ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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ゴダールを偲ぶ ②:『気狂いピエロ』、アウトサイダー、愛、逃避行

 ■ 原作

 『気狂いピエロ』は、ライオネル・ホワイト(Lionel White,1905-19859)の小説『Obsession』(1962年)を原作に、1965年5月24日から7月17日までの8週間で撮影されました。

 当時、私はこの映画に原作があったとは思いもしませんでしたが、今回、新潮文庫から『気狂いピエロ』というタイトルで訳書が出版されていることを知りました。2022年4月に出版されたばかりの本です。

 山田宏一氏は、次のような解説文を寄せています。

 「ニューヨーク郊外に暮らす38歳のシナリオライター、コンラッド。妻との仲は冷え切り、職も失い、鬱々とした生活を送っていた。ある夜、ベビーシッターの若い娘アリーを自宅へ送ったところ酔った勢いで一夜を共にしてしまい、目覚めると、隣室には見知らぬ男の死体が。どうやら男はアリーの元愛人らしい。かくして、暴力と裏切りと欲望にみちた二人の逃亡劇が幕を開けることに――。運命の女に翻弄され転落していく男の妄執を描いた犯罪ノワールの傑作。ゴダール映画永遠の名作の原作とされる幻の小説がついに本邦初紹介となる」

 私はストーリーを全く覚えていませんでしたが、今回、DVDを観ても、劇画的なストーリー展開にそれほど興味をおぼえませんでした。前回もいいましたように、私がこの映画で覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーン、そして、ラストシーンだけなのです。

 これらのシーンには、意表を突かれるものがあったからこそ、しっかり覚えていたのでしょうし、感動したからこそ、心に深く刻み込まれていたのでしょう。

 今回、DVDを見返して見て、改めて、『気狂いピエロ』に夢中になっていたのは、ストーリーではなく、ゴダールが創り出したデティールそのものだったことがわかりました。

 前回、冒頭のシーンをご紹介しましたので、今回はパーティのシーン前後をご紹介していきましょう。

 このシーンでは、主人公の置かれた状況、そして、物語が展開するきっかけとなる女性との出会いが描かれています。

 原作では、「妻との仲は冷え切り、職も失い、鬱々とした生活を送っていた。ある夜、ベビーシッターの若い娘アリーを自宅へ送ったところ酔った勢いで一夜を共にしてしまい・・・」となっています。

 映画のストーリー設定は、ほぼ原作に倣っているといえるでしょう。

■ パーティ会場

 それでは、パーティに出かける前のシーンから、見ていきましょう。

●女学生との出会い

 この夜、妻の実家でパーティが開催される予定でした。それに出席しなければならないので、妻は夫を急がせていたのです。

 ところが、男は「僕は行かない」、「子供たちといる」といい出します。

 すると、妻は「フランクが連れて来る姪が、子守りをすることになっているの」といい、男の気を引くように、「女学生ですって」と付け加えます。

 男は「姪だって? どうせコールガールさ」と悪態をつきながらも、子守りを引き受けた姪に関心を示します。妻の思惑通り、男はどうやら、パーティに行く気になったようです。

 妻がその様子を見て、「パパが石油会社の社長を紹介するって」というと、夫は「クビにしたテレビ局を訴えるぞ」と虚勢を張ってみせます。

 妻は、「訴えてもいいけど、負けるだけよ」とさり気なく受け流し、「仕事を紹介されたが、おとなしく受けて」と説きます。

 ここまでのシーンで、男がテレビ局をクビになったこと、妻の実家が裕福で、今夜開催されるパーティでは男の就職先が用意されていること、男は、この妻の夫であり、父である立場にうんざりしていること、などが明らかにされていきます。

 やがて、フランク夫妻がやって来て、姪を紹介されると、妻は子供部屋に案内しながら、「用が出来たら、電話して」と告げています。廊下ですれ違った夫に妻は、「フランクの姪よ」と紹介し、そのまま子供部屋に入っていきます。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 姪と男は見つめ合い、やがて、手を握り合います。

 男の名前はフェルディナン、姪の名前はマリアンヌです。二人は、雇い主の夫と子守りとして出会います。出会った瞬間に惹かれ合ったことがわかる場面です。

 フェルディナンは上着を着ながら、フランクに向かって、「愚かな頭に響く交響曲第5番」と言葉をかけます。まるで運命の出会いだと言っているようなものでした。そして、ベートーベンの交響曲第5番「運命」の有名な一節が流れます。

 当時、この選曲が通俗的だと思いましたが、今回、DVDを見ても同じような印象を抱きました。それまでは画面の一つ、一つに気持ちが引き込まれていたのですが、このシーンで、トーンダウンしたのです。

 さて、ここでは、主要な人物が登場し、主人公を取り巻く状況、社会状況、物語が起こるきっかけ、等々が明らかにされ、今後の展開が暗示されます。

 次に、画面は夜景になって、「妻の両親エスプレッソ邸でのパーティへ」の文字が表示され、いよいよストーリーが動き始めます。

 パーティ会場に進む前に、ちょっと触れておきたい場面があります。

 フェルディナンがまだマリアンヌに出会う前のシーンです。

●消費文化

 夫婦の部屋で、出かける準備をしている妻に向かって、バスローブ姿のフェルディナンがいきなり、「下着をつけないのか」と尋ねるシーンがありました。妻は手に下着のようなものを持っています。

 妻はすぐさま、「新製品のガードル“スキャンダル”よ」といい、広告が掲載された雑誌を見せます。

(※ 前掲)

 ヒップラインを補正する機能のあるガードルが、画面に大きく、映し出されます。

(※ 前掲)

 その画面に、「かつてはギリシャ」、「そして、ルネサンス文明、今やケツ文明の時代だ」という男のナレーションが被ります。

 当時、この場面を見て、私はとても面白いと思いましたが、今回も同じでした。これは、横行する消費文化に対するフェルディナンの反発を示しているだけではなく、ゴダールの思いでもあったのでしょう。

 映画が製作された1960年代半ばあたりから、技術進化に伴い、消費文化が加速度的に浸透していきました。

 このシーンは、浸透する消費文化への批判であり、通俗への嫌悪でした。これが、次のパーティ・シーンへの誘導にもなっているのです。

 それでは、パーティ会場に進みましょう。

●パーティ会場

 夜景に被って、「アルファロメオは、1キロ34秒で走れる」とテロップが表示されます。アルファロメオの宣伝文句ですが、観客はそれを眼にした後、パーティ・シーンに移行します。

 会場の画面全体を覆う赤い色調が斬新でした。

 フェルディナンがパーティ会場に入っていくと、壁を背にして立っている男が、椅子に座っている二人の女性に向かって、うんちくを垂れています。

(※ 前掲)

 「ディスク・ブレーキ、安定感のある走行性」、「比類のない乗り心地」、そして、「確実で速く」、「加速もよく安定している」と続けます。男が延々と話し続けているのは、アルファロメオの宣伝文句でした。

 立っている男が話し終えると、今度は、座っている女性が「若さを保つならー」、「石鹸にオーデコロン、香水もね」、「汗臭さを防ぐなら、“ブランティル”を」、「あれなら一日中、爽快」・・・、と、これまた、身に着ける商品の宣伝文句を語っています。

 男性も女性も、まるでそれしか話題がないかのように、パーティ会場で聞かれるのは、商品の宣伝文句のオンパレードでした。

 冒頭シーンで展開されていた饒舌で、シニカルで、ペダンティックな言葉の群れではなく、常套的で、浅く、表層的で、キャッチ―な言葉の羅列だったのです。それは、活字文化から視聴覚文化への移行を示すものであり、現代文化を象徴するものでもありました。

 そして、この冒頭シーンとパーティ・シーンの言葉の対比の中に、主人公フェルディナンの居場所のなさ、疎外感が巧に表現されていました。

 馴染めないまま、会場をさまよう中、フェルディナンは、なんとか、話し合える人物に出会うことができました。

●サミュエル・フラー監督

 うんざりしていたフェルディナンが目を止めたのが、壁にもたれて、所在なさそうにしているサングラスをかけた男性でした。この場面では、それまで画面を覆っていた赤のカバーははずれ、現実色になります。

(※ 前掲)

 フェルディナンがフランス語で話しかけてみても、通じません。近くの女性が通訳をしてくれて、ようやく、この男性がアメリカ人映画監督のサミュエル・フラーだということがわかりました。撮影のためにパリに来ているというのです。

 サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1912 – 1997)は、アメリカの映画監督で、アメリカではB級映画監督と見なされていたようです。ところが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価されたといわれています(※ Wikipedia)

 裏社会での取材経験や戦争体験、さらには米国南部での人種差別への取材経験を通し、サミュエル・フラーならではの人間観、世界観が培われたのでしょう。彼の映画は独特のエキセントリックな作風だとされています。

 そのサミュエル・フラー監督が、この場面に登場しているのです。

 彼が『悪の華』を撮っているというと、フェルディナンはすぐさま、「ボードレールはいい」と応じます。

 このやり取りの中に、ゴダールもまた、ボードレールを好んでいることがわかります。

 そういえば、『悪の華』も『気狂いピエロ』も、人間のダークサイドや疎外感、孤独などに焦点を当てて作品化されているところに、共通性があるように思えます。

 それでは、サミュエル・フラー監督はどうでしょうか。

 サミュエル・フラーがこの映画に出演した頃、どのような作品を製作していたかを調べると、該当するのは、『裸のキッス』(The Naked Kiss, 1964年10月29日公開、米国)ぐらいでした。

 この作品は、ネオ・ノワール(フィルム・ノワールの復活版)であり、メロドラマだと分類されています(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Neo-noir)。

 暴力、アクション、恋愛のジャンルに位置づけられている作品なのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。探して見ると、Youtubeにありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/qGV90a3YHiI

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 確かに、ノワール系の作品です。

 ゴダールは当時、ライオネル・ホワイトの小説『Obsession』を原作に、『気狂いピエロ』を製作していましたから、フラー監督は誰よりも話したい相手だったにちがいありません。

 それを反映するかのように、画面では、フェルディナンが勢い込んで、「いつも映画とは何かを知りたかった」と尋ねています。

 すると、監督は、「映画とは戦場のようなものだ」といい、さらに、「愛」、「暴力」と続け、「つまりは感動だ」と答えています。

 サミュエル・フラー監督ならではの回答です。暴力、非情なアクションがあってこそ、愛が輝き、感動があるというのです。

 『気狂いピエロ』の原作もノワール・フィクションと分類されていました。ゴダールはパーティのシーンでサミュエル・フラー監督を登場させることによって、その後のストーリー展開の伏線を張っていたのかもしれません。

 主人公のフェルディナンは、冒頭のシーン、パーティのシーンでは、インテリの印象でした。ところが、その後の展開では、まるで『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde, 1967年制作、米国)のような破天荒なロードムービーの主人公に変貌してしまうのです。

 なんらかの伏線を張っておく必要があったでしょう。

 そういえば、『気狂いピエロ』は編集後、しばらく、検閲機関との間でいざこざが続いたようです。というのも、原作の『Obsession』がNoir fictionと位置付けられており、検閲の対象になっていたからでした。

 題名を『気狂いピエロ』に変え、セリフを二か所削除することによって、なんとか上映が認められましたが、当時はまだ18歳未満の入場は禁止されていました(※ Alain Bergala著、奥村昭夫訳『60年代ゴダール』、pp.490-491. 原著2006年、翻訳版2012年、筑摩書房)。

 それでは、再び、パーティのシーンに戻りましょう。

●募る疎外感

 フェルディナンはフラー監督の返答を聞いて、納得したようにその場を去り、再び、会場内をあちこち歩きまわります。

 妻が男とキスしているのを横目で見ながら、そのまま通り過ぎると、画面は再びブルーで覆われ、人々の会話はコマーシャリズムに彩られたものになります。

 ようやくフランクを見つけると、「疲れた」といって、フェルディナンは座り込んでしまいます。

 そして、口を突いて出た言葉が次のようなものでした。

 「見るための目はある」、「聞くための耳も」、「話すための口も」といい、ところが、「全部がバラバラで統一を欠いている気がする」、「一つであるべきなのに」「いくつかに分かれている」といいだします。

 これらのシーンは青で覆われています。

(※ 前掲)

 フェルディナンは周囲に溶け込めず、アウェー感は限度に達しています。このパーティ会場では、統合した自分を維持することができなくなってしまっているのです。どうしていいかわからず、フェルディナンはひたすら、しゃべり続けています。

 聞いていた女性がとうとう、「しゃべりすぎよ、あんたの話は疲れる」といい出すと、フランクもそれに同意して「しゃべりすぎだ」といい、フェルディナンを見ます。

 身近な人からも突き放されてしまいます。

 フェルディナンは「孤独な男はそうなる」と反応し、「家で待っている」と疲れ切ったように、伝えます。

 身の置き所のなくなったフェルディナンにとって、この場から抜け出すしか自分を維持する方法はありませんでした。「孤独」という言葉で逃げ道を作りながら、「家で待っている」とフランクを安心させます。かろうじで社交性を忘れずに、パーティ会場を去ろうとするのです。

 なんの疑いもなく、フランクは素直に車の鍵を渡します。

 この場面は後のシーンの伏線になっています。

■ 現実からの逃避行

●マリアンヌとの再会

 家に帰ると、子供たちを寝かしつけたマリアンヌが、廊下の椅子に座って、うたた寝をしていました。

 ここにも孤独な人がいたのです。

 パーティから抜け出してきたことを訝しがられると、フェルディナンは、「そんな日もある、バカばかり会うと」と答えます。ようやく自分を理解してもらえる人に会った安堵感が、顔からこぼれています。

(※ 前掲)

 夜も遅いので、フェルディナンはマリアンヌを車で送っていくことにします。

 運転席と助手席で交わす二人の姿が映し出され、意外なことが次々と明らかになっていきます。

  「再会なんて、不思議」とマリアンヌがいうと、「ああ、4年ぶりだな」とフェルディナンが応じますが、すぐさま、「違うわ、5年半よ。あれは10月だったから」とすぐに否定されてしまいます。

 このシーンで、フェルディナンは妻と結婚する前に、マリアンヌと付き合っていたことがわかります。

 「結婚したの?」と聞かれ、「金持ちのイタリア女だ。面白い女じゃない」とフェルディナンが答えると、「離婚すれば?」とマリアンヌがけしかけます。

 ごく簡単に妻を説明し、妻との関係も明らかにします。それに乗じて、マリアンヌが思い切った提案をします。

 「そう望んだが、ひどく不精で」といい、「”望む”の中に”人生“がある」とフェルディナンははぐらかすように、自分の生活信条に切り替えて、答えます。

 このシーンで、マリアンヌと知り合った頃、フェルディナンはスペイン語の先生、その後はテレビ局で勤務し、今は無職の状態だということがわかってきます。これは先ほどの妻との会話内容とも呼応しており、フェルディナンが望むようにしか生きていけない人物だということが示されています。

 一方、マリアンヌは自分のことは多く語りません。「フランクとは長いのか?」と聞かれると、「なんとなく・・・、偶然から」と曖昧に答えるだけです。

 フェルディナンが「相変わらず謎めく女」というと、「自分のことを話したくないだけ」といって、気を逸らせるように、ラジオを付けます。

●数値化の進行

 ラジオから「米軍の戦死者は数多いが、ベトコン側にも115名の死者が出た」というニュースが流れてきます。それに対し、マリアンヌは鋭く反応します。

 南北対立が続いていたベトナムで、1964年8月2日、アメリカがトンキン湾事件を起こし、参戦しました。その結果、全面戦争に突入してしまったのです。以後、1975年にアメリカ軍が撤退するまで、北ベトナムと南ベトナムの間で米ソ代理戦争が続きました。

 映画が制作された1965年はその初期段階でしたが、戦況は日々、世界中に報告されていました。戦争被害を聞いても人々は何もすることはできず、ただ、死傷した人々を悼み、悲しむだけでした。

 そのニュースにマリアンヌは鋭く反応したのです。

 マリアンヌは、「無名だなんて、恐ろしい」、「115名のゲリラだけじゃ、何も分からない」、「一人ひとりが人間なのに、誰だかわからない」と怒ります。

 「妻や子供がいたのか」、「芝居より映画が好きなのか」、「何も分からない、戦死者115名というだけ」とつぶやき、無名の人間は数として報道されるだけで、一人の人格を持つ人間として伝えられないことに不満を漏らしています。

 おそらく、ゴダールの思いでもあるのでしょう。

 一人の人間として生きてきた歴史があるのに、ニュースでは死者も、ただ数としてカウントされるだけです。尊厳もなく、ただ無機的に扱われることへの怒りが、マリアンヌの口を通して伝えられます。

 ニュース報道への怒りは、すべてが数値化されてマッピングされる現代社会への反発でもあったといえるでしょう。

●人の尊厳はどこに?

