ヒト、メディア、社会を考える

03月

水墨画が切り拓く世界:人物・動物、そして、抽象

 前回に引き続き、第49回全日本水墨画秀作展で印象に残った作品のうち、「人物・動物」、そして、「抽象」領域の作品をご紹介していくことにしましょう。

■人物・動物
 人物や動物は水墨画の題材として決して意表を突くものではないのですが、その描き方や力点の置き方などがこれまでの水墨画のイメージを大きく覆す作品がいくつかありました。ご紹介しましょう。

・樋口鳳香氏の「みなそこのつき」

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 この作品を見たとき、構図といい、モチーフといい、洋画や日本画で見かける作品だと思いました。ただ、水墨画だからこそ表現できたのではないかと思ったのが、モチーフとしての髪の毛です。そして、この髪の毛こそ、この絵を際立たせる重要な役割を果たしていると思いました。

 一見すると、モチーフの刺激的なポーズの女性に目が向いてしまうのですが、よく見ていると、髪の毛に強く印象付けられていきます。肩といい、足といい、女性の身体をさり気なく覆うように、長い髪の毛が巻き付いています。その巻き付き方が柔らかくしなやかで、しかも、しっとりしているのです。

 まるで生きているかのように、髪の毛の細部に至る微妙なニュアンスを捉えて描かれています。だからこそ、この絵に洋画でも日本画でも見られない独特の風情を与えているのでしょう。水墨画ならではの特質が活かされています。そして、このような髪の毛の描き方が、この絵に妖艶さを添えることになっています。この作品は芸術文化賞を受賞しています。

・八木良訓氏の「JAZZギター」

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 一見、油彩画かと思うほど強いトーンで、ギターを弾く男性が描かれています。うつむき加減に、そして、ひたむきに、ひたすらギターを弾き続ける決して若くはない男。その姿からは孤独感が醸し出されています。

 求道的に何かを追い求めようとすれば、他を寄せ付けない強い意志が必要です。当然のことながら、孤独にならざるをえず、その孤独と引き換えに、極みに達しようとしている求道的な精神性をこの絵から感じてしまうのです。それはおそらく、この絵が水墨画で描かれているからでしょうし、その構図のせいでもあるのでしょう。

 この絵をよく見てみると、ギターやそれを奏でる手は大きく描かれているのに、それに比べ顔は比較的小さく、目を閉じた表情からは感情をうかがい知ることはできません。ですから、見る者の視線はいったん、顔に向けられるのですが、やがて、大きな手やギターに向かっていきます。

 このような構図は、見る者の視線をそのように誘導するためのものではないかという気がするのです。この絵は一見、荒々しく描かれているように見えるのですが、実は緻密に計算して構成された作品だと思いました。この絵は全日本水墨画秀作展準大賞を受賞しています。

・奥山雄渓氏の「羅漢像」

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 水墨画にふさわしい題材だとおもいました。この作品のタイトルは、「羅漢像(語り合い)」です。羅漢とは、仏教でいわれている、尊敬や施しを受けるのにふさわしい聖者なのだそうです。そのような羅漢が二体、正面を向いて向き合っている構図で、描かれています。

 タイトルによれば、この二体は何かを語らっているのでしょう。その表情は穏やかですが暗くも見えます。背後の空は黒い雲で覆われていますから、ひょっとしたら、暗い世相を語らい、そして、平穏を祈っているのかもしれません。

 暗雲垂れこめた空の下、二体の羅漢が向き合っている、そこからは不思議な静謐感が漂ってきます。この作品は長寿功労賞を受賞しています。

・有田美和氏の「エナジー」

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 洋画でも日本画でもふさわしい題材です。それを水墨画ならではの特性を活かし、エネルギッシュに飛び跳ねる馬の様子が端的に捉えられています。この絵を一目見た途端、惹きつけられてしまいました。タイトル通り、強力な「エナジー」が発散されていたのです。

