ヒト、メディア、社会を考える

02月

光と陰影が紡ぎだす世界:奥田善章氏の作品、そして、近藤オリガ氏の作品

■第81回新制作展受賞作家展
 2018年2月1日、久しぶりに銀座に出かけたついでに、ミキモトG2に隣接するビル9Fの「INOAC 銀座並木通りギャラリー」に立ち寄ってみました。何気なく入ってみたのですが、「第81回新制作展受賞作家展」が開催されていました。開催期間は2018年1月25日から2月2日まで、ちょうど、最終日の前日でした。

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 画廊に一歩、足を踏み入れた途端、目を奪われた作品があります。一つは第81回新制作展で受賞された奥田善章氏の作品、もう一つは、新制作協会に今回、新たに会員になられた近藤オリガ氏の作品です。いずれも表現スタイルが独特で、惹きつけられました。

 まず、今回の受賞作家、奥田善章氏の作品からみていくことにしましょう。

■受賞作家、奥田善章氏の作品
 意表を突かれたのが、この作品です。

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 滅多に見かけないほど豊満な女性が、大きなキャンバスからはみ出さんばかりに描かれています。垂れ下がった胸の下には巨大な三段腹、その下には膨らんだ腿とドッジボールのような膝が二つ、どれもスカートを突き破りそうなほどの肉塊です。

 膝が二つとも外向きに描かれているのもご愛敬です。そうでもしなければ、腿肉に邪魔されて脚をまっすぐ向けることができないでしょう。滑稽感を誘う表現です。

 もちろん、これほど太った身体では脚を組むことなどできません。そのままではだらしなく開いてしまう両膝を、この女性は踵をひっかけるようにしてかろうじて組み、それ以上の広がりを抑えています。その踵といい、足の甲といい、やはり肉が大きく盛り上がっています。

 上半身から下半身にかけて、ぶざまなまでの巨大な肉塊です。それらを次々と見てきたせいか、肉付きのいい踵、足首、足の甲、足指などを見ても、もはや驚きようがありません。これほどの巨体を支える両足がむしろ健気で、とても可愛く思えてしまいます。不思議なモチーフでした。

■中年女性、それとも・・・?
 どんなものであれ、極端なものはヒトに滑稽感を抱かせがちです。この作品も、度を超した肥満がまずは滑稽感を誘います。ところが、しげしげと見ているうちに、私は、なんともいえない親しみと温もりを感じさせられていきました。ともすれば醜悪に見えかねない肥満、あるいは、滑稽にしか見えない肥満が、しばらく見ているうちに、心温まるふくよかさへと、肥満したモチーフに対する見方が変わっていったのです。

 なぜなのでしょうか。

 一つには、モチーフの表情が大きく影響していた可能性があります。このモチーフは、光源に向けて顔を傾け、目を閉じ、口を半開きにしています。肉付きのいい顔や身体の左側が白っぽく描かれており、左上方から明るい光が射し込んできているのがわかります。明度からいえば、かなり強い陽射しです。

 当然のことながら、眩しく感じるはずなのに、この女性は能天気にも、すやすやと眠っています。あまりにも無防備で無邪気な姿勢に驚かされてしまいます。

 その無頓着さ、あっけらかんとしたおおらかさを見ていると、次第に気持ちが緩んでいくのを感じます。現代社会を生きるヒトなら誰しも持っている他者への警戒心を、この女性はいとも簡単に解除させてしまうのです。警戒心が解かれるとともに、当初は滑稽に思えた肥満が、心温まるふくよかさへと認識に変化が起きていきました。

 一方、女性の手の表情は意外なほど、繊細で優雅です。ウエスト辺りから手を下に垂らしているのですが、不思議なことに、脱力しているようには見えません。だらしなく太った身体には不釣り合いなほど、手の甲の形状や指の置き方に気配りが見られ、優雅に描かれているのです。むしろ気取って、シナを作っているようにすら見えます。

 そのナイーブな繊細さに私はふと、乙女心を感じさせられました。姿態からは、羞恥心をなくした中年女性のように見えるのですが、手の表現からは、初心で夢見がちな少女を感じさせられたのです。