 人はそれぞれ、さまざまな思いを抱き、さまざまに考えを巡らせながら、日々、生きています。そのことを無視し、戦禍の犠牲者すら、単なる数としてカウントされ、報じられることに、マリアンヌは憤っているのです。

 フェルディナンに何を聞かれても曖昧に答え、自分を顕わにしようとしなかったマリアンヌが初めて、素をさらけ出した瞬間でした。

 勢いづいたマリアンヌは、更に続けます。

 そのような報道姿勢は、写真についてもいえることだとし、男が写っている下に添えられたキャプションに言及します。

 「“卑怯者”とか、“粋な男”・・・」、「でも、それが撮られた瞬間」、「彼が何者で、何を考えていたか」、「妻のことか、愛人のことか」、「過去、未来、バスケの試合?」、「誰もわからない」と、日頃、気になっていることを漏らします。

 人を具体的に捉え、伝達できるはずの写真ですら、キャプションとしてステレオタイプなレッテルを貼られ、類別して処理されてしまうことへの不快感が示されています。

 一瞬を切り取って見せる写真も、ニュース報道と同様、対象の内面や来歴に触れることなく、伝えられます。テレビであれラジオであれ、新聞であれ雑誌であれ、マスコミでは全般に、物事が表層的に捉えられ、伝達されます。そのことがやがて、人間性の喪失につながることを懸念しているのでしょう。

 どのような人にも、これまで生きてきた過去があり、いま生きている現在があり、これから生きる未来があります。そのようなことに考えが及んでいないことへの不満は、まさに、数値化され、効率を優先させる現代社会への不満でもあります。

 自分について多くを語らなかったマリアンヌの性格、生活信条などが、このシーンで透けて見えます。

 おそらく、マリアンヌにも、当時のゴダールが投影されているのでしょう。

 「人生も物語のように」、「明晰で論理的で整然としていればいいのに」とマリアンヌはつぶやきます。

(※ 前掲)

 まるでゴダールが乗り移ったかのようです。

■ 映画は、アウトサイダーの居場所か?

 ゴダールは、『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』(Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998年)の中で、次のように語っています。

 「映画は人生なんだ。そしてぼくがしたいのは、映画を生きるのとおなじように人生を生きるということなんだ。映画づくりの中でぼくが最も楽しい思いをするのはどういうときかと言えば(中略)、なにかをつくり出していると感じられるときや資金を調達する時だ。映画をつくるという行為が、人生のなかでより臆病ではないやり方でふるまうことを可能にしてくれるときだ」(※ 前掲。p.225.)

 ここでは、ゴダールが映画製作に、自身を確認し、拡張する機能を託していることが示されています。

 「でも、違うのよ」とマリアンヌは言葉を継ぎます。

 実際はそうではなかったということを、ゴダールはいいたかったのでしょうか。

 フェルディナンが、「いや、思う以上にずっと似てる」と返答すると、マリアンヌはどういうわけか、「違うわ、ピエロ」といいます。

(※ 前掲)

 ここで初めて、タイトルの中の「ピエロ」という言葉が出てきます。

 当時、映画のタイトルが、なぜ「気狂いピエロ」なのかわかりませんでした。今回、DVDを見た時も、このシーンでなぜ、マリアンヌが突然、「ピエロ」といったのか、わかりませんでした。

 ところが、しばらく考えてみて、マリアンヌがこの場面で、フェルディナンを「ピエロ」と呼んだことで、「気狂いピエロ」(Pierrot Le Fou)の意味がわかってきたような気がしてきました。

 「気狂いピエロ」とは、おそらく、マリアンヌに無我夢中のお馬鹿なフェルディナンというほどの意味なのでしょう。

 この時、画面の中では、フェルディナンが、「僕は、フェルディナンだ」と言い返しています。ところが、マリアンヌの気持ちの中で、フェルディナンは、自分にぞっこんの「気狂いピエロ」でしかありませんでした。

 というのも、しばらく互いの気持ちを確認しあうような会話が続いた後、やがてフェルディナンはマリアンヌに向かって、「君は美しい、僕のお人形」というようになるからです。愛情の力学の下、二人の関係は、ここで明らかに、支配vs被支配の関係に陥ったのです。

 物語はその後、マリアンヌ主導で展開していくことになります。

 アウトサイダーとしての居場所を見つけるために、二人は現実から逃避し、あてどのない旅に出るのです。

 ゴダールは、『ゴダール映画史(全)』(Jean-Luc Godard、奥村昭夫訳、筑摩書房、2012年)の中で、次のように述べています。

 「私はいつも二つの国(フランスとスイス)の間で生きてきました。(中略)その結果、(中略)辺境というものに関心を持ち、むしろ辺境に自分の位置をとるようになりました。『気狂いピエロ』は私にとって、ひとつの時代の終わりではなく、ひとつの時代の真の始まりだったのです」(前掲。p.299.)

 先ほどご紹介しましたように、ゴダールは「映画は人生だ」といい、最も楽しいのは、「映画をつくるという行為が、人生の中でより臆病ではないやり方でふるまうことを可能にしてくれるときだ」と述べています。

 これらを総合すると、ゴダールは、自分を拡張した人物を登場人物に設定し、彼等の中に自分を投影しながら映画を製作し、自身の人生を試行していたのではないかという気がしてきます。

 そもそも、ゴダールはフランスとスイスを行き来しながら生活し、いつしか、アウトサイダーとしてアイデンティティを確立するようになっていました。そのようなアイデンティティ確立のきっかけになったのが、映画『気狂いピエロ』だったことは注目に値するでしょう。

 今回、ご紹介したいくつかのシーンには、そのようなゴダールの心情が随所で、吐露されていたように思います。(2023/1/30 香取淳子)

ゴダールを偲ぶ ①:『気狂いピエロ』冒頭シーン

■回顧2022年:ゴダールの訃報

 2022年9月13日、ネットニュースでゴダールが亡くなったことを知りました。91歳でした。驚いたというよりは、なにか奇妙な感覚に襲われました。とっくの昔に過ぎ去った青春時代が突如、甦ってきたのです。

 ゴダールといえば、私の青春時代を彩った華麗な文化人たちのうちの一人です。名前を聞くだけで、タバコをくわえ、ラッシュ・プリントをチェックしていたゴダールの有名な写真が思い出されます。

 フィルムを光にかざし、黒メガネの奥から見上げるゴダールの姿です。当時、この姿を見て、なんと洒落て、カッコよく思えたことでしょう。

(※ https://www.blind-magazine.com/en/news/philippe-r-doumic-the-photographic-treasures-of-french-cinema/より)

 フィリップ・R・ドゥーミク(Philippe R. Doumic)が撮影したこの写真は、ゴダールの溢れる知性と強力な破壊力を鮮明に映し出しているように思えました。映画界に新たなムーブメントを巻き起した男のしなやかで強靭な精神力が、この写真から放散されていたのです。黒メガネとタバコはその象徴にも思えました。

 『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、1960年)で一躍有名になった彼は、『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)でその名を不動のものにしました。

 『気狂いピエロ』が日本で公開されたのが1967年7月、いそいそと映画館に出かけたことを鮮明に思い出します。雑誌を通して、評判は知っていましたが、私が実際に、ゴダールの映画を見たのは、この時が初めてでした。

 その後、『中国女』(La Chinoise、1969年)、『ウィークエンド』(Week-end、1969年)など、ゴダール作品が日本で公開されるたび、待ちわびるようにして、映画館に行きましたが、『気狂いピエロ』で感じたような衝撃を味わうことはできませんでした。

 『気狂いピエロ』は、私にとって、それまでに見たことがないほど斬新で、刺激的で、痛快な映画でした。

 1970年10月には、『彼女について私が知っている、二、三の事柄』(Deux ou trois choses que je sais d’elle)が公開されました。タイトルが映画らしくなくて面白いと思いましたが、忙しくなっていたこともあって、結局、映画館に行くことはありませんでした。映画雑誌で関連情報を得ただけに終わっています。

 こんなふうにして、私はいつしか、ゴダールから遠ざかってしまいました。そして、今年9月、不意にゴダールの訃報に接したのです。

 驚いたことに、ゴダールは安楽死を選択していました。

 一瞬、どう考えていいかわからず、頭が空白状態になってしまいました。ところが、次の瞬間、いかにもゴダールらしいと気持ちを切り替えることができました。生命の終わりの期日を、自然に任せるのではなく、医療に任せるのでもなく、潔く自ら決定していたのです。

 『気狂いピエロ』を見た時と同じような衝撃を与えられました。

 そこで、ゴダールを偲びながら、私がもっとも衝撃を受けた『気狂いピエロ』について振り返り、その後、その死に方について、諸々、綴ってみたいと思います。

■『気狂いピエロ』(Pierrot Le Fou、1965年)冒頭シーン

 ゴダール作品でもっとも衝撃を受けたのが、『気狂いピエロ』でした。とはいえ、今、覚えているのは、冒頭のシーン、パーティのシーンとラストシーンだけです。

 ストーリーはほとんど覚えていません。ただ、ペダンティックで孤高な主人公が、劇画のように荒唐無稽な展開の果て、ダイナマイトを使って爆死するということぐらいです。

 当時、私がなぜ、この作品に強い衝撃を受けたのか、なぜ、これらのシーンだけが記憶に残っていたのか。ゴダールについて語るために、まず、それらを思い起こすことから始めたいと思います。

 記憶をはっきりさせるため、今回、DVDを購入し、詳細に見てみました。まず、冒頭のシーンから見ていくことにしましょう。

●タイトル画面

 映画が始まるなり、ペダンティックな画面に強い衝撃を受けたことを記憶していますが、改めてDVDを見てみると、タイトル画面もまた、斬新でした。

(※『気狂いピエロ』、2017年、KADOKAWAより)

 同じフォント、サイズで必要最低限の映画の概要が示されています。赤で主演のジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナ、そして、青でタイトルの「PIERROT LE FOU」の文字、最後に、監督のジャン・リュック・ゴダールの赤い文字が、黒地の画面に一文字ずつタイピングされて表示されていきます。

 タイピングで一字ずつ打ち出し、画面に表示していく方法が、当時はとても珍しく、画期的な表現方法に思えました。しかも、全ての文字が大小、強弱をつけず、均等で表されているのです。

 それだけではなく、キャストと監督の区別もされていませんでした。区別されているのはただ一つ、青で表示されたタイトルと、赤で表示された製作陣(主人公と監督)の違いだけでした。

 ここにゴダールの趣向の一つを見ることができます。リニアではなくノンリニアへの志向性、あるいは、要素に還元する志向性、さらには、生成過程への関心・・・、とでもいえるようなものを確認できたような気がします。

●ベラスケス

 タイトル総ての文字が表示されると、その画面に被るようにナレーションが始まり、明るいテニスコートの場面になります。

 低い男性の声で、つぶやくようにナレーションが読み上げられます。

 「ベラスケスは50歳をすぎ、事物を明確に描こうとせず、その周りを黄昏と共にさまよった」

 画面では、黄色のシャツに白のスカートを身に着けた若い女性が、明るい陽射しを浴びて、ボールを打ち返しています。

 それに被るのが、次のナレーションです。

 「背景の透明感と影の中に、色調の鼓動をつかみ、それを核にして静かな交響楽を奏でた」

 このナレーションは画面を説明しているわけではなく、画面と何らかの関係があるわけでもありません。それなのに、スクリーンからは次々と、映像と音声によって、別々の情報が流されてきたのです。

 圧倒されて、思考停止状態になっていました。

 正確に言えば、フランス語音声、日本語文字、映像など3種の媒体から発信される情報を、観客は考える暇もなく、受け取らざるをえなかったのです。しかも、映像と音声(ナレーション)は別々の内容だったので、観客自身がそれらを統合し、理解していかなければならず、圧倒されてしまったのです。

 奇妙な感覚を覚えさせられます。

 若い頃の私は、この冒頭のシーンで早々と、ゴダールの虜になってしまったのです。当時、フランス語を勉強しはじめてまだ、2,3年でした。聞き取ることはできず、もっぱら、字幕(文字)に頼って、内容を理解していましたが、それでも、所々しか、わかりません。

 その字幕が、会話のセリフではなく、文章語だったからです。しかも、格調の高い文章で、抽象語が多く、理解できないまま、画面が進み、焦ったことを思い出します。

 やがて、画面が変わり、本屋の店先で、男が本を選ぶシーンになります。

(※ 前掲)

 たくさんの本を抱え、男が本屋から出てきます。ここでも男のナレーションが続きます。

 「彼が描いたのは、浸食し合う形態と色調の神秘的な交感そのもの」

 「どんな衝撃にも中断しない。密やかで絶え間のない進歩のよる交感である」

 男はどうやら、冒頭からずっと、ベラスケスについて語り続けているようです。

 そして、絵画のような夜景になります。

(※ 前掲)

 その夜景に、次のようなナレーションが被ります。

 「空間が支配する表面を滑る大気の波のようにー」

 「自らを滲みこませることで輪郭づけ、形づくり芳香のごとく、至る所に広がる軽い塵となって、四方に広がりゆく、エコーさながらである」

 場面は一転し、バスタブに浸かって、タバコをくわえ、本を読む男のシーンになります。男はここでようやく、主人公フェルディナンとして登場するのです。

 そして、このシーンから、ナレーションと映像は一致します。

(※ 前掲)

