■お雇い美術教師:A・フォンタネージ
このところ、明治初期、工部美術学校の教師として招聘されたイタリア人のアントニオ・フォンタネージについて調べています。
関連文献を渉猟していると、1855年、彼がパリ万国博覧会を訪れた際、コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)やドービニー(Charles-François Daubigny)、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)などの作品を見て刺激を受けていたことがわかりました。
果たして、彼らのどのような作品を見て、刺激を受けたのでしょうか、気になりました。
そこで、コローなどの作品を展示している展覧会はないかと探してみると、2021年6月25日から9月12日まで、SOMPO美術館で「風景画のはじまり コローから印象派へ」展が開催されていました。
こちら → https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2021/musees-reims-2021/
残念ながら、すでに展覧会は終了していましたが、念のため、作品リストを見てみると、油彩、版画など約80点が展示されていました。いずれもフランスのシャンパーニュ地方にあるランス美術館所蔵の作品です。
こちら → https://www.sompo-museum.org/wp-content/uploads/2021/06/pdf_ex_musees-reims_list.pdf
約80点のうち、最も多かったのが、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品で、計19点、その内訳は油彩画16点、版画2点、エッチング1点でした。次いで多かったのが、シャルル・フランソワ・ドービニーで、計7点、油彩画2点、版画5点です。テオドール・ルソーはわずか1点、油彩画が展示されていただけでした。
コローは1796年7月16日にパリで生まれ、1875年2月22日に亡くなっています。そして、ドービニーは1817年2月15日にパリで生まれ、1878年2月19日に亡くなっていますから、コローとは21歳の年齢差があります。そして、ルソーは1812年4月15日にパリで生まれ、1867年12月22日に亡くなっています。コローとは16歳差です。
3人ともバルビゾン派に属しているといわれ、コローが切り開いた風景画という新ジャンルを共に育んでいった間柄のようです。
そこで今回は、コローの作品を中心に19世紀半ばの風景画を概観し、フォンタネージへの影響を考えてみたいと思います。
■A・フォンタネージに影響を与えたバルビゾン派
バルビゾン派とは、19世紀の 前半から60年代にかけて、パリ南東約60 ㎞の小村「バルビゾン(Barbizon)」を主な拠点として制作活動を行っていた画家達の総称です。そのうち、ミレー、ルソー、 デュプレ、ディアズ、トロワイヨン、 ドービニー、コローら7名が有名で、「バルビゾンの七星」と呼ばれています。
そのバルビゾン派が登場したのはちょうどフランスで商品経済が活性化しはじめたころでした。フランス革命を経て、産業革命を経験し、市民階層が形成されつつありました。王侯貴族だけではなく、生活に余裕のある市民層もまた、美術作品を愛で、所有したいという欲望をかき立てられるようになっていました。
ロンドンやパリなどの大都会では美術市場が形成され、自然をモチーフとするバルビゾン派やハーグ派などの作品が好まれ、求められるようになっていたのです。ハーグ派とは1860年から1890年までの間にオランダのハーグで活動していた画家たちの総称です。バルビゾン派と同様、共通の土地に結び付いたモチーフを描いていた画家を指します。
これまでの宗教画、歴史画、肖像画、人物画、静物画などとは違い、新たなモチーフとして風景を選ぶ画家たちが台頭し始めていたのです。ちょうど産業革命を経て、新興勢力が台頭し、商品経済が活発になり始めていた頃でした。
商品経済の進展に伴い、国際的な展示場が必要になっていたのです。国境を越えた流通のハブとして万国博覧会が登場してきました。1851年に開催されたロンドン万博が最初で、以後、交互にロンドンとパリが会場となりました。
