ヒト、メディア、社会を考える

絵画

ゴダールを偲ぶ ①:『気狂いピエロ』冒頭シーン

■回顧2022年:ゴダールの訃報

 2022年9月13日、ネットニュースでゴダールが亡くなったことを知りました。91歳でした。驚いたというよりは、なにか奇妙な感覚に襲われました。とっくの昔に過ぎ去った青春時代が突如、甦ってきたのです。

 ゴダールといえば、私の青春時代を彩った華麗な文化人たちのうちの一人です。名前を聞くだけで、タバコをくわえ、ラッシュ・プリントをチェックしていたゴダールの有名な写真が思い出されます。

 フィルムを光にかざし、黒メガネの奥から見上げるゴダールの姿です。当時、この姿を見て、なんと洒落て、カッコよく思えたことでしょう。

(※ https://www.blind-magazine.com/en/news/philippe-r-doumic-the-photographic-treasures-of-french-cinema/より)

 フィリップ・R・ドゥーミク(Philippe R. Doumic)が撮影したこの写真は、ゴダールの溢れる知性と強力な破壊力を鮮明に映し出しているように思えました。映画界に新たなムーブメントを巻き起した男のしなやかで強靭な精神力が、この写真から放散されていたのです。黒メガネとタバコはその象徴にも思えました。

 『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、1960年)で一躍有名になった彼は、『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)でその名を不動のものにしました。

 『気狂いピエロ』が日本で公開されたのが1967年7月、いそいそと映画館に出かけたことを鮮明に思い出します。雑誌を通して、評判は知っていましたが、私が実際に、ゴダールの映画を見たのは、この時が初めてでした。

 その後、『中国女』(La Chinoise、1969年)、『ウィークエンド』(Week-end、1969年)など、ゴダール作品が日本で公開されるたび、待ちわびるようにして、映画館に行きましたが、『気狂いピエロ』で感じたような衝撃を味わうことはできませんでした。

 『気狂いピエロ』は、私にとって、それまでに見たことがないほど斬新で、刺激的で、痛快な映画でした。

 1970年10月には、『彼女について私が知っている、二、三の事柄』(Deux ou trois choses que je sais d’elle)が公開されました。タイトルが映画らしくなくて面白いと思いましたが、忙しくなっていたこともあって、結局、映画館に行くことはありませんでした。映画雑誌で関連情報を得ただけに終わっています。

 こんなふうにして、私はいつしか、ゴダールから遠ざかってしまいました。そして、今年9月、不意にゴダールの訃報に接したのです。

 驚いたことに、ゴダールは安楽死を選択していました。

 一瞬、どう考えていいかわからず、頭が空白状態になってしまいました。ところが、次の瞬間、いかにもゴダールらしいと気持ちを切り替えることができました。生命の終わりの期日を、自然に任せるのではなく、医療に任せるのでもなく、潔く自ら決定していたのです。

 『気狂いピエロ』を見た時と同じような衝撃を与えられました。

 そこで、ゴダールを偲びながら、私がもっとも衝撃を受けた『気狂いピエロ』について振り返り、その後、その死に方について、諸々、綴ってみたいと思います。

■『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)冒頭シーン

 ゴダール作品でもっとも衝撃を受けたのが、『気狂いピエロ』でした。とはいえ、今、覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーンとラストシーンだけです。

 ストーリーはほとんど覚えていません。ただ、ペダンティックで孤高な主人公が、劇画のように荒唐無稽な展開の果て、ダイナマイトを使って爆死するということぐらいです。

 当時、私がなぜ、この作品に強い衝撃を受けたのか、なぜ、これらのシーンだけが記憶に残っていたのか。ゴダールについて語るために、まず、それらを思い起こすことから始めたいと思います。

 記憶をはっきりさせるため、今回、DVDを購入し、詳細に見てみました。まず、冒頭のシーンから見ていくことにしましょう。

●タイトル画面

 映画が始まるなり、ペダンティックな画面に強い衝撃を受けたことを記憶していますが、改めてDVDを見てみると、タイトル画面もまた、斬新でした。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 同じフォント、サイズで必要最低限の映画の概要が示されています。赤で主演のジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ、そして、青でタイトルの「PIERROT LE FOU」の文字、最後に、監督のジャン・リュック・ゴダールの赤い文字が、黒地の画面に一文字ずつタイピングされて表示されていきます。

 タイピングで一字ずつ打ち出し、画面に表示していく方法が、当時はとても珍しく、画期的な表現方法に思えました。しかも、全ての文字が大小、強弱をつけず、均等で表されているのです。

 それだけではなく、キャストと監督の区別もされていませんでした。区別されているのはただ一つ、青で表示されたタイトルと、赤で表示された製作陣(主人公と監督)の違いだけでした。

 ここにゴダールの趣向の一つを見ることができます。リニアではなくノンリニアへの志向性、あるいは、要素に還元する志向性、さらには、生成過程への関心・・・、とでもいえるようなものを確認できたような気がします。

●ベラスケス

 タイトル総ての文字が表示されると、その画面に被るようにナレーションが始まり、明るいテニスコートの場面になります。

 低い男性の声で、つぶやくようにナレーションが読み上げられます。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 画面では、黄色のシャツに白のスカートを身に着けた若い女性が、明るい陽射しを浴びて、ボールを打ち返しています。

 それに被るのが、次のナレーションです。

 「背景の透明感と影の中に、色調の鼓動をつかみ、それを核にして静かな交響楽を奏でた」

 このナレーションは画面を説明しているわけではなく、画面と何らかの関係があるわけでもありません。それなのに、スクリーンからは次々と、映像と音声によって、別々の情報が流されてきたのです。

 圧倒されて、思考停止状態になっていました。

 正確に言えば、フランス語音声、日本語文字、映像など3種の媒体から発信される情報を、観客は考える暇もなく、受け取らざるをえなかったのです。しかも、映像と音声(ナレーション)は別々の内容だったので、観客自身がそれらを統合し、理解していかなければならず、圧倒されてしまったのです。

 奇妙な感覚を覚えさせられます。

 若い頃の私は、この冒頭のシーンで早々と、ゴダールの虜になってしまったのです。当時、フランス語を勉強しはじめてまだ、2,3年でした。聞き取ることはできず、もっぱら、字幕(文字)に頼って、内容を理解していましたが、それでも、所々しか、わかりません。

 その字幕が、会話のセリフではなく、文章語だったからです。しかも、格調の高い文章で、抽象語が多く、理解できないまま、画面が進み、焦ったことを思い出します。

 やがて、画面が変わり、本屋の店先で、男が本を選ぶシーンになります。

(※ 前掲)

 たくさんの本を抱え、男が本屋から出てきます。ここでも男のナレーションが続きます。

 「彼が描いたのは、浸食し合う形態と色調の神秘的な交感そのもの」

 「どんな衝撃にも中断しない。密やかで絶え間のない進歩のよる交感である」

 男はどうやら、冒頭からずっと、ベラスケスについて語り続けているようです。

 そして、絵画のような夜景になります。

(※ 前掲)

 その夜景に、次のようなナレーションが被ります。

 「空間が支配する表面を滑る大気の波のようにー」

 「自らを滲みこませることで輪郭づけ、形づくり芳香のごとく、至る所に広がる軽い塵となって、四方に広がりゆく、エコーさながらである」

 場面は一転し、バスタブに浸かって、タバコをくわえ、本を読む男のシーンになります。男はここでようやく、主人公フェルディナンとして登場するのです。

 そして、このシーンから、ナレーションと映像は一致します。

(※ 前掲)

 冒頭から続いてきたナレーションは、バスタブのシーンからは、実際に、男が音読する本の内容になっていきます。刺激的な言葉が次々と、画面に表示されていきます。

「彼の生きた世界は悲惨だった」

「堕落した国王、病弱な王子たち」

「貴公子然と装う道化師たち」「無法者たちを笑わせる」

「道化師は宮廷作法、詐術、虚言に締め付けられ」「告白と悔悟に縛られていた」

「破門、火刑裁判、沈黙・・・」

 男は、一体、何の本を読んでいるのでしょうか。

● “Histoire de l’Art L’Art moderne 2”

 気になって、タイトルがはっきりと映っているシーンを探して見ると、かろうじて、『Elie Faure  Histoire de l’Art  L’Art moderne 2』と書かれているのがわかりました。エリー・フォールの『芸術史 近代芸術2』だったのです。

 そこで、Wikipedia でElie Faureについて調べてみると、ゴダールの『気狂いピエロ』の冒頭のシーンで、ジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公が、エリー・フォールの『芸術史 』をバスタブに浸かって、娘に読み聞かせていることが、記載されていました。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89lie_Faure

 エリー・フォール(Élie Faure、1873-1937)は、フランスの医者であり芸術史家でありエッセイストでした。この本は1919年から1921年にかけて刊行された『芸術史』シリーズのうちの第2巻です。

 日本語に翻訳されていないかと探してみると、谷川渥・水野千依訳で、『美術史 4 近代美術』として国書刊行会から、2007年11月21日に出版されていました。

 図書館から借りて読むと、ベラスケスに関するナレーションのフレーズはすべて、この本から採用されたものだということがわかりました。

 たとえば、バスタブに浸かって、本を読んでいる時のナレーションは過激だと思いましたが、本で書かれている文言そのものでした。

 「彼が生きていた世界は悲惨なものであった。堕落した国王、病気がちの王子たち、白痴、侏儒、障碍者、王子の身なりをさせられ、みすからを笑いものにして、不道徳な人々を笑わせることを務めとする怪物のごとき道化師たち。彼らはみな、礼儀作法、陰謀、虚言に締めつけられ、懺悔と悔恨に縛られていた。破門や火刑、沈黙、なおも恐ろしい権力の急速な崩壊、いかなる魂も成長する権利をもたなかった土地」(※ 『美術史 4 近代美術』、p.142)

 若い頃、私が一連のシーンを見て、刺激を受けたのは、この字幕の言葉に勢いがあったからでした。映像よりも、ナレーションのペダンティックな言葉遣いに酔っていたのです。魅力的な言葉は、ゴダールが書いたセリフなのだと勝手に思い込み、夢中になっていました。

 ところが、今回、『美術史 4 近代美術』を読んでみると、エリー・フォールの文章そのものが力強く、刺激的なものだったことがわかりました。

 ゴダールは、自分で書いた脚本に従って、製作していたわけではなかったのです。そもそも脚本があったのかどうか、わかりません。

 映画の概要を見ると、脚本の項目にゴダールの名前がありますが、ラフなものだったのではないかと思います。脚本に拘束されることをゴダールは嫌ったはずです。まるでドキュメンタリー映画を製作するように、美術書を読むシーンを撮影していたのでしょう。俳優に依存して、その実在性を創り出しながら、作品を製作していたような気がします。

 その後の展開を見てもわかるように、ゴダールはいわゆるハリウッド的なストーリーを破壊し、シーン毎のアクチュアリティを大切にした監督でした。切り替えがなく、ナレーションを際立たせたバスタブのシーンに、ゴダールの拘りが現れているように思いました。

 とはいえ、美術書のどの箇所をナレーションに採用するかは監督であるゴダールが決めているはずです。

 急に、ゴダールの来歴が気になってきました。彼はなぜ、映画製作の道に進んだのか、なぜ、この作品の冒頭で、ベラスケス論を滔々と披露したのか、とくに、美術との関係を知りたいと思いました。

 少し横道に逸れてしまいますが、ゴダールの少年時代から映画製作に至るまでの過程を辿ってみる必要があるかもしれません。

● 少年時代から映画製作まで

 調べてみると、一家は1948年にスイスに転居し、ゴダールはローザンヌの学校に通っています。その頃、絵画に夢中になり、よく描いていたそうです。1949年の夏には、母親がモントリアンで彼の個展を開催したほどでした(※ コリン・マッケイブ、『ゴダール伝』、 pp.47-48. 2007年、みすず書房)。

 元々、数学が得意だったゴダールですが、母親に個展を開催してもらうほど、絵画にものめり込んでいたのです。ところが、1949年の秋にはパリに戻り、人類学の免状を取るため、ソルボンヌに登録しています(前掲。P.48.)

 得意だった数学でもなければ、夢中になっていた美術でもなく、どういうわけか、ゴダールは人類学を専攻しているのです。

 不思議に思って、調べてみると、当時、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)が、アメリカから帰国し、1949年にコレージュ・ド・フランス(Collège de France)に創設された社会人類学講座を担当することになっていました(※ Wikipedia クロード・レヴィ=ストロースより)。

 レヴィ=ストロースはアメリカで1948年頃に完成させた論文を携えて、フランスへと帰国していました。1949年には論文審査を経て、公刊されたのが、『親族の基本構造』(Les Structure Élémentaires de la Parenté)でした。『ゴダール伝』を執筆したコリン・マッケイブ(Colin MacCabe, 1949- )は、ゴダールが1949年にレヴィ=ストロースの講演を聞いたと言っていたことを記しています。

 こうしてみると、ゴダールが人類学を専攻したのは、おそらく、この講演がきっかけになったのでしょう。もちろん、知識欲旺盛なゴダールは、それ以前からレヴィ=ストロースのことは知っていたでしょう。著作も読んでいた可能性もあります。

 レヴィ=ストロースはフランスに帰国して以来、フランス思想界を牽引してきました。

 ゴダールが、『勝手にしやがれ』で注目を浴び、『気狂いピエロ』でその名を不動にした1960年代から1980年代にかけて、とくに、現代思想としての構造主義を担った中心人物の一人でした。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースの父は画家で、彼は幼い頃から芸術的環境の中で育ったそうです。ゴダールは直感的に何かを感じ取っていたのかもしれません。レヴィ=ストロースが帰国したことを知ると、ゴダールは早々に、人類学専攻に登録しているのです。

 雑多な情報の中から、知の時流を察知するゴダールの直観力には驚かざるをえません。

 最初の映画製作、そして、ヌーヴェルヴァーグの旗手として話題を集めた後も、ゴダールは長い間、注目を浴び続けてきました。それは、おそらく、旺盛な知的好奇心、知的な流行に対する感度の高さといったものが影響しているのでしょう。

 さて、レヴィ=ストロースを追って人類学を専攻したと思われるのに、ゴダールは授業にはほとんど出席せず、映画館に通い詰め、やがて、『カイエ・デュ・シネマ』(“Cahiers Du Cinéma”、1951年創刊)に、映画批評を手掛けるようになっていました。

 映画批評をし、映画理論を構築していくうちに、ゴダールが、映画製作への思いを募らせていくのは当然のことでした。制作資金を作る為、スイスの大型ダムの建設現場で働くことを決意しますが、建設現場に着いた途端、ゴダールはダムの建設についての映画を作ることを思いつきます(※ 前掲、『ゴダール伝』、p.92)。

 撮影技師を雇って製作し、1954年の夏に公開されたのが、最初の短編映画『コンクリート作戦』(Opération béton、16分)です。

 産業史を踏まえ、ドキュメンタリーの技法に則って製作されたこの作品は、撮影も編集も巧みだったため、1958年、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)主演の『お茶と同情』(Tea and Sympathy、1956年)の併映として映画館で上映されました(※ 前掲)。

 その後、ゴダールはこの作品を、当のダム建設会社に売り、2年間は製作費に困らないだけのお金を手に入れたそうです。

 数本の短編を製作した後、『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、90分)が1959年に製作され、1960年に公開されました。これが最初の長編映画です。

 この作品は、「ベルリン国際映画祭銀熊賞 」(監督賞、ジャン・リュック・ゴダール、1960年)、「ジャン・ヴィゴ賞」(1960年)、「フランス批評家連盟批評家賞」(1961年)と立て続けに受賞しています。

 この『勝手にしやがれ』で撮影を担当し、以後、ゴダールの作品のほとんどの撮影を担当したのが、ラウール・クタール(Raoul Coutard (1924 -2016)です。彼は、ゴダールが映画界に巻き起こしたヌーヴェルヴァーグについて、「あるとき、現実の、日常の、あるがままのものをそのまま捉えて見せた」と表現しています(※ 『ユリイカ特集:60年代ゴダール』、1998年10月、p.123)。

 ラウール・クタールは、もちろん、『気狂いピエロ』の撮影も担当していました。

 再び、浴室のシーンに戻ってみましょう。

● 小さな女の子の登場

 バスタブに浸かって、口にタバコをくわえたまま、声を出して本を読んでいた男が、突然、何かに気づきます。本から目を離して見上げたかと思うと、「よくお聞き」と画面の外に視線を送り、語りかけます。

 何事が起ったのかと思う間もなく、小さな女の子が入って来て、近づき、恐る恐るバスタブに手をかけます。浴室の外で父親の様子をうかがっていたのでしょう。ちらと父親を見ますが、男は知らん顔で本に目を走らせ、読み続けます。

 女の子がすぐ近くに立っているというのに、男は優しく言葉をかけるわけでもなく、頭を撫でるでもなく、構いもせずに、ひたすら本を読み続けるのです。

 「ノスタルジックな魂が漂う」「醜さも悲しみもなく」

 「みじめな幼年期も残酷な感覚もない」

(前掲)

 ページをめくる時、男は一瞬、女の子を見ますが、すぐに本に戻って読み続けます。

 「ベラスケスは夕刻の画家だ」といい、女の子をしっかりと見つめ、

 「空間と沈黙の画家である」と語り、再び、本に戻ります。

 小さな女の子に向かって、男は滔々と本を読み続けます。しかも、子供が理解できるとも思えない難しい言葉で、ただただ、本を読んでいるのです。その様子は、語り聞かせるというよりも、自分に酔って声を出しているようでした。

 「真昼に描こうと、暗い室内で描こうと」「戦争や狩りが荒れ狂おうと変わらない」

 「燃える太陽の下では」

「めったに外出しないためー」

「スペインの画家は夜と親しんだ」

 突然、妻が慌ただしく浴室に入って来て、「子供に分かるわけないわ」といい、女の子を連れだそうとします。

 男はあっさりと、「さあ、子供は寝な」と言って、女の子を風呂場から追い出します。

 こうして、それまで浸っていた想念の世界から、男は、いきなり現実世界に引き戻されるのです。

 ここまでが冒頭のシーンです。

 声を出すかどうかは別として、バスタブで本を読むというのは、ごくありふれた日常生活の一つです。そのごく日常的な行為が、ほとんど切り替えなしの映像で流されます。

 場面は変わらないので、観客はナレーションに注目せざるをえません。そのナレーションで語られているのが、エリー・フォールの『美術史』から引用したベラスケス論です。

 切り取られて、引用された言葉はどれも、17世紀スペインならではの陰鬱で孤独で、悲観的なものでした。この一連のナレーションに、この作品の展開が示唆されているような気がしました。

 もちろん、それを語って聞かせる主人公の性格、趣向、世界観なども表現されていました。さらには、ちょっとした会話から、子どもとの関係、妻との関係も、この浴室のシーンだけで如実に伝わってきます。

 このシーンにはおそらく、リアリティがあり、アクチュアリティがあったからでしょう。

● リアリティとアクチュアリティ

 この浴室シーンの異様なところは、途中で女の子を呼び入れたり、後に妻が入ってきたりしても、主人公がひたすら、浴室で本を読み続けていることでした。つまり、同じ時間と場所を共有していても、コミュニケーションが成立していない家族関係が示唆されているのです。

 誰もが経験するようなこのシーンには確かに、再現性があり、リアリティがありました。

 さらに、時間と場所を共有していながら、それぞれの意識空間から出ることができず、関わることのできない辛さ、悲しさも表現されていました。それは主人公の心情を強調して表現されているだけでなく、この作品の要約になっているようにも思えました。

 すなわち、分業化が進んだ消費社会の中で、個人もまた商品のように、絆が切り離され、数としてカウントされだけの存在になっていることの示唆です。

 この浴室のシーンにはリアリティばかりではなく、リアリティを支えるアクチュアリティが感じられたのです。

 それは、延々と続く、ペダンティックな言葉の羅列の中に、主人公の心情が見事に託されていたからでしょう。社会とそりが合わず、捨て鉢な気分にならずにいられない主人公の気持ちに引きずられた結果、観客は考える暇もなく、作品世界の中に誘導されていったのです。

 主人公が文章語で語るベラスケス論(エリー・フォールの『美術史』からの引用)は、主人公の疎外感をことさらに鋭く抉り出します。ベラスケスの時代に重ね合わせて表現されているだけに、客観性を担保しながらも、強烈に印象づけられます。疎外の原初形態がイメージされるからでしょう。

 滔々と『美術史』読み続ける主人公の姿にも、妙に、リアリティとアクチュアリティが感じられました。ただセリフを読んでいるだけではなく、実際にありえそうだし、実感がこもっているように見えたのです。

 思い返せば、ゴダールの最初の作品はドキュメンタリーの短編でした。その後、最初に製作された長編映画『勝手にしやがれ』もドキュメンタリータッチの作品でした。ゴダールが作品に、リアリティばかりか、アクチュアリティも求めていたことが推察されます。

 少年の頃、母親に個展を開催してもらうほど、絵画に夢中になっていたゴダールは、絵や画家については、その後も頻繁に論評を行っています。絵画については相当、造詣が深かったようなのです。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、主人公がなぜ、エリー・フォールの『美術史』を引用してベラスケス論を展開したのか、若い頃は、その必然性がわかりませんでした。改めて、映画を見たいま、別に不自然だとは思わず、なぜ、エドゥアール・マネではなかったのかという程度の違和感しかありません。

 というのも、ゴダールがエドゥアール・マネを非常に高く評価していることを知ったからです。

 蓮実重彦氏は、ゴダールが「マネとともに近代絵画は生誕したとつぶやいてから、近代絵画、すなわち映画が生誕したのだといいそえる」と書いています(※ 蓮実重彦『増補版 ゴダール マネ フーコー』、2019年、p.19)。

 実は、そのエドゥアール・マネが、「画家の中の画家」として評価していたのが、ベラスケスだったのです。冒頭のシーンで紹介した文章は、ベラスケスが描いた《ラス・メニーナス》(1656年、プラド美術館所蔵)について書かれたものでした。

 さらに、興味深いことに、主役を演じたジャン・ポール・ベルモンドの両親が画家でした。父親はフランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家であり、母親も画家だったのです。(※ Wikipedia ジャン=ポール・ベルモンドより)

 作品を支えるものとして、リアリティを重視したゴダールは、リアリティを支えるものとして、アクチュアリティを必要としていました。セリフ以外にその俳優から発散される雰囲気、所作、表情といった非言語的な要素がもたらす効果を看過しなかったのです。

 ジャン・ポール・ベルモンドをこの作品の主人公に起用したのは、来歴といい風貌といい、家庭環境といい、ゴダールがイメージするキャラクター特性を備えていたからだと思います。

 ゴダールを偲ぶため、『気狂いピエロ』を振り返ってみました。

 最初に見てから半世紀も過ぎた今、改めてDVDで見て、その斬新さに驚かせられっぱなしでした。媒体の特性に迫ろうとしているところがあり、実験的な要素もあり、時を超えて思考し、飛翔しようとするゴダールに未だに解釈が追いつきません。

 そのせいで、冒頭シーンを見てきただけで、マリアンヌとの出会いにもまだ達していません。次回はこのシーンから見ていくことにしたいと思います。(2022/12/29 香取淳子)

絵画の再生とは何か?:過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

■「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展の開催

 「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年11月18日から2023年2月12日までです。11月19日、秋晴れに誘われて出かけてみると、美術館手前の公園脇に、案内の看板が設置されていました。

 

 降り注ぐ陽光が、紅葉した葉を鮮やかに照らし出しています。その一方で、葉陰から洩れた陽が所々、看板に落ち、生気を与えています。穏やかな秋の陽射しが、まるで絵画鑑賞を誘いかけているようでした。

 看板には「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」と副題が書かれています。おそらく、これが平子氏の作品コンセプトなのでしょう。

 新進気鋭の画家・平子雄一氏は、果たして、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 会場に入ってみると、練馬区立美術館の「ごあいさつ」として、展覧会開催の主旨が書かれていました。その内容は、同館が所蔵する作品の中から、平子氏が10点を選び、それらの作品を分析し、解釈して、新たに制作した作品を展示するというものでした。まさに、「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展です。

 このような美術館側の開催主旨を汲んで、平子氏は作品タイトルを考えたそうです。コレクションという遺産(inheritance)を、アーティストが変形(metamorphosis)し、現代的な感覚のもとに再生(rebirth)させるという意味を込めているといいます。

 看板を見た時、展覧会のサブタイトルだと思った「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」は、実は、平子氏が名付けた作品タイトルだったのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。

■《inheritance, metamorphosis, rebirth》(2022年)

 会場に入ってすぐのコーナーで、壁面を覆っていたのが、平子雄一氏の作品、《inheritance, metamorphosis, rebirth》でした。あまりにも巨大で、しばらくは言葉もありませんでした。

(アクリル、カンヴァス、333.3×9940.0㎝、2022年)

 巨大な画面に慣れてくると、この作品が、コンセプトの異なる4つのパートから成り立っていることがわかってきました。

 引いて眺め、近づいて個別パートを見ていくうちに、描かれている光景やモチーフは異なっているのに、色遣いやタッチ、描き方が似ていることに気づきました。そのせいでしょうか、4つのパートには連続性があって、巨大な画面全体に独特の統一感が見られました。

 この統一感をもたらしているものこそ、平子氏の対象を捉える眼差しなのでしょう。

 巨大な画面なのに圧迫感がなく、ごく自然に、平子氏の作品世界に引き入れられていきました。画面の隅々まで、平子氏の感性、世界観が溢れ出ていたからでしょう。描かれている木々やキャラクター、その他さまざまなものに注ぐ平子氏の眼差しには、限りなく温かく、優しく、楽観的で、自由奔放な柔軟性が感じられました。

 気になったのは、コレクション作品の痕跡が、この作品のどこにあるのか、わからないということでした。そもそも、この作品は、練馬区立美術館が所蔵している作品を参照して制作されているはずです。

 訝しく思いながら、会場を見渡すと、対面の壁面に展示されていたのが、平子氏が参照した作品10点と各作品に対する感想、そして、制作に際してのアイデアスケッチでした。

 まず、平子氏がコレクション作品をどう選び、どう捉えたのかを見ていきたいと思います。

■平子氏は、コレクション作品をどう選び、どう捉えたのか

 練馬区立美術館が所蔵する作品の中から平子氏が選んだのは10作品で、それらは、対面の壁に展示されていました。もっとも古いのは小林猶次郎の《鶏頭》(1932年)、もっとも新しいのは新道繁の《松》(1960年)です。1932年から1960年に至る28年間の作品が10点、選ばれたことになります。

 画題はいずれも風景か植物でした。このうち何点か、印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

 その後、開催されたアーティストトークの際、平子氏が評価していたのが、新道繁の《松》でした。

(油彩、カンヴァス、116.0×91.3㎝、1960年、練馬区立美術館)

 「松」というタイトルがなければ、とうてい松とは思えなかったでしょう。幹や枝に辛うじてその痕跡が残っているとはいえ、全体に抽象化されて描かれています。まっすぐに伸びた幹は、色遣いが柔らかく優しく、秘められた奥行きがあります。そこに、松に込められた日本人の伝統精神が感じられます。

 調べてみると、確かに、新道繁(1907~1981)は「松」をよく描いています。渡仏した際、ニースで受けた印象から、松を題材にするようになったそうですが、以後、「松」を描き続け、第3回日展に出品した《松》(1960年)は日本芸術院賞を受賞しています。(※ https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10156.html

 平子氏は、この作品について素晴らしいと評価し、「飽きが来たとき、デフォルメした」と解釈していました。同じモチーフを描き続けてきたからこそ、新道繁は、この段階(抽象化)に到達することができたと推察していたのです。

 私は平子氏のこの推察をとても興味深く思いました。たとえ、写実的に形態を写し取ることから描き始めたとしても、何度も同じモチーフを描いていると、やがて、本質に迫り、価値の再創造を図らざるをえなくなります。そのような創造の進化過程で起きる画家の内なる変化を指摘しているように思えたからでした。

 さて、吉浦摩耶《風景》について、平子氏は、自然をエリアに分けて描こうとする視点に着目しています。自然による造形と人工的な造形とが混在していても、それぞれのエリアを分けることによって、作品として成立させているところに注目しているのです。

 靉光《花と蝶》に対し、平子氏は、「とても、いい。びっくりした」と評価していました。

(油彩、カンヴァス、72.6×60.8㎝、1941-42年、練馬区立美術館)

 葉が何枚も重なって、覆い繁る中で、花と蝶がひっそりと葉陰に隠れるように描かれています。写実的に描かれておらず、色と模様でようやく蝶であり花だとわかるぐらいです。花も蝶も平面的で、実在感がありません。

 もっとも、不思議な生命感は感じられました。背後には明るい陽光が射し込み、おだやかに手前の葉や蝶や花を息づかせています。そのほのかな明るさが、平面的に見えた花や蝶に命を吹き込んでくれているのです。

 柔らかな陽光をさり気なく取り入れることによって、平面的に描きながらも、さまざまな生命が確かに生きていることに気づかせてくれる作品でした。

 平子氏はこの作品について、「デフォルメの仕方が人工っぽくて面白かった。植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」といっており、靉光の独特のタッチに興味を示していました。

 確かに、独特の画風でした。

 興味を覚え、調べてみると、靉光の作品でもっとも多く取り上げられているのが、《眼のある風景》(1938年)でした。

(油彩、カンヴァス、102.0×193.5㎝、1938年、国立近代美術館)

 一見、肉塊のようにも、コブのようにも、ヘドロのようにも見える塊が、褐色の濃淡でいくつも描かれています。陽の当っているところがあれば、陰になっているところもあって、身体の中にできた腫瘍のようにも思えます。

 よく見ると、画面の真ん中に眼が見えます。

 澄んだ眼の表情には、混沌のさ中、何かをしっかりと見据えているような冷静さが感じられます。下の方には、血管の断面のような穴が開いた箇所がいくつかあります。何が描かれているか、皆目わかりません。それだけに、澄んだ眼の表情が強く印象に残ります。

 「眼のある風景」というタイトルを踏まえると、この絵は混沌の中でも見失ってはならないのが理性ということを示唆しているのでしょうか。

 この作品は、独自のシュールレアリスムに達した作品として評価されているようです。その後に制作された《花と蝶》にも、わずかにその片鱗を見ることができます。シュールレアリスムの系譜を引いたこの作品には、リアリズムを超えた実在感が感じられるのです。

 平子氏は、シュールレアリスムの傾向を持つ靉光の《花と蝶》に、「植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」と評価していました。

 リアリティとは何かという問いかけをこの作品は内包しています。

 写真技術による絵画の存在意義への脅威はとっくに過ぎ去り、いまや、デジタル技術による脅威の時代に入っています。従来の絵画手法で、写実的にモチーフを表現するだけでは、躍動する生命力を感じさせることができなくなっているのかもしれません。

 平子氏が選んだコレクション作品は10点でしたが、ここでは、平子氏がとくに心を動かされたと思われる作品を取り上げ、ご紹介しました。

 平子氏がそれらの作品から得たものを要約すれば、「人工と自然のエリア分け」であり、「人工物のようにデフォルメし、生命力を感じさせる」でした。

 それでは、平子氏はこれらの作品を踏まえ、どのような構想の下、過去の作品を再生しようとしたのでしょうか。

■制作のための構想

 平子氏が選定した美術館のコレクション作品に混じって、アイデアスケッチが展示されていました。今回の作品を制作するにあたっての構想を示すものです。パート毎に、それぞれのコンセプトが書き込まれていました。

