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「大阪、関西万博2025」④:マルタ館で見る、幕末日本

■マルタ館の建設費未払い

 次々と起こる建設代金未払い問題が、マルタ館でも発生していました。下請け会社のI社は、約1億2千万円の未払いを抱え、現在、東京地裁に提訴しています。

(※ https://katori-atsuko.com/?news=%e3%81%be%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%82%e6%9c%aa%e6%89%95%e3%81%84%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%80%81%e4%b8%87%e5%8d%9a%e5%8d%94%e4%bc%9a%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e8%b2%ac%e4%bb%bb%e3%82%92%e5%8f%96

 2024年12月、マルタ館の工事は、外資系元請けのG社、一次下請けのS建設、I社が協議して、開始されました。G社は仮設物建築のスペシャリストで、世界中で万博やスポーツ大会の仮設物を作ってきた実績があります。内装工事を請け負ったI社の社長は当初、「こんな大きな会社と仕事ができるなんてすごい」と喜んでいたといいます。

 ところが、G社は協議の場でも平面図2枚しか渡さず、内装についてもほとんど指示を出しませんでした。G社のやり方に不安を感じたのか、1月末に、S建設と3次下請け業者は撤退してしまいました。以後、すべての責任がI社にのしかかってきたのです。

 マルタ館は、パビリオンの中ではもっとも遅く着工したので、工期が短く、しかも、図面は現場で何度も変更され、困難を極める仕事内容でした。それでもI社は不眠不休で働き、開幕までにマルタ館の工事を完了させました。ところが、元請けのG社は1億2千万円にも上る建設代金を支払っていないというのです。(※ http://www.labornetjp.org/news/2025/0617expo

 それでは、I社が苦労して完成させたマルタ館をご紹介しましょう。

(※ https://www.expo2025.or.jp/official-participant/malta/

 まず、やや湾曲した石造り風の壁面が、目につきます。自然石の素材感と洗練されたデザイン性が、なんとも印象的です。壁面の前には水が湛えられ、背後から光を受けると、石の壁や大きな木が水面に照らし出されるよう設計されています。光と水面を巧みに利用し、幻想的な雰囲気が醸し出されているのです。

 この素晴らしいパビリオンを、I社は、たった2枚の平面図を渡されただけで、完成させたのです。現場では、何度も設計変更を要求されたといいます。外国人とのやり取りの中で、コミュニケーションがスムーズにいかないことも多々、あったでしょう。それでもI社は開幕までに工事を完了させました。その責任感は、さすが日本の建設会社だといわざるをえません。ところが、その対価が支払われていないのです。

 マルタ館については、11分48秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/xybFRSzM3X0

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 この動画を見ていて、わかったことがあります。それは、正面の湾曲した壁面が、昼間はスクリーンとして活用されていたことです。

(※ 前掲の公式動画から)

 大きなスクリーンに広大な海が映し出されています。入り口で並んでいる来場者たちは、まるで海の中に佇んでいるような気持ちになっていたにちがいありません。これは、マルタが地中海に浮かぶ小島であることを、来場者に直感的に理解させる仕掛けだといえます。

 はたして、マルタはどのような国なのでしょうか。

■マルタ共和国とは?

 古来、さまざまな勢力や国から支配されてきたマルタは、1974年12月13日、イギリスから独立し、マルタ共和国となりました。イタリアのシチリア島の南に位置し、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島など3つの島々から構成されています。面積は316平方キロメートルで、東京23区の面積の約半分の大きさです。

 マルタの全体像が分かるような地図を探してみました。

(※ https://ritoful.com/archives/20113

 左が地中海での各国の位置関係を示す地図、右が3つの島から成るマルタ共和国の地図です。

 左の地図を見ると、マルタがイタリアのシチリア半島のごく近くに位置し、北アフリカのチュニジアにも近いことがわかります。イタリア、チュニジア、ギリシャ、トルコ、エジプトに挟まれ、地中海に浮かんでいる小さな島国が、マルタ共和国でした。

 マルタはまさに地中海の要衝の地なのです。

 右の地図を見ると、マルタ共和国は、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島などから構成されており、一番大きいマルタ島に、首都ヴァレッタが置かれているのがわかります。

 ヴァレッタの写真がありますので、見てみることにしましょう。

(※ https://diamond.jp/articles/-/345221

 コバルト色をした地中海のまっただ中に、石造りの建物が海の際まで建てられているのが見えます。まさに要塞都市ですが、これが、マルタ共和国の首都、ヴァレッタです。ここに、マルタの地政学上の特徴をみることができます。

 地中海の真ん中に浮かぶマルタは、古来、さまざま勢力から侵略され、支配されてきました。1530年になると、聖ヨハネ騎士団がマルタを拠点に活動しはじめました。彼らはやがて、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

 これに危機感をおぼえたオスマン帝国は1565年、4万もの大軍を率いて、マルタを攻撃してきました。マルタ騎士団はわずか8千程度の兵力で、4ヶ月間、これに抵抗していました。そのうち、カトリック教国側の援軍がマルタに到着すると、オスマン軍はたちまち撤退していったという事件がありました。

 この襲撃に懲りたマルタは、翌1566年、防衛のために新たな要塞都市の建設に着手しました。出来上がった都市は、当時のマルタ騎士団の団長ラ・ヴァレットの名前に因み、ヴァレッタと名付けられました。マルタは、防衛を最優先させなければならないほど、地政学上のリスクが高い地域だったのです。

 実際、古代からさまざまな民族がマルタを通り、上陸し、支配しては、去っていきました。その結果、この小さな島には、数多くの遺跡が残され、多様な民俗文化が根付いています。

■マルタに残された、世界遺産の数々

 マルタには、新石器時代から人間が生活していたといわれ、マルタ島やゴゾ島には約30の、神殿と思われる巨石建造物が残されています。そのうち、ゴゾ島のジュガンティーヤ神殿は、1980年に世界遺産に認定されました。

 その後、マルタ島でも5つの巨石神殿が発見されました。これらが追加登録されて、ジュガンティーヤ神殿 を含む神殿群は、1992年にマルタの巨石神殿群と名称変更されました。

こちら → https://www.mtajapan.com/heritage

 ここでは、ジュガンティーヤ神殿の他に、ハジャーイム神殿、イムナイドラ神殿、タルシーン神殿などが紹介されています。風化が進み、現在は巨大なテントで覆われていますが、神殿内部の見学は可能で、一般公開されているそうです。

 これらの巨石遺跡に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/0OD7W2qMRhA

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 興味深いことに、島内の各所に平行に穿たれた2本の溝の跡が残されています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Misra%C4%A7_G%C4%A7ar_il-Kbir

 この溝は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、水路だという説と、神殿などに石を運ぶためのレールだという説があります。

 カート・ラッツと呼ばれる2本の平行線が、島の至る所に見られます。その一方、まるでジャンクションのように穿たれた石の溝も残されています。

(※ 前掲URL)

 こちらは、まるで鉄道のポイントのように見えます。このような分岐点が所々に存在していることから、マルタには、古代の運送の痕跡がそのまま残されているといえます。

 先ほどいいましたように、ヴァレッタは港を見下ろす格好で、シベラスの丘の上に建造されています。まさに石造りの城塞都市です。そして、このヴァレッタの街そのものも世界遺産に登録されているのです。

(※ Wikipedia)

 11世紀の以降のさまざまな様式の建造物が、ヴァレッタには残されています。バロック建築、マニエリスム建築、近代建築、新古典主義建築などです。これらの多様な建築様式の建造物もまた、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 こうしてみてくると、マルタが地中海の要衝の地だからこそ、さまざまな文化が堆積してきたことがわかります。もちろん、東洋と西洋をつなぐ交通の結節点にもなっていたでしょう。

 実は、幕末の日本人が、このマルタを訪れていた痕跡が残されていたのです。

■マルタ館で展示された日本の甲冑

 地中海のマルタと縁があったとは、とうてい思えないのに、マルタのパビリオンに、日本の甲冑が展示されていました。向かって左が西洋の鎧、右が日本の甲冑です。東西の武具が並べて展示されていたのです。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 この甲冑は、2015年にマルタの武器庫で発見されたといいます。幕府がヨーロッパに派遣した使節団が、マルタに贈呈したものでした。1862年に欧州を訪れる途中、使節団はマルタに立ち寄っていました。その際、マルタから大歓迎された使節団が、その返礼として、甲冑を贈っていたのです。

 発見された時点で、すでに150年以上も経ていた甲冑です。当然のことながら、経年劣化が進み、欠損した箇所も目立つようになっていました。劣化部分や欠損部分については、京都美術品修復所が、1年半かけて修復を完了させました。2025年3月22日、読売新聞は、修復が終わった甲冑が、将軍家ゆかりの光雲寺で披露されたことを伝えていました。

(※ 読売新聞、2025年3月23日)

 使節団がマルタに贈ったのは、甲冑3点でした。それらが修理され、そのうち1点が、今回、マルタのパビリオンで展示されているのです。家老級の武士が身につける鉄製の高級甲冑だといいます。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 たしかに、磨きこまれ、黒光りしている甲冑には、重々しい威厳と凛とした美しさがあります。なるほど、家老級の武士が身につける甲冑なのだと納得させられました。

 アンドレ・スピテリ駐日大使は「万博で甲冑を見て、マルタと日本の歴史的なつながりを感じてほしい」と話しています(※ 読売新聞、2025年3月23日)。

■遣欧使節団はなぜ、マルタに立ち寄ったのか?

 江戸幕府は、文久元年(1862年)にヨーロッパに使節団を派遣しました。1858年に交わされたオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約のうち、新潟・兵庫の開港および江戸・大坂の開市の延期交渉、そして、樺太の国境画定交渉を進めるためでした。

 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、幕府の使節団は、イギリス海軍の蒸気フリゲート艦、オーディン号(HMS Odin)に乗船し、欧州に向かいました。

 一行の渡欧経路を見ると、品川港を出発し、長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領を経てエジプト・スエズに上陸し、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出た後、再び船に乗って地中海を渡り、英領マルタを経て、4月3日にマルセイユに入っていました。

 フランスのマルセイユに入る前の3月28日、使節団は、たしかにマルタ島のヴァレッタに立ち寄っていたのです。

 一行が、なぜ、エジプトのアレクキサンドリアから直接、マルセイユに行かず、マルタに立ち寄ったのかといえば、カイロ滞在時に、フランス行きの船を手配することができなかったからでした(※ 前掲、pp.47-48)。

 当初の予定では、フランスを訪問するのが先でした。ところが、使節団一行をフランスに運ぶ船の手配ができず、ひとまず、イギリスの船でマルタまで行こうということになったのです。一行を運んだのは、イギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号でした。

 当時、マルタは英領でした。イギリスは、1814年にマルタを支配下に置き、全盛期のイギリスを支えるための貿易、軍事上の重要な拠点にしていました。

 使節団が見たヴァレッタの印象は次のようなものでした。

 「マルタ島の印象は、全島がすべて岩で覆われた不毛の地のそれであった。とくに港の三方はみな城塞のようである」(※ 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、pp.49. 1989年、新潮社)

 港に面したところはみな城塞のようだと書かれています。実際、ヴァレッタはマルタ騎士団によって、1566年に要塞都市に造りかえられていました。日本の武士の目に、石造りの街ヴァレッタが、堅固な要塞に見えたのは、当然のことだったのかもしれません。

■マルタに贈呈した甲冑

 さて、ヒマラヤ号がヴァレッタに入港すると、一行は大歓迎されました。

 「哨戒艇が六隻ばかり本船の周りにやって来て、護衛についた。それより三使は、日章旗を掲げた艀に乗り換え、セント・アングロ要塞から十五発の祝砲を受けながら上陸し、「ダンスフォード・ホテル」に入った」(※ 前掲、pp.49-50)。

 ヒマラヤ号からは、まず、三使が、日章旗を掲げた艀に乗り換え、祝砲を受けながら、ヴァレッタ上陸しました。三使とは、「全権公使」のことで、竹内安徳(正使、56歳)、松平康直(副使、33歳)、京極高朗(目付、39歳)の三名を指します。使節一行の主要メンバーです。

 一行は、これら三使の他に、事務方のトップである柴田剛中(組頭、46歳)をはじめ、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪ら、総勢36名で構成されていました。

 三使と柴田剛中の4人が、パリで撮影された写真が残されています。ご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

 正使の竹内保徳は、箱館奉行に任じられた際は海防や開発に尽力し、外交や蝦夷地の事情にも通じていました。しかも、「君子風の良吏なりければ正使の価値を備へたる人物」といわれ、温厚篤実で、ものに動じることもなく、樺太境界の交渉には適任でした(※ 前掲、p.17)。

 三使の中で、日本の伝統文化を貫き通したのは、副使の松平康直でした。洋行経験者から持参の必要はないといわれながらも、甲冑や槍などを持参することを主張し、その結果、三使だけは甲冑等の持参を許されたそうです(※ 前掲、p.19)。

 もちろん、彼は渡航中も、日本の礼儀作法を固持していました。

 幕府は、使節一行の渡航に際し、締盟六か国の国王や首相、政府高官に送る土産として、大量の漆器や甲冑を用意していましたが、ただ立ち寄っただけのマルタに、家老クラスの武士が着用する甲冑を3つも贈呈したのは、ひょっとしたら、副使の松平康直の意向が強く働いていたのかもしれません。

 さて、ヴァレッタで三泊すると、一行は再び、ヒマラヤ号に乗って、フランスに入りました。しばらく滞在すると、今度はフランスの軍艦「コルス」に乗って、午前十時ごろイギリスに向かいます。ドーバーに着いたのが、1862年4月30日(文久2年4月2日)の午後1時ごろでした。

■使節団が見た、第2回ロンドン万博

 翌1862年5月1日、ロンドンでは第2回万国博覧会が、サウスケンジントンにある王立園芸協会庭園の隣接地で開幕しました。この開会式には使節団の三使も招かれています。もちろん、使節団の面々も、ロンドン滞在中になんども万博会場に足を運びました。

 万博会場を訪れた一行の姿を描いた図が残されています。

(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/086r.html

 羽織袴に刀を差し、物珍しそうにあちこち見てまわる使節一行の様子が描かれています。実際、見るもの、聞くものが目新しく、驚きに耐えなかったのでしょう。会場には、世界各国の物産が一堂に集められ、展示されていました。

 出品された品目は、金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶、浮きドッグの模型、美術工芸品、銃砲など百種類を超えていました。使節団にとっては見たこともないものばかりでした。その会場の一角に、駐日公使オールコックが持ち込んだ日本の物産が展示されていました。

 使節団の一人、高島祐啓は次のように記しています。

 「日本ノ品ハ外国未曽有ノ奇物多トイヘトモ、惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ、各国ノ下ニ出シタルハ残念ナリト云フヘシ」(※ 前掲。p.78)

 日本から出品されたものには、ガラクタが多く、見るに耐えなかったというのです。高島がガラクタと認識していたのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、草履などの日用品でした。英国人であるオールコックは、そのような日用品にも、展示価値があると判断したのでしょう。

■使節団は、第2回ロンドン万博で何を見たか?

 イギリスはこの頃、カナダ、オーストラリア、ジャマイカ、エジプト、南アフリカ、インドやその周辺にまで勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していました。目論んでいたのは、技術格差に基づく交易による世界制覇でした。

 当時、イギリス産の工業製品を、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などと取引し、暴利をむさぼるという形で各地に進出していました。自由貿易を掲げて、取引を行い、イギリスの権益を最大化していくという方法です。

 たとえば、中国に対しては、1840年にアヘン戦争を起こして清朝を屈服させ、香港を獲得しました。さらに、太平天国の乱に乗じて、アロー戦争をしかけ、1860年に北京条約によって開港を増やし、権益を拡大しました。

 このような帝国主義的手法によって、イギリスは世界各地に進出し、勢力圏を拡大させていたのです。いち早く産業革命を終えたイギリスならではの優位性によるものでした。イギリスの手法を学んだ欧米列強が引き続き、アジアに進出してきていました。

 七つの海を支配し、大英帝国を築き上げたイギリスは、日本との交易を求め、鎖国下の日本を何度か訪れていました。使節一行がマルタに立ち寄ることになったのも、実は、幕末の混乱に乗じて列強と結ばされた条約の修正をめぐる交渉のためでした。

 そして、使節団の欧州渡航の手配をしたのが、初代イギリス駐日公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809 – 1897)でした。幕府の窮地を見て取った彼は、ヨーロッパ締盟国に、開港開市延期についての親書を送り、合わせて使節団を派遣する旨を伝達すればどうかと幕府に提案しました。

 この提案が受け入れられると、彼は、フランスをはじめ、交渉国とのスケジュール調整をし、渡航費用、滞在費などの分担交渉なども行いました。もちろん、ヨーロッパまでの航路も、香港、シンガポール、インド、エジプト、マルタといった具合に、すべて当時のイギリス領を経由したものでした。

 使節団は、欧州渡航の行程で、イギリスの政治的力を見せつけられたでしょうし、ロンドン万博会場では、経済力の基礎となった技術力を見せつけられていたことでしょう。会場には蒸気機関、銃砲、浮きドッグの模型などが展示されていました。帝国主義時代を支え、産業化社会を進展させた技術の一端が披露されていたのです。

 翻って、「大阪、関西万博2025」をみれば、「いのち輝く未来社会のデザイン」という総合テーマの下、披露されているのは、ロボット技術であり、生命技術、リサイクルシステムであり、自然エネルギー、等々です。

 これらの技術がはたして、「いのち輝く未来社会」を約束してくれるものなのかどうか・・・。実際、ユスリカの大量発生では、万博会場設営のために夢洲の生態系が破壊されたことが明らかになりました。

 新規技術の導入に際しては、技術単体の機能や効能を見るだけではなく、技術相互の影響や累積効果、間接的な影響等を見ていく必要があるでしょう。AIが一般化する時代の到来を迎え、これまではともすれば、なおざりにされてきた、総合的、全体的な観点から、技術を検証していく必要が高まってきていると思います。

(2025/7/1 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」③:生態系を壊されたユスリカ、逆襲か?