絵画の領域でもサロンとは別に、国際的なデモンストレーションの場が必要とされるようになっており、万国博覧会が注目を集めていました。
■フォンタネージが訪れた第1回パリ万国博覧会
フォンタネージがイタリアからわざわざ訪れたのが、1855年5月15日に開催された第1回パリ万国博覧会でした。11月15日までの半年間、さまざまな工業製品、工芸品、美術品などが展示され、この回からすべての展示品に売値が示されるようになったといいます。国際展示場としての位置づけが明確にされたのです。この時、フォンタネージはコローの作品を見たのです。
当時、画家としてのコローはどのような位置づけだったのでしょうか。
1848年、サロンの審査員制度が廃止されたのに伴い、コローは新たな審査委員に任命されました。52歳の時です。彼が審査員になると、それまで認められなかったさまざまな画家たちが受け入れられるようになりました。コロー自身も受賞し、作品2点がフランス政府、その後も1点、ルーヴル美術館に買い上げられました。ようやく画家として軌道に乗り始めたのです。
ところが、1851年2月、母が亡くなりコローは落ち込んでしまいます。気持ちを慰めるため彼はフランス各地を旅行し、制作に励み、次々と作品を生み出していきますが、ドーフィネ地方で出会ったのがドービニーでした。以来、コローは彼に助言し、手助けするようになります。
1852年から1853年にかけてはスイス、オランダの各地を訪れ、制作をしました。コローは実際にさまざまな土地を訪れ、スケッチをし、風景画を次々と制作していきました。自身の画風というものを着実に確立していったのです。
■《荷車―マルクーシの思い出》
1855年のパリ万博に、コローは《荷車―マルクーシの思い出》という作品を出品しました。
(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1855年頃制作。オルセー美術館所蔵)
フォンタネージが見たのはおそらく、この作品なのでしょう。手前で作業をする人が描かれ、やや後ろに馬車のようなものがあり、そこにも人がいます。農村の人々の生活の一端が優しく、丁寧に描かれています。そのせいか、ありふれた風景を描いただけなのに、画面から豊かな詩情が溢れ出しています。
風景をメインモチーフとして取り上げていますが、その中に小さく人物を入れ込むことによって、風景はただの風景ではなくなっているのです。
この風景は、人々が生きる場としての空間であり、雲がたなびき、風がそよぎ、陽が射し込み、木々が生い茂り・・・、といった自然の営みが行われる空間でもあることを感じさせてくれます。
さらに、この作品は人が生きることを俯瞰してみる視点に気づかせてくれます。色彩を抑制し、自然のおおらかな姿に力点を置いて描かれているからでしょう。
この作品は、ナポレオン三世によって購入されました。
宗教画や歴史画や肖像画を見飽きた人々にとって、この画面がどれほど新鮮に感じられたかがわかります。この作品には人が生を営む場としての自然が素直に捉えられています。だからこそ、見ているうちに、いつしか、鑑賞者を内省させていく力を持っているのです。
万博に出品した作品がナポレオン三世に購入され、コローの画家としての認知度は高まり、風景画家としての地位も揺るぎないものになっていきました。
■第2回ロンドン万国博覧会に出品
1962年に開催された第2回ロンドン万博にも、コローは作品を出品しています。受賞はしませんでしたが、この時初めてドーバー海峡を渡り、イギリスの画家たちの面識を得ることができました。興をかき立てられたのでしょうか、一週間の滞在期間中に3点の小作品を仕上げています。
ところが、彼の作品を見たイギリス人はフランス風景画の新派という程度の認識しか示さなかったと言います(※ ケネス・マッコンキー、「銀色のたそがれ」と「ローズピンクの曙」、図録『カミーユ・コロー展』、1989年より)。
帰国後の1864年、コローの代表作の一つとしてよく知られた、《モルトフォルテーヌの想い出》という作品を描いています。やはり風景画ですが、画風が明るくなっています。
(油彩、カンヴァス、89×65㎝、1864年制作。ルーヴル美術館所蔵)
湖の傍に、葉を落として太い幹が目立つ一本の木が立っています。木の周辺には女性と子どもたちが描かれています。女性は背伸びして両手を高く上げ、木から何かを掴もうとし、小枝に触れています。枝についた実を取ろうとしているのでしょうか。