 振り向いた馬の荒々しい顔、大きくなびくたてがみ、隆々と盛り上がった臀部の筋肉、跳ね上がる尻尾、そして、蹴り上げた足元から立ち上る土煙・・・。いずれも、馬の荒々しい動きを表現するのに不可欠の要素です。必要な要素だけに絞り込んでモチーフを描いているからこそ、この強さが表現できているのかもしれません。

 さらに、馬の身体の右部分は画面からはみ出してしまっていますし、足すらその先は描かれていません。このような省略と、足元や尻尾の先に飛び散る土、あるいは土煙、そして、馬が振り向いた先の左部分に余白を設定したあたり、秀逸だと思いました。

 この絵は、省略と余白で見る者に想像を促す水墨画ならではの特質がうまく活かされていると思いました。この作品は、上野の森美術館賞を受賞しています。
 
■抽象
 抽象的な作品をいくつか目にしました。それぞれを見ていくうちに、水墨画と抽象画は意外に類似点があるのかもしれないと思いはじめました。色彩を制限し、墨の濃淡と明暗だけでモチーフを描き、作品世界を構築すること自体、抽象化過程を踏まなければならないからです。

 印象深い作品を紹介していきましょう。

・筒井照子氏の「楽ー17」

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 抽象画はどのように理解すればいいのか、よくわかりません。ただ、会場でこの作品を見たとき、とても印象付けられました。

 「大」の字のように見える黒い大きなものの下に、押さえつけられるようにして、白いチーズケーキのようにも見えるものが存在しています。「大」の字のように見えるものの上には、小さくて白い玉のようなものが散り、白とグレーの得たいの知れない形状のものも散らばっています。そして、「大」の字に見えるものとケーキに見えるものの間には、グレーの帯状のものが挟まっています。

 さまざまな形状のものが白黒濃淡で描き分けられ、配置されています。それぞれに立体感があり、それらの配置の仕方には奥行きが感じられます。全体として一つの世界が築き上げられているように見えるのですが、そこには不思議な調和があります。

 「大」の字に見えるものが画面を覆っており、白黒の濃淡をつけて、描かれていますが、先端部分はそれぞれ、形状が異なっています。よく見ると、この絵の中の、角ばったもの、細長いもの、先端は曲げたり、柔らかいトーンで描かれていることがわかります。そのせいか、全体に快い安定感があるのです。それが見る者に居心地の良さを感じさせるのかもしれません。この作品は、京橋エイジェンシー賞を受賞しています。

・古谷睦美氏の「縁Ⅰ」

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 水墨画らしい作品です。文字のように見えるものを、年輪のように見えるもので、左上方と右下方から挟み、その周辺には適度な余白が設けられています。とても安定した構図です。

 字のように見える黒い図形はすべて曲線で描かれ、黒の濃淡で勢いと流れが表現されています。先が細くなった、ひげのように見える曲線が、跳ねるような動きを見せていますので、自由奔放な活力が感じられます。

 字のように見える図形は強い黒の強弱で描かれているのに対し、左右上下の両端に配置された年輪のように見えるものはグレーで描かれ、しかも、ところどころ、切れたり、薄くなったりしています。その強弱の加減がバランスよく、絵に快い安定感を与えています。上品で美しく、見ていて快くなる作品です。この作品は、西日本新聞社賞を受賞しています。

・中井浩子氏の「遊16」

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 この作品を近くで見たとき、最初はそれほどいいとは思いませんでした。ところが、離れと、気になります。そこで引き返し、近づいて見、また離れて見る、ということを繰り返しました。この作品にはそこから離れがたい、不思議な世界が描出されているのです。

 白黒のうねるような曲線が複雑に絡み、まるで見る者を深い奥底に引きずり込もうとしているかのようです。曲線の周辺には小さな白い玉のようなものが散り、曲線で構成された絵に微妙な揺らぎを与えています。

