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2024年

百武兼行⑨:近代化への取り組みと写真術

 前回、佐賀藩に写真術が導入されたプロセスを見てきました。今回も引き続き、西洋の近代技術が何故、渇望されたのか、当時の社会状況を踏まえ、考えてみることにしたいと思います。

 まず、写真術が導入された過程を振り返ることから、始めることにしましょう。

■最初に写真術を導入した薩摩藩

 前回、見てきたように、幕末日本にいち早く写真術を導入したのは、薩摩藩と佐賀藩でした。いずれも長崎経由で撮影機材を入手し、それぞれ別個に、試行錯誤を繰り返し、研究を重ねた上で、実際に藩主の写真撮影を行っていました。

 薩摩藩が1857年に銀板写真を撮影し、佐賀藩が1859年に湿板写真を撮影しています。

 ちょうどその頃、江戸幕府は、ヨーロッパ諸国とロシアに使節団を派遣することを決定しています。1858年に締結した修好通商条約について、ヨーロッパとは開港開市の延期交渉、ロシアとは樺太国境画定交渉をする必要があったからです(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html)。

 文久元年12月22日(1862年1月21日)、幕府派遣の使節団は渡欧しました。横浜から長崎を経て、香港、シンガポールを経由し、エジプトを経て、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ(ベルリン)、ロシアといった行程でした。

 この遣欧使節団に、佐賀藩の川崎道民(随行医師)と薩摩藩の松木弘安(後の寺島宗則、通訳兼医師)が参加していました。彼らは、医師として、通訳として、遣欧使節団の構成メンバーでした。

 興味深いことに、彼らはオランダに着くと、公務の合間に、わざわざ写真館に出かけていました。そして、名刺型の肖像写真を撮影し、日本に持ち帰っています。日本では見たこともない持ち運びの出来る写真でした。

 両者はいずれも、写真術に関わりがありました。佐賀藩の川崎道民は撮影経験があり、松木弘安は薩摩藩が行っていた写真術研究のメンバーだったのです。

 そもそも日本で最初にダゲレオタイプの写真を撮影したのが、薩摩藩の市来四郎(1829-1903)でした。彼は、松木弘安(1832-1893)や川本幸民(1810-1871)らと共に、島津斉彬の指示の下で写真術の研究をしていました。砲術など火薬に関する勉学を修め、西洋技術に明るくことが目に留まり、島津斉彬に認められていたのが、この市来四郎でした。

 また、川本幸民は、漢方医を学んだ後、西洋医学を学ぶため、江戸に留学しました。医学ばかりか、蘭学や物理、化学にも精通していました。彼は、翻訳書を出版したことで、島津斉彬に認められ、薩摩藩籍になりました。元はといえば、三田藩の侍医の息子です。医師であり、蘭学者でした(※ Wikipedia)。

 薩摩藩で造船所建設の技術指導をした後、蕃書調所の教授となり、1861年に『化学新書』を出版しています。化学書を多数執筆したので、日本化学の祖ともいわれています。

 一方、松木は長崎で蘭学や医学を学んだ後、江戸に赴いて川本幸民から蘭学を学び、蘭学塾に出講しました。その後、蕃書調所の教授手伝いとなってから帰郷し、薩摩藩主・島津斉彬の侍医となっています。その後、再び、江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、今度は、英語を独学し、横浜で貿易実務に関わったという異色の経歴の持ち主です(※ Wikipedia)。

 こうしてみてくると、日本で最初に写真撮影をした薩摩藩には、西洋の技術や知識、情報に精通したエリートが集結していたことがわかります。西洋の科学技術を積極的に導入することを目的に、藩主の島津斉彬が、各地から優秀な人材を呼び寄せていたからにほかなりません。

 写真術の導入はその一環と捉えることができます。

■2番目に湿板写真を撮影した佐賀藩

 幕末日本で2番目に写真撮影をしたのが、佐賀藩の川崎道民でした。医師として万延元年使節団の訪米に随行した川崎は、折を見つけ、写真館に通い詰めました。現地の技師から直接、指導を受けて、写真術を身につけるためでした。

 カメラや機材、書物だけでは知り得ない実際の運用方法を、川崎は、現地で写真技師に教えを請い、日参して学び、撮影できるようになったのです。前回、報告したように、彼の熱心な取り組みは現地メディアにも報じられていました。

 このようなエピソードからは、川崎が一見、個人的な興味関心から、アメリカで写真術を身につけてきたようにみえます。確かに、好奇心が旺盛で、学習意欲の高い川崎には、そのような側面もあったのでしょう。

 とはいえ、当時、一介の藩士が、個人的な動機だけで、写真術を学ぶことが許されたとも思えません。

 実は、渡米前に、挨拶に伺った川崎は、藩主の鍋島直正から、現地で情報を収集してくるように指令されていました(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/)。

 現地での写真術の習得はおそらく、鍋島直正が求めた技術情報収集の一環だったのでしょう。

 海外渡航の前に、情報収集の指令を受けていたのは、何も川崎道民に限りません。

 たとえば、遣米使節団には、6名の佐賀藩士が参加していました。そのうちの一人、島内平之助(1883-1890)は、佐賀藩の火術方に所属していましたが、川崎と同様、渡米前に、直正から種々の視察および情報収集の指令を受けています。

