ヒト、メディア、社会を考える

2026年

高市内閣2.0 ①:情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

■第2次高市内閣の発足

 2026年2月18日、第105代内閣が誕生しました。第2次高市内閣が発足し、高市首相の記者会見が行われました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=UyA-xfxlAz0

 思い返せば、4か月前、第1次高市内閣は、衆議院の首班指名選挙で237票しか取れず、過半数を僅か4票上回るだけの勢力で発足しました。ところが、今回、解散総選挙で自民党が圧勝した結果、衆議院では350票を上回る得票で、高市早苗氏は余裕で首班指名されました。

 安定した基盤の下、第2次高市内閣がスタートしたのです。

 高市首相は、国民の皆様から力強く背中を押していただけたと感謝し、「責任ある積極財政」、「安全保障政策の抜本的強化」、「政府のインテリジェンス機能の強化」など重要な政策転換を推進していくと表明しています。

 そして、「自民党、日本維新の会との連携を深め、政府・与党一丸となって政策の実現に向け、ギアを更に上げてまいります」と述べ、本日より、「高市内閣2.0」の始動です」と宣言しました。(※ 全文は、https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0218kaiken.html

 第2次高市内閣の発足に際し、第1次高市内閣のメンバーが全員、再任されました。

(※ 内閣府HPより)

 この内閣メンバーについて、高市首相は、それぞれの政策分野で、先頭に立つのにふさわしい人材ばかりだと評価し、既に全速力で、政策実現にまい進してくれていると述べています。実際、このメンバーによって、短期間にうちにさまざまな事案が解決されています。

 外交であれ、ガソリン税の減税であれ、第1次高市内閣はわずか4か月間で成し遂げました。このような実行力が、多くの国民に評価され、高市内閣の高い支持に直結していることは確かです。

■選挙後も高い内閣支持率

 産経新聞社とFNNは、2月14と15日に合同世論調査を実施しました(固定電話、携帯電話で調査を実施し、全国の18歳以上の男女1008人から回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は、前回調査(1月24、25両日実施)比1.2ポイント増の72.0%でした。政権発足以降、5カ月連続で7割台の高水準を維持しているのに対し、不支持率は同0.6ポイント減の22.8%でした(※ 産経新聞、2026年2月15日)。

 高市内閣が依然として、高い支持率を維持していることがわかります。

 また、日本経済新聞社とテレビ東京は、2月13日から15日に世論調査を実施しました(全国の18歳以上の男女に、携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式による電話で実施し、回答率は39.1%、946件の回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は69%でした。1月に実施した前回調査よりも2%上昇したのに対し、「支持しない」は前回と同率の26%でした。


(※ 日経新聞、2026年2月15日)

 第1次高市内閣が発足した際、自民党は少数与党でした。無事、首班指名を受けられるかかどうか、危ぶまれるほど基盤の脆弱な政党だったのです。維新の会と連立を組むことによって、ようやく首班指名を受けることができたほどでした。

 国会では野党から、ヤジを飛ばされ、揚げ足取りの質問を浴び続けました。主要メディアは首相の失言を待ち構え、拡散の用意をしていました。いつ何時、倒れても不思議はないほど弱い内閣だったのです。

 ところが、解散総選挙を経て誕生した第2次高市内閣は、これまでの内閣ではありえなかったほど、高い支持率を得ています。

 第1次高市内閣はようやく発足したと思えば、たちまち、野党や主要メディア、さらには自民党内からもさまざまな攻撃を受け続けました。国会では野党からヤジを飛ばされ、レベルの低い質問に振り回されました。

■あぶり出された中国の影

 とくにひどかったのが立憲民主党で、国会では岡田克也議員が執拗に、失言を引き出すための質問を繰り返しました。誘導尋問を投げ続けた結果、岡田氏は高市首相から、台湾有事発言を引き出しました。

 主要メディアはここぞとばかり、大きく報道し、その報道を見た中国が飛びついてきました。

 中国駐大阪総領事の薛剣氏が、過激な発言で高市首相を罵ったのです。彼が参考にしたのが朝日新聞の電子版の記事だったといわれています。既に削除され、別の記事に差し替えられていますが、それだけ煽情的な見出しであり、記事内容だったのでしょう。

 高市首相の台湾有事発言に、中国政府自体も、すぐさま反応しました。

 日本への渡航自粛の呼びかけ、水産物の輸入停止、留学生の就学禁止、パンダの引き上げ、挙句の果てはレアアースの輸出停止、さらにはヨーロッパなど海外での陰口外交など、ありとあらゆる嫌がらせを、高市内閣に仕掛けてきました。

 発足したばかりの高市内閣を徹底的に叩き、ひざまずかせようとしたのです。

 中国にしてみれば、保守色の強い高市内閣の誕生は、危険そのものでした。これまでのように日本を思い通りに動かせなくなるばかりか、築き上げた利権さえ奪われかねなかったのです。

 ところが、高市内閣は、次々と仕掛けてくる中国の脅しに対し、断固とした姿勢を貫きました。誤った情報には堂々と抗議しながら、中国との対話の窓口を閉じることはありませんでした。騒ぎ立てず、静かに対応し、洗練された外交を展開しました。

 高市内閣は、中国の理不尽な態度にじっと耐えました。

 その一方で、これまでの政権には見られなかったロジカルで凛とした態度を世界に示しました。少数与党の第1次高市内閣が、戦狼外交を繰り広げる中国に対し、毅然とした態度を貫いたのです。

 子どものように騒ぎ立てる中国に対し、静かに大人の対応を見せる第1次高市内閣に、どれほど多くの日本人が胸のすく思いをしたことでしょうか。多くの国民は心の中で拍手喝采をしました。このわずか4か月間に、高市内閣が展開した明るくて強い外交が、日本人に、忘れていた誇りを取り戻してくれたのです。

 高市首相の台湾有事発言をめぐって、国内でもさまざまな対応が見られました。政治家や評論家はもちろんのこと、主要メディア、一部の企業、芸能人に至るまで、高市首相の発言の揚げ足を取り、口汚く非難しました。

