ヒト、メディア、社会を考える

24日

いわき市立美術館で見た、心に残る作品

■常設展で見た辰野登恵子氏の作品
 いわき市に出かけたのは今回が初めてですが、街なかを散策中に、洒落た建物を見つけました。8月21日の午後、じりじりと照り付ける日差しを受けて、その建物はまぶしく輝いていました。近づいてみると、いわき市立美術館でした。誘われるように美術館に入っていくと、平成28年度常設展前期Ⅱとして、「美術館へようこそー絵画のすがた」と「常磐炭鉱~スケッチブックの記憶~」が開催されていました。

「美術館へようこそー絵画のすがた」のコーナーでは、内外の画家、彫刻家の作品24点が展示されていました。いずれもいわき市立美術館所蔵の作品で、いわゆる現代美術に分類されるものでした。

こちら →160329132537_0
(http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000005276/index.htmlより)

 このコーナーで私がもっとも惹きつけられたのは、上の写真には写っていませんが、辰野登恵子氏の『UNTITLED 95-8』です。深みのある鮮やかな赤で着色された巨大な図形がなんともいえない存在感で、観客に迫ってきます。奇妙な図形は、ヒトとヒトが対峙しているようにも見え、器具の一部のようでもあり、単なる記号のようにも見えます。

 何が描かれているのか、描かれていることにどのような意味があるのか、よくわかりません。絵を見たときヒトが条件反射的に求めてしまう意味が、この絵からは解読できなかったのです。ところが、この絵からは、ヒトの気持ちをゆさぶるような迫力と、生命に直結したようなエネルギーを感じさせられました。だからこそ、意味はわからないながらも、私はこの絵に惹きつけられてしまったのでしょう。

 会場では撮影できませんでしたので、ここでその絵をお見せすることはできません。後で、インターネットで検索してみると、似たような作品を見つけることができました。この作品の後に描かれたと思われる作品です。

こちら →UNTITLED 95-9
(http://xn--zck9awe6d.jp.net/wp-content/uploads/2014/09/561.jpg より。図をクリックすると拡大します)

 一見しただけでは展示作品かと思ってしまうほど、よく似ています。ですが、よく見ると、メインモチーフの形状や色遣い、背景の形状や色遣いが微妙に異なっています。辰野氏はおそらく、展示作品(UNTITLED 95-8)のどこかに満足できずに、その直後、この『UNTITLED 95-9』を制作したのでしょう。背景の模様の色遣いが展示作品よりも多様になっていますし、メインモチーフの色遣いがフラットになっています。

 私はどちらかといえば、展示作品(UNTITLED 95-8)の方が好きです。メインモチーフの色遣いに深みがあり、陰影の付け方に濃淡があって、この奇妙な図形の存在感が強調されていたからです。背景の模様の色遣いがコントロールされていることも、メインモチーフを引き立たせる効果がありました。

 具体的に何を表現しているのか、解釈は観客に委ねられています。それだけに、モチーフの形状や色彩だけでなく、背景の形状や色彩も大きな意味を持ってきます。『UNTITLED 95-8』の場合、背景の色遣いが『UNTITLED 95-9』よりも制限されているので、この模様が青い海に浮かぶいくつかの島のように見えます。地球を俯瞰するような構図を背景に、存在感のあるメインモチーフが配置されているといっていいかもしれません。

 ですから、マクロ的にもミクロ的にもヒトと地球とのかかわりが示唆されているように見えますし、ヒトとヒト、ヒトと社会が捉えられているようにも見えます。多様な意味を引き出せそうな作品なのです。私はしばらくこの絵の前で佇んでいました。それだけ、この作品には根源的な迫力があり、このコーナーではとても目立っていました。

■いわき市と常磐炭田
 1Fの展示コーナーに入ってすぐ左手に、もう一つの常設展、「常磐炭鉱~スケッチブックの記憶~」が開催されていました。このコーナーでは炭坑をテーマに制作された作品37点が展示されており、異彩を放っていました。いわき市に関係する美術家12名が制作したもので、いずれも同館所蔵の作品です。

 鉛筆画、コンテ画、水彩画、油彩画、リトグラフ、さらにはセメントによる塑像など、技法も異なれば材質も異なる多様な作品群です。炭坑をモチーフにした37点が集中して展示されているこのコーナーには、地元の美術館ならではの郷土愛が感じられました。

 私はあまりよく知らなかったのですが、福島県いわき市はかつて殖産産業であった炭鉱で栄えていたようです。いわき駅の観光案内所でもらった何枚かのチラシに、「いわき市石炭・化石館 ほるる」がありました。ここでは、いわき市が産炭地として栄えた当時の資料と、市内で発掘された動植物の化石等が展示されています。JR湯本駅から徒歩10分のところにあります。

こちら →http://www.sekitankasekikan.or.jp/about/about.html

 そういえば、子どものころ、社会科の授業で常磐炭田について学んだような気がします。言葉だけ記憶していた常磐炭田が、いわき市を含むこの地域一帯を経済的に支え、繁栄に寄与していた時期があったのです。

 展示作品は、炭坑やそこで働くヒト、炭坑を取り巻く町、などをモチーフにさまざまな観点から制作されていました。そのせいでしょうか、描き方の巧拙にかかわらず、どの作品にもヒトを立ち止まって見入らせる力がありました。生活に根差したリアリティが画材を通して立ち上ってきていたからでしょう。

