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映画

「グレーテスト・ショーマン」:人類祝祭への賛歌

■「グレーテスト・ショーマン」
 2018年3月20日、少し時間の余裕ができたので、たまには映画でも観ようかと思い、上映作品の中から選んだのが、「グレーテスト・ショーマン」でした。なんの予備知識もなく観たのですが、久々に身も心も弾むのを感じました。

こちら →http://www.foxmovies-jp.com/greatest-showman/#/boards/showman

 上記映像の「予告D」では主な登場人物、ストーリー展開の重要な場面、パフォーマンス、音楽などが端的に紹介されています。

「グレーテスト・ショーマン」(The Greatest Showman)は、19世紀に活躍した興行師P・T・バーナムの半生を描いたミュージカル映画です。貧しく生まれ育った少年がお金持ちの令嬢と結婚して家庭を築き、紆余曲折を経て、やがて夢を実現させていく、というお定まりの成功譚です。

 ストーリー自体はハリウッドの定石を踏んでいますが、テンポの速い画面展開、リズミカルな画面構成、躍動感あふれるダンス、魂を揺さぶる音楽、そして、なにより、セリフの素晴らしさに酔いしれてしまったのです。

 ミュージカル映画だったからでしょうか、劇中、流れていた楽曲のリズムとサウンドが全身に沁みついてしまい、見終えてしばらくは軽い興奮状態でした。私はいつも映画が終わるとすぐ会場を出てしまうのですが、今回はエンドロールが終わり、場内が明るくなるまで映画の余韻に浸っていました。すぐには立ち去りがたい気分になっていたのです。

■興行師バーナム
 主人公バーナムは実在した人物ですが、ショービジネスに手を染めるまでの経緯は、現代社会に生きる観客が違和感なくストーリーに入り込めるよう、アレンジされています。

 勤務していた会社を解雇されてから、着手した事業が失敗し、次にバーナムが始めたのは、フリークショーでした。これは、大男、髭の濃い女性、全身入れ墨の男性、小人など、それまで世間から隠れるようにして生きていたヒトたちを舞台に登場させ、そのパフォーマンスを見せるショーです。

 バーナムとそのメンバーたちがそれぞれ、ポーズを決めて写真に収まっています。

こちら →
(https://www.eigaongaku.info/265.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 フリークショーは、19世紀から20世紀初頭にかけて盛況を呈したショービジネスです。娯楽の少ない時代の庶民の娯楽でした。バーナムもおそらく、その波に乗って興行師として成功を収めたのでしょう。

 フリークショーを興すことによって、興行主バーナムは、それまでひっそりと隠れて生きていたメンバーたちを次々と、表舞台に引き上げていきます。そして、「みんな違うから、輝くんだ」といって怖気づく彼らを鼓舞し、自信と勇気を引き出していきます。

 一方、不承不承、ショーの一員になることを引き受けたメンバーたちも、ありのままの自分をさらけ出すことによって収入を得、自分の居場所を得られることがわかってくると、自ずと自信が生まれ、堂々と生きていけるようになります。これは、「光を与えてくれた」という言葉に集約されています。

 さきほどの映像で端的に紹介されていましたが、バーナムのセリフ「みんな違うから、輝くんだ」、そして、メンバーのセリフ「光を与えてくれた」に、私はなによりも強く印象づけられました。

 バーナムにとっては収益を上げるショービジネスでしかなかったのかもしれませんが、メンバーにとってはかけがえのない居場所であり、心の拠り所にもなっていたのです。そのようなプロセスを示すセリフとパフォーマンス、音楽とが見事にマッチし、ストーリーの展開にともない、心身ともに引き込まれていきます。

 いつになく感動し、途中、涙を流したりもしました。ヒトの存在自体が放つ哀しさ、切なさ、侘しさに限りなく愛おしさを覚えてしまったのです。リズミカルな音楽とパフォーマンスがその気持ちに拍車をかけます。

 劇中、最も惹きつけられたのが、「This is Me」という曲でした。

■「This is Me」
 おそらく、誰もが同じ思いだったのでしょう、この曲は、第75回ゴールデングローブ賞で主題歌賞を受賞し、第90回アカデミー賞の主題歌賞にもノミネートされました。