 指令通り、島内は帰国後、米国見聞記と砲術調査書を文久元年(1861)に書き上げ、藩主に報告しています。(※ 岩松要輔、「幕末佐賀藩士が見た中国」、『International Symposium on the History of Indigenous Knowledge』2012年、p.89)

■海外渡航の藩士に向けた情報収集の指令

 鍋島直正は、藩士たちの海外渡航の機会を捉えては、彼らに現地での情報収集を命じていました。貴重な海外渡航の機会を無駄にしなかったのです。実際、彼らからさまざまな現地情報を得た直正は、藩を取り巻く内外の情勢判断に役立てることができました。

 島内平之助は、帰国途中で香港に立ち寄った際の見聞録を残していました。

 船上から見た香港の地形、停泊する外国船や清国の船の様子を描く一方、英仏連合軍に攻撃された北京の状況を書き記していたのです。さらに、この時、交流していた米国人士官が、日本が努力して軍備を整えれば、英仏の強兵といえども軍艦を向けることはできないとささやいたことも書き添えていました(※ 前掲)。

 香港で見かけた光景と、伝え聞いた北京への英仏の攻撃事件から、島内はおそらく、明日は我が身と思ったことでしょう。その思いを米国人士官の言葉として書き添えていました。軍事力がなければ、いとも簡単に欧米から蹂躙されてしまうことを、島内はこの時、実感したのです。貴重な経験でした。

 島内が書き記した香港での経験は、鍋島直正の内外の情勢分析に大きな影響を与えたことでしょう。

 新聞社も通信社もなかった時代、海外渡航した藩士たちの情報こそが、直正に貴重な情報をもたらしていました。藩士たちは公務の合間に、現地を視察するだけでなく、情報収集するだけでなく、それを記録に残していたのです。情勢判断のための資料として、なによりも得難いものでした。

 一方、万延元年(1860)の遣米使節団に島内らと共にアメリカに赴いた川崎道民は、文久2年(1862)の遣欧使節団にも医師として随行しました。その川崎道民もまた、アメリカからの帰国後、視察報告として、(航米実記)を記しています。

 現在、東京国立博物館に保存されていますので、下巻の巻頭部分をご紹介しましょう。

(※ https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091102

 名前の上に、「西肥」と書かれており、西の肥前(佐賀藩)出身であることが示されています。川崎道民は佐賀藩医松隈甫庵の四男として天保2年(1831)に生まれ、須古(現彼杵郡白石町)の侍医川崎道明の養子になっていますから、確かに、肥前の西部出身なのです。

 下巻の冒頭では、ニューヨークはアメリカ全州のうち最も繁栄した大都会だということから書き起こしています。大都市ニューヨークでの滞在期間中に、川崎道民はさまざまな出来事を見聞します。

 それらの中で、もっとも印象深かったのが、写真と新聞でした。

 いずれも広報媒体として優れた機能を持っています。客観性、再現性、拡散性があり、不特定多数に対して均一の情報を発信するには、最適の媒体でした。川崎は衝撃を受けました。アメリカで初めてその実用例を見た時の衝撃は、ヨーロッパでさらに強化されました。

 オランダでは名刺型写真を撮影し、日本では得られない写真の進化形も経験しています。持ち運びのできる写真は個人の証明写真ともいえるものでした。西洋の新しい技術が人々の生活の中に入り込み、人と人、人と社会との関係を変貌させていくことを予感していたのかもしれません。

 アメリカでもヨーロッパでも見かけた新聞にも川崎は興味を持ちました。対象を機械的に写し出すことが出来る写真には客観性があり、出来事をありのままに伝える新聞とは親和性があると考えたのでしょう。

 日本にも新聞が必要だと感じた川崎道民は、明治5年(1872)、佐賀県で初めての新聞「佐賀県新聞」を発行しています。地域での啓蒙活動に使うつもりで立ち上げましたが、残念ながら、発行部数が伸びずに資金繰りがつかず、2か月後には廃刊されました(※ 前掲URL)。

 川崎道民が発刊した新聞は、政府や県の仕事を県民に伝える記事で構成されていました。同一情報を不特定多数に拡散できる新聞の機能を使うことによって、県民に幅広く行政情報を伝えようとしたのですが、時期が早すぎたのか、結局は失敗しました。

 ちなみに、日本で最も早く開設された新聞事業は、1871年1月28日に横浜で発行された「横浜毎日新聞」です。こちらは当初、貿易に関する情報が紙面の中心でしたが、次第に民権派の新聞と目されるようになっていきました。1906年7月に「東京毎日新聞」と改名され、1940年11月30日に廃刊されています(※Wikipedia)。

 「横浜毎日新聞」は発刊後、紆余曲折を経ながらも、1940年11月末まで継続しています。ところが、「佐賀県新聞」はわずか2か月で廃刊になってしまいました。人口規模のせいでしょうか、それとも記事内容のせいでしょうか、いずれにしても、新政府誕生とともに、新聞事業が立ち上がっていたことには留意すべきでしょう。