 この作品で表現された深い奥行きと微妙な揺らぎには、別世界への誘いが感じられます。魅力的な作品です。この作品は特選に選ばれています。

・村川ひろ子氏の「宙」

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 水墨画らしい作品です。安定した構図で、作品全体から柔らかさと優しさが感じられます。

 大きな渦巻状の図形の上に、流れるような数本の線が描かれ、その延長線上にはみ出したような黒い点が上方に伸びる曲線の上に置かれています。そして、この渦巻状の図形とは独立して、黒い中心を持つ円が左下方に描かれています。考え抜かれた構図で美しく、調和がとれています。この作品は、ギャラリー秀作賞を受賞しています。

■水墨画が切り拓く多彩な世界
 今回、はじめてこの展覧会に参加しました。水墨画だけの展覧会はこれがはじめてです。水墨画についてはこれまで風景を墨で描く芸術だという認識しかありませんでした。ところが、今回、この展覧会に参加して、水墨画が切り拓く世界が多様で多彩、しかも、融通無碍、きわめて奥深い表現芸術だということに気づかされました。

 水墨画ではモチーフを表現するための色彩が制限され、空間も制限されています。今回の出品作品はF20号とF30号に限られていました。制限された中で表現活動を行うには、無駄を取り除き、エッセンスに目を向けなければなりません。そこには自ずと抽象化作用が生まれ、作品の精度を高めます。

 人物や動物、抽象の領域の作品は洋画や日本画とも競合します。とはいえ、今回、この水墨画秀作展に参加して、水墨画が切り拓く領域に大きな可能性があると感じました。(2017/3/12 香取淳子)

第49回全日本水墨画秀作展:水墨画が切り拓く多彩な世界(風景、生活シーン)

■第49回全日本水墨画秀作展の開催
 2017年3月8日から19日まで国立新美術館で、全国水墨画美術協会主催の第49回全日本水墨画秀作展が開催されています。

 実は2月にアジア創造美術展で水墨画を目にしてから、少し興味を抱き始めていました。ですから、3月9日、他の展覧会を見に行ったついでに見かけた際、こちらの展覧会にも足を向けてみることにしたのです。水墨画だけを扱った展覧会に行くのは今回が初めてです。

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 上記パンフレットに取り上げられた作品をご覧ください。とても水墨画とは思えないものです。これを見てもわかるように、出品作品の中には私にとって意外な題材が多々見受けられました。素通りできず、思わず立ち止まってしばらく見入ってしまった作品もあります。これまで私が水墨画に対して抱いていた固定観念がすっかり吹き飛ばされてしまったような展覧会でした。

 全国から寄せられた秀作218点のうち、私の印象に残った作品は16点でした。題材別に分けると、「風景」が6点、「生活シーン」が2点、「人物・動物」が4点、「抽象」が4点です。それでは、この分類に沿って、今回は「風景」と「生活シーン」に絞って、作品を簡単にご紹介していくことにしましょう。

 なお、作品を撮影する際、上部に会場の照明が映り込んでしまった作品があります。上部に見える格子のようなものは作品の一部ではないということをご了承いただければと思います。

■風景
 会場をざっと見渡して、風景を扱った作品が多いように思いました。白黒の濃淡でモチーフを表現する水墨画にふさわしい題材だからでしょうか。

・河原紫水氏の「恵水」
 会場に入ってすぐに目についたのが、河原紫水氏の「恵水」でした。

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 私が水墨画に抱いているイメージ通りの作品です。そう思って見ていると、作品全体からさまざまな水の動きが感じれらます。滝から流れ落ちる水の勢い、その周辺に立ち上る水煙、滝つぼから静かに流れていく穏やかな水流、・・・。画面からは水音すら聞こえてきそうです。滝を巡る水の諸相がとても繊細に、卓越した技法でとらえられています。この作品は環境大臣賞を受賞しています。

