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近藤オリガ展:《路傍の石》について、想像力を巡らせてみた。

■「近藤オリガ展」の開催

 「近藤オリガ展」が、「ギャラリーNEW新九郎」で、2022年8月3日(水)から15日(月)(8月9日は休廊)まで開催されました。

 私は開催初日の8月3日に訪れましたが、その後、思いもかけない用事がいくつも重なって、ご報告するのが遅れ、今になってしまいました。

 さて、画廊のあるダイナシティウエストは、湘南をイメージさせる、明るく、開放的なショッピングモールでした。

 駐車場からショッピングモールに入ると、ショップが並ぶ廊下の片側が開放されて吹き抜けになっており、階下や階上を見通せる構造になっています。ふと、ずいぶん前に訪れたことのあるハワイのアラモアナショッピングセンターや、モスクワのグム百貨店などを思い出してしまいました。

 「ギャラリーNEW新九郎」は、4Fのレストラン街の一角にありました。

 すでに何人かの観客が、熱心に鑑賞しておられました。どの作品も興趣に富み、近藤オリガ氏ならではの幽玄の世界がしっかりと描き出されていました。見応えのある作品ばかりでした。

 展示作品の中で、とくに引きつけられたのが、《路傍の石》です。優しく、優雅で、心の奥底にまで、そっと染み入ってくるような深い情感が感じられました。水墨画を思わせる画面には、これまでの作品とは一線を画した何かが潜んでいるような気がしました。

 画面には、謎解きを迫るミステリーの要素があり、何かを訴えかけてくるようなメッセージも感じられます。とても、気になる作品でした。

 優美なタッチで表現されたモチーフと、その構図、グラデーションを駆使した深い色調からは、ドラマティックなストーリーが見えてきます。見ていると、思わず、この作品の解釈を試みてみたいという気になってしまいました。

 そこで、今回は、ちょっと趣向を変えて、この《路傍の石》から、私が何を読み取ったのか、思いつくままに、綴っていきたいと思います。

 もちろん、これから述べることは、私の勝手な思い込みにすぎません。想像力逞しく思いを馳せた結果、作者の意図とは異なってしまったかもしれませんし、見当違いの解釈になっているかもしれません。そのことをご承知おきいただいて、お読みいただければ、幸いです。

■近藤オリガ氏の近作《路傍の石》

 この作品の前に立った時、なにか得体の知れない衝撃のようなものを受けました。静かでありながら、激しく、何かを訴えかけてくるような画面だったのです。なぜ、そう感じたのか、わからないまま、しばらく、その場を去ることができませんでした。

(油彩、カンヴァス、46×61㎝、2022年)

 謎めいたモチーフに、水墨画の趣のある画面、そして、日本の小説を思い起こさせるタイトル・・・、気になることばかりでした。見た瞬間に引き込まれてしまいましたが、その後、しばらく見入っていても、何故、引き込まれたのか、この作品が何を言おうとしているのか、なかなか言語化することができません。

 最初の段階で言えるのはただ、西洋文化と日本文化とが、乳白色の画面の中で一体化し、新たな表現の地平が切り拓かれているということだけでした。厚みと西洋画の蓄積を感じさせる油彩画の画面に、余分なものを一切省き、モチーフがただ二つ、描かれていたのです。双方の文化の知性と精神性、美しさを巧みに引きだしながら、作品として完成させられていると思いました。

 観客の知的好奇心を限りなく刺激する作品でした。

 画面の隅々まで、作者の神経が行き届き、ドラマティックな緊張感が漲っています。モチーフの選択とその構図にはストーリー性があり、時空を超えて想像力を喚起していく拡張性がありました。もちろん、観客に問いかけ、思考を促すメッセージ性もあります。それら一切合切が、繊細で優美なタッチで表現されていたのです。

 見れば見るほど、この作品には、美学、哲学、人道主義などが奥深く内在していることが感じられます。画面から自然に滲み出てくるそれらの要素に、私はすっかり心を奪われてしまいました。明らかに、観客に何かを訴えかけようとしている作品でした。

 オリガ氏は果たして、この画面にどのようなメッセージを込めていたのでしょうか。

 まずは、画面に仕掛けられた謎を解くことから、この作品に迫っていきたいと思います。

■モチーフの形状、その素材への違和感

 私が、なぜ、《路傍の石》に強く引きつけられたかといえば、まず、画面中央に大きく描かれたモチーフが気になったからでした。

 奇妙なモチーフです。これは一体、何なのでしょうか。

●モチーフの形状

 一見、リュックのようなものに見えます。ところが、リュックにしてはありえない表現がされており、気になったのです。リュックの部分をアップにして、詳しく見ていくことにしましょう。

(前掲、部分)

 ぱっと見て、何カ所かの傷が気になります。

 上部の持ち手の辺りに、大きな亀裂が横に深く入っています。その裂け目には丸味があって、粘土のような材質に見えます。左端から下方に向けてひび割れており、その先にクギが打ち込まれています。ここだけ見ると、クギが打ち込まれたから、亀裂が走ったように見えますが、それにしては溝が小さく浅いのが不可解です。

 リュックは、射し込んだ光によって、左側が明るく照らし出され、ちょっとした凹み傷が何カ所かついているのがわかります。滑らかな表面だからこそ見えるのですが、とても小さく、しかも、浅いものなので、ざっと見ただけでは、傷があることなど、ほとんど気づきません。

 気になるのは、むしろ、クギのすぐ上が大きくたわみ、横に波打っていることでした。たわみ部分の上部は白く、やや盛り上がっていて、段差があります。おそらく、ここにも亀裂が深く入っているのでしょう。

 そのせいか、左肩から右の中ほどにかけて、微妙な膨らみが二か所ほど出来ています。その膨らみ具合は、乳白色の濃淡を使って丁寧に描かれており、手触りのよさそうな質感が伝わってきます。

 それだけに痛ましく思えるのが、リュックの下部、右端から左下にかけて斜めに走る長い亀裂です。亀裂の周辺は大きく凹み、そのせいでリュックは傾き、潰れかかっているように見えます。縦にも亀裂がいくつか入り、左側の一部はいまにも剥がれ落ちそうです。実際、破片が地面に落ちています。

 キャンバス布地のリュックなら、引き裂かれることはあっても、このように亀裂が入って破損し、その破片が地面に散らばることはありえません。メインモチーフは、リュックの形をした造形物ですが、どういうわけか、リュックと聞いて連想される素材ではなかったのです。

 これが最初の謎でした。

●素材への違和感

 リュックの表面は石膏のように滑らかで、すべすべしていました。ところが、その滑らかな肩の部分にクギが打ち込まれ、亀裂が入っているのです。

 石膏なら割れてしまいますから、このモチーフの素材はもっと強度の高い鉱物なのでしょう。違和感を覚えながらも、ちょっと引いて見ると、巨大な石が紐に縛られ、地面に据えられているように見えます。

 そういえば、この作品のタイトルは《路傍の石》でした。

 ひょっとしたら石かもしれないと思い、改めて画面を見ると、下方のひび割れがなんとも不自然です。石にしては亀裂部分が薄すぎるのです。まるでプラスティックかゴムのような感触です。

 不思議です。

 この造形物は、やや引いて見ると、形と色彩から、石に見えましたが、近づいてよく見ると、表面のすべすべした滑らかさから、粘土あるいはゴム仕様のものに見えます。いずれにしても、リュックには似つかわしくない素材ですが、形からいえば、この造形物はどう見ても、リュックとしかいいようがありません。

 オリガ氏はなぜ、この造形物をメインモチーフに据えたのでしょうか。

 この造形物には、①リュックだとすれば素材に違和感があること、②何カ所も傷つけられていること、③紐で縛られた後、その紐が断ち切られた痕跡があること、などのドラマティックな特徴がみられます。

 こうしてみると、この造形物に、何らかのメッセージが託されているのは明らかです。オリガ氏はおそらく、メッセージを託すには、リュックの形をしたこの造形物が最適だと判断されたのでしょう。

 だとすれば、一体、何に使われるリュックなのか、その形式からなんらかの手掛かりが得られるかもしれません。

 そこで、ネットで検索してみました。すると、似たような形式のリュックが見つかりました。

●軍用リュックか?

 これは、ロシア軍が使っている3日間突撃用のリュックです。収納しやすく、持ち運びが容易なように設計されており、抜群の拡張機能を備えています。

(※ https://www.amazon.co.jp/より)

 たとえば、容量を調整するため、側面にはクイックバックルの付いた紐が4つ装備されています(※ https://www.ebay.com/itm/333647436413)。軍用リュックには、移動しやすく、本体にさまざまなものを装着でき、しかも、容易に脱着できる機能が不可欠だからです。

 バックルなどの部品のなかった時代の軍用リュックはどう対応していたのでしょうか。試みに、かつて日本軍が使っていた背嚢(リュック)を見てみました。昭和18年の検印があるものです。

(※ https://www.amazon.co.jp/

 驚くほど多くの紐が、本体に取り付けられています。それらの紐を使った結果が上の写真です。飯盒や、草木を刈り取るためのカマ、そして、マットのようなものまで、紐で背嚢に装着できるようになっています。食事、仮眠、行軍に不可欠な備品を、紐を使って簡便に脱着できるよう、設計されていたことがわかります。

 いずれの場合も、軍用リュックには、紐が重要な役割を果たしていることがわかります。

 再び、《路傍の石》に戻ってみましょう。

(前掲)

 このリュックにも、やはり、紐が付いています。ところが、上部と下部を結んだ紐はとても細く、リュックの容量を広げたり、他のものを装着できるような機能はみられません。

 しかも、紐は本体に装着されておらず、ただ、亀裂部分から中身がこぼれ出てしまわないように使われているだけのように見えます。

 興味深いのは、リュックの置かれた地面にクギが打ち込まれ、そのクギに紐の切れ端が残っていることでした。

 その切れ端はやや不自然なほどピンと張ってよこに伸びています。同じような紐の切れ端が、リュックの上部、取っ手部分にもあり、やはり不自然なほど、まっすぐ上に伸びています。

 これらの紐の切れ端がたわむことなく、硬度を保っている様子を見ると、たった今、断ち切られたばかりのように見えます。

 リュックを地面につなぎ留めていた紐は、はたして、何者によって断ち切られたのでしょうか。

 気になって、思いを巡らせようとしたとき、リュックの背後にごく小さく描かれた僧侶の姿が目に入ってきました。巨大なリュックの影に隠れ、ほとんど意識に上ってこなかったこのモチーフが、突如、視界に入り込んできたのです。

●軍用リュックと僧侶

 改めて画面を見ると、《路傍の石》で描かれているモチーフは二つ、傷つけられた軍用リュックと、その背後で立ち去っていく僧侶の後ろ姿です。

 圧倒的に大きく、画面中央に描かれているのが、軍用リュックです。ですから、この作品のメインモチーフがこの軍用リュックだとすれば、サブモチーフは僧侶です。二つのモチーフは独立したものというより、従属関係にあるといえるほど、至近距離に配置されています。

 それでは、小さく描かれた僧侶の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分。)

 僧侶はやや前かがみになって、俯き加減に歩いています。その姿は小さくても、佇まいははっきりと描かれています。袈裟の裾を軽く揺らしながら、立ち去っていく僧侶のしっかりとした足取りが、目に見えるようです。

 周囲を見渡すと、天といわず、地といわず、僧侶の周辺には光明が差し込んでいます。手前をみると、破損した軍用リュックにも、明るい陽光が降り注いでいます。

 軍用リュックといい、僧侶といい、これら二つのモチーフから共通に受け取れるイメージは、戦争であり、戦争によってもたらされる大量の死です。それだけに、これらのモチーフに、おぼろげながらも乳白色の光が射していることに、かすかな救いが感じられます。

 改めて気になってきたのが、画面全体を覆う乳白色の空間です。

●乳白色の空間

 この作品では、乳白色の空間に、適宜、墨色の濃淡を取り入れて、モチーフが表現されています。そのせいか、最初見たときは、水墨画を連想してしまいました。色彩を抑え、シンプルに構成された画面に、日本文化を感じさせられたのです。

 ところが、よく見ていくと、乳白色の濃淡でグラデーションを重ね、光や雲間が表現されており、軍用リュックの表面には滑らかな質感があります。油彩画ならではの重厚さがあり、直観というより思考の厚みが感じられました。油彩画表現の長い歴史を見る思いがしたのです。

 西洋文化と日本文化を折衷させた見事な画面構成といえるでしょう。

 画面を見ているうちに、乳白色の濃淡で表現された空間こそ、この作品の基調を創り出しているのではないかという気がしてきました。

 乳白色の濃淡によって、さまざまな方向から射し込む陽光が表現され、そのグラデーションによって、時間を超越した空間が感じられます。まさに、地平線も境界線もない茫漠とした空間です。そんな中で、拠って立つ基盤もないまま、二つのモチーフは、まるで寄り添うように、画面中央に集中して配置されていました。

 そもそも、この作品は、二つのモチーフだけで構成されています。これらのモチーフを支えているのは、画面一体に施された乳白色の濃淡で表現された色彩空間です。白に近い淡色は、天から射し込む光源を表す一方、その光を受けて強調されるモチーフのマチエールと、その存在感を示していました。

 乳白色に墨を混じえた濃色によって、光の射さない雲間やモチーフの凹みが表現されており、さらに濃い色で、モチーフが地面に落とす影が表されていました。そして、墨色によって、紐やクギ、袈裟などのモチーフの形状がリアルに表現されていました。

 傷ついた軍用リュックは、乳白色の色調のせいか、生命体が白骨化したシンボルのようにも見えます。そして、その背後で小さく描かれた僧侶は、弔い、あるは、供養のために添えられているように思えます。

 描かれたモチーフを何度も見返すうちに、そういえば、どこかで見たことがある光景だと思えてきました。とくに意識したのがこの画面を覆う乳白色の色調です。

 さっそく、戦場や戦争をキーワードに画像検索をしてみました。すると、ロシア人画家ヴェレシチャーギンの作品に、《路傍の石》と似たような色調のものを見つけることができました。

■ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギン(В. В. Верещагин, 1842-1904)の作品

 ヴェレシチャーギンは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画家で、戦場をテーマにした作品を数多く残しています。

 彼は作品を仕上げるために、何度も戦場を取材していますが、ボリス・エゴロワによれば、それは、「自分ですべて体験しなければならない。戦闘や襲撃、勝利、敗北の現場に居合わせ、飢え、寒さ、病気、怪我に苦しまなければならない」という考えからでした(※ https://jp.rbth.com/arts/84420-vasily-vereshchagin-sensou-wo-rikai-shita-gaka)。

 この方針を貫き通したヴェレシチャーギンは、日露戦争(1904-1905)開戦直後の1904年4月13日、中国沿岸で機雷に触れた戦艦と共に海に沈み、命を落としてしまいました。

 そのヴェレシチャーギンの作品から、私は、オリガ氏の《路傍の石》を読み解くヒントを得ることができたのです。

 まず、《戦争の結末》(1871年)という作品から、見ていくことにしましょう。

●《Апофеоз войны》(戦争の結末、1871年)

 画面中央に白骨化した頭がい骨が積みあげられ、小山のようになっています。カラスが何羽もやってきては、白骨の山を漁っています。真上の空には多くのカラスが飛び交い、隙あらば、ついばみに来ようと、この小山を狙っています。ぞっとするような光景です。

(油彩、カンヴァス、127×197㎝、1871年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 周辺の枯れ木にも、多数のカラスが止まって、隙を狙っています。かと思えば、地面に転げ落ちた骸骨の上に足を止め、小山を眺めているカラスもいます。こうなっては、もはや人間としての尊厳も何もあったものではありません。

 まさに、《戦争の結末》です。

 陽光はさんさんと降り注いでいるのですが、生命の痕跡はどこにもなく、ただ、黒いカラスだけが飛び交っています。見渡す限り、カラスと枯れ木、白骨化した頭がい骨しかない荒涼とした平原の先に、破壊された建物が見えます。空しく、やりきれない思いに駆られてしまいます。

 ボリス・エゴロワはこの作品について、次のように述べています。

 「当初、ヴェレシチャーギンはこの絵を、『ティムールの勝利』と名付けるつもりだった。だが、具体的な時代と結び付けることをやめ、「過去、現在、未来のあらゆる偉大な征服者ら」に捧げることにした」(※ 前掲、URL)

 とても興味深い指摘です。

 数々の戦場に足を運んだヴェレシチャーギンは、この光景の中にこそ、戦争の本質があると思ったのでしょう。だから、具体的な時代や地名をタイトルにすることはせず、時代を超え、場所を超えて、問題提起できるよう、《戦争の結末》というタイトルに変更したというのです。

 《戦争の結末》の色調に、私は、オリガ氏の《路傍の石》との類似性を感じました。

 この乳白色で描かれた骸骨の小山を見て、ようやく、《路傍の石》の乳白色の軍用リュックは、ひょっとしたら、戦争で亡くなった兵士たちの象徴かもしれないと思い至ったのです。

 確かに、乳白色で描かれた二つの作品のメインモチーフは、いずれも、戦争や死を象徴している点で共通していました。

 ところが、黒色あるいは墨色で描かれたサブモチーフは、その位置づけが大きく異なっているように思えます。《戦争の結末》では、カラスというサブモチーフによって、メインモチーフの悲惨さが強調されていました。戦争による大量死が客観的に、まるで自然現象の一つのように捉えられていたからです。

 それに対し、《路傍の石》では、僧侶というサブモチーフによって、メインモチーフの無念な思いが浮き彫りにされていました。傷つけられた乳白色の軍用リュックは、戦争による負傷あるいは死を象徴し、リュックを縛り付けていた紐は、戦争に赴かせる強制力を表していました。

 そう考えたとき、《路傍の石》では、僧侶が小さく描かれていた理由がわかるような気がしました。

 僧侶が描かれているのは、弔いや供養のためではなく、生前の束縛を解き放ち、死者の無念な気持ちに寄り添う役割を担っていたのではないかと思ったのです。感情移入して戦場の死が捉えられているように思えるだけに、情感豊かにそのメッセージが伝わってきます。

 さて、ヴェレシチャーギンには、僧侶を登場させた、《敗北、パニヒダ》(1878-79年)という作品もあります。ただ、その役割は、《路傍の石》とは大きく異なっています。

●《Побежденные. Панихида》(敗北、パニヒダ、1878-79年)

 この作品を観た時、私はすぐに、《路傍の石》の世界に近いと思いました。

(油彩、カンヴァス、179×300㎝、1878-1879年、モスクワ・トレチャコフ美術館)

 荒涼とした平原を前に、司祭がなにやら壺のようなものを振っています。傍らには軍人が帽子を脱いで直立しており、厳かな雰囲気です。よく見ると、平原には夥しい数の死者が枯草の中に横たわっています。どうやら、弔いの行事が行われているようです。

 作品のタイトルは、《敗北、パニヒダ》です。

 パニヒダとは、正教会において、死者が神の国に安住できるように祈る儀式であり、死者の信仰を受け継いで、共に永遠の国に与れるよう祈願するもの(※ Wikipedia、パニヒダより)だそうです。

 確かに、この作品では、司祭が振り香炉を振りながら、パニヒダを捧げています。よく見なければ気づかないのですが、枯草の広がる平原の中に、兵士たちが累々と横たわっています。

 所々、白くけぶって見えるのは雪なのでしょうか。白色が混じっているせいで、画面のほぼ半分が、明るい黄土色混じりの乳白色で描かれています。空にはどんよりとした雲が垂れ込めており、その雲間からかすかに乳白色の陽光が降り注いでいます。天もまた弔意を示しているかのようでした。

 僧侶というモチーフだけではなく、色調の面でも、この作品には《路傍の石》との類似性が感じられます。

 こうしてみてくると、ヴェレシチャーギンの二つの作品からは、乳白色の色調が意味するところがぼんやりと分かってきます。《路傍の石》で、乳白色で描かれていた軍用リュックは、明らかに白骨化した兵士の象徴と考えられます。

 そこで、気になってくるのが、《路傍の石》というタイトルです。

 「路傍の石」といってすぐに思いつくのは、かつて映画化されたこともある、山本有三の小説です。ところが、オリガ氏がこの小説をご存じないとすれば、「道端に転がっている石」という意味で使われているのかもしれません。

 念のため、「路傍の石」でネット検索してみました。すると、山本有三の小説『路傍の石』関連の項目ばかりが検索結果に上がってきます。となれば、やはり、『路傍の石』の内容あるいは教訓をひととおり、知っておく必要があるでしょう。

■小説『路傍の石』

 山本有三(1887-1974年)は、大正から昭和にかけて活躍した小説家で、代表作の一つに『路傍の石』があります。栃木県にある山本有三の文学碑には、『路傍の石』から引いたセリフが刻まれています。

 「たったひとりしかない自分を、 たった一度しかない一生を、 ほんとうに生かさなかったら、 人間は生まれてきたかいがないじゃないか」

(※ https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=175&page=1

 これは、『路傍の石』の主人公・吾一が、度胸自慢のために鉄橋にぶら下がって、死にかけたことを知った担任の教師が、彼に教え諭した際のセリフです。

 先生は、死の危険を冒すことになった吾一に対し、「たった一人しかない自分」、「たった一度しかない一生」なのだと、かけがえのない命の大切さを教えます。そして、その大切な命を、「ほんとうに生かさなかったら、生まれてきたかいがない」と諭したのです。

 この教えを胸に刻み付けた吾一は、その後、さまざまな苦難に遭遇しながらも、自分の能力を活かして生きていける場を見つけます。たった一度の人生を全うしていくというのが、小説『路傍の石』の筋書きです。とても人道的な内容の教訓です。

 オリガ氏は、この小説のエッセンスを踏まえ、作品に《路傍の石》と名付けたのでしょうか。だとしたら、モチーフ、構図、画面の色調などに、オリガ氏の人間観、死生観が反映されているに違いありません。

 再び、《路傍の石》の画面に戻ってみましょう。

 やはり、強く印象づけられるのは、乳白色の画面であり、その濃淡で描かれた巨大な軍用リュックです。

 ヴェレシチャーギンの作品に照らし合わせると、オリガ氏はおそらく、戦場に赴かざるを得なかった若者の気持ちを、傷つけられた軍用リュックに重ね合わせたのでしょう。

 そして、リュックを縛り付けていた細い紐が断ち切られていたところに、オリガ氏のメッセージが込められているように思えました。すなわち、たった一度しかない人生だからこそ、自分を全うして生きるべきだという、小説『路傍の石』からの教訓です。

 傷つけられた軍用リュックは、自尊心のために死の危険を冒しかかった吾一であり、無念にも戦場で若い命を落とさざるをえなかった兵士たちの象徴なのです。自らの意思に基づくものであれ、強いられたものであれ、死の危険を冒してはならず、「たった一度の人生を全う」することこそ、与えられた使命なのだというメッセージです。

 それにしても、この乳白色の空間は、なんと奥深く、典雅で思索的な空間を提供してくれているのでしょう。

 実は、スペインの画家サルヴァドール・ダリに、色調や滑らかなタッチが、《路傍の石》の画面に似ている作品があります。馬の石化現象をモチーフにした珍しい作品です。

 それでは、1933年のダリの作品から見てみることにしましょう。

■サルヴァドール・ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989年)の作品

 ダリの作品の中では、気づいただけで三つ、《路傍の石》と似たようなイメージのものがありました。まず、《地質学的生成》(1933年)という作品から見ていくことにしましょう。石化しかかっている馬をメインモチーフに描いた作品です。

●《Le devenir géologiaue》(地質学的生成、1933年)

 画面の色調の滑らかさが似ていたからでしょうか、私はこの作品に、オリガ氏の《路傍の石》に通じるものを感じさせられました。

 メインモチーフは、乳白色の砂漠を歩く石化しかかった馬です。

(油彩、カンヴァス、21×16㎝、1933年、個人蔵)

 果てしなく広がる砂漠で、白い馬がこちらに向かって来ています。前髪の上には両耳に挟まれるようにして、金色の頭がい骨、そして、尻尾に支えられるようにして、金色の頭がい骨が描かれています。

 なんとも不思議なモチーフです。

 画面手前には、大きく影を落とした地面が、広がっています。その中央近辺に、巨大な金色の卵が描かれています。まるで向かって来る馬と対峙しようとしているかのようです。楕円形の卵は、やや傾きながら、転がりもせず、陽を浴びて黄金色に輝いています。

 馬上の頭がい骨は二つとも黄金色に煌めいています。茫漠とした砂漠の中で、これら三つのモチーフはアクセントになり、画面全体に不思議な調和をもたらすポイントになっています。

 試みに、これらの頂点を青いマーカーでつないでみると、歪な三角形を成していることがわかります。

(3つの頂点を青でマーク)

 砂漠の背後には、地平線が見え、ごく低い丘のようなものがつらなっています。その左側の丘と右側の黄金色の巨岩、そして、手前の卵をつなぐと、やはり歪な三角形になります。興味深いことに、先ほど青でマークした三角形がその中にすっぽりと入り、画面全体が実は安定感のある構図になっていることがわかります。

 遠景には、右側に配置された二つの巨岩の合間に、小さな人影が見えます。灼熱の太陽に横から照らし出されて、影が異様に長く、夕方に近い時刻だということがわかります。

 辺り一帯は限りなく暑く、そして、乾燥しているのでしょう。草木はなく、見えるものといえば、砂漠に岩石、石化しかかった馬、骸骨、そして、得体の知れない卵だけです。

 卵といえば、実は、ダリは非常な関心を抱いており、卵の家を作って住んでいたほどでした。庭の至る所に、卵のオブジェが設置されていたそうです。

(※ https://kamimura.com/?p=17415

(※ 上記URL.より)

 ダリは、この作品でお気に入りの卵を使って、遠景と近景をつなぎ、画面全体を安定させるための基点にしていたのです。

 ところで、よく見ると、馬の様子が変です。腹部が異様に膨らみ、右側にはみ出しています。しかも、胸の辺りは大きくひび割れて、穴が開いています。

 馬の部分をアップしてみましょう。

(前掲、部分)

 まるで陶器が割れた後のような穴です。足には縦に亀裂がいくつも入っています。肩から腹にかけての部分も不自然に膨らんでおり、石化しかかっていることがわかります。さらに、前髪も石化しかかっており、まるで氷柱のように、太く白く垂れさがっています。

 この作品でダリは、一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 まず、メインモチーフは石化しかかっている白い馬であり、サブモチーフは黄金色の骸骨といえるでしょう。白い馬は今、まさに永遠の時間を手に入れようとしているところの生命体ですし、骸骨は生を終え、一定期間を経た後の生命体の姿です。いずれも生と死を考えさせるモチーフだというところに、ダリの制作意図があるような気がします。

 この時期、ダリは死について思いを巡らせていたのでしょう。この作品の場合、少なくとも、生を終えた生命体のその後の姿を二種、画面に提示し、完結させているところが特徴だといえます。乳白色に暖色、寒色を混ぜて表現された砂漠の色調が美しく、印象に残ります。

 実はこの少し前、ダリは似たような画風の作品を描いていました。《降りてくる夜の影》という作品です。《地質学的生成》を読み解くヒントが得られるかもしれません。

 この作品を見てみることにしましょう。

●《Las sombras de la noche que cae》(降りてくる夜の影, 1931年)

 ダリが生涯の伴侶となる人妻ガラと出会ったのが1929年の夏、その後、再会して恋に落ち、スペインの漁村ポルト・リガトに拠点を得て、二人は同棲し始めます。そこで、制作したのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、61×50㎝、1931年、ダリ美術館、フロリダ)

 画面手前に大きく黒い影が広がり、その縁に小さな石、すぐ後ろに中ぐらいの石、そして、画面の両側には巨岩、後方の海岸線にも巨岩が立っています。右手前に白い布で包まれた奇妙なモチーフがありますが、全体に、生命体の欠片もなく、荒涼とした光景です。

 《地質学的生成》はおそらく、この作品を踏まえ、制作されたのでしょう。モチーフ、構図などに類似性が見受けられます。

 もっとも、この作品は、《地質学的生成》に比べ、画面手前に占める影の割合が大きく、不安感が色濃く漂っています。この時期のダリの心象風景が大きく反映されているのかしれません。

 実は、ガラを愛するようになってから、ダリはいっそう神経過敏になり、彼女を失う不安に駆られるようになっていました。

 ダリは同年、《記憶の固執》(1931年)という作品を描いています。こちらは荒涼とした風景ではありませんが、依然として画面に占める影の部分は大きく、奇妙なモチーフがことさらに印象に残る作品です。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●《La persistencia de la memoria》(記憶の固執、1931年)

 これは有名な作品ですから、ご存じの方も多いのではないかと思います。

(油彩、カンヴァス、24×33㎝、1931年、New York, The Museum of Modern Art所蔵)

 時計が三つ、描かれていますが、一つは木の枝にかけられ、もう一つはテーブルのようなものの端から垂れ下がり、最後のものはまるで鞍のように、横たわった物体の背中に掛けられています。

