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高市内閣2.0 ②:国家情報局の設置、いつまで「スパイ天国」の名に甘んじようとするのか?

■国家情報局の設置

 2026年2月24日、高市首相は衆議院本会議で、内閣情報調査室を国家情報局に格上げすると表明しました。今国会で提出予定の法案、61本の内の一つが、国家情報局の設置だと述べたのです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=ew4r5e81Ays

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 国家情報局とは、関係機関から情報を収集して集約し、その分析結果を活用するための組織です。さらに、外国からの不当な干渉を防止するため、必要な制度設計を進め、そのための対策を講じるともいいます。

 前回、ご報告したように、今回の総選挙では、さまざまな人やメディアから中国寄りの情報戦をしかけられたばかりか、SNSを使った巧妙な認知戦も浴びせられました。幸い、中国が企図した結果にはなりませんでしたが、喫緊にカウンターインテリジェンス対策を講じなければならないことがわかりました。

 国家情報局の設置は、自民党と維新の会との覚書にすでに明記されていました。

こちら → https://storage2.jimin.jp/pdf/news/information/211626.pdf

 2025年10月20日に、自民党と維新の会との間で覚書が交わされました。覚書の第5条に、「インテリジェント政策」が設定されており、具体的な内容として6項目挙げられていました。そのうちの一つが、「内閣情報調査室を国家情報局に格上げ」するというものです。

 調べてみると、内閣情報調査室は、1952年に創設されていました。「内調」といわれる組織で、昭和27(1952)年に総理府に内閣総理大臣官房調査室として設置されました。その後、さまざまな機能を追加しながら、現在に至っています。

 今回、自民党が提案しているのが、インテリジェンス機能の強化です。

■カウンターインテリジェンス

 自民党がインテリジェンス機能強化に向けた提案を、日経新聞は8項目にまとめ、提示しています。

(※ 日経新聞、2026年2月25日)

 いずれも、2025年10月20日に発行された自民党と維新の会との合意書で、第5項「インテリジェンス政策」として取り上げられています。「国家情報局の設置・運用」に向けた提案が5件、「カウンターインテリジェンス・対外情報収集」に向けた提案が3件、といった具合です。

 「カウンターインテリジェンス」は、聞きなれない言葉ですが、これは、外国やテロ組織によるスパイ活動、破壊活動、情報窃取から、国家や企業の人・施設・情報を守る防衛活動を指します。

 直近では、2026年2月28日に行われたイスラエルとアメリカによるイラン攻撃に、カウンターインテリジェンスの典型例が見られます。

 まず、イスラエルとアメリカがイラン攻撃について、どのように発表し、どのような声明を出したのかとみてみることにしましょう。

■イラン攻撃の声明

●イスラエル

 イスラエルの国防省は28日朝(現地時間)、イランへの先制攻撃を始めたと発表しました。「イスラエルへの脅威を排除するため」としており、イランへの攻撃を発表した直後、イランの首都テヘランでは少なくとも3回の爆発音が響きました。そのうちの一つはテヘラン大学の近くとみられています(※ 読売新聞オンライン、2026年2月28日15分41)。

 イスラエルのネタニヤフ首相は、FOXニュースで次のように述べています。

 「イランは新たな拠点や施設と地下壕の建設に着手した。もし、いま行動しなければ彼らの弾道ミサイル計画と核爆弾開発は数か月以内に手が出せなくなり、将来いかなる行動を取ることも不可能になっていたはずだ」

 このようにイラン攻撃の正当性を主張したうえで、イラン国民が民主的に選ぶ政権を樹立するために条件を整えると述べました。そして、トランプ大統領がいなければ、この作戦は実行に移されなかったと感謝しています。

 これに先立ち、ネタニヤフ首相は、2月1日のイランからのミサイル攻撃で9人が犠牲となったイスラエル中部の現場を視察し、「テヘランの暴君(イラン)は民間人を標的にしている。我々は民間人を守るためにイランを攻撃している」と述べました。

(※ TBSニュース映像より)

 実は、イランでは攻撃された2月28日、南部の小学校で165人が犠牲になっていました。これについてFOXニュースの記者が問いかけても、ネタニヤフ大統領は何も答えず、その場を立ち去ったといいます。

●アメリカ

 米紙ニューヨーク・タイムズは2月28日、米当局者の話として、米軍によるイラン攻撃が進行中と報じました。イスラエル軍と協調して攻撃に踏み切ったとみられると報じられていました(※ 読売新聞オンライン、2026年2月28日15分41)。

 一方、トランプ大統領はイラン攻撃について、次のようにスピーチしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=0CXYMb2IN0M

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 トランプ大統領は、「過去36時間にわたり、アメリカとその同盟国は『壮絶な怒り作戦』を発動した」と述べ、「イランの元最高指導者、アヤトラ・ハメネイは死亡した」と宣告しました。そして、「イラン革命防衛隊、イラン軍、警察に対し改めて警告する。武器を捨て自らの罪を認めろ。さもなければ確実な死が待っている。惨めな最期となるだろう」と警告しています。

 アメリカ中央軍は2月28日、イランを攻撃した際の映像を公開しました。

こちら → https://youtu.be/MTwac6J34Vg

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 艦艇からミサイルが発射された瞬間、衛星から撮影されたと思われる爆撃地の白黒の映像、ミサイルで目標が破壊される瞬間など、衝撃的な映像が次々と映し出されました。実際に死傷者の姿は映し出されていませんが、爆発の先には多数の死傷者がいるはずです。

 アメリカ軍は悪びれることもなく、攻撃映像を公開しました。堂々と犯行声明を出しているようにも見えます。

 イスラエルとアメリカがイランとの外交の場を放棄し、いきなり武力に訴えたことによって、中東で新たな戦争の口火が切られたのです。

 実際、イランの革命防衛隊は3月2日、イランとオマーンの間に位置するホルムズ海峡を封鎖したと述べました。「通過を試みる船舶はすべて焼き払う。この地域から一滴の石油も流出させない」としています(※ TBS、2026年3月3日)。

 2月28日、ハメネイ師と政権中枢の人々は、まさにピンポイントで攻撃され、殺されました。イランは一挙に首脳陣を失い、国家体制を喪失してしまったのです。司令官を失ったイラン革命防衛隊は、いわば手負いの獅子となってしまったのです。

 関連諸国を含みながら、中東では攻撃の連鎖が続くことになるでしょう。

 それにしても、なぜ、一国の首脳陣が、いとも簡単に攻撃され、抹殺されてしまったのでしょうか。イラン攻撃に至る、イスラエルとアメリカの動きを振り返ってみましょう。

■ネタニヤフとトランプ、イラン攻撃直前の動き

 アメリカとイランは2026年2月6日、2025年の攻撃以降はじめての核協議を開催しました。この時、アメリカは軍事行動に出る可能性を示唆しながら、イランに譲歩を迫っていました。当然のことながら、議論は平行線をたどったままでした。

 その数日後、イスラエルのネタニヤフがアメリカを訪れ、イランに対する攻撃開始について協議しています。

 トランプ大統領とネタニヤフ首相がイラク攻撃について会談をする一方、その背後で、モサド(Mossad、イスラエル諜報特務庁)とアメリカの対外情報機関CIA( Central Intelligence Agency、中央情報局)が動いていました。

 モサドは、ハメネイ師やイラン首脳陣の情報収集に努め、それらの情報を踏まえ、行動パターンを割り出しました。それに基づき、CIAとともにイラン攻撃のタイミングと作戦を練っていたのです。

 イランが中東地域の米軍施設などに先制攻撃に出る可能性を、モサドは 把握していました。ところが、トランプ大統領は、その段階ではまだ、外交的な解決を望んでいたといいます(※ 日経新聞、2026年3月2日)。

 ネタニヤフに詰め寄られたのでしょうか、あるいは、イランが譲歩の姿勢を見せなかったからでしょうか、トランプ大統領は態度を変えました。

 2月24日の一般教書演説で、「外交を通じた解決を望むが、世界一のテロ支援国家が核兵器を保有するのは許さない」と主張し、イランとの交渉が決裂するなら、武力攻撃に踏み切る可能性を示唆したのです。

 CNNは、トランプ大統領のスピーチの該当箇所を次のように紹介しています。

 「彼ら(イラン)は今後兵器計画の再建を試みないよう警告を受けた。とりわけ核兵器に関してだ」

 「それにもかかわらず、彼らは全てをやり直そうとしている。我々はそれを根絶したが、彼らは再び最初からやり直そうとしている。そして今この瞬間も、邪悪な野望を追求している」

 トランプ大統領は、依然として合意を結ぶことを望んでいると明言する一方で、「世界一のテロ支援国家による核兵器の保有は決して許さない」と言い添えていたのです。(※ https://www.cnn.co.jp/usa/35244299.html)

 イラン攻撃の意思表明をしたのも同然でした。

 このトランプ大統領の一般教書演説から、イラン攻撃の布告を読み取っていたのが、イランのアッバス・アラグチ外相でした。

■イラン外相によるSNSへの投稿

 2月24日、アラグチ外相は、トランプ氏の演説に先立って、SNSに、「我々はいかなる状況下でも核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利も放棄しない」と投稿しました。そして、「米国側が外交を優先すれば、合意は手に届く範囲にある」と呼びかけたのです(※ 読売新聞、2026年2月25日)。

 イラン外務省の報道官も2月25日、トランプ大統領が一般教書演説で指摘した、イランの核兵器保有の意図やミサイル開発の実態などについて、「大きなウソの繰り返しだ」と、SNSで批判しています(※ 読売新聞、2026年2月25日)。

 実際、その可能性は否定できません。

 アメリカでも、トランプ大統領の主張は、情報機関の報告によって裏付けられたものではないという非難の声があがり、専門家も、イランが核能力を急速に強化できるとする大統領側近らの最近の主張に、疑問を呈していました(※ ロイター、2026年3月1日)。

 実際のところ、どちらが正しいのかはわかりません。

 ただ、中東ではイスラエルだけが核を保有していました。宿敵であるイランが核保有を切望していたとしても不思議はありません。イランが、「我々はいかなる状況下でも核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利も放棄しない」と主張するのは当然のことでした。

 ちなみに、世界で核を保有しているのは9カ国しかありません。そのうちの一つがイスラエルです。


(※ https://mirai-bridges.com/kakuhoyuukoku/#google_vignette)

 イスラエルは、核拡散防止条約(Non-Proliferation Treaty)上、核兵器の所有は認められていませんが、実際は90発も持っているのです。

 2025年6月、イスラエルは イランとの衝突で、圧倒的な軍事力と諜報力の高さを見せつけました。さらに叩いておかなければ安心できないと考えたのでしょう。以来、イスラエルは虎視眈々とチャンスを狙い、イランの政治体制を転覆させることを計画していました。

 アメリカを味方につけたイスラエルは、2026年初来、イランとの協議を重ねてきました。そして、2026年2月28日、イランの核兵器開発阻止を大義にし、アメリカと共同戦線を組み、イランを攻撃し、首脳部を崩壊させました。

■イラン攻撃の動機は?

 ネタニヤフやトランプがイラン攻撃に向かった動機付けは何だったのでしょうか?

 たとえば、ネタニヤフ首相は今年、総選挙を控えていますが、汚職や長期政権への反発が広がっており、支持は落ちていました。イランを攻撃して指導体制を転覆させれば、支持基盤が安定する可能性が指摘されています(※ ロイター、2026年1月16日)

 トランプ大統領もまた、今年、中間選挙を控えています。とくに、昨年、エプスタイン文書が公開されて以来、支持者が離れていることは事実です。2月16日、「私は潔白だ」としてエプスタインとの関係を否定していますが、トランプ支持層である「MAGA派」のトランプ離れが加速しているといわれています。(※ https://www.fnn.jp/articles/-/1008986)

 両者は、2026年に選挙によって国民の審判を受けるという点で、共通していました。「核兵器開発の阻止」という誰にも理解されやすいスローガンの下、イラン攻撃を行い、成功すれば、支持が高まるのは予想されました。選挙を控えたネタニヤフとトランプの利害が一致したのです。

 ネタニヤフとトランプは、「核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利」を主張するイランの意向を踏みにじりました。

 今回のイラン攻撃で特筆すべきなのは、ピンポイント攻撃の成功です。これは、2026年1月のベネズエラ攻撃の成功を引き継ぐものであり、勝利をもたらしたものは、インテリジェンス機能と兵器の圧倒的な差でした。

■モサドとCIAの連携プレー

 トランプ大統領は、イラン攻撃を声明したスピーチで、「ハメネイ師は我々の情報力や高度に洗練された追跡システムを逃れることができなかった」と語っていました。確かにハメネイ師や幹部たちの行動は逐一、イスラエルに把握されていました。

 会合の開催場所と開催時刻、さらには襲撃された場合の避難場所など、すべてを把握し、逃げ道を塞いだうえで、攻撃を仕掛けました。ピンポイント攻撃を成功させるだけの情報が収集されていたのです。

 背後で、イスラエルの対外諜報機関モサドが動いていました。

 モサドは、ハメネイ師の行動パターンを把握するため、日々、監視していました。彼がどこに住み、誰と会い、どのように連絡を取り、攻撃の脅威があった場合、どこに退避する可能性があるか、等々を探っていたのです。イランの首脳陣についても同様、モサドは密かに監視し、行動パターンを割り出していました。

 イランの政治指導者や軍の高官らは、普段、ハメネイ師と同席することは滅多になかったそうです。襲撃されることを極度に警戒していたからです。彼らは用心深く、連絡を取り合い、情報交換をして、意思決定をしていました。

 ところが、モサドは、ハメネイ師やイランの高官たちが、ハメネイ師の自宅の敷地内で会合を予定していることを嗅ぎつけました。最終開催時刻が、2月28日午前です。

 モサドは2月28日午前、側近らを集めたイラン首脳陣の定例会合が開催されることを把握しました。当初、夜間開催の予定だったのですが、直前になって、午前の開催に変更されました。

 ハメネイ師や首脳陣全員が亡くなったいま、なぜ、突然、開催時刻が変更になったのかはわかりません。ただ、開催時刻の変更に合わせ、イスラエルとアメリカは攻撃時刻を変更しました。

 イスラエル軍とアメリカ軍は、テヘランのパスツール地区にあるハメネイ師の邸宅に約30発の爆弾を撃ち込みました。彼らが地下シェルターに逃げ込む時間を与えずに、ハメネイ師と側近ら40人以上を殺害したのです(※ 読売新聞オンライン、2026年3月3日05:00)。

■決め手はヒューミント?

 これに関し、元自衛隊統合幕僚長の河野克俊氏は、経済学者の高橋洋一との対談で、開催時刻の直前の変更を知りえたのは、内通者がいたからだと語っていました。


(※ ユーチューブ映像より)

 河野氏は、ハメネイ師らの会合時間の変更をイスラエルが把握できたのは、ヒューミントによるものだと指摘し、モサドや米英の情報機関は、インテリジェンス能力がきわめて高いと述べています(※  https://www.youtube.com/watch?v=eXSJF84NxvA)。

 実は、それだけではありませんでした。

 モサドの内情に詳しい二人の人物が、英紙「フィナンシャル・タイムズ」に語ったところによると、テヘランの交通監視カメラのほぼすべてが、何年も前にハッキングされていました。映像は暗号化されてイスラエルにあるサーバーに送信されていたといいます。

 最も重要で、かつ有益だったのが、ハメネイ師の邸宅に近いパスツール通りに、絶妙な角度で設置されたカメラでした。

 このカメラからは、ハメネイ師の警護にあたる護衛や車の運転手たちが、車をどこに駐車するかを把握することができました。さらに、厳重に警備された施設の中の日常的な動きをそのまま見ることができました(※ COURRiER Japon、2026年3月3日19:00配信)。

 モサドは、尾行、観察してハメネイ師らの情報を把握していただけではなく、テヘランに設置された交通監視カメラをライブで見られるようにしていました。人を使い、機材を使って、徹底した情報把握を行っていたのです。しかも、どうやら内部に密通者までいたようなのです。対外諜報機関としてはこれ以上ないほど、モサドは卓越した能力を発揮していたのです。

 日本大学危機管理学部教授の小谷賢氏は、「情報の収集と分析と評価までをインテリジェンスと呼ぶ」と定義づけ、そのカテゴリーを次の5つに分類しています。

(※ https://www.youtube.com/watch?v=Sv51z6JNGdg&t=63s)

 上から2番目に紹介されているのが、ヒューミントです。ヒューミントとは、国が工作員を外国に送って情報を取る活動を指します。

 河野氏は、モサドが直前の時間変更を正確に把握していたのは、ヒューミントによるものだろうと推察していました。当事者しか知りえない会合時間の変更など、内通者がいなければ、わかりようがないからです。どれほど優秀な工作員だとしてもそれだけは無理でした。

 このことからは、ハメネイ師のごく近くに、内通者がいたことが示されています。

■日本のカウンターインテリジェンスはどうか?

 2026年3月6日、日経新聞は、今回のイラン攻「イラン国内のアプリや防犯カメラがハッキングされるなど、イスラエルのサイバー技術が駆使されている」と報じています。

 さらに、「SNS上でのスパイ活動や人工知能(AI)を使った市民監視も活発で、軍関係のIT企業が暗躍」しており、「軍民一体で高める”サイバー戦闘力”がイスラエルの軍事作戦を支えている」と伝えています。

 高度なIT技術力が、カウンターインテリジェンスのために駆使されており、戦闘が新たなステージに入っていることが示されています。サイバー戦闘力が問われる時代に入っていることは明らかです。

 イスラエルのITを駆使した監視網について、日経新聞は次のように表にまとめています。

(※ 日経新聞、2026年3月6日)

 人々が日常的に使う通信機器をハッキングし、情報を収集するだけではなく、ポケベルなどには爆薬を仕掛け、兵器に変えているのです。

 トランプ大統領が、イラン攻撃を声明した際、「ハメネイ師は我々の情報力や高度に洗練された追跡システムを逃れることができなかった」と語っていましたが、イスラエル軍はIT機器を兵器に変換することまでしていたのです。

 翻って、日本のカウンターインテリジェンス能力はどうなのでしょうか?

 日本はG7の中で唯一、スパイ行為を包括的に取り締まる「スパイ防止法」を持たない国です。そのため、国家機密の流出に対しても、特定秘密保護法など個別の法律で対応せざるを得ないのが現状です。

 高市首相は3月3日、政府のインテリジェンス機能強化策を議論する有識者会議を、今夏をめどに設置する考えを表明しました。スパイ防止関連法の制定や、対外情報収集能力の在り方を議題にするというのです。主要諸国に比べ、相当遅れていますが、カウンターインテリジェンス強化に向けてスタートしただけましと考えるしかないのかもしれません。

 2026年3月6日、高市政権が制定を目指す「スパイ防止法」に反対する集会が、国会内で開かれました。「市民がスパイの疑いを持たれ、冤罪事件の犠牲になりかねない」との懸念が表明され、政府の動きに対し、早期に反対の機運を高める必要があるとの主張です(※ 共同通信、2026年3月6日18:01)。

 主要メディアはほぼこれに追従する論調で報じています。

 果たして、日本はいつまで、「スパイ天国」の名に甘んじようとするのでしょうか。

(2026/03/06 香取淳子)

高市内閣2.0 ①:情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

■第2次高市内閣の発足

 2026年2月18日、第105代内閣が誕生しました。第2次高市内閣が発足し、高市首相の記者会見が行われました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=UyA-xfxlAz0

 思い返せば、4か月前、第1次高市内閣は、衆議院の首班指名選挙で237票しか取れず、過半数を僅か4票上回るだけの勢力で発足しました。ところが、今回、解散総選挙で自民党が圧勝した結果、衆議院では350票を上回る得票で、高市早苗氏は余裕で首班指名されました。

 安定した基盤の下、第2次高市内閣がスタートしたのです。

 高市首相は、国民の皆様から力強く背中を押していただけたと感謝し、「責任ある積極財政」、「安全保障政策の抜本的強化」、「政府のインテリジェンス機能の強化」など重要な政策転換を推進していくと表明しています。

 そして、「自民党、日本維新の会との連携を深め、政府・与党一丸となって政策の実現に向け、ギアを更に上げてまいります」と述べ、本日より、「高市内閣2.0」の始動です」と宣言しました。(※ 全文は、https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0218kaiken.html

 第2次高市内閣の発足に際し、第1次高市内閣のメンバーが全員、再任されました。

(※ 内閣府HPより)

 この内閣メンバーについて、高市首相は、それぞれの政策分野で、先頭に立つのにふさわしい人材ばかりだと評価し、既に全速力で、政策実現にまい進してくれていると述べています。実際、このメンバーによって、短期間にうちにさまざまな事案が解決されています。

 外交であれ、ガソリン税の減税であれ、第1次高市内閣はわずか4か月間で成し遂げました。このような実行力が、多くの国民に評価され、高市内閣の高い支持に直結していることは確かです。

■選挙後も高い内閣支持率

 産経新聞社とFNNは、2月14と15日に合同世論調査を実施しました(固定電話、携帯電話で調査を実施し、全国の18歳以上の男女1008人から回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は、前回調査(1月24、25両日実施)比1.2ポイント増の72.0%でした。政権発足以降、5カ月連続で7割台の高水準を維持しているのに対し、不支持率は同0.6ポイント減の22.8%でした(※ 産経新聞、2026年2月15日)。

 高市内閣が依然として、高い支持率を維持していることがわかります。

 また、日本経済新聞社とテレビ東京は、2月13日から15日に世論調査を実施しました(全国の18歳以上の男女に、携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式による電話で実施し、回答率は39.1%、946件の回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は69%でした。1月に実施した前回調査よりも2%上昇したのに対し、「支持しない」は前回と同率の26%でした。


(※ 日経新聞、2026年2月15日)

 第1次高市内閣が発足した際、自民党は少数与党でした。無事、首班指名を受けられるかかどうか、危ぶまれるほど基盤の脆弱な政党だったのです。維新の会と連立を組むことによって、ようやく首班指名を受けることができたほどでした。

 国会では野党から、ヤジを飛ばされ、揚げ足取りの質問を浴び続けました。主要メディアは首相の失言を待ち構え、拡散の用意をしていました。いつ何時、倒れても不思議はないほど弱い内閣だったのです。

 ところが、解散総選挙を経て誕生した第2次高市内閣は、これまでの内閣ではありえなかったほど、高い支持率を得ています。

 第1次高市内閣はようやく発足したと思えば、たちまち、野党や主要メディア、さらには自民党内からもさまざまな攻撃を受け続けました。国会では野党からヤジを飛ばされ、レベルの低い質問に振り回されました。

■あぶり出された中国の影

 とくにひどかったのが立憲民主党で、国会では岡田克也議員が執拗に、失言を引き出すための質問を繰り返しました。誘導尋問を投げ続けた結果、岡田氏は高市首相から、台湾有事発言を引き出しました。

 主要メディアはここぞとばかり、大きく報道し、その報道を見た中国が飛びついてきました。

 中国駐大阪総領事の薛剣氏が、過激な発言で高市首相を罵ったのです。彼が参考にしたのが朝日新聞の電子版の記事だったといわれています。既に削除され、別の記事に差し替えられていますが、それだけ煽情的な見出しであり、記事内容だったのでしょう。

 高市首相の台湾有事発言に、中国政府自体も、すぐさま反応しました。

 日本への渡航自粛の呼びかけ、水産物の輸入停止、留学生の就学禁止、パンダの引き上げ、挙句の果てはレアアースの輸出停止、さらにはヨーロッパなど海外での陰口外交など、ありとあらゆる嫌がらせを、高市内閣に仕掛けてきました。

 発足したばかりの高市内閣を徹底的に叩き、ひざまずかせようとしたのです。

 中国にしてみれば、保守色の強い高市内閣の誕生は、危険そのものでした。これまでのように日本を思い通りに動かせなくなるばかりか、築き上げた利権さえ奪われかねなかったのです。

 ところが、高市内閣は、次々と仕掛けてくる中国の脅しに対し、断固とした姿勢を貫きました。誤った情報には堂々と抗議しながら、中国との対話の窓口を閉じることはありませんでした。騒ぎ立てず、静かに対応し、洗練された外交を展開しました。

 高市内閣は、中国の理不尽な態度にじっと耐えました。

 その一方で、これまでの政権には見られなかったロジカルで凛とした態度を世界に示しました。少数与党の第1次高市内閣が、戦狼外交を繰り広げる中国に対し、毅然とした態度を貫いたのです。

 子どものように騒ぎ立てる中国に対し、静かに大人の対応を見せる第1次高市内閣に、どれほど多くの日本人が胸のすく思いをしたことでしょうか。多くの国民は心の中で拍手喝采をしました。このわずか4か月間に、高市内閣が展開した明るくて強い外交が、日本人に、忘れていた誇りを取り戻してくれたのです。

 高市首相の台湾有事発言をめぐって、国内でもさまざまな対応が見られました。政治家や評論家はもちろんのこと、主要メディア、一部の企業、芸能人に至るまで、高市首相の発言の揚げ足を取り、口汚く非難しました。

■中国での利権

 その後、わかってきたのは、反高市で動いた人々の多くが、中国から何らかの利益を得ていることでした。

 たとえば、高市首相から台湾有事発言を引き出した岡田克也氏の場合、兄の岡田元也氏がイオンのCEOで、中国で大きな事業を展開していました。

 イオンは、2008年から中国での事業を展開し、2025年4月時点で北京、天津、山東省、江蘇省、浙江省、湖北省、湖南省、広東省に24店舗を出店し、2025年11月にはさらに湖南省の店舗が加わり、計25店舗となります。

 2030年までに中国全土で31店舗体制を目指し、とくに成長性の高い内陸部や長沙市などに集中して出店し、日本式のサービスやデジタル技術を活用した高機能な大型モールを運営するという計画でした。

 2025年11月27日、湖南省長沙市で、オープンしたばかりの「イオンモール長沙湘江新区」は、湖南省第2号店でした。

(※ https://www.47news.jp/13516083.html)

 大勢の人々が開店したばかりのイオンモールに押しかけている様子がわかります。延床面積が約23万平方メートルだといいますから、東京ドーム(約4.7万平方メートル)のなんと5倍ほどになります。

