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2025年

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑥:プロレタリアートを描く

■第二帝政時代のエッセンスを浮き彫りにした《床の鉋かけ》

 前回は、カイユボットが労働者を描いた二つの作品をご紹介しました。《床の鉋かけ》とそのデッサン、そして、その後に描いた《床の鉋かけ 別版》です。いずれも第2回印象派展に出品されました。

 両作品の舞台は、パリの邸宅に増築されたカイユボットのアトリエです。アトリエは、パリの邸宅のリスボン通り側の右手3階に増築されました。荷物用玄関から別階段で行き来することができるようになっており、工事は1874年に行われました。おそらく、父親がカイユボットのために手配したのでしょう。

 その父親は同年12月24日に亡くなっています。

 ひょっとしたら、カイユボットは父親への思いを込めて、この作品を仕上げたのかもしれません。画題は、このアトリエの床に鉋かけをしている労働者たちをモチーフに作品化したものでした。

 前回、ご紹介しましたが、再び、この作品を取り上げてみましょう。


(油彩、カンヴァス、102×145㎝、1875年、オルセー美術館蔵)

 改めてこの作品を見てみると、上流階級の要素と労働者階級の人々とが一つの画面に収められているのが興味深く思えます。この作品のメインモチーフは労働者ですが、その背景に上流階級の要素がさり気なく組み込まれているのです。

 たとえば、画面左上の窓越しに大きな庇窓が見えますが、その鉄柵が唐草模様のような曲線で造形されています。この部分を拡大してみましょう。


(※ 《床の鉋かけ》の部分)

 バルコニーの優美な曲線の文様を引き立てるように、室内の白壁は、さまざまなサイズの金色の矩形でモールディングされています。窓から室内に入ってきた陽光に金色が映え、白壁が光り輝くような設えになっているのです。アトリエといいながら、凝った仕様になっており、上流階級の邸宅の一部だったことを思い知らされます。

 細部に至るまで豪華な仕様で設えられているところに、宮廷文化を引きずる第二帝政時代の文化様式の一端を見ることができます。また、バルコニーの鉄柵の文様には、オスマニアン様式の建築仕様がしっかりと捉えられていました。

 バルコニーにしろ、室内のモールディングにしろ、この作品の背景には、第二帝政時代を彷彿させる要素が組み込まれており、興趣をそそられます。

 ここで少し、オスマン様式に触れておきましょう。

■オスマニアン様式

 パリ大改造事業は第二帝政期に、ナポレオン 3 世の命令の下、セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによって実施されました。パリ全域を対象としており、街路や公園、上下水道、都市美観といった都市インフラ全体にわたる大規模な改造事業でした。

 古い建物は次々と壊され、新しく造りかえられました。この大事業によって、パリの都市景観が抜本的に変化し、芸術の都、花の都と印象づけられるようになりました。パリは近代都市として生まれ変わったのです。

 建物を建てる際にはいくつかの規制に従い、オスマニアン様式にしなければなりませんでした。その一つが、「建物の美観を考慮し、建物の横幅に流れるようなバルコニーを作らなければならない」というものです。

 この様式で建築されたアパートがあります。参考のため、見てみることにしましょう。

こちら →

(※ https://www.parisnavi.com/special/5034798#google_vignetteより)

 建物の外壁に合わせ、カーブしているバルコニーもあれば、矩形のものもあります。よく見れば,鉄柵の文様も階毎に異なっており、建物の外観自体、装飾的なものになっています。明らかに美観を意識した体裁になっていることがわかります。

 パリの街を一種の美術館とみなし、それぞれの建物はそこに展示された作品という位置づけなのです。当然のことながら、建物の外観はそれぞれが美しくなければならず、しかも、全体として統一感がなければなりませんでした。

 道路幅は広く、道路際には街路樹を植え、そして、建物の外観を厳しく規制して統一感をはかりながら、パリの街並みは一新されました。企画したナポレオン三世と、実行したオスマン知事が成し遂げた偉業でした。

 カイユボットはそのエッセンスをこの作品の中に取り込んでいました。意識していたのかどうかわかりませんが、この作品には宮廷文化を引き継ぐ第二帝政時代の文化が凝縮して捉えられていたのです。

 興味深いのは、そのカイユボットが、プロレタリアートをメインモチーフとして描いていたことです。

 ちなみに、プロレタリアートという言葉は、ドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタイン((Lorenz von Stein,1815 – 1890)が1842年に刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』の中で初めて使ったといわれています。彼は、プロレタリアートを資本主義体制下での賃金労働者階級を指しています(※ Wikipedia)。

 一方、マルクス( Karl Marx, 1818 – 1883)とエンゲルス(Friedrich Engels,1820 – 1895)は、1848年に刊行された『共産党宣言』の中で、「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という歴史観を述べた上で、近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジーとプロレタリアートに分かれていくこと(両極分解論)、そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わると予言しました(※ Wikipedia)。

 1842年に初出したプロレタリアートという語が、1848年には資本主義体制下の社会を構成するキー概念の一つとして使われています。新しく台頭してきたブルジョワジーに対する概念として設定されたのです。