■万博会場で発生した大量のユスリカ

 万博会場で大量の虫が発生していることが、開幕一か月後あたりから、SNSでさかんに取り上げられるようになりました。万博協会によると、5月14日頃から大量に確認され始めたといいます。

 SNSでの騒動に呼応して、新聞やテレビでも取り上げられるようになりました。たとえば、大阪のテレビ局MBSは5月22日、ユスリカの飛来について、次のように伝えています。

こちら → https://youtu.be/Oqytv2HySGE

(※ 5月22日MBSニュースより。CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 番組では、大屋根リングにびっしりと張り付いている大量の虫が映し出されます。これらはユスリカという虫で、蚊のようにヒトの血を吸ったり病気を媒介したりすることはないと説明されていました。害がないとはいえ、決して気持ちのいいものではありません。


(※ MBSニュース映像より)

 この虫が、会場のいたるところで確認されているというのです。次いで、ユスリカの死骸がたくさん落ちている場所が映し出され、大群が飛来し、空を覆っている写真も示されました。


(※ MBSニュース映像より)

 これは暗くなり始めたころの写真ですが、まだ明るい時間帯でも、ユスリカは飛来してきているようでした。

 三人の女性がウチワや扇子で虫を追い払いながら、大屋根リングを歩いている様子が映し出されます。

 レポーターが女性にインタビューすると、いかにも関西人らしく、「虫も、万博見に来たんかなって、言ってるんですけど」と笑顔で答えていましたが、不快感がなかったとはいえないでしょう。

 深刻なのは、会場内の飲食店です。店長の話では、大量のユスリカが店内に入り込んで床に落ち、それを来客が踏むので床が汚れて、掃除が大変だというのです。客の印象も悪くなるでしょうし、場合によっては虫が食べ物に落ちることもあるでしょう。店舗にとっては衛生管理上のコストも嵩みます。

 ユスリカの大量飛来が発覚したのがゴールデン明けから5月半ばぐらいでした。以後、発見されるたびに、万博協会には報告されているはずですが、万博協会ははたして、どのような対応をしてきたのでしょうか。

■万博協会の対応

 万博協会は26日、発生を抑えるための対策本部(本部長・石毛博行事務総長)を設置したと発表しました。同日、開催された1回目の会合で、高科淳・副事務総長は、これまで薬剤を中心とした対策を行ってきたが、ユスリカの会場への大量飛来を抑えることができていないと説明しています。

 万博協会は、当初、薬剤を撒けば、何とかなるだろうと思っていたのでしょう。ところが、いっこうに効かず、かえって増えているような状態だったのです。高科氏は今後、「環境への影響を考慮しながら、大阪府や大阪市と協力し、全力かつ迅速に対応を続けていく」と述べています。

 その後も、ユスリカの飛来は止む気配を見せませんでした。

 おそらく、来場者や会場内の施設や店舗関係者、スタッフなどから、万博協会への問い合わせが殺到したのでしょう。

 万博協会は2025年6月2日、「大阪・関西万博会場におけるユスリカの大量飛来についての現状と対策状況」というタイトルのお知らせを万博HP上に掲載しています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250527-02/

 万博HP上に掲載されたとはいえ、新しい情報はなく、これまで報道されてきたことを、整理しただけのような内容でした。

 万博協会は、複数の事業者の協力を得て、調査を実施した結果、次のように報告しています。

①会場内に大量飛来しているのは、ユスリカ科の一種であるシオユスリカであること、

②シオユスリカは淡水と海水が混じる汽水域で発生しており、発生源は、ウォータープラザ及びつながりの海であること、

③夕方から夜にかけての時間帯で大量発生し、主な飛来場所は、会場南側の大屋根リングの上(スカイウォーク)や、東西の水辺エリアであるが、会場の広い範囲でも確認されている、等々。

 まず、大量発生している虫を特定し、その発生源を明らかにしたうえで、主な飛来場所と飛来時間帯を報告しています。次いで、ユスリカ対策として、雨水桝等には、ユスリカの成長抑制剤を散布したこと、協会施設には、忌避剤による侵入防止策、清掃、消毒を実施し、営業店舗等には、忌避剤を使用した侵入対策、清掃、消毒を支援してきたこと、等を説明しています。

 興味深いのは、発生源と思われるウォータープラザやつながりの海には、当初から成長抑制剤を投入しておらず、これまでは成長抑制剤を撒いてきた雨水桝等には、今後もそうするのかどうかの言及がなかったことです。

 このことからは、万博協会は当初、手っ取り早く駆除できる薬剤に飛びついたものの、その後、薬剤を使用することに慎重な姿勢を見せ始めたことがわかります。おそらく、薬剤をしばらく使ってみても、効果がなかったことが影響しているのでしょう。あるいは、薬剤散布による人体や環境への影響を懸念したからかもしれません。

 万博協会の対応の微妙な変化については思い当たる節があります。

■薬剤に害はないのか?

 万博公式サイトに、「ユスリカ対策のために使用している成長抑制剤とは何ですか。人体・環境に影響はないですか」という質問が掲載されていました(※ 大阪、関西万博公式サイト)。

 ユスリカの大量発生以来、このような内容の質問が数多く、万博協会に寄せられていたからでしょう。これに対する万博協会の回答は、次のようなものでした。

①これまで雨水桝に、ユスリカの幼虫が羽化して飛翔することを防ぐ目的で、成長抑制剤を投入してきたが、人体が触れる場所には投入していない、

②成長抑制剤は、安全性が確認された市販品を使っており、人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入している、等々。

 気になるのは、回答文に、「人体が触れる場所には投入していない」とか、「人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入」などの表現がみられることです。いずれも薬剤使用による人体への影響を否定しようとするものであり、万博協会の防御の姿勢を垣間見ることができます。

 どのような薬剤を使用するにせよ、生物を駆除する薬剤には、人体や環境になんらかの影響があると考えるのが自然です。大量に飛来してくるユスリカを駆除するには、相当の量が必要になるでしょう。空中に散布するとなれば、当然のことながら、人体や自然への悪影響も考えられます。

 そのせいか、万博協会はHP上ではどの薬剤を使っているかを明らかにせず、ただ、市販の製品を使用法、使用量を守って撒いていると説明しているだけでした。そして、どういうわけか、この時点で万博協会は、なぜユスリカが大量に発生したのかについては言及していません。

■夢洲は生物多様性ホットスポット

 夢洲でのユスリカ発生は、実は、専門家から4年前に指摘されていました。

 夢洲は、1977年に埋め立て免許が取得された、埋め立て処分場です。埋め立てている間に、湿地や砂礫地ができ、いつの間にか、コアジサシやシギ・チドリ類など、貴重な鳥の生息場所となっていました。さまざまな生物が暮らすようになっており、多様な生態系が生まれてきていました。その結果、夢洲は2014年に、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに指定されていたのです。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/20316/guide20book20compact.pdf

 生物多様性ホットスポットとは、地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、人類による破壊の危機に瀕している地域のことを指します(※ Wikipedia)。

 大阪湾沿岸の自然は、開発によって近世から現代にいたるまで、ずっと失われ続けてきました。その自然が、わずかながら夢洲で再生し、命あふれる生物多様性のホットスポットになっていたのです。埋立地の夢洲で、数多くの生命を支えていたのが、塩性湿地とヨシ原でした。

 ところが、2018年11月23日、パリで開催された博覧会国際事務局(BIE)の総会で、2025年万博の開催地として大阪が選ばれてしまいました。

 以来、野鳥王国、夢洲の運命が激変したのです。

■なぜ、夢洲が万博会場に選ばれたのか

 当初の会場案に、夢洲は含まれていませんでした。たとえば、2016年度に大阪府が民間コンサルに委託した「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)策定業務」の発注段階では、夢洲は検討対象ではなかったのです。

 ところが、コンサル業者が2016年8月末に府に納めた「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)」では、万博会場の予定地に「夢洲」が追加されていました。(※ http://hunter-investigate.jp/news/2017/04/-20252627-28-28.html

 なぜ、夢洲が追加されるに至ったのか、その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

 夢洲は、2014年の調査では否定され、2015年の調査では、対象地にも入っていませんでした。突如、候補地に追加されたことが明らかになったのは、2016年7月です。

 7月22日に開かれた検討会議の第1回整備等部会の議事録に、興味深いやり取りが記録されています。委員から、なぜ、夢洲が候補地に追加されたのかと質問された事務局が、当時の松井一郎大阪府知事が独断で夢洲を万博予定地に追加したと回答していたのです(※ 前掲。URL)。

 その2か月ほど前の5月21日、松井知事(当時)は、菅義偉官房長官(当時)と東京で非公式に会談し、夢洲を会場に万博を開催し、終了後は統合型リゾート(IR)として利活用したいという方針を示し、誘致への協力を要請していました(※ 2016年5月23日付産経新聞)。

 大阪府知事の松井氏は5月21日に非公式に官房長官の菅氏と会談し、夢洲を会場とするプランを示し、万博誘致の要請をしていたのです。つまり、5月21日までに、夢洲を会場にするというプランは出来上がっていたことになります。

 2016年12月、経産省は、経済界代表や各界の有識者、地方自治体の代表者等で構成される「2025年国際博覧会検討会」を設置しました。そこで、『「2025日本万国博覧会」基本構想(府案)』(大阪府、2016年11月)に基づいて検討を重ね、パブリックコメントを踏まえて報告書をまとめました。そこには、開催場所として、「大阪府大阪市夢洲地区」と明記されていました。

(※ https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11646345/www.meti.go.jp/press/2017/04/20170407004/20170407004.html

 夢洲は2016年12月にはすでに、開催場所として政財界から承認され、確定していたのです。夢洲が、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに選定されてからわずか2年しか経っていませんでした。

 基本構想を策定した大阪府や大阪市は、そのことを知っていたはずですが、それには触れず、夢洲を会場に選んでいたことになります。

 ちなみに、夢洲が生物多様性ホットスポットAランクに指定されていることは、この時の検討会では知らされていなかったといいます。(※ https://www.ben54.jp/news/2334

 一連の経緯をみると、大阪府の万博用地選定の過程はきわめて不透明なものだったといわざるをえません。見えてくるのは、万博後の土地をIRとして利活用という大阪府の思惑です。

 万博は一過性の祭典ですが、地元にとって重要なのは、跡地を利用した地域開発、地域振興であり、新規事業の立ち上げなどです。継続的に経済効果が見込まれる事業企画こそが必要でした。

 大阪府と市は、万博開催を起爆剤に、大阪をはじめ関西圏の経済力、技術力、都市としての魅力を飛躍的に向上させることを目指しました。万博後の展開を重視すれば、開催場所は夢洲でなければならなかったのです。

 2018年11月23日、パリで開催された第164回博覧会国際事務局(BIE)総会で、2025年国際博覧会が大阪で開催されることが決定しました。この決定を受けて、経済界が動き始めました。

■スーパーシティ構想の一環としての夢洲

 2020年12月、内閣府がスーパーシティ型国家戦略特別区域の指定に関する公募を行ったところ、大阪府と市はこれに応募しました。

 大阪府と市は、2つのグリーンフィールド(夢洲、うめきた2期)で、3つのプロジェクト(夢洲コンストラクション、大阪・関西万博、うめきた2期)を立ち上げ、先端的サービスや規制改革を行うことを提案したのです。

 この提案は、国家戦略特区諮問会議での審議を経て、2022年4月、政令閣議決定により、大阪市域が区域指定されました。

(※ https://www.city.osaka.lg.jp/ictsenryakushitsu/page/0000592767.html

 これら3つのプロジェクトには、経済界が深く関わっています。

 たとえば、関西経済連合会は、2022年8月26日、「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み」を発表しました。これによると、夢洲はスーパーシティ構想の一貫として構想されていました。


(※ 『「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み』、p.12、関西経済連合会、2022年8月26日)

 このプロジェクトでは、夢洲は未来社会の実験場として、空飛ぶクルマの社会実装、自動運転での万博アクセス、未来医療の体験などが構想されていました。確かに、これらを実現させるには、広大な空き地が不可欠でした。

 万博会場に選定された夢洲は、まず、万博会場として活用し、万博が終われば、IR、上質なリゾート地といった具合に開発され、スーパーシティとしての未来が構想されていたのです。

(※ 前掲、p.14)

 未来社会を支える技術は、「空飛ぶクルマ」、「自動運転での万博アクセス」、「未来医療の体験」などを通して、万博会場で経験できるようにされていました。閉幕後はそのまま、実社会で利用できるように計画されていたのです。

 万博会場は、未来技術の体験の場であり、シミュレーションの場であり、社会実装に向けた場でもあったのです。

 当時、すでに夢洲とコスモスクエアを結ぶ「夢咲トンネル」に、鉄道部分が造られていました。比較的短期間で、鉄道を通すことも可能だったのです。電車が延伸すれば、夢洲から大阪都心までの所要時間は約20分になります。

 都心に近く、しかも、広大な空き地がある夢洲は、万博会場として最適なばかりか、閉幕後のIRにも恰好の地でした。

 経済界と行政は一丸となって、夢洲を未来社会のデザインで造り替えようとしていました。自然が時間をかけて育み、多様な生物が棲息する環境を、未来技術で覆い尽くそうとしていたとしていたのです。

 もちろん、それを懸念する声はありました。

 実は、2018年11月19日、大阪環境保全協会は、大阪府と大阪市等に対し、要望書を提出していました。万博が大阪で開催されることが決定される直前のことです。

■大阪府と市に対する保全協会からの要望

 大阪自然環境保全協会会長の夏原由博氏は、2018年11月19日、大阪府知事(松井一郎)、大阪市長(吉村洋文)、大阪府議会議長(岩木均)、大阪市会議長 (角谷庄一)宛てに、「夢洲の自然環境保全に関する要望及び質問書」を提出しました。

こちら → https://www.nature.or.jp/action/teigen/yumeshima.html

 この要望書に対し、大阪府からは2018年12月26日にメールで回答があり、大阪市からは2018年12月20日に添付ファイルで回答が寄せられました。いずれも、夢洲が生物多様性ホットスポットとして選定されていること、そして、その重要性については認識していると回答しています。

 さらに、両者は、万博開催事業が環境アセスメントの対象であることを踏まえ、生きもの保全対策に関する手続きをするのは万博協会だという点でも、共通の認識を示していました。

 もちろん、府は、万博協会が適切に手続きをするよう連携すると表明し、市も、手続き中に必要な調査を行い、影響があれば抑制すると回答していました。とはいえ、両者とも、万博協会が手続きの主体だと主張しており、半ば責任逃れのようにも思える回答でした。

 これでは、夢洲の自然環境が破壊されかねないと危機感を募らせたのでしょう。

 大阪自然環境保全協会は、2019年初から夢洲の生物調査を開始しました。調査を実施した保全協会の会員たちは、四季折々の生物たちの姿を詳細に捉え、データとして蓄積していきました。

 調査をした結果、さまざまなことがわかってきました。

■多様な生命を育んできた夢洲の葦原や水辺

 保全協会の会員の一人は、「今の夢洲は虫の王国です。多くのバッタ、多くのトンボ、多くのチョウ、そして“恐ろしいほどの数のユスリカ”がいます。それらが多くの生きものの命を繋いでいっています」と報告しています。

 実は、万博の開幕前から、夢洲にはすでに大量のユスリカがいたのです。

 ユスリカがいるからこそ、それを餌にするバッタなどの昆虫が生息し、昆虫を餌にするさまざまな鳥が生命を育むことができていました。湿地にいたユスリカが、生態系の底辺を支え、夢洲を多様な生物が生息する楽園にしていたことがわかりました。

 保全協会の会員は、調査をしていた時の経験を次のように記しています。

「私たちが夢洲をみてきた期間はわずか2,3年ですが、どれだけ大阪湾の自然の復活力が力強いものか、そしてそこに生きようとする命のなんとたくましいことか、人間の想定を超えるそのエネルギーに感動すら覚えました」

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html

 多様な生物がこの夢洲の地で生息し、つながり合いながら、生命を育んでいました。調査していた会員たちは、そのことに感動し、四季折々の動植物の姿を多数、撮影し、記録に残していました。

 当時の写真を見ると、確かに、空き地だった場所が、季節が変わるとあっという間に草原に変わっていくことがわかります。草原にヒバリが巣材を運んでいるかと思えば、セッカがそれを警戒しています。

 湿地にはヨシが進出して生い茂り、夏になると、そこを爽やかな風が吹き渡ります。時には、カエルの大合唱をバックに、トンボや若ツバメが草原を飛び交っていました。昆虫や小動物、鳥たちなどが共に、草原で生命を輝かせていたのです。

 2019年7月初旬には、次のような光景が見られました。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html)

 この写真について、撮影者は次のように記しています。

 「7月初旬、2区の湿地に3000羽を超えるコアジサシが休んでいました。そして時折、群れになって飛び上がり、湿地の上を旋回します。おそらく渡りの前の大集合なのでしょう。夢洲で今年生まれた幼鳥もこの中に混ざって、その後すぐ旅立ちました」(※ 前掲URL)

 夢洲で撮影された写真を見ると、さまざまな生き物がのびのびと生命を育んでいる様子が伝わってきます。鳥たちは葦原で休み、餌をついばみ、繁殖していきます。夢洲には生き物たちの豊かな世界が広がっていました。

■工事の進行に伴い、草原の消滅

 まず、2019年7月26日に撮影された夢洲の草原の姿をご紹介しましょう。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/prolog.html

 青々とした草原の中で、多数の白い鳥が行き交っています。夢洲はまさに鳥たちの楽園でした。草原には、鳥たちの餌となる昆虫や小動物が数多く生息していたからです。ところが、その草原が、万博の会場用地として造成され、土がむき出しになってくると、もはや昆虫や小動物が生きられる環境ではなくなってしまいました。もちろん、鳥たちもまた、棲むことができなくなってしまいました。

 次に、同じ場所で、2021年8月22日に撮影された写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲URL)

 土砂の山の上に、鳥の姿が見えます。撮影者によると、ここにいたのは、チョウゲンボウの家族なのだそうです。ポツンと佇んでいる様子を見ると、草原が失われ、もはや棲めなくなったことを嘆き悲しんでいるようにも思えます。

 工事が始まってから、多様な生き物の楽園だった夢洲が、一転して、生き物の棲めない場所になっていったのです。

■万博協会による「環境影響評価準備書」に対する意見書

 2021年10月1日、大阪市は、万博協会が作成した「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」(2021年9月)を公開し、縦覧を開始しました。

こちら → https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000544704.html

 大阪自然環境保全協会にとって、この準備書はとうてい納得できるものではありませんでした。事前に要望書を出していたにもかかわらず、万博協会の準備書は、環境への配慮が欠けたものになっていたのです。

(※ https://www.nature.or.jp/assets/files/ACTION/yumeshima/20211105expo2025_iken.pdf

 たとえば、準備書99ページで示された「表3.1(5)事業計画に反映した環境配慮の内容」について、「配慮のための前提が満たされていない」とし、「重要種への影響はほとんど回避・低減できていない」と、保全協会は指摘しています。

 さらに、「生物多様性ホットスポットとしての夢洲は、干潟・代替裸地として選定されているが、準備書ではそうした環境の保全・再生についての具体的な言及はない」と批判しています。

 保全協会は、大阪市が2021年12月11日に開催した「環境影響評価準備書に関する公聴会」に出席し、夢洲には多様な生き物が生息していることを説明し、環境保全を求めました。夢洲での調査結果を踏まえての要望でした。

 もちろん、環境保全協会は意見書を提出しました。さらには、「生き物たちの自然環境を守るために、ご一緒に環境影響評価準備書を読み解き、大阪市へ意見を送りましょう」と市民にも広く呼びかけました。

 再び、「準備書」の99ページを見ると、「配慮の内容」として、具体的に、「会場内にはグリーンワールドやウォーターワールドを整備し、自然環境の整備に配慮する」と書かれ、「グリーンワールド等の整備における植栽樹種については、在来種を中心に選定することにより生態系ネットワークの維持・形成に配慮し、外来種の混入防止に努める」と記されています。

 確かに、植物の生態系については具体的に書かれています。ところが、動物については具体的な内容は何も書かれていないのです。つまり、ウォーターワールドについてはなんら言及されていなかったといえます。

 興味深いのは、この「準備書」に対する大阪市長の意見です。

 2024年1月29日、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書に関する市長意見」が公開されました。

 大阪市長は、「夢洲では多様な鳥類が確認されていることから、専門家等の意見を聴取しながら、工事着手までにこれら鳥類の生息・生育環境に配慮した整備内容やスケジュール等のロードマップを作成し、湿地や草地、砂れき地等の多様な環境を保全・創出すること」と表明していたのです。(※ https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000556/556173/iken.pdf

 大阪市長の意見には、具体性があります。とくに、「専門家等の意見を聴取しながら」、「工事着手までに・・・、整備内容やスケジュール等のトードマップを作成し」、「湿地や草地、砂礫地等の多様な環境を保全・創出すること」といった具合に、環境保全のためのポイントをついた見解が述べられています。

 動物の生態系を支える基礎部分について、ポイントを押さえて書かれています。「準備書」に欠けている点を補完する内容でした。

 大阪市長は、大阪市環境影響評価条例の規定に基づき、2022年2月9日付けで、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」について、事業者である万博協会に対する意見を述べていることがわかります。当時の大阪市長は松井一郎氏でした。

 一方、万博協会は、「準備書」で動物の生態系について言及しなかったばかりか、実際には、当時の大阪市長の補完的な意見すら無視していました。一過性の祭典を華麗に遂行し、無事に終わらせることを優先させたのです。

 その結果、万博協会は、「つながりの海」を造成するために、浅瀬を無くし、湿地もなくしてしまいました。

 万博協会にとって、「ウォータープラザ」や「つながりの海」は、大屋根リングとともに、万博会場をショーアップするための装置でした。その目的を達成するために、造成工事の過程で、水辺の環境保全を犠牲にしてしまいました。万博会場のデザインやショーアップ効果を優先させたからにほかなりません。

■「ウォータープラザ」と「つながりの海」に求められたショーアップ効果

 6月2日に記者会見した高科淳副事務総長は、ユスリカの発生源は海水が入る「ウォータープラザ」と「つながりの海」だと説明しました。

(※ 産経新聞、2025年6月4日)

 「ウォータープラザ」では水上ショーが行われ、「つながりの海」ではドローンショーが行われています。毎晩、夜空を舞台に、華麗な光のショーが、水辺で楽しめるように企画されていたのです。

 ドローンショーを見てみましょう。

こちら → https://youtu.be/br3YZUnuM2c

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 色とりどりの光は、夜空を輝かせるだけではなく、水面をも煌めかせて、観客を幻想的な世界に引き込みます。地上からは、夜空に輝くショーを見ることができ、大屋根リングの上からは、間近でショーを見ることができるばかりか、見下ろせば、水面に反射した光の乱舞を見ることができます。

 夜空にライトアップされたショーは、水面に映し出されることによって、煌めきを倍加させていました。このようなショーアップ効果を狙って作られたのが、ウォータープラザであり、つながりの海でした。

■ユスリカが問う、「いのち輝く未来社会のデザイン」とは?