・林爽望氏の「雪の山里」

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 この作品も私が水墨画に抱いているイメージ通りの作品です。雪に埋もれた山里の風景です。山の麓に位置しているのでしょう、遠景を見ると、さらに深く雪に覆われています。木々は白く、辺り一帯が雪にけぶっています。この村里の一切が、雪に封じ込められているようです。

 木々や家々の屋根には降り積もった雪が厚く、丸みを帯びて描かれています。そのせいか、雪の柔らかさ、ずっしりとした重さ、そして、あらゆる物音を吸収してしまう静けささえ感じられます。

 そんな中、曲がりくねった道をヒトが歩いてきます。その道路には二本の轍があり、そこだけ雪が解けています。ヒトはその轍に沿って歩いているのです。風景とそこで生活するヒトを巧みに捉えた一コマです。この作品は文部科学大臣賞を受賞しています。

・手塚五峰氏の「幽懐」

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 この作品は、水墨画でよく見かけそうで、実はそうでもない、不思議な味わいがあります。風景を題材にしていますが、実はリアルな風景ではなく、作者が表現しようとする世界に必要な要素だけを取り込み、構成しているように見えます。

 「幽懐」というタイトルの意味がよくわかりませんでした。そこでもう一度、絵を眺めてみると、洞窟のような岩肌で囲まれた奥に木々の葉が茂り、さらにその奥から岩を伝って水が流れてきます。奥深く、美しい世界が広がっているようです。まさに、「幽」が表現されていました。そして、「懐」。この題材はおそらく、作者が深く心に秘めている原風景とでもいえるものなのでしょう。この作品は衆議院議長賞を受賞しています。

・大橋祥子氏の「蓮灯籠」

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 この作品は私にはとうてい水墨画には見えませんでした。どちらかといえば洋画、あるいは日本画の趣があります。手前から奥にかけて無数の蓮の葉が浮かび、その合間に蓮の花がところどころに描かれています。蓮池なのでしょうか。この画面構成だけでも迫力があるのに、遠景にはごく薄く、ほとんど判別しにくいほどの濃さでトラックやヒトのようなものが描かれています。
 
 そのせいか、手前や中ほどに描かれている無数の点の集まりが霊魂の表象のようにも見えます。そういえば、この作品のタイトルは「蓮灯籠」でした。見ているうちに、絵の奥に深い世界が広がっていそうで、引き付けられていきました。この作品は優秀賞を受賞しています。

・川北渓柳氏の「巨木の森」

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 題材は風景ですが、この作品は洋画でも日本画でも見かけそうです。とはいえ、作品全体に漂うしっとり感は水墨画でしか表現できないものでしょう。また、巨木の背景はぼかして描かれています。こんなところにも、水墨画の特徴がみられるといえるかもしれません。

 巨木の幹や枝、葉がきめ細かく描かれており、ひっそりとした森のたたずまいが見えてきそうです。さらに、巨木の幹に差し込む光の処理が丁寧で、独特のリアリティがあります。絵全体がしっとりとした感触に包まれており、深い情緒と余韻が感じられます。この作品は、水墨画年鑑賞を受賞しています。

・嶋田安那氏の「異国の黄昏」

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 水墨画でありながら、洋画の印象を受けました。墨の濃淡と明暗、線と面で描かれているので、ジャンルとしては水墨画なのでしょうが、描かれている素材、構成、タッチなど、洋画の雰囲気があります。

 手前右下を濃く黒く、左中を薄く白く描かれているので、黄昏の中で小舟で乗り出す黒い人影が強く印象づけられます。墨の濃淡だけで、色彩豊かなはずの異国の風景を描いているところにこの作品の面白さがあります。さまざまな色彩が感じられるだけでなく、匂いすら感じられる作品でした。この作品は優秀賞を受賞しています。

■生活シーン
 生活シーンを捉えた作品のいくつかに目が引かれました。日常生活の一コマなど、とても水墨画の題材になるとは思えません。それなのに、墨の濃淡だけで巧みに描き、一つの世界を創り出すことに成功しています。目に留まった作品をご紹
介しましょう。

