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2022年

マクシミリアン・リュス ④ラニー派と呼ばれた頃

 カロリュス・デュランなど著名な画家の下で学ぶ一方、同輩との交流を通して、リュスは美術界の新しい潮流に触れていきました。ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソンとの出会いは新しい潮流に乗るきっかけを作ってくれました。今回はラニー派と呼ばれた頃のリュスとその仲間たちの初期作品を見ていきたいと思います。

■ラニー=シュル=マルヌで生まれ、育ったゴーソン

 1876年頃、木版画家フロマンの仕事場でリュスは、風景画家レオ・ゴーソン(Léo Gausson, 1860-1944)や、エミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィ(Émile-Gustave Cavallo-Péduzzi, 1851-1917)と出会います。彼らはやがて、親しく交流するようになりました。

 知り合った時、リュスが18歳、ゴーソンが16歳、ペドゥッツィが25歳でした。画家を目指す若者たちはたちまち意気投合し、折に触れ、絵画について語り合うようになっていきます。

 当時、ゴーソンはパリ郊外のラニー=シュル=マルヌに住んでいました。パリ中心部から26.1km離れた東部マルヌ県に位置し、マルヌ川が静かに流れているところです。彼はここで生まれ育ちました。

こちら → https://hrvwiki.net/Wikipedia_L%C3%A9o_Gausson

 ゴーソンのキャリアを見ると、まず国立装飾芸術学校の夜間教室に通い、彫刻を学んでいます。ところが、リュスと出会った頃にはすでに絵画に転向し、風景画を描くようになっていました。

 スペイン出身の地元の画家Antonio Cortes (1827-1908)から、バルビゾン派について聞いていたといいますから、彼が風景画を描くようになっていたのは、その影響を受けていたからかもしれません。

 バルビゾン派とは、フォンテンブローの森を中心に集まって制作していた画家たちの総称です。彼らは1830年代から1870年代にかけてフランスで活動し、自然主義的な観点から風景画を写実的に描くのが特徴でした。

 それまでは背景としか見なされてこなかった風景を、彼らはメインモチーフとして取り上げ、ありのままに描きました。そのような制作姿勢が当時、台頭してきた市民階級の共感を呼びました。バルビゾン派の登場に伴い、美術市場では風景画への需要が高まっていきました。

 ゴーソンが彫刻から風景画家に転向したのは当然のことだったのかもしれません。

 生まれ故郷であるラニー=シュル=マルヌにはマルヌ川が流れ、周辺には緑豊かな田園風景が広がっていました。画家たちが景色を鑑賞し、題材を探すには恰好の土地だったのです。

 当時はおそらく、人々の気持ちをほっと落ち着かせ、和ませる光景がいたるところに見られたのでしょう。現在も景観を保つために行政が枯れ葉の処理をし、それを腐葉土として再利用して緑の保護に取り組んでいます。

こちら → https://www.lagny-sur-marne.fr/cadre-de-vie/environnement/ville-verte/

 リュスは一時期、この地を訪れ、ゴードンやペドゥッツィらと共に過ごしたことがありました。

 リュスが最初に滞在したのは1876年ですが、その後も頻繁に、ラニー=シュル=マルヌを訪れていたようです。兵役から戻ってきてからは、1885年の夏と1887年の夏、ゴーソンに会いに来ています。

 1885年といえば、この時期、ゴーソンは自身の絵画に新たに科学的な技法を導入しようと考えており、その思いをしたためた長い手紙をエミール・ゾラに書いていました。

こちら → https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/L%C3%A9o_Gausson

 一方のペドゥッツィは、1884年に初開催されたアンデパンダン展に出品した後、数年間は毎年、展覧会に出品しています。(※
https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi )

 こうしてみると、ゴーソン、ペドゥッツィはいずれもこの時期、意欲に燃えて、新た強い画法に取り組もうとしていたことがわかります。

 そこにリュスが加わり、3人はともに周囲を散策してはモチーフとなるスポットを渉猟し、時には共通の関心事である風景画について語り合い、また、時には、新しい画法を議論して過ごしていました。

 1885年、彼ら3人にルシアン・ピサロ(Lucien Pissarro, 1863 – 1944)が加わり、4人はラニー派を結成しました(※ https://lagny-sur-marne.wiki/lsm/Groupe_de_Lagny)。

 ラニーの景色を題材に絵を描きながら、折に触れて、スーラ―が考案した新しい画法について議論し、その画法を試行していたのです。

 当時、彼らはどのような絵を描いていたのでしょうか。

 調べてみると、1885年に描かれたリュスとゴーソンの作品を見つけることができました。彼らがラニー=シュル=マルヌのどこに着目して制作したのかがわかります。それぞれ、見ていくことにしましょう。

●リュス制作、《ラニー周辺の風景》(1885年頃)