 2018年2月21日、映画では髭女のレディ・ルッツを演じた女優キアラ・セトルがこの曲を歌う映像がyou tubeにアップされました。貴重な映像です。ご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=lWtOVl5Cv00

 この映像は、マイケル・グレイシー監督とキアラがトークするシーンから始まっています。当初、マイクの前に決して出ようとしなかったキアラに、マイケル監督は、「堂々とありのままでいようと歌っているんだから」と強く後押ししたようです。それでようやく、キアラは皆の前で美声を披露するようになったということが明かされています。

 「隠れてろ、お前など見たくない」、「消えろ、誰もお前など愛さない」というセリフに続いて、「でも、心の誇りは失わない」、「居場所はきっとあるはず」というセリフ。さらに、「言葉の刃で傷つけるなら」に続いて、「洪水を起こして溺れさせる」というセリフ。そして、「勇気がある、傷もある、ありのままでいる」に続いて、「これが私」(「This is Me」)というセリフでいったん、終わります。

 たとえ逆境にあっても、誇りは失わず、ありのままでいるのが「私」だと、繰り返し確認する姿勢が表現されています。まさに、「This is Me」なのです。

 キーフレーズ「This is Me」はその後、なんども繰り返され、次第に情感が高められていきます。「見られても怖くない、謝る必要もない」、「心に弾を受け続けた」、「でも、撃ち返す」、「恥も跳ね返す」というふうに、使われるフレーズも次第に強くなっていきます。そのたびに声のトーンがあがり、ボリュームもあがっていきます。

 そのようなクレッシェンド効果が最高になったとき、「私たちは戦士」、「戦うために姿を変えた」というフレーズに移り、彼らの状況認識が変わっていったことが示されます。もちろん、そうはいっても、「心の誇りは失わず」、「居場所はあるはず」というフレーズは組み込まれています。彼らを心理的に支えるフレーズを通して、‘待ち’の姿勢が示されており、「輝く私たちのために」という希望が、彼らを支える拠り所になっていることが強調されます。

 一連のフレーズを通して、彼らがバーナムのショービジネスに参加することによって、肯定的に自分を捉えられるように変化していったことを把握することができます。

■危機を跳ね返すバーナムのアイデア
 興行師とパフォーマーたちが一体化したこのショービジネスは、各地で喝采を浴びました。バーナムはようやく、子どものころから夢に見続けた成功を手にします。ところが、富を手にし、有名にはなりましたが、所詮、成り上がり者でしかありません。バーナムが成功するにともない、非難の目を向ける人々も増えていきます。それは、地域の近隣住民であり、社交界であり、劇場評論家でした。彼らは成り上がり者のバーナムや家族を非難し、排除しようとします。

 そのような動きは、子どもたちのコミュニティでも例外ではありませんでした。バレーを習っているバーナムの娘はのけ者にされ、バレーを辞めたいと言い出す始末です。興行主としてビジネスの成功を追い続けていたバーナムに試練が訪れます。

 アイデアマンのバーナムは、彼なりの方法でこの危機を切り抜けます。

 成り上がりに必要なものは権威付けです。パートナーの伝手で、女王との面会を果たし、メンバーとともに出席したその席で、バーナムは著名なオペラ歌手と出会います。もちろん、彼はこの機会を逃しません。機を見て、彼女との公演の約束を取り付けてしまいます。

 そして、上流階級を対象にした公演もまた、大成功を収めます。

こちら →
(http://www.imdb.com/title/tt1485796/mediaviewer/rm2318162944より。図をクリックすると、拡大します)

 清楚で美しく、限りなく上品なオペラ歌手ジェニー・リンドは、気難しい上流階級の人々はもちろん、バーナムを非難し続けてきた劇場評論家さえ虜にしてしまいます。

 またしても、バーナムは危機を乗り越え、いよいよ成功の頂点に上りつめていきます。支えてきたのは、有能なパートナーのフィリップ・カーライルであり、努力の積み重ねで、圧巻のパフォーマンスを披露するメンバーたちでした。

■パフォーマンス、そして、芸と舞台技術
 それでは、メンバーたちのパフォーマンスを見てみることにしましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=abo9ULUk0ok