 幕末から欧米列強が次々と、日本の近海を訪れ、開国を迫っていました。そのような動乱期に生きた川崎道民だからこそ、誰にも分け隔てなく情報を拡散できる新聞の必要性を感じていたのかもしれません。

 欧米列強の脅威は、誰よりも鍋島直正が感じていたにちがいありません。だからこそ、渡航する藩士に現地での情報収集を命じていたように思います。

■フェートン号事件の余波

 当時、海防への懸念を募らせていた鍋島直正は、積極的に、西洋技術の導入を図り、研究開発を進めていました。

 たとえば、1850年に日本初の実用反射炉を完成させています。威力の強い鉄製の洋式大砲を鋳造するためでした。この反射炉を使って、1851年には、日本で初めて鉄製大砲を鋳造しています。反射炉の操業と大砲の製造には多額の費用がかかり、時には、佐賀藩の年間歳入の4割にも上ったこともあったようです(※ Wikipedia)。

 それでも、鍋島直正は、積極的な西洋技術の導入を推進し続けました。海防の必要性を強く感じていたからでした。

 実は、鍋島藩にはフェートン号事件という苦い経験があったのです。

 文化5年(1808)、イギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきました。慣例に従って、オランダ商館員2名と長崎奉行所の通詞が出迎えのため、船に乗り込もうとしました。その途端、商館員2名が拉致され、イギリス船に連行されてしまいました。偽の国旗を掲げたイギリス船に騙され、長崎港への侵入を許してしまい、オランダ商館員が拉致されたというのが、フェートン事件のあらましです。

 そのフェートン号が描かれている絵を見つけました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Phaeton_(frigate).jpg

 画像が荒く、書かれている文字を読むことはできないのですが、帆船です。

 帆船時代には、戦列艦よりも小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船をフリゲート艦と称したそうです(※ Wikipedia)。

 急遽、対応を迫られた長崎奉行所は、フェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求しました。ところが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけでした。

 攻撃したくても、できませんでした。

 実は、その年、長崎を警衛する当番は佐賀藩でした。ところが、これまで大した事件もなかったので、経費削減のため、守備兵を幕府に無断で10分の1ほどに減らしていたのです。事件の際、長崎には本来の駐在兵力はわずか100名程度だったという状態でした(※ Wikipedia)。

 仕方なく、長崎奉行所は急遽、九州諸藩に応援の出兵を求めました。彼らの到着を待っている間に、水と食料を得たイギリス船は長崎港を去ってしまいました。

 結果だけを見れば、日本側に人的、物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されていますから、事件は平穏に解決したように思えます。ところが、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして切腹し、鍋島藩の家老など数人も、勝手に兵力を減らしていた責任を取って切腹しています。

 そればかりではなく、幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたことを咎め、11月には第9代藩主鍋島斉直(1780-1839)に100日の閉門を命じました。鍋島斉直は、直正の父で、1805年に家督を継いでいます。

 フェートン号事件が起こったのは1808年ですから、直正がまだ7歳の時です。幼心に強烈な印象が刻み込まれたことでしょう。なによりも、フェートン号事件以後、長崎警備の費用が嵩み、藩の財政を圧迫していきました。

 直正は17歳で、第10代藩主になりましたが、財政難から藩政改革に乗り出さざるを得ませんでした。磁器や茶、石炭などの産業の育成、交易に力を注ぐ一方、藩校である弘道館を拡充し、出自にかかわらず優秀な人材を登用するといった教育改革を行いました。

 もちろん、長崎警備も強化しています。

 二度と同じようなことを起こさないため、海防を強化しなければなりませんでした。ところが、財政難だった幕府からは支援が得られなかったので、独自に西洋の軍事技術を導入していきました。

 まずは、精錬方(佐賀藩の理化学研究所)を設置し、反射炉をはじめ科学技術を積極的に取り込み、実用化していきました。

 鍋島直正が軍事や資源開発、産業化に関する科学技術に大きな関心を寄せていたのは確かです。とはいえ、川崎道民に対する指令やそのエピソードからは、それだけではなかったようにも思えます。写真術が持つ記録性、正確な再現性などにも関心を抱いていたような気がするのです。

■写真術と西洋の科学技術の導入

 砲術や火薬といった武器でもなく、資源開発のための掘削に仕えるわけでもない写真術の研究が、佐賀藩の中で、どのような位置づけになっていたのかはわかりません。ただ、鍋島家が設置した博物館「徴古館」には、初期の湿板カメラが残されていますので、このカメラから、何か推察できるものがあるかもしれません。

 これは、川崎道民が1959年に、鍋島直正を撮影したカメラです。

 この湿板カメラには、相当、使い込んだ痕跡がみられるといいます。佐賀藩の科学研究施設であった精煉方(佐賀藩が1852年11月に設けた理化学研究所)で、使用されていた可能性があるとされています(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216303)。

 人物を撮影しただけではなく、精密機器の記録装置としても使われていたのかもしれません。

 佐賀藩では精錬方を設置し、西洋の科学技術を研究し、実用化できるようにしていました。諸研究のうち、軍備強化の一環として建造されたのが、製砲工場でした。

 陣内松齢が昭和初期に描いた作品、「多布施公儀石火矢鋳立所図」が残されています。

(絹本着色、68.6×85.1cm、昭和初期、公益財団法人鍋島報效会蔵)

