ヒト、メディア、社会を考える

30日

「鼓の胴の松飾り」が物語るもの

■本丸玄関に掲げられたしめ飾り

 佐賀城本丸歴史館の城門をくぐって中に入ると、まず目に入ってくるのが、本丸御殿の玄関です。

 軒下の天井近くには、大きくて太いしめ飾りが飾られているのが見えます。鼓の胴のような形が印象的です。アップしてみましょう。

 明らかに、普段、見かけない形状のしめ飾りです。調べてみると、これは「鼓胴型」といわれるもので、神社の飾りなどで使われているようです。訪れたのは、12月半ば過ぎでしたから、おそらく、正月飾りなのでしょう。胴の中央部分には、ゆずり葉がたくさん取り付けられ、葉陰にみかんが見え、その下には、紅白の水引を巻き付けた半紙でくるまれた黒いものが見えます。

 変則的な形状だといいながら、添えられているのはいずれも、お正月を祝うための縁起物です。ゆずり葉は、「子孫繁栄」や「世代交代」の象徴として、正月の縁起物に用いられますし、みかんも、「子孫繁栄」の意味を込めて飾られます。 紅白の水引はもちろん、お祝い事の際には必ず使われるものです。

 調べてみると、次のような文書がみつかりました。

こちら → https://saga-museum.jp/sagajou/docs/4e6592467de7748fef647b0cba3cebd3.pdf

 この文書を読んで、いくつかのことがわかりました。まず、このしめ飾りが「鼓の胴の松飾り」と呼ばれていること、そして、この松飾りが「島原の乱」に因むものであること、等々です。

 さらに、この文書の最後には説明書きが添えられており、橙(だいだい)、楪(ゆずりは)、炭(すみ)、南天(なんてん)の意味が書かれていました。

■鼓の胴の松飾り

 文書の後に添えられた説明書きを読んで、気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、私が「みかん」だと思っていたものが、実は、「橙」だったことです。みかんも橙も同じ柑橘類ですが、橙は「だいだい」と発音しますから、「代々栄える」という意味が込められているようで、語呂合わせです。

 見たときは、気づかなかったのですが、このしめ飾りには、南天も添えられていたようです。「なんてん」と発音しますから、「難を転じる」という意味になります。こちらも、語呂合わせで添えられた縁起物です。

 さらに、半紙の先からはみ出していた黒いものの正体がわかりました。「炭」だったのです。説明では、「黒が邪気を払う色とされるからとも、読みを「住み」に通じさせて永住を祝う意からともいう」と記されています。

 改めて、藁で造られたしめ飾りを見ると、バランスのいい色合わせが印象的です。赤(南天)、黄色(橙)、緑(ゆずりは)、黒(炭)など、色とりどりのものが添えられており、それぞれが、家族の無事と安全、そして、代々の繁栄を願う縁起物でした。

 それにしても、一風変わった正月飾りでした。

 変則的な形状だからこそ、印象深いのかもしれません。新年を迎えたとき、家族の安全と幸せ、子孫の繁栄、恙なく、無事な暮らしを願う人々の気持ちがしっかりと、鼓の中に込められているように思えました。

 興味深いのは、この松飾りが、「島原の乱」に由来する正月飾りだと説明されていることです。それでは、松飾りに纏わるエピソードを辿ってみることにしましょう。

■島原の乱にまつわるエピソード

「島原の乱」とは、寛永十四(1637)年から十五(1638)年にかけて、島原・天草地域でキリシタン農民が蜂起し、原城に立て籠った事件を指します。江戸幕府は西国大名を動員し、鎮圧に赴かせました。隣接地なので、当然のことながら、佐賀藩も参戦しています。

 さきほどご紹介した文書では、次のように記されています。

 「佐賀藩では、3万5千人を島原に送り、鍋島勝茂の三男直澄が大手、長男元茂が搦手の指揮をとりました。勝利のきっかけを作ったのは、佐賀藩の一番乗りの武功でした。

 しかし、そのことが抜け駆けであると逆に軍令違反とされ、同年6月29日、鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになりました」(※ 前掲、URL)