木の下には子どもが二人います。一人は身をかがめて何かを拾っており、もう一人は片手を伸ばし、女性に何か話しかけているようです。この女性は母親なのでしょうか。湖畔で柔らかな陽射しを浴び、母と子どもたちがのどかに過ごす光景が優しい色調で描き出されています。
空から降り注ぐ穏やかな陽射しが、湖面といわず、背後の木々や丘といわず、辺り一面を優しく柔らかな色合いに染め上げています。湖面には木々が影を落とし、手前の巨木の葉陰からは穏やかな陽射しが漏れてきています。幸せな気分が画面全体に醸し出されており、見ていると、気持ちが和みます。
風景画とはいっても、先ほどご紹介した《荷車―マルクーシの思い出》とは明らかに印象が異なります。暖かな陽射しの中で母と子の心温まる情景を描いたこの作品は、画面が明るく人と自然が調和しており、一種の理想化された絵柄の風景画といえるでしょう。
それに反し、《荷車―マルクーシの思い出》は寒色と暗色で描かれているので、陰鬱で沈み込んだ印象があります。
風景をメインモチーフに人の姿を小さく描いて添えるという点では共通していても、色彩の使い方といい、構図、モチーフの絵柄といい、両者の印象は大幅に異なっているのです。
訪英後の作品である《モルトフォルテーヌの想い出》は、自然と人をありのまま描くというよりは、理想的に描く方向で調整されています。人の気持ちを和ませる柔らかな色彩が多用され、情感をかき立てるようにモチーフが造形されているように見えます。
ひょっとしたら、コローはロンドン万博に出向いた際、当時、風景画で著名なターナー(Joseph Mallord William Turner)の作品を見たのではないでしょうか。
■ターナーの影響?
そう思うと急に、コローは著名な風景画家ターナーの作品を見たに違いないという気がしてきました。訪英した当時、ターナー(1775年4月23日―1851年12月19日)はすでに亡くなっていましたが、コローが風景画の先達ターナーの作品を見なかったはずはありません。
そこで、ターナーの作品をチェックしてみました。すると、初期の作品と1819年にイタリアを訪れた後の作品とでは画風が全く異なっていることがわかりました。ターナーは1802年にアカデミーの正会員になっています。イタリアを訪れる前はいかにもアカデミー受けのする写実的な風景画を描いていました。空や大気、陽光などを丁寧にリアリスティックに描くのが特徴でした。
ところが、イタリアを訪れ、明るい光を色彩に刺激を受けた後、画風が変わってしまいました。形よりも色彩に力点を置いた作品が多くなっているのです。
そこで、ターナーの初期の作品をチェックしてみました。すると、《小川を渡る》という作品に、《モルトフォルテーヌの想い出》との類似性を感じさせられました。
(油彩、カンヴァス、193×165㎝、1815年制作。テート・ギャラリー所蔵)
木々に囲まれた水辺で、穏やかな陽光を浴び、女性が横座りになっており、その姿が水に映っています。浅い川なのでしょう、川向うにはもう一人女性がいて、岩に手をかけています。川辺で憩う二人の女性の姿がいかにも古典的、アカデミックな捉え方で描かれています。
木々は陽光で明るく輝き、川べりもまた暖かな陽射しで溢れています。画面から幸せな気分が溢れています。人と自然が調和している様子が表現されており、理想化された風景画といえるでしょう。
明るい空と陽光を反映した木々の煌めき、そして、柔らかな陽射しが岩や川面、草木のあちこちに感じられます。見ているとつい、幸せな気分になってしまうところが、コローの《モルトフォルテーヌの想い出》と似通っています。
風景を描きながらも暖色と寒色を巧みに使い分け、景観にメリハリをつけて描いているせいか、画面がドラマティックに構成されています。ありのままの自然を描いたというより、風景画の理想形が描かれているのです。
メインモチーフは自然の壮大さを感じさせるように描き、サブモチーフである人の姿は見る者に物語を感じさせるような姿勢、あるいはポジションで描かれています。単に風景をありのままに描くのではなく、見栄えよく自然を切り取り、モチーフを配置しているせいか、ピクチャレスクに見えるのです。
この点でもコローの《モルトフォルテーヌの想い出》と、ターナーの《小川を渡る》は似通っています。