・柯擁雅氏の「遊べや遊べ」

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 会場を入ってすぐ、意表を突かれたのが、この作品です。典型的な水墨画のイメージとはかけ離れています。

 女の子が猫を抱き、途方に暮れています。その足元では別の猫が不安そうに女の子を見上げています。いつでも、どこでも、誰もが見かけそうなシーンです。むしろ洋画か日本画で見かけそうな題材ですし、女の子の表情にはアニメキャラクターを彷彿させる要素もあります。

 モチーフとその描き方が水墨画のイメージとは大幅に異なっているのですが、墨の濃淡と明暗だけで見事に描き切っています。その種の差異によってもたらされた異化作用の結果、この作品に絶妙な存在感がもたらされています。この作品は玉雲賞を受賞しています。

・小川応㐂氏の「休日」

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 デッサン、あるいは、水彩画で見かけそうな題材の作品です。それを敢えて水墨画で表現したところに、この作品のユニークさがあります。

 雨の中を肩を寄せ合い、バスを待つ若い男女の後ろ姿が、ちょっと引いて捉えられています。道路は濡れ、バスもまた濡れています。土砂降りの雨ではなく、かといって小雨というわけでもなさそうな雨の風情が、的確に捉えられています。

 水墨画ならではの筆運びによっているのでしょうか。雨に濡れた面の捉え方が抜群なのです。だからこそ、せっかくの休日なのに・・・、と恨めしく思っているに違いない若い男女の気持ちまでもが見事に表現されているように思えます。水墨画だからこそ、表現することができた生活の一コマです。

 この絵では、「雨」という全体をカバーする要素と「休日」というタイトル、そして、肩を寄せ合いバスを待つ男女というモチーフ、それぞれが相互に深く関連しあっています。ですから、絵全体からしっとりとした風情が漂ってくるのでしょう。見る者に感情移入を誘う作品でした。この作品は内閣総理大臣賞を受賞しています。

■水墨画が切り拓く多彩な世界
 今回、はじめてこの展覧会に参加しました。水墨画だけの展覧会はこれがはじめてです。水墨画についてはこれまで風景を墨で描く芸術だという認識しかありませんでした。ところが、今回、この展覧会に参加して、水墨画が切り拓く世界が多様で多彩、しかも、融通無碍、きわめて奥深い表現芸術だということに気づかされました。

 水墨画ではモチーフを表現するための色彩が制限され、空間も制限されています。今回の出品作品はF20号とF30号に限られていました。制限された中で表現活動を行うには、無駄を取り除き、エッセンスに目を向けなければなりません。そこには自ずと抽象化作用が生まれ、作品の精度を高めます。

 今回、この水墨画秀作展に参加して、水墨画が切り拓く領域に大きな可能性があると感じました。(2017/3/11 香取淳子)

「文研フォーラム2017:米ラジオ・オンデマンド時代の到来か?」から見えてくるもの

■文研フォーラム2017の開催
 2017年3月1日から3日まで、千代田放送会館2Fホールで「文研フォーラム2017」が開催されました。

こちら →https://www.nhk.or.jp/bunken/forum/2017/pdf/bunken_forum_2017.pdf

 時間の都合で、私が参加したのは、3月2日の午前に開催されたセクションB、Cだけでしたが、タイムリーな内容で興味深く、引き込まれて聞いているうちにあっという間に2時間が過ぎてしまいました。

 ここでは、報告内容に関連する資料を渉猟し、それらを読み解きながら、メディア界の今後を考えてみたいと思います。

■米ラジオ・オンデマンド時代の到来か?
 セクションBでは、NHK上級研究員の柴田厚氏が、「米ラジオ・オンデマンド時代の到来か?」と題し30分間、報告されました。好きな時にコンテンツを楽しめる「ポッドキャスト」がいま、アメリカでは注目を集めているそうです。