 いずれも、ぐにゃりと折れ曲がっています。まるで足拭きマットか、厚手のラグのような柔らかさです。

 とても時計とは思えない材質ですが、表面には長針、短針があり、それぞれ数字を指しています。ですから、この造形物はやはり、時計なのでしょう。ところが、この三つの時計は、同じ場所に置かれていながら、刻んでいる時刻が異なっています。

 時計がマットのように軟化し、一定の時刻を刻むことができなくなってしまったのでしょうか。

 そこで、思い出したのが、《路傍の石》の軍用リュックです。

 形状はリュックですが、素材はキャンバス布地ではなく、石のようなものでした。リュックが石なら、重くて持ち運べないはずですが、それでも、このリュックはキャンバス布地では描かれていませんでした。

 二つの作品に見られる、このメタモルフォーゼは何を意味しているのでしょうか。

■生命体は永遠の時間を持てるのか

 《記憶の固執》の場合は、時計が軟化して機能せず、《路傍の石》の場合は、リュックが石化して本来の機能を失い、シンボルになっていました。

 その結果、何がもたらされたのかといえば、ダリの作品の場合は、時間を消滅させることで永遠を手にし、オリガ氏の作品の場合は、石化によって永遠の時間を手に入れていました。

 いずれも、時計あるいは軍用リュックを敢えて、別の素材に変容させることによって、本来の機能を喪失させ、永遠あるいは永遠の時間に置き換えたと考えられるのです。

 さて、この時期のダリの作品三点に共通するのは、砂漠あるいは砂浜という場所であり、そこに広がる大きな黒い影でした。茫漠と広がる空間を大きく占拠する黒い影に、ダリの不安感が示されているといえます。

 当時、ダリは愛するガラを得て、創作に励む一方、大きな不安にも駆られていました。深く愛するがゆえに、いつか別れの時が来ることを恐れていたのです。

 たとえば、《降りてくる夜の影》(1931年)では、荒涼とした風景の中に、募る不安と解決策のない恐怖が表現されていました。《記憶の固執》(1931年)では、歪んだ三つの時計に、時間の消滅が示唆されており、そして、辿り着いたのが、《地質学的生成》(1933年)でした。

 その《地質学的生成》では、生命体の死後について二通り考えられていました。それは、時間の経過に伴う白骨化であり、石化による永遠化です。生命体と時間について、明確に意識できるようになって、ダリの不安感は多少、和らいだのかもしれません。

 《路傍の石》の場合、やや様相が異なります。

 ダリの作品ばかりではなく、ヴェレシチャーギンの作品や山本有三の『路傍の石』を介して、ようやく、《路傍の石》を読み解くことができる難解さがあります。

 ヴェレシチャーギンの作品を通して見れば、《路傍の石》の軍用リュックは、死を覚悟して、戦場に赴かざるをえない若者の象徴といえます。そして、山本有三の『路傍の石』を通して見れば、軍用リュックは、一度しかない人生を全うできなかった若者の悲哀を表していると考えられます。

 興味深いことに、この軍用リュックは、ロシア軍の3日間突撃用のものでした。ラップトップなども入れられるようになっており、近代戦を戦える仕様になっています。

 そこで、連想されるのが、2022年2月24日に端を発したロシアのウクライナへの侵攻です。

 誰もが、早々に終結することを願っていたのに、いまだに停戦の気配は見えません。一旦、戦争が起きれば、やがて、次の戦争を生み、そして、さらなる戦争に進展するといったメカニズムを目の当たりにすることになったのです。

 その結果、多くの命が犠牲になっており、ヴェレシチャーギンの作品で描かれていたような状況が現実のものになっています。

 数多くの戦場を取材した彼は、戦争がもたらす悲哀や悲惨を直接的に表現していました。おそらく、直接的な表現の方が、人々に戦争の恐怖を覚えさせ、悲惨さを感じさせられると考えていたからでしょう。彼の作品の画面の端々から、戦争の抑止力になればという願いが見えてきます。

 《路傍の石》の場合、直接的な表現ではありませんでした。軍用リュックが戦争のシンボルとして扱われていましたが、それがわかったのは、ヴェレシチャーギンの作品を参照することができた後でした。

 軍用リュックには、深く亀裂が入っており、ありえない材質で描かれていました。ドラマティックな緊張感が漲るモチーフだったのです。

 観客にとってはこれが大いなる謎でした。半ば必然的にこのモチーフ注目せざるをえず、調べていくことによって、ようやく、ヴェレシチャーギンの作品に辿り着いていくという仕掛けでした。

■時空を超える知性と典雅な美しさ

 《路傍の石》には、モチーフの選択、その形状、構図、色調などに、観客を引き寄せ、深く考えさせる要素があったことは確かです。

 一枚のカンヴァスの中に、観客の関心を喚起する要素、知りたいという欲求をかき立てる要素、そして、作者が問題提起する事象について熟慮させる要素、などが組み込まれていたのです。

 たとえば、そのための謎がいくつか、画面に仕掛けられていました。この謎が実に巧妙で、ヴェレシチャーギンの作品やダリの作品に辿り着かなければ、とうてい、解き明かすことはできなかったほどのものでした。

 この点に私はまず、作者の豊かな知性と作品の拡張性を感じさせられました。謎ばかりではありません。《路傍の石》には、優美な画面がもたらす洗練された訴求力があり、私は圧倒されてしまいました。

 画面を覆う乳白色の色調は、繊細で優雅なタッチで表現されており、観客の意識下に大きく影響していたのではないかと思います。

 画面全体に及ぶこの色調は、微妙なグラデーションを重ね、時空を超えた世界を創り出していました。救いの光明を感じさせる箇所があれば、時に、深い悲しみを感じさせる箇所もあって、その濃淡は、この世に生まれ、やがては死んでいく人間が織りなす人生の襞のようにも見えました。

 この深淵な色調に、刹那的に切り取られた当該時間を感じさせられる一方、滔々と流れる永遠の時間を感じさせられたのです。

  関連作品を見比べてみて、改めて、この作品がいかに奥深く、知性的なものであるかがわかります。しかも、作品の中にはさり気なく、観客の思考を促す形で、作者のメッセージが込められていたのです。優美なタッチの中に、美学、哲学、人道主義などを内在させた芸術作品といえるでしょう。(2022/8/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑨民衆を捉える敬愛の眼差し

 前回、1890年から1894年にかけてリュスが描いた点描画作品をご紹介してきました。

 厳格な点描法に従って描いた作品もあれば、ドットを大きく、不揃いにして描いた点描画もありました。

 たとえば、太陽光に照らされたモチーフを描く場合、リュスは、ドットを小さく、揃えたタッチで描き、陽光の存在を際立たせていました。一方、陽光はさまざまな影を生み出しますが、影色を工夫し、均質なタッチで描くことによって、画面に陰影とリアリティをもたらしていました。

 点描画法によって、陽光の輝きとモチーフのリアリティをともに、表現していたのです。

 一方、日没、あるいは、闇夜の下でモチーフを描く場合、ドットを大きく、不揃いなタッチで描いていました。小さなドットでは表現しきれない情緒や情感といったものを、自由度の高いタッチで描出していたのです。

 おかげで、日没の微妙なトーンを表現することができていましたし、闇夜を照らす街灯、あるいは、月光といった光源そのものがもたらす幻想性を表現することもできていました。

 陽光の下での自然や人物の姿に始まり、日没時のパリの光景、闇夜の市街地や波止場の情景といった具合に、時間帯の異なる画題を取り上げ、モチーフに与える光と影の効果を探っていたといえるでしょう。

 この時期の作品を観る限り、リュスは、点描法について、光と影の両側面から、その表現効果を実験していたのではないかという気がします。

 これらの作品の中で、点描法を使いながら、陰影があり、リアリティもある画面を創り出していたのが、人物をモチーフにした作品でした。

 そこで、今回は、その後の作品の中から、市井の人々をモチーフにした作品を取り上げ、見ていくことにしたいと思います。

■市井の人々

●《La Rue Mouffetard》(ムフタール通り、1889-1890年)

 パリ左岸にあるムフタール通りは、パリ市中でもっとも賑わう通りの一つです。丘の上にあったおかげで、1853年から1870年にかけて行われたパリ大改造の際も、この通りは作り替えられることなく、昔の面影を残しているといわれています。

 リュスはこの作品を、俯瞰アングルで描いています。人々が行き交うムフタール通りの賑わいを画面に収めるためなのでしょう。確かに、この俯瞰アングルのおかげで、手前の広場での人々の動き、通りの奥に広がる人々の流れがよくわかります。

(油彩、カンヴァス、80.3×63.8㎝、1889-1890年、Musée d’Orsay所蔵)

 手前の広場では、人々が値段を交渉したり、物を買ったり、売ったりしています。話し込んでいる人がいるかと思えば、両腕に荷物を抱えている人、思案している人もいます。奥のムフタール通りでは小さな店が並び、その前を人々が商品を物色しながら、行き交っています。

 服装といい、姿勢といい、ちょっとした振る舞いといい、リュスは、集まった人々それぞれの特徴を見逃さず、仔細に描き分けています。しかも、この場の賑わいを、点描画法で描き出しているのです。

 興味深いのは、さまざまな動きをする市井の人々を、それぞれの特徴を踏まえて描きながら、画面が混乱していないことでした。何故だかわかりませんが、画面がきわめて秩序だって構成されているように見えるのです。

 一つには、色の使い方、もう一つは、建物の垂直ラインの使い方にあるのではないかという気がします。

 まず、色の使い方で印象に残ったのは、手前の広場と奥のムフタール通りの路面が白っぽい色で統一されていることでした。行き交う人々の土台に明るい白を使うことで、人々の服装を引き立てる一方、広場と通りが共通の空間であることを意識させる効果があります。

 また、広場には白いワンピースの女性に白い大きなエプロンを付けた女性、そして、ムフタール通りに入っていく所には、白いスーツを着た男性、通りの中ほどには白いエプロンの子どもや女性が、配置されています。まるで白い衣服によって観客の視線を誘導しているかのように見えます。これら、白い衣服の人物を広場や通りに適宜、配置することで、奥行き、特に縦方向の広がりを感じさせます。

 そして、もう一つは、並び立つ建物の垂直ラインが一種の罫線の役割を果たしているのではないかということです。これら建物に潜む垂直ラインが、雑多なモチーフを秩序立てて見せる効果をもたらしていたように思えました。

 建物の色彩についていえば、手前の建物は暖色系と寒色系とを並べて色構成されており、画面を引き締める役割を担っていました。

 この作品では、大勢の人々を描きながらも、混乱することなく、賑わうムフタール通りの様子が、活き活きと捉えられていました。メインカラーを何にするか、構図をどうするか、フレームとなる建物の役割をどうするか、といったようなことを考え、制作にとりかかっていたからだという気がします。

 その結果、スーラ―由来の厳格な点描法で描きながらも、生気を失うことなく、動きのある光景が捉えられていました。構図の効果であり、モチーフの配置、色構成の効果といえます。

 さらに、もう一つ、市井の人々の生活光景を捉えた作品があります。

●《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》(サンミッシェル埠頭とノートルダム、1901年)

 ノートルダム大聖堂を背景に、サンミッシェル埠頭を捉えた作品です。

(油彩、カンヴァス、73.0×60.5㎝、1901年、Musée d’Orsay所蔵)

 まず、目につくのは、背後に聳え立つノートルダム大聖堂です。辺りはすでに陽は落ち、大聖堂の建物だけが、残照を受けて輝いています。大きく、威容を誇る姿に圧倒されます。

 しかも、点描法で描かれているせいか、荘厳なゴシック様式の建築に、典雅な美しさが加わっています。暮れなずむひととき、ノートルダム大聖堂は、堂々とした美しさと力強さを見せつけていました。

 それに引き換え、サンミッシェル埠頭を行き交う人々が、なんと暗く、力なく見えることでしょうか。

 人々が描かれている辺り一帯は、すでに陽が落ち、夕刻の気配が立ち込めています。描かれているのは、おそらく、仕事を終え、用事を済ませ、家路を急ぐ人々なのでしょう。

 手前には、背負い子を背負い、俯き加減に歩く男性、子どもに手を引かれた高齢女性、中ほどには、台車を引く男性、人力車を引く男性、いずれも背中を丸め、遠目からも疲れて見えます。埠頭を歩く人々もまた、精彩がありません。

 さらに、遠方に目を向けると、ノートルダムに向かう橋には、大勢の人々が描かれています。こちらは、個を識別できないほど小さく描かれており、ただの群衆とみるしかありません。

 こうしてみると、この作品は、画面中ほどで分割される二つのモチーフで構成されているといえるでしょう。

 一方は、残照を浴びて煌めくノートルダム大聖堂であり、他方は、名もなく、力もない市井の人々です。ノートルダム大聖堂に象徴されるものが権力と富と名声だとすれば、陽光の恩恵もなく、精彩を欠きながら生きていかざるをえない民衆の象徴といえるでしょう。

 この二つのモチーフを対比して描くことによって、リュスは、当時のパリの社会構造、あるいは、社会状況を浮き彫りにしているように思えました。

 点描法はこの二つのモチーフ、どちらにも馴染んでいます。まず、ノートルダム大聖堂については、点描法のおかげで、荘厳でありながら、繊細な美しさ、品の良さを加味して表現することができていました。

 一方、市井の人々については、点描法のおかげで、均質化した民衆という側面を表現することに成功しています。人々は、小さなドットを重ねて描かれながらも、姿形が特徴を踏まえて描かれているので、彼らの生活ぶりを推察することもできます。

 均質化した小さなドットで色彩を置いていく点描法だからこそ、この二つのモチーフの特徴を活かして表現することができたといえるでしょう。

 リュスは、黄昏時の光と影の部分を見事に使い分けながら、名もなく、富みもなく、力もない民衆と、権力と富と名声の象徴とを表現していたのです。構図といい、色構成といい、素晴らしい出来栄えの作品です。

 さて、市井の人々をモチーフにした二つの作品、《La Rue Mouffetard》と《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》を見てきました。共通するのは、市井の人々に対するリュスの暖かな眼差しです。

 なぜ、そうなのかということを考える前に、もう一つ、別の作品を観ておくことにしましょう。

 《The Quai Saint-Michel and Notre-Dame》が描かれたのが1901年、その30年前の1871年、パリでは民衆が蜂起し、自治政府が作られました。いわゆるパリ・コミューンです。

 当時、リュスは18歳、ちょうど木版画職人の見習い工を終え、ゴブラン製作所で働いていた時期でした。

 多感な時期にリュスは、暴動を経験し、血なまぐさい殺戮を何度も目にしてきました。政府軍との戦いで殺された人々の記憶はしっかりと脳裡に刻み込まれていたのでしょう。リュスはパリ・コミューン時の経験を踏まえ、1903年から1904年にかけて、作品化しました。

 無残にも、路上に放置されたままの犠牲者たちの姿を描いた作品です。

■立ち上がり、路上のつゆと消えた民衆

 リュスがこの作品の制作に取り掛かったのが1903年、そして、終えたのが1905年でした。2年もかけて、この大作に挑んでいたのです。数多くの悲惨な記憶の中から、どの光景をモチーフとして選び、どう描くか、さまざまに試行錯誤を重ねたに違いありません。

 そして、リュスが選んだのが、路上に放置された犠牲者たちの姿でした。

●《A Street in Paris in May 1871》(1871年5月コミューン下のパリの街路、1903-1905)

 手前の路上に、1人の女性と3人の兵士が血を流し、倒れています。後方にも1人、兵士が倒れています。

(油彩、カンヴァス、151×225㎝、1903-1905、オルセー美術館)

 手前で放置された犠牲者たちは、建物から長く伸びた影によって覆われ、強い陽射しから守られているように見えます。一方、後方の兵士は建物の影が及ばない中、放置されています。もっとも、横向きで俯いた姿勢なので、少なくとも顔面は、強い陽射しから保護されているように見えます。

 リュスは光と影を使い、モチーフに対する思いを巧みに表現していました。

 パリ・コミューン時、リュスの心には深く、無念の思いが刻み込まれたに違いありません。だからこそ、犠牲者の尊厳を守り、弔いの気持ちを表しつつ作品化しようとしたのではないかと思います。

 そのために、彼は建物から伸びる長い影を利用しました。影が一種の覆いのように、犠牲者たちを保護するような構図を考えたのです。そして、背後の建物や歩道を淡い色でスケッチ風にまとめ、大きく広がる影の存在を際立たせるようにしていました。

 このようにして表現された影がもたらす優しさは、犠牲者たちに対するリュスの哀悼の気持ちでもあったと思います。

 このようなリュスの思いは、犠牲者たちの描き方にも、反映されていました。

 この作品では、凄惨な殺戮現場でありながら、犠牲者たちはまるで眠っているように見えます。

 彼らの顔や身体に損傷は見られません。ただ、口から血を吐き、頭や耳から血を流しているぐらいです。そのせいか、仰向けに倒れている男性も女性もその表情は、とても穏やかです。使命感で戦い、命を落としたことを誇りに思っているようにすら見えます。

 それは、おそらく、リュスが死者の尊厳を傷つけることなく、凄惨な現場を描こうとしていたからでしょう。そこに、リュスの、犠牲者に対する敬意の念が込められているように思えます。

 この作品から読み取れるのは、リュスの犠牲者に対する敬意と優しさでした。

 たとえば、同じパリ・コミューンの犠牲者を描いた作品でも、次のようなものもあります。比較のために、ちょっと見てみることにしましょう。

●《Casualties of the Paris Commune, 1871》(パリ・コミューンの犠牲者、1871年、1871年)

 この作品は1871年に制作され、作者不詳の作品です。

(紙、鉛筆、サイズ不詳、1871年、個人蔵)

 作者はおそらく、犠牲者たちの姿を見たままに描いたのでしょう。

 数多くの犠牲者たちが並べられ、その周囲には棺桶がいくつも置かれています。窓から陽光が射し込み、身体の一部を照らし出しています。犠牲者が物体として扱われ、処理されていく苛酷な現実が描かれていました。

 この作品からは、犠牲者たちへの弔いの気持ち、尊厳を守ろうとする気持ちはいささかも感じられませんでしたが、悲しいことに、これが現実なのです。

 改めて、犠牲者たちに対するリュスの優しさが好ましく思えてきます。

 同じパリ・コミューン時の犠牲者を扱いながら、リュスの作品《A Street in Paris in May 1871》と作者不詳の作品《《Casualties of the Paris Commune, 1871》》には大きな違いがありました。

 記憶と記録による違いとでもいえばいいのでしょうか。

 事件発生後30年余を経た後、リュスはこの作品の制作に着手しました。その後、2年を経て完成させています。その間、リュスの中で当時の記憶は次第に純化し、見たくないものは除外していくと、あのようなモチーフと画面構成になったのだと思われます。

 一方、製作者不詳の作品は、当時、作者が見たままの光景が作品化されています。当時の現場からの報告であり、現場写真と同様、優れた報道記録といえます。

 労働者階級の息子として、モンパルナスで生まれ育ったリュスは、彼らに深くシンパシーを感じてきました。肖像画家カロリュス・デュランの下で学びながらも、華麗なブルジョワジーの肖像画を描くことはなく、老いた小母さんの肖像画を描いたにすぎませんでした。というのも、リュスが労働者階級としてのスタンスを保持し続けたからでした。

 リュスは、労働者が働く姿を捉えた作品をいくつか残しています。二つほど、ご紹介しましょう。

■労働者

 リュスには、過酷な現場で働く労働者を描いた作品がいくつかあります。その一つに、製鉄所で働く人々をモチーフにしたものがあります。

●《L’Aciérie》(製鉄所、1899年)

 燃え盛る炎を前に、男たちが作業をしています。

(油彩、カンヴァス、92×73.3㎝、1899年、個人蔵)

 熱気は、後方で休憩している男たちのところまで、立ち込め、画面全体が炎で照り輝いています。辺り一面、どこもかしこも、火の粉が舞い散っている様子が、点描法ならではの細かいタッチで、巧みに表現されています。

 改めて、点描法は光の粒子や火の粉を表現するとき、その効力を最大限に発揮することを思い知らされました。

 この作品の場合、炉の壁面や床、男たちの衣服や帽子に、サーモンピンクが適宜、散らされています。それは、観客に火の粒子をイメージさせる一方、炉で働く男たちの苛酷な労働を象徴するものとして効いているのです。

 点描法のタッチに、サーモンピンクという色を載せて、現場に立ち込める熱気を丁寧に掬い上げ、過酷な労働現場をイメージ豊かに表現しているのです。

 ところが、過酷な労働現場のはずなのに、描かれている画面からは、その実感が伝わってきません。

 一体、何故なのでしょうか。

 改めて、画面を見てみました。

 舞い散る火の粉を浴びながら、男たちは炎に向かって気持ちを一つにし、働いています。男たちの視線はすべて炎に向けられ、その炎が焦点化されています。そこに、男たちの主体性が感じられ、観客の目を画面に引き込む力を放っていました。

 労働を苦役と捉えるのではなく、神聖な行為と捉える男たちのリリシズムを感じさせられたのです。使命感を持って、一致団結して働くことに意義を見出し、そのための労苦を厭わないという心構えが醸し出すリリシズムです。

 さきほど、ご紹介したパリ・コミューンの犠牲者といい、この製鉄所の男たちといい、リュスは、民衆や労働者をモチーフとして共感を持って描き、そこから美しさを引き出していることに気づきます。

 リュスにはこれ以外にも、労働現場を描いた作品があります。

●《Les batteurs de pieux》(杭打ち機、1902年)

 杭打ち機を集団で動かしている男たちの光景が描かれています。背後には煙が立ち上る煙突がいくつも描かれており、沿岸部の工場地帯であることがわかります。

(油彩、カンヴァス、154×196㎝、1902年、Musée d’Orsay所蔵)

 男たちは皆、帽子をかぶり、上半身は裸で、杭打ち機の紐を引っ張っています。6人の男たちが力を合わせて紐を引っ張り、杭打ち機を引き上げては落とし、穴を掘る作業をしているのです。

 過酷な労働現場であることは確かです。

 男たちの剥き出しになった腕や肩、脇腹に陽光が当たり、キラキラと輝いているように見えます。思い思いの姿勢で紐を引っ張る男たちの、隆々とした筋肉の盛り上がりが、陽射しの中で強調されています。過酷な労働を引き換えに手にした精悍な肉体です。

 画面を見ているうちに、ふと、リュスは、逞しい身体つきの男たちを賛美して描いているのではないかという気がしてきました。

 そう思ってしまうほど、描かれている男たちは明るく、生き生きとした表情を浮かべていたのです。

 彼らはおそらく、引き上げ作業の際は大きな声を掛け合い、気持ちを一つにしながら、渾身の力を振り絞っていたのでしょう。そのせいか、画面からは労働賛歌の雰囲気が濃厚に滲み出ています。

 ここでも、光と影がうまく活用されていました。もちろん、点描画法も同様です。

 点描法は、背後の工場群のくすんだ様子を描くのに活かされていました。その一方で、男たちの盛り上がった筋肉の上で光る汗粒の表現にも活かされていました。くすみの表現にも輝きの表現にも点描法が活用されていたのです。

 労働現場を描いた作品からは、リュスが労働者をいかに肯定的に捉えていたかがわかります。

■パリ・コミューンと労働者階級

 労働者階級を中心とする民衆が一時、パリを占拠し、自治政府を樹立していたことがありました。それがパリ・コミューンです。先ほどご紹介した作品、《A Street in Paris in May 1871》の背景となる政治状況でした。

 リュスの作品には、「1871年5月」という文言が入っています。これは、血の一週間といわれる時期を指しており、1871年3月18日に樹立された世界最初の社会主義政府パリ・コミューンが消滅に向かっていく期間でもありました。

 当時の様子をまとめた16分58秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。9分以降、「血の一週間」について説明されます。

こちら → https://youtu.be/4a31larqXts

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 この頃、民衆は、「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。イエスかノーかを問わず、逮捕され銃殺される」といわれる状況に置かれていました。

 そんな折、ドイツの占領軍が包囲する停戦下で、正規軍の崩壊と民衆の武装蜂起という、きわめて特殊な状況下で、パリ・コミューンは成立したのです(※ 福井憲彦編『フランス史下』、2021年3月、山川出版社、p.124-125.)

 パリ各区から選出された代議制による組織であるパリ・コミューンは、民衆の生活を守るための政策を打ち出し、推進しようとしていました。ところが、彼らには、社会政策として標榜していた政策を実現するための時間はなく、政府軍との攻防に明け暮れざるをえませんでした(※ Guillaume de Berthier de Sauvigny, 鹿島茂監訳『フランス史』2019年4月、講談社、p.472-473.)

 元来、民衆蜂起を母体とした自治政府でした。理論的にも組織的にも脆弱だったばかりか、軍事的にも大きな弱点がありました。

 政府軍が態勢を立て直してくると、コミューン側は劣勢を覆すことはできなくなり、いったんは降伏を決断します。ところが、「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」するという声に押され、死闘を繰り広げざるをえませんでした。

 この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦は、パリを奪還しようとする政府軍とコミューン側との間の熾烈な戦いでした。無差別殺人が至る所で発生し、老若男女を問わず、多くの市民が殺傷されていったのです。

 20万人といわれたコミューン側は、終には、3万人にのぼる戦死者を出し、瓦解しました。1871年5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊したのです(※ 福井憲彦、前掲、p.125.)。

 1871年3月18日から1871年5月28日までのわずか72日間、労働者階級を中心とする民衆が、パリ自治政府を樹立していました。

 彼らは、自治都市パリを基点に、全国にコミューン連合を広げていこうとしていました。そこに着目し、アナーキストたちは、パリ・コミューンをあるべき社会組織として理想視(※ 福井憲彦、前掲、p.126.)していたといいます。

 実は、思想的にリュスは、アナーキズムに共鳴しており、アナーキストが出版した刊行物に挿し絵を描いたりしていました。当時の政治状況、社会状況、文化状況を考えると、当然のことといえるかもしれません。(2022/7/31 香取淳子)

 

マクシミリアン・リュス ⑧点描画法で捉えた陽光と闇夜

 前回は、1886年から1889年にかけてリュスが描いた作品をご紹介してきました。それらは点描法で描かれた初期作品といえるものですが、いずれも光と影の表現に強く印象づけられました。

 そのような特徴は、果たして、その後の作品にも引き継がれているのでしょうか。今回は1890年以降の作品を観ていくことにしたいと思います。

 まず、《La Seine à Herblay》から見ていくことにしましょう。

■リュスが捉えた日中の光

●《La Seine à Herblay》(エルブレーのセーヌ川、1890年)

 エルブレーとは、エルブレー=シュル=セーヌ (Herblay-sur-Seine)のことで、セーヌ川右岸に位置する地域を指します。《La Seine à Herblay》はタイトル通り、その地域を流れるセーヌ川を捉えた作品です。ところが、画面を見てもわかる通り、セーヌ川の存在感は希薄で、どこに描かれているのか、すぐにはわからないほどでした。

(油彩、カンヴァス、50.3×79.3㎝、1890年、オルセー美術館)

 画面中ほど左側に描かれているのですが、面積も小さく、木々の影が川面に映し出されているので、ようやく川だと気づくぐらいです。

 画面を見て、まず目につくのは、川べりのスロープです。対角線のほぼ右半分を占めています。しかも、色とりどりの花木がなだらかな斜面を覆っており、圧巻です。まるでゾーニングされているかのように、赤褐色、橙、黄色、黄土、紫、緑、青などに色分けされた草花が整然と描かれています。

 自然の営みに人の手が加えられ、調和のある美しさが、理性的な色遣いと筆致で描出されていました。点描法で描かれているからでしょうか、秩序だった色構成の美しさが際立っています。

 実際、現地で見ると、穏やかな陽光が辺り一帯に万遍なく降り注ぎ、草花や木々を輝かせているのでしょう。ところが、俯瞰して点描法で描かれた画面に色の鮮やかさはなく、陽光の存在そのものも感じられません。全般に靄がかかっているかのように、生気がなく、静かなのです。

 さらに、画面左の中ほどに、蛇行するセーヌ川の一部が見えますが、遠方のせいか、川面の輝きはみられません。

 河畔の高みからセーヌ川を捉えた構図は、明らかに、河畔のスロープの華やぎを描こうとしたものでした。タイトルが《La Seine à Herblay》(エルブレーのセーヌ川)なのに、河畔のスロープがメインモチーフのように描かれた作品だったのです。

 ちょっと戸惑いました。リュスはなぜ、このような構図を選んだのでしょうか。

 果たして、エルブレーのセーヌ川は一般に、どのような構図で捉えられているのでしょうか。気になったので、調べてみました。すると、次のような写真を見つけることができました。

(Wikipediaより)


 滔々と流れる水量豊かなセーヌ川に、一艘の船が浮かび、男が二人、釣り糸を垂れています。河畔には木々が高くそびえ、その背後には教会があります。メリハリがあり、見栄えのする構図で、エルブレーのセーヌ川が捉えられています。まるで絵葉書のように見えます。