 産業化の進行とともに、ブルジョワ階級が台頭する一方、賃労働の担い手が増えていきました。プロレタリアートという概念は、ブルジョワジーに対立する概念として使われ、資本主義体制下の社会を構成するキー概念だともいえます。

 カイユボットの《床の鉋かけ》はまさにこのプロレタリアートを描くものでした。いってみれば、二つの対立概念を一枚の画面に組み込んだともいえるのです。

■プロレタリアートを描く

 労働者の姿を描いた作品としては、当時、すでにクールベの《石割人夫》(1849年に制作、1945年にドレスデン近郊で爆撃による焼失)、あるいはミレーの《落穂拾い》(1857年)がありました。

 クールベにしても、ミレーにしても、モチーフは農村あるいは山で働く労働者でした。背景は、田畑や石切り場なので、モチーフの作業内容と背景とに何ら齟齬はありません。働く労働者の状況がごく自然に捉えられており、その苦労が直に伝わってきます。身に着けている衣類や靴も彼らの辛くて貧しい生活状況を示すものでした。

 どの時代にも存在した労働の形態であり、大地に根付いた人々の生活を支える労働でした。大地や山を生産基盤とし、彼らは食料や石材を産出していたのです。田畑で豊作を祈って神に祈りを捧げ、石切り場で神に安全を祈願しながら、身体を酷使し、生産物を得ていたのです。

 プロレタリアートと称される存在とは様相が異なるのです。

 実際、カイユボットの《床の鉋かけ》では、クールベやミレーと同じように労働者が働く姿を描きながら、これらの作品とはその趣が異なっていました。

 労働者たちは床に鉋かけをしながら、楽しそうに話し合っていましたし、その傍らにはワインのボトルが置いてあります。語らいながら、時に、ワインで喉を潤しながら、働いている様子が捉えられていたのです。

 カイユボットは確かに労働者の作業風景を描いていましたが、画面から伝わってくるものは、労働の辛さではなく、貧困でもなく、むしろ労働によって身体を動かすことの喜び、あるいは、楽しさといったようなものでした。

 おそらく、そのせいでしょう。カイユボットの作品からは労働者の労苦や貧しさ、辛さといったものが感じられないのです。

 半裸で働く姿が描かれているせいか、労働によって鍛えぬかれた身体ばかりが強く印象づけられます。労働者というカテゴリーではなく、筋肉隆々とした身体の若い男性が描かれているといった方がいいかもしれません。

 姿勢がいびつですが、彼らはまるでギリシャ、ローマの英雄像のように見えなくもないのです。

 そのせいか、この作品はクールベやミレーの作品と違って、なんらかの社会的主張が含まれているようには見えません。もちろん、政治的、道徳的な主張が見受けられることもありません。ブルジョワ階級の画家が、自宅で作業中の労働者を、単にモチーフとして捉えたにすぎないように思えるのです。

 労働者を描いたとはいえ、そもそもクールベやミレーが取り上げた労働者とは質が違っているからかもしれません。

 そういえば、シュタイン、マルクス、エンゲルスはプロレタリアートを、生産手段を持たない賃金労働者と定義づけていました。雇用され、提供した労働力に応じて賃金を得るという仕組みの労働です。典型的なのは工場労働者ですが、産業化の進行とともに増えてきた労働の形態です。

 もっとも、カイユボットは彼らをそのようには捉えていないように思えます。

 確かに、表現の対象として、労働者の身体やその所作はきわめて写実的に捉えられています。さすがにレオン・ボナに師事していただけのことはあると思わせる画力です。

 ところが、彼らの姿を表面的に捉えているだけで、その背後にまで想像力が働いていないように見えます。労働者に感情移入していないせいか、その内面にまで踏み込めていないのです。おそらく、カイユボットが実際に労働者の生活実態を知らず、自身が生活していくことの辛さ、困難さを経験したことがなかったからにちがいありません。

 この作品からは、むしろ、モチーフに対するカイユボットの屈折した思いが感じられます。すなわち、半裸で作業する若い労働者階級の男性の筋骨隆々とした体躯に対するアンビバレントな感情です。

■透けて見えるアンビバレントな感情

《床の鉋かけ》は、四つん這いになった労働者を、やや高みから捉えた構図が印象に残ります。私にはこの構図が、カイユボットが心身の弱さの反映に思えてなりません。

 実際に身体が弱かったのかどうかわかりませんが、このアングルは、描く側が圧倒的に有利な位置にいることを示しています。この作品を見て以来、私は、カイユボットは身体に自信がなく、内省的な人物ではないかという気がしていました。ただ、何の根拠もありません。そこで、何か手がかりはないかと気になって、カイユボットの来歴を見てみました。

 すると、1870年7月26日にセーヌ県の機動憲兵隊に召集され、8月30日から1871年3月7日までプロイセンと戦っていたことがわかりました。彼は普仏戦争に参加していたのです。