 冒頭から続いてきたナレーションは、バスタブのシーンからは、実際に、男が音読する本の内容になっていきます。刺激的な言葉が次々と、画面に表示されていきます。

「彼の生きた世界は悲惨だった」

「堕落した国王、病弱な王子たち」

「貴公子然と装う道化師たち」「無法者たちを笑わせる」

「道化師は宮廷作法、詐術、虚言に締め付けられ」「告白と悔悟に縛られていた」

「破門、火刑裁判、沈黙・・・」

 男は、一体、何の本を読んでいるのでしょうか。

● “Histoire de l’Art L’Art moderne 2”

 気になって、タイトルがはっきりと映っているシーンを探して見ると、かろうじて、『Elie Faure  Histoire de l’Art  L’Art moderne 2』と書かれているのがわかりました。エリー・フォールの『芸術史 近代芸術2』だったのです。

 そこで、Wikipedia でElie Faureについて調べてみると、ゴダールの『気狂いピエロ』の冒頭のシーンで、ジャン・ポール・ベルモンドが演じた主人公が、エリー・フォールの『芸術史 』をバスタブに浸かって、娘に読み聞かせていることが、記載されていました。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89lie_Faure

 エリー・フォール(Élie Faure、1873-1937)は、フランスの医者であり芸術史家でありエッセイストでした。この本は1919年から1921年にかけて刊行された『芸術史』シリーズのうちの第2巻です。

 日本語に翻訳されていないかと探してみると、谷川渥・水野千依訳で、『美術史 4 近代美術』として国書刊行会から、2007年11月21日に出版されていました。

 図書館から借りて読むと、ベラスケスに関するナレーションのフレーズはすべて、この本から採用されたものだということがわかりました。

 たとえば、バスタブに浸かって、本を読んでいる時のナレーションは過激だと思いましたが、本で書かれている文言そのものでした。

 「彼が生きていた世界は悲惨なものであった。堕落した国王、病気がちの王子たち、白痴、侏儒、障碍者、王子の身なりをさせられ、みすからを笑いものにして、不道徳な人々を笑わせることを務めとする怪物のごとき道化師たち。彼らはみな、礼儀作法、陰謀、虚言に締めつけられ、懺悔と悔恨に縛られていた。破門や火刑、沈黙、なおも恐ろしい権力の急速な崩壊、いかなる魂も成長する権利をもたなかった土地」(※ 『美術史 4 近代美術』、p.142)

 若い頃、私が一連のシーンを見て、刺激を受けたのは、この字幕の言葉に勢いがあったからでした。映像よりも、ナレーションのペダンティックな言葉遣いに酔っていたのです。魅力的な言葉は、ゴダールが書いたセリフなのだと勝手に思い込み、夢中になっていました。

 ところが、今回、『美術史 4 近代美術』を読んでみると、エリー・フォールの文章そのものが力強く、刺激的なものだったことがわかりました。

 ゴダールは、自分で書いた脚本に従って、製作していたわけではなかったのです。そもそも脚本があったのかどうか、わかりません。

 映画の概要を見ると、脚本の項目にゴダールの名前がありますが、ラフなものだったのではないかと思います。脚本に拘束されることをゴダールは嫌ったはずです。まるでドキュメンタリー映画を製作するように、美術書を読むシーンを撮影していたのでしょう。俳優に依存して、その実在性を創り出しながら、作品を製作していたような気がします。

 その後の展開を見てもわかるように、ゴダールはいわゆるハリウッド的なストーリーを破壊し、シーン毎のアクチュアリティを大切にした監督でした。切り替えがなく、ナレーションを際立たせたバスタブのシーンに、ゴダールの拘りが現れているように思いました。

 とはいえ、美術書のどの箇所をナレーションに採用するかは監督であるゴダールが決めているはずです。

 急に、ゴダールの来歴が気になってきました。彼はなぜ、映画製作の道に進んだのか、なぜ、この作品の冒頭で、ベラスケス論を滔々と披露したのか、とくに、美術との関係を知りたいと思いました。

 少し横道に逸れてしまいますが、ゴダールの少年時代から映画製作に至るまでの過程を辿ってみる必要があるかもしれません。

● 少年時代から映画製作まで

 調べてみると、一家は1948年にスイスに転居し、ゴダールはローザンヌの学校に通っています。その頃、絵画に夢中になり、よく描いていたそうです。1949年の夏には、母親がモントリアンで彼の個展を開催したほどでした(※ コリン・マッケイブ、『ゴダール伝』、 pp.47-48. 2007年、みすず書房)。

 元々、数学が得意だったゴダールですが、母親に個展を開催してもらうほど、絵画にものめり込んでいたのです。ところが、1949年の秋にはパリに戻り、人類学の免状を取るため、ソルボンヌに登録しています(前掲。P.48.)

 得意だった数学でもなければ、夢中になっていた美術でもなく、どういうわけか、ゴダールは人類学を専攻しているのです。

 不思議に思って、調べてみると、当時、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)が、アメリカから帰国し、1949年にコレージュ・ド・フランス(Collège de France)に創設された社会人類学講座を担当することになっていました(※ Wikipedia クロード・レヴィ=ストロースより)。

 レヴィ=ストロースはアメリカで1948年頃に完成させた論文を携えて、フランスへと帰国していました。1949年には論文審査を経て、公刊されたのが、『親族の基本構造』(Les Structure Élémentaires de la Parenté)でした。『ゴダール伝』を執筆したコリン・マッケイブ(Colin MacCabe, 1949- )は、ゴダールが1949年にレヴィ=ストロースの講演を聞いたと言っていたことを記しています。

 こうしてみると、ゴダールが人類学を専攻したのは、おそらく、この講演がきっかけになったのでしょう。もちろん、知識欲旺盛なゴダールは、それ以前からレヴィ=ストロースのことは知っていたでしょう。著作も読んでいた可能性もあります。

 レヴィ=ストロースはフランスに帰国して以来、フランス思想界を牽引してきました。

 ゴダールが、『勝手にしやがれ』で注目を浴び、『気狂いピエロ』でその名を不動にした1960年代から1980年代にかけて、とくに、現代思想としての構造主義を担った中心人物の一人でした。

 興味深いことに、レヴィ=ストロースの父は画家で、彼は幼い頃から芸術的環境の中で育ったそうです。ゴダールは直感的に何かを感じ取っていたのかもしれません。レヴィ=ストロースが帰国したことを知ると、ゴダールは早々に、人類学専攻に登録しているのです。

 雑多な情報の中から、知の時流を察知するゴダールの直観力には驚かざるをえません。

 最初の映画製作、そして、ヌーヴェルヴァーグの旗手として話題を集めた後も、ゴダールは長い間、注目を浴び続けてきました。それは、おそらく、旺盛な知的好奇心、知的な流行に対する感度の高さといったものが影響しているのでしょう。

 さて、レヴィ=ストロースを追って人類学を専攻したと思われるのに、ゴダールは授業にはほとんど出席せず、映画館に通い詰め、やがて、『カイエ・デュ・シネマ』(“Cahiers Du Cinéma”、1951年創刊)に、映画批評を手掛けるようになっていました。

 映画批評をし、映画理論を構築していくうちに、ゴダールが、映画製作への思いを募らせていくのは当然のことでした。制作資金を作る為、スイスの大型ダムの建設現場で働くことを決意しますが、建設現場に着いた途端、ゴダールはダムの建設についての映画を作ることを思いつきます(※ 前掲、『ゴダール伝』、p.92)。

 撮影技師を雇って製作し、1954年の夏に公開されたのが、最初の短編映画『コンクリート作戦』(Opération béton、16分)です。

 産業史を踏まえ、ドキュメンタリーの技法に則って製作されたこの作品は、撮影も編集も巧みだったため、1958年、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)主演の『お茶と同情』(Tea and Sympathy、1956年)の併映として映画館で上映されました(※ 前掲)。

 その後、ゴダールはこの作品を、当のダム建設会社に売り、2年間は製作費に困らないだけのお金を手に入れたそうです。

 数本の短編を製作した後、『勝手にしやがれ』(À bout de souffle、90分)が1959年に製作され、1960年に公開されました。これが最初の長編映画です。

 この作品は、「ベルリン国際映画祭銀熊賞 」(監督賞、ジャン・リュック・ゴダール、1960年)、「ジャン・ヴィゴ賞」(1960年)、「フランス批評家連盟批評家賞」(1961年)と立て続けに受賞しています。

 この『勝手にしやがれ』で撮影を担当し、以後、ゴダールの作品のほとんどの撮影を担当したのが、ラウール・クタール(Raoul Coutard (1924 -2016)です。彼は、ゴダールが映画界に巻き起こしたヌーヴェルヴァーグについて、「あるとき、現実の、日常の、あるがままのものをそのまま捉えて見せた」と表現しています(※ 『ユリイカ特集:60年代ゴダール』、1998年10月、p.123)。

 ラウール・クタールは、もちろん、『気狂いピエロ』の撮影も担当していました。

 再び、浴室のシーンに戻ってみましょう。

● 小さな女の子の登場

 バスタブに浸かって、口にタバコをくわえたまま、声を出して本を読んでいた男が、突然、何かに気づきます。本から目を離して見上げたかと思うと、「よくお聞き」と画面の外に視線を送り、語りかけます。

 何事が起ったのかと思う間もなく、小さな女の子が入って来て、近づき、恐る恐るバスタブに手をかけます。浴室の外で父親の様子をうかがっていたのでしょう。ちらと父親を見ますが、男は知らん顔で本に目を走らせ、読み続けます。

 女の子がすぐ近くに立っているというのに、男は優しく言葉をかけるわけでもなく、頭を撫でるでもなく、構いもせずに、ひたすら本を読み続けるのです。

 「ノスタルジックな魂が漂う」「醜さも悲しみもなく」

 「みじめな幼年期も残酷な感覚もない」

(前掲)

 ページをめくる時、男は一瞬、女の子を見ますが、すぐに本に戻って読み続けます。

 「ベラスケスは夕刻の画家だ」といい、女の子をしっかりと見つめ、

 「空間と沈黙の画家である」と語り、再び、本に戻ります。

 小さな女の子に向かって、男は滔々と本を読み続けます。しかも、子供が理解できるとも思えない難しい言葉で、ただただ、本を読んでいるのです。その様子は、語り聞かせるというよりも、自分に酔って声を出しているようでした。

 「真昼に描こうと、暗い室内で描こうと」「戦争や狩りが荒れ狂おうと変わらない」

 「燃える太陽の下では」

「めったに外出しないためー」

「スペインの画家は夜と親しんだ」

 突然、妻が慌ただしく浴室に入って来て、「子供に分かるわけないわ」といい、女の子を連れだそうとします。

 男はあっさりと、「さあ、子供は寝な」と言って、女の子を風呂場から追い出します。

 こうして、それまで浸っていた想念の世界から、男は、いきなり現実世界に引き戻されるのです。

 ここまでが冒頭のシーンです。

 声を出すかどうかは別として、バスタブで本を読むというのは、ごくありふれた日常生活の一つです。そのごく日常的な行為が、ほとんど切り替えなしの映像で流されます。

 場面は変わらないので、観客はナレーションに注目せざるをえません。そのナレーションで語られているのが、エリー・フォールの『美術史』から引用したベラスケス論です。

 切り取られて、引用された言葉はどれも、17世紀スペインならではの陰鬱で孤独で、悲観的なものでした。この一連のナレーションに、この作品の展開が示唆されているような気がしました。

 もちろん、それを語って聞かせる主人公の性格、趣向、世界観なども表現されていました。さらには、ちょっとした会話から、子どもとの関係、妻との関係も、この浴室のシーンだけで如実に伝わってきます。

 このシーンにはおそらく、リアリティがあり、アクチュアリティがあったからでしょう。

● リアリティとアクチュアリティ

 この浴室シーンの異様なところは、途中で女の子を呼び入れたり、後に妻が入ってきたりしても、主人公がひたすら、浴室で本を読み続けていることでした。つまり、同じ時間と場所を共有していても、コミュニケーションが成立していない家族関係が示唆されているのです。

 誰もが経験するようなこのシーンには確かに、再現性があり、リアリティがありました。

 さらに、時間と場所を共有していながら、それぞれの意識空間から出ることができず、関わることのできない辛さ、悲しさも表現されていました。それは主人公の心情を強調して表現されているだけでなく、この作品の要約になっているようにも思えました。

 すなわち、分業化が進んだ消費社会の中で、個人もまた商品のように、絆が切り離され、数としてカウントされだけの存在になっていることの示唆です。

 この浴室のシーンにはリアリティばかりではなく、リアリティを支えるアクチュアリティが感じられたのです。

 それは、延々と続く、ペダンティックな言葉の羅列の中に、主人公の心情が見事に託されていたからでしょう。社会とそりが合わず、捨て鉢な気分にならずにいられない主人公の気持ちに引きずられた結果、観客は考える暇もなく、作品世界の中に誘導されていったのです。

 主人公が文章語で語るベラスケス論(エリー・フォールの『美術史』からの引用)は、主人公の疎外感をことさらに鋭く抉り出します。ベラスケスの時代に重ね合わせて表現されているだけに、客観性を担保しながらも、強烈に印象づけられます。疎外の原初形態がイメージされるからでしょう。

 滔々と『美術史』読み続ける主人公の姿にも、妙に、リアリティとアクチュアリティが感じられました。ただセリフを読んでいるだけではなく、実際にありえそうだし、実感がこもっているように見えたのです。

 思い返せば、ゴダールの最初の作品はドキュメンタリーの短編でした。その後、最初に製作された長編映画『勝手にしやがれ』もドキュメンタリータッチの作品でした。ゴダールが作品に、リアリティばかりか、アクチュアリティも求めていたことが推察されます。

 少年の頃、母親に個展を開催してもらうほど、絵画に夢中になっていたゴダールは、絵や画家については、その後も頻繁に論評を行っています。絵画については相当、造詣が深かったようなのです。

 『気狂いピエロ』の冒頭で、主人公がなぜ、エリー・フォールの『美術史』を引用してベラスケス論を展開したのか、若い頃は、その必然性がわかりませんでした。改めて、映画を見たいま、別に不自然だとは思わず、なぜ、エドゥアール・マネではなかったのかという程度の違和感しかありません。

 というのも、ゴダールがエドゥアール・マネを非常に高く評価していることを知ったからです。

 蓮実重彦氏は、ゴダールが「マネとともに近代絵画は生誕したとつぶやいてから、近代絵画、すなわち映画が生誕したのだといいそえる」と書いています(※ 蓮実重彦『増補版 ゴダール マネ フーコー』、2019年、p.19)。

 実は、そのエドゥアール・マネが、「画家の中の画家」として評価していたのが、ベラスケスだったのです。冒頭のシーンで紹介した文章は、ベラスケスが描いた《ラス・メニーナス》(1656年、プラド美術館所蔵)について書かれたものでした。

 さらに、興味深いことに、主役を演じたジャン・ポール・ベルモンドの両親が画家でした。父親はフランス美術アカデミーの会長もつとめた彫刻家で画家であり、母親も画家だったのです。(※ Wikipedia ジャン=ポール・ベルモンドより)

 作品を支えるものとして、リアリティを重視したゴダールは、リアリティを支えるものとして、アクチュアリティを必要としていました。セリフ以外にその俳優から発散される雰囲気、所作、表情といった非言語的な要素がもたらす効果を看過しなかったのです。

