕事のことが頭から離れない女性(「キャリアウーマン」)がいるかと思えば、ふとした瞬間に、来し方行く末を考え、虚無的になってしまう女性(「白衣のおんな」)、さらには、紆余曲折を経て、いまは平穏な日々を送る女性(「静かな歳月」)、あるいは、若さゆえの生硬さが抜けきらない女性(「青色の女の子」)、恋心を隠すことができない女性(「ときめく少女」)、等々。

 いずれの作品も、表情や所作から、女性の心の内を推し量ることができます。繊細で大胆な墨の線によって簡略化され、誇張化された描法が、女性たちの本質を浮彫にしているからでしょう。対象を写実的に描いたのでは、ここまで深く、内面世界を描き出すことはできなかったと思います。

 たとえば、「ときめく少女」の場合、目も鼻も墨で線がさっと引かれているだけです。きわめて単純化された造形ですが、そこにほんのりと桜色を差すことによって、この女性の初々しさを強調する効果が見られました。

 口元を見れば、上下の唇の間に太い横線が粗く引かれており、一見、口を半開きにしているように見えます。下唇は分厚くて大きく、とても無骨に見えます。ところが、厚い下唇の上方のラインに沿って、少しだけ朱を差すころによって、女性らしさを滲ませることに成功しています。「ときめく少女」の心理状態を、このように、墨の線に朱を添えるだけで表現しているのです。

 髪の毛の描き方も絶妙です。前髪をバラっと垂らしたところに、墨の線で太く、勢いをつけて流れを作り出しています。耳上、耳下の髪の毛もやはり、太く勢いよく、流れるように墨の線を濃く引いています。髪の毛を後ろに束ねている様子を、大胆なタッチで描いているのです。

 王恬氏は、強い墨の力で、少女のストレートな髪の毛を端的に表現する一方、誇張された筆遣いで、ストレートな心情を描き出していました。墨の濃淡、線の太さ、勢い、流れといったもので、造形されたものに生命を与えていることがわかります。

 全身に目を移すと、女性は上半身を傾け、腰が引けたような恰好で椅子に座っています。脚を大きく広げている様子が、墨の太い線を使って、両太ももの内側をしっかりと固定するように描かれています。この姿勢には、羞恥心の欠片も見られません。外面を気にする余裕もないほど、恋煩いをしていることが示されています。足元でのぞく白い運動靴が、この女性が少女であることを思い起こさせてくれます。

 「キャリアウーマン」、「白衣のおんな」、「静かな歳月」、「青色の女の子」なども同様、墨の力で表情と所作を柔軟に描き出すことによって、それぞれの女性たちの内面世界が巧みに表現されていました。

■日本的感性に響く墨芸術

 「四人展」で見た作品のうち、墨で描かれた女性肖像画9点を紹介してきました。王恬氏が描いた女性像からは、墨だからこそ、可能になった表現がいくつか見受けられました。

 墨汁を浸した筆を紙の上で走らせるので、油彩画とは違って、筆に勢いが出ます。筆を寝かせれば太い線を引くこともできますし、筆先だけで緻密な線を引くこともできます。墨汁の量によって、「ぼかし」や「かすれ」を表現することができます。筆遣いひとつで大胆にも緻密にも、強くも弱くも表現できるのです。

 大都会では、ヒトは常に競争に晒され、強さを強いられて生きています。ともすれば、疲弊し、虚無的になってしまいがちます。王恬氏の作品には、そのような現代社会の様相が女性たちの姿を通して表現されていました。水墨画という伝統を踏まえ、現代社会の諸相が見事に描き出されていたのです。

 複雑で捉えがたい現代社会でも、工夫すれば、水墨画の形式の中でその諸相を表現することができることがわかります。描かれた女性たちには普遍性があり、それぞれが現代社会の典型とみなすことができました。モチーフの取り上げ方、画面構成、色の使い方などに工夫が凝らされていたからでしょう。

 私はそこに、引き込まれました。上海の女性たちが描かれているにもかかわらず、まるで東京で暮らしている女性たちを見るように、感情移入して鑑賞していたのです。水墨画という表現形式が日本人の感性にマッチしているからでしょうか。

 一連の作品を見ていると、軽やかに、現代社会の空気を漂わせながら、その諸相を抉り出すなど、油彩画では表現しきれないという気がしてきました。誇張表現、省力表現、抽象表現などが可能な水墨画技術は、ひょっとしたら、現代社会を描き出す手法としてふさわしいのかもしれません。墨芸術の新しい領域を見た思いがしました。素晴らしいと思います。(2019/9/8 香取淳子)