 会場に大量に飛来してきているのは、シオユスリカだと万博協会が発表しました。調べてみると、シオユスリカは、海水と淡水が混ざる汽水域や潮だまりなど浅い海水に発生し、昼間は植栽の中や、風があまり当たらない場所などに潜んでいるそうです。夕方になると、「群飛」と呼ばれる行動をとり、オスの成虫が集団で「蚊柱」を形成します。そこに突っ込んでくるメスとの出会いを待って、交尾に成功して卵を産めば、すぐに死んでしまうというのです(※ https://note.com/kincho_jp/n/n9c53051ca48e)。

 なぜ、ユスリカが大量に発生したかというと、万博会場を造成するため、多様な生き物が棲んでいた湿地や草地を壊してしまったからでした。

 もともとごみ処分場だった夢洲周辺の海水は、有機物を多く含み、滋味豊かです。ユスリカは、水中や湿った土の中から卵から幼虫になりますから、造成工事にもめげずに繁殖していったのでしょう。

 ところが、ユスリカを餌にしていた昆虫や鳥などは、造成工事によって棲み処を奪われ、駆逐されてしまいました。天敵がいなくなったユスリカが大量に発生し、会場のあちこちに蚊柱が立つのは当然の成り行きだったのです。

 「大阪、関西万博2025」は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、開催されています。ところが、実際には、「いのち輝く」自然の生態系を破壊し、その代わりに、ヒトの生命維持のための最新技術を展示したにすぎませんでした。ユスリカの大量発生は、まさに、「いのち輝く未来社会のデザイン」への逆襲だといえるでしょう。

(2025/6/22 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」②:宮田裕章パビリオンとは?

■さまざまなパビリオン

 「大阪・関西万博2025」には、さまざまなパビリオンが建ち並び、来場者の目を楽しませてくれています。海外パビリオンは、斬新で個性的な建物が51、建造されています。外観には、それぞれの国の文化や伝統、特産や主張などが反映されており、興味津々です。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/official-participant/

 一方、国内パビリオンとしては、国や地方自治体、組織団体のパビリオンが4,民間パビリオンが13、設置されています。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/domestic-pv/

 それ以外に今回は、個人がプロデュースした、シグネチャーパビリオンが8、設置されています。各界で活躍する8人のプロデューサーが企画したテーマ性の強いパビリオンです。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/project/

 プロデューサーに選ばれたのは、福岡 伸一(生物学者、青山学院大学教授)、河森 正治(アニメーション監督、メカニックデザイナー)、河瀨 直美(映画作家)、小山 薫堂(放送作家)、石黒 浩(大阪大学教授)、中島 さち子(音楽家、数学研究者、STEAM教育家)、落合 陽一(メディアアーティスト)、宮田 裕章(慶応義塾大学教授)です。

 これら8人のプロデューサーたちが、どういう基準で選ばれたのかはわかりませんが、少なくとも、「いのち輝く未来社会のデザイン」という万博のテーマに沿って、選出されたのは確かです。

 生物学、アニメ、映画、放送のクリエーター、ロボット工学、教育学、メディア・テクノロジー、データサイエンスなどを専門とする方々です。

 まずは、万博のテーマと最も関係の深そうな医学部教授である宮田裕章パビリオンを取り上げ、その内容を見ていくことにしたいと思います。宮田氏の専門はデータサイエンスです。

■宮田裕章パビリオン

 独創性を競い合うように目立つパビリオンが建ち並ぶ中で、ひときわユニークな建物が宮田裕章パビリオンでした。

 建物といっていいのかどうかわかりません。何本かの銀色の柱に囲まれ、雲の形をした庇のようなものがあります。ここに「Better Co-Being」と書かれているので、かろうじてこれが宮田パビリオンだということがわかる程度で、建物らしいものは何もありません。ただ、木立に囲まれて、建造物が建っているだけです。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 見てのとおり、屋根もなければ、天井もなく、壁もありません。内と外とを分ける隔てになるようなものが一切ないのです。これでは雨風をしのぐことができず、太陽の陽射しをもろに浴びてしまいます。建物という概念から大きく逸脱したパビリオンでした。

 もっとも、これだけ見てもパビリオンの外観がよくわかりません。パビリオンの全体像がもっとわかるように、少し引いて見ました。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 素晴らしい晴天の下、影ができているのは、パビリオンの名が書かれた庇のようなものの下だけでした。引いて見ると、覆うものが何もない建造物だということがよくわかります。木々で囲まれた空間の中に、銀色の柱が何本か立ち、その周辺一帯を細かなグリッドが無数に覆っています。その線が細すぎて、空に溶け込んでしまっているように見えます。まさに建物というよりは戸外に設置された遊具でした。

 上から見ると、森を思わせるたくさんの木々で覆われた空間の中に、無数のグリッドで構築されたパビリオンがひっそりと佇んでいるのがわかります。グリッドの天井に相当する部分は一面、雲のようなもので覆われており、周囲の木々と一体化しています。上から見ると、なおのこと、森の一部でしかなく、これがパビリオンだとはとうてい思えません。

 自然と一体化している様子を可視化したのが宮田パビリオンでした。設計はSANAA、施工は大林組です。

 SANAAとは、建築家・妹島和世氏と建築家・西沢立衛氏によるユニットで、1995年に設立されました。これまで数多くの賞を受賞しており、主な受賞作品に、金沢21世紀美術館、ニューミュージアム(アメリカ)、ルーヴル・ランス(フランス)などがあります。

 公式サイトに掲載された、宮田氏、妹島和世氏、西沢立衛氏との対談を見ると、宮田氏はこれらの作品を見て、SANAAに設計を依頼しようと思ったようです。プロデューサー宮田裕章氏の思いを具現化したのが、この奇妙な建造物だったのです。

 それでは、意表を突くこのパビリオンがどのようにして生み出されたのか、三者対談を踏まえ、探ってみることにしたいと思います。

■万博史上初の境界のないパビリオン

 万博会場の中心に、「静けさの森」が設置されています。「いのち輝く未来社会のデザイン」 の象徴として、会場の真ん中に造られました。万博記念公園をはじめ、大阪府内の公園などから、将来間伐予定の樹木なども移植し、新たな生態系を構築しています。植えられた樹種は、アラカシ、 イロハモミジ 、 エゴノキ、クヌギ 、 コナラ、 ヤブツバキ等々です。


(※ https://forest-expo2025.jp/)

 広さは約 2.3ha、樹木本数は約 1,500 本、水景施設は池1ヶ所 / 水盤3ヶ所です。ここでは、「平和と人権」 「未来への文化共創」 「未来のコミュニティとモビリティ」「食と暮らしの未来」 「健康とウェルビーイング」 「学びと遊び」「地球の未来と生物多様性」 など7つのテーマで、アート体験やイベントが実施されます。

 「静けさの森」は、テーマ事業プロデューサー宮田裕章、会場デザインプロデューサーは大屋根リングをデザインした藤本壮介、ランドスケープデザインディレクターは忽那裕樹、アートディレクターの長谷川祐子らが手掛けました。喧騒から離れた新しい命が芽吹く静かな森の中で、”いのち”をテーマにした様々な体験を通し、来場者が地球や自分自身の”いのち”に思いを馳せることができる空間になっています。

 実は、宮田氏は、「静けさの森」プロジェクトにプロデューサーとして関わっていました。その関係もあったのでしょう、自身のパビリオンをこの森とつながるようなものにしたいと思ったそうです。というのも、森は再生可能な資源であり、多様な生態系を育む群体なので、「共に歩む」、「お互いがつながる」という万博コンセプトを的確にアピールできると思ったからでした。

 マップで確認すると、確かに、宮田パビリオンは、「静けさの森」のすぐ近くに設営されていました。


(※ 公益社団法人2025年日本国際博覧会協会)

 静けさの森とつながるようなイメージのパビリオンの建造を望み、宮田氏が設計を依頼したのが、妹島氏と西沢氏が運営するSANAAでした。

 宮田氏の思いを聞いた西沢氏は、「箱的なパビリオンが建っているのではなく、境界を超えるような建築、中と外がつながる空間」をイメージしました。一方、妹島氏は、「人が出たり入ったり、雨や風も入ったり、森みたいな建築、中と外がつながるような空間」をイメージしました。その結果、出来上がったのが、天井も壁もないパビリオンでした。

 妹島氏は、このパビリオンは人間が、「完全にはコントロールできない空間なので、天候の変化を感じながらインタラクティブに楽しめる場所になると面白い」といいます。そして、西沢氏は、「快適性は気候風土、地域性と一体のものなのです。私たちが古来心地良いと感じてきた快適性というのは、このような明るく風通しのよい、透明な空間だとストレートに表現することは重要」だといいます。

 両者は、宮田パビリオンの本質を的確に捉え、実現しました。

 天井もなく、壁もなく、人間が完全にコントロールできない空間だからこそ、天候が変化するたび、対応せざるをえません。このパビリオンでは、来場者は自然につながりあうようになっていくのです。そうなれば、人は本来、持っていたはずの感性を取り戻していくことにもなるでしょう。

 古来、私たちが自然とのかかわりの中で培ってきた,風土に根ざして培われてきた快適性についての感覚も、取り戻すことができるようになるにちがいありません。

 西沢氏は、「建築物は、空間を占拠するところがある」とし、「共有を空間的に表すことができれば、面白い」と語っています。

 そもそも建築物というものは、壁であれ、天井であれ、なにかしら囲いを作ることによって、成立します。つまり、囲われた空間を占拠することによって、建物になりえているのです。

 ところが、このパビリオンは、グリッドと柱だけで構成された建造物です。囲わず、隔てず、空間を占拠せず、建物とはいえないほど開放な造りになっています。建物の概念を否定するような建造物なので、必然的に内と外とがつながらざるをえません。

■縁側を連想させる空間

 確かに、宮田パビリオンは境界のない建築物でした。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 雲の広がる青空から陽光がグリッドを潜り抜けて射し込み、風がグリッドの中を吹き抜けていきます。明るい空に溶け込むパビリオンは、まるで巨大なジャングルジムのようにも見えます。

 この写真を見ていて、ふいに思い浮かんだのが、日本家屋に設えられた縁側です。日本家屋の特徴ともいえる縁側は、建物の床が板で造られるようになってから生み出されました。母屋の周囲に庇の間が造られるようになったのが、縁側の起源だといわれています。

 敷地に余裕がなければ設えることができないので、縁側が一般家屋に取り入れられるようになったのは、それほど古くはありません。大正時代になってようやく、庶民の家でも、庭に面した部屋に縁側が造られるようになりました。

 縁側は、庭に面して造られているので、移り変わる季節の情緒を感じるには最適の場所でした。四季折々の微妙な変化を捉え、繊細な日本文化を育むのに恰好の空間になっていたのです。

 西洋家屋にも「ウッドデッキ」、「ベランダ」、「テラス」、「ポーチ」、「バルコニー」など、縁側に似たようなものがあります。いずれも家屋に付随していますが、縁側のように家の内と外とが一体化したものではありません。あくまでも戸外の空間なのです。

 一方、縁側の場合、夜は雨戸で閉じられていますが、朝になって雨戸が明けると、陽光が射し込み、風が入り込み、家の内と外とが交流します。家の中と外とが一体化し、戸外の自然と直接、触れ合える空間になっています。

 縁側は家の中に造られているので、外と縁側の間に一つ、縁側と室内の間に一つ、戸や壁があります。だから、縁側部分に空気の層ができます。つまり、縁側は家の内と外との空気の緩衝地帯になっているのです。だからこそ、縁側が断熱材として機能し、夏は太陽の熱を和らげ、冬は寒さを遮断してくれるのです。

 もちろん、縁側で日向ぼっこをすることもできれば、縁側に腰かけ、近所の人とお茶を飲み、雑談をすることもできます。縁側は、人と自然、人と人とがつなげる空間になっているからこそ、憩いの場ともなり、社交の場にもなってきたのでしょう。

 縁側を思い起こしてから、このパビリオンを見返すと、人と自然が直接、かかわりあう戸外の空間だという点で、西洋家屋のウッドデッキやテラスに近いものといえます。

 それでは、このパビリオンのコンセプトはどのように設定されていたのでしょうか。

■パビリオンのコンセプトは?

 施工を担当したのは、大林組でした。次のような観点から、このパビリオンの施工に臨んだといいます。

 「屋根も壁もないパビリオン。その姿で、時代の転換点における、建築の役割を再定義したいと思いました。森との境界線を引くのではなく、森と溶け合い、響き合うパビリオン。パビリオンの中に立つ来場者一人ひとりが、まだ見ぬ響き合いの時代を思い描くことでしょう」(※ https://www.obayashi.co.jp/expo2025/detail/pavilion_04.html

 設計図を見たとき、大林組の担当者はどれほど驚いたことでしょう。とはいえ、このパビリオンの形態がどんなに意表を突くものだったとしても、受け入れようとはしていたようです。この形態を時代の転換点を示唆するものだと認識することによって、これを踏まえて、未来社会における建築の役割を再定義したいと述べています。

 大林組の担当者はおそらく、境界線を引かないことによって生み出される、周囲と溶け合い、響き合える空間に着目したのでしょう。このような空間は、未来の建築に求められる一つの要素だと直感したからかもしれません。

 たしかに、来場者がこのパビリオンに入ると、内と外とが一体化しているので、直接、自然に触れることになります。刻々と変化する自然環境に反応していくうちに、次第に、原始的な感覚を取り戻していくことでしょう。ちょっとした陽射しの変化、風の流れ、空気の湿り気の具合に合わせ、身体が自然に反応するようになります。

 このパビリオンの中では、人と自然が相互作用を繰り返し、つながりあっていきます。その時、同じ空間にいる人と人も同様です。相互作用を通して、人と自然、人と人がつながりあえる空間こそ、実は、未来社会で求められる建築の一つの要素かもしれないのです。

 プロデューサーの宮田氏は、「共につながり、共に生きる」ことが未来の可能性を広げる重要なキーワードになると考え、パビリオンを、「Better Co-Being」と名付けたといいます。

 Better Co-Beingは、「様々な地域で大切にされてきた考えや表現との間に共通点を見出し、異なるコミュニティ同士を共鳴させる側面も有する」という考え方だといいます。

 「静けさの森という空間的なつながりだけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術活動を振り返りながら、過去から紡がれる様々な理念や表現との共鳴も試みている」とし、コンセプトを踏まえたパビリオンでの体験が企画されています(※ Better Co-Being 公式サイト)。

■パビリオンでの体験

 パビリオン内では、来場者同士がつながり、響き合う中で共に未来を描くという体験が企画されています。来場者は、その日その時間にたまたま出会った一期一会のつながりに基づき、グループを組んで、3つのシークエンスからなる共鳴体験を巡りながら、共に未来に向かうという構成になっています。

 たとえば、シークエンス1では、ベルリン在住の現代美術家、塩田千春氏が、「言葉の丘」と名付けたインスタレーションを展示しています。パビリオン内の小高い丘が広がる空間に、張り巡られた赤い糸と、線で形作られた机と椅子が浮かび上がるといった仕掛けになっています。

 宙を舞う文字は、多様な言語でいくつかのテーマを表し、糸の揺れとともに広大なネットワークを形成します。赤い糸と文字が織りなす詩的な空間が、交流の可能性を可視化し、未来に向けた共生の問いを突きつけるという展開になっています。

 このインスタレーションを手がけた塩田千春は、糸や日常的なオブジェクトを使い、「記憶」、「存在と不在」、「つながり」などの概念を探究し続けてきたアーティストです。

 次に、シークエンス2では、「人と世界の共鳴」をテーマに、各地域で培われてきた自然や文化、そこに根ざす人々の暮らしと響き合う作品が提示されます。音声を軸にして展開されているのが、宮島達男氏のサウンド・インスタレーション作品、「Counter Voice Network – Expo 2025」です。

こちら → https://youtu.be/ZNaYWY7OS8Y

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 ちょっとわかりにくいですが、ここでは、さまざまな言語を使って、異なるリズムで「9、8、7……、1」というカウントダウンが聞こえてきます。数字の中で、「0」を発せず、カウントダウンの合間に、時折、静寂が訪れます。そのたびに、来場者には“死”や“無”を想起させるという仕掛けになっています。

 音の発生源に近づくと、カウントダウンを続ける人々の名前と言語が表示され、また、関連するモチーフやストーリーがWEBアプリ上に立ち上がります。

 来場者の共鳴体験をサポートするのが、WEBアプリです。これは、インスタレーションの解説をする一方、来場者の体験や選択を万博のテーマに沿って分析、表現し、来場者に多様な価値観への気づきを促すものです。

 さて、シークエンス2のインスタレーションを手掛けたのが、現代美術家の宮島達男氏でした。この作品は音声に焦点が当てられています。多様な音声が重なるサウンドスケープを聴きながら、来場者がパビリオン内で眺める景色は、森と空の境目がなく、すべてが融合し、溶け合った風景だという構成です。

 来場者はカオスな状態に陥ることになります。このようなパビリオン内での体験を経ると、来場者は必然的に、思索的、内省的にならざるをえません。結果として、「人と自然」、「人と人のつながり」を捉え直すようになるという展開になっています。

 そして、シークエンス3は、「人と未来の共鳴」がテーマで、来場者同士がつながり、共に世界に向き合うことで、より良い未来が訪れることが提示されます。集った人々が世界とのつながりを感じながら、ともに虹を創るという体験が、このシークエンスの骨格となります。