 巨大な規模の店舗に、4大勢の人々が押しかけているのですから、莫大な利益が見込まれているのでしょう。

■みずほ銀行エコノミストの記事

 衆議院選挙期間中の2月2日、みずほ銀行は「みずほマーケット・トピック」を公開しました。

こちら → https://www.mizuhobank.co.jp/forex/pdf/market_analysis/econ2600202.pdf

 記事のタイトルは、「高市演説を受けて~危うい現状認識~」です。きわめて煽情的なタイトルが示すように、要約部分もまた感情的なものでした。

 みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌大輔氏が書いた記事の冒頭要約部分は、次のような内容です。

 まず、「週末は高市首相の情報発信が大いに注目された。衆院選の応援演説において円安が関税バッファーとして作用しているほか、外国為替資金特別会計(以下外為特会)の抱える外貨資産の含み益が膨張している状況を用いて円安が好ましい相場現象であるかのような発言を行ったことが注目されている」と記しています。(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 彼が根拠としたのは、日経新聞2月1日の記事でした。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA010HQ0R00C26A2000000/

 ここから高市首相の発言を切り取って、記事のネタ元にしています。少々、長くなりますが、高市首相の応援演説を引用しましょう。

 「国内投資がとことん低い。だからよその国は今もう何をしているかって言ったら、海外に投資してるんじゃなくて、自分の国内に投資をする。自分の国内で工場をつくる。自分の国内で研究開発拠点をつくる。だから、自分の国内で投資をしているんです。ここは日本は弱かった。ガラッと変えようとしてます。高市内閣で。

 だって為替変動にも強い経済構造をつくれるではないですか。国内でつくるんだから。為替が高くなったが、それがいいのか悪いのか、円高がいいのか、円安がいいのか、どっちがいいのか、皆わからないですよね。

 むかし、民主党政権の時、たしかドル70円台の超円高。日本で物をつくっても輸出しても売れないから、円高だったら輸出しても競争力ないですよね。日本の企業、海外にどんどん出ていっちゃった。

 それで、失業率もすごい高かった。そっちがいいのか。今円安だから悪いって言われるけれども、輸出産業にとっては大チャンス。食べ物を売るにも、自動車産業も、アメリカの関税があったけれども、円安がバッファーになった。ものすごくこれは助かりました。

 円安でもっと助かってるのが、外為特会っていうのがあるんですが、これの運用、今ホクホク状態です。

 だから円高がいいのか、円安がいいのかわからない。これは総理が口にすべきことじゃないけれども、為替が変動しても強い日本の経済構造を一緒に私はつくりたい。だから国内投資をもっと増やしたい。そう思ってます」

 上記は日経新聞がまとめた高市首相の応援演説です。大勢の聴衆が集まった会場での発言ですから、多少の誇張もあれば、簡略化もあるでしょう。文書化され、整理された発言ではありません。ところが、唐鎌氏は文脈を読まずに切り取って、取り上げ、次のように自身の見解を述べているのです。

 「総じて、今回の高市発言が円安容認だったかどうかは本質的な話ではない。それよりも「為替が修正されれば、日本企業の行動変容が劇的に期待できる」という前時代的な価値観が温存されている可能性の方が気になったし、さらに言えば、外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 「・・・、本質的な話ではない」とか、「前近代的な価値観が温存されている可能性が気になった」、「外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」等々。唐鎌氏の言葉使いが感情的で、独りよがりで、煽情的なのが印象的でした。

 要約の後で展開された本文も同様、恣意的な表現、根拠を示さない決めつけ、乱暴な展開が気になりました。このような雑なレポートが選挙期間中に公表されたのです。

 このレポートが発表されると、野党や一部のメディアが騒ぎ、首相を非難しました。たとえば、TBSは次のような報道をし、拡散していました。

■TBSの報道

 高市早苗首相が、1月31日の衆院選応援演説で、「外為特会で、運用が今ホクホク状態だ」と発言したことについて、2月3日、TBSは次のように報じています。

こちら → https://youtu.be/fHToz4ZdNkw

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 「高市総理の“円安でホクホク”発言余波続く きょうも円安進行」といった切り取りで報道されていました。

 この動画を見ればわかるように、高市首相は、「円安でもっと助かっているのが外為特会、これの運用、今ホクホク状態です。だから円高がいいのか、円安がいいのかはわからない。これは総理が口にすべきことではないけれども、為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」と述べています。

 高市首相の発言の主旨は、明らかに「為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」でした。ところが、画面に為替のボードが表示され、「円安を招いたのが高市首相・・・」といったナレーションで始まります。

 2月2日にみずほ銀行のエコノミストがミスリードするようなレポートを出し、それを受けて3日にテレビが報道したことで、市場が反応しました。“総理の発言は円安を容認している”との受け止めが広がり、円売りが加速したのです。

 片山さつき財務大臣は、2月3日、記者会見を行い、次のように述べました。

 「総理は円安が経済に与える影響について、一般論として輸入物価の上昇を通じて国民生活や事業活動の負担を増加させるといったマイナス面がある一方、国内投資が進み、国内で生産した製品が海外に輸出しやすくなることを通じ、企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、教科書に書いてあることを申し上げたのであり、特に円安メリットということを全然強調しておりません」(※ 前掲ユーチューブ)

 片山氏は、高市首相の発言はあくまでも「円安が経済に与える影響の一般論」だと述べ、円安により輸入物価が上昇して国民生活や事業活動の負担が増す一方で、輸出しやすくなり企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、「総理が日ごろ思われている教科書的な整理だ」と説明し、「私も財務大臣として全く同じ(見解)だ」との認識を示しました(※ 『時事通信』、2026年2月3日)。

■コメント欄にみるテレビ報道の影響

 この動画のコメント欄を見ると、ほとんどすべてのコメントが否定的なものでした。「金融のプロ中のプロのみずほ銀行が異例のレポートで高市演説を批判するほどの日本経済への打撃」といったコメントがありましたので、みずほ銀行エコノミスト見解が、高市下げに一定の効果を与えたことは明らかです。

 コメント欄で唯一、中立的で客観的な意見が見られました。ご紹介しておきましょう。

 「高市首相は円高のデメリットも伝えています。故意に円安のことしか切り取りせず偏向報道し、揚げ足取りする行為は公職選挙法、放送法違反でしょう」

 「悪夢の民主党政権では、円高1$75円が進行しすぎて、国内企業は海外に工場を移動してしまい、国内の失業者は大幅に増えました。海外の工場で作った物を日本に逆輸入することになってしまった。輸出国なので1$300円でも上等です。悪夢の民主党政権時では長引くデフレにより、日経平均株価は7000円台にまで暴落し、完全失業率5%越えと経済はボロボロになりました」

 このコメントは、まず、選挙期間中にこのような内容の放送を流したTBSに対し、放送法違反だと指摘しています。そして、円高のデメリットの部分を過去の事例に基づき、説明し、デフレに陥った日本経済がボロボロになったことを思い出させてくれています。

 さて、選挙期間中に、高市首相の応援演説から一部を切り取り、「高市下げ」の記事を公表したのは、みずほ銀行エコノミストでした。煽情的な語句でつづられた文章だっただけに、人々を感情的に動揺させました。

 こちらも岡田氏の場合と同様、中国での利権と絡んでいたことがわかりました。

■みずほ銀行、中国に証券会社を新設

 みずほフィナンシャルグループ(FG)は2025年10月1日、中国での証券子会社の新設を巡り、中国証券監督管理委員会(CSRC)から許可を受けたと発表しました。

 新会社の社名は、「みずほ証券(中国)有限公司」で、傘下のみずほ証券が100%出資し、北京市に設立します。資本金は23億人民元(約500億円)を予定しており、主に中国企業が発行する社債を引き受け、投資家に販売する債券ビジネスを展開します。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZRSP697516_R01C25A0000000/

 2023年にCSRCに証券会社設立を申請し、24年に受理されていました。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20240624release_jp.pdf

 開業時期は、現時点ではまだ、「回答できる段階にない」ようですが、開業後は主に中国企業の債券の引受業務や、中国の債券市場でのセールス&トレーディング業務を手がけるといいます。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20251001release_jp.pdf

 中国ではすでに、傘下のみずほ銀行を通じ、銀行間取引市場で、証券化商品や人民元建て債券「パンダ債」の引受業務を展開してきました。新たな証券会社を通じて、証券取引所を介した債券売買にも参画し、現地で人材を採用ことも予定しているといいます(※ 日経新聞、2025年10月1日)。

 中国は、2020年に証券会社に関する外資規制を撤廃し、株式市場を含む中国資本市場に外国金融機関がより積極的に参入する道を開いていました。ゴールドマン・サックスやBNPパリバなども相次いで、全額出資の証券部門を開設する認可を受けています(※ ロイター、2025年10月1日)。

 みずほ銀行は、中国の金融政策に沿って、北京で証券会社を立ち上げていたのです。もちろん、共産党政権に覚えめでたくなければ、できる話ではありません。

 こうしてみてくると、みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌氏の記事は、ポジショントークだったといわざるをえません。選挙期間中にあえて「高市下げ」の記事を公表して騒ぎを大きくし、反高市工作を行っていたとしか思えないのです。

 工作活動を行っていたのは、もちろん、日本人ばかりではありません。中国政府やその周辺もまた、反高市工作を行っていました。

■中国による反高市工作

 日経新聞は、今回の衆院選に関し、SNSを使った情報工作とみられる動きが見つかったと報じています。Xのデータを分析したところ、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)。

 衆院解散が報道された1月中旬、次のようなハッシュタグ(拡散を狙ったキーワード)がX上に広がり始めました。

(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)

 このようなハッシュタグをつけて投稿していた複数のアカウントが見つかりました。それらを並べて比べると、投稿パターンやプロフィル情報が不自然に一致していました。

 日本経済新聞は、これらの投稿データを精査し、情報工作を目的としたアカウントを探りあてました。その結果、情報工作アカウントが、一般的な利用者とは異なる動きをしていたことがわかりました。

 たとえば、共通ハッシュタグの多用、プロフィル画像の使い回し、法則性があり、酷似した利用者ID、等々です。さらに、投稿者を特定できる情報がない匿名によって、同じパターンの内容を、他のアカウントと連動して投稿するといったことも主な特徴でした。

 日経新聞はこの調査結果に基づき、次のように報じています。

 「8日投開票の衆院選に関し、X(旧ツイッター)のデータを分析したところ、情報工作とみられる動きが見つかった。400ほどの中国系のアカウント(投稿者)が連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していた」(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 中国語の表現や字体を含むアカウント、あるいは、中国政府に近いアカウントとつながりのあるアカウントなど、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです。

 言語別に発信量の推移を示したグラフも、掲載されていました。

(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 上の図で明らかなように、工作に使われたとみられる一連のハッシュタグの投稿は、1月14日ごろから急激に増え、解散表明直後の1月20日には中国語と日本語を合わせて600件を超えました。

 400ほどある工作アカウントの少なくとも76%は、選挙直前の25年12月以降に開設されていました。運営側のXも、この不自然な動きを検知しており、凍結・閲覧制限に動きました。工作アカウントのうち2月4日時点で4割超が、Xから事実上の「不正認定」をされています。

 このようなアカウントは選挙期間中に、次々と凍結されたのですが、新たな工作アカウントが毎日、補充され、ハッシュタグは拡散され続けました。工作の拡散パターンを分析すると、工作アカウントには2つの類型があることがわかったといいます。すなわち、「発信源アカウント」と「拡散加速アカウント」です。ちなみに、「発信源アカウント」とは、中国政府の主張をなぞる投稿を中国から大量に発信するものを指します(※ 前掲URL)。

 Xの推定では、中国系の工作活動は、アカウントを数百万規模で動かすことができます。ところが、今回、工作のために動かしたアカウントの規模は、その潜在能力に比べて少ないものでした。したがって、今回の工作の主目的は、選挙への介入よりも、ステルス化(探知されにくくする技術)やAI画像など、様々な手法を試すことにあったのではないかと推測されています。

■AI画像を使った工作

 PwCコンサルティング(https://www.pwc.com/jp/ja/about-us/member/consulting.html)の村上純一パートナーは、生成AIが普及したことによって、言語などによる壁がなくなり、情報工作をする側にとっては、「何を目的に、いつ、どのテーマで工作を仕掛けるか」だけの問題となっていると指摘します。

 たとえば、社会的対立をあおるAI画像の例があります。

(※ 前掲URL。別々に投稿された画像を日経新聞が1枚にまとめて配置)

 上の図は、社会保障をめぐる若年層と高齢者層との対立、夫婦別姓をめぐる問題などを可視化したAI画像です。画像をメインに置くことによって、メッセージを簡略化し、明確化できるので、印象操作をしやすくなることがわかります。

 現時点では、まだ文字に中国語の痕跡が残ったりしており、品質レベルは低いです。とはいえ、今後、AI技術が進化していくことによって、より自然な画像や文章が量産できるようになるのは確かです。選挙時に限らず、平常時にも、印象操作や分断工作の脅威はさらに増していくことでしょう。

■情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

 ネット上では情報戦が激しさを増しています。なにも中国系のアカウントに限りません。ロシア政府が背後にいるとみられるグループが、米国など諸外国の選挙に介入した事例がすでに確認されています。

 今回の選挙では、国会でも政治家による妨害工作が行われましたし、経済界でもエコノミストによる「高市下げ」の印象操作が行われました。それでも、高市内閣は圧勝しました。選挙後も高い支持率を維持しています。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 興味深いのは、高市首相の解散理由です。

 2026年1月23日、記者会見を開いた高市首相は、「高市早苗に、国家経営を託していただけるのか。国民の皆様に直接、御判断を頂きたい」と解散の理由を述べました(※ https://www.jimin.jp/news/press/212284.html)。

 確かに、高市内閣は就任すると、「日本列島を、強く豊かに」するため、重要政策を大転換し、全く新しい経済・財政政策を始めました。その多くが、前回の衆議院選挙で、自民党の政権公約には書かれていなかった政策でした。

 「重要な政策転換について、国民の皆様に正面からお示しし、その是非について、堂々と審判を仰ぐことが、民主主義国家のリーダーの責務」という首相の考えは筋が通っています。そして、政策転換の本丸は、「責任ある積極財政」だといい、「行き過ぎた緊縮志向。未来への投資不足。この流れを、高市内閣で終わらせます」と表明したのです。

■アジェンダ設定による勝利か

 積極的で、挑戦的な政策を象徴するような、自民党のポスターが作成されました。

(※ https://www.jimin.jp/news/information/212092.html)

 赤と白、黒で色構成されたポスターには、洗練された都会風のテイストと、果敢にチャレンジする泥臭さと力強さが感じられます。高市内閣が掲げた「日本列島を、強く豊かに」のスローガンが見事に表現されているのです。

 「高市氏」(自民党)か、それとも、「野田氏&斎藤氏」(中道改革連合)か、と二者択一を迫られたら、ほとんどの国民は「高市氏」を選ぶしかないでしょう。「テンポよく、積極的に政治を動かすリーダー」か、それとも、「周りへの忖度に終始し、いつまでも決められないリーダー」か、多くの国民にとって、答えは一つでした。

 高市内閣には、国民にアピールするための政策アジェンダはたくさん、ありました。ところが、高市首相は、敢えて簡略化し、リーダーの資質に落とし込んで、アジェンダ設定をしたのです。「明るく未来を描き、テキパキと行動する女性」か、それとも、「現状維持にこだわる、暗く、覇気のない高齢男性」か、きわめてわかりやすく、対立構造が創り出されました。

 結果は明々白々でした。

 こうしてみてくると、自民党の圧勝は、卓越したアジェンダ設定によるものだったといわざるをえません。中国がどれほど強烈な情報戦、認知戦を仕掛けてこようとも、はるかに及ばないほどの訴求力が、このアジェンダ設定にはあったのです。

 今回の選挙では、情報技術の発達とSNSの普及によって、いつの間にか、認知戦の時代に突入していることが明らかになりました。

 これまでの情報戦やこれからの認知戦に対し、日本は今後、どう対応していくべきか、これもまた、高市内閣2.0が取り組むべき喫緊の課題です。(2026/2/25 香取淳子)

「鼓の胴の松飾り」が物語るもの

■本丸玄関に掲げられたしめ飾り

 佐賀城本丸歴史館の城門をくぐって中に入ると、まず目に入ってくるのが、本丸御殿の玄関です。

 軒下の天井近くには、大きくて太いしめ飾りが飾られているのが見えます。鼓の胴のような形が印象的です。アップしてみましょう。

 明らかに、普段、見かけない形状のしめ飾りです。調べてみると、これは「鼓胴型」といわれるもので、神社の飾りなどで使われているようです。訪れたのは、12月半ば過ぎでしたから、おそらく、正月飾りなのでしょう。胴の中央部分には、ゆずり葉がたくさん取り付けられ、葉陰にみかんが見え、その下には、紅白の水引を巻き付けた半紙でくるまれた黒いものが見えます。

 変則的な形状だといいながら、添えられているのはいずれも、お正月を祝うための縁起物です。ゆずり葉は、「子孫繁栄」や「世代交代」の象徴として、正月の縁起物に用いられますし、みかんも、「子孫繁栄」の意味を込めて飾られます。 紅白の水引はもちろん、お祝い事の際には必ず使われるものです。

 調べてみると、次のような文書がみつかりました。

こちら → https://saga-museum.jp/sagajou/docs/4e6592467de7748fef647b0cba3cebd3.pdf

 この文書を読んで、いくつかのことがわかりました。まず、このしめ飾りが「鼓の胴の松飾り」と呼ばれていること、そして、この松飾りが「島原の乱」に因むものであること、等々です。

 さらに、この文書の最後には説明書きが添えられており、橙(だいだい)、楪(ゆずりは)、炭(すみ)、南天(なんてん)の意味が書かれていました。

■鼓の胴の松飾り

 文書の後に添えられた説明書きを読んで、気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、私が「みかん」だと思っていたものが、実は、「橙」だったことです。みかんも橙も同じ柑橘類ですが、橙は「だいだい」と発音しますから、「代々栄える」という意味が込められているようで、語呂合わせです。

 見たときは、気づかなかったのですが、このしめ飾りには、南天も添えられていたようです。「なんてん」と発音しますから、「難を転じる」という意味になります。こちらも、語呂合わせで添えられた縁起物です。

 さらに、半紙の先からはみ出していた黒いものの正体がわかりました。「炭」だったのです。説明では、「黒が邪気を払う色とされるからとも、読みを「住み」に通じさせて永住を祝う意からともいう」と記されています。

 改めて、藁で造られたしめ飾りを見ると、バランスのいい色合わせが印象的です。赤(南天)、黄色(橙)、緑(ゆずりは)、黒(炭)など、色とりどりのものが添えられており、それぞれが、家族の無事と安全、そして、代々の繁栄を願う縁起物でした。

 それにしても、一風変わった正月飾りでした。

 変則的な形状だからこそ、印象深いのかもしれません。新年を迎えたとき、家族の安全と幸せ、子孫の繁栄、恙なく、無事な暮らしを願う人々の気持ちがしっかりと、鼓の中に込められているように思えました。

 興味深いのは、この松飾りが、「島原の乱」に由来する正月飾りだと説明されていることです。それでは、松飾りに纏わるエピソードを辿ってみることにしましょう。

■島原の乱にまつわるエピソード

「島原の乱」とは、寛永十四(1637)年から十五(1638)年にかけて、島原・天草地域でキリシタン農民が蜂起し、原城に立て籠った事件を指します。江戸幕府は西国大名を動員し、鎮圧に赴かせました。隣接地なので、当然のことながら、佐賀藩も参戦しています。

 さきほどご紹介した文書では、次のように記されています。

 「佐賀藩では、3万5千人を島原に送り、鍋島勝茂の三男直澄が大手、長男元茂が搦手の指揮をとりました。勝利のきっかけを作ったのは、佐賀藩の一番乗りの武功でした。

 しかし、そのことが抜け駆けであると逆に軍令違反とされ、同年6月29日、鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになりました」(※ 前掲、URL)

 これが前段の部分です。

 ここでは、①佐賀藩が島原の乱で武功を立てたこと、②それにもかかわらず、謹慎処分をうけたこと、すなわち、一つの出来事に対する二つの矛盾する局面が示されています。

 一つは、攻撃して鎮圧に成功し、幕府に貢献したという局面、すなわち、目的を達成し、効果で測定される局面です。こちらは客観的に判断できる事実です。そして、もう一つは、勝利を導いた過程に対する評価の局面です。こちらは幕府の見解に基づき、判断されました。

 結果として、佐賀藩主の鍋島勝茂は、鎮圧に成功したにもかかわらず、理不尽にも、謹慎処分を受けてしまいます。上記の文章でいえば、「一番乗りの武功」が、「軍令違反」とされ、処分を受けたのです。その処分が六か月におよぶ謹慎処分でした。

 そして、後段の部分では次のように記されています。

 「ところが、年も押し迫った12月29日、突然、この謹慎処分が解けました。質素な正月の準備をしていた佐賀藩江戸上屋敷では、門松などの正月飾りは用意しておらず、困惑してしまいました。そこで、かねてかれ出入りのあった出雲屋庄兵衛に、松などの材料を集めさせ、米俵などのわらを使い、にわかに松飾りを作らせました。その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになりました。この松飾りは大変評判がよく、佐賀藩江戸上屋敷で飾られていました」(※ 前掲、URL)

 ここでは、①年末の十二月二十九日、突然、謹慎処分が解かれたこと、②佐賀藩江戸上屋敷では、正月飾りを準備しておらず、慌てて出入りの業者に作らせたのが、この「鼓の胴の松飾り」だったということ、が語られています。

 幕府から処分を解かれたという側面と、そして、正月飾りを用意していなかったが、なんとか間に合わせたという側面が語られています。危機を乗り越えて得られた安堵感、そして、共に正月を祝うことができた幸福感が浮き彫りにされています。

 この時の、藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々の、安堵感と幸福感を象徴するのが、この「鼓の胴の松飾り」というわけでした。

 このエピソードの前段では、幕府から理不尽にも謹慎処分にされ、佐賀藩主が不遇を受け入れざるをえなかった状況が語られています。そして、後段では、藩主の謹慎処分が解けた年末、佐賀藩江戸上屋敷の人々が、心のこもった松飾りを手配し、無事にお正月を迎えることができたと述べられています。藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々が一体となって、危機を乗り越え、共に正月を祝うことができたというハッピーエンドのエピソードになっているのです。

 もっとも、先ほどの文書に記された説明ではこれだけのことしかわかりません。当時の佐賀藩の人々の気持ちを把握するため、まずは、島原の乱が勃発した経緯から、みていくことにしましょう。

■島原の乱の勃発から幕府の対応

 島原の乱が勃発したのは、寛永十四(1637)年十月二十五日のことでした。キリシタンに対する過酷な弾圧と島原藩による重税がきっかけで、一揆が勃発したのです。この日、島原の代官・林兵左衛門が撲殺されたばかりか、島原各地の代官が次々と襲撃を受け、一揆の規模が広がりました。翌二十六日には島原城が攻撃され、城下町が放火されました。

 一連の暴動を知った熊本藩は、情報収集のために歩御使番(伝令)を島原に派遣しました。(※ 上田哲也、「熊本藩細川家の忍び」、『忍者研究』3号、2020年、p.19)

 一方、佐賀藩主の鍋島勝茂(1580-1657)は、寛永十四(1637)年十月二十六日、江戸でこの島原一揆の報に接しました。佐賀藩が最も早く、一揆の情報を掴んでいたといわれていますが、それは、島原藩から支援を求める書状が届いていたからでした。島原藩から佐賀藩宛ての求援状の日付は、熊本藩宛てのものよりも一日早かったのです。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』、24号、1979年、p.58)

 このように、一揆勃発の直後に、島原藩から隣接藩へ支援を求める書状が届いていたのです。ところが、両藩は、越境して支援に赴くことができませんでした。武家諸法度の規定に縛られ、幕府の命令なしに支援することが禁じられていたからでした。

 書状を受け取った佐賀藩は、豊後府内(大分城)にいた目付(旗本、御家人を監視する幕府の役人)に急報して、指示を仰ぎました。ところが、目付からの注進が幕府に届いたのが十一月九日でした。一揆が勃発してから半月も経っていました。

 情報が遅れたため、幕府の軍事的対応も遅れ、その間に、一揆の勢力は拡大してしまいました。十一月十九日には島原南部一帯を支配したばかりか、唐津領天草でも蜂起し、富岡城を落城寸前にまで追い詰めていました。

 幕府は、上使として板倉重昌(1588-1638)、石谷貞清(1594-1672)を派遣し、隣接で対応する藩として、佐賀と唐津を充てました。ところが、唐津領の天草で一揆が勃発した知らせを受け、幕府は、唐津を久留米藩と柳川藩に変更し、熊本藩を肥後天草の警備に充てました。

 佐賀藩主の鍋島勝茂は、上使板倉重正に随伴して領地に戻ることを幕府に願い出ましたが、許されませんでした。他の九州外様大名と同様、世子(大名の跡継ぎの子)である小城の鍋島元茂(紀伊守、1602-1654)と蓮池の直澄(甲斐守、1616-1669)を下国させ、乱の鎮圧に当たらせることになったのです。(※ 中村質、前掲、p.62)

 上使が久留米に到着したのが十二月三日、それを受けて、久留米、柳川の藩兵が六日に島原に到着し、唐津、熊本藩が九日に天草に上陸しました。ところが、その時、一揆勢はすでに原城に籠っていたのです。

 原城が主戦場になりました。

■原城攻撃

 第一回目の原城攻撃は十二月十日で、この時の籠城者数は二万数千人でした。一般に城攻めの場合、籠城者の数倍から十倍の兵員が必要だとされていました。ところが、幕府側は、島原藩、佐賀藩、久留米藩、柳川藩、上使(幕府)勢を含めても五万有余にすぎませんでした。当然、勝利するはずはなく、続く十二月二十日、そして、寛永十五(1638)年元旦の戦闘でも幕府軍は敗退しました。


(※ https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ieys7.htmより)

 上の図では、城壁の外から攻める幕府軍と、内から抗戦する反乱軍が描かれています。一場面だけを切り取った絵なので、城壁を挟んで、両軍が互角に戦っているように見えますが、城外にいる幕府軍は圧倒的に不利でした。上使の板倉が戦死した寛永元年正月の戦闘では、諸藩を合わせ、死傷者は三千九百人にも及んだといわれています。(※ 中村質、前掲、p.63)