 そして、人差し指に絡めた蔦の葉のようなものが、薬指、小指を経て、腕に巻き付いたまま、後ろの茂みにつながっています。この蔦の茎の先で、誰かとつながっているのではないかと、ロマンティックな想像すらかき立てられます。

■光と陰影がもたらす、心温まる優しさ
 蔦の葉に誘導されて、モチーフの背後に目を向けると、周囲には精緻に描かれたさまざまな植物が配されています。女性は、レンガでできたベンチのようなものに腰かけていますから、きっと庭の一隅なのでしょう。よく見ると、このモチーフの足元には猫が潜んでいて、警戒の目をこちらに向けています。まるで、無防備な女主人を守っているかのようです。離れてみると、ここに猫を配することによって、メインモチーフに対立する観念(警戒)を添えることができ、この作品に深みを与えていることがわかります。

 それにしても、面白い画面構成です。メインモチーフの選択や形状、配置に大胆さがみられる一方、その周辺、あるいは背景の事物は精緻で繊細なタッチで描かれています。画面の中で大胆さと精緻さが拮抗しているのです。

 さらに、ボールペンの特性を活かし、光の微妙な射し加減が丁寧に精緻に描かれています。そのせいか、着色もされていないのに、色彩を感じさせられますし、厚みや温もりを感じさせられます。髪の毛や葉陰、身体各部の陰影もまた仔細に描かれていますから、湿度や気温さえも感じられます。まるで画面に描かれたすべてのものが生き生きと呼吸し、身の丈にあった生き方をしているかのように見えます。

残念ながら、この作品のタイトルはわかりません。せっかく撮影を許可されたというのに、タイトル部分を撮り損ねてしまいました。サイズは大きく、100号以上だったような気がします。

この作者の別の作品も展示されていました。

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 こちらもタイトル部分を撮り損ねてしまいました。叢の中に鳥が潜んでいます。丸みを帯びた頬と嘴、目の形状が特徴的です。この鳥もまた、さきほどの太った女性のように、その形状がどことなくユーモラスで愛嬌があります。

 さらに、こんな作品もありました。

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 こちらはタイトルが写っていました。「森で夢を見る」です。タヌキが叢から顔をだしています。はたして、どんな夢を見ているのでしょうか。このタヌキの顔の各部に丸みがあり、その表情もどこか滑稽で、温かさがあります。

■奥田作品から透けて見えるヒューマニティ
 会場に展示されていた奥田作品は、3作品でしたが、いくつか共通性がありました。まず、太った女性はもちろんのこと、鳥にしても、タヌキにしても、メインモチーフの形状はいずれも丸みを帯びていていることです。この丸みが画面全体にユーモラスな情緒と、何事も包み込むような優しさを醸し出していました。

 次に、メインモチーフの周囲には精緻な筆致でさまざまな植物が描かれており、リアリティを添えていたことがあげられます。肥満女性を描いた作品では、画面いっぱいに描かれたメインモチーフの選択とその描き方に大胆さが見られる一方、それを支える背景がきわめて繊細で緻密に処理されていました。そこにコントラストの妙がありました。

 なぜ、この作品が気になったのか、そして、惹きつけられていったのかを考えていて、ふと思い出したのがAIDMA理論です。AIDMA(Attention, Interest, Desire, Memory, Action)理論は、古典的な広告理論です。

 会場には作品がいくつも展示されていたのですが、まず、目についたのがこの作品でした。なぜかといえば、画面いっぱいに描かれた巨体が圧巻でしたし、ボールペンで精緻に描かれた光と陰影の関係が絶妙だったのです。良しあしではなく、美醜でもなく、まず、作品の特異性に注意を引き付けられたのです。

興味を抱き、もっと知りたいと思ってこの作品をじっくり見はじめました。そのうちに、この作品の意表を突かれる特異性が、いつのまにか、好ましさに変化していったのです。光の射し込み具合、モチーフへの柔らかな当たり具合が丁寧に、緻密に表現されています。そこに、作者のモチーフに対する温かい思いが感じられるようになったのです。

 一見、現代社会からは置き去りにされそうなモチーフをメインに置きながら、射し込む光とその陰影を精緻に描くことによってリアリティが添えられ、そして、得難いヒューマニティを感じさせられるのです。この絵の前に立つと、温かな幸福感が満ち溢れてくるような気がしてきます。とても味わい深い作品でした。