 興味深いのは、その時の軍の記録に、カイユボットの身長が167cmと記載されていたことです(※ http://caillebotte.net/chronology/)。身長が低かったようなのですが、ひょっとしたら、このことが除隊後の進路変更に影響していたのではないかという気がしてきました。

 除隊した1871年にカイユボットは、法律家の道を諦め、画家を志向するようになっています。軍隊での数か月間の経験が、この進路変更に影響しているのは明らかでしょう。

 この期間、カイユボットは、頑健な身体と強靭な精神を持つ兵士たちとともに過ごしていました。日々、心身の弱さを自覚するようになっていた可能性があります。他の兵士たちに比べ、精神面では、戦闘に挑む攻撃性、艱難辛苦に対する耐性に劣り、そして、身体面では、体力、持久力、反射神経などが欠けていることを思い知らされていたのではないかと思うのです。

 そう思って、再び、《床の鉋かけ》を見てみると、その画面構成からは、カイユボットの若い男性に対する二つの相反する感情が感じられます。

 すなわち、3人の労働者を四つん這いの姿勢で描いたところに、屈強な身体の男性に対するコンプレックスと恐怖感が感じられるのです。

 一方、彼らの筋肉質の身体が際立つように描いたところには、憧憬すら感じられます。コンプレックスであれ、恐怖心であれ、あるいは、憧憬であれ、いずれも本源的な欲求に基づく感情です。

 このように画面構成から透けて見えるのは、モチーフに対するアンビバレンツな感情でした。そして、それはおそらく、軍隊での経験が作用しているのでしょう。ひょっとしたら、ここにカイユボットの深層を見ることができるのかもしれません。すなわち、野生の感覚が欠如していることの自覚であり、ブルジョワジーの家庭で育まれた繊細な感性や美意識であり、無意識のうちに育まれた階層意識です。

■父親の庇護下のカイユボット

 《床の鉋かけ》とその別版の舞台となったのは、ミロメニル通り77番地の邸宅に増築されたアトリエでした(*https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。前にもいいましたが、この邸宅は高級住宅地として開発された地区にあり、大実業家で、パリ開発事業の出資者でもあった父親が購入したものでした。

 カイユボットはなんの苦労もなく、パリの一等地に建つ邸宅内にアトリエを設けることができました。画家になりたいといえば、すぐさま父親からアトリエを増築してもらうことができたのです。

 父親から手厚い庇護を受けていたのは、そればかりではありませんでした。

 実は、1868年に軍に召集された際、カイユボットはシェルブールとルーアンの歩兵隊に所属していましたが、69年6月から70年6月にかけての兵役は、父親に免除金を支払ってもらい、パリで法律の勉強を続けていました(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 その後、1870年7月26日に再び召集され、8月30日から1871年3月7日まではプロイセンと戦っていましたが、それは金銭で兵役免除できなかったからでした。つまり、カイユボットは最低限の兵役義務だけを果たして除隊したのですが、その途端に、法律家としての道を諦め、画家に転向すると言い出したのです。

 法律家になることを望んでいた父親の望みをあっさりと切り捨てたことになりますが、それでも父親はカイユボットのために、邸宅内にアトリエを増築してくれたのです。

 こうしてみてくると、彼がいかに絶大な庇護の下で生きてきたかがわかろうというものです。カイユボットは、父親が49歳の時に生まれた子どもでした。それだけに父親にしてみれば、可愛さもひとしおだったのかもしれません。

 いずれにせよ、父親に増築してもらったアトリエを舞台に、カイユボットは作品を手がけました。選んだ題材はプロレタリアートの作業風景でした。そして、描かれたのが、床に這いつくばって作業する半裸の労働者たちの姿だったのです。

 ブルジョワジーとは対極の階層の人々をメインモチーフにしたのです。

 その一方で、カイユボットはその背景に、優美なデザインのバルコニーや、金色でモールディングされた白壁を描くことを忘れませんでした。しかも、それらの文様がはっきりとわかるように丁寧に描いています。ブルジョワジーとして外せない要素だったのでしょう。

■ブルジョワジーとしての無意識

 この作品では、四つん這いになって働く労働者を、高みから捉えて作品化されていました。そこに、カイユボットの彼らに対する無意識の感情が感じられます。先ほど指摘した彼らに対する身体的なコンプレックスや恐怖感などの感情とは別に、プロレタリアートに対する階級意識が無意識のうちに画面に滲み出てしまったように見えるのです。

 労働者たちは、低い位置で作業を進めています。四つん這いの姿勢は、手足の自由が奪われた状態であり、動物を連想する姿勢なのですが、カイユボットは、そんな状態の彼らを見下ろして観察し、スケッチしています。彼らに対し、絶対的優位の立場に立っているのです。

 「見る者、見られる者」、あるいは、「描く者、描かれる者」の関係には、ともすれば、「支配、被支配」に似た関係が構築されがちですが、この作品にはそれがいっそう濃厚に表れているように思えます。

 それは、労働者たちが四つん這いの姿勢、しかも、上半身が裸で描かれているからでしょう。動物を連想させる姿で彼らを描いているのです。ここにプロレタリアートに対するブルジョワジーの無意識が表出していると考えられます。