 原城には約三万人が、武器や食料を運びこんで立て籠もり、討伐軍に備えていました。もちろん、その中には女性や子供、高齢者などが含まれていますから、実際に戦えるのは五千人ぐらいでした。

 それでも一揆勢が善戦できたのは、原城が難攻不落の要塞だったからです。原城は島原半島(長崎県)の南端にあり、東と南と北が海で、西側だけが陸につながっている地形に建っていました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Remains_of_Hara_castle_as_seen_from_the_sea.JPG

 上の写真は、海から見た原城の跡です。確かに、三方が海で囲まれており、ぎりぎりまで崖が迫っています。明らかに、攻めるのが極めて難しく、自然の要塞だったことがわかります。

■難攻不落の原城

 この原城は、有馬貴純(生没年不詳)によって、明応五(1496)年に築城されました。肥前の戦国大名だった有馬貴純は、居城であった日野江城を難攻不落の城に強靭化すると、次に高来郡を制圧し、さらに、短期間のうちに藤津、杵島の両郡を併合しました。(※ 松本慎二、「原城」、『西海考古』第3号、2001年7月、p.99)

 実戦を繰り返し、島原半島をほぼ手中に収めたのです。さまざまな戦闘経験を積んでいるだけに、築城に際しては、難攻不落であることを絶対条件にしたのでしょう。先ほどの写真を見ると、この原城が、きわめて攻めにくい地形に建造されていたことがわかります。

 ここを居城にしていたのが、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)でした。

 有馬晴信は、関ヶ原の戦いでは、徳川方についていたため、領地の所有は保証されました。ところが、奪われた領地の回復を求めて贈収賄事件を起こし、そのうえ、貿易権を巡る長崎奉行殺害の企てが発覚したので、甲斐国に流されました。慶長十七(1612)年、幕命によって自害させられました(※ 松本慎二、前掲、p.100)。

 原城の主がいなくなってしまったのです。

 慶長二十(1615)年六月十三日、一国一城令に則って、日野江城と原城は破棄されました。当時、江戸幕府は諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる法令による措置を講じたのです。統制を図るためでした。

 島原の乱が勃発した時、原城はすでに廃城でした。

 一揆をおこした人々は、これ幸いと、廃城になった原城に立て籠もりました。この城は、戦国大名が攻め込まれることを前提に、築城されました。それだけに、攻めるのがきわめて難しく、なかなか陥落しませんでした。

 実際、幕府軍は上使板倉の統括の下、第1回、2回、3回にわたって、原城を攻めました。ところが、陥落させることができないまま、敗退し、3回目の攻撃で戦死しています。

 寛永十五年元旦の戦いでは、とくに激しい乱闘が繰り返されました。上使の板倉重昌が戦死し、目付(幕臣の監察にあたる)や使番(諸大名の監督)も負傷してしまいました。この時、死傷者数は、諸藩あわせて三千九百人にものぼりました。凄惨な死闘が展開されたのです。

 一連の原城攻めの中で、もっとも死傷者が多かったのは、寛永元年のこの戦闘によるものでした。中村質氏がまとめた表によると、島原の乱を鎮圧するための戦闘での死傷者は、佐賀藩の場合3654名で、全体(10937名)の33.4%にも及びました。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』24号、1979年、p.64)

 佐賀藩は大きな犠牲を払って、島原の乱の鎮圧に臨んでいたのです。

■松平信綱、戦法を変えて攻撃

 上使第二陣の松平信綱(1596-1662)と戸田氏鉄(1596-1662)が、島原の陣地に到着したのは、寛永元年正月四日でした。上使板倉が戦死し、幕府軍が最も大きな打撃をこうむった戦闘の三日後です。

 松平信綱と戸田氏鉄が幕府から派遣されたのは、一揆鎮圧後の処理のためでした。幕府としては、島原で勃発した一揆など、容易に鎮圧できると思っていたのでしょう。彼らは板倉が戦死したからではなく、鎮圧できているだろうという想定の下、戦後処理のために派遣されていたのです。

 ところが、江戸からはるばる島原に着いてみると、上使の板倉重昌はその三日前の戦闘で戦死しており、目付の石谷貞清も重傷を負っていました。急遽、板倉に代わって指揮を執ったのが、上司の松平信綱です。幕府軍の総大将として、一揆を鎮圧する責務を負うことになったのです。

 一揆勢の抵抗は、その後も激しく、一月二十八日には副将格の戸田氏鉄が負傷してしまいました。そこで、松平信綱は、戦陣経験のある老将達を集めて、作戦会議を行い、難攻不落の城攻めにふさわしい戦法に切り替えました。すなわち、大量に兵を動員し、仕寄攻めの作戦を取ったのです。「攻城軍十二万七千人」といわれる数をはるかに超える規模であったといいます(※ 中村質、前掲、p.64)。

 ちなみに「仕寄攻め」とは、諸藩陣場から城の塀際まで竹束や板等で防弾の仕寄りを作り上げてから、「城乗り」(城に攻め入ること)にかかる戦法です。工事期間中に、城中の食糧、弾薬等を欠乏させることになるので、兵糧攻めともいえるものでした。

 それでは、「仕寄攻め」とは一体、どういうものなのでしょうか。具体的なイメージを掴むために、ネットで見つけた竹束仕寄りの写真を見てみることにしましょう。


(※ https://livedoor.blogimg.jp/naganoetokino1/imgs/3/0/301cb3af.jpg

 上記の写真は、見るからに、頑丈な建造物です。弾丸や投石から身を守るための盾として使うのですから、これだけたくさんの竹が必要になるのでしょう。あまりにも巨大な竹束には驚いてしまいます。

 まずは塹壕を掘り,このような竹束や大楯を張り巡らせて、敵の矢弾や投石を防ぐ工事をし、防御態勢を整えてから、攻撃に挑むのです。上使の松平信綱は、寛永元年の悲惨な戦闘結果を踏まえ、確実に鎮圧できる戦法に切り替えたのです。

 これだけの工事をしてから戦闘を開始するのですから、実戦に入るまでに時間がかかります。その間、籠城している人々は、城内に食糧や武器の搬入をすることができません。時間はかかりますが、これは、確実に一揆勢を追い詰める戦法でした。

 実際、この戦略に切り替えた結果、一揆勢の兵糧は、二月下旬にはほぼ尽きてしまいました。外堀を固めることによって、強硬な抵抗勢力を徐々に弱体化させ、鎮圧することができたのです。

 二月二十八日、遂に、幕府軍は原城を陥落させることができました。松平信綱が、実戦経験のある老将達と作戦を練り、戦法を兵糧攻めに変更したことが、間接的な勝因でした。

 兵糧攻めは、時間の経過とともに幕府軍に有利に働く戦法でした。ところが、佐賀藩は、功を焦って抜け駆けをしてしまいました。

 鎮圧に至る経緯を振り返ってみることにしましょう。

■鎮圧に至る経緯

 上使・板倉重昌の戦死が幕府に伝えられると、幕府は、直ちに諸藩の藩主に下国し、参戦するよう命じました。命令に従い、佐賀藩主の鍋島勝茂が、島原に着いたのは一月二十九日でした。当時、しばらくは「仕寄攻め」のための工事が続き、戦闘に挑めない状況でした。

 城攻めの布陣が定まったのは、二月二十日ごろでした。

 当初、第一面に、熊本藩、柳川藩、島原藩、久留米藩、佐賀藩、唐津藩、福岡藩の順に横隊を組み、藩の石高に応じて「持場」を定めていました。背後の第二面は、左から、鹿児島藩、上使勢、各地の使者、延岡藩、福山藩の布陣でした。

 佐賀藩は第一面のほぼ中央で、二の丸出口と鳩山出口(絶壁で攻略不能)に面しており、一番の深堀から九番の諫早まで横隊の持場でした。ところが、これでは攻め口が狭くて攻めづらく、後備の兵を置く必要があることから、縦隊四段としました。

 二月二十日付の軍令および塀取仕組図では、島原入りの行軍隊形と基本的に合致する配置が示されていました。ところが、実際の戦闘はそれとは異なった隊形が取られていたのです。

 二月二十一日未明に、福岡、唐津、佐賀、久留米などの諸藩による城兵(城を守る兵士)の夜討ちが行われ、二十七、二十八日には、佐賀藩の抜け駆けに始まる総攻撃が行われました。こうして五か月に亘って籠城していた一揆勢は、完全に鎮圧されたのです(※ 中村質、前掲。p.65)。

 鎮圧に至る経緯をみると、佐賀藩が抜け駆けをし、二日に亘る総攻撃をしかけたおかげで、反乱軍を完全に鎮圧できたことがわかります。ところが、佐賀藩主の鍋島勝茂らは、軍令違反に問われ、出仕を止められました。武功をあげ、鎮圧を成功させたにもかかわらず、幕府からは謹慎処分を受けたのです。

 佐賀藩は、なぜ、謹慎処分を受けなければならなかったのでしょうか?

■厳しい戦後処理

 六月二十九日、藩主・鍋島勝茂は、佐賀藩の軍監(出征時の指揮官)で、先駆けを指揮した長崎奉行の柳原職直(1586-1648)とともに、上使の軍令違反に問われ、幕府への出仕を止められました。軍令に背き、一手先駆けの攻撃を佐賀藩が仕掛けたことに対する処罰でした。半年にわたる謹慎処分を受けています。

 島原の乱の当事者である島原藩は、改易処分(身分剥奪や領地・家屋敷の没収といった重い刑罰)となり、藩主の松倉勝家は後に斬首となりました。領民の生活が成り立たないほど、過酷な年貢の取り立てによって、一揆を招いた責任を問われたのです。大名が切腹ではなく斬首とされたのは、江戸時代ではこの1件だけだったといいます。それだけ厳しい処分がくだされたのです。 

 天草を領有していた領主の寺沢堅高も責任を問われ、領地を没収されています。寺沢堅高は、後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。

 そして、当初の上使で、戦死した板倉重昌の嫡子である板倉重矩は、父の戦死後、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際、勝手に参戦し奮闘したことが軍令違反に問われました。父親が戦死した際の不手際を問われ、鍋島勝茂と同様、同年十二月までの謹慎処分を受けています。

 このように関係者はいずれも、厳罰処分を受けています。

 一方、一揆鎮圧を成し遂げた松平信綱は、その勲功を賞され、寛永十六(1639)年一月五日、三万石加増となって六万石で川越藩に移封されています。島原に派遣された幕府軍の指揮を執って、一揆勢の鎮圧に成功した功労が評価されたのです。褒章として、江戸に近い川越藩に移封されたのは、信綱が幕府にとって必要な人材だったからに違いありません。

■武家諸法度の改正

 松平信綱は寛永十五年、老中首座になり、幕政を統括するようになりました。真っ先に手を付けたのが、武家諸法度の改正でした。島原の乱での経験から、武家諸法度の改正をしなければならないと思っていたことがわかります。

 島原の乱が勃発した際、なぜ、幕府の軍事的対応が遅れたのかを振り返ってみれば、武家諸法度を改正しなければならないと思うのは当然でした。

 振り返ってみましょう。

 キリシタンに対する弾圧と島原藩による重税に耐えかねて、一揆が勃発したのは、十月二十五日でした。十月二十七日には島原藩の家老が、江戸に滞在中の藩主・松倉勝家に急使を派遣しています。その一方で、隣接する熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家にも島原城への救援を依頼しました。(※ 中村質、前掲、p.59)

 ところが、熊本藩も佐賀藩も、寛永十二(1635)年に出された「武家諸法度」に縛られ、救援活動を行えませんでした。

 「武家諸法度」十九条の第四条に、次のような事項があります。

 「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事」(※ Wikipedia)

「江戸や他藩で何が起こっても、在郷のものはそこを守り、幕府からの命令を待つこと」と定められていたのです。島原藩から支援依頼が来ても、熊本藩も佐賀藩も支援活動に向かうことができず、幕府目付の指示を仰ぐことしかできなかったのです。

 「武家諸法度」が制定されていたせいで、隣接藩がすぐに対応することができず、初動が遅れました。一揆の広がりを招いた原因が武家諸法度にあることは明らかでした。

■軍制の確立と正月飾り

 老中になった松平信綱は、早々に武家諸法度を改正しています。一揆が起これば、近隣諸藩が即刻、越境して鎮圧できるように変更したのです。そればかりではありませんでした。再びこのような一揆が起こらないように、キリスト教を普及させたポルトガルとは断交し、オランダとだけ交易できるようにしました。島原の乱を教訓に、松平信綱は幕藩体制を整備し、鎖国体制を完成させたのです。

 さて、軍令違反に問われ、謹慎処分を受けていた鍋島勝茂と板倉重矩は、同年十二月二十九日に処分が解除されました。

 江戸時代、将軍家が諸大名や旗本とともに祝う儀礼の一つに、年始御礼(正月元日~三日)というものがありました。主従関係を強化する意味あいが大きく、最大規模の年中行事でした。それだけに、幕府としては正月前には処分を解除しようと思ったのでしょう。

 一方、佐賀藩江戸上屋敷の人々は、謹慎処分のまま年を越すのだと思っていたところ、暮れも押し迫った十二月二十九日、突如、藩主の謹慎処分が解かれました。どれほど驚いたことでしょう。

 なにより困ったのは、正月準備も質素なものしか用意していなかったことでした。藩主の処分が解除されたのですから、なんとしても正月飾りは用意しなければなりません。窮余の策で、藩屋敷に出入りしていた出雲屋庄兵衛に頼み、松飾りらしいものを作らせました。それが、冒頭にご紹介した「鼓の胴の松飾り」です。

 松や米俵の藁などあり合わせのものを使って、鼓の胴の形に仕上げられたこの正月飾りは、とても評判がよく、以後、この松飾りはずっと佐賀藩江戸上屋敷で飾られてきました。明治以降も、その伝統を引き継ぎ、佐賀県庁や佐賀市役所に飾られてきたといいます。

 これまで見てきたように、「鼓の胴の松飾り」が造られることになったのは、「島原の乱」の戦後処理がきっかけでした。そして、その「島原の乱」の戦後処理は、幕藩体制の整備や鎖国体制の確立と密接に絡んでいました。

 佐賀藩主を謹慎処分にしたことからは、幕府が、武功を立てるよりも、軍規を遵守することを優先したからといえます。つまり、幕府が、島原の乱を契機に、軍制を強化し、平時にも適合する遵法精神を涵養したかったからではないかという気がするのです。

 江戸時代に入って、外国勢力浸透の危険性に気づいた幕府は、鎖国政策を確立することを選びました。その契機となったのが、「島原の乱」です。一揆勢の鎮圧に成功した佐賀藩の藩主を、抜け駆けをしたことを理由に謹慎処分にしたのは、幕府が、社会統制を強化しようとしていたことを示すものにほかなりません。

(2026/1/30 香取淳子)

陶磁器業界の近代化に貢献したワグネルと納富介次郎

■有田駅で見かけた柿右衛門の陶板

 2025年12月15日午後二時過ぎ、ようやく有田駅に着きました。駅員がチケットを回収するシステムの駅でした。背後に小さな山が見えます。下車したホームの対面に、屋根付きの掲示板のようなものが見えました。ホームの階段を上って渡り、近づいてみると、陶板が展示されていました。

 左下に縦書きで「第十四代柿右衛門」と署名が入っています。遠目からは、一瞬、朝顔かなと思いましたが、よく見ると、ちょっと違っていました。ラッパのように開いた花弁の形状、傍らの葉の形に長い茎、そして、花芯には数本の雄しべが描かれています。おそらく、ユリの花でしょう。落ち着いた赤とベージュの花弁が優しく、穏やかな空間を創り出しています。

 伸びやかに広がる花々を、乳白色の余白が支える画面構成が印象的です。

 製作者の第十四代柿右衛門(1934-2013)は、三百数十年も続く「柿右衛門様式」の伝承者です。昭和五七(1982)年に、十四代柿右衛門を襲名しました。以来、「柿右衛門様式」の中に自分自身の個性を発揮するようになったそうです。「余白の美」を特徴とする「柿右衛門様式」の奥深さ、表現の可塑性に気づいたからでした。

 第十四代柿右衛門は、柔らかな白い磁器の地肌に、赤を中心とした鮮やかな色で、野の草花などを華やかに描くのが特徴だとされています。柿右衛門様式の伝統を継承しながら、自身を表現し、現代の生活空間に合った作品を追求しているのです。平成十三(2001)年、色絵磁器の分野で国の無形文化財、すなわち人間国宝に認定されました。(※ https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250414_00000

 その人間国宝の作品がさり気なく、駅に設置されているのです。確かにいま、有田にいるのだという思いを強くしながら、ホームを歩いているうちに、ふと、駅の脇に貨車が停車しているのに気づきました。

 この貨車で陶磁器を輸送するのでしょうか。コンテナが多数、積み上げられています。後ろには小さな山が見えます。

 さらにホームを歩いていくと、コンテナ置き場のようなものがありました。その背後に、「佐賀県陶磁器工業協同組合」の看板のかかった建物が見えます。

 写真を拡大すると、一階部分に、「有田窯元ギャラリー」というショップの名前が見えます。しかも、その隣に白い胸像が設置されています。この写真でははっきりしないので、調べてみると、ワグネル(Gottfried Wagener, 1831- 1892)の胸像でした。明治初期に鍋島直正に招聘され、有田で技術指導を行った人物です。

 眩いほど白い顔面に、強い信念が感じられます。

■ワグネルとは?

 ドイツ人化学者ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場を設立するため、長崎に招聘されました。

 1868年3月29日にマルセイユを出発し、5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着しています。ところが、石鹸工場は軌道に乗らず、工場は取りやめになってしまいました。その後、佐賀藩に雇われ、明治1870年4月から8月にかけて、有田町で窯業の技術指導を行っていました。ワグネルが有田で行った技術指導は次のようなものでした。

●石灰を用いた経済的な釉薬の開発、

●従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用、

●薪不足を解決するための石炭窯の築造実験、(※ 武智ゆり、『近創史』、No.6, 2008年)

 わずか四か月ほどの期間でしたが、ワグネルは以上のような開発や技術指導を有田で行っていました。いずれも磁器製造の品質向上と経費節減につながるものです。ワグネルは、科学的手法によって有田焼製法の近代化に貢献していたのです。

 1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移動し、文部省設立と大学改組に伴い、1872年には医療系の東校(現・東京大学医学部)の数学、博物学、物理学、化学などの教育を担当しています。

 1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となりました。ヨーロッパの人々の嗜好がわかり、理化学分野の知識や技術があったからでした。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」で、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録および説明の作成を行いました。ワグネルの導きがなければ、とても受賞などできなかったでしょう。

 この時の万博で「名誉賞」を受賞したのが、「肥前有田 陶器製造所」でした。(※ 松田千晴、「万国博覧会と作品出品者」、2000年3月、p.28)

 有田での技術指導の効果が、受賞という形で得られたのです。ワグネルは万博出品に際し、「日本的で精巧な手工芸品」であることを求めました。粗雑な機械製品では西欧に負けると思ったのでしょう。近代化していない日本が競争優位に立てるとしたら、まさに「日本的で精巧な手工芸品」しかないと判断したのです。

 1876年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会でも、ワグネルの指導、助言のもとで参加準備に入りました。ここでもワグネルは出品作品について厳しい基準を貫きました。その結果、磁器部門では有田から深川栄左衛門他二名が入賞しています(※ 前掲、p.29)。

 日本政府初参加のウィーン万博で受賞できたのも、フィラデルフィア万博で入賞できたのもワグネルによって、予め出品作品の基準を示されていたからでしょう。欧米人の嗜好を踏まえ、出品作品を選んだ結果、受賞できたといえます。

 これについては当時、日本らしさが失われたと批判する向きもありましたが、日本の陶磁器は人気を博し、飛ぶように売れたといいます。有田香蘭社の出品作品はとくに精巧な美しさで、高評価を得ていたようです。

 技術指導等によって、陶磁器製造の近代化に貢献していたワグネルは、販売ルートの拡大にも大きな役割を果たしていたのです。国際的な展示場であった万博で高評価を得た有田焼は、当然のことながら、輸出産業の花形になっていきます。

 有田駅のホームに立っているだけで、このような陶磁器界の歴史の一コマを感じさせられます。そのまま維新期の有田に思いを馳せていたい気持ちになってしまいますが、実は今回、有田に来たのは所用があったからでした。有田工業高校を訪れるのが主目的でした。

 有田駅から徒歩15分ぐらいのところに有田工業高校はありました。校門を入ると、まず目に入ってきたのが、白い胸像です。近づいてみると、初代校長納富介次郎先生の像と書かれています。

 納富介次郎の像が、なぜ、有田工業高校の玄関に設置されているのでしょうか?

■納富介次郎とは?

 天保十五(1844)年に、納富介次郎(1844-1918)は、佐賀藩の支藩である小城藩の藩士の柴田花守の次男として生まれました。実父からは日本画を学び、安政六(1859)年、十六歳の時に佐賀藩士で儒学者の納富六郎左衛門の養子になると、その翌年から長崎に出て、南画を学んでいることがわかりました。

 日本画であれ、南画であれ、納富介次郎は幼い頃からさまざまな画風の絵を学び続けてきたことがわかります。根っから絵が好きだったからか、それとも周囲が彼の絵の才能を見抜き、学びの場を提供していたからか、経緯はよくわかりませんが、彼がどんな時でも描くことを忘れず、画業の習熟に励んでいたことがうかがい知れます。

 文久二(1862)年に、納富介次郎は、幕府勘定吟味役である根立助七郎の従者として、上海に渡っています。同じ佐賀藩士の中牟田倉之助や長州藩士の高杉晋作と共に上海に出向いて貿易調査を行い、報告書を作成していました。従者とはいえ、十九歳の時に海外業務に携わっているのです。藩命を受けての業務であり、幕府の業務の一環でもありました。

 そういえば、納富は十七歳の時、長崎に出て南画を学んでいました。その時、おそらく、語学も習得したのでしょう。語学ができ、学習能力が高く、臨機応変に対応できる柔軟性と行動力を備えていたからこそ、納富は海外業務に抜擢されのではないかと思います。上海には明治二年(1869)年にも再訪しています。大阪佐賀藩商会と清の貿易業務を行うためでした。そして、明治四(1871)年には、横浜に出て貿易業務に携わっています。興味深いことに、この時、業務の傍ら、納富は油絵を学んでいたというのです。

 横浜には居留地があり、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者として来日していたイギリス人チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832 – 1891)が、そこで日本人に油絵を教えていました。1865年に五姓田義松、1866年には高橋由一が入門していたことがわかっています。納富はおそらく、このワーグマンから学んでいたのではないかと思われます。

 実は、ワーグマンは1861年6月25日、イギリス公使オールコックの一行と共に長崎を訪れています。その頃、納富は長崎で南画を学んでいましたから、ワーグマンの噂は聞き及んでいたに違いありません、横浜に赴任した納富が、早々に、ワーグマンの許に出向いて油絵の教えを請うた可能性は高いです。

 納富が横浜で海外業務を担当していた明治四(1871)年、明治政府はオーストリア・ハンガリー帝国からウィーン万博への参加を打診されました。 万博は開国したばかりの日本が国際デビューするのに格好の舞台です。出品物を通して日本の豊かな国土や工芸品をアピールすることができますし、海外の展示品から最新の技術や文化を吸収することもできます。政府は参加することを決め、明治五(1872)年二月にその布告をしています。

■ウィーン万博、フィラデルフィア万博への参加

 明治六(1873)年(5月1日~11月1日)に、ウィーン万国博覧会が開催されました。これは日本政府がはじめて公式に参加し、出品した博覧会です。日本からは、官員、通訳、技術伝習生、御雇外国人、展覧会場の建設要員など、総勢100名近くが派遣されました。万博事務局総裁が大隈重信、現地を仕切る副総裁が佐野常民、ワグネルが顧問で出品物の選定や海外向けの目録、説明書を作成しました。佐賀藩の関係者が主要メンバーとして構成されていたのです。

 納富介次郎は、陶器製造図説編成兼審査官として、参加しました。語学ができ、絵画への造詣の深いこと、貿易業務に明るいことなどが認められたのでしょう。伊万里商社の陶工・川原忠次郎や京都の丹山陸郎は共に陶芸研究員として参加していました。

 ワグネルの斡旋によって、納富、川原は万博終了後もそのままヨーロッパに滞在し、ボヘミアのエルボーゲン製陶所(Elbogen Porcelain Factory)で伝習生として、陶磁器の製造を学びました。その後、彼らはフランスのセーブル製陶所(Manufacture de porcelaine de Sèvres)を見学した後、明治八(1875)年に帰国しています。

 納富や川原は日本人として初めて、ヨーロッパで陶磁器の製法を学び、著名な製造所でさまざまな製品を見てきた稀有な人物でした。この時の伝習経験を通して、納富は、工芸品として作品毎に制作する方法では量産化できず、貿易収支を改善するには限界があると認識するようになりました。

 欧米列強に伍していくには、量産体制を整える必要があると考えるようになり、組織的な人材育成にも取り組む必要があると考えました。納富は帰国後、次々と、工業学校あるいは工芸学校の創立に携わりましたが、それはヨーロッパでの伝習経験が契機となっていたのです。

 納富は、科学技術を駆使し、機能的で需要に応じた陶磁器を製造することが重要であるとも述べています。さらに、陶磁器の製造にはマーケティングが必要だという認識を示していました。商品である以上、日本の陶磁器が欧米でどれだけ需要があるか、顧客の嗜好はどのようなものか、コストに見合う生産ができるのか、といった市場調査が必要だというのです。

 こうしてみると、納富がヨーロッパで学んだものは、単に陶磁器の製造技術だけではなかったことがわかります。陶磁器の製造過程、販路、消費過程にも近代化が必要だということを学んでいたのです。

■自ら考案したデザイン

 帰国翌年の明治九(1876)年にフィラデルフィア万博が開催されました。納富は専任審査官として出品審査を行うばかりか、自らデザインした陶磁器なども出品しました。産地の職人から、明治政府あてに海外向けの作品の図案を示して欲しいという要望があったからでした。