■中国での利権

 その後、わかってきたのは、反高市で動いた人々の多くが、中国から何らかの利益を得ていることでした。

 たとえば、高市首相から台湾有事発言を引き出した岡田克也氏の場合、兄の岡田元也氏がイオンのCEOで、中国で大きな事業を展開していました。

 イオンは、2008年から中国での事業を展開し、2025年4月時点で北京、天津、山東省、江蘇省、浙江省、湖北省、湖南省、広東省に24店舗を出店し、2025年11月にはさらに湖南省の店舗が加わり、計25店舗となります。

 2030年までに中国全土で31店舗体制を目指し、とくに成長性の高い内陸部や長沙市などに集中して出店し、日本式のサービスやデジタル技術を活用した高機能な大型モールを運営するという計画でした。

 2025年11月27日、湖南省長沙市で、オープンしたばかりの「イオンモール長沙湘江新区」は、湖南省第2号店でした。

(※ https://www.47news.jp/13516083.html)

 大勢の人々が開店したばかりのイオンモールに押しかけている様子がわかります。延床面積が約23万平方メートルだといいますから、東京ドーム(約4.7万平方メートル)のなんと5倍ほどになります。

 巨大な規模の店舗に、4大勢の人々が押しかけているのですから、莫大な利益が見込まれているのでしょう。

■みずほ銀行エコノミストの記事

 衆議院選挙期間中の2月2日、みずほ銀行は「みずほマーケット・トピック」を公開しました。

こちら → https://www.mizuhobank.co.jp/forex/pdf/market_analysis/econ2600202.pdf

 記事のタイトルは、「高市演説を受けて~危うい現状認識~」です。きわめて煽情的なタイトルが示すように、要約部分もまた感情的なものでした。

 みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌大輔氏が書いた記事の冒頭要約部分は、次のような内容です。

 まず、「週末は高市首相の情報発信が大いに注目された。衆院選の応援演説において円安が関税バッファーとして作用しているほか、外国為替資金特別会計(以下外為特会)の抱える外貨資産の含み益が膨張している状況を用いて円安が好ましい相場現象であるかのような発言を行ったことが注目されている」と記しています。(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 彼が根拠としたのは、日経新聞2月1日の記事でした。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA010HQ0R00C26A2000000/

 ここから高市首相の発言を切り取って、記事のネタ元にしています。少々、長くなりますが、高市首相の応援演説を引用しましょう。

 「国内投資がとことん低い。だからよその国は今もう何をしているかって言ったら、海外に投資してるんじゃなくて、自分の国内に投資をする。自分の国内で工場をつくる。自分の国内で研究開発拠点をつくる。だから、自分の国内で投資をしているんです。ここは日本は弱かった。ガラッと変えようとしてます。高市内閣で。

 だって為替変動にも強い経済構造をつくれるではないですか。国内でつくるんだから。為替が高くなったが、それがいいのか悪いのか、円高がいいのか、円安がいいのか、どっちがいいのか、皆わからないですよね。

 むかし、民主党政権の時、たしかドル70円台の超円高。日本で物をつくっても輸出しても売れないから、円高だったら輸出しても競争力ないですよね。日本の企業、海外にどんどん出ていっちゃった。

 それで、失業率もすごい高かった。そっちがいいのか。今円安だから悪いって言われるけれども、輸出産業にとっては大チャンス。食べ物を売るにも、自動車産業も、アメリカの関税があったけれども、円安がバッファーになった。ものすごくこれは助かりました。

 円安でもっと助かってるのが、外為特会っていうのがあるんですが、これの運用、今ホクホク状態です。

 だから円高がいいのか、円安がいいのかわからない。これは総理が口にすべきことじゃないけれども、為替が変動しても強い日本の経済構造を一緒に私はつくりたい。だから国内投資をもっと増やしたい。そう思ってます」

 上記は日経新聞がまとめた高市首相の応援演説です。大勢の聴衆が集まった会場での発言ですから、多少の誇張もあれば、簡略化もあるでしょう。文書化され、整理された発言ではありません。ところが、唐鎌氏は文脈を読まずに切り取って、取り上げ、次のように自身の見解を述べているのです。

 「総じて、今回の高市発言が円安容認だったかどうかは本質的な話ではない。それよりも「為替が修正されれば、日本企業の行動変容が劇的に期待できる」という前時代的な価値観が温存されている可能性の方が気になったし、さらに言えば、外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 「・・・、本質的な話ではない」とか、「前近代的な価値観が温存されている可能性が気になった」、「外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」等々。唐鎌氏の言葉使いが感情的で、独りよがりで、煽情的なのが印象的でした。

 要約の後で展開された本文も同様、恣意的な表現、根拠を示さない決めつけ、乱暴な展開が気になりました。このような雑なレポートが選挙期間中に公表されたのです。

 このレポートが発表されると、野党や一部のメディアが騒ぎ、首相を非難しました。たとえば、TBSは次のような報道をし、拡散していました。

■TBSの報道

 高市早苗首相が、1月31日の衆院選応援演説で、「外為特会で、運用が今ホクホク状態だ」と発言したことについて、2月3日、TBSは次のように報じています。

こちら → https://youtu.be/fHToz4ZdNkw

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 「高市総理の“円安でホクホク”発言余波続く きょうも円安進行」といった切り取りで報道されていました。

 この動画を見ればわかるように、高市首相は、「円安でもっと助かっているのが外為特会、これの運用、今ホクホク状態です。だから円高がいいのか、円安がいいのかはわからない。これは総理が口にすべきことではないけれども、為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」と述べています。

 高市首相の発言の主旨は、明らかに「為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」でした。ところが、画面に為替のボードが表示され、「円安を招いたのが高市首相・・・」といったナレーションで始まります。

 2月2日にみずほ銀行のエコノミストがミスリードするようなレポートを出し、それを受けて3日にテレビが報道したことで、市場が反応しました。“総理の発言は円安を容認している”との受け止めが広がり、円売りが加速したのです。

 片山さつき財務大臣は、2月3日、記者会見を行い、次のように述べました。

 「総理は円安が経済に与える影響について、一般論として輸入物価の上昇を通じて国民生活や事業活動の負担を増加させるといったマイナス面がある一方、国内投資が進み、国内で生産した製品が海外に輸出しやすくなることを通じ、企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、教科書に書いてあることを申し上げたのであり、特に円安メリットということを全然強調しておりません」(※ 前掲ユーチューブ)