 アイデアが書き込まれたメモ書きに、①から④の番号が振られています。どうやら、平子氏は当初から、4つのパートに分けて描こうとされていたようです。

 それでは、このメモ書きを順に見ていくことにしましょう。

① 当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である。

② 参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ。

③ 今日のプロジェクト。挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート。

④ ①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か。

 これを見ると、平子氏は、まず、コレクション作品を通して過去の画家が捉えた自然を描き(①)、次いで、それを解析して構想を練り(②)、そして、制作に仕上げていく自身を描き(③)、最後に、過去の画家が捉えた自然と、自身が捉えた自然とどちらがより真の姿を捉えているかを問う風景を描こう(④)としていたようです。

 パート①からパート④までの一連の流れを見ると、平子氏が、美術館側から提供された課題に対し、自然を題材に、起承転結の構成を踏まえて、再生しようとしていたことがわかります。

 それでは、具体的にどのような過程を経て、コレクション作品が再生されたのか、平子氏の《inheritance, metamorphosis, rebirth》を見ていくことにしましょう。

■コレクション作品を踏まえて再生された《《inheritance, metamorphosis, rebirth》》

 アイデアスケッチによると、平子氏は、風景画に始まり、風景画で終わる4部構成に収斂させて、自身の作品を構想していました。そして、「承」と「転」に相応するパート②とパート③には、木のキャラクターを取り入れていました。

 不思議に思って、パート③のメモ書きを見ると、「自画像に近いポートレート」と書かれています。それで、わかりました。この木のキャラクターこそ、作者自身であり、作者が手掛けようとするテーマの語り部でもあったのです。

 まず、パート①から見ていくことにしましょう。

●パート①

 平子氏は、当時の画家が描いた自然がどのようなものであったか知りたくて、コレクション作品を選んだといいます。メモ書きには、「当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である」と書かれています。

 参照したと思われるのが、田崎廣助の《武蔵野の早春》(1940年)、西尾善積の《練馬風景》(1937年)でした。いずれも木立の中を小道が続き、遠景に至るという構図で、どちらかといえば、よく見かける風景画です。

(展示作品。パート①)

 中景の両端に大きな木が2本、立っています。一方は葉が付き、他方は枝が切り取られて、葉が落ちています。その合間を曲がりくねった小道が上方へと続き、雑木林の中に消えています。その背後は靄がかかり、巨大な山がそびえています。

 平子氏は、《武蔵野の早春》や《練馬風景》から、木立の合間を小道が続き、空に至るという構図を援用したのでしょう。とはいえ、これらの作品の構図通りにパート①が描かれているかといえば、そうではありませんでした。

 小道は不自然なカーブを描き、小道を挟み、巨木が2本しか描かれていません。コレクション作品から構図を借りながらも、木立の部分を大きくデフォルメしていたのです。

 象徴的なのは木々の扱いです。コレクション作品では小道を木立が挟んでいるのですが、平子氏の作品では木は2本しか描かれておらず、しかも、自然のまま、伸びやかに枝を伸ばし、葉をそよがせているという通常の木の状態ではなかったのです。

 一方は枝が短く切られて葉がなく、一方は枝が少なく、剪定された松のように、葉が丸く切りそろえられています。つい、幹や枝を人工的に曲げて、時間をかけて形を整えられた松の木の盆栽を連想してしまいました。

 さらに、木の幹や枝は、褐色がかった黄土色の濃淡で表現されていました。これを見ると、新道繁の《松》で描かれた幹の色が思い浮かびます。もっとも、新道繁の《松》の場合、松の幹が抽象化されており、必然的にあのような色調になっていました。奥行きが感じられ、淡々と年月を重ねる松の木のイメージにも重なります。

 一方、平子氏のパート①の場合、木々の描き方は明るく、平たく、奥行きが感じられませんでした。おそらく、デフォルメして表現しようとしていたからでしょう。背景にも同色の塊が見えますし、枝が切り取られた低木も、その背後の木も同色で描かれています。

 また、画面の手前右には、枝を切られ横倒しになっている巨木の幹があり、上部が褐色、下部が濃褐色で描かれています。これもやはり、平たく、奥行きが感じられません。

 デフォルメして描かれているからでしょうし、そもそも平子氏がヒトの手の入った自然を薄っぺらいものと捉え、その薄っぺらさを表現するために取った手段なのでしょう。このような自然の捉え方に、平子氏の現代的な感性を感じずにはいられません。

 こうしてみてくると、木々の枝や葉がデフォルメして描かれているところに、平子氏の特色があり、自然観が見えてくるような気がします。

 一方、デフォルメされた明るい林の背後には、うっそうと葉の生い茂る木々が見え、その奥に靄のかかった山が見えます。こちらには自然が持つ深さと厚みが感じられます。

 近景、中景はデフォルメされたモチーフで構成され、遠景は鬱蒼とした林と靄のかかった山が描かれています。そこに、放置された自然ならではの重厚感、ヒトを容易に寄せ付けない威厳と峻厳さが醸し出されていました。

 近景、中景、遠景を繋ぐものが、巨木の合間を蛇行する小道でした。曲がりくねった小道が、自然が整備され開発されたエリアと、手付かずのまま残された自然のエリアを繋いでいるのです。

 よく見かける風景画の構図を借りて、人に都合よく開発され、人の美意識に沿うよう改変させられている自然の姿と、容易に開発できない自然の姿とが融合して描かれていました。このパート①の中に、人と自然とのかかわりの一端が凝縮して表現されていました。

 それでは次に、パート②を見ていくことにしましょう。

●パート②

 作者の分身でもある木のキャラクターが、ベッドに足を投げ出し、座っています。朝食の時間なのでしょうか、傍らにはコーヒーやパンが置かれ、寄り添った黒猫に優しく手をかけています。

 活動前のひとときなのでしょう、リラックスした雰囲気が漂っています。足元には、黒い帽子と赤いコートが置かれているところを見ると、食事が終わると、外出する予定なのかもしれません。

(展示作品。パート②)

 ベッドの周りには、多数の本が隙間なく、床に直接、積み上げられ、その上に、花の入った壺や花瓶、スイカやキュウリなどが置かれています。積み上げられた本が適度の高さとなっており、小テーブル代わりに使われているのです。

 一見、雑然として見える室内ですが、本はきちんと積み重ねられ、花や葉は花瓶や壺、植木鉢に、そして、果物は籠の中に入れられているせいか、モノが多いわりには整然とした印象があります。

 木のキャラクターは、さまざまな花や葉や野菜に取り囲まれ、考え事をしているようです。多数の書物を渉猟して情報を得、参照しながら、構想を巡らせているように見えます。背後の壁面には多数の絵がかけられています。これらの作品も参考にしながら、アイデアを絞り込んでいるのでしょう。

 これは、作者が思索するための空間なのです。

 それにしても、室内の色遣いがなんと鮮やかなことでしょう。思索の場に似つかわしくないように思えますが、真剣に思考を積み重ねながらも、決して深刻ぶることのない軽やかさがあります。そこに、新しさと若さが感じられました。

 しげしげと眺めているうちに、ふと、先ほど見たアイデアスケッチとは絵柄が異なっているような気がしてきました。

 そこで、改めてアイデアスケッチを見てみると、木のキャラクターは確かに、前景真ん中に描かれていますが、ベッドが見当たりません。

(アイデアスケッチ。パート②)

 このスケッチに添えられたメモには、「参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ」と書かれています。平子氏はこのパートを、コレクション作品と向き合い、制作した画家と交流する場と位置付けていたようです。

 さて、アイデアスケッチでは、右端に高い木がそびえ立ち、上の方に空が見えます。これだけ見ると、明らかに戸外の景色です。当初、平子氏は、風景の中に思索の場を設定しようとしていたのでしょう。風景や植物を描いた画家との交流の場として、戸外の景色が相応しいと思われたのかもしれません。

 興味深いことに、このアイデアスケッチにはベッドこそ描かれていませんでしたが、壺のようなものが多数、描かれており、本もスケッチされています。室内に置かれているようなものが多数、アイデアスケッチの中に描かれていたのです。この段階では、構想の場を室内にするか、戸外にするか、平子氏が逡巡していたことがうかがえます。

 ところが、ポスターに掲載された画像ではベッドが描かれていました。実際に制作してみると、ベッドが必要だと思われたのでしょう。確かに、画面真ん中にベッドを設置することによって、白いシーツが余白スペースとして効いています。

(ポスター画像、パート②)

 ポスター画像は、展示作品ほどモノがあふれているわけではありませんが、ベッドを置くことによって、思索の場を可視化できていることがよくわかります。

 木のキャラクターは、さまざまな情報を取り入れ、検証し、構想アイデアを結晶化させようとしています。アイデアをシャープにするには、脳内空間から雑念が取り払われなければなりません。白いベッドは、いってみれば、雑念を取り払った後の脳内空間であり、構想を練り上げるためのワークスペースとして機能しているのです。

 メモ書きで示されたように、このパート②を作品構想の場と位置付けるなら、ベッドは不可欠でした。

 さて、平子氏はこのパート②について、「「引用を避けつつ、引用している」と話していました。そして、「他の作家のモチーフを自分なりに描くというのは、作家として安易なことをやっている」といい、さらに、「もう二度とやらないが、すごい誘惑がある」とも語っていました。

 微妙な作家心理がうかがえます。

 平子氏が練馬区立美術館から求められたのは、過去の作家が創り出したモチーフなり、構図なり、色彩など(inheritance)を変形させて(metamorphosis)、自分のものとして描くこと(rebirth)でした。それは、創作者としては安易なやり方だが、心惹かれるものがあるといっているのです。

 だからこそ、平子氏は、一目で引用したことがわかるような引用の仕方ではなく、その本質を踏まえ、自身の作品に引き寄せて創り直すということを徹底させたのでしょう。

 改めて、展示作品を見てみると、雑然とした室内に、赤が効果的に配置されていることに気づきます。コートの赤、木のキャラクターが着ているセーターの赤、花瓶敷きの赤、柿の赤といった具合に、鮮やかな赤が差し色として室内随所に使われ、画面を引き締めるとともに、一種のリズムを生み出していました。

 この赤を見ていて、連想させられたのが、野見山暁治の《落日》で使われていた赤でした。

(油彩、カンヴァス、145.6×97.5㎝、1959年、練馬区立美術館)

 これは、平子氏が選んだ10作品のうちの1点です。

 赤く染まって沈んでいく落日に使われた赤が、印象的でした。これが、パート②に取り入れられたのでしょう。コートやセーター、花瓶敷きなどに使われ、画面に独特の秩序と動きを生み出していました。これもまた一種の引用といえます。

 不思議なことに、寂寥感が込められていた《落日》の赤が、パート②では、明るさと軽やかさ、洒脱さを画面にもたらしていました。野見山暁治の赤を、平子氏なりの感性とセンスで処理し、活用することによって、独自の光景を創り出していたのです。

 ちなみに、平子氏はこのパート②を最後に仕上げたそうです。さまざまに思索を重ね、逡巡しながら、このような形に仕上げていったのでしょう。

 それでは、パート③についてはどうでしょうか。

●パート③

 パート②で登場した木のキャラクターが、ここでは正面向きで大きく描かれています。メインモチーフとして表現されているのは明らかです。自然を愛する画家の肖像画ともいえる絵柄です。

(展示作品。パート③)

 両腕でリンゴを抱え、手で絵筆を握りしめ、絵具で汚れたスモックを着て、木のキャラクターが立っています。背後には、絵筆やさまざまな刷毛、筆洗い、照明器具、双眼鏡やラジオ、時計、カメラなどが棚に置かれ、画家の周辺には創作のためのメモがいくつもピンアップされています。

 構想段階(パート②)の室内とは明らかに異なります。

 いざ、制作しようとすれば、表現のための道具が必要です。画家の背後の棚に、具体的な作業に必要なさまざまなものが置かれています。それらのモノは、背後の壁面に陳列され、まるで画家の創作活動を支え、しっかりと見守っているかのように見えます。

 パート③では、理念だけでは処理できない、実践段階の様相が描かれていました。

 パート②とパート③は、木のキャラクターによって繋がっています。パート②で、木のキャラクターは遠景で捉えられ、多数の書物や植物とほぼ等価で描かれていました。さまざまな情報が絡み合い、連携し合い、時に、否定し合いながら構想をまとめていくには、主従があってはならないからでしょう。

 ところが、パート③では近景で捉えられ、制作する主体として大きく表現されています。一つの作品世界を完成させるには、主体が確立されていなければならないからだと思います。

 このように、パート②とパート③では、木のキャラクターのサイズに違いが見られました。そこに、作家の完成作品への関与の度合いが示されており、構想段階で描いた作品世界は、一つの過程にすぎず、実践段階では容易に変更されることが示されているといえます。

 ちなみに、平子氏はこのパート③には、「今日のプロジェクト挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート」というメモ書きを寄せています。

 それでは、パート④はどうでしょうか。

●パート④

 空は暗く、枝が切り取られ、幹だけが目立つ木の背後から、白い月がほのかな光を放っています。遠景には残照が広がっており、辺り一帯は黒ずんだ牡丹色に染まっています。上空を見ると、赤い火の粉が空に飛び、火口から噴出するマグマのようにも見えます。ヒトが対抗できない自然の威力を感じさせられます。

(展示作品。パート④)

 一方、麓から手前にかけてのエリアでは、木々の葉は緑ではなく、赤や黄色、ピンクで描かれています。まさに人工的に作られた自然が描かれているのです。

 たとえば、前景では黄色の小花が群生していますが、夜なので気温が下がっているはずなのに、花弁を閉じずにしっかりと開いたままになっています。しかも、大きさもほぼ同じでいっせいに咲いています。まさに人工的に作られているとしかいいようがありません。

 さらに、小道の左側には切り倒された巨木の幹が2本、横倒しになっていますが、手前が赤、その後ろがピンクで描かれています。その後方も同様、麓に至るまでのすべての植物が、リアルな植物ではありえない色で表現されているのです。鮮やか過ぎて、意表を突かれます。

 改めて、メモ書きを見ると、平子氏はこのパートについて、「①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か」と書いていました。

 過去の画家が捉えた自然をパート①で表現し、それを反転させて、現代の画家が捉えた自然をパート④で表現したというのです。

 実際、見比べてみると、モチーフはそれぞれ反転して描かれていました。そればかりではありません。時間帯を夜にし、色を人工的なものに置き換えて、パート①の風景が表現されていました。

 こうしてみてくると、平子氏は、参照した画家たちと現代の画家(自分)との捉え方の違いを、どれだけ自然界と離れているか(人工的か)の度合いで判断しようとしているように思えます。

 比較の基準となっているのが、パート①でした。

■展示作品とポスター画像との違い

 比較しながら、パート④を見ているうちに、展示作品が、ポスター画像と異なっていることに気づきました。色がまるで違っているのです。展示作品では木の葉が黄色でしたが、ポスターではたしか、木の葉が赤でした。

 念のため、ポスター画像から、パート④の部分を抜き出し、確認してみることにしましょう。

 思った通り、葉の色が違っていました。ポスターでは剪定されて丸味を帯びた葉に赤が使われ、手前の草も赤でした。

(ポスター画像 パート④)

 植物の色が変容させられているだけではなく、手前から奥につながる小道が描かれていません。周囲の植物も整理されて描かれていないせいか、まだヒトの手が入っていない原野のようにも見えます。

 一方、展示作品の方は、曲がりくねった小道が奥につながり、手前から画面半ばまでの自然がきちんと整備されています。その反面、山の麓から後のエリアは、人の手が入っていない自然界が描かれており、威圧的な存在感を放っています。

 展示作品とポスター画像との大きな違いは、ここにありました。

 すなわち、手つかずの自然を取り入れているかどうか、そして、ヒトの手の入ったエリアと放置されたままのエリアが一枚の画面の中で、はっきりとわかるように描かれているかどうかです。

■過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

 選択されたコレクション作品は、1932年から1960年までの作品でした。

 1932年といえば、満州事変の後、軍部の政治的影響力が拡大し、政党内閣制が崩壊の危機に瀕していた時期です。その後、第2次大戦を経て、戦後復興を果たし、高度経済成長期に入ったのが1960年でした。この期間はまだ圧倒的に農村人口の多い時代です。

 そのような時代状況を反映していたのでしょうか、パート①で描かれた風景には、せいぜい木を伐採するといった程度の人工化しか見られません。そして、人里に近いところは整備されていますが、山に向けての後方エリアは、まだ手付かずの自然が残っているといった状態でした。

 ところが、パート④では、気温に関係なく花を咲かせ、葉や幹に自然界にない色を付与した状態が描かれています。平子氏が現代の自然や植物をこのように認識していることが示されているのです。

 実際、私たちは、夜になればイルミネーションで照らされ、赤、黄色、青、紫といった色に変貌させられる植物の姿を日常的に見ています。その一方で、室内には、空気清浄化の機能を持った本物そっくりの観葉植物を置き、健康な生活を送っていると思い込んでいます。

 科学技術の進歩によって、いまや、自然を人工的なものに見せることができるようになったばかりか、人工的なものを自然と見間違えるほどに仕立て上げることもできるようになっています。

 いつごろからか、私たちは、何がリアルか、リアルでないかにそれほど意味があるとは思わなくなってしまいました。それよりも、役に立つか、効率的か、居心地がいいか、といった自己本位の評価基準で対象を捉えがちになっています。

 私たちの自然に対する意識もまた、変わってしまいました。「どちらが本物か」という問いすら持たずに、自然をコントロールし、ヒトに都合のいい形に作り替えておきながら、平然と、自然と共存しているような錯覚に陥っているのが現状です。

 残念なことに、私たちは、自然と共に生きることを止め、自然を利用することだけを考えるようになってしまいました。自然に耳を傾け、自然をありのままに受け入れることを止めた私たちは、もはや、自然界の憤りを感じるセンスを失ってしまっているのかもしれません。

 昨今、増え続ける異常現象は、人間優先で行われてきた自然利用や自然のコントロールに、自然界が悲鳴を上げ始めた証拠なのかもしれないのです。

 そんな今、平子氏は、4つのパートで構成された巨大な作品《inheritance, metamorphosis, rebirth》を通して、観客に大きな問いを投げかけています。「炭鉱のカナリア」のように、繊細な感性を持つ画家ならではの警告なのでしょう。

 パート①からパート④への変遷過程について、私たちは一人一人、改めて問い直す必要があるのではないかと思います。技術の絶え間ない進化は、自然界を追い詰めてきただけではなく、やがて、ヒトを追い詰めていくに違いありません。

 日本政府はメタバースに(metaverse)向けて舵を切り、ビジネス界が動き出しています。そうしなければ、世界に伍していけないからですが、過去を振り返ることなく、ヒトの生活を踏まえることなく、ただ技術の進化だけを進めていいのかという疑問が残ります。(2022/11/29 香取淳子)

《草上の昼食》:マネは何を表現しようとしていたのか。

 前回、石井柏亭《草上の小憩》を取り上げ、マネ《草上の昼食》の影響がどこにあるのかを見てきました。改めてマネの《草上の昼食》を何度も見ることになったのですが、見れば見るほど、人物モチーフの取り合わせが奇妙に思えてきます。

 マネは《草上の昼食》で一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 そこで今回は、制作過程や時代背景を踏まえ、マネが制作当時、何に関心を寄せていたのかを把握し、《草上の昼食》で何を表現しようとしていたのかを考えてみることにしたいと思います。

 《草上の昼食》の解説を見ると、ほぼ一致して、この作品はティツィアーノの《田園の奏楽》とラファエロの《パリスの審判》の影響を受けていると指摘されています。果たして、どこがどのように影響されているのでしょうか。

 まず、定説となっているこれら二つの作品を見ていくことから始めたいと思います。

■《田園の奏楽》と《パリスの審判》

 多くの評論家や学者、好事家が一致して指摘するのは、マネは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio, 1488頃-1576)の《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年)をルーヴル美術館で見て、着衣の男性と裸身の女性が田園で憩うという作品の着想を得たということです。

 そして、手前の男女3人の配置については、1515年頃にマルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi, 1480-1534)によって制作された、ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《パリスの審判》(Giudizio di Paride, 1515年)を基にした銅版画に影響されたということでした。

 《田園の奏楽》にしても、《パリスの審判》にしても、16世紀前半に制作された宗教画です。

 それでは、二つの作品を順に見ていくことにしましょう。

●ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年頃)

 この作品は長い間、イタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione, 1477年頃 – 1510年)が描いた作品といわれてきました。ところが、最近の学説ではその弟子ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488年頃-1576年)の作品だとされています。

(油彩、カンヴァス、105×137㎝、1509年頃、ルーヴル美術館)

 着衣の二人の男性と裸身の女性が草原に腰を下ろし、その近くに、裸身の女性が立ったまま、水差しから水を注いでいる姿が描かれています。座った女性は後ろ向き、立っている女性は前を向いています。暗い色調の木立の中で、画面手前の二人の裸身の明るさが目立ちます。

 二人とも完全な裸身というわけではなく、立っている女性は太腿から膝下にかけて布を巻きつけ、座っている女性は右太腿に巻き付けた布の上に腰を下ろしています。いずれも豊穣の象徴としての豊満な姿が描かれています。

 座っている男女3人は一見、仲睦まじく、団欒しているように見えます。ところが、よく見ると、どうやらそうではなさそうです。というのも、男性二人は親密に話し合っているのに、彼らは目の前の女性とは何ら関わりがなさそうなのです。

 二人の男性を見てみましょう。

 赤い帽子を被り同色の服を着た男性は楽器を奏でながら、隣の茶色の帽子を被った男性と何やら親し気に語っています。

(前掲、部分)

 至近距離に裸身の女性が座っているというのに、男性二人がなんら関心を示している様子はありません。赤い服を着た男性など、裸身の女性とは足が触れ合わんばかりに近いところにいるのに、まるで女性など存在していないかのように、隣の男性との会話に夢中です。

 もちろん、彼等はすぐ傍に裸身の女性が立って、水差しから水を注いでいるのにも気づかないようです。不思議なことに、男性は二人とも、裸身の女性になんの興味も示していないのです。

 ということは、この裸身の女性たちは生身の人間ではなく、女神あるいはニンフと理解すべきなのでしょう。そう考えれば、着衣の男性と裸身の女性を描きながら、この作品が顰蹙を買うこともなく、ルーヴル美術館に展示されていた理由もわかります。

 女神あるいはニンフだからこそ、裸身を描いても拒絶されなかったのです。

 16、17世紀の美術理論ではデコールム(decorum)という概念が重視されていました。宗教画、歴史画などの作品では、個々の人物の描き方が適切で、主題や表現ともに品位を保つ配慮が必要とされていたのです(※ https://karakusamon.com/word_bijyutu.html)。

 ティツィアーノは晩年、フェリペ2世の依頼で、宗教画と「ポエジア」と呼ばれる古代神話連作絵画を制作していました。神話に仮託した裸婦が描かれることも多かったといわれています。《田園の奏楽》を見てもわかるように、理想的な裸身を描く技量を持っていたからでしょう。

 ティツィアーノはデコールムに則って、魅力的な裸体を描くことができたのです。

 さて、マネの《草上の昼食》が影響を受けたといわれるもう一つの作品が、《パリスの審判》です。

●ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)《パリスの審判》(The Judgment of Paris、1515年)

 ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi, 1483-1520)はイタリアの画家であり建築家です。明確でわかりやすい構成と、人間の壮大さを謳い上げる世界を視覚化したことで評価されています。ラファエロの作品は絵画でもドローイングでも評価が高く、ローマ以外でも彼の作品を元にした版画が出回り、よく知られていました。

 そのラファエロが《パリスの審判》を描いたのをライモンディ(Marcantonio Raimondi,1475年頃‐1534年頃)が版画にしたのが、下の作品です。

(銅版画、サイズ不詳、1515年、ドイツ、シュトゥットガルト州立美術館)

 裸身の神々や天使が多数、描かれています。調和の取れた構図の下、それぞれが生き生きとした表情と動作で描かれ、見事です。その画面の一角に、《草上の昼食》のモチーフの配置とよく似た部分があります。

(前掲、部分)

 左の男性は膝に肘をついて、こちらを見て居ます。右の男性は足を投げ出し、武器のようなものを両手に持っています。3人とも男性ですが、この人物配置はまさに《草上の昼食》の人物配置です。マネがこの作品をヒントにしたことは明らかです。

 こうして二つの作品を見てくると、これらが《草上の昼食》に大きな影響を与えていたことがわかります。いずれも16世紀前半、ルネサンス盛期の作品です。これまで数多くの評論家や学者たちが指摘してきたように、画題といい、構図といい、マネがこれらのルネサンス期の作品を参考に《草上の昼食》を描いていたことは明らかです。

 ただ、それがわかったとしても、マネがこの作品を通して何を表現しようとしていたのかはわかりません。

 果たして、マネはこの作品を通して、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 再び、マネの《草上の昼食》の画面に立ち戻って、考えてみることにしましょう。

■画面を構成する「水浴」と「ピクニック」の光景

 やや引いて画面全体を見ると、気になるのは、上下二つに分かれた画面構成です。異なる二つの光景が一つの画面に描かれているのです。

 まず、中景から遠景にかけて、薄衣を着て水浴をしている女性が描かれています。前回指摘した人物配置図でいえば、三角形の頂点に当たる部分です。そして、前景から中景にかけては、着衣の男性二人と裸身の女性が談笑している光景が描かれています。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1863年、オルセー美術館)

 画面の上下で別々の光景が描かれているのです。上方は水浴する場面であり、下方はピクニックをしている場面です。いずれも癒しの光景とみることができます。奇妙なことに、この異なる二つの光景は森の木立の下、一見、違和感なく接合されています。

 二つの光景は着衣の男性の背後に見える緑の草地で描き分けられ、背後の川面には巨木の樹影が映し出されています。そのせいか、川辺と森とがごく自然に繋がって見えます。暗緑色の木々で覆われた画面の中で、裸身の女性と肌色のシュミーズを着た女性の姿がまるで光源のように辺りを照らし出しています。暗緑色の木立の中で、そこだけスポットライトを浴びているかのようです。

 よく見ると、水浴の女性は斜め下に視線を落としています。

(前掲。部分)

 まるで森にピクニックを楽しむ男女3人を見ているように見えます。この女性は裸身ではなくシュミーズをまとっていますから、女神ではなくニンフでもありません。生身の女性が視線をピクニックを楽しむ男女に向けているのです。

 この女性の視線は、時空の異なる二つの光景をさり気なく連携させるだけではなく、マネの関心の移行を示しているともいえます。すなわち、「水浴」から「ピクニック」への関心の流れです。

■水浴

 「水浴」から「ピクニック」への流れは、神話世界のイメージから現実世界のイメージへの流れであり、理想主義から現実主義への流れともみることが出来ます。ひょっとしたら、ここにマネの制作過程での意識の流れを追うことができるかもしれません。

 そもそも、この作品の1863年に開催されたサロン出品時のタイトルは《水浴》でした。ところが、モネがこの作品に刺激されて《草上の昼食》(1865-1866年)を描いたのを見たマネが、1867年に開催された個展でこの作品のタイトルを《水浴》から《草上の昼食》へと変更してしまったのです。

 マネはなぜ、タイトルを《水浴》から《草上の昼食》に変えたのでしょうか。

 マネの《草上の昼食》の画面を見返して見ると、「水浴」よりも「ピクニック」の方に比重が置かれているのは明らかです。この画面構成をみれば、マネがタイトルを変更した理由もわからなくはありません。

 ただ、画面上部に水浴の光景を描き、タイトルを《水浴》にしていたことを考えれば、マネは当初、水浴を画題に制作しようとしていたのではないかと思われます。その後、なんらかのきっかけがあって、ピクニックの光景をメインに描くようになったのでしょう。

 実は、1862年にマネは水彩でこの作品の下絵を描いています。

(水彩、紙、33.9×40.3㎝、1862年、オックスフォード、個人蔵)

 これを見ると、人物モチーフの配置、ポーズなど本作とほとんど変わりません。1862年の時点で、裸身の女性に着衣の男性二人、その背後に水浴する女性といった構図は定まっていたことがわかります。

 ただ、下絵では、裸身の女性と隣の男性が仲睦まじく寄り添い、同じ方向を見て居るのに対し、本作では、至近距離にいながら二人の間には距離があります。二人はやや離れて座り、女性は正面を見つめているのに男性はやや視線をずらして描かれているのです。

 また習作では手前にバスケットからパンや果物などが転がり出ている様子は描かれておらず、ピクニックという雰囲気はありません。ピクニックの要素は本作の制作段階で描き加えられたと考えられます。

 実は、《草上の昼食》の前にマネが描いていた作品があります。

 《驚くニンフ》(1861年)と《テュイルリー公園の音楽祭》(1862年)という作品です。これらの作品はどうやら、マネが《草上の昼食》で取り上げた二つの光景、「水浴」と「ピクニック」に関係がありそうです。

 まず、《驚くニンフ》から見ていくことにしましょう。

■《驚くニンフ》(La Nymphe surprise,1860- 1861)

 恥じらいを含ませながら驚くニンフの表情が印象的です。

(油彩、カンヴァス、146×114cm、1860-1861年、アルゼンチン、ブエノスアイレス国立美術館)

 モデルは、マネの恋人であったピアニストのスザンヌ・リーンホフです。当時、マネは父親に反対されて結婚できずにいましたが、父親が亡くなった2年後、彼女と結婚しています。

 マネは、レンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijn , 1606 – 1669年)の《スザンナと長老たち》(Susanna and the Elders , 1647年)に刺激されて、この作品を制作したといわれています。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/La_Nymphe_surprise

 それでは、《スザンナと長老たち》(1647年)は一体、どのような作品なのでしょうか。見ておくことにしましょう。

(油彩、パネル、76.6×92.8㎝、1647年、Gemäldegalerie, Berlin)

 この《スザンナと長老たち》(1647年)を参考にして描かれたのが、マネの《驚くニンフ》でした。

 確かに、裸身の一部を白い布で覆い、胸を手で隠すようにしてこちらを見るポーズは、《驚くニンフ》によく似ています。違っているのは、《スザンナと長老たち》では二人の老人に襲われそうになる状況が描かれているのに、《驚くニンフ》ではそうではないということです。

 状況が描かれていないので、マネの《驚くニンフ》では、驚きと困惑の原因がわからないのです。

 ひょっとしたら、マネは敢えて、レンブラントの作品からスザンナのポーズと表情だけを取り入れ、彼女が置かれた状況は削除して、《驚くニンフ》を描いたのかもしれません。そうした方がおそらく、作品が宗教的世界に拘束されにくいと判断したからでしょう。

 レンブラントのこの作品は、実は、旧約聖書『ダニエル書補遺』の「スザンナ」のエピソードから題材を得て描かれたものでした。美しい人妻スザンナが水浴するのをのぞき見た二人の長老たちが、彼女を襲おうとしているシーンです。

 この「スザンナ」のエピソードはよほど強く、画家たちの創作意欲を刺激したのでしょう。数多くの画家たちがこれを題材に作品を仕上げています。

(※ https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%B9%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%95%B7%E8%80%81%E3%81%9F%E3%81%A1&c=AND

 レンブラントは数多くの画家たちのうちの一人だったのです。この題材なら、宗教的価値、道徳的価値があり、しかも、裸婦を描いても、デコールムを気にする必要がないのです。

 さて、《驚くニンフ》で描かれた表情は、レンブラントの《スザンナと長老たち》よりもさらに穏やかで、優しく、官能的に描かれています。木立の背後に川の流れが見え、自然の営みの中でそっと切り株の上に腰を下ろした女性の姿がなんとも優雅です。