 ほぼ同時代に、作業する労働者を題材に描きながら、その制作姿勢はクールベやミレーとは明らかに違っていることがわかります。

 クールベやミレーが対象に寄り添い、同じ地平に立って作業状況を描いているのに対し、カイユボットは対象とは一定の距離を置き、半裸でしかも動物を連想させる姿勢で描いていました。

 だからこそ、カイユボットのこの作品に階級意識が濃厚に感じられたのですが、改めてこの作品を見ていて、ふと、カイユボットが見ていたものは、人や物の内面ではなく、形状そのものの美しさではなかったか、という気がしてきました。

 そもそも野生の感覚に欠けていたカイユボットは、労働者の内面には入り込めなかった可能性があります。描かれた労働者たちは観察の対象でしかなく、カイユボットが感情移入することもなく描かれたモチーフにすぎなかったのでしょう。

 もっとも、若い労働者たちの筋肉隆々とした美しい体躯や、華麗なバルコニーの鉄柵を描く時、カイユボットはその美しさや華麗さに惹かれ、心躍らせて描いていたのではないかと思います。その結果、画面に表出したものは、繊細な感性や美意識が捉えた外観でした。

 おそらく、豊かな環境で庇護されて育ったからこそ育まれた感性や美意識が、カイユボットを特徴づける大きな要素なのでしょう。そして、そこから透けて見えてくるのが、無意識のうちに育まれた階層意識といえそうです。(2025/2/28 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑤:カイユボットと第2回印象派展

■画家への進路変更

 カイユボットの父親は、1866年1月15日ミロメニル通りとリスボン通りに面した角地に土地を購入しました。第二帝政時代に高級住宅地として開発された地区です。瀟洒な建物が完成したのが1866年11月で、カイユボットが18歳の時でした。

 その頃、カイユボットは父親の希望で法律家をめざし、フランスのエリート養成機関であるリセ・ルイ=ル=グランに通っていました。22歳で弁護士免許を取得しますが、その後、招集され普仏戦争に参加し、除隊してからは画家の道を目指すようになります。23歳の時でした。

 年譜をみると、24歳の時に父親とイタリアに旅行し、デ・ニッティスと交流を持った?」と書かれています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 調べてみると、デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis、1846 -1884)は、1864年にナポリの展覧会で賞を得てから1867年にパリに出て、画商と契約を結んでいました。ところが、気に染まず、再びイタリアに戻っていました。カイユボット親子と会った後、1872年に再び、パリに来て画家活動をしていたようです(※ Wikipedia)。

 パリではカフェ・ゲルボアを拠点に後に印象派を称される画家たちと交流を深め、とくにマネやカイユボット、ドガとは頻繁に会っていました。ドガが1874年にデ・ニッティスとカイユボットに第1回印象派展に出品するよう勧めたのは、このデ・ニッティスの家でした。(※ https://www.impressionism.nl/nittis-giuseppe-de/

 イタリア出身の新進画家デ・ニッティスは1846年生まれで、カイユボットは1848年生まれです。年齢の近い二人を引き合わせたのは、ひょっとしたら父親だったのかもしれません。画家への進路変更を知った父親はおそらく、カイユボットを後押しするつもりで多忙な中、イタリア旅行をしたのでしょう。

 一方、カイユボットは近所に住む実業家で画家のルアールとも知り合いでした。彼から紹介されたドガを通して、後に印象派と称されることになる画家たちとの交流が増えていきました。

 もちろん、第1回印象派展の開催に奔走するドガから出品を誘われました。先ほどいいましたように、デ・ニッティスの家で共に誘われたのです。

 ところが、カイユボットは断っています。前にも言ったように、官展に代表されるアカデミズムに未練があったのかもしれませんし、新しい絵画勢力の動きに同調しきれなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、1874年に開催された第1回印象派展にカイユボットは出品しませんでした。

 一方、ドガの親友であったアンリ・ルアール(Henri Rouart ,1833 – 1912)は、当時40歳で、しかも実業家でしたが、11点も出品しています。展覧会のために奔走するドガのためにひと肌脱いだのでしょう。

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もまた、第1回印象派展の開催に尽力した画家の一人でしたが、その彼をカイユボットに紹介したのもルアールでした。実業家でありながら、有望な画家たちを次々とカイユボットに紹介していたのです。

 こうして画家を志して間もないのに、カイユボットはすでに、後に印象派と称されるようになる画家の多くと知り合っていました。

 イタリア人画家デ・ニッティスにしろ、13歳も年上のルアールにしろ、さまざまな画家との橋渡しをしてくれた人物はいずれも父親を介して知り合っていました。そこにカイユボットのひ弱さが感じられます。

 実は、父親はカイユボットが法律家になる道を用意していました。それに応えてエリート養成機関に通い、カイユボットは弁護士免許も取得しました。ところが、除隊後、彼は進路を変更し、画家を志望するようになります。それでも、父親はそれも受け入れ、カイユボットが画家になるための援助を惜しみませんでした。