 ジャン・ポール・ベルモンドをこの作品の主人公に起用したのは、来歴といい風貌といい、家庭環境といい、ゴダールがイメージするキャラクター特性を備えていたからだと思います。

 ゴダールを偲ぶため、『気狂いピエロ』を振り返ってみました。

 最初に見てから半世紀も過ぎた今、改めてDVDで見て、その斬新さに驚かせられっぱなしでした。媒体の特性に迫ろうとしているところがあり、実験的な要素もあり、時を超えて思考し、飛翔しようとするゴダールに未だに解釈が追いつきません。

 そのせいで、冒頭シーンを見てきただけで、マリアンヌとの出会いにもまだ達していません。次回はこのシーンから見ていくことにしたいと思います。(2022/12/29 香取淳子)

絵画の再生とは何か?:過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

■「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展の開催

 「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年11月18日から2023年2月12日までです。11月19日、秋晴れに誘われて出かけてみると、美術館手前の公園脇に、案内の看板が設置されていました。

 

 降り注ぐ陽光が、紅葉した葉を鮮やかに照らし出しています。その一方で、葉陰から洩れた陽が所々、看板に落ち、生気を与えています。穏やかな秋の陽射しが、まるで絵画鑑賞を誘いかけているようでした。

 看板には「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」と副題が書かれています。おそらく、これが平子氏の作品コンセプトなのでしょう。

 新進気鋭の画家・平子雄一氏は、果たして、どのような作品を見せてくれるのでしょうか。

 会場に入ってみると、練馬区立美術館の「ごあいさつ」として、展覧会開催の主旨が書かれていました。その内容は、同館が所蔵する作品の中から、平子氏が10点を選び、それらの作品を分析し、解釈して、新たに制作した作品を展示するというものでした。まさに、「平子雄一×練馬区立美術館コレクション」展です。

 このような美術館側の開催主旨を汲んで、平子氏は作品タイトルを考えたそうです。コレクションという遺産(inheritance)を、アーティストが変形(metamorphosis)し、現代的な感覚のもとに再生(rebirth)させるという意味を込めているといいます。

 看板を見た時、展覧会のサブタイトルだと思った「inheritance, metamorphosis, rebirth (遺産、変形、再生)」は、実は、平子氏が名付けた作品タイトルだったのです。

 果たして、どのような作品なのでしょうか。

■《inheritance, metamorphosis, rebirth》(2022年)

 会場に入ってすぐのコーナーで、壁面を覆っていたのが、平子雄一氏の作品、《inheritance, metamorphosis, rebirth》でした。あまりにも巨大で、しばらくは言葉もありませんでした。

(アクリル、カンヴァス、333.3×9940.0㎝、2022年)

 巨大な画面に慣れてくると、この作品が、コンセプトの異なる4つのパートから成り立っていることがわかってきました。

 引いて眺め、近づいて個別パートを見ていくうちに、描かれている光景やモチーフは異なっているのに、色遣いやタッチ、描き方が似ていることに気づきました。そのせいでしょうか、4つのパートには連続性があって、巨大な画面全体に独特の統一感が見られました。

 この統一感をもたらしているものこそ、平子氏の対象を捉える眼差しなのでしょう。

 巨大な画面なのに圧迫感がなく、ごく自然に、平子氏の作品世界に引き入れられていきました。画面の隅々まで、平子氏の感性、世界観が溢れ出ていたからでしょう。描かれている木々やキャラクター、その他さまざまなものに注ぐ平子氏の眼差しには、限りなく温かく、優しく、楽観的で、自由奔放な柔軟性が感じられました。

 気になったのは、コレクション作品の痕跡が、この作品のどこにあるのか、わからないということでした。そもそも、この作品は、練馬区立美術館が所蔵している作品を参照して制作されているはずです。

 訝しく思いながら、会場を見渡すと、対面の壁面に展示されていたのが、平子氏が参照した作品10点と各作品に対する感想、そして、制作に際してのアイデアスケッチでした。

 まず、平子氏がコレクション作品をどう選び、どう捉えたのかを見ていきたいと思います。

■平子氏は、コレクション作品をどう選び、どう捉えたのか

 練馬区立美術館が所蔵する作品の中から平子氏が選んだのは10作品で、それらは、対面の壁に展示されていました。もっとも古いのは小林猶次郎の《鶏頭》(1932年)、もっとも新しいのは新道繁の《松》(1960年)です。1932年から1960年に至る28年間の作品が10点、選ばれたことになります。

 画題はいずれも風景か植物でした。このうち何点か、印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

 その後、開催されたアーティストトークの際、平子氏が評価していたのが、新道繁の《松》でした。

(油彩、カンヴァス、116.0×91.3㎝、1960年、練馬区立美術館)

 「松」というタイトルがなければ、とうてい松とは思えなかったでしょう。幹や枝に辛うじてその痕跡が残っているとはいえ、全体に抽象化されて描かれています。まっすぐに伸びた幹は、色遣いが柔らかく優しく、秘められた奥行きがあります。そこに、松に込められた日本人の伝統精神が感じられます。

 調べてみると、確かに、新道繁(1907~1981)は「松」をよく描いています。渡仏した際、ニースで受けた印象から、松を題材にするようになったそうですが、以後、「松」を描き続け、第3回日展に出品した《松》(1960年)は日本芸術院賞を受賞しています。(※ https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10156.html

 平子氏は、この作品について素晴らしいと評価し、「飽きが来たとき、デフォルメした」と解釈していました。同じモチーフを描き続けてきたからこそ、新道繁は、この段階(抽象化)に到達することができたと推察していたのです。

 私は平子氏のこの推察をとても興味深く思いました。たとえ、写実的に形態を写し取ることから描き始めたとしても、何度も同じモチーフを描いていると、やがて、本質に迫り、価値の再創造を図らざるをえなくなります。そのような創造の進化過程で起きる画家の内なる変化を指摘しているように思えたからでした。

 さて、吉浦摩耶《風景》について、平子氏は、自然をエリアに分けて描こうとする視点に着目しています。自然による造形と人工的な造形とが混在していても、それぞれのエリアを分けることによって、作品として成立させているところに注目しているのです。

 靉光《花と蝶》に対し、平子氏は、「とても、いい。びっくりした」と評価していました。

(油彩、カンヴァス、72.6×60.8㎝、1941-42年、練馬区立美術館)

 葉が何枚も重なって、覆い繁る中で、花と蝶がひっそりと葉陰に隠れるように描かれています。写実的に描かれておらず、色と模様でようやく蝶であり花だとわかるぐらいです。花も蝶も平面的で、実在感がありません。

 もっとも、不思議な生命感は感じられました。背後には明るい陽光が射し込み、おだやかに手前の葉や蝶や花を息づかせています。そのほのかな明るさが、平面的に見えた花や蝶に命を吹き込んでくれているのです。

 柔らかな陽光をさり気なく取り入れることによって、平面的に描きながらも、さまざまな生命が確かに生きていることに気づかせてくれる作品でした。

 平子氏はこの作品について、「デフォルメの仕方が人工っぽくて面白かった。植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」といっており、靉光の独特のタッチに興味を示していました。

 確かに、独特の画風でした。

 興味を覚え、調べてみると、靉光の作品でもっとも多く取り上げられているのが、《眼のある風景》(1938年)でした。

(油彩、カンヴァス、102.0×193.5㎝、1938年、国立近代美術館)

 一見、肉塊のようにも、コブのようにも、ヘドロのようにも見える塊が、褐色の濃淡でいくつも描かれています。陽の当っているところがあれば、陰になっているところもあって、身体の中にできた腫瘍のようにも思えます。

 よく見ると、画面の真ん中に眼が見えます。

 澄んだ眼の表情には、混沌のさ中、何かをしっかりと見据えているような冷静さが感じられます。下の方には、血管の断面のような穴が開いた箇所がいくつかあります。何が描かれているか、皆目わかりません。それだけに、澄んだ眼の表情が強く印象に残ります。

 「眼のある風景」というタイトルを踏まえると、この絵は混沌の中でも見失ってはならないのが理性ということを示唆しているのでしょうか。

 この作品は、独自のシュールレアリスムに達した作品として評価されているようです。その後に制作された《花と蝶》にも、わずかにその片鱗を見ることができます。シュールレアリスムの系譜を引いたこの作品には、リアリズムを超えた実在感が感じられるのです。

 平子氏は、シュールレアリスムの傾向を持つ靉光の《花と蝶》に、「植物をそのまま写実的に描くのではなく、人工物のように見えながら、生命力を感じさせる」と評価していました。

 リアリティとは何かという問いかけをこの作品は内包しています。

 写真技術による絵画の存在意義への脅威はとっくに過ぎ去り、いまや、デジタル技術による脅威の時代に入っています。従来の絵画手法で、写実的にモチーフを表現するだけでは、躍動する生命力を感じさせることができなくなっているのかもしれません。

 平子氏が選んだコレクション作品は10点でしたが、ここでは、平子氏がとくに心を動かされたと思われる作品を取り上げ、ご紹介しました。

 平子氏がそれらの作品から得たものを要約すれば、「人工と自然のエリア分け」であり、「人工物のようにデフォルメし、生命力を感じさせる」でした。

 それでは、平子氏はこれらの作品を踏まえ、どのような構想の下、過去の作品を再生しようとしたのでしょうか。

■制作のための構想

 平子氏が選定した美術館のコレクション作品に混じって、アイデアスケッチが展示されていました。今回の作品を制作するにあたっての構想を示すものです。パート毎に、それぞれのコンセプトが書き込まれていました。

 アイデアが書き込まれたメモ書きに、①から④の番号が振られています。どうやら、平子氏は当初から、4つのパートに分けて描こうとされていたようです。

 それでは、このメモ書きを順に見ていくことにしましょう。

① 当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である。

② 参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ。

③ 今日のプロジェクト。挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート。

④ ①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か。

 これを見ると、平子氏は、まず、コレクション作品を通して過去の画家が捉えた自然を描き(①)、次いで、それを解析して構想を練り(②)、そして、制作に仕上げていく自身を描き(③)、最後に、過去の画家が捉えた自然と、自身が捉えた自然とどちらがより真の姿を捉えているかを問う風景を描こう(④)としていたようです。

 パート①からパート④までの一連の流れを見ると、平子氏が、美術館側から提供された課題に対し、自然を題材に、起承転結の構成を踏まえて、再生しようとしていたことがわかります。

 それでは、具体的にどのような過程を経て、コレクション作品が再生されたのか、平子氏の《inheritance, metamorphosis, rebirth》を見ていくことにしましょう。

■コレクション作品を踏まえて再生された《《inheritance, metamorphosis, rebirth》》

 アイデアスケッチによると、平子氏は、風景画に始まり、風景画で終わる4部構成に収斂させて、自身の作品を構想していました。そして、「承」と「転」に相応するパート②とパート③には、木のキャラクターを取り入れていました。

 不思議に思って、パート③のメモ書きを見ると、「自画像に近いポートレート」と書かれています。それで、わかりました。この木のキャラクターこそ、作者自身であり、作者が手掛けようとするテーマの語り部でもあったのです。

 まず、パート①から見ていくことにしましょう。

●パート①

 平子氏は、当時の画家が描いた自然がどのようなものであったか知りたくて、コレクション作品を選んだといいます。メモ書きには、「当時の風景。当時の人(作家)が見た、感じたであろう自然や植物の感覚を意識して描く。ありふれた景色である」と書かれています。

 参照したと思われるのが、田崎廣助の《武蔵野の早春》(1940年)、西尾善積の《練馬風景》(1937年)でした。いずれも木立の中を小道が続き、遠景に至るという構図で、どちらかといえば、よく見かける風景画です。

(展示作品。パート①)

 中景の両端に大きな木が2本、立っています。一方は葉が付き、他方は枝が切り取られて、葉が落ちています。その合間を曲がりくねった小道が上方へと続き、雑木林の中に消えています。その背後は靄がかかり、巨大な山がそびえています。

 平子氏は、《武蔵野の早春》や《練馬風景》から、木立の合間を小道が続き、空に至るという構図を援用したのでしょう。とはいえ、これらの作品の構図通りにパート①が描かれているかといえば、そうではありませんでした。

 小道は不自然なカーブを描き、小道を挟み、巨木が2本しか描かれていません。コレクション作品から構図を借りながらも、木立の部分を大きくデフォルメしていたのです。

 象徴的なのは木々の扱いです。コレクション作品では小道を木立が挟んでいるのですが、平子氏の作品では木は2本しか描かれておらず、しかも、自然のまま、伸びやかに枝を伸ばし、葉をそよがせているという通常の木の状態ではなかったのです。

 一方は枝が短く切られて葉がなく、一方は枝が少なく、剪定された松のように、葉が丸く切りそろえられています。つい、幹や枝を人工的に曲げて、時間をかけて形を整えられた松の木の盆栽を連想してしまいました。

 さらに、木の幹や枝は、褐色がかった黄土色の濃淡で表現されていました。これを見ると、新道繁の《松》で描かれた幹の色が思い浮かびます。もっとも、新道繁の《松》の場合、松の幹が抽象化されており、必然的にあのような色調になっていました。奥行きが感じられ、淡々と年月を重ねる松の木のイメージにも重なります。

 一方、平子氏のパート①の場合、木々の描き方は明るく、平たく、奥行きが感じられませんでした。おそらく、デフォルメして表現しようとしていたからでしょう。背景にも同色の塊が見えますし、枝が切り取られた低木も、その背後の木も同色で描かれています。

 また、画面の手前右には、枝を切られ横倒しになっている巨木の幹があり、上部が褐色、下部が濃褐色で描かれています。これもやはり、平たく、奥行きが感じられません。

 デフォルメして描かれているからでしょうし、そもそも平子氏がヒトの手の入った自然を薄っぺらいものと捉え、その薄っぺらさを表現するために取った手段なのでしょう。このような自然の捉え方に、平子氏の現代的な感性を感じずにはいられません。

 こうしてみてくると、木々の枝や葉がデフォルメして描かれているところに、平子氏の特色があり、自然観が見えてくるような気がします。

 一方、デフォルメされた明るい林の背後には、うっそうと葉の生い茂る木々が見え、その奥に靄のかかった山が見えます。こちらには自然が持つ深さと厚みが感じられます。

 近景、中景はデフォルメされたモチーフで構成され、遠景は鬱蒼とした林と靄のかかった山が描かれています。そこに、放置された自然ならではの重厚感、ヒトを容易に寄せ付けない威厳と峻厳さが醸し出されていました。

 近景、中景、遠景を繋ぐものが、巨木の合間を蛇行する小道でした。曲がりくねった小道が、自然が整備され開発されたエリアと、手付かずのまま残された自然のエリアを繋いでいるのです。

 よく見かける風景画の構図を借りて、人に都合よく開発され、人の美意識に沿うよう改変させられている自然の姿と、容易に開発できない自然の姿とが融合して描かれていました。このパート①の中に、人と自然とのかかわりの一端が凝縮して表現されていました。

 それでは次に、パート②を見ていくことにしましょう。

●パート②

 作者の分身でもある木のキャラクターが、ベッドに足を投げ出し、座っています。朝食の時間なのでしょうか、傍らにはコーヒーやパンが置かれ、寄り添った黒猫に優しく手をかけています。