 片山氏は、高市首相の発言はあくまでも「円安が経済に与える影響の一般論」だと述べ、円安により輸入物価が上昇して国民生活や事業活動の負担が増す一方で、輸出しやすくなり企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、「総理が日ごろ思われている教科書的な整理だ」と説明し、「私も財務大臣として全く同じ(見解)だ」との認識を示しました(※ 『時事通信』、2026年2月3日)。

■コメント欄にみるテレビ報道の影響

 この動画のコメント欄を見ると、ほとんどすべてのコメントが否定的なものでした。「金融のプロ中のプロのみずほ銀行が異例のレポートで高市演説を批判するほどの日本経済への打撃」といったコメントがありましたので、みずほ銀行エコノミスト見解が、高市下げに一定の効果を与えたことは明らかです。

 コメント欄で唯一、中立的で客観的な意見が見られました。ご紹介しておきましょう。

 「高市首相は円高のデメリットも伝えています。故意に円安のことしか切り取りせず偏向報道し、揚げ足取りする行為は公職選挙法、放送法違反でしょう」

 「悪夢の民主党政権では、円高1$75円が進行しすぎて、国内企業は海外に工場を移動してしまい、国内の失業者は大幅に増えました。海外の工場で作った物を日本に逆輸入することになってしまった。輸出国なので1$300円でも上等です。悪夢の民主党政権時では長引くデフレにより、日経平均株価は7000円台にまで暴落し、完全失業率5%越えと経済はボロボロになりました」

 このコメントは、まず、選挙期間中にこのような内容の放送を流したTBSに対し、放送法違反だと指摘しています。そして、円高のデメリットの部分を過去の事例に基づき、説明し、デフレに陥った日本経済がボロボロになったことを思い出させてくれています。

 さて、選挙期間中に、高市首相の応援演説から一部を切り取り、「高市下げ」の記事を公表したのは、みずほ銀行エコノミストでした。煽情的な語句でつづられた文章だっただけに、人々を感情的に動揺させました。

 こちらも岡田氏の場合と同様、中国での利権と絡んでいたことがわかりました。

■みずほ銀行、中国に証券会社を新設

 みずほフィナンシャルグループ(FG)は2025年10月1日、中国での証券子会社の新設を巡り、中国証券監督管理委員会(CSRC)から許可を受けたと発表しました。

 新会社の社名は、「みずほ証券(中国)有限公司」で、傘下のみずほ証券が100%出資し、北京市に設立します。資本金は23億人民元(約500億円)を予定しており、主に中国企業が発行する社債を引き受け、投資家に販売する債券ビジネスを展開します。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZRSP697516_R01C25A0000000/

 2023年にCSRCに証券会社設立を申請し、24年に受理されていました。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20240624release_jp.pdf

 開業時期は、現時点ではまだ、「回答できる段階にない」ようですが、開業後は主に中国企業の債券の引受業務や、中国の債券市場でのセールス&トレーディング業務を手がけるといいます。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20251001release_jp.pdf

 中国ではすでに、傘下のみずほ銀行を通じ、銀行間取引市場で、証券化商品や人民元建て債券「パンダ債」の引受業務を展開してきました。新たな証券会社を通じて、証券取引所を介した債券売買にも参画し、現地で人材を採用ことも予定しているといいます(※ 日経新聞、2025年10月1日)。

 中国は、2020年に証券会社に関する外資規制を撤廃し、株式市場を含む中国資本市場に外国金融機関がより積極的に参入する道を開いていました。ゴールドマン・サックスやBNPパリバなども相次いで、全額出資の証券部門を開設する認可を受けています(※ ロイター、2025年10月1日)。

 みずほ銀行は、中国の金融政策に沿って、北京で証券会社を立ち上げていたのです。もちろん、共産党政権に覚えめでたくなければ、できる話ではありません。

 こうしてみてくると、みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌氏の記事は、ポジショントークだったといわざるをえません。選挙期間中にあえて「高市下げ」の記事を公表して騒ぎを大きくし、反高市工作を行っていたとしか思えないのです。

 工作活動を行っていたのは、もちろん、日本人ばかりではありません。中国政府やその周辺もまた、反高市工作を行っていました。

■中国による反高市工作

 日経新聞は、今回の衆院選に関し、SNSを使った情報工作とみられる動きが見つかったと報じています。Xのデータを分析したところ、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)。

 衆院解散が報道された1月中旬、次のようなハッシュタグ(拡散を狙ったキーワード)がX上に広がり始めました。

(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)

 このようなハッシュタグをつけて投稿していた複数のアカウントが見つかりました。それらを並べて比べると、投稿パターンやプロフィル情報が不自然に一致していました。

 日本経済新聞は、これらの投稿データを精査し、情報工作を目的としたアカウントを探りあてました。その結果、情報工作アカウントが、一般的な利用者とは異なる動きをしていたことがわかりました。

 たとえば、共通ハッシュタグの多用、プロフィル画像の使い回し、法則性があり、酷似した利用者ID、等々です。さらに、投稿者を特定できる情報がない匿名によって、同じパターンの内容を、他のアカウントと連動して投稿するといったことも主な特徴でした。

 日経新聞はこの調査結果に基づき、次のように報じています。

 「8日投開票の衆院選に関し、X(旧ツイッター)のデータを分析したところ、情報工作とみられる動きが見つかった。400ほどの中国系のアカウント(投稿者)が連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していた」(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 中国語の表現や字体を含むアカウント、あるいは、中国政府に近いアカウントとつながりのあるアカウントなど、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです。

 言語別に発信量の推移を示したグラフも、掲載されていました。

(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 上の図で明らかなように、工作に使われたとみられる一連のハッシュタグの投稿は、1月14日ごろから急激に増え、解散表明直後の1月20日には中国語と日本語を合わせて600件を超えました。

 400ほどある工作アカウントの少なくとも76%は、選挙直前の25年12月以降に開設されていました。運営側のXも、この不自然な動きを検知しており、凍結・閲覧制限に動きました。工作アカウントのうち2月4日時点で4割超が、Xから事実上の「不正認定」をされています。