 エルブレーのセーヌ川にはおそらく、このような「絵になる」光景がいくつもあるのでしょう。ここなら、キラキラと輝く陽光の輝きも捉えることができるでしょう。ところが、リュスは敢えてそのような構図を採りませんでした。

 先ほど見たように、セーヌ川よりも、その河畔の花や草木で覆われたスロープに焦点を当てた構図を選んだのです。

 一体、何故なのでしょうか。

 よく知られた風景、あるいは、多くの人が美しいと思う風景ではなく、どちらかといえば、リュスは何の変哲もない風景を選んだのです。なぜ、この光景を画題として選んだのでしょうか。画面を見ていても埒が明きません。

 そこで、この時期に描かれた作品を観てみることにしました。当時、リュスが何を求めていたかがわかるかもしれません。

 探して見ると、同じ年に描かれた作品に、《Morning, Interior》があることがわかりました。人物画ですが、点描法で描かれています。この作品を見てみることにしましょう。

●《Morning, Interior》(朝の室内、1890年)

 この作品は、前回、ご紹介した《The Toilet》(1887年)と同様、朝起きて、仕事に出かける前の光景を描いたものです。

(油彩、カンヴァス、64.8×81㎝、1890年、メトロポリタン美術館)

 天窓からまばゆいばかりの陽光が射し込み、室内を照らし出しています。窓が高い位置で斜めに設えられているので、射し込む陽光は、まるで舞台を照らすライトのようです。強い光の粒子が長く伸び、男の横顔、肩や腕、布団や壺、靴を明るく浮かび上がらせています。

 太陽の光が、ありふれた日常の一コマを、ドラマティックな場面に置き換えているのです。

 壁、机、床には、赤、オレンジ、黄色、青、紫を使って点描された光線が落ち、まるで光の粒子が、目に見えるような輝きを放っています。点描法ならではの表現です。陽光との相乗効果で画面を際立たせ、何気ない日常の生活シーンを興趣ある画題として作品化させていたのです。

 ここで描かれている男性は、新印象派の画家仲間のグスタフ・ペロット(Gustave Perrot)だといわれています(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436923)。

 彼と仲の良かったリュスは、実際にこのような光景を度々、目にしたことがあるのでしょう。男の仕草や細部の表現がとてもリアルです。

 ペロットがどんな画家だったのか調べてみましたが、残念ながら、彼は早逝しており、この作品以外の情報はほとんど見つかりませんでした。

 さて、この作品で最も強く印象に残ったのは、天窓から射し込む陽光の豊かさでした。天井に近いところから射し込む光線は、男の背後の壁を斜めに大きく照らし出し、光の存在を浮き彫りにしています。

 おそらく、手前にも同じような天窓が設えられているのでしょう、右の壁に光が射し込み、床に置かれた壺の下に、くっきりとした影を作っています。また、光は手前の床を明るく照らし出す一方、男の足や粗末なベッドの影を強く床に刻んでいます。天窓から入り込む光が直進し、モチーフそれぞれの背後に影をもたらしている様子が情緒豊かに描き出されているのです。

 こうしてみると、リュスは、ありふれた日常の一コマを画題として成立させ、作品として完成させていたことがわかります。そこに、スーラやシニャックの作品には見られない着眼点のユニークさがあり、点描法の特性が十分に活かされていました。

 さらに、探して見ると、この作品の2年後、似たような画題の作品が制作されていました。

●《The Coffee》(コーヒー、1892年)

 この作品もやはり、朝のひとときが画題として取り上げられ、点描法で描かれています。おそらく夫婦なのでしょう、男女二人の朝のルーティンが画面に収められています。男性は手前でコーヒーをポットに注ぎ、女性は後方で、ドアを開けて掃除しています。

(油彩、カンヴァス、81×65.2㎝、1892年、個人蔵)

 この作品ではまず、大小さまざまな形状のモチーフが数多く、描かれているのに驚かされます。二人の朝のルーティンを表現するには、これだけのモチーフが不可欠なのでしょうが、モチーフが多ければ、画面は乱雑になりがちです。

 ところが、画面を見てもわかるように、モチーフはそれぞれ、あるべき場所に整然と収まり、生活を支える用品として、画面にリアリティを添えています。おかげで、画面からは、コーヒーの香りが漂い、開け放たれたドアから清々しい風と陽光が入り込んできているのが感じられます。

 二人にとっては、いつもと同じ一日の始まりであり、何気ない幸せをかみしめられるひとときなのでしょう。

■構図と陽光がもたらすリアリズム

 何故、多数のモチーフを扱いながら、この作品は整然とした印象を与えることができているのでしょうか。ちょっと考えてみました。

 まず気づくのは、一連のモチーフが遠近法に則って、正確に配置されていることでした。まるで設計図を引いて、計算しながら、モチーフを配置したかのように、工学的な正確さが見られます。大小さまざまな生活用品が、観客の視認性に配慮しながら、適所に配置されていたのです。

 たとえば、近景にポットにコーヒーを注ぐ男を配し、中景にちょっとした空間を置き、遠景に立って掃除する女性を配しています。近いものは大きく、遠いものは小さく描き、距離とモチーフの大きさのバランスも的確でした。

 次に気づいたのが、モチーフの整然とした配置に直線が効果的に用いられていたことでした。まず、入口で立って掃除する女性は、ドアのサッシと柱の間に収められ、安定感があります。

 このような女性を囲む縦線は、後方の壁に掛けられた2枚の絵の縦線と呼応し、リズミカルに秩序付けられています。

(前掲作品の一部)

 画面の中ほどを見ると、ドアの隣にある暖炉の先端は、身をかがめた男性の頭とほぼ同じ高さに設定されています。この暖炉の縦線には、男性の位置を安定させ、背後の女性とのバランスを保つ効果がみられます。

 こうしてみてくると、これらの縦線はそれぞれ、罫線の役割を果たしているように見えます。つまり、罫線の中に収められることによって、さまざまな形のモチーフが混乱することなく、秩序づけて配置されているという印象が与えられているのです。

 さらに、気づいたのが、近景モチーフと遠景モチーフとの関連性が、画面に動きを与え、安定感をもたらせていることでした。

 改めて、作品全体を見ると、遠景の女性が箒を持つ手と近景の男性のポットを支える左手が平行になっていることに気づきます。このように配置することによって、画面に動きを与え、男女それぞれの朝のルーティンが連動していることが示されています。

 さらに、男性はポットにコーヒーを注いでいますが、前かがみの姿勢がやや不安定です。ところが、よく見ると、その傾きは、後方の壁に掛けられた2枚の絵をつないだ線と平行になっています。メインモチーフの不安定な身体の傾きを、背後の絵の配置の傾きと連動させることによって、画面に安定感をもたらせているのです。

 こうしてみてくると、数多くのモチーフを扱った作品でありながら、観客が混乱することなく鑑賞できるのは、縦線、横線、斜線を利用してモチーフを配置したからにほかならないことがわかります。

 さて、この作品では、女性が掃除しているドアから、朝の陽光が捉えられています。射し込む光の粒子が、女性の髪、横顔、洋服の肩、腕、スカート、箒、床を優しく照らし出しています。ささやかな朝の幸せが、ありふれたものの中に、巧みに表現されているのです。

 手前にも大きな窓があるのでしょうか、男性、ポット、コンロなどの手前が明るく描かれ、正面から光が当たっているように見えます。

(前掲作品の一部。)

 青系統の色とその補色であるオレンジ、そして、白を組み合わせて、光の当たっているところ、影になっているところを丁寧に描き分けて、シャツの皺、ソースパンを持つ右腕の筋などの細部にリアリティを生み出しています。

 興味深いのは、暖炉からドアまでの中景に、幅広の影が設定されていることでした。この影部分が設定されることによって、一つの画面の中に、光が生み出す二つの世界が描き出されていたのです。すなわち、正面から射す光が生み出す世界と、背後で横から射し込む光が照らし出す世界です。

 この幅広の影部分は、近景と光景をつなぐ機能を果たすだけではなく、正面から光が照射する近景と、横から射し込む遠景の違いを明らかにしていました。射し込む光量の多寡が、光が当たる明るい部分と影になる暗い部分とにコントラストを生み、微妙な奥行と陰影が加えられていたのです。

 さて、人物をモチーフにした点描画作品2点を観てきました。いずれもありふれた日常生活の一コマが画題として取り上げられ、点描法によって制作されていました。共通するのは、再現性のある画題でした。日々、繰り返し行われる日常の生活シーンが、点描法によって、光の粒子による劇的効果が加えられ、作品化されていたのです。

 こうしてみてくると、《La Seine à Herblay》(1890年)がなぜ、セーヌ川そのものではなく、河畔のスロープをメインモチーフにし、俯瞰の構図で描いたのかがわかるような気がしてきます。

 おそらく、細かな動きを捉える必要がないからでしょう。日中、きらきら輝く水面など、刻一刻と変化するものは点描法では捉えがたく、小さなドットでは表現しづらかったからではないかと思うのです。それが証拠に、《La Seine à Herblay》で描かれたセーヌ川は、水面の煌めきなど認識できないような遠景で描かれていました。

 一方、この時期、リュスは夜の闇に挑み、セーヌ川を画題とした作品をいくつか、制作していました。

■リュスが捉えた夜の闇

 点描法に則りながら、色彩の効果を追求した作品があります。1890年に制作された《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(ルーヴルとカルーゼル橋、夜の効果)という作品です。まずはこの作品から見ていくことにしましょう。

●《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(ルーヴルとカルーゼル橋、夜の効果、1890年)

 セーヌ川には数多くの橋が架かっていますが、その中の一つに、カルーゼル橋があります。ルーヴル美術館に向かう全長168mのアーチ橋で、1832年から1834年にかけて建設されました。除幕式の際にルイ・フィリップⅠ世によってカルーゼル橋と命名されたそうです(※ Wikipedia)。

 当時、吊り橋が主流だったにもかかわらず、この橋にはアーチ式が採用されました。その優美な形状に創作欲を刺激され、多くの画家がこの橋を描いていたといいます。リュスもまた、この橋を取り上げ、夜の光景を描きました。

(油彩、カンヴァス、63.5×81.3㎝、1890年、Collection Walter F. Brown, U.S.A.)

 カルーゼル橋のアーチ型のシルエットは、確かに美しく、夜のセーヌ川を詩情豊かな光景に変える一つの要素になっています。また、橋桁のライトは川面に映って長く伸び、橋とセーヌ川が一体となって見えます。橋上のライトが、橋と川をつなぎ、優美な夜景を創り出しているのです。

 夜景だからこそ、ライトの効果が際立っているのでしょう。

 画面左側に客船が一艘、描かれています。その客船の窓からもライトが洩れて、川面を照らし、ゆっくりと進む小さな船の航行を引き立てています。闇の中で点された灯りが揺らぎ、妖しく輝いて見えます。それが川面に反映すると、光と闇に小刻みに動く波動の相乗効果で、幻想的な美しさがいっそう際立って見えます。

 リュスはそれら一切合切を点描法で描きました。

 川は緑系をベースに黄色、オレンジ、紫を配し、上空の色もそれに呼応し、グラデーションで色幅を広げています。橋の上や陸に近いところの空は、淡い紫系をベースに点描で描かれ、橋や建物や手前の道路の黒緑色に対応しています。セーヌ川を挟む両岸には、青系の中に赤やオレンジを散らし、幻想的な空間に仕上げていました。

 この幻想的な夜景を表現するのに、点描法が巧みに使われていたのです。点描法で描かれたこそ、描出することができた独特のトーンが、観客を易々と異次元の世界へ誘導してくれました。リュスはこの作品でようやく、点描法にふさわしい画題に到達し、その作品化に成功したような気がします。

 地平線の周辺は薄紫、橋げたや手前の川べり、岸壁の洗濯船は濃い紫が使われ、川面と空の低いところは黄緑色といった具合に、夜景を表現するのに、寒色、暖色を問わず、さまざまな色を採用し、闇の中から明るさを引きだしていました。

 一方、橋の欄干で点灯する光はオレンジがかった黄色が取り入れられ、川面で揺らめく光は長く棒状に伸び、黄色オレンジ、白で点描されています。

 この夜景は暗色だけではなく、多様な色で表現されていました。とくに目を引くのが、橋や客船から洩れる光が川面に反射し、さまざまな形状を創り出していたことでした。そして、それら一切が点描された結果、色や形が主張する個性が、画面に独特のハーモニーを生み出し、夜景の豊かさを描出することができていたのです。

 リュスはこの作品のタイトルに、「夜の効果」という言葉を添えています。夜間だからこそ、際立つライトの効果を意識し、点描法との相乗効果を企図したのでしょう。画面から発散される幻想的な美しさに惹かれます。

 カルーゼル橋は実際、どのような橋だったのでしょうか。気になって、ネットを検索してみると、1900年頃の旧橋を撮影した写真が見つかりました。

(Wikipediaより)

 右端には客船が見え、背後にルーヴル美術館が見えます。想像していたよりもはるかにしっかりとした造りのアーチ橋です。この写真が撮影された10年前の夜、リュスはこの橋を描いていたのだと思うと、感慨深いです。1890年もおそらく、このような光景だったのでしょう。

 写真と見比べてみて、改めて、リュスの感性がいかに繊細で、色彩に敏感だったかがわかります。ともすれば、暗色で捉えがちな夜空の中に、さまざまな色彩が潜んでいることを見出しているのです。そればかりか、橋や客船から放射されるライトの光が川に落ちると、さまざまな形に転じることにも着目しています。

 リュスは、闇の中にさまざまな色彩を読み取り、明るさを見出しました。そして、終には、闇の中に影さえも見つけ、その豊かさを表現しています。夜間でなければ存在しえない美をこの作品は表現していたのです。

 もっと他に作品があるはずだと思い、探して見ると、夜のセーヌ川を捉えた作品がありました。《セーヌ川夜の眺め》です。リュスが夜の景色をどう表現したのか、見てみることにしましょう。

●《Paris , vue d’ la seine , Nuit》(セーヌ川夜の眺め、1893年)

 夕暮れのセーヌ川を、パリ市街の高みから描いた作品です。すでに陽は落ち、遠景で広がる残照が、川面を照らし、風情ある光景を生み出しています。日中ともいえず、夜ともいえない微妙な時間帯のセーヌ川とパリ市街が、光と影で包み込むように、情緒豊かに描き出されていました。

(油彩、カンヴァス、38×55㎝、1893年、フランス、ランビネ美術館)

 夜景とはいえ、先ほどの作品とは明らかに、色遣いとタッチが異なります。

 遠景で広がる夕暮れの空、その残照を受けて輝くセーヌ川が、手前から画面中ほどまで蛇行しています。太陽が沈む前に、最後の輝きを見せている様子が、川と空の中に捉えられています。

 この作品でまず、目を引かれるのは、川と空に反映された、この残照でしょう。

 川面の黄色とオレンジの輝きが、画面中ほどに見える橋の微かな灯りまで続いています。そして、遠景のパリ市街の上に広がる空が、橙、黄色、薄黄色、グレー、薄青で生み出されたグラデーションで描かれています。

 一方、セーヌ川を取り囲むようにして続く、夕刻のパリ市街が黒褐色をメインにして描かれ、残照の素晴らしさを際立たせています。明色と暗色の絶妙なコントラストの下、セーヌ川とパリ市街と人々が、一体となって創り出された黄昏時のセーヌ川がなんとも言えず、印象的です。

 さて、手前を見ると、道路沿いに多くの人々が歩いています。夕刻なので、仕事を終え、家路に向かっているのでしょう。人影をなぞっただけの黒いシルエットが、画面右側の大木の幹や枝と呼応し、黄金色に輝く川面を引き立たせています。

(前掲作品の一部。)

 この角度から見ると、セーヌの川面がことさらに輝いて見えます。

 川を照らし出す光にオレンジが含まれ、その周辺を覆う影にも適宜、オレンジが散らされています。光の中にも、影の中にも、この暮色が絶妙なバランスで取り入れられているように見えました。見ているうちに、どういうわけか、感傷的な気分になってしまいます。人々と街を包み込むセーヌ川の夜景の素晴らしさに、感動すら覚えます。

 蛇行するセーヌ川を見上げると、橋がいくつも架かっています。遠方の橋には灯りが点り、やや大きく不揃いなタッチでランダムに描かれています。そのせいか、橋の上で灯りが点滅しているように見えます。それがセーヌ川の夜景に妙味を添え、パリの華やかさをしのばせています。

 街並みは明るいグレーで描かれ、その背後に見える空は、赤味がかったピンク色です。

 パリの街とそこで生きる人々をゆっくりと繋いでいくように、セーヌ川は蛇行しています。暮れなずむ空の下、人々と橋、背後の街並みが、街情緒豊かに描き出されています。一見、点描画のように見えますが、実は、そのドットは荒く、不揃いなタッチで色が置かれていることに気づきます。

 空の描き方を見ると、それがよくわかります。

(前掲作品の一部。)

 地上近くは赤味がかったピンク色で描かれ、そこから徐々に、褐色を含み黄色をベースとした色調になり、やがて、グレーを含んだ青系の色調に転じていきます。陽が沈むとともに少しずつ変化していく空の色調に従って、それぞれの色が大きく、不揃いなタッチで描かれているのです。

 点描画というよりは、印象派の作品といった方がふさわしい描き方です。

 大木の背後に大きく広がる残照が、印象派的なタッチで描かれていました。だからこそ、夕刻の微妙でアンビバレントな一種独特の情感を、画面に添えることが出来たのだという気がします。

 スーラのように厳格な点描法で描かれていなかったからこそ、画面から、黄昏時の温かさと寂寥感が感じられたともいえます。

 さらに、リュスの作品を見ていくと、同時期に描かれた作品で、夜の光景を描いた作品が他にもありました。《Rue Ravignan, Paris》です。ちょっと見てみることにしましょう。

●《Rue Ravignan, Paris》(パリ、ラヴィグナン通り、1893年)

 タイトルの《Rue Ravignan, Paris》(パリ、ラヴィグナン通り)は、パリ18区にあります。この地区はモンマルトルで最も古い丘の一つだそうですから、おそらく、坂道が多いのでしょう。

 この作品でまず、目につくのは街灯ですが、次に気づくのが、坂道をとぼとぼと歩く男性の姿です。

(油彩、カンヴァス、74.3×54.8㎝、1893年、Museum of Fine Arts, Houston)

 夜も更けて、人々は眠りにつき、街は静まり返っています。人家からの灯りは消え、街灯だけが暗闇を照らし出しています。その鈍い光を受けて、放射線状に明るくなった一角に、男性の姿が映し出されているのです。

 まるで映画の一シーンのようなドラマティックな構図です。もう少し、近づいて見ましょう。

(前掲作品の一部。)

 勾配が急な坂道なのでしょう、男性はやや前かがみになって歩いています。そのせいか、どちらかといえば、疲れているように見えます。

 街灯から光が伸びて、男性の左側をぼんやりと照らし、右側の壁にその影を落としています。道の行く手は暗く、男性とその影以外に、人っ子一人いない街角の寂寞感が漂っています。

 街灯の光源は黄色と白で明るさを強調し、道路や壁など、街灯に照らし出された明るい部分は、青とサーモンピンクのドットで表現されています。光源から遠ざかったところの建物は、濃い青を多く使いながらも、サーモンピンクを適宜、取り入れ、闇の中にも明るさがあることに気づかせてくれます。

 光と闇を描く色遣いに何とも言えない妙味があって、惹きつけられます。

 夜空も同様です。

(前掲作品の一部。)

 黒く表現された建物の背後に広がる空は、闇夜であるにもかかわらず、地上に近いところは淡い青、黄色、ピンクなどが使われています。闇の中にも明るさがあることがしっかりと表現されているのです。

 この作品は一見して点描画ですが、よく見ると、そのドットは荒く大きく、大きさも均等ではありません。ドットというよりタッチと言った方がふさわしい描き方です。

 混色はせず、カンヴァスの上で色を併置するという手法で描かれていますが、ドットが不揃いで、大きいせいか、スーラやシニャックの作品のような無機的な印象はありません。点描画法で描かれながら、印象派風の情緒が感じられます。

 そういえば、《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》も、《Paris , vue d’ la seine , Nuit》も、厳格な点描法ではありませんでした。

 もう少し、夜景を描いた作品を観てみることにしましょう。

 ほぼ同じ時期に描かれた作品に、夜の光景を捉えたものがあります。《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》です。

 見てみることにしましょう。

●《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(カマレの月明かりと漁船、1894年)

 《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(カマレの月明かりと漁船)は、フランスの最西端にあるブルターニュのカマレの漁港を描いた作品です。闇夜に浮かぶ三日月と漁港に停泊する漁船をモチーフに、色数を絞って抒情的に、そして、幻想的に描かれています。

(油彩、カンヴァス、72.4×92.1㎝、1894年、Saint Lois Art Museum)

 遥か彼方に入江が見え、そこから手前に向けて、波間に漂う漁船が多数、描かれています。三日月から放たれる光がぼんやりと漁船を照らし出し、なんともいえない寂寥感と幻想的な雰囲気が漂っています。

 この作品でまず目につくのが、空に浮かぶ月から手前に向けて洩れてくる縦方向の光の帯です。光と闇がもたらす明暗の構造がシンプルで、それだけに訴求効果のきわめて高い部分です。

(前掲作品の一部。)

 画面の上方、左よりに、下弦の月が夜空にぽっかりと浮かんでいます。月の周囲にはほとんど気づかないほど淡い光の環が出来ており、闇夜にほのかな明かりをもたらしています。

 朧げな光は、夜空を水平に明るくする一方で、海に落ちてさざ波の立つ海面を照らし、手前に向けて、優しい光の帯を創り出しています。

 下弦の月の優しい光、その周囲に広がる微かな光の環、そして、海面と交じり合って輝く光の帯、いずれもその光源は月です。闇夜を照らし出す月の光が創り出す多様な様相が、群青系の色のバリエーションに薄黄色のバリエーションを交え、コントラストを生みながら、巧みに表現されていました。

 この作品の特徴の一つは、群青系の濃淡と白と黄色の濃淡に色数を絞って、表現されていることでした。使える色が制限されることによって、逆に、訴求力の高い画面になっていました。少ない色数だからこそ、月光と闇夜が創り出す幻想的な世界が描出されていたのです。

 そして、もう一つの特徴は、モチーフの形状がもたらす興趣です。月であれ、入江であれ、漁船であれ、どのモチーフもシンプルな図形に還元することができ、装飾的な訴求力の強さがありました。

 例えば、三日月、入江に浮かぶ島(台形)、手前に並ぶ多数の漁船(台形)と帆柱(直線)といった具合に、大小さまざまな図形が、月以外はシルエットのように配置されており、まるで幾何学模様のようでした。

 とりわけ印象深いのは多数の漁船の配置です。それらのシルエットは群青色の紫を添えて濃淡で表現され、月明かりの下で情緒豊かに描かれています。色数を絞ったことでシルエットが強調され、一種独特の寂寥感が生み出されているのです。

 広い夜空にぽっかりと浮かぶ三日月はいかにも弱々しく見えます。ところが、月が放つ光には広範囲に海面を照らし出す力強さがあって、互い違いに配置された無数の漁船のシルエットは、まるでその月明かりの力強さに拮抗しているかのようでした。

 ご紹介してきたように、リュスは夜景を何点か制作していますが、必ずしも厳格な点描法を採っていませんでした。いずれも、ドットはやや大きく、不揃いのドットを使い、観客の情緒を刺激する方向に画法を転換していました。

 この点描画作品もまた、そうすることによって、光と闇がもたらす美しさを捉えていました。

■リュスがこだわった光の暴力的な効果

 今回は、1890年から1894年までの作品を取り上げてみました。点描画法で描かれたこれらの作品を観ると、リュスは当時、光について模索し、画題を選んでいたのではないかという気がします。

 たとえば、最初に取り上げた《La Seine à Herblay》(1890年)は、セーヌ川ではなく、河畔の草木に画面の大半を割いています。メインに描かれていたのは、万遍なく陽光を浴びる草木の花や葉の豊かな表情でした。

 次にご紹介した《Morning, Interior》(1890)は、天窓から射し込む陽光に注目して制作されていました。ありふれた日常の生活シーンが、陽光を浴びることで一挙に、ドラマティックな様相を帯びていたのに驚きました。光の暴力的な効果といっていいでしょう。

 さらに、ドアから射し込む陽光に着目して制作されたのが、《The Coffee》(1892)です。朝の陽ざしを浴びて始まる夫婦の一日が、端的に捉えられています。陽光が室内に射し込み、夫婦の朝のルーティンを支え、気持ちを安定させていることが感じられました。

 太陽光の次に、リュスが注目したのが、闇です。

 《Le Louvre et le Pont du Carrousel, effet de nuit》(1890)には、タイトルに“effet de nuit”(夜の効果)という文言が入っています。リュスがこの作品を通して、闇や影のもつ豊かさを表現しようとしていたことがわかります。

 ここでは、夜景でありながら、橋に点る灯り、あるいは、客船から洩れる灯りが、川面に映り、幻想的な景観が生み出されていました。闇にも明るさがあり、色彩が潜んでいることに気づかされます。

 やはり、セーヌ川の夜景を取り上げ、作品化されたのが、《Paris , vue d’ la seine , Nuit》(1893年)です。この作品には、日が暮れ、夜に向かおうとする微妙な時間帯の光景が捉えられています。陽光が陰り、やがて、闇に沈み込む移行期のセーヌ川とパリが、情感豊かに描かれているのです。この作品からは、残照がもたらす多様な情緒に気づかされます。

 さらに、完全に闇になった時間帯のパリ・モンマルトルを描いた作品、《Rue Ravignan, Paris》(1893年)があります。

 この作品では、街灯がもたらす明かりを中心に据え、描かれています。そのせいか、街灯で照らし出される範囲が放射状に限定されていることに、改めて、気づかされます。万遍なく闇夜を照らす月明かりとは明らかに違うのです。その限定された照射範囲に、前かがみになって歩く男と、背後の壁に落ちた男の影が捉えられており、一種独特の寂寥感が感じられました。

 そして、月明かりに着目した作品が、《Camaret, Moonlight and Fishing Boats》(1894年)です。

 こちらは、月のほのかな明かりが、闇夜の空と海に静かな落ち着きを与えています。停泊している数多くの漁船はそれぞれ、幾何学的な形状で描かれ、装飾的で、幻想的な世界が描出されていました。

 このように、今回、ご紹介した作品からは、リュスの光に対するこだわりが見えてきました。

 たとえば、太陽光を描く場合は点描法が採用されていましたが、陽が沈み、夜景や闇夜を画題に描く場合は、点描法というよりは、タッチを活かした描法に転じているのです。

 スーラの冷静で理性的な点描様式とは対照的に、ドットを大きく、不揃いにし、情熱的なタッチの描き方をしています。観客の情感を喚起するためなのでしょうか。おかげで、光の多様な様相を表現することができていましたし、画面に対する感情移入を誘うこともできていました。

 リュスの作品タイトル、「夜の効果」にもじっていえば、「光の暴力的な効果」といえるような効果があったと思います。

 この時期、リュスは厳格な点描法で描いている作品もあれば、そうでもない作品もありました。習得したからと言って、どの作品にも無条件に、点描法を採用していたわけではなかったのです。先ほどもご説明したように、モチーフに内在する恒常性の度合いによって、点描法を使い分けていた可能性が考えられます。(2022/6/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑦リュス、点描画法に挑む

■ピサロに続いた、ラニー派の若い画家たち

 カミーユ・ピサロは1885年頃、息子のリュシアン・ピサロと同世代の若い画家たちが結成したグループ、ラニー派に参加しました。50代半ばでの冒険でした。そこで出会ったシニャックの紹介でスーラに会い、直接、点描画法の説明を聞いて、ピサロは確信しました。これこそ、自分が求めていたものだと思ったのです。

 それは、印象派の筆触分割画法に光学理論を取り入れ、科学的な法則性を徹底させた画法でした。モチーフはもちろんのこと、画面全体を、光学理論に照らし合わせた色彩の粒子で捉え直して描く画法です。理論通りに描くには、なによりも、根気強さと緻密さが必要でした。

 果敢にも、ピサロは挑戦しました。すでに印象派の画家として認知されていたにもかかわらず、この困難な作業に取り組んだのです。

 当初、もっとも積極的に点描画法で制作していたのはピサロでした。

 スーラの点描理論に心酔していたシニャックでさえ、まだ積極的に点描画法を取り入れていませんでした。というのも、点描画法では、理論に忠実でなければ、作品を完成させることはできず、理論通りに描こうとすれば、膨大な時間がかかったからです。点描法で描くには、根気強さと、緻密に仕上げていく計画性が必要でした。

 それを50代半ばのピサロが率先して、実践していったのです。周辺にいた若い画家たちが影響されないはずがありませんでした。

 まず、シニャックが、ピサロの熱意に刺激され、この画法で作品を制作しはじめました。その後、ラニー派の若い画家たちが次々と、まるでピサロに背中を押されるようにして、点描画法を取り入れ始めました。