 活動前のひとときなのでしょう、リラックスした雰囲気が漂っています。足元には、黒い帽子と赤いコートが置かれているところを見ると、食事が終わると、外出する予定なのかもしれません。

(展示作品。パート②)

 ベッドの周りには、多数の本が隙間なく、床に直接、積み上げられ、その上に、花の入った壺や花瓶、スイカやキュウリなどが置かれています。積み上げられた本が適度の高さとなっており、小テーブル代わりに使われているのです。

 一見、雑然として見える室内ですが、本はきちんと積み重ねられ、花や葉は花瓶や壺、植木鉢に、そして、果物は籠の中に入れられているせいか、モノが多いわりには整然とした印象があります。

 木のキャラクターは、さまざまな花や葉や野菜に取り囲まれ、考え事をしているようです。多数の書物を渉猟して情報を得、参照しながら、構想を巡らせているように見えます。背後の壁面には多数の絵がかけられています。これらの作品も参考にしながら、アイデアを絞り込んでいるのでしょう。

 これは、作者が思索するための空間なのです。

 それにしても、室内の色遣いがなんと鮮やかなことでしょう。思索の場に似つかわしくないように思えますが、真剣に思考を積み重ねながらも、決して深刻ぶることのない軽やかさがあります。そこに、新しさと若さが感じられました。

 しげしげと眺めているうちに、ふと、先ほど見たアイデアスケッチとは絵柄が異なっているような気がしてきました。

 そこで、改めてアイデアスケッチを見てみると、木のキャラクターは確かに、前景真ん中に描かれていますが、ベッドが見当たりません。

(アイデアスケッチ。パート②)

 このスケッチに添えられたメモには、「参考にした作品の色使い、技法等織り交ぜる。絵画の系譜を意識する空間。作家として生きた時間が交わる感じ」と書かれています。平子氏はこのパートを、コレクション作品と向き合い、制作した画家と交流する場と位置付けていたようです。

 さて、アイデアスケッチでは、右端に高い木がそびえ立ち、上の方に空が見えます。これだけ見ると、明らかに戸外の景色です。当初、平子氏は、風景の中に思索の場を設定しようとしていたのでしょう。風景や植物を描いた画家との交流の場として、戸外の景色が相応しいと思われたのかもしれません。

 興味深いことに、このアイデアスケッチにはベッドこそ描かれていませんでしたが、壺のようなものが多数、描かれており、本もスケッチされています。室内に置かれているようなものが多数、アイデアスケッチの中に描かれていたのです。この段階では、構想の場を室内にするか、戸外にするか、平子氏が逡巡していたことがうかがえます。

 ところが、ポスターに掲載された画像ではベッドが描かれていました。実際に制作してみると、ベッドが必要だと思われたのでしょう。確かに、画面真ん中にベッドを設置することによって、白いシーツが余白スペースとして効いています。

(ポスター画像、パート②)

 ポスター画像は、展示作品ほどモノがあふれているわけではありませんが、ベッドを置くことによって、思索の場を可視化できていることがよくわかります。

 木のキャラクターは、さまざまな情報を取り入れ、検証し、構想アイデアを結晶化させようとしています。アイデアをシャープにするには、脳内空間から雑念が取り払われなければなりません。白いベッドは、いってみれば、雑念を取り払った後の脳内空間であり、構想を練り上げるためのワークスペースとして機能しているのです。

 メモ書きで示されたように、このパート②を作品構想の場と位置付けるなら、ベッドは不可欠でした。

 さて、平子氏はこのパート②について、「「引用を避けつつ、引用している」と話していました。そして、「他の作家のモチーフを自分なりに描くというのは、作家として安易なことをやっている」といい、さらに、「もう二度とやらないが、すごい誘惑がある」とも語っていました。

 微妙な作家心理がうかがえます。

 平子氏が練馬区立美術館から求められたのは、過去の作家が創り出したモチーフなり、構図なり、色彩など(inheritance)を変形させて(metamorphosis)、自分のものとして描くこと(rebirth)でした。それは、創作者としては安易なやり方だが、心惹かれるものがあるといっているのです。

 だからこそ、平子氏は、一目で引用したことがわかるような引用の仕方ではなく、その本質を踏まえ、自身の作品に引き寄せて創り直すということを徹底させたのでしょう。

 改めて、展示作品を見てみると、雑然とした室内に、赤が効果的に配置されていることに気づきます。コートの赤、木のキャラクターが着ているセーターの赤、花瓶敷きの赤、柿の赤といった具合に、鮮やかな赤が差し色として室内随所に使われ、画面を引き締めるとともに、一種のリズムを生み出していました。

 この赤を見ていて、連想させられたのが、野見山暁治の《落日》で使われていた赤でした。

(油彩、カンヴァス、145.6×97.5㎝、1959年、練馬区立美術館)

 これは、平子氏が選んだ10作品のうちの1点です。

 赤く染まって沈んでいく落日に使われた赤が、印象的でした。これが、パート②に取り入れられたのでしょう。コートやセーター、花瓶敷きなどに使われ、画面に独特の秩序と動きを生み出していました。これもまた一種の引用といえます。

 不思議なことに、寂寥感が込められていた《落日》の赤が、パート②では、明るさと軽やかさ、洒脱さを画面にもたらしていました。野見山暁治の赤を、平子氏なりの感性とセンスで処理し、活用することによって、独自の光景を創り出していたのです。

 ちなみに、平子氏はこのパート②を最後に仕上げたそうです。さまざまに思索を重ね、逡巡しながら、このような形に仕上げていったのでしょう。

 それでは、パート③についてはどうでしょうか。

●パート③

 パート②で登場した木のキャラクターが、ここでは正面向きで大きく描かれています。メインモチーフとして表現されているのは明らかです。自然を愛する画家の肖像画ともいえる絵柄です。

(展示作品。パート③)

 両腕でリンゴを抱え、手で絵筆を握りしめ、絵具で汚れたスモックを着て、木のキャラクターが立っています。背後には、絵筆やさまざまな刷毛、筆洗い、照明器具、双眼鏡やラジオ、時計、カメラなどが棚に置かれ、画家の周辺には創作のためのメモがいくつもピンアップされています。

 構想段階(パート②)の室内とは明らかに異なります。

 いざ、制作しようとすれば、表現のための道具が必要です。画家の背後の棚に、具体的な作業に必要なさまざまなものが置かれています。それらのモノは、背後の壁面に陳列され、まるで画家の創作活動を支え、しっかりと見守っているかのように見えます。

 パート③では、理念だけでは処理できない、実践段階の様相が描かれていました。

 パート②とパート③は、木のキャラクターによって繋がっています。パート②で、木のキャラクターは遠景で捉えられ、多数の書物や植物とほぼ等価で描かれていました。さまざまな情報が絡み合い、連携し合い、時に、否定し合いながら構想をまとめていくには、主従があってはならないからでしょう。

 ところが、パート③では近景で捉えられ、制作する主体として大きく表現されています。一つの作品世界を完成させるには、主体が確立されていなければならないからだと思います。

 このように、パート②とパート③では、木のキャラクターのサイズに違いが見られました。そこに、作家の完成作品への関与の度合いが示されており、構想段階で描いた作品世界は、一つの過程にすぎず、実践段階では容易に変更されることが示されているといえます。

 ちなみに、平子氏はこのパート③には、「今日のプロジェクト挑戦する自分を意識した自画像に近いポートレート」というメモ書きを寄せています。

 それでは、パート④はどうでしょうか。

●パート④

 空は暗く、枝が切り取られ、幹だけが目立つ木の背後から、白い月がほのかな光を放っています。遠景には残照が広がっており、辺り一帯は黒ずんだ牡丹色に染まっています。上空を見ると、赤い火の粉が空に飛び、火口から噴出するマグマのようにも見えます。ヒトが対抗できない自然の威力を感じさせられます。

(展示作品。パート④)

 一方、麓から手前にかけてのエリアでは、木々の葉は緑ではなく、赤や黄色、ピンクで描かれています。まさに人工的に作られた自然が描かれているのです。

 たとえば、前景では黄色の小花が群生していますが、夜なので気温が下がっているはずなのに、花弁を閉じずにしっかりと開いたままになっています。しかも、大きさもほぼ同じでいっせいに咲いています。まさに人工的に作られているとしかいいようがありません。

 さらに、小道の左側には切り倒された巨木の幹が2本、横倒しになっていますが、手前が赤、その後ろがピンクで描かれています。その後方も同様、麓に至るまでのすべての植物が、リアルな植物ではありえない色で表現されているのです。鮮やか過ぎて、意表を突かれます。

 改めて、メモ書きを見ると、平子氏はこのパートについて、「①を反転させた様々な景色。現代の人(自分含め)が捉える自然、過去の自然と現代の自然とどちらが本物か」と書いていました。

 過去の画家が捉えた自然をパート①で表現し、それを反転させて、現代の画家が捉えた自然をパート④で表現したというのです。

 実際、見比べてみると、モチーフはそれぞれ反転して描かれていました。そればかりではありません。時間帯を夜にし、色を人工的なものに置き換えて、パート①の風景が表現されていました。

 こうしてみてくると、平子氏は、参照した画家たちと現代の画家(自分)との捉え方の違いを、どれだけ自然界と離れているか(人工的か)の度合いで判断しようとしているように思えます。

 比較の基準となっているのが、パート①でした。

■展示作品とポスター画像との違い

 比較しながら、パート④を見ているうちに、展示作品が、ポスター画像と異なっていることに気づきました。色がまるで違っているのです。展示作品では木の葉が黄色でしたが、ポスターではたしか、木の葉が赤でした。

 念のため、ポスター画像から、パート④の部分を抜き出し、確認してみることにしましょう。

 思った通り、葉の色が違っていました。ポスターでは剪定されて丸味を帯びた葉に赤が使われ、手前の草も赤でした。

(ポスター画像 パート④)

 植物の色が変容させられているだけではなく、手前から奥につながる小道が描かれていません。周囲の植物も整理されて描かれていないせいか、まだヒトの手が入っていない原野のようにも見えます。

 一方、展示作品の方は、曲がりくねった小道が奥につながり、手前から画面半ばまでの自然がきちんと整備されています。その反面、山の麓から後のエリアは、人の手が入っていない自然界が描かれており、威圧的な存在感を放っています。

 展示作品とポスター画像との大きな違いは、ここにありました。

 すなわち、手つかずの自然を取り入れているかどうか、そして、ヒトの手の入ったエリアと放置されたままのエリアが一枚の画面の中で、はっきりとわかるように描かれているかどうかです。

■過去と現在を繋ぐ平子雄一氏の表現世界

 選択されたコレクション作品は、1932年から1960年までの作品でした。

 1932年といえば、満州事変の後、軍部の政治的影響力が拡大し、政党内閣制が崩壊の危機に瀕していた時期です。その後、第2次大戦を経て、戦後復興を果たし、高度経済成長期に入ったのが1960年でした。この期間はまだ圧倒的に農村人口の多い時代です。

 そのような時代状況を反映していたのでしょうか、パート①で描かれた風景には、せいぜい木を伐採するといった程度の人工化しか見られません。そして、人里に近いところは整備されていますが、山に向けての後方エリアは、まだ手付かずの自然が残っているといった状態でした。

 ところが、パート④では、気温に関係なく花を咲かせ、葉や幹に自然界にない色を付与した状態が描かれています。平子氏が現代の自然や植物をこのように認識していることが示されているのです。

 実際、私たちは、夜になればイルミネーションで照らされ、赤、黄色、青、紫といった色に変貌させられる植物の姿を日常的に見ています。その一方で、室内には、空気清浄化の機能を持った本物そっくりの観葉植物を置き、健康な生活を送っていると思い込んでいます。

 科学技術の進歩によって、いまや、自然を人工的なものに見せることができるようになったばかりか、人工的なものを自然と見間違えるほどに仕立て上げることもできるようになっています。

 いつごろからか、私たちは、何がリアルか、リアルでないかにそれほど意味があるとは思わなくなってしまいました。それよりも、役に立つか、効率的か、居心地がいいか、といった自己本位の評価基準で対象を捉えがちになっています。

 私たちの自然に対する意識もまた、変わってしまいました。「どちらが本物か」という問いすら持たずに、自然をコントロールし、ヒトに都合のいい形に作り替えておきながら、平然と、自然と共存しているような錯覚に陥っているのが現状です。

 残念なことに、私たちは、自然と共に生きることを止め、自然を利用することだけを考えるようになってしまいました。自然に耳を傾け、自然をありのままに受け入れることを止めた私たちは、もはや、自然界の憤りを感じるセンスを失ってしまっているのかもしれません。

 昨今、増え続ける異常現象は、人間優先で行われてきた自然利用や自然のコントロールに、自然界が悲鳴を上げ始めた証拠なのかもしれないのです。

 そんな今、平子氏は、4つのパートで構成された巨大な作品《inheritance, metamorphosis, rebirth》を通して、観客に大きな問いを投げかけています。「炭鉱のカナリア」のように、繊細な感性を持つ画家ならではの警告なのでしょう。

 パート①からパート④への変遷過程について、私たちは一人一人、改めて問い直す必要があるのではないかと思います。技術の絶え間ない進化は、自然界を追い詰めてきただけではなく、やがて、ヒトを追い詰めていくに違いありません。

 日本政府はメタバースに(metaverse)向けて舵を切り、ビジネス界が動き出しています。そうしなければ、世界に伍していけないからですが、過去を振り返ることなく、ヒトの生活を踏まえることなく、ただ技術の進化だけを進めていいのかという疑問が残ります。(2022/11/29 香取淳子)

《草上の昼食》:マネは何を表現しようとしていたのか。

 前回、石井柏亭《草上の小憩》を取り上げ、マネ《草上の昼食》の影響がどこにあるのかを見てきました。改めてマネの《草上の昼食》を何度も見ることになったのですが、見れば見るほど、人物モチーフの取り合わせが奇妙に思えてきます。

 マネは《草上の昼食》で一体、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 そこで今回は、制作過程や時代背景を踏まえ、マネが制作当時、何に関心を寄せていたのかを把握し、《草上の昼食》で何を表現しようとしていたのかを考えてみることにしたいと思います。

 《草上の昼食》の解説を見ると、ほぼ一致して、この作品はティツィアーノの《田園の奏楽》とラファエロの《パリスの審判》の影響を受けていると指摘されています。果たして、どこがどのように影響されているのでしょうか。

 まず、定説となっているこれら二つの作品を見ていくことから始めたいと思います。

■《田園の奏楽》と《パリスの審判》

 多くの評論家や学者、好事家が一致して指摘するのは、マネは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio, 1488頃-1576)の《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年)をルーヴル美術館で見て、着衣の男性と裸身の女性が田園で憩うという作品の着想を得たということです。

 そして、手前の男女3人の配置については、1515年頃にマルカントニオ・ライモンディ(Marcantonio Raimondi, 1480-1534)によって制作された、ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《パリスの審判》(Giudizio di Paride, 1515年)を基にした銅版画に影響されたということでした。