 たとえば、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」という作品があります。

 森谷美保氏は、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」について、「花瓶の胴部には色づく紅葉が映える山中の滝の景色が絵にされ、主な文様は伝統的な山水風景だが、首と足は華やかな色彩で彩られ、瀟洒な耳が和洋折衷の雰囲気を漂わしている」と説明しています。(※ 森谷美保、2021年7月15日、日経新聞)。

 残念ながら、個人のコレクションなので、どのような作品なのか、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」をここでご紹介することはできませんが、森谷氏の文章からは、日本の風景ならではの繊細な美しさが表現されているようです。

 この作品の器形図案は、納富介次郎が考案したものでした。図案を香蘭社へ配布し、同社の設立メンバーだった名工・深海墨之助が成形を手掛けたのです。絵付けを行ったのが瓢池園で、ウィーン万博を機に東京で創業した絵付け業者です。明治六(1873)年に、東京深川の森下町に設立された陶磁器の絵付工場には、絵師出身の絵付師を抱えており、絵画的な表現を得意としていたといわれています。

 器形デザイン、成形、絵付けなど陶磁器の製造過程で、それぞれの領域で最高の力量をもつ人材を起用し、作品化したのです。

 納富はウィーン万博に参加した後、ヨーロッパに滞在して陶磁器の製造経験を積みました。そこで学んだのが、これまでの日本の製法を変えなければ、貿易収支を改善できないということでした。さまざまな改革を試みましたが、その一つが工芸デザインの改革でした。

 フィラデルフィア万博への出品作品では、博覧会事務局が輸出品の器形や文様の図案を作成し、産地にそれを配布し、図案と同一の製品を制作させる方法が実践されました。これは質の高い作品を生産する方法であり、納富が開発した陶磁器製造の近代化の一環でした。

 納富介次郎が考案した図案は後に、「温知図録」と呼ばれるようになりました。「温知図録」はまさに官民一体で輸出用の陶磁器製造に取り組んだ成果の一例といえます。

■実践教育に邁進

 帰国後の明治一〇(1877)年、納富は塩田真(1837-1917)とともに、江戸川製陶所を設立しました。共にウィーン万博に参加し、その後オーストリアの製陶所で技術を学んだ仲間の一人です。ところが、営利を顧みない公共的な事業だったので、次第に経営難になり、七年後の明治一七年に閉鎖せざるをえなくなりました。

 当時、陶磁器業界でも近代化が求められるようになっていました。技術はもちろん、経営、組合、特許制度などすべての領域で改革が必要になっていたのです。海外経験のある納富らは、近代化の指導者として各地で活躍しています。

 たとえば、明治一六(1883)年、納富は石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、製品を中国に輸出するように勧めています。翌々年に再び招かれて、一年間の技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。この期間に納富は、工芸品の生産体制の協同化、効率化を提言し、同業者組合の設立や物流の効率化なども推進しました。

 ヨーロッパでの陶磁器の製造経験を経て獲得した製法、生産体制の近代化を、納富は次々と実践し、広めていったのです。

 金沢での嘱託期間が終了すると、納富は石川県に働きかけて、人材育成に挑みます。明治二〇(1887)年に金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)が設立されると、その初代校長となりました。これは、日本初の中等実業教育機関で、専門画学部、美術工芸部、普通工芸部の三部が設けられていました。

こちら → https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/kenkoh/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B4%B9%E4%BB%8B

 その後、明治二七(1894)年に富山県工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を創立し、やはり初代校長となり、三年以上勤務しました。ここでは仏壇や高岡銅器の生産が盛んな現地の状況を踏まえ、木材彫刻、金属彫刻、鋳銅、髹漆の四科を設けました。

こちら → https://www.kogei-h.tym.ed.jp/school_information

 続いて、明治三一(1898)年には香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)を創立し、木工部と金工部を設置しました。ここでも三年以上にわたって初代校長を務めています。

こちら → https://www.kagawa-edu.jp/kogeih02/gakkousyoukai

 そして、郷里の佐賀県立工業学校(現・佐賀県立佐賀工業高等学校)の二代目校長として着任したのが、明治三四(1901)年です。その二年後の明治三六(1903)年には同校の分校だった佐賀県立有田工業学校(現・佐賀県立有田工業高等学校)を独立開校させ、初代校長になりました。

こちら → https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?content=__trashed-18__trashed

 納富介次郎は、明治二〇(1887)年から明治三六(1903)年までの十六年間、陶磁器の実践教育の場を次々と設立し続けてきました。金沢、高岡、高松、有田などで創立したこれら四校は、納富の理念を引き継ぎ、現在、互いに姉妹校となって、交流を重ねています。

 有田工業高校のホームページには、「校長あいさつ」として、次のように記されています。

 納富介次郎(佐賀県小城市出身)が創設した、石川県立工業高等学校、富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校とは、平成一二(2000)年に姉妹校交流を締結している。以来、各校との交流を続け、さらに平成一七(2005)年、韓国陶芸高校とも姉妹校交流を締結し、生徒たちは互いの作品を交換し、鑑賞することを通して交流を深めている。

 納富が着手した実践教育の場は、百二十二年の歳月を経た今、姉妹校だけではなく、韓国にまで交流の輪を広げているのです。

 有田工業高校の校訓を見ると、次のように書かれていました。

「勉(ベん)脩(しゅう)- 愛し、創り、光れ」を掲げ、生涯学び続けること(勉脩)を基本に、自らを大切にするとともに他人を思いやり(愛し)、新しいことに積極的に挑戦し(創り)、社会に貢献できる人間になること(光れ)を目指している。(※ https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?sub_page=%E5%85%A5%E5%AD%A6%E6%A1%88%E5%86%85

 冒頭に「勉脩」を掲げ、学びを基本に、自身や他人を大切にし、新しいことに挑戦し、社会に貢献できるような人間になるようにと訴える内容が印象的です。実は、納富が設立した有田工業高校の前身は勉脩(べんしゅう)學舎でした。

■勉脩學舎

 明治十四(1881 )年、江越禮太は白川の地に、日本初の陶磁器工業学校「勉修学舎」を創設し、初代校長を務め、実践教育を行いました。どこよりも早く有田に、陶磁器の実業学校を創設したところに先見の明があったといえます。

 「安易さから脱するには、西洋の技や教えに学び、その長を取り、わが不足を補うことによって名工を育成する必要がある」と説き、窯業技術の普及を主張し、人材育成の場として勉脩學舎を開校しました。(※ 関西佐賀県人会、平成二十八年七月)

 江越禮太(1827-1892)は元小城藩士で、幼い頃から儒学者・草場佩(はい)川(せん)(1787-1867)に学び、その後、江戸で古賀茶渓(さけい)に師事し、長崎では英語を学びました。帰郷後は藩校である興譲館で英語を教えていましたが、明治二(1869)年、藩命で石丸安世らと西松浦郡山代郷で探鉱の開発を行っています。その後、有田白川小学校の教師として働き、明治十四(1881)年、私財に、深川栄左衛門、副島種臣、大隈重信などからの寄付金を加え、日本で最初の実業学校・勉脩學舎を創設しました。

(※ https://www.arita.jp/greats/detail/egoshi_reita.html

 勉脩學舎の入学資格は小学校卒で、教科は絵画、製陶技術、窯業術の三部で構成されました。勉脩学舎が廃校になった四年後に、有田徒弟学校に引き継がれ、佐賀県工業学校有田分校になりました。それを明治三六(1903)年に有田工業学校に昇格させたのが、初代校長となった納富介次郎です。

 納富はヨーロッパでの体験後、陶磁器業界の近代化を考えるようになっていました。帰国後、各地に実践学校を創設し、人材育成に邁進していったのはそのような思いからでした。納富の理念は、現在の有田工業高校にしっかりと受け継がれています。

■有田で見た、二つの白い胸像

 今回、有田を訪れてみて、有田の陶磁器業界が維新期の傑物たちによって支えられ、近代化の波を乗り越えてきたことがわかりました。そして、維新期の先駆者たちが掲げた理想が、実践教育の場を通して脈々と受け継がれ、進展してきたこともわかりました。

 まず、招聘されて長崎にやって来たドイル人化学者ワグネルが、維新期の沸騰するようなエネルギーに吞み込まれるように、陶磁器業界の近代化に渾身の力を注ぎました。それが改革を勢いづかせました。有田で陶磁器製造の大幅な技術革新が行われ、廉価で良質の製品を製造できるようになったのです。

 さらに、ワグネルは有田焼の真髄が超越技巧による繊細な美しさであることを見抜いていました。それこそが、競争優位に立てる要件だと看破していました。基準を落とさず、出品物を選定して臨んだ結果、ウィーン万博でも、フィラデルフィア万博での、有田焼の作品は激賞され、受賞することができました。西洋の審美眼を併せ持つワグネルならではの助言が効いたのです。

 維新期の日本に心血を注いだワグネルは、やがて病床に伏せるようになり、明治二十五(1892)年十一月八日、勲三等に叙せられ瑞宝章が贈与されたその日に、東京・駿河台の自宅で亡くなりました。帰国することなく、日本で生命を終えたのです。六十一歳でした。

 有田工業高校から有田駅に向かう道中、空を見上げると、分厚い雲が広がっていました。

 駅の背後に山が見えます。小高い山々に囲まれた有田で、二つの白い胸像に出会いました。維新期に、陶磁器業界の近代化に大きく貢献したワグネルと納富介次郎の胸像です。いずれも、信念の強さ、ピュアな志を表現しているかのような眩しいばかりの白が印象的でした。(2025/12/29 香取淳子)

高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

■就任早々の外交デビュー

 高市早苗氏が首相に就任してから、日本社会が明るくなってきたような気がします。国内では、 「責任ある積極財政」の方針の下、税率を上げずに税収を増加させて国民の生活を向上させようとしていますし、不法外国人等の問題についても積極的な対策を講じています。国民が懸念している問題に対峙し、積極的に解決しようとしているからでしょう。

 海外に対してもこれまでの首相たちの卑屈な姿勢とは違って、日本として言うべきことは主張し、対話を通して、問題解決を図ろうとしています。そのせいか、高市内閣になってから希望が見えてきたような気がするのです。

 就任して1か月も経っていないというのに、社会の雰囲気はがらりと変わりました。大きく変化したきっかけの一つは、外交によるプレゼンスの大きさです。高市首相は就任後、ASEAN国際会議で外交デビューし、トランプ大統領との会談、APEC首脳会議での、韓国大統領や中国主席との会談などを立て続けに行いました。いずれも、日本のプレゼンスをおおいに高めました。

 そこで、今回は、高市首相がどのように外交を捉え、これまでの首相とは違って、短い間で大きなプレゼンスを示すことができたのか、その要因を探ってみたいと思います。

■日本の国益を守るため、日本外交を取り戻す

 2025年10月21日、高市早苗氏は日本初の女性首相に就任しました。就任後初の記者会見で、「強い日本を作るため、絶対に諦めない」と決意のほどを語っています。


(※ 内閣府HPより)

 高市首相はこの記者会見で次のように述べていました。

 「来週は、マレーシアでのASEAN(東南アジア諸国連合)関連首脳会議、韓国ではAPEC(アジア太平洋経済協力)も開催されます。多くの国の首脳と顔を合わせる絶好のチャンスです。「自由で開かれたインド太平洋」を外交の柱として引き続き力強く推進し、時代に合わせて進化させ、基本的価値を共有する同志国やグローバルサウス諸国との連携を深める。そうした機会としたいと考えております。

 また、トランプ大統領と早期にお会いをして、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります。日米関係は、同盟国として、日本の外交・安全保障政策の基軸でございます。二国間の課題にとどまることなく、インド太平洋地域の課題から、中東情勢、欧州・ウクライナに至るまで、日本と米国が直面する課題につきまして、率直な意見交換を通じ、首脳同士の信頼関係を深めてまいります」

「衆議院、参議院共に、自民党と日本維新の会を合わせても過半数には及ばない。少数与党による、厳しく、困難な船出」となりますが、「私は諦めません。この内閣は、「決断と前進の内閣」です。「国民の皆様と共に、あらゆる政策を、一歩でも二歩でも、前進させていく」と語っています。(※ https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2025/1021kaiken.html

 興味深いのは、「日本の国益を守るため、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻します」と決意を示していたことでした。力強い日本を取り戻すには、外交力で世界の中心にいなければならないという思いが強かったのでしょう。

 実際、高市早苗首相には、就任直後の10月26日から、2つの国際会議と4つの重要な首脳会談が予定されていました。首相はおそらく、それらの国際会議を念頭に、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語ったのでしょう。首相就任直後でタイトな日程だったとはいえ、アジア各国の首脳と会談できるチャンスを逃すことはできませんでした。

 高市首相は過密スケジュールの中で次々と、国際舞台へのデビューを果たしていきました。まずは、アセアン関連首脳会議です。

■アセアン関連首脳会議

 アセアン関連首脳会議が開催されたのは10月26日で、翌27日にはトランプ米大統領の訪日を控えていました。あまりにもハードなスケジュールなので、一時は欠席も検討されていたそうです。ところが、高市首相は、恒例の国際会議に参加しなければ、日本がアジアを軽視していると見なされかねないことを心配し、10月25日、クアラルンプールに向かったのだといいます(※ 高畑昭男、https//www.nippon.com/)。

 欠席すれば、ASEAN諸国に誤ったメッセージを送りかねないことを危惧したからでした。ネガティブな影響をできるだけ排除するため、高市首相は強行スケジュールを受け入れたのです。

 実際、高市首相が参加したのは正解でした。日本初の女性首相が誕生したばかりで、首脳たちの関心が高まっていました。一体、どのような人物なのか、「一目会いたい」という思いが強くなっていたのでしょう。

 参加者たちは一様に、温かく高市首相を迎え入れてくれました。高市首相もそれに応じ、会議が始まる前にすでに多くの首脳たちと分け隔てなく、にこやかにコミュニケーションを交わしていました。

 その時の様子を撮影したCNBCの動画が(16分7秒)がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/sVQp0gR3gzY

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭から数分間、高市首相が多くの首脳たちとにこやかに挨拶を交わし、時にはハグしている様子が映し出されています。周囲の人々は一様に笑顔で迎え入れており、その場が温かい雰囲気で包まれていたことがよくわかります。会議が始まる前から、高市首相は参加者たちから大歓迎されていたのです。

 首相もまた表情豊かに明るく、彼らの歓待に応えていました。高市首相のこの態度がアジアの首脳たちにとてもいい印象を与えたのではないかと思います。そのせいか、ASEAN主要国やオーストラリア首脳などとの個別会談も次々とセットされました。

 国際会議としては、第28回ASEAN会議(10月26日)、第3回アジア・ゼロエミッション共同体(AZEC)首脳会議(10月26日)、そして、二国間協議としては、日豪首脳会談(10月26日)、日マレーシア首脳会談(10月26日)、日フィリピン首脳会談(10月26日)など、高市首相は短い滞在期間に次々とアジア各国の首脳と会談しているのです。

 高市首相は短期間のうちに、ASEAN諸国の首脳たちに、アジアを重視する日本の姿勢を印象づけることができました。会議前の様子を映し出したCNBCの動画によって、首相の卓越したコミュニケーション能力が伝わってきます。

■細やかな心配り

 興味深いのは、動画の8分2秒のところで、マレーシア大統領が高市首相に、トランプ大統領を迎える忙しい日程の中でよく参加してくれたと述べていることでした。周囲の心配をよそに、高市首相が強行スケジュールを押して会議に参加した誠意が会場の参加者たちに伝わったのです。高市首相がASEAN諸国の首脳に印象づけた誠実さは、やがて高市内閣への信頼になって友好関係の土台となっていくことでしょう。

 そればかりではありません。

 高市首相は、10月26日午後1時42分から約5分間、クアラルンプール日本人墓地を訪問し献花を行い、マレーシアで命を落とした先人を慰霊したのです。


(※ 内閣府HPより)

 その後、午後1時57分から約10分間、マレーシア国家記念碑を訪問し、記念碑への供花を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 これらの行為によって、高市首相の人となりが強く印象づけられました。日本人墓地や記念碑に供花をすることによって、先人を敬い、歴史を大切にする姿勢が現地の人々に伝わります。それこそがまさに平和と安定の重要性を訴えるメッセージとなっていたのです。

 実際、高市首相は会議で中国を念頭に、南シナ海での威圧的な行動に「深刻な懸念」を示したうえで、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。そして、政府の安全保障能力強化支援(OSA)を使って、海洋の安全保障強化を後押しする方針を打ち出したのです。その一方で、人工知能(AI)や量子などの先端技術で共同研究を推進する考えも伝えていました。

 先ほどご紹介したように、首相はマレーシア、フィリピン、オーストラリアの首脳とも個別に会談しました。フィリピンとは、自衛隊とフィリピン軍が食料や燃料などを融通し合うことができる物品役務相互提供協定(ACSA)の実質合意に至っています。そして、豪州とは、重要鉱物の供給網での協力を確認しています。

 ASEANの本会議やAZEC首脳会議をはじめ、短い滞在期間に次々と個別に二国間で会談し、実質的な合意を得ていたのです。

■ASESANとインド太平洋地域の平和、安定、繁栄

 さて、ASEAN会議の冒頭で高市首相は、「ASEANと共にインド太平洋地域の平和、安定、繁栄を守り抜いていきたい」と呼びかけ、FOIP(Free and Open Indo-Pacific:自由で開かれたインド太平洋)を「時代の変化に合わせて進化させていく」と表明しました。

 さらに、ASEANが開放性や透明性を確保して地域協力を進めていく独自構想「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」と連携させる考えも示しました。

 第28回ASEAN会議では、このAOIPの推進に関する共同声明が採択されました。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100924542.pdf

 FOIPとAOIPが本質的な価値観を共有し、法の支配に基づく国際秩序に寄与することを確認したのです。これには、力によってASEAN諸国に脅威を与えている中国を牽制する狙いがありました。

 第28回日ASEAN首脳会議は、10月26日午後4時10分から約65分間、マレーシアの首都クアラルンプールで行われました。その概要は以下の通りです。

こちら→https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/pageit_000001_00004.html

 この時、撮影された写真の中央に収まっているのは、日本の高市首相でした。


(※ 首相官邸HPより)

 首脳たちの真ん中で微笑んでいるのが高市首相です。明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いは、品格があり、威厳を感じさせます。黒っぽいスーツ姿の男性陣の中で、ひときわ輝いて見える効果もありました。まるでアジア外交の中心は日本だといわんばかりの写真でした。

■トランプ大統領との会談

 帰国して間もない10月28日、高市首相は、迎賓館赤坂離宮でアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と首脳会談を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 会談の様子は次のようなものでした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=R_LJf7dIVR0

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭で、安倍晋三元首相に対する友情に感謝をしていると述べたうえで、高市首相は安倍路線を継承して政権運営をしていくと述べています。そして、強い日本外交を取り戻す決意を表明し、自由で開かれたインド太平洋の進展に向けても、日米でさらに協力を進めたいと述べ、「日米同盟の新たな黄金時代」の構築を呼びかけました。

 その後、大統領専用ヘリに乗って空母ジョージワシントンに着き、二人はスピーチを行いました。まずはトランプ大統領、そして、高市首相です。

こちら → https://youtu.be/znE1y-qls8A

(※ CMはスキップして視聴してください)

 高市首相はまず、地域の平和と安全のために尽力してくれている自衛隊と在日米軍の人々に感謝しました。日本の首相に感謝された彼らは日ごろの任務を思い、気持ちを奮い起こしたに違いありません。

■高市首相の米兵に向けたパフォーマンス

 それにしても日本の首相が、トランプ大統領とともに空母の演台に立って、大勢の米兵の前でスピーチするなど、考えられたでしょうか。歴史に残る一コマであり、世界に向けて日米同盟の絆をアピールする絶好の場となりました。

 興味深いのは、高市首相が大勢の兵士たちに向かって、腕を高く挙げて小躍りするパフォーマンスを見せたことでした。まるで大観衆を前にしたアーティストのようでした。すっかりその場の雰囲気の溶け込み、ごく自然に、このような仕草や動きをとることができたのでしょう。

 その場の雰囲気を読み、とっさに、それに応じたパフォーマンスができるのが、高市首相の強みだと思いました。

 このシーンを取り上げ、「はしゃぎ過ぎ」だと非難する向きもありますが、実は、大勢の人々には言葉よりも、このようなパフォーマンスこそが、端的にメッセージを伝えることができます。それは、音声メッセージよりも視覚メッセージのほうがはるかに強く、瞬間的にイメージを刷り込むことができるからです。

 確かにこのパフォーマンスは、高市首相とトランプ大統領が親密なのだということを世界中に印象づけることができました。これは外交上の大きな成果といえます。実際、このパフォーマンスを見た中国首脳が、習主席と高市首相との会談を急ぐ必要があると判断したと思われるふしが見られます。

 急遽、高市首相と習主席との対面会談が決まったのです。

 そもそも高市氏が首相に就任した際、習近平主席からはお祝いのメッセージがありませんでした。これまでの首相には就任するとすぐにお祝いのメッセージを送っていたにもかかわらず、高市首相にはなかったのです。タカ派のイメージが強い高市首相を嫌ってのことだったのか、それとも、高市政権が短命に終わると思っていたからか、理由はよくわかりませんが、高市首相を無視していたことは確かでした。

 ところが、中国首脳は世界中に配信された動画で、アメリカの空母上で、こぶしを高く掲げる高市首相のパフォーマンスを見たのです。中国首脳がどれほど焦ったことか、容易に想像できます。

 トランプ政権になってから、中国はアメリカから封じ込め政策を展開、強化され、経済危機に瀕していました。それだけに、米兵に向けた高市首相のパフォーマンスはとりわけ中国に強烈なメッセージを放ちました。もはや高市内閣を無視できなくなりました。中国首脳は、高市首相と習近平首席との対面会談を実現せざるをえなくなったのです。

 さて、高市首相はトランプ大統領へのプレゼントでも政策メッセージをアピールしていました。

■トランプ大統領への贈り物

 高市首相は10月28日、トランプ米大統領に帽子を贈りました。黒色をベースにしたキャップで、前立てに金色で「JAPAN IS BACK」と記され、つばの部分に高市首相とトランプ大統領のサインが入っています。


(※ 米ホワイトハウス関係者のXより)

 ここに記された「JAPAN IS BACK」は、首相が自民党総裁選の討論会で繰り返したキャッチフレーズです。トランプ大統領は「Make America Great Again」と書いた赤い帽子を被って大統領選を戦いましたが、それを模して作られたものです。高市内閣が掲げる政策方針が端的に示されています。

 さらにもう一つ、安倍元首相が2017年のトランプ大統領来日の際、ともにゴルフを楽しんだときにパターを贈りました。思い出の品であり、高市政権が安倍元首相の政策を継承する内閣であることを示したのです。空母でのパフォーマンスばかりか、大統領へのプレゼントにも高市首相の外交センスの良さが光っていました。

 次に高市首相を待ち構えていたのは、APEC(アジア太平洋経済協力会議)でした。

■APEC首脳会議への参加

●韓国大統領との会談

 日米会談を無事こなした高市首相は、10月30日、APEC首脳会議に出席するために韓国の慶州を訪れました。そこで、李在明大統領との初めての会談に臨みましたが、高市首相はスマイルと巧みな会話力で打ち解けた雰囲気を醸し出していました。

 この時、高市首相は、「韓国のりや韓国コスメ、韓国ドラマが好き」だとにこやかに語っていたのです。食やファッション、エンターテイメントといった韓国が誇る分野で李大統領を持ち上げ、気持ちをリラックスさせていたのです。

 さらに、高市首相は会談に先立ち、韓国の国旗、そして、日本の国旗に一礼しました。両国家への礼節を示したのです。これで一気に双方の緊張が解け、強硬派同士の対談がスムーズに流れました。対日強硬派とされてきた李在明氏ですが、なごやかに会談することができました。その結果、「未来志向の安定した関係をめざす」ことで合意し、日韓シャトル外交の継続を約束しました。


(※ 首相官邸HPより)

 APECのマークの前で握手する高市首相と韓国の李大統領の笑顔のなんと晴れやかなことでしょうか。この表情からは韓国での会談が一定の成果を上げたことが示されています。いくつもの課題を残しながらも、高市政権と韓国政府との外交がスタートしたのです。左に韓国、右に日本の国旗が置かれ、両氏が担う国家の重みを伝えています。

●中国主席との会談

 翌31日には中国の習近平主席との会談が実現しました。ここでも高市首相は、機転の良さを示しました。固い表情の習近平首席に向かって、「私は信念と実行力を信条としてきた。習主席と率直に対話を重ねてお互いの関係を良くしていきたい」と語りかけたのです。強面の中国に対し、まさに機先を制した格好でした。

 実際、高市首相は習首席に対し、率直に中国に対する懸案事項を説明し、迅速な対処を求めました。その内容は具体的には以下のようなものでした。

①日本産水産物の輸入の円滑化、日本産牛肉の輸入再開と10都県産の農水産物など残された輸入規制撤廃の早期実現、②尖閣周辺海域を含む東シナ海での中国によるエスカレーションや海洋調査活動、日本周辺の中国軍の活動の活発化への対応、③中国によるレアアース関連の輸出管理措置に関し、日中輸出管理対話および当局間の意思疎通を強化、④中国での邦人襲撃事件や拘束された邦人の安全確保および拘束中の邦人の早期釈放、等々です。

 そればかりではありません。

 台湾海峡の平和と安定が国際社会の上でなによりも重要だと指摘しただけではなく、南シナ海、香港、新疆ウイグル自治区等の状況に対し、深刻に懸念していることを表明しました。これまでの日本の首相が口にできなかったことを忖度することなく、述べたのです。

 中国側にしてみれば、予想していたこともあるでしょうし、予想外のこともあるでしょう。どの程度、受け入れられるか、相互に歩み寄れるか、今後の外交力が問われるところですが、高市首相がこれまでの首相が主張できなかったことをはっきりと表明したことには驚いたことでしょう。

 結局、今回の会談では首脳間での対話を進め、日中間の幅広い分野での重層的な意思疎通を行う重要性を確認したことに留まりました。とはいえ、日本初の女性首相が就任したばかりでこれだけ明確に中国に対して要求事項や懸念事項を堂々と述べたのです。画期的なことだといわざるをえません。