 興味深いことに、マネはこの作品では、暈し表現を取り入れ裸身を豊かに表現し、アカデミズムの手法に則った描き方をしています。そのせいか、この作品は宗教画に分類されています。デコールムの点でこの作品が批判されなかったことがわかります。

 一方、《草上の昼食》では、水浴する女性は裸身ではなく、当時のマナーの従って、シュミーズを身につけています。生身の女性が描かれていました。

 こうして時系列でみてくると、マネは、《驚くニンフ》の女性を《草上の昼食》の上部に描かれた水浴する女性に移し替えて描いたように思えます。宗教画に題材を取りながら、当時の現代社会を表現しようとしていたのではないかという気がするのです。

 さて、この水浴する女性が視線を投げていたのが、ピクニックの光景でした。

 ちょうどこの頃、マネは、《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)という作品を仕上げています。木立の中で憩うという点では大掛かりなピクニックのようなものでした。

■《テュイルリー公園の音楽会》(Music in the Tuileries , 1862年)

 第2帝政期のパリでは、上流階級が月に一度、テュイルリー公園に集まり、野外コンサートを開催していました。その時の光景を描いたのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、76×118㎝、1862年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

 男性はシルクハットをかぶり、女性は華やかなドレスを着ています。大勢の人々が正装で公園に集まっているのです。画面手前では女性が二人こちらを眺め、その足元で子供たちが遊び、中ほどでは人々が談笑しています。

 また、手前には日除けのための日傘が置かれ、休息するための瀟洒な鉄製の椅子があちこちに置かれています。戸外らしさを感じさせるのはそれだけで、画面全体に優雅な社交界の雰囲気が漂っています。

 ところが、よく見ると、中心部分の描き方が実に雑です。絵具がただ意味もなく、塗りたくられているだけなのです。もちろん、その辺り一帯の人や物の形は判然としません。手前や左の人物は表情がわかるほど丁寧に描かれているのに、なぜ、中心部分がこれだけ雑に描かれているのか、不思議でした。

 やり過ぎと思えるほど、中心部分が雑に描かれているので、やや引いて画面を見ると、その傍らに立つ白いズボンの男性の姿が鮮明に印象づけられます。

 この男性はマネの弟のウジェーヌ・マネだそうです。画面には、マネ自身を含め、ボードレールや画家仲間のラトゥールなど、マネの友人が数多く描かれているといわれています。(※ Wikipedia)

 部分的に雑に描いているのは、群衆の中で特定の人物を際立たせるための手法かもしれません。そう思って、改めて、画面を見直してみると、丁寧に描かれた人物の周囲は、雑に絵具が塗られています。いかにもマネらしい革新的な表現方法でした。

 さて、この作品は1863年にマルティネ(Galerie Martinet)画廊で開催された個展で展示されました。ところが、観客や批評家たちから下絵のようだと酷評されたといいます。予想通りの反応でしたが、その一方で、若い画家たちはこの作品に新鮮なものを見出し、評価していたそうです。(※ Françoise Cachin, “Manet : « J’ai fait ce que j’ai vu »”, Paris, Gallimard, 1994. 藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、『マネ―近代絵画の誕生』、創元社)

 興味深いのは、画面の色彩構成とモチーフの配置です。全体に男性が多く、黒のシルクハットに黒のジャケット、グレーあるいは白のズボンといった無彩色で統一されているせいか、手前のドレス姿の女性が目立ちます。

 白みを帯びたベージュのドレスを着た二人の女性は補色である水色のリボンのついた帽子を被っています。その水色は暗緑色の木立の背後に見える空の色と呼応し、画面を引き締めています。

 聴衆は、わずかに見える空の真下を頂点とした三角形の形の中に収まっています。幾何学的に計算されつくした構図であり、大勢の人物配置です。木々も人物も平板に描かれていますが、それだけに手前の鉄製の椅子が印象づけられます。

 音楽会に集まった聴衆が混乱せず、画面に収められているのは、大きな三角形の下、構造化されて表現されていたからでしょう。この作品は、色彩構成と空間構成の点で、《草上の昼食》に影響していると思われます。

 さて、《テュイルリー公園の音楽会》は、画面構成など表現方法はもちろんのこと、画題そのものも一部の人々には新鮮な印象を与えていた可能性があります。

 この作品には、19世紀後半のパリの上流階級の生活の一端を見ることができるだけではなく、新たな時代の楽しみ方が示されていました。戸外でレジャーを楽しむという贅沢が人々を捉え始めていたのです。

 ピクニックもその一つです。

■19世紀後半の近代化の諸相

 マネが《草上の昼食》(1863年)で取り上げたのは、二つの異なる光景、「水浴」と「ピクニック」でした。「水浴」は《驚くニンフ》(1860-1861年)の系譜を引き、「ピクニック」は《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)の流れを汲んでいます。

 19世紀後半のフランスでは、急速に近代化が進み、鉄道が敷かれてパリに多数の人々が流入し、都市を中心に人々の生活が大きく変化していきました。そんな中、裕福な人々が週末には自然豊かな郊外に出かけ、余暇を楽しむようになっていました。

 マネが《草上の昼食》で描いた光景は、そのような都市生活者の変化の一端を捉えたものでした。

 マネ自身、ほとんど毎日のようにテュイルリー公園に出かけ、見たものをスケッチをしていたといいます。戸外でのスケッチを楽しみ、その一環として仕上げたのが、《テュイルリー公園の音楽会》でした。

 もっとも、この頃はまだ戸外でのレジャーは上流階級のものでしかありませんでした。それが証拠に、この作品に登場する人々は皆、シルクハットにドレスを着用しています。戸外での演奏会なのに、まるで王宮の舞踏会に出かけるような格好をしているのです。

 産業化が進行しつつあったとはいえ、まだレジャー用のファッションが開発されるまでには至らなかったのでしょう。《草上の昼食》の男性二人もピクニックに不釣り合いな正装をしています。

 さて、「水浴」にしても、「ピクニック」にしても、19世紀後半に見出された娯楽であり、自然への回帰現象の一つともいえるものでした。

 たとえば、入浴という習慣はフランスでは19世紀になるまで浸透しなかったそうです。19世紀末になっても浴室のある家庭は少なく、人々は大きなたらいに水を張って身体を洗っていた程度だといわれています。

 新しい生活習慣となりつつあった入浴風景を、印象派の画家たちは数多く描いていますが、マネにもそのような作品があります。《Le Tub》(1878年)という作品です。

■裸婦を通して、マネが描こうとしたもの

 産業化に主導されて、近代化が進み、時代は大きく変化していきました。もはやデコールムを気にしなくてもよくなっていたのでしょう。マネは1878年、生活風景の中で堂々と、女性の裸身を描いています。

●《Le Tub》(1878年)

 《Le Tub》(1878年)は、《草上の昼食》よりも15年も後の作品ですが、水浴する女性とポーズが、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズとよく似ています。

(パステル、カンヴァス、54.0×45.0㎝、1878年、オルセー美術館)

 パステルならではの柔らかな色調で、日常の生活光景の中の裸身が優しく捉えられているのが印象的です。

 まず、やや身を屈めた弓形の曲線と、足元の金盥の丸い曲線が、画面に柔らかさをもたらしているのに気づきます。次いで、その背後に見える化粧台のようなものが作る水平線が画面を適宜、区切り、絶妙な構図を創り出していることに感心します。

 柔らかく、瑞々しい女性の肌が、同系色の色調の中でまとめられています。金盥の青味を帯びた濃淡の色が、肌の補色として使われるだけではなく、化粧台の影色としても使われており、画面に穏やかなメリハリが生まれているところに興趣が感じられます。

 奇をてらうことなく、淡々と日常生活の光景を描きながら、優しさと穏やかさ、静かな安定を描き出しているところに、マネの円熟した画力を感じさせられます。

 興味深いことに、この女性のポーズは、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズを反転させたものでした。視線を落としながらも観客の方を向いています。見られていることを意識している表情です。この眼差しを見て、この作品が《驚くニンフ》の系譜を引いていることがわかりました。

 そういえば、《草上の昼食》の裸身の女性は、この女性よりもさらにしっかりと観客を見据えていました。

 実は、ルーベンスの作品にもこの女性と同じようなポーズ、表情の女性が描かれているものがあります。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●ルーベンス(Pierre Paul Rubens)《Nymphs and Satyrs》(ニンフとサテュロス、1635年)

 ルーベンス(Pierre Paul Rubens,1577-1640)に《ニンフとサテュロス》(Nymphs and Satyrs)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、136×165㎝、1615-1635年、プラド美術館)

 森の中で白い裸身のニンフたちが何人も描かれています。そのニンフたちに混じってサテュロスの姿も見えます。サテュロスはギリシア神話に登場する半人半獣の精霊です。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンと同一視されることも多々あるようですが、豊穣の化身、あるいは、欲情の塊として表現されてきました。

 この作品を見ると、木に登ってたわわに実った実をもぎ取っているのはサテュロスたちで、その実をもらって幸せそうにしているのがニンフたちです。サテュロスが豊穣の化身であることは明らかで、牧歌的な光景の中に自然の恵みの豊かさが描かれています。

 画面左下には巨大な壺が置かれ、そこから水が流れ出ています。

 気になったのは、この壺のようなものにもたれるようにして座っているニンフの姿勢が、《草上の昼食》の裸身の女性のポーズとそっくりだったことです。

(前掲、部分)

 ひょっとしたら、マネはこの作品を見て、何らかの影響を受けていたのかもしれません。そう思ったのは、実は、マネはルーベンスの作品を模写していた時期があるからです。

 1849年頃、マネはトマス・クチュールのアトリエに入り、6年間修業していましたが、その間、ルーヴル美術館でティツィアーノやルーベンスの作品を模写していたといわれています。また、1856年にクチュールのアトリエを去った後もなお、ベラスケスやルーベンスの作品の模写を続けていました。

 ルーベンスの表現方法について、マネは熟知していたと思われます。

 そのルーベンスの《ニンフとサテュロス》で、大勢のニンフたちの中で、一人のニンフだけが観客を直視していたことに気づきました。敢えて、このようなニンフを描いたことに、17世紀の作品でありながら、新鮮さを感じました。ルーベンスはこのニンフを、意思を持つ女性として描いているように思えたのです。

 そして、このニンフの表情とポーズが、《草上の昼食》の裸身の女性ととてもよく似ていることに興味を覚えました。違いといえば、マネはルーベンスが描いたこのニンフの姿形を踏まえながら、自身の作品では、平面的に描いていたことです。

 《テュイルリー公園の音楽会》もそうですが、マネはモチーフを平面的に描くことによって、現代性を加味しようとしていたのではないかという気がします。

 産業化が進行し、生活に変化が生まれていた19世紀後半、マネは絵画界で一足先に、近代化を実行しようとしていたように思えます。(2022/10/31 香取淳子)

石井柏亭《草上の小憩》は、マネ《草上の昼食》のオマージュ作品か?

■「日本の中のマネ」展の開催

 「日本の中のマネ」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年9月4日から11月3日、開催時間は10時から18時(入館は17時30分)までです。

 私はこの展覧会の開催を図書館に置いてあったチラシで知りました。「マネ」という文字に引かれ、案内チラシを手に取ってみたのですが、ちょっと違和感を覚えました。中折れチラシの表と裏に大きく掲載されていた絵は、いずれもマネの作品ではなかったのです。

 妙だと思い、絵の部分を見直してみると、小さな文字で、作品の概要が書かれています。片方の面に掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》、もう片方の面に載せられていたのが、福田美蘭の《帽子を被った男性から見た草上の二人》でした。

 練馬区立美術館の近くで目にした看板も、この二つの絵で構成されていました。案内チラシの表と裏を拡大し、横長にしたものでした。

看板

 右側が石井柏亭の作品で、左側が福田美蘭の作品です。福田美蘭の作品は、着衣の男性のすぐ傍に裸身の女性が座っている絵柄なので、見るとすぐ、マネの有名な《草上の昼食》を思い起すことができます。

 ところが、石井柏亭の《草上の小憩》の場合、あまりにも日本的な絵柄だったので、容易にマネの影響を観て取ることはできませんでした。

 なぜ、石井の《草上の小憩》がチラシに掲載されていたのでしょうか。そもそも、石井柏亭はマネとどう関係しているのでしょうか・・・。そのようなことが気になりながらも、取り敢えず、会場の中に入ってみました。

 すると、展覧会は、「第1章 クールベと印象派のはざまで」、「第2章 日本所在のマネ作品」、「第3章 日本におけるマネ受容」、「第4章 現代のマネ解釈」という章立てで構成されていました。

 この章立てを見る限り、どうやら、マネそのものを取り上げた展覧会ではなさそうです。

■日本の中のマネ

 マネの作品は、「第2章 日本所在のマネ作品」というコーナーにまとめて展示されていました。全展示作品104点の内、マネの油彩画はわずか6点、パステル画1点、チョーク画1点、エッチング40点、リトグラフ3点、石版画1点だけでした。

 しかも、油彩画の《散歩(ガンビー婦人)》は見たことがありますが、それ以外は、知らない作品ばかりです。

 念のため、出品作品のリストを見ると、いずれも日本の美術館等が所蔵している作品でした。コロナ下の今、海外からマネの作品を借用するのが難しくなっていることが推察されます。

 こうしてみてくると、この展覧会が、「日本の中のマネ」を掬い上げることに焦点を当てた構成になっていた理由がよくわかります。

 「日本の中のマネ」を掬い上げ、「明治期の出会いから現代にいたる、日本人画家によるマネの受容過程を探る」という視点を導入して関連作品を俯瞰すれば、日本人にとっての西洋画の意味をより深く理解できるようになるかもしれません。展示作品よりも企画力が印象に残る展覧会でした。

 それにしてもなぜ、石井柏亭の《草上の小憩》が取り上げられているのでしょうか。マネとは絵柄や作風が違いすぎるので、気になって仕方がありませんでした。そこで、展覧会のチラシをよく読むと、石井柏亭は「マネの《草上の昼食》にインスピレーションを得て」、《草上の小憩》を手掛けたと書かれていました。

 だとすれば、パッと見ただけではわからない影響の痕跡を、《草上の小憩》の中に見出すことができるはずです。この石井作品から「日本の中のマネ」を掬い上げることができれば、「日本人画家によるマネの受容過程」の一例を見ることができます。

 そこで、今回は、石井柏亭の《草上の小憩》を取り上げ、マネの《草上の昼食》とどのように関わっているのかを探ってみることにしたいと思います。

 まずはマネの作品《草上の昼食》を振り返ってその特性を把握し、つぎに、石井柏亭がそれをどう解釈し、自身の作品《草上の小憩》にマネの痕跡を残していったかを見ていくことにしましょう。

■エドゥアール・マネ(Édouard Manet)制作、《草上の昼食》(Le Déjeuner sur l’herbe, 1862-1863)

 《草上の昼食》はマネの有名な作品です。

 この作品は当初、《水浴》というタイトルで、1863年の公式サロンに出品されました。この時のサロンでは988人しか入選せず、落選作品は2800にも及びました。マネが出品した3点はすべて落選しています。

 落選者たちの不満の声に応えるように、ナポレオン三世は、その二週間後に、「落選展」を開催しました。初日だけで7000人もが参加したといわれるこの「落選展」で、観客の注目を一斉に集め、そして顰蹙を買ったのが、マネのこの作品(《水浴》は後に、《草上の昼食》と改題)でした。

 それでは、この作品を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1862-1863年、オルセー美術館)

 西洋画で裸身を見るのは別に珍しくもないのですが、この作品では、裸の女性が恥ずかしげもなく、着衣の男性と談笑し、その背後に薄衣を着て水浴びをしている女性がモチーフとして取り上げられています。当時の人々にとっては、意表を突く光景でした。

 この作品を見た観衆は、モチーフの「不道徳」、「はしたなさ」に激しい非難を浴びせたそうです(※ 後藤茂樹編、『マネ』、集英社、1970年、p88.)。

 正装した男性の隣で、裸身の女性が脱いだ衣服の上に平然と腰を下ろしている姿を目にすれば、「はしたない」と思うのも当然の反応でしょう。

 傍らには、帽子や上着のようなものが散乱し、バスケットからは果物やパンが転がり出ています。慌てて衣服を脱いだ後の乱雑さが丁寧に描かれています。瑣末な周辺状況が詳細に描写されることによって、この光景のふしだらな印象がさらに強められています。

 古来、西洋画では数多く裸身の女性が描かれてきましたが、大抵の場合、女神か、何らかの寓意、或いは、理想的な女体を示すものとして表現されてきました。日常生活の中で描かれることはなく、一般女性とは別世界の存在として描かれてきたのです。

 だからこそ、観客は裸体画を見ても格別に違和感を覚えず、拒否することもなく、むしろその美しさを称賛した例も数多く見られます。

 たとえば、マネが出品したこの1863年のサロンに、アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889)も出品していました。彼の作品は入選しましたが、それは《ヴィーナスの誕生》というタイトルの裸体画でした。

 興味深いことに、カバネルとマネは同時期に、裸体画をサロンに出品していたのです。ところが、カバネルの作品は入選したのに、マネの作品は落選し、その後、開催された「落選展」でも落選しました。そればかりか、以後しばらくは観衆から非難され続けたのです。

 両者の裸体画に、一体、どのような違いがあったのでしょうか。カバネルの《ヴィーナスの誕生》を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、130×205㎝、1863年、オルセー美術館)

 これは、19世紀のアカデミック絵画としてよく知られた作品で、ナポレオン三世が購入したほどでした(※ カバネル、Wikipedia)。アカデミーからも観衆からも、そしてナポレオン三世からも称賛された作品だったのです。

 天使が描き添えられているとはいえ、《ヴィーナスの誕生》の裸身は、仰向けになって身をよじり、横たわっていて、とても官能的です。

 ところが、《草上の昼食》の裸身は、膝を立て、肘をついて座っているだけです。エロティシズムという観点から見れば、《ヴィーナスの誕生》の方がはるかに煽情的でした。それでも、観衆やアカデミーの評価は真逆だったのです。

 こうしてみてくると、裸身が描かれているからといって、マネの《草上の昼食》が非難されたわけではないことがわかります。

■カバネルとマネ、なぜ、評価が大きく分かれたのか?

 それでは、なぜ、《草上の昼食》が非難され、《ヴィーナスの誕生》は称賛されたのでしょうか。

 一つには、絵柄、あるいは、モチーフの構成に原因があると考えられます。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》では、泡立つ波の上で、伸びやかに寝そべる裸の女性が描かれています。描かれた状況を見ても、均整の取れた美しい身体を見ても、裸身をさらけ出しているのが人間の女性ではないことは明らかです。

 ヴィーナスは、海から誕生した女神アフロディテともいわれ、「ヴィーナスの誕生」は、これまで何人もの画家が手掛けてきた画題です。有名な作品として、1483年頃、ボッテイチェリによって描かれた《ヴィーナスの誕生》があります。

 まさに神話の世界であり、豊穣の寓意が美しい裸身に託して表現されてきました。カバネルの作品でも、寝そべるヴィーナスの真上を、まるで見守かのように、天使たちが飛び回っています。神話の世界、豊穣の寓意が示されているのです。

 カバネルがこの作品で表現したのは、アカデミズムの画家ならではの伝統的な画題あり、モチーフの構成でした。

 もちろん、裸身の描かれ方も、マネの作品とは異なっていました。

 《ヴィーナスの誕生》では、女性の乳白色の肌はきめ細かく、滑らかで、筆触の跡が見えないよう描かれています。アカデミズムの画家たちが踏襲してきた技法です。そして、身体は理想的なプロポーションであることがわかるように描かれており、ギリシャ以来の裸体美の観念に基づいて表現されています。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》はこのように、モチーフの構成であれ、描き方であれ、いわゆるアカデミズムの骨法を踏まえて表現されていたのです。

 一方、《草上の昼食》はモチーフの構成、裸身の描き方、そのいずれについても、アカデミズムのルールから逸脱しています。

 そもそも、裸身の女性が着衣の男性二人と談笑し、背後に水浴する女性が描かれている光景そのものが異様です。手前には脱ぎ捨てた衣服やバスケットから果物やパンが転がり出て、乱雑な様子が描かれています。生活秩序が破壊されているばかりか、理想的なプロポーションを見せるわけでもない普段の姿勢の裸身と相まって、猥雑な印象が強化されているのです。

 ピクニックを楽しんだりすることもある神聖な森が、このような絵柄で描かれているのを見て、観衆の多くが穢されたような気分になったとしても無理はありません。

 描かれているのは、女神でもなく、有名な歴史上の女性でもなく、一般女性なのです。描かれた対象と観客との距離が近すぎました。しかも、この女性は裸身のまま、臆することもなく正面を見据え、脱ぎ捨てた衣服の上に座っています。一見、穏やかな表情ですが、不敵な印象すらあります。

 絵柄、あるいは、モチーフの構成でいえば、神話や歴史の空間ではなく、日常の生活空間で女性の裸身が描かれていることに、この作品の特徴があります。そのこと自体、アカデミックのルールを破ることを示唆しており、一部の画家にとっては斬新で、先駆的でもあったのですが、大多数の観衆や画家には受け入れられず、不興を招いたと思われます。

 先ほども触れましたが、裸身の描かれ方も、これまでアカデミーで受け入れられてきた裸体画とは異なっていました。

 たとえば、《草上の昼食》の女性は、膝を曲げて座り、その膝頭に肘をついて頬を支えています。とても理想のプロポーションを見せる姿勢とはいえず、しかも、腹部や腿の裏側のたるみもしっかりと描かれています。

 肌はやや黄色味を帯びた白色で、首筋や腹部に大きく皺が刻み込まれ、写実的に表現されていました。

 理想のプロポーションだとわかるようにモチーフをレイアウトし、肌は乳白色で筆触の跡を残さず、滑らかに描くという、これまで受け入れられてきた裸体の描き方から、この作品は大きく逸れていたのです。

 それら一切合切が、当時のパリの観衆から不謹慎、不道徳だとして非難された原因だったのでしょう。その一方で、一部の画家たちや評論家には、先駆的で斬新、革新性を感じさせる作品だったのでしょう。

 それでは、石井柏亭はこの作品にどう影響され、どのようなオマージュ作品を残したのでしょうか。

■石井柏亭《草上の小憩》(1904年)

 チラシに掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》(1904年)です。マネの《草上の昼食》に似たタイトルですが、絵柄は全く異なっていました。一見しただけでは、この作品のどこにマネの影響の痕跡があるのかわかりません。

(油彩、カンヴァス、92×137.5㎝、1904年、東京国立近代美術館)

 はたして、この作品のどこに、《草上の昼食》へのオマージュがあるのでしょうか。詳しく見ていくことにしましょう。

 晴れた冬の日、陽だまりの中で若者たちが憩う、和やかなひと時が捉えられています。《草上の昼食》との類似性があるとすれば、若い男女が野外でリラックスしている光景が描かれているということぐらいです。

 まずは、そのあたりから見ていくことにしましょう。

 手前に描かれた少女は、前髪を下ろして首をかしげ、あどけない表情をこちらに見せています。手袋をはめた手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りをしています。無理やり上体を起こそうとしており、不自然な姿勢ですが、大人びて見え、ややコケティッシュです。

 後ろの女性は、髪を三つ編みにし、片肘をついて横になっています。見るからに不安定な姿勢です。しかも、低い位置から見上げるようにして、正面を見据えているせいか、表情に媚びが感じられます。

 一方、男性は二人とも帽子を被っています。学帽を被った男性は、膝を立てて座っており、無理のない姿勢です。被っているのが角帽ではなく丸帽ですから、中学生か高校生なのでしょう。素朴な印象を受けます。

 その右側に座っている男性は、膝を伸ばして座っており、リラックスしている様子です。縁が柔らかく波打った形の帽子を被っていて、落ち着いた雰囲気があり、社会人に見えます。4人の中では最年長者なのでしょう。

 彼らがどういう関係なのかはわかりませんが、年齢差があって仲睦まじく、リラックスした様子で、戸外で寛いでいる様子を見ると、兄弟姉妹なのかもしれません。

 まず、これらのモチーフから、マネとの関連を見ていくことにしましょう。

■モチーフを比較して見えてきたこと

 描かれているのは、男女4人が林の中の草地で、和やかなひと時を過ごしている光景です。一見、日常的な生活風景のように見えますが、よく見ると、女性二人のポーズが不自然でした。とくに違和感を覚えたのが、三つ編みの女性です。

 なんと、この女性は草地に肘をついて、身体を横たえているのです。しかも、若い女性です。どんな事情があったにせよ、着物を着た女性が、戸外で取るような姿勢ではありません。見るからに不安定で、肘をついた手を片方の手で押さえ、辛うじて横向きの身体を支えています。不自然なまでに崩した姿勢がふしだらに見え、身持ちの悪さを感じさせられました。

 ふと、この三つ編みの女性は、《草上の昼食》の裸身の女性を日本風に焼き直したものではないかという気がしました。

 横たわって、低い位置から見上げる女性の姿勢そのものが、媚態に見えたからです。そう思うと、すぐさま、マネの作品に浴びせられた「不謹慎」、「ふしだら」といった非難が脳裏に浮かびました。

 他のモチーフも同様、マネの作品との関連性が見受けられます。

 たとえば、《草上の昼食》では、男性は後ろに房のついた帽子を被り、白シャツにネクタイを締め、黒いコート姿で描かれていました。男性二人は正装をしているのに、女性は裸身、あるいは薄衣でした。男性と女性とで、描き方の落差が際立っていました。

 一方、《草上の小憩》でも、男性二人は帽子を被っており、佇まいに乱れはありません。学帽に制服、縁のある帽子に上着とズボンという格好です。これは、《草上の昼食》の男性たちの正装に相当します。帽子によって身分や所属が示され、男性が社会階層という秩序原理の中に位置づけられていることが踏まえられているのです。

 もう一人の女性モチーフ、《草上の昼食》の水浴をしている薄衣の女性は、《草上の小憩》では、手前に描かれたあどけない表情をした少女に相当します。両手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りした姿勢が、幼いながらややコケティッシュでした。三つ編みの女性よりも挑発の度合いが低いという点で、裸身の女性よりも挑発の度合いの低い水浴びをする女性の置き換えに思えます。

 こうしてみてくると、石井柏亭は女性モチーフを、コケティッシュの度合いによって描き分け、マネの作品の女性モチーフに対応させていたように思えます。裸身の女性を、大胆なポーズを取っている三つ編みの女性に置き換え、背後で水浴する女性を、ポーズのせいでややコケティッシュに見える少女に置き換えたと思われるのです。

 それでは、構図についてはどうでしょうか。

■構図、明暗のコントラスト、画面の透明感について

 《草上の小憩》を見ると、4人が座っている草地の周囲は踏み固められ、手前の少女を頂点に、背後の一直線に並んだ木々を底辺とした逆三角形になっています。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色マーカーで表示)

 遠景に広がりが感じられる構図です。陽だまりの中、4人は思い思いのポーズで、草地に腰を下ろしています。木々の背後に空が大きく広がり、その合間に人家も見えており、人里近い林の中の草地だということがわかります。

 枯れた草地には、所々に緑の草が見え、冬とはいえ、春の気配が感じられます。冬から春への移行期ならではの穏やかな温もりが画面から浮かび出ています。

 よく見ると、画面全体に万遍なく、黄土色の短い線がランダムに散らされています。空といわず、制服や着物といわず、色彩を主張するようなモチーフの上には全般に、黄土色の短い線が散らされていたのです。まるで強い色彩を弱めるかのように見えます。

 その結果、画面全体に明暗のコントラストが弱められる一方、統一感が生まれ、陽光は優しく柔らかく、和やかな雰囲気が醸し出されていました。若者たちの日常生活の一端が、ほのぼのとした感触を残しながら、描かれていたのです。

 それでは、マネの《草上の昼食》はどうだったのでしょうか。

 《草上の昼食》では、男女3人が手前で寛ぎ、その背後で女性が1人、水浴びをしている光景が描かれています。4人のモチーフは、遠景でわずかに見える空を頂点とし、手前の男女を底辺とする三角形の中にすっぽりと収まっています。とても安定した構図です。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色でマーク)

 この安定感のある構図が、不謹慎に見える光景に、清澄で泰然自若の趣を添えているように思えます。木々の合間から射し込む陽光と二人の女性の肌の明るさが、鬱蒼とした森に活力を与え、明暗のコントラストの強さが、一種の清涼感を添えていたからかもしれません。

 モチーフの構成こそ、スキャンダラスで猥雑に見えますが、その背後から、まるで高精細度の画面を見ているような、透明感のある清澄な雰囲気が醸し出されていたのです。

 暗緑色の森の中で、女性の裸身がひときわ明るく周囲を照らし出し、その明るさはややトーンを下げて、水浴する女性から遠景の空へとつながっています。光と影、明るさと暗さのバランスが絶妙でした。

 明暗のコントラストが強く、事物の境界がはっきりと描かれているせいか、画面からは不思議な透明感が感じられます。世俗を超えた透明感のようなもの、あるいは、清澄な雰囲気のようなものが画面全体から感じられたのです。光と影、明暗のコントラストを意識した色遣いとモチーフの配置の効果なのでしょう。

 興味深いのは、手前左にバスケットからパンや果物が乱雑に転がっている様子が丁寧に描かれていることでした。マネはなぜ、そうしたのかと考え、ふと、気づきました。雑多で混乱した状況を丁寧に描き出すことによって、安定した画面の硬直化を崩そうとしていたように思えてきたのです。

 着衣の男性の傍らに裸身の女性を配置したのと同様、敢えて破調を創り出そうとするところに、既存の描き方に満足できないマネの感性を見ることができます。調和を乱そうとすえば、軋轢が生じ、エネルギーが生まれます。斬新で革新的な志向性はそのような心持の中にこそ存在するような気がします。

 観衆やアカデミーからの激しい非難とは別に、この作品に斬新な力が漲っていることは確かでした。

■《草上の昼食》の斬新さ、革新性

 マネのこの作品には暴力的なまでの斬新さがありました。当時の観衆の激しい非難がそれを証明しています。

 マネの場合、裸身の女性と着衣の男性2人が談笑している光景が非難されました。裸身に対する非難というより、日常の生活空間の中で、裸の女性が正装した男性とともに過ごす光景への非難でした。そのような光景が当時の人々に「不謹慎」、「不道徳」という印象を植え付け、嫌悪の感情を喚起させていたからでした。

 こうしてみると、《草上の昼食》のエッセンスは、「不謹慎」、「不道徳」、「ふしだら」の可視化にあったと考えられます。

 実際、着衣の男性の隣にマネは裸身の女性を描くだけではなく、そのすぐ傍らに、脱ぎ捨てられた衣服や帽子、バスケットから転がり出たパンや果物を丁寧に描かれており、「ふしだら」が強調されていました。

(前掲作品の一部)

 脱いだ衣服の上に座った裸体のすぐ傍に、リボンのついた帽子や衣服が散乱しています。バスケットは傾き、中から果物やパンが転がり出ています。倒れた酒瓶もあります。まさに生活秩序の破壊であり、既存の価値体系の転覆の象徴ともいえる光景です。

■オマージュ作品

 《草上の昼食》は当時、一大センセーションを巻き起こし、マネは観衆やアカデミーの画家たちから一斉に非難されました。当時の観衆やアカデミーの画家たちはひょっとしたら、この作品に潜む寓意に気づいたからこそ、激しく非難したのかもしれません。

 一方、一部の画家たちは作品に込められたこの寓意を称賛し、オマージュ作品を手掛けました。モネ、セザンヌ、ピカソといった画家たちはこの作品に刺激され、次々とオマージュ作品を制作していったのです。

 エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832-1883)は、伝統的な絵画の約束事に囚われず、アカデミーからの解放を先導した旗手だといわれていますが、《草上の昼食》を見ると、なるほどと納得せざるをえません。

 そのオマージュ作品を、日本で初めて手掛けたのが、石井柏亭でした。

 私は初めて石井柏亭の《草上の小憩》を見た時、なぜ、この作品が《草上の昼食》のオマージュといえるのかわかりませんでした。いかにも日本的な生活風景が描かれていたからです。

 ところが、両作品をモチーフの側面から比較してみると、男女4人のモチーフはそれぞれ、《草上の昼食》から見事に翻案されていることがわかりました。そして、構図や明暗のコントラスト等については、マネの作品を真逆に置き換え、日本の情景や社会状況に適合させていました。

 そうすることができたのは、石井柏亭が、《草上の昼食》のエッセンスを的確に汲み取っていたからにほかなりません。西洋絵画に込められた寓意を読み取り、咀嚼し、日本文化に適合させて表現できる能力を備えていたからこそ、石井は、モチーフを的確に日本風に翻案することができたのです。

 《草上の小憩》は、西洋絵画や西洋文化を充分理解していなければ、制作不可能でした。また、日本文化や当時の日本社会を充分に理解していなければ、適切に翻案することもできなかったでしょう。見事なオマージュ作品といえます。(2022/9/28 香取淳子)

近藤オリガ展:《路傍の石》について、想像力を巡らせてみた。

■「近藤オリガ展」の開催

 「近藤オリガ展」が、「ギャラリーNEW新九郎」で、2022年8月3日(水)から15日(月)(8月9日は休廊)まで開催されました。

 私は開催初日の8月3日に訪れましたが、その後、思いもかけない用事がいくつも重なって、ご報告するのが遅れ、今になってしまいました。

 さて、画廊のあるダイナシティウエストは、湘南をイメージさせる、明るく、開放的なショッピングモールでした。

 駐車場からショッピングモールに入ると、ショップが並ぶ廊下の片側が開放されて吹き抜けになっており、階下や階上を見通せる構造になっています。ふと、ずいぶん前に訪れたことのあるハワイのアラモアナショッピングセンターや、モスクワのグム百貨店などを思い出してしまいました。

 「ギャラリーNEW新九郎」は、4Fのレストラン街の一角にありました。

 すでに何人かの観客が、熱心に鑑賞しておられました。どの作品も興趣に富み、近藤オリガ氏ならではの幽玄の世界がしっかりと描き出されていました。見応えのある作品ばかりでした。

 展示作品の中で、とくに引きつけられたのが、《路傍の石》です。優しく、優雅で、心の奥底にまで、そっと染み入ってくるような深い情感が感じられました。水墨画を思わせる画面には、これまでの作品とは一線を画した何かが潜んでいるような気がしました。

 画面には、謎解きを迫るミステリーの要素があり、何かを訴えかけてくるようなメッセージも感じられます。とても、気になる作品でした。

 優美なタッチで表現されたモチーフと、その構図、グラデーションを駆使した深い色調からは、ドラマティックなストーリーが見えてきます。見ていると、思わず、この作品の解釈を試みてみたいという気になってしまいました。

 そこで、今回は、ちょっと趣向を変えて、この《路傍の石》から、私が何を読み取ったのか、思いつくままに、綴っていきたいと思います。

 もちろん、これから述べることは、私の勝手な思い込みにすぎません。想像力逞しく思いを馳せた結果、作者の意図とは異なってしまったかもしれませんし、見当違いの解釈になっているかもしれません。そのことをご承知おきいただいて、お読みいただければ、幸いです。

■近藤オリガ氏の近作《路傍の石》

 この作品の前に立った時、なにか得体の知れない衝撃のようなものを受けました。静かでありながら、激しく、何かを訴えかけてくるような画面だったのです。なぜ、そう感じたのか、わからないまま、しばらく、その場を去ることができませんでした。

(油彩、カンヴァス、46×61㎝、2022年)

 謎めいたモチーフに、水墨画の趣のある画面、そして、日本の小説を思い起こさせるタイトル・・・、気になることばかりでした。見た瞬間に引き込まれてしまいましたが、その後、しばらく見入っていても、何故、引き込まれたのか、この作品が何を言おうとしているのか、なかなか言語化することができません。

 最初の段階で言えるのはただ、西洋文化と日本文化とが、乳白色の画面の中で一体化し、新たな表現の地平が切り拓かれているということだけでした。厚みと西洋画の蓄積を感じさせる油彩画の画面に、余分なものを一切省き、モチーフがただ二つ、描かれていたのです。双方の文化の知性と精神性、美しさを巧みに引きだしながら、作品として完成させられていると思いました。

 観客の知的好奇心を限りなく刺激する作品でした。

 画面の隅々まで、作者の神経が行き届き、ドラマティックな緊張感が漲っています。モチーフの選択とその構図にはストーリー性があり、時空を超えて想像力を喚起していく拡張性がありました。もちろん、観客に問いかけ、思考を促すメッセージ性もあります。それら一切合切が、繊細で優美なタッチで表現されていたのです。

 見れば見るほど、この作品には、美学、哲学、人道主義などが奥深く内在していることが感じられます。画面から自然に滲み出てくるそれらの要素に、私はすっかり心を奪われてしまいました。明らかに、観客に何かを訴えかけようとしている作品でした。

 オリガ氏は果たして、この画面にどのようなメッセージを込めていたのでしょうか。

 まずは、画面に仕掛けられた謎を解くことから、この作品に迫っていきたいと思います。

■モチーフの形状、その素材への違和感

 私が、なぜ、《路傍の石》に強く引きつけられたかといえば、まず、画面中央に大きく描かれたモチーフが気になったからでした。

 奇妙なモチーフです。これは一体、何なのでしょうか。

●モチーフの形状

 一見、リュックのようなものに見えます。ところが、リュックにしてはありえない表現がされており、気になったのです。リュックの部分をアップにして、詳しく見ていくことにしましょう。

(前掲、部分)

 ぱっと見て、何カ所かの傷が気になります。

 上部の持ち手の辺りに、大きな亀裂が横に深く入っています。その裂け目には丸味があって、粘土のような材質に見えます。左端から下方に向けてひび割れており、その先にクギが打ち込まれています。ここだけ見ると、クギが打ち込まれたから、亀裂が走ったように見えますが、それにしては溝が小さく浅いのが不可解です。

 リュックは、射し込んだ光によって、左側が明るく照らし出され、ちょっとした凹み傷が何カ所かついているのがわかります。滑らかな表面だからこそ見えるのですが、とても小さく、しかも、浅いものなので、ざっと見ただけでは、傷があることなど、ほとんど気づきません。

 気になるのは、むしろ、クギのすぐ上が大きくたわみ、横に波打っていることでした。たわみ部分の上部は白く、やや盛り上がっていて、段差があります。おそらく、ここにも亀裂が深く入っているのでしょう。

 そのせいか、左肩から右の中ほどにかけて、微妙な膨らみが二か所ほど出来ています。その膨らみ具合は、乳白色の濃淡を使って丁寧に描かれており、手触りのよさそうな質感が伝わってきます。

 それだけに痛ましく思えるのが、リュックの下部、右端から左下にかけて斜めに走る長い亀裂です。亀裂の周辺は大きく凹み、そのせいでリュックは傾き、潰れかかっているように見えます。縦にも亀裂がいくつか入り、左側の一部はいまにも剥がれ落ちそうです。実際、破片が地面に落ちています。

 キャンバス布地のリュックなら、引き裂かれることはあっても、このように亀裂が入って破損し、その破片が地面に散らばることはありえません。メインモチーフは、リュックの形をした造形物ですが、どういうわけか、リュックと聞いて連想される素材ではなかったのです。

 これが最初の謎でした。

●素材への違和感

 リュックの表面は石膏のように滑らかで、すべすべしていました。ところが、その滑らかな肩の部分にクギが打ち込まれ、亀裂が入っているのです。

 石膏なら割れてしまいますから、このモチーフの素材はもっと強度の高い鉱物なのでしょう。違和感を覚えながらも、ちょっと引いて見ると、巨大な石が紐に縛られ、地面に据えられているように見えます。

 そういえば、この作品のタイトルは《路傍の石》でした。

 ひょっとしたら石かもしれないと思い、改めて画面を見ると、下方のひび割れがなんとも不自然です。石にしては亀裂部分が薄すぎるのです。まるでプラスティックかゴムのような感触です。

 不思議です。

 この造形物は、やや引いて見ると、形と色彩から、石に見えましたが、近づいてよく見ると、表面のすべすべした滑らかさから、粘土あるいはゴム仕様のものに見えます。いずれにしても、リュックには似つかわしくない素材ですが、形からいえば、この造形物はどう見ても、リュックとしかいいようがありません。

 オリガ氏はなぜ、この造形物をメインモチーフに据えたのでしょうか。

 この造形物には、①リュックだとすれば素材に違和感があること、②何カ所も傷つけられていること、③紐で縛られた後、その紐が断ち切られた痕跡があること、などのドラマティックな特徴がみられます。

 こうしてみると、この造形物に、何らかのメッセージが託されているのは明らかです。オリガ氏はおそらく、メッセージを託すには、リュックの形をしたこの造形物が最適だと判断されたのでしょう。

 だとすれば、一体、何に使われるリュックなのか、その形式からなんらかの手掛かりが得られるかもしれません。

 そこで、ネットで検索してみました。すると、似たような形式のリュックが見つかりました。

●軍用リュックか?

 これは、ロシア軍が使っている3日間突撃用のリュックです。収納しやすく、持ち運びが容易なように設計されており、抜群の拡張機能を備えています。

(※ https://www.amazon.co.jp/より)

 たとえば、容量を調整するため、側面にはクイックバックルの付いた紐が4つ装備されています(※ https://www.ebay.com/itm/333647436413)。軍用リュックには、移動しやすく、本体にさまざまなものを装着でき、しかも、容易に脱着できる機能が不可欠だからです。

 バックルなどの部品のなかった時代の軍用リュックはどう対応していたのでしょうか。試みに、かつて日本軍が使っていた背嚢(リュック)を見てみました。昭和18年の検印があるものです。

(※ https://www.amazon.co.jp/

 驚くほど多くの紐が、本体に取り付けられています。それらの紐を使った結果が上の写真です。飯盒や、草木を刈り取るためのカマ、そして、マットのようなものまで、紐で背嚢に装着できるようになっています。食事、仮眠、行軍に不可欠な備品を、紐を使って簡便に脱着できるよう、設計されていたことがわかります。

 いずれの場合も、軍用リュックには、紐が重要な役割を果たしていることがわかります。

 再び、《路傍の石》に戻ってみましょう。

(前掲)

 このリュックにも、やはり、紐が付いています。ところが、上部と下部を結んだ紐はとても細く、リュックの容量を広げたり、他のものを装着できるような機能はみられません。

 しかも、紐は本体に装着されておらず、ただ、亀裂部分から中身がこぼれ出てしまわないように使われているだけのように見えます。

 興味深いのは、リュックの置かれた地面にクギが打ち込まれ、そのクギに紐の切れ端が残っていることでした。

 その切れ端はやや不自然なほどピンと張ってよこに伸びています。同じような紐の切れ端が、リュックの上部、取っ手部分にもあり、やはり不自然なほど、まっすぐ上に伸びています。

 これらの紐の切れ端がたわむことなく、硬度を保っている様子を見ると、たった今、断ち切られたばかりのように見えます。

 リュックを地面につなぎ留めていた紐は、はたして、何者によって断ち切られたのでしょうか。

 気になって、思いを巡らせようとしたとき、リュックの背後にごく小さく描かれた僧侶の姿が目に入ってきました。巨大なリュックの影に隠れ、ほとんど意識に上ってこなかったこのモチーフが、突如、視界に入り込んできたのです。

●軍用リュックと僧侶

 改めて画面を見ると、《路傍の石》で描かれているモチーフは二つ、傷つけられた軍用リュックと、その背後で立ち去っていく僧侶の後ろ姿です。

 圧倒的に大きく、画面中央に描かれているのが、軍用リュックです。ですから、この作品のメインモチーフがこの軍用リュックだとすれば、サブモチーフは僧侶です。二つのモチーフは独立したものというより、従属関係にあるといえるほど、至近距離に配置されています。

 それでは、小さく描かれた僧侶の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分。)

 僧侶はやや前かがみになって、俯き加減に歩いています。その姿は小さくても、佇まいははっきりと描かれています。袈裟の裾を軽く揺らしながら、立ち去っていく僧侶のしっかりとした足取りが、目に見えるようです。

 周囲を見渡すと、天といわず、地といわず、僧侶の周辺には光明が差し込んでいます。手前をみると、破損した軍用リュックにも、明るい陽光が降り注いでいます。

 軍用リュックといい、僧侶といい、これら二つのモチーフから共通に受け取れるイメージは、戦争であり、戦争によってもたらされる大量の死です。それだけに、これらのモチーフに、おぼろげながらも乳白色の光が射していることに、かすかな救いが感じられます。

 改めて気になってきたのが、画面全体を覆う乳白色の空間です。

●乳白色の空間

 この作品では、乳白色の空間に、適宜、墨色の濃淡を取り入れて、モチーフが表現されています。そのせいか、最初見たときは、水墨画を連想してしまいました。色彩を抑え、シンプルに構成された画面に、日本文化を感じさせられたのです。

 ところが、よく見ていくと、乳白色の濃淡でグラデーションを重ね、光や雲間が表現されており、軍用リュックの表面には滑らかな質感があります。油彩画ならではの重厚さがあり、直観というより思考の厚みが感じられました。油彩画表現の長い歴史を見る思いがしたのです。

 西洋文化と日本文化を折衷させた見事な画面構成といえるでしょう。

 画面を見ているうちに、乳白色の濃淡で表現された空間こそ、この作品の基調を創り出しているのではないかという気がしてきました。

 乳白色の濃淡によって、さまざまな方向から射し込む陽光が表現され、そのグラデーションによって、時間を超越した空間が感じられます。まさに、地平線も境界線もない茫漠とした空間です。そんな中で、拠って立つ基盤もないまま、二つのモチーフは、まるで寄り添うように、画面中央に集中して配置されていました。

 そもそも、この作品は、二つのモチーフだけで構成されています。これらのモチーフを支えているのは、画面一体に施された乳白色の濃淡で表現された色彩空間です。白に近い淡色は、天から射し込む光源を表す一方、その光を受けて強調されるモチーフのマチエールと、その存在感を示していました。

 乳白色に墨を混じえた濃色によって、光の射さない雲間やモチーフの凹みが表現されており、さらに濃い色で、モチーフが地面に落とす影が表されていました。そして、墨色によって、紐やクギ、袈裟などのモチーフの形状がリアルに表現されていました。

 傷ついた軍用リュックは、乳白色の色調のせいか、生命体が白骨化したシンボルのようにも見えます。そして、その背後で小さく描かれた僧侶は、弔い、あるは、供養のために添えられているように思えます。

 描かれたモチーフを何度も見返すうちに、そういえば、どこかで見たことがある光景だと思えてきました。とくに意識したのがこの画面を覆う乳白色の色調です。

 さっそく、戦場や戦争をキーワードに画像検索をしてみました。すると、ロシア人画家ヴェレシチャーギンの作品に、《路傍の石》と似たような色調のものを見つけることができました。

■ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(В. В. Верещагин, 1842-1904)の作品

 ヴェレシチャーギンは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画家で、戦場をテーマにした作品を数多く残しています。

 彼は作品を仕上げるために、何度も戦場を取材していますが、ボリス・エゴロワによれば、それは、「自分ですべて体験しなければならない。戦闘や襲撃、勝利、敗北の現場に居合わせ、飢え、寒さ、病気、怪我に苦しまなければならない」という考えからでした(※ https://jp.rbth.com/arts/84420-vasily-vereshchagin-sensou-wo-rikai-shita-gaka)。

 この方針を貫き通したヴェレシチャーギンは、日露戦争(1904-1905)開戦直後の1904年4月13日、中国沿岸で機雷に触れた戦艦と共に海に沈み、命を落としてしまいました。

 そのヴェレシチャーギンの作品から、私は、オリガ氏の《路傍の石》を読み解くヒントを得ることができたのです。

 まず、《戦争の結末》(1871年)という作品から、見ていくことにしましょう。

●《Апофеоз войны》(戦争の結末、1871年)

 画面中央に白骨化した頭がい骨が積みあげられ、小山のようになっています。カラスが何羽もやってきては、白骨の山を漁っています。真上の空には多くのカラスが飛び交い、隙あらば、ついばみに来ようと、この小山を狙っています。ぞっとするような光景です。

(油彩、カンヴァス、127×197㎝、1871年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 周辺の枯れ木にも、多数のカラスが止まって、隙を狙っています。かと思えば、地面に転げ落ちた骸骨の上に足を止め、小山を眺めているカラスもいます。こうなっては、もはや人間としての尊厳も何もあったものではありません。

 まさに、《戦争の結末》です。

 陽光はさんさんと降り注いでいるのですが、生命の痕跡はどこにもなく、ただ、黒いカラスだけが飛び交っています。見渡す限り、カラスと枯れ木、白骨化した頭がい骨しかない荒涼とした平原の先に、破壊された建物が見えます。空しく、やりきれない思いに駆られてしまいます。

 ボリス・エゴロワはこの作品について、次のように述べています。

 「当初、ヴェレシチャーギンはこの絵を、『ティムールの勝利』と名付けるつもりだった。だが、具体的な時代と結び付けることをやめ、「過去、現在、未来のあらゆる偉大な征服者ら」に捧げることにした」(※ 前掲、URL)

 とても興味深い指摘です。

 数々の戦場に足を運んだヴェレシチャーギンは、この光景の中にこそ、戦争の本質があると思ったのでしょう。だから、具体的な時代や地名をタイトルにすることはせず、時代を超え、場所を超えて、問題提起できるよう、《戦争の結末》というタイトルに変更したというのです。

 《戦争の結末》の色調に、私は、オリガ氏の《路傍の石》との類似性を感じました。

 この乳白色で描かれた骸骨の小山を見て、ようやく、《路傍の石》の乳白色の軍用リュックは、ひょっとしたら、戦争で亡くなった兵士たちの象徴かもしれないと思い至ったのです。

 確かに、乳白色で描かれた二つの作品のメインモチーフは、いずれも、戦争や死を象徴している点で共通していました。

 ところが、黒色あるいは墨色で描かれたサブモチーフは、その位置づけが大きく異なっているように思えます。《戦争の結末》では、カラスというサブモチーフによって、メインモチーフの悲惨さが強調されていました。戦争による大量死が客観的に、まるで自然現象の一つのように捉えられていたからです。

 それに対し、《路傍の石》では、僧侶というサブモチーフによって、メインモチーフの無念な思いが浮き彫りにされていました。傷つけられた乳白色の軍用リュックは、戦争による負傷あるいは死を象徴し、リュックを縛り付けていた紐は、戦争に赴かせる強制力を表していました。

 そう考えたとき、《路傍の石》では、僧侶が小さく描かれていた理由がわかるような気がしました。

 僧侶が描かれているのは、弔いや供養のためではなく、生前の束縛を解き放ち、死者の無念な気持ちに寄り添う役割を担っていたのではないかと思ったのです。感情移入して戦場の死が捉えられているように思えるだけに、情感豊かにそのメッセージが伝わってきます。

 さて、ヴェレシチャーギンには、僧侶を登場させた、《敗北、パニヒダ》(1878-79年)という作品もあります。ただ、その役割は、《路傍の石》とは大きく異なっています。

●《Побежденные. Панихида》(敗北、パニヒダ、1878-79年)

 この作品を観た時、私はすぐに、《路傍の石》の世界に近いと思いました。

(油彩、カンヴァス、179×300㎝、1878-1879年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 荒涼とした平原を前に、司祭がなにやら壺のようなものを振っています。傍らには軍人が帽子を脱いで直立しており、厳かな雰囲気です。よく見ると、平原には夥しい数の死者が枯草の中に横たわっています。どうやら、弔いの行事が行われているようです。

 作品のタイトルは、《敗北、パニヒダ》です。

 パニヒダとは、正教会において、死者が神の国に安住できるように祈る儀式であり、死者の信仰を受け継いで、共に永遠の国に与れるよう祈願するもの(※ Wikipedia、パニヒダより)だそうです。

 確かに、この作品では、司祭が振り香炉を振りながら、パニヒダを捧げています。よく見なければ気づかないのですが、枯草の広がる平原の中に、兵士たちが累々と横たわっています。

 所々、白くけぶって見えるのは雪なのでしょうか。白色が混じっているせいで、画面のほぼ半分が、明るい黄土色混じりの乳白色で描かれています。空にはどんよりとした雲が垂れ込めており、その雲間からかすかに乳白色の陽光が降り注いでいます。天もまた弔意を示しているかのようでした。

 僧侶というモチーフだけではなく、色調の面でも、この作品には《路傍の石》との類似性が感じられます。

 こうしてみてくると、ヴェレシチャーギンの二つの作品からは、乳白色の色調が意味するところがぼんやりと分かってきます。《路傍の石》で、乳白色で描かれていた軍用リュックは、明らかに白骨化した兵士の象徴と考えられます。

 そこで、気になってくるのが、《路傍の石》というタイトルです。

 「路傍の石」といってすぐに思いつくのは、かつて映画化されたこともある、山本有三の小説です。ところが、オリガ氏がこの小説をご存じないとすれば、「道端に転がっている石」という意味で使われているのかもしれません。

 念のため、「路傍の石」でネット検索してみました。すると、山本有三の小説『路傍の石』関連の項目ばかりが検索結果に上がってきます。となれば、やはり、『路傍の石』の内容あるいは教訓をひととおり、知っておく必要があるでしょう。

■小説『路傍の石』

 山本有三(1887-1974年)は、大正から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作の一つに『路傍の石』があります。栃木県にある山本有三の文学碑には、『路傍の石』から引いたセリフが刻まれています。

 「たったひとりしかない自分を、 たった一度しかない一生を、 ほんとうに生かさなかったら、 人間は生まれてきたかいがないじゃないか」

(※ https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=175&page=1

 これは、『路傍の石』の主人公・吾一が、度胸自慢のために鉄橋にぶら下がって、死にかけたことを知った担任の教師が、彼に教え諭した際のセリフです。

 先生は、死の危険を冒すことになった吾一に対し、「たった一人しかない自分」、「たった一度しかない一生」なのだと、かけがえのない命の大切さを教えます。そして、その大切な命を、「ほんとうに生かさなかったら、生まれてきたかいがない」と諭したのです。

 この教えを胸に刻み付けた吾一は、その後、さまざまな苦難に遭遇しながらも、自分の能力を活かして生きていける場を見つけます。たった一度の人生を全うしていくというのが、小説『路傍の石』の筋書きです。とても人道的な内容の教訓です。

 オリガ氏は、この小説のエッセンスを踏まえ、作品に《路傍の石》と名付けたのでしょうか。だとしたら、モチーフ、構図、画面の色調などに、オリガ氏の人間観、死生観が反映されているに違いありません。

 再び、《路傍の石》の画面に戻ってみましょう。

 やはり、強く印象づけられるのは、乳白色の画面であり、その濃淡で描かれた巨大な軍用リュックです。

 ヴェレシチャーギンの作品に照らし合わせると、オリガ氏はおそらく、戦場に赴かざるを得なかった若者の気持ちを、傷つけられた軍用リュックに重ね合わせたのでしょう。

 そして、リュックを縛り付けていた細い紐が断ち切られていたところに、オリガ氏のメッセージが込められているように思えました。すなわち、たった一度しかない人生だからこそ、自分を全うして生きるべきだという、小説『路傍の石』からの教訓です。

 傷つけられた軍用リュックは、自尊心のために死の危険を冒しかかった吾一であり、無念にも戦場で若い命を落とさざるをえなかった兵士たちの象徴なのです。自らの意思に基づくものであれ、強いられたものであれ、死の危険を冒してはならず、「たった一度の人生を全う」することこそ、与えられた使命なのだというメッセージです。

 それにしても、この乳白色の空間は、なんと奥深く、典雅で思索的な空間を提供してくれているのでしょう。

 実は、スペインの画家サルヴァドール・ダリに、色調や滑らかなタッチが、《路傍の石》の画面に似ている作品があります。馬の石化現象をモチーフにした珍しい作品です。

 それでは、1933年のダリの作品から見てみることにしましょう。

■サルヴァドール・ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989年)の作品

 ダリの作品の中では、気づいただけで三つ、《路傍の石》と似たようなイメージのものがありました。まず、《地質学的生成》(1933年)という作品から見ていくことにしましょう。石化しかかっている馬をメインモチーフに描いた作品です。

●《Le devenir géologiaue》(地質学的生成、1933年)

 画面の色調の滑らかさが似ていたからでしょうか、私はこの作品に、オリガ氏の《路傍の石》に通じるものを感じさせられました。

 メインモチーフは、乳白色の砂漠を歩く石化しかかった馬です。

(油彩、カンヴァス、21×16㎝、1933年、個人蔵)

 果てしなく広がる砂漠で、白い馬がこちらに向かって来ています。前髪の上には両耳に挟まれるようにして、金色の頭がい骨、そして、尻尾に支えられるようにして、金色の頭がい骨が描かれています。

 なんとも不思議なモチーフです。

 画面手前には、大きく影を落とした地面が、広がっています。その中央近辺に、巨大な金色の卵が描かれています。まるで向かって来る馬と対峙しようとしているかのようです。楕円形の卵は、やや傾きながら、転がりもせず、陽を浴びて黄金色に輝いています。

 馬上の頭がい骨は二つとも黄金色に煌めいています。茫漠とした砂漠の中で、これら三つのモチーフはアクセントになり、画面全体に不思議な調和をもたらすポイントになっています。

 試みに、これらの頂点を青いマーカーでつないでみると、歪な三角形を成していることがわかります。

(3つの頂点を青でマーク)

 砂漠の背後には、地平線が見え、ごく低い丘のようなものがつらなっています。その左側の丘と右側の黄金色の巨岩、そして、手前の卵をつなぐと、やはり歪な三角形になります。興味深いことに、先ほど青でマークした三角形がその中にすっぽりと入り、画面全体が実は安定感のある構図になっていることがわかります。

 遠景には、右側に配置された二つの巨岩の合間に、小さな人影が見えます。灼熱の太陽に横から照らし出されて、影が異様に長く、夕方に近い時刻だということがわかります。

 辺り一帯は限りなく暑く、そして、乾燥しているのでしょう。草木はなく、見えるものといえば、砂漠に岩石、石化しかかった馬、骸骨、そして、得体の知れない卵だけです。

 卵といえば、実は、ダリは非常な関心を抱いており、卵の家を作って住んでいたほどでした。庭の至る所に、卵のオブジェが設置されていたそうです。

(※ https://kamimura.com/?p=17415

(※ 上記URL.より)

 ダリは、この作品でお気に入りの卵を使って、遠景と近景をつなぎ、画面全体を安定させるための基点にしていたのです。

 ところで、よく見ると、馬の様子が変です。腹部が異様に膨らみ、右側にはみ出しています。しかも、胸の辺りは大きくひび割れて、穴が開いています。

 馬の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分)

 まるで陶器が割れた後のような穴です。足には縦に亀裂がいくつも入っています。肩から腹にかけての部分も不自然に膨らんでおり、石化しかかっていることがわかります。さらに、前髪も石化しかかっており、まるで氷柱のように、太く白く垂れさがっています。

 この作品でダリは、一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 まず、メインモチーフは石化しかかっている白い馬であり、サブモチーフは黄金色の骸骨といえるでしょう。白い馬は今、まさに永遠の時間を手に入れようとしているところの生命体ですし、骸骨は生を終え、一定期間を経た後の生命体の姿です。いずれも生と死を考えさせるモチーフだというところに、ダリの制作意図があるような気がします。

 この時期、ダリは死について思いを巡らせていたのでしょう。この作品の場合、少なくとも、生を終えた生命体のその後の姿を二種、画面に提示し、完結させているところが特徴だといえます。乳白色に暖色、寒色を混ぜて表現された砂漠の色調が美しく、印象に残ります。

 実はこの少し前、ダリは似たような画風の作品を描いていました。《降りてくる夜の影》という作品です。《地質学的生成》を読み解くヒントが得られるかもしれません。

 この作品を見てみることにしましょう。

●《Las sombras de la noche que cae》(降りてくる夜の影, 1931年)

 ダリが生涯の伴侶となる人妻ガラと出会ったのが1929年の夏、その後、再会して恋に落ち、スペインの漁村ポルト・リガトに拠点を得て、二人は同棲し始めます。そこで、制作したのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、61×50㎝、1931年、ダリ美術館、フロリダ)

 画面手前に大きく黒い影が広がり、その縁に小さな石、すぐ後ろに中ぐらいの石、そして、画面の両側には巨岩、後方の海岸線にも巨岩が立っています。右手前に白い布で包まれた奇妙なモチーフがありますが、全体に、生命体の欠片もなく、荒涼とした光景です。

 《地質学的生成》はおそらく、この作品を踏まえ、制作されたのでしょう。モチーフ、構図などに類似性が見受けられます。

 もっとも、この作品は、《地質学的生成》に比べ、画面手前に占める影の割合が大きく、不安感が色濃く漂っています。この時期のダリの心象風景が大きく反映されているのかしれません。

 実は、ガラを愛するようになってから、ダリはいっそう神経過敏になり、彼女を失う不安に駆られるようになっていました。

 ダリは同年、《記憶の固執》(1931年)という作品を描いています。こちらは荒涼とした風景ではありませんが、依然として画面に占める影の部分は大きく、奇妙なモチーフがことさらに印象に残る作品です。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●《La persistencia de la memoria》(記憶の固執、1931年)

 これは有名な作品ですから、ご存じの方も多いのではないかと思います。

(油彩、カンヴァス、24×33㎝、1931年、New York, The Museum of Modern Art所蔵)

 時計が三つ、描かれていますが、一つは木の枝にかけられ、もう一つはテーブルのようなものの端から垂れ下がり、最後のものはまるで鞍のように、横たわった物体の背中に掛けられています。

 いずれも、ぐにゃりと折れ曲がっています。まるで足拭きマットか、厚手のラグのような柔らかさです。

 とても時計とは思えない材質ですが、表面には長針、短針があり、それぞれ数字を指しています。ですから、この造形物はやはり、時計なのでしょう。ところが、この三つの時計は、同じ場所に置かれていながら、刻んでいる時刻が異なっています。

 時計がマットのように軟化し、一定の時刻を刻むことができなくなってしまったのでしょうか。

 そこで、思い出したのが、《路傍の石》の軍用リュックです。

 形状はリュックですが、素材はキャンバス布地ではなく、石のようなものでした。リュックが石なら、重くて持ち運べないはずですが、それでも、このリュックはキャンバス布地では描かれていませんでした。

 二つの作品に見られる、このメタモルフォーゼは何を意味しているのでしょうか。

■生命体は永遠の時間を持てるのか

 《記憶の固執》の場合は、時計が軟化して機能せず、《路傍の石》の場合は、リュックが石化して本来の機能を失い、シンボルになっていました。

 その結果、何がもたらされたのかといえば、ダリの作品の場合は、時間を消滅させることで永遠を手にし、オリガ氏の作品の場合は、石化によって永遠の時間を手に入れていました。

 いずれも、時計あるいは軍用リュックを敢えて、別の素材に変容させることによって、本来の機能を喪失させ、永遠あるいは永遠の時間に置き換えたと考えられるのです。

 さて、この時期のダリの作品三点に共通するのは、砂漠あるいは砂浜という場所であり、そこに広がる大きな黒い影でした。茫漠と広がる空間を大きく占拠する黒い影に、ダリの不安感が示されているといえます。