 これが前段の部分です。

 ここでは、①佐賀藩が島原の乱で武功を立てたこと、②それにもかかわらず、謹慎処分をうけたこと、すなわち、一つの出来事に対する二つの矛盾する局面が示されています。

 一つは、攻撃して鎮圧に成功し、幕府に貢献したという局面、すなわち、目的を達成し、効果で測定される局面です。こちらは客観的に判断できる事実です。そして、もう一つは、勝利を導いた過程に対する評価の局面です。こちらは幕府の見解に基づき、判断されました。

 結果として、佐賀藩主の鍋島勝茂は、鎮圧に成功したにもかかわらず、理不尽にも、謹慎処分を受けてしまいます。上記の文章でいえば、「一番乗りの武功」が、「軍令違反」とされ、処分を受けたのです。その処分が六か月におよぶ謹慎処分でした。

 そして、後段の部分では次のように記されています。

 「ところが、年も押し迫った12月29日、突然、この謹慎処分が解けました。質素な正月の準備をしていた佐賀藩江戸上屋敷では、門松などの正月飾りは用意しておらず、困惑してしまいました。そこで、かねてかれ出入りのあった出雲屋庄兵衛に、松などの材料を集めさせ、米俵などのわらを使い、にわかに松飾りを作らせました。その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになりました。この松飾りは大変評判がよく、佐賀藩江戸上屋敷で飾られていました」(※ 前掲、URL)

 ここでは、①年末の十二月二十九日、突然、謹慎処分が解かれたこと、②佐賀藩江戸上屋敷では、正月飾りを準備しておらず、慌てて出入りの業者に作らせたのが、この「鼓の胴の松飾り」だったということ、が語られています。

 幕府から処分を解かれたという側面と、そして、正月飾りを用意していなかったが、なんとか間に合わせたという側面が語られています。危機を乗り越えて得られた安堵感、そして、共に正月を祝うことができた幸福感が浮き彫りにされています。

 この時の、藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々の、安堵感と幸福感を象徴するのが、この「鼓の胴の松飾り」というわけでした。

 このエピソードの前段では、幕府から理不尽にも謹慎処分にされ、佐賀藩主が不遇を受け入れざるをえなかった状況が語られています。そして、後段では、藩主の謹慎処分が解けた年末、佐賀藩江戸上屋敷の人々が、心のこもった松飾りを手配し、無事にお正月を迎えることができたと述べられています。藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々が一体となって、危機を乗り越え、共に正月を祝うことができたというハッピーエンドのエピソードになっているのです。

 もっとも、先ほどの文書に記された説明ではこれだけのことしかわかりません。当時の佐賀藩の人々の気持ちを把握するため、まずは、島原の乱が勃発した経緯から、みていくことにしましょう。

■島原の乱の勃発から幕府の対応

 島原の乱が勃発したのは、寛永十四(1637)年十月二十五日のことでした。キリシタンに対する過酷な弾圧と島原藩による重税がきっかけで、一揆が勃発したのです。この日、島原の代官・林兵左衛門が撲殺されたばかりか、島原各地の代官が次々と襲撃を受け、一揆の規模が広がりました。翌二十六日には島原城が攻撃され、城下町が放火されました。

 一連の暴動を知った熊本藩は、情報収集のために歩御使番(伝令)を島原に派遣しました。(※ 上田哲也、「熊本藩細川家の忍び」、『忍者研究』3号、2020年、p.19)

 一方、佐賀藩主の鍋島勝茂(1580-1657)は、寛永十四(1637)年十月二十六日、江戸でこの島原一揆の報に接しました。佐賀藩が最も早く、一揆の情報を掴んでいたといわれていますが、それは、島原藩から支援を求める書状が届いていたからでした。島原藩から佐賀藩宛ての求援状の日付は、熊本藩宛てのものよりも一日早かったのです。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』、24号、1979年、p.58)

 このように、一揆勃発の直後に、島原藩から隣接藩へ支援を求める書状が届いていたのです。ところが、両藩は、越境して支援に赴くことができませんでした。武家諸法度の規定に縛られ、幕府の命令なしに支援することが禁じられていたからでした。

 書状を受け取った佐賀藩は、豊後府内(大分城)にいた目付(旗本、御家人を監視する幕府の役人)に急報して、指示を仰ぎました。ところが、目付からの注進が幕府に届いたのが十一月九日でした。一揆が勃発してから半月も経っていました。

 情報が遅れたため、幕府の軍事的対応も遅れ、その間に、一揆の勢力は拡大してしまいました。十一月十九日には島原南部一帯を支配したばかりか、唐津領天草でも蜂起し、富岡城を落城寸前にまで追い詰めていました。