 宮田裕章氏とクリエイティブチームEiM が制作したのが、インスタレーション作品で、タイトルは、「最大多様の最大幸福」です。

 「最大多数の最大幸福」という概念は、限られた資源の下、合理的な指針として、産業社会で長く機能してきました。ところが、デジタル技術が発達した現代では、一人ひとりの違いを尊重しながら豊かさを生み出す仕組みが可能になっています。そこで、最大多様の最大幸福が可能になっていることを示唆するために、この作品が提示されています。

 実は、このパビリオンには大きな仕掛けがあります。頭上のキャノピーに仕込んだノズルから散水し、人工の雨を降らせることができます。人工的に雨を降らせれば、晴れた日には虹ができるのです。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 そのため、高さ7mのキャノピーに沿って約400本の繊細なワイヤーが張られ、それぞれにサンキャッチャーが取り付けられています。これらは不均質の集合として、多様性の祝福を象徴しています。晴れた日には自然光を浴びて虹色の輝きが広がり、曇天や雨の日には霧と人工光のコントラストが幻想的な光景をつくり出します。

 さらに、来場者の動きによって、降り注ぐ雨も変化し、日中と夜とで異なる表情を見せます。来場者はこの空間で、異質のものが交わり合うことで、新たな可能性が生まれる様相を体感することができます。

 そして、エピローグです。ここでは先ほどご紹介したWEBアプリが活躍します。来場者の体験と、大林組が提供した現地の環境データを重ね合わせ、未来のイメージを五感で感じられる映像が体験として創出されます。一人ひとりの記憶や意思が響き合い、世界との繋がりが映し出されるのです。

 球体LEDの装置が中心に据えられ、15名の来場者がそれぞれの体験やインスピレーションを持ち寄ることで、未来のイメージが可視化されます。

 これらのイメージは、リアルタイムで収集される気象データや空間そのものの特性と結びつき、未来への対話を生み出します。つまり、共鳴の場が映像として提示されるのです。それがやがて、来場者それぞれが、自分と他者、そして世界とのつながりを再考する場となります。未来は他者や世界との結びつきの中にあり、その結びつきが織り成す多様な響きこそが、新たな時代を形づくる鍵となることを理解できるようになるというわけです。

 それでは、宮田氏はこのパビリオンを通して、何を訴えたかったのでしょうか。

■宮田氏が訴えたいことは何か

 宮田氏は公式サイトで、このパビリオンのコンセプトとして、次のように述べています。

 まず、「デジタル技術は人間の可能性を広げる一方で、深刻な分断と人権制限の手段にもなり得る存在」だと指摘し、「そのような課題を直視した先にこそ、デジタル技術による真の価値創造の可能性がある」との認識を示します。

 そして、「データの共有や多様なつながりの可視化は、人と人、社会と自然、現在と未来をつなぐ新たな回路を築きうる」とし、「デジタル技術を「共鳴」の力へと転じ、未来へと続く価値創造の基盤として再定義したい」と語ったうえで、「共鳴とは、単なる可視化や情報交換の域を超え、互いの行動や意志が折り重なることで新たな社会像を形作っていくプロセスを指す」と説明し、「監視や統制の道具としてではなく、人間を主体的に多様な可能性に接続し、未来を共創する力へと昇華する」とその目的を述べています。

 つまり、宮田氏が訴えたいのは、デジタル技術の負の側面を排除して、有効活用し、人々が主体的で多様な可能性を手に入れられる社会にしていきたいということなのでしょう。宮田氏は最後に、パビリオンで提示するのは、「具象的な未来の姿」ではなく、「本パビリオンでの体験を通して、問いを立てるものである」と結論づけています。

 こうしてみてくると、宮田氏が訴えたかったことは、シークエンス3で提示された「最大多様の最大幸福」に尽きるのではないかという気がします。

 実際、気候変動など地球規模の危機によって、人々の意識や行動、社会システムも大きく変容せざるをえなくなっています。その一方で、デジタル技術によってさまざまな可能性が見えてきました。ですから、宮田氏がデジタル技術を利活用し、これまでは不可能だった「最大多様の最大幸福」の実現を目指そうとするのは理解できます。

 ただ、パビリオンで来場者に提示された体験の内容が、「最大多様」とどう結びつくのか、理念と実際との乖離が大きいというように感じました。多様性をどのように捉えるのか、多様性の受容と幸福感とがどう結びつくのかという点も明瞭ではありませんでした。

 とはいえ、最新デジタル技術を未来社会のために、利活用していこうとするチャレンジ精神は素晴らしいと思いましたし、万博の開催意義の一つもおそらく、そこにあるのでしょう。

(2025/5/30 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」①:「大屋根リング」は歴史に残るか?

■開幕とともに、「1万人の第九」

 4月13日、「大阪・関西万博2025」が開幕しました。開幕式には、天皇、皇后両陛下をはじめ、石破首相など政財界の重鎮が参加していました。改めて、この万博が国をあげてのイベントだということを感じさせられます。

 「大阪・関西万博2025」については、「開幕までに完成しない」、「大屋根リングの土手が崩れた」、「工事現場で爆発事故が起こった」、「参加表明国が続々と辞退している」、「チケットが売れていない」など、ネガティブなニュースばかりを目にしていました。

 挙句の果ては、「パビリオンの建設が間に合わず、開催中止」とまでいわれていましたから、私はすっかり興味をなくしてしまっていました。

 ところが、4月13日、開幕してみると、あいにくの雨の中、なんと14万人もの来場者が押し寄せたのです。初日でとくに印象的だったのが、「1万人の第九」です。来場する人々を歓迎するため、大屋根リングには1万人の人々がずらりと立ち並び、ベートーベンの第九を合唱したのです。圧巻でした。

 ベートーベンの交響曲第九番は、壮大なスケールと深い感動を提供する作品だといわれています。力強く始まる第1楽章から、第4楽章の「歓喜の歌」に至るまで、壮大な音楽が展開されます。

 万博で合唱された「歓喜の歌」の歌詞は、フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」に触発されて創られており、人類の普遍的な愛と喜びを讃えています。合唱を取り入れたという点で、第4楽章は、交響曲の伝統的な枠組みを超えた革新的な試みでした。

 44秒ほどの短い動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Vk-JuSIm8U0

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この「1万人の第九」には、日本人をはじめ、中国人や韓国人など、6歳から93歳までの1万263人が参加しました。開場時間の午前9時に合唱が始まり、ベートーベンの交響曲第九番第4楽章の「歓喜の歌」が、迫力ある歌声で会場全体に響きわたりました。

 指揮者は世界を舞台に活躍している佐渡裕氏で、「1万人で歌うのはすごい光景で、ベートーベンも驚いていると思います。とてもうまくいき、すごく誇りに思います」と語っていました。

 家族と共に参加した40代の女性は、「いろんな方向から歌声が聞こえてきて、すごい迫力でとても感動しました。この1万人に入れてもらってよかったです」と話していました。(※ https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250413/k10014776581000.html

 こうして開幕とともに、圧倒的なスケール感のある大屋根リングの上で、「1万人の第九」コンサートが開催されたのです。参加者は、日本人を中心に、中国、韓国からの老若男女でした。大空に響き渡る合唱団の歌声は会場を覆い、来場者たちを感動させたことでしょう。大屋根リングのスケール感を活かした素晴らしい企画でした。

 リングの下は、積み木のようにも見える大屋根リングが、実は、1万人以上の重量に耐えられる強靭な木造建築だということがわかります。

 夜になれば、この大屋根リングを観客席に見立て、水上ショーが行われます。夜空を背景に展開される幻想的なショーです。

■水と空気のスペクタクルショー

 水上ショーを構想したのは、大阪に本社を置く飲料メーカーのサントリーと空調メーカーのダイキンです。サントリーの鳥居副社長は当時、記者会見の席上で、世界中から「大阪、関西万博2025」を見るためにやってくる来場者を驚かせ、楽しませ、後々まで記憶に残るようなイベントを提供したいと語っています。

 サントリーのHPを見ると、「水と生きるSUNTORY」がキャッチコピーになっていますし(https://www.suntory.co.jp/)、ダイキンのHPを開くと、まず、「空気で答えを出す」というメッセージが掲げられています(https://www.daikin.co.jp/)。水上ショーを企画した両社は、「水」と「空気」をコンセプトに事業展開する企業でした。

 両社は、水と空気があるからこそ、すべての生き物は存在することができ、進化を遂げてきたという思いから、「水、空気、光、炎、映像、音楽を駆使して、生命の物語を描く」というコンセプトで、水上ショーを企画しました。

 ショーのタイトルは「アオと夜の虹のパレード」です。

 タイトルにはショーの概要が示されています。「アオ」は、主人公の子どもの名前で、「水」と「空気」それぞれに共通するイメージの「青」にちなんで名付けられています。そして、「夜の虹」とは、空気中の水分量が豊富で、月が明るい夜にだけ見られる自然現象で、虹が出ている間は、生きものに生命力がみなぎる奇跡の時間とされています。(※ 「あまから手帖 online」)

 明るい月夜に虹がかかった時、生きものたちによる祝祭が開かれるといわれている島がありました。ある時、アオは夜の虹と出会います。そこでアオは多様な生きものたちと交わり、心を通わせていきます。祝祭に歓喜するアオを通して、生命が輝く時をショーアップしたストーリーになっています。

 1分53秒のデモ動画をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/qW7Pv1p-nbQ

 この水上ショーは日没後に2回、リングの内側に広がる水辺「ウォータープラザ」で開催されます。リングの南側に広がる水辺に3万平方メートルのウォータープラザで、約300基の噴水が躍動し、レーザー照明が夜空を照らす中、音楽と響き合って幻想的な空間が創り出されます。

 そんな中、ウォーター・スクリーンに映し出される映像が、ストーリーを展開します。水と空気のおかげで生存できる生き物たちの壮大なスペクタクルショーです。クライマックスには実際に水しぶきや、炎の熱さも感じられるそうです。

 万博史上最大級の水上ショーは、毎晩2回開催され、1回約20分間行われます。迫力あるアトラクションが、入場者なら誰でも無料で見られるのです。

 それでは、ショーが開催される場所を確認しておくことにしましょう。

■ウォータープラザと「つながりの海」

 まず、万博会場のレイアウトがどのようになっているのか、図で確認しておくことにしたいと思います。


 これを見ると、夢洲は橋と地下鉄の二通りの経路で大阪とつながっていることがわかります。万博会場は、夢洲の南西の約半分、赤い破線で囲われている部分です。3つにゾーニングされており、もっとも大きいのがパビリオンのゾーンで65.7ヘクタール、次いで、水ゾーンの47ヘクタール、そして、西側に位置する緑ゾーンは42.9ヘクタールです。

 パビリオンゾーン以外には、水と緑のゾーンがほぼ同程度、割り当てられています。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を踏まえ、ゾーニングされたことがわかります。

 次に、大屋根リングと水上ショーが行われるウォータープラザの位置関係を確認しておきましょう。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/j_fusei/2503/cts0103_477.html

 この案内図を見ると、ウォータープラザは、大屋根リングの南側やや西寄りに三日月形で設定されていることがわかります。

 先ほど見た万博会場のレイアウトでは、このウォータープラザは水ゾーンに組み入れられていました。水ゾーン内の位置関係を把握するため、俯瞰して夢洲全体を見てみました。


(※ https://saitoshika-west.com/blog-entry-7618.html

 リングの外側は「つながりの海」と名付けられていますが、海そのものではなく、海とつながっているところです。「つながりの海」は護岸で囲われており、いってみれば、夢洲の中にあるため池のようなものです。

 ですから、本来なら、浸食されるはずがないのですが、3月7日、護岸が浸食されていることが発見されました。

■護岸の浸食

 今回、浸食が指摘されたのは以下の箇所でした。

(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/

 これを見ると、大屋根リングの外側(つながりの海)の方が、内側(ウォータープラザ)より浸食がひどいことがわかります。護岸の浸食が発生した当時の写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲、URL)

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これが「つながりの海」側の浸食部分です。

 万博協会はこの件について3月10日、護岸を砕石で覆い、浸食した護岸の保護を進めると発表しました。さらに、大屋根リングとウォータープラザ沿い外周道路の安全性には影響がないことを、学識経験者から確認を得たと報告しています。

 ウォータープラザ沿いの外周道路(EVバスや貨物車両等が走行)は、基礎梁と一体の鉄筋コンクリートの床スラブの上に、アスファルトによる舗装を実施しています。これは大屋根リング基礎構造と一体のものであり、外周道路も安定した構造となっていると説明しているのです。

 そして、浸食の原因としては、ウォータープラザとつながりの海に2月中旬より注水を行ったことだとしています。注水後に浸食の発生が確認されているので、これが原因だとしているのです(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/)。

 実際、2月17日から合計六つのポンプで大阪湾の海水が注入されました。海水が注入されたのは大屋根リングの南の外側にある「つながりの海」32ヘクタールと、その内側にある「ウォータープラザ」3ヘクタールです。

 「ウォータープラザ」はいったん予定水深に達しましたが、「つながりの海」は達しておらず、開幕までに水深1メートルになるよう調整しながら注水が続けられました。海水が十分に満ちると、ライトアップされたリングが水面に反射する光景が見られるからです(※ 朝日新聞、2025年3月2日)。

 万博協会は、海水を引き入れ始めたことで、リングの外側にかかる水圧が高くなっていたところに、風の影響で想定以上に波が高くなり、護岸の浸食がさらに広がったと状況説明しています。

 現在は修復されていますが、浸食の原因の一つは、水上アトラクションを見栄えよくするための結果だったともいえるでしょう。

■アトラクションの舞台として、観客席として機能する大屋根リング

 こうして紆余曲折を経ながらも、開幕すると、万博史上最大級の水上ショーが誕生しました。ラスベガスの有名な水上ショーに勝るとも劣らないアトラクションだという人もいます。

 いずれにしても、ウォータープラザでの水上ショーが、万博名物の一つになることは確かでしょう。夜だけではなく、昼間もここで、音楽に合わせて噴水が躍動する水上ショーが行われます。ウォータープラザでの水上ショーは開催期間中、夜も昼も、老若男女、誰もが楽しめるよう企画されているのです。

 ここでご紹介した、「1万人の第九」といい、万博史上最大級の水上ショーといい、圧倒的に迫力のあるアトラクションでした。一方はスケール感のある大屋根リングを舞台に見立ててコンサートを成功させ、もう一方は大屋根リングを客席と見立ててショーを成功させています。

 大屋根リングは、大勢の入場者を圧倒的な迫力で惹きつけるための装置として機能していたのです。

 実は、開幕前の大屋根リングが、YouTubeの中田チャンネルで紹介されていました。吉村大阪府知事が中田敦彦氏に万博会場を紹介し、説明していくという趣旨の動画でした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=fwWlu7saGCU&t=196s

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この動画から、大屋根リングの箇所をご紹介していくことにしましょう。

■中田チャンネルで見た大屋根リング

 中田チャンネルの「大阪・関西万博2025」は、大屋根リングの上で、中田敦彦が両手を広げて叫んでいるシーンから始まります。「大阪万博、始まるぞ!」、「大屋根リング、デカい!」と大声を出しているのです。


 確かに、画面を見ただけでも、大屋根リングは想像を超える大きさでした。俯瞰しなければ、その全体像を一つの画面に収めることはできません。

 上から見ると、大屋根リングの全景はこのようになっています。

 リングの上はまるで道路のようになっていて、側面には芝生が植えられています。吉村知事は、この斜面はすり鉢状に設計されており、来場者はここで、お弁当を広げて食べてもいいし、寝転がってくつろぐこともできると説明していました。

 先ほど、ご紹介したウォータープラザについても、吉村知事は説明されていました。

 大屋根リングの内側が観客席になっていて、ウォータープラザで展開されるショーを見るという仕様になっています。周囲は海ですから、夜になれば、レーザー照明などで創り出された幻想的空間を楽しむことができるのです。

 もちろん、日中の風景も楽しめます。

 大屋根リングの先には海が見え、反対側には六甲山が見えます。海と山の風景が、大屋根リングの先に広がっているのです。一体、どういう仕掛けになっているのかと不思議に思っていると、吉村知事はいつの間にか下に降り、リングを支える木の説明をしています。

 大屋根リングを支える無数の木々は、釘を使わず組み立てられています。清水寺の舞台を作った技術が使われており、耐震性が高いそうです。木々の所々に節目が見られ、まるで林の中にいるような空間が生み出されていました。リングの下の空間は、無数の柱の合間から、太陽光がふんだんに入り込み、明るく、風通しがよく、快適さが充満しているように感じられます。

 これらの大屋根リングを支える多数の柱には、自然の中で育まれてきた日本文化が象徴されているように思えました。多数の木々が支え合い、つながり合い、暖かな空間が創り出されていたのです。まさに「いのち輝く未来社会をデザイン」をテーマとする、「大阪・関西万博2025」のシンボルといえます。

■さまざまに楽しめる大屋根リング

 大屋根リングは、「大阪・関西万博2025」の会場デザインプロデューサーである建築家の藤本壮介氏が構想し、「多様でありながら、ひとつ」というデザイン理念を表現した建造物です。

 2023年6月30日に木組み部分の組み立てを開始し、2024年8月21日に全周約2㎞がつながりました。建築面積は61,035.55㎡、内径は約615m 外径は約675m、全周は約2km、幅は30m、高さは約12m(外側約20m)という壮大なスケールが特徴です。

 日本の神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合に、現代の工法を加えて建築された世界最大級の木造建築物です。使われた木材は、国産木材7割(スギ、ヒノキ)、外国産木材3割(オウシュウアカマツ)などです。

 会場の主動線として機能する円滑な交通空間であると同時に、雨風や陽射しなどを遮る快適な滞留空間として利用されるよう建造されています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250228-04/

 2025年3月4日、世界最大の木造建築物として、大屋根リングがギネス世界記録に認定されました。全周2㎞、幅30m、高さ約12m(外周は約20m)という壮大なスケールを思えば、当然の結果だと思います。

 リングを支える柱の下で撮影された関係者らの写真があります。

 向かって右がデザインプロデューサーの藤本壮介氏です。

 ギネスでは木造建築としてのスケールが評価されましたが、それ以外に、多様な機能をもつ建造物としても大屋根リングには大きな価値があります。

 先ほどもいいましたが、大屋根リングの屋上からは、会場全体を見渡すことができます。リングの外に目を向ければ、瀬戸内海の穏やかな海や夕陽を浴びた光景、振り返れば、大阪の街並み、そして、方向を変えれば、六甲山や明石海峡など、海と空に囲まれた万博会場ならではの魅力を楽しむことができます。

 さらに、リングの上は展望台として機能するばかりか、道路として機能し、舞台としても観客席としても機能しています。類まれな建造物だと思います。

 果たして、藤本氏は万博会場をどのような観点から構想したのでしょうか。

■藤本壮介氏の設計コンセプト

 藤本氏は、人を集める建築の条件について問われ、「一度見ただけで満足する、インパクト重視の施設とならないよう意識しました」と答えています。(※ https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/03069/020300011/

 藤本氏は、もはや建造物に意表を突く衝撃力は求められておらず、その場にいるからこそ可能な体験、あるいは居心地の良さといったものが求められるようになっていると認識しています。

 確かに、現代人のほとんどは、とどまるところを知らない競争に疲れ果て、先の見えない世の中に不安を覚え、すべてに疑心暗鬼になっています。インパクトの強いものを受け止めるだけの心の余裕が失っているような気がします。

 現代人のこのような心的傾向を踏まえ、藤本氏は、大屋根リングを設計する際、自然とのハーモニーを重視したのではないかと思います。だからこそ、リング状の木造建造物を構想したのでしょう。屋根の上の外周をすり鉢状の斜面にし、そこに芝生を植える設計にしたのではないかと思います。

 大屋根リングの上は二層になっています。一層目は黄色のセンターラインの入った幅広の道路が設置され、その上の二層目はその半分の幅の道路になっています。いずれも側面には芝生が敷かれ、縁にはスポットライトが多数、設置されています。

(※ https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/expo2025002/

 夜になって、このスポットライトが灯されれば、いきなり幻想的な世界が現れるという仕掛けです。

(※ https://dempa-digital.com/article/610580

 上の写真は、藤本氏らが大屋根リングの照明を確認した際に撮影されたものです。開幕に向けて、LED照明の色味や明るさなどを調整していたのです。リングの上の照明は季節に応じて調光することができるそうです(※ https://dempa-digital.com/article/610580)。

 大屋根リング全体がライトアップされた動画があります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=eECndMY-WV0

 壮観としかいいようがない光景です。周囲が海なので、夜になれば、光が景観に抜群の効果をもたらします。これだけの夜景は滅多に見ることができるものではないでしょう。

 昼間、大屋根リングの上に上がれば、パビリオンを一望できます。リング上がいきなり展望台になるのです。歩き疲れれば、芝生に寝そべって、陽光を浴び、潮風を感じることもできます。芝生が敷かれているリングの側面は、四季折々の変化に応じて異なる表情を見せてくれるでしょう。

 このリングを構想した藤本氏は、ここに来れば来場者は、「パビリオンの展示を見ただけで帰るのはもったいない」「もうちょっとこの場所にいたい」と感じるはずだといいます。(※ 前掲、URL)

 自然に包まれた安らぎの中で、来場者は見てきたばかりの各国のパビリオン、産業パビリオンなどを思い出すかもしれません。そのような思いを抱いたまま、日常を離れたこの場にもっといたいと思うかもしれません。

 大屋根リングはまさに、人が自然と交わり、楽しめる場になっていました。全長2キロメートルにも及ぶ大きな輪になっているからでした。世界各国からやってきた人々はここで自由に集い、やがて交流するようにもなるでしょう。

 そのような万博のメイン会場が、日本ならではの資材と最新の技術を結集して、建造されていたのです。素晴らしいとしかいいようがありません。「大阪、関西万博2025」は、この大屋根リングのおかげで、歴史に残ることになるのではないでしょうか。

(2025/4/17 香取淳子)

クルーズ事業は地域を潤す起爆剤になりうるか?