 当時、ダリは愛するガラを得て、創作に励む一方、大きな不安にも駆られていました。深く愛するがゆえに、いつか別れの時が来ることを恐れていたのです。

 たとえば、《降りてくる夜の影》(1931年)では、荒涼とした風景の中に、募る不安と解決策のない恐怖が表現されていました。《記憶の固執》(1931年)では、歪んだ三つの時計に、時間の消滅が示唆されており、そして、辿り着いたのが、《地質学的生成》(1933年)でした。

 その《地質学的生成》では、生命体の死後について二通り考えられていました。それは、時間の経過に伴う白骨化であり、石化による永遠化です。生命体と時間について、明確に意識できるようになって、ダリの不安感は多少、和らいだのかもしれません。

 《路傍の石》の場合、やや様相が異なります。

 ダリの作品ばかりではなく、ヴェレシチャーギンの作品や山本有三の『路傍の石』を介して、ようやく、《路傍の石》を読み解くことができる難解さがあります。

 ヴェレシチャーギンの作品を通して見れば、《路傍の石》の軍用リュックは、死を覚悟して、戦場に赴かざるをえない若者の象徴といえます。そして、山本有三の『路傍の石』を通して見れば、軍用リュックは、一度しかない人生を全うできなかった若者の悲哀を表していると考えられます。

 興味深いことに、この軍用リュックは、ロシア軍の3日間突撃用のものでした。ラップトップなども入れられるようになっており、近代戦を戦える仕様になっています。

 そこで、連想されるのが、2022年2月24日に端を発したロシアのウクライナへの侵攻です。

 誰もが、早々に終結することを願っていたのに、いまだに停戦の気配は見えません。一旦、戦争が起きれば、やがて、次の戦争を生み、そして、さらなる戦争に進展するといったメカニズムを目の当たりにすることになったのです。

 その結果、多くの命が犠牲になっており、ヴェレシチャーギンの作品で描かれていたような状況が現実のものになっています。

 数多くの戦場を取材した彼は、戦争がもたらす悲哀や悲惨を直接的に表現していました。おそらく、直接的な表現の方が、人々に戦争の恐怖を覚えさせ、悲惨さを感じさせられると考えていたからでしょう。彼の作品の画面の端々から、戦争の抑止力になればという願いが見えてきます。

 《路傍の石》の場合、直接的な表現ではありませんでした。軍用リュックが戦争のシンボルとして扱われていましたが、それがわかったのは、ヴェレシチャーギンの作品を参照することができた後でした。

 軍用リュックには、深く亀裂が入っており、ありえない材質で描かれていました。ドラマティックな緊張感が漲るモチーフだったのです。

 観客にとってはこれが大いなる謎でした。半ば必然的にこのモチーフ注目せざるをえず、調べていくことによって、ようやく、ヴェレシチャーギンの作品に辿り着いていくという仕掛けでした。

■時空を超える知性と典雅な美しさ

 《路傍の石》には、モチーフの選択、その形状、構図、色調などに、観客を引き寄せ、深く考えさせる要素があったことは確かです。

 一枚のカンヴァスの中に、観客の関心を喚起する要素、知りたいという欲求をかき立てる要素、そして、作者が問題提起する事象について熟慮させる要素、などが組み込まれていたのです。

 たとえば、そのための謎がいくつか、画面に仕掛けられていました。この謎が実に巧妙で、ヴェレシチャーギンの作品やダリの作品に辿り着かなければ、とうてい、解き明かすことはできなかったほどのものでした。

 この点に私はまず、作者の豊かな知性と作品の拡張性を感じさせられました。謎ばかりではありません。《路傍の石》には、優美な画面がもたらす洗練された訴求力があり、私は圧倒されてしまいました。

 画面を覆う乳白色の色調は、繊細で優雅なタッチで表現されており、観客の意識下に大きく影響していたのではないかと思います。

 画面全体に及ぶこの色調は、微妙なグラデーションを重ね、時空を超えた世界を創り出していました。救いの光明を感じさせる箇所があれば、時に、深い悲しみを感じさせる箇所もあって、その濃淡は、この世に生まれ、やがては死んでいく人間が織りなす人生の襞のようにも見えました。

 この深淵な色調に、刹那的に切り取られた当該時間を感じさせられる一方、滔々と流れる永遠の時間を感じさせられたのです。

  関連作品を見比べてみて、改めて、この作品がいかに奥深く、知性的なものであるかがわかります。しかも、作品の中にはさり気なく、観客の思考を促す形で、作者のメッセージが込められていたのです。優美なタッチの中に、美学、哲学、人道主義などを内在させた芸術作品といえるでしょう。(2022/8/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑨民衆を捉える敬愛の眼差し

 前回、1890年から1894年にかけてリュスが描いた点描画作品をご紹介してきました。

 厳格な点描法に従って描いた作品もあれば、ドットを大きく、不揃いにして描いた点描画もありました。

 たとえば、太陽光に照らされたモチーフを描く場合、リュスは、ドットを小さく、揃えたタッチで描き、陽光の存在を際立たせていました。一方、陽光はさまざまな影を生み出しますが、影色を工夫し、均質なタッチで描くことによって、画面に陰影とリアリティをもたらしていました。

 点描画法によって、陽光の輝きとモチーフのリアリティをともに、表現していたのです。

 一方、日没、あるいは、闇夜の下でモチーフを描く場合、ドットを大きく、不揃いなタッチで描いていました。小さなドットでは表現しきれない情緒や情感といったものを、自由度の高いタッチで描出していたのです。

 おかげで、日没の微妙なトーンを表現することができていましたし、闇夜を照らす街灯、あるいは、月光といった光源そのものがもたらす幻想性を表現することもできていました。

 陽光の下での自然や人物の姿に始まり、日没時のパリの光景、闇夜の市街地や波止場の情景といった具合に、時間帯の異なる画題を取り上げ、モチーフに与える光と影の効果を探っていたといえるでしょう。

 この時期の作品を観る限り、リュスは、点描法について、光と影の両側面から、その表現効果を実験していたのではないかという気がします。

 これらの作品の中で、点描法を使いながら、陰影があり、リアリティもある画面を創り出していたのが、人物をモチーフにした作品でした。

 そこで、今回は、その後の作品の中から、市井の人々をモチーフにした作品を取り上げ、見ていくことにしたいと思います。

■市井の人々

●《La Rue Mouffetard》(ムフタール通り、1889-1890年)

 パリ左岸にあるムフタール通りは、パリ市中でもっとも賑わう通りの一つです。丘の上にあったおかげで、1853年から1870年にかけて行われたパリ大改造の際も、この通りは作り替えられることなく、昔の面影を残しているといわれています。

 リュスはこの作品を、俯瞰アングルで描いています。人々が行き交うムフタール通りの賑わいを画面に収めるためなのでしょう。確かに、この俯瞰アングルのおかげで、手前の広場での人々の動き、通りの奥に広がる人々の流れがよくわかります。

(油彩、カンヴァス、80.3×63.8㎝、1889-1890年、Musée d’Orsay所蔵)

 手前の広場では、人々が値段を交渉したり、物を買ったり、売ったりしています。話し込んでいる人がいるかと思えば、両腕に荷物を抱えている人、思案している人もいます。奥のムフタール通りでは小さな店が並び、その前を人々が商品を物色しながら、行き交っています。

 服装といい、姿勢といい、ちょっとした振る舞いといい、リュスは、集まった人々それぞれの特徴を見逃さず、仔細に描き分けています。しかも、この場の賑わいを、点描画法で描き出しているのです。

 興味深いのは、さまざまな動きをする市井の人々を、それぞれの特徴を踏まえて描きながら、画面が混乱していないことでした。何故だかわかりませんが、画面がきわめて秩序だって構成されているように見えるのです。

 一つには、色の使い方、もう一つは、建物の垂直ラインの使い方にあるのではないかという気がします。

 まず、色の使い方で印象に残ったのは、手前の広場と奥のムフタール通りの路面が白っぽい色で統一されていることでした。行き交う人々の土台に明るい白を使うことで、人々の服装を引き立てる一方、広場と通りが共通の空間であることを意識させる効果があります。

 また、広場には白いワンピースの女性に白い大きなエプロンを付けた女性、そして、ムフタール通りに入っていく所には、白いスーツを着た男性、通りの中ほどには白いエプロンの子どもや女性が、配置されています。まるで白い衣服によって観客の視線を誘導しているかのように見えます。これら、白い衣服の人物を広場や通りに適宜、配置することで、奥行き、特に縦方向の広がりを感じさせます。

 そして、もう一つは、並び立つ建物の垂直ラインが一種の罫線の役割を果たしているのではないかということです。これら建物に潜む垂直ラインが、雑多なモチーフを秩序立てて見せる効果をもたらしていたように思えました。

 建物の色彩についていえば、手前の建物は暖色系と寒色系とを並べて色構成されており、画面を引き締める役割を担っていました。

 この作品では、大勢の人々を描きながらも、混乱することなく、賑わうムフタール通りの様子が、活き活きと捉えられていました。メインカラーを何にするか、構図をどうするか、フレームとなる建物の役割をどうするか、といったようなことを考え、制作にとりかかっていたからだという気がします。

 その結果、スーラ―由来の厳格な点描法で描きながらも、生気を失うことなく、動きのある光景が捉えられていました。構図の効果であり、モチーフの配置、色構成の効果といえます。

 さらに、もう一つ、市井の人々の生活光景を捉えた作品があります。

●《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》(サンミッシェル埠頭とノートルダム、1901年)

 ノートルダム大聖堂を背景に、サンミッシェル埠頭を捉えた作品です。

(油彩、カンヴァス、73.0×60.5㎝、1901年、Musée d’Orsay所蔵)

 まず、目につくのは、背後に聳え立つノートルダム大聖堂です。辺りはすでに陽は落ち、大聖堂の建物だけが、残照を受けて輝いています。大きく、威容を誇る姿に圧倒されます。

 しかも、点描法で描かれているせいか、荘厳なゴシック様式の建築に、典雅な美しさが加わっています。暮れなずむひととき、ノートルダム大聖堂は、堂々とした美しさと力強さを見せつけていました。

 それに引き換え、サンミッシェル埠頭を行き交う人々が、なんと暗く、力なく見えることでしょうか。

 人々が描かれている辺り一帯は、すでに陽が落ち、夕刻の気配が立ち込めています。描かれているのは、おそらく、仕事を終え、用事を済ませ、家路を急ぐ人々なのでしょう。

 手前には、背負い子を背負い、俯き加減に歩く男性、子どもに手を引かれた高齢女性、中ほどには、台車を引く男性、人力車を引く男性、いずれも背中を丸め、遠目からも疲れて見えます。埠頭を歩く人々もまた、精彩がありません。

 さらに、遠方に目を向けると、ノートルダムに向かう橋には、大勢の人々が描かれています。こちらは、個を識別できないほど小さく描かれており、ただの群衆とみるしかありません。

 こうしてみると、この作品は、画面中ほどで分割される二つのモチーフで構成されているといえるでしょう。

 一方は、残照を浴びて煌めくノートルダム大聖堂であり、他方は、名もなく、力もない市井の人々です。ノートルダム大聖堂に象徴されるものが権力と富と名声だとすれば、陽光の恩恵もなく、精彩を欠きながら生きていかざるをえない民衆の象徴といえるでしょう。

 この二つのモチーフを対比して描くことによって、リュスは、当時のパリの社会構造、あるいは、社会状況を浮き彫りにしているように思えました。

 点描法はこの二つのモチーフ、どちらにも馴染んでいます。まず、ノートルダム大聖堂については、点描法のおかげで、荘厳でありながら、繊細な美しさ、品の良さを加味して表現することができていました。

 一方、市井の人々については、点描法のおかげで、均質化した民衆という側面を表現することに成功しています。人々は、小さなドットを重ねて描かれながらも、姿形が特徴を踏まえて描かれているので、彼らの生活ぶりを推察することもできます。

 均質化した小さなドットで色彩を置いていく点描法だからこそ、この二つのモチーフの特徴を活かして表現することができたといえるでしょう。

 リュスは、黄昏時の光と影の部分を見事に使い分けながら、名もなく、富みもなく、力もない民衆と、権力と富と名声の象徴とを表現していたのです。構図といい、色構成といい、素晴らしい出来栄えの作品です。

 さて、市井の人々をモチーフにした二つの作品、《La Rue Mouffetard》と《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》を見てきました。共通するのは、市井の人々に対するリュスの暖かな眼差しです。

 なぜ、そうなのかということを考える前に、もう一つ、別の作品を観ておくことにしましょう。

 《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》が描かれたのが1901年、その30年前の1871年、パリでは民衆が蜂起し、自治政府が作られました。いわゆるパリ・コミューンです。

 当時、リュスは18歳、ちょうど木版画職人の見習い工を終え、ゴブラン製作所で働いていた時期でした。

 多感な時期にリュスは、暴動を経験し、血なまぐさい殺戮を何度も目にしてきました。政府軍との戦いで殺された人々の記憶はしっかりと脳裡に刻み込まれていたのでしょう。リュスはパリ・コミューン時の経験を踏まえ、1903年から1904年にかけて、作品化しました。

 無残にも、路上に放置されたままの犠牲者たちの姿を描いた作品です。

■立ち上がり、路上のつゆと消えた民衆

 リュスがこの作品の制作に取り掛かったのが1903年、そして、終えたのが1905年でした。2年もかけて、この大作に挑んでいたのです。数多くの悲惨な記憶の中から、どの光景をモチーフとして選び、どう描くか、さまざまに試行錯誤を重ねたに違いありません。

 そして、リュスが選んだのが、路上に放置された犠牲者たちの姿でした。

●《A Street in Paris in May 1871》(1871年5月コミューン下のパリの街路、1903-1905)

 手前の路上に、1人の女性と3人の兵士が血を流し、倒れています。後方にも1人、兵士が倒れています。

(油彩、カンヴァス、151×225㎝、1903-1905、オルセー美術館)

 手前で放置された犠牲者たちは、建物から長く伸びた影によって覆われ、強い陽射しから守られているように見えます。一方、後方の兵士は建物の影が及ばない中、放置されています。もっとも、横向きで俯いた姿勢なので、少なくとも顔面は、強い陽射しから保護されているように見えます。

 リュスは光と影を使い、モチーフに対する思いを巧みに表現していました。

 パリ・コミューン時、リュスの心には深く、無念の思いが刻み込まれたに違いありません。だからこそ、犠牲者の尊厳を守り、弔いの気持ちを表しつつ作品化しようとしたのではないかと思います。

 そのために、彼は建物から伸びる長い影を利用しました。影が一種の覆いのように、犠牲者たちを保護するような構図を考えたのです。そして、背後の建物や歩道を淡い色でスケッチ風にまとめ、大きく広がる影の存在を際立たせるようにしていました。

 このようにして表現された影がもたらす優しさは、犠牲者たちに対するリュスの哀悼の気持ちでもあったと思います。

 このようなリュスの思いは、犠牲者たちの描き方にも、反映されていました。

 この作品では、凄惨な殺戮現場でありながら、犠牲者たちはまるで眠っているように見えます。

 彼らの顔や身体に損傷は見られません。ただ、口から血を吐き、頭や耳から血を流しているぐらいです。そのせいか、仰向けに倒れている男性も女性もその表情は、とても穏やかです。使命感で戦い、命を落としたことを誇りに思っているようにすら見えます。

 それは、おそらく、リュスが死者の尊厳を傷つけることなく、凄惨な現場を描こうとしていたからでしょう。そこに、リュスの、犠牲者に対する敬意の念が込められているように思えます。

 この作品から読み取れるのは、リュスの犠牲者に対する敬意と優しさでした。

 たとえば、同じパリ・コミューンの犠牲者を描いた作品でも、次のようなものもあります。比較のために、ちょっと見てみることにしましょう。

●《Casualties of the Paris Commune, 1871》(パリ・コミューンの犠牲者、1871年、1871年)

 この作品は1871年に制作され、作者不詳の作品です。

(紙、鉛筆、サイズ不詳、1871年、個人蔵)

 作者はおそらく、犠牲者たちの姿を見たままに描いたのでしょう。

 数多くの犠牲者たちが並べられ、その周囲には棺桶がいくつも置かれています。窓から陽光が射し込み、身体の一部を照らし出しています。犠牲者が物体として扱われ、処理されていく苛酷な現実が描かれていました。

 この作品からは、犠牲者たちへの弔いの気持ち、尊厳を守ろうとする気持ちはいささかも感じられませんでしたが、悲しいことに、これが現実なのです。

 改めて、犠牲者たちに対するリュスの優しさが好ましく思えてきます。

 同じパリ・コミューン時の犠牲者を扱いながら、リュスの作品《A Street in Paris in May 1871》と作者不詳の作品《《Casualties of the Paris Commune, 1871》》には大きな違いがありました。

 記憶と記録による違いとでもいえばいいのでしょうか。

 事件発生後30年余を経た後、リュスはこの作品の制作に着手しました。その後、2年を経て完成させています。その間、リュスの中で当時の記憶は次第に純化し、見たくないものは除外していくと、あのようなモチーフと画面構成になったのだと思われます。

 一方、製作者不詳の作品は、当時、作者が見たままの光景が作品化されています。当時の現場からの報告であり、現場写真と同様、優れた報道記録といえます。

 労働者階級の息子として、モンパルナスで生まれ育ったリュスは、彼らに深くシンパシーを感じてきました。肖像画家カロリュス・デュランの下で学びながらも、華麗なブルジョワジーの肖像画を描くことはなく、老いた小母さんの肖像画を描いたにすぎませんでした。というのも、リュスが労働者階級としてのスタンスを保持し続けたからでした。

 リュスは、労働者が働く姿を捉えた作品をいくつか残しています。二つほど、ご紹介しましょう。

■労働者

 リュスには、過酷な現場で働く労働者を描いた作品がいくつかあります。その一つに、製鉄所で働く人々をモチーフにしたものがあります。

●《L’Aciérie》(製鉄所、1899年)

 燃え盛る炎を前に、男たちが作業をしています。

(油彩、カンヴァス、92×73.3㎝、1899年、個人蔵)

 熱気は、後方で休憩している男たちのところまで、立ち込め、画面全体が炎で照り輝いています。辺り一面、どこもかしこも、火の粉が舞い散っている様子が、点描法ならではの細かいタッチで、巧みに表現されています。

 改めて、点描法は光の粒子や火の粉を表現するとき、その効力を最大限に発揮することを思い知らされました。

 この作品の場合、炉の壁面や床、男たちの衣服や帽子に、サーモンピンクが適宜、散らされています。それは、観客に火の粒子をイメージさせる一方、炉で働く男たちの苛酷な労働を象徴するものとして効いているのです。

 点描法のタッチに、サーモンピンクという色を載せて、現場に立ち込める熱気を丁寧に掬い上げ、過酷な労働現場をイメージ豊かに表現しているのです。

 ところが、過酷な労働現場のはずなのに、描かれている画面からは、その実感が伝わってきません。

 一体、何故なのでしょうか。

 改めて、画面を見てみました。

 舞い散る火の粉を浴びながら、男たちは炎に向かって気持ちを一つにし、働いています。男たちの視線はすべて炎に向けられ、その炎が焦点化されています。そこに、男たちの主体性が感じられ、観客の目を画面に引き込む力を放っていました。

 労働を苦役と捉えるのではなく、神聖な行為と捉える男たちのリリシズムを感じさせられたのです。使命感を持って、一致団結して働くことに意義を見出し、そのための労苦を厭わないという心構えが醸し出すリリシズムです。

 さきほど、ご紹介したパリ・コミューンの犠牲者といい、この製鉄所の男たちといい、リュスは、民衆や労働者をモチーフとして共感を持って描き、そこから美しさを引き出していることに気づきます。

 リュスにはこれ以外にも、労働現場を描いた作品があります。

●《Les batteurs de pieux》(杭打ち機、1902年)

 杭打ち機を集団で動かしている男たちの光景が描かれています。背後には煙が立ち上る煙突がいくつも描かれており、沿岸部の工場地帯であることがわかります。

(油彩、カンヴァス、154×196㎝、1902年、Musée d’Orsay所蔵)

 男たちは皆、帽子をかぶり、上半身は裸で、杭打ち機の紐を引っ張っています。6人の男たちが力を合わせて紐を引っ張り、杭打ち機を引き上げては落とし、穴を掘る作業をしているのです。

 過酷な労働現場であることは確かです。

 男たちの剥き出しになった腕や肩、脇腹に陽光が当たり、キラキラと輝いているように見えます。思い思いの姿勢で紐を引っ張る男たちの、隆々とした筋肉の盛り上がりが、陽射しの中で強調されています。過酷な労働を引き換えに手にした精悍な肉体です。

 画面を見ているうちに、ふと、リュスは、逞しい身体つきの男たちを賛美して描いているのではないかという気がしてきました。

 そう思ってしまうほど、描かれている男たちは明るく、生き生きとした表情を浮かべていたのです。

 彼らはおそらく、引き上げ作業の際は大きな声を掛け合い、気持ちを一つにしながら、渾身の力を振り絞っていたのでしょう。そのせいか、画面からは労働賛歌の雰囲気が濃厚に滲み出ています。

 ここでも、光と影がうまく活用されていました。もちろん、点描画法も同様です。

 点描法は、背後の工場群のくすんだ様子を描くのに活かされていました。その一方で、男たちの盛り上がった筋肉の上で光る汗粒の表現にも活かされていました。くすみの表現にも輝きの表現にも点描法が活用されていたのです。

 労働現場を描いた作品からは、リュスが労働者をいかに肯定的に捉えていたかがわかります。

■パリ・コミューンと労働者階級

 労働者階級を中心とする民衆が一時、パリを占拠し、自治政府を樹立していたことがありました。それがパリ・コミューンです。先ほどご紹介した作品、《A Street in Paris in May 1871》の背景となる政治状況でした。

 リュスの作品には、「1871年5月」という文言が入っています。これは、血の一週間といわれる時期を指しており、1871年3月18日に樹立された世界最初の社会主義政府パリ・コミューンが消滅に向かっていく期間でもありました。

 当時の様子をまとめた16分58秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。9分以降、「血の一週間」について説明されます。

こちら → https://youtu.be/4a31larqXts

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 この頃、民衆は、「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。イエスかノーかを問わず、逮捕され銃殺される」といわれる状況に置かれていました。

 そんな折、ドイツの占領軍が包囲する停戦下で、正規軍の崩壊と民衆の武装蜂起という、きわめて特殊な状況下で、パリ・コミューンは成立したのです(※ 福井憲彦編『フランス史下』、2021年3月、山川出版社、p.124-125.)

 パリ各区から選出された代議制による組織であるパリ・コミューンは、民衆の生活を守るための政策を打ち出し、推進しようとしていました。ところが、彼らには、社会政策として標榜していた政策を実現するための時間はなく、政府軍との攻防に明け暮れざるをえませんでした(※ Guillaume de Berthier de Sauvigny, 鹿島茂監訳『フランス史』2019年4月、講談社、p.472-473.)

 元来、民衆蜂起を母体とした自治政府でした。理論的にも組織的にも脆弱だったばかりか、軍事的にも大きな弱点がありました。

 政府軍が態勢を立て直してくると、コミューン側は劣勢を覆すことはできなくなり、いったんは降伏を決断します。ところが、「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」するという声に押され、死闘を繰り広げざるをえませんでした。

 この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦は、パリを奪還しようとする政府軍とコミューン側との間の熾烈な戦いでした。無差別殺人が至る所で発生し、老若男女を問わず、多くの市民が殺傷されていったのです。

 20万人といわれたコミューン側は、終には、3万人にのぼる戦死者を出し、瓦解しました。1871年5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊したのです(※ 福井憲彦、前掲、p.125.)。

 1871年3月18日から1871年5月28日までのわずか72日間、労働者階級を中心とする民衆が、パリ自治政府を樹立していました。

 彼らは、自治都市パリを基点に、全国にコミューン連合を広げていこうとしていました。そこに着目し、アナーキストたちは、パリ・コミューンをあるべき社会組織として理想視(※ 福井憲彦、前掲、p.126.)していたといいます。

 実は、思想的にリュスは、アナーキズムに共鳴しており、アナーキストが出版した刊行物に挿し絵を描いたりしていました。当時の政治状況、社会状況、文化状況を考えると、当然のことといえるかもしれません。(2022/7/31 香取淳子)

 

マクシミリアン・リュス ⑧点描画法で捉えた陽光と闇夜

 前回は、1886年から1889年にかけてリュスが描いた作品をご紹介してきました。それらは点描法で描かれた初期作品といえるものですが、いずれも光と影の表現に強く印象づけられました。

 そのような特徴は、果たして、その後の作品にも引き継がれているのでしょうか。今回は1890年以降の作品を観ていくことにしたいと思います。

 まず、《La Seine à Herblay》から見ていくことにしましょう。

■リュスが捉えた日中の光

●《La Seine à Herblay》(エルブレーのセーヌ川、1890年)

 エルブレーとは、エルブレー=シュル=セーヌ (Herblay-sur-Seine)のことで、セーヌ川右岸に位置する地域を指します。《La Seine à Herblay》はタイトル通り、その地域を流れるセーヌ川を捉えた作品です。ところが、画面を見てもわかる通り、セーヌ川の存在感は希薄で、どこに描かれているのか、すぐにはわからないほどでした。

(油彩、カンヴァス、50.3×79.3㎝、1890年、オルセー美術館)

 画面中ほど左側に描かれているのですが、面積も小さく、木々の影が川面に映し出されているので、ようやく川だと気づくぐらいです。

 画面を見て、まず目につくのは、川べりのスロープです。対角線のほぼ右半分を占めています。しかも、色とりどりの花木がなだらかな斜面を覆っており、圧巻です。まるでゾーニングされているかのように、赤褐色、橙、黄色、黄土、紫、緑、青などに色分けされた草花が整然と描かれています。

 自然の営みに人の手が加えられ、調和のある美しさが、理性的な色遣いと筆致で描出されていました。点描法で描かれているからでしょうか、秩序だった色構成の美しさが際立っています。

 実際、現地で見ると、穏やかな陽光が辺り一帯に万遍なく降り注ぎ、草花や木々を輝かせているのでしょう。ところが、俯瞰して点描法で描かれた画面に色の鮮やかさはなく、陽光の存在そのものも感じられません。全般に靄がかかっているかのように、生気がなく、静かなのです。

 さらに、画面左の中ほどに、蛇行するセーヌ川の一部が見えますが、遠方のせいか、川面の輝きはみられません。

 河畔の高みからセーヌ川を捉えた構図は、明らかに、河畔のスロープの華やぎを描こうとしたものでした。タイトルが《La Seine à Herblay》(エルブレーのセーヌ川)なのに、河畔のスロープがメインモチーフのように描かれた作品だったのです。

 ちょっと戸惑いました。リュスはなぜ、このような構図を選んだのでしょうか。

 果たして、エルブレーのセーヌ川は一般に、どのような構図で捉えられているのでしょうか。気になったので、調べてみました。すると、次のような写真を見つけることができました。

(Wikipediaより)


 滔々と流れる水量豊かなセーヌ川に、一艘の船が浮かび、男が二人、釣り糸を垂れています。河畔には木々が高くそびえ、その背後には教会があります。メリハリがあり、見栄えのする構図で、エルブレーのセーヌ川が捉えられています。まるで絵葉書のように見えます。

 エルブレーのセーヌ川にはおそらく、このような「絵になる」光景がいくつもあるのでしょう。ここなら、キラキラと輝く陽光の輝きも捉えることができるでしょう。ところが、リュスは敢えてそのような構図を採りませんでした。

 先ほど見たように、セーヌ川よりも、その河畔の花や草木で覆われたスロープに焦点を当てた構図を選んだのです。

 一体、何故なのでしょうか。

 よく知られた風景、あるいは、多くの人が美しいと思う風景ではなく、どちらかといえば、リュスは何の変哲もない風景を選んだのです。なぜ、この光景を画題として選んだのでしょうか。画面を見ていても埒が明きません。

 そこで、この時期に描かれた作品を観てみることにしました。当時、リュスが何を求めていたかがわかるかもしれません。

 探して見ると、同じ年に描かれた作品に、《Morning, Interior》があることがわかりました。人物画ですが、点描法で描かれています。この作品を見てみることにしましょう。

●《Morning, Interior》(朝の室内、1890年)

 この作品は、前回、ご紹介した《The Toilet》(1887年)と同様、朝起きて、仕事に出かける前の光景を描いたものです。

(油彩、カンヴァス、64.8×81㎝、1890年、メトロポリタン美術館)

 天窓からまばゆいばかりの陽光が射し込み、室内を照らし出しています。窓が高い位置で斜めに設えられているので、射し込む陽光は、まるで舞台を照らすライトのようです。強い光の粒子が長く伸び、男の横顔、肩や腕、布団や壺、靴を明るく浮かび上がらせています。

 太陽の光が、ありふれた日常の一コマを、ドラマティックな場面に置き換えているのです。

 壁、机、床には、赤、オレンジ、黄色、青、紫を使って点描された光線が落ち、まるで光の粒子が、目に見えるような輝きを放っています。点描法ならではの表現です。陽光との相乗効果で画面を際立たせ、何気ない日常の生活シーンを興趣ある画題として作品化させていたのです。

 ここで描かれている男性は、新印象派の画家仲間のグスタフ・ペロット(Gustave Perrot)だといわれています(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436923)。

 彼と仲の良かったリュスは、実際にこのような光景を度々、目にしたことがあるのでしょう。男の仕草や細部の表現がとてもリアルです。

 ペロットがどんな画家だったのか調べてみましたが、残念ながら、彼は早逝しており、この作品以外の情報はほとんど見つかりませんでした。

 さて、この作品で最も強く印象に残ったのは、天窓から射し込む陽光の豊かさでした。天井に近いところから射し込む光線は、男の背後の壁を斜めに大きく照らし出し、光の存在を浮き彫りにしています。

 おそらく、手前にも同じような天窓が設えられているのでしょう、右の壁に光が射し込み、床に置かれた壺の下に、くっきりとした影を作っています。また、光は手前の床を明るく照らし出す一方、男の足や粗末なベッドの影を強く床に刻んでいます。天窓から入り込む光が直進し、モチーフそれぞれの背後に影をもたらしている様子が情緒豊かに描き出されているのです。

 こうしてみると、リュスは、ありふれた日常の一コマを画題として成立させ、作品として完成させていたことがわかります。そこに、スーラやシニャックの作品には見られない着眼点のユニークさがあり、点描法の特性が十分に活かされていました。

 さらに、探して見ると、この作品の2年後、似たような画題の作品が制作されていました。

●《The Coffee》(コーヒー、1892年)

 この作品もやはり、朝のひとときが画題として取り上げられ、点描法で描かれています。おそらく夫婦なのでしょう、男女二人の朝のルーティンが画面に収められています。男性は手前でコーヒーをポットに注ぎ、女性は後方で、ドアを開けて掃除しています。

(油彩、カンヴァス、81×65.2㎝、1892年、個人蔵)

 この作品ではまず、大小さまざまな形状のモチーフが数多く、描かれているのに驚かされます。二人の朝のルーティンを表現するには、これだけのモチーフが不可欠なのでしょうが、モチーフが多ければ、画面は乱雑になりがちです。

 ところが、画面を見てもわかるように、モチーフはそれぞれ、あるべき場所に整然と収まり、生活を支える用品として、画面にリアリティを添えています。おかげで、画面からは、コーヒーの香りが漂い、開け放たれたドアから清々しい風と陽光が入り込んできているのが感じられます。