こうして見比べてみると、渡英する前と後で見られるコローの風景画の変化に、ターナーの初期作品が影響していることがわかります。
■第2回パリ万国博覧会に出品
そして1867年、コローは第2回パリ万博に作品6点を出品しました。それらの作品のうち代表的なものは、《孤独》でした。
(油彩、カンヴァス、95×130㎝、1866年制作。ティッセン=ボルネミッサ美術館)
木の傍に一人の女性が座っています。その目の前には湖のようなものが広がっており、周囲はうっそうとした小高い木々に包まれています。《孤独》というタイトル通り、人気のない場所で女性が一人、横たわっている姿が気になります。何か物思いにふけっているのでしょうか、顔を湖面のかなたに向けている姿に引き込まれ、見入ってしまいます。
目の前の湖面には木々が深く影を落とし、薄暗さに拍車をかけています。とはいえ、たなびく雲もまた水面に映り、うっそうとした風景にちょっとした明るさを添えています。見ていると、気持ちが次第に内面に向かっていくのが感じられます。つい、内省、沈思黙考という言葉が脳裏を過ぎります。
この作品には観客の気持ちを深く内省化させる力があるように思えます。
手前の草むらや木々の葉先に白い点が添えられているせいか、暗い画面の中にもちょっとした華やぎが感じられます。ロマン主義的な要素とでもいえるでしょう。小花のように見えますし、葉に落ちた陽光が反射しているようにも見えます。陽射しや風、大気によって微妙に変化する自然の美しさ、妙味といったものがきめ細かく捉えられています。
ありふれた風景を描きながらも、うっかりすると見落としがちな美しさをしっかりと捉え、表現している点が秀逸だと思いました。暗い画面だからこそ、淡い色、白色などがハイライトとして効いているのです。
この作品は、風景をメインモチーフにしながらも、人物を描き込んでいるという点で、これまでの作品と共通しています。
ところが、《モルトフォルテーヌの想い出》とは明らかに色彩の使い方が異なっています。もっぱら寒色、暗色を使い、全体に沈み込んだ色調で構成されています。色調の面からいえば、ターナーの影響を受ける以前の、《荷車―マルクーシの思い出》の描き方に戻ったかのようです。
画面の両側にはうっそうと葉の生い茂る巨木、そして、真ん中の巨木は葉先が淡い色で描かれています。おそらく、そのせいでしょう、葉先が背後の空に溶け込み、暗色の太い幹がいっそう目立って見えます。暗く沈み込んだ色調の中で、女性がただ一人座って、水面に顔を向けている姿が強く印象づけられます。
木々の描き方を見ると、メインの巨木の葉の色は薄く、枝先だけを白く点で描いています。その巨木の下で女性が座り、目の前の水面に顔を向けています。水面の周りを木々が覆っていますから、川ではなく、湖なのでしょう。
女性の手前は、地面を這う草で覆われ、その草の葉先には小さな白い点がいくつか描かれています。ひょっとしたら、小さな白い花なのかもしれません。ごく小さな白い点々にもかかわらず、それらは静謐な画面の中にひっそりとした賑わいをもたらしています。
コローはこうして、もっぱら寒色、暗色を多用しながら、淡い色や白色を効果的に使い、ピクチャレスクな画面を創り出しているのです。
見る者に何かを感じさせずにはおかない構図であり、絵柄です。人を内省させる力を持った《荷車―マルクーシの思い出》とは違って、この作品には古典的で、洗練された味わいが加味されています。そのあたりにターナーの初期作品の影響がみられるといえかもしれません。
この作品もナポレオン三世によって買い上げられました。
《孤独》をはじめとするコローの出品作品について、美術誌『アート・ジャーナル』が取り上げ、「汚れた色で主題をあくせく描いている」と評しました(※ 前掲。ケネス・マッコンキー)。
確かに、色調やモチーフだけを見れば、そう見えるかもしれません。ただ、構図や人物の姿勢や配置、暗色と淡色のバランスなどに配慮して描かれたこの作品には、詩情豊かな心情が見事に描き出されています。評者は寒色や暗色を「汚れた色」と思ったのでしょうが、沈んだ色の画面だからこそ、奥深い味わいや自然ならではの妙味を引きだすことができたのです。白色や淡い色をハイライトとして効果的に使ったからでした。
この雑誌にはラファエル前期の色彩を重視する傾向があったといわれています。そのような観点で見れば、暗い色調で創り出されたコローの画面を肯定的に捉えられなかったのも無理はないのかもしれません。