■新会員、近藤オリガ氏の作品
 もう一つ、会場で印象に残った作品があります。近藤オリガ氏の作品です。

 会場でいただいたパンフレットを見ると、ベラルーシ生まれの近藤オリガ氏は、2007年に来日し、2008年に新制作展に初入選して以来、さまざまな賞を受賞しています。2013年第1回損保ジャパン美術展FACE2013年優秀賞、2017年第2回アートオリンピア入賞、などです。新制作展では第75回と第78回に新作家賞を受賞しています。このような来歴を踏まえ、今回、新会員に推挙されたようです。

 さて、会場で気になったのは、少年を描いた作品でした。

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 残念ながら、こちらもタイトル部分を撮り損ねてしまいました。

 タブレットのようなものを手にした少年が描かれています。まだ10代にもならない少年なのに、全体に哀感が漂っています。あるいは、哀愁とでもいえばいいのでしょうか、ここに存在するのに、心はここにはない・・・、とでもいえるような雰囲気です。とても気になりました。

■光とその陰影が生み出す哀切感
 印象づけられたのは、光と陰影で独特の哀切感が表現されていることでした。

 背後と側面から射し込む光で少年が捉えられています。うつむいた少年の耳と顔の左側面に強い光が当たり、この少年の存在を際立たせています。いったい、何を思っているのでしょうか、この少年の顔の表情はよくわかりませんが、深く考え込んでいる様子です。

 動き回り、はしゃぎ回っているのが、大方の少年だとすれば、この少年はその一般的なイメージから大きく外れています。まるで老成した大人のように沈思黙考し、ひっそりと一人佇んでいます。その風情が気になるのです。少年というモチーフの一般的なイメージと相反するような思慮深さ、そして、描かれた少年を取り巻く情景の深淵さに深く引き込まれていきます。

 色彩が極度に抑制され、射し込む光とそれが織りなす陰影によって、現実社会にはない深遠な世界が描き出されているといえるでしょう。

 こんな作品もあります。

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 こちらはタイトルが写っています。「レモンのある風景」です。

 レモンの皮を前景に、皮を剥きかけたレモンを中景に置き、背景に海と空を描いた作品です。たしかに、タイトル通り「レモンのある風景」ですが、この作品にもそこはかとない哀愁が漂っています。色彩のせいでしょうか、それとも、モチーフのせいでしょうか。ヒトの世の無常を感じさせる哀切感が漂っているのです。

 紅葉した木の葉を描いた作品もあります。

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 この作品のタイトルは、「秋」です。たった一枚の葉ですが、ここにも深い哀切感が漂っています。春には早緑色だった葉も夏には濃い緑色になり、秋になれば、紅葉し、落葉していく、ヒトの人生も同様、衰退に向かって生きているということが感じさせられます。

 秋は収穫の季節であり、成熟の時期でもありますが、一方で、衰退に向かい始める時期でもあるのです。この作品を見ていると、普段は思いもしない、哀切の感情がかき立てられます。誕生して成長し、成熟を迎えた後は衰退していかざるをえない悲しみを思い出させられるのです。

 さらに、こんな作品もありました。

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 タイトルは「貝と海」です。大きな貝殻が海と空を背景に描かれています。夕方なのでしょうか、空も海も暗いのに、画面の半ばあたりで、白い雲がたなびき、砂浜も白く光っています。現実にはありえない光景なのでしょうが、素晴らしい画力によってリアリティを感じさせられます。貝殻の内側の微妙な色彩表現が巧みで美しく、惹きつけられます。

■光と陰影が紡ぎだす作品世界
 たまたま訪れた画廊で、印象に残る作家に出会いました。一人は第81回新制作展で受賞された奥田善章氏、そして、もう一人はこのたび新会員に推挙された近藤オリガ氏です。画廊に入ってすぐ印象づけられたのが、このお二人の作品でした。画風は大幅に異なるのですが、このお二人は光とその陰影にとてもセンシティブだという点で共通していました。

 奥田氏は、ボールペンによる線の組み合わせで、ユーモラスな印象をどこかに残しながら、しっかりとヒューマニティ溢れる作品を手掛けておられました。

 一方、オリガ氏は、油絵ならではの強さと深淵さを込めた画面構成が際立っていました。少年にしても、レモン、木の葉、貝殻にしても、モチーフはなんであれ、ヒトの心に深く訴えかけてくる画風が印象的でした。