 二人にとっては、いつもと同じ一日の始まりであり、何気ない幸せをかみしめられるひとときなのでしょう。

■構図と陽光がもたらすリアリズム

 何故、多数のモチーフを扱いながら、この作品は整然とした印象を与えることができているのでしょうか。ちょっと考えてみました。

 まず気づくのは、一連のモチーフが遠近法に則って、正確に配置されていることでした。まるで設計図を引いて、計算しながら、モチーフを配置したかのように、工学的な正確さが見られます。大小さまざまな生活用品が、観客の視認性に配慮しながら、適所に配置されていたのです。

 たとえば、近景にポットにコーヒーを注ぐ男を配し、中景にちょっとした空間を置き、遠景に立って掃除する女性を配しています。近いものは大きく、遠いものは小さく描き、距離とモチーフの大きさのバランスも的確でした。

 次に気づいたのが、モチーフの整然とした配置に直線が効果的に用いられていたことでした。まず、入口で立って掃除する女性は、ドアのサッシと柱の間に収められ、安定感があります。

 このような女性を囲む縦線は、後方の壁に掛けられた2枚の絵の縦線と呼応し、リズミカルに秩序付けられています。

(前掲作品の一部)

 画面の中ほどを見ると、ドアの隣にある暖炉の先端は、身をかがめた男性の頭とほぼ同じ高さに設定されています。この暖炉の縦線には、男性の位置を安定させ、背後の女性とのバランスを保つ効果がみられます。

 こうしてみてくると、これらの縦線はそれぞれ、罫線の役割を果たしているように見えます。つまり、罫線の中に収められることによって、さまざまな形のモチーフが混乱することなく、秩序づけて配置されているという印象が与えられているのです。

 さらに、気づいたのが、近景モチーフと遠景モチーフとの関連性が、画面に動きを与え、安定感をもたらせていることでした。

 改めて、作品全体を見ると、遠景の女性が箒を持つ手と近景の男性のポットを支える左手が平行になっていることに気づきます。このように配置することによって、画面に動きを与え、男女それぞれの朝のルーティンが連動していることが示されています。

 さらに、男性はポットにコーヒーを注いでいますが、前かがみの姿勢がやや不安定です。ところが、よく見ると、その傾きは、後方の壁に掛けられた2枚の絵をつないだ線と平行になっています。メインモチーフの不安定な身体の傾きを、背後の絵の配置の傾きと連動させることによって、画面に安定感をもたらせているのです。

 こうしてみてくると、数多くのモチーフを扱った作品でありながら、観客が混乱することなく鑑賞できるのは、縦線、横線、斜線を利用してモチーフを配置したからにほかならないことがわかります。

 さて、この作品では、女性が掃除しているドアから、朝の陽光が捉えられています。射し込む光の粒子が、女性の髪、横顔、洋服の肩、腕、スカート、箒、床を優しく照らし出しています。ささやかな朝の幸せが、ありふれたものの中に、巧みに表現されているのです。

 手前にも大きな窓があるのでしょうか、男性、ポット、コンロなどの手前が明るく描かれ、正面から光が当たっているように見えます。

(前掲作品の一部。)

 青系統の色とその補色であるオレンジ、そして、白を組み合わせて、光の当たっているところ、影になっているところを丁寧に描き分けて、シャツの皺、ソースパンを持つ右腕の筋などの細部にリアリティを生み出しています。

 興味深いのは、暖炉からドアまでの中景に、幅広の影が設定されていることでした。この影部分が設定されることによって、一つの画面の中に、光が生み出す二つの世界が描き出されていたのです。すなわち、正面から射す光が生み出す世界と、背後で横から射し込む光が照らし出す世界です。

 この幅広の影部分は、近景と光景をつなぐ機能を果たすだけではなく、正面から光が照射する近景と、横から射し込む遠景の違いを明らかにしていました。射し込む光量の多寡が、光が当たる明るい部分と影になる暗い部分とにコントラストを生み、微妙な奥行と陰影が加えられていたのです。

 さて、人物をモチーフにした点描画作品2点を観てきました。いずれもありふれた日常生活の一コマが画題として取り上げられ、点描法によって制作されていました。共通するのは、再現性のある画題でした。日々、繰り返し行われる日常の生活シーンが、点描法によって、光の粒子による劇的効果が加えられ、作品化されていたのです。

 こうしてみてくると、《La Seine à Herblay》(1890年)がなぜ、セーヌ川そのものではなく、河畔のスロープをメインモチーフにし、俯瞰の構図で描いたのかがわかるような気がしてきます。

 おそらく、細かな動きを捉える必要がないからでしょう。日中、きらきら輝く水面など、刻一刻と変化するものは点描法では捉えがたく、小さなドットでは表現しづらかったからではないかと思うのです。それが証拠に、《La Seine à Herblay》で描かれたセーヌ川は、水面の煌めきなど認識できないような遠景で描かれていました。

 一方、この時期、リュスは夜の闇に挑み、セーヌ川を画題とした作品をいくつか、制作していました。

■リュスが捉えた夜の闇

 点描法に則りながら、色彩の効果を追求した作品があります。1890年に制作された《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(ルーヴルとカルーゼル橋、夜の効果)という作品です。まずはこの作品から見ていくことにしましょう。

●《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(ルーヴルとカルーゼル橋、夜の効果、1890年)

 セーヌ川には数多くの橋が架かっていますが、その中の一つに、カルーゼル橋があります。ルーヴル美術館に向かう全長168mのアーチ橋で、1832年から1834年にかけて建設されました。除幕式の際にルイ・フィリップⅠ世によってカルーゼル橋と命名されたそうです(※ Wikipedia)。

 当時、吊り橋が主流だったにもかかわらず、この橋にはアーチ式が採用されました。その優美な形状に創作欲を刺激され、多くの画家がこの橋を描いていたといいます。リュスもまた、この橋を取り上げ、夜の光景を描きました。

(油彩、カンヴァス、63.5×81.3㎝、1890年、Collection Walter F. Brown, U.S.A.)

 カルーゼル橋のアーチ型のシルエットは、確かに美しく、夜のセーヌ川を詩情豊かな光景に変える一つの要素になっています。また、橋桁のライトは川面に映って長く伸び、橋とセーヌ川が一体となって見えます。橋上のライトが、橋と川をつなぎ、優美な夜景を創り出しているのです。

 夜景だからこそ、ライトの効果が際立っているのでしょう。

 画面左側に客船が一艘、描かれています。その客船の窓からもライトが洩れて、川面を照らし、ゆっくりと進む小さな船の航行を引き立てています。闇の中で点された灯りが揺らぎ、妖しく輝いて見えます。それが川面に反映すると、光と闇に小刻みに動く波動の相乗効果で、幻想的な美しさがいっそう際立って見えます。

 リュスはそれら一切合切を点描法で描きました。

 川は緑系をベースに黄色、オレンジ、紫を配し、上空の色もそれに呼応し、グラデーションで色幅を広げています。橋の上や陸に近いところの空は、淡い紫系をベースに点描で描かれ、橋や建物や手前の道路の黒緑色に対応しています。セーヌ川を挟む両岸には、青系の中に赤やオレンジを散らし、幻想的な空間に仕上げていました。

 この幻想的な夜景を表現するのに、点描法が巧みに使われていたのです。点描法で描かれたこそ、描出することができた独特のトーンが、観客を易々と異次元の世界へ誘導してくれました。リュスはこの作品でようやく、点描法にふさわしい画題に到達し、その作品化に成功したような気がします。

 地平線の周辺は薄紫、橋げたや手前の川べり、岸壁の洗濯船は濃い紫が使われ、川面と空の低いところは黄緑色といった具合に、夜景を表現するのに、寒色、暖色を問わず、さまざまな色を採用し、闇の中から明るさを引きだしていました。

 一方、橋の欄干で点灯する光はオレンジがかった黄色が取り入れられ、川面で揺らめく光は長く棒状に伸び、黄色オレンジ、白で点描されています。

 この夜景は暗色だけではなく、多様な色で表現されていました。とくに目を引くのが、橋や客船から洩れる光が川面に反射し、さまざまな形状を創り出していたことでした。そして、それら一切が点描された結果、色や形が主張する個性が、画面に独特のハーモニーを生み出し、夜景の豊かさを描出することができていたのです。

 リュスはこの作品のタイトルに、「夜の効果」という言葉を添えています。夜間だからこそ、際立つライトの効果を意識し、点描法との相乗効果を企図したのでしょう。画面から発散される幻想的な美しさに惹かれます。

 カルーゼル橋は実際、どのような橋だったのでしょうか。気になって、ネットを検索してみると、1900年頃の旧橋を撮影した写真が見つかりました。

(Wikipediaより)

 右端には客船が見え、背後にルーヴル美術館が見えます。想像していたよりもはるかにしっかりとした造りのアーチ橋です。この写真が撮影された10年前の夜、リュスはこの橋を描いていたのだと思うと、感慨深いです。1890年もおそらく、このような光景だったのでしょう。

 写真と見比べてみて、改めて、リュスの感性がいかに繊細で、色彩に敏感だったかがわかります。ともすれば、暗色で捉えがちな夜空の中に、さまざまな色彩が潜んでいることを見出しているのです。そればかりか、橋や客船から放射されるライトの光が川に落ちると、さまざまな形に転じることにも着目しています。

 リュスは、闇の中にさまざまな色彩を読み取り、明るさを見出しました。そして、終には、闇の中に影さえも見つけ、その豊かさを表現しています。夜間でなければ存在しえない美をこの作品は表現していたのです。

 もっと他に作品があるはずだと思い、探して見ると、夜のセーヌ川を捉えた作品がありました。《セーヌ川夜の眺め》です。リュスが夜の景色をどう表現したのか、見てみることにしましょう。

●《Paris , vue d’ la seine , Nuit》(セーヌ川夜の眺め、1893年)

 夕暮れのセーヌ川を、パリ市街の高みから描いた作品です。すでに陽は落ち、遠景で広がる残照が、川面を照らし、風情ある光景を生み出しています。日中ともいえず、夜ともいえない微妙な時間帯のセーヌ川とパリ市街が、光と影で包み込むように、情緒豊かに描き出されていました。

(油彩、カンヴァス、38×55㎝、1893年、フランス、ランビネ美術館)

 夜景とはいえ、先ほどの作品とは明らかに、色遣いとタッチが異なります。

 遠景で広がる夕暮れの空、その残照を受けて輝くセーヌ川が、手前から画面中ほどまで蛇行しています。太陽が沈む前に、最後の輝きを見せている様子が、川と空の中に捉えられています。

 この作品でまず、目を引かれるのは、川と空に反映された、この残照でしょう。

 川面の黄色とオレンジの輝きが、画面中ほどに見える橋の微かな灯りまで続いています。そして、遠景のパリ市街の上に広がる空が、橙、黄色、薄黄色、グレー、薄青で生み出されたグラデーションで描かれています。

 一方、セーヌ川を取り囲むようにして続く、夕刻のパリ市街が黒褐色をメインにして描かれ、残照の素晴らしさを際立たせています。明色と暗色の絶妙なコントラストの下、セーヌ川とパリ市街と人々が、一体となって創り出された黄昏時のセーヌ川がなんとも言えず、印象的です。

 さて、手前を見ると、道路沿いに多くの人々が歩いています。夕刻なので、仕事を終え、家路に向かっているのでしょう。人影をなぞっただけの黒いシルエットが、画面右側の大木の幹や枝と呼応し、黄金色に輝く川面を引き立たせています。

(前掲作品の一部。)

 この角度から見ると、セーヌの川面がことさらに輝いて見えます。

 川を照らし出す光にオレンジが含まれ、その周辺を覆う影にも適宜、オレンジが散らされています。光の中にも、影の中にも、この暮色が絶妙なバランスで取り入れられているように見えました。見ているうちに、どういうわけか、感傷的な気分になってしまいます。人々と街を包み込むセーヌ川の夜景の素晴らしさに、感動すら覚えます。

 蛇行するセーヌ川を見上げると、橋がいくつも架かっています。遠方の橋には灯りが点り、やや大きく不揃いなタッチでランダムに描かれています。そのせいか、橋の上で灯りが点滅しているように見えます。それがセーヌ川の夜景に妙味を添え、パリの華やかさをしのばせています。

 街並みは明るいグレーで描かれ、その背後に見える空は、赤味がかったピンク色です。

 パリの街とそこで生きる人々をゆっくりと繋いでいくように、セーヌ川は蛇行しています。暮れなずむ空の下、人々と橋、背後の街並みが、街情緒豊かに描き出されています。一見、点描画のように見えますが、実は、そのドットは荒く、不揃いなタッチで色が置かれていることに気づきます。

 空の描き方を見ると、それがよくわかります。

(前掲作品の一部。)

 地上近くは赤味がかったピンク色で描かれ、そこから徐々に、褐色を含み黄色をベースとした色調になり、やがて、グレーを含んだ青系の色調に転じていきます。陽が沈むとともに少しずつ変化していく空の色調に従って、それぞれの色が大きく、不揃いなタッチで描かれているのです。

 点描画というよりは、印象派の作品といった方がふさわしい描き方です。

 大木の背後に大きく広がる残照が、印象派的なタッチで描かれていました。だからこそ、夕刻の微妙でアンビバレントな一種独特の情感を、画面に添えることが出来たのだという気がします。

 スーラのように厳格な点描法で描かれていなかったからこそ、画面から、黄昏時の温かさと寂寥感が感じられたともいえます。

 さらに、リュスの作品を見ていくと、同時期に描かれた作品で、夜の光景を描いた作品が他にもありました。《Rue Ravignan, Paris》です。ちょっと見てみることにしましょう。

●《Rue Ravignan, Paris》(パリ、ラヴィグナン通り、1893年)

 タイトルの《Rue Ravignan, Paris》(パリ、ラヴィグナン通り)は、パリ18区にあります。この地区はモンマルトルで最も古い丘の一つだそうですから、おそらく、坂道が多いのでしょう。

 この作品でまず、目につくのは街灯ですが、次に気づくのが、坂道をとぼとぼと歩く男性の姿です。

(油彩、カンヴァス、74.3×54.8㎝、1893年、Museum of Fine Arts, Houston)

 夜も更けて、人々は眠りにつき、街は静まり返っています。人家からの灯りは消え、街灯だけが暗闇を照らし出しています。その鈍い光を受けて、放射線状に明るくなった一角に、男性の姿が映し出されているのです。

 まるで映画の一シーンのようなドラマティックな構図です。もう少し、近づいて見ましょう。

(前掲作品の一部。)

 勾配が急な坂道なのでしょう、男性はやや前かがみになって歩いています。そのせいか、どちらかといえば、疲れているように見えます。

 街灯から光が伸びて、男性の左側をぼんやりと照らし、右側の壁にその影を落としています。道の行く手は暗く、男性とその影以外に、人っ子一人いない街角の寂寞感が漂っています。

 街灯の光源は黄色と白で明るさを強調し、道路や壁など、街灯に照らし出された明るい部分は、青とサーモンピンクのドットで表現されています。光源から遠ざかったところの建物は、濃い青を多く使いながらも、サーモンピンクを適宜、取り入れ、闇の中にも明るさがあることに気づかせてくれます。

 光と闇を描く色遣いに何とも言えない妙味があって、惹きつけられます。

 夜空も同様です。

(前掲作品の一部。)

 黒く表現された建物の背後に広がる空は、闇夜であるにもかかわらず、地上に近いところは淡い青、黄色、ピンクなどが使われています。闇の中にも明るさがあることがしっかりと表現されているのです。

 この作品は一見して点描画ですが、よく見ると、そのドットは荒く大きく、大きさも均等ではありません。ドットというよりタッチと言った方がふさわしい描き方です。

 混色はせず、カンヴァスの上で色を併置するという手法で描かれていますが、ドットが不揃いで、大きいせいか、スーラやシニャックの作品のような無機的な印象はありません。点描画法で描かれながら、印象派風の情緒が感じられます。

 そういえば、《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》も、《Paris , vue d’ la seine , Nuit》も、厳格な点描法ではありませんでした。

 もう少し、夜景を描いた作品を観てみることにしましょう。

 ほぼ同じ時期に描かれた作品に、夜の光景を捉えたものがあります。《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》です。

 見てみることにしましょう。

●《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(カマレの月明かりと漁船、1894年)

 《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(カマレの月明かりと漁船)は、フランスの最西端にあるブルターニュのカマレの漁港を描いた作品です。闇夜に浮かぶ三日月と漁港に停泊する漁船をモチーフに、色数を絞って抒情的に、そして、幻想的に描かれています。

(油彩、カンヴァス、72.4×92.1㎝、1894年、Saint Lois Art Museum)

 遥か彼方に入江が見え、そこから手前に向けて、波間に漂う漁船が多数、描かれています。三日月から放たれる光がぼんやりと漁船を照らし出し、なんともいえない寂寥感と幻想的な雰囲気が漂っています。

 この作品でまず目につくのが、空に浮かぶ月から手前に向けて洩れてくる縦方向の光の帯です。光と闇がもたらす明暗の構造がシンプルで、それだけに訴求効果のきわめて高い部分です。

(前掲作品の一部。)

 画面の上方、左よりに、下弦の月が夜空にぽっかりと浮かんでいます。月の周囲にはほとんど気づかないほど淡い光の環が出来ており、闇夜にほのかな明かりをもたらしています。

 朧げな光は、夜空を水平に明るくする一方で、海に落ちてさざ波の立つ海面を照らし、手前に向けて、優しい光の帯を創り出しています。

 下弦の月の優しい光、その周囲に広がる微かな光の環、そして、海面と交じり合って輝く光の帯、いずれもその光源は月です。闇夜を照らし出す月の光が創り出す多様な様相が、群青系の色のバリエーションに薄黄色のバリエーションを交え、コントラストを生みながら、巧みに表現されていました。

 この作品の特徴の一つは、群青系の濃淡と白と黄色の濃淡に色数を絞って、表現されていることでした。使える色が制限されることによって、逆に、訴求力の高い画面になっていました。少ない色数だからこそ、月光と闇夜が創り出す幻想的な世界が描出されていたのです。

 そして、もう一つの特徴は、モチーフの形状がもたらす興趣です。月であれ、入江であれ、漁船であれ、どのモチーフもシンプルな図形に還元することができ、装飾的な訴求力の強さがありました。

 例えば、三日月、入江に浮かぶ島(台形)、手前に並ぶ多数の漁船(台形)と帆柱(直線)といった具合に、大小さまざまな図形が、月以外はシルエットのように配置されており、まるで幾何学模様のようでした。

 とりわけ印象深いのは多数の漁船の配置です。それらのシルエットは群青色の紫を添えて濃淡で表現され、月明かりの下で情緒豊かに描かれています。色数を絞ったことでシルエットが強調され、一種独特の寂寥感が生み出されているのです。

 広い夜空にぽっかりと浮かぶ三日月はいかにも弱々しく見えます。ところが、月が放つ光には広範囲に海面を照らし出す力強さがあって、互い違いに配置された無数の漁船のシルエットは、まるでその月明かりの力強さに拮抗しているかのようでした。

 ご紹介してきたように、リュスは夜景を何点か制作していますが、必ずしも厳格な点描法を採っていませんでした。いずれも、ドットはやや大きく、不揃いのドットを使い、観客の情緒を刺激する方向に画法を転換していました。

 この点描画作品もまた、そうすることによって、光と闇がもたらす美しさを捉えていました。

■リュスがこだわった光の暴力的な効果

 今回は、1890年から1894年までの作品を取り上げてみました。点描画法で描かれたこれらの作品を観ると、リュスは当時、光について模索し、画題を選んでいたのではないかという気がします。

 たとえば、最初に取り上げた《La Seine à Herblay》(1890年)は、セーヌ川ではなく、河畔の草木に画面の大半を割いています。メインに描かれていたのは、万遍なく陽光を浴びる草木の花や葉の豊かな表情でした。

 次にご紹介した《Morning, Interior》(1890)は、天窓から射し込む陽光に注目して制作されていました。ありふれた日常の生活シーンが、陽光を浴びることで一挙に、ドラマティックな様相を帯びていたのに驚きました。光の暴力的な効果といっていいでしょう。

 さらに、ドアから射し込む陽光に着目して制作されたのが、《The Coffee》(1892)です。朝の陽ざしを浴びて始まる夫婦の一日が、端的に捉えられています。陽光が室内に射し込み、夫婦の朝のルーティンを支え、気持ちを安定させていることが感じられました。

 太陽光の次に、リュスが注目したのが、闇です。

 《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(1890)には、タイトルに“effet de nuit”(夜の効果)という文言が入っています。リュスがこの作品を通して、闇や影のもつ豊かさを表現しようとしていたことがわかります。

 ここでは、夜景でありながら、橋に点る灯り、あるいは、客船から洩れる灯りが、川面に映り、幻想的な景観が生み出されていました。闇にも明るさがあり、色彩が潜んでいることに気づかされます。

 やはり、セーヌ川の夜景を取り上げ、作品化されたのが、《Paris , vue d’ la seine , Nuit》(1893年)です。この作品には、日が暮れ、夜に向かおうとする微妙な時間帯の光景が捉えられています。陽光が陰り、やがて、闇に沈み込む移行期のセーヌ川とパリが、情感豊かに描かれているのです。この作品からは、残照がもたらす多様な情緒に気づかされます。

 さらに、完全に闇になった時間帯のパリ・モンマルトルを描いた作品、《Rue Ravignan, Paris》(1893年)があります。

 この作品では、街灯がもたらす明かりを中心に据え、描かれています。そのせいか、街灯で照らし出される範囲が放射状に限定されていることに、改めて、気づかされます。万遍なく闇夜を照らす月明かりとは明らかに違うのです。その限定された照射範囲に、前かがみになって歩く男と、背後の壁に落ちた男の影が捉えられており、一種独特の寂寥感が感じられました。

 そして、月明かりに着目した作品が、《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(1894年)です。

 こちらは、月のほのかな明かりが、闇夜の空と海に静かな落ち着きを与えています。停泊している数多くの漁船はそれぞれ、幾何学的な形状で描かれ、装飾的で、幻想的な世界が描出されていました。

 このように、今回、ご紹介した作品からは、リュスの光に対するこだわりが見えてきました。

 たとえば、太陽光を描く場合は点描法が採用されていましたが、陽が沈み、夜景や闇夜を画題に描く場合は、点描法というよりは、タッチを活かした描法に転じているのです。

 スーラの冷静で理性的な点描様式とは対照的に、ドットを大きく、不揃いにし、情熱的なタッチの描き方をしています。観客の情感を喚起するためなのでしょうか。おかげで、光の多様な様相を表現することができていましたし、画面に対する感情移入を誘うこともできていました。

 リュスの作品タイトル、「夜の効果」にもじっていえば、「光の暴力的な効果」といえるような効果があったと思います。

 この時期、リュスは厳格な点描法で描いている作品もあれば、そうでもない作品もありました。習得したからと言って、どの作品にも無条件に、点描法を採用していたわけではなかったのです。先ほどもご説明したように、モチーフに内在する恒常性の度合いによって、点描法を使い分けていた可能性が考えられます。(2022/6/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑦リュス、点描画法に挑む

■ピサロに続いた、ラニー派の若い画家たち

 カミーユ・ピサロは1885年頃、息子のリュシアン・ピサロと同世代の若い画家たちが結成したグループ、ラニー派に参加しました。50代半ばでの冒険でした。そこで出会ったシニャックの紹介でスーラに会い、直接、点描画法の説明を聞いて、ピサロは確信しました。これこそ、自分が求めていたものだと思ったのです。

 それは、印象派の筆触分割画法に光学理論を取り入れ、科学的な法則性を徹底させた画法でした。モチーフはもちろんのこと、画面全体を、光学理論に照らし合わせた色彩の粒子で捉え直して描く画法です。理論通りに描くには、なによりも、根気強さと緻密さが必要でした。

 果敢にも、ピサロは挑戦しました。すでに印象派の画家として認知されていたにもかかわらず、この困難な作業に取り組んだのです。

 当初、もっとも積極的に点描画法で制作していたのはピサロでした。

 スーラの点描理論に心酔していたシニャックでさえ、まだ積極的に点描画法を取り入れていませんでした。というのも、点描画法では、理論に忠実でなければ、作品を完成させることはできず、理論通りに描こうとすれば、膨大な時間がかかったからです。点描法で描くには、根気強さと、緻密に仕上げていく計画性が必要でした。

 それを50代半ばのピサロが率先して、実践していったのです。周辺にいた若い画家たちが影響されないはずがありませんでした。

 まず、シニャックが、ピサロの熱意に刺激され、この画法で作品を制作しはじめました。その後、ラニー派の若い画家たちが次々と、まるでピサロに背中を押されるようにして、点描画法を取り入れ始めました。

 リュスもそのうちの一人でした。

 果たして、彼は点描でどのような作品を描いていたのでしょうか。調べてみると、点描法によるリュスの初期作品と思われるものが見つかりました。パリの街角を描いた作品で、タイトルは、《パリの通り》です。

■《パリの通り》(Calle de París, 1886-1888)

 1886年に描き始め、1888年に完成させたのが、《Calle de París》(パリの通り)です。

(油彩、カンヴァス、32.7×40.7㎝、1886-1888年、スペイン国立ティッセン=ボルネミッサ美術館)

 この作品は、描き始めてから完成させるまでに2年もかかっています。それなのに、どう贔屓目に見ても、スーラの理論通りに描かれているとはいえません。相当、難航して仕上げたのでしょう。

 それにしてもこの作品を制作するのに、2年もかかったとは・・・。驚いてしまいます。

 この制作時間の長さは、点描法の難しさを示すものであり、また、リュスが戸惑い、迷い、試行錯誤しながら、作品を完成させた過程でもあります。

 ひょっとしたら、リュスは、点描画法をまだ完全に理解しないまま、描き始めていたのでしょうか。

 点描画法について彼は、私立の美術学校アカデミー・シェイスで学んでいた頃、レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)から、聞いたことがありました。当時、スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)が考案した点描画法は、若い画家たちの間でウワサになっていました。彼らの関心をかきたてずにはおかない、最新の理論を踏まえた科学的な画法だったのです。

 もちろん、リュスはスーラから直接、聞いたわけではなく、あくまでも間接的に、スーラの理論をゴーソンから聞いていたにすぎません。ただ、光学理論、色彩理論を踏まえ、筆触分割法をさらに精緻化させたこの画法は、科学の時代といわれた19世紀半ばの若い画家たちの気持ちを捉えました。

 若い画家たちは当時、百花繚乱の印象派の画家たちの中には入っていけず、自分の立ち位置を求め、新しい画法に敏感になっていました。

 産業革命を経て、時代は大きく変化し、科学への志向性が高まっていました。リュスをはじめ、若い画家たちが、法則性、規則性を重視した点描画法に興味を抱き、惹かれていったのは自然の成り行きでした。

 リュスは半ば当然のことのように、点描画の世界に入っていきました。28歳の時でした。画家としてまだ認知されておらず、確固たる信念もあったわけではありません。ただ、彼は、カミーユ・ピサロが積極的に点描画法を推奨し、制作するのを間近で見ていました。点描画法とはどういうものか、見聞きする機会があったのです。

 もっとも、それだけでは難解なスーラの理論を理解し、その画法を習得することはできません。

 案の定、《パリの通り》を見る限り、画面から、光学理論に基づいた科学性、法則性といった要素を見ることはできませんでした。どうやら、この時点ではまだ、リュスがスーラの掲げる理論を十分に理解し、その本質を会得していたとはいえないように思います。

 この作品は一見、点描画法で描かれているように見えます。ところが、よく見ると、点描画法が適用されているのは空と道路に落ちた影ぐらいでした。

 画面全体が点描画法で描かれているのではなく、一部に取り入れられているという程度なのです。しかも、空にしても、道路に落ちたビルの影にしても、タッチが不揃いで、ことさらに大きいのが目につきます。

 そのせいか、この作品で用いられた画法は、点描画法ではなく、むしろ、印象派の筆触分割法のように思えます。

 興味深いのは、空と道路に落ちたビルの影とが、補色関係にある青系統と黄系統の色を呼応させて描かれていることです。その配色には絶妙なコントラストとバランスがあり、洗練されたパリの街角らしさを印象づけていました。

 とくに、青系統の色が作品の印象に大きく影響しています。

 たとえば、画面右側のビルの壁面に落ちた影、左側のビルの中ほど壁面にまで落ちた影には、適宜、セルリアンブルーが取り入れられています。このブルーは、道路いっぱいに伸びた影、道路を挟む二つのビルの壁面の一部、さらには、空の一部にも使われており、画面に統一感と洗練された落ち着きをもたらしています。

 通りには、行き交う多数の人々が、ごく小さく描かれていました。中には、道路に落ちたビルの影を表すドットよりも小さく描かれたものもあります。形状はそれぞれ、不揃いでアンバランスなのですが、そのアンバランスな組み合わせの中に、雑踏の雰囲気がよく出ていました。

 この《パリの通り》を見る限り、リュスはまだ、自身の画法へのこだわりから抜け出ることができなかったように見えます。点描画法を全面的に受け入れてしまうことへの躊躇いのようなもの、あるいは、画法を変えることへの創造者の内なる抵抗とでもいっていいようなものが、この作品の画面から滲み出ているように思えました。

 さて、リュスは、2年もかけて《パリの通り》を仕上げました。その一方で、制作途中の1887年に、スーラの理論と画法に則った作品を数点、仕上げています。1887年に完成されたそれらの作品は、第3回アンデパンダン展に出品されています。

 《モンマルトルからのパリの眺め》(View of Paris from Montmartre)は、1887年に点描法で制作された数点のうちの一つです。

 それでは、この作品を見ていくことにしましょう。

■《モンマルトルからのパリの眺め》(View of Paris from Montmartre, 1887)

 これは、一見して、点描法で描かれたとわかる作品です。

(油彩、カンヴァス、54×64㎝、1887年、スイス プチ・パレ美術館)

 左手前の建物の屋根、外壁、窓、いずれを見ても、綿密に計算された色を組み合わせ、細かいタッチの点描法で描かれています。建物から右側に広がる林もまた、濃い緑、浅い緑、褐色、黄色、さまざまな色で点描されています。

 この作品は《パリの通り》とは違って、精緻に画面構成され、細かいタッチで点描されています。画面全体が色粒子の組み合わせだけで構成されているように見えます。まさに、点描画法で描かれた作品です。

 画面には、静かで落ち着いた雰囲気が漂っています。生気は失われておらず、木々の葉が風にざわめく様子すら感じられます。

 背後にパリの街並みが広がっており、静けさの中にやや憂いを含んだ詩情が感じられます。青系統の色を中心に、適宜、配されたオレンジ色が、大小の建物になんともいえない興趣を添えています。それが差し色となって、かすかなコントラストを生み、統一感のある色調の下、歴史を刻んだ大都会の風格を画面に滲ませていました。

 遥かかなたには丘が広がり、どんよりとした雲がその上の空を幾重にも覆っています。大きく広がる空は、やはり青系統を基調色とし、所々に補色であるオレンジを配して構成されています。

 このような配色によって、空とパリの街並みとを呼応させて一体化し、大都会ならではの憂いを含んだ様相を情感豊かに描き出しているのです。近景、中景、遠景の色と形状のバランスが見事です。

 この作品を見ているうちに、私はふと、リュスはこの時期、点描法を使って、自身の作品世界を作り直しつつあったのではないかという気がしてきました。というのも、《モンマルトルからのパリの眺め》には、点描法で描かれていながら、動きがあり、生命の躍動を感じさせる要素がみられるからでした。