 このようなアカウントは選挙期間中に、次々と凍結されたのですが、新たな工作アカウントが毎日、補充され、ハッシュタグは拡散され続けました。工作の拡散パターンを分析すると、工作アカウントには2つの類型があることがわかったといいます。すなわち、「発信源アカウント」と「拡散加速アカウント」です。ちなみに、「発信源アカウント」とは、中国政府の主張をなぞる投稿を中国から大量に発信するものを指します(※ 前掲URL)。

 Xの推定では、中国系の工作活動は、アカウントを数百万規模で動かすことができます。ところが、今回、工作のために動かしたアカウントの規模は、その潜在能力に比べて少ないものでした。したがって、今回の工作の主目的は、選挙への介入よりも、ステルス化(探知されにくくする技術)やAI画像など、様々な手法を試すことにあったのではないかと推測されています。

■AI画像を使った工作

 PwCコンサルティング(https://www.pwc.com/jp/ja/about-us/member/consulting.html)の村上純一パートナーは、生成AIが普及したことによって、言語などによる壁がなくなり、情報工作をする側にとっては、「何を目的に、いつ、どのテーマで工作を仕掛けるか」だけの問題となっていると指摘します。

 たとえば、社会的対立をあおるAI画像の例があります。

(※ 前掲URL。別々に投稿された画像を日経新聞が1枚にまとめて配置)

 上の図は、社会保障をめぐる若年層と高齢者層との対立、夫婦別姓をめぐる問題などを可視化したAI画像です。画像をメインに置くことによって、メッセージを簡略化し、明確化できるので、印象操作をしやすくなることがわかります。

 現時点では、まだ文字に中国語の痕跡が残ったりしており、品質レベルは低いです。とはいえ、今後、AI技術が進化していくことによって、より自然な画像や文章が量産できるようになるのは確かです。選挙時に限らず、平常時にも、印象操作や分断工作の脅威はさらに増していくことでしょう。

■情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

 ネット上では情報戦が激しさを増しています。なにも中国系のアカウントに限りません。ロシア政府が背後にいるとみられるグループが、米国など諸外国の選挙に介入した事例がすでに確認されています。

 今回の選挙では、国会でも政治家による妨害工作が行われましたし、経済界でもエコノミストによる「高市下げ」の印象操作が行われました。それでも、高市内閣は圧勝しました。選挙後も高い支持率を維持しています。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 興味深いのは、高市首相の解散理由です。

 2026年1月23日、記者会見を開いた高市首相は、「高市早苗に、国家経営を託していただけるのか。国民の皆様に直接、御判断を頂きたい」と解散の理由を述べました(※ https://www.jimin.jp/news/press/212284.html)。

 確かに、高市内閣は就任すると、「日本列島を、強く豊かに」するため、重要政策を大転換し、全く新しい経済・財政政策を始めました。その多くが、前回の衆議院選挙で、自民党の政権公約には書かれていなかった政策でした。

 「重要な政策転換について、国民の皆様に正面からお示しし、その是非について、堂々と審判を仰ぐことが、民主主義国家のリーダーの責務」という首相の考えは筋が通っています。そして、政策転換の本丸は、「責任ある積極財政」だといい、「行き過ぎた緊縮志向。未来への投資不足。この流れを、高市内閣で終わらせます」と表明したのです。

■アジェンダ設定による勝利か

 積極的で、挑戦的な政策を象徴するような、自民党のポスターが作成されました。

(※ https://www.jimin.jp/news/information/212092.html)

 赤と白、黒で色構成されたポスターには、洗練された都会風のテイストと、果敢にチャレンジする泥臭さと力強さが感じられます。高市内閣が掲げた「日本列島を、強く豊かに」のスローガンが見事に表現されているのです。

 「高市氏」(自民党)か、それとも、「野田氏&斎藤氏」(中道改革連合)か、と二者択一を迫られたら、ほとんどの国民は「高市氏」を選ぶしかないでしょう。「テンポよく、積極的に政治を動かすリーダー」か、それとも、「周りへの忖度に終始し、いつまでも決められないリーダー」か、多くの国民にとって、答えは一つでした。

 高市内閣には、国民にアピールするための政策アジェンダはたくさん、ありました。ところが、高市首相は、敢えて簡略化し、リーダーの資質に落とし込んで、アジェンダ設定をしたのです。「明るく未来を描き、テキパキと行動する女性」か、それとも、「現状維持にこだわる、暗く、覇気のない高齢男性」か、きわめてわかりやすく、対立構造が創り出されました。

 結果は明々白々でした。

 こうしてみてくると、自民党の圧勝は、卓越したアジェンダ設定によるものだったといわざるをえません。中国がどれほど強烈な情報戦、認知戦を仕掛けてこようとも、はるかに及ばないほどの訴求力が、このアジェンダ設定にはあったのです。

 今回の選挙では、情報技術の発達とSNSの普及によって、いつの間にか、認知戦の時代に突入していることが明らかになりました。

 これまでの情報戦やこれからの認知戦に対し、日本は今後、どう対応していくべきか、これもまた、高市内閣2.0が取り組むべき喫緊の課題です。(2026/2/25 香取淳子)

「鼓の胴の松飾り」が物語るもの

■本丸玄関に掲げられたしめ飾り

 佐賀城本丸歴史館の城門をくぐって中に入ると、まず目に入ってくるのが、本丸御殿の玄関です。

 軒下の天井近くには、大きくて太いしめ飾りが飾られているのが見えます。鼓の胴のような形が印象的です。アップしてみましょう。

 明らかに、普段、見かけない形状のしめ飾りです。調べてみると、これは「鼓胴型」といわれるもので、神社の飾りなどで使われているようです。訪れたのは、12月半ば過ぎでしたから、おそらく、正月飾りなのでしょう。胴の中央部分には、ゆずり葉がたくさん取り付けられ、葉陰にみかんが見え、その下には、紅白の水引を巻き付けた半紙でくるまれた黒いものが見えます。

 変則的な形状だといいながら、添えられているのはいずれも、お正月を祝うための縁起物です。ゆずり葉は、「子孫繁栄」や「世代交代」の象徴として、正月の縁起物に用いられますし、みかんも、「子孫繁栄」の意味を込めて飾られます。 紅白の水引はもちろん、お祝い事の際には必ず使われるものです。