 会談後の写真撮影では両者の強張った表情が印象的です。会談内容がハードだっただけに緊張感が解けていないのでしょう。


(※ 内閣広報室より)

 それにしても、習近平首席があまりにも不愛想なのでびっくりしてしまいました。まるで不承不承、握手しているように見えます。それにつられたのか、いつもはにこやかな高市首相の表情も硬く、ひきつっているように見えます。

 もちろん、高市首相は厳しい要求を突き付けながらも、終始一貫、穏やかでにこやかに交渉を進めました。その結果、互いに対話を通じた「戦略的互恵関係」を進めることで一致したのです。

 そもそも高市首相は、韓国に対して、竹島や慰安婦、靖国神社、そして中国に対して、台湾、人権、靖国神社、等々の問題を巡って信念に基づく強硬態度を崩していません。だからこそ、高市首相は両国から警戒されていたのですが、首脳会談後の記者会見で、中国側は「懸念があるからこそ、よく話したい」と表明しています。話し合いの姿勢を見せたのです。

 高市首相は忖度することなく、日本側の立場を縷々説明し、話し合いによって理解を求めようと主張しました。それを見て、中国側が話し合いによって、相互の利益を図る対話重視路線にかじを切ったように見えます。

 それにしてもあまりにも不愛想な習近平首席の表情が気になります。そこで、彼が外国首脳と握手している写真を何枚か見てみましたが、どれも同じように仏頂面をしていました。少しでもにこやかな表情を見せると、権威が落ちてしまうと思っているかのようでした。ですから、この表情は、習近平首席が外国首脳と記念写真を撮る際の定番なのかもしれません。

 興味深いのは高市首相がXで挙げた画像です。


(※ 内閣広報室)

 なんとにこやかで穏やかな表情なのでしょう。高市首相もにこやかに習首席を見上げています。公式の場でなければ習主席とも、このようにとてもいい感じでコミュニケーションが取れていることがわかります。

■高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

 高市首相は就任してからわずか1週間ほどの間に、2つの国際会議と5つの重要な首脳会談をこなしました。ASEAN諸国の首脳たちとの会談を終えて帰国すると、トランプ大統領を迎え、それが終わると、韓国で開催されたAPECに参加し、韓国大統領、中国総書記などと会談を果たしていったのです。

 あまりにもスケジュールがタイトなので、準備不足もあったに違いありませんが、動画を見る限り、高市首相はほとんどの会議で成功を収めたように思います。会議の場面、あるいは会議前後の場面で、高市首相の類まれなコミュニケーション力が発揮されている様子が動画で確認することができました。

 たとえば、ASEANの会議前の様子を撮影した動画では、にこやかに誰とでも分け隔てなく接し、表情豊かにコミュニケーションを交わす様子が伝わってきます。この時、高市首相は明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いでした。品格があり、威厳も感じられる服装です。

 このような高市首相のTPOを考慮したファッションやパフォーマンス、機転の良さが、海外要人とのコミュニケーションを円滑にし、ひときわ存在感を高めていたように思います。

 また、多数の米兵たちに囲まれ、トランプ大統領とともに演台に立った時は、周囲に溶け込むような黒系のパンツスーツを着用されていました。歓待の雰囲気を感じると即座に、にこやかな表情で右手を高く掲げ、それに対応していました。機転の利いたパフォーマンスであり、大勢の人が見てすぐわかる感謝のメッセージでした。

 今回の外交場面で忘れてならないのは、クアラルンプールの墓地での供花、マレーシア記念碑への供花、韓国国旗および日本国旗への一礼、といったマナーです。先人や死者、歴史を重んじる高市首相の姿勢が人々の心を打ちます。

 国際関係で緊張が高まる中、首相に就任したばかりの高市氏は外交デビューしました。どのような局面でも、外国首脳に対して怯むことなく、毅然と対峙していました。日本として譲れないことは断固とした態度を表明し、頼もしいリーダーの姿を見せてくれました。特に中国や韓国の首脳に対する態度には、これまでの首相たちとは違って忖度せず、毅然としたものがあり、国民を誇らしい気分にさせてくれました。

 一連の外交場面を見てくると、高市首相の外交デビューは明らかに成功したといえます。とりわけ高市首相のファッション、パフォーマンス、機転の利いた対応は、海外ばかりではなく、日本国内にも多大な訴求効果があったのです。

 成功要因は何かといえば、日本を取り巻く諸情勢を踏まえたうえでの課題を掌握していたこと、外国首脳に怯むことなく臨んだこと、TPOをわきまえ、品格と風格、清潔感のある装いをしていたこと、機転の利いたパフォーマンスを取り込み、海外の人々との心理的距離を縮めていたこと、等々ではないかと思います。

 これらの中には学習できるものもありますが、天与のものもあります。

 一連の外交動画を見ていると、高市首相はこの両方を備えた稀有な人物ではないかという気がしてきます。今後、さらに難しくなりそうな国際情勢下にいますが、高市内閣の外交力をもってすれば、日本もなんとかなるのではないかと思えてきます。そして、外交こそ、課題に対する周到な事前準備に加え、TPOを踏まえたファッション、機転の利いたパフォーマンスなど、ビジュアル要素が大切だということを思い知らされました。 (2025/11/16 香取淳子)

ホームタウン事業撤回は見せかけか? アフリカに対するJICAの根強い支援意欲

■ホームタウン事業撤回は見せかけか?

 東京都の小池百合子知事は、9月26日の記者会見で、JICAが「ホームタウン」事業を撤回したことについて問われ、「ひとえにJICAの判断」と述べました。(※ 2025年9月27日、産経新聞)

 実は、東京都の小池百合子知事は19日の記者会見で、都が8月にエジプトの経済団体「エジプト・日本経済委員会」と結んだ合意について、「見直しは考えていない」と述べていました(※ 2025年9月19日、日経新聞)。

(※ 9月19日、日経新聞より)

 この合意では、エジプト人労働者が日本国内で仕事を確保するための情報提供や研修プログラムの開発支援などが盛り込まれていました。移民受け入れにつながると批判する声が広がり、都庁前では合意撤回を求めるデモが行われていたのです。

 26日の小池知事の態度を見ていて、ふと、JICAのアフリカ・ホームタウン事業の撤回は本当なのかという疑問が湧いてきました。同じように激しく抗議されていながら、JICAは事業を撤回し、東京都は覚書を見直さないと表明しているのです。

 しかも、JICAの田中明彦理事長は、9月25日の記者会見で、「ホームタウン事業を撤回する」と表明する一方、「今後も国際交流を促進する取り組みを支援していく」と述べていました。

 これでは、JICAは本当にアフリカ・ホームタウン事業を撤回するのだろうかと疑いたくもなります。そもそも、外務省が所管するJICAの理事長が他国と交わした協定をそう簡単に撤回できるものなのでしょうか。

 ホームタウン事業の撤回は見せかけではないかと疑問に思っていたところ、JICA理事長の興味深い発言を見つけました。

■日本にとっての先行投資

 田中氏は、2025年8月14日、日経新聞社のインタビューに答え、「アフリカ向けの政府開発援助(ODA)は「日本にとっての先行投資」だと訴え、「アフリカ各国から信頼を得ることが(重要鉱物などの)資源や市場の獲得につながる」と強調しました。

 そして、「日本経済にとっては国際社会とのつながりが極めて重要だ。対等なパートナーシップでアフリカの自立と発展を支え、世界経済をポジティブな循環に変える好機だ」と述べ、20日から開催される第9回アフリカ開発会議が「重要な節目になる」と指摘していました。

 TICAD9のテーマである共創について、「国際協力の発展形になる。必ずしも正解がない今の時代には、既存の枠組みにとらわれず、どうすればいいのかをアフリカと共に考え、見いだすことが重要だ。それこそがイノベーションを生む」と語っています。(※ 日経新聞、2025年8月14日)

 田中氏の見解を総合すると、これまでの枠組みに拘らず、世界経済のポジティブな循環という観点を組み入れ、アフリカへの支援内容を考え直す必要があるということになります。

 米欧のODAの場合、途上国への資金贈与が基本ですが、日本のODAは相手国に返済の義務がある有償資金協力や技術協力が大半を占めています。だからこそ、日本の技術や知見を活用して、アフリカの社会的課題を解決する事業を創設することができます。

 アフリカの社会的課題を、日本の技術力とビジネス展開力とで解決できる事業を立ち上げることができれば、課題解決の持続性やポジティブな経済循環を期待できるでしょう。それこそ、アフリカにとっても日本にとっても有益だというわけです。

 実際、ウガンダでは、使った水の量に応じて料金を電子マネーで徴収するビジネスを立ち上げ、給水にまつわる様々な課題に対処することができました。

■電子マネー決済を活用した給水事業

 ウガンダには、水道に接続していない家庭が水を得る手段の一つとして公共水栓があります。公共水栓にバケツを持参し、管理人にお金を支払うことで水を購入する仕組みです。

(※ 国際開発ジャーナルオンライン、2025年9月22日更新)

 ところが、公共水栓の管理人が不在時は購入できず、使うたびに現金を持参しなければなりませんでした。さらに、管理人が水の料金を不当に値上げすることもあれば、売上金を盗難するという問題も発生していました。

 これらの問題を解決したのが、電子マネー決済システムを公共水栓に搭載することによる合理化でした。事前にお金をカードにチャージし、タッチするだけで水が買えるようになったばかりか、料金の不当な値上げや売上金の盗難も防ぐことができました。

 これには、日本の交通系ICカードの仕組みが活用されています。

 2023年11月に研修の一環で日本に訪れたウガンダ人研修生が、電子マネー決済システムに興味を持ったのがきっかけでした。

 ウガンダ人の要望を受けて、経済産業省のJ-Partnership制度を利用して2024年7月に現地調査を開始し、11月にカウンターパートである水環境省と基本合意書(MOU)を締結しました。そして、商店が並ぶマーケットエリアを中心に給水施設を5基建設し、12月に事業を開始したのです。事業計画から調査、現地との調整、建設作業、事業実施まで6カ月という短期間で実現できました。

 このプロジェクトを担当したのが、鉱研工業(株)の森山和義氏です。下の写真は、森山和義氏(左)と現地パートナーのMr. Nabende Innocent(右)です。

(※ 『国際開発ジャーナル』、2025年2月号)

 森山氏は、新卒で鉱研工業に入社し、政府開発援助(ODA)ではマリやブルキナファソ、ナイジェリア、ザンビア、マラウイなどアフリカを中心に井戸掘削および上水道建設事業に携わっています。

 JICA理事長の田中氏はこの事例を重視し、今後のアフリカ支援の在り方の新機軸にしようとしていたのでしょう。そう思うと、TICAD9が「共創」をテーマに組み立てられていたのもわかるような気がします。

■JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」

 8月21日、アフリカ開発銀行(AfDB)と財務省が、TICAD9ハイレベル政策対話として、「民間主導の成長に向けた国際開発金融機関(MDBs)と日本の連携」を主催しました。

こちら → https://afdb-org.jp/news/6578

 TICAD9では、EPSA6として次期TICADまでの今後3年間(2026~2028)に、最大55億ドルの資金協力することが発表されました。EPSA6の55億ドルという目標額は、20年前のEPSA1の初期目標額の5倍以上にあたります。

こちら → https://www.mof.go.jp/policy/international_policy/mdbs/afdb/250821.2.pptx.pdf

 前回のTICAD8(EPSA5)では、3年間(2023~2025)で最大50億ドルの資金協力でしたが、今回は5億ドルもの増額になっています。日本政府がアフリカとの関係を重視し、支援活動を強化しようとしていることが示されています。

 JICA田中理事長は、AfDBとEPSA6における協力に関する覚書に署名し、AfDBとの強固な連携の下、アフリカ支援に取り組んでいく方針を確認しました。

(※ 財務省より。左からカリウキAfDB副総裁、加藤財務大臣、田中JICA理事長)

 これを受けて、加藤勝信財務大臣は、JICAの新たなスキーム「民間資金動員業務」を創設すると発表しました。これは、民間資金の呼び水として、ファンドへの触媒的出資を行うというものです。

 この仕組みを図示すると、次のようになります。

(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 このスキームはアフリカ向けを第1号案件とし、国による出資や信用保証でリスクを軽減し、民間投資を促すものです。社会課題の解決を目指すスタートアップに投資し、経済的リターンをも追求するアフリカに特化したファンドとなります。

■改正JICA法

 2025年4月に施行された改正JICA法によって、JICAの役割が広がりました。途上国企業の債券の一部取得や、支援先の地場金融機関の融資に対する信用保証が可能になったのです。運用基準なども見直し、ファンド組成の初期段階での投融資ができるようになりました。国が初期から信用力を与えることで、民間の投資家がファンドに資金を投じやすくするのが目的です。(※ 日経新聞、2025年8月13日)

 JICA改正法のポイントは、①民間資金導入の促進、②国内外の課題解決を有する主体との連携強化、③柔軟で効率的なJICA財務の実現、等々です。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100796361.pdf

 一方、EPSA(アフリカの民間セクター開発のための共同イニシアチブ)の「ノンソブリン業務(Non-Sovereign Loans, NSL)」コンポーネントは、JICAがアフリカ開発銀行に対して低利のクレジットラインを供与し、同行の民間セクター事業を資金面で支える仕組みです。

 これまでEPSAによって、ウガンダのブジャガリ水力発電所、アフリカ初の汎大陸通信衛星「RASCOM」、東アフリカ海底通信ケーブルシステム、ナイジェリアのレッキ有料高速道路、ルワンダのキガリ大規模給水事業など、さまざまな重要インフラが構築されてきました。(※ https://afdb-org.jp/news/6553

 民間資金を活用しながら、現地と協力して課題解決のための事業がいくつも立ち上げられ、実際に運用されていることがわかります。民間資金を活用し、社会的課題の解決を事業化すれば、インセンティブを高めることができので、事業としても成功する可能性があるのでしょう。

 そうなれば、企業が出資したくなるような環境整備を図る必要があります。今回のJICA改正法はそのための方策の一つなのでしょう。支援を事業化することによって継続することができ、安定した関係構築にも寄与できるようになるのかもしれません。

■アフリカへの投資

 欧米では、政府機関が出資や信用保証、ファーストロス(一定額までの最初の損失)補償を通じて民間のリスクを減らす取り組みが広がっています。

 日本政府も、3年ごとに開催されるTICADのたびに、「援助から民間投資」へのシフトを奨励してきました。ところが、リスクを嫌う日本企業はアフリカ投資をためらい、欧米や中国などの主要国に比べて日本の投資額は大きく見劣りしているのが現状です。

 たとえば、中国の場合、新型コロナウィルス流行後に、アフリカへの投資はいったん減少しましたが、再び、「一帯一路」関連の投資を拡大しています。特に鉱物資源が豊富なアフリカへの投資が際立っており、途上国支援に後ろ向きなトランプ米政権の間隙を突いて、アフリカへの影響力拡大を図ろうとしているのがわかります。

 2025年1月から6月にかけての地域別投資額を見ると、アフリカ向けが増えているのが歴然としています。24年通年より37%も多い400億ドル(約6兆円)に達し、全体の3割超を占めています。

(※ 2025年9月13日、日経新聞)

 アフリカ向けが地域別で最大となるのは21年以来です。オーストラリアのグリフィス大学と中国の復旦大学にある研究機関の調査によると、中国化学大手の中国化学工程集団が、ナイジェリアで結んだ200億ドル規模のガス施設に関する建設契約が、アフリカ向け投資をけん引していたといいます。

 そもそもナイジェリアは、アフリカで最大、世界で第10位の天然ガス埋蔵量(約5兆9,000立方メートル)を誇るガス資源国です。輸出額でも、約9割を原油と天然ガスが占め、ナイジェリアの貴重な外貨獲得の柱となっています。(※ https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2024/bbbf799b03d4f461.html

 そのナイジェリアで中国が巨額を投じて、ガス施設を建設するというのです。明らかに、ナイジェリアでの資源権益を確保し、発言力を高めることを目指したものといえるでしょう。中国は経済危機にあるといわれながら、アフリカに莫大な投資を再開したのです。

 アフリカが最後のフロンティアとして注目を集めているからでしょう。

 資源が豊富で未開発な部分が多く残されている一方、急速に都市化し、デジタル技術の普及も進み、アフリカは無限の可能性を秘めているように思われています。世界中の企業や国家が、アフリカでの投資やビジネス展開を加速させているのが現状なのです。

 日本でも若手官僚たちが、アフリカでの産業政策と資源確保を連携させた取り組みを進めていました。

■ビジネスと資源確保を両輪で

 2024年6月24日、「アフリカに大注目!ビジネスと資源確保を両輪で」というタイトルの下、若手官僚たちの取り組みが紹介されていました。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日より。橋本雅拓氏(左)、岸紗理奈氏(中央)、延時大夢氏(右))

 橋本雅拓氏(通商政策局 中東アフリカ課 アフリカ室)は、アフリカは若い人口も多く、これから市場規模がどんどん大きくなることが見込まれていると指摘します。それだけに、社会課題の解決に関するビジネスチャンスが多く、デジタル技術を活用した課題解決ビジネスは、日本や先進国よりアフリカの方が実現しやすいという状況に着目します。

 このような状況を踏まえ、アフリカ室では、スタートアップ企業の動きを後押しするため、アフリカ各国での様々な社会課題の解決につながるビジネスモデルの検証・発信(AfDX事業)を行っているというのです。

 さらに、アフリカはさまざまな鉱物資源の産出国でもあります。先端産業に不可欠な鉱物資源の宝庫でもあるのです。

(※ METI Journal ONLINE,2024年6月25日)

 上図の下に示されたのが、先端産業に不可欠な資源です。どういう用途で使われているのか、最終的にどのような製品になるのかが図示されています。

 たとえば、パソコンやスマートフォンの液晶、中に入っている基盤なども、原料は鉱物資源です。自動車のモーターにはレアアース、蓄電池にはリチウム、ニッケル、コバルトといった具合に、現代生活に不可欠な鉱物資源が豊富なのがアフリカなのです。

 延時大夢氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、日本はベースメタル、レアメタルのいずれについても、ほぼ全量を海外からの輸入に頼っているのが現状だとし、2050年カーボンニュートラルの実現に向けては、鉱物資源を安定的に確保するための取り組みが不可欠だという見解です。

 さらに、鉱物資源の安定供給を確保するには、日本が強靱なサプライチェーンを構築しなければならず、鉱物資源のサプライチェーンを特定の国に依存することは避けなければならないという認識を示します。

 サプライチェーンの強靱化・多様化に向けた取り組みとして、資源外交を展開しており、南米のチリやペルー、豪州、カナダなどの国に加え、新たなフロンティアとしてアフリカに着目しているというのです。

 岸紗理奈氏(資源エネルギー庁 資源・燃料部 鉱物資源課)は、企業から出向している経験から、海外からの鉱物資源の確保は、企業単独では動きづらいことがあり、官民で連携していくことが大事だといいます。

 このように、資源確保であれ、ビジネスチャンスであれ、若手官僚は三者三様、アフリカへの期待を語っていました。人口は増加し続け、先端産業に必要な資源が豊富で、しかも未開発の部分が多く、ビジネスチャンスが無限だからです。

 ビジネスの観点からいえば、アフリカはまさに最後のフロンティアなのです。

 その認識が世界の為政者たち、企業家たちに共有されはじめていました。だからこそ、中国は経済危機といわれながら、アフリカに6兆円もの投資を決めたのです。そして、JICAもまた、TICAD9で多岐にわたるアフリカ支援事業を発表しました。

 アフリカ・ホームタウン事業は、TICAD9のために用意された数ある支援事業のうちの一つでした。実際、移民政策の一環でもあったのでしょう。ところが、収束することのない抗議行動に耐えかねて、JICAはホームタウン事業を撤回してしまいました。

 石破茂首相は、TICAD9が閉幕した8月22日、「アフリカの未来への投資拡大や産業協力強化、人材育成に取り組む」と述べ、「日本とアフリカが双方の需要を知り、関係強化の道筋が見いだせた」と語りました。(※ 日経新聞、2025年8月22日)

 この事業が、アフリカでの資源確保、ビジネスチャンスに関わっている限り、いずれ、名を変え、形を変えて、JICAは似たような支援事業を立ち上げるに違いありません。撤回はみせかけであり、日本の資源確保、ビジネスチャンスを企図したアフリカ支援はさらに強化されていくことでしょう。(2025/10/4 香取淳子)

アフリカ・ホームタウン事業;危険をスルーするJICAの罪

 2025年9月14日、JICAと外務省が「JICAアフリカ・ホームタウン」事業の改称を検討していると報じられました(※ 時事通信オンライン、2025年9月14日7時5分)。

 あの報道は誤報だったと懸命に訂正したにもかかわらず、抗議の声が収束する気配をみせなかったからでした。なんとも姑息な対応です。JICAと外務省にしてみれば、事業名さえ変更すれば、国民の怒りが収まるとでも思っていたのでしょう。

 この対応だけで、JICAと外務省が、各地で勃発した国民の怒りの本質を理解せず、表面的に取り繕おうとしていただけだということがわかります。まず、「JICAアフリカ・ホームタウン」事業に対する抗議行動を見ておくことにしましょう。

■JICA前でのデモ

 2025年8月28日の夕刻、東京都千代田区のJICA(国際協力機構、以下、JICA)本部前で、デモ活動が行われました。千葉県木更津市など国内の4市をアフリカ諸国の「ホームタウン」に認定したことに対する抗議行動です。

(※ https://www.threads.com/@medinews_channel/post/DOA0Qi9jrFI/mediaより)

 JICAの前に集まった人々は声を荒げ、「撤回しろ」、「白紙に戻せ」と繰り返し、「売国奴」、「解体」と怒声を浴びせました。拡声器を手にし、移民を受け入れれば、社会不安が高まる、治安が悪化する、などと口々に訴えたのです。終盤になると、参加者は150人以上にも及び、JICA本部をぐるりと取り囲むほどでした。

 事の発端は、JICAが8月21日、第9回アフリカ開発会議(TICAD9)に合わせ、山形県長井市をタンザニア、新潟県三条市をガーナ、千葉県木更津市をナイジェリア、愛媛県今治市をモザンビークの「ホームタウン」に認定したことが明らかになったからでした。

 ホームタウンに認定された4つの日本の地方都市と対応するアフリカの4カ国が、地図上で示されています。

(※ JICAのHPより)

 このニュースはまず、海外で波紋を呼びました。

 JICAアフリカ・ホームタウン事業を知った男性が、「ナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけた動画をTikTokで公開したのです。これが、28日までに2.4万回再生されました。一気に拡散されました。

 『日刊スポーツ』(2025年8月28日付)によると、次のような内容の動画でした。

 男性は冒頭で「信じられない!」と声をあげると「Negro Town in Japan! Finally bro let’s go(黒人の町が日本に! 仲間よ、行こう)」と切り出しました。

 そして、木更津が立地的に東京から近いことや、60代、70代の人口が多い工業地域で、若い人口が少ないことを説明しています。男性は、「ずっと言ってきた、日本を黒くしろ(Make Japan Black)と」と語り、JICAのアフリカ・ホームタウン事業について「これは大きな一歩」と評価していました。

 一方、ナイジェリア人については、「我々は子どもを作るし、一生懸命働く」と述べた上で、男性は、「(日本側は)スキルのあるナイジェリア人を呼ぼうとしているが、実際は黒人たちが来て、人口が増えることを望んでいる」と述べました。そして、男性は再び、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけていたのです。(※ https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202508280000402.html#goog_rewarded

 このような動画が拡散されたのですから、世界中が驚いたのも無理はありません。

 しかも、世界にJICAアフリカ・ホームタウン事業を伝えたのは、何もこのTikTokだけではありませんでした。ナイジェリア政府、BBC、タンザニア・タイムズなども一斉に、JICAの新事業について報道していたのです。

 一方、ほとんどの日本人は、JICAアフリカ・ホームタウン事業のことを知りませんでした。日本のメディアがこの件について一切、報道しなかったからです。BBCやタンザニア・タイムズ、ナイジェリア政府が報道すると、それがSNSで拡散され、多くの日本人が知るようになりました。

 多くの日本人はBBCやSNSを通してこのニュースを知り、憤慨しました。自分たちが知らない間に、日本の地方都市がアフリカのホームタウンに認定されていたのですから、無理もありません。

 まずはBBCの報道を見てみましょう。

■BBCの報道

 2025年8月23日、BBCは「JICA、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定」というタイトルの記事をネットにアップしています。

こちら → https://www.bbc.com/pidgin/articles/cgm2p4d8m9mo

 この記事は、「国際協力機構(JICA)は、木更津市をナイジェリア人の故郷に指定しました」という文章から始まります。キャッチーな部分を冒頭に置いて、読者の関心を引いているのです。

 次いで、「ナイジェリア情報・国家指導省は、8月22日(金)に発表した声明で、文化外交の深化、経済成長の促進、そして労働力の生産性向上に向けた取り組みについて説明しました」とし、同省によると、「第9回アフリカ開発会議(TICAD9)の一環として、日本政府がこの取り組みを発表した」と記し、ニュースの出所を明らかにしています。

 そして、「日本政府は、木更津市に居住・就労を希望する、高度なスキル、革新性、そして才能を持つナイジェリアの若者向けに、特別なビザを創設する予定です」と具体的な内容に踏み込んでいます。この記事の核心部分です。

 日本政府は有能なナイジェリアの若者を求めており、木更津市に居住したり、就労を希望する場合は、「特別なビザを創設する」予定だと明記されているのです。

 この記事を読めば、誰もが、「世界のナイジェリア人よ、木更津へ行こう」と呼びかけたくもなるでしょう。なにしろ日本政府のお墨付きで、ナイジェリアの若者が木更津に住み、仕事をすることができるのです。

 実際、この記事の最後には「木更津市とは?」の見出しの下、木更津市の人口が13万6000人で、首都東京からわずか70キロしか離れていないこと、漁業や農業が盛んで、学校では英語教育が行われていること、などが書かれています。ナイジェリアの若者が木更津市に住み、仕事をする場合の基礎的情報が添えられていました。

 木更津市が東京に近いという情報は、ナイジェリアの若者には魅力的だったでしょう。木更津市に行きさえすれば、どんなチャンスに恵まれるかもしれないのです。しかも、学校で英語教育も行われているとなれば、木更津市でのコミュニケーションも可能です。不安定な社会状況のナイジェリアで生きる若者にとって、これは夢の広がるニュースでした。

 ところが、その後、この記事は修正されました。

  「数日後、日本政府は、移民の受け入れを促進する措置や、アフリカ諸国の住民向けの特別ビザの発行について、今後一切の措置を講じる予定はないと述べました」という一文が、この記事に追加されたのです。日本政府が抗議したからでしょう。

 JICAが26日(月曜日)にHPで訂正の声明文を出したことも書かれていました。この見出しの末尾には、ナイジェリア政府もその後、発表内容を訂正したと書かれています。訂正が遅かったからだと思われますが、ナイジェリア政府はおそらく、日本政府からの申し入れを渋々、受け入れたのでしょう。

■果たして、誤報だったのか?