■様変わりした長崎駅の周辺

 2024年4月13日(土)、長崎を訪れました。久しぶりに見る長崎駅前はすっかり様変わりしていました。駅前が広くなり、駅舎をはじめアミュプラザなどが斬新なデザインの建物に変わっていたのです。人通りも増え、辺り一面に活気が溢れていたのには驚きました。想像もしていなかった変化でした。

 しかも、駅前はいまなお工事中です。

長崎駅前

 上の写真は、駅前の歩道橋から撮影したものです。手前にはクレーン車が置かれ、広い敷地がまだ工事中だということがわかります。これから一体、どのように変貌していくのでしょう。

 激変する景観の中で、これまでと変わらない佇まいを見せていたのが、ホテルニュー長崎でした。このホテルは、1998年3月11日に開業しており、26年の歴史があります。今回、1Fのテラスレストラン・ハイドレンジャで、かつての同僚二人と久々に会食を楽しむことになりました。

 一人は現職で、忙しいさなか、福岡からわざわざ会いに来てくれました。責任のある仕事をいくつも引き受け、それぞれ、大きな成果を上げていました。しばらく会わない間に天与の才が磨き込まれ、ますます輝きを見せるようになっていたのです。頼もしい限りでした。

 もう一人は退職後も引き続き、長崎に住み、日々の生活を楽しんでいる先輩です。食に目がなく、会食の場をホテルニュー長崎にしたのは、彼女の提案でした。駅に近く、フランスで修業を積んだシェフの料理がおいしいというのがお薦め理由です。シェフが変わってから、お客が増えたとも言っていました。

 確かに、お薦め通りの内容でした。

 厳選された食材、粋を凝らした調理、そして、料理を引き立てる食器、それぞれが見事に調和していました。見て快く、味わって美味しく、おまけに、目の前には緑豊かな情緒ある庭園が広がっていました。ガラス越しに眺めながら、完成度の高いコース料理を一品、一品、堪能することができたのです。会話がはずみ、時間を忘れてしまうほど楽しいひと時でした。

■長崎駅前で開業した世界トップクラスのホテル

 2日目の14日(日)は、駅に直結したマリオットホテルのレストランDeJimaで、鉄板焼きコース料理を楽しみました。このお店もやはり、彼女のお薦めです。エントランスの設えが優雅で、なんともいえない興趣がありました。

レストラン入口

 中央には、まるで来客を出迎えるように、古木を模したモニュメントが置かれています。

 こちらは、長崎牛をはじめ、ハタ、タイなどの鮮魚や長崎産の季節野菜、コメ(佐賀県産の農薬節減米)など、地元の素材を活かしたメニューでした。

 鉄板の上で巧みな手さばきをみせながら、シェフは食材について語り、調理法を語ってくれます。食材や調理法をめぐってシェフとの会話がはずみ、話題はやがて、長崎の歴史や文化にまで及びました。

 舌鼓を打ちながら食感を楽しみ、食談義を交わしているうちに、共に食の奥義を究めているような気分になります。作り手のシェフが食情報の発信者とするなら、向かい合って箸を進める私たちはその受信者といえます。まさに、鉄板を舞台とした食のエンターテイメントでした。

 さて、マリオットホテル長崎は、2024年1月16日に開業したばかりのホテルです。九州では初めてで、日本では9番目になるそうです。長崎港や稲佐山の眺望を楽しめるロケーションで、ロビーには海外からの宿泊客が溢れていました。

 一方、長崎駅西口にはヒルトン長崎が出来ていました。こちらは2021年11月1日に開業しており、九州では2番目になるそうです。ヒルトンといい、マリオットといい、世界トップクラスのホテルがここ数年のうちに、次々と開業していたのです。

 今回、長崎を訪れて、数多くの外国人を見かけました。駅前といわず、大通りといわず、外国人の姿を多数、見たのです。空港ではそれほど外国人の姿を目にしませんでしたから、彼等はおそらく、新幹線でやってきたのでしょう。

 そう思って長崎駅の人混みを思い返してみましたが、外国人はちらほら見かける程度でした。街で見かけた外国人の数とは見合いません。彼等は、いったい、どの経路で長崎にやってきたのでしょうか。

 空路ではなく、陸路でもないとすれば、あとは海路しかありません。

 そういえば、長崎に住む先輩が、夕方、松ヶ枝埠頭から出港するクルーズ船を見送りましょうと言っていたことを思い出しました。彼女にはグルメ以外にもう一つの趣味がありました。それが、クルーズ船の見送です。

 新聞でクルーズ船の寄港日をチェックしては出港時間を確認し、わざわざ松ヶ枝埠頭に赴いては見送っているのです。14日に寄港するのは、バイキング・オリオンでした。夕方6時に出港するというので、私も興味津々、付き合うことにしました。

■バイキング・オリオンの見送り

 2024年4月14日(日)、長崎港には、バイキング・オリオンが寄港し、10時間ほど停泊する予定でした。

こちら → http://www.nagasaki-port.jp/cruise_calendar/April.html

 カレンダーを見ると、船は8:00に寄港し、出港は18:00です。10時間ほど松ヶ枝埠頭に停泊しているのです。案の定、先輩はこのバイキング・オリオンを見送る計画を綿密に立てていました。

 長崎港に面して、ショッピングモール夢彩都があります。その2Fに、松ヶ枝埠頭がよく見えるカフェ・メルカードという喫茶店があります。テラス側の席に陣取って、出港を見送ろうというのが先輩の計画でした。

 確かにテラス側の席に座ってみると、目の前が長崎港で、その遠方に、クルーズ船が停まっているのが見えます。テラス越しに見るクルーズ船は、ちょっとしたビルのように大きく、壮観でした。

停泊中のバイキング・オリオン

 これが、バイキング・オリオンです。ノルウェー船籍で、全長228.3m、幅28.8m、総トン数47,842トン、巡航速度20ノット、客室数465、乗客定員930名、乗員数545名のクルーズ船です(※ https://www.cruise-mag.com/database/34774/)。

 予定通り、松ヶ枝埠頭に停泊していたのです。

 私たちがこのカフェに着いたのは午後5時過ぎでしたから、出港までに50分ほどあります。約1時間弱、このカフェに滞在しなければなりません。できるだけカフェに長くいられるように、たくさんのイチゴやアイスクリームがいくつも添えられている大きなワッフルケーキと紅茶を注文しました。

 少しずつケーキを食べ、雑談しながら、クルーズ船を見ているうちに、どうやらバイキング・オリオンが動きはじめたようです。やや前方を黒く小さなタグボートが先導しているのが見えます。

動き始めたバイキング・オリオン

 そうこうするうちに、バイキング・オリオンは向きを変え始めました。

向きを変え始めたバイキング・オリオン

 いよいよ出港態勢に入りました。タグボートに続き、静かに進んでいきます。

タグボートに続き、静かに進むバイキング・オリオン

 テラス側の席から見ていると、巨大なバイキング・オリオンの高さと女神大橋の高さがほぼ同じに見えます。ぶつかるのではないかと心配になります。

女神大橋にさしかかったバイキング・オリオン

 バイキング・オリオンはゆっくりと進み、女神大橋を通過しそうになっています。

通過しつつあるバイキング・オリオン

 こうしてみると、バイキング・オリオンとはわずかながら距離があることがわかります。

 どうやら女神大橋を無事、通過したようです。見届けた先輩は思わず、「ほっとした」とつぶやきました。見送るたび、クルーズ船が無事に女神橋の橋下を通過するかどうか心配でならないというのです。

通過したバイキング・オリオン

 ここまでくると、バイキング・オリオンと女神大橋とはかなり距離がることがわかります。ぶつかるのではないかと心配していたことが杞憂に終わりました。

 無事に出港したことを見届けて、安心する一方、バイキング・オリオンがこの後、どこに行くの、行先が気になってきました。

 調べてみると、鹿児島(4月15日)、広島(17日)、神戸(19日)、東京(22日)、そして、小樽(26日)という順で、各地に寄港する行程が組まれていました。(※ https://funeco.jp/ship/viking-orion/voyage_schedule/2024/

 寄港地はいずれも観光地として魅力のある港です。長崎もまた、それらの港と同様、クルーズ客に人気のある寄港地の一つになっているようです。

■魅力ある寄港地、長崎

 
バイキング・オリオン は、バイキング・オーシャン社が所有する第5番目の船で、2018年6月に命名式がリボルノ(イタリアのトスカーナ州にある都市)で行われました。翌2019年4月27日には長崎に寄港し、大阪、東京を経て、アラスカへ向かい、9月に再び、日本の各地に寄港しています。(※ https://www.cruise-mag.com/database/34774/

 ところが、2020年3月以降、コロナ禍のため、国際クルーズの運航は停止されました。再開されたのが2023年3月ですが、バイキング・オリオンは、翌4月には日本を訪れています。長崎には、2023年4月20日に寄港しただけではなく、6か月後の10月19日にも長崎港松ヶ枝埠頭に停泊しているのです。(※ https://funeco.jp/ship/viking-orion/voyage_schedule/2023/

 バイキング・オリオンの顧客にとって長崎が魅力のある寄港地だったことがわかります。停泊地の松ヶ枝地区は水辺の素晴らしい景観が広がる埠頭ですし、そこから徒歩で、出島やグラバー園、大浦天主堂といった観光地に行くことができます。

 これまでは魅力ある商業施設が少ないのがネックでした。周辺には夢彩都ぐらいしかなかったのです。ところが、今回、長崎駅周辺が大幅に改造されたので、観光だけでなく、ショッピングやグルメも存分に楽しめるようになりました。

 世界には350隻以上の船がありますが、このバイキング・オリオンは約4万8000トンで、乗客定員が930名です。彼等が下船して楽しめるインフラはすでに整っています。

 実際、長崎は、松ヶ枝埠頭から徒歩圏に、出島や歴史文化博物館、美術館はさまざまな史跡があり、ショッピングやグルメを楽しめるコンパクトな街です。限られた時間内に観光、食事、ショッピングしようとするクルーズ客にとっては格好の寄港地だといえるでしょう。

 さて、バイキング・オリオンは、中型のクルーズ船としてランクされていますが、調べてみると、中型船の中ではこのバイキングがクルーズ客の人気を独占していました。(※ https://www.cruise-mag.com/news/9726/

 クルーズ船の顧客の嗜好を踏まえて内装や機能を設え、船内でのアクティビティとエンターテイメントを充実させているからでしょう。

 バイキング社のシリーズは、4番目の船までは外観や船内は皆、同じ造りだったそうです。ところが、今回の、5番目に当たるバイキング・オリオンでは、新たに定員26名のプラネタリウムが設けられました。

 そして、船室は北欧調のシックで高級なデザインで、落ち着いた大人の雰囲気があるといわれています。しかも、全ての客室にベランダがついており、船上では教養講座や外国語クラス、料理の実演ショーなどを楽しめるようになっているといいます。(※ https://travelharmony.co.jp/databox/data.php/vikingcruises_orion_ja/code

 快適な空間を用意し、船上の生活を楽しめるよう、さまざまなサービスが提供されているからでしょう。時間とお金に余裕のある顧客に好まれるのは当然のことかもしれません。

 バイキング・オリオンが、中型クルーズの中で人気ランキング上位を維持しているのは、長崎を寄港地の一つに選び、船内の設備や食事、アクティビティやエンターテイメントを充実させているからだといえます。

■外国船社に好まれる長崎

 国土交通省によると、コロナ禍前の2019年、クルーズ船の寄港回数は、那覇港が260回と最多でした。

(※ 2023年8月6日付日経新聞)

 那覇港の次は、博多港、横浜港と続き、長崎港は4位にランクされています。この表を見る限り、長崎港は上位にランキングされていることがわかります。とくに、外国船社が運航するクルーズ船の場合、長崎は2014年から2020年までの期間、寄港ランキングで2位か3位をキープしていました。

 一方、日本船社が運航するクルーズ船については、これと同期間、長崎はランキング10位に入っていませんでした(※ 令和5年12 月18日、港湾局 産業港湾課)

 寄港ランキングデータからは、日本船社よりも外国船社のクルーズ船の方がより多く、長崎に寄港していることがわかります。

 日本船社と外国船社のクルーズ船の違いは何かといえば、外国船の場合、使用言語は日本語ではなく、日本的なサービスも受けられませんが、一般に、より安価で、はるかに多様なエンターテイメントやアクティビティが楽しめるという特徴があります。(※ https://www.cruisevacation.jp/blog/30663/

 使用言語やサービス内容からいって、外国船社の顧客は基本的に外国人です。外国クルーズ船の寄港が多いということは、長崎が外国人顧客に人気が高いということになります。

 さて、2024年4月に長崎に寄港あるいは寄港予定のクルーズ船は20隻です。30日間で20隻が停泊しており、すべてが外国船籍です。このうち、マルタ船籍の「マイン・シフ5」(9.8万トン)、バハマ船籍の「シルバー・ムーン」(4万トン)、バミューダ船籍の「クィーン・エリザベス」(9万トン)は、4月だけで2回も訪れています。

 規模の面では、4月に長崎に寄港したクルーズ船は10万トン以下がほとんどですが、パナマ船籍の「アドラ・マジック・シティ(13.6万トン)、イタリア船籍の「コスタ・セレーナ(11.4トン)の2隻が10万トンを超えていました。松ヶ枝埠頭に停泊しているのですから、マスト高は65メートル以下だったのでしょう。

 長崎は、外国クルーズ船の寄港需要は高いのですが、大型クルーズ船に対応できないという問題を抱えていました。外国クルーズの寄港需要が高まるにつれ、接岸壁、水深など、長崎港を機能強化する必要に迫られていました。

■長崎港の機能強化

 コロナ以前からすでに松が枝埠頭を整備する必要があることは認識されていました。大型クルーズ船の受け入れ、複数のクルーズ船の受け入れなど、外国クルーズ船全般の受け入れ体制を整備する必要があり、具体案が練られていました。

 ヨーロッパからだけではなく、今後、アジアからのクルーズ需要も増えていくでしょう。確実にクルーズ客を取り込むには、なによりもまず、大型クルーズ船が停泊するようにしなければなりませんでした。

 2019年度以降、長崎港のクルーズ船受入機能は大幅に強化されました。

 たとえば、女神大橋の桁下は65メートルで、22万トン級の大型船は通過できません。クルーズ船の見送りが趣味になっている先輩が、女神大橋にぶつかるのではないかと心配していたように、女神大橋は、マスト高62.9メートルの16万トン級以下の船しか通れないのです。

 そこで、改良案では、女神大橋を通過しないでもいい、小ヶ倉柳地区を整備し、マスト高65メートル、22万トン級の大型船が停泊できるようにしました。

 さらに、松ヶ枝地区を改良する一方、常盤・出島地区は7万トン以下のクルーズ船に特化し、整備したのです。

 具体的には。次のようなプランに沿って、整備されています。

(※ 国交省九州地方整備局)

 上記の写真に見るように、長崎港の改良点を整理すると、次の3点になります。

 まず、①マスト高65㎝、全長361m.の22万トン級クルーズ船が寄港できるよう、小ケ倉柳地区の整備、そして、②松ヶ枝地区の水深を12m、岸壁を410mにし、マスト高62.9m、全長347mの16万トン級が接岸できるよう整備、さらに、③7万トン級クルーズ船を受け入れられるよう、常盤・出島地区の整備、等々です。

 こうしてコロナ明けのクルーズ船再開を待つように、長崎港は整備されたのです。

 クルーズ船の乗客は、寄港地での買い物や飲食への意欲が旺盛だといわれます。時間やお金に余裕のある層がクルーズ旅行を好むからでしょう。その消費意欲の旺盛なクルーズ客が、一斉に下船して、寄港地で飲食し、ショッピングをし、周辺を観光してくれるのです。地域経済への波及効果が見込まれるのも当然です。

 外国クルーズ船の運航が再開されて、地方経済が潤い始めているようです。

 しかも、先進諸国の高齢化に伴い、世界のクルーズ需要は高まっています。

■世界のクルーズ需要

 世界のクルーズ市場規模は、2022年に76.7億米ドルと評価され、2023年から2030年にかけては、年平均成長率(CAGR)11.5%で成長すると予測されています。(※ https://newscast.jp/news/2634037#:~:text=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AF,%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E4%BA%88%E6%B8%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 クルーズは、船で各地を移動し、船内で食事、宿泊できるばかりか、さまざまなアクティビティやエンターテイメントを船内で楽しむことができます。陸路や空路の旅行に飽きた人々、旅行しながらアクティビティやエンターテイメントも楽しみたい人々、のんびり旅行したい、道中、安全に旅行したい人々など、クルーズならではのサービスに需要が高まっています。

 クルーズライン国際協会(CLIA)は、2019年に2970万人だった世界のクルーズ乗客数が2027年には3950万人へと3割超増えると予測しています。コロナ禍で2021年には480万人まで落ち込みましたが、2023年以降、大幅に増える見通しです。

(※ 2023年8月6日付日経新聞)

 さらに、CLIAによると、クルーズ旅行者はこれまで60歳以上が33%と最多だったのが、最近は20代後半から40歳程度までの年齢層の需要が高まってきているそうです。利用者の層が拡大しているのです。