 幕府は、上使として板倉重昌(1588-1638)、石谷貞清(1594-1672)を派遣し、隣接で対応する藩として、佐賀と唐津を充てました。ところが、唐津領の天草で一揆が勃発した知らせを受け、幕府は、唐津を久留米藩と柳川藩に変更し、熊本藩を肥後天草の警備に充てました。

 佐賀藩主の鍋島勝茂は、上使板倉重正に随伴して領地に戻ることを幕府に願い出ましたが、許されませんでした。他の九州外様大名と同様、世子(大名の跡継ぎの子)である小城の鍋島元茂(紀伊守、1602-1654)と蓮池の直澄(甲斐守、1616-1669)を下国させ、乱の鎮圧に当たらせることになったのです。(※ 中村質、前掲、p.62)

 上使が久留米に到着したのが十二月三日、それを受けて、久留米、柳川の藩兵が六日に島原に到着し、唐津、熊本藩が九日に天草に上陸しました。ところが、その時、一揆勢はすでに原城に籠っていたのです。

 原城が主戦場になりました。

■原城攻撃

 第一回目の原城攻撃は十二月十日で、この時の籠城者数は二万数千人でした。一般に城攻めの場合、籠城者の数倍から十倍の兵員が必要だとされていました。ところが、幕府側は、島原藩、佐賀藩、久留米藩、柳川藩、上使(幕府)勢を含めても五万有余にすぎませんでした。当然、勝利するはずはなく、続く十二月二十日、そして、寛永十五(1638)年元旦の戦闘でも幕府軍は敗退しました。


(※ https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ieys7.htmより)

 上の図では、城壁の外から攻める幕府軍と、内から抗戦する反乱軍が描かれています。一場面だけを切り取った絵なので、城壁を挟んで、両軍が互角に戦っているように見えますが、城外にいる幕府軍は圧倒的に不利でした。上使の板倉が戦死した寛永元年正月の戦闘では、諸藩を合わせ、死傷者は三千九百人にも及んだといわれています。(※ 中村質、前掲、p.63)

 原城には約三万人が、武器や食料を運びこんで立て籠もり、討伐軍に備えていました。もちろん、その中には女性や子供、高齢者などが含まれていますから、実際に戦えるのは五千人ぐらいでした。

 それでも一揆勢が善戦できたのは、原城が難攻不落の要塞だったからです。原城は島原半島(長崎県)の南端にあり、東と南と北が海で、西側だけが陸につながっている地形に建っていました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Remains_of_Hara_castle_as_seen_from_the_sea.JPG

 上の写真は、海から見た原城の跡です。確かに、三方が海で囲まれており、ぎりぎりまで崖が迫っています。明らかに、攻めるのが極めて難しく、自然の要塞だったことがわかります。

■難攻不落の原城

 この原城は、有馬貴純(生没年不詳)によって、明応五(1496)年に築城されました。肥前の戦国大名だった有馬貴純は、居城であった日野江城を難攻不落の城に強靭化すると、次に高来郡を制圧し、さらに、短期間のうちに藤津、杵島の両郡を併合しました。(※ 松本慎二、「原城」、『西海考古』第3号、2001年7月、p.99)

 実戦を繰り返し、島原半島をほぼ手中に収めたのです。さまざまな戦闘経験を積んでいるだけに、築城に際しては、難攻不落であることを絶対条件にしたのでしょう。先ほどの写真を見ると、この原城が、きわめて攻めにくい地形に建造されていたことがわかります。

 ここを居城にしていたのが、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)でした。

 有馬晴信は、関ヶ原の戦いでは、徳川方についていたため、領地の所有は保証されました。ところが、奪われた領地の回復を求めて贈収賄事件を起こし、そのうえ、貿易権を巡る長崎奉行殺害の企てが発覚したので、甲斐国に流されました。慶長十七(1612)年、幕命によって自害させられました(※ 松本慎二、前掲、p.100)。

 原城の主がいなくなってしまったのです。

 慶長二十(1615)年六月十三日、一国一城令に則って、日野江城と原城は破棄されました。当時、江戸幕府は諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる法令による措置を講じたのです。統制を図るためでした。