 この記事のトップに、木更津市長とナイジェリア大使館臨時大使が認定状を手にし、その隣にJICA副理事長が収まった写真が添えられていました。

(※ BBCより鮮明なので、木更津市の写真を引用)

 三者三様、穏やかで、満足気な表情でカメラに収まっているのが印象的です。撮影されたのが8月22日ですから、まだ記事が訂正される前の写真です。この時、三人はそれぞれ、WIN-WINの思いでいたことでしょう。

 そして、記事の最後に、「ナイジェリア情報大臣によると、この協定を通じて、日本はアフリカ4カ国との既存の関係を公式に結び付けることで、アフリカ4カ国との交流を強化したい考えです」と書かれていました。JICAアフリカ・ホームタウン事業が日本政府からの提案であったことが明記されているのです。

 そういえば、JICAは、第9回アフリカ開発会議にあわせ、「日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想」を立ち上げていました。これは、アフリカ域内の大学を拠点に日本とアフリカの教育連携と人材交流を促すもので、日本とアフリカの大学間連携を通して、2028年までに15万人を育てる計画を立てていました(※ 日経新聞、2025年8月19日)。

 とくに、アフリカ域内で理工・農学系の高度人材の育成を支援し、気候変動や食料・エネルギー分野で秀でた人材を育成することによって、知日あるいは親日の若手リーダーの輩出につなげようというのが、JICAの目論見でした。

 第9回アフリカ開発会議の開催を機に、JICAはさまざまな構想を立ち上げていました。いずれもアフリカの若者を支援し、人材交流を促進するというものでした。JICAアフリカ・ホームタウン構想はその一つでしたが、実は、日本アフリカ拠点大学ネットワーク構想も立ち上げられていたのです。

 こうしてみてくると、JICAアフリカ・ホームタウン構想は果たして、誤報だったのかという疑問が湧いてきます。

■アフリカの基礎教育の向上から高度人材育成まで

 JICAは第9回アフリカ開発会議を機に、二つの事業を立ち上げました。一つは、知的レベルの高い若者を対象にした「日本アフリカ拠点大学ネットワーク事業」であり、もう一つは、労働力レベルの若者を対象にした「JICAアフリカ・ホームタウン事業」です。JICAがアフリカの基礎教育の向上から、高度人材育成にまで関与し、支援しようとしていたことがわかります。

 こうしてみてくると、JICAや外務省が否定し、火消しに走った海外の報道やSNSの動画は決して誤報やデマではなく、事実だった可能性が出てきました。

 調べてみると、「基礎教育の向上から高度人材育成まで」というタイトルの記事がみつかりました。そこでは、「第8回アフリカ開発会議では高等教育分野での日本の取り組みの一つ」として、「日本・アフリカ間の大学ネットワークを通じた人材育成、留学生の受け入れによる5000人の高度人材育成を実施する」ことが挙げられていました。(※ 『国際開発ジャーナル』、2023年11月、pp.68-71))

 さらに調べてみると、日本・アフリカ大学連携ネットワーク(JAAN)の第1回年次総会が、2016年6月20日に筑波大学東京キャンパスで開催されており、16大学と1オブザーバー機関、そして8団体・機関から39名が出席していました。高度人材育成に関する組織は9年も前に立ちあげられていたのです。以後、毎年開催されており、日本とアフリカの大学間ネットワークは機能していることがわかります。

 第8回アフリカ開発会議(2022年8月27日と28日)の時点では、JICAアフリカ・ホームタウン事業はまだ構想されていませんでしたが、「みんなの学校」という事業は動いていました。

(※ https://www.jica.go.jp/TICAD/approach/special_report/20221031_01.html

 「みんなの学校」プロジェクトは、家族や地域住民が学校運営に参画し、授業の在り方や学校運営を考えていこうとするもので、JICAは個別に対応し、助言や技術支援を提供しています(※ 前掲URL)。

 基礎教育の向上を目的とした事業ですが、地域の活性化を図るとともに、コミュニティを強靭化する機能もあると考えられています。2021年に始まったプロジェクトで、満足に教育を受けられないアフリカの子どもたちのための支援事業でした。(※ https://www.jica.go.jp/information/topics/2021/20210428_01.html)。

 これが地域活性化を目指した基礎的教育事業だとすると、このプロジェクトがアフリカ・ホームタウン事業の先駆けなのかもしれません。となれば、アフリカ・ホームタウン事業は第8回アフリカ開発会議の時点で、構想されていたことになります。

 まずは、木更津市の事業内容を見てみることにしましょう。

■木更津市の事業内容および目的

 木更津市がJICAによって採択された事業の名称は、「青少年非認知能力向上プロジェクト~「規律」「尊重」「正義」の涵養による社会変革モデル~」で、対象期間は2026年1月からの3年間です。

 タイトルに含まれる「非認知的能力」とは、「知能検査や学力検査では測定できない能力」を指し、具体的には、「やる気、忍耐力、協調性、自制心など、人の心や社会性に関係する能力」を意味します。ここでは、「規律」「尊重」「正義」を意味し、それらを涵養することによって、社会を変革していくというものです。

 具体的な事業内容としては、ナイジェリアの大都市ラゴスとアブジャの学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルを構築すること、そして、木更津市では、市内の小・中学生を対象に多文化共生を学ぶ授業を行い、国際理解教育の要素も取り入れた「Baseballership TM教育メソッド」のイベントを開催するというものです。

 事業内容をみると、非認知能力の向上を、「Baseballership TM教育メソッド」に求めているところに大きな特徴があります。

 次に、事業の目的を見ると、「ナイジェリア連邦共和国では、急速な経済成長が続く一方、格差拡大や 汚職、犯罪、交通マナーなど社会課題も多い」という課題を解決するため、「同国の学校現場で不足している情操教育の機会をつくり、社会情動スキルの高い人材を育成する」と書かれています。(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/soshiki/kikaku/organiccity/1/12113.html

 このような事業目的を読んだとき、大きな違和感を覚えざるをえませんでした。

●なぜ木更津市が、ナイジェリアの社会問題の解決を図る必要があるのか?

 なぜ、日本の小さな地方都市が、遠く離れたナイジェリアの社会的課題解決のために、事業を起こさなければならないのでしょうか。

 たとえば、木更津市の人口は、2025年8月1日時点で、13万6,884人です。一方、ナイジェリアの人口は、2024年の世銀調査によると、2億3,268万人です。年々、人口が増加していますから、現時点ではさらに多くなっていることでしょう。

 さらに、ナイジェリアは、これまで国連安保理非常任理事国を5回にわたって務めており、国連PKOにも貢献し、アフリカのリーダー国の1つです、G7諸国だけでなく、新興諸国とも強い関係を築いている大国です(※ 外務省の基本データ)。

 ところが、政情不安なため、ナイジェリアではテロ、誘拐、武装強盗など犯罪の発生率の高く、外務省は多くの地域を危険レベル4あるいは3を出しています。これは、「「退避してください」、「渡航は止めてください」といったレベルです。特にイスラム過激派組織によるテロや誘拐が頻発しており、外国人を標的とした犯罪も多く、外務省が、慎重な対策を講じるよう警告しているほどです。

 たとえば、中東専門のジャーナリスト石田和靖氏は、「ナイジェリアは一人では行けないほど危険」と語っています。

こちら → https://youtu.be/w7YPgQldHfw

(※ 0:36~5:02まで。CMはスキップするか削除して、視聴してください)

 まず、ムルタラ・モハンマド国際空港に着いてからラゴスの市街に入るまでが大変だといいます。タクシーに乗れば、どこかに連れていかれて金品を盗まれるし、バスに乗れば、強盗に刺され金目のものを盗まれるので、知り合いのナイジェリア人に送迎をお願いするしかないというのです。

 危険レベルが高いせいか、2024年10月時点でナイジェリアに滞在する日本人は158人です。一方、日本に滞在するナイジェリア人は2024年12月時点で4318人です。相互にほとんど交流がないといってもいいでしょう。

 それほど交流がなく、しかも犯罪率の高いナイジェリアの社会的課題をなぜ、日本の小さな地方都市が解決のために動かなければならないのでしょうか。この事業の目標を何度見返してみても、木更津市がこの事業によって、何をしたいのかがよく見えてきません。

 しかも、この事業内容をみると、「Baseballership TM教育メソッド」という概念を主軸に組み立てられています。

●「Baseballership TM教育メソッド」とは何か、なぜこの事業に組み込まれているのか?

 この事業はナイジェリアと木更津市で展開されます。その際、キーになるのが、「Baseballership TM教育メソッド」です。一般にはまだ認知されていない概念を使って、この事業を展開しようとしているのです。

 再び、「申請概要」を見てみると、「本事業では、指定団体であるJ-ABS(一般財団法人アフリカ野球・ソフト振興機構)を通じて、ナイジェリア(アブジャ、ラゴス)の学校で「Baseballership TM教育メソッド」の普及モデルをつくる…」と書かれています。

 ナイジェリアの大都会の学校で、「Baseballership TM教育メソッド」の効果検証を行って一般化し、普及モデルをつくるというのですが、具体的な対象地域や方法が書かれていないし、どのぐらいのサンプル数で検証するのかも、よくわかりません。このメソッドの「普及モデルをつくる」というにはあまりにも事業内容が曖昧なのです。

 一方、木更津市にとって、この事業がどういう意味をもつのか、事業内容を読んでもよくわかりません。

 そもそも木更津市はなぜ、JICAの「草の根技術協力事業(地域活性型)」応募したのでしょうか。

■「草の根技術協力事業(地域活性型)」

 「草の根技術協力事業(地域活性型)」は、「NGOや自治体、大学等がこれまでに培ってきた経験や技術を活かして企画した途上国への協力活動をJICAが支援し、共同で実施する事業」であり、しかも、「地域住民に役立つ事業」が対象となります(※ JICAのHP)。

 紹介動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/cBIMcD8QewQ

(※ JICAより)

 木更津市は、草の根技術協力事業のうち、「地域活性型」に応募しました。この事業は、地方公共団体が、JICAが指定する団体と提携した企画を提案することが条件になっています。木更津市はJ-ABSを指定して、ナイジェリアでの事業提案を行いました。(※ https://www.jica.go.jp/domestic/tokyo/activities/kusanone/index.html

 木更津市がなぜ、J-ABSを指定したのかといえば、J-ABS はJICAに登録された指定団体だったからです。また、木更津市は2020年に開催された東京オリンピック・パラリンピックで、ナイジェリアのホストタウンを務めたことがあったので、ナイジェリアを対象国に事業企画を考え、基礎教育に関する提案を行いました。

 その結果、木更津市の提案は採択されました。2024年度の応募件数は24件、そのうち採択されたのは8件、採択率は33%でした。(※ https://www.jica.go.jp/activities/schemes/partner/kusanone/chiiki/index.html

 この事業の応募要件はJICAが指定した団体と提携して事業を行わなければならず、企画もそれに合わせたものにしなければなりませんでした。この事業は一見、木更津市が自発的に提案したようにみえますが、実は、JICAが指定したJ-ABSの意向を色濃く反映したものだったのです。

 これでようやく、木更津市の事業概要に対する疑問が少し解けました。

 つまり、応募という形をとりながら、木更津市が自由に発想し、自発的に考案した提案ではなかったのです。事業内容は、JICAの指定団体J-ABSに紐づけられており、「Baseballership TM教育メソッド」を組み込むことは不可欠だったのです。

 調べていくうちに、この事業に関係する、JICA、J-ABS、「Baseballership TM教育メソッド」が相互に深く関わっていることがわかってきました。三者をつなぐ人物がいたのです。それは、J-ABSの代表理事である友成晋也氏でした。

■JICA、J-ABS、慶應義塾大学

 友成晋也氏は、慶応義塾大学の野球部出身で、卒業後はリクルートコスモス社を経て、JICAに入り、1996年に西アフリカのJICAガーナ事務所へ赴任しました。以来、JICAの職員としてガーナで働き、その傍ら野球を通して、アフリカの青少年の人材育成のための「ベースボーラーシップ教育メソッド」を考案し、実践しはじめました。

「Baseballership TM教育メソッド」を考案したのは、この友成晋也氏です。

 JICA在職時の2019年にJ-ABSを立ち上げ、2020年には退職し、2021年から代表理事を務めています。翌2022年には、JICAの支援を得てアフリカ事業を始めているのです。このメソッドを教育に取り込めば、アフリカの青少年に、「規律」「尊重」「正義」などを涵養することができると述べています(※ https://www.j-absf.org/greeting)。

 友成氏が代表理事に就任した翌年の2022年以来、J-ABSは継続的にJICAから財政支援を受けています。2023年7月25日には2024年度のガーナ支援事業に採択され、母校である慶應義塾大学野球部からは人的支援を得、慶應義塾大学SFC研究所のベースボール・ラボからは研究支援を得て、成果をあげています。

 2024年8月31日と9月1日に開催された、第1回ガーナ甲子園大会は、この時の助成によるものです。

こちら → https://youtu.be/5i7AMLSrfn4

(※ CMはスキップして視聴してください)

 現在、J-ABSは、アフリカ55甲子園プロジェクトを主軸に事業展開をしています。アフリカの54か国と1つの地域を対象に、野球を通じた人づくりと競技の普及を目的に、25年かけて、アフリカ各国で野球の全国大会の開催させる計画だといいます。

 こうしてみてくると、友成氏が勤務していたJICA、同氏が代表理事を務めるJ-ABS、同氏が開発した「Baseballership TM教育メソッド」は三位一体で、アフリカで野球を根付かせようとしているように思えます。

 アフリカの青少年の基礎学力向上のための事業としては、未知数ですが、慶應義塾大学野球部から人的支援、慶應義塾大学SFC研究所ベースラボからは研究支援を受け、着実に成果を収めつつあるのが現状です。

 一方、木更津市は、この事業のために場所を提供しているにすぎないようにみえます。はたして、木更津市にとって、どんなメリットがあるのでしょうか。

■木更津市にとって、メリットはあるのか?

 この事業は、実施期間が3年間で、助成金の上限が6000万円です。仮に上限が支給されたとして6000万円です。その中からどのぐらい活動資金としてJ-ABSに渡されるのかわかりませんが、アフリカでの活動経費、渡航費、人件費、滞在費、など諸経費を差し引くと、それほど残らないでしょう。

 一方、木更津市は、ナイジェリアからの来訪者に対する住宅の提供、生活面での対応、さらには小中学校での教育機会の提供などが求められます。文化や生活習慣の違うナイジェリア人を相手にするのですから、金銭以外の負担も計り知れないものになるにちがいありません。

 そこへもってきて、今回の大騒動です。

 8月23日以来、木更津市はクレーム対応に追われました。JICAや外務省が誤報だ、デマだと否定しても、抗議の声が収まる気配は見えず、木更津市は新たに、令和7年9月の日付で、文書を発表しました。

 内容はこれまでと同様、市民からの批判に応えるものでしたが、興味深いのは、文書の末尾に赤字で書かれた次の文章です。その部分をご紹介しましょう。

 「木更津市は、ナイジェリアからの移住・移民の受け入れを促進するといった事実は無く、今後もそのような取組を進めていく予定もありません。また、市としてナイジェリアからのインターンシップの受入れ計画もありません」(※ https://www.city.kisarazu.lg.jp/material/files/group/10/Stance_Japanese_.pdf

 確かに、それらの文言は事業概要にありませんでした。ところが、2026年から3年間、ナイジェリア人が継続して木更津にやって来て居住し、活動するのは事実です。授業を行い、イベントを開催することも、事業内容に盛り込まれています。木更津市はそのためにナイジェリア人に住居を用意し、生活面での支援をしなければならないのです。

 その結果、どういうことが起こるでしょうか。

 たとえば、専門職ビザで来日した場合、高度人材ポイントが70点以上であれば、3年間在留すれば、永住許可申請をすることができます。また、80点以上であれば1年以上在留しただけで、永住許可申請をすることができるのです。(※ https://dragonshinjuku-visa.com/archives/884/

 この事業の実施期間が3年間だということは、専門職ビザで来日したナイジェリア人は、事業が終了する段階で、日本に永住許可申請を出せることになります。移民政策ではないとJICAや政府は言い張りますが、実際はその可能性もあるのです。市民や多くの人々が懸念するのはその点でした。

■危険をスルーするJICAの罪

 今回、SNSで数多くの警告を発信していたのは、日本を愛する外国人たちでした。移民がどれほど社会を不安定にするか、彼らはよく把握していたからです。

 たとえば、ナイジェリア人と日本人のハーフである細川バレンタイン氏は、ショート動画をいくつもアップし、アフリカ・ホームタウン事業の危険性を警告しています。いずれも具体的で説得力がある内容なので、いくつかご紹介しましょう。

  • 外国人労働者を安易に入国させてしまうことの危険

こちら → https://www.youtube.com/shorts/_hGJC6klqWs?feature=share

  • 労働力不足だからといって移住させた結果、不法滞在者の急増

こちら → https://www.youtube.com/shorts/Szo7amopmZs?feature=share

  • 生活習慣、社会状況が違うナイジェリアと共存できるか?

こちら → https://www.youtube.com/shorts/yuH5n6LdCco?feature=share

  •  アフリカ・ホームタウン事業はなんとしても食い止めるべき

こちら → https://www.youtube.com/shorts/lQS6Y-VTj8k?feature=share

 これらのショート動画を見て、改めて、この事業の危険性を思い知らされました。

 表向きはナイジェリアの社会的課題を解決するためといいながら、実は、人口が激増しているナイジェリアから、木更津市へ労働力の流入を目的としています。JICAや外務省は否定していますが、これが移民政策の一環だからこそ、「アフリカ・ホームタウン」事業なのです。

 日本は現在、帰国させるための厳格なルールもなく、海外からの労働者を受け入れるので、不法滞在者が増えるばかりです。その結果、医療費の未払い、犯罪の増加、社会の不安定化など、不法滞在者が引き起こす諸問題を、日本人が税金を使って後始末をしなければならなくなっています。

 多くの人々が海外からの労働者の受け入れに反対し、SNSでの抗議も高まる一方ですが、それでも、JICAや日本政府はこの計画を止めないでしょう。仮に表向きは取りやめたように繕ったとしても、結局はなし崩し的に移民を受け入れていくに違いありません。というのも、経済界と同様、行政もまた労働力不足をなによりも恐れているからです。

 木更津市もおそらく、人口減への対応策として、この事業に参画したのでしょう。労働力補填のメリットに目を奪われて、ナイジェリア人の移住が抱える潜在的なリスク、あるいは、社会的損失についてはそれほど深く認識していなかった可能性があります。

 一方、JICAはこの事業に潜在するリスクを知りながら、木更津市の提案を採択し、ナイジェリアとの事業を立ち上げました。危険を承知で、地方都市を引きずり込み、長期的にはデメリットでしかない事業に関わらせました。そのことの罪は重いといわざるをえないでしょう。(2025/9/22 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」⑤:「大屋根リング盆踊り」と「河内家菊水丸」が世界をつなぐ

■万博会場で開催された盆踊り大会

 もはや過去のものだと思っていた盆踊りが、「EXPO2025 真夏の陣」の一環として、開催されました。7月25日から28日までの間、万博会場では三種の盆踊り大会が企画されていたのです。

 その一方で、27と28日は、大阪府内各所で、地域に根付いた盆踊り大会が行われていました。参加者の属性や開催地の特性を踏まえ、きめ細かく盆踊り大会がスケジュールされていました。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/

 メニューを見ると、なんとも粋な計らいだということがわかります。万博でのライブ・パフォーマンスだということを意識していたからか、ローカルとグローバルを組み合わせた絶妙なメニューになっているのです。

 果たして、どのような企画内容だったのか、7月25日から28までの間に開催された盆踊りについて、開催日順に、その概略をみておくことにしたいと思います。

●7月25日に開催されたのが、オープニング・イベントの「マツケンサンバ@EXPO2025」でした。申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/news/news_0016.html

 この盆踊り大会は、EXPOアリーナ「Matsuri」で行われ、約6000人が参加したといわれています。タイトル通り、松平健氏を迎え、マツケンサンバが披露されました。

●翌7月26日は、「盆踊りギネス世界記録挑戦」という企画の下、盆踊りが開催されました。参加申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/guinness.html

 こちらもEXPOアリーナ「Matsuri」で行われました。挑戦曲は、万博のテーマソング、『この地球(ほし)の続きを』です。万博テーマに合わせた唄で、盆踊り大会のギネス記録に挑戦するという企画でした。

 ギネス記録を達成するには、参加者数、国籍数を競うだけでなく、参加者の90%以上が、挑戦曲に合わせ、振付通りに5分以上踊らなければならないという条件がありました。審査員によって踊り方がチェックされるという課題があったのです。

 もちろん、振付通りにはなかなか踊れないという人もいました。そういう人のためには、振り付けの練習動画が用意されていました。

 HP上に、「日本語レクチャー編」、「日本語フルバーション編」、「英語レクチャー編」、「英語フルバーション編」が掲載されています。日本人であれ、外国人であれ、誰もが気軽に盆踊りに参加できるよう、配慮されていました。

 さらにHP画面を下にスクロールしていくと、事前練習会まで準備されていることがわかりました。5月9日から7月18日までの11日間、対面の練習会が開催される一方、オンライン練習会も、初級、中級、上級とレベルに合わせて開催されていたのです。

 服装等については、「浴衣に草履などの伝統的な衣装、民族衣装でのご参加を推奨しますが、衣装は自由です。安全上、かかとの高い靴は避けていただき、動きやすい履物でお越しください」という注意書きが記されていました。

 参加者が浴衣を着ていたり、民族衣装を着用したりしていれば、会場が華やかになります。そして、一目で参加者の多様性を把握することもできます。ギネス記録を達成するためだけでなく、見た目の訴求力にも配慮した方策が取られていたことがわかります。

●7月28日は、「大屋根リング盆踊り」が開催されました。開催場所を、それまでのEXPOアリーナから大屋根リングのスカイウォークに移し、「大阪から世界をつなぐ」という大会コンセプトの下で行われました。

 参加申し込みおよび開催概要は次の通りです。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/summer/ring.html

  こちらも練習用動画が用意されていました。

こちら → https://youtu.be/PYfjs4utlQ4

(※ CMはスキップして視聴してください)

 河内家菊水丸氏の音頭取りによって、振付を練習できるようになっています。振付を担当するのは、河内家菊舞丸氏です。振付については、菊水丸氏が逐次、説明をしていましたから、この練習用ビデオは、伝統芸能である河内音頭を見せる場の一つにもなっているといえます。

●7月27日と28日は、万博会場ではなく、大阪府内各地で、「交流盆踊り大会」が開催されました。

こちら → https://www.expo-osaka2025.com/osakaweek/assets/files/summer/schedule.pdf

 27日はゲストの菊水丸氏のステージの後、15:00から府内14か所で、盆踊りが開催されています。そして、28日は、やはり菊水丸氏をゲストに14:55から、府内13か所で開催されました。

 この二日間はもっぱら大阪府内の各地で、盆踊り大会が行われていたことになります。府内各所で行われた盆踊りは、まさに地域の伝統行事であり、地域の絆を深め、地域アイデンティを確認するためのものでもあったのでしょう。

 以上、見てきたように、「EXPO2025 真夏の陣」として企画されていたのが、万博会場での盆踊り大会三種と、大阪府内27か所で開催された盆踊り大会でした。まさに大阪を起点に、盆踊りを介して大阪府の内外に盆踊りの情熱を伝えるという企画でした。

 それでは、一連の盆踊り大会が実際にどのようなものであったのか、そこから何が伝わってきたのか、万博会場で行われた三種の盆踊りを撮影した動画を取り上げ、考えてみることにしましょう。

■動画が捉えた万博会場での盆踊り

●7月25日、マツケンサンバ

 25日はオープニング・イベントとして、マツケンサンバが行われました。EXPOアリーナでの開催です。その時の様子を収めた動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/E–TvECP-DQ

(※ CMはスキップして視聴してください)

 松平健氏が、マツケンサンバ音頭を歌い演じて10分10秒を過ぎたころに、吉村知事、横山市長、河内家菊水丸氏が登場します。トークがはずみ賑やかになったところで、松平氏は金色の衣装に着替え、マツケンサンバⅡが始まります。


(※ ユーチューブ映像より)

 やぐらのトップに立って歌い演じる松平健氏が映し出され、その下の段で踊る知事や市長の姿が捉えられます。そして、やぐらを取り囲み、踊る人々・・・、みな、開放感にあふれ、楽しそうです。

 この盆踊りには、6000人の人々が参加したそうです。

 カメラが捉えた人々のしぐさや表情を見ていると、踊りが上手だとか、下手だとかは関係なく、参加することにこそ意義があるのだと思わせてくれます。

●7月26日、万博会場の屋外アリーナで開催された、ギネス盆踊り

 26日に企画されていたのが、ギネスへの挑戦です。こちらは、同時に盆踊りを踊った「人数」と「国籍数」を競います。参加者の人数と国籍数で、ギネス世界記録に挑戦するイベントでした。


(※ ユーチューブ映像より)

 共同通信がまとめた1分45秒ほどの動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/e1trPR_nTRI

(※ CMはスキップして視聴してください)

 参加者は、万博テーマソング「この地球(ほし)の続きを」に合わせ、踊りを披露しました。もちろん、どんな踊りでもいいというわけではありません。先ほどもいいましたが、ギネス記録を達成するには、参加者の9割以上が、決められた振り付け通りに、5分以上、正確に踊ることが条件になっています。

 参加者はオンラインや対面で練習を重ね、ギネス盆踊り大会に参加しました。その結果、ギネス公式認定員の発表によると、参加者数は3946人、国籍数は62カ国で、無事、記録達成となりました。約4000人が参加したのです。

 さらに参加人数が増えたのが、大屋根リングでの盆踊りです。

●7月28日、大屋根リングのスカイウォークで開催された盆踊り

 こちらは「大屋根リング盆踊り」と称され、「大阪から世界をつなぐ」とサブタイトルが付けられています。河内音頭の家元である河内家菊水丸氏が、音頭取りをした盆踊りです。これについては、5分33秒にまとめた動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/myuL7qSJ6wc

(※ CMはスキップして視聴してください)

 河内音頭の継承者、河内家菊水丸氏が音頭取りを務め、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」に添った、「いのち輝く未来社会音頭」で、盆踊りが展開されました。大屋根リングの上には、国内外から約8000人が参加しており、圧巻でした。

 この動画のコメント欄には、次のような意見が寄せられていました。

 「大屋根リングで、家族みんなで踊ってきました! 最高でした!」

「素敵な思い出沢山できました!」

「やっぱり市長も知事も若手だと、街は活性化されるし、みんなが活き活きするア大屋根リング いいね 、大活用や 」

「大勢の人が1つになれる大屋根リング  グッドジョブです」

 参加者は口々に、感動を伝えています。大屋根リングという大舞台で、皆と一緒に盆踊りをしたことが、何にも代えがたい喜びとなり、感動したことが綴られているのです。

 大勢の人々が一つの場所に集い、音頭に合わせて踊ることこそが、一体感を生み、感動させるのだと実感させられました。盆踊りが、参加型のライブ・パフォーマンスであることが、参加者の距離感を失わせ、一体感を生んだのではないかという気がします。

■吉村知事、横山市長

 興味深いのは、オープニングの「マツケンサンバ盆踊り」、そして、「ギネス盆踊り」、フィナーレの「大屋根リング盆踊り」、万博会場で開催された大会にはすべて吉村知事と横山市長が登場していたことでした。

 しかも、「ギネス盆踊り」以外、知事と市長は浴衣姿で登場しています。彼らは櫓の上に立って、スターゲストの松平健氏や河内家菊水丸氏とトークしながら、会場を盛り上げていたのです。


(※ ユーチューブ映像より)

 吉村知事が、軽いジョークを交え、観衆を沸かせながら会場を盛り上げていく様子を見ていると、ちょっとした芸人に見えてきます。横山市長も同様です。会場に違和感なく溶け込んでいるのです。まさに大阪府知事であり、大阪市長だと妙に納得させられました。

 そもそも政治は大勢の人々が参加する祭りであり、人々の同意を得ながら推進させるべきものなのでしょう。

 浴衣を着た吉村知事と横山市長が、櫓の上で菊水丸氏と談笑し、その櫓の周りを多数の参加者が取り囲んでいます。菊水丸氏の音頭取りで盆踊りが始まると、日本人であれ、外国人であれ、手をかざし、脚を出し、踊りながら、歩み出します。

 国籍を超え、人種を超えて、参加者が一つになっていった瞬間でした。

 約8000人もの参加者たちが、河内音頭に合わせて踊り、大屋根リングのスカイウォークの上を動いていきます。それが大きな輪となって、大屋根リングを覆っています。まさに、「大阪から世界をつなぐ」というコンセプトそのものの光景でした。

■盆踊り大会を通して、何が見えてきたのか?