 《田園の奏楽》にしても、《パリスの審判》にしても、16世紀前半に制作された宗教画です。

 それでは、二つの作品を順に見ていくことにしましょう。

●ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)《田園の奏楽》(Concerto campestre, 1509年頃)

 この作品は長い間、イタリア人画家ジョルジョーネ(Giorgione, 1477年頃 – 1510年)が描いた作品といわれてきました。ところが、最近の学説ではその弟子ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, 1488年頃-1576年)の作品だとされています。

(油彩、カンヴァス、105×137㎝、1509年頃、ルーヴル美術館)

 着衣の二人の男性と裸身の女性が草原に腰を下ろし、その近くに、裸身の女性が立ったまま、水差しから水を注いでいる姿が描かれています。座った女性は後ろ向き、立っている女性は前を向いています。暗い色調の木立の中で、画面手前の二人の裸身の明るさが目立ちます。

 二人とも完全な裸身というわけではなく、立っている女性は太腿から膝下にかけて布を巻きつけ、座っている女性は右太腿に巻き付けた布の上に腰を下ろしています。いずれも豊穣の象徴としての豊満な姿が描かれています。

 座っている男女3人は一見、仲睦まじく、団欒しているように見えます。ところが、よく見ると、どうやらそうではなさそうです。というのも、男性二人は親密に話し合っているのに、彼らは目の前の女性とは何ら関わりがなさそうなのです。

 二人の男性を見てみましょう。

 赤い帽子を被り同色の服を着た男性は楽器を奏でながら、隣の茶色の帽子を被った男性と何やら親し気に語っています。

(前掲、部分)

 至近距離に裸身の女性が座っているというのに、男性二人がなんら関心を示している様子はありません。赤い服を着た男性など、裸身の女性とは足が触れ合わんばかりに近いところにいるのに、まるで女性など存在していないかのように、隣の男性との会話に夢中です。

 もちろん、彼等はすぐ傍に裸身の女性が立って、水差しから水を注いでいるのにも気づかないようです。不思議なことに、男性は二人とも、裸身の女性になんの興味も示していないのです。

 ということは、この裸身の女性たちは生身の人間ではなく、女神あるいはニンフと理解すべきなのでしょう。そう考えれば、着衣の男性と裸身の女性を描きながら、この作品が顰蹙を買うこともなく、ルーヴル美術館に展示されていた理由もわかります。

 女神あるいはニンフだからこそ、裸身を描いても拒絶されなかったのです。

 16、17世紀の美術理論ではデコールム(decorum)という概念が重視されていました。宗教画、歴史画などの作品では、個々の人物の描き方が適切で、主題や表現ともに品位を保つ配慮が必要とされていたのです(※ https://karakusamon.com/word_bijyutu.html)。

 ティツィアーノは晩年、フェリペ2世の依頼で、宗教画と「ポエジア」と呼ばれる古代神話連作絵画を制作していました。神話に仮託した裸婦が描かれることも多かったといわれています。《田園の奏楽》を見てもわかるように、理想的な裸身を描く技量を持っていたからでしょう。

 ティツィアーノはデコールムに則って、魅力的な裸体を描くことができたのです。

 さて、マネの《草上の昼食》が影響を受けたといわれるもう一つの作品が、《パリスの審判》です。

●ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)《パリスの審判》(The Judgment of Paris、1515年)

 ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi, 1483-1520)はイタリアの画家であり建築家です。明確でわかりやすい構成と、人間の壮大さを謳い上げる世界を視覚化したことで評価されています。ラファエロの作品は絵画でもドローイングでも評価が高く、ローマ以外でも彼の作品を元にした版画が出回り、よく知られていました。

 そのラファエロが《パリスの審判》を描いたのをライモンディ(Marcantonio Raimondi,1475年頃‐1534年頃)が版画にしたのが、下の作品です。

(銅版画、サイズ不詳、1515年、ドイツ、シュトゥットガルト州立美術館)

 裸身の神々や天使が多数、描かれています。調和の取れた構図の下、それぞれが生き生きとした表情と動作で描かれ、見事です。その画面の一角に、《草上の昼食》のモチーフの配置とよく似た部分があります。

(前掲、部分)

 左の男性は膝に肘をついて、こちらを見て居ます。右の男性は足を投げ出し、武器のようなものを両手に持っています。3人とも男性ですが、この人物配置はまさに《草上の昼食》の人物配置です。マネがこの作品をヒントにしたことは明らかです。

 こうして二つの作品を見てくると、これらが《草上の昼食》に大きな影響を与えていたことがわかります。いずれも16世紀前半、ルネサンス盛期の作品です。これまで数多くの評論家や学者たちが指摘してきたように、画題といい、構図といい、マネがこれらのルネサンス期の作品を参考に《草上の昼食》を描いていたことは明らかです。

 ただ、それがわかったとしても、マネがこの作品を通して何を表現しようとしていたのかはわかりません。

 果たして、マネはこの作品を通して、何を表現しようとしていたのでしょうか。

 再び、マネの《草上の昼食》の画面に立ち戻って、考えてみることにしましょう。

■画面を構成する「水浴」と「ピクニック」の光景

 やや引いて画面全体を見ると、気になるのは、上下二つに分かれた画面構成です。異なる二つの光景が一つの画面に描かれているのです。

 まず、中景から遠景にかけて、薄衣を着て水浴をしている女性が描かれています。前回指摘した人物配置図でいえば、三角形の頂点に当たる部分です。そして、前景から中景にかけては、着衣の男性二人と裸身の女性が談笑している光景が描かれています。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1863年、オルセー美術館)

 画面の上下で別々の光景が描かれているのです。上方は水浴する場面であり、下方はピクニックをしている場面です。いずれも癒しの光景とみることができます。奇妙なことに、この異なる二つの光景は森の木立の下、一見、違和感なく接合されています。

 二つの光景は着衣の男性の背後に見える緑の草地で描き分けられ、背後の川面には巨木の樹影が映し出されています。そのせいか、川辺と森とがごく自然に繋がって見えます。暗緑色の木々で覆われた画面の中で、裸身の女性と肌色のシュミーズを着た女性の姿がまるで光源のように辺りを照らし出しています。暗緑色の木立の中で、そこだけスポットライトを浴びているかのようです。

 よく見ると、水浴の女性は斜め下に視線を落としています。

(前掲。部分)

 まるで森にピクニックを楽しむ男女3人を見ているように見えます。この女性は裸身ではなくシュミーズをまとっていますから、女神ではなくニンフでもありません。生身の女性が視線をピクニックを楽しむ男女に向けているのです。

 この女性の視線は、時空の異なる二つの光景をさり気なく連携させるだけではなく、マネの関心の移行を示しているともいえます。すなわち、「水浴」から「ピクニック」への関心の流れです。

■水浴

 「水浴」から「ピクニック」への流れは、神話世界のイメージから現実世界のイメージへの流れであり、理想主義から現実主義への流れともみることが出来ます。ひょっとしたら、ここにマネの制作過程での意識の流れを追うことができるかもしれません。

 そもそも、この作品の1863年に開催されたサロン出品時のタイトルは《水浴》でした。ところが、モネがこの作品に刺激されて《草上の昼食》(1865-1866年)を描いたのを見たマネが、1867年に開催された個展でこの作品のタイトルを《水浴》から《草上の昼食》へと変更してしまったのです。

 マネはなぜ、タイトルを《水浴》から《草上の昼食》に変えたのでしょうか。

 マネの《草上の昼食》の画面を見返して見ると、「水浴」よりも「ピクニック」の方に比重が置かれているのは明らかです。この画面構成をみれば、マネがタイトルを変更した理由もわからなくはありません。

 ただ、画面上部に水浴の光景を描き、タイトルを《水浴》にしていたことを考えれば、マネは当初、水浴を画題に制作しようとしていたのではないかと思われます。その後、なんらかのきっかけがあって、ピクニックの光景をメインに描くようになったのでしょう。

 実は、1862年にマネは水彩でこの作品の下絵を描いています。

(水彩、紙、33.9×40.3㎝、1862年、オックスフォード、個人蔵)

 これを見ると、人物モチーフの配置、ポーズなど本作とほとんど変わりません。1862年の時点で、裸身の女性に着衣の男性二人、その背後に水浴する女性といった構図は定まっていたことがわかります。

 ただ、下絵では、裸身の女性と隣の男性が仲睦まじく寄り添い、同じ方向を見て居るのに対し、本作では、至近距離にいながら二人の間には距離があります。二人はやや離れて座り、女性は正面を見つめているのに男性はやや視線をずらして描かれているのです。

 また習作では手前にバスケットからパンや果物などが転がり出ている様子は描かれておらず、ピクニックという雰囲気はありません。ピクニックの要素は本作の制作段階で描き加えられたと考えられます。

 実は、《草上の昼食》の前にマネが描いていた作品があります。

 《驚くニンフ》(1861年)と《テュイルリー公園の音楽祭》(1862年)という作品です。これらの作品はどうやら、マネが《草上の昼食》で取り上げた二つの光景、「水浴」と「ピクニック」に関係がありそうです。

 まず、《驚くニンフ》から見ていくことにしましょう。

■《驚くニンフ》(La Nymphe surprise,1860- 1861)

 恥じらいを含ませながら驚くニンフの表情が印象的です。

(油彩、カンヴァス、146×114cm、1860-1861年、アルゼンチン、ブエノスアイレス国立美術館)

 モデルは、マネの恋人であったピアニストのスザンヌ・リーンホフです。当時、マネは父親に反対されて結婚できずにいましたが、父親が亡くなった2年後、彼女と結婚しています。

 マネは、レンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijn , 1606 – 1669年)の《スザンナと長老たち》(Susanna and the Elders , 1647年)に刺激されて、この作品を制作したといわれています。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/La_Nymphe_surprise

 それでは、《スザンナと長老たち》(1647年)は一体、どのような作品なのでしょうか。見ておくことにしましょう。

(油彩、パネル、76.6×92.8㎝、1647年、Gemäldegalerie, Berlin)

 この《スザンナと長老たち》(1647年)を参考にして描かれたのが、マネの《驚くニンフ》でした。

 確かに、裸身の一部を白い布で覆い、胸を手で隠すようにしてこちらを見るポーズは、《驚くニンフ》によく似ています。違っているのは、《スザンナと長老たち》では二人の老人に襲われそうになる状況が描かれているのに、《驚くニンフ》ではそうではないということです。

 状況が描かれていないので、マネの《驚くニンフ》では、驚きと困惑の原因がわからないのです。

 ひょっとしたら、マネは敢えて、レンブラントの作品からスザンナのポーズと表情だけを取り入れ、彼女が置かれた状況は削除して、《驚くニンフ》を描いたのかもしれません。そうした方がおそらく、作品が宗教的世界に拘束されにくいと判断したからでしょう。

 レンブラントのこの作品は、実は、旧約聖書『ダニエル書補遺』の「スザンナ」のエピソードから題材を得て描かれたものでした。美しい人妻スザンナが水浴するのをのぞき見た二人の長老たちが、彼女を襲おうとしているシーンです。

 この「スザンナ」のエピソードはよほど強く、画家たちの創作意欲を刺激したのでしょう。数多くの画家たちがこれを題材に作品を仕上げています。

(※ https://www.aflo.com/ja/fineart/search?k=%E3%82%B9%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%95%B7%E8%80%81%E3%81%9F%E3%81%A1&c=AND

 レンブラントは数多くの画家たちのうちの一人だったのです。この題材なら、宗教的価値、道徳的価値があり、しかも、裸婦を描いても、デコールムを気にする必要がないのです。

 さて、《驚くニンフ》で描かれた表情は、レンブラントの《スザンナと長老たち》よりもさらに穏やかで、優しく、官能的に描かれています。木立の背後に川の流れが見え、自然の営みの中でそっと切り株の上に腰を下ろした女性の姿がなんとも優雅です。

 興味深いことに、マネはこの作品では、暈し表現を取り入れ裸身を豊かに表現し、アカデミズムの手法に則った描き方をしています。そのせいか、この作品は宗教画に分類されています。デコールムの点でこの作品が批判されなかったことがわかります。

 一方、《草上の昼食》では、水浴する女性は裸身ではなく、当時のマナーの従って、シュミーズを身につけています。生身の女性が描かれていました。

 こうして時系列でみてくると、マネは、《驚くニンフ》の女性を《草上の昼食》の上部に描かれた水浴する女性に移し替えて描いたように思えます。宗教画に題材を取りながら、当時の現代社会を表現しようとしていたのではないかという気がするのです。

 さて、この水浴する女性が視線を投げていたのが、ピクニックの光景でした。

 ちょうどこの頃、マネは、《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)という作品を仕上げています。木立の中で憩うという点では大掛かりなピクニックのようなものでした。

■《テュイルリー公園の音楽会》(Music in the Tuileries , 1862年)

 第2帝政期のパリでは、上流階級が月に一度、テュイルリー公園に集まり、野外コンサートを開催していました。その時の光景を描いたのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、76×118㎝、1862年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

 男性はシルクハットをかぶり、女性は華やかなドレスを着ています。大勢の人々が正装で公園に集まっているのです。画面手前では女性が二人こちらを眺め、その足元で子供たちが遊び、中ほどでは人々が談笑しています。

 また、手前には日除けのための日傘が置かれ、休息するための瀟洒な鉄製の椅子があちこちに置かれています。戸外らしさを感じさせるのはそれだけで、画面全体に優雅な社交界の雰囲気が漂っています。

 ところが、よく見ると、中心部分の描き方が実に雑です。絵具がただ意味もなく、塗りたくられているだけなのです。もちろん、その辺り一帯の人や物の形は判然としません。手前や左の人物は表情がわかるほど丁寧に描かれているのに、なぜ、中心部分がこれだけ雑に描かれているのか、不思議でした。

 やり過ぎと思えるほど、中心部分が雑に描かれているので、やや引いて画面を見ると、その傍らに立つ白いズボンの男性の姿が鮮明に印象づけられます。

 この男性はマネの弟のウジェーヌ・マネだそうです。画面には、マネ自身を含め、ボードレールや画家仲間のラトゥールなど、マネの友人が数多く描かれているといわれています。(※ Wikipedia)

 部分的に雑に描いているのは、群衆の中で特定の人物を際立たせるための手法かもしれません。そう思って、改めて、画面を見直してみると、丁寧に描かれた人物の周囲は、雑に絵具が塗られています。いかにもマネらしい革新的な表現方法でした。

 さて、この作品は1863年にマルティネ(Galerie Martinet)画廊で開催された個展で展示されました。ところが、観客や批評家たちから下絵のようだと酷評されたといいます。予想通りの反応でしたが、その一方で、若い画家たちはこの作品に新鮮なものを見出し、評価していたそうです。(※ Françoise Cachin, “Manet : « J’ai fait ce que j’ai vu »”, Paris, Gallimard, 1994. 藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳、『マネ―近代絵画の誕生』、創元社)

 興味深いのは、画面の色彩構成とモチーフの配置です。全体に男性が多く、黒のシルクハットに黒のジャケット、グレーあるいは白のズボンといった無彩色で統一されているせいか、手前のドレス姿の女性が目立ちます。

 白みを帯びたベージュのドレスを着た二人の女性は補色である水色のリボンのついた帽子を被っています。その水色は暗緑色の木立の背後に見える空の色と呼応し、画面を引き締めています。