 「This is Me」の場合、どのように振り付けられ、パフォーマーたちによってダイナミックに演じられていったのか、上記の映像を見るとよくわかります。迫力あるシーンは、最先端の振付師によって効果的に振り付けられ、「This is Me」のフレーズが印象に残るように工夫されていたのです。

 もちろん、メンバーの芸や舞台技術もすばらしいものでした。たとえば、次のようなシーンがあります。

こちら →
(https://www.bustle.com/p/is-the-greatest-showman-a-broadway-musical-the-movie-takes-cues-from-both-stage-screen-7670795より。図をクリックすると、拡大します)

 これは、事業パートナーのフィリップ・カーライルとメンバーのアニーとの出会いのシーンです。アニーが空中から舞い降りてきて、カーライルの心を射止める情景が、幻想的に美しく表現されています。まるで妖精のようなアニーが、空中で浮かんだままポーズを取るための身体機能、舞台技術、それを華麗に見せるための照明技術、そして、優雅な雰囲気を保ったままポーズを維持するための芸、それぞれがマッチしているからこそ、このシーンが見事に輝いて見えるのです。

■作品評価
 私はこの作品を素晴らしいと思いましたが、どうやら米国の批評家たちの評価は違っていたようです。『VULTURE』(2018年2月13日)によると、『Rotten Tomatoes』では、批評家レビュー203のうち、55%が支持し、45%が不支持だったそうで、平均評価は10点中6点でした。また、『Metacritic』では、批評家レビュー43の平均点は100点中、48点でした。

 批評家からの評価が低く、興行一週間の成績が悪ければ、その後、興行的に成功しようがありません。

こちら →
http://www.vulture.com/2018/02/the-sneaky-slow-burn-success-of-the-greatest-showman.html

 上記にまとめられているように、当初、批評家からの評価が低く、公開後3日間の収益はわずか800万ドルだったそうです。ところが、実際に映画を見た観客の評価がよく、SNSや口コミで広がった結果、公開2週目の週末には1550万ドル、3週目の週末は1380万ドルと上昇しました。

 そこで、Box Office MOJOを見てみると、2018年3月19日時点のデータで、米国内の興行収入は169,836,171ドル、海外収入は229,414,675ドルで、総計399,250,846ドルでした。米国内が42.5%、海外が57.5%という構成比です。製作費が8400万ドルですから、この時点で製作費の4倍以上の収益をあげていることになります。

 19世紀の、それほど著名でもない米興行師を取り上げた伝記ミュージカル作品としては、上出来の数字ではないかと私は思います。21世紀の観客に見てもらうために、製作陣がどれほどの努力を傾けたのか、考えてみるのも一興でしょう。

 まず、批評家の評価が芳しくなかったということ、これは公開第一週の興行収入に大きく影響しますし、その後の展開をも左右します。ですから、批評家の評価を高くするのが、製作陣営の戦略のはずですが、それが機能しなかったということになります。

 たしかに、扱っている人物が19世紀のあまり名の知られていない興行師ですし、ストーリーもハリウッドでは当たり前の成功譚です。しかも、結末があまりパっとしません。

 終盤にかけてのバーナムは、火事で劇場が焼失し、財政困難に陥ります。どうなることかとハラハラさせられますが、事業パートナーのカーライルの支援で劇団そのものは再建させることができました。興行も野外にテントを張って再開することができ、大成功を収めました。いってみれば、クライマックスです。

 その後、バーナムはショービジネスをパートナーのカーライルに譲り、自分は家族の元に戻るという展開です。それまでに妻が実家に帰ってしまうという伏線が敷かれていたとはいえ、この結末は事業欲の塊のようだったバーナムの姿とはマッチしません。

こちら →
(http://www.brandiconimage.com/2018/01/golden-globes-2018-full-list-of-winners.htmlより)

 人物像として一貫性に欠け、安易な結末に走ってしまっています。そんなところが、批評家から辛く評価された原因なのかもしれません。あるいは、ストーリーがハリウッドの定石通りで、新鮮味がなく、訴求ポイントが見当たらなかったところが原因だったのかもしれません。いずれにせよ、批評家としては持ち上げる材料に欠ける作品だったのでしょう。