 のどかな田園風景が広がっています。リュスが1885年頃に描いた作品で、タイトルは《ラニー周辺の風景》です。

(油彩、カンヴァス、44×57.3㎝、1885年頃、ホテル・デュー美術館)

 手前に広がる草地に所々、黄色の花が咲いています。その上に穏やかな陽光が伸び、心和むような風景が広がっています。画面には右に大きな木、左側にはやや小さな木が立ち並び、画面全体のバランスがとてもよくレイアウトされています。

 草地の背後には赤褐色の屋根、白い壁の家が立ち並び、和やかに暮らす人々の生活を彷彿させます。家々の下には道路なのでしょうか、白い線が横に伸び、画面をバランスよく切り取っています。

 この作品に私は少し違和感を覚えてしまいましたが、それは、空が灰色がかった色で描かれていたからでした。

 大きな木、小さな木々に光が射し、草地にも明るい陽光が伸びています。これだけの太陽の光が射しているなら、空の色がこれほど暗いはずはないと思ったのです。家々の屋根といわず、壁といわず、明るい光が射し込み、白く光っています。その下の小道も同様です。

 それなのに、なぜ、空がこれほどまでに暗いのでしょうか・・・。いまにも雨が降って来そうなほどどんよりとした色合いにせいで画面の整合性が失われています。

 リュス自身、後年になって、そのことに気づいたのではないかと思います。

 1887年に友人のジョルジュ・タルディフ(Georges Tardif)に宛てた手紙の中で、この空の色について不満を記しているのです。(※ “Maximilien Luce et Léo Gausson”, Silvana, 2019, p.17.)

 はじめてラニーを訪れて以来、リュスは何度も出かけてはラニー周辺を散策し、画題となる場所を探していました。おそらく、陽光の中で輝く風景を捉えたかったからでしょう。

 この作品の木々や草地、家々の描かれ方と、空の色に対するリュスの不満からは、当時、彼が陽光の恵みを感じさせる明るさを求めていたことが感じられます。

 一方、ラニーで生まれ育ったゴーソンは同時期、マルヌ川を捉えた風景を描いています。

●ゴーソン制作、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》(1885年)

 リュスの《ラニー周辺の風景》と同時期に描かれた作品です。ゴーソンが取り上げたのは、マルヌ川の橋げた近くの洗濯船でした。

(油彩、カンヴァス、46×65㎝、1885年、ガティエンボネ美術館)

 マルヌ川の対岸から、橋桁近くの洗濯船が捉えられています。画面の大半は、波打つマルヌ川の川面で占められています。

 興味深いのは、手前の岸辺の草が黄褐色で明るく輝き、その輝きが川の中ほどで、煌めく川面に呼応していることでした。これによって、左手前から中ほど中央へと観客の視線が誘導されます。

 さらにその先の対岸には、家々が建ち並び、その屋根や壁もまた、射し込む光によってひときわ明るく輝いています。雑草が風にそよぐ岸辺からマルヌ川を経て対岸の建物へと、降り注ぐ陽光によって、画面に統一感が生み出されています。そのせいか、この作品には、陽光がもたらす恵みへの憧れが感じられます。

 ところが、空はどんよりとし、岸辺や川面、家々の屋根や壁に落ちる明るい陽射しに呼応していません。この作品でも、空の色が不釣り合いに暗く、画面の整合性を失わせています。

 画面の下半分を占めるモチーフが、さまざまな形で太陽光を巧みに取り入れて表現されているのに反し、その光を発しているはずの空がアンバランスに思えるほど暗いのです。

 先ほどご紹介したリュスの作品も、空の色はどんよりとして暗く、違和感がありました。同時期に描かれたゴーソンの作品も同じように暗いということからは、ひょっとしたら、ラニー=シュル=マルヌの空自体、実際にこのような色だった可能性が考えられます。

 さて、この作品のタイトルは《ラニー、マルヌ川の洗濯船》です。うっかりすると、見落としてしまいそうですが、タイトルからは、ゴーソンが描いていたのは、マルヌ川の橋桁近くの洗濯船だったと思われます。

 確かに、橋桁近くの川辺に何かが見えます。ひょっとしたら、これが洗濯船なのかもしれませんが、よく見ても、すぐにはわからないほど、対岸の風景の中に沈み込んでしまっています。

 目を凝らして画面を見ると、屋根付きの船が対岸に何艘か、停泊しているのがわかります。はたしてこれが洗濯船なのかどうか、よくわかりません。そこで、調べてみると、1923年以前とされるマルヌ川の洗濯船を撮影した写真が見つかりました。

 写真撮影されているぐらいですから、当時、地元の人々にとっては馴染みの光景であり、生活風景の一つだったのでしょう。ラニー生まれのゴーソンにとってはとりわけ、欠かせない画題だったのかもしれません。