 お二人の作品を見ていて、改めて、光とその陰影が織りなす光景の素晴らしさを発見させられた思いがします。今後のご活躍に期待したいと思います。(2018/2/28 香取淳子)

第15回アジア創造美術展:張暁文氏「満洲魂」に見る創作衝動の源泉

■「第15回アジア創造美術展」の開催
 2018年1月24日から2月5日まで、国立新美術館で「第15回アジア創造美術展2018」が開催されました。今回は日中友好を記念して開催されたせいか、日本、中国、韓国、スイス、ポーランドなどから300点余の作品、さらに、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、バングラデシュから子どもたちの作品も展示されていました。まさに「アジア創造美術展」の名の通り、多様性に満ちた創造空間が、他の会場にはない雰囲気を醸し出していました。

 私が訪れたのは最終日でしたが、会場に足を踏み入れると、正面に自由闊達な創造空間が広がっており、異彩を放っていました。

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 まず、目の前に広げられている掛布団のようなものに驚かされます。何かと思って近づいてみると、巨大な白い紙の上に墨汁の濃淡で表現された作品世界が広がっていました。書といえばいいのでしょうか、あるいは墨絵といえばいいのでしょうか。入口のところでまず意表を突かれたのは、濱崎道子氏の作品でした。造形の新領域への挑戦が際立っていました。「胎動」というタイトルがつけられています。

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 根元が太く濃く、力強く上に伸びていく墨の勢いが勇壮で、印象的です。その合間を縫うように、かすれた線、小さな面がバランスを崩すように配置されています。そのせいか、作品全体に微妙な動きが生み出されています。しかも、その下には奇妙な膨らみがあり、そこから何かが新たに立ち上がっていくような気配が感じられます。まさに「胎動」です。

 二次元の世界に三次元の要素が組み入れられた濱崎氏の作品を見ていると、束の間、子ども心を取り戻したような気になります。歳月を経て、硬直化しパターン化してしまった思考の回路に、失われていた柔軟性が蘇ってくるような思いがしました。

■遊び心満載の会場
 さきほどの写真でいえば、会場正面の右上に、歩くヒトの影絵が掲示されています。これが、回り込んでみると、「アジア創造美術展」の幕の左側になります。

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 気になって、会場スタッフに尋ねると、これは亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の作品でした。通常の作品が展示されているラインよりもやや高いところに、さり気なく掲げられており、入口だけではなく随所に展示されていましたから、この影絵がまるで観客を誘導していくガイドのように見えました。

 この影絵もまた、観客の奥深く沈潜していた子ども心を蘇らせてくれます。しかも、これが会場のあちこちに配置されていますから、この影絵を通して、個々の展示作品が有機的に繋がっていくような効果がみられます。とても斬新な仕掛けだと思いました。

 観客は会場の展示作品を見ているうちに、忘れていた童心を思い起こし、日常から解放されていきます。やがて、絵画を素直に鑑賞できる柔軟な心を取り戻していくのです。そればかりではありません。この影絵の存在によって、作品と観客とが童心で結ばれ、それらが会場全体に有機的に繋がり合って、一体化していくように思えました。すばらしいアイデアです。

 書の展示も一風、変わっていました。まるで積木を積み上げたような趣があります。遊び心満載の展示を見て、気持ちが緩みます。

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 このような仕掛けを見ていると、パターン化された日常生活の中で、ともすれば自分を見失いがちになっていることに気づかされます。その一方で、会場にいるだけで、自由奔放な気持ちを取り戻せそうな気持にもなっていきます。

 形を超え、色を超え、表現の次元を超えて飛翔する創造者の集団だからこそ提供できる、居心地の良さを感じました。諸作品を見ていくうちに、私は次第に気持ちが解放され、豊かに広がっていく思いがしました。

 そんな中、気になった作品があります。会場に入ってすぐのコーナーに展示されていた作品です。タイトルは「満洲魂」、張暁文氏の作品でした。後でわかったことですが、張暁文氏はさきほど紹介した亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏の奥様で、同会の副会長でした。