 島原の乱が勃発した時、原城はすでに廃城でした。

 一揆をおこした人々は、これ幸いと、廃城になった原城に立て籠もりました。この城は、戦国大名が攻め込まれることを前提に、築城されました。それだけに、攻めるのがきわめて難しく、なかなか陥落しませんでした。

 実際、幕府軍は上使板倉の統括の下、第1回、2回、3回にわたって、原城を攻めました。ところが、陥落させることができないまま、敗退し、3回目の攻撃で戦死しています。

 寛永十五年元旦の戦いでは、とくに激しい乱闘が繰り返されました。上使の板倉重昌が戦死し、目付(幕臣の監察にあたる)や使番(諸大名の監督)も負傷してしまいました。この時、死傷者数は、諸藩あわせて三千九百人にものぼりました。凄惨な死闘が展開されたのです。

 一連の原城攻めの中で、もっとも死傷者が多かったのは、寛永元年のこの戦闘によるものでした。中村質氏がまとめた表によると、島原の乱を鎮圧するための戦闘での死傷者は、佐賀藩の場合3654名で、全体(10937名)の33.4%にも及びました。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』24号、1979年、p.64)

 佐賀藩は大きな犠牲を払って、島原の乱の鎮圧に臨んでいたのです。

■松平信綱、戦法を変えて攻撃

 上使第二陣の松平信綱(1596-1662)と戸田氏鉄(1596-1662)が、島原の陣地に到着したのは、寛永元年正月四日でした。上使板倉が戦死し、幕府軍が最も大きな打撃をこうむった戦闘の三日後です。

 松平信綱と戸田氏鉄が幕府から派遣されたのは、一揆鎮圧後の処理のためでした。幕府としては、島原で勃発した一揆など、容易に鎮圧できると思っていたのでしょう。彼らは板倉が戦死したからではなく、鎮圧できているだろうという想定の下、戦後処理のために派遣されていたのです。

 ところが、江戸からはるばる島原に着いてみると、上使の板倉重昌はその三日前の戦闘で戦死しており、目付の石谷貞清も重傷を負っていました。急遽、板倉に代わって指揮を執ったのが、上司の松平信綱です。幕府軍の総大将として、一揆を鎮圧する責務を負うことになったのです。

 一揆勢の抵抗は、その後も激しく、一月二十八日には副将格の戸田氏鉄が負傷してしまいました。そこで、松平信綱は、戦陣経験のある老将達を集めて、作戦会議を行い、難攻不落の城攻めにふさわしい戦法に切り替えました。すなわち、大量に兵を動員し、仕寄攻めの作戦を取ったのです。「攻城軍十二万七千人」といわれる数をはるかに超える規模であったといいます(※ 中村質、前掲、p.64)。

 ちなみに「仕寄攻め」とは、諸藩陣場から城の塀際まで竹束や板等で防弾の仕寄りを作り上げてから、「城乗り」(城に攻め入ること)にかかる戦法です。工事期間中に、城中の食糧、弾薬等を欠乏させることになるので、兵糧攻めともいえるものでした。

 それでは、「仕寄攻め」とは一体、どういうものなのでしょうか。具体的なイメージを掴むために、ネットで見つけた竹束仕寄りの写真を見てみることにしましょう。


(※ https://livedoor.blogimg.jp/naganoetokino1/imgs/3/0/301cb3af.jpg

 上記の写真は、見るからに、頑丈な建造物です。弾丸や投石から身を守るための盾として使うのですから、これだけたくさんの竹が必要になるのでしょう。あまりにも巨大な竹束には驚いてしまいます。

 まずは塹壕を掘り,このような竹束や大楯を張り巡らせて、敵の矢弾や投石を防ぐ工事をし、防御態勢を整えてから、攻撃に挑むのです。上使の松平信綱は、寛永元年の悲惨な戦闘結果を踏まえ、確実に鎮圧できる戦法に切り替えたのです。

 これだけの工事をしてから戦闘を開始するのですから、実戦に入るまでに時間がかかります。その間、籠城している人々は、城内に食糧や武器の搬入をすることができません。時間はかかりますが、これは、確実に一揆勢を追い詰める戦法でした。

 実際、この戦略に切り替えた結果、一揆勢の兵糧は、二月下旬にはほぼ尽きてしまいました。外堀を固めることによって、強硬な抵抗勢力を徐々に弱体化させ、鎮圧することができたのです。