 洗濯船について、さらに調べてみると、動画が見つかりました。これを見ることで具体的にこの船の機能がわかり、当時の人々の生活の一端を知ることができました。

こちら → https://youtu.be/fZU1SPdIqPc

 1969年に撮影された映像です。川に停泊させた船の中から、中高年女性たちが腰をかがめて、川の水でごしごしと力を込めて洗っているのです。数多くの衣類を際限なく洗濯する女性たちの姿を見ていると、非常に辛い仕事であることがわかります。

 このような写真や映像を見た上で、改めてゴーソンの作品を見ると、彼がなぜ、この画題を選んだのかがわかるような気がしてきました。空がどんよりと描かれているのも、決して不自然ではなく、彼女たちの気持ちが反映されたもののように思えてきます。

 ゴーソンの作品を一見すると、単なる風景画にしか見えませんが、タイトルにこだわって、画面を見直してみると、実は、美しい風景の中に、過酷な労働の現場が捉えられていることに気づきます。

 この作品からは、ゴーソンが科学的な画法だけではなく、社会的課題についても関心を抱いていることが示唆されています。

 同時期にラニー=シュル=マルヌを描いたペドゥッツィの作品を、見つけることができませんでした。1888年頃に当地で描かれたと思われる《Les lavandières》を見つけることができましたので、ご紹介することにしましょう。

●ペドゥッツィ制作、《Les lavandières》(1888年頃)

 タイトルの“lavandière”は、洗濯女という意味です。この作品に何故、こんなタイトルが付けられているのか、すぐにはわかりませんでした。

(油彩、」カンヴァス、45.8×38㎝、1888年頃、所蔵先不詳)

 この作品を見て、まず、印象に残るのは、真正面に見える白い建物です。手前右から小さな道が小川を超えて伸び、遥か遠くの白い建物にまで続いています。まるで観客を誘導していくかのように、この小道は小川や周囲の草むら、そして、傾斜地に建つ建物の前の塀のようなものまで、案内しながら見せてくれます。

 画面中ほどには、葉を落として幹だけになった木々が数本、高く聳え立っている様子が描かれています。これらの木々はのどかなこの景観を縦に区切るだけではなく、その奥行きと広がり、高さを感じさせる一方、大きく広がる空の存在に気づかせてくれます。

 改めて空を見ると、淡い水色、ピンク、クリーム色で色構成されているのが印象的です。画面半分ほどの面積を占める空の下、たなびく雲の合間から射し込む陽光が、辺り一面を柔らかく、暖かく包み込んでいます。

 点描画法と淡いパステル調の色遣いで描かれた画面はなんともいえず優しく、見る者を穏やかな気持ちにさせてくれます。

 一見、風景画にしか見えませんが、タイトルは「洗濯女」です。不思議に思い、画面をよく見ると、左前景に蛇行する小川の縁で女性が洗濯している様子が描かれています。

 点描画法で描かれているので、気づきにくいですが、手で洗濯ものを掴み、川の水で洗っている女性の様子がわかります。

 そういえば、ゴーソンもまた、洗濯をテーマに、《ラニー、マルヌ川の洗濯船》を描いていました。当時、洗濯がどれほど大変な仕事だったのか、ゴーソンやペドゥッツィの作品からは、洗濯が女性に課せられた大変な労働の一つだったことがわかります。

 風景画の中にさり気なく、洗濯する女性を描いたゴーソンやペドゥッツィの制作姿勢に、彼らの社会観や芸術観、絵画に求める社会性が透けて見えてきます。

 それにしても、なんとユニークで興趣のある構図なのでしょう。

 高く伸びた木々が創り出す縦の線、建物群が建つ坂の左に下がる斜めの線、それに呼応するように、長い雲が右に垂れさがった斜めの線、この二つの斜線は画面をはみだした外側で交差していそうです。細い小道は「く」の字状に折れ曲がり、手前から奥に流れる小川は緩く蛇行し、柔らかい曲線を創り出しています。

 縦線や斜線、曲線がモチーフを繋ぎ、画面に奥行きと広がり、動きと活力をもたらしています。そればかりではありません。点描法による描き方とパステル調の色遣いが、風景の中にさり気なくモチーフを配置した構図と見事にマッチして相乗効果を上げ、画面から爽やかで快い雰囲気が醸し出されているのです。

 ゴーソン、リュス、ペドゥッツィ、ルシアン・ピサロがラニー派を結成したのが1885年、それからわずか3年で、この作品が点描法で描かれているのが興味深く、ペドゥッツィがこれ以前にどのような作品を描いているのかが気になって、調べてみました。

 すると、1880年にラニーの光景を描いたと思われる《Les toits de chaume》というペドゥッツィの作品を見つけることができました。

●ペドゥッツィ制作、《Les toits de chaume》(1880年制作)