 ポッドキャストとは、「携帯端末などに音声データファイルを保存して聞く放送番組・配信コンテンツ」で、ダウンロードして聞くことができますから、聞く際、通信環境は不要です。音楽等の著作権が厳しい日本ではまだストリーミングが中心ですが、アメリカではコンテンツをダウンロードして聞くことが増えてきているようです。

 柴田氏によると、ポッドキャストを牽引したのはNPR(National Public Radio)だそうです。このNPRを中心にスピーチを展開されました。

 帰宅してさっそくNPRのサイトを開いてみると、さまざまなニュースが取り上げられていることがわかりますが、上位項目はやはりトランプ大統領でした。

こちら →http://www.npr.org/

■ポットキャストの利用者
 Pew Research Centerの調べによると、ポッドキャスト利用者数は年々、増えており、過去一か月に聞いたことのある人は21%、これまでに聞いたことのある人は36%に上っています。

こちら →http://www.journalism.org/2016/06/15/podcasting-fact-sheet/

 上記の記事に掲載されたグラフを見ると、いずれも利用者数が右肩上がりで増えていることがわかります。このぶんではおそらく、今後もこのような伸び率で利用者数が推移していくのでしょう。

 ネットで関連データを調べてみると、10年前の2006年8月、インターネット利用者のうち12%がポッドキャストを利用していました。同年2-4月期の調査では7%だったそうですから、急速に伸びていることがわかります。この段階ですでにポッドキャストに潜在需要が高かったことが示唆されています。

 利用者の内訳を性別でみると、男性利用者が15%なのに対し、女性利用者はわずか8%でした。利用者数だけではなく、この期間の伸び率も、8月調査では2-4月期調査に比べ、女性(3%)よりも男性(6%)の方がはるかに高くなっていたのです。

こちら →
(http://www.pewinternet.org/2006/11/22/podcast-downloading/より。図をクリックすると拡大します。)

 一方、年齢でいえば、18-29歳(14%)、30-49歳(12%)、50-64歳(12%)の若壮年層が高く、65歳以上の高齢者はわずか4%でした。さらに学歴でいえば、高卒が9%なのに対し、短大以上が13%と、こちらも開きがあります。

 このように基本的属性から利用者の分布を見ていくと、典型的な普及初期のパターンが示されています。2006年8月時点では、このポッドキャストが普及の初期段階だったことがわかります。もう一歩でその領域に近づきつつあったとはいえ、まだ、クリティカル・マスに達していなかったのです。

■NPRの戦略
 柴田氏は、NPRがポッドキャスト普及の牽引役を果たしたといいます。たとえば、NPRが2014年に配信したコンテンツが、1999年に起こった殺人事件の調査報道でした。このコンテンツを約1時間、12回にわたってシリーズで配信したところ、iTunesで500万ダウンロードされるほど人気を得たというのです。

 そして、柴田氏は、NPRのチーフ・デジタル・オフィサー(chief digital officer)、トーマス・ヘルム氏のインタビュー映像を紹介してくれました。

 彼は2014年に配信開始したシリーズが突破口になったと指摘しています。そして、「このシリーズの成功は、語りの力と、次が待ち遠しくなるような物語の連続性を取り入れたこと」だといいます。「語りの力」はラジオが本来持っていた音声メディアならではのメリットであり、そこに「次が待ち遠しくなるような物語」をシリーズ化することによって、利用者を次々と取り込んでいくことができたというのです。

 聞いていて、なかなかの戦略家だと思いました。そこで、ネットで調べてみると、実はこのトーマス・ヘルム(Thomas Hjelm)氏、2016年4月にNPRに雇用されています。NPR傘下のニューヨーク公共ラジオ(New York Public Radio:NYPR)から引き抜かれ、与えられた役職が、チーフ・デジタル・オフィサーの役職だったのです。

こちら →http://current.org/2016/03/npr-hires-wnycs-thomas-hjelm-as-chief-digital-officer/#