 リュスもそのうちの一人でした。

 果たして、彼は点描でどのような作品を描いていたのでしょうか。調べてみると、点描法によるリュスの初期作品と思われるものが見つかりました。パリの街角を描いた作品で、タイトルは、《パリの通り》です。

■《パリの通り》(Calle de París, 1886-1888)

 1886年に描き始め、1888年に完成させたのが、《Calle de París》(パリの通り)です。

(油彩、カンヴァス、32.7×40.7㎝、1886-1888年、スペイン国立ティッセン=ボルネミッサ美術館)

 この作品は、描き始めてから完成させるまでに2年もかかっています。それなのに、どう贔屓目に見ても、スーラの理論通りに描かれているとはいえません。相当、難航して仕上げたのでしょう。

 それにしてもこの作品を制作するのに、2年もかかったとは・・・。驚いてしまいます。

 この制作時間の長さは、点描法の難しさを示すものであり、また、リュスが戸惑い、迷い、試行錯誤しながら、作品を完成させた過程でもあります。

 ひょっとしたら、リュスは、点描画法をまだ完全に理解しないまま、描き始めていたのでしょうか。

 点描画法について彼は、私立の美術学校アカデミー・シェイスで学んでいた頃、レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)から、聞いたことがありました。当時、スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)が考案した点描画法は、若い画家たちの間でウワサになっていました。彼らの関心をかきたてずにはおかない、最新の理論を踏まえた科学的な画法だったのです。

 もちろん、リュスはスーラから直接、聞いたわけではなく、あくまでも間接的に、スーラの理論をゴーソンから聞いていたにすぎません。ただ、光学理論、色彩理論を踏まえ、筆触分割法をさらに精緻化させたこの画法は、科学の時代といわれた19世紀半ばの若い画家たちの気持ちを捉えました。

 若い画家たちは当時、百花繚乱の印象派の画家たちの中には入っていけず、自分の立ち位置を求め、新しい画法に敏感になっていました。

 産業革命を経て、時代は大きく変化し、科学への志向性が高まっていました。リュスをはじめ、若い画家たちが、法則性、規則性を重視した点描画法に興味を抱き、惹かれていったのは自然の成り行きでした。

 リュスは半ば当然のことのように、点描画の世界に入っていきました。28歳の時でした。画家としてまだ認知されておらず、確固たる信念もあったわけではありません。ただ、彼は、カミーユ・ピサロが積極的に点描画法を推奨し、制作するのを間近で見ていました。点描画法とはどういうものか、見聞きする機会があったのです。

 もっとも、それだけでは難解なスーラの理論を理解し、その画法を習得することはできません。

 案の定、《パリの通り》を見る限り、画面から、光学理論に基づいた科学性、法則性といった要素を見ることはできませんでした。どうやら、この時点ではまだ、リュスがスーラの掲げる理論を十分に理解し、その本質を会得していたとはいえないように思います。

 この作品は一見、点描画法で描かれているように見えます。ところが、よく見ると、点描画法が適用されているのは空と道路に落ちた影ぐらいでした。

 画面全体が点描画法で描かれているのではなく、一部に取り入れられているという程度なのです。しかも、空にしても、道路に落ちたビルの影にしても、タッチが不揃いで、ことさらに大きいのが目につきます。

 そのせいか、この作品で用いられた画法は、点描画法ではなく、むしろ、印象派の筆触分割法のように思えます。

 興味深いのは、空と道路に落ちたビルの影とが、補色関係にある青系統と黄系統の色を呼応させて描かれていることです。その配色には絶妙なコントラストとバランスがあり、洗練されたパリの街角らしさを印象づけていました。

 とくに、青系統の色が作品の印象に大きく影響しています。

 たとえば、画面右側のビルの壁面に落ちた影、左側のビルの中ほど壁面にまで落ちた影には、適宜、セルリアンブルーが取り入れられています。このブルーは、道路いっぱいに伸びた影、道路を挟む二つのビルの壁面の一部、さらには、空の一部にも使われており、画面に統一感と洗練された落ち着きをもたらしています。

 通りには、行き交う多数の人々が、ごく小さく描かれていました。中には、道路に落ちたビルの影を表すドットよりも小さく描かれたものもあります。形状はそれぞれ、不揃いでアンバランスなのですが、そのアンバランスな組み合わせの中に、雑踏の雰囲気がよく出ていました。

 この《パリの通り》を見る限り、リュスはまだ、自身の画法へのこだわりから抜け出ることができなかったように見えます。点描画法を全面的に受け入れてしまうことへの躊躇いのようなもの、あるいは、画法を変えることへの創造者の内なる抵抗とでもいっていいようなものが、この作品の画面から滲み出ているように思えました。

 さて、リュスは、2年もかけて《パリの通り》を仕上げました。その一方で、制作途中の1887年に、スーラの理論と画法に則った作品を数点、仕上げています。1887年に完成されたそれらの作品は、第3回アンデパンダン展に出品されています。

 《モンマルトルからのパリの眺め》(View of Paris from Montmartre)は、1887年に点描法で制作された数点のうちの一つです。

 それでは、この作品を見ていくことにしましょう。

■《モンマルトルからのパリの眺め》(View of Paris from Montmartre, 1887)

 これは、一見して、点描法で描かれたとわかる作品です。

(油彩、カンヴァス、54×64㎝、1887年、スイス プチ・パレ美術館)

 左手前の建物の屋根、外壁、窓、いずれを見ても、綿密に計算された色を組み合わせ、細かいタッチの点描法で描かれています。建物から右側に広がる林もまた、濃い緑、浅い緑、褐色、黄色、さまざまな色で点描されています。

 この作品は《パリの通り》とは違って、精緻に画面構成され、細かいタッチで点描されています。画面全体が色粒子の組み合わせだけで構成されているように見えます。まさに、点描画法で描かれた作品です。

 画面には、静かで落ち着いた雰囲気が漂っています。生気は失われておらず、木々の葉が風にざわめく様子すら感じられます。

 背後にパリの街並みが広がっており、静けさの中にやや憂いを含んだ詩情が感じられます。青系統の色を中心に、適宜、配されたオレンジ色が、大小の建物になんともいえない興趣を添えています。それが差し色となって、かすかなコントラストを生み、統一感のある色調の下、歴史を刻んだ大都会の風格を画面に滲ませていました。

 遥かかなたには丘が広がり、どんよりとした雲がその上の空を幾重にも覆っています。大きく広がる空は、やはり青系統を基調色とし、所々に補色であるオレンジを配して構成されています。

 このような配色によって、空とパリの街並みとを呼応させて一体化し、大都会ならではの憂いを含んだ様相を情感豊かに描き出しているのです。近景、中景、遠景の色と形状のバランスが見事です。

 この作品を見ているうちに、私はふと、リュスはこの時期、点描法を使って、自身の作品世界を作り直しつつあったのではないかという気がしてきました。というのも、《モンマルトルからのパリの眺め》には、点描法で描かれていながら、動きがあり、生命の躍動を感じさせる要素がみられるからでした。

 この作品が制作されたのは1887年です。1886年に描き始めた《パリの通り》がまだ完成しないうちに、リュスは新たな画題に取り組み、点描法で仕上げていたことになります。

 1886年から1888年にかけての期間、リュスは《パリの通り》に取り組んでいました。ところが、その制作途中の1887年に、《モンマルトルからのパリの眺め》点を仕上げていたのです。これには驚きました。

 《モンマルトルからのパリの眺め》は、《パリの通り》に比べ、はるかに完成度の高い点描法で描かれていました。つまり、リュスはわずか1年ほどのうちに、スーラの理論と画法を自家薬籠中のものにしていたのです。

 しかも、スーラの提唱した点描法をそのまま踏襲するのではなく、自分らしさを表現できるよう、構図や配色、モチーフの配置などを考え、画面を構成していました。点描法で描かれた作品の中に、リュスならではの独自性を加えていたのです。

 この期間、画家としてのリュスにどのような変化が見られるのでしょうか。

 《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を比較しながら、リュスの変化を探ってみることにしましょう。

■《モンマルトルからのパリの眺め》vs《パリの通り》

 それでは、点描画法に挑戦したリュスの二つの作品を見比べてみましょう。

 先ほど見たように、《モンマルトルからのパリの眺め》は、スーラの色彩理論を踏まえ、点描法を駆使して描かれていました。一方、《パリの通り》は、点描法というよりはむしろ、筆触分割法で描かれているように思えました。

 後に、新印象派の画家といわれるリュスですが、《パリの通り》に関しては、印象派の作品のように見えます。

 何によって、そのような印象の違いが生み出されたのでしょうか。

 画題からいえば、両作品とも俯瞰してパリの街を捉えている点に変わりはありません。一方はモンマルトルの丘から、もう一方は高いビルの窓から捉えた光景です。中景・遠景なのか、それとも、近景・中景なのかという違いはあっても、パリの街が捉えられていることに変わりはないのです。

 ところが、両者の印象は大きく異なります。《モンマルトルからのパリの眺め》には、写真のように機械的な正確さで対象を捉えた作品という印象があります。一方、《パリの通り》は、画家のフィルターを通し、画家の感性を総動員して対象を捉え、情感に従って描かれた作品という印象なのです。

 両作品とも、ドットを単位に画面が構成されている点で、共通しています。大きく異なるのは、ドットの大きさと、その均質性です。

 《モンマルトルからのパリの眺め》は、機械的な正確さで、パリの街が表現されているという印象がありました。それは、さまざまな色の小さくて均質のドットを単位とし、モチーフの形状に合わせ、色彩理論に基づいて配置され、画面が構成されているからでしょう。いってみれば、色の粒子を単位に作品が構築されているのです。

 左手前の建物の屋根、壁面、窓枠などを見て、わかるように、ドットに載せられた色は実に多種多様です。だからこそ、モチーフの陰影、明暗、遠近を表現することができているのですが、ちょっと引いて画面全体を見ると、その色調はスモーク調で、くすんで見えます。

 一方、《パリの通り》は、点描というより、不揃いで大きなドットが、空や路上にランダムに置かれているという特徴があります。ドットが不揃いで大きいせいか、ここでは、色彩の多様性より、セルリアンブルーとイエローオーカーの濃淡を組み込んだ色構成が強く印象づけられます。

 しかも、画面すべてがドットで構成されているわけではありません。建物の壁面に射す陽光、路上に落ちる影、その背後に広がる空の明るさのグラデーションなどを表現するのに、不揃いで大きなドットが使われているだけです。

 私がこの作品を見て、まず、印象派の雰囲気を感じましたが、それは、不揃いで大きなドットで表現された光と影が、雑然とした画面の中に動きを生み出し、生気を与えていたからでした。

 その一方で、補色関係にある2種類の色を基本色に、コントラストとバランスを拮抗させて、画面構成されていたところに、新印象派の雰囲気を感じさせられました。

 一つの作品に、印象派の要素を新印象派の要素が混在していました。だからこそ、私はこの作品に、リュスの戸惑い、躊躇い、といったようなものを感じたのです。

■点描画法に対するリュスの挑戦と模索

 《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を見比べてみたとき、私は、作品の巧拙、点描画法の完成度よりも、まず、点描画法に対する迷いがあるか、否かが気になりました。2年もかけて完成させた《パリの通り》には、点描画法に完全に移行しきれないリュスの迷いや躊躇いといったものを強く感じさせられたからです。

 リュスは、《パリの通り》ではなぜ、完全に点描画法を取り入れなかったのでしょうか。

 先ほど、《パリの通り》と《モンマルトルからのパリの眺め》を見比べてみましたが、点描画法に忠実に描くと、画面全体がくすんだ色合いになってしまうことがわかりました。さまざまな色を小さな均質のドットに載せ、色彩理論に沿ってカンヴァスに併置すると、彩度が低くなってしまうのです。

 ひょっとしたら、1886年の時点でリュスは、このことを気にしていたのではないかという気がしたのです。

 一方、《モンマルトルからのパリの眺め》の画面には、躊躇いと思えるようなものがつゆほども見られませんでした。リュスは迷うことなく、スーラの色彩理論に従い、徹底した点描法でこの作品を描いています。

 わずか1年の間に、リュスに一体、何があったのかといえば、モンマルトルへの引っ越しでした。リュスは1887年からモンマルトルに住みはじめ、新印象派の画家たちと交流を深めています。

 点描法への関心が、この時、一挙に実践に傾いたのでしょう。点描法で描くには最高の環境でした。実勢、1887年に制作された作品はいずれも、それまでの迷いが吹っ切れたように、精緻に点描法を取り入れ、作品を数点、完成させています。

 だからこそ、《パリの通り》の存在を看過することができないのです。

 1887年はまだ、《パリの通り》を制作中でした。ですから、その当時、手掛けていた作品のように、点描法に忠実に描き直すこともできたはずです。それなのに、敢えてそうしなかったところに、リュスのこだわりを感じざるをえないのです。

 こうしてみてくると、《パリの通り》を制作しはじめた1886年から、ようやく完成させた1888年にかけての期間は、リュスにとって点描画法への移行期だったといえるでしょう。

 1887年に点描法で制作された数点の作品は、リュスが画家として認知される契機となりました。

■第3回アンデパンダン展

 点描画法で仕上げた数点の作品は、1887年に開催された第3回アンデパンダン展に出品されました。先ほど、ご紹介した《モンマルトルからのパリの眺め》は、そのうちの一つです。

 スーラと共に点描主義の代表とされるシニャックは、出品されたリュスの作品の出来栄えに感動し、作品を購入してしまったほどでした。

 シニャックがリュスのどの作品を購入したのか、気になったので、調べてみました。シニャックが購入した作品は、《The Toilet》(1887)でした(※ https://www.wikiwand.com/en/Maximilien_Luce)。

 そればかりではありません。

 美術史家のマリーナ・フェレッティ・ボキョン(Marina Ferretti Bocquillon, 生年不詳)は、評論家のフェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)が1887年のアンデパンダン展に出品されたリュスの作品に感嘆し、シニャックは彼をグループの中心に招き入れたと記しています。(※ 『新印象派―光と色のドラマ』、p.13、2014年、日本経済新聞社)

 ちなみに、フェネオンと言えば、当時、頭角を現しつつあった美術評論家です。スーラの《グランジャット島の日曜日の午後》を絶賛して雑誌に寄稿し、「新印象派」と名付けて新印象派のブームを作った人物です。

 その評論家のフェネオンがリュスを評価し、称賛したばかりか、1888年には彼の企画で、リュスの最初の個展を開催したほどでした。

 リュスは、当時、影響力を持っていた美術評論家や新進の画家たちから評価され、新印象派の画家として認知されるようになりました。第3回アンデパンダン展は、リュスにとって忘れることのできない展覧会となったのです。

 以来、彼は、毎年、アンデパンダン展には出品しています。それは、1915-1919年を除き、亡くなる1941年まで続きました。その間、1909年にリュスは同協会の副会長に選出され、1935年にはシニャックの後を継いで会長になっています。

 さて、アンデパンダン展(Salon des indépendants)は、スーラやシニャックらによって1884年、パリに設立されたアンデパンダン美術協会が開催する展覧会です。無審査、無賞、自由出品を原則としています(※ Wikipediaより)。

 この展覧会は、フランス美術界を牛耳ってきた王立絵画彫刻アカデミー(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)が開催する保守的なサロン(Salon de Paris)に対抗して、開催されるようになったという経緯があります(※ 前掲)。

 アンデパンダン美術協会の中心メンバーであるシニャックは、第3回アンデパンダン展に出品されたリュスの作品を見て、その力量に惚れ込み、彼を中心メンバーの一人として迎え入れました。

 リュスにとってどれほど名誉に思えたことだったでしょう。この時、リュス29歳、木版職人を辞め、画家を志してわずか4年目のことでした。

 職人階級の子どもとして生まれ育ったリュスは、理論を構築することはできませんでしたが、描くことについては類まれな才能に恵まれた画家でした。だからこそ、シニャックは彼を中心メンバーに引き入れたのです。リュスは新印象派の画家として、活躍していくことになります。

 それでは、シニャックが購入したのはどのような作品なのか、見てみることにしましょう。

■《The Toilet》(1887)

 シニャックが購入したのは、《The Toilet》という作品でした。《モンマルトルからのパリの眺め》と同じ、1887年に制作されています。

(油彩、カンヴァス、92×73㎝、 スイス プチ・パレ美術館 )

 画面中央で、男が上半身裸になって、身体を拭いています。仕事に出かける前に、身支度をしているところなのでしょう。俯き加減の横顔はまだ眠そうに見えます。椅子には上着が引っかけられており、洋服掛けには帽子とコートが掛けられています。単身労働者の生活の一端があぶりだされています。

 この画面を見て、まず気づくのが、左から射し込む陽光です。

 左の窓からは、さんさんとした陽光が射し込んでいます。陽光は、透明部分を残しながらも、白を基調にして、青、オレンジ、赤などを織り交ぜて点描されています。精緻に描かれており、光が粒子状になって、部屋に射し込んでいる様子をはっきりと見て取ることができます。

 点描法でなければ、ここまでありありと光の様相を描き出すことはできなかったでしょう。

 溢れ出す光の粒子は、男の背中、上腕、ズボンを明るく輝かせる一方、その対極に影を作り出しています。煌めく光とその影が、筋肉隆々とした上腕、割れた腹部を強調しています。

 逞しく盛り上がった上腕や腹部の筋肉は、肌の色合いを微妙に変化させることによって、リアルに描かれています。これもまた、小さな粒子状で色を置く点描法だからこそ、可能になった表現だといえるでしょう。

 狭い部屋には、粗末な椅子と洗面器が載るだけの小さなテーブルが置かれ、床には古ぼけた靴、酒瓶、壺、くず入れ、布切れなどが散らばっています。乱雑で飾り気のない部屋の様子から、日々、働いて寝るだけの肉体労働者の生活状況が浮き彫りにされています。

 興味深いのは、光と影の扱い方です。左の窓から射し込んだ光は、上半身裸の男の背中や上腕を明るく照らし、そのまま、反対側の右の壁に大きく影を落としています。その光と影が、絶妙なコントラストの下、メインモチーフを際立たせ、画面に動きを生み出し、生気を与えています。

 点描法で捉えられた光と影が、平凡な日常の生活シーンを劇的なものに変えているのです。その一方で、この光と影は、さまざまなモチーフに立体感を与え、画面にリアリティをもたらしています。

 スーラの作品にしても、シニャックの作品にしても、点描法で描かれた作品は、ともすれば躍動感や立体感を失い、リアリティを喪失しているのが常でした。リアリティを求める画法ではないので当然なのですが、リュスのこの作品は、点描法で描かれていながら、どのモチーフにもリアリティがあり、躍動感や立体感が失われていませんでした。

 この作品を見たシニャックが感動して、購入することを決めたのも無理はありませんし、画家カミーユ・ピサロや評論家のフェネオンが絶賛したのも当然のことでした。

 そういえば、《モンマルトルからのパリの眺め》にしても、《The Toilet》にしても、1887年に制作された作品です。

 リュスは1887年からモンマルトルに住むようになって、新印象派の画家たちと交流を深めていました。彼らを参考にして点描法を取り入れ、自身の画風を広げていったのでしょう。1887年に点描画法で描いた作品が注目されて以来、リュスの作品から、点描法に対する迷いや躊躇いが払拭されたように思います。

 その後も、リュスは点描法で作品を制作し続けています。

 《モンマルトルからのパリの眺め》(1887年)や《The Toilet》(1887年)を描き、《パリの通り》(1886-1888年)を仕上げた後、リュスはラニーを訪れ、《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》(1889年)という作品を制作しています。

 次に、この作品を見てみることにしましょう。

■《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》(Lagny, le pont de fer sur la Marne, 1889)

 リュスが画家を志すようになった頃、レオ・ゴーソンや、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと共に、パリ郊外のラニー=シュル=マルヌで過ごしていたことがありました。

 第3回アンデパンダン展で評価された後、彼はそのラニーを訪れ、1889年に仕上げたのが、《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1889年、個人蔵)

 スーラやシニャックほど小さな点ではありませんが、この作品も、明らかに点描画法で制作されています。イエローオーカー系を基調にまとめられているせいか、水面の煌めき、橋げたや建物、護岸壁に射し込む陽光に、柔らかな明るさが感じられます。

 この作品もまた、光と影によって画面が劇的に構成されています。

 さんさんと降り注ぐ陽光の下、川面に伸びる鉄橋の影と、背後から手前の護岸壁に伸びる影が、画面を立体的に構成し、情感を添えています。青系とオレンジ系の色を併置して点描された影の色合いが優しく、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

 川面に落ちた影も同様、青系とオレンジ系で点描されています。画面の基調色がイエローオーカー系のせいか、コントラストは弱いのですが、これらの影がモチーフを相互に関連づけ、画面全体に優しく、和やかな情緒を醸し出しています。

 この作品を見たとき、私はふと、点描画法に惹かれながらも、リュスは、色彩についてはて独自性を追求しようとしていたのではないかという気がしました。点描法を使いながらも、画面がそれほどくすんでおらず、陽光がもたらす輝きがしっかりと、そして、柔らかく捉えられていたからです。

■点描法初期作品にみられる光と影の効果

 リュスが点描法で描き始めたのは1886年、第8回印象派展でスーラの作品を見た後のことでした。そして、1887年には完全にマスターした点描法で、油彩画を制作し、第3回アンデパンダン展に数点、出品しました。出品作品は美術評論家や画家たちから評価され、リュスは一躍、新印象派の画家として認知されるようになりました。

 今回、リュスが1886年から1889年にかけて点描法で制作した初期作品の中から、4点をご紹介してきました。それらの初期作品には、点描法に対する挑戦、取り入れる際の葛藤と模索など、リュスの気持ちが如実に反映されており、興趣がありました。

 とくに興味深いのは、点描法を自家薬籠中のものにするだけではなく、作品に独自性をもたらす工夫を凝らしているところです。

 たとえば、《モンマルトルからのパリの眺め》では、近景を暗色、中景、遠景を明色で描き分け、点描法では失われがちな遠近感をはっきりと打ち出しています。

 また、《The Toilet》や《ラニー=シュル=マルヌの鉄橋》では、光と影を対比的に取り込み、点描法では失われがちな彩度や立体感を感じさせる工夫をしています。

 点描法では、色彩理論に従って小さな色の粒子を画布に併置していきます。そのため、スーラやシニャックらの作品に見られるように、画面の色の彩度は落ち、遠近感も立体感もなく、平面的で装飾的に見えるという特徴がありました。

 それは、この画法の特徴で、美を創り出す様式の一つではあるのですが、リュスはそれを回避しようと工夫していたように思えるのです。

 実際、リュスの初期作品にはこのように、点描法を取り入れながらも、それに抵抗し、これまでの画法の痕跡を留めようとしたところに新境地がありました。点描法で描かれていながら、動きがあり、生気が感じられるところに新鮮さが感じられたのです。

 リュスはおそらく、どのようなモチーフに、どのようなシチュエーションの下で、点描法を用いれば効果的なのか、さまざまに試行錯誤しながら、考え抜いたのでしょう。その結果、辿り着いた一つの解が、光と影に焦点を当てるということだったのではないかと思います。

 初期作品を見ていくうちに、点描法の理性的要素と印象派の感性的要素が、リュスの中には混在しており、それが、光と影を媒介させることによって、画面に新感覚を生み出しているように思えてきました。

 今回、ご紹介したリュスの初期作品には、スーラの描法では表現しえなかったであろう、自然の息遣いが捉えられ、しっかりと描出されていました。果たして、リュスは今後、どのような点描画作品を制作していくのでしょうか。(2022/5/24 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑥ピサロと第8回印象派展

 カミーユ・ピサロは印象派の画家として認知され、長く活動していました。ところが、自分の画風になかなか自信が持てないでいました。ルノワール、モネ、セザンヌなどに比べ、自分の絵は地味で、人々の購買意欲をそそらないと思い込んでいたからでした。ピサロが生きた19世紀末といえば、市民階級が台頭し、美術市場の担い手として大きな存在になりつつあった頃だったのです。

■悩み、模索し続けるカミーユ・ピサロ

 1885年6月、カミーユ・ピサロは、画商ポール・デュラン・リュエルに次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「小さな油彩画を制作し始めている。明るく輝くものが描きたいのだ。つまり、光と闇の境界線にできるだけせまりたい。それは簡単なことではないよ」(※ クレール・デュラン=リュエル・スノレールClaire Durand-Ruel Snollaerts)著、 遠藤ゆかり訳『ピサロ―永遠の印象派―』創元社、2014年、p.56.→以下、『ピサロ』と略称)

 デュラン・リュエルは1883年5月に初めてピサロの個展を開催してくれた画商でした。

 この文面からは、ピサロが依然として、自身の制作課題を、明るく輝くものを描き、光と闇の境界線に迫ることだと考えているのがわかります。その後、さまざまに試みても、おそらく、思い通りにはならなかったのでしょう。「簡単なことではないよ」という言葉の中に、意気消沈している彼の様子が目に浮かびます。

 デュラン・リュエルの画廊で初めて個展を開催してから、早や2年が経過していました。

 そういえば、1883年5月の個展開催前も、ピサロは息子のリュシアンに手紙を送り、同じような内容の不安を訴えていました。

 こうしてみると、どうやら、「明るく輝くものが描きたい」という思いはまだ達成されていなかったようです。果たして、彼はどのような作品を描こうとしていたのでしょうか。

 今回はまず、彼の絵の何が問題なのか、どう改善しようとしていたのか、どのような画家との出会いがあったのか、といったようなことを踏まえ、印象派画家として認知されていたピサロの苦悩や動揺を見ていきたいと思います。

 そこで、1885年以前の作品の中から、ピサロが明るさと輝きを求めて描いたと思われる作品を探したところ、《ルーアンのナポレオンふ頭》が目につきました。

 どのような作品なのか、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《ルーアンのナポレオンふ頭》(Quai Napoléon, Rouen, 1883年)

 1883年に、ルーアンのナポレオンふ頭を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、54.3×64.5㎝、1883年、Philadelphia Museum of Art所蔵)

 大きく広がる青空から陽光が降り注ぎ、水面に反射しています。空も川面も明るく描かれ、空と川が渾然一体となって溶け合うように見える中で、橋が一つの境界線として両者を区切っています。画面右手には大きくカーブするふ頭が描かれ、その下には船が何艘も停泊しています。

 確かに、色遣いが以前よりも明るくなっています。空といい、川面といい、遠景の建物といい、淡い色彩同士を組み合わせ、モチーフをしっかりと描きながらも、画面全体に明るさを醸し出す工夫がされています。

 これが、失意のどん底に沈んだピサロがさまざまに試行して、到達した一つの境地なのでしょう。望んでいたように、画面が明るく、軽やかになっています。

 ところが、ピサロのもう一つの願望である輝きが表現されているとは言い難いのです。陽光を受けた川面はもっとキラキラと輝いていてもいいはずなのに、それが表現されておらず、広い空のどこかに、雲の隙間から洩れる光が捉えられていてもいいのに、そうなっていないのです。

 そもそも陽光の輝きを表現するために編み出されたのが、パレットで混色せずに直接、カンヴァスに絵具を置いて描く筆触分割法でした。印象派の画家たちが考え付いた画法です。

 ところが、この作品は、いかにも印象派風に描かれているにもかかわらず、光の輝きが感じられず、どちらかと言えば、明るいのにくすんで見えるのです。

 よく見ると、不自然に見える箇所もあります。船の描き方が画一的で興を削いでいるばかりか、舳先に使われたホワイトが強すぎて、違和感があります。おそらく、ピサロ自身もこの作品には満足できなかったのではないかという気がします。

 ただ、正面中ほどに見える橋と右手の建物、そして、手前に大きくカーブする埠頭や数本の杭など、モチーフの配置には、縦横の直線、曲線が巧みに組み合わされた興趣があります。しかも、快い安定感があります。

 引いて画面を見ると、大きな比重を占める空と川には雲や波がもたらす動きが感じられ、安定した構図の中で静と動がバランスよく配分されていることがわかります。素晴らしい画面構成です。

 興味深いことに、この作品には点描の兆しが見えます。空や川面、埠頭の際に生えた草の描き方に、筆触や色の配置に配慮した痕跡が見受けられます。「明るく輝くものを描く」ためにピサロが模索していた痕跡といえるのかもしれません。

■スーラから得た刺激

 画商デュラン・リュエルに制作上の悩みを吐露していたピサロは、1885年、たまたまアルマン・ギョーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)のアトリエで、ポール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863 – 1935)と出会いました。そこで、彼の友人スーラの科学的方法について知らされたのです。それを聞いた途端、ピサロはたちまち引き付けられ、是非ともスーラに会ってみたいと希望しました。

 同年10月になって、スーラ(Georges Seurat, 1859 – 1891)に会うことができ、ピサロは直接、その理論を詳細に聞くことができました。納得したピサロは、すぐさま、色彩の同時対照に基づく筆触分割法を学び、実践していきました(※ 前掲。黒田光彦、p.88.)。

 スーラはアメリカの物理学者オグデン・ルード(Ogden Rood,  1831-1902)の『近代色彩論』のフランス語訳やフランスの化学者ウジェーヌ・シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対比の法則』を読んだ上で、光学理論を応用して絵具の使い方に適用させていました。

 具体的にいえば、モチーフを小さな点の集合で描いていくという手法です。こうして描かれたものは、一定の距離を置いて眺めてみると、点の集合はひとかたまりの色を作り、光の揺らぎを表現することができるというわけです。

 先ほどご紹介した作品もそうですが、1880年代に入ってから、ピサロは、こまかいタッチを重ねて描く方法を試みていました。スーラの理論を受け入れる素地がピサロにはあったといえます。

 だからこそ、スーラの理論に出会い、カミーユ・ピサロは進むべき方向を確信したのでしょう。ようやく課題を解決し、失意から立ち直るきっかけを掴んだといえます。

 この時、スーラは26歳、カミーユ・ピサロは55歳、そして、息子のリュシアン・ピサロは22歳でした。自身の画法に自信を失っていたとはいえ、ピサロは、親子ほど年齢差のある若いスーラに、画法の教えを請うたのです。

 おそらく、当時のピサロはそれだけ深く、自身の画法に悩んでいたのでしょう。もちろん、老いてなお、30歳も年下の画家から新しい絵画理論を学ぼうとする意欲が失われていなかったこともあります。

 以後、ピサロは熱心にスーラの理論を周囲に説いて回り、自身でも積極的に筆触分割法、時には、点描法で制作を進めていきました。

 ピサロは、印象派の仲間たちに比べ、スーラたちの方が「科学的」だと評価していました。さらに、「私個人は、この芸術のなかに進歩があると確信しており、いつか途方もない成果を生み出すと考えている」とまで語っています(※ 『ピサロ』、前掲、p.59.)