 この図は、1854年に佐賀県多布施川沿いに建造された製砲工場です。ここには次のような解説が記されています。

「嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府は佐賀藩に鉄製砲50門を注文し、品川に台場を建設することとした。これを受けて佐賀藩では、先の築地反射炉に続き、嘉永6年7月多布施川沿いに新たに公儀石火矢鋳立所(製砲工場)を設けて鋳造にあたり、150ポンド砲2門を献上した。本図は昭和初年に描いた考証復元図で、2基(4炉)の反射炉が向かい合っている」(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218840

 ここでは当初、多布施反射炉での大砲鋳造に関する洋書の翻訳、薬剤や煙硝、雷粉などの試験を行っていました。やがて、範囲を広げるようになり、蒸気機関や電信機についても研究を行うようになっています(※ Wikipedia)。

 次いでに、蒸気機関車を見ておきましょう。

(※ 鍋島報效会蔵)

 上の写真は、蒸気機関研究のため、佐賀藩精煉方が、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形です。2気筒の蒸気シリンダーがありますが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うために、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと考えられています(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199422)。

 その2年前の嘉永6年(1853)に、精錬方の田中久重、中村奇輔、石黒寛二らが、外国の文献を頼りに製作した、軌間130 mmの蒸気機関車や、蒸気船の雛型(模型)があります(※ Wikipedia)。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Model_steam_locomotive_by_Tanaka_Hisashige_and_others.jpg

 この模型は、外国語の文献だけで、田中久重らが作り上げたものです。

 先ほど、ご紹介した1855年の雛形と見比べてみると、構造自体に大きな変化はないように見えます。この模型を手掛かりに、1855年の模型が製作されたことがわかります。構造体をほぼそのままに、細部を調整し、実用化段階の材料を使って作られたのが、1855年の模型だといえるでしょう。

 機関車部分、レールなどは鋼鉄で作られており、とても精緻な構造物です。

 イギリスで最初に蒸気機関車が作られたのが1804年、紆余曲折を経て、実際に営業運転できるようになったのが、1825年でした。総延長40キロの走行ができるようになったのです。1840年代には急速に鉄道が発展し、主要都市間を結ぶ鉄道網が敷かれといいます。

 そういえば、ダゲレオタイプの写真術が公開されたのが1839年です。以後、肖像写真に始まり、風景写真、報道写真、証明写真など、さまざま用途で写真が使われるようになっていきます。

 西洋の科学技術は、機械的反復性をテコに、急速に社会を変貌させていきました。

 1855年の雛形を見ると、鋼鉄を使い、精密な仕様で製作されています。蒸気機関だからこそ、とくに頑丈で高精度のものでなければならなかったのでしょう。西洋の科学技術を習得するには、そのメカニズムを把握するだけではなく、機械的な正確さが不可欠だったことがわかります。

 先ほどもいいましたが、川崎道民が使ったカメラには、何度も使用された形跡がありました。精錬方で使用されていたのではないかと考えられています。このことからは、佐賀藩の科学技術研究所では、西洋の文献以外に、写真術を使って西洋の科学技術の解明を図っていた可能性も考えられます。

 こうしてみてくると、西洋の科学技術の導入に積極的だった薩摩藩と佐賀藩が、最初に写真術を導入したのは、おそらく、写真ならではの正確な再現性、複製性が、西洋の科学技術の導入に不可欠だったからではないかと考えられます。

 さて、幕末日本でいち早く写真術を導入したのが、薩摩藩と佐賀藩でした。この両藩にはいくつか共通性が見受けられます。

 いずれも藩主が有能でした。藩を取り巻く国内情勢、海外情勢を的確に把握し、将来動向を見据えた上で、積極的な藩政改革を行っていました。幕末の動乱期に、右往左往するのではなく、確固たる信念をもって、藩を采配していたのです。

 その中心にあるものは、西洋技術の導入でした。

 西洋の科学技術を導入するために、両藩とも有為の人材を積極的に登用しました。そして、藩内の教育を向上させ、充実させる一方、江戸や長崎に遊学させたり、海外渡航の機会を与えたりしていました。

 欧米列強に立ち向かうには、まずは、西洋の科学技術を理解し、実用化し、実践できる人材の育成が肝要だったからでした(2024/2/29 香取淳子)

百武兼行⑧:幕末・維新の佐賀藩を見る

 百武は佐賀藩の藩士の子どもとして生まれ、8歳の時、後に第11代、最後の藩主となる鍋島直大の「お相手役」に選ばれました。以来、生涯にわたって、その枠の中で生きてきました。

 そこで、今回は佐賀藩とはどういう藩だったのか。彼を直大のお相手役に選んだ藩主・鍋島直正はどのような人だったのかを見ていくことにしたいと思います。

■湿板写真に収まった佐賀藩主の鍋島直正

 1859年に撮影された第10代佐賀藩主の鍋島直正の写真があります。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nabeshima_Naomasa.jpg