 この作品が制作されたのは1887年です。1886年に描き始めた《パリの通り》がまだ完成しないうちに、リュスは新たな画題に取り組み、点描法で仕上げていたことになります。

 1886年から1888年にかけての期間、リュスは《パリの通り》に取り組んでいました。ところが、その制作途中の1887年に、《モンマルトルからのパリの眺め》点を仕上げていたのです。これには驚きました。

 《モンマルトルからのパリの眺め》は、《パリの通り》に比べ、はるかに完成度の高い点描法で描かれていました。つまり、リュスはわずか1年ほどのうちに、スーラの理論と画法を自家薬籠中のものにしていたのです。

 しかも、スーラの提唱した点描法をそのまま踏襲するのではなく、自分らしさを表現できるよう、構図や配色、モチーフの配置などを考え、画面を構成していました。点描法で描かれた作品の中に、リュスならではの独自性を加えていたのです。

 この期間、画家としてのリュスにどのような変化が見られるのでしょうか。

 《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を比較しながら、リュスの変化を探ってみることにしましょう。

■《モンマルトルからのパリの眺め》vs《パリの通り》

 それでは、点描画法に挑戦したリュスの二つの作品を見比べてみましょう。

 先ほど見たように、《モンマルトルからのパリの眺め》は、スーラの色彩理論を踏まえ、点描法を駆使して描かれていました。一方、《パリの通り》は、点描法というよりはむしろ、筆触分割法で描かれているように思えました。

 後に、新印象派の画家といわれるリュスですが、《パリの通り》に関しては、印象派の作品のように見えます。

 何によって、そのような印象の違いが生み出されたのでしょうか。

 画題からいえば、両作品とも俯瞰してパリの街を捉えている点に変わりはありません。一方はモンマルトルの丘から、もう一方は高いビルの窓から捉えた光景です。中景・遠景なのか、それとも、近景・中景なのかという違いはあっても、パリの街が捉えられていることに変わりはないのです。

 ところが、両者の印象は大きく異なります。《モンマルトルからのパリの眺め》には、写真のように機械的な正確さで対象を捉えた作品という印象があります。一方、《パリの通り》は、画家のフィルターを通し、画家の感性を総動員して対象を捉え、情感に従って描かれた作品という印象なのです。

 両作品とも、ドットを単位に画面が構成されている点で、共通しています。大きく異なるのは、ドットの大きさと、その均質性です。

 《モンマルトルからのパリの眺め》は、機械的な正確さで、パリの街が表現されているという印象がありました。それは、さまざまな色の小さくて均質のドットを単位とし、モチーフの形状に合わせ、色彩理論に基づいて配置され、画面が構成されているからでしょう。いってみれば、色の粒子を単位に作品が構築されているのです。

 左手前の建物の屋根、壁面、窓枠などを見て、わかるように、ドットに載せられた色は実に多種多様です。だからこそ、モチーフの陰影、明暗、遠近を表現することができているのですが、ちょっと引いて画面全体を見ると、その色調はスモーク調で、くすんで見えます。

 一方、《パリの通り》は、点描というより、不揃いで大きなドットが、空や路上にランダムに置かれているという特徴があります。ドットが不揃いで大きいせいか、ここでは、色彩の多様性より、セルリアンブルーとイエローオーカーの濃淡を組み込んだ色構成が強く印象づけられます。

 しかも、画面すべてがドットで構成されているわけではありません。建物の壁面に射す陽光、路上に落ちる影、その背後に広がる空の明るさのグラデーションなどを表現するのに、不揃いで大きなドットが使われているだけです。

 私がこの作品を見て、まず、印象派の雰囲気を感じましたが、それは、不揃いで大きなドットで表現された光と影が、雑然とした画面の中に動きを生み出し、生気を与えていたからでした。

 その一方で、補色関係にある2種類の色を基本色に、コントラストとバランスを拮抗させて、画面構成されていたところに、新印象派の雰囲気を感じさせられました。

 一つの作品に、印象派の要素を新印象派の要素が混在していました。だからこそ、私はこの作品に、リュスの戸惑い、躊躇い、といったようなものを感じたのです。

■点描画法に対するリュスの挑戦と模索

 《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を見比べてみたとき、私は、作品の巧拙、点描画法の完成度よりも、まず、点描画法に対する迷いがあるか、否かが気になりました。2年もかけて完成させた《パリの通り》には、点描画法に完全に移行しきれないリュスの迷いや躊躇いといったものを強く感じさせられたからです。

 リュスは、《パリの通り》ではなぜ、完全に点描画法を取り入れなかったのでしょうか。

 先ほど、《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を見比べてみましたが、点描画法に忠実に描くと、画面全体がくすんだ色合いになってしまうことがわかりました。さまざまな色を小さな均質のドットに載せ、色彩理論に沿ってカンヴァスに併置すると、彩度が低くなってしまうのです。

 ひょっとしたら、1886年の時点でリュスは、このことを気にしていたのではないかという気がしたのです。

 一方、《モンマルトルからのパリの眺め》の画面には、躊躇いと思えるようなものがつゆほども見られませんでした。リュスは迷うことなく、スーラの色彩理論に従い、徹底した点描法でこの作品を描いています。

 わずか1年の間に、リュスに一体、何があったのかといえば、モンマルトルへの引っ越しでした。リュスは1887年からモンマルトルに住みはじめ、新印象派の画家たちと交流を深めています。

 点描法への関心が、この時、一挙に実践に傾いたのでしょう。点描法で描くには最高の環境でした。実勢、1887年に制作された作品はいずれも、それまでの迷いが吹っ切れたように、精緻に点描法を取り入れ、作品を数点、完成させています。

 だからこそ、《パリの通り》の存在を看過することができないのです。

 1887年はまだ、《パリの通り》を制作中でした。ですから、その当時、手掛けていた作品のように、点描法に忠実に描き直すこともできたはずです。それなのに、敢えてそうしなかったところに、リュスのこだわりを感じざるをえないのです。

 こうしてみてくると、《パリの通り》を制作しはじめた1886年から、ようやく完成させた1888年にかけての期間は、リュスにとって点描画法への移行期だったといえるでしょう。

 1887年に点描法で制作された数点の作品は、リュスが画家として認知される契機となりました。

■第3回アンデパンダン展

 点描画法で仕上げた数点の作品は、1887年に開催された第3回アンデパンダン展に出品されました。先ほど、ご紹介した《モンマルトルからのパリの眺め》は、そのうちの一つです。

 スーラと共に点描主義の代表とされるシニャックは、出品されたリュスの作品の出来栄えに感動し、作品を購入してしまったほどでした。

 シニャックがリュスのどの作品を購入したのか、気になったので、調べてみました。シニャックが購入した作品は、《The Toilet》(1887)でした(※ https://www.wikiwand.com/en/Maximilien_Luce)。

 そればかりではありません。

 美術史家のマリーナ・フェレッティ・ボキョン(Marina Ferretti Bocquillon, 生年不詳)は、評論家のフェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)が1887年のアンデパンダン展に出品されたリュスの作品に感嘆し、シニャックは彼をグループの中心に招き入れたと記しています。(※ 『新印象派―光と色のドラマ』、p.13、2014年、日本経済新聞社)

 ちなみに、フェネオンと言えば、当時、頭角を現しつつあった美術評論家です。スーラの《グランジャット島の日曜日の午後》を絶賛して雑誌に寄稿し、「新印象派」と名付けて新印象派のブームを作った人物です。

 その評論家のフェネオンがリュスを評価し、称賛したばかりか、1888年には彼の企画で、リュスの最初の個展を開催したほどでした。

 リュスは、当時、影響力を持っていた美術評論家や新進の画家たちから評価され、新印象派の画家として認知されるようになりました。第3回アンデパンダン展は、リュスにとって忘れることのできない展覧会となったのです。

 以来、彼は、毎年、アンデパンダン展には出品しています。それは、1915-1919年を除き、亡くなる1941年まで続きました。その間、1909年にリュスは同協会の副会長に選出され、1935年にはシニャックの後を継いで会長になっています。

 さて、アンデパンダン展(Salon des indépendants)は、スーラやシニャックらによって1884年、パリに設立されたアンデパンダン美術協会が開催する展覧会です。無審査、無賞、自由出品を原則としています(※ Wikipediaより)。

 この展覧会は、フランス美術界を牛耳ってきた王立絵画彫刻アカデミー(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)が開催する保守的なサロン(Salon de Paris)に対抗して、開催されるようになったという経緯があります(※ 前掲)。

 アンデパンダン美術協会の中心メンバーであるシニャックは、第3回アンデパンダン展に出品されたリュスの作品を見て、その力量に惚れ込み、彼を中心メンバーの一人として迎え入れました。

 リュスにとってどれほど名誉に思えたことだったでしょう。この時、リュス29歳、木版職人を辞め、画家を志してわずか4年目のことでした。

 職人階級の子どもとして生まれ育ったリュスは、理論を構築することはできませんでしたが、描くことについては類まれな才能に恵まれた画家でした。だからこそ、シニャックは彼を中心メンバーに引き入れたのです。リュスは新印象派の画家として、活躍していくことになります。

 それでは、シニャックが購入したのはどのような作品なのか、見てみることにしましょう。

■《The Toilet》(1887)

 シニャックが購入したのは、《The Toilet》という作品でした。《モンマルトルからのパリの眺め》と同じ、1887年に制作されています。

(油彩、カンヴァス、92×73㎝、 スイス プチ・パレ美術館 )

 画面中央で、男が上半身裸になって、身体を拭いています。仕事に出かける前に、身支度をしているところなのでしょう。俯き加減の横顔はまだ眠そうに見えます。椅子には上着が引っかけられており、洋服掛けには帽子とコートが掛けられています。単身労働者の生活の一端があぶりだされています。

 この画面を見て、まず気づくのが、左から射し込む陽光です。

 左の窓からは、さんさんとした陽光が射し込んでいます。陽光は、透明部分を残しながらも、白を基調にして、青、オレンジ、赤などを織り交ぜて点描されています。精緻に描かれており、光が粒子状になって、部屋に射し込んでいる様子をはっきりと見て取ることができます。

 点描法でなければ、ここまでありありと光の様相を描き出すことはできなかったでしょう。

 溢れ出す光の粒子は、男の背中、上腕、ズボンを明るく輝かせる一方、その対極に影を作り出しています。煌めく光とその影が、筋肉隆々とした上腕、割れた腹部を強調しています。

 逞しく盛り上がった上腕や腹部の筋肉は、肌の色合いを微妙に変化させることによって、リアルに描かれています。これもまた、小さな粒子状で色を置く点描法だからこそ、可能になった表現だといえるでしょう。

 狭い部屋には、粗末な椅子と洗面器が載るだけの小さなテーブルが置かれ、床には古ぼけた靴、酒瓶、壺、くず入れ、布切れなどが散らばっています。乱雑で飾り気のない部屋の様子から、日々、働いて寝るだけの肉体労働者の生活状況が浮き彫りにされています。

 興味深いのは、光と影の扱い方です。左の窓から射し込んだ光は、上半身裸の男の背中や上腕を明るく照らし、そのまま、反対側の右の壁に大きく影を落としています。その光と影が、絶妙なコントラストの下、メインモチーフを際立たせ、画面に動きを生み出し、生気を与えています。

 点描法で捉えられた光と影が、平凡な日常の生活シーンを劇的なものに変えているのです。その一方で、この光と影は、さまざまなモチーフに立体感を与え、画面にリアリティをもたらしています。

 スーラの作品にしても、シニャックの作品にしても、点描法で描かれた作品は、ともすれば躍動感や立体感を失い、リアリティを喪失しているのが常でした。リアリティを求める画法ではないので当然なのですが、リュスのこの作品は、点描法で描かれていながら、どのモチーフにもリアリティがあり、躍動感や立体感が失われていませんでした。

 この作品を見たシニャックが感動して、購入することを決めたのも無理はありませんし、画家カミーユ・ピサロや評論家のフェネオンが絶賛したのも当然のことでした。

 そういえば、《モンマルトルからのパリの眺め》にしても、《The Toilet》にしても、1887年に制作された作品です。

 リュスは1887年からモンマルトルに住むようになって、新印象派の画家たちと交流を深めていました。彼らを参考にして点描法を取り入れ、自身の画風を広げていったのでしょう。1887年に点描画法で描いた作品が注目されて以来、リュスの作品から、点描法に対する迷いや躊躇いが払拭されたように思います。

 その後も、リュスは点描法で作品を制作し続けています。

 《モンマルトルからのパリの眺め》(1887年)や《The Toilet》(1887年)を描き、《パリの通り》(1886-1888年)を仕上げた後、リュスはラニーを訪れ、《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》(1889年)という作品を制作しています。

 次に、この作品を見てみることにしましょう。

■《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》(Lagny, le pont de fer sur la Marne, 1889)

 リュスが画家を志すようになった頃、レオ・ゴーソンや、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと共に、パリ郊外のラニー=シュル=マルヌで過ごしていたことがありました。

 第3回アンデパンダン展で評価された後、彼はそのラニーを訪れ、1889年に仕上げたのが、《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1889年、個人蔵)

 スーラやシニャックほど小さな点ではありませんが、この作品も、明らかに点描画法で制作されています。イエローオーカー系を基調にまとめられているせいか、水面の煌めき、橋げたや建物、護岸壁に射し込む陽光に、柔らかな明るさが感じられます。

 この作品もまた、光と影によって画面が劇的に構成されています。

 さんさんと降り注ぐ陽光の下、川面に伸びる鉄橋の影と、背後から手前の護岸壁に伸びる影が、画面を立体的に構成し、情感を添えています。青系とオレンジ系の色を併置して点描された影の色合いが優しく、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

 川面に落ちた影も同様、青系とオレンジ系で点描されています。画面の基調色がイエローオーカー系のせいか、コントラストは弱いのですが、これらの影がモチーフを相互に関連づけ、画面全体に優しく、和やかな情緒を醸し出しています。

 この作品を見たとき、私はふと、点描画法に惹かれながらも、リュスは、色彩についてはて独自性を追求しようとしていたのではないかという気がしました。点描法を使いながらも、画面がそれほどくすんでおらず、陽光がもたらす輝きがしっかりと、そして、柔らかく捉えられていたからです。

■点描法初期作品にみられる光と影の効果

 リュスが点描法で描き始めたのは1886年、第8回印象派展でスーラの作品を見た後のことでした。そして、1887年には完全にマスターした点描法で、油彩画を制作し、第3回アンデパンダン展に数点、出品しました。出品作品は美術評論家や画家たちから評価され、リュスは一躍、新印象派の画家として認知されるようになりました。

 今回、リュスが1886年から1889年にかけて点描法で制作した初期作品の中から、4点をご紹介してきました。それらの初期作品には、点描法に対する挑戦、取り入れる際の葛藤と模索など、リュスの気持ちが如実に反映されており、興趣がありました。

 とくに興味深いのは、点描法を自家薬籠中のものにするだけではなく、作品に独自性をもたらす工夫を凝らしているところです。

 たとえば、《モンマルトルからのパリの眺め》では、近景を暗色、中景、遠景を明色で描き分け、点描法では失われがちな遠近感をはっきりと打ち出しています。

 また、《The Toilet》や《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》では、光と影を対比的に取り込み、点描法では失われがちな彩度や立体感を感じさせる工夫をしています。

 点描法では、色彩理論に従って小さな色の粒子を画布に併置していきます。そのため、スーラやシニャックらの作品に見られるように、画面の色の彩度は落ち、遠近感も立体感もなく、平面的で装飾的に見えるという特徴がありました。

 それは、この画法の特徴で、美を創り出す様式の一つではあるのですが、リュスはそれを回避しようと工夫していたように思えるのです。

 実際、リュスの初期作品にはこのように、点描法を取り入れながらも、それに抵抗し、これまでの画法の痕跡を留めようとしたところに新境地がありました。点描法で描かれていながら、動きがあり、生気が感じられるところに新鮮さが感じられたのです。

 リュスはおそらく、どのようなモチーフに、どのようなシチュエーションの下で、点描法を用いれば効果的なのか、さまざまに試行錯誤しながら、考え抜いたのでしょう。その結果、辿り着いた一つの解が、光と影に焦点を当てるということだったのではないかと思います。

 初期作品を見ていくうちに、点描法の理性的要素と印象派の感性的要素が、リュスの中には混在しており、それが、光と影を媒介させることによって、画面に新感覚を生み出しているように思えてきました。

 今回、ご紹介したリュスの初期作品には、スーラの描法では表現しえなかったであろう、自然の息遣いが捉えられ、しっかりと描出されていました。果たして、リュスは今後、どのような点描画作品を制作していくのでしょうか。(2022/5/24 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑥ピサロと第8回印象派展

 カミーユ・ピサロは印象派の画家として認知され、長く活動していました。ところが、自分の画風になかなか自信が持てないでいました。ルノワール、モネ、セザンヌなどに比べ、自分の絵は地味で、人々の購買意欲をそそらないと思い込んでいたからでした。ピサロが生きた19世紀末といえば、市民階級が台頭し、美術市場の担い手として大きな存在になりつつあった頃だったのです。

■悩み、模索し続けるカミーユ・ピサロ

 1885年6月、カミーユ・ピサロは、画商ポール・デュラン・リュエルに次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「小さな油彩画を制作し始めている。明るく輝くものが描きたいのだ。つまり、光と闇の境界線にできるだけせまりたい。それは簡単なことではないよ」(※ クレール・デュラン=リュエル・スノレールClaire Durand-Ruel Snollaerts)著、 遠藤ゆかり訳『ピサロ―永遠の印象派―』創元社、2014年、p.56.→以下、『ピサロ』と略称)

 デュラン・リュエルは1883年5月に初めてピサロの個展を開催してくれた画商でした。

 この文面からは、ピサロが依然として、自身の制作課題を、明るく輝くものを描き、光と闇の境界線に迫ることだと考えているのがわかります。その後、さまざまに試みても、おそらく、思い通りにはならなかったのでしょう。「簡単なことではないよ」という言葉の中に、意気消沈している彼の様子が目に浮かびます。

 デュラン・リュエルの画廊で初めて個展を開催してから、早や2年が経過していました。

 そういえば、1883年5月の個展開催前も、ピサロは息子のリュシアンに手紙を送り、同じような内容の不安を訴えていました。

 こうしてみると、どうやら、「明るく輝くものが描きたい」という思いはまだ達成されていなかったようです。果たして、彼はどのような作品を描こうとしていたのでしょうか。

 今回はまず、彼の絵の何が問題なのか、どう改善しようとしていたのか、どのような画家との出会いがあったのか、といったようなことを踏まえ、印象派画家として認知されていたピサロの苦悩や動揺を見ていきたいと思います。

 そこで、1885年以前の作品の中から、ピサロが明るさと輝きを求めて描いたと思われる作品を探したところ、《ルーアンのナポレオンふ頭》が目につきました。

 どのような作品なのか、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《ルーアンのナポレオンふ頭》(Quai Napoléon, Rouen, 1883年)

 1883年に、ルーアンのナポレオンふ頭を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、54.3×64.5㎝、1883年、Philadelphia Museum of Art所蔵)

 大きく広がる青空から陽光が降り注ぎ、水面に反射しています。空も川面も明るく描かれ、空と川が渾然一体となって溶け合うように見える中で、橋が一つの境界線として両者を区切っています。画面右手には大きくカーブするふ頭が描かれ、その下には船が何艘も停泊しています。

 確かに、色遣いが以前よりも明るくなっています。空といい、川面といい、遠景の建物といい、淡い色彩同士を組み合わせ、モチーフをしっかりと描きながらも、画面全体に明るさを醸し出す工夫がされています。

 これが、失意のどん底に沈んだピサロがさまざまに試行して、到達した一つの境地なのでしょう。望んでいたように、画面が明るく、軽やかになっています。

 ところが、ピサロのもう一つの願望である輝きが表現されているとは言い難いのです。陽光を受けた川面はもっとキラキラと輝いていてもいいはずなのに、それが表現されておらず、広い空のどこかに、雲の隙間から洩れる光が捉えられていてもいいのに、そうなっていないのです。

 そもそも陽光の輝きを表現するために編み出されたのが、パレットで混色せずに直接、カンヴァスに絵具を置いて描く筆触分割法でした。印象派の画家たちが考え付いた画法です。

 ところが、この作品は、いかにも印象派風に描かれているにもかかわらず、光の輝きが感じられず、どちらかと言えば、明るいのにくすんで見えるのです。

 よく見ると、不自然に見える箇所もあります。船の描き方が画一的で興を削いでいるばかりか、舳先に使われたホワイトが強すぎて、違和感があります。おそらく、ピサロ自身もこの作品には満足できなかったのではないかという気がします。

 ただ、正面中ほどに見える橋と右手の建物、そして、手前に大きくカーブする埠頭や数本の杭など、モチーフの配置には、縦横の直線、曲線が巧みに組み合わされた興趣があります。しかも、快い安定感があります。

 引いて画面を見ると、大きな比重を占める空と川には雲や波がもたらす動きが感じられ、安定した構図の中で静と動がバランスよく配分されていることがわかります。素晴らしい画面構成です。

 興味深いことに、この作品には点描の兆しが見えます。空や川面、埠頭の際に生えた草の描き方に、筆触や色の配置に配慮した痕跡が見受けられます。「明るく輝くものを描く」ためにピサロが模索していた痕跡といえるのかもしれません。

■スーラから得た刺激

 画商デュラン・リュエルに制作上の悩みを吐露していたピサロは、1885年、たまたまアルマン・ギョーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)のアトリエで、ポール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863 – 1935)と出会いました。そこで、彼の友人スーラの科学的方法について知らされたのです。それを聞いた途端、ピサロはたちまち引き付けられ、是非ともスーラに会ってみたいと希望しました。

 同年10月になって、スーラ(Georges Seurat, 1859 – 1891)に会うことができ、ピサロは直接、その理論を詳細に聞くことができました。納得したピサロは、すぐさま、色彩の同時対照に基づく筆触分割法を学び、実践していきました(※ 前掲。黒田光彦、p.88.)。

 スーラはアメリカの物理学者オグデン・ルード(Ogden Rood,  1831-1902)の『近代色彩論』のフランス語訳やフランスの化学者ウジェーヌ・シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対比の法則』を読んだ上で、光学理論を応用して絵具の使い方に適用させていました。

 具体的にいえば、モチーフを小さな点の集合で描いていくという手法です。こうして描かれたものは、一定の距離を置いて眺めてみると、点の集合はひとかたまりの色を作り、光の揺らぎを表現することができるというわけです。

 先ほどご紹介した作品もそうですが、1880年代に入ってから、ピサロは、こまかいタッチを重ねて描く方法を試みていました。スーラの理論を受け入れる素地がピサロにはあったといえます。

 だからこそ、スーラの理論に出会い、カミーユ・ピサロは進むべき方向を確信したのでしょう。ようやく課題を解決し、失意から立ち直るきっかけを掴んだといえます。

 この時、スーラは26歳、カミーユ・ピサロは55歳、そして、息子のリュシアン・ピサロは22歳でした。自身の画法に自信を失っていたとはいえ、ピサロは、親子ほど年齢差のある若いスーラに、画法の教えを請うたのです。

 おそらく、当時のピサロはそれだけ深く、自身の画法に悩んでいたのでしょう。もちろん、老いてなお、30歳も年下の画家から新しい絵画理論を学ぼうとする意欲が失われていなかったこともあります。

 以後、ピサロは熱心にスーラの理論を周囲に説いて回り、自身でも積極的に筆触分割法、時には、点描法で制作を進めていきました。

 ピサロは、印象派の仲間たちに比べ、スーラたちの方が「科学的」だと評価していました。さらに、「私個人は、この芸術のなかに進歩があると確信しており、いつか途方もない成果を生み出すと考えている」とまで語っています(※ 『ピサロ』、前掲、p.59.)

 ピサロは、スーラの理論には印象派を超えたものがあり、科学的に構成されているからこそ、今後、素晴らしい芸術の進歩につながるだろうと考えていたのです。

 それでは、ピサロが筆触分割法で描いた作品をご紹介していきましょう。

■筆触分割法によるピサロの作品

●カミーユ・ピサロ作、《Meadows at Eragny》(1886年)

 カミーユ・ピサロがはじめて筆触分割の手法で描いたのがこの作品です。

(油彩、カンヴァス、60×74㎝、1886年、南オーストラリア州立美術館所蔵)

 タイトルは“Meadows at Eragny”で、「エラニーの牧草地」という意味です。筆触分割の手法で描かれているせいか、確かに、これまでの作品と比べ、画面が明るく、輝いて見えます。

 先ほど見た《ルーアンのナポレオンふ頭》とは輝きが全く異なります。

 空は淡いピンク、白、水色、ブルーを使って鮮やかに描かれており、そこから葉や草むらに落ちる陽光が輝いて見えます。葉の先に置かれたオレンジ色、黄色、紫、白などが、弾むような躍動感を生み出しています。光と影が色相環を踏まえ、はっきりと表現されているからでしょう。ピサロのこれまでの作品にはない斬新さが感じられます。

 1886年、さらに、《庭にいる母と子》(Mother and Child, in the Garden)という作品を描いています。

●カミーユ・ピサロ制作、《庭にいる母と子》(1886年)

 母親が庭の戸口を開けると、子どもが振り返りながら外に出ていくシーンが捉えられています。農村のほのぼのとした日常風景の一端が、柔らかい陽射しの中で表現されており、小さな幸せが感じられます。

(油彩、カンヴァス、41×32㎝、1886年、個人蔵)

 なんとも言えない柔らかさと温もり、そして、優しさに満ち溢れた画面です。あらゆるモチーフが、細かく区切られた色彩を構成要素として表現されているからでしょう。これまでの作品にはなかった輝きが随所に見受けられます。筆触分割法の効果でようやく、ピサロが願った「明るい輝き」を手に入れたことがわかります。

 この作品は、第8回印象展に出品されました。ところが、画期的な画法で制作されていたにもかかわらず、ほとんど注目されませんでした。

■第8回印象派展

 新理論を提唱するスーラとシニャックに、第8回印象派展に出品するよう呼び掛けたのは、カミーユ・ピサロでした。

 カミーユ・ピサロは第1回から第8回まで、すべての印象派展に出品したただ一人の画家でした。人望も厚く、印象派展の開催には大きな力を持っていました。

 1885年12月、ピサロの熱心な働きかけに応じてスーラは、印象派展の新たな展開についてピサロやモネと懇談しました。彼らは印象派展に自身の作品を出品できるかどうかを検討していたのです。長い議論の末、新しい点描主義の作品だけを一室に隔離して展示するという条件の下で、出品が認められました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 古参のカミーユ・ピサロが尽力したからこそ、スーラ、シニャック、リュシアン・ピサロなどの若手画家が、第8回印象派展に出品することができたのです。点描主義を世に知らせるという点で、ピサロは若い世代の芸術活動に大きな役割を果たしたといっていいでしょう。

 第8回印象派展は、一日450人ぐらいの観客が訪れたといわれています。印象派展最後となった展覧会ですが、観客動員数はこれまでの印象派展とあまり変わりませんでした。そして、スーラの作品がすぐさま巷の話題になったわけでもありませんでした。

 当初は、批評家も点描派の画家に大した注意を払わなかったようです。実際は、彼らの作品をどう評価していいかわからなかったのかもしれません。

 スーラはこの時、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(Un dimanche après-midi à l’Île de la Grande Jatte)を出品しました。

(油彩、カンヴァス、207.5×308.1㎝、1884-86年、シカゴ美術館所蔵)

 この作品はその大きさといい、実験的な画法といい、人々をおおいに驚愕させました。精緻に組み立てられたスーラの理論に基づく作品世界は、確かにこれまでの美術界にはないものでした。

 興味深いのは、グランド・ジャット島に遊びに来ているというのに、描かれている人々は皆、静かで、動きが感じられないということでした。まるで生気が抜き取られているかのようです。描かれている人物や動物だけでなく、木々や空、川でさえも動きを止め、画面に固定されているように見えます。すべてが整然とした秩序の中に収められているのです。

 冷静に、客観的に描かれているからでしょうか、観客は作品に感情移入することもできず、ひたすら見つめているだけです。純色のまま点の状態にして絵具を配置し、モチーフを形作り、画面構成しているからでしょうか。奇妙な魅力を放つ作品でした。

 この作品が発表された時、批評家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)は、諸理論を踏まえ、独自に考案した画法で描かれたスーラの作品について、科学的で革新的で、印象派には見られない体系性があると述べています。

 ちなみに、シニャックは《婦人帽子店》(The Milliners, 1886年)を出品しています。

(油彩、カンヴァス、116×89㎝、1885-1886年、チューリヒ・ビュールレ財団所蔵)

 よく見ると、床や壁、そして、俯いてハサミを拾おうとしている女性の肩など、一部に筆触分割法が用いられていますが、それ以外の箇所はそうではありません。スーラの理論を推奨しながらも、シニャック自身はまだ点描法を会得していなかったようです。とはいえ、この作品が印象派の作品でないことは明らかでした。

 彼らの作品はいずれも、印象派展に出品された作品としてはあまりにも異質でした。

 しかも、スーラ、ピサロ、シニャックはそれぞれ、点描法、筆触分割、一部筆触分割といった具合に、スーラ理論の習熟度にも差異がありました。とはいえ、これだけの作品が一か所に展示されたのですから、インパクトがありました。

 最後の部屋にまとめて展示されるようにしたのはピサロだったようですが、まとめて展示されることによって、観客に分割画法をアピールする絶好の機会となったのです。

 画家や画商からは評判がよくなかった新しい画法でしたが、一部の評論家からは高く評価されていたようです。

 たとえば、評論家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)はスーラの作品を見て感銘を受け、雑誌“L’ART MODERNE”(1886年9月19日号)上で激賞しています。

 フェネオンはさらに、印象派の画家たちについて、彼らはすでに色彩分割を行っているが、恣意的に行っているだけなので、科学的で精密な体系化が必要だと指摘しています。(※ 永井隆則、「新印象主義」、『世界美術大全集』第23巻、1993年、小学館、pp.235-236)

 そして、フェネオンはスーラ理論に基づいて制作した一連の画家たちを、「新印象派」と名付けました。「新印象派」とネーミングされたことによって、その後、点描主義が一躍、注目を浴びるようになりました。

■ピサロは若い世代に何をもたらしたのか。

 第8回印象派展で画期的な働きをしたのが、カミーユ・ピサロでした。点描画法を実験的に試行していたスーラやシニャックを、美術界の表舞台に引っ張り出したのです。

 当時、まだ点描法は人々から認知されていませんでした。それにもかかわらず、印象派画家として名を成していたカミーユ・ピサロは、彼らの作品を印象派展に出品させたばかりか、自身も点描主義を標榜し、実践しはじめました。その結果、彼は、画家仲間たちからも、世間からも理解されず、評判を落としてしまいました。

 積極的に点描法を推進した結果、ピサロは関係者から反発され、ついには生計を脅かされる羽目に陥ってしまったのです。それまではピサロに好意的だった画商のデュラン・リュエルでさえ、点描画法で制作した彼の絵をごくわずかしか買いませんでした(『ピサロ』、前掲、p.61)。

 点描画法に転向したピサロは、どんな言い訳も通用しないほど、大きなリスクを背負い込むことになりました。それでもピサロは屈することなく、次々と点描画法で作品を仕上げていきました。スーラの理論を周囲に推奨するだけではなく、自身も積極的に点描主義を実践していったのです。