 こうしてみると、コロナ禍で落ち込んだ需要が2023年以降、急速に回復しているのは、クルーズ旅行の魅力が高齢者以外の層にまで浸透しはじめているからだと考えられます。

 もちろん、基盤となっているのは高齢層の根強い需要です。先進諸国では高齢化が進み、時間とお金に余裕のある高齢者が増えています。それが、クルーズ需要を押し上げる主因になっていることは確かでしょう。

 人々は、もはやモノの消費ではなく、体験や活動の消費に関心を移しつつあります。クルーズ旅行の需要はその対象の一つとして増加の一途を辿っています。高齢者を中心に、若い世代にまで広がるクルーズ需要に対応するため、官民を挙げて、基盤整備が加速しているのが昨今の状況です。

 たとえば、国交省が2023年3月から本格的に国際クルーズの運航を再開したのを受けて、同年3月31日に観光立国推進基本計画が閣議決定されました。そこには、次のような目標が盛り込まれました。すなわち、「訪日クルーズ旅客を 250 万人」、「外国クルーズ船の寄港回数を 2,000 回超え」、「外国クルーズ船の寄港する港湾数を100港」などです。

 世界のクルーズ需要を取り込み、日本のクルーズ振興を図るために、港湾周辺地域の魅力を向上させる一方、クルーズ船の受入体制を強化しようとするものです。(※ https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001722639.pdf

 長崎港の機能強化と、長崎駅前のホテルや商業施設の一新されたデザイン景観の大幅な改善などは、クルーズ船受け入れ体制整備の一環なのでしょう。

 クルーズ旅客の満足度を向上させて、寄港のリピート数が上がれば、寄港地の経済が潤う効果を期待できます。クルーズ事業は、次世代の地域産業として注目すべき領域なのかもしれません。

■クルーズ事業の多様な展開

 
 CLIA によると、クルーズ旅行者はこれまで60歳以上が33%と最多でした。明らかに高齢者の需要が高かったのですが、昨今、20歳代後半から40歳程度までの世代にも、クルーズへの関心が高まっていることが判明しました。多様な世代に支えられて、クルーズ市場は今後も成長が続くとみられています。

 実際、さまざまなニーズに対する多様なクルーズサービスが提供されつつあります。

 たとえば、米リンドブラッド・エクスペディションズ(Lindblad Expeditions)HDは、ナショナルジオグラフィック協会と提携し、自然探索のツアーを手掛けているそうです。北極や南極、ブラジルのアマゾンなど特殊なツアーをアピールしているのです。(※ https://www.cruise-mag.com/news/27219/

 一方、米ウォルト・ディズニー(The Walt Disney Company)もクルーズ事業を手掛けるようになっています。キャラクターとの触れ合いやミュージカルの上演、さらには、ディズニー映画の世界を再現したレストランを作り、ファンを引き付ける戦略を展開しようとしているのです。

■ホテルとクルーズ事業

 その東京ディズニーリゾート(TDR)を運営するオリエンタルランド(OLC)は、4月23日、6月に開業する新ホテルを報道公開しました。1泊約34万円以上の客室もある高級ホテルです。

 ホテル事業は、テーマパークとの相乗効果が期待でき、近年、大きな成果を上げています。オリエンタルランドの売上高を見ると、2024年3月期には前期比18%増の869億円と過去最高を見込み、営業利益率も3割と高くなっています(※ 2024年4月24日付日経新聞)。

 そして、米ディズニーランドはクルーズ事業にも参入してきています。

 さらに、 米マリオット・インターナショナル (Marriott International)傘下のザ・リッツ・カールトン(The Ritz-Carlton)は2017年に、クルーズ事業への参入を発表しました。コロナ禍で船の就航こそ、2020年の予定が2022年に遅れましたが、2024年と2025年に1隻ずつ新しく造船し、事業を拡大中です。

 こうしてみてくると、開業したばかりの長崎マリオットホテルは、彼等のクルーズ事業の一環なのかもしれません。

 興味深いことに、長崎マリオットホテルは、長崎港を望み、その建物は客船をイメージしたといわれています。28室のスイートを始め、約7割の部屋にバルコニーを備え、外に出て海風や港町の夜景を楽しめる設えだというのです(※ 2023年10月8日付朝日新聞)。

 そう言われてみると、確かに、長崎マリオットホテルの外観はクルーズ船のように見えます。

(※ https://www.jtb.co.jp/kokunai-hotel/htl/8211A53/photo/

 カフェからバイキング・オリオンを見たとき、まさにこのような外観でした。まるでビルのようだと思いましたが、長崎マリオットホテルは、実際、クルーズ船を模して建造したというのです。

 長崎マリオットホテルの外観に、米マリオット・インターナショナルのクルーズ事業に賭ける思いを見るような気がしました。

 CLIAによると、クルーズ客の消費額は空路客より1日あたり約1万円多いといわれています。空路とは違って、荷物量の制限がないので、土産物を大量に購入することができるからです。飲食し、土産物を買うことによって、クルーズ客は明らかに寄港地にお金を落とすのです。

 コロナ禍の落ち込みから急回復し、世界中で今、クルーズ船ツアーが活況を呈しています。クルーズ船運航各社は新しく造船を急ぎ、異業種からの新規参入も相次いでいます。サービス内容の多様化し、家族連れや若い世代の関心も高まっています。クルーズ船の寄港地に高級ホテルを開業しても十分に採算がとれる状況になりつつあるのです。

 今回、長崎駅前で見た大幅な変化や長崎港の機能強化は、未来を先取りしたクルーズ事業の需要を反映したものといえるでしょう。(2024/4/28 香取淳子)

岩倉使節団の足跡:鍋島直大の場合

■随行留学生として、使節団に参加

 岩倉使節団は、不平等条約の改正交渉の準備、欧米の技術、文化、制度、思想等の把握を目的に、編成されました。1871年11月12日に横浜港を出発した岩倉使節団には、留学生たちも随行していました。その内訳は、華族14名、士族24名です。

 その中に、旧佐賀藩主で、維新政府で議定、外国官副知事などを務めた鍋島直大(1846-1921)も参加していました。25歳の時です。身の回りの世話役として、百武兼行(1842-1884)が付き添いました。

 使節団に随行して、アメリカ経由でイギリスに行き、オックスフォード大学で直大は文学を学び、百武は経済を学んでいます。岩倉使節団の日程表をみると、1871年11月12日に横浜港を出発し、サンフランシスコに着いたのが12月6日です。以後、アメリカ国内を視察して回り、使節団がイギリスに着いたのは1872年7月14日でした。

 ただ、使節団とはワシントンまで同行し、その後は一行と別れてロンドンに向かったという記述もあります(※ 三輪英夫、『佐賀県立博物館報』、No.27. 1975年、p.2.)。

 日程表では、岩倉一行がワシントンに着いたのが1月21日、ワシントンを発ったのが5月4日です。一方、鍋島らは4月頃ロンドンに着いたという情報もありますから、やはり、三輪のいうように、ワシントンで一行とは別れたのでしょう。

 鍋島直大の渡欧目的は、「開けたる世のよき事をわか国へ行ふ為めのつとめなりけり」でした。開国後の日本のために、イギリスで見聞を深め、そこで得てきた知識や経験を日本の発展のために持ち帰りたいというものでした。

 ところが、オクスフォード大で学び始めて2年後の1874年3月、江藤新平らが起こした佐賀の乱の報に接し、急遽、一時帰国することになりました。

■佐賀の乱

 佐賀の乱とは、1874年2月に江藤新平と島義勇らをリーダーとし、佐賀で起こった明治政府に対する反乱の一つです。不平士族による初めての大規模な反乱でしたが、政府が素早く対応したので、激戦の末に鎮圧されました。

 佐賀藩士・江藤新平(1834-1874)は、1871年の廃藩置県後、文部大輔、左院一等議員、左院副議長を経て、初代・司法卿を務めました。司法権統一、司法と行政の分離、裁判所の設置、検事・弁護士制度の導入など、次々と司法改革に力を注いできました。江藤は、積極果敢に、日本の近代司法制度の基礎を築いてきたのです。

 新政府の中で、これほど大きな業績を上げてきた江藤新平が、なぜ、反乱を企てたのでしょうか。

 江藤は、1873年に参議に転出し太政官・正院の権限強化を図りました。ところが、その年、征韓論争が起こり、西郷側に立っていた江藤は敗れて辞職したという経緯があります。

 西郷や江藤らは、欧米の共和制や自由民権の思想に親近感を抱いていましたが、欧米の視察から帰国した岩倉、大久保、伊藤らは共和制を評価せず、自由民権の思想を危険視するようになっていました(※ 松井孝司、「近代日本をリードした佐賀藩」、『近代日本の創造史』10巻、2010年、p.6.)。

 下野した江藤は、1874年に板垣退助、後藤象二郎らがに賛同して、民撰議院設立建白書に署名し、民撰議院 (国会) の設立を求めました。佐賀に帰郷後は、征韓党の指導者に推され、不平分子を率いて政府軍と戦いますが、敗れて処刑されています。

「東京日々新聞 六百五十六号」には、江藤が捕縛された時の様子を落合芳幾が描いた錦絵が掲載されています。

(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 「”佐賀縣下 肥前の國にて暴動せし賊軍一敗地に塗(まみ)れ首謀江藤氏遁走して加藤太助と変名し。明治七年三月下旬与州宇和島より甲浦に至り客舎に潜伏したりしを。高知縣より派出せる少属(せうさかん)細川 某 数名の捕吏(とりて)を率(したがへ)て。該地(そのち)の戸長に案内させ。主僕を捕縛に及ぶのとき。江藤氏騒げる景色なく従容として筆紙を採(と)り。岩倉殿下に一書を呈(てい)す其文(そのぶん) 頗(すこぶ)る激烈にて。征韓黨の巨魁とも称(いふ)へき胆力顕然たりとぞ “」

 轉々堂主人が書いた記事の内容は、上記のようなものでした。

■岩倉具視に宛てた書簡

 江藤新平は、捕縛された時は抵抗もせず、素直にしたがったようです。そして、紙と筆を求め、岩倉具視に宛てて、文章を綴ったそうです。その文面がなんとも激しく、さすが征韓党の首領らしい胆力を見せていたと轉々堂主人は書いているのです。

 振り返れば、江藤新平(1834-1874)は、若いうちから尊王討幕運動に参加し、明治維新とともに新政府に参加しました。東征大総督府軍監、江戸鎮台判事を勤め、軍事、治安を担当しています。その後、文部大輔や法制関係官職を歴任し、1872には司法卿に就任しました。

 法律知識に富み、司法権の独立、警察制度の一元化、改定律例の制定、『民法草案』の翻訳・編纂などを行い、司法行政を確立しました。1873年には参議となっています。幕末から新政府誕生に至るまで、新しい日本を創るために尽力していたことがわかります。

 とくに秀でた業績を残したのが、司法領域でした。実は、この司法権独立問題や征韓論をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立し、下野することになったようです。下野した当初は、板垣退助らの民選議院設立建白書の署名運動に参加していましたが、佐賀に帰ると、征韓強行、欧化反対の反動士族の首魁となって、1874年に挙兵したというのが佐賀の乱の次第です(※ 江藤新平関係文書)。

 その江藤が最期の際になって、岩倉には是非とも言っておきたいことがあったのでしょう。

 同じように国のために命をかけて尽力し、新政府のために大きな業績を残してきた江藤新平でした。それにもかかわらず、岩倉らと対立したために、結局は刑死の憂き目に遭うことになったのです。

 鍋島が帰国した際には、すでにこの騒動は収まっていました。

■西洋風の貴族の在り方

 日本に帰国して早々、鍋島に、内命「西洋風ノ貴族風ヲ学フベシ」が下りました。今度は、「西洋風の貴族らしさを学び」、それを日本に持ち帰るようにというのが任務でした。当然のことながら、単身では用が果たせません。鍋島直大はこの時、胤子夫人同伴で再渡欧しています。

 ロンドンに着くと、鍋島は学び、英国を中心に各地を巡遊して貴族たちと交流する一方、「プリンス・ナベシマ」として社交界でも活躍しました。近代国家として体裁を整えるには、これまで武士であった鍋島も社交を学び、洗練された立ち居振る舞いを学ばなければなりませんでした。

 もっとも、オックスフォード大学で文学を学び、研究していた鍋島にとって、この任務は適任だったかもしれません。次第に、西洋の社交術を身につけ、国際感覚を肌に沁み込ませていきました。

 1878年6月12日に再び、帰国の途に着きましたが、滞在中に、ロンドンで撮影された夫妻の写真があります。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 この写真を見ると、まだ洋服が馴染んでいないように思えます。いかにも借り物の服を着ているように見えますが、西洋文化、とくに西洋風の貴族の在り方を学ぼうとする気概だけは感じられます。

 帰国すると、鍋島は、翌1879年には外務省御用掛となり、同年、渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会を設立しました。さらに、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社の設立などにも動いています。イギリスで得た知識や経験を踏まえ、次々と、イギリス貴族が行っていた事業を立ち上げていました。

■東京地学協会と共同競馬会社の設立

 東京地学協会にしても、共同競馬会社にしても、イギリス貴族が行っていることをそのまま、鍋島は日本に持ち込んでいたのです。

 たとえば、イギリスでは1830年に王立地学学会が設立されています。選ばれたメンバーがインフォーマルな晩餐会を開催して、最近の科学的な問題や発想について議論する「ダイニングクラブ」として始まっていました。

 当初の活動は、アフリカ、インド、極地、中央アジアなどの探検などでした。いずれも植民地支配と密接に関連しています。いかにも7つの海を支配したイギリス貴族らしい、趣味と実益をかねたクラブといえます。

こちら → https://www.rgs.org/about/

 こういう組織が日本にも必要だと思ったのでしょう、鍋島は、帰国した翌年の1879年に、地学協会を設立しています。

こちら → http://www.geog.or.jp/profile.html

 こちらは当初、探検記や外国事情を掲載する年報を発行し、地学に関する情報を発信していましたが、1893年に地学会と合併したことによって、地学の専門学術誌としての「地学雑誌」を引き継ぐことになりました。以後、地学協会の活動も、「地」を「読み」、「地」から「学ぶ」専門学術の発展・継承に貢献することを目指し、現在に至っています。

 一方、競馬は、当初からイギリス貴族の娯楽とみられています。有名なアスコット競馬場に貴族たちが着飾って集まり、観戦する様子を、私は映画で見たことがあります。実は、このアスコット競馬場はアン王女(在位1702年から1714年)が創設し、保護してきた競馬場でした。

 競馬にはさまざまな面で、王室が関わることが多く、ジェームズⅠ世(在位1603年から1625年)は、ニューマーケットがイギリス競馬の中心地となる礎を築きましたし、チャールズⅡ世(在位1660年から1685年)は、自らが手綱を取ってレースで優勝したこともあります。イギリスの競馬は王室の保護奨励の下で発展してきたのです。(※ https://www.jra.go.jp/keiba/overseas/country/gbr/

 それを見倣って、鍋島は、1879年、徳大寺実則、寺島宗則らと、共同競馬会社(Union Race Club)を設立しました。皇族、華族、政府高官、高級将校、財界人らがメンバーになっいる組織で、いってみれば、競馬を主催する社交クラブでした。

 共同競馬会社が催す競馬は、外務卿井上馨の提唱する欧風化政策に沿って、屋外の鹿鳴館とも位置付けられていました。上野不忍池で春、秋に開催され、東京在住の上流階級が集う華やかな社交の場となっていました。

 運営は、メンバーからの会費と宮内省、農商務省、陸軍の支援で行われていましたが、馬券が発売されることはなく、財政的に行き詰って、1892年には解散しています。

 これらを見ると、西洋文化を移植しても、根付くものもあれば、根付かないものもあるということの一例といえます。

■イタリア特命全権大使

 日本で落ち着く間もなく、1880年3月8日に鍋島直大は、駐イタリア特命全権公使の辞令を受けます。ところが、3月30日に妻胤子が亡くなってしまいました。これではイタリアでの活動がスムーズに進みません。急遽、権大納言広橋胤保の娘、栄子との婚約を済ませたうえで、鍋島は一足先にローマへ赴きました。

 1881年4月、栄子の到着を待って、鍋島は日本公使館で結婚式を挙げています。栄子は最初、岩倉具視の長男である具義と結婚していましたが、先立たれていました。ですから、直大とはどちらも再婚同士のカップルでした。

 イタリア赴任時代の鍋島直大を描いた肖像画があります。

(※ 油彩、カンヴァス、132.5×84.3㎝、1881年、徴古館)

 駐イタリア特命全権公使として赴任していた鍋島直大に、書記官として随行していた百武兼行が描いた大礼服姿の立像です。

 『集書』の「公使館舞會ノ概略」には、「公使閣下大礼服ノ真像本年百武書記官ヲ暇毎ニ丹精ヲ凝シテ揮写セラレシ一大額ヲ掲ク」との記述があるそうです。この作品は、百武が公務の合間をぬって描いたことが分かります。

 額には鍋島家の家紋である杏葉紋が、上半分に彫り込まれ、右下隅には日本列島、左下隅にはイタリア半島が彫り込まれています。鍋島家と日本、イタリアが調和するよう、額縁がデザインされているのです。直大の肖像画を収めるのにふさわしい格式の高さが感じられます。

 顔の部分をもう少し、アップして見てみることにしましょう。

(※ 前掲、部分。)

 間近でみると、直大の面持ちはなんとも優雅で、繊細です。英国を中心とした貴族たちの社交界で、「プリンス・ナベシマ」と呼ばれていたというのもわかります。これなら、イタリアの社交界でも十分、通用するでしょう。穏やかでありながら、凛とした威厳もあります。

 実際、鍋島がイギリスで磨いてきた社交術は、イタリアの王室や貴族たちとの社交の場で発揮されていたようです。

 大阪大学特任講師のカルロ・エドアルド・ポッツィ(Carlo Edoardo Pozzi)氏は、イタリアに保管されている書簡や公文書、新聞記事などを渉猟し、鍋島直大が当時、どのような外交的な働きをしていたのかを検証しています。

 その結果、鍋島は、日本公使館で華麗な夜会を度々開催し、それがマスコミに取材され、新聞に取り上げられていたと記しています。イタリア人に対する日本の認知度を高めていたのです。

 さらに、イタリア王室や上流階級の人々から、「プリンチペ・ナベシマ」として人気を博していたと報告しています。

(※ 「駐イタリア日本特命全権公使鍋島直大と日伊関係史におけるその役割(1880-1882)」、『イタリア学会誌』、70巻、2020年、p120-121.)