 調べてみると、次のような文書がみつかりました。

こちら → https://saga-museum.jp/sagajou/docs/4e6592467de7748fef647b0cba3cebd3.pdf

 この文書を読んで、いくつかのことがわかりました。まず、このしめ飾りが「鼓の胴の松飾り」と呼ばれていること、そして、この松飾りが「島原の乱」に因むものであること、等々です。

 さらに、この文書の最後には説明書きが添えられており、橙(だいだい)、楪(ゆずりは)、炭(すみ)、南天(なんてん)の意味が書かれていました。

■鼓の胴の松飾り

 文書の後に添えられた説明書きを読んで、気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、私が「みかん」だと思っていたものが、実は、「橙」だったことです。みかんも橙も同じ柑橘類ですが、橙は「だいだい」と発音しますから、「代々栄える」という意味が込められているようで、語呂合わせです。

 見たときは、気づかなかったのですが、このしめ飾りには、南天も添えられていたようです。「なんてん」と発音しますから、「難を転じる」という意味になります。こちらも、語呂合わせで添えられた縁起物です。

 さらに、半紙の先からはみ出していた黒いものの正体がわかりました。「炭」だったのです。説明では、「黒が邪気を払う色とされるからとも、読みを「住み」に通じさせて永住を祝う意からともいう」と記されています。

 改めて、藁で造られたしめ飾りを見ると、バランスのいい色合わせが印象的です。赤(南天)、黄色(橙)、緑(ゆずりは)、黒(炭)など、色とりどりのものが添えられており、それぞれが、家族の無事と安全、そして、代々の繁栄を願う縁起物でした。

 それにしても、一風変わった正月飾りでした。

 変則的な形状だからこそ、印象深いのかもしれません。新年を迎えたとき、家族の安全と幸せ、子孫の繁栄、恙なく、無事な暮らしを願う人々の気持ちがしっかりと、鼓の中に込められているように思えました。

 興味深いのは、この松飾りが、「島原の乱」に由来する正月飾りだと説明されていることです。それでは、松飾りに纏わるエピソードを辿ってみることにしましょう。

■島原の乱にまつわるエピソード

「島原の乱」とは、寛永十四(1637)年から十五(1638)年にかけて、島原・天草地域でキリシタン農民が蜂起し、原城に立て籠った事件を指します。江戸幕府は西国大名を動員し、鎮圧に赴かせました。隣接地なので、当然のことながら、佐賀藩も参戦しています。

 さきほどご紹介した文書では、次のように記されています。

 「佐賀藩では、3万5千人を島原に送り、鍋島勝茂の三男直澄が大手、長男元茂が搦手の指揮をとりました。勝利のきっかけを作ったのは、佐賀藩の一番乗りの武功でした。

 しかし、そのことが抜け駆けであると逆に軍令違反とされ、同年6月29日、鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになりました」(※ 前掲、URL)

 これが前段の部分です。

 ここでは、①佐賀藩が島原の乱で武功を立てたこと、②それにもかかわらず、謹慎処分をうけたこと、すなわち、一つの出来事に対する二つの矛盾する局面が示されています。

 一つは、攻撃して鎮圧に成功し、幕府に貢献したという局面、すなわち、目的を達成し、効果で測定される局面です。こちらは客観的に判断できる事実です。そして、もう一つは、勝利を導いた過程に対する評価の局面です。こちらは幕府の見解に基づき、判断されました。

 結果として、佐賀藩主の鍋島勝茂は、鎮圧に成功したにもかかわらず、理不尽にも、謹慎処分を受けてしまいます。上記の文章でいえば、「一番乗りの武功」が、「軍令違反」とされ、処分を受けたのです。その処分が六か月におよぶ謹慎処分でした。

 そして、後段の部分では次のように記されています。

 「ところが、年も押し迫った12月29日、突然、この謹慎処分が解けました。質素な正月の準備をしていた佐賀藩江戸上屋敷では、門松などの正月飾りは用意しておらず、困惑してしまいました。そこで、かねてかれ出入りのあった出雲屋庄兵衛に、松などの材料を集めさせ、米俵などのわらを使い、にわかに松飾りを作らせました。その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになりました。この松飾りは大変評判がよく、佐賀藩江戸上屋敷で飾られていました」(※ 前掲、URL)

 ここでは、①年末の十二月二十九日、突然、謹慎処分が解かれたこと、②佐賀藩江戸上屋敷では、正月飾りを準備しておらず、慌てて出入りの業者に作らせたのが、この「鼓の胴の松飾り」だったということ、が語られています。

 幕府から処分を解かれたという側面と、そして、正月飾りを用意していなかったが、なんとか間に合わせたという側面が語られています。危機を乗り越えて得られた安堵感、そして、共に正月を祝うことができた幸福感が浮き彫りにされています。

 この時の、藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々の、安堵感と幸福感を象徴するのが、この「鼓の胴の松飾り」というわけでした。

 このエピソードの前段では、幕府から理不尽にも謹慎処分にされ、佐賀藩主が不遇を受け入れざるをえなかった状況が語られています。そして、後段では、藩主の謹慎処分が解けた年末、佐賀藩江戸上屋敷の人々が、心のこもった松飾りを手配し、無事にお正月を迎えることができたと述べられています。藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々が一体となって、危機を乗り越え、共に正月を祝うことができたというハッピーエンドのエピソードになっているのです。

 もっとも、先ほどの文書に記された説明ではこれだけのことしかわかりません。当時の佐賀藩の人々の気持ちを把握するため、まずは、島原の乱が勃発した経緯から、みていくことにしましょう。

■島原の乱の勃発から幕府の対応

 島原の乱が勃発したのは、寛永十四(1637)年十月二十五日のことでした。キリシタンに対する過酷な弾圧と島原藩による重税がきっかけで、一揆が勃発したのです。この日、島原の代官・林兵左衛門が撲殺されたばかりか、島原各地の代官が次々と襲撃を受け、一揆の規模が広がりました。翌二十六日には島原城が攻撃され、城下町が放火されました。