 “Les toits de chaume”は、「藁ぶき屋根」という意味です。この作品も《Les lavandières》と同様、風景の中に人物を配置した作品です。

(油彩、カンヴァス、83.5×61.3㎝、1880年、所蔵先不明)

 ペドゥッツィは1880年に母を亡くし、7月に結婚して11月にはラニーに引っ越しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/%C3%89mile-Gustave_Cavallo-P%C3%A9duzzi

 ラニーに転居した頃に描かれているので、この作品はおそらく、ラニーの風景を描いたものでしょう。日が落ちる前の陽光が画面左に並ぶ藁ぶき屋根に反射しています。正面奥に見える石造りの建物から続く小道を女性が荷車を押して、こちらに向かってきています。

 この女性はペドゥッツィ母親の追憶の姿なのでしょうか、それとも、結婚したばかりの妻なのでしょうか。描かれた女性は荷車を押して何かを運んでいます。《Les lavandières》と同様、女性が働く姿が、風景の中に溶け込むように描かれています。

 藁ぶき屋根の家、周辺の草むら、背後の木々など、この作品のモチーフのほとんどが暗褐色、暗緑色がで描かれています。そのため、画面が暗く、一見、モチーフを識別しがたいのですが、屋根の縁、小道の際など、要所要所に明るい色がハイライトとして配されているので、画面の暗さはむしろこの作品を深める効果をもたらしています。

 1880年に描かれたこの作品には点描画法の片鱗も見えません。むしろクールベのような写実主義の作品に見えますし、ピサロのような印象派の作品にも見えます。ペドゥッツィはこの時期、まだ画風を確立していなかったのでしょう。

 ただ、風景の中に働く女性を配置するという点、淡いパステル調の色調の中に雲がどんよりと垂れこめている空が描かれ、その空の面積が画面のほぼ半分ほどを占めているという点など、1888年に描かれた《Les lavandières》と1880年に描かれた《Les toits de chaume》には共通性があります。

 これがおそらく、ペドゥッツィが好む画題なのでしょうし、画風なのでしょう。

 《Les toits de chaume》は夕刻の光景が情緒豊かに描き出されています。右の木の奥から淡い陽光が水平に射し込み、藁ぶきの屋根の傾斜部分を照らしています。荷車を押しながら帰路に就く女性を添えることで、残照に照らし出された農村の一光景が輝いて見えます。

 この作品が描かれたのが1880年、ペドゥッツィが29歳の時の作品です。このころはまだ印象派風の画風でした。リュスと出会って4年経っていますが、まだ点描画法の欠片も見えません。ところが、1888年の作品は明らかに点描画法で描かれています。

 ラニー派といわれる彼らはいったい、いつ頃、点描画法を取り入れるようになったのでしょうか。

 ちょうど1885年頃、ゴーソンらのグループに、カミーユ・ピサロとリュシアン・ピサロの親子が参加しました。カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)は当時、ラニー派の画家たちに、自身が惹きつけられているスーラの理論と画法を説いていたといいます。

 それにしても、印象派の画家として名を成していたカミーユ・ピサロがなぜ、ゴーソンらのグループに参加したのでしょうか。(2022/2/28 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ③リュスは何故、デュランの画法に倣ったのか。

 前回書きましたように、リュスが描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、一見、デュランの《母の肖像》(1876年)と遜色のない、見事な出来栄えでした。ところが、どういうわけか物足りなさを感じさせられたのです。

 一体、何に引っかかりを覚えたのでしょうか。

 そこで、今回はまず、なぜ、私がリュスの作品に物足りなさを感じたのか、その理由を探ることから始めたいと思います。

■リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)vs デュランの《母の肖像》(1876年)

 リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》の場合、まず、印象に残るのは、肌の艶の良さです。光と影を意識し、ハイライトを多用しているせいか、高齢者の肌にしては艶が良すぎるような気がします。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 確かに、加齢はしっかりと顔貌に刻み込まれています。額の皺、目の下のたるみ、そして、鼻の両側から口角の外側にほうれい線といった具合に、明暗を意識した色遣いで、老いの諸相が丁寧に捉えられています。

 正面を見据える目は、瞼を支える筋力が重力に負けて垂れ下がり、瞳の面積が小さくなっています。そして、向かって左側の目は充血しており、血管がもろくなった高齢者特有の現象が的確に描かれています。顔面のどこからも「老い」を見逃さず、見事なまでに表現されているところに、リュスの観察力の鋭さを感じさせられます。

 顔貌に現れた老いは逐一、捉えられ、光と影を意識して色表現されています。まるで実物を目の前にしているかのような錯覚に陥ってしまいます。写実的で、躍動感に溢れた描かれ方をしているせいでしょうか、老いてなお元気で暮らしている様子がうかがい知れます。