 そのような頃、アカデミーに対抗する画家たちが、自分たちの手で展覧会を開催しようとしていました。中心になって動いていたのが、ドガ、モネ、ピサロ、ルノアールでした。当然、カイユボットもドガから出品を誘われました。ところが、まだどこにも発表したことのないカイユボットがせっかくの機会を断っているのです。

 なぜ、カイユボットは第1回印象派展に出品しなかったのでしょうか。

■父親の死

 当時、カイユボットが交流していたのは、受賞経験があり、批評家からなにがしか評価されていた画家たちでした。大した活動もしていない自分が同じ立場で出品できるわけがないとカイユボットが考えていたとしても不思議はありません。

 まだ一度も作品を公開したことがなく、受賞歴もないので、カイユボットは出品を躊躇したのかもしれないのです。確かに、これまでの経歴を振り返ってみれば、その可能性は考えられます。

 上流階級の息子として生まれ、庇護されて育ってきただけに、カイユボットは優しくひ弱で、打たれ弱く、批評家や観客からの批判を恐れた可能性も考えられます。いったん作品を公開すれば、画家の創作意図とはかけ離れた解釈がされ、想像もしなかった罵詈雑言を浴びせられることもあります。

 あるいは、その年に父親が亡くなったことが関係していたのかもしれません。

 実は、カイユボットの父親は1874年12月24日に亡くなっています。享年75歳でした。死因が何だったのかはわかりませんが、その頃、父親が衰弱していたのだとすれば、絵画を描く気にはなれなかったでしょう。仮に自信作があったとしても、出品しようという気持ちにもなれなかった可能性があります。

 第1回印象派展が開催されたのが、1874年4月15日から5月15日でした。

 父親の死はその8か月も後のことですから、病に臥せっていたのでなければ、父親のせいで彼が出品しなかったわけではないでしょう。

 こうしてみてくると、ドガから誘われても、第1回印象派展に出品しなかったのは、自信がなく、作品を公開する気持ちになれなかったからのように思えます。

 いずれにせよ、父親が亡くなった時、カイユボットはわずか26歳でした。

 これから画家としての人生が始まろうとするとき、父親がいなくなってしまったのです。それまで大切に庇護されてきただけに、大きな喪失感に苛まれたでしょうし、虚脱感にも襲われたでしょう。父親の死は確かに、彼の人生にとって大きな転機となりました。

 さらに大きな変化は、実業家であった父親の巨額の遺産を受け継いだことでした。

 画家として身を立てる前に、カイユボットは大富豪になってしまいました。とはいえ、彼はそれまでの生活形態を変えようとはしませんでした。父親の死後も弟のルネとともに、パリのミロメニル通りの家に住み続け、これまでと同じように、夏になれば、避暑のためにイエールで過ごしていました。

 父親の死が契機となったのでしょうか、カイユボットは真剣に絵と向き合うようになります。大きな喪失感を埋め、進むべき方向を探るには、とりあえず絵画を描くしかなかったのかもしれません。

 なによりもまず、父親の死を受け入れて悲しみを乗り越え、少しずつ生活を軌道に乗せていく必要がありました。それには、生きる目標を新たに設定し、突き進んでいくしかなかったのでしょう。

 そういう状況の中で仕上げたのが、《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet)です。

■《床の鉋かけ》の題材はどこから?

 《床の鉋かけ》は、床の鉋かけをする労働者の作業風景を題材とした作品です。実は、カイユボットのアトリエを自宅に増築する際、床を削り、鉋かけをする労働者たちの様子を描いたものでした。

 高級住宅地として開発されたミロメニル通り11番地とリスボン通り13番地の角地に、父親が建てた瀟洒な邸宅があります。そのリスボン通り側の右手に荷物用玄関上に、3階部分が増築されました。カイユボットが絵を描くためのアトリエです。ここは大きなひさし窓のあるアトリエとして使用され、別階段で行き来することができたといいます(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 このアトリエが完成したのが、1874年4月でした。この頃、カイユボットは画家として生きていこうとしていたのでしょう。増築してアトリエを作ることを決め、費用を出したのはもちろん、父親です。亡くなる8か月前のことでした。

 これだけでも、父親がカイユボットの画家への思いを受け入れ、そのためのあと押しをしていたことがわかります。

 それでは、《床の鉋かけ》を見ていくことにしましょう。

■《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet、1875年)

 3人の男性が半裸になって、床に這いつくばり、床板を削っている様子が描かれています。木くずがカール状になって、周囲に散らばっており、リズミカルに作業が進んでいる様子が示されています。室内は薄暗く、ベランダから鈍く降り注ぐ陽光が、唯一の明かりです。


(油彩、カンヴァス、102×146㎝、1875年、Musée d’Orsay所蔵)

 ベランダ越しに射し込む陽光が、室内にそっと入り込み、その鈍い光が、床板の艶、労働者たちの背中や腕の筋肉の盛り上がりを、ことさらに強く印象づけています。

 実は、カイユボットは彼らが作業する様子をデッサンしていました。


(鉛筆、紙、48×31㎝、1875年、caillebotte.net蔵)