 盆踊りはかつて、日本の夏を彩る風物詩の一つでした。お盆の時期になれば、各地で櫓が組まれ、笛や太鼓、音頭取りの歌唱に合わせ、地元の人々が輪になって踊っていたものでした。

 
 そもそも盆踊りは、ご先祖様の霊を供養するための行事でした。ところが、宗教的意味合いはいつしか薄れ、地域社会の娯楽になっていました。娯楽の少ない時代に、盆踊りは人々に娯楽を提供し、村落共同体の結束を強める機能を果たしてきたのです。

 地域共同体が廃れていくにつれ、次第に、盆踊り大会はみられなくなっていきました。担い手がいなくなってしまったのです。現在でも行われているものは、おそらく、商店街主催、あるいは、自治体主催の盆踊り大会ぐらいでしょう。

 ところが、万博会場では「EXPO2025 真夏の陣」と称し、三種の盆踊り大会が開催されたのです。動画でご紹介したように、万博会場で行われた盆踊り大会はそれぞれ、多数の参加者を熱気と感動の渦に巻き込んでいました。

 一連の盆踊り大会を通して見えてきたのは、まず、盆踊りが熱気と感動、そして、一体感を生み出すということでした。

●会場に充満する熱気と感動、一体感

 ギネス盆踊り大会には、日本人と多数の外国人が参加していました。次の写真は、その光景を捉えた一コマです。


(※ ユーチューブ映像より)

 浴衣を着用した人々が、テーマソングを口ずさみながら、一斉に手を突き出しています。参加者が、振付に忠実に踊っている様子が映し出されていました。

 こんな光景もありました。


(※ ユーチューブ映像より)

 これも、ギネス盆踊り大会の一コマです。右下に「東エリア8」と書かれた赤い色の表示が見え、その左側に民族衣装を着た人々が手を高く挙げている姿が見えます。参加者たちは、国籍毎に分けられ、開会を待っているのです。

 大勢の参加者たちが夕日を浴び、開会を待っている様子が映し出されています。ひしめきあうように集っている人々の中に、所々、黄色の識別表示が見えます。


(※ ユーチューブ映像より)

 猛暑の中、これだけ大勢の人々が、このギネス盆踊りのために参集しているのです。それは、ギネス企画の魅力でしょうか、それとも、盆踊りの魅力でしょうか。

 結局、この日の盆踊りには62ヵ国、3946人が参加しました。事前に練習に励んでいたせいか、参加者たちは、5分間以上、振付通りに踊るという基準を易々と達成しました。世界に向けた企画が目標を達成したのです。ギネス記録への登録が果たされ、「大阪、関西万博2025」の認知度はさらに高まることになるでしょう。

 そして、「EXPO2025 真夏の陣」は、28日開催の「大屋根リング盆踊り」で、大団円を迎えました。

 これら三種の盆踊り大会を通して、見えてきたのは、参加者たちの熱気と感動、そして、一体感でした。赤く染まった夕焼け空の下、参加者たちはごく自然の一つの輪になっていたのです。

●河内音頭で、大阪から世界をつなぐ

 さて、「大屋根リング盆踊り」では、菊水丸の河内音頭が使われました。河内音頭は、大阪八尾市を中心とした河内地方に普及している盆踊り唄です。大阪のご当地音頭で、日本人であると、外国人であるとを問わず、参加者たちは盆踊りに参加していたのです。


(※ ユーチューブ映像より)

 大屋根リングの上で踊っていたのは、なんと約8000人にも及んでいました。見渡すかぎり、人、人、人の渦です。動画を見ていると、下の方から河内音頭が聞こえてきます。浪曲のようであり、民謡のようであり、また、ラップのようにも聞こえる唄でした。

 伝統芸能でありながら、現代的な民衆性を備えた音楽のようにも思えます。

 一連の万博盆踊りに登場していたのが、河内家菊水丸氏です。独自に開発した「新聞詠み」で有名になったといわれています。折々のニュースを題材として、節をつけ、音頭に詠み込んでいくという手法で制作されていました。

 たとえば、グリコ森永事件、豊田商事事件、リクルート事件など世間を騒がせた事件を、題材として取り上げ、音頭に詠み込むのです。観衆の誰もが知っている事件を取り上げ、唄に詠み込んで披露すれば、共感を得られやすいからでした。

 大衆の興味関心に沿って、誇張して制作するという点では、ワイドショーの制作手法に似ているともいえます。

 その後は、事件ばかりではなく、社会的課題なども題材として取り上げるようになりました。そのような題材でも、菊水丸氏の唄には、言葉遊びの要素があり、時に過激な表現やウケ狙いの表現もあって、大衆受けするものでした。

こちら → https://www.nikkansports.com/premium/entertainment/news/202507080000895.html

 おかげで、河内地方だけで踊られていた河内音頭が、いまでは全国的に認知され、広まっています。とくに盛んなのは、東京錦糸町の盆踊りで、1985年以来、毎年、「錦糸町河内音頭」が開催されています。

こちら → https://www.kinshicho-kawachiondo.jp/

 今年も開催されており、2日間で3万人もが参加する大盛況ぶりでした。参加型の娯楽だからでしょうか、その動員力には目を見張るものがあります。人々を熱狂させ、一体感を醸成しやすいことがわかります。それだけに、江戸時代には、幕府が開催場所や時間を規制するほど、危険視されていたといわれています。

 盆踊りには、誰でも参加できる気軽さと親近感があります。しかも、ライブ・パフォーマンスとしての開放感があり、日ごろのストレスを発散させる機能もあります。それだけに、参加者を高揚させ、熱狂させ、周囲と一体化させる力も強いのでしょう。

 振り返ってみて、あらためて、「EXPO2025 真夏の陣」の企画は素晴らしいと思いました。盆踊りというローカル文化が、万博会場というを舞台から、参加者を巻き込みながら、グローバルに発信されていたのです。

 オープニングからフィナーレの「大屋根リング盆踊り」まで、三幕構成でつなげたところに参加者を引き込み、盛り上げながら展開していく流れがありました。

 まずは、日本国内で認知度の高いマツケンサンバを1幕目に設定して、参加者の目を引き、2幕目は、海外に向けて、意表を突く恰好で、ギネス記録への挑戦、そして、3幕目は、地元大阪の河内音頭で、約8000人が大屋根リングの上で踊るという趣向でした。

 メリハリのある構成で三種の盆踊りが組み立てられていたからこそ、「大阪から世界をつなぐ」というメッセージがしっかりと発信されていたように思います。

(2025/8/9 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」④:マルタ館で見る、幕末日本

■マルタ館の建設費未払い

 次々と起こる建設代金未払い問題が、マルタ館でも発生していました。下請け会社のI社は、約1億2千万円の未払いを抱え、現在、東京地裁に提訴しています。

(※ https://katori-atsuko.com/?news=%e3%81%be%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%82%e6%9c%aa%e6%89%95%e3%81%84%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%80%81%e4%b8%87%e5%8d%9a%e5%8d%94%e4%bc%9a%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e8%b2%ac%e4%bb%bb%e3%82%92%e5%8f%96

 2024年12月、マルタ館の工事は、外資系元請けのG社、一次下請けのS建設、I社が協議して、開始されました。G社は仮設物建築のスペシャリストで、世界中で万博やスポーツ大会の仮設物を作ってきた実績があります。内装工事を請け負ったI社の社長は当初、「こんな大きな会社と仕事ができるなんてすごい」と喜んでいたといいます。

 ところが、G社は協議の場でも平面図2枚しか渡さず、内装についてもほとんど指示を出しませんでした。G社のやり方に不安を感じたのか、1月末に、S建設と3次下請け業者は撤退してしまいました。以後、すべての責任がI社にのしかかってきたのです。

 マルタ館は、パビリオンの中ではもっとも遅く着工したので、工期が短く、しかも、図面は現場で何度も変更され、困難を極める仕事内容でした。それでもI社は不眠不休で働き、開幕までにマルタ館の工事を完了させました。ところが、元請けのG社は1億2千万円にも上る建設代金を支払っていないというのです。(※ http://www.labornetjp.org/news/2025/0617expo

 それでは、I社が苦労して完成させたマルタ館をご紹介しましょう。

(※ https://www.expo2025.or.jp/official-participant/malta/

 まず、やや湾曲した石造り風の壁面が、目につきます。自然石の素材感と洗練されたデザイン性が、なんとも印象的です。壁面の前には水が湛えられ、背後から光を受けると、石の壁や大きな木が水面に照らし出されるよう設計されています。光と水面を巧みに利用し、幻想的な雰囲気が醸し出されているのです。

 この素晴らしいパビリオンを、I社は、たった2枚の平面図を渡されただけで、完成させたのです。現場では、何度も設計変更を要求されたといいます。外国人とのやり取りの中で、コミュニケーションがスムーズにいかないことも多々、あったでしょう。それでもI社は開幕までに工事を完了させました。その責任感は、さすが日本の建設会社だといわざるをえません。ところが、その対価が支払われていないのです。

 マルタ館については、11分48秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/xybFRSzM3X0

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 この動画を見ていて、わかったことがあります。それは、正面の湾曲した壁面が、昼間はスクリーンとして活用されていたことです。

(※ 前掲の公式動画から)

 大きなスクリーンに広大な海が映し出されています。入り口で並んでいる来場者たちは、まるで海の中に佇んでいるような気持ちになっていたにちがいありません。これは、マルタが地中海に浮かぶ小島であることを、来場者に直感的に理解させる仕掛けだといえます。

 はたして、マルタはどのような国なのでしょうか。

■マルタ共和国とは?

 古来、さまざまな勢力や国から支配されてきたマルタは、1974年12月13日、イギリスから独立し、マルタ共和国となりました。イタリアのシチリア島の南に位置し、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島など3つの島々から構成されています。面積は316平方キロメートルで、東京23区の面積の約半分の大きさです。

 マルタの全体像が分かるような地図を探してみました。

(※ https://ritoful.com/archives/20113

 左が地中海での各国の位置関係を示す地図、右が3つの島から成るマルタ共和国の地図です。

 左の地図を見ると、マルタがイタリアのシチリア半島のごく近くに位置し、北アフリカのチュニジアにも近いことがわかります。イタリア、チュニジア、ギリシャ、トルコ、エジプトに挟まれ、地中海に浮かんでいる小さな島国が、マルタ共和国でした。

 マルタはまさに地中海の要衝の地なのです。

 右の地図を見ると、マルタ共和国は、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島などから構成されており、一番大きいマルタ島に、首都ヴァレッタが置かれているのがわかります。

 ヴァレッタの写真がありますので、見てみることにしましょう。

(※ https://diamond.jp/articles/-/345221

 コバルト色をした地中海のまっただ中に、石造りの建物が海の際まで建てられているのが見えます。まさに要塞都市ですが、これが、マルタ共和国の首都、ヴァレッタです。ここに、マルタの地政学上の特徴をみることができます。

 地中海の真ん中に浮かぶマルタは、古来、さまざま勢力から侵略され、支配されてきました。1530年になると、聖ヨハネ騎士団がマルタを拠点に活動しはじめました。彼らはやがて、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

 これに危機感をおぼえたオスマン帝国は1565年、4万もの大軍を率いて、マルタを攻撃してきました。マルタ騎士団はわずか8千程度の兵力で、4ヶ月間、これに抵抗していました。そのうち、カトリック教国側の援軍がマルタに到着すると、オスマン軍はたちまち撤退していったという事件がありました。

 この襲撃に懲りたマルタは、翌1566年、防衛のために新たな要塞都市の建設に着手しました。出来上がった都市は、当時のマルタ騎士団の団長ラ・ヴァレットの名前に因み、ヴァレッタと名付けられました。マルタは、防衛を最優先させなければならないほど、地政学上のリスクが高い地域だったのです。

 実際、古代からさまざまな民族がマルタを通り、上陸し、支配しては、去っていきました。その結果、この小さな島には、数多くの遺跡が残され、多様な民俗文化が根付いています。

■マルタに残された、世界遺産の数々

 マルタには、新石器時代から人間が生活していたといわれ、マルタ島やゴゾ島には約30の、神殿と思われる巨石建造物が残されています。そのうち、ゴゾ島のジュガンティーヤ神殿は、1980年に世界遺産に認定されました。

 その後、マルタ島でも5つの巨石神殿が発見されました。これらが追加登録されて、ジュガンティーヤ神殿 を含む神殿群は、1992年にマルタの巨石神殿群と名称変更されました。

こちら → https://www.mtajapan.com/heritage

 ここでは、ジュガンティーヤ神殿の他に、ハジャーイム神殿、イムナイドラ神殿、タルシーン神殿などが紹介されています。風化が進み、現在は巨大なテントで覆われていますが、神殿内部の見学は可能で、一般公開されているそうです。

 これらの巨石遺跡に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/0OD7W2qMRhA

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 興味深いことに、島内の各所に平行に穿たれた2本の溝の跡が残されています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Misra%C4%A7_G%C4%A7ar_il-Kbir

 この溝は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、水路だという説と、神殿などに石を運ぶためのレールだという説があります。

 カート・ラッツと呼ばれる2本の平行線が、島の至る所に見られます。その一方、まるでジャンクションのように穿たれた石の溝も残されています。

(※ 前掲URL)

 こちらは、まるで鉄道のポイントのように見えます。このような分岐点が所々に存在していることから、マルタには、古代の運送の痕跡がそのまま残されているといえます。

 先ほどいいましたように、ヴァレッタは港を見下ろす格好で、シベラスの丘の上に建造されています。まさに石造りの城塞都市です。そして、このヴァレッタの街そのものも世界遺産に登録されているのです。

(※ Wikipedia)

 11世紀の以降のさまざまな様式の建造物が、ヴァレッタには残されています。バロック建築、マニエリスム建築、近代建築、新古典主義建築などです。これらの多様な建築様式の建造物もまた、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 こうしてみてくると、マルタが地中海の要衝の地だからこそ、さまざまな文化が堆積してきたことがわかります。もちろん、東洋と西洋をつなぐ交通の結節点にもなっていたでしょう。

 実は、幕末の日本人が、このマルタを訪れていた痕跡が残されていたのです。

■マルタ館で展示された日本の甲冑

 地中海のマルタと縁があったとは、とうてい思えないのに、マルタのパビリオンに、日本の甲冑が展示されていました。向かって左が西洋の鎧、右が日本の甲冑です。東西の武具が並べて展示されていたのです。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 この甲冑は、2015年にマルタの武器庫で発見されたといいます。幕府がヨーロッパに派遣した使節団が、マルタに贈呈したものでした。1862年に欧州を訪れる途中、使節団はマルタに立ち寄っていました。その際、マルタから大歓迎された使節団が、その返礼として、甲冑を贈っていたのです。

 発見された時点で、すでに150年以上も経ていた甲冑です。当然のことながら、経年劣化が進み、欠損した箇所も目立つようになっていました。劣化部分や欠損部分については、京都美術品修復所が、1年半かけて修復を完了させました。2025年3月22日、読売新聞は、修復が終わった甲冑が、将軍家ゆかりの光雲寺で披露されたことを伝えていました。

(※ 読売新聞、2025年3月23日)

 使節団がマルタに贈ったのは、甲冑3点でした。それらが修理され、そのうち1点が、今回、マルタのパビリオンで展示されているのです。家老級の武士が身につける鉄製の高級甲冑だといいます。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 たしかに、磨きこまれ、黒光りしている甲冑には、重々しい威厳と凛とした美しさがあります。なるほど、家老級の武士が身につける甲冑なのだと納得させられました。

 アンドレ・スピテリ駐日大使は「万博で甲冑を見て、マルタと日本の歴史的なつながりを感じてほしい」と話しています(※ 読売新聞、2025年3月23日)。

■遣欧使節団はなぜ、マルタに立ち寄ったのか?

 江戸幕府は、文久元年(1862年)にヨーロッパに使節団を派遣しました。1858年に交わされたオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約のうち、新潟・兵庫の開港および江戸・大坂の開市の延期交渉、そして、樺太の国境画定交渉を進めるためでした。

 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、幕府の使節団は、イギリス海軍の蒸気フリゲート艦、オーディン号(HMS Odin)に乗船し、欧州に向かいました。

 一行の渡欧経路を見ると、品川港を出発し、長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領を経てエジプト・スエズに上陸し、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出た後、再び船に乗って地中海を渡り、英領マルタを経て、4月3日にマルセイユに入っていました。

 フランスのマルセイユに入る前の3月28日、使節団は、たしかにマルタ島のヴァレッタに立ち寄っていたのです。

 一行が、なぜ、エジプトのアレクキサンドリアから直接、マルセイユに行かず、マルタに立ち寄ったのかといえば、カイロ滞在時に、フランス行きの船を手配することができなかったからでした(※ 前掲、pp.47-48)。

 当初の予定では、フランスを訪問するのが先でした。ところが、使節団一行をフランスに運ぶ船の手配ができず、ひとまず、イギリスの船でマルタまで行こうということになったのです。一行を運んだのは、イギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号でした。

 当時、マルタは英領でした。イギリスは、1814年にマルタを支配下に置き、全盛期のイギリスを支えるための貿易、軍事上の重要な拠点にしていました。

 使節団が見たヴァレッタの印象は次のようなものでした。

 「マルタ島の印象は、全島がすべて岩で覆われた不毛の地のそれであった。とくに港の三方はみな城塞のようである」(※ 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、pp.49. 1989年、新潮社)

 港に面したところはみな城塞のようだと書かれています。実際、ヴァレッタはマルタ騎士団によって、1566年に要塞都市に造りかえられていました。日本の武士の目に、石造りの街ヴァレッタが、堅固な要塞に見えたのは、当然のことだったのかもしれません。

■マルタに贈呈した甲冑

 さて、ヒマラヤ号がヴァレッタに入港すると、一行は大歓迎されました。

 「哨戒艇が六隻ばかり本船の周りにやって来て、護衛についた。それより三使は、日章旗を掲げた艀に乗り換え、セント・アングロ要塞から十五発の祝砲を受けながら上陸し、「ダンスフォード・ホテル」に入った」(※ 前掲、pp.49-50)。

 ヒマラヤ号からは、まず、三使が、日章旗を掲げた艀に乗り換え、祝砲を受けながら、ヴァレッタ上陸しました。三使とは、「全権公使」のことで、竹内安徳(正使、56歳)、松平康直(副使、33歳)、京極高朗(目付、39歳)の三名を指します。使節一行の主要メンバーです。

 一行は、これら三使の他に、事務方のトップである柴田剛中(組頭、46歳)をはじめ、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪ら、総勢36名で構成されていました。

 三使と柴田剛中の4人が、パリで撮影された写真が残されています。ご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

 正使の竹内保徳は、箱館奉行に任じられた際は海防や開発に尽力し、外交や蝦夷地の事情にも通じていました。しかも、「君子風の良吏なりければ正使の価値を備へたる人物」といわれ、温厚篤実で、ものに動じることもなく、樺太境界の交渉には適任でした(※ 前掲、p.17)。

 三使の中で、日本の伝統文化を貫き通したのは、副使の松平康直でした。洋行経験者から持参の必要はないといわれながらも、甲冑や槍などを持参することを主張し、その結果、三使だけは甲冑等の持参を許されたそうです(※ 前掲、p.19)。

 もちろん、彼は渡航中も、日本の礼儀作法を固持していました。

 幕府は、使節一行の渡航に際し、締盟六か国の国王や首相、政府高官に送る土産として、大量の漆器や甲冑を用意していましたが、ただ立ち寄っただけのマルタに、家老クラスの武士が着用する甲冑を3つも贈呈したのは、ひょっとしたら、副使の松平康直の意向が強く働いていたのかもしれません。

 さて、ヴァレッタで三泊すると、一行は再び、ヒマラヤ号に乗って、フランスに入りました。しばらく滞在すると、今度はフランスの軍艦「コルス」に乗って、午前十時ごろイギリスに向かいます。ドーバーに着いたのが、1862年4月30日(文久2年4月2日)の午後1時ごろでした。

■使節団が見た、第2回ロンドン万博

 翌1862年5月1日、ロンドンでは第2回万国博覧会が、サウスケンジントンにある王立園芸協会庭園の隣接地で開幕しました。この開会式には使節団の三使も招かれています。もちろん、使節団の面々も、ロンドン滞在中になんども万博会場に足を運びました。

 万博会場を訪れた一行の姿を描いた図が残されています。

(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/086r.html

 羽織袴に刀を差し、物珍しそうにあちこち見てまわる使節一行の様子が描かれています。実際、見るもの、聞くものが目新しく、驚きに耐えなかったのでしょう。会場には、世界各国の物産が一堂に集められ、展示されていました。

 出品された品目は、金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶、浮きドッグの模型、美術工芸品、銃砲など百種類を超えていました。使節団にとっては見たこともないものばかりでした。その会場の一角に、駐日公使オールコックが持ち込んだ日本の物産が展示されていました。

 使節団の一人、高島祐啓は次のように記しています。

 「日本ノ品ハ外国未曽有ノ奇物多トイヘトモ、惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ、各国ノ下ニ出シタルハ残念ナリト云フヘシ」(※ 前掲。p.78)

 日本から出品されたものには、ガラクタが多く、見るに耐えなかったというのです。高島がガラクタと認識していたのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、草履などの日用品でした。英国人であるオールコックは、そのような日用品にも、展示価値があると判断したのでしょう。

■使節団は、第2回ロンドン万博で何を見たか?