 一方、デュランの《母の肖像》の場合、額の皺やほうれい線など、老いの様相が細かく描かれているわけではありません。どちらかといえば、ラフなタッチと色遣いで顔貌の「老い」がさり気なく、表現されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 光と影を意識して描かれていますが、ハイライトは鼻先に少し置かれている程度です。それだけに、全般に肌に艶がなく、萎んで見えます。脂っ気のない高齢者特有の肌が際立って見えるのです。

 萎んだ肌、くぼんだ眼窩から静かにこちらを見つめる視線、そして、歯の一部が欠けているのではないかと思えるような口元、それらが一体となって、老いと孤独、寂寥感を強く感じさせます。

 こうして見比べてみると、デュランの作品の方が、はるかに優れた表現力を感じさせます。両者とも光と影を意識して高齢者の顔貌を描いているのですが、ハイライトの置き方で、これだけの違いが出ているのです。

 一方は表面的な老いをきめ細かく描くにとどまり、他方は内面の老いを深く描くことができているように思えます。

 両作品に見られる大きな違いは、肌の艶でした。

 ハイライトを多用し、肌の艶を写実的に表現したリュスは、おそらく、そのせいで、内面の「老い」を描くことができませんでした。枯れる、萎びるといった要素を表すことができなかったからだと思います。

 肖像画では、明るく、きめ細かな肌、生き生きとした肌の艶、さらには、顔を引き立てるための衣装、等々が一般的です。デュランの肖像画のほとんどがそうでした。おそらく、その技法に倣って、リュスは《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)を仕上げたのだと思います。

 一方、それまでの画風とは違って、デュランが写実的に仕上げたのが《母の肖像》でした。艶もなく、萎んで見える肌が、内面の老いを深く描き出していました。

 デュランの数多くの作品の中で、リュスが影響されたのは、この《母の肖像》だとされています。ところが、興味深いことに、この作品に刺激されて制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)は、デュランがこれまで肖像画で採用していた画法だったのです。

■明るく、きめ細かな肌、顔を引き立てる衣装

 デュランのさまざまな肖像画を見てくると、画力が秀でているばかりか、モデルの魅力を最大限に引き出す技術に長けているといわざるをえません。モデルから美しさ、品格、あるいは、威厳を引き出し、それを的確に表現する技能に卓越したものがあるのです。依頼者からはさぞかし喜ばれたことでしょう。

 果たして、デュランは何に留意して肖像画制作に臨んでいたのでしょうか。

 肖像画家として人気のあったデュランが心掛けていたのが、明るく、きめ細かな肌であり、モデルの顔を引き立てる衣装であり、構図でした。

 たとえば、《フェドー夫人の肖像》(Portrait de Madame Ernest Feydeau)という作品があります。デュランが1870年に制作された作品で、こちらは、いかにも肖像画といった趣があります。

 この作品にはデッサン、色味を確認するためのラフスケッチなどが残されています。デュランがどのように肖像画を仕上げていったのか、その過程を追うことができる資料が残されているのです。

■《フェドー夫人の肖像》、その制作過程を見る

●《フェドー夫人の肖像》(1870年)

 この作品は1870年に制作されました。当時、デュランは33歳で、肖像画家として人気が高まっていた頃の作品です。その2年前には画家クロワゼット(Pauline Marie Croizette:1839-1912)と結婚していました。

(油彩、カンヴァス、230×164㎝、1870年、リール美術館)

 黒地の背景の下、妖艶な女性がこちらを向いてかすかに微笑んでいます。毛皮で縁取られた銀色のドレスの光沢が目に鮮やかです。アクセントとして取り入れられたブルーの髪飾り、胸元のリボン、そしてドレスの下からのぞくブルーのペチコート・・・、それらすべてが、上品で華やかなフェドー夫人の美しさを強調しています。

 豪華なドレスの足元には黒の子犬が描かれています。どうやら黒チワワのようです。一般に、チワワは飼い主に忠実な性格をしているといわれていますが、まさにその通りの様子で夫人を見上げています。たくし上げられたドレスの裾から、ブルーのペチコートが露になって、黒い子犬の姿を引き立てています。

 子犬の頭、背中、床を踏む後ろ足は、斜めのラインでつながっており、光沢のあるドレスの斜め下に流れる皺のラインと呼応しています。画面上の流れを生み出し、子犬の視線が行き着くよう計算された構図が秀逸です。

 しかも、縦230㎝、横164㎝の巨大なサイズの作品です。大邸宅でなければ飾ることができませんし、描かれるモチーフもそれなりの重みが必要です。

 夫人の華やかな美しさ、豪華なドレス、優雅な佇まい・・・、それらが一体となって、この大画面に負けない魅力を放っていました。デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 調べていくと、この作品を仕上げるまで、デュランが念入りに準備をしていたことがわかりました。まず、デッサンから見ていくことにしましょう。