 ピサロは、スーラの理論には印象派を超えたものがあり、科学的に構成されているからこそ、今後、素晴らしい芸術の進歩につながるだろうと考えていたのです。

 それでは、ピサロが筆触分割法で描いた作品をご紹介していきましょう。

■筆触分割法によるピサロの作品

●カミーユ・ピサロ作、《Meadows at Eragny》(1886年)

 カミーユ・ピサロがはじめて筆触分割の手法で描いたのがこの作品です。

(油彩、カンヴァス、60×74㎝、1886年、南オーストラリア州立美術館所蔵)

 タイトルは“Meadows at Eragny”で、「エラニーの牧草地」という意味です。筆触分割の手法で描かれているせいか、確かに、これまでの作品と比べ、画面が明るく、輝いて見えます。

 先ほど見た《ルーアンのナポレオンふ頭》とは輝きが全く異なります。

 空は淡いピンク、白、水色、ブルーを使って鮮やかに描かれており、そこから葉や草むらに落ちる陽光が輝いて見えます。葉の先に置かれたオレンジ色、黄色、紫、白などが、弾むような躍動感を生み出しています。光と影が色相環を踏まえ、はっきりと表現されているからでしょう。ピサロのこれまでの作品にはない斬新さが感じられます。

 1886年、さらに、《庭にいる母と子》(Mother and Child, in the Garden)という作品を描いています。

●カミーユ・ピサロ制作、《庭にいる母と子》(1886年)

 母親が庭の戸口を開けると、子どもが振り返りながら外に出ていくシーンが捉えられています。農村のほのぼのとした日常風景の一端が、柔らかい陽射しの中で表現されており、小さな幸せが感じられます。

(油彩、カンヴァス、41×32㎝、1886年、個人蔵)

 なんとも言えない柔らかさと温もり、そして、優しさに満ち溢れた画面です。あらゆるモチーフが、細かく区切られた色彩を構成要素として表現されているからでしょう。これまでの作品にはなかった輝きが随所に見受けられます。筆触分割法の効果でようやく、ピサロが願った「明るい輝き」を手に入れたことがわかります。

 この作品は、第8回印象展に出品されました。ところが、画期的な画法で制作されていたにもかかわらず、ほとんど注目されませんでした。

■第8回印象派展

 新理論を提唱するスーラとシニャックに、第8回印象派展に出品するよう呼び掛けたのは、カミーユ・ピサロでした。

 カミーユ・ピサロは第1回から第8回まで、すべての印象派展に出品したただ一人の画家でした。人望も厚く、印象派展の開催には大きな力を持っていました。

 1885年12月、ピサロの熱心な働きかけに応じてスーラは、印象派展の新たな展開についてピサロやモネと懇談しました。彼らは印象派展に自身の作品を出品できるかどうかを検討していたのです。長い議論の末、新しい点描主義の作品だけを一室に隔離して展示するという条件の下で、出品が認められました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 古参のカミーユ・ピサロが尽力したからこそ、スーラ、シニャック、リュシアン・ピサロなどの若手画家が、第8回印象派展に出品することができたのです。点描主義を世に知らせるという点で、ピサロは若い世代の芸術活動に大きな役割を果たしたといっていいでしょう。

 第8回印象派展は、一日450人ぐらいの観客が訪れたといわれています。印象派展最後となった展覧会ですが、観客動員数はこれまでの印象派展とあまり変わりませんでした。そして、スーラの作品がすぐさま巷の話題になったわけでもありませんでした。

 当初は、批評家も点描派の画家に大した注意を払わなかったようです。実際は、彼らの作品をどう評価していいかわからなかったのかもしれません。

 スーラはこの時、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》(Un dimanche après-midi à l’Île de la Grande Jatte)を出品しました。

(油彩、カンヴァス、207.5×308.1㎝、1884-86年、シカゴ美術館所蔵)

 この作品はその大きさといい、実験的な画法といい、人々をおおいに驚愕させました。精緻に組み立てられたスーラの理論に基づく作品世界は、確かにこれまでの美術界にはないものでした。

 興味深いのは、グランド・ジャット島に遊びに来ているというのに、描かれている人々は皆、静かで、動きが感じられないということでした。まるで生気が抜き取られているかのようです。描かれている人物や動物だけでなく、木々や空、川でさえも動きを止め、画面に固定されているように見えます。すべてが整然とした秩序の中に収められているのです。

 冷静に、客観的に描かれているからでしょうか、観客は作品に感情移入することもできず、ひたすら見つめているだけです。純色のまま点の状態にして絵具を配置し、モチーフを形作り、画面構成しているからでしょうか。奇妙な魅力を放つ作品でした。

 この作品が発表された時、批評家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon, 1861-1944)は、諸理論を踏まえ、独自に考案した画法で描かれたスーラの作品について、科学的で革新的で、印象派には見られない体系性があると述べています。

 ちなみに、シニャックは《婦人帽子店》(The Milliners, 1886年)を出品しています。

(油彩、カンヴァス、116×89㎝、1885-1886年、チューリヒ・ビュールレ財団所蔵)

 よく見ると、床や壁、そして、俯いてハサミを拾おうとしている女性の肩など、一部に筆触分割法が用いられていますが、それ以外の箇所はそうではありません。スーラの理論を推奨しながらも、シニャック自身はまだ点描法を会得していなかったようです。とはいえ、この作品が印象派の作品でないことは明らかでした。

 彼らの作品はいずれも、印象派展に出品された作品としてはあまりにも異質でした。

 しかも、スーラ、ピサロ、シニャックはそれぞれ、点描法、筆触分割、一部筆触分割といった具合に、スーラ理論の習熟度にも差異がありました。とはいえ、これだけの作品が一か所に展示されたのですから、インパクトがありました。

 最後の部屋にまとめて展示されるようにしたのはピサロだったようですが、まとめて展示されることによって、観客に分割画法をアピールする絶好の機会となったのです。

 画家や画商からは評判がよくなかった新しい画法でしたが、一部の評論家からは高く評価されていたようです。

 たとえば、評論家のフェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)はスーラの作品を見て感銘を受け、雑誌“L’ART MODERNE”(1886年9月19日号)上で激賞しています。

 フェネオンはさらに、印象派の画家たちについて、彼らはすでに色彩分割を行っているが、恣意的に行っているだけなので、科学的で精密な体系化が必要だと指摘しています。(※ 永井隆則、「新印象主義」、『世界美術大全集』第23巻、1993年、小学館、pp.235-236)

 そして、フェネオンはスーラ理論に基づいて制作した一連の画家たちを、「新印象派」と名付けました。「新印象派」とネーミングされたことによって、その後、点描主義が一躍、注目を浴びるようになりました。

■ピサロは若い世代に何をもたらしたのか。

 第8回印象派展で画期的な働きをしたのが、カミーユ・ピサロでした。点描画法を実験的に試行していたスーラやシニャックを、美術界の表舞台に引っ張り出したのです。

 当時、まだ点描法は人々から認知されていませんでした。それにもかかわらず、印象派画家として名を成していたカミーユ・ピサロは、彼らの作品を印象派展に出品させたばかりか、自身も点描主義を標榜し、実践しはじめました。その結果、彼は、画家仲間たちからも、世間からも理解されず、評判を落としてしまいました。

 積極的に点描法を推進した結果、ピサロは関係者から反発され、ついには生計を脅かされる羽目に陥ってしまったのです。それまではピサロに好意的だった画商のデュラン・リュエルでさえ、点描画法で制作した彼の絵をごくわずかしか買いませんでした(『ピサロ』、前掲、p.61)。

 点描画法に転向したピサロは、どんな言い訳も通用しないほど、大きなリスクを背負い込むことになりました。それでもピサロは屈することなく、次々と点描画法で作品を仕上げていきました。スーラの理論を周囲に推奨するだけではなく、自身も積極的に点描主義を実践していったのです。

 ピサロは高齢でありながら、真摯に点描画法に取り組みました。その姿勢に刺激を受けたシニャックもまた、急速に点描画法で制作するようになりました(※ 黒江光彦、前掲。p.88)。

 若い世代のグループに入り込んだピサロはこのようにして、率先して、点描画法で制作しながら、若い画家に影響を与え、新しい芸術運動を推進していったのです。

■ピサロにとっての点描法

 それでは、ピサロは点描法によって何を得、何を失ったのでしょうか。

 点描法という新しい絵画技法を世に押し出す上で、ピサロが大きな力となったことは確かです。ところが、その一方で、彼は画家や画商、世間から批判され、作品が売れなくなってしまうほどのリスクを被りました。

 果たして、ピサロは点描画法を使うようになって、何を得たのでしょうか。はたまた、念願だった画風の改善はできたのでしょうか。

 まずは彼が点描法を会得し、実作を重ね始めた時期の作品をご紹介しましょう。

●《耳の聞こえない女の家とエラニーの鐘楼》(La Maison de la sourde et le Clocher d’Éragny)、1886年制作

 ピサロは1884年に、パリ郊外のエラニーに転居していました。タイトルから想像すると、そこの隣家に聴覚障碍の女性が住んでいたのでしょう。彼女が庭仕事をしている光景を描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、65.09×80.96㎝、1886年、インディアナポリス美術館所蔵)

 明るく輝かしい陽光が辺り一面に射し込み、のどかで平和な暮らしの一端が巧みに描かれています。これまでのピサロには見られなかった太陽の煌めきが画面に溢れています。点描法の成果といえるでしょう。

 この作品を見ていると、ピサロが悩みぬいた自身の画風の欠点が克服されているように見えます。モネやルノワールのような派手な輝きはありませんが、落ち着いて、心に深く沁みこむ輝きがあり、見ていると、気持ちが豊かになっていくような気がします。

 手前右に木陰を描き、ほとんどのモチーフを中景から遠景にかけての範囲内に配しています。モチーフの大小、曲線や直線の形状を踏まえて、レイアウトし、動きがあって、しかも安定した構図を組み立てています。これまで通り、ピサロらしい考え抜かれた構図で、素晴らしいと思います。

 それに加え、この作品には色彩の深さ、調和、バランスなども秀逸です。自身の得意なところを踏まえ、点描画法の特性を活かして素晴らしい作品に仕上がっていると思います。

 さらに、第8回印象派展に出品した後、1888年に描き直した作品があります。《窓からの眺め》というタイトルです。

 この作品は実際は1886年に描かれたのですが、ピサロは描き直した上で、制作年を1888年に変更したと言われる作品です(※ 『ピサロ』、前掲、p.60)。

 ●カミーユ・ピサロ制作、《La vue de ma fenêtre》(1888年)

 《窓からの眺め》(La vue de ma fenêtre)というタイトルの作品です。

(油彩、カンヴァス、65×80㎝、1888年、オックスフォード、アシュモレアン博物館所蔵)

 当時、カミーユ・ピサロが住んでいた家の窓から外を眺めた風景画です。庭を見下ろすと、女性が働いており、屋外に視線を移すと、バザンクール村へと続く草原が広がっています。牧歌的な農村の日常生活が、抑えた筆致で捉えられています。

 先ほどの作品よりもさらにスーラの理論の忠実に描かれています。

 点描画法のせいでしょうか、画面からは生き生きとした躍動感は感じられません。生気が抜き取られたかのようです。安定感のある構図の下、ひたすら静寂で平穏、平和な世界が表現されていました。

 ピサロはその後も点描法で描き続けました。

 点描派を標榜しながらも、ピサロにはまだ迷いがあったのかもしれません。同時期に描かれた作品には、もう少しラフに、スーラ理論から逸脱して描かれたものがあります。

 《エラニーでのリンゴの収穫》です。

●カミーユ・ピサロ、《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)1888年制作

 《エラニーでのリンゴの収穫》(La récolte des pommes à Éragny)は、ピサロの点描画作品の中で、代表的なものだといわれています。

(油彩、カンヴァス、60.9×73.9㎝、1888年、Dallas Museum of Art所蔵)

 一見、いかにもスーラ理論に充実な点描法で描いた作品に見えます。ところが、よく見ると、畑の部分は点、木の幹は短い線、男性のシャツは小さな十字形で描かれています。スーラやシニャックが点しか使わなかったのに対し、ピサロは自己流の点描法で描いていたのです。

 この作品のためにピサロは多くのデッサン、方眼紙を使ったグアッシュ画、油彩による下絵など、入念に準備したといわれています(※ 『ピサロ』、前掲、p.56)。

 興味深いことに、ピサロはこの時期、画商デュラン・リュエルに次のような手紙を書き送っています。

 「油彩画やグアッシュ画を制作するのに、3~4倍の時間がかかっている。困っているよ」(※ 『ピサロ』、前掲。p.60)

 ピサロはスーラの理論に惚れ込み、その技法を完璧に会得していました。ところが、忠実に実践しようとすれば、限りなく時間がかかってしまうことがわかってきました。終にピサロは、4年間、熱中した点描画法を投げ出してしまったのです。

 その理由として、ピサロは次のように述べています。

 「束の間の感覚に従うことが出来ない、生命感や動きを与えることができない、自然の変化に富んだ効果に従うことが出来ない、自分のデッサンに個性を与えることができない、等々から私は断念せざるをえなかった」(※ 『ピサロ』、前掲、p.64)

 こうしてピサロは点描法から離れることになりましたが、その後も新印象派の画家たちとは親密な関係を続けました。1891年3月29日にスーラが突然、亡くなった時、「これは芸術にとって大きな損失だ」といい、激しい衝撃を受けていました(※ 『ピサロ』、前掲、p.65)。

 点描法を放棄しても、理論を組み立てたスーラは高く評価していたのです。

 1891年4月1日、ピサロは息子のリュシアンに向けて、次のような手紙を書いています。

 「昨日、スーラの葬儀に行ってきた。シニャックがこの大きな不幸に打ちのめされていた。おまえのいうことは正しいと思う。点描主義はもう終わりだ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.128)

 そして、シニャックに対しては何度も点描技法をやめるよう忠告しています。

 1894年1月27日にシニャックに宛てた手紙の写しを息子のリュシアンにも送っていますが、それを見ると、次のような文面でした。

 「手法そのものが良くないのだと思います。この手法は役に立つどころか、硬直化と冷たさをもたらします」(※ 前掲、p.129)

 手法とは点描技法のことです。ですから、点描技法は硬直化と冷たさをもたらすとわざわざ手紙でシニャックに警告しているのです。いったんはのめり込んでみたものの、離れてみると、ことさらにその欠点が目につくのでしょう。とはいえ、ピサロが感じていることは私も同感です。

 スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を見てもわかるように、点描法を厳密に使うと、モチーフを硬直化させ、画面からモチーフの動きや体温を失わせてしまうのです。だからこその魅力もあるのですが、どのような画題にも適用できるものではないということをピサロはいいたかったのかもしれません。

■新印象派の画家たちとピサロ

 息子のリュシアン・ピサロとリュス、ゴーソンらは、ラニー・シュル・マルヌで点描主義運動を展開するとともに、Salons des Artiste Indépendantsに参加し、結束を固めていました(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.19.)。

 カミーユ・ピサロもまたラニーの小さな町でリュスやゴーソン、カヴァッロペドゥッツィらとの交流を楽しみ、庇護者としての役割を果たしていました(※ 前掲)。点描画法と出会うきっかけとなったラニー派との関係も深めていたのです。

 ピサロは新印象派の画家の中でもとくに、自分と同じようにアナーキズムの思想をもっていたリュスやゴードンらと好んで親交を結んでいました(※ 『ピサロ』、前掲、、p.57)。

 リュスについてピサロは、1895年4月11日、息子リュシアンに次のような手紙を向けて送っています。

 「リュスは運が悪い。ふたつの海の間を漂っている。(略)彼の強さ、厳しさ、少し粗野な面をつくっていたものは消えてしまった。残念だ」(※ 『ピサロ』、前掲、p.129)

 突如、スーラが亡くなり、拠り所を失ってしまったリュスを、ピサロは心配していたのでしょうか。あるいは、自分は点描法から抜け出したのに、リュスがまだ点描法で書き続けていたことを、年長の画家として危惧していたのでしょうか。

 リュスはスーラが亡くなった後もしばらく、点描法で描き続けています。19世紀末の科学主義の時代、点に還元してモチーフを形作って画面を構成する点描法は時代の動きに敏感な画家には馴染みがよかったのかもしれません。

 点描主義、点描法に惹かれた画家たちにはどういう特性があったのでしょうか、ふと、気になってきました。(2022/4/30 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ⑤ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ゴーソンやリュス、ペドゥッツィらがラニー派を結成した頃、リュシアン・ピサロとその父親であるカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もこのグループに参加しました。当時、彼はすでに印象派の画家として認知されていました。それにもかかわらず、どういうわけか、息子とほぼ同世代の若いグループに加わって、点描主義を標榜し始めたのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

 今回は、カミーユ・ピサロは、なぜラニー派に参加したのか、その背景について考えてみたいと思います。

■風景画家としてのカミーユ・ピサロ

 年表でピサロの略歴を振り返ってみると、1868年から1870年まで彼は毎年、サロンに入選していることがわかりました。風景画家として一定の評価を得ていたのです。

 1871年には、画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が絵を2点購入してくれるほど、評価が高まっていました(※ 『ピサロ/シスレー/スーラ』年表、集英社、1973年)。

 モネとともに美術館を回り、イギリス風景画を研究していたのもこの頃でした。

 1872年にピサロは、パリ近郊のポントワーズ(Pontoise)に定住しました。ポントワーズにはオワーズ川が流れ、美しい田園風景が広がっています。ドービニー、セザンヌ、ゴッホ、カイユボットなどの画家たちが好んで住むようになり、印象派の拠点になっていました。ピサロにとってよほど居心地が良かったのでしょう、その後、17年間もここに住み続けました。

 ピサロはここに転居してからというもの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1939-1906)と共に、頻繁に風景画を描いています。

 彼らが当時、同じ場所で描いたポントワーズの風景画があります。ご紹介しておきましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《Orchard with Flowering Trees, Spring, Pontoise》、1877年

 爽やかで心地よい、春の風景が捉えられています。

(油彩、カンヴァス、65.5×81㎝、1877年、オルセー美術館所蔵)

 巨木を中心に画面が左右に分割されています。太くて黒い幹は高くそびえ、その両側からは多くの枝が伸び、それらの枝先には無数の白い花が咲いています。やや引いて見ると、まるで巨木の先端を頂点とする三角形のように見えます。

 上に伸びる枝、下に垂れる枝、手前に張り出した枝、それぞれの枝先には白い花が咲き、さまざまな曲線を創り出しています。

 一方、木々の背後に建ち並ぶ建物からは、さまざまな直線が印象づけられます。三角の先端部、四角い窓、台形の屋根など、いずれもくっきりと描かれ、画面に起伏を生み出しています。

 直線や斜線、曲線を活かした見事な構図です。おかげで、開花期の瑞々しさや爽快感がリズミカルに捉えられています。

 見上げれば、青い台形の屋根、濃紺の先端部、オレンジ色の窓枠、白い壁などがそれぞれ、小さいながらも存在を主張し、曇った空を背景にはっきりと刻み込まれています。視線を落とすと、辺り一面、白い花が目を射るように乱舞しています。

 白い花々や建物の白壁、そして、空を覆う白い雲が、前景、中景、遠景に分散して配置され、画面に統一感と爽やかさがもたらされています。白を基調に、オレンジや青を差し色にして画面構成されています。

 興味深いのは、白い花に形の大小、色の強弱をつける一方、さまざまな筆触によって、画面に動きを生み出し、風のそよぎを感じさせていることでした。春の訪れと爽やかな息吹が加味されています。

 巧みな構図と色遣いで春の訪れが繊細に、そして、リズミカルに描かれていました。

 一方、色彩の力で精彩を放っているのが、セザンヌの作品です。

●ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)制作、《Le Jardin de Maubuisson, Pontoise》1877年

 ピサロと同じ時、同じ場所で描かれた作品です。セザンヌは、はっきりとした色彩で、やや荒っぽく、ポントワーズの風景を捉えています。

(油彩、カンヴァス、50×61㎝、1877年、個人蔵)

 ピサロと違って、手前の木々はまばらで細く、小さく、存在感がありません。木々の背後にみえる建物は、細部までしっかりと描かれているわけではありませんが、色彩に精彩があります。モチーフの捉え方はおおざっぱで、何をメインに描こうとしているのかは曖昧ですが、鮮やかな色彩とその荒っぽい筆触が印象的です。

 このように、同じポントワーズの風景を描いても、ピサロとセザンヌには大きな違いがありました。

 両者を比較すると、建物はほぼ同じでしたが、手前の木々が大きく異なっていました。ピサロは画面真ん中に巨木を配置し、その木をメインに、周辺に枝や花々を散らし、三角形を構成するような構図でした。おかげで画面に安定感と瑞々しい華やぎがもたらされていました。

 一方、セザンヌの方は、木々が貧弱で、しかも、畑の草と木の葉に色彩の区別がありません。建物はやや丁寧に描かれていますが、その下の畑や木々の描き方が雑なのです。中ほどの木に白いものがいくつか見えますが、ひょっとしたら、白い花なのでしょうか・・・?

 比較してみると、セザンヌは見たものから受ける印象に従って、思いつくまま、自由に描いているように見えます。そのせいか、画面はまだ制作途中、あるいは、習作のように見えます。

 その結果、ピサロの作品で捉えられていた繊細さや春の華やぎは、セザンヌの作品にはなく、色彩と筆触による力強さばかりが強く印象づけられます。

 ピサロはおそらく、見たままの風景をできるだけ写実的に捉えようとしながらも、メリハリのある構図を創り出すために多少、修正していたのかもしれません。同じ場所で描いた両者の作品を見比べてみて、改めて、風景の捉え方の個性が感じられます。

 おそらく、この違いの中にピサロの作品の本質の一つが示されているのでしょう。

■評論家からの批評

 1880年頃、ピサロは自分の作品に満足できず、悩んでいました。というのも、美術評論家でありコレクターでもあったシャルル・エフルッシ(Charles Ephrussi, 1849 – 1905)からの批評を気にしていたからでした。

 エフルッシは1880年、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く。彼の描法によると春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評していました。それを知ったカミーユ・ピサロはすっかり自信をなくしていたのです。(※ 黒田光彦「作家論:ピサロ/シスレー/スーラ」、『現代世界美術全集20』、p.87. 集英社、1973年)

 エフルッシは果たして、ピサロのどの作品について、上記のように批評していたのでしょう。

 気になって、調べてみました。

 1880年に批評したことがわかったということは、それ以前の作品を見て、そのような評価を下したことになります。そこで、1880年以前の作品の中から、春、あるいは花を画題にして描いた作品を探してみました。

 すると、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)というタイトルの作品を見つけることができました。

 果たして、エフルッシの批評は納得できるものだったのでしょうか。この作品を見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《果樹園》(Orchard in Bloom, Louveciennes, 1872年)

 果樹の花が一斉に開き、華やいだ春のひとときを捉えた光景です。

(油彩、カンヴァス、45.1×54.9㎝、1872年、National Gallery of Art所蔵)

 青空には真っ白の雲が浮かび、その下に枝いっぱいに白い花をつけた木が、正面に描かれています。よく見ると、画面奥の方まで、木々が立ち並んでいます。春というよりは初夏の気配が感じられます。これらの花はやがて実となって、人々を楽しませてくれるのでしょう。

 華やかな季節のはずなのに、どういうわけか、画面全体がくすみ、どんよりとしています。

 地面には木の影が濃く刻み付けられており、陽射しの強さが示されています。まばゆいばかりの光が辺り一面、降り注いでいるはずですが、画面から煌めきは伝わってきません。むしろ、乾いた土、生気のない花や木々の方が強く印象づけられます。

 果樹の下で作業をしている男性と女性の姿が小さく描かれていますが、ハイライトを差して、人物を際立たせることはされていません。そのせいか、彼らの姿に開花期を迎えた喜びは感じられず、労苦ばかりが強く印象づけられました。弾むような春の息吹を、画面から感じることはできませんでした。

 これでは、エフルッシが「春や花も陰鬱になり、空気は重くなる・・・」と評したのも無理はないと思ってしまいます。

 この作品は、カミーユ・ピサロが、1874年に開催された第1回印象派展に出品した風景画5点のうちの一つでした。この作品は、注目され、他の印象派の作品と比較される場に展示されていたのです。

 同じ時期に描かれた風景画をもう一つ、見てみることにしましょう。

●カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)制作、《白い霜》(Gelée blanche, 1873年)

 田畑なのでしょうか、原っぱなのでしょうか、全体が群青色の縞模様で覆われています。一体、この縞模様は何なのかと気になってしまいます。なんとも奇妙な光景です。

 タイトルを見ると、《白い霜》です。この縞模様に見えるものによって、おそらく、一面に白い霜が張った様子が表現されているのでしょう。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、Musée d’Orsay所蔵)

 タイトルを見て、それから、画面の手前右下に所々、白い小さな塊が描かれているのを見て、ようやく、霜が張った状態が描かれているのだということがわかります。

 右側だけで十分、わかるのに、左半分にも均等に縞模様が描かれています。ピサロは律義にも、ほぼ同じ間隔で、似たようなラインを野原全体に引いているのです。その結果、リアリティが損なわれ、奇妙な絵になっていまいました。

 左半分の縞模様はもっと薄くして目立たなくするか、いっそのこと白を淡く載せるだけでよかったのではないかという気がします。

 興味深いのは、傾斜のある小道を農夫が柴を背負って歩いている姿が、画面半ばに描かれていることです。おそらくストーブの燃料にするのでしょう。この人物を配することによって、画面が引き締まり、ストーリー性のある構図になっています。

 もし、タイトル通り、白い霜が張っているように描かれていれば、この人物を画面半ばに配したことの効果が画面に表れ、趣き深い作品になっていたことでしょう。 

 先ほど見た《果樹園》といい、この《白い霜》といい、せっかく季節の特徴を捉えた画題を扱いながら、表現すべきところが表現されておらず、省略すべきところが省略されていないため、画面に精彩がなくなってしまっていることがわかります。

 改めて、エフルッシの言葉が思い出されます。

 彼は、「ピサロ(の絵)は鮮やかな色で堅苦しく描く」と評していました。当時のピサロの作品を見たところ、確かに批評通りでした。

 《果樹園》では鮮やかな白色を乱舞させながら、輝きを生み出すことができず、《白い霜》では明るく鮮やかな色を使いながら、意味不明の縞模様によって、画面を硬直させているだけでした。

 おそらく、ハイライトを置いて画面に精彩を加えることをせず、また、観客の想像に任せればいい箇所まで、律義に描いてしまっていたからでしょう。その結果、画面が堅苦しく硬直し、観客が興趣を感じる余地が削がれていました。

 それでは、カミーユ・ピサロ自身、エフルッシの批評をどのように受け止めていたのでしょうか。

■個展開催を控えたピサロの不安

 ピサロは画家には珍しく、頻繁に、友人や息子に宛てて手紙を書いていました。手紙を書くことによって、創作につきものの不安や不満を発散し、気持ちの立て直しを図っていたのでしょう。作品批評については特に敏感に反応していました。

 息子に宛てた手紙をご紹介しましょう。

 1883年5月、モネやルノワールに続き、カミーユ・ピサロの個展の開催が予定されていました。画商ポール・デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)が企画したピサロにとって初めての個展でした。