 イギリスはこの頃、カナダ、オーストラリア、ジャマイカ、エジプト、南アフリカ、インドやその周辺にまで勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していました。目論んでいたのは、技術格差に基づく交易による世界制覇でした。

 当時、イギリス産の工業製品を、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などと取引し、暴利をむさぼるという形で各地に進出していました。自由貿易を掲げて、取引を行い、イギリスの権益を最大化していくという方法です。

 たとえば、中国に対しては、1840年にアヘン戦争を起こして清朝を屈服させ、香港を獲得しました。さらに、太平天国の乱に乗じて、アロー戦争をしかけ、1860年に北京条約によって開港を増やし、権益を拡大しました。

 このような帝国主義的手法によって、イギリスは世界各地に進出し、勢力圏を拡大させていたのです。いち早く産業革命を終えたイギリスならではの優位性によるものでした。イギリスの手法を学んだ欧米列強が引き続き、アジアに進出してきていました。

 七つの海を支配し、大英帝国を築き上げたイギリスは、日本との交易を求め、鎖国下の日本を何度か訪れていました。使節一行がマルタに立ち寄ることになったのも、実は、幕末の混乱に乗じて列強と結ばされた条約の修正をめぐる交渉のためでした。

 そして、使節団の欧州渡航の手配をしたのが、初代イギリス駐日公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809 – 1897)でした。幕府の窮地を見て取った彼は、ヨーロッパ締盟国に、開港開市延期についての親書を送り、合わせて使節団を派遣する旨を伝達すればどうかと幕府に提案しました。

 この提案が受け入れられると、彼は、フランスをはじめ、交渉国とのスケジュール調整をし、渡航費用、滞在費などの分担交渉なども行いました。もちろん、ヨーロッパまでの航路も、香港、シンガポール、インド、エジプト、マルタといった具合に、すべて当時のイギリス領を経由したものでした。

 使節団は、欧州渡航の行程で、イギリスの政治的力を見せつけられたでしょうし、ロンドン万博会場では、経済力の基礎となった技術力を見せつけられていたことでしょう。会場には蒸気機関、銃砲、浮きドッグの模型などが展示されていました。帝国主義時代を支え、産業化社会を進展させた技術の一端が披露されていたのです。

 翻って、「大阪、関西万博2025」をみれば、「いのち輝く未来社会のデザイン」という総合テーマの下、披露されているのは、ロボット技術であり、生命技術、リサイクルシステムであり、自然エネルギー、等々です。

 これらの技術がはたして、「いのち輝く未来社会」を約束してくれるものなのかどうか・・・。実際、ユスリカの大量発生では、万博会場設営のために夢洲の生態系が破壊されたことが明らかになりました。

 新規技術の導入に際しては、技術単体の機能や効能を見るだけではなく、技術相互の影響や累積効果、間接的な影響等を見ていく必要があるでしょう。AIが一般化する時代の到来を迎え、これまではともすれば、なおざりにされてきた、総合的、全体的な観点から、技術を検証していく必要が高まってきていると思います。

(2025/7/1 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」③:生態系を壊されたユスリカ、逆襲か?

■万博会場で発生した大量のユスリカ

 万博会場で大量の虫が発生していることが、開幕一か月後あたりから、SNSでさかんに取り上げられるようになりました。万博協会によると、5月14日頃から大量に確認され始めたといいます。

 SNSでの騒動に呼応して、新聞やテレビでも取り上げられるようになりました。たとえば、大阪のテレビ局MBSは5月22日、ユスリカの飛来について、次のように伝えています。

こちら → https://youtu.be/Oqytv2HySGE

(※ 5月22日MBSニュースより。CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 番組では、大屋根リングにびっしりと張り付いている大量の虫が映し出されます。これらはユスリカという虫で、蚊のようにヒトの血を吸ったり病気を媒介したりすることはないと説明されていました。害がないとはいえ、決して気持ちのいいものではありません。


(※ MBSニュース映像より)

 この虫が、会場のいたるところで確認されているというのです。次いで、ユスリカの死骸がたくさん落ちている場所が映し出され、大群が飛来し、空を覆っている写真も示されました。


(※ MBSニュース映像より)

 これは暗くなり始めたころの写真ですが、まだ明るい時間帯でも、ユスリカは飛来してきているようでした。

 三人の女性がウチワや扇子で虫を追い払いながら、大屋根リングを歩いている様子が映し出されます。

 レポーターが女性にインタビューすると、いかにも関西人らしく、「虫も、万博見に来たんかなって、言ってるんですけど」と笑顔で答えていましたが、不快感がなかったとはいえないでしょう。

 深刻なのは、会場内の飲食店です。店長の話では、大量のユスリカが店内に入り込んで床に落ち、それを来客が踏むので床が汚れて、掃除が大変だというのです。客の印象も悪くなるでしょうし、場合によっては虫が食べ物に落ちることもあるでしょう。店舗にとっては衛生管理上のコストも嵩みます。

 ユスリカの大量飛来が発覚したのがゴールデン明けから5月半ばぐらいでした。以後、発見されるたびに、万博協会には報告されているはずですが、万博協会ははたして、どのような対応をしてきたのでしょうか。

■万博協会の対応

 万博協会は26日、発生を抑えるための対策本部(本部長・石毛博行事務総長)を設置したと発表しました。同日、開催された1回目の会合で、高科淳・副事務総長は、これまで薬剤を中心とした対策を行ってきたが、ユスリカの会場への大量飛来を抑えることができていないと説明しています。

 万博協会は、当初、薬剤を撒けば、何とかなるだろうと思っていたのでしょう。ところが、いっこうに効かず、かえって増えているような状態だったのです。高科氏は今後、「環境への影響を考慮しながら、大阪府や大阪市と協力し、全力かつ迅速に対応を続けていく」と述べています。

 その後も、ユスリカの飛来は止む気配を見せませんでした。

 おそらく、来場者や会場内の施設や店舗関係者、スタッフなどから、万博協会への問い合わせが殺到したのでしょう。

 万博協会は2025年6月2日、「大阪・関西万博会場におけるユスリカの大量飛来についての現状と対策状況」というタイトルのお知らせを万博HP上に掲載しています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250527-02/

 万博HP上に掲載されたとはいえ、新しい情報はなく、これまで報道されてきたことを、整理しただけのような内容でした。

 万博協会は、複数の事業者の協力を得て、調査を実施した結果、次のように報告しています。

①会場内に大量飛来しているのは、ユスリカ科の一種であるシオユスリカであること、

②シオユスリカは淡水と海水が混じる汽水域で発生しており、発生源は、ウォータープラザ及びつながりの海であること、

③夕方から夜にかけての時間帯で大量発生し、主な飛来場所は、会場南側の大屋根リングの上(スカイウォーク)や、東西の水辺エリアであるが、会場の広い範囲でも確認されている、等々。

 まず、大量発生している虫を特定し、その発生源を明らかにしたうえで、主な飛来場所と飛来時間帯を報告しています。次いで、ユスリカ対策として、雨水桝等には、ユスリカの成長抑制剤を散布したこと、協会施設には、忌避剤による侵入防止策、清掃、消毒を実施し、営業店舗等には、忌避剤を使用した侵入対策、清掃、消毒を支援してきたこと、等を説明しています。

 興味深いのは、発生源と思われるウォータープラザやつながりの海には、当初から成長抑制剤を投入しておらず、これまでは成長抑制剤を撒いてきた雨水桝等には、今後もそうするのかどうかの言及がなかったことです。

 このことからは、万博協会は当初、手っ取り早く駆除できる薬剤に飛びついたものの、その後、薬剤を使用することに慎重な姿勢を見せ始めたことがわかります。おそらく、薬剤をしばらく使ってみても、効果がなかったことが影響しているのでしょう。あるいは、薬剤散布による人体や環境への影響を懸念したからかもしれません。

 万博協会の対応の微妙な変化については思い当たる節があります。

■薬剤に害はないのか?

 万博公式サイトに、「ユスリカ対策のために使用している成長抑制剤とは何ですか。人体・環境に影響はないですか」という質問が掲載されていました(※ 大阪、関西万博公式サイト)。

 ユスリカの大量発生以来、このような内容の質問が数多く、万博協会に寄せられていたからでしょう。これに対する万博協会の回答は、次のようなものでした。

①これまで雨水桝に、ユスリカの幼虫が羽化して飛翔することを防ぐ目的で、成長抑制剤を投入してきたが、人体が触れる場所には投入していない、

②成長抑制剤は、安全性が確認された市販品を使っており、人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入している、等々。

 気になるのは、回答文に、「人体が触れる場所には投入していない」とか、「人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入」などの表現がみられることです。いずれも薬剤使用による人体への影響を否定しようとするものであり、万博協会の防御の姿勢を垣間見ることができます。

 どのような薬剤を使用するにせよ、生物を駆除する薬剤には、人体や環境になんらかの影響があると考えるのが自然です。大量に飛来してくるユスリカを駆除するには、相当の量が必要になるでしょう。空中に散布するとなれば、当然のことながら、人体や自然への悪影響も考えられます。

 そのせいか、万博協会はHP上ではどの薬剤を使っているかを明らかにせず、ただ、市販の製品を使用法、使用量を守って撒いていると説明しているだけでした。そして、どういうわけか、この時点で万博協会は、なぜユスリカが大量に発生したのかについては言及していません。

■夢洲は生物多様性ホットスポット

 夢洲でのユスリカ発生は、実は、専門家から4年前に指摘されていました。

 夢洲は、1977年に埋め立て免許が取得された、埋め立て処分場です。埋め立てている間に、湿地や砂礫地ができ、いつの間にか、コアジサシやシギ・チドリ類など、貴重な鳥の生息場所となっていました。さまざまな生物が暮らすようになっており、多様な生態系が生まれてきていました。その結果、夢洲は2014年に、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに指定されていたのです。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/20316/guide20book20compact.pdf

 生物多様性ホットスポットとは、地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、人類による破壊の危機に瀕している地域のことを指します(※ Wikipedia)。

 大阪湾沿岸の自然は、開発によって近世から現代にいたるまで、ずっと失われ続けてきました。その自然が、わずかながら夢洲で再生し、命あふれる生物多様性のホットスポットになっていたのです。埋立地の夢洲で、数多くの生命を支えていたのが、塩性湿地とヨシ原でした。

 ところが、2018年11月23日、パリで開催された博覧会国際事務局(BIE)の総会で、2025年万博の開催地として大阪が選ばれてしまいました。

 以来、野鳥王国、夢洲の運命が激変したのです。

■なぜ、夢洲が万博会場に選ばれたのか

 当初の会場案に、夢洲は含まれていませんでした。たとえば、2016年度に大阪府が民間コンサルに委託した「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)策定業務」の発注段階では、夢洲は検討対象ではなかったのです。

 ところが、コンサル業者が2016年8月末に府に納めた「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)」では、万博会場の予定地に「夢洲」が追加されていました。(※ http://hunter-investigate.jp/news/2017/04/-20252627-28-28.html

 なぜ、夢洲が追加されるに至ったのか、その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

 夢洲は、2014年の調査では否定され、2015年の調査では、対象地にも入っていませんでした。突如、候補地に追加されたことが明らかになったのは、2016年7月です。

 7月22日に開かれた検討会議の第1回整備等部会の議事録に、興味深いやり取りが記録されています。委員から、なぜ、夢洲が候補地に追加されたのかと質問された事務局が、当時の松井一郎大阪府知事が独断で夢洲を万博予定地に追加したと回答していたのです(※ 前掲。URL)。

 その2か月ほど前の5月21日、松井知事(当時)は、菅義偉官房長官(当時)と東京で非公式に会談し、夢洲を会場に万博を開催し、終了後は統合型リゾート(IR)として利活用したいという方針を示し、誘致への協力を要請していました(※ 2016年5月23日付産経新聞)。

 大阪府知事の松井氏は5月21日に非公式に官房長官の菅氏と会談し、夢洲を会場とするプランを示し、万博誘致の要請をしていたのです。つまり、5月21日までに、夢洲を会場にするというプランは出来上がっていたことになります。

 2016年12月、経産省は、経済界代表や各界の有識者、地方自治体の代表者等で構成される「2025年国際博覧会検討会」を設置しました。そこで、『「2025日本万国博覧会」基本構想(府案)』(大阪府、2016年11月)に基づいて検討を重ね、パブリックコメントを踏まえて報告書をまとめました。そこには、開催場所として、「大阪府大阪市夢洲地区」と明記されていました。

(※ https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11646345/www.meti.go.jp/press/2017/04/20170407004/20170407004.html

 夢洲は2016年12月にはすでに、開催場所として政財界から承認され、確定していたのです。夢洲が、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに選定されてからわずか2年しか経っていませんでした。

 基本構想を策定した大阪府や大阪市は、そのことを知っていたはずですが、それには触れず、夢洲を会場に選んでいたことになります。

 ちなみに、夢洲が生物多様性ホットスポットAランクに指定されていることは、この時の検討会では知らされていなかったといいます。(※ https://www.ben54.jp/news/2334

 一連の経緯をみると、大阪府の万博用地選定の過程はきわめて不透明なものだったといわざるをえません。見えてくるのは、万博後の土地をIRとして利活用という大阪府の思惑です。

 万博は一過性の祭典ですが、地元にとって重要なのは、跡地を利用した地域開発、地域振興であり、新規事業の立ち上げなどです。継続的に経済効果が見込まれる事業企画こそが必要でした。

 大阪府と市は、万博開催を起爆剤に、大阪をはじめ関西圏の経済力、技術力、都市としての魅力を飛躍的に向上させることを目指しました。万博後の展開を重視すれば、開催場所は夢洲でなければならなかったのです。

 2018年11月23日、パリで開催された第164回博覧会国際事務局(BIE)総会で、2025年国際博覧会が大阪で開催されることが決定しました。この決定を受けて、経済界が動き始めました。

■スーパーシティ構想の一環としての夢洲

 2020年12月、内閣府がスーパーシティ型国家戦略特別区域の指定に関する公募を行ったところ、大阪府と市はこれに応募しました。

 大阪府と市は、2つのグリーンフィールド(夢洲、うめきた2期)で、3つのプロジェクト(夢洲コンストラクション、大阪・関西万博、うめきた2期)を立ち上げ、先端的サービスや規制改革を行うことを提案したのです。

 この提案は、国家戦略特区諮問会議での審議を経て、2022年4月、政令閣議決定により、大阪市域が区域指定されました。

(※ https://www.city.osaka.lg.jp/ictsenryakushitsu/page/0000592767.html

 これら3つのプロジェクトには、経済界が深く関わっています。

 たとえば、関西経済連合会は、2022年8月26日、「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み」を発表しました。これによると、夢洲はスーパーシティ構想の一貫として構想されていました。


(※ 『「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み』、p.12、関西経済連合会、2022年8月26日)

 このプロジェクトでは、夢洲は未来社会の実験場として、空飛ぶクルマの社会実装、自動運転での万博アクセス、未来医療の体験などが構想されていました。確かに、これらを実現させるには、広大な空き地が不可欠でした。

 万博会場に選定された夢洲は、まず、万博会場として活用し、万博が終われば、IR、上質なリゾート地といった具合に開発され、スーパーシティとしての未来が構想されていたのです。

(※ 前掲、p.14)

 未来社会を支える技術は、「空飛ぶクルマ」、「自動運転での万博アクセス」、「未来医療の体験」などを通して、万博会場で経験できるようにされていました。閉幕後はそのまま、実社会で利用できるように計画されていたのです。

 万博会場は、未来技術の体験の場であり、シミュレーションの場であり、社会実装に向けた場でもあったのです。

 当時、すでに夢洲とコスモスクエアを結ぶ「夢咲トンネル」に、鉄道部分が造られていました。比較的短期間で、鉄道を通すことも可能だったのです。電車が延伸すれば、夢洲から大阪都心までの所要時間は約20分になります。

 都心に近く、しかも、広大な空き地がある夢洲は、万博会場として最適なばかりか、閉幕後のIRにも恰好の地でした。

 経済界と行政は一丸となって、夢洲を未来社会のデザインで造り替えようとしていました。自然が時間をかけて育み、多様な生物が棲息する環境を、未来技術で覆い尽くそうとしていたとしていたのです。

 もちろん、それを懸念する声はありました。

 実は、2018年11月19日、大阪環境保全協会は、大阪府と大阪市等に対し、要望書を提出していました。万博が大阪で開催されることが決定される直前のことです。

■大阪府と市に対する保全協会からの要望

 大阪自然環境保全協会会長の夏原由博氏は、2018年11月19日、大阪府知事(松井一郎)、大阪市長(吉村洋文)、大阪府議会議長(岩木均)、大阪市会議長 (角谷庄一)宛てに、「夢洲の自然環境保全に関する要望及び質問書」を提出しました。

こちら → https://www.nature.or.jp/action/teigen/yumeshima.html

 この要望書に対し、大阪府からは2018年12月26日にメールで回答があり、大阪市からは2018年12月20日に添付ファイルで回答が寄せられました。いずれも、夢洲が生物多様性ホットスポットとして選定されていること、そして、その重要性については認識していると回答しています。

 さらに、両者は、万博開催事業が環境アセスメントの対象であることを踏まえ、生きもの保全対策に関する手続きをするのは万博協会だという点でも、共通の認識を示していました。

 もちろん、府は、万博協会が適切に手続きをするよう連携すると表明し、市も、手続き中に必要な調査を行い、影響があれば抑制すると回答していました。とはいえ、両者とも、万博協会が手続きの主体だと主張しており、半ば責任逃れのようにも思える回答でした。

 これでは、夢洲の自然環境が破壊されかねないと危機感を募らせたのでしょう。

 大阪自然環境保全協会は、2019年初から夢洲の生物調査を開始しました。調査を実施した保全協会の会員たちは、四季折々の生物たちの姿を詳細に捉え、データとして蓄積していきました。

 調査をした結果、さまざまなことがわかってきました。

■多様な生命を育んできた夢洲の葦原や水辺

 保全協会の会員の一人は、「今の夢洲は虫の王国です。多くのバッタ、多くのトンボ、多くのチョウ、そして“恐ろしいほどの数のユスリカ”がいます。それらが多くの生きものの命を繋いでいっています」と報告しています。

 実は、万博の開幕前から、夢洲にはすでに大量のユスリカがいたのです。

 ユスリカがいるからこそ、それを餌にするバッタなどの昆虫が生息し、昆虫を餌にするさまざまな鳥が生命を育むことができていました。湿地にいたユスリカが、生態系の底辺を支え、夢洲を多様な生物が生息する楽園にしていたことがわかりました。

 保全協会の会員は、調査をしていた時の経験を次のように記しています。

「私たちが夢洲をみてきた期間はわずか2,3年ですが、どれだけ大阪湾の自然の復活力が力強いものか、そしてそこに生きようとする命のなんとたくましいことか、人間の想定を超えるそのエネルギーに感動すら覚えました」

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html

 多様な生物がこの夢洲の地で生息し、つながり合いながら、生命を育んでいました。調査していた会員たちは、そのことに感動し、四季折々の動植物の姿を多数、撮影し、記録に残していました。

 当時の写真を見ると、確かに、空き地だった場所が、季節が変わるとあっという間に草原に変わっていくことがわかります。草原にヒバリが巣材を運んでいるかと思えば、セッカがそれを警戒しています。

 湿地にはヨシが進出して生い茂り、夏になると、そこを爽やかな風が吹き渡ります。時には、カエルの大合唱をバックに、トンボや若ツバメが草原を飛び交っていました。昆虫や小動物、鳥たちなどが共に、草原で生命を輝かせていたのです。

 2019年7月初旬には、次のような光景が見られました。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html)

 この写真について、撮影者は次のように記しています。

 「7月初旬、2区の湿地に3000羽を超えるコアジサシが休んでいました。そして時折、群れになって飛び上がり、湿地の上を旋回します。おそらく渡りの前の大集合なのでしょう。夢洲で今年生まれた幼鳥もこの中に混ざって、その後すぐ旅立ちました」(※ 前掲URL)

 夢洲で撮影された写真を見ると、さまざまな生き物がのびのびと生命を育んでいる様子が伝わってきます。鳥たちは葦原で休み、餌をついばみ、繁殖していきます。夢洲には生き物たちの豊かな世界が広がっていました。

■工事の進行に伴い、草原の消滅

 まず、2019年7月26日に撮影された夢洲の草原の姿をご紹介しましょう。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/prolog.html

 青々とした草原の中で、多数の白い鳥が行き交っています。夢洲はまさに鳥たちの楽園でした。草原には、鳥たちの餌となる昆虫や小動物が数多く生息していたからです。ところが、その草原が、万博の会場用地として造成され、土がむき出しになってくると、もはや昆虫や小動物が生きられる環境ではなくなってしまいました。もちろん、鳥たちもまた、棲むことができなくなってしまいました。

 次に、同じ場所で、2021年8月22日に撮影された写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲URL)

 土砂の山の上に、鳥の姿が見えます。撮影者によると、ここにいたのは、チョウゲンボウの家族なのだそうです。ポツンと佇んでいる様子を見ると、草原が失われ、もはや棲めなくなったことを嘆き悲しんでいるようにも思えます。

 工事が始まってから、多様な生き物の楽園だった夢洲が、一転して、生き物の棲めない場所になっていったのです。

■万博協会による「環境影響評価準備書」に対する意見書

 2021年10月1日、大阪市は、万博協会が作成した「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」(2021年9月)を公開し、縦覧を開始しました。

こちら → https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000544704.html

 大阪自然環境保全協会にとって、この準備書はとうてい納得できるものではありませんでした。事前に要望書を出していたにもかかわらず、万博協会の準備書は、環境への配慮が欠けたものになっていたのです。

(※ https://www.nature.or.jp/assets/files/ACTION/yumeshima/20211105expo2025_iken.pdf

 たとえば、準備書99ページで示された「表3.1(5)事業計画に反映した環境配慮の内容」について、「配慮のための前提が満たされていない」とし、「重要種への影響はほとんど回避・低減できていない」と、保全協会は指摘しています。

 さらに、「生物多様性ホットスポットとしての夢洲は、干潟・代替裸地として選定されているが、準備書ではそうした環境の保全・再生についての具体的な言及はない」と批判しています。

 保全協会は、大阪市が2021年12月11日に開催した「環境影響評価準備書に関する公聴会」に出席し、夢洲には多様な生き物が生息していることを説明し、環境保全を求めました。夢洲での調査結果を踏まえての要望でした。

 もちろん、環境保全協会は意見書を提出しました。さらには、「生き物たちの自然環境を守るために、ご一緒に環境影響評価準備書を読み解き、大阪市へ意見を送りましょう」と市民にも広く呼びかけました。

 再び、「準備書」の99ページを見ると、「配慮の内容」として、具体的に、「会場内にはグリーンワールドやウォーターワールドを整備し、自然環境の整備に配慮する」と書かれ、「グリーンワールド等の整備における植栽樹種については、在来種を中心に選定することにより生態系ネットワークの維持・形成に配慮し、外来種の混入防止に努める」と記されています。

 確かに、植物の生態系については具体的に書かれています。ところが、動物については具体的な内容は何も書かれていないのです。つまり、ウォーターワールドについてはなんら言及されていなかったといえます。

 興味深いのは、この「準備書」に対する大阪市長の意見です。

 2024年1月29日、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書に関する市長意見」が公開されました。

 大阪市長は、「夢洲では多様な鳥類が確認されていることから、専門家等の意見を聴取しながら、工事着手までにこれら鳥類の生息・生育環境に配慮した整備内容やスケジュール等のロードマップを作成し、湿地や草地、砂れき地等の多様な環境を保全・創出すること」と表明していたのです。(※ https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000556/556173/iken.pdf

 大阪市長の意見には、具体性があります。とくに、「専門家等の意見を聴取しながら」、「工事着手までに・・・、整備内容やスケジュール等のトードマップを作成し」、「湿地や草地、砂礫地等の多様な環境を保全・創出すること」といった具合に、環境保全のためのポイントをついた見解が述べられています。

 動物の生態系を支える基礎部分について、ポイントを押さえて書かれています。「準備書」に欠けている点を補完する内容でした。

 大阪市長は、大阪市環境影響評価条例の規定に基づき、2022年2月9日付けで、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」について、事業者である万博協会に対する意見を述べていることがわかります。当時の大阪市長は松井一郎氏でした。

 一方、万博協会は、「準備書」で動物の生態系について言及しなかったばかりか、実際には、当時の大阪市長の補完的な意見すら無視していました。一過性の祭典を華麗に遂行し、無事に終わらせることを優先させたのです。

 その結果、万博協会は、「つながりの海」を造成するために、浅瀬を無くし、湿地もなくしてしまいました。

 万博協会にとって、「ウォータープラザ」や「つながりの海」は、大屋根リングとともに、万博会場をショーアップするための装置でした。その目的を達成するために、造成工事の過程で、水辺の環境保全を犠牲にしてしまいました。万博会場のデザインやショーアップ効果を優先させたからにほかなりません。

■「ウォータープラザ」と「つながりの海」に求められたショーアップ効果

 6月2日に記者会見した高科淳副事務総長は、ユスリカの発生源は海水が入る「ウォータープラザ」と「つながりの海」だと説明しました。

(※ 産経新聞、2025年6月4日)

 「ウォータープラザ」では水上ショーが行われ、「つながりの海」ではドローンショーが行われています。毎晩、夜空を舞台に、華麗な光のショーが、水辺で楽しめるように企画されていたのです。

 ドローンショーを見てみましょう。

こちら → https://youtu.be/br3YZUnuM2c

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 色とりどりの光は、夜空を輝かせるだけではなく、水面をも煌めかせて、観客を幻想的な世界に引き込みます。地上からは、夜空に輝くショーを見ることができ、大屋根リングの上からは、間近でショーを見ることができるばかりか、見下ろせば、水面に反射した光の乱舞を見ることができます。

 夜空にライトアップされたショーは、水面に映し出されることによって、煌めきを倍加させていました。このようなショーアップ効果を狙って作られたのが、ウォータープラザであり、つながりの海でした。

■ユスリカが問う、「いのち輝く未来社会のデザイン」とは?

 会場に大量に飛来してきているのは、シオユスリカだと万博協会が発表しました。調べてみると、シオユスリカは、海水と淡水が混ざる汽水域や潮だまりなど浅い海水に発生し、昼間は植栽の中や、風があまり当たらない場所などに潜んでいるそうです。夕方になると、「群飛」と呼ばれる行動をとり、オスの成虫が集団で「蚊柱」を形成します。そこに突っ込んでくるメスとの出会いを待って、交尾に成功して卵を産めば、すぐに死んでしまうというのです(※ https://note.com/kincho_jp/n/n9c53051ca48e)。

 なぜ、ユスリカが大量に発生したかというと、万博会場を造成するため、多様な生き物が棲んでいた湿地や草地を壊してしまったからでした。

 もともとごみ処分場だった夢洲周辺の海水は、有機物を多く含み、滋味豊かです。ユスリカは、水中や湿った土の中から卵から幼虫になりますから、造成工事にもめげずに繁殖していったのでしょう。

 ところが、ユスリカを餌にしていた昆虫や鳥などは、造成工事によって棲み処を奪われ、駆逐されてしまいました。天敵がいなくなったユスリカが大量に発生し、会場のあちこちに蚊柱が立つのは当然の成り行きだったのです。

 「大阪、関西万博2025」は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、開催されています。ところが、実際には、「いのち輝く」自然の生態系を破壊し、その代わりに、ヒトの生命維持のための最新技術を展示したにすぎませんでした。ユスリカの大量発生は、まさに、「いのち輝く未来社会のデザイン」への逆襲だといえるでしょう。

(2025/6/22 香取淳子)