 男たちの三人三様の作業の様子が描かれています。実際に労働者たちの動きを観察しながら、デッサンをし、それを参考にして画面構成をしたのでしょう。

 それでは、油彩画作品と見比べてみましょう。動作からみると、デッサン上の男性は、画面では真ん中、デッサン右の男性は、画面では右、デッサン左の男性は画面では左に配置されていることがわかります。

 画面の真ん中と右の男性は明らかに、肩から腕、腕から手にかけての形態、そして、鉋を持つ手の動きなど、このデッサンを参考に描かれています。左の男性は必ずしもデッサンを踏まえたものとはいえません。鉋を持つ手の様子も実際の絵とは異なっています。

 おそらく、三人のバランスを考えた時、左側の男性の所作、形態を大幅に変更する必要があったのでしょう。

 なぜ、そうする必要があったのか、デッサンと実際の絵画とを比較し、カイユボットの意図を考えてみたいと思います。

■デッサンとの比較

 デッサンと実際の絵画を比較し、カイユボットがこの作品で何を描きたかったのかを把握したいと思います。そのため、デッサンの踏まえて描いたと思われる真ん中と右の男性、そして、デッサンとは異なった姿態で描かれている左の男性とを分けてみました。

 まず、真ん中と右の男性について、実際の絵を見ていきましょう。


(前掲。部分)

 二人ともデッサンとは鉋を持つ手の形態が同じです。違っているのは、腹部が薄く、背中に力点を置いて描かれていること、二人が会話をしながら作業を楽しそうに作業を進めていること、傍らにワインのボトルとグラスが置かれていること、等々です。

 二人とも三角筋。上腕、前腕の筋肉が盛り上がっている様子が描かれています。背中や腕の一部は、汗で光っているように見えるところがあります。この二人の姿態からは、身体を動かすことの喜びが感じられます。作業風景を描きながら、労働の辛さや過酷さは微塵も感じられません。

 それでは、デッサンとは異なった形態で描かれていた左の男性はどうでしょうか。


(前掲。部分)

 こちらは両手で鉋を持つのではなく、右手を伸ばして床材のうす皮をはぎ、左手は身体を支えるために膝の近くに置いています。真剣な表情で床を見つめ、作業を進めています。窓に近いところにいるせいか、室内に注ぎ込んだ外光が男性の顔や上半身をくっきりと際立たせています。

 この男性の場合、背中、上腕、前腕、そして、手の甲がはっきりと見えるように描かれています。とくに肩の僧帽筋、三角筋、背中から腹部にかけての広背筋、斜筋などが丁寧に描かれ、逞しさが強調されています。

■屈強な体躯に男性美を見たのか?

 カイユボットが思いを込めて描いたのは、この左側の男性だったのではないかという気がします。実際に観察してデッサンした状態とは大幅に異なり、理想形の男性の上半身を描いたのではないかという気がするのです。

 右の二人の男性は、前から見下ろす恰好で描いているので、描かれている身体部分は限られています。ところが、左の男性はやや斜めのポーズで距離を置いて描かれているので、上半身や顔を過不足なく表現されています。労働の辛さや疲労といったものは感じられず、身体を使うことの喜びが感じられます。

 作業する三人三様の姿態を捉えたこの作品には、ある種の美しさが感じられます。ひょっとしたら、カイユボットは半裸の労働者をこのような構図で描くことによって、筋肉質の男性美を描こうとしていたのかもしれません。

 いずれも若い男性で、優れた体躯の持ち主です。

 ふと思い出しました。

 カイユボットは1870年7月26日から数ヶ月間セーヌ県の機動憲兵隊(第八歩兵隊第七隊)に召集されました。その時の軍の記録に、「身長1m67cm、赤褐色の髪とまゆげ、グレーの瞳」と記されているといいます(※ http://caillebotte.net/blog/about-him/38)。

 カイユボットはどうやら身長が低かったようです。ひょっとしたら、これら三人の労働者たちに羨望を抱いていたのではないかという気がしてきました。よく見れば、三人とも似たような体躯で、似たような顔つきです。

 はっきりと描かれているのは左の男性ですが、半裸の作業風景を三人に分散して描くことによって、さまざまな身体部位の筋肉の動きを描きたかったのではないかという気がするのです。カイユボットが理想とする体躯を描くには三人三様の姿態が必要だったのでしょう。

■官展に出品し、落選

 カイユボットは《床の鉋かけ》を1875年のサロン・ド・パリ(官展)に出品しました。ところが、審査員から「低俗」と評されて落選してしまいました。1875年4月のことです。

 落選した理由は、労働者階級の人々が、半裸になって、床に膝まずき、仕事をしている様子を描いたことだといわれています。これらが審査員に衝撃を与え、「下品な題材」だとみなされたのです(* https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。