 作品サイズが大きいわけではなく、モチーフが目立つわけでもなく、遠目に映える作品でもありませんが、目にした途端、妙に気になったのです。この作品には、気持ちの奥深く、訴えかけてくる何かがありました。

 それでは、詳しく見ていくことにしましょう。

■張暁文氏の「満洲魂」
 この作品は、藍色を基調にした作品を中央に置き、その周囲に、紅色を基調にした作品4つが取り囲む格好で構成されています。離れてみると、5枚のキャンバスの配置が十字架のようにも見えます。このような展示構成のせいでしょうか、それとも色彩のせいでしょうか、見ているうちに、不思議に感情がかき立てられていきます。

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 近づいて見ると、左右、下に配置された紅色基調の作品には何やら文字が書かれています。漢字でもなければアルファベットでもなく、見たこともない文字です。タイトルに「満洲魂」とありますから、ひょっとしたら満洲文字なのかもしれません。

 しげしげと見入っていると、作者の張暁文氏が近づいて来られたので、尋ねてみました。やはり、満洲文字でした。紅色基調の4枚のキャンバスのうち、上の絵は門を示しているのだそうです。そう言われてみれば、丸い図形のようなものはドアのノッカーに見えます。どういうわけか、これには文字は書かれていません。

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 張氏は、この絵に「家」あるいは「故郷」という意味を託したといいます。

 一方、形状の違うぼんぼりのような灯りが描かれた左、右、下の絵、そして、真ん中に置かれた藍色の絵には、それぞれ満洲文字が添えられています。いったい、どのような意味が込められているのでしょうか。ふたたび、張氏に尋ねてみました。

■絵に添えられた満洲文字
 まず、左側の絵からみていくことにしましょう。

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 右側に蓮のつぼみのような形状の紅色のぼんぼりがレイアウトされ、その左側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「高揚民族精神」、「振興満洲族文化」という意味なのだそうです。

 これと似たような形状のぼんぼりが描かれているのが、右側に置かれた絵です。

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 こちらは、左側にぼんぼりが置かれ、右側に満洲文字が書かれています。張氏によれば、これは、「満洲文字の歴史を鑑とする」「平和を祈る」という意味だそうです。

 2枚の絵はメインの絵を挟んで配置されています。両方ともぼんぼりが描かれているせいか、まるで左大臣と右大臣のように、紅色の絵が両側から、藍色の絵をしっかりと守る役割を担っているように見えます。

 さて、下の絵にも満洲文字が書かれています。

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 張氏によれば、これらは、「尊重」、「重視」、「起源」という意味だそうです。左右の絵に比べて文字数が少ないことを考え合わせれば、文字が添えられていない上の絵に対応して構成されているのかもしれません。そういえば、描かれているぼんぼりも、左右の絵とは形状や色が異なります。この絵のぼんぼりが白色だということは、上の絵のノッカーの白色に対応させたものともいえます。

 そして、真ん中には藍色基調のキャンバスがレイアウトされています。

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 ここにも文字が書かれています。張氏によると、「千年に一度、出会う奇跡」、「良書良友」、「永遠の平和」という意味だそうです。

■満洲語から読み解く「満洲魂」
 それでは、満洲語で書かれた文字からこの作品のメッセージを私なりに推測し、読み解いてみることにしましょう。

 まず、メインの藍色の絵の満洲文字からは、素晴らしい書や友に支えられていれば(「良書良友」)、「千年に一度、起こるような奇跡」に出会い、「永遠の平和」が訪れる、ということが示唆されています。これは作者の究極の願望であり、創作の目的でもあるのでしょう。

 ところで、このメインメッセージは4枚の紅色の絵で取り囲まれています。そのうち3枚には満洲文字が書かれていますから、それらを読み解いていけば、おそらく、私の拙い解釈を補ってくれるはずです。上から順にみていくことにしましょう。

 上の絵に文字はなく、ドアのノッカーが二つ描かれているだけです。張氏はこの絵について、「家」、「故郷」を示したといいます。ヒトが依って立つ基盤である「家」、そして、家を包み込む「故郷」です。この作品の発想の原点がここにあるような気がします。自分のアイデンティティを生み出し、支えてくれるのが、「家」(家庭)であり、故郷だという思いが込められています。