 一連の暴動を知った熊本藩は、情報収集のために歩御使番(伝令)を島原に派遣しました。(※ 上田哲也、「熊本藩細川家の忍び」、『忍者研究』3号、2020年、p.19)

 一方、佐賀藩主の鍋島勝茂(1580-1657)は、寛永十四(1637)年十月二十六日、江戸でこの島原一揆の報に接しました。佐賀藩が最も早く、一揆の情報を掴んでいたといわれていますが、それは、島原藩から支援を求める書状が届いていたからでした。島原藩から佐賀藩宛ての求援状の日付は、熊本藩宛てのものよりも一日早かったのです。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』、24号、1979年、p.58)

 このように、一揆勃発の直後に、島原藩から隣接藩へ支援を求める書状が届いていたのです。ところが、両藩は、越境して支援に赴くことができませんでした。武家諸法度の規定に縛られ、幕府の命令なしに支援することが禁じられていたからでした。

 書状を受け取った佐賀藩は、豊後府内(大分城)にいた目付(旗本、御家人を監視する幕府の役人)に急報して、指示を仰ぎました。ところが、目付からの注進が幕府に届いたのが十一月九日でした。一揆が勃発してから半月も経っていました。

 情報が遅れたため、幕府の軍事的対応も遅れ、その間に、一揆の勢力は拡大してしまいました。十一月十九日には島原南部一帯を支配したばかりか、唐津領天草でも蜂起し、富岡城を落城寸前にまで追い詰めていました。

 幕府は、上使として板倉重昌(1588-1638)、石谷貞清(1594-1672)を派遣し、隣接で対応する藩として、佐賀と唐津を充てました。ところが、唐津領の天草で一揆が勃発した知らせを受け、幕府は、唐津を久留米藩と柳川藩に変更し、熊本藩を肥後天草の警備に充てました。

 佐賀藩主の鍋島勝茂は、上使板倉重正に随伴して領地に戻ることを幕府に願い出ましたが、許されませんでした。他の九州外様大名と同様、世子(大名の跡継ぎの子)である小城の鍋島元茂(紀伊守、1602-1654)と蓮池の直澄(甲斐守、1616-1669)を下国させ、乱の鎮圧に当たらせることになったのです。(※ 中村質、前掲、p.62)

 上使が久留米に到着したのが十二月三日、それを受けて、久留米、柳川の藩兵が六日に島原に到着し、唐津、熊本藩が九日に天草に上陸しました。ところが、その時、一揆勢はすでに原城に籠っていたのです。

 原城が主戦場になりました。

■原城攻撃

 第一回目の原城攻撃は十二月十日で、この時の籠城者数は二万数千人でした。一般に城攻めの場合、籠城者の数倍から十倍の兵員が必要だとされていました。ところが、幕府側は、島原藩、佐賀藩、久留米藩、柳川藩、上使(幕府)勢を含めても五万有余にすぎませんでした。当然、勝利するはずはなく、続く十二月二十日、そして、寛永十五(1638)年元旦の戦闘でも幕府軍は敗退しました。


(※ https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ieys7.htmより)

 上の図では、城壁の外から攻める幕府軍と、内から抗戦する反乱軍が描かれています。一場面だけを切り取った絵なので、城壁を挟んで、両軍が互角に戦っているように見えますが、城外にいる幕府軍は圧倒的に不利でした。上使の板倉が戦死した寛永元年正月の戦闘では、諸藩を合わせ、死傷者は三千九百人にも及んだといわれています。(※ 中村質、前掲、p.63)

 原城には約三万人が、武器や食料を運びこんで立て籠もり、討伐軍に備えていました。もちろん、その中には女性や子供、高齢者などが含まれていますから、実際に戦えるのは五千人ぐらいでした。

 それでも一揆勢が善戦できたのは、原城が難攻不落の要塞だったからです。原城は島原半島(長崎県)の南端にあり、東と南と北が海で、西側だけが陸につながっている地形に建っていました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Remains_of_Hara_castle_as_seen_from_the_sea.JPG

 上の写真は、海から見た原城の跡です。確かに、三方が海で囲まれており、ぎりぎりまで崖が迫っています。明らかに、攻めるのが極めて難しく、自然の要塞だったことがわかります。

■難攻不落の原城

 この原城は、有馬貴純(生没年不詳)によって、明応五(1496)年に築城されました。肥前の戦国大名だった有馬貴純は、居城であった日野江城を難攻不落の城に強靭化すると、次に高来郡を制圧し、さらに、短期間のうちに藤津、杵島の両郡を併合しました。(※ 松本慎二、「原城」、『西海考古』第3号、2001年7月、p.99)

 実戦を繰り返し、島原半島をほぼ手中に収めたのです。さまざまな戦闘経験を積んでいるだけに、築城に際しては、難攻不落であることを絶対条件にしたのでしょう。先ほどの写真を見ると、この原城が、きわめて攻めにくい地形に建造されていたことがわかります。

 ここを居城にしていたのが、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)でした。

 有馬晴信は、関ヶ原の戦いでは、徳川方についていたため、領地の所有は保証されました。ところが、奪われた領地の回復を求めて贈収賄事件を起こし、そのうえ、貿易権を巡る長崎奉行殺害の企てが発覚したので、甲斐国に流されました。慶長十七(1612)年、幕命によって自害させられました(※ 松本慎二、前掲、p.100)。

 原城の主がいなくなってしまったのです。

 慶長二十(1615)年六月十三日、一国一城令に則って、日野江城と原城は破棄されました。当時、江戸幕府は諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる法令による措置を講じたのです。統制を図るためでした。

 島原の乱が勃発した時、原城はすでに廃城でした。

 一揆をおこした人々は、これ幸いと、廃城になった原城に立て籠もりました。この城は、戦国大名が攻め込まれることを前提に、築城されました。それだけに、攻めるのがきわめて難しく、なかなか陥落しませんでした。

 実際、幕府軍は上使板倉の統括の下、第1回、2回、3回にわたって、原城を攻めました。ところが、陥落させることができないまま、敗退し、3回目の攻撃で戦死しています。

 寛永十五年元旦の戦いでは、とくに激しい乱闘が繰り返されました。上使の板倉重昌が戦死し、目付(幕臣の監察にあたる)や使番(諸大名の監督)も負傷してしまいました。この時、死傷者数は、諸藩あわせて三千九百人にものぼりました。凄惨な死闘が展開されたのです。