 第10代藩主鍋島直正を撮影した肖像写真です。アメリカ製のケースに「御年四十六/安政六年己未年十一月於江戸/溜池邸/藩醫川崎道民拝寫」と書かれた紙が貼付されています。撮影日時、場所、撮影者が記録されていたのです。

 佐賀藩医の川崎道民(1831-1881)が、江戸溜池の中屋敷で、安政6年(1859)に撮影した湿板写真でした。

 湿板写真とは、1851年にイギリス人のフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer , 1813-1857)が発明した写真技術です。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガティブ像を得るタイプのもので、ガラス湿板そのものがネガであり、プリントでもありました。

 最初の写真技術であるダゲレオタイプに比べ、感度が高く、露光時間が5秒から15秒と短い上に、ダゲレオタイプと遜色のない画質でした。しかも、ダゲレオタイプよりもはるかに安価だったので、短期間でダゲレオタイプやカロタイプの写真を凌駕してしまいました(※ Wikipedia)。

 アングロタイプの写真技術がイギリスで発明されたのが1851年でした。それから、わずか8年後に、はるか遠く離れた極東の江戸で、湿板写真が撮影されていたのです。

 なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか。

 そもそも、写真を撮影するには、撮影機材や感光紙、撮影のための備品がなければならず、撮影技術者が必要でした。写真についての知識と技術、太陽光や露光に関する知識がなければ、撮影はできませんでした。

 仮に撮影機材一式を入手できたとしても、それを操作できる人がいなければ、写真を撮影することはできなかったのです。

 それでは、なぜ、川崎道民は鎖国していた日本で住んでいながら、鍋島直正を写真撮影することができたのでしょうか。

 おそらく、川崎道民が佐賀藩の医師であり、鍋島直正が佐賀藩主だったからでしょう。

■幕府直轄地、長崎に隣接する佐賀藩

 佐賀藩は、幕府直轄地の長崎に隣接するだけではなく、福岡藩とともに、長崎を隔年で警備していました。対外情報や製品、技術の入手という点で、他藩に比べ、圧倒的に有利な立場にいたのです。

 鎖国時代の貿易相手国は、中国とオランダに限られていました。とはいえ、長崎が唯一の対外窓口だったので、外国からの技術や製品、情報は、中国やオランダを経由して、まず長崎に入って来たのです。

 平戸にあったオランダ商館が、出島に移設されたのが1641年、以来、1859年までの218年間、対外貿易は、もっぱら長崎の出島を通して行われていました。

 たとえば、長崎の御用商人、上野俊之丞は、嘉永元年(1848)にダゲレオタイプを初めて輸入しています。これを薩摩藩が入手し、初めて日本人がダゲレオタイプの写真を撮影したのが、1857年です。撮影者は薩摩藩の市来四郎で、被写体は薩摩藩主、島津斉彬でした。

 ここに、長崎に海外からの技術や情報や製品が入って来て、そこから、各地に拡散していくというものの流れを見ることができます。ものの流れは情報の流れであり、技術、知識、人の流れでもありました。

 さて、佐賀藩の川崎道民が、鍋島直正を撮影したのが、湿板写真でした。

 当時の湿板カメラが保存されており、その構成、形状等から、いくつかの事が推察されています。

 木製鏡筒のレンズや内部の釘の形状などから、残されたカメラは、初期の国産の湿板カメラだと推測されています。Ⅹ線写真によると、前に一枚、後ろに二枚のレンズが確認されており、初期の国産カメラとしては最も多いレンズで構成されていることもわかっています。

 さらに、カメラ後部は、湿板特有の硝酸銀による汚れが目立ち、かなり使用した形跡が見られることから、佐賀藩の科学研究施設であった精煉方で使用されていた可能性も考えられると推察されています。(※ https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%E6%B9%BF%E6%9D%BF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 )。

 ダゲレオタイプよりも後に発明された湿板写真のカメラが、鍋島家に保存されていました。かなり使い込んだ様子がうかがえること、科学研究のために使われていたこと、等々からは、藩主であった鍋島直正が、積極的に西洋の科学技術を取り入れようとしていたことが示されています。

 当時、長崎は、人、物、情報、技術のハブでした。

 そのハブに隣接しているという特性を活かし、佐賀藩は最先端技術の導入に積極的でした。その一環として写真技術が位置付けられます。

■ポンぺの来日

 コロジオン湿板法(湿板写真)が日本に導入されたのは、安政年間(1854-1860)でした。興味深いことに、ちょうどその頃、長崎に海軍伝習所が開設されました。そして、西洋医学、航海術、化学などを教えるため、オランダから教師団が入って来ていたのです。

 ペリーの来航後、幕府は海防体制を強化するため、西洋式軍艦の輸入を決定しました。それに伴い、海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を設立しました。1855年のことでした。

 1857年にオランダから派遣された第2次教師団の中に、軍医のポンペ・ファン・メーデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829 – 1908)がいました。

 彼はオランダ医学を教える傍ら、日本人伝習生たちに湿板写真を教えていました(※ 高橋則英、「上野彦馬と初期写真家の撮影術」、『古写真研究』第3号、2009年、p.18.)。

 当時の写真が残されています。この写真がいつ撮影されたのかわかりませんが、海外伝習所が閉鎖されたのが1859年ですから、1857年から1859年の間に撮影されたものなのでしょう。