 改めて、この作品を見ると、至近距離から見下ろす恰好でモチーフを捉える視点がなんとも斬新です。この時代にはありえないアングルでモチーフが捉えられ、画面に躍動感を与えています。このように近くから見下ろす視点で描かれているからこそ、床に膝まずいて作業する労働者たちの背中や腕の筋肉がごく自然に表現できているのです。

 彼らはズボンしか着用しておらず、上半身は裸です。だからこそ、背中や腕の筋肉の盛り上がりを生き生きと描くことができているのですが、それが否定されました。まるで古代の英雄たちのように、筋肉質の身体が見事に浮き彫りにされていました。審査員はそのことをどう評価したのでしょうか。

 古代英雄の裸身を好んで題材にしてきたアカデミーが、労働現場で鍛えあげた筋肉質の男性を描くことには嫌悪感を示し、低俗だと非難し、拒絶したのです。アカデミーのこの評価には偏見と矛盾を感じざるをえません。

 もちろん、男性が膝まずいた姿を捉えたことへの嫌悪感があったのかもしれません。労働者階級の作業風景を描いた作品だとはいえ、床に這いつくばっている姿勢は、男性ならではの威厳を棄損し、もっぱら鍛え抜かれた腕や背中ばかりを強く印象づけます。おそらく、そのことが、審査員たちに、「低俗」だという印象を与えてしまった大きな要因なのでしょう。

 審査員はおそらく全員が男性だったのではないかと思ますが、権威を棄損し、労働者階級をモチーフに男性美を描いたことが、審査員たちを不快にさせ、「低俗」という評価を下させたのではないかという気がします。

■落選後のカイユボット

 そのころ、カイユボットは、イタリア人画家デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)やその仲間たちと頻繁に会うようになっていました。デ・ニッティスは1874年の第1回印象派展に出品をしており、ボナの弟子であったベローやドガ、デブータン、マネらと親しくしていました。

 カイユボットが落選し、落ち込んでいることを知ったデブータンは、カイユボットの様子をデ・ニッティスに知らせました。彼はすぐさま、カイユボットを自宅に招待することを思いつき、ともに過ごしながら、官展に落選しても、その経験から学び、さらに素晴らしい絵を描けば、官展の審査員を見かえすことが出来ると慰めました。

 こうしてカイユボットは落選の痛手を少しずつ乗り越え、絵画に対するエネルギーに置き換えていきました。

 一方、カイユボットの落選を知ったルノワールとルアールは、1876年2月5日、カイユボットに手紙を出し、「官展ではなく、第2回印象派展に出品しないか」と誘いかけました。彼らは第2回印象派展の準備を進めていたのです。

 すでに画廊経営者のデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)氏と契約を結び、もっとも大きな部屋を含む二室を借りることができたとその進捗状況を述べています。

 そして、「費用は出品者一人につき一口120フラン、2月25日までにデュラン・リュエル氏のところまで支払いにいくこと。オープンは3月20日、期間は一ヶ月、5点まで。もし参加の意思があるのなら早めに私達のうちのどちらかに返事を下さい。」と出品のための条件を記しました。(※ http://caillebotte.net/chronology/

 もちろん、カイユボットはこの誘いに応じました。官展に落選したことが、第2回印象派展に出品する直接のきっかけになったのです。

■第2回印象派展

 1876 年4月11日から5月9日まで、第 2 回印象派展がデュラン・リュエルの画廊で、開催されました。第 1 回印象派展は、批評家や一般の観客からかなり批判されましたが、ルノワールとモネは今後も続けて印象派展を開催したいと考えていました。画家にとって作品を公開できる場を確保することは不可欠でした。

 問題は資金繰りです。

 ちょうどその頃、彼らはカイユボットが官展に落選して落ち込んでいることを知りました。これ幸いとばかり、カイユボットに手紙を送り、彼を第2回印象派展に誘い込むことに成功しました。父親から莫大な遺産を受け継いだばかりのカイユボットは、単独で展覧会開催のための資金を提供しました。

 こうして第2回印象派展の開催にこぎつけることができたのです。

 ペルティエ通り( rue le Peletier)11番のデュラン・リュエルの画廊には、20人の画家たちの作品、約 252 点が展示されました。第1回印象派展とは違って、今回は、画家ごとにまとめて展示され、わかりやすい展示構成になっていました。

 カイユボットは、第 2 回印象派展開催のために莫大な資金を提供しただけではなく、絵画8 点を出品しました。この展覧会ではじめてカイユボットの作品が公開されたのです。

 展覧会hで、その中の一つ、官展に落選した《床の鉋かけ》(Les Raboteurs de Parquets)が評判になりました。

 話題になったもう一つの作品は、ドガの《綿花事務所》(A Cotton Office in New Orleans)です。この作品は、近代的な産業界の一端をテーマにし、アカデミックな画法を踏まえて描かれていました。

 美術評論家のデュランティ(Louis Edmond Duranty, 1833 – 1880)は、「新しい絵画」という論考の中で、ドガとカイユボットの作品を特に、「都市風俗を鋭いデッサン力で描写した」と賞賛しています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 確かに、しっかりとしたデッサンに基づき、写実的に描かれた《床の鉋かけ》にはインパクトがありました。この作品についてはすでに紹介しましたので、翌年、同じ画題で描かれた、《床削り別版》をご紹介しましょう。