 NPRのCEOは、「我々はデジタル領域で指導力を発揮することができ、公共ラジオ局での経験のある人物を求めていた」といいます。その両方の要件を満たす人物がヘルム氏だったというわけです。

■チーフ・デジタル・オフィサーとは?
 NPRではデジタル戦略を深め、推進していくために、このチーフ・デジタル・オフィサーの役割を的確に果たせる人物を必要としていました。そこで、ヘルム氏のニューヨーク公共ラジオ在職時の肩書を見ると、executive vice president(副社長)であり、chief digital officer(チーフ・デジタル・オフィサー)でした。ですから、ヘルム氏はその手腕をかわれ、NPRに移動することになったことがわかります。

 チーフ・デジタル・オフィサーはまだ日本では聞きなれない役職名ですが、アメリカではどの領域でもチーフ・デジタル・オフィサーとして、この役割を果たす人材が求められています。ICTの進化により急速に社会変容が起きているいま、幅広いデジタル戦略を統括し、組織を横断する変革を推進できる人材、すなわち、チーフ・デジタル・オフィサーが企業経営には不可欠になっているのです。米国ではすでにCDOという略称が通用するようにもなっているようです。

こちら →http://www.strategyand.pwc.com/media/file/The-2015-chief-digital-officer-study-JP.pdf

 メディアデバイスもまた急速に進化しています。それを考えると、デジタル戦略として企業がカバーすべき領域がもはやウェブサイトだけではなくなってきているといえるでしょう。モバイル、ソーシャル、ロケーションベースの参加を促すもの、といった要素への対応が不可欠になってきているのです。スマホにはGPSが組み込まれていますから、このロケーションベースへの参加(local based engagement)を促すものという新たな要素が重要になってきています。モバイルメディアにGPSが装備されることによって、ヒトはさらに深く、メディアに拘束されるようになっているのです。

■スマホの普及、ポッドキャストの拡大
 実際、スマホの普及とこのポッドキャストの拡大はパラレルで進展しています。Edison Researchによると、2014年時点ですでに、オンラインラジオを聞くヒトの73%がスマホからでした。パソコン(61%)を大きく引き離しているのです。2015年データは入手できませんでしたが、2016年を経て、2017年のいま、そのような状況はさらに加速しているでしょう。

こちら →http://www.journalism.org/2016/06/15/audio-fact-sheet/

 日本でもいま電車で見かけるヒトのほとんどがスマホを操作しています。いつの間にか、情報や娯楽を得る手段がスマホに移行してしまったようです。ですから、このようなデバイス変容に対応した組織変革が メディア企業にとって喫緊の課題になっているのは明らかです。
 
 実際、NPRが2014年に配信開始したNPR Oneのホームページを見ると、スマホを使って説明されています。これを見ても、いまや、ヒトが情報や娯楽を得る主要なデバイスがスマホになっていることが一目瞭然です。モバイルデバイスといえば、ノートパソコンやタブレットではなく、スマホを指すようになってしまったのです。

 NPR Oneのアプリをスマホにインストールすると、様々なコンテンツが利用できるようになります。いつでも、どこでも、欲しいコンテンツを手にすることができるのです。

こちら →http://www.npr.org/about/products/npr-one/

 さて、ポッドキャストを開拓しようとしているメディア企業はなにもNPRばかりではありません。たとえば、ニューヨークタイムズは、2016年8月、The Run-Upを立ち上げました。

こちら →https://www.nytimes.com/podcasts/run-up?_r=0

 週1回、30分から60分のコンテンツを配信しており、開始時点ではもっぱら大統領選をウォッチングする内容でした。

 柴田氏は、トランプ氏が大統領に選ばれてからはThe Dailyを立ち上げ、月曜から金曜まで約20分、新政権をウォッチングする内容のコンテンツを配信しているといいます。

こちら →
https://www.nytimes.com/interactive/2017/01/30/podcasts/michael-barbaro-the-daily.html