 ポンペは、湿板写真の研究について熱心に取り組んでいたそうです。ポンペに師事し、化学を勉強していた上野彦馬は、彼と共に写真の研究にも励んでいました。感光板に必要な純度の高いアルコールには、ポンペが分けてくれたジュネパ(ジン)を使ったそうです(※ Wikipedia)。

 長崎海軍伝習所の講義時間割りをみると、病理学、解剖学、生理学などのオランダ医学に関する教科はもちろんのこと、化学、採鉱学などの教科も教えられていました(※ Wikipedia)。

 医学以外に、化学や工学なども教科として取り上げられていたのです。

 弘道館で勉強していた川崎道民は、藩主鍋島直正に奨励され、長崎でオランダ医学を3年間、学んでいます(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/credit/)。

 時期を特定できないのですが、海軍伝習所で学んでいたとすれば、湿板写真の研究を進めていたオランダ人軍医のポンぺから、川崎道民もまた、写真術の一切合切を学んでいたのではないかと思われます。

 オランダ人軍医のポンぺは、湿板写真導入のためのキーパーソンでした。

 このケースからもわかるように、長崎には、最先端の製品が海外から持ち込まれるだけではなく、最先端技術を指導するための人員もまた海外から入ってきていたのです。

 学ぼうとする意欲の高い者、好奇心の旺盛な者、最先端技術に敏感な者にとっては刺激の多い場所であり、夢が叶えられる場所でもあったのでしょう。

 それでは、川崎道民の来歴についてみてみることしましょう。

 佐賀藩医松隈甫庵の四男として生まれた川崎道民は、医師川崎道明の養子となりました。鍋島直正の勧めで、長崎でオランダ医学を学び、その後、大槻磐渓の塾で蘭方医学を学んで佐賀藩医となりました。

 幕府が派遣した万延元(1860)年の遣米使節団、そして、文久元(1862)年の遣欧使節団に、川崎道民は御雇医師として参加しました。

■ニューヨークで撮影された川崎道民の肖像写真

 万延元年にアメリカ訪問中に撮影された写真が残されています。

(※ https://www.wikiwand.com/ja/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E9%81%93%E6%B0%91

 当時にしては珍しく、カラー写真です。

 初期のカラー実験では、像を定着させることができず、退色しやすく、使いものになりませんでした。

 ようやく完成した高耐光性のカラー写真は、1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell, 1831 – 1879)によって撮影されたものでした。3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回撮影し、スクリーン上で合成することによって、撮影時の色を再現することに成功したのです(※ Wikipedia)。

 川崎道民のカラー写真は1860年に撮影されています。カラー写真が発明されたのが1861年ですから、それ以前に、この写真は撮影されていたことになります。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 再び、道民のカラー写真を見てみると、色合いがやや不自然です。色の粒子が荒いので、絵画のように見えます。一見して、色彩が用紙に緊密に定着していないことがわかります。

 ひょっとしたら、白黒写真に彩色したものなのかもしれません。実は、白黒写真に彩色することで、カラー写真のように見せることもできました。

 1875年頃に撮影された写真があります。白黒写真を後に彩色したものです。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carandini.jpg

 よく見ると、やはり、色合いが不自然です。色の粒子はそれほど荒くないですが、自然のままの状態を再現したようには見えません。

 こうしてみると、川崎道民のカラー写真もおそらく、白黒写真に彩色をしたものなのでしょう。写真そのものが珍しかった時代に、わざわざカラーの肖像写真を撮っていたところに、川崎道民のチャレンジ精神と進取の気性が感じられます。

 さらに、川崎道民は医師として使節団に参加していたはずなのに、公務の合間に、写真館に入り浸っていたようです。

■ブレッディ写真館で写真術を学ぶ

 ニューヨーク・ヘラルド新聞は、一行がニューヨークに到着してからというもの、出来事を細かに報道しています。そのうち、6月19日号(The New York herald, June 19,1860)に、川崎道民に関する記事が3本、掲載されていました。

 一つ目は、彼が大型書店で、英語の辞書や英文法の本を買ったことを報じたものです。現地で自由に行動したくて、英語の勉強をしていたのでしょうか。それでも、専門的な内容になると、通訳が必要になったようです。

 二つ目は、通訳付きで、ブレッディ(Brady)写真館に出かけ、写真撮影技法のレッスンを受けていたことが報じられています。

 三つ目は、その後、連日のように写真館に出向き、熱心に学んでいることが報道されています。

 ヘラルド紙の記者にしてみれば、川崎道民が通訳を連れて、訪れていた先が写真館だったというのが興味深く、記事にできると思ったのでしょう。医者だということはわかっていただけに、なぜ、写真に夢中になっているのかわからなかったのかもしれません。

 記者は、川崎道民が写真館のブレッディから複数の写真機器をもらうことになるだろうと書き、呑み込みが早いので、帰国するまでにはエキスパートになるだろうとまで記しています(※ 三好彰、「アメリカ人が見た川崎道民」、『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第13号、2018年、pp.102-103.)