 聴衆は、わずかに見える空の真下を頂点とした三角形の形の中に収まっています。幾何学的に計算されつくした構図であり、大勢の人物配置です。木々も人物も平板に描かれていますが、それだけに手前の鉄製の椅子が印象づけられます。

 音楽会に集まった聴衆が混乱せず、画面に収められているのは、大きな三角形の下、構造化されて表現されていたからでしょう。この作品は、色彩構成と空間構成の点で、《草上の昼食》に影響していると思われます。

 さて、《テュイルリー公園の音楽会》は、画面構成など表現方法はもちろんのこと、画題そのものも一部の人々には新鮮な印象を与えていた可能性があります。

 この作品には、19世紀後半のパリの上流階級の生活の一端を見ることができるだけではなく、新たな時代の楽しみ方が示されていました。戸外でレジャーを楽しむという贅沢が人々を捉え始めていたのです。

 ピクニックもその一つです。

■19世紀後半の近代化の諸相

 マネが《草上の昼食》(1863年)で取り上げたのは、二つの異なる光景、「水浴」と「ピクニック」でした。「水浴」は《驚くニンフ》(1860-1861年)の系譜を引き、「ピクニック」は《テュイルリー公園の音楽会》(1862年)の流れを汲んでいます。

 19世紀後半のフランスでは、急速に近代化が進み、鉄道が敷かれてパリに多数の人々が流入し、都市を中心に人々の生活が大きく変化していきました。そんな中、裕福な人々が週末には自然豊かな郊外に出かけ、余暇を楽しむようになっていました。

 マネが《草上の昼食》で描いた光景は、そのような都市生活者の変化の一端を捉えたものでした。

 マネ自身、ほとんど毎日のようにテュイルリー公園に出かけ、見たものをスケッチをしていたといいます。戸外でのスケッチを楽しみ、その一環として仕上げたのが、《テュイルリー公園の音楽会》でした。

 もっとも、この頃はまだ戸外でのレジャーは上流階級のものでしかありませんでした。それが証拠に、この作品に登場する人々は皆、シルクハットにドレスを着用しています。戸外での演奏会なのに、まるで王宮の舞踏会に出かけるような格好をしているのです。

 産業化が進行しつつあったとはいえ、まだレジャー用のファッションが開発されるまでには至らなかったのでしょう。《草上の昼食》の男性二人もピクニックに不釣り合いな正装をしています。

 さて、「水浴」にしても、「ピクニック」にしても、19世紀後半に見出された娯楽であり、自然への回帰現象の一つともいえるものでした。

 たとえば、入浴という習慣はフランスでは19世紀になるまで浸透しなかったそうです。19世紀末になっても浴室のある家庭は少なく、人々は大きなたらいに水を張って身体を洗っていた程度だといわれています。

 新しい生活習慣となりつつあった入浴風景を、印象派の画家たちは数多く描いていますが、マネにもそのような作品があります。《Le Tub》(1878年)という作品です。

■裸婦を通して、マネが描こうとしたもの

 産業化に主導されて、近代化が進み、時代は大きく変化していきました。もはやデコールムを気にしなくてもよくなっていたのでしょう。マネは1878年、生活風景の中で堂々と、女性の裸身を描いています。

●《Le Tub》(1878年)

 《Le Tub》(1878年)は、《草上の昼食》よりも15年も後の作品ですが、水浴する女性とポーズが、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズとよく似ています。

(パステル、カンヴァス、54.0×45.0㎝、1878年、オルセー美術館)

 パステルならではの柔らかな色調で、日常の生活光景の中の裸身が優しく捉えられているのが印象的です。

 まず、やや身を屈めた弓形の曲線と、足元の金盥の丸い曲線が、画面に柔らかさをもたらしているのに気づきます。次いで、その背後に見える化粧台のようなものが作る水平線が画面を適宜、区切り、絶妙な構図を創り出していることに感心します。

 柔らかく、瑞々しい女性の肌が、同系色の色調の中でまとめられています。金盥の青味を帯びた濃淡の色が、肌の補色として使われるだけではなく、化粧台の影色としても使われており、画面に穏やかなメリハリが生まれているところに興趣が感じられます。

 奇をてらうことなく、淡々と日常生活の光景を描きながら、優しさと穏やかさ、静かな安定を描き出しているところに、マネの円熟した画力を感じさせられます。

 興味深いことに、この女性のポーズは、《草上の昼食》の水浴する女性のポーズを反転させたものでした。視線を落としながらも観客の方を向いています。見られていることを意識している表情です。この眼差しを見て、この作品が《驚くニンフ》の系譜を引いていることがわかりました。

 そういえば、《草上の昼食》の裸身の女性は、この女性よりもさらにしっかりと観客を見据えていました。

 実は、ルーベンスの作品にもこの女性と同じようなポーズ、表情の女性が描かれているものがあります。

 ちょっと見てみることにしましょう。

●ルーベンス(Pierre Paul Rubens)《Nymphs and Satyrs》(ニンフとサテュロス、1635年)

 ルーベンス(Pierre Paul Rubens,1577-1640)に《ニンフとサテュロス》(Nymphs and Satyrs)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、136×165㎝、1615-1635年、プラド美術館)

 森の中で白い裸身のニンフたちが何人も描かれています。そのニンフたちに混じってサテュロスの姿も見えます。サテュロスはギリシア神話に登場する半人半獣の精霊です。ローマ神話にも現れ、ローマの森の精霊ファウヌスやギリシアの牧羊神パーンと同一視されることも多々あるようですが、豊穣の化身、あるいは、欲情の塊として表現されてきました。

 この作品を見ると、木に登ってたわわに実った実をもぎ取っているのはサテュロスたちで、その実をもらって幸せそうにしているのがニンフたちです。サテュロスが豊穣の化身であることは明らかで、牧歌的な光景の中に自然の恵みの豊かさが描かれています。

 画面左下には巨大な壺が置かれ、そこから水が流れ出ています。

 気になったのは、この壺のようなものにもたれるようにして座っているニンフの姿勢が、《草上の昼食》の裸身の女性のポーズとそっくりだったことです。

(前掲、部分)

 ひょっとしたら、マネはこの作品を見て、何らかの影響を受けていたのかもしれません。そう思ったのは、実は、マネはルーベンスの作品を模写していた時期があるからです。

 1849年頃、マネはトマス・クチュールのアトリエに入り、6年間修業していましたが、その間、ルーヴル美術館でティツィアーノやルーベンスの作品を模写していたといわれています。また、1856年にクチュールのアトリエを去った後もなお、ベラスケスやルーベンスの作品の模写を続けていました。

 ルーベンスの表現方法について、マネは熟知していたと思われます。

 そのルーベンスの《ニンフとサテュロス》で、大勢のニンフたちの中で、一人のニンフだけが観客を直視していたことに気づきました。敢えて、このようなニンフを描いたことに、17世紀の作品でありながら、新鮮さを感じました。ルーベンスはこのニンフを、意思を持つ女性として描いているように思えたのです。

 そして、このニンフの表情とポーズが、《草上の昼食》の裸身の女性ととてもよく似ていることに興味を覚えました。違いといえば、マネはルーベンスが描いたこのニンフの姿形を踏まえながら、自身の作品では、平面的に描いていたことです。

 《テュイルリー公園の音楽会》もそうですが、マネはモチーフを平面的に描くことによって、現代性を加味しようとしていたのではないかという気がします。

 産業化が進行し、生活に変化が生まれていた19世紀後半、マネは絵画界で一足先に、近代化を実行しようとしていたように思えます。(2022/10/31 香取淳子)

石井柏亭《草上の小憩》は、マネ《草上の昼食》のオマージュ作品か?

■「日本の中のマネ」展の開催

 「日本の中のマネ」展が今、練馬区立美術館で開催されています。開催期間は2022年9月4日から11月3日、開催時間は10時から18時(入館は17時30分)までです。

 私はこの展覧会の開催を図書館に置いてあったチラシで知りました。「マネ」という文字に引かれ、案内チラシを手に取ってみたのですが、ちょっと違和感を覚えました。中折れチラシの表と裏に大きく掲載されていた絵は、いずれもマネの作品ではなかったのです。

 妙だと思い、絵の部分を見直してみると、小さな文字で、作品の概要が書かれています。片方の面に掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》、もう片方の面に載せられていたのが、福田美蘭の《帽子を被った男性から見た草上の二人》でした。

 練馬区立美術館の近くで目にした看板も、この二つの絵で構成されていました。案内チラシの表と裏を拡大し、横長にしたものでした。

看板

 右側が石井柏亭の作品で、左側が福田美蘭の作品です。福田美蘭の作品は、着衣の男性のすぐ傍に裸身の女性が座っている絵柄なので、見るとすぐ、マネの有名な《草上の昼食》を思い起すことができます。

 ところが、石井柏亭の《草上の小憩》の場合、あまりにも日本的な絵柄だったので、容易にマネの影響を観て取ることはできませんでした。

 なぜ、石井の《草上の小憩》がチラシに掲載されていたのでしょうか。そもそも、石井柏亭はマネとどう関係しているのでしょうか・・・。そのようなことが気になりながらも、取り敢えず、会場の中に入ってみました。

 すると、展覧会は、「第1章 クールベと印象派のはざまで」、「第2章 日本所在のマネ作品」、「第3章 日本におけるマネ受容」、「第4章 現代のマネ解釈」という章立てで構成されていました。

 この章立てを見る限り、どうやら、マネそのものを取り上げた展覧会ではなさそうです。

■日本の中のマネ

 マネの作品は、「第2章 日本所在のマネ作品」というコーナーにまとめて展示されていました。全展示作品104点の内、マネの油彩画はわずか6点、パステル画1点、チョーク画1点、エッチング40点、リトグラフ3点、石版画1点だけでした。

 しかも、油彩画の《散歩(ガンビー婦人)》は見たことがありますが、それ以外は、知らない作品ばかりです。

 念のため、出品作品のリストを見ると、いずれも日本の美術館等が所蔵している作品でした。コロナ下の今、海外からマネの作品を借用するのが難しくなっていることが推察されます。

 こうしてみてくると、この展覧会が、「日本の中のマネ」を掬い上げることに焦点を当てた構成になっていた理由がよくわかります。

 「日本の中のマネ」を掬い上げ、「明治期の出会いから現代にいたる、日本人画家によるマネの受容過程を探る」という視点を導入して関連作品を俯瞰すれば、日本人にとっての西洋画の意味をより深く理解できるようになるかもしれません。展示作品よりも企画力が印象に残る展覧会でした。

 それにしてもなぜ、石井柏亭の《草上の小憩》が取り上げられているのでしょうか。マネとは絵柄や作風が違いすぎるので、気になって仕方がありませんでした。そこで、展覧会のチラシをよく読むと、石井柏亭は「マネの《草上の昼食》にインスピレーションを得て」、《草上の小憩》を手掛けたと書かれていました。

 だとすれば、パッと見ただけではわからない影響の痕跡を、《草上の小憩》の中に見出すことができるはずです。この石井作品から「日本の中のマネ」を掬い上げることができれば、「日本人画家によるマネの受容過程」の一例を見ることができます。

 そこで、今回は、石井柏亭の《草上の小憩》を取り上げ、マネの《草上の昼食》とどのように関わっているのかを探ってみることにしたいと思います。

 まずはマネの作品《草上の昼食》を振り返ってその特性を把握し、つぎに、石井柏亭がそれをどう解釈し、自身の作品《草上の小憩》にマネの痕跡を残していったかを見ていくことにしましょう。

■エドゥアール・マネ(Édouard Manet)制作、《草上の昼食》(Le Déjeuner sur l’herbe, 1862-1863)

 《草上の昼食》はマネの有名な作品です。

 この作品は当初、《水浴》というタイトルで、1863年の公式サロンに出品されました。この時のサロンでは988人しか入選せず、落選作品は2800にも及びました。マネが出品した3点はすべて落選しています。

 落選者たちの不満の声に応えるように、ナポレオン三世は、その二週間後に、「落選展」を開催しました。初日だけで7000人もが参加したといわれるこの「落選展」で、観客の注目を一斉に集め、そして顰蹙を買ったのが、マネのこの作品(《水浴》は後に、《草上の昼食》と改題)でした。

 それでは、この作品を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、208×265.5㎝、1862-1863年、オルセー美術館)

 西洋画で裸身を見るのは別に珍しくもないのですが、この作品では、裸の女性が恥ずかしげもなく、着衣の男性と談笑し、その背後に薄衣を着て水浴びをしている女性がモチーフとして取り上げられています。当時の人々にとっては、意表を突く光景でした。

 この作品を見た観衆は、モチーフの「不道徳」、「はしたなさ」に激しい非難を浴びせたそうです(※ 後藤茂樹編、『マネ』、集英社、1970年、p88.)。

 正装した男性の隣で、裸身の女性が脱いだ衣服の上に平然と腰を下ろしている姿を目にすれば、「はしたない」と思うのも当然の反応でしょう。

 傍らには、帽子や上着のようなものが散乱し、バスケットからは果物やパンが転がり出ています。慌てて衣服を脱いだ後の乱雑さが丁寧に描かれています。瑣末な周辺状況が詳細に描写されることによって、この光景のふしだらな印象がさらに強められています。

 古来、西洋画では数多く裸身の女性が描かれてきましたが、大抵の場合、女神か、何らかの寓意、或いは、理想的な女体を示すものとして表現されてきました。日常生活の中で描かれることはなく、一般女性とは別世界の存在として描かれてきたのです。

 だからこそ、観客は裸体画を見ても格別に違和感を覚えず、拒否することもなく、むしろその美しさを称賛した例も数多く見られます。

 たとえば、マネが出品したこの1863年のサロンに、アカデミズムの画家アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889)も出品していました。彼の作品は入選しましたが、それは《ヴィーナスの誕生》というタイトルの裸体画でした。

 興味深いことに、カバネルとマネは同時期に、裸体画をサロンに出品していたのです。ところが、カバネルの作品は入選したのに、マネの作品は落選し、その後、開催された「落選展」でも落選しました。そればかりか、以後しばらくは観衆から非難され続けたのです。

 両者の裸体画に、一体、どのような違いがあったのでしょうか。カバネルの《ヴィーナスの誕生》を見てみることにしましょう。

(油彩、カンヴァス、130×205㎝、1863年、オルセー美術館)

 これは、19世紀のアカデミック絵画としてよく知られた作品で、ナポレオン三世が購入したほどでした(※ カバネル、Wikipedia)。アカデミーからも観衆からも、そしてナポレオン三世からも称賛された作品だったのです。

 天使が描き添えられているとはいえ、《ヴィーナスの誕生》の裸身は、仰向けになって身をよじり、横たわっていて、とても官能的です。

 ところが、《草上の昼食》の裸身は、膝を立て、肘をついて座っているだけです。エロティシズムという観点から見れば、《ヴィーナスの誕生》の方がはるかに煽情的でした。それでも、観衆やアカデミーの評価は真逆だったのです。

 こうしてみてくると、裸身が描かれているからといって、マネの《草上の昼食》が非難されたわけではないことがわかります。

■カバネルとマネ、なぜ、評価が大きく分かれたのか?