 ところが、観客主導で、この作品は次第に評価を得ていきます。

■人類の祝祭、そして、賛歌
 さて、これまで見てきたように、批評家たちはこの作品を肯定的に評価しませんでした。ところが、実際にこの映画を見た観客がSNSや口コミでこの映画の良さを拡散していきます。結果として、ヒットにつながっていくわけですが、なぜ、観客は批評家たちと違って、この映画を肯定的に捉えたのでしょうか。

 それに関連すると思われる興味深い記事を見つけました。この記事によれば、アカデミー賞授賞式でキアラが歌った「This is Me」の圧倒的なパフォーマンスに共演者、ブロードウェイが続々と絶賛コメントを寄せているというのです。

こちら →http://front-row.jp/_ct/17151729

 この曲は第90回アカデミー賞歌曲賞にノミネートされましたが、残念ながら、受賞はしませんでした。それでも、多くのヒトがツィートしたり、SNSから賛辞を送ったりしたといいます。この曲こそ、映画「グレーテスト・ショーマン」を成功に導いたといえるでしょう。それでは、この曲が観客の心をぐいと鷲づかみにした理由は一体、なんだったのでしょうか。

 おそらく、「This is Me」には多様なヒトへの賛歌が込められていたからではないかと思います。興行師バーナムが提供したフリークショーに、観客は人類の祝祭への賛歌を感じたでしょうし、翻って、自分自身への賛歌を感じたからかもしれません。ヒトが、何事も恐れることなく、恥じることなく、誇りを抱いて生きていくことへの賛歌を、この映画に感じられたからではないかと思います。音楽とパフォーマンスが素晴らしく、久々に身も心も弾む映画を見た思いがしました。(2018/3/21 香取淳子)

「レイルウェイ 運命の旅路」:戦争による心の傷を癒すことはできるか?

「レイルウェイ 運命の旅路」:戦争による心の傷を癒すことはできるか?

■レイルウェイ 運命の旅路

3月27日(金)、「レイルウェイ 運命の旅路」の試写を有楽町の角川シネマ有楽町で見ました。日本軍の捕虜になった英国人元兵士の実話に基づく映画だと知って、思わず身構える気持ちになってしまいました。日本軍を扱った典型的な戦争映画のように、捕虜や現地人に残忍な行為を行う日本兵の拷問シーンなど繰り返し見せつけられるのではないかと思ったからです。

ですが、この作品はちょっと違っていました。たしかに、捕虜に対する過酷な扱いや残虐な拷問シーンもたびたび登場するのですが、戦争で負った心の傷はどうすれば治癒できるのかといった点に焦点を当てて物語が構成されています。ですから、残虐なシーンを見ると、今回もまた、いたたまれない気持ちになってしまったのですが、映画を見終えると、なんだかほっとして救われた思いがしたのです。それはおそらく、戦争で心の傷を負ったのは残虐行為の被害者(英国人元通信兵)だけではなく、加害者(日本人元憲兵・通訳)もそうなのだという視点で作品が展開されていたからでしょう。

■泰緬鉄道建設

第2次大戦時、日本軍の捕虜になった英国軍通信兵エリック・ローマクスは泰緬鉄道の建設に駆り出され、残虐非道な扱いを受けた結果、心に大きな傷を負います。その傷はいつまでも癒えず、結婚して幸せを掴んだのも束の間、しばらくすると再び、そのPTSDに苦しみ続けます。一方、加害者であった日本人元憲兵・通訳の永瀬隆もまた自分の犯した罪に苦しみ、戦後、泰緬鉄道のあるタイへの巡礼を続けています。このように戦争は加害者にも被害者にも苦しみしか与えないことをこの作品は原作(実話)に基づいて描き出します。

圧巻だったのは、長年、復讐を望みながらも、主人公(被害者)が実際に加害者に対面すると、復讐では解決にならないこと、心が癒されるわけではないことを悟るシーンでしょう。この作品は戦争によるPTSDを扱っているだけに、全般に重苦しい雰囲気が漂っています。ときには息苦しくなってしまうほどですが、主人公の妻パトリシアを演じたニコール・キッドマンの美しさが画面に華やぎを添えてくれます。二人の出会いのシーンはまるで恋愛映画の始まりのようで、わくわくします。ちょっと紹介しておきましょう。