 二月二十八日、遂に、幕府軍は原城を陥落させることができました。松平信綱が、実戦経験のある老将達と作戦を練り、戦法を兵糧攻めに変更したことが、間接的な勝因でした。

 兵糧攻めは、時間の経過とともに幕府軍に有利に働く戦法でした。ところが、佐賀藩は、功を焦って抜け駆けをしてしまいました。

 鎮圧に至る経緯を振り返ってみることにしましょう。

■鎮圧に至る経緯

 上使・板倉重昌の戦死が幕府に伝えられると、幕府は、直ちに諸藩の藩主に下国し、参戦するよう命じました。命令に従い、佐賀藩主の鍋島勝茂が、島原に着いたのは一月二十九日でした。当時、しばらくは「仕寄攻め」のための工事が続き、戦闘に挑めない状況でした。

 城攻めの布陣が定まったのは、二月二十日ごろでした。

 当初、第一面に、熊本藩、柳川藩、島原藩、久留米藩、佐賀藩、唐津藩、福岡藩の順に横隊を組み、藩の石高に応じて「持場」を定めていました。背後の第二面は、左から、鹿児島藩、上使勢、各地の使者、延岡藩、福山藩の布陣でした。

 佐賀藩は第一面のほぼ中央で、二の丸出口と鳩山出口(絶壁で攻略不能)に面しており、一番の深堀から九番の諫早まで横隊の持場でした。ところが、これでは攻め口が狭くて攻めづらく、後備の兵を置く必要があることから、縦隊四段としました。

 二月二十日付の軍令および塀取仕組図では、島原入りの行軍隊形と基本的に合致する配置が示されていました。ところが、実際の戦闘はそれとは異なった隊形が取られていたのです。

 二月二十一日未明に、福岡、唐津、佐賀、久留米などの諸藩による城兵(城を守る兵士)の夜討ちが行われ、二十七、二十八日には、佐賀藩の抜け駆けに始まる総攻撃が行われました。こうして五か月に亘って籠城していた一揆勢は、完全に鎮圧されたのです(※ 中村質、前掲。p.65)。

 鎮圧に至る経緯をみると、佐賀藩が抜け駆けをし、二日に亘る総攻撃をしかけたおかげで、反乱軍を完全に鎮圧できたことがわかります。ところが、佐賀藩主の鍋島勝茂らは、軍令違反に問われ、出仕を止められました。武功をあげ、鎮圧を成功させたにもかかわらず、幕府からは謹慎処分を受けたのです。

 佐賀藩は、なぜ、謹慎処分を受けなければならなかったのでしょうか?

■厳しい戦後処理

 六月二十九日、藩主・鍋島勝茂は、佐賀藩の軍監(出征時の指揮官)で、先駆けを指揮した長崎奉行の柳原職直(1586-1648)とともに、上使の軍令違反に問われ、幕府への出仕を止められました。軍令に背き、一手先駆けの攻撃を佐賀藩が仕掛けたことに対する処罰でした。半年にわたる謹慎処分を受けています。

 島原の乱の当事者である島原藩は、改易処分(身分剥奪や領地・家屋敷の没収といった重い刑罰)となり、藩主の松倉勝家は後に斬首となりました。領民の生活が成り立たないほど、過酷な年貢の取り立てによって、一揆を招いた責任を問われたのです。大名が切腹ではなく斬首とされたのは、江戸時代ではこの1件だけだったといいます。それだけ厳しい処分がくだされたのです。 

 天草を領有していた領主の寺沢堅高も責任を問われ、領地を没収されています。寺沢堅高は、後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。

 そして、当初の上使で、戦死した板倉重昌の嫡子である板倉重矩は、父の戦死後、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際、勝手に参戦し奮闘したことが軍令違反に問われました。父親が戦死した際の不手際を問われ、鍋島勝茂と同様、同年十二月までの謹慎処分を受けています。

 このように関係者はいずれも、厳罰処分を受けています。

 一方、一揆鎮圧を成し遂げた松平信綱は、その勲功を賞され、寛永十六(1639)年一月五日、三万石加増となって六万石で川越藩に移封されています。島原に派遣された幕府軍の指揮を執って、一揆勢の鎮圧に成功した功労が評価されたのです。褒章として、江戸に近い川越藩に移封されたのは、信綱が幕府にとって必要な人材だったからに違いありません。