 鍋島栄子の写真も見つかりました。

(※ 文化遺産オンライン。図をクリックすると、拡大します)

 いつ頃撮影されたものかはわかりませんが、当時の日本人には珍しく、洋服の着こなしがこなれています。社交的でドレスがよく似合い、人あしらいが上手な栄子は、イタリアでも評判になっていたともいわれています。

 夫妻ともども、「ヨーロッパの貴族風」をしっかりと身につけていたのでしょう。そういう点で、鍋島はまさに、新政府から与えられた任務を完了させていたのです。

■可視化された鹿鳴館外交

 帰国した直大は、宮中顧問官となって、皇室の典礼・儀式に関する諮問に応ずる任務に就きました。明治天皇に仕えて、厚い信頼を得る一方、外務卿井上馨が主導する欧化政策の旗振り役となって、活躍することになります。

 1883年7月に鹿鳴館が建設されると、西洋貴族の礼儀作法に詳しい直大と栄子夫妻は、賓客の接待に欠かせない存在になりました。イタリアで磨きをかけた社交術に加え、ダンスが得意な栄子は、陸奥宗光夫人の亮子や戸田夫人の極子とともに「鹿鳴館の華」と称えられています。

 楊洲周延が『貴顕舞踏の略図』の中で、鹿鳴館での舞踏会の様子を描いています。

 ご紹介しましょう。

(※ Wikimedia、1888年、個人蔵)

 男性たちの顔や服はほとんど同じに見えます。違いと言えば、せいぜい髭があるかないかという程度です。女性たちも顔つきやヘヤスタイルは似通っています。ところが、来ているドレスの色や生地、模様などは個性的で、とても華やかです。

 壁側では女性が二人、ハープシコードのようなものを弾いており、当時の日本人の日常とは別世界が創り出されています。西洋風の華やかさが随所に見られ、目を楽しませてくれますが、一般の人からは反感を買うかもしれません。

 彼女たちが着ているドレスはどれも、カラフルで、手の込んだ模様と色合いがとても印象的です。

 一見、華やかですが、見ているうちに、なんともいえず哀れに思えてきました。女性たちは豪華なドレスに身をつつみ、ダンスをしていますが、身の丈にあっておらず、いじらしく思えてきたのです。

 つい、この前までは着物を着て暮らしていたのが、思いっきり背伸びをして、洋風を気取っているとしか見えないのです。そこには健気さはありますが、楽しさは伝わってきません。ひょっとしたら、これは当時の日本を象徴しているのではないかという気がしてきます。

 この浮世絵には、井上馨の欧化政策がみごとなまでに視覚化されていました。

 興味深いことに、当時、日本にいたフランス人の挿絵画家ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860 – 1927)もまた、鹿鳴館の様子をいくつか描いています。『トバエ』(TÔBAÉ)第1号に掲載された絵をご紹介しましょう。

(※ 『トバエ』(TÔBAÉ)第1号、1887年)

 背の高い西洋人に対し、日本人女性がカーテシー(Curtsy)をしている姿が描かれています。カーテシーというのは、片足を引いて軽く膝を曲げる所作のことで、ヨーロッパの伝統的な挨拶の仕方です。女性が位の高い者に対して行いますが、男性は行いません。

 この日本人女性は、男性に向かってカーテシーをしているので、欧米の礼儀作法をわきまえていることはわかります。ただ、その所作が優雅ではなく、元々、背が低いのがさらに低く見え、卑屈に見えてしまいます。隣の男性も背が低く、二人とも身体の割に顔が大きいので、どちらかといえば、ぶざまに見えます。

 当時の鹿鳴館の様子を外国人の眼から見れば、このように見えたのでしょう。

 この絵は、欧米から見た当時の日本を象徴しているようにも見えます。当時の日本は、形式の模倣から西洋世界に溶け込もうとしていましたが、内実が伴わないので、そぐわず、浮いて見えるのです。

 それはさまざまな領域でいえることでしょう。西洋から移植しても、日本文化にそぐわなければ、根付かないのです。

■岩倉使節団の足跡

 それでは、岩倉使節団の足跡を、鍋島直大のケースから振り返って見ることにしましょう。

 条約改正交渉の準備および欧米の技術、文化、制度、社会を視察し、調査するため、岩倉使節団は欧米に派遣されました。その中に留学生として随行したのが鍋島直大でした。

 イギリス、オックスフォード大学で文学を学び、社交を通して、イギリス貴族の所作、振舞を身に着けました。次に赴任したイタリアでは、さらに社交術に磨きをかけ、王室や貴族、政府要人との懇意な関係を構築しました。鍋島は当時の日本では、欧米要人と交流できる数少ない逸材でした。

 一方、欧化政策の一環として鹿鳴館を建て、外国要人を招いて歓待しようとしたのが、外務卿井上馨でした。当時の日本は、関税自主権の回復、治外法権の撤廃など、不平等条約改正交渉の準備に取り組んでおり、日本が欧米と同じような近代国家だということを理解してもらう必要がありました。

 欧州貴族の社交術を知る鍋島夫妻は、当然のことながら、井上の提唱する鹿鳴館政策に協力しました。おかげで、日本の社交にも少しずつ洋風マナーが伝わっていきました。案外、外国要人も好感を抱いてくれていたかもしれません。少なくとも、日本人の必死さ加減は伝わったことでしょう。

 ところが、鹿鳴館などの井上の極端な欧化政策が、国内に強い反感を呼び、1887年には外務大臣を辞任せざるをえませんでした。1883年に始まった鹿鳴館時代はわずか4年で終了したのです。パフォーマンスが派手だったわりには、外交交渉にメリットがあったわけではなく、条約改正交渉の役にも立ちませんでした。

 岩倉使節団派遣に始まる不平等条約改正交渉は、その後も粘り強く続けられました。陸奥宗光が外務大臣だった1894年、日英通商航海条約を調印をし、領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復を締結しました。その後、他の14か国とも同じ内容の条約を調印しました。まずは治外法権の撤廃を実現することができたのです。

 1894年時点では、一部しか回復していなかった関税自主権ですが、小村寿太郎が外相だった1911年に完全に回復しました。差別的関税を撤廃する権利を獲得したのです。

 これでようやく、日本が対等に欧米に立ち向かっていける環境が整備されました。

 使節団にまつわるエピソードをいくつかみていくと、岩倉使節団の派遣そのものが何人もの逸材を生み出していることがわかります。欧米とのさまざまな交流を通して、日本人の能力が涵養され、やがて、日本のために貢献することができるようになっているのです。

 その好例を、今回、ご紹介した鍋島直大のケースに見ることができます。新政府が英断を下し、多数の意欲ある逸材を派遣したからにほかなりません。(2023/5/31 香取淳子)

HYBEと“Dynamite”に見るK-POPの未来

■HYBE、巨大経済圏を構築か?

 2021年7月20日、日経新聞に「BTS事務所、1億人経済圏へ」というタイトルの記事が掲載されていました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO74027410Z10C21A7FFJ000/

 タイトルを見て興味を覚え、ざっと内容を読んでみました。K-POPの代表ともいえる「BTS(防弾少年団)」の所属事務所であるHYBEが「プラットフォーマー」への転換を急ぎ、オンライン上に1億人規模以上の巨大経済圏を築こうとしているというのです。

 すでに2020年12月期の決算で、HYBEの時価総額はK-POP業界の中で突出していました。


(2021年7月20日付日経新聞朝刊より)

 日本でも有名な「東方神起」や「少女時代」を抱えるSMエンターテイメントよりもはるかに高い時価総額をはじき出していたのです。売上高を見ると、そう大した違いはありませんが、営業益が抜群に高いのが注目されます。

 そもそも時価総額とは、株価に発行済株式数を掛けたもので、企業価値を評価する際の指標になっています。株価には、現在の業績だけではなく、将来の成長への期待が強く反映されますから、HYBEの企業方針、営業政策が今後のエンターテイメント界を牽引するものであることが示されているのです。

 それでは、先ほどの記事に戻ってみましょう。

 2020年はコロナ禍で最大の収益源であるライブの多くが中心になり、「公演売上高」は98%減にまで落ち込んだと書かれています。日本のエンターテイメント業界も同様でした。ところが、HYBEはそのような状況下でも増収増益を達成していたのです(上記の表を参照)。

 何故、そのようなことができたのでしょうか。

■Weverse(ウィバース)

 記事によると、それを誘導したのが、オンライン音楽配信、オンラインライブ、ファンクラブからの収益でした。そして、これらのネット上の顧客の接点となったのが、HYBEが自社で開発したウエブサービス「Weverse」でした。

こちら → https://www.weverse.io/?hl=ja

 Wikipediaを見ると、Weverse(ウィバース)は、HYBEとインターネット企業NAVERが共同出資したWeverse Companyによって開発された韓国のファンコミュニティプラットフォームだと説明されていました。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/Weverse

 初版は2019年6月10日にリリースされ、最新版は2021年5月30日に公開されています。OSはiOSかAndroidで、「Official for All Fans」をキャッチコピーに運営されているといいます。

 Weverse(ウィバース)は、アーティストとファンとの交流に特化し、ツィッター、インスタグラム、ユーチューブの機能を融合させた巨大なコミュニティサイトです。誰でも無料で利用できますから、文字や画像を通してファンとアーティストが直接交流できるのです。もちろん、有料コンテンツやメンバー限定のコンテンツ、グッズ販売などから収益を上げることが出来る仕組みです。

 英語、日本語、中国語、スペイン語、インドネシア語など多言語に対応しており、世界から約2700万人が利用しているそうです。HYBEはWeverse(ウィバース)をプラットフォームに、新たなK-POP業界のビジネスモデルを構築したのです。抜群の時価総額はこの画期的な事業展開が評価されてものでした。

 HYBEは、事業のさらなる拡大戦略を企図していました。

■買収

 先ほどの記事によれば、HYBEは韓国のネット大手ネイバーが運営するファンコミュニティサイト「V LIVE(ブイライブ)」を買収することを決め、HYBEに属していない人気アーティストの発信力を取り込む算段をしているそうです。

 これまでは競合関係にあったWeverse(ウィバース)とV LIVE(ブイライブ)が統合すれば、K-POP全体をカバーする会員数1億人規模にもなるプラットフォームが出来上がるという見通しなのです。

 Wikipediaによれば、V LIVE(ブイライブ)は韓国の動画配信サービスで、国内を拠点とする著名人がファンとのライブチャット、パフォーマンス、リアリティショーなどのライブ動画をインターネット上で放送することができるといいます。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/V_LIVE

 ストリーミング配信はオンラインか、iOSかAndroidのモバイル端末で、再生はPCで利用できるといいます。このサービスは2015年8月にリリースされ、NAVERが所有していました。ですから、HYBEとNAVERが共同出資してWeverse(ウィバース)を立ち上げた段階で、今回の統合が企図されていたことがわかります。

 V LIVE(ブイライブ)は、日本、中国、アメリカ、タイ、メキシコなど、15ヵ国に対応していました。Weverse(ウィバース)に統合すれば、さらに幅広い利用者を見込むことができます。

こちら → https://www.vlive.tv/home/chart?sub=VIDEO&period=HOUR_24&country=ALL

 そうなれば、幅広い利用者のニーズに応えられるアーティストの発掘が必要になってきます。HYBEはすでに2021年4月2日、米Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)を買収すると発表しています。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/79fce4fbf9f20148111086be196cd3982a5cd9ba

 Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)には、ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデなどが所属しています。いずれもK-POPの枠を超えた発信力の高いアーティストです。ジャスティン・ビーバーのSNSのフォロワー数は累計4億人を超えるといいますから、Weverse(ウィバース)は世界のエンターテイメント業界を席巻することになるでしょう。

 それほど稼ぎ頭のアーティストを抱えていながら、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)はなぜ、買収に応じたのでしょうか。

 調べてみると、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)は、HYBEはその画期的なシステムとキュレーションによって、所属アーティストをさらに飛躍させるための支援をしてくれると期待していることがわかりました。

 HYBEに参画することは、音楽業界そのものを革新し、大きく変えるチャンスに乗ることだと認識しているのです。グローバル市場を席捲し、開拓し続ける姿勢に感動したせいか、ブラウン自身はどうやら、HYBEの取締役に就任するようです。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/66906bbebe21daa9fda2c4d41ab4e457dcf3615e

 もちろん、プラットフォームに対応した新人アーティストの発掘も欠かせません。

■新人アーティストの発掘

 HYBEはさらに、世界最大の音楽企業である米ユニバーサル・ミュージック・グループと連携し、米国で新人を発掘し、育成を開始するため、米国でオーディション番組を制作する予定だそうです(※ 2021年7月20日、日経新聞)。

 ちなみに、米ユニバーサル・ミュージック・グループは、アーティストやソングライターを発掘、育成することを目的とした企業グループです。

こちら → https://www.universal-music.co.jp/about-umg/

 会長のルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)もまた、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のブラウン(Scooter Braun)と同様、HYBEが最も革新的でグローバルな音楽企業だと認識していました。「良い音楽は言語と文化の壁を超えることができる」といい、今回の連携によって、「音楽産業の歴史に一線を画すことができる」と自負しています。

こちら → https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2162579

 HYBEは、米ユニバーサル・ミュージック・グループとの連携によって、オーディション番組を通し、新しいK-POPボーイズグループのメンバーを選抜するといいます。現在、2022年の放送開始を目途に進められていますが、優れた資質を持つ人材を発掘し、アメリカ市場はもちろん、グローバル市場で活躍できるように育成するというのです。

 オーディション番組で選ばれると、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッションなどビジュアル面で磨き込まれ、グローバル市場のアーティストとして鍛えられていきます。ミュージックビデオ、ファンコミュニケーションなどが結合されたプラットフォームを舞台に、音楽を通して幅広く人々の気持ちを捉えられるアーティストに作り替えられていくのです。

■HYBEのビジネスモデルと企業文化

 興味深いのは、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)も、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)も、HYBEのシステムが今後のグローバル市場を狙う上で欠かせないと認識していることでした。

 コロナ禍で急速にオンライン化が進み、あらゆる企業が業態変化を迫られている中、唯一、確かな足取りで歩を進めているHYBEに未来のエンターテイメント業界のビジネスモデルを見出したからなのでしょう。

 HYBEの拡大戦略を進めているのが、創業者のバン・シニョク(房時赫)取締役会議長です。世界的な大ヒット集団BTS(防弾少年団)を育成したことで知られています。

 彼の新人発掘手法は、オーディションでアイドルの卵を選抜し、歌やダンス、外国語などを習得する準備期間を経てデビューといった過程を踏ませます。

 このようなアイドル育成過程は、米ハーバード・ビジネス・レビューの事例研究でも取り上げられたほど、各方面で注目されています。HYBEは、「アイドルを成功に導く方程式を確立している」と絶大な評価を受けているのです。

 たとえば、2020年3月、米Fast Companyが発表した「2020年世界で最も革新的な50社」には、HYBEがなんと、Snap、Microsoft、Teslaに次いで、4位に選ばれているのです。その理由として、コミュニケーションプラットフォーム(Weverse)とeコマースプラットフォーム(Weverse Shop)が挙げられています。

(※ https://www.fastcompany.com/90457458/big-hit-entertainment-most-innovative-companies-2020

 こうしてみてくると、HYBEが確立したプラットフォームが他の追随を許さないものであることがわかります。Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)や、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)が容易にHYBEに参画した理由がわかろうというものです。

 しかも、今後、エンターテイメント市場が大きくアジアにシフトしていくことは目に見えています。両社がHYBEに参画したのは経営者の判断として当然でした。アジア市場をはじめとするグローバル市場を席捲するには、HYBEとの連携が不可欠になっているのです。

 実際、HYBEは快進撃を続けていますが、それを牽引しているのが、創業者パン・シヒョクが育成したBTS(防弾少年団)でした。

 初めて英語の歌詞が付けられた楽曲だといわれる“Dynamite”を通して、BTSを見てみることにしましょう。

■“Dynamite”MVの再生回数が10億回を突破

 2021年4月13日、タワーレコード・オンラインニュースで、韓国BTS(防弾少年団)の’Dynamite’ MVの再生回数が10億回を突破したと報じられていました。

こちら → https://tower.jp/article/news/2021/04/13/tg005

 BTSはすでに、“DNA”(13億回)、“Boy with Luv”(11億回)で10億回以上の記録を出していますが、“Dynamite”もそれに続く大ヒットの様相をみせています。

 これは、2020年8月21日にデジタルシングルとして発売され、BTS としては初めてすべての歌詞が英語で書かれた楽曲です。

 すでにこの頃からHYBEが米市場をはじめ、グローバル市場を視野に入れた展開を試みていたことがわかります。果たして、“Dynamite”はどのような楽曲なのか、動画をいくつか見てみることにしましょう。

■BTS “Dynamite” official MV

 2020年9月26日に公開され、1億6904万3281回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分30秒のオフィシャル動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=BflFNMl_UWY

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 背景は明るいタッチのイラスト風に描かれたバスケットボールの練習用コートです。その前で、リズミカルな楽曲に合わせ、歌い、ダンスする7人のメンバーが、三角形で隊列を組んでいます。まもなく、6人が画面から消え、しばらくはメインボーカルがソロでダンスを披露します。時折クローズアップで映し出される顔には少年のような甘さが残っており、やや高い音声とマッチしています。


(ユーチューブ映像より)

 やがて向かって左から3人のメンバーが合流し、左側の眼鏡をかけメンバーがメインとなってダンスしているうちに、右側から3人が加わり、再び、7人で三角形の隊列が組まれます。その中からトップに躍り出てきたメンバーが中心となって歌い、ダンスを披露するといった展開です。次々と主役が移り変わり、メリハリの効いた構成になっていました。

 この曲の別バージョンのMVもありました。

■BTS ’Dynamite’@America’s Got Talent2020

  2020年10月22日に公開された動画は、7152万3776回(2021年7月31日時点)、再生されています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=e81ad5MpfQ0

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  これはメンバー個々人に焦点を当てて構成されたMVです。遊園地のような場所を背景に、7人のメンバーそれぞれが個性豊かな服装で、ダンスを披露します。遊園地内、屋上、モホークガソリンスタンドの前、さらには、車に乗り込み、その車内で、メンバーはそれぞれソロで、歌い、ダンスをしながら移動して行きます。

 それぞれの持ち味を活かしたシチュエーションが考えられ、パフォーマンスが工夫され快い見せ場が随所に設定されています。こうしてメンバーたちのソロダンスが終わると、7人のメンバーが揃って、三角形の布陣でダンスするといった展開です。ショートストーリー風に展開されていく構成が魅力的です。

 メンバーはそれぞれ、個性を活かした衣装を着用しています。


(ユーチューブ映像より)


 最後辺りになると、遊園地内の各所で白煙が勢いよく立ち上っていく仕掛けが施されています。ダイナマイトの象徴なのでしょうか。クライマックスを飾る仕掛けのようでした。

■BTS ’Dynamite’@Best Artist2020

 2020年11月25日に公開されたこの動画は、2159万1572回(2021年7月31日時点)、再生されていました。リリース後3カ月を経て制作されたこの動画には、ファンに向けたメッセージが加えられていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Rz3I0souiEw

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 このバージョンでは冒頭、ジョングクが右手を高く上げたのが印象的でした。カメラはその手をクローズアップで捉えています。


(ユーチューブ映像より)

 右手の指の関節の上には「ARMY」とペイントされ、薬指には「J」と記されています。メインボーカルのジョングクを示すイニシャルです。手の甲にはハートマーク、人差し指には王冠マークのようなものも描かれています。ファンに向けてのメッセージなのでしょう。きめ細かなファンサービスが感じられます。

 ペイントされた右手を高く掲げるシーンが、「ARMY」と呼ばれるファン組織を意識したパフォーマンスであることは明らかでした。

 このバージョンでもソロが終わると、左側から3人のメンバーが登場し、4人でパフォーマンスが行われますが、ここでも、それぞれ個性を活かしながら、アメリカを意識した衣装を着用しているのが印象的です。


(ユーチューブ映像より)

 さて、2020年8月21日に発売された“Dynamite”のMVを三種類見てきました。9月26日、10月22日、11月25日、ほぼ一カ月ごとに公開されたMVをご紹介してきました。いずれもダンス部分については変わりませんが、衣装や背景、小物といった道具立てについては大幅な変化が見られ、観客を飽きさせない工夫が凝らされていました。