 個展開催を控え、不安に駆られたカミーユ・ピサロは、息子のリュシアン(Lucien Pissarro, 1863- 1944)に、次ぎのような手紙を書き送っていました。

 「私の作品は、このような輝きのある作品の後では、もの悲しい、大人しい、光沢のないものに見えるだろう」(※ 前掲)

 特異な画風や画題で話題を呼んでいたモネやルノワールに比べ、カミーユ・ピサロは自身の作品が地味で精彩がなく、話題性に乏しいと思い込んでいました。彼らと比較されると、個展の成功が危ぶまれると不安を覚えていたのです。

 この文面からは、先ほどご紹介したエフルッシからの批評がまだ尾を引いており、ピサロの創作意欲に影響を与えていたことがわかります。

 確かに、彼の作品は、モネやルノワールに比べればはるかに話題性に乏しく、地味でした。画風に目新しさがなく、かといって、独自性があるわけでもありませんでした。

 当時、モネは43歳、ルノワールは42歳、そして、ピサロは53歳でした。10歳も若い彼らに、ピサロは気後れするような気持ち、言い換えれば、劣等感のようなものを抱いていたのです。ひょっとしたら、それは、自身の画風を確立するのが遅かったことと関係していたのかもしれません。

■ピサロが気にしたモネとルノワール

 たとえば、モネ(Claude Monet, 1840年11月14日-1926年12月5日)は30代半ばで画風を確立していましたし、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841年2月25日-1919年12月3日)も30代後半には独自の画風を確立していました。画題にしろ、画風にしろ、両者には若いころから確固たるものがあったのです。

 それでは、モネやルノワールが、どのような作品を描いていたのかを見てみることにしましょう。

 同世代のモネとルノワールは20代後半の頃、何度か一緒に郊外に出かけ、イーゼルを並べて絵を描いていたことがありました。

 探して見ると、1869年にパリ郊外のセーヌ河畔の行楽地、「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)で描いた作品が見つかりました。モネが29歳、ルノワールが28歳の時の作品です。

 ブージヴァル(Bougival)はセーヌ川岸にあり、19世紀後半、印象派の画家たちが集って絵画を語り合い、絵を制作していた行楽地でした。そのセーヌ河畔の行楽地に、水上カフェのある水浴場「ラ・グルヌイエール」(La Grenouillère)があります。

 1869年の夏、モネとルノワールはそこでイーゼルを並べ、絵を描いたといわれています(※ 『印象派美術館』、小学館、2004年)。

 両者の作品を見比べてみることにしましょう。

●クロード・モネ(Claude Monet)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年制作

 まず、モネ(Claude Monet, 1840-1926)の作品から見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、66×86㎝、1869年、ストックホルム国立美術館所蔵)

 画面を見た途端に印象づけられるのは、手前から画面中ほどまで描かれている川面です。さざ波を立ててゆったりと揺らぐ様子が、深く、陰影のある色合いで描かれています。左から右にかけての水面の動きには、穏やかで深淵な自然の息遣いが感じられます。

 向こう岸に立ち並ぶ木々は、褐色に近い淡い緑色で描かれています。荒っぽく言えば、濃い緑色で描かれた水面とは補色関係になっているのです。

 ボートが何艘か浮かんでいますが、いずれも舳先を円形の出島に向け、ほぼ同心円上に停泊しています。岸辺からの細い橋、水上カフェからの橋とも連結しており、この円形の出島がこの絵のメインモチーフに位置づけられています。

 淡い色で描かれた遠景の木々、手前左上から垂れ下がる暗緑色の枝、そして、濃淡に所々、補色の橙色を散らした水面によって、陽光が煌めく行楽地のひとときが見事に捉えられています。モチーフの配置といい、色彩バランスといい、味わい深い作品に仕上がっています。

 考え抜かれた構図の下、行楽地で楽しむ人々が俯瞰で捉えられています。人と自然が悦楽の中で調和するよう描かれているのです。

 一方、ルノワールは人物に力点を置いて、同じ場所を描いていました。

●ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)制作、《ラ・グルヌイエール》(La Grenouillère)、1869年

 この作品で、まず、観客の目が行くのは、円形の出島でしょう。そこに着飾った男女が大きな木の下で所狭しとばかりに集っており、華やかな賑わいが画面から立ち上っています。

(油彩、カンヴァス、99.7×74.5㎝、1869年、メトロポリタン美術館所蔵)

 左側には白い帆をつけたヨットが浮かび、右上にはボートに乗った人々がこのリゾート地を楽しんでいる様子が描かれています。泳いでいる人もいれば、談笑している人もいて、さまざまな愉楽、悦楽の様相がスケッチされており、画面に賑わいをもたらしています。

 よく見ると、左手前のボート、女性のドレス、水上カフェの庇や柱、遠景の木々などに、わずかにオレンジ色が差し色として添えられています。全般に淡く明るい色で構成された画面に、この差し色を添えることによって、華やかな画面の中に穏やかさと暖かさがもたらされていたのです。

 同じ場所でイーゼルを並べ、同じ対象を描いているのに、モネとルノワールの作品には明らかな違いが見られました。

 どのモチーフに力点を置くのか、構図をどうするか、色彩のバランスをどうするか、差し色をどの程度使うのか、等々、それぞれの作品を比較すると、画家としての個性がはっきりと画面に反映されていました。

 《ラ・グルヌイエール》は、モネにとっても、ルノワールにとっても、まだ画風を確立する前の作品です。それでも画面のそこかしこに、後年の画風を読み取ることができます。20代後半の作品ですでに、それぞれの個性が確立され始めていたことがわかります。

 これらの作品を取り上げ、紹介している動画がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2iSmHoV__qw

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 ラ・グルヌイエールはミドルクラスを対象としたパリ郊外のリゾート地でした。当時、人々は休日になるとここに来て、ボートを漕いだり、カフェで会話を楽しんだりしていました。

 モネとルノワールは共に、ブルジョワジーの生活を描いた作品に関心を抱いていましたから、このリゾート地は、恰好の画題だったのです。ここで彼らが共に、印象派のスタイルでブルジョワジーの生活の一端を捉えた作品を制作したのは当然の成り行きでした。

 さて、動画では、ボートや木々、人々の描き方について、両者の違いが指摘されていました。改めて、画家としての資質、個性の違いが感じられます。

 私はモネの作品には、考え抜かれた色遣いが秀逸だと思いました。まず、川面の動きが光と影の下、深みのある色でくっきりと描かれているのに惹かれました。さらに、手前の水面を際立たせるように、遠景の水面や背景の木々が黄褐色を交えた色で表現されていることに興味深く感じました。

 ボートの側面や波の合間に散らされたオレンジの差し色も効いています。多様な色を使いながら、補色関係を踏まえ、画面全体の色彩バランスが図られており、素晴らしいと思いました。

 一方、ルノワールの作品は、パステル調の色遣いがすでにこの頃から際立っていたのが印象的です。

 いずれも、彼らがまだ若く、夢を追っていた頃の作品です。興味深いのは、動画の中でプレゼンテーターが、彼らが金銭的成功を収めるのは、この数年後だと言っていたことでした。実際、その後、彼らの作品は多くの人々に受け入れられ、成功しています。

 モネとルノワールの作品を見ると、いずれも、すでにこのころから、ブルジョワジーを魅了する要素を秘めていたことがわかります。

■市民の意向が反映される美術市場

 思い返すのは、カミーユ・ピサロは息子宛ての手紙の中で、モネやルノワールの個展の後では、自分の作品が見劣りするのではないかと書き記し、深刻に悩んでいたことでした。

 ピサロが息子に手紙を出した頃、モネやルノワールはすでに多数の観客の注目を集める画家になっていたのでしょう。

 そこで、調べてみると、クロード・モネの個展が1883年2月に開催されていました。場所は画商デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りで開いた画廊でした。そこで、初期から最近作までの56点が展示されました。

 展覧会についてはピサロなどの批評は好意的でしたが、作品の売れ行きは悪かったようです。評判に反し、売れ行きが悪いので、モネはデュラン・リュエルに対し、展示方法や作品の選択、宣伝方法について激しく非難したそうです。(※ http://philatelic-art.com/Impression/Monet/nenpu_mo.htm

 美術市場が広がり、上流階級だけではなく、市民階級までも顧客となり始めた時代でした。たとえ批評家や画家たちから作品が高く評価されたとしても、作品の売れ行きがいいとはいえなくなっていたのです。

 もちろん、作品の売れ行きが悪くては、画家や画商にとって個展が成功したとはいえません。モネがデュラン・リュエルに対し、出品作品の選択、展示方法、宣伝方法などについて文句をいったのは、画廊側に売る為の戦略が欠けているように思えたからでしょう。

 その後、1か月を経て、1883年4月に開催されたのが、ルノワールの個展でした。この時もモネと同様、デュラン・リュエルが新しくマドレーヌ通りに開いた画廊で開催されました。初期作品から最新作まで約70点が展示されました。

 ルノワールは1878年から1881年まで毎年、立て続けにサロンに入選していました。当時、サロンに入選することは一般大衆にとって、その作品の評価を保証するものでした。購入意欲に大きく影響していたのです。

 ピサロは当時、アマチュア画家のウジェーヌ・ミュレへの手紙の中で、「ルノワールはサロンで大成功をおさめた」と記し、「貧乏はとても辛いですから」と書き添えています。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

 このことからも、サロンで入選すれば、売れ行きの保証になっていたことがわかります。立て続けにサロンに入選したルノワールは、マルセル・プルーストからも激賞され、以後、肖像画の注文が大幅に増えていきました。

 そして、1883年5月に同画廊で開催予定だったのが、ピサロの個展でした。

 ピサロがこの時期、思い悩んでいたのも無理はありませんでした。サロン入選者であり、著名作家からも激賞され、しかも、ブルジョワジーの嗜好に合う作品を描いていたルノワールの個展直後の開催だったのですから・・・。

 当時、新興ブルジョワジーの台頭とともに、美術市場に変化が訪れており、売る為の戦略が必要になりつつあったのです。

 デュラン・リュエルが買い上げた画家のトップはルノアールで1500点、次いでモネ1000点、そして、ピサロ800点、シスレー400点の順でした。新しく開いた画廊で彼らの個展を所蔵数の順に開催したのは当然でした。画家たちのお披露目を兼ねていたのです。ちなみに、シスレーはピサロの後、同年6月に個展を開催しています。

 パリで新しく開いた画廊で、デュラン・リュエルは印象派の画家たちの個展を立て続けに開催しました。作品の売れ行きなどから、彼はおそらく、新しい時代の動きを察知したのでしょう。その後、美術市場の開拓のため、アメリカでの印象派展を企画しました。

 1886年4月から5月にかけて彼はニューヨークで印象派展を開催し、大成功を収めました。パリ・モンマルトルに集っていた画家たちが創始した新しい芸術運動を、画商デュラン・リュエルが世界に認知されるきっかけを作ったのです。

 美術市場を取り巻く一連の動きの中で、ピサロはどのような思いでいたのでしょうか。

■ピサロはなぜ、ラニー派に参加したのか。

 ピサロは初めての個展開催を控え、1880年のエフルッシの批評を気にしていました。確かに、第1回印象派展に出品された、1872年の作品を見ると、その批評は決して的外れなものではありませんでした。指摘されるような要素は確かにあったのです。

 ただ、その後、ピサロの画風は大幅に改善されています。

 たとえば、1877年にセザンヌと共に、同じ場所で描いた風景画では、画面に鮮やかさが生み出され、ぎこちなさが消えて、優雅な華やぎさえも醸し出されていました。ピサロがエフルッシの批評を気にしていたからこそ、その後、画風を変えたのでしょう。

 ただ、根幹部分は変わっていないように見えます。

 彼の作品をいくつか見てくると、絵としてまとまっていますが、大胆さに欠け、写実の基盤から大きく逸脱することが出来ないように思えるのです。とくに、色遣いや色構成が平板に見えます。そのせいか、構図の取り方は巧みなのですが、それが観客に対する訴求力に活かされておらず、魅力に乏しいのです。

 そのような絵の特質がおそらく、ピサロの自信のなさ、焦りに繋がっていたのではないかと思います。

 折しも、新興ブルジョワジーの台頭とともに、顧客の意向や嗜好が絵の売れ行きを左右し始めていました。

 親しくしていたモネ、ルノワール、セザンヌなどが特徴のある画風で注目を集めていたのに対し、ピサロの画風は地味でした。しかも、彼自身、まだ確固たる信念の下、納得できる画風を築き上げることができていませんでした。

 そんな頃、ピサロは息子リュシアン・ピサロを通して、ラニー派を知りました。当時、ピサロが置かれていた状況を考えれば、印象派として知られていた彼が突如、若い世代のグループに参加したのも、当然のことのように思えてきます。

 スーラに会って話を聞き、彼が提唱した「点描」画法に、ピサロは引き込まれました。それは、印象派が辿り着いた「筆触分割」画法をさらに徹底させ、光学理論を取り入れた、画期的な科学的画法でした。

 すでに50半ばを過ぎていたピサロは、若い仲間とともに点描画法にのめり込んでいきました。

 その背景には、画家としての不安や焦りばかりではなく、必要であれば、新しいものを積極的に取り込んでいこうとする進取の気性が介在していたと思います。時代が大きく変わろうとしていた時期でした。(2022/3/23 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ④ラニー派と呼ばれた頃

 カロリュス・デュランなど著名な画家の下で学ぶ一方、同輩との交流を通して、リュスは美術界の新しい潮流に触れていきました。ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソンとの出会いは新しい潮流に乗るきっかけを作ってくれました。今回はラニー派と呼ばれた頃のリュスとその仲間たちの初期作品を見ていきたいと思います。

■ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソン

 1876年頃、木版画家フロマンの仕事場でリュスは、風景画家レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)や、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィ(Émile-Gustave Cavallo-Péduzzi, 1851-1917)と出会います。彼らはやがて、親しく交流するようになりました。

 知り合った時、リュスが18歳、ゴーソンが16歳、ペドゥッツィが25歳でした。画家を目指す若者たちはたちまち意気投合し、折に触れ、絵画について語り合うようになっていきます。

 当時、ゴーソンはパリ郊外のラニー=シュル=マルヌに住んでいました。パリ中心部から26.1km離れた東部マルヌ県に位置し、マルヌ川が静かに流れているところです。彼はここで生まれ育ちました。

こちら → https://hrvwiki.net/Wikipedia_L%C3%A9o_Gausson

 ゴーソンのキャリアを見ると、まず国立装飾芸術学校の夜間教室に通い、彫刻を学んでいます。ところが、リュスと出会った頃にはすでに絵画に転向し、風景画を描くようになっていました。

 スペイン出身の地元の画家Antonio Cortes (1827-1908)から、バルビゾン派について聞いていたといいますから、彼が風景画を描くようになっていたのは、その影響を受けていたからかもしれません。

 バルビゾン派とは、フォンテンブローの森を中心に集まって制作していた画家たちの総称です。彼らは1830年代から1870年代にかけてフランスで活動し、自然主義的な観点から風景画を写実的に描くのが特徴でした。

 それまでは背景としか見なされてこなかった風景を、彼らはメインモチーフとして取り上げ、ありのままに描きました。そのような制作姿勢が当時、台頭してきた市民階級の共感を呼びました。バルビゾン派の登場に伴い、美術市場では風景画への需要が高まっていきました。

 ゴーソンが彫刻から風景画家に転向したのは当然のことだったのかもしれません。

 生まれ故郷であるラニー=シュル=マルヌにはマルヌ川が流れ、周辺には緑豊かな田園風景が広がっていました。画家たちが景色を鑑賞し、題材を探すには恰好の土地だったのです。

 当時はおそらく、人々の気持ちをほっと落ち着かせ、和ませる光景がいたるところに見られたのでしょう。現在も景観を保つために行政が枯れ葉の処理をし、それを腐葉土として再利用して緑の保護に取り組んでいます。

こちら → https://www.lagny-sur-marne.fr/cadre-de-vie/environnement/ville-verte/

 リュスは一時期、この地を訪れ、ゴードンやペドゥッツィらと共に過ごしたことがありました。

 リュスが最初に滞在したのは1876年ですが、その後も頻繁に、ラニー=シュル=マルヌを訪れていたようです。兵役から戻ってきてからは、1885年の夏と1887年の夏、ゴーソンに会いに来ています。

 1885年といえば、この時期、ゴーソンは自身の絵画に新たに科学的な技法を導入しようと考えており、その思いをしたためた長い手紙をエミール・ゾラに書いていました。

こちら → https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/L%C3%A9o_Gausson

 一方のペドゥッツィは、1884年に初開催されたアンデパンダン展に出品した後、数年間は毎年、展覧会に出品しています。(※
https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi )

 こうしてみると、ゴーソン、ペドゥッツィはいずれもこの時期、意欲に燃えて、新た強い画法に取り組もうとしていたことがわかります。

 そこにリュスが加わり、3人はともに周囲を散策してはモチーフとなるスポットを渉猟し、時には共通の関心事である風景画について語り合い、また、時には、新しい画法を議論して過ごしていました。

 1885年、彼ら3人にルシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863 – 1944)が加わり、4人はラニー派を結成しました(※ https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/Groupe_de_Lagny)。

 ラニーの景色を題材に絵を描きながら、折に触れて、スーラ―が考案した新しい画法について議論し、その画法を試行していたのです。

 当時、彼らはどのような絵を描いていたのでしょうか。

 調べてみると、1885年に描かれたリュスとゴーソンの作品を見つけることができました。彼らがラニー=シュル=マルヌのどこに着目して制作したのかがわかります。それぞれ、見ていくことにしましょう。

●リュス制作、《ラニー周辺の風景》(1885年頃)

 のどかな田園風景が広がっています。リュスが1885年頃に描いた作品で、タイトルは《ラニー周辺の風景》です。

(油彩、カンヴァス、44×57.3㎝、1885年頃、ホテル・デュー美術館)

 手前に広がる草地に所々、黄色の花が咲いています。その上に穏やかな陽光が伸び、心和むような風景が広がっています。画面には右に大きな木、左側にはやや小さな木が立ち並び、画面全体のバランスがとてもよくレイアウトされています。

 草地の背後には赤褐色の屋根、白い壁の家が立ち並び、和やかに暮らす人々の生活を彷彿させます。家々の下には道路なのでしょうか、白い線が横に伸び、画面をバランスよく切り取っています。

 この作品に私は少し違和感を覚えてしまいましたが、それは、空が灰色がかった色で描かれていたからでした。

 大きな木、小さな木々に光が射し、草地にも明るい陽光が伸びています。これだけの太陽の光が射しているなら、空の色がこれほど暗いはずはないと思ったのです。家々の屋根といわず、壁といわず、明るい光が射し込み、白く光っています。その下の小道も同様です。

 それなのに、なぜ、空がこれほどまでに暗いのでしょうか・・・。いまにも雨が降って来そうなほどどんよりとした色合いにせいで画面の整合性が失われています。

 リュス自身、後年になって、そのことに気づいたのではないかと思います。

 1887年に友人のジョルジュ・タルディフ(Georges Tardif)に宛てた手紙の中で、この空の色について不満を記しているのです。(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.17.)

 はじめてラニーを訪れて以来、リュスは何度も出かけてはラニー周辺を散策し、画題となる場所を探していました。おそらく、陽光の中で輝く風景を捉えたかったからでしょう。

 この作品の木々や草地、家々の描かれ方と、空の色に対するリュスの不満からは、当時、彼が陽光の恵みを感じさせる明るさを求めていたことが感じられます。

 一方、ラニーで生まれ育ったゴーソンは同時期、マルヌ川を捉えた風景を描いています。

●ゴーソン制作、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》(1885年)

 リュスの《ラニー周辺の風景》と同時期に描かれた作品です。ゴーソンが取り上げたのは、マルヌ川の橋げた近くの洗濯船でした。

(油彩、カンヴァス、46×65㎝、1885年、ガティエンボネ美術館)

 マルヌ川の対岸から、橋桁近くの洗濯船が捉えられています。画面の大半は、波打つマルヌ川の川面で占められています。

 興味深いのは、手前の岸辺の草が黄褐色で明るく輝き、その輝きが川の中ほどで、煌めく川面に呼応していることでした。これによって、左手前から中ほど中央へと観客の視線が誘導されます。

 さらにその先の対岸には、家々が建ち並び、その屋根や壁もまた、射し込む光によってひときわ明るく輝いています。雑草が風にそよぐ岸辺からマルヌ川を経て対岸の建物へと、降り注ぐ陽光によって、画面に統一感が生み出されています。そのせいか、この作品には、陽光がもたらす恵みへの憧れが感じられます。

 ところが、空はどんよりとし、岸辺や川面、家々の屋根や壁に落ちる明るい陽射しに呼応していません。この作品でも、空の色が不釣り合いに暗く、画面の整合性を失わせています。

 画面の下半分を占めるモチーフが、さまざまな形で太陽光を巧みに取り入れて表現されているのに反し、その光を発しているはずの空がアンバランスに思えるほど暗いのです。

 先ほどご紹介したリュスの作品も、空の色はどんよりとして暗く、違和感がありました。同時期に描かれたゴーソンの作品も同じように暗いということからは、ひょっとしたら、ラニー=シュル=マルヌの空自体、実際にこのような色だった可能性が考えられます。

 さて、この作品のタイトルは《ラニー、マルヌ川の洗濯船》です。うっかりすると、見落としてしまいそうですが、タイトルからは、ゴーソンが描いていたのは、マルヌ川の橋桁近くの洗濯船だったと思われます。

 確かに、橋桁近くの川辺に何かが見えます。ひょっとしたら、これが洗濯船なのかもしれませんが、よく見ても、すぐにはわからないほど、対岸の風景の中に沈み込んでしまっています。

 目を凝らして画面を見ると、屋根付きの船が対岸に何艘か、停泊しているのがわかります。はたしてこれが洗濯船なのかどうか、よくわかりません。そこで、調べてみると、1923年以前とされるマルヌ川の洗濯船を撮影した写真が見つかりました。

 写真撮影されているぐらいですから、当時、地元の人々にとっては馴染みの光景であり、生活風景の一つだったのでしょう。ラニー生まれのゴーソンにとってはとりわけ、欠かせない画題だったのかもしれません。

 洗濯船について、さらに調べてみると、動画が見つかりました。これを見ることで具体的にこの船の機能がわかり、当時の人々の生活の一端を知ることができました。

こちら → https://youtu.be/fZU1SPdIqPc

 1969年に撮影された映像です。川に停泊させた船の中から、中高年女性たちが腰をかがめて、川の水でごしごしと力を込めて洗っているのです。数多くの衣類を際限なく洗濯する女性たちの姿を見ていると、非常に辛い仕事であることがわかります。

 このような写真や映像を見た上で、改めてゴーソンの作品を見ると、彼がなぜ、この画題を選んだのかがわかるような気がしてきました。空がどんよりと描かれているのも、決して不自然ではなく、彼女たちの気持ちが反映されたもののように思えてきます。

 ゴーソンの作品を一見すると、単なる風景画にしか見えませんが、タイトルにこだわって、画面を見直してみると、実は、美しい風景の中に、過酷な労働の現場が捉えられていることに気づきます。

 この作品からは、ゴーソンが科学的な画法だけではなく、社会的課題についても関心を抱いていることが示唆されています。

 同時期にラニー=シュル=マルヌを描いたペドゥッツィの作品を、見つけることができませんでした。1888年頃に当地で描かれたと思われる《Les lavandières》を見つけることができましたので、ご紹介することにしましょう。

●ペドゥッツィ制作、《Les lavandières》(1888年頃)

 タイトルの“lavandière”は、洗濯女という意味です。この作品に何故、こんなタイトルが付けられているのか、すぐにはわかりませんでした。

(油彩、」カンヴァス、45.8×38㎝、1888年頃、所蔵先不詳)

 この作品を見て、まず、印象に残るのは、真正面に見える白い建物です。手前右から小さな道が小川を超えて伸び、遥か遠くの白い建物にまで続いています。まるで観客を誘導していくかのように、この小道は小川や周囲の草むら、そして、傾斜地に建つ建物の前の塀のようなものまで、案内しながら見せてくれます。

 画面中ほどには、葉を落として幹だけになった木々が数本、高く聳え立っている様子が描かれています。これらの木々はのどかなこの景観を縦に区切るだけではなく、その奥行きと広がり、高さを感じさせる一方、大きく広がる空の存在に気づかせてくれます。

 改めて空を見ると、淡い水色、ピンク、クリーム色で色構成されているのが印象的です。画面半分ほどの面積を占める空の下、たなびく雲の合間から射し込む陽光が、辺り一面を柔らかく、暖かく包み込んでいます。

 点描画法と淡いパステル調の色遣いで描かれた画面はなんともいえず優しく、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれます。

 一見、風景画にしか見えませんが、タイトルは「洗濯女」です。不思議に思い、画面をよく見ると、左前景に蛇行する小川の縁で女性が洗濯している様子が描かれています。

 点描画法で描かれているので、気づきにくいですが、手で洗濯ものを掴み、川の水で洗っている女性の様子がわかります。

 そういえば、ゴーソンもまた、洗濯をテーマに、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》を描いていました。当時、洗濯がどれほど大変な仕事だったのか、ゴーソンやペドゥッツィの作品からは、洗濯が女性に課せられた大変な労働の一つだったことがわかります。

 風景画の中にさり気なく、洗濯する女性を描いたゴーソンやペドゥッツィの制作姿勢に、彼らの社会観や芸術観、絵画に求める社会性が透けて見えてきます。

 それにしても、なんとユニークで興趣のある構図なのでしょう。

 高く伸びた木々が創り出す縦の線、建物群が建つ坂の左に下がる斜めの線、それに呼応するように、長い雲が右に垂れさがった斜めの線、この二つの斜線は画面をはみだした外側で交差していそうです。細い小道は「く」の字状に折れ曲がり、手前から奥に流れる小川は緩く蛇行し、柔らかい曲線を創り出しています。

 縦線や斜線、曲線がモチーフを繋ぎ、画面に奥行きと広がり、動きと活力をもたらしています。そればかりではありません。点描法による描き方とパステル調の色遣いが、風景の中にさり気なくモチーフを配置した構図と見事にマッチして相乗効果を上げ、画面から爽やかで快い雰囲気が醸し出されているのです。

 ゴーソン、リュス、ペドゥッツィ、ルシアン・ピサロがラニー派を結成したのが1885年、それからわずか3年で、この作品が点描法で描かれているのが興味深く、ペドゥッツィがこれ以前にどのような作品を描いているのかが気になって、調べてみました。

 すると、1880年にラニーの光景を描いたと思われる《Les toits de chaume》というペドゥッツィの作品を見つけることができました。

●ペドゥッツィ制作、《Les toits de chaume》(1880年制作)

 “Les toits de chaume”は、「藁ぶき屋根」という意味です。この作品も《Les lavandières》と同様、風景の中に人物を配置した作品です。

(油彩、カンヴァス、83.5×61.3㎝、1880年、所蔵先不明)

 ペドゥッツィは1880年に母を亡くし、7月に結婚して11月にはラニーに引っ越しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi

 ラニーに転居した頃に描かれているので、この作品はおそらく、ラニーの風景を描いたものでしょう。日が落ちる前の陽光が画面左に並ぶ藁ぶき屋根に反射しています。正面奥に見える石造りの建物から続く小道を女性が荷車を押して、こちらに向かってきています。

 この女性はペドゥッツィ母親の追憶の姿なのでしょうか、それとも、結婚したばかりの妻なのでしょうか。描かれた女性は荷車を押して何かを運んでいます。《Les lavandières》と同様、女性が働く姿が、風景の中に溶け込むように描かれています。

 藁ぶき屋根の家、周辺の草むら、背後の木々など、この作品のモチーフのほとんどが暗褐色、暗緑色がで描かれています。そのため、画面が暗く、一見、モチーフを識別しがたいのですが、屋根の縁、小道の際など、要所要所に明るい色がハイライトとして配されているので、画面の暗さはむしろこの作品を深める効果をもたらしています。

 1880年に描かれたこの作品には点描画法の片鱗も見えません。むしろクールベのような写実主義の作品に見えますし、ピサロのような印象派の作品にも見えます。ペドゥッツィはこの時期、まだ画風を確立していなかったのでしょう。

 ただ、風景の中に働く女性を配置するという点、淡いパステル調の色調の中に雲がどんよりと垂れこめている空が描かれ、その空の面積が画面のほぼ半分ほどを占めているという点など、1888年に描かれた《Les lavandières》と1880年に描かれた《Les toits de chaume》には共通性があります。

 これがおそらく、ペドゥッツィが好む画題なのでしょうし、画風なのでしょう。

 《Les toits de chaume》は夕刻の光景が情緒豊かに描き出されています。右の木の奥から淡い陽光が水平に射し込み、藁ぶきの屋根の傾斜部分を照らしています。荷車を押しながら帰路に就く女性を添えることで、残照に照らし出された農村の一光景が輝いて見えます。