■米国のポッドキャスト拡大から見えてくるもの
 柴田氏の報告を聞いていると、さまざまなメディア企業がポッドキャスト領域に進出しようとしているように見えます。メディア企業にとってはこれもまた市場開拓の一つなのでしょう。とくにアメリカの場合、国土が広く、いつでもどこでも良好な通信環境にいられるわけではありません。ですから、ダウンロードによるコンテンツ受容という、ポッドキャスト形式には一定の需要があることは確かです。

 一方、利用者の側からいえば、ヒトは誰しも1日24時間しか持ち時間がありません。メディアコンテンツにばかり接しているわけにもいかないというのも事実なのです。ですから、情報や娯楽を提供するメディアが増えれば増えるだけ、利用者の選択が大きな価値を持つようになります。メディアよりも利用者側が優位に立つことになるのです。

 利用者はどのようなデバイスで、どのようなコンテンツを得ようとしているのか。メディア企業はそれに対応したメディア戦略を取らざるをえません。

 柴田氏が報告されたように、ニューヨークタイムズは大統領選の終盤、ポッドキャストの「The Run-Up」を立ち上げました。そして、トランプ大統領が選ばれてからは、引き続き新政権をウォッチする「The Daily」を配信開始しています。大統領関連のコンテンツが多いですが、それは、いまのところ、トランプ氏を追っている限り、ヒトがついてくるからなのです。

 爆弾発言を繰り返すトランプ氏はメディア企業にとって格好のターゲットです。騒いでくれればくれるほど、利用者は増え、利用者が増えれば、メディア企業としての収益も期待できるというわけです。

 柴田氏が指摘されたアメリカのポッドキャストの課題のうち、興味深かったのが、「収益に結び付けることの難しさ」です。

 ネットワーク回線につながっていなくても、ダウンロードしさえすれば、いつでも、どこでもコンテンツを享受できるというのが、ポッドキャストのセールスポイントです。実際、500万ダウンロードされたコンテンツもあります。

 とはいえ、いつまでヒトを引き付けるコンテンツを提供し続けることができるのか、はたして、それが収益につながるのか、メディア企業としてはそういうことを考えざるをえません。とりあえず、いまはトランプ大統領でもっているのかもしれませんが、一通りのニュースはすでに地上波や衛星、新聞、ネット、等々で得ることができます。今後は、ポッドキャストならではの特性を活かしたコンテンツを探し出す必要があるでしょう。 

 柴田氏の「米ラジオ・オンデマンド時代の到来か?」という報告を聞き終えて、あらためて、メディアが提供するコンテンツがヒトを視野狭窄に陥れつつあるのではないかと危惧せざるをえなくなりました。メディア企業としては、もっぱら、どれだけ多くのヒトに選択してもらい、しかも、継続して利用してもらえるか、ということを考え、戦略的にコンテンツを制作し、配信します。メディア企業としては当然のことです。

 ところが、そのようなコンテンツの制作・配信の仕組みの下では、やがて、ヒトの興味関心を引くコンテンツばかりが横行するようになるでしょう。実際、そうなっているといってもいい状況です。あらためて、メディアのヒトの世界観、価値観への影響が危惧されるのです。

 柴田氏の報告に触発されて、ポッドキャスト関連の資料を渉猟するうち、メディア界は今後、社会一般と同様、ますます、GPS機能を備えたスマホ対応を迫られるようになることがわかりました。やがて、ヒトはスマホを通して、メディアコンテンツを得、さまざまな生活行動を行うようになるでしょう。そうなれば、ヒトは知らず知らずのうちに、スマホに装備された仕組みの影響を受けるようになるのは必至です。

 スマホに内包された諸機能は、いったい、ヒトの考え方や感じ方にどのような影響を与えるようになるのでしょうか。「いつでも、どこでも」というキャッチフレーズの背後に見え隠れする即時性、利便性、効率性といったものに、やがてヒトの思考や感性が麻痺させられてしまいはしないかと心配になってきました。(2017/3/8 香取淳子)