 それでは、なぜ、《草上の昼食》が非難され、《ヴィーナスの誕生》は称賛されたのでしょうか。

 一つには、絵柄、あるいは、モチーフの構成に原因があると考えられます。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》では、泡立つ波の上で、伸びやかに寝そべる裸の女性が描かれています。描かれた状況を見ても、均整の取れた美しい身体を見ても、裸身をさらけ出しているのが人間の女性ではないことは明らかです。

 ヴィーナスは、海から誕生した女神アフロディテともいわれ、「ヴィーナスの誕生」は、これまで何人もの画家が手掛けてきた画題です。有名な作品として、1483年頃、ボッテイチェリによって描かれた《ヴィーナスの誕生》があります。

 まさに神話の世界であり、豊穣の寓意が美しい裸身に託して表現されてきました。カバネルの作品でも、寝そべるヴィーナスの真上を、まるで見守かのように、天使たちが飛び回っています。神話の世界、豊穣の寓意が示されているのです。

 カバネルがこの作品で表現したのは、アカデミズムの画家ならではの伝統的な画題あり、モチーフの構成でした。

 もちろん、裸身の描かれ方も、マネの作品とは異なっていました。

 《ヴィーナスの誕生》では、女性の乳白色の肌はきめ細かく、滑らかで、筆触の跡が見えないよう描かれています。アカデミズムの画家たちが踏襲してきた技法です。そして、身体は理想的なプロポーションであることがわかるように描かれており、ギリシャ以来の裸体美の観念に基づいて表現されています。

 カバネルの《ヴィーナスの誕生》はこのように、モチーフの構成であれ、描き方であれ、いわゆるアカデミズムの骨法を踏まえて表現されていたのです。

 一方、《草上の昼食》はモチーフの構成、裸身の描き方、そのいずれについても、アカデミズムのルールから逸脱しています。

 そもそも、裸身の女性が着衣の男性二人と談笑し、背後に水浴する女性が描かれている光景そのものが異様です。手前には脱ぎ捨てた衣服やバスケットから果物やパンが転がり出て、乱雑な様子が描かれています。生活秩序が破壊されているばかりか、理想的なプロポーションを見せるわけでもない普段の姿勢の裸身と相まって、猥雑な印象が強化されているのです。

 ピクニックを楽しんだりすることもある神聖な森が、このような絵柄で描かれているのを見て、観衆の多くが穢されたような気分になったとしても無理はありません。

 描かれているのは、女神でもなく、有名な歴史上の女性でもなく、一般女性なのです。描かれた対象と観客との距離が近すぎました。しかも、この女性は裸身のまま、臆することもなく正面を見据え、脱ぎ捨てた衣服の上に座っています。一見、穏やかな表情ですが、不敵な印象すらあります。

 絵柄、あるいは、モチーフの構成でいえば、神話や歴史の空間ではなく、日常の生活空間で女性の裸身が描かれていることに、この作品の特徴があります。そのこと自体、アカデミックのルールを破ることを示唆しており、一部の画家にとっては斬新で、先駆的でもあったのですが、大多数の観衆や画家には受け入れられず、不興を招いたと思われます。

 先ほども触れましたが、裸身の描かれ方も、これまでアカデミーで受け入れられてきた裸体画とは異なっていました。

 たとえば、《草上の昼食》の女性は、膝を曲げて座り、その膝頭に肘をついて頬を支えています。とても理想のプロポーションを見せる姿勢とはいえず、しかも、腹部や腿の裏側のたるみもしっかりと描かれています。

 肌はやや黄色味を帯びた白色で、首筋や腹部に大きく皺が刻み込まれ、写実的に表現されていました。

 理想のプロポーションだとわかるようにモチーフをレイアウトし、肌は乳白色で筆触の跡を残さず、滑らかに描くという、これまで受け入れられてきた裸体の描き方から、この作品は大きく逸れていたのです。

 それら一切合切が、当時のパリの観衆から不謹慎、不道徳だとして非難された原因だったのでしょう。その一方で、一部の画家たちや評論家には、先駆的で斬新、革新性を感じさせる作品だったのでしょう。

 それでは、石井柏亭はこの作品にどう影響され、どのようなオマージュ作品を残したのでしょうか。

■石井柏亭《草上の小憩》(1904年)

 チラシに掲載されていたのが、石井柏亭の《草上の小憩》(1904年)です。マネの《草上の昼食》に似たタイトルですが、絵柄は全く異なっていました。一見しただけでは、この作品のどこにマネの影響の痕跡があるのかわかりません。

(油彩、カンヴァス、92×137.5㎝、1904年、東京国立近代美術館)

 はたして、この作品のどこに、《草上の昼食》へのオマージュがあるのでしょうか。詳しく見ていくことにしましょう。

 晴れた冬の日、陽だまりの中で若者たちが憩う、和やかなひと時が捉えられています。《草上の昼食》との類似性があるとすれば、若い男女が野外でリラックスしている光景が描かれているということぐらいです。

 まずは、そのあたりから見ていくことにしましょう。

 手前に描かれた少女は、前髪を下ろして首をかしげ、あどけない表情をこちらに見せています。手袋をはめた手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りをしています。無理やり上体を起こそうとしており、不自然な姿勢ですが、大人びて見え、ややコケティッシュです。

 後ろの女性は、髪を三つ編みにし、片肘をついて横になっています。見るからに不安定な姿勢です。しかも、低い位置から見上げるようにして、正面を見据えているせいか、表情に媚びが感じられます。

 一方、男性は二人とも帽子を被っています。学帽を被った男性は、膝を立てて座っており、無理のない姿勢です。被っているのが角帽ではなく丸帽ですから、中学生か高校生なのでしょう。素朴な印象を受けます。

 その右側に座っている男性は、膝を伸ばして座っており、リラックスしている様子です。縁が柔らかく波打った形の帽子を被っていて、落ち着いた雰囲気があり、社会人に見えます。4人の中では最年長者なのでしょう。

 彼らがどういう関係なのかはわかりませんが、年齢差があって仲睦まじく、リラックスした様子で、戸外で寛いでいる様子を見ると、兄弟姉妹なのかもしれません。

 まず、これらのモチーフから、マネとの関連を見ていくことにしましょう。

■モチーフを比較して見えてきたこと

 描かれているのは、男女4人が林の中の草地で、和やかなひと時を過ごしている光景です。一見、日常的な生活風景のように見えますが、よく見ると、女性二人のポーズが不自然でした。とくに違和感を覚えたのが、三つ編みの女性です。

 なんと、この女性は草地に肘をついて、身体を横たえているのです。しかも、若い女性です。どんな事情があったにせよ、着物を着た女性が、戸外で取るような姿勢ではありません。見るからに不安定で、肘をついた手を片方の手で押さえ、辛うじて横向きの身体を支えています。不自然なまでに崩した姿勢がふしだらに見え、身持ちの悪さを感じさせられました。

 ふと、この三つ編みの女性は、《草上の昼食》の裸身の女性を日本風に焼き直したものではないかという気がしました。

 横たわって、低い位置から見上げる女性の姿勢そのものが、媚態に見えたからです。そう思うと、すぐさま、マネの作品に浴びせられた「不謹慎」、「ふしだら」といった非難が脳裏に浮かびました。

 他のモチーフも同様、マネの作品との関連性が見受けられます。

 たとえば、《草上の昼食》では、男性は後ろに房のついた帽子を被り、白シャツにネクタイを締め、黒いコート姿で描かれていました。男性二人は正装をしているのに、女性は裸身、あるいは薄衣でした。男性と女性とで、描き方の落差が際立っていました。

 一方、《草上の小憩》でも、男性二人は帽子を被っており、佇まいに乱れはありません。学帽に制服、縁のある帽子に上着とズボンという格好です。これは、《草上の昼食》の男性たちの正装に相当します。帽子によって身分や所属が示され、男性が社会階層という秩序原理の中に位置づけられていることが踏まえられているのです。

 もう一人の女性モチーフ、《草上の昼食》の水浴をしている薄衣の女性は、《草上の小憩》では、手前に描かれたあどけない表情をした少女に相当します。両手を組んで腿に置き、足を揃えて横座りした姿勢が、幼いながらややコケティッシュでした。三つ編みの女性よりも挑発の度合いが低いという点で、裸身の女性よりも挑発の度合いの低い水浴びをする女性の置き換えに思えます。

 こうしてみてくると、石井柏亭は女性モチーフを、コケティッシュの度合いによって描き分け、マネの作品の女性モチーフに対応させていたように思えます。裸身の女性を、大胆なポーズを取っている三つ編みの女性に置き換え、背後で水浴する女性を、ポーズのせいでややコケティッシュに見える少女に置き換えたと思われるのです。

 それでは、構図についてはどうでしょうか。

■構図、明暗のコントラスト、画面の透明感について

 《草上の小憩》を見ると、4人が座っている草地の周囲は踏み固められ、手前の少女を頂点に、背後の一直線に並んだ木々を底辺とした逆三角形になっています。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色マーカーで表示)

 遠景に広がりが感じられる構図です。陽だまりの中、4人は思い思いのポーズで、草地に腰を下ろしています。木々の背後に空が大きく広がり、その合間に人家も見えており、人里近い林の中の草地だということがわかります。

 枯れた草地には、所々に緑の草が見え、冬とはいえ、春の気配が感じられます。冬から春への移行期ならではの穏やかな温もりが画面から浮かび出ています。

 よく見ると、画面全体に万遍なく、黄土色の短い線がランダムに散らされています。空といわず、制服や着物といわず、色彩を主張するようなモチーフの上には全般に、黄土色の短い線が散らされていたのです。まるで強い色彩を弱めるかのように見えます。

 その結果、画面全体に明暗のコントラストが弱められる一方、統一感が生まれ、陽光は優しく柔らかく、和やかな雰囲気が醸し出されていました。若者たちの日常生活の一端が、ほのぼのとした感触を残しながら、描かれていたのです。

 それでは、マネの《草上の昼食》はどうだったのでしょうか。

 《草上の昼食》では、男女3人が手前で寛ぎ、その背後で女性が1人、水浴びをしている光景が描かれています。4人のモチーフは、遠景でわずかに見える空を頂点とし、手前の男女を底辺とする三角形の中にすっぽりと収まっています。とても安定した構図です。該当部分を黄色のマーカーで図示してみました。

(前掲。黄色でマーク)

 この安定感のある構図が、不謹慎に見える光景に、清澄で泰然自若の趣を添えているように思えます。木々の合間から射し込む陽光と二人の女性の肌の明るさが、鬱蒼とした森に活力を与え、明暗のコントラストの強さが、一種の清涼感を添えていたからかもしれません。

 モチーフの構成こそ、スキャンダラスで猥雑に見えますが、その背後から、まるで高精細度の画面を見ているような、透明感のある清澄な雰囲気が醸し出されていたのです。

 暗緑色の森の中で、女性の裸身がひときわ明るく周囲を照らし出し、その明るさはややトーンを下げて、水浴する女性から遠景の空へとつながっています。光と影、明るさと暗さのバランスが絶妙でした。

 明暗のコントラストが強く、事物の境界がはっきりと描かれているせいか、画面からは不思議な透明感が感じられます。世俗を超えた透明感のようなもの、あるいは、清澄な雰囲気のようなものが画面全体から感じられたのです。光と影、明暗のコントラストを意識した色遣いとモチーフの配置の効果なのでしょう。

 興味深いのは、手前左にバスケットからパンや果物が乱雑に転がっている様子が丁寧に描かれていることでした。マネはなぜ、そうしたのかと考え、ふと、気づきました。雑多で混乱した状況を丁寧に描き出すことによって、安定した画面の硬直化を崩そうとしていたように思えてきたのです。

 着衣の男性の傍らに裸身の女性を配置したのと同様、敢えて破調を創り出そうとするところに、既存の描き方に満足できないマネの感性を見ることができます。調和を乱そうとすえば、軋轢が生じ、エネルギーが生まれます。斬新で革新的な志向性はそのような心持の中にこそ存在するような気がします。

 観衆やアカデミーからの激しい非難とは別に、この作品に斬新な力が漲っていることは確かでした。

■《草上の昼食》の斬新さ、革新性

 マネのこの作品には暴力的なまでの斬新さがありました。当時の観衆の激しい非難がそれを証明しています。

 マネの場合、裸身の女性と着衣の男性2人が談笑している光景が非難されました。裸身に対する非難というより、日常の生活空間の中で、裸の女性が正装した男性とともに過ごす光景への非難でした。そのような光景が当時の人々に「不謹慎」、「不道徳」という印象を植え付け、嫌悪の感情を喚起させていたからでした。

 こうしてみると、《草上の昼食》のエッセンスは、「不謹慎」、「不道徳」、「ふしだら」の可視化にあったと考えられます。

 実際、着衣の男性の隣にマネは裸身の女性を描くだけではなく、そのすぐ傍らに、脱ぎ捨てられた衣服や帽子、バスケットから転がり出たパンや果物を丁寧に描かれており、「ふしだら」が強調されていました。

(前掲作品の一部)

 脱いだ衣服の上に座った裸体のすぐ傍に、リボンのついた帽子や衣服が散乱しています。バスケットは傾き、中から果物やパンが転がり出ています。倒れた酒瓶もあります。まさに生活秩序の破壊であり、既存の価値体系の転覆の象徴ともいえる光景です。

■オマージュ作品

 《草上の昼食》は当時、一大センセーションを巻き起こし、マネは観衆やアカデミーの画家たちから一斉に非難されました。当時の観衆やアカデミーの画家たちはひょっとしたら、この作品に潜む寓意に気づいたからこそ、激しく非難したのかもしれません。

 一方、一部の画家たちは作品に込められたこの寓意を称賛し、オマージュ作品を手掛けました。モネ、セザンヌ、ピカソといった画家たちはこの作品に刺激され、次々とオマージュ作品を制作していったのです。

 エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832-1883)は、伝統的な絵画の約束事に囚われず、アカデミーからの解放を先導した旗手だといわれていますが、《草上の昼食》を見ると、なるほどと納得せざるをえません。

 そのオマージュ作品を、日本で初めて手掛けたのが、石井柏亭でした。

 私は初めて石井柏亭の《草上の小憩》を見た時、なぜ、この作品が《草上の昼食》のオマージュといえるのかわかりませんでした。いかにも日本的な生活風景が描かれていたからです。

 ところが、両作品をモチーフの側面から比較してみると、男女4人のモチーフはそれぞれ、《草上の昼食》から見事に翻案されていることがわかりました。そして、構図や明暗のコントラスト等については、マネの作品を真逆に置き換え、日本の情景や社会状況に適合させていました。

 そうすることができたのは、石井柏亭が、《草上の昼食》のエッセンスを的確に汲み取っていたからにほかなりません。西洋絵画に込められた寓意を読み取り、咀嚼し、日本文化に適合させて表現できる能力を備えていたからこそ、石井は、モチーフを的確に日本風に翻案することができたのです。

 《草上の小憩》は、西洋絵画や西洋文化を充分理解していなければ、制作不可能でした。また、日本文化や当時の日本社会を充分に理解していなければ、適切に翻案することもできなかったでしょう。見事なオマージュ作品といえます。(2022/9/28 香取淳子)