 さきほどもいいましたように、この絵と視覚構造的に対になっているのが、下の絵です。そこに書かれている満洲文字は、「尊重」、「重視」、「起源」でした。これを上の絵と関連づけて解釈するとすれば、ヒトの「起源」は家あるいは故郷にあるからこそ、家や故郷を尊重し、重視していかなければならない、と言っているように思えます。つまり、ここではヒトとして生きていくための心構えが説かれているのです。

 そして、左の絵に書かれているのが、「高揚民族精神」、「振興満洲文化」でした。ヒトが依って立つ基盤である家や故郷を存続させるためには、共通の価値基盤である文化を維持し振興していく必要があるということなのでしょう。すなわち、民族の精神を高揚することであり、張氏にとっては満洲文化を振興していくことになります。

 この絵と対になっているのが、右の絵です。ここに書かれているのが、「満洲文字、歴史を鑑とする」、「平和を祈願する」でした。これを左の絵と関連づけて解釈するとすれば、民族精神を高揚させ、満洲文化を振興するには、満洲文字や歴史を鑑とし、平和を祈願して生活し、生きていかなければならないと説いているといえます。

 こうしてみてくると、作品に文字が添えられていることに、二つの効用があるように思えます。私には判読できませんが、流れるような満洲文字が添えられていることによって、視覚的な興趣があります。そして、満洲文字の意味を理解すれば、さらに作品の深みが増すという効用です。

 一般に、日本では絵に文字を添えることをあまりしません。それだけに、私はこの絵に文字が添えられていることに興味をそそられました。調べてみると、中国では絵に文字を書き込むことはよくあるようです。

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中国では「書画同源」ということがしばしばいわれます。中国の文人にとって、書(文字)と絵画とは、絹(または紙)、墨、筆という同じ道具を使って制作する「線の芸術」であり、文人画家は書の筆法で墨竹、墨梅などの絵画を制作したそうです。近代以前の中国では「美術」に相当する語は「書画」でした。(Weblioより)
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「書画同源」という言葉があるぐらいですから、絵に文字を添えるという発想はごく自然なことなのでしょう。「満洲魂」を見ていると、満洲語が添えられていることによって、作品のメッセージ性がより鮮明に打ち出されていると思いました。

■紅色と藍色で表現された世界
 張氏の「満洲魂」は、紅色で制作された4枚の絵と、藍色で制作されたメインの絵で構成されていました。離れてみると、まるで十字架のようにもみえるユニークな画面構成が印象的です。

 赤といっても、元気、陽気、快活を象徴する色合いではなく、暖かさ、温もり、穏やかさを感じさせる落ち着いた紅色です。また、青といっても、澄み渡った晴天を連想させる蒼ではなく、底知れぬ海の深さを連想させる藍色です。一般的な中国人がお祝いの席で使う赤とも少し違うような気がしますし、内モンゴルなど北方の中国人が好む晴天の青とも異なります。

 紅色にしても藍色にしても、この作品で使われている色にはくすみがあります。そのせいか、5枚のキャンバスのすべてから、程度の差はあれ、そこはかとない哀愁を感じさせられます。それが、この作品の魅力の一つになっています。

 それにしても、なぜ、色彩を紅色と藍色に絞り込んでモチーフを表現しているのでしょうか。張氏に尋ねてみました。

 張氏は若いころ、宮廷画を勉強してきたそうです。宮廷画は、彩色が豊かで緻密な画風が特徴です。ところが、それでは自分らしさを表現できないと思い、今の画風になっていったといいます。さまざまな色を使えば、多くのことを表現できますが、逆に、いいたいことを明確に伝えることは難しいと張氏はいうのです。

 宮廷画の経験から、張氏は、シンプルにした方がメッセージを強く伝えられるという考えにたどり着いたようです。その結果、現在では、青と赤と基調に、差し色として何か一色、つまり、二色か三色でモチーフを表現するというスタイルに落ち着きました。

 そういえば、中国語に丹青という語があります。これは赤と青を指し、転じて絵具、彩色、絵画を指す言葉のようです。日本語でも、「丹青の妙を尽くす」とか、「丹青の技に長じる」という使われ方をしています。赤と青という色(丹青)は中国人にとって色彩の基本ですし、「丹青」という言葉は日本でも使われていたようです。