 このコーナーの展示作品からは、何が描かれているのか、作品を通して作家が何を伝えようとしているのかが直に使わってきました。そして、程度の差はあれ、どの作品からも、生活実態を踏まえた生命力のようなものが滲み出ていました。ヒトと社会のありようを示唆する作品もありました。

■中谷泰氏の作品
 このコーナーでまず、印象に残ったのが、中谷泰氏の作品でした。『炭坑町』(油彩、100×91㎝、1958年)という作品です。

こちら →炭坑町
(https://www.hakkoudo.com/ninki-sakka/%E4%B8%AD%E8%B0%B7%E6%B3%B0/より。図をクリックすると拡大します)

 左上方に描かれた茶色のボタ山に対比するように、2本の煙突を挟んで、右上方に緑の残る鉱山が描かれています。その下には人々の暮らす家々が描かれており、鉱山とそこで働く人々の生活が示唆される構図です。

 煙突からはもくもくと黒い煙があがり、空も黒ずんで見えます。この絵の中でヒトの姿は描かれていませんが、煤煙の空の下で暮らす人々の悲惨な生活が容易に想像できます。ここでの生活は大気汚染など気にしていられないほど苛酷なものだったのかもしれません。

 右上方に描かれた山は左側のボタ山よりも手前にやや小さく、緑色で描かれています。かつてはこのような緑の木々に覆われていた山が石炭の発掘が繰り返され、やがて、左のボタ山のように茶色になってしまうということが示されているような気がします。観客にしてみれば、ここに緑の山が描かれていることで、ほっとした気持ちになります。

 ネットで調べると、この作品にとてもよく似た『炭坑』(油彩、1956年)があることに気づきました。

こちら →

5.0.2 JP

5.0.2 JP


(http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=5166&edaban=1より。図をクリックすると拡大します)

 この作品では、『炭坑町』には描かれていなかったヒト(手ぬぐいを頭に巻いた女性)が描かれています。しかも、右上方の山が緑色ではなく茶色で、そこには山頂に続く道も描かれています。ですから、この絵では、右上方の山もボタ山なのです。二つの大きなボタ山の下で、煤煙に包まれて働く人々の暮らしがこの絵のモチーフになっています。全体が黒っぽい茶色で覆われているので、この絵からは救いようのない辛さが感じられます。

 『炭坑』の制作年が1956年、『炭坑町』の制作年は1958年です。つまり、中谷氏は『炭坑』に満足しきれなくて、その後、『炭坑町』を制作したのだと思われます。

 同じモチーフを扱いながら、この二つの作品には描き方が異なっており、そこに中谷氏のモチーフに対する気持ちの変遷を見ることができます。『炭坑』が炭坑で働く人々の暮らしを見たまま描くことによって、この絵に批判を込めたのだとすれば、『炭坑町』の方は、直接的な批判色を薄め、あるべき姿を提示することによって間接的に批判をしているといえます。

 右のボタ山を敢えて緑色にし、ヒトの姿を消すことによって、婉曲的な批判に変容しているのです。ですから、同じモチーフを扱いながら、『炭坑町』の方が深みのある作品になっており、観客に訴える力も増していると思います。

 中谷氏がモチーフにしたのではないかと思われる風景写真をネットで見つけました。

こちら →top-img
(http://tankouisan.jp/より。図をクリックすると拡大します)

 この写真を見ると、中谷氏が最初は見たままのボタ山の光景を描き、その後、修正を加えたのだということがわかります。そうすることによって、絵としての陰影を刻み、画面に深みを増すことができているように思いました。

 さて、一連の作品の中で、私がもっとも惹かれたのは、中谷泰氏の『春雪』(油彩、91×100㎝、1960年)という作品です。

こちら →春雪
(http://machinaka.cocolog-nifty.com/blog/cat44385196/より。図をクリックすると拡大します)

 まず、絵として美しいと思いました。白の占める面積が大きいからでしょうか、墨絵のような美しさがあります。ここには煤煙はなく、ボタ山もそのふもとの家々も雪で覆われています。そのせいか、この絵には清らかささえ感じられます。良いも悪いもすべて雪によって包み込まれているからでしょう、諦念にも似た静けさと調和の下で黙々と働くヒトの暮らしが透けて見え、限りない愛おしさを感じさせられました。

■現実の超克と生きる力
 思いもかけず立ち寄ったいわき市立美術館で、辰野登恵子氏と中谷泰氏の作品に出会いました。辰野氏の作品からは、俯瞰の構図を背景にしたモチーフに巨大な生命力を見ました。そこには観客を捉えて離さない、モチーフの色彩と形状、それを支える背景の色彩と形状から生み出される迫力がありました。

 中谷泰氏の作品からは、社会批判の形にさまざま様相があることを教えられました。『炭坑』では直接的に、『炭坑町』では間接的に社会批判につながる表現がなされていました。両作品ともボタ山をメインにした光景から、大気汚染に晒され、苛酷な労働を強いられる炭坑の町のヒトの生活が浮き彫りにされています。ですから、見ていると、自然に社会批判の意識が立ち上ってくるのです。

 ところが、『春雪』ではその種の社会批判を超えた、ヒトと人生、あるいは、ヒトと自然といったようなものが見えてきます。雪で覆われたボタ山の光景が、目の前の現実を俯瞰する構図で捉えられているからでしょう。

 こうして見てくると、辰野登恵子氏の作品からも中谷泰氏の作品からも、現実の超克とその暁に得られる生きる力というものが見えてくるような気がします。たまたま訪れたいわき市で思いもよらず、素晴らしい作品に出合いました。(2016/8/24 香取淳子)