●デッサン

 克明に描かれたデッサンです。

 モチーフの形状も構図も完成作品とほぼ同じですが、異なる点がいくつかあります。

 まず、背景です。夫人がカーテンの前に立っている構図が採られています。カーテンにそっと手をかけ、顔と身体の隣に黒の空間を作っています。夫人の顔面やドレスを際立たせようとしたのでしょうが、カーテンの存在がはっきりしすぎていて、メインモチーフの豪華さを弱めています。

 次に異なるのが、夫人の体の向きです。デッサンでは、夫人の顔から足元に向けてのラインが比較的まっすぐになっています。とくに、上半身、腹部周りの量感がやや乏しく、権威を感じさせるだけのボリュームが足りません。

 このデッサンを見ていると、持ち上げたドレスの裾の毛皮のラインと、光沢のある布の皺のライン、子犬の背面から足へのラインが呼応するよう、最初から構想されていたことがわかります。

 完成作品とデッサンとを見比べてみると、これら一連の斜めのラインと夫人の顔の傾げ方とが連動しており、上品な仕草の中に見られるややコケティッシュな表情が浮き彫りにされていることがわかります。

●ラフスケッチ

 この作品のために、デュランは色彩をチェックするためのラフスケッチも描いていました。

 ここでは、光と影を意識した色彩構成が試行されています。完成作品と見比べてみると、最初から、髪飾り、胸元の花、ドレスの裾からのぞくペチコートを鮮やかな空色で統一しようとしていたことがわかります。

 肖像画全体の差し色として、ブルーを選んだのです。夫人のイメージに近いからか、全体を上品で落ち着いた雰囲気にしたかったからなのか、暖色ではなく、寒色を選んでいるのです。

 大きな面積を占めるドレスの色は、ブルーの補色である黒みがかったオレンジ色で試しています。一方、襟元、袖口、ドレスの裾を縁取る毛皮はその色に合わせ、焦げ茶色で統一されています。

 さらに、明るく見える箇所、光沢のある個所はアイボリーホワイトを置き、光と影を意識し、その効果を想像しながら、ラフに色構成がされています。

 結果として、ドレスの色は銀色になり、襟元、袖口、裾を縁取る毛皮は黒に変更されています。

 こうして見てくると、克明なデッサンを描き終え、構想を定着させた後もなお、デュランがさまざまに試行錯誤を重ねていることがわかります。一枚の肖像画を仕上げるために、かけた多大な努力に比例し、画面は華やかでありながら、品格のある仕上がりになっています。

 もちろん、デュランは家族の肖像もいくつか描いていますが、こちらも依頼された肖像画と同様、モデルは着飾って、ポーズを決めて画面に収まっていることに変わりはありません。

 ところが、《母の肖像》(1876年)はそれらの肖像画とは一線を画していました。デュランの肖像画に見受けられる新古典主義的要素が見当たらないのです。

 デュランの制作過程の一端を見てくると、どちらかと言えば、リュスの《オクタヴィアおばさん》(1880年)の方が、デュランの肖像画の画法を引き継いでいるように思えます。高齢者をモデルにしながらも、写実的に描かれたその肌艶に生の輝きが感じられるからでした。

■リュスはデュランから何を学んだのか。

 それでは、リュスはデュランから何を学んだのでしょうか。

 《フェドー夫人の肖像》(1870年)の制作過程を、色付けの側面から見ていくと、何故デュランがモチーフに生命を吹き込むことができたのかがわかるような気がします。

 光と影を意識して、モチーフの色構成を綿密に行い、色彩によって動きを生み出し、画面全体の調整を図っていました。だからこそ、二次元の平面画像に生き生きとした生命の輝きを持ち込むことができたのではないかと思います。

 こうしてモチーフに躍動感を与えることができているからこそ、上流階級から人気のある肖像画家になれたのではないかという気がするのです。デュランの手にかかると、二次元の世界に封じ込められたはずのモデルに、三次元の世界の躍動感がもたらされるのです。

 《オクタヴィアおばさん》(1880年)の肌艶の良さを思い返すと、リュスが、デュランの典型的な肖像画の画法を踏まえて描いていたことがわかります。リュスはおそらく、デュランの色遣いの技法を真似たのでしょう。

 ところが、デュランの画法を真似て、《オクタヴィアおばさん》を描きながらも、リュスはデュランの画法を好ましいとは思っていなかったと指摘されています。

(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 リュス自身、この技法では表面的なリアルさしか捉えられないことに気づいたからかもしれません。