■出会い

主人公エリック・ローマクスはある日、列車の中で美しい女性パトリシアと相席になります。二人はふとしたことで会話を交わすようになりますが、そこで、エリックは鉄道に絡む博学ぶりを発揮してしまいます。彼が根っからの鉄道愛好家なのだということがこのシーンでさりげなく示されています。子どものように無邪気に勢い込んで話すエリックを見つめるパトリシアの表情が優しく、とても慈悲的でした。これも彼女が元看護婦で夫の心の傷の回復に精魂傾けていく後段の展開を暗示しています。他愛もない会話のシーンですが、エリックやパトリシアの人物像、心の交流が見事に表現されています。やがて二人は結婚に至ります。そして、物語は現在と過去を行き来しながら展開されます。

レイルウェイ 運命の旅路

この映画は4月19日に全国で公開されますので、内容の紹介はこのぐらいにしておきましょう。

■上映後のティーチ・イン

映画の上映後、原作者の妻であるパトリシア・ローマスクさん、監督のジョナサン・テプリツキー氏、プロデューサー・脚本担当のアンディ・パターン氏、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏の4人が司会者を交え、映画について語り合いました。印象深かったのは、パトリシアさんが、長年復讐心を抱いていた夫が実際に加害者のナガセにあったとき、夫の目に映ったナガセが自分と同じように老いさらばえた老人だったと語ったことでした。時がヒトの見かけを変え、ヒトの心に大きく作用することがわかります。

また、この映画の製作動機を聞かれたテプリツキー監督が、原作がもつ人間性に惹かれたからだと答えたことも印象的でした。実際、この作品は見事なまでに人間性に焦点を当てて製作されています。

■戦時における人間性

主人公(被害者)は戦争時の残虐非道な扱いによって心に傷を負い、長い年月をかけてもその傷は癒されませんでした。主人公はついに過去を直視し、向き合うことを決意します。そして、被害の現場で加害者と対面し、当時の苦しみを再体験をすることになります。ところが、被害者は逆の立場になっても当時の加害者と同じ行動をとることはできません。復讐心に満ち溢れていたはずなのに、行為としての復讐を実行できなかったのです。それこそ「人間性」が、被害者が復讐的行為をすることを止めたのでしょう。それを見た当時の加害者は深く反省します。そこにも「人間性」が介在します。

そして、後段で、原作に登場する駒井光男大尉の息子・駒井修氏が登場し、再会時のエピソードを披露しました。パトリシアさんは、彼があまりにもその父親に似ているので夫はショックを受けていたと語ります。

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戦後すでに68年を経ていますが、日本軍がアジア各地で行った蛮行、残虐行為がアジア各地に博物館、記念館として残されております。その種の博物館や記念館を訪れるたびに、いたたまれない気持ちになってしまっていました。この映画を見て、改めて戦争には勝利者はいないのだということを感じさせられます。戦争は被害者はもちろん、加害者にも多大な心の傷を負わせてしまうのです。

■なぜ豪英合作なのか?

映画を視聴し、その後のティーチ・インにも参加したのですが、どうしてもわからなかったことがあります。それは、英国人元通信兵の物語がなぜ、オーストラリア人監督によって製作されたのか、ということでした。コリン・ファース(エリック・ローマクス役)は英国人ですが、ニコール・キッドマン(パトリシア役)はオーストラリア人です。タイトルバックにも Screen Queensland や Screen Australia の文字が入っており、オーストラリアが力を入れていることがわかります。

そこで、調べてみました。その結果、劣悪な環境下で泰緬鉄道の建設に従事させられ、死亡したのは、連合軍捕虜である英国人6648人やオーストラリア人2710人、そして具体的な数は把握されていないのですが、数多くのアジア人だったそうです。約8万人がこの鉄道建設で命を落としたといわれています。

調べてみてようやくわかりました。なぜ、この映画がオーストラリア人監督によって起案されたのか、なぜ豪英合作なのか、なぜ主人公が英国人、サブ主人公がオーストラリア人なのか。ちなみにこの映画の一般公開は、オーストラリアが2013年12月26日、イギリスが2014年1月10日、そして、日本が2014年4月19日です。人間性に焦点を当てて戦争を取り上げたこの作品が、関係国だけではなく、他の多くの国の人々によって鑑賞され、戦争について議論され、語り継がれることを期待します。(2014/03/27 香取淳子)