 6月21日号のヘラルド新聞にも川崎道民は取り上げられていました。

 この日もあの医師がブレッディ写真館で講習を受けていたと記し、傍らでその様子をみていた通訳と会話を交わしながら、写真の撮り方を学んでいたという内容でした(※ 前掲。P.103.)。

 地元記者から呆れられるほど、写真に夢中になっていた川崎道民は、幕府から派遣された3人の医師のうちの1人でした。他の医師とは違って、通訳を伴って現地の書店に出かけて本を買ったり、写真館で撮影技法を学んだり、骨相学の店や新聞社、さらにはキリスト教の教会にも出かけていました。好奇心が旺盛で、知識欲に溢れていたのでしょう、積極的に現地を探訪し、情報収集していたことがわかります。

■随行医師として

 使節団に参加していた医師は、御典医の宮崎立元正義(34歳)、御番外科医師の村山伯元淳(32歳)、そして、御雇医師の川崎道民(30歳)でした。宮崎と村山は上位の使節メンバーを診る医師で、川崎はそれ以外のメンバーを担当する医師として派遣されていたようです(※ Wikipedia)。

 3人は日本の医師団として、現地記者から注目されていたようです。

 ワシントンに到着したばかりの彼らについて、5月14日付けのイブニング・スター新聞(Evening star (Washington DC. May 14, 1860)は、速報を流しています。医師について書かれた部分を抜き書きすると、次のように書かれていました。

 「3人の医師は物静かだが、他の随員に比べて知的ではなく、探求心に欠ける。(中略)医学者と交流すれば、帰国後大いに役立つはずだが、見る限りでは期待できない」(※ 三好彰、前掲。p.96.)

 後になって判明したのですが、当初、記者が日本の医師たちを知的ではないと思ったのは、「坊主頭」だったからです。

 ところが、3人の日本人医師が、アメリカの医師団との会合で、専門的なやり取りをする様子を見聞きした結果、記者たちは最初の印象を多少、改めたようでした。

 とはいえ、オランダ医学しか学んでいない日本の医師たちを見て、現地の医師は頼りないと思ったようです。医学専門誌に次のような記事が掲載されていました。

 「日本の医者はいかがわしい。使節団を日本に送り届けるナイアガラ号にはアメリカの外科医が3人乗っているので安心だ」と書かれたりしています。(※ American Medical Gazette, August 1860, p.616.)

 現地報道を見ていると、アメリカ側は、川崎道民ら3人の日本の医師と、アメリカの医師たちが対話できる場を何度か設けていたことがわかります。科学的知識を持つ専門家同士なら、スムーズに医療情報を交換しあえると考えたのでしょう。ところが、アメリカの医師たちの質問に受け答えできていたのはもっぱら川崎道民だったといいます。

 6月2日付のサンベリー・アメリカ新聞(Sunbury American, June 02.1860)は、3人の医師の対応について、次のように記しています。

 「ホルストン教授がアメリカ医学のことを話した時に、第三の医師(川崎道民)がノートを取った。(中略)これまでアメリカは日本の医学を誤解していた。アメリカも日本も科学が進歩しているので、その内にどんな病気も直せるようになるだろう」(※ 前掲。p.98.)

 どうやら川崎道民は、メモを取りながら、聞いていたようです。多少は英語を聞き取れたからなのか、それとも、正確を期すためなのか、わかりませんが、このような態度が現地記者には好感を持たれたような気がします。

 長崎でオランダ医学を学び、西洋医学を把握していると自負していたからこそ、彼は、臆することなく、アメリカで専門家同士の対話に応じることができていたのかもしれません。

 海外に出てもしっかりと自己表現することができ、現地から様々なことを学ぼうとする姿勢が評価されたのでしょうか、幕府は再び、川崎道民を、随行医師として欧州に派遣することを選びました。

 今度は、文久元(1862)年の遣欧使節の随行医師として、川崎道民は参加することになりました。

 出発前に鍋島直正に拝謁した際、彼は、直正から情報収集の特命を帯びたといいます。(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/

 直正が、川崎道民の語学力、コミュニケーション能力、機敏性、判断力、探求心などを信じていたからにほかなりません。彼なら、訪れた先々で、さまざまな情報を収集してくるに違いないと踏んでいたのでしょう。

 この一件からは、鍋島直正が、激動の時代に何をすべきかを考え、そのための検討材料として、欧米の社会情報、技術情報を把握しようとしていたことがわかります。

 さて、鍋島直正を撮影したこの写真は、日本人が撮影した写真としては2番目に古く、現在、(財)鍋島報效会 徴古館に所蔵されています。

 最も古いのは、島津斉彬を写したダゲレオタイプ(銀板写真)の写真です。

■銀板写真(ダゲレオタイプ)で撮影された島津斉彬

 島津斉彬の肖像写真は、安政4年(1857)9月17日に鹿児島城内で、薩摩藩士の市来四郎によって撮影されました。

(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559

 画質が荒く、像が鮮明ではありませんが、日本人がはじめて撮影に成功した写真として、貴重なものです。

 銀板写真(ダゲレオタイプ)は、フランス人ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre, 1787 – 1851)が、1839年8月19日にフランス学士院で発表した世界初の写真撮影法です。湿板写真技法が確立するまでの間、1850年代に最も普及していた技法でした。