とはいえ、この時、コローの出品作品が美術誌に取り上げられたのです。それだけでも、コローの風景画が批評家たちから無視できない存在になっていたことの証だといえるでしょう。
■フォンタネージ制作、《The loneliness》
興味深いことに、フォンタネージもコローと同じタイトルの作品を描いています。1875年に制作されていますので、来日の前年に描かれたものです。
(油彩、カンヴァス、149×114㎝、1875年制作。レッジョ エミリア美術館所蔵)
夕暮れ時なのでしょうか、少し赤味を残した空が画面の半分以上に広がっています。その日最後の輝きを放ちながら陽が暮れ落ちていく様子が印象派風のタッチで描かれています。
画面の手前には女性が一人、岩のようなものに腰掛けています。帽子の縁と背中に夕陽が落ち、顔はよく見えませんが、物思いに沈んでいるように見えます。女性が座る岩の周辺にはところどころ、夕陽に反射し、水面が光っています。ほとんど水がなくなった川なのでしょう。
筆触を活かした描き方に、なんともいえない情感が込められています。
明るさの残る夕暮れの空の両側に、黒褐色の木々が枝を伸ばしています。秋なのでしょうか、葉は少なく、枝や幹が黒く、強く描かれています。その背後に見える暮れなずむ空の色の微妙なグラデーションが素晴らしく、引き込まれて見てしまいました。
引いて見ると、改めて、夕暮れ時の空の美しさが見事に表現されていることがわかります。夕暮れ時は一日の終わりであり、昼から夜、そして、今日から明日への橋渡しにつながる時でもあります。いってみれば、時の境界です。それが夕焼け空の下、一人岩に腰掛けている女性に託して描かれているのです。
卓越した象徴表現であり、風景と人の心情を巧みに統合して表現したともいえる風景画です。この作品を見ていると、フォンタネージの絵画論を垣間見ることができるような気がしました。
■フォンタネージの絵画論
フォンタネージは、1876年に工部美術学校に招聘され、学生たちに絵画論を講義していました。その講義録の中で、風景を描く際、描くものを取捨選択することの必要性と有効性について説いていました。
ほとんどの風景はありのままに描いても良い作品にはなりえません。だから、要らないものは省き、モチーフの配置を考え、画面構成をする必要があるといっているのです。さらに興味深いことに、彼は、削除はしてもいいが、加えてはならないと言っているのです。
確かに、既に存在するものは自然の摂理の中で組み立てられていますから、それを削除しても全体構成を大きく歪めることにはなりません。ところが、新たに考え付け加える場合、自然に組み立てられたものとの調和、統合を図るのが容易ではありません。そのようなことを踏まえ、彼はありのままの風景から何かを削除することは良しとしても、加えることは拒否していたのではないかと思います。
改めて《The loneliness》を見ると、左側の木々のいくつかは原風景から省かれたものがあるかもしれないと思いました。木々のいくつかを削除することによって、木々の分量が左右で異なり、アンシンメトリーな構図になります。その結果、夕暮れ時の空をいっそう情感豊かなものに感じさせることができ、さらには、真ん中に配置された女性の前方に広がりを感じさせる効果が生まれています。
さらに、女性の帽子の縁と背中に白のハイライトを入れ、足元やその周辺にランダムに白のハイライトを入れています。そのせいか、夕陽の下、一人ぽつねんと座る女性の心情が強く伝わってきます。
ありのままの風景を描いたように見えて、実は、「省く」という作業、あるいは、ハイライトを入れるという作業を通して、はじめて、作品として豊かなものに仕上げていくことができることをこの作品から学んだような気がしました。
カメラで撮影することと見ることの違い、ボイスレコーダーで記録することと聞くことの違いも実は、そのようなところにあるのでしょう。ヒトはカメラのようには見ていませんし、ボイスレコーダーのようには聞き取っていません。選択的に見、選択的に聞き取っているのが実状です。
省くことよって訴求効果を高めることができるのは、余計な刺激を削除することによって、ヒトの感覚を訴えたいことにフォーカスさせることができるからでしょう。そう考えると、フォンタネージの絵画論には含蓄深いものがあるといわざるをえません。(2021/09/28 香取淳子)