 ピサロは高齢でありながら、真摯に点描画法に取り組みました。その姿勢に刺激を受けたシニャックもまた、急速に点描画法で制作するようになりました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 若い世代のグループに入り込んだピサロはこのようにして、率先して、点描画法で制作しながら、若い画家に影響を与え、新しい芸術運動を推進していったのです。

■ピサロにとっての点描法

 それでは、ピサロは点描法によって何を得、何を失ったのでしょうか。

 点描法という新しい絵画技法を世に押し出す上で、ピサロが大きな力となったことは確かです。ところが、その一方で、彼は画家や画商、世間から批判され、作品が売れなくなってしまうほどのリスクを被りました。

 果たして、ピサロは点描画法を使うようになって、何を得たのでしょうか。はたまた、念願だった画風の改善はできたのでしょうか。

 まずは彼が点描法を会得し、実作を重ね始めた時期の作品をご紹介しましょう。

●《耳の聞こえない女の家とエラニーの鐘楼》(La Maison de la sourde et le Clocher d’Éragny)、1886年制作

 ピサロは1884年に、パリ郊外のエラニーに転居していました。タイトルから想像すると、そこの隣家に聴覚障碍の女性が住んでいたのでしょう。彼女が庭仕事をしている光景を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、65.09×80.96㎝、1886年、インディアナポリス美術館所蔵)

 明るく輝かしい陽光が辺り一面に射し込み、のどかで平和な暮らしの一端が巧みに描かれています。これまでのピサロには見られなかった太陽の煌めきが画面に溢れています。点描法の成果といえるでしょう。

 この作品を見ていると、ピサロが悩みぬいた自身の画風の欠点が克服されているように見えます。モネやルノワールのような派手な輝きはありませんが、落ち着いて、心に深く沁みこむ輝きがあり、見ていると、気持ちが豊かになっていくような気がします。

 手前右に木陰を描き、ほとんどのモチーフを中景から遠景にかけての範囲内に配しています。モチーフの大小、曲線や直線の形状を踏まえて、レイアウトし、動きがあって、しかも安定した構図を組み立てています。これまで通り、ピサロらしい考え抜かれた構図で、素晴らしいと思います。

 それに加え、この作品には色彩の深さ、調和、バランスなども秀逸です。自身の得意なところを踏まえ、点描画法の特性を活かして素晴らしい作品に仕上がっていると思います。

 さらに、第8回印象派展に出品した後、1888年に描き直した作品があります。《窓からの眺め》というタイトルです。

 この作品は実際は1886年に描かれたのですが、ピサロは描き直した上で、制作年を1888年に変更したと言われる作品です(※ 『ピサロ』、前掲、p.60)。

 ●カミーユ・ピサロ制作、《La vue de ma fenêtre》(1888年)

 《窓からの眺め》(La vue de ma fenêtre)というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、65×80㎝、1888年、オックスフォード、アシュモレアン博物館所蔵)

 当時、カミーユ・ピサロが住んでいた家の窓から外を眺めた風景画です。庭を見下ろすと、女性が働いており、屋外に視線を移すと、バザンクール村へと続く草原が広がっています。牧歌的な農村の日常生活が、抑えた筆致で捉えられています。

 先ほどの作品よりもさらにスーラの理論の忠実に描かれています。

 点描画法のせいでしょうか、画面からは生き生きとした躍動感は感じられません。生気が抜き取られたかのようです。安定感のある構図の下、ひたすら静寂で平穏、平和な世界が表現されていました。

 ピサロはその後も点描法で描き続けました。

 点描派を標榜しながらも、ピサロにはまだ迷いがあったのかもしれません。同時期に描かれた作品には、もう少しラフに、スーラ理論から逸脱して描かれたものがあります。

 《エラニーでのリンゴの収穫》です。

●カミーユ・ピサロ、《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)1888年制作

 《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)は、ピサロの点描画作品の中で、代表的なものだといわれています。

(油彩、カンヴァス、60.9×73.9㎝、1888年、Dallas Museum of Art所蔵)

 一見、いかにもスーラ理論に充実な点描法で描いた作品に見えます。ところが、よく見ると、畑の部分は点、木の幹は短い線、男性のシャツは小さな十字形で描かれています。スーラやシニャックが点しか使わなかったのに対し、ピサロは自己流の点描法で描いていたのです。

 この作品のためにピサロは多くのデッサン、方眼紙を使ったグアッシュ画、油彩による下絵など、入念に準備したといわれています(※ 『ピサロ』、前掲、p.56)。

 興味深いことに、ピサロはこの時期、画商デュラン・リュエルに次のような手紙を書き送っています。

 「油彩画やグアッシュ画を制作するのに、3~4倍の時間がかかっている。困っているよ」(※ 『ピサロ』、前掲。p.60)

 ピサロはスーラの理論に惚れ込み、その技法を完璧に会得していました。ところが、忠実に実践しようとすれば、限りなく時間がかかってしまうことがわかってきました。終にピサロは、4年間、熱中した点描画法を投げ出してしまったのです。

 その理由として、ピサロは次のように述べています。

 「束の間の感覚に従うことが出来ない、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことが出来ない、自分のデッサンに個性を与えることができない、等々から私は断念せざるをえなかった」(※ 『ピサロ』、前掲、p.64)

 こうしてピサロは点描法から離れることになりましたが、その後も新印象派の画家たちとは親密な関係を続けました。1891年3月29日にスーラが突然、亡くなった時、「これは芸術にとって大きな損失だ」といい、激しい衝撃を受けていました(※ 『ピサロ』、前掲、p.65)。

 点描法を放棄しても、理論を組み立てたスーラは高く評価していたのです。

 1891年4月1日、ピサロは息子のリュシアンに向けて、次のような手紙を書いています。

 「昨日、スーラの葬儀に行ってきた。シニャックがこの大きな不幸に打ちのめされていた。おまえのいうことは正しいと思う。点描主義はもう終わりだ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.128)

 そして、シニャックに対しては何度も点描技法をやめるよう忠告しています。

 1894年1月27日にシニャックに宛てた手紙の写しを息子のリュシアンにも送っていますが、それを見ると、次のような文面でした。

 「手法そのものが良くないのだと思います。この手法は役に立つどころか、硬直化と冷たさをもたらします」(※ 前掲、p.129)

 手法とは点描技法のことです。ですから、点描技法は硬直化と冷たさをもたらすとわざわざ手紙でシニャックに警告しているのです。いったんはのめり込んでみたものの、離れてみると、ことさらにその欠点が目につくのでしょう。とはいえ、ピサロが感じていることは私も同感です。

 スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を見てもわかるように、点描法を厳密に使うと、モチーフを硬直化させ、画面からモチーフの動きや体温を失わせてしまうのです。だからこその魅力もあるのですが、どのような画題にも適用できるものではないということをピサロはいいたかったのかもしれません。

■新印象派の画家たちとピサロ

 息子のリュシアン・ピサロとリュス、ゴーソンらは、ラニー・シュル・マルヌで点描主義運動を展開するとともに、Salons des Artiste Indépendantsに参加し、結束を固めていました(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.19.)。

 カミーユ・ピサロもまたラニーの小さな町でリュスやゴーソン、カヴァッロペドゥッツィらとの交流を楽しみ、庇護者としての役割を果たしていました(※ 前掲)。点描画法と出会うきっかけとなったラニー派との関係も深めていたのです。

 ピサロは新印象派の画家の中でもとくに、自分と同じようにアナーキズムの思想をもっていたリュスやゴードンらと好んで親交を結んでいました(※ 『ピサロ』、前掲、、p.57)。

 リュスについてピサロは、1895年4月11日、息子リュシアンに次のような手紙を向けて送っています。

 「リュスは運が悪い。ふたつの海の間を漂っている。(略)彼の強さ、厳しさ、少し粗野な面をつくっていたものは消えてしまった。残念だ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.129)

 突如、スーラが亡くなり、拠り所を失ってしまったリュスを、ピサロは心配していたのでしょうか。あるいは、自分は点描法から抜け出したのに、リュスがまだ点描法で書き続けていたことを、年長の画家として危惧していたのでしょうか。

 リュスはスーラが亡くなった後もしばらく、点描法で描き続けています。19世紀末の科学主義の時代、点に還元してモチーフを形作って画面を構成する点描法は時代の動きに敏感な画家には馴染みがよかったのかもしれません。

 点描主義、点描法に惹かれた画家たちにはどういう特性があったのでしょうか、ふと、気になってきました。(2022/4/30 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑤ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ゴーソンやリュス、ペドゥッツィらがラニー派を結成した頃、リュシアン・ピサロとその父親であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もこのグループに参加しました。当時、彼はすでに印象派の画家として認知されていました。それにもかかわらず、どういうわけか、息子とほぼ同世代の若いグループに加わって、点描主義を標榜し始めたのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

 今回は、カミーユ・ピサロは、なぜラニー派に参加したのか、その背景について考えてみたいと思います。

■風景画家としてのカミーユ・ピサロ

 年表でピサロの略歴を振り返ってみると、1868年から1870年まで彼は毎年、サロンに入選していることがわかりました。風景画家として一定の評価を得ていたのです。

 1871年には、画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が絵を2点購入してくれるほど、評価が高まっていました(※ 『ピサロ/シスレー/スーラ』年表、集英社、1973年)。

 モネとともに美術館を回り、イギリス風景画を研究していたのもこの頃でした。

 1872年にピサロは、パリ近郊のポントワーズ(Pontoise)に定住しました。ポントワーズにはオワーズ川が流れ、美しい田園風景が広がっています。ドービニー、セザンヌ、ゴッホ、カイユボットなどの画家たちが好んで住むようになり、印象派の拠点になっていました。ピサロにとってよほど居心地が良かったのでしょう、その後、17年間もここに住み続けました。

 ピサロはここに転居してからというもの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1939-1906)と共に、頻繁に風景画を描いています。

 彼らが当時、同じ場所で描いたポントワーズの風景画があります。ご紹介しておきましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《Orchard with Flowering Trees, Spring, Pontoise》、1877年

 爽やかで心地よい、春の風景が捉えられています。

(油彩、カンヴァス、65.5×81㎝、1877年、オルセー美術館所蔵)

 巨木を中心に画面が左右に分割されています。太くて黒い幹は高くそびえ、その両側からは多くの枝が伸び、それらの枝先には無数の白い花が咲いています。やや引いて見ると、まるで巨木の先端を頂点とする三角形のように見えます。

 上に伸びる枝、下に垂れる枝、手前に張り出した枝、それぞれの枝先には白い花が咲き、さまざまな曲線を創り出しています。

 一方、木々の背後に建ち並ぶ建物からは、さまざまな直線が印象づけられます。三角の先端部、四角い窓、台形の屋根など、いずれもくっきりと描かれ、画面に起伏を生み出しています。

 直線や斜線、曲線を活かした見事な構図です。おかげで、開花期の瑞々しさや爽快感がリズミカルに捉えられています。

 見上げれば、青い台形の屋根、濃紺の先端部、オレンジ色の窓枠、白い壁などがそれぞれ、小さいながらも存在を主張し、曇った空を背景にはっきりと刻み込まれています。視線を落とすと、辺り一面、白い花が目を射るように乱舞しています。

 白い花々や建物の白壁、そして、空を覆う白い雲が、前景、中景、遠景に分散して配置され、画面に統一感と爽やかさがもたらされています。白を基調に、オレンジや青を差し色にして画面構成されています。

 興味深いのは、白い花に形の大小、色の強弱をつける一方、さまざまな筆触によって、画面に動きを生み出し、風のそよぎを感じさせていることでした。春の訪れと爽やかな息吹が加味されています。

 巧みな構図と色遣いで春の訪れが繊細に、そして、リズミカルに描かれていました。

 一方、色彩の力で精彩を放っているのが、セザンヌの作品です。

●ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)制作、《Le Jardin de Maubuisson, Pontoise》1877年

 ピサロと同じ時、同じ場所で描かれた作品です。セザンヌは、はっきりとした色彩で、やや荒っぽく、ポントワーズの風景を捉えています。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1877年、個人蔵)

 ピサロと違って、手前の木々はまばらで細く、小さく、存在感がありません。木々の背後にみえる建物は、細部までしっかりと描かれているわけではありませんが、色彩に精彩があります。モチーフの捉え方はおおざっぱで、何をメインに描こうとしているのかは曖昧ですが、鮮やかな色彩とその荒っぽい筆触が印象的です。

 このように、同じポントワーズの風景を描いても、ピサロとセザンヌには大きな違いがありました。

 両者を比較すると、建物はほぼ同じでしたが、手前の木々が大きく異なっていました。ピサロは画面真ん中に巨木を配置し、その木をメインに、周辺に枝や花々を散らし、三角形を構成するような構図でした。おかげで画面に安定感と瑞々しい華やぎがもたらされていました。

 一方、セザンヌの方は、木々が貧弱で、しかも、畑の草と木の葉に色彩の区別がありません。建物はやや丁寧に描かれていますが、その下の畑や木々の描き方が雑なのです。中ほどの木に白いものがいくつか見えますが、ひょっとしたら、白い花なのでしょうか・・・?

 比較してみると、セザンヌは見たものから受ける印象に従って、思いつくまま、自由に描いているように見えます。そのせいか、画面はまだ制作途中、あるいは、習作のように見えます。

 その結果、ピサロの作品で捉えられていた繊細さや春の華やぎは、セザンヌの作品にはなく、色彩と筆触による力強さばかりが強く印象づけられます。

 ピサロはおそらく、見たままの風景をできるだけ写実的に捉えようとしながらも、メリハリのある構図を創り出すために多少、修正していたのかもしれません。同じ場所で描いた両者の作品を見比べてみて、改めて、風景の捉え方の個性が感じられます。

 おそらく、この違いの中にピサロの作品の本質の一つが示されているのでしょう。

■評論家からの批評

 1880年頃、ピサロは自分の作品に満足できず、悩んでいました。というのも、美術評論家でありコレクターでもあったシャルル・エフルッシ(Charles Ephrussi, 1849 – 1905)からの批評を気にしていたからでした。

 エフルッシは1880年、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く。彼の描法によると春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評していました。それを知ったカミーユ・ピサロはすっかり自信をなくしていたのです。(※ 黒田光彦「作家論:ピサロ/シスレー/スーラ」、『現代世界美術全集20』、p.87. 集英社、1973年)

 エフルッシは果たして、ピサロのどの作品について、上記のように批評していたのでしょう。

 気になって、調べてみました。

 1880年に批評したことがわかったということは、それ以前の作品を見て、そのような評価を下したことになります。そこで、1880年以前の作品の中から、春、あるいは花を画題にして描いた作品を探してみました。

 すると、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)というタイトルの作品を見つけることができました。

 果たして、エフルッシの批評は納得できるものだったのでしょうか。この作品を見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)

 果樹の花が一斉に開き、華やいだ春のひとときを捉えた光景です。

(油彩、カンヴァス、45.1×54.9㎝、1872年、National Gallery of Art所蔵)

 青空には真っ白の雲が浮かび、その下に枝いっぱいに白い花をつけた木が、正面に描かれています。よく見ると、画面奥の方まで、木々が立ち並んでいます。春というよりは初夏の気配が感じられます。これらの花はやがて実となって、人々を楽しませてくれるのでしょう。

 華やかな季節のはずなのに、どういうわけか、画面全体がくすみ、どんよりとしています。

 地面には木の影が濃く刻み付けられており、陽射しの強さが示されています。まばゆいばかりの光が辺り一面、降り注いでいるはずですが、画面から煌めきは伝わってきません。むしろ、乾いた土、生気のない花や木々の方が強く印象づけられます。

 果樹の下で作業をしている男性と女性の姿が小さく描かれていますが、ハイライトを差して、人物を際立たせることはされていません。そのせいか、彼らの姿に開花期を迎えた喜びは感じられず、労苦ばかりが強く印象づけられました。弾むような春の息吹を、画面から感じることはできませんでした。

 これでは、エフルッシが「春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評したのも無理はないと思ってしまいます。

 この作品は、カミーユ・ピサロが、1874年に開催された第1回印象派展に出品した風景画5点のうちの一つでした。この作品は、注目され、他の印象派の作品と比較される場に展示されていたのです。

 同じ時期に描かれた風景画をもう一つ、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《白い霜》(Gelée blanche, 1873年)

 田畑なのでしょうか、原っぱなのでしょうか、全体が群青色の縞模様で覆われています。一体、この縞模様は何なのかと気になってしまいます。なんとも奇妙な光景です。

 タイトルを見ると、《白い霜》です。この縞模様に見えるものによって、おそらく、一面に白い霜が張った様子が表現されているのでしょう。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、Musée d’Orsay所蔵)

 タイトルを見て、それから、画面の手前右下に所々、白い小さな塊が描かれているのを見て、ようやく、霜が張った状態が描かれているのだということがわかります。

 右側だけで十分、わかるのに、左半分にも均等に縞模様が描かれています。ピサロは律義にも、ほぼ同じ間隔で、似たようなラインを野原全体に引いているのです。その結果、リアリティが損なわれ、奇妙な絵になっていまいました。

 左半分の縞模様はもっと薄くして目立たなくするか、いっそのこと白を淡く載せるだけでよかったのではないかという気がします。

 興味深いのは、傾斜のある小道を農夫が柴を背負って歩いている姿が、画面半ばに描かれていることです。おそらくストーブの燃料にするのでしょう。この人物を配することによって、画面が引き締まり、ストーリー性のある構図になっています。

 もし、タイトル通り、白い霜が張っているように描かれていれば、この人物を画面半ばに配したことの効果が画面に表れ、趣き深い作品になっていたことでしょう。 

 先ほど見た《果樹園》といい、この《白い霜》といい、せっかく季節の特徴を捉えた画題を扱いながら、表現すべきところが表現されておらず、省略すべきところが省略されていないため、画面に精彩がなくなってしまっていることがわかります。

 改めて、エフルッシの言葉が思い出されます。

 彼は、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く」と評していました。当時のピサロの作品を見たところ、確かに批評通りでした。

 《果樹園》では鮮やかな白色を乱舞させながら、輝きを生み出すことができず、《白い霜》では明るく鮮やかな色を使いながら、意味不明の縞模様によって、画面を硬直させているだけでした。

 おそらく、ハイライトを置いて画面に精彩を加えることをせず、また、観客の想像に任せればいい箇所まで、律義に描いてしまっていたからでしょう。その結果、画面が堅苦しく硬直し、観客が興趣を感じる余地が削がれていました。

 それでは、カミーユ・ピサロ自身、エフルッシの批評をどのように受け止めていたのでしょうか。

■個展開催を控えたピサロの不安

 ピサロは画家には珍しく、頻繁に、友人や息子に宛てて手紙を書いていました。手紙を書くことによって、創作につきものの不安や不満を発散し、気持ちの立て直しを図っていたのでしょう。作品批評については特に敏感に反応していました。

 息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。

 1883年5月、モネやルノワールに続き、カミーユ・ピサロの個展の開催が予定されていました。画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が企画したピサロにとって初めての個展でした。

 個展開催を控え、不安に駆られたカミーユ・ピサロは、息子のリュシアン(Lucien Pissarro, 1863- 1944)に、次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「私の作品は、このような輝きのある作品の後では、もの悲しい、大人しい、光沢のないものに見えるだろう」(※ 前掲)

 特異な画風や画題で話題を呼んでいたモネやルノワールに比べ、カミーユ・ピサロは自身の作品が地味で精彩がなく、話題性に乏しいと思い込んでいました。彼らと比較されると、個展の成功が危ぶまれると不安を覚えていたのです。

 この文面からは、先ほどご紹介したエフルッシからの批評がまだ尾を引いており、ピサロの創作意欲に影響を与えていたことがわかります。

 確かに、彼の作品は、モネやルノワールに比べればはるかに話題性に乏しく、地味でした。画風に目新しさがなく、かといって、独自性があるわけでもありませんでした。

 当時、モネは43歳、ルノワールは42歳、そして、ピサロは53歳でした。10歳も若い彼らに、ピサロは気後れするような気持ち、言い換えれば、劣等感のようなものを抱いていたのです。ひょっとしたら、それは、自身の画風を確立するのが遅かったことと関係していたのかもしれません。

■ピサロが気にしたモネとルノワール

 たとえば、モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は30代半ばで画風を確立していましたし、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日-1919年12月3日)も30代後半には独自の画風を確立していました。画題にしろ、画風にしろ、両者には若いころから確固たるものがあったのです。

 それでは、モネやルノワールが、どのような作品を描いていたのかを見てみることにしましょう。

 同世代のモネとルノワールは20代後半の頃、何度か一緒に郊外に出かけ、イーゼルを並べて絵を描いていたことがありました。

 探して見ると、1869年にパリ郊外のセーヌ河畔の行楽地、「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)で描いた作品が見つかりました。モネが29歳、ルノワールが28歳の時の作品です。

 ブージヴァル(Bougival)はセーヌ川岸にあり、19世紀後半、印象派の画家たちが集って絵画を語り合い、絵を制作していた行楽地でした。そのセーヌ河畔の行楽地に、水上カフェのある水浴場「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)があります。

 1869年の夏、モネとルノワールはそこでイーゼルを並べ、絵を描いたといわれています(※ 『印象派美術館』、小学館、2004年)。

 両者の作品を見比べてみることにしましょう。

●クロード・モネ(Claude Monet)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年制作

 まず、モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品から見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、66×86㎝、1869年、ストックホルム国立美術館所蔵)

 画面を見た途端に印象づけられるのは、手前から画面中ほどまで描かれている川面です。さざ波を立ててゆったりと揺らぐ様子が、深く、陰影のある色合いで描かれています。左から右にかけての水面の動きには、穏やかで深淵な自然の息遣いが感じられます。

 向こう岸に立ち並ぶ木々は、褐色に近い淡い緑色で描かれています。荒っぽく言えば、濃い緑色で描かれた水面とは補色関係になっているのです。

 ボートが何艘か浮かんでいますが、いずれも舳先を円形の出島に向け、ほぼ同心円上に停泊しています。岸辺からの細い橋、水上カフェからの橋とも連結しており、この円形の出島がこの絵のメインモチーフに位置づけられています。

 淡い色で描かれた遠景の木々、手前左上から垂れ下がる暗緑色の枝、そして、濃淡に所々、補色の橙色を散らした水面によって、陽光が煌めく行楽地のひとときが見事に捉えられています。モチーフの配置といい、色彩バランスといい、味わい深い作品に仕上がっています。

 考え抜かれた構図の下、行楽地で楽しむ人々が俯瞰で捉えられています。人と自然が悦楽の中で調和するよう描かれているのです。

 一方、ルノワールは人物に力点を置いて、同じ場所を描いていました。

●ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年

 この作品で、まず、観客の目が行くのは、円形の出島でしょう。そこに着飾った男女が大きな木の下で所狭しとばかりに集っており、華やかな賑わいが画面から立ち上っています。

(油彩、カンヴァス、99.7×74.5㎝、1869年、メトロポリタン美術館所蔵)

 左側には白い帆をつけたヨットが浮かび、右上にはボートに乗った人々がこのリゾート地を楽しんでいる様子が描かれています。泳いでいる人もいれば、談笑している人もいて、さまざまな愉楽、悦楽の様相がスケッチされており、画面に賑わいをもたらしています。

 よく見ると、左手前のボート、女性のドレス、水上カフェの庇や柱、遠景の木々などに、わずかにオレンジ色が差し色として添えられています。全般に淡く明るい色で構成された画面に、この差し色を添えることによって、華やかな画面の中に穏やかさと暖かさがもたらされていたのです。

 同じ場所でイーゼルを並べ、同じ対象を描いているのに、モネとルノワールの作品には明らかな違いが見られました。

 どのモチーフに力点を置くのか、構図をどうするか、色彩のバランスをどうするか、差し色をどの程度使うのか、等々、それぞれの作品を比較すると、画家としての個性がはっきりと画面に反映されていました。

 《ラ・グルヌイエール》は、モネにとっても、ルノワールにとっても、まだ画風を確立する前の作品です。それでも画面のそこかしこに、後年の画風を読み取ることができます。20代後半の作品ですでに、それぞれの個性が確立され始めていたことがわかります。

 これらの作品を取り上げ、紹介している動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2iSmHoV__qw

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 ラ・グルヌイエールはミドルクラスを対象としたパリ郊外のリゾート地でした。当時、人々は休日になるとここに来て、ボートを漕いだり、カフェで会話を楽しんだりしていました。

 モネとルノワールは共に、ブルジョワジーの生活を描いた作品に関心を抱いていましたから、このリゾート地は、恰好の画題だったのです。ここで彼らが共に、印象派のスタイルでブルジョワジーの生活の一端を捉えた作品を制作したのは当然の成り行きでした。

 さて、動画では、ボートや木々、人々の描き方について、両者の違いが指摘されていました。改めて、画家としての資質、個性の違いが感じられます。

 私はモネの作品には、考え抜かれた色遣いが秀逸だと思いました。まず、川面の動きが光と影の下、深みのある色でくっきりと描かれているのに惹かれました。さらに、手前の水面を際立たせるように、遠景の水面や背景の木々が黄褐色を交えた色で表現されていることに興味深く感じました。

 ボートの側面や波の合間に散らされたオレンジの差し色も効いています。多様な色を使いながら、補色関係を踏まえ、画面全体の色彩バランスが図られており、素晴らしいと思いました。

 一方、ルノワールの作品は、パステル調の色遣いがすでにこの頃から際立っていたのが印象的です。

 いずれも、彼らがまだ若く、夢を追っていた頃の作品です。興味深いのは、動画の中でプレゼンテーターが、彼らが金銭的成功を収めるのは、この数年後だと言っていたことでした。実際、その後、彼らの作品は多くの人々に受け入れられ、成功しています。

 モネとルノワールの作品を見ると、いずれも、すでにこのころから、ブルジョワジーを魅了する要素を秘めていたことがわかります。

■市民の意向が反映される美術市場

 思い返すのは、カミーユ・ピサロは息子宛ての手紙の中で、モネやルノワールの個展の後では、自分の作品が見劣りするのではないかと書き記し、深刻に悩んでいたことでした。

 ピサロが息子に手紙を出した頃、モネやルノワールはすでに多数の観客の注目を集める画家になっていたのでしょう。

 そこで、調べてみると、クロード・モネの個展が1883年2月に開催されていました。場所は画商デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りで開いた画廊でした。そこで、初期から最近作までの56点が展示されました。

 展覧会についてはピサロなどの批評は好意的でしたが、作品の売れ行きは悪かったようです。評判に反し、売れ行きが悪いので、モネはデュラン・リュエルに対し、展示方法や作品の選択、宣伝方法について激しく非難したそうです。(※ http://philatelic-art.com/Impression/Monet/nenpu_mo.htm

 美術市場が広がり、上流階級だけではなく、市民階級までも顧客となり始めた時代でした。たとえ批評家や画家たちから作品が高く評価されたとしても、作品の売れ行きがいいとはいえなくなっていたのです。

 もちろん、作品の売れ行きが悪くては、画家や画商にとって個展が成功したとはいえません。モネがデュラン・リュエルに対し、出品作品の選択、展示方法、宣伝方法などについて文句をいったのは、画廊側に売る為の戦略が欠けているように思えたからでしょう。

 その後、1か月を経て、1883年4月に開催されたのが、ルノワールの個展でした。この時もモネと同様、デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りに開いた画廊で開催されました。初期作品から最新作まで約70点が展示されました。

 ルノワールは1878年から1881年まで毎年、立て続けにサロンに入選していました。当時、サロンに入選することは一般大衆にとって、その作品の評価を保証するものでした。購入意欲に大きく影響していたのです。

 ピサロは当時、アマチュア画家のウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功をおさめた」と記し、「貧乏はとても辛いですから」と書き添えています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

 このことからも、サロンで入選すれば、売れ行きの保証になっていたことがわかります。立て続けにサロンに入選したルノワールは、マルセル・プルーストからも激賞され、以後、肖像画の注文が大幅に増えていきました。

 そして、1883年5月に同画廊で開催予定だったのが、ピサロの個展でした。

 ピサロがこの時期、思い悩んでいたのも無理はありませんでした。サロン入選者であり、著名作家からも激賞され、しかも、ブルジョワジーの嗜好に合う作品を描いていたルノワールの個展直後の開催だったのですから・・・。

 当時、新興ブルジョワジーの台頭とともに、美術市場に変化が訪れており、売る為の戦略が必要になりつつあったのです。

 デュラン・リュエルが買い上げた画家のトップはルノアールで1500点、次いでモネ1000点、そして、ピサロ800点、シスレー400点の順でした。新しく開いた画廊で彼らの個展を所蔵数の順に開催したのは当然でした。画家たちのお披露目を兼ねていたのです。ちなみに、シスレーはピサロの後、同年6月に個展を開催しています。

 パリで新しく開いた画廊で、デュラン・リュエルは印象派の画家たちの個展を立て続けに開催しました。作品の売れ行きなどから、彼はおそらく、新しい時代の動きを察知したのでしょう。その後、美術市場の開拓のため、アメリカでの印象派展を企画しました。

 1886年4月から5月にかけて彼はニューヨークで印象派展を開催し、大成功を収めました。パリ・モンマルトルに集っていた画家たちが創始した新しい芸術運動を、画商デュラン・リュエルが世界に認知されるきっかけを作ったのです。

 美術市場を取り巻く一連の動きの中で、ピサロはどのような思いでいたのでしょうか。

■ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ピサロは初めての個展開催を控え、1880年のエフルッシの批評を気にしていました。確かに、第1回印象派展に出品された、1872年の作品を見ると、その批評は決して的外れなものではありませんでした。指摘されるような要素は確かにあったのです。

 ただ、その後、ピサロの画風は大幅に改善されています。

 たとえば、1877年にセザンヌと共に、同じ場所で描いた風景画では、画面に鮮やかさが生み出され、ぎこちなさが消えて、優雅な華やぎさえも醸し出されていました。ピサロがエフルッシの批評を気にしていたからこそ、その後、画風を変えたのでしょう。

 ただ、根幹部分は変わっていないように見えます。

 彼の作品をいくつか見てくると、絵としてまとまっていますが、大胆さに欠け、写実の基盤から大きく逸脱することが出来ないように思えるのです。とくに、色遣いや色構成が平板に見えます。そのせいか、構図の取り方は巧みなのですが、それが観客に対する訴求力に活かされておらず、魅力に乏しいのです。

 そのような絵の特質がおそらく、ピサロの自信のなさ、焦りに繋がっていたのではないかと思います。

 折しも、新興ブルジョワジーの台頭とともに、顧客の意向や嗜好が絵の売れ行きを左右し始めていました。

 親しくしていたモネ、ルノワール、セザンヌなどが特徴のある画風で注目を集めていたのに対し、ピサロの画風は地味でした。しかも、彼自身、まだ確固たる信念の下、納得できる画風を築き上げることができていませんでした。

 そんな頃、ピサロは息子リュシアン・ピサロを通して、ラニー派を知りました。当時、ピサロが置かれていた状況を考えれば、印象派として知られていた彼が突如、若い世代のグループに参加したのも、当然のことのように思えてきます。

 スーラに会って話を聞き、彼が提唱した「点描」画法に、ピサロは引き込まれました。それは、印象派が辿り着いた「筆触分割」画法をさらに徹底させ、光学理論を取り入れた、画期的な科学的画法でした。

 すでに50半ばを過ぎていたピサロは、若い仲間とともに点描画法にのめり込んでいきました。

 その背景には、画家としての不安や焦りばかりではなく、必要であれば、新しいものを積極的に取り込んでいこうとする進取の気性が介在していたと思います。時代が大きく変わろうとしていた時期でした。(2022/3/23 香取淳子)