 銀メッキを施した銅板に、沃素または臭素を蒸着させて感光材とし、写真機に装着して、撮影します。その後、水銀蒸気にさらすと感光した部分が黒く変化し、陽画が現れるので、洗浄して感光材を除去し、画像を定着させるという技法です。

 露光時間が長く、画像が左右反転像になること、複製ができず、1回の撮影で得られる画像は1枚に限られていることなどの欠点があります(※ https://www.bunka.go.jp/kindai/bijutsu/trends_01/index.html)。

 興味深いのは、市来四郎が『斉彬公御言行録』の中で、撮影した日の様子について、「十七日、天気晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉写」と回想していたことです(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 市来は、「天気晴朗」と書き出し、午前から撮影を始めたと記しているのです。天気が良かったので、この日、午前中に撮影を開始したのでしょう。

 ダゲレオタイプでは、露光に時間がかかるので、早くから撮影を始めたのだと思います。ダゲレオタイプは感度が低く、レンズの開放値も低かったので、露光時間が日中屋外でも10-20分もかかっていました。

 ところが、アメリカでは、ダゲレオタイプで撮影した家族の肖像写真が数多く残されています。後に写真湿板が発明され、ヨーロッパでは、ダゲレオタイプが駆逐されてしまった後でも、アメリカでは、しばらくダゲレオタイプによる肖像写真が好まれていたのです(※ Wikipedia)。

 実は、ヨーロッパでも肖像画を好む人は、ダゲレオタイプの肖像写真を好む傾向がありました。ダゲレオタイプの写真は、機械的な再現性が徹底されておらず、緻密さが欠けるだけに、絵画に近い感触を味わうことができるからでした。

 さて、写真術に関する情報は、ヨーロッパで発明されてから10年ほどで日本に伝わっていました。少数ながら撮影機材も長崎経由で輸入されており、佐賀藩や薩摩藩などの大名や蘭学者たちが研究を行っていました。

■写真研究の先駆者たちに見る佐賀、薩摩の先進性

 薩摩藩の島津斉彬は、西洋の科学技術研究の一環として、嘉永2年(1849)ころから写真術の研究を進めていました。市来四郎(1829-1903)、松木弘安(後の寺島宗則、1832-1893)、川本幸民(1810-1891)らが研究にあたっていたといいます。斉彬も自ら実験に手を染めていたそうですが、成功しませんでした。

 松木、川本はいずれも長崎や江戸で医学や蘭学を学んでおり、オランダ語の文献を読むことはできました。さらに、薩摩藩は長崎経由で写真機や薬品など入手することもできました。ところが、独学に近い状態では、西洋の技術を日本人の手で移入することは難しかったのです。

 中断していた写真術の研究は、斉彬の藩主としての地位が確立してから、あらためて、再開されました。ようやく写真として成功したのが、1857年に撮影されたダゲレオタイプの肖像写真でした(※ https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213559)。

 一連の経緯を知ると、西洋の最新技術は、現地で直接、指導を受けなければ、容易に獲得できるものではなかったことがわかります。

 さて、現地の写真館に通い詰めて写真技術を身につけた川崎道民は、その後、遣欧使節団の随行医師として渡航しています。偶然なのでしょうが、その使節団の一員に、写真術を研究していた薩摩藩の松木弘安(寺島宗則)が通訳兼医師として参加していました。

 川崎道民が31歳、松木弘安(寺島宗則)が35歳でした。いずれも医学を学び、蘭学を学んでいました。そして、写真という興味の対象も共有していました。

 川崎と松木は、視察のためオランダを訪問した際、写真館に立ち寄って、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真を撮影していました。彼ら以外に、森山栄之助の肖像写真も残されていました。やはり、9.7×6.4㎝の名刺型肖像写真です(※『肖像―紙形と古写真―』、東京大学資料編纂所、2007年6月)。

 森山栄之助(1820-1871)は、蘭語、英語の通訳として後日、遣欧使節団に加わった人物です。オランダで撮影された名刺型肖像写真は、この3人以外のものは残されていませんでした。おそらく、彼らはオランダで別行動をして、写真館を訪れ、名刺型の肖像写真を撮影してもらったのでしょう。写真へのこだわりと技術の進化に対する関心が見受けられます。

 江戸幕府が派遣した文久の遣欧使節は、川崎道民と松木弘安との出会いを生みました。

 彼らがオランダで撮った写真は名刺型のものでした。写真の進化形といっていいでしょう。写真術の新しい利用方法が示されたといえます。

 写真は複製することができ、さまざまな大きさのものにアウトプットすることができ、さらには、記録装置として抜群の機能を発揮することもできます。近代科学をさらに発展させる要素を彼らは写真の中に見ていたのでしょうか。

 藩主が主導して、早くから写真術に関心を持ち、研究を進めてきた薩摩藩や佐賀藩の有志は、写真術が科学の発展に重要な影響を与えると予感していたに違いありません。

 百武が生きた佐賀藩には、進取の気性に富み、チャレンジ精神、好奇心の旺盛なことを奨励する雰囲気があったのではないかという気がしています。(2024/1/31 香取淳子)