 一連の原城攻めの中で、もっとも死傷者が多かったのは、寛永元年のこの戦闘によるものでした。中村質氏がまとめた表によると、島原の乱を鎮圧するための戦闘での死傷者は、佐賀藩の場合3654名で、全体(10937名)の33.4%にも及びました。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』24号、1979年、p.64)

 佐賀藩は大きな犠牲を払って、島原の乱の鎮圧に臨んでいたのです。

■松平信綱、戦法を変えて攻撃

 上使第二陣の松平信綱(1596-1662)と戸田氏鉄(1596-1662)が、島原の陣地に到着したのは、寛永元年正月四日でした。上使板倉が戦死し、幕府軍が最も大きな打撃をこうむった戦闘の三日後です。

 松平信綱と戸田氏鉄が幕府から派遣されたのは、一揆鎮圧後の処理のためでした。幕府としては、島原で勃発した一揆など、容易に鎮圧できると思っていたのでしょう。彼らは板倉が戦死したからではなく、鎮圧できているだろうという想定の下、戦後処理のために派遣されていたのです。

 ところが、江戸からはるばる島原に着いてみると、上使の板倉重昌はその三日前の戦闘で戦死しており、目付の石谷貞清も重傷を負っていました。急遽、板倉に代わって指揮を執ったのが、上司の松平信綱です。幕府軍の総大将として、一揆を鎮圧する責務を負うことになったのです。

 一揆勢の抵抗は、その後も激しく、一月二十八日には副将格の戸田氏鉄が負傷してしまいました。そこで、松平信綱は、戦陣経験のある老将達を集めて、作戦会議を行い、難攻不落の城攻めにふさわしい戦法に切り替えました。すなわち、大量に兵を動員し、仕寄攻めの作戦を取ったのです。「攻城軍十二万七千人」といわれる数をはるかに超える規模であったといいます(※ 中村質、前掲、p.64)。

 ちなみに「仕寄攻め」とは、諸藩陣場から城の塀際まで竹束や板等で防弾の仕寄りを作り上げてから、「城乗り」(城に攻め入ること)にかかる戦法です。工事期間中に、城中の食糧、弾薬等を欠乏させることになるので、兵糧攻めともいえるものでした。

 それでは、「仕寄攻め」とは一体、どういうものなのでしょうか。具体的なイメージを掴むために、ネットで見つけた竹束仕寄りの写真を見てみることにしましょう。


(※ https://livedoor.blogimg.jp/naganoetokino1/imgs/3/0/301cb3af.jpg

 上記の写真は、見るからに、頑丈な建造物です。弾丸や投石から身を守るための盾として使うのですから、これだけたくさんの竹が必要になるのでしょう。あまりにも巨大な竹束には驚いてしまいます。

 まずは塹壕を掘り,このような竹束や大楯を張り巡らせて、敵の矢弾や投石を防ぐ工事をし、防御態勢を整えてから、攻撃に挑むのです。上使の松平信綱は、寛永元年の悲惨な戦闘結果を踏まえ、確実に鎮圧できる戦法に切り替えたのです。

 これだけの工事をしてから戦闘を開始するのですから、実戦に入るまでに時間がかかります。その間、籠城している人々は、城内に食糧や武器の搬入をすることができません。時間はかかりますが、これは、確実に一揆勢を追い詰める戦法でした。

 実際、この戦略に切り替えた結果、一揆勢の兵糧は、二月下旬にはほぼ尽きてしまいました。外堀を固めることによって、強硬な抵抗勢力を徐々に弱体化させ、鎮圧することができたのです。

 二月二十八日、遂に、幕府軍は原城を陥落させることができました。松平信綱が、実戦経験のある老将達と作戦を練り、戦法を兵糧攻めに変更したことが、間接的な勝因でした。

 兵糧攻めは、時間の経過とともに幕府軍に有利に働く戦法でした。ところが、佐賀藩は、功を焦って抜け駆けをしてしまいました。

 鎮圧に至る経緯を振り返ってみることにしましょう。

■鎮圧に至る経緯

 上使・板倉重昌の戦死が幕府に伝えられると、幕府は、直ちに諸藩の藩主に下国し、参戦するよう命じました。命令に従い、佐賀藩主の鍋島勝茂が、島原に着いたのは一月二十九日でした。当時、しばらくは「仕寄攻め」のための工事が続き、戦闘に挑めない状況でした。

 城攻めの布陣が定まったのは、二月二十日ごろでした。

 当初、第一面に、熊本藩、柳川藩、島原藩、久留米藩、佐賀藩、唐津藩、福岡藩の順に横隊を組み、藩の石高に応じて「持場」を定めていました。背後の第二面は、左から、鹿児島藩、上使勢、各地の使者、延岡藩、福山藩の布陣でした。

 佐賀藩は第一面のほぼ中央で、二の丸出口と鳩山出口(絶壁で攻略不能)に面しており、一番の深堀から九番の諫早まで横隊の持場でした。ところが、これでは攻め口が狭くて攻めづらく、後備の兵を置く必要があることから、縦隊四段としました。

 二月二十日付の軍令および塀取仕組図では、島原入りの行軍隊形と基本的に合致する配置が示されていました。ところが、実際の戦闘はそれとは異なった隊形が取られていたのです。

 二月二十一日未明に、福岡、唐津、佐賀、久留米などの諸藩による城兵(城を守る兵士)の夜討ちが行われ、二十七、二十八日には、佐賀藩の抜け駆けに始まる総攻撃が行われました。こうして五か月に亘って籠城していた一揆勢は、完全に鎮圧されたのです(※ 中村質、前掲。p.65)。

 鎮圧に至る経緯をみると、佐賀藩が抜け駆けをし、二日に亘る総攻撃をしかけたおかげで、反乱軍を完全に鎮圧できたことがわかります。ところが、佐賀藩主の鍋島勝茂らは、軍令違反に問われ、出仕を止められました。武功をあげ、鎮圧を成功させたにもかかわらず、幕府からは謹慎処分を受けたのです。

 佐賀藩は、なぜ、謹慎処分を受けなければならなかったのでしょうか?