 もっとも、この作品を描くことはリュスにとって、当時、主流だったアカデミズムの教育を受けたのと同等の価値があったようです。

 アカデミー会員であったデュランの指導を受け、その画法を真似ることによって、リュスはしっかりとしたアカデミー教育を受けていることを示すことができました(※ 前掲 p.14. Silvana, 2019)。難しい国立美術学校に入学しなくても、デュランの下で学んだという経歴はそれと同等のキャリアとみなされるメリットがあったのです。

 当時、画家を志す者にとって、アカデミーは美術界の権威でした。

■アカデミーを席巻していた新古典主義

 フランス革命後、サロンにはアカデミーの会員以外も出品できるようになりました。ところが、その後、不適切な絵画が出品されるようになり、アカデミーの改革が行われた結果、審査制度が導入されました。審査員はもちろん、アカデミーの会員です。ドミニク・アングルが新古典主義の正統を受け継ぎ、それに対抗して、ジェリコーやドラクロアなどのロマン主義の潮流も生まれていました。

 市民階級の台頭とともに芸術の大衆化が進み、サロンはやがて、新興市民階級を対象とする作品展示場の様相を呈するようになっていきました。ナポレオン三世の統治下でパリの大改造が行われ、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となりました。作品展示場としてのサロンの役割はさらに大きくなり、画家が作品を売るにはサロンでの成功が不可欠になっていったのです。

 ところが、その審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われました。様々な画風の画家が登場し、美術市場が拡大していたにもかかわらず、審査基準は依然として新古典主義を規範としていたのです。

 マネやモネ、ルノワールといった画家たちが次々と落選し、サロンの審査基準は明らかに市場の動向と合わなくなっていました。バルビゾン派、バティニョール派、印象派などの画家たちが活躍しはじめており、サロンやアカデミーに代表される美術界の権威が失墜して行くのは目に見えていました。

 デュランは美術アカデミーの会員でした。1889年から1900年まで万国博覧会の審査員を務め、1890年には国民美術協会(Société nationale des beaux-arts)の設立に貢献しています。そして、1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲し、ローマ賞を受賞していないのに、1905年から1913年までローマのアカデミー・フランスの校長を務めています。

(※ https://www.villamedici.it/en/directors/duran-carolus/

 スペインやイタリアの肖像画の伝統を学び、上流階級の肖像画を数多く手掛けながら、新古典主義の画風を確立していました。デュランはアカデミズムの体制に馴染み、サロンの審査基準そのものであり、当時のフランス美術界の権威の一つでした。

 確かに、デュランが描いた数々の肖像画には、スペインやイタリアの伝統的な肖像画の痕跡が見られます。その一方で、アカデミーの主流である新古典主義の要素も見受けられます。デュランはルネサンス以来の伝統を踏まえ、フランスのアカデミズムの真髄を把握した画家だったのです。

 1880年、アカデミーと美術行政との対立を機に、ついに国家主催のサロンが取り止めになりました。官製のサロンが閉鎖された年に、リュスは、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いています。

■《オクタヴィアおばさんの肖像》1879年作 vs 1880年作

《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)について、色々調べていくうちに、この作品以外に、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》を描いていました。描かれたのは1879年、この作品の1年前でした。

 リュスは1879年に《オクタヴィアおばさんの肖像》を描き、気に入らなかったのか、1880年に再び、同じタイトルで制作していたのです。両者のどこがどう違うのか、まずは1879年制作の作品から見ていくことにしましょう。

●もう一つの《オクタヴィアおばさんの肖像》(Portrait de la tante Octavie、1879)

 1879年頃、リュスはもう一つ、《オクタヴィアおばさんの肖像》という作品を描いていることがわかりました。リュスが描いたとは思えないほど、1880年に描かれた作品とは画風が異なっています。とても素朴で、どちらかといえば、稚拙に見えます。別人の作品ではないかと疑ってしまうほどですが、Wikimedia Commonsには、Maximilien Luce – Portrait de la tante Octavieと記されているので、リュスの作品だということは確認されており、保証されています。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1879年頃、所蔵先不詳)

 一見、写生風の作品です。

 暗い室内で、高齢女性が椅子に座り、絵のようなものを、身をかがめて覗き込んでいます。膝はひざ掛けで覆われ、近くの暖炉には火があり、テーブルにはポットとティーカップのようなものが置かれています。質素な暮らしぶりですが、寒さをしのげる暖かさはありそうです。粗いタッチのなかに、高齢女性の暮らしぶりが手に取るようにわかる作品です。

 ちょっと気になったのが、暖炉の描き方です。構造的な面に違和感があります。本当にリュスの作品かどうか、疑問に思ったのがこの箇所でした。

 もっとも、これはリュスが21歳の時の作品です。それまで木版画職人としての修業をし、画家になろうと決意してからまだ3年しか経っていません。描き方に稚拙な部分があっても当然といえば、当然でした。