 この作品が描かれたのが1880年、ペドゥッツィが29歳の時の作品です。このころはまだ印象派風の画風でした。リュスと出会って4年経っていますが、まだ点描画法の欠片も見えません。ところが、1888年の作品は明らかに点描画法で描かれています。

 ラニー派といわれる彼らはいったい、いつ頃、点描画法を取り入れるようになったのでしょうか。

 ちょうど1885年頃、ゴーソンらのグループに、カミーユ・ピサロとリュシアン・ピサロの親子が参加しました。カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)は当時、ラニー派の画家たちに、自身が惹きつけられているスーラの理論と画法を説いていたといいます。

 それにしても、印象派の画家として名を成していたカミーユ・ピサロがなぜ、ゴーソンらのグループに参加したのでしょうか。(2022/2/28 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ③リュスは何故、デュランの画法に倣ったのか。

 前回書きましたように、リュスが描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、一見、デュランの《母の肖像》(1876年)と遜色のない、見事な出来栄えでした。ところが、どういうわけか物足りなさを感じさせられたのです。

 一体、何に引っかかりを覚えたのでしょうか。

 そこで、今回はまず、なぜ、私がリュスの作品に物足りなさを感じたのか、その理由を探ることから始めたいと思います。

■リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)vs デュランの《母の肖像》(1876年)

 リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》の場合、まず、印象に残るのは、肌の艶の良さです。光と影を意識し、ハイライトを多用しているせいか、高齢者の肌にしては艶が良すぎるような気がします。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 確かに、加齢はしっかりと顔貌に刻み込まれています。額の皺、目の下のたるみ、そして、鼻の両側から口角の外側にほうれい線といった具合に、明暗を意識した色遣いで、老いの諸相が丁寧に捉えられています。

 正面を見据える目は、瞼を支える筋力が重力に負けて垂れ下がり、瞳の面積が小さくなっています。そして、向かって左側の目は充血しており、血管がもろくなった高齢者特有の現象が的確に描かれています。顔面のどこからも「老い」を見逃さず、見事なまでに表現されているところに、リュスの観察力の鋭さを感じさせられます。

 顔貌に現れた老いは逐一、捉えられ、光と影を意識して色表現されています。まるで実物を目の前にしているかのような錯覚に陥ってしまいます。写実的で、躍動感に溢れた描かれ方をしているせいでしょうか、老いてなお元気で暮らしている様子がうかがい知れます。

 一方、デュランの《母の肖像》の場合、額の皺やほうれい線など、老いの様相が細かく描かれているわけではありません。どちらかといえば、ラフなタッチと色遣いで顔貌の「老い」がさり気なく、表現されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 光と影を意識して描かれていますが、ハイライトは鼻先に少し置かれている程度です。それだけに、全般に肌に艶がなく、萎んで見えます。脂っ気のない高齢者特有の肌が際立って見えるのです。

 萎んだ肌、くぼんだ眼窩から静かにこちらを見つめる視線、そして、歯の一部が欠けているのではないかと思えるような口元、それらが一体となって、老いと孤独、寂寥感を強く感じさせます。

 こうして見比べてみると、デュランの作品の方が、はるかに優れた表現力を感じさせます。両者とも光と影を意識して高齢者の顔貌を描いているのですが、ハイライトの置き方で、これだけの違いが出ているのです。

 一方は表面的な老いをきめ細かく描くにとどまり、他方は内面の老いを深く描くことができているように思えます。

 両作品に見られる大きな違いは、肌の艶でした。

 ハイライトを多用し、肌の艶を写実的に表現したリュスは、おそらく、そのせいで、内面の「老い」を描くことができませんでした。枯れる、萎びるといった要素を表すことができなかったからだと思います。

 肖像画では、明るく、きめ細かな肌、生き生きとした肌の艶、さらには、顔を引き立てるための衣装、等々が一般的です。デュランの肖像画のほとんどがそうでした。おそらく、その技法に倣って、リュスは《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)を仕上げたのだと思います。

 一方、それまでの画風とは違って、デュランが写実的に仕上げたのが《母の肖像》でした。艶もなく、萎んで見える肌が、内面の老いを深く描き出していました。

 デュランの数多くの作品の中で、リュスが影響されたのは、この《母の肖像》だとされています。ところが、興味深いことに、この作品に刺激されて制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、デュランがこれまで肖像画で採用していた画法だったのです。

■明るく、きめ細かな肌、顔を引き立てる衣装

 デュランのさまざまな肖像画を見てくると、画力が秀でているばかりか、モデルの魅力を最大限に引き出す技術に長けているといわざるをえません。モデルから美しさ、品格、あるいは、威厳を引き出し、それを的確に表現する技能に卓越したものがあるのです。依頼者からはさぞかし喜ばれたことでしょう。

 果たして、デュランは何に留意して肖像画制作に臨んでいたのでしょうか。

 肖像画家として人気のあったデュランが心掛けていたのが、明るく、きめ細かな肌であり、モデルの顔を引き立てる衣装であり、構図でした。

 たとえば、《フェドー夫人の肖像》(Portrait de Madame Ernest Feydeau)という作品があります。デュランが1870年に制作された作品で、こちらは、いかにも肖像画といった趣があります。

 この作品にはデッサン、色味を確認するためのラフスケッチなどが残されています。デュランがどのように肖像画を仕上げていったのか、その過程を追うことができる資料が残されているのです。

■《フェドー夫人の肖像》、その制作過程を見る

●《フェドー夫人の肖像》(1870年)

 この作品は1870年に制作されました。当時、デュランは33歳で、肖像画家として人気が高まっていた頃の作品です。その2年前には画家クロワゼット(Pauline Marie Croizette:1839-1912)と結婚していました。

(油彩、カンヴァス、230×164㎝、1870年、リール美術館)

 黒地の背景の下、妖艶な女性がこちらを向いてかすかに微笑んでいます。毛皮で縁取られた銀色のドレスの光沢が目に鮮やかです。アクセントとして取り入れられたブルーの髪飾り、胸元のリボン、そしてドレスの下からのぞくブルーのペチコート・・・、それらすべてが、上品で華やかなフェドー夫人の美しさを強調しています。

 豪華なドレスの足元には黒の子犬が描かれています。どうやら黒チワワのようです。一般に、チワワは飼い主に忠実な性格をしているといわれていますが、まさにその通りの様子で夫人を見上げています。たくし上げられたドレスの裾から、ブルーのペチコートが露になって、黒い子犬の姿を引き立てています。

 子犬の頭、背中、床を踏む後ろ足は、斜めのラインでつながっており、光沢のあるドレスの斜め下に流れる皺のラインと呼応しています。画面上の流れを生み出し、子犬の視線が行き着くよう計算された構図が秀逸です。

 しかも、縦230㎝、横164㎝の巨大なサイズの作品です。大邸宅でなければ飾ることができませんし、描かれるモチーフもそれなりの重みが必要です。

 夫人の華やかな美しさ、豪華なドレス、優雅な佇まい・・・、それらが一体となって、この大画面に負けない魅力を放っていました。デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 調べていくと、この作品を仕上げるまで、デュランが念入りに準備をしていたことがわかりました。まず、デッサンから見ていくことにしましょう。

●デッサン

 克明に描かれたデッサンです。

 モチーフの形状も構図も完成作品とほぼ同じですが、異なる点がいくつかあります。

 まず、背景です。夫人がカーテンの前に立っている構図が採られています。カーテンにそっと手をかけ、顔と身体の隣に黒の空間を作っています。夫人の顔面やドレスを際立たせようとしたのでしょうが、カーテンの存在がはっきりしすぎていて、メインモチーフの豪華さを弱めています。

 次に異なるのが、夫人の体の向きです。デッサンでは、夫人の顔から足元に向けてのラインが比較的まっすぐになっています。とくに、上半身、腹部周りの量感がやや乏しく、権威を感じさせるだけのボリュームが足りません。

 このデッサンを見ていると、持ち上げたドレスの裾の毛皮のラインと、光沢のある布の皺のライン、子犬の背面から足へのラインが呼応するよう、最初から構想されていたことがわかります。

 完成作品とデッサンとを見比べてみると、これら一連の斜めのラインと夫人の顔の傾げ方とが連動しており、上品な仕草の中に見られるややコケティッシュな表情が浮き彫りにされていることがわかります。

●ラフスケッチ

 この作品のために、デュランは色彩をチェックするためのラフスケッチも描いていました。

 ここでは、光と影を意識した色彩構成が試行されています。完成作品と見比べてみると、最初から、髪飾り、胸元の花、ドレスの裾からのぞくペチコートを鮮やかな空色で統一しようとしていたことがわかります。

 肖像画全体の差し色として、ブルーを選んだのです。夫人のイメージに近いからか、全体を上品で落ち着いた雰囲気にしたかったからなのか、暖色ではなく、寒色を選んでいるのです。

 大きな面積を占めるドレスの色は、ブルーの補色である黒みがかったオレンジ色で試しています。一方、襟元、袖口、ドレスの裾を縁取る毛皮はその色に合わせ、焦げ茶色で統一されています。

 さらに、明るく見える箇所、光沢のある個所はアイボリーホワイトを置き、光と影を意識し、その効果を想像しながら、ラフに色構成がされています。

 結果として、ドレスの色は銀色になり、襟元、袖口、裾を縁取る毛皮は黒に変更されています。

 こうして見てくると、克明なデッサンを描き終え、構想を定着させた後もなお、デュランがさまざまに試行錯誤を重ねていることがわかります。一枚の肖像画を仕上げるために、かけた多大な努力に比例し、画面は華やかでありながら、品格のある仕上がりになっています。

 もちろん、デュランは家族の肖像もいくつか描いていますが、こちらも依頼された肖像画と同様、モデルは着飾って、ポーズを決めて画面に収まっていることに変わりはありません。

 ところが、《母の肖像》(1876年)はそれらの肖像画とは一線を画していました。デュランの肖像画に見受けられる新古典主義的要素が見当たらないのです。

 デュランの制作過程の一端を見てくると、どちらかと言えば、リュスの《オクタヴィアおばさん》(1880年)の方が、デュランの肖像画の画法を引き継いでいるように思えます。高齢者をモデルにしながらも、写実的に描かれたその肌艶に生の輝きが感じられるからでした。

■リュスはデュランから何を学んだのか。

 それでは、リュスはデュランから何を学んだのでしょうか。

 《フェドー夫人の肖像》(1870年)の制作過程を、色付けの側面から見ていくと、何故デュランがモチーフに生命を吹き込むことができたのかがわかるような気がします。

 光と影を意識して、モチーフの色構成を綿密に行い、色彩によって動きを生み出し、画面全体の調整を図っていました。だからこそ、二次元の平面画像に生き生きとした生命の輝きを持ち込むことができたのではないかと思います。

 こうしてモチーフに躍動感を与えることができているからこそ、上流階級から人気のある肖像画家になれたのではないかという気がするのです。デュランの手にかかると、二次元の世界に封じ込められたはずのモデルに、三次元の世界の躍動感がもたらされるのです。

 《オクタヴィアおばさん》(1880年)の肌艶の良さを思い返すと、リュスが、デュランの典型的な肖像画の画法を踏まえて描いていたことがわかります。リュスはおそらく、デュランの色遣いの技法を真似たのでしょう。

 ところが、デュランの画法を真似て、《オクタヴィアおばさん》を描きながらも、リュスはデュランの画法を好ましいとは思っていなかったと指摘されています。

(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 リュス自身、この技法では表面的なリアルさしか捉えられないことに気づいたからかもしれません。

 もっとも、この作品を描くことはリュスにとって、当時、主流だったアカデミズムの教育を受けたのと同等の価値があったようです。

 アカデミー会員であったデュランの指導を受け、その画法を真似ることによって、リュスはしっかりとしたアカデミー教育を受けていることを示すことができました(※ 前掲 p.14. Silvana, 2019)。難しい国立美術学校に入学しなくても、デュランの下で学んだという経歴はそれと同等のキャリアとみなされるメリットがあったのです。

 当時、画家を志す者にとって、アカデミーは美術界の権威でした。

■アカデミーを席巻していた新古典主義

 フランス革命後、サロンにはアカデミーの会員以外も出品できるようになりました。ところが、その後、不適切な絵画が出品されるようになり、アカデミーの改革が行われた結果、審査制度が導入されました。審査員はもちろん、アカデミーの会員です。ドミニク・アングルが新古典主義の正統を受け継ぎ、それに対抗して、ジェリコーやドラクロアなどのロマン主義の潮流も生まれていました。

 市民階級の台頭とともに芸術の大衆化が進み、サロンはやがて、新興市民階級を対象とする作品展示場の様相を呈するようになっていきました。ナポレオン三世の統治下でパリの大改造が行われ、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となりました。作品展示場としてのサロンの役割はさらに大きくなり、画家が作品を売るにはサロンでの成功が不可欠になっていったのです。

 ところが、その審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われました。様々な画風の画家が登場し、美術市場が拡大していたにもかかわらず、審査基準は依然として新古典主義を規範としていたのです。

 マネやモネ、ルノワールといった画家たちが次々と落選し、サロンの審査基準は明らかに市場の動向と合わなくなっていました。バルビゾン派、バティニョール派、印象派などの画家たちが活躍しはじめており、サロンやアカデミーに代表される美術界の権威が失墜して行くのは目に見えていました。

 デュランは美術アカデミーの会員でした。1889年から1900年まで万国博覧会の審査員を務め、1890年には国民美術協会(Société nationale des beaux-arts)の設立に貢献しています。そして、1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲し、ローマ賞を受賞していないのに、1905年から1913年までローマのアカデミー・フランスの校長を務めています。

(※ https://www.villamedici.it/en/directors/duran-carolus/

 スペインやイタリアの肖像画の伝統を学び、上流階級の肖像画を数多く手掛けながら、新古典主義の画風を確立していました。デュランはアカデミズムの体制に馴染み、サロンの審査基準そのものであり、当時のフランス美術界の権威の一つでした。

 確かに、デュランが描いた数々の肖像画には、スペインやイタリアの伝統的な肖像画の痕跡が見られます。その一方で、アカデミーの主流である新古典主義の要素も見受けられます。デュランはルネサンス以来の伝統を踏まえ、フランスのアカデミズムの真髄を把握した画家だったのです。

 1880年、アカデミーと美術行政との対立を機に、ついに国家主催のサロンが取り止めになりました。官製のサロンが閉鎖された年に、リュスは、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いています。

■《オクタヴィアおばさんの肖像》1879年作 vs 1880年作

《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)について、色々調べていくうちに、この作品以外に、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いていました。描かれたのは1879年、この作品の1年前でした。

 リュスは1879年に《オクタヴィアおばさんの肖像》を描き、気に入らなかったのか、1880年に再び、同じタイトルで制作していたのです。両者のどこがどう違うのか、まずは1879年制作の作品から見ていくことにしましょう。

●もう一つの《オクタヴィアおばさんの肖像》(Portrait de la tante Octavie、1879)

 1879年頃、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》という作品を描いていることがわかりました。リュスが描いたとは思えないほど、1880年に描かれた作品とは画風が異なっています。とても素朴で、どちらかといえば、稚拙に見えます。別人の作品ではないかと疑ってしまうほどですが、Wikimedia Commonsには、Maximilien Luce – Portrait de la tante Octavieと記されているので、リュスの作品だということは確認されており、保証されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1879年頃、所蔵先不詳)

 一見、写生風の作品です。

 暗い室内で、高齢女性が椅子に座り、絵のようなものを、身をかがめて覗き込んでいます。膝はひざ掛けで覆われ、近くの暖炉には火があり、テーブルにはポットとティーカップのようなものが置かれています。質素な暮らしぶりですが、寒さをしのげる暖かさはありそうです。粗いタッチのなかに、高齢女性の暮らしぶりが手に取るようにわかる作品です。

 ちょっと気になったのが、暖炉の描き方です。構造的な面に違和感があります。本当にリュスの作品かどうか、疑問に思ったのがこの箇所でした。

 もっとも、これはリュスが21歳の時の作品です。それまで木版画職人としての修業をし、画家になろうと決意してからまだ3年しか経っていません。描き方に稚拙な部分があっても当然といえば、当然でした。

 さて、1879年に描かれた作品は、肖像画というよりも、オクタヴィアおばさんの生活の一端を捉えた一種の風俗画です。

 この作品から推し量れるのが、当時のリュスの画風であり、画力だとするなら、自然主義、写実主義こそ、21歳のリュスが求めていたものだといえるでしょう。この作品からはデュランの影響の片鱗すら見ることはできません。

 当時、クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)、ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier,1808-1879)など、日常生活を画題に写実的に描く画家が登場していました。描き方は稚拙ですが、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》は、この系統に属する作品のように思えます。

●デュランに影響された《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 リュスが1880年に制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》は、モデルが上半身で捉えられ、衣装と顔貌が写実的に描かれています。モデルは観客を正視するアングルで描かれており、まさに肖像画といえる作品でした。肖像画家として人気のあったデュランの《母の肖像》と遜色のない出来栄えだといえるでしょう。

 リュスはわずか1年間で、デュランが得意とする肖像画の骨法を習得していたのです。

 1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》は、デュランの影響が歴然としていました。1979年に描かれた同じタイトルの作品とは大幅に異なっています。画法が異なっているのは当然として、モデルとの距離の取り方、明暗、レイアウト、背景、さらには、対象に対する観察力まで大きな違いが見られるのです。

 同じタイトルでありながら、まるで別々の画家が手掛けたように、異なっています。1880年の作品は、リュスが自分を抑え、デュランを模倣することに徹して、描いたことがわかります。

 そう考えると、1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》の中にこそ、肖像画家デュランからリュスが学んだエッセンスが詰め込まれているはずです。

 果たして、それは何でしょうか。

 その一つはすでに、デュランの《母の肖像》との比較で考えてみました。それは、デュランが肖像画で駆使していた光と影を意識した色構成でした。ハイライトを多用し、生き生きとした肌艶を表現する技法を、リュスはデュランから学び取ったと思われます。

 それでは、1879年の作品との比較で何が見えてくるのでしょうか。調べていると、面白い記事が見つかりました。

 「カロリュス・デュランが対象とする上流階級の肖像画とは対照的に、リュスは労働者階級の肖像を好んだ」と書かれています。

(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 そのような観点からみれば、リュスがデュランの画風を好まなかった理由がわかるような気がします。リュスの出自を考えれば、労働者階級の生活や人々を描きたいと思うのは当然でした。

 実際、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》では、顔貌だけを捉えるのではなく、質素な暮らしぶりまでも捉えられています。肖像画といいながら、リュスは顔貌や衣装だけではなく、その生活背景までも描こうとしていました。日々の営みによって人は生き、考え、感じ、暮らしているという信念に基づくものでしょう。

 リュスは労働者階級の息子として生まれ、モンパルナスで育ちました。1871年のパリコミューンを13歳の時に経験しています。リュスは、働かなければ食べていけない人々の側に立って、世界を観ていたのではないかという気がします。

 一方、デュランはもっぱら上流階級の人々に支持され、人気肖像画家として一世を風靡していました。ものの見方、対象の捉え方が違って当然でした。もちろん、デュランの新古典主義的な画風を好ましいと思っていなかったでしょう。

 それではなぜ、リュスはデュランの下で学んでいたのでしょうか。それについて図説では、次のような興味深い解説が寄せられていました。

 「デュランの教えには必ずしも満足していなかったが、国立美術学校に入学したのと同様の教育を受けることができ、自信をもって絵を描き進めることができた」(※ 前掲)と記されており、デュランの下で学んだことの対外的効果が説明されていたのです。

 アカデミーの会員であり、後に美術界の要職を歴任することになるデュランの下で学ぶことによって、リュスは、当時のフランス美術界の体制に沿って活動していくためのパスポートを得たのです。

 そもそもリュスは、木版画職人として生計を立てていこうとしていました。ところが、技術進化のせいで木版画職人に未来がないと判断し、画家に転向しました。それだけに、美術界の動向に敏感にならざるをえなかったのでしょう。

 リュスは画家への転身を決意すると、デュランのアトリエに入り、油彩画技法を学んでいました。ところが、デュランの下で学びながらも、リュスは必ずしも彼の画法を好んではいなかったそうです。

 図録では、その理由として、デュランがいかにもサロンの画家らしい形式的でオーソドックスな描き方をしていたからだと記されています(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)。

 ところが、《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)には、デュランの肖像画技法がしっかりと取り入れられていました。好んでいなかったとはいえ、デュランの技法をリュスは完璧にマスターしていたのです。当時のフランス美術界でのデュランの位置づけを振り返ると、リュスの行為は当然と言えば当然でした。(2022/1/31 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ②カロリュス・デュランに学ぶ

■カロリュス・デュランの下で学ぶ

 リュスは木版画職人としての修業を終えると、木版工房で働きながら、画塾に通ったり、著名な画家のアトリエに出入りしたりし、独自に絵画を学んでいました。

 1876年になると、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)の下で学び始めます。当時、デュランは、パリの上流階級の人々を数多く描き、肖像画家として人気がありました。すでに数々の賞を受賞し、画家としても教育者としても評価されていました。1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲するほどの大御所でした。

 そのデュランに師事し、リュスは油彩画の手ほどきを受けるようになります。きっかけとなったのはアカデミー・シュイスでした。そこで教えていたデュランと出会い、無給の学生として彼のアトリエに受け入れられることになったのです。(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 デュランは若い頃、スペインに旅し、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599-1660)の作品から強く影響を受けたといわれています。

■ベラスケスの肖像画

 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家です。国王フェリペ4世に気に入られ、宮廷画家として長年、国王や王女、宮廷の人々の肖像画を描いてきました。彼が、王女マルガリータ・テレーサを描いた一連の作品の一つに、《白い服の王女マルガリータ・テレーサの肖像(La infanta Margarita)》(1656年)があります。

(油彩、カンヴァス、105×88㎝、1656年、ウィーン美術史美術館)

 スペイン国王フェリペ4世の長女、マルガリータ・テレーサが5歳の時の肖像画です。ぷっと膨らんだ頬、緊張した口元、白く透き通るような肌、なんと愛くるしいのでしょう。やや不安げで、可憐な表情が生き生きと描き出されています。綺麗に梳かしつけられた金髪もまだ薄く、柔らかく、この時、マルガリータがわずか5歳でしかないことを思い起こさせてくれます。

 ところが、身に纏っているドレスには、銀糸で模様が刺繍された光沢のある布地が使われています。そして、首回り、襟、胸元、袖などには、金と黒の刺繍が施されており、人目を引きます。さらには、腰幅を広く見せるため、異様なほど大きなペチコーまで着用しています。

 まだ年端もいかない幼児なのに、成人女性と同じようなスタイルの衣装を着用しているのです。

 胸やラグランスリーブの端、袖口にはオレンジ色の花飾りが付けられています。おそらく、可愛らしさを演出するためでしょう。子供らしさを感じさせる要素はそれだけですが、この豪華な服を着せられたマルガリータは健気にも、姿勢正しくポーズを取っています。

 ひょっとしたら彼女はこの窮屈さを、王室に生まれた者の定めとして、我慢しなければならないものの一つとして、幼いながらも、受け入れていたのでしょうか。

 いま見れば、この衣装があまりにも豪華で、堅苦しく、儀式的なので、違和感を覚えてしまいますが、おそらく、これが当時のスペイン宮廷の様式だったのでしょう。

 王家の肖像画には、富みと権力を所有する者の証として、権威と威厳が備わっていなければなりませんでした。たとえ幼いマルガリータが対象だとしても、ベラスケスはそのための設定を避けることはできなかったのでしょう。

 ベラスケスが手掛けた肖像画には、権威、威厳、豪華、華麗、上品といった要素がふんだんに盛り込まれていました。写真技術がまだ発明されていなかった時代、肖像画こそが個人や家族のステイタスシンボルとして機能していたからでした。

 実際、肖像画は個人を確認する証明書としても、個人や家族の歴史を記録するアーカイブとしても有効でした。

 興味深いエピソードがあります。

 マルガリータが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する前のことです。それ以前から両者の婚姻は既定路線だったのですが、マルガリータが適齢期になると、スペイン宮廷はベラスケスに描かせた子供の頃の肖像画をいくつか、レオポルト1世に送ったそうです。遠路はるばる会いに行く危険を避けて、肖像画で代用したのです。(※ https://www.habsburger.net/en/chapter/leopold-i-marriage-and-family

 このエピソードからは、肖像画が、本人の確認あるいは、本人のアーカイブも兼ねて機能していたことがわかります。それだけに、肖像画に写実性は不可欠でした。

 ベラスケスはそのための油絵技法を長年にわたって錬磨し続けてきたのです。それを後世のマネやデュランが高く評価し、影響されました。

 それでは、ベラスケスの影響を受けたとされるデュランが、どのような肖像画を描いていたのか、見ていくことにしましょう。

■デュランの肖像画

 肖像画の中でも、「母と子」は重要な画題の一つでした。家族愛、家族の絆の象徴であり、上流階級にとっては、一族の繁栄を示すもの、あるいは、富の継承を示唆するものでもあったからです。デュランも、母と子の肖像画を描いています。

 たとえば、《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(Mother and Children (Madame Feydeau and Her Children), という作品があります。

●《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(1897年)

 この作品では、フェドー夫人とその子供たちが描かれています。当時、人気のあった劇作家、ジョルジュ・フェドー(Georges Feydeau, 1862-1921)の妻とその子供たちがモデルです。

(油彩、カンヴァス、190.5×127.8㎝、1897年、国立西洋美術館)

 二人の子供を抱きかかえたフェドー夫人が静かにこちらを見つめています。豪華な黒い衣装とネックレス、大きく開いた胸元に飾られた赤い花が彼女を引き立てています。華やかで上品、いかにも上流階級の女性といった面持ちです。

 膝に寄りかかって母を見上げている男の子は、白い襟飾りのついた黒の正装をしています。その横顔と白い襟以外は、母の黒いドレスに溶け込み、一体化しています。男の子の肩にそっと置かれた母の手に、慈愛が感じられます。

 一方、女の子は光沢のあるベージュ色の衣装を身につけています。襟元には同系色の凝った刺繍が施されており、なんとも豪華なドレスです。これも正装なのでしょう。左手に大きな淡い橙色のバラを持ち、右手を母の膝に置いて、寄りかかるように立っています。母の左手と女の子の右手が触れ合っており、二人の愛情が通い合っているのが感じられます。

 もっとも、女の子の表情はぎこちなく、やや不自然に見えます。この絵のためにポーズを取っているからでしょうか、緊張している様子が感じられます。この作品が日常的な光景を捉えたものではなく、輝かしい瞬間を記録に残そうとする意図の下に、描かれているからでしょう。

 確かに、この作品は家族の肖像画としては完璧でした。

 画面からはまず、家族の絆、愛が感じられます。そして、上品、安定、厳粛さのようなものも感じられます。依頼者が肖像画に求めたであろうものが、過不足なく盛り込まれているのです。

 母と子供たちの配置、色彩バランスなどを考え、じっくりと時間をかけて構想されたのでしょう。だからこそ、画家が企図した通りのメッセージが画面からは伝わってくるのです。この作品を見ていると、デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 それでは、構図と色彩の面から、この作品を見ていくことにしましょう。

●人物の配置と構図

 まず、母と子供たちとの関係を、所作の面からみていきましょう。

 男の子は母の膝に身を置き、上目遣いに見上げています。母の手は男の子の背に置かれており、互いの信頼と愛が感じられます。一方、女の子は母を見ているわけではありませんが、身体をぴったりと母に寄せ、傍に立っています。手の甲を母の手に触れ、緊張感をやわらげている様子が見て取れます。

 所作の面から、母と子供たちとの関係を見ると、男の子も女の子も母に身を寄せ、安心感を得ている様子です。一方、母は、左右の手を使って、安心させるように、子供たちの身体に触れています。保護し、保護される関係が母と子供たちの所作から描き出されています。

 次に、配置の面から母と子の関係を見てみましょう。

 この作品を見て、まず目に入ってくるのは、やや首を傾げた母の顔です。その母を頂点に、寄りかかる男の子の姿勢が、母の身体の傾きに呼応しています。母の頭と男の子の頭を繋ぐラインは、ちょうど、画面の右上から左下に走る対角線と重なり、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 一方、女の子はすっくと立ち、頭を母の方にやや傾けています。その姿勢は、背筋を伸ばしながらも、頭だけを右に傾けた母の姿勢に呼応しています。こうして母と女の子は近づき、二人の頭を繋ぐラインは、肩まで伸びる髪の毛、膨らみのあるパフスリーブへと続き、これもまた、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 これら二つの斜辺をつなぐと、三角形になります。わかりやすく赤線で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、改めて、この3人の頭が母を頂点とする三角形になるよう配置されていることがわかります。しかも、ほぼ正三角形です。もっとも安定感のある構図が導入されているのです。

 さらに、母の頭を頂点に、男の子の頭が底辺の左底角、女の子の頭が右斜辺の真ん中に位置づけられています。女の子の方が年上で、男の子が年下であるという序列まで示されているのです。