■武家諸法度の改正

 松平信綱は寛永十五年、老中首座になり、幕政を統括するようになりました。真っ先に手を付けたのが、武家諸法度の改正でした。島原の乱での経験から、武家諸法度の改正をしなければならないと思っていたことがわかります。

 島原の乱が勃発した際、なぜ、幕府の軍事的対応が遅れたのかを振り返ってみれば、武家諸法度を改正しなければならないと思うのは当然でした。

 振り返ってみましょう。

 キリシタンに対する弾圧と島原藩による重税に耐えかねて、一揆が勃発したのは、十月二十五日でした。十月二十七日には島原藩の家老が、江戸に滞在中の藩主・松倉勝家に急使を派遣しています。その一方で、隣接する熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家にも島原城への救援を依頼しました。(※ 中村質、前掲、p.59)

 ところが、熊本藩も佐賀藩も、寛永十二(1635)年に出された「武家諸法度」に縛られ、救援活動を行えませんでした。

 「武家諸法度」十九条の第四条に、次のような事項があります。

 「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事」(※ Wikipedia)

「江戸や他藩で何が起こっても、在郷のものはそこを守り、幕府からの命令を待つこと」と定められていたのです。島原藩から支援依頼が来ても、熊本藩も佐賀藩も支援活動に向かうことができず、幕府目付の指示を仰ぐことしかできなかったのです。

 「武家諸法度」が制定されていたせいで、隣接藩がすぐに対応することができず、初動が遅れました。一揆の広がりを招いた原因が武家諸法度にあることは明らかでした。

■軍制の確立と正月飾り

 老中になった松平信綱は、早々に武家諸法度を改正しています。一揆が起これば、近隣諸藩が即刻、越境して鎮圧できるように変更したのです。そればかりではありませんでした。再びこのような一揆が起こらないように、キリスト教を普及させたポルトガルとは断交し、オランダとだけ交易できるようにしました。島原の乱を教訓に、松平信綱は幕藩体制を整備し、鎖国体制を完成させたのです。

 さて、軍令違反に問われ、謹慎処分を受けていた鍋島勝茂と板倉重矩は、同年十二月二十九日に処分が解除されました。

 江戸時代、将軍家が諸大名や旗本とともに祝う儀礼の一つに、年始御礼(正月元日~三日)というものがありました。主従関係を強化する意味あいが大きく、最大規模の年中行事でした。それだけに、幕府としては正月前には処分を解除しようと思ったのでしょう。

 一方、佐賀藩江戸上屋敷の人々は、謹慎処分のまま年を越すのだと思っていたところ、暮れも押し迫った十二月二十九日、突如、藩主の謹慎処分が解かれました。どれほど驚いたことでしょう。

 なにより困ったのは、正月準備も質素なものしか用意していなかったことでした。藩主の処分が解除されたのですから、なんとしても正月飾りは用意しなければなりません。窮余の策で、藩屋敷に出入りしていた出雲屋庄兵衛に頼み、松飾りらしいものを作らせました。それが、冒頭にご紹介した「鼓の胴の松飾り」です。

 松や米俵の藁などあり合わせのものを使って、鼓の胴の形に仕上げられたこの正月飾りは、とても評判がよく、以後、この松飾りはずっと佐賀藩江戸上屋敷で飾られてきました。明治以降も、その伝統を引き継ぎ、佐賀県庁や佐賀市役所に飾られてきたといいます。

 これまで見てきたように、「鼓の胴の松飾り」が造られることになったのは、「島原の乱」の戦後処理がきっかけでした。そして、その「島原の乱」の戦後処理は、幕藩体制の整備や鎖国体制の確立と密接に絡んでいました。

 佐賀藩主を謹慎処分にしたことからは、幕府が、武功を立てるよりも、軍規を遵守することを優先したからといえます。つまり、幕府が、島原の乱を契機に、軍制を強化し、平時にも適合する遵法精神を涵養したかったからではないかという気がするのです。

 江戸時代に入って、外国勢力浸透の危険性に気づいた幕府は、鎖国政策を確立することを選びました。その契機となったのが、「島原の乱」です。一揆勢の鎮圧に成功した佐賀藩の藩主を、抜け駆けをしたことを理由に謹慎処分にしたのは、幕府が、社会統制を強化しようとしていたことを示すものにほかなりません。

(2026/1/30 香取淳子)