 さて、1879年に描かれた作品は、肖像画というよりも、オクタヴィアおばさんの生活の一端を捉えた一種の風俗画です。

 この作品から推し量れるのが、当時のリュスの画風であり、画力だとするなら、自然主義、写実主義こそ、21歳のリュスが求めていたものだといえるでしょう。この作品からはデュランの影響の片鱗すら見ることはできません。

 当時、クールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)、ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier,1808-1879)など、日常生活を画題に写実的に描く画家が登場していました。描き方は稚拙ですが、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》は、この系統に属する作品のように思えます。

●デュランに影響された《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 リュスが1880年に制作した《オクタヴィアおばさんの肖像》は、モデルが上半身で捉えられ、衣装と顔貌が写実的に描かれています。モデルは観客を正視するアングルで描かれており、まさに肖像画といえる作品でした。肖像画家として人気のあったデュランの《母の肖像》と遜色のない出来栄えだといえるでしょう。

 リュスはわずか1年間で、デュランが得意とする肖像画の骨法を習得していたのです。

 1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》は、デュランの影響が歴然としていました。1979年に描かれた同じタイトルの作品とは大幅に異なっています。画法が異なっているのは当然として、モデルとの距離の取り方、明暗、レイアウト、背景、さらには、対象に対する観察力まで大きな違いが見られるのです。

 同じタイトルでありながら、まるで別々の画家が手掛けたように、異なっています。1880年の作品は、リュスが自分を抑え、デュランを模倣することに徹して、描いたことがわかります。

 そう考えると、1880年に制作された《オクタヴィアおばさんの肖像》の中にこそ、肖像画家デュランからリュスが学んだエッセンスが詰め込まれているはずです。

 果たして、それは何でしょうか。

 その一つはすでに、デュランの《母の肖像》との比較で考えてみました。それは、デュランが肖像画で駆使していた光と影を意識した色構成でした。ハイライトを多用し、生き生きとした肌艶を表現する技法を、リュスはデュランから学び取ったと思われます。

 それでは、1879年の作品との比較で何が見えてくるのでしょうか。調べていると、面白い記事が見つかりました。

 「カロリュス・デュランが対象とする上流階級の肖像画とは対照的に、リュスは労働者階級の肖像を好んだ」と書かれています。

(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 そのような観点からみれば、リュスがデュランの画風を好まなかった理由がわかるような気がします。リュスの出自を考えれば、労働者階級の生活や人々を描きたいと思うのは当然でした。

 実際、リュスが1879年に描いた《オクタヴィアおばさんの肖像》では、顔貌だけを捉えるのではなく、質素な暮らしぶりまでも捉えられています。肖像画といいながら、リュスは顔貌や衣装だけではなく、その生活背景までも描こうとしていました。日々の営みによって人は生き、考え、感じ、暮らしているという信念に基づくものでしょう。

 リュスは労働者階級の息子として生まれ、モンパルナスで育ちました。1871年のパリコミューンを13歳の時に経験しています。リュスは、働かなければ食べていけない人々の側に立って、世界を観ていたのではないかという気がします。

 一方、デュランはもっぱら上流階級の人々に支持され、人気肖像画家として一世を風靡していました。ものの見方、対象の捉え方が違って当然でした。もちろん、デュランの新古典主義的な画風を好ましいと思っていなかったでしょう。

 それではなぜ、リュスはデュランの下で学んでいたのでしょうか。それについて図説では、次のような興味深い解説が寄せられていました。

 「デュランの教えには必ずしも満足していなかったが、国立美術学校に入学したのと同様の教育を受けることができ、自信をもって絵を描き進めることができた」(※ 前掲)と記されており、デュランの下で学んだことの対外的効果が説明されていたのです。

 アカデミーの会員であり、後に美術界の要職を歴任することになるデュランの下で学ぶことによって、リュスは、当時のフランス美術界の体制に沿って活動していくためのパスポートを得たのです。

 そもそもリュスは、木版画職人として生計を立てていこうとしていました。ところが、技術進化のせいで木版画職人に未来がないと判断し、画家に転向しました。それだけに、美術界の動向に敏感にならざるをえなかったのでしょう。

 リュスは画家への転身を決意すると、デュランのアトリエに入り、油彩画技法を学んでいました。ところが、デュランの下で学びながらも、リュスは必ずしも彼の画法を好んではいなかったそうです。

 図録では、その理由として、デュランがいかにもサロンの画家らしい形式的でオーソドックスな描き方をしていたからだと記されています(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)。

 ところが、《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)には、デュランの肖像画技法がしっかりと取り入れられていました。好んでいなかったとはいえ、デュランの技法をリュスは完璧にマスターしていたのです。当時のフランス美術界でのデュランの位置づけを振り返ると、リュスの行為は当然と言えば当然でした。(2022/1/31 香取淳子)