■「満洲魂」に込められたメッセージ
 さて、「満洲魂」のメインの絵は藍色基調で構成されていました。そのせいか、しっとりとした落ち着きがあり、どことなく悲しさも感じられました。その一方で、藍色の濃淡で表現されたモチーフには荒々しさも感じられます。不思議なことに、静の感情と動の感情が同時にかき立てられるのです。私は、この多様な感情を喚起する藍色の力に興味を覚えました。

 もちろん、色彩はモチーフと密接に関連しています。

 空さえも覆ってしまうほどの怒涛の海の波間に、よく見ると、右下に嫋やかな女性が顔をのぞかせています。荒々しい海の片隅でひっそりと姿を見せる女性、ここに、動と静、そして、強と弱が表現されています。このコントラストを私は面白いと思いました。

 絵柄から、私は勝手に海と思ってしまったのですが、作者はひっとしたら、時代の潮流を表現したかったのかもしれません。だとすれば、打ち寄せては砕ける波の狭間で、もがくわけでもなく、騒ぐわけでもなく、しっかりと前方を見つめている女性は、嫋やかさの中にしなやかさと芯の強さを併せ持つ存在として表現されているといえるでしょう。

 張氏はこの女性について、満州族の女性を表現したといいます。そう言われて、よく見ると、女性の頭上には大きな髪飾りが描かれています。このような髪飾りを、私は清朝の宮廷ドラマで、女性が着用しているのを見たことがあります。清朝の女性、すなわち、満州族の女性です。

 ネットで調べてみると、満州族の上流家庭の女性はこのような髪飾りをつけ、そこに宝石などの装飾品を縫い付けていたようです。

こちら →
(http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/101223/fuuzoku09.htmlより)

 こうしてみてくると、満洲文字といい、モチーフに添えられた髪飾りといい、明らかに満洲文化とわかるものが絵の中に取り入れられていることがわかります。タイトル通り、「満洲魂」が表現されているのです。

 そして、これまで説明してきたように、メインの絵を取り囲む紅色基調の4枚の絵には、満洲民族にとっての満洲文化の意義が謳われています。

■創作衝動を支えるもの
 張氏は繰り返し、満洲文化を絵の中に取り入れていきたいといいます。それは、自分が依って立つ基盤である民族の精神がなくなると、自分を見失ってしまうからだというのです。

 今回のアジア創造美術展は、日中友好を記念して開催されました。ですから、中国メディアからも取材を受けたようです。ネットで見ると、いくつか取材記事が載っていました。とくに私が興味を覚えたのは、满族文化网の記事でした。

こちら →http://www.sohu.com/a/220126409_115482

 これを読むと、張暁文氏が満洲族の女性であること、両親が「正黄旗」の出身であることなどがわかります。「正黄旗」とは、「鑲黄旗」、「正白旗」と並ぶ上位の貴族です。

 張氏は子どものころは祖母の家で過ごすことが多く、そこで、満洲族の礼儀や伝統文化を身につけたといいます。さまざまな満洲族の生活用品や書画を目にする中で、当然のことながら、宮廷画にも馴染んでいたのでしょう。

 幼いころから絵が好きだったこともあって、張氏は画家を目指し、中国美術学院で学んでいます。当初は宮廷画を学んでいたそうですが、自分のスタイルを創り上げるため、いまの画風に変化させていったようです。

 こうした来歴をみても、張氏の創作衝動の源泉が満洲文化そのものにあることがわかります。「満洲魂」の中で如実に表現されていたように、自分が依って立つ満洲文化を伝え、維持していくために、絵を描いているともいえるでしょう。

 絵は端的にメッセージを伝えることができますし、見る者にさまざまな感情を喚起することもできます。「満洲魂」にひっそりと描かれた女性のように、張氏には、これからも強くしたたかに、満洲文化を振興していっていただきたいと思いました。

 第15回アジア創造美術展で諸作品を鑑賞し、自由な表現の中にこそ、ヒトを感動させる力が潜んでいることを思い知りました。改めて、表現方法をさまざまに模索していくことの大切さを感じました。張氏の作品をはじめ、見ごたえのある作品が多いと思ったのは、この展覧会には自由な創造の軌跡そのものが展示されていたからかもしれません。(2018/2/21 香取淳子)