■厳しい戦後処理

 六月二十九日、藩主・鍋島勝茂は、佐賀藩の軍監(出征時の指揮官)で、先駆けを指揮した長崎奉行の柳原職直(1586-1648)とともに、上使の軍令違反に問われ、幕府への出仕を止められました。軍令に背き、一手先駆けの攻撃を佐賀藩が仕掛けたことに対する処罰でした。半年にわたる謹慎処分を受けています。

 島原の乱の当事者である島原藩は、改易処分(身分剥奪や領地・家屋敷の没収といった重い刑罰)となり、藩主の松倉勝家は後に斬首となりました。領民の生活が成り立たないほど、過酷な年貢の取り立てによって、一揆を招いた責任を問われたのです。大名が切腹ではなく斬首とされたのは、江戸時代ではこの1件だけだったといいます。それだけ厳しい処分がくだされたのです。 

 天草を領有していた領主の寺沢堅高も責任を問われ、領地を没収されています。寺沢堅高は、後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。

 そして、当初の上使で、戦死した板倉重昌の嫡子である板倉重矩は、父の戦死後、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際、勝手に参戦し奮闘したことが軍令違反に問われました。父親が戦死した際の不手際を問われ、鍋島勝茂と同様、同年十二月までの謹慎処分を受けています。

 このように関係者はいずれも、厳罰処分を受けています。

 一方、一揆鎮圧を成し遂げた松平信綱は、その勲功を賞され、寛永十六(1639)年一月五日、三万石加増となって六万石で川越藩に移封されています。島原に派遣された幕府軍の指揮を執って、一揆勢の鎮圧に成功した功労が評価されたのです。褒章として、江戸に近い川越藩に移封されたのは、信綱が幕府にとって必要な人材だったからに違いありません。

■武家諸法度の改正

 松平信綱は寛永十五年、老中首座になり、幕政を統括するようになりました。真っ先に手を付けたのが、武家諸法度の改正でした。島原の乱での経験から、武家諸法度の改正をしなければならないと思っていたことがわかります。

 島原の乱が勃発した際、なぜ、幕府の軍事的対応が遅れたのかを振り返ってみれば、武家諸法度を改正しなければならないと思うのは当然でした。

 振り返ってみましょう。

 キリシタンに対する弾圧と島原藩による重税に耐えかねて、一揆が勃発したのは、十月二十五日でした。十月二十七日には島原藩の家老が、江戸に滞在中の藩主・松倉勝家に急使を派遣しています。その一方で、隣接する熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家にも島原城への救援を依頼しました。(※ 中村質、前掲、p.59)

 ところが、熊本藩も佐賀藩も、寛永十二(1635)年に出された「武家諸法度」に縛られ、救援活動を行えませんでした。

 「武家諸法度」十九条の第四条に、次のような事項があります。

 「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事」(※ Wikipedia)

「江戸や他藩で何が起こっても、在郷のものはそこを守り、幕府からの命令を待つこと」と定められていたのです。島原藩から支援依頼が来ても、熊本藩も佐賀藩も支援活動に向かうことができず、幕府目付の指示を仰ぐことしかできなかったのです。

 「武家諸法度」が制定されていたせいで、隣接藩がすぐに対応することができず、初動が遅れました。一揆の広がりを招いた原因が武家諸法度にあることは明らかでした。

■軍制の確立と正月飾り

 老中になった松平信綱は、早々に武家諸法度を改正しています。一揆が起これば、近隣諸藩が即刻、越境して鎮圧できるように変更したのです。そればかりではありませんでした。再びこのような一揆が起こらないように、キリスト教を普及させたポルトガルとは断交し、オランダとだけ交易できるようにしました。島原の乱を教訓に、松平信綱は幕藩体制を整備し、鎖国体制を完成させたのです。

 さて、軍令違反に問われ、謹慎処分を受けていた鍋島勝茂と板倉重矩は、同年十二月二十九日に処分が解除されました。

 江戸時代、将軍家が諸大名や旗本とともに祝う儀礼の一つに、年始御礼(正月元日~三日)というものがありました。主従関係を強化する意味あいが大きく、最大規模の年中行事でした。それだけに、幕府としては正月前には処分を解除しようと思ったのでしょう。

 一方、佐賀藩江戸上屋敷の人々は、謹慎処分のまま年を越すのだと思っていたところ、暮れも押し迫った十二月二十九日、突如、藩主の謹慎処分が解かれました。どれほど驚いたことでしょう。

 なにより困ったのは、正月準備も質素なものしか用意していなかったことでした。藩主の処分が解除されたのですから、なんとしても正月飾りは用意しなければなりません。窮余の策で、藩屋敷に出入りしていた出雲屋庄兵衛に頼み、松飾りらしいものを作らせました。それが、冒頭にご紹介した「鼓の胴の松飾り」です。

 松や米俵の藁などあり合わせのものを使って、鼓の胴の形に仕上げられたこの正月飾りは、とても評判がよく、以後、この松飾りはずっと佐賀藩江戸上屋敷で飾られてきました。明治以降も、その伝統を引き継ぎ、佐賀県庁や佐賀市役所に飾られてきたといいます。

 これまで見てきたように、「鼓の胴の松飾り」が造られることになったのは、「島原の乱」の戦後処理がきっかけでした。そして、その「島原の乱」の戦後処理は、幕藩体制の整備や鎖国体制の確立と密接に絡んでいました。

 佐賀藩主を謹慎処分にしたことからは、幕府が、武功を立てるよりも、軍規を遵守することを優先したからといえます。つまり、幕府が、島原の乱を契機に、軍制を強化し、平時にも適合する遵法精神を涵養したかったからではないかという気がするのです。

 江戸時代に入って、外国勢力浸透の危険性に気づいた幕府は、鎖国政策を確立することを選びました。その契機となったのが、「島原の乱」です。一揆勢の鎮圧に成功した佐賀藩の藩主を、抜け駆けをしたことを理由に謹慎処分にしたのは、幕府が、社会統制を強化しようとしていたことを示すものにほかなりません。

(2026/1/30 香取淳子)