■《床の鉋かけ 別版》(Les raboteurs de parquet、1876年)

 同じ題材で描かれたとはいえ、1875年の作品と比べると、明らかに衝撃度が異なります。


(油彩、カンヴァス、80×100㎝、1876年、個人蔵)

 右手中央に、床に這いつくばって作業をしている中年男性、左奥に、足を投げ出しカンナをいじっている少年が配置されています。二人は窓際の壁と画面右端を結ぶ対角線上に描かれており、その対極になるのが、窓からの陽光を受けて輝く床です。かなり広いスペースを取ってあり、くっきりと床に映し出された窓の形が印象的です。

 床板の微妙な色の違いが丁寧に、描き分けられており、その質感が見事に捉えられています。カイユボットがきわめて写実的な画家であったことを改めて思い知らされました。

外の風景が、窓ガラス越しにぼんやりと描かれています。一方、窓から射し込む陽光は、磨き抜かれた床に窓の形をくっきりと描き出しています。リアルな窓と床に映し出された窓が垂直につながり、画面に不思議な空間を作り出しています。

 この作品で印象的なのは、この不思議な空間です。

 画面左上から手前までの、リアルな窓と床に映し出されたヴァーチャルな窓が縦のラインを創り出し、それが一種の光源として、働く二人の労働者の姿を照らし出す恰好になっています。

 床に力点を置いた構図にすることで、対角線のラインにレイアウトされた二人を活かすことができているのです。

 年齢の離れた二人は作業中に話し合うこともなく、それぞれ俯いて、ひたすら自身に与えられた仕事に没頭しています。労働者の典型を示そうとしているのでしょう。

 興味深いのは、描かれた労働者が、若い筋肉質の男性ではなく、中年男性と少年に変更されていたことでした。しかも、中年男性はシャツを着用して作業しており、いささかも裸身を見せてはいません。奥の方で座っている少年は、半裸ですが、腕も背中もまだ筋肉の付いていない幼い身体です。

 モチーフの選び方、描き方を見ると、同じ題材でありながら、明らかに、前年の作品を修正していることがわかります。《床の鉋かけ》では濃厚に滲み出ていたセクシュアルな要素が完全に除去されているのです。

 《床の鉋かけ》の落選理由として挙げられた「低俗」批判に対し、このように対応しているのです。前作に対する審査結果を踏まえた作品だといわざるをえません。

 この作品では、 《床の鉋かけ》 で見られたような独創性、意外性、吸引力といったものは希薄になっています。画面の衝撃度は弱められていますが、逆にいえば、それだけに、窓から射し込む陽光が床の上に創り出した空間の妙味と、幾何学的な画面構成が強く印象づけられます。

 両作品を見ていえるのは、カイユボットが写実性の高い画家であり、アカデミズムの技法を踏まえ、確かな画力をもっているということでした。

■独自の画風を育んだパリの邸宅

 上流階級の邸宅で働く職人を描いた二つの作品のうち、1875年に制作されたものには、モチーフに対するカイユボットの熱い思いが感じられます。半裸で作業する若い男性はいずれも筋骨隆々としており、産業革命時代の英雄にも見えます。

 そもそも労働者の作業を描いた作品はこの時期、極めてまれでした。アカデミックな技法を踏まえたうえで、独創的なアングルでモチーフを捉えたこの作品は、アカデミズムへの挑戦のようにも見えます。

 残念なことに、その果敢な挑戦心は落選という結果でへし折られました。翌年、描いた作品はその批判を踏まえて修正し、挑戦心を隠してしまっています。逆に際立って見えるのが、艶出しされた床です。その床が微妙な陽光の差し込みを反映し、豊かな空間を作り出していました。何気ない日常生活を見事に作品化した稀有な例といえるでしょう。

 二つの作品からは、確かなデッサン力、微妙な色調の差異に基づく肉付け丁寧な描きわけが際立っていることがわかります。カイユボットは、アカデミーが奨励した技術を完全に体得し、実践できていることが証明されました。レオン・ボナの下で学んだ写実的な手法を確実に身に着けていたのです。

 そればかりではありません。ドガやデ・ニッティスらとの交流を通してカイユボットは、自然光に対する感受性、大胆な遠近法などを身に着けていたこともわかりました。

 つまり、ここでご紹介した二つの作品からは、カイユボットが、レオン・ボナの下でアカデミックな技法を獲得したうえで、印象派をはじめ新しい潮流の画家たちのエッセンスも取り入れて、独自のスタイルを築き上げていたことが透けて見えるのです。

 カイユボットの独創性は、アカデミーが奨励した入念なデッサン、モデリング、正確な色調を理解し、その手法に基づいて描いたうえに、印象派ならではの大胆な遠近法、自然光に対する鋭い感覚などを取り入れて作品化したことだといえるでしょう。(2025/1/29 香取淳子)