 そして、母と子供たちは、互いに顔を近づけるような姿勢で描かれており、母と子の親密さが表現されています。それぞれの顔の傾き、あるいは視線の方向から、相互の愛情と信頼が表されていることがわかります。

 それでは、色彩の面から、何を読み取ることができるのでしょうか。

●色彩

 床と背景を覆っているのは、焦げ茶色をベースとしたベルベットのような風合いの生地に見えます。画面の半分以上がこの色彩とテクスチャで占められているので、上品で、しかも、落ち着いた印象があります。

 さらに、母と男の子は黒の正装、女の子は光沢のある、やや明るいベージュ色の正装をしています。背景色を除くと、黒の面積が大きく、それ以外は光沢のあるベージュ色です。そのせいか、画面全体に厳粛さと威厳、上品さと落ち着きが醸し出されています。

 ベージュ色のドレスに目を向けると、女の子が手にした淡い橙色のバラの花が、不自然なほど下方に描かれているのが気になります。しかも、この花が大きすぎるのです。否応なく、観客の目は下方に誘導されます。

 そうすると、バラの花弁がいくつか、その下の床に散っているのに気づきます。こうして、さり気なく豪華さが演出され、しかも、画面にちょっとした動きが生み出されているのです。

 そこから見上げた位置に赤いバラが描かれ、大きく開いた母の胸元を飾っています。女の子のドレスに置かれたバラからはやや斜めのライン上にあります。二つの花はそれぞれの衣装を引き立て、彼女たちの存在感を高めています。

 さらに、これら二つの花を結んだラインは、母と娘の頭を結んだラインと並行しています。それぞれのラインを水色で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、二つの花を結ぶラインは、母と娘の髪の毛を結ぶラインとほぼ2倍の長さで、平行に描かれていることがわかります。しかも、その起点はいずれも、母と息子の頭を結ぶ左上から右下への対角線上にあります。

 二つのラインは、母と娘の親密さを示すとともに、二人の関係を支える構造的なラインとしても機能しているのです。

 こうしてみてくると、いずれのラインも母と子供たちを巡る、保護―非保護の関係が示されており、強い家族の絆が表現されていることがわかります。

 興味深いのは、男の子が黒い服を着て、母のドレスの中に溶け込んでいるのに対し、女の子はベージュ色のドレスを着て、黒い服の母とは分離した存在であることが示されていることです。

 この色遣いには、母と男の子の関係、母と女の子の関係が示されているように見えます。年少で、いまだに母に依存している男の子に対し、年長で、母から自立しはじめている時期の女の子という、依存関係の強弱が示されているようにみえます。

 もっとも、母と娘が身につけている花に着目すれば、別の側面が見えてきます。

 その母の胸元を飾っている赤い花が情熱を示すとすれば、女の子が手にしたごく淡い橙色の花は穏やかな従順さを示しています。つまり、デュランは、たとえ色彩で分離されていても、母は情熱を持って娘を庇護し、娘は従順に母に従うという母と娘の関係を、構図と色彩から表現していると考えられるのです。

 こうしてみてくると、デュランが、構図の面からも色彩の面からも明確なコンセプトの下、この母と子供たちの関係を表現していたことがわかります。

 デュランは、厳粛さ、上品さ、豊かさ、華麗さなどの要素を組み込んだ上で、家族の愛、家族の絆を画面に描き出していたのです。依頼者はおそらく、この作品の出来栄えに納得し、感謝したに違いありません。

 この作品を見ていると、肖像画家としてのデュランの人気が定着していった理由がよくわかります。

 宮廷画家ベラスケスからデュランが得たものの一つは、写実性を踏まえた上で、依頼者が求める理念、あるいは概念を画面に組み込むことでした。

■デュランの肖像画に見るベラスケスの影響

 写実的で、しかも、筆触の妙を効かせたベラスケスの油彩画技法は、当時、マネ(Édouard Manet, 1832-1883)から、高く評価されていました。近代美術の父といわれるマネが、「画家の中の画家」だと絶賛していたのです。

 ベラスケスを高く評価し、その影響を受けていたのは、マネばかりではありませんでした。デュランもまた、ベラスケスの影響を強く受け、写実的で古典的な肖像画を数多く描いてきました。

 とくに、上流階級の人々を描くことでは定評がありました。リュスが育った環境では、決して出会うことのない人々でした。彼らは当然、庶民とは服装も違えば、所作も異なります。

 デュランが参考にしたのは、ベラスケスの肖像画でした。宮廷画家として活躍したベラスケスの諸作品から、服装や調度品、所作などを参考にしたのです。

 たとえば、《ウィリアム・アスター夫人(Mrs. William Astor)》(油彩、カンヴァス、212.1×107.3㎝、メトロポリタン美術館)という作品があります。デュランが1890年に描いたもので、この時の衣装とポーズは17世紀の肖像画家ベラスケスを参考にしたと記されています。(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435849

 実際、デュランの肖像画をいくつか見てみましたが、モデルはいずれも正装をし、ポーズを決めた姿勢で描かれていました。おそらく、宮廷画家ベラスケスを参考に肖像画を描いていたからでしょう。どの画面からも、華麗で厳か、富みと繁栄を感じさせる要素が強く、醸し出されていました。

 デュランが描く肖像画を見ていると、肖像画が社会的ステイタスを示す価値を持っていた時代の名残が感じられます。

 デュランが肖像画家として人気を博するようになったのは1868年以降です。先ほどのメトロポリタン美術館の説明では、1890年には肖像画家として絶頂期を極めていたとされています。その30年弱の間、フランスは大きな社会変動に見舞われています。

 とくに、1871年3月26日から5月28日にかけてのパリ・コミューンは画家たちにとっても大きな出来事でした。ところが、そのパリ・コミューンを経てもなお、上流階級にとっては肖像画が必要だったのです。

 さて、人気のある肖像画家として活躍していた1876年、デュランは一風変わった肖像画を描いています。自分の母親を描いた作品です。

 デュランの肖像画をいくつも見てきましたが、この肖像画は異質でした。

■デュラン、母親の肖像画を描く

 肖像画家デュランにしては珍しく、モデルを見たまま、ありのままに描いています。

●《母の肖像》(Portrait de ma mère)1876年

 1876年、ちょうどリュスがデュランのアトリエで学び始めた年、デュランは母親を描いています。作品タイトルは、《母の肖像》(Portrait de ma mère)です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 暗い背景の中から顔面だけが浮き出るように、高齢女性が描かれています。静かで穏やかに観客を見つめています。その透徹した視線には高邁な精神が感じられます。

 悟りの境地に達しているからでしょうか。何事にも動じることなく、凛とした姿勢で、老いと孤独に、静かに向き合う高齢女性の姿が心に残ります。

 さっと描いたように見える中に、端的に対象の本質が捉えられていました。冷静な観察力が強く感じられる作品です。

 おそらく、コンセプトを練り上げることもなく、時間もかけずに制作したのでしょう。カンヴァスに向かったデュランが、老いた母親を美化しようとせず、ありのままに描いていたことがわかります。

 ありのままとはいっても、髪の毛や帽子、首回りで結ばれたリボンなどの描き方を見ると、決して写実的に描かれているとはいえません。どちらかといえば、雑なのです。ところが、不思議なことに、むしろその方が、リアルに捉えられた視線と口元の表情が強調されて見えます。

 描き方に粗と密の部分を創り出すことによって、老いた母親の本質を冷静に捉え、含蓄のある作品に仕上がっているのです。

 キュレーターのアニー・スコッツ-デヴァンブレシー(Annie Scottez- De Wambrechies)は、人生の荒波を超えて生きてきた母親の個性がしっかりと描かれているとデュランの表現力を評価しています。ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)やマネ(Édouard Manet, 1832-1883)と並ぶ表現力の持ち主だといっているのです。(※https://www.latribunedelart.com/carolus-duran-une-superbe-sensation-d-art-un-poeme-de-labeur

 リュスは1876年、デュランのアトリエで働くようになります。そこで、デュランが手掛けるさまざまな肖像画を目にしてきました。それらの肖像画を見て、感じること、考えさせられること、多々あったと思いますが、リュスがもっとも刺激を受けたのが、《母の肖像》でした。

■リュス、おばさんの肖像画を描く

 デュランの《母の肖像》の制作過程をつぶさに見てきたリュスは、1980年、おばさんの肖像画を描きました。デュランと同様の画法で描いたといわれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, Silvana, 2019)

 《オクタヴィアおばさんの肖像》は、リュスがデュランから何を学んだのかを示唆する重要な作品といえます。

●《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 デュランが《母の肖像》を描いたのと同様の画法で描いたとされるのが、リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》です。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 高齢女性が両手を前で組み、こちらを見ています。老いてはいますが、肌艶がよく、とても元気そうです。顔の表情がリアルに表現されています。

 額に刻まれた深い皺、眉間から鼻先までの鼻梁の肉付き、鼻翼から伸びるほうれい線、すぼめた口元など、老化によって起きる顔面の変化が的確に捉えられています。

 図録では、リュスが光と影に留意して顔面の表情をリアルに描いたのは、デュランが母親の肖像を描いた時に使ったのと同じ手法を取ったからだと書かれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 果たして、そうでしょうか。

 確かに、この作品では、光が当たったところと影になった部分とが丁寧に描き分けられ、眉間の縦皺、額に波打つ横皺、目の下のたるみなどがとても写実的に描かれています。

 顔面の骨格を踏まえ、鼻先、たるんだ頬の縁、目の下や目尻などにわずかながら赤味が添えられています。老いに伴う皮膚の変化が的確に表現されているのです。

 光と影、明と暗を使い分けて、顔の質感、量感を表現しているところには、ルネサンス以来の写実性が感じられます。つまり、この作品には、デュランが影響を受けたといわれるベラスケスに繋がる写実性が見受けられるのです。

 実際、この作品を見ていると、オクタヴィア小母さんを目の前にしているかのような錯覚に襲われます。それほど、リアルに、生き生きと描かれています。

 とはいえ、デュランの《母の肖像》と比べると、何かが足りないのです。それが一体、何なのか、二つの作品を比較してみる必要があるでしょう。(2021/12/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

■「スイス プチ・パレ美術館展」で出会った、リュスの二つの作品

 2021年11月5日、滋賀県の佐川美術館で開催されていた「スイス プチ・パレ美術館展」に行ってきました。展示作品は、
スイス プチ・パレ美術館展 が所蔵する65点で、いずれも創設者オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-1998)のコレクションです。

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏は図録の冒頭で、父は不当に過小評価されている画家たちの作品を対象に収集していたと記しています。自身の審美眼を信じ、評論家に取り上げられず、美術史からも見落とされがちな画家たちに光を当てようとしていたというのです。そのせいで、いくつかの美術雑誌からは長い間、批判され続けていたそうです。(※ 図録『スイス プチ・パレ美術館展』イントロダクション)

 たしかに、会場に展示されていたのは、ルノワールの作品以外、これまでに見たことのない作品ばかりでした。

 オスカー・ゲーズはコレクションを始めた当初、ユトリロやボッティーニなどモンパルナスとベル・エポックの画家を好んでいました。その後、新印象派とポスト印象派のコレクション、フォーヴィスムへと関心が移り、コレクションの幅が広がっていったといいます。実業家であったオスカー・ゲーズは、次のような方針の下、収集を進めていたようです。要約すれば、①作品購入費の基準を設定し、同じ作家の作品を購入し続ける、②抽象芸術は避ける、というものでした。(※ 前掲。)

 その結果、収集されたのは、オスカー・ゲーズの審美眼に適い、購入することができた19世紀末から20世紀初頭にかけての作品ばかりでした。そして、1965年、彼はジュネーブの旧市街近くに建てられた邸宅を購入し、内装を改修してプチ・パレ美術館を創設しました。1968年のことでした。

ジュネーブ プチ・パレ美術館

 第二帝政時代の古典主義様式の建物です。見るからに優雅な佇まいが印象的です。

 ここに、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで醸成された美術の潮流を表現したコレクションが、展示されているのです。建物といい、コレクションといい、まさに20世紀に向けたパリの夜明けを象徴する美術館だといえます。

 こうして自身の美術館を創設したオスカー・ゲーズは、不当に過小評価されていると思っていたコレクションを次々と、一般公開していったのです。

 さて、展示作品の中で、もっとも印象深かったのが、マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)の《若い女の肖像》(Portrait de jeune femme)です。多くの作品が展示されている会場で、この作品を見た瞬間、惹きつけられてしまいました。1893年に制作されたこの作品は斬新で、小ぶりながら、私にはひときわ輝いて見えました。

(油彩、カンヴァス、55×46㎝、1893年、スイス プチ・パレ美術館)

 若い女性がまばゆい太陽の光を浴びて、こちらを眺めています。かつて見た映画の一シーンのように思え、どこか懐かしい気持ちにさせられました。

 もちろん、初めて見る作品でした。これを描いたマクシミリアン・リュスが、どのような経歴の画家なのかも知りません。画風からわかるのは、ただ、スーラやシニャックの影響を受けているのではないかということだけでした。

 何故、そう思ったのかといえば、境界線や輪郭線を使わずに、さまざまな色を載せた斑点のようなもので、モチーフが造形されていたからです。もっとも、だからといって、はっきりとスーラやシニャックの影響を受けているともいいきれません。

 というのも、確かに、斑点のようなもので、画面全体が構成されているのですが、それは、私が知っているスーラやシニャックなどの作品で見られた点とは明らかに異なっていました。この作品で使われていたのは、粒の揃った小さな点ではなく、大きく、しかも、不揃いでした。

 茫漠とした形状の捉え方に、スーラやシニャックの緻密さは見られませんが、モチーフのエッセンスは見事に捉えられています。しかも、眩いような光と若い女性の輝きが情感たっぷりに表現されているのです。

 何とも不思議な作品でした。

 会場には、リュスの作品としてもう一つ、風景画が展示されていました。タイトルは、《La Meuse à Feynor》(フェイノールのムーズ川)です。

(油彩、カンヴァス、60×73㎝、1909年、スイスプチ・パレ美術館)

 夕暮れ前のムーズ川の光景が、色彩バランスとタッチの妙を効かせ、情緒豊かに捉えられています。1909年に制作されたこの作品には、《若い女の肖像》とは違って、どちらかといえば、印象派の趣がありました。

 果たして、リュスはどのような画家だったのでしょうか。

 会場で作品を見てからというもの、気になって仕方がありません。わずか2点しか展示されていなかったというのに、画風がまるで異なっていました。しかも、どちらも、自由でのびのびとした筆遣い、色の使い方、対象の捉え方、そのどれもが魅力的でした。

 帰宅してから、さっそく調べてみました。ところが、リュスの経歴に関する記述としては、Wikipediaぐらいしか見当たりません。それ以外に入手できるものとしては、図録に掲載された作品を紹介する記事の中で、断片的に紹介されている情報ぐらいでした。

 リュスについて日本で得られる情報は、予想外に少なかったのです。展示作品から強い印象を受けていたせいか、意外でした。

 とはいえ、Wikipediaからは、リュスが木版画職人として修業を積んでいたこと、ゴブラン織りの工場で働いていたことなどがわかっています。

 そこで、今回は、リュスの経歴を追いながら、木版画職人がどのようにして画家になっていったのかを考えてみたいと思います。

■マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)

 1858年3月13日、パリのモンパルナスで、リュスは誕生しました。父は鉄道員、母は店員でした。彼は労働者階級の子どもとして生まれ育ったのです。生計を立てるための労働をせずに、画家として生きていけるような出自ではありませんでした。

 リュスは、14歳(1872年)から3年間、木版画職人として修業しています。生活の資を得るため、木版画職人になる道を選択していたのです。おそらく、子どもの頃から絵が好きだったのでしょう。見習いとして働きながら、夜は工芸学校で絵画を学んでいました。リュスが油彩画を始めたのはその時でした。

 修業を終えると、1876年には、版画家のウジェーヌ・フロマン(Eugène Froment, 1844-1926)の工房で働き始めました。元々、絵心があったのでしょう、リュスは、時を経ず、挿し絵入り新聞「イリュストラシオン」や「The  Graphic」などの挿し絵として使う木版画を制作するようになっていきました。

 商業誌のための挿絵を制作していた経験を通して、画力が鍛えられただけではなく、市場ニーズをくみ取るセンスも涵養されていた可能性があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きく変貌を遂げていった美術界の潮流に乗って、リュスは画家としての地位を確立していたようにも思えます。

■版画修業をしながら、絵画を学ぶ

 リュスは仕事として木版画を制作する傍ら、アカデミー・シュイス(Académie Suisse)に通って特別コースを受講していました。

 アカデミー・シュイスは、1815年にパリのシテ島、オルフェーヴル通りに開校された私立の画塾です。授業料が安かったので、貧しい画学生でも、モデルを使った授業を受けることができました。その後、グランド・シュミエール通りに移転し、アカデミー・コラロッシに改名しました。ここで学んだ画家には、カミーユ・コロー、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベなどがいます。

 リュスは、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエで学んでいましたが、デュランも、1859年から1861年まで、アカデミー・シュイスで学んでいました。当時、有為の若手画家が学ぶ画塾だったようです。

 このような来歴をみてくると、リュスが木版画職人にとどまらず、画家に必要とされるさまざまな技量を身に着ける努力を怠らなかったことがわかります。

 ちょうどその頃、制作したのが、《モンルージュの広い庭》です。

(油彩、カンヴァス、43×37、1876年頃、個人蔵)

 まだ18歳ごろの作品ですが、明と暗、そして、暖色と寒色のコントラストが強く、非常に印象的です。

 陽光に照らされた明るい小道が、手前から奥へと観客を誘導するように伸びています。小道は途中で、葉の茂みに中に消えてしまい、その代わりに目につくのが、明るい陽射しを受けた建物の一部です。

 こんもりと茂った林の向こう側に、聳えるように建物が立っています。観客は、暗い木々の茂みのちょっとした隙間から、覗き見るような恰好で、その建物と向き合うことになります。とても興味深い構図です。

 遠近法を踏まえ、明暗を際立たせた構図で描かれているせいか、単なる風景画に収まらない物語性を感じさせられます。

 荒い筆触と、陽光が生み出すドラマティックな画面構成からは、印象派の影響を受けているようにも見えます。なんとも妙味のある作品でした。

 ちょうど、その頃、リュスは、画家マイヤール(Diogène Ulysse Napoléon Maillart, 1840-1926)から勧められ、ゴブラン国立織物製作所の入学試験を受け、合格しました。当時、肖像画家マイヤールからも指導を受けていたのです。

 マイヤールの経歴を見ると、パリの国立高等装飾学校で教育を受けた後、国立高等美術学校(通称:École des Beaux-Arts)のレオン・コニエ教室で学んでいます。1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの後継だとされています。多くの著名な画家を排出しています

 1864年に23歳でローマ賞を受賞してローマに留学し、1869年に帰国して以来50年間、国立ゴブラン織物製作所で絵画の教授を務めました。1885年にはレジオンドヌール勲章を受勲しており、肖像画家として多数の作品を残しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Diog%C3%A8ne_Maillart

 このゴブラン国立織物製作所で、リュスは、シュヴルールの色彩理論に触れることになりました。

■シュヴルールの色彩理論との出会い

 W. B. アシュアワース氏は、次のように、シュヴルールが色彩理論を構築した経緯を、次のように説明しています。

 化学者のシュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1789-1889)は、1824年、ゴブラン国立織物製作所の工場長になりました。そこで、色彩の研究をするとともに、染色の苦情にも応対していました。

 なぜ、染色にムラが生じるのか、彼は、ゴブラン織物の製造過程をつぶさに調べました。その結果、色ムラは染色の問題ではなく、色の組み合わせによるものではないかということに気づきました。パターンの色と背景になる地色との間に、同時対比によって色の見え方に違いが生じることを突き止めたのです。

 そこで、シュヴルールは、色の組み合わせについて実験を繰り返し、色の対比と調和について研究しました。1839年には、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』を著しています。色彩を「類似色の調和」と「対比色の調和」の2種類に分類し、独自の色彩理論を構築したのです。シュヴルールは、光の混合と色彩の混合とは全く異なると指摘しています。(※ Dr. William B. Ashworth, Jr.:https://www.lindahall.org/michel-chevreul/

 リュスは、国立ゴブラン織物製作所に在籍することができたおかげで、シュヴルール色彩理論の手ほどきを受け、実践しながら、色彩について考える機会を得ていたのです。

 ゴブラン織りは、敷物やバッグなどの日用品だけではなく、鑑賞用のタピストリーも製作されていました。タピストリーの中には、まるで絵画のようにリアリティがあり、情感に富んだものもあります。

 例えば、《チュイルリー公園からのトルコ大使の退場》という作品があります。

(ゴブラン織り、サイズ不詳、1734-37年、ルフェーブルとモメルク工房)

 馬に乗った多数の人々が巨大な広場に集っています。手前の人々の顔がそれぞれ描き分けられており、出発前の慌ただしさが、さらっと表現されています。タイトルからすれば、これがチュイルリー公園なのでしょう。遥か遠方に、パンテオンのドームが見えます。

 さまざまな種類の色糸を使って、モチーフが織り上げられています。当時の様子がありありと目に浮かびます。絵具で表現するのとまったく遜色のない、リアリティのある絵柄に圧倒されてしまいました。この作品を見るだけでも、ゴブラン織りの職人がいかに色彩に敏感でなければ務まらないかがわかります。

 リュスが国立ゴブラン織物製作所に在籍した以前から、光と色彩に敏感な画家たちは、種々の色彩理論に注目しはじめていました。

 たとえば、シャルル・ブラン(Charles Blanc, 1813-1882)の『デッサン諸芸術の文法』(1867年)、アメリカ人物理学者オグデン・ルード(Ogden Nicholas Rood, 1831-1902)の『近代色彩論:芸術および工業への応用』(1881年にフランス語に翻訳)、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対照の法則』(1839年)などです。

■色彩理論を手掛かりに

 当時、光と色彩に敏感な画家たちが、色彩理論に注目するようになっていました。押し出しチューブ式油絵具が発明されて以来、アトリエを出て、戸外で絵を描く画家が増えつつありました。

 1841年、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド(John Goffe Rand, 1801-1873)が、錫製の押し出しチューブ式油絵具を発明しました。その後、彼はキャップの部分をねじ式に改良し、さらに使いやすくなりました。

 チューブ式油絵具のおかげで、画家たちはアトリエから戸外に出て描くようになり、自然がもたらす美しさに気づくようになっていたのです。

 色彩と光を意識して作品を制作していたルノワールは、「チューブ式絵具がなければ、印象派は生まれなかった」と語っていたほどでした。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/John_G._Rand

 印象派の画家たちは、葉陰から洩れる太陽の陽射し、陽光に照らされて、きらきらと輝く水面等々、そのようなものの中に、美しさを見出しました。アトリエにこもって描いていただけでは、決して発見できなかった自然の美でした。

 もちろん、画家たちは輝く陽光や、照らし出された木々や水面の明るさを、画布上で表現しようとしました。ところが、混色を重ねると、次第に、暗く、くすんだ色になってしまいます。彼らが求めた瞬間の輝きを捉え、表現することはできませんでした。

 見たままの色彩を創り出しながらも、明るく、輝くような画面を創り出すにはどうすればいいのか、画家たちは色彩理論を手掛かりに、模索せざるをえなかったのです。

 押し出しチューブ式油絵具が開発され、画家たちが戸外で容易に絵を描けるようになったからこそ、発見できたのが、揺らぎ、輝く、自然の美でした。それを表現するための画法を模索していた画家たちが拠り所にしたのが、色彩理論でした。19世紀の科学技術の発達によって手にすることが出来た画材であり、色彩の理論でした。

 こうしてみてくると、リュスは、画家として正規の道を歩んでいませんでしたが、十代の頃から、物の形をいかに捉えるか、色彩の仕組みを知り、それをどう組み合わせ、画面に反映させていくかについて学ぶ機会があったことがわかります。

■十代で身につけた画家としての技量と知識

 労働者階級の子どもとして生まれたリュスは、生活の資を得るため、まずは木版画職人を目指しました。当時はまだ、挿し絵のための木版画職人に需要があったからです。14歳から3年間、そのための修業をしますが、夜は工芸学校に通い、油彩画を学んでいました。

 修了後は版画家フロマン工房で働きながら、アカデミー・シュイスに通い、さらには、美術アカデミーの会員であった肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエでも学んでいました。1876年のことでした。

 すでに大きな評価を得ていた画家たちから、リュスは貪欲に、描くことについての技量と知識を吸収していったのです。

 ディオジェーヌ・マイヤールはローマ賞を得てローマに留学(1864-1869)し、カロリュス・デュランはリール市の絵画コンクールで受賞し留学資格を得て、イタリアに留学(1862-1864)しています。

 興味深いことに、両者はほぼ同時期に、イタリアに渡って絵画を学んでいるのです。しかも、共に、肖像画を数多く残していますが、いずれも自然主義的な写実主義といえる画風です。イタリアルネサンスに特徴づけられた傾向を引いていることは明らかでした。

 さらに、両者は、レジオンドヌール勲章を受勲しています。ディオジェーヌ・マイヤールは1885年、カロリュス・デュランは1905年です。いずれも、絵画領域で大きな功績を挙げたことが評価され、受勲したのです。

 このようにしてリュスは、十代の多感な頃に、すでに大きな社会的評価を得ていた画家たちの知己を得ていたのです。彼らから、それぞれの画論や画法を学ぶことはいうまでもありません。

 さらに、フロマンの工房では、同世代の風景画家レオ・ゴーソンや、点描画家のエミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと出会い、親しく交わるようになっていました。

 ゴブラン織物製作所で実践していたシュヴルールの色彩理論が、スーラの絵画理論に応用されていたことは、彼らから知らされたのです。絵画についての議論が弾み、やがて、共に過ごし、その理論を実践して絵画制作をするようになります。

 当時、木版画職人でしかなかったリュスですが、さまざまな有為の画家たちと出会い、交流し、アドバイスを得てきました。出会いを求め、そのような場所に積極的に出かけていたからでしょう。そして、出会った後、交流が続いたのは、リュスが、画家としての可能性を周囲に感じさせていたからでしょう。

■木版画職人から、画家への道

 実際、リュスには画才があったのでしょう。それはまず、木版画で発揮されました。見習い期間が終わったばかりの若輩ながら、フロマンについてロンドンまで出かけ、当地で木版画を制作して、披露したこともあったのです。

 木版画の修業を終え、軍隊に入るまでのリュスは、木版画職人として働きながらも、絵画に関する技量や知識を極めるため、努力を怠りませんでした。その真摯な姿勢は周囲の人々に快く受け入れられ、交流の幅が広がりました。

 そのような画家たちとの交流の中で才能が豊かに育まれ、徐々に、その才能が周囲に認知されていくことになります。フロマンの工房で働いている間、リュスは着実に、画家としての実力を蓄えていきました。

 その後、1879年から4年間、リュスは兵役に従事しました。ところが、任務を終えた1883年、習得してきた木版画技術がすでに時代遅れになっていることを知ります。リトグラフが主流になりつつあったのです。

 18世紀末に発明されたリトグラフは、19世紀半ば以降、急速に普及していきました。描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りができます。しかも、版を重ねるにつれ、独特の艶のある質感を出すことができますから、リトグラフの普及に拍車がかかったのは当然のことでした。

 リトグラフは、水と油の反発作用を利用した版画なので、製作過程は複雑で、時間もかかりますが、木版画よりも多様で深みのある表現が可能でした。印刷物の需要が高まるにつれ、リトグラフが木版画に取って代わるようになっていたのです。リュスが兵役を終えてパリに戻って来た頃、挿し絵用の木版画職人は必要とされなくなりつつありました。

 たとえば、ドイツ人画家アレクサンダー・ドゥンカー(Alexander Duncker, 1813-1897)が描いた、《1883年のボレク》(Borek (Borkau) in 1883)という作品があります。

(リトグラフ、サイズ不詳、1883年、所蔵先不詳)

 これは、リトグラフで描かれた作品の一例ですが、古典派の作品を想起させる表現方法です。色彩といい、テクスチャといい、タッチの効果といい、この画面を見るだけでも、リトグラフが表現手段として木版画よりはるかに優れていることは明らかです。

 当時、ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa, 1864-1901)やミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860-1939)などが、この技法で版画やポスターなどを制作していました。

 多彩な表現が可能なリトグラフがこのまま普及していけば、早々に、木版画職人は必要なくなるとリュスは考えました。そこで、彼は、木版画職人として生計を立てることを諦め、画家に転向しようと決意します。

 リュスが兵役を終えた1883年、先ほど、ご紹介したドゥンカーが上記の作品をリトグラフで制作し、発表しました。

 19世紀末は技術の進化に合わせ、表現世界にも怒涛の勢いで変化の波が押し寄せてきていたのです。リュスが時代の変わり目を感じて人生を再考し、画家に転向しようとしたのは当然の成り行きでした。

(2021/12/18  香取淳子)