 これらを見ていて、改めて、重要なパートを占めるのがダンスだということがわかりました。詳しく見ていくことにしましょう。

■“Dynamite”のダンス

 ダンスに焦点を当てた動画を見つけました。これを見ると、7人のメンバーが布陣を変化させながらダンスを披露していく様子がよくわかります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=CN4fffh7gmk

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 画面にはまず、ランダムにポーズを取る7人が登場します。やがてその中の一人が中央に出てきてステップを踏み始めると、その他の6人は両脇に移動し、画面から見えなくなります。ソロでダンスが披露されます。

 2,3秒もすると、向かって左側から3人が踊りながら出てきて、4人体制でダンスが展開されます。画面の左半分を使って4人がステップを踏んで一回転するころ、向かって右側から3人が登場し、7人体制でダンスが披露されます。

 先ほどとは違ったメンバーがトップになり、2列目に2人、3列目に4人といったふうに、三角形の布陣になります。向かって左端にいたメンバーが左に寄って、ソロステップを踏みます。その他のメンバーはバックアップ態勢となって、左端を頂点とした不完全な三角形を成形します。

■“Dynamite”振り付けの練習

 2021年6月4日に公開され、1546万1956回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分25秒の動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=WhDsAW1ZzZ8

  メンバー全員、上が白のTシャツ、下が水色あるいはブルーのGパンという姿です。服装をシンプルに統一したことで、動きがとてもわかりやすく、振り付け自体がショーとして組み立てられていることがわかります。

 もちろん、衣装は白かブルー系で統一されているとはいえ、髪の毛の色、靴の色、帽子を持っているか否か、眼鏡をかけているか否か、などファッション小物でメンバーの個性はしっかりと識別されています。


(上記ユーチューブ映像より)

 BTSのメンバー7人のうち、Jinはブラウンヘアに白いスニーカー、Sugaは黒髪に黒と白のスニーカー、J-Hopeは黒髪に黄色のスニーカー、RMはブルーヘアに黒のスニーカー、Jiminは黒いスニーカーに黒い帽子、Vはブラウンヘアにブラウンのスニーカー、ブラウンの帽子で、眼鏡をかけ、Jungkook(後ろ向き)は黒髪に底部がネオングリーンの白いスニーカー、といった具合です。

 統一感をかもしながらも、メンバーの個性に配慮したファッションが印象的でした。このグループの特性が見事に表現されています。スタジオでの練習風景のせいか、メンバーの顔には全般にリラックスした表情が見られます。

■“Dynamite”に見るK-POPの未来

 “Dynamite”はメロディがシンプルなので頭に残りやすく、テンポもいいので、よくできたTVCMのようなアディクション効果がありました。これを聞くと誰もが知らず知らずのうちに、身体を動かし、リズムに乗って、幸せな気分になっていきそうです。

 見る者の視聴覚に絶え間ない刺激を与え続け、条件反射的に心身の反応を喚起するように創り出されているからでしょう。

 音楽はシンプルなメロディが繰り返されます。そして、ダンスはそのようなシンプルな曲に合わせて、隊列を変え、7人からソロ、ソロから4人体制、7人体制といった具合に、メリハリをつけた構成になっています。

 ダンスをしながら、数秒ごとに隊列を変更して、布陣を変えていきます。三角形、不定形、台形、そして再び、三角形というように、目まぐるしく陣容を変え、個々のメンバーを引き立てながら、視覚的な動きの美しさを楽しめるような振り付けでした。

 センターを務めるメンバーも適宜、入れ替わり、7人のメンバーが一体となって変容を繰り返しながらパフォーマンスを展開していく様子は、まるで生きている構造体のように見えました。

 衣装も同様、7人のメンバーそれぞれの個性を活かしながらも、全体として何を伝えたいのか、明らかなコンセプトの下、構成されていました。見事なまでに、アーティストの個とグループ全体の調和を図りながら、見る者の視聴覚に快い刺激を与える工夫がされていたのです。

 そういえば、HYBEのアーティスト育成システムが、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッション、ファンとの関係などに留意したものであったことを思い出しました。

 ヒトの感覚を断片的に刺激しながら、条件反射的な刷り込みをしていく手法に、デジタル化社会との親和性を感じさせられました。HYBEの大成功を見ると、K-POP業界、さらには、世界のエンターテイメント業界は今後、このような方向でのコンテンツ制作、アーティストの育成に大きく傾いていくのでしょう。

 これでいいのかなという思いが、ふと、脳裏をよぎりました。(2021年7月31日、香取淳子)

萩城下町で見た江戸文化とそのエッセンス

■世界遺産に登録された萩市の遺産
 萩市と聞いても私はこれまで、萩焼か吉田松陰、高杉晋作ぐらいしか思いつきませんでした。ところが、今回、萩市を訪れることになり、調べてみると、なんと萩市にある建築物が5つも世界遺産に登録されていました。2015年7月、これら萩市の遺産を含む「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されていたのです。

 「明治日本の産業革命遺産」とは、九州・山口を中心にした8県11市におよぶ産業施設を主とした遺産群を指します。日本は非西欧圏で初めて産業国家として名乗りを上げました。その日本の近代化を支えた製鉄、製鋼、造船、石炭などの産業施設、あるいは、近代化に向けて、壮大な社会改革を実践した人々を偲ぶ建築群が、この世界遺産の対象となっています。

こちら →http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/meijinihon/index.html

 登録された23の資産のうち、萩市の遺産は、萩反射炉、恵美須ケ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾の5つです。

こちら →http://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h6085.html

 5月下旬、ふと思い立って、萩城下町と松下村塾を訪れてみました。最近、世界秩序が混沌とし始めてきました。東アジア情勢がきな臭くなり、不穏な雰囲気が漂い始めたので、あらためて明治維新のころを振り返ってみたくなったのです。

 訪れたのはいずれも、登録された萩市の遺産のうち、近代化に向けた意識改革を推進した人々を輩出したところです。幕末、明治期に萩市から、日本の国を大きく動かした人々が続出しています。いったい、なぜなのか。地政学的、歴史的、社会的要因などいろいろ考えられるでしょうが、まずは、現地を訪れてみようと思ったのです。

■萩の城下町
 萩の城下町は、阿武隈川から二手に分かれた橋本川(西側)と松本川(東側)に挟まれた三角州に造られました。関ケ原の戦いで敗れた毛利氏に与えられた領国は、交通が不便なだけではなく、町造りそのものも大変な場所でした。

 まず、海に面した指月山を背後に、萩城が築城されました。三角州の先端にありますが、地盤が固かったのと防御に適していたのでしょう。この萩城の周辺と寺が立ち並ぶ寺町一角だけは、地盤が比較的しっかりしていたといわれています。それ以外の場所は、三角州ですから、当時、屋敷一つを建てるにも地盤固めに相当、苦労したそうです。毛利氏に率いられて萩にやってきた人々は当初から逆境に立たされていたのです。

こちら →
(http://www.koutaro.name/machi/hagi.htmより。図をクリッすると拡大します。)

 世界遺産に登録されたのは、上記の図でいえば、二の丸、三の丸から平安総門に至る上級武士屋敷跡一帯と隣接した町屋の一部です。

 この城下町に一歩、足を踏み入れると、まるでタイムスリップしたかのように、江戸の街角が残っていました。長く続く土塀があるかと思えば、石積みの塀もあって、興趣をそそられます。往時の面影が至る所に残っていました。

 なかでも興味深かったのは、鍵曲(かいまがり)といわれている道づくりです。「鍵曲」とは、道の左右を高い塀で囲み、直角に(鍵のように)曲げるように作られた道をいいます。私は実際に、口羽家住宅近くの堀内鍵曲と、旧田中別邸近くの平安古鍵曲を歩いてみましたが、その一角に入ると、時間が止まったような、不思議な気分になります。

 上級武家屋敷のある一帯は、道の両側が長く伸びる瓦塀で挟まれていることが多いのですが、鍵曲がりに来ると、前方が塀でふさがれているので、前を見渡すことができず、迷路に迷い込んだような、不安な気持ちになってしまいます。前方と後方で挟み撃ちにされれば、逃げようがありませんから、思わず身構えてしまうのです。敵の侵入に備え、巧みな道路設計がなされていました。

 あらためて地図を見ると、堀内鍵曲は口羽家の近くありますが、この口羽家は毛利家一門です。また、平安古の鍵曲は旧田中別邸の近くにありますが、これもやはり毛利家の一門の右田毛利家の下屋敷跡です。こうしてみると、藩にとって重要な人物の屋敷はヒトで守られ、塀で守られ、そして、道路でも守られていたことがわかります。

■武家屋敷と夏みかん
 往時の人々の暮らしをあれこれ想像しながら歩いていると、どこからともなく、なんともいえない芳香が漂ってきました。見上げてみると、夏みかんが武家屋敷の塀瓦の上で鈴なりになっています。鮮やかな新緑の狭間から、まばゆいばかりの橙色をした夏みかんが瓦塀越しに、甘美な香りを辺り一面に放っていたのです。

こちら → 
(図をクリックすると拡大します。)

 毎年、この季節になると、旧田中別邸で「萩夏みかんまつり」が開催されます。今年は5月13日と14日でした。夏みかんは萩の名産ですが、その由来を聞いてますます、萩に親しみを覚えるようになりました。

 そもそも萩は江戸時代に毛利氏の城下町として栄えました。ところが、江戸末期、藩庁が山口に移転します。山陽道に出るにも、九州に出るにも、どう考えても萩は不利な地形だったからです。藩庁の移転を期に、重臣たちは萩を離れましたから、萩に残された士族たちは禄を失い、生活にも困るようになったそうです。

 そこで、明治9年(1876年)、旧萩藩士の小幡高政が中心となって、夏みかんを果物として栽培する事業に着手しました。もともと広大な武家屋敷には、夏みかんが植えられていました。栽培事業の素地はあったのです。しかも、夏みかんはそれほど手をかけなくても実ります。そこに着目した小幡らは夏みかんの栽培を組織的に行い、いわば地場産業として立ち上げたのです。精力的に取り組んだおかげで、10年ほどで大阪市場などに出荷され、高値で取引されるようになったといいます。

 江戸末期の藩庁の移転に続き、明治維新後は廃藩置県によって、広大な敷地を持つ上級武家屋敷から、主が立ち去ってしまいました。かつては政治経済の中心であった城下町にぽっかりと穴が開いたように、空き地ができてしまったのです。その空き地に次々と夏みかんが植えられました。

 上級武士屋敷は2000坪にも及ぶほど広大でしたから、植えられた夏みかんの木も膨大でした。1900年前後の生産額は当時の萩町の年間予算の8倍にもなったといいます。小幡高政の目論見通り、残された士族をはじめとする人々の生活を賄う糧になったのです。夏みかんは萩の名産として、その後、数十年、繁栄を誇ります。夏みかん以外の柑橘類や他の果物が出回るようになる1970年代ごろまで、夏みかんは萩の主要な産業として経済を支えてきたといいます。

 武家屋敷の内側に夏みかんが植えられ、それが産業として一定期間継続してきました。ですから、武家屋敷の形状そのものにも大きな変化がもたらされることがなく、そのまま維持されてきました。その結果、萩の武家屋敷の敷地割はほぼ江戸時代のまま、現在に伝えられることになりました。

 さらに、武家屋敷の長く続く塀が維持されてきたおかげで、夏みかんの実は風から保護されてきました。上級武家屋敷を取り囲む土塀や石積み塀、長屋、長屋門がそのまま夏みかんの実を護る役割を果たしたのです。主がいなくなっても夏みかんのためにも塀を壊すわけにはいかず、はそのままの形状で保たれた結果、城下町特有の見事な景観が維持されてきたのです。

■菊屋住宅
 さらに歩みを進め、外堀から御成道沿いに歩いていくと、藩の御用達を勤めた豪商の菊屋住宅がありました。現存する大型の町屋としては最古のものだそうです。建築史上、極めて貴重な建物だとされており、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の五棟が国の重要文化財に指定されています。

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 ちょうど五月人形飾りが展示されていました。入口には「五月人超飾り特別公開」と書かれた張り紙が掲示されています。会期は4月12日~6月中旬です。

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 入ってみると、なるほど「特別公開」と銘打たれているだけあって、由緒ある品々なのでしょう、鎧、兜に武者人形、扇に太鼓、それぞれが豪華で、風格があります。

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 また、「滅消病悪」と書かれた書をもつ男性を描いた掛け軸の下、凛々しい武者と従者が飾られていました。子どもの無病息災を祈って飾られていることが一目瞭然です。

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 さらには、品のいい武者と従者、槍を持った若武者の人形なども飾られていました。人形の下には「源義家と従者」と書かれた紙が置いてありましたから、その謂れが気になりました。

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 源義家といえば、八幡太郎といわれた平安後期の武将で、源義経、頼朝などの先祖に当たります。それがなぜ、武者人形として五月の節句に飾られているのでしょうか。気になってきました。

 家に帰って調べてみると、源義家は武術に秀でた人物で、その武威は物の怪ですら退散させたほどだといわれていたそうです。さらに、義家の弓矢は魔除け、病除けとして白川上皇に献上されたともいわれています。当時は幅広く知れ渡った英雄だったのでしょう、たしかに、上品な顔をした武者人形を見ると、背に多数の弓矢を背負っています。武威の象徴として、この武者人形が作られていることがわかります。

 義家が祀られている東京都北区の平塚神社には御神徳として、勝ち運、病気平癒、開運厄除け、騎馬上達、武芸上達、立身出世、等々と書かれています。

こちら →http://hiratsuka-jinja.or.jp/matsukami/index.html

 端午の節句に男の子のお祝いとして飾るには恰好の歴史上の人物といえるでしょう。

 さて、私がもっとも惹きつけられたのが、向かって右側の「槍持ち若武者」です。アップして見てみることにしましょう。

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 現代ではもはや見かけることのできない顔立ちです。上品で奥ゆかしく、そして凛々しく、深い精神性すら感じさせられる知的な面持ちに感動してしまいました。大衆化社会の現代では、望むこともできない凛々しい顔立ちにしばらく見入ってしまいました。

 これは大正時代に製作された人形だそうですが、この顔立ちや姿形には海外との交流を絶って日本文化を熟成させてきた江戸時代の名残とそのエッセンスが感じられます。

■階層社会で育まれた文化
 1604年、毛利輝元の萩入国に従って、菊屋家は山口から萩に移りました。そして、城下の町造りに尽力して、呉服町に広大な屋敷を拝領したそうです。その後、代々、大年寄格に任命されており、この屋敷は度々、御上使の本陣に命ぜられたといいます。

 菊屋家の書院から庭を眺めると、左側に大きな平たい石が見えます。これは、お殿様がこの屋敷に立ち寄られたとき、駕籠を載せるために用意された石なのだそうです。

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 さらには、殿様が駕籠を降りてすぐ手を洗うための専用の手水石があり、もちろん、殿様専用の門があります。菊屋家住宅のリーフレットには、菊屋家の先祖代々、「我が家は私有であって然様でなし」といわれたと書かれていますが、たしかに、菊屋家の人々は代々、御用屋敷としての体面を保つことを重視して生活してこられたのでしょう。当時の主従関係が偲ばれます。 

 現在、公開されているのは約2000坪の敷地のうち、約3分の1だそうです。今、見ているだけでも相当広いのに、実際はいったい、どれほど広いのか。想像するだけで、菊屋家に対する毛利家の信頼が厚かったことが理解されます。

 菊屋家の人々は主に従って萩の繁栄に尽力してこられたのでしょう。海岸の名(菊ケ浜)にも、そして、通りの名(菊屋横町)にも、菊屋の名が残されています。たとえば、菊屋横町と命名された菊屋住宅の側の小路は、白いなまこ壁がまっすぐに伸びており、壮観です。まるで江戸時代の文化が凝縮されているような景観で、引き込まれます。

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■御成道をはさんで向か合う、二つの商家
 御成道をはさんで菊屋家の向かい側に、旧久保田家があります。江戸時代前期に建てられた菊屋家は、国指定の重要文化財ですが、江戸時代後期に建てられ、明治16年に大改修された旧久保田家は萩市指定の有形文化財です。いずれも繁栄を極めた商家で、保存状態もよく、特徴のある建物から往時の様子を偲ぶことができます。

 違いはといえば、菊屋家が毛利氏の萩入国に伴って移住し、上級武家屋敷に相当する敷地を拝領したのに対し、旧久保田家は幕末から明治にかけて建築された町家だということでしょう。

 菊屋家の場合、毛利家の信頼が厚く、本陣まで命じられていました。武士に準ずる待遇です。元はといえば、菊屋家の先祖が武士だったからでしょう。菊屋家の先祖は大内氏の時代には武士だったといわれています。それが大内氏が毛利元就に滅ぼされてのち、御用商人になったようです。そして、その孫の毛利輝元が関ケ原の戦いで破れた結果、領国を減じられ、萩に移住せざるをえなくなりました。徳川家康と並ぶ大名であった毛利氏が零落してしまったのです。

こちら →http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/mo_rekishi/

 菊屋家は零落した毛利氏に従って、萩に移住し、萩の町造りに尽力しました。御用商人として手厚く処遇され、2000坪にも及ぶ広大な敷地を与えられたのも当然といえるでしょう。

 一方、久保田家は初代が江戸後期に近江から萩に移り住んで呉服商を開いたそうです。二代目からは酒造業に転じたといわれています。その後、明治30年まで造り酒屋だったそうですから、こちらは生粋の商家だったのでしょう。

 こうしてみてくると、同じ商家とはいえ、その出自、歴史、毛利家との関わり方、家格の違いがあることがわかります。そのようなさまざまな違いがあるからでしょうか、両家に足を踏み入れたときの印象は大きく異なっていました。庭の規模、仕様が違っているのはもちろんのこと、展示された品々も異なっていたのです。

 ここでも五月人形が展示されていました。入口の「五月人形展」と書かれた紙には「開催中」と記されているだけで、会期は示されていませんでした。おそらく、菊屋家と同じ期間、開催されるのでしょう。

 段飾りにされた弓矢、立派な鎧兜が印象的です。

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 この鎧、兜は昭和のものです。これ以外にも数多くの五月人形が展示されていましたが、市民から寄贈されたものだということでした。

 旧久保田家で興味深かったのは、この灯籠です。灯籠を支えている部分が化石なのだそうです。繁栄した町家だからこそ入手できたのでしょう、滅多に見ることのできない貴重なものでした

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■五月人形に託されたもの
 菊屋家、旧久保田家のいずれの家でも、五月人形が飾られているのを見ました。端午の節句には鎧、兜、武者人形、従者などを飾って、子どもの健康や成長、出世が祈願されてきたことがわかります。端午の節句に鎧や兜を飾ることは、武家社会で生まれた風習なのだそうです。

 武家社会では、身の安全を願って神社にお参りをするとき、鎧や兜を奉納するしきたりがあったといわれています。鎧や兜は武将にとって自分の身を護る大切な道具であり、また、精神的なシンボルでもありました。

 江戸時代、武家政権が安定して以来、端午の節句は、家の後継ぎとして生まれた男の子が無事、成長していくことを祈り、一族の繁栄を願う重要な行事になったとされています。ですから、男の子の節句といわれる端午の節句にはまず、鎧や兜が飾られたのでしょう。

 一方、端午の節句に菖蒲湯に浸かるという風習も、江戸時代に定着したといわれています。

 香の強い菖蒲は中国では邪気を払う薬草とされています。それが日本に伝わって、春から夏にかけての端午の節句に、菖蒲湯に浸かるという風習が元々、日本にはあったそうです。それが江戸時代に定着したのは、おそらく、薬草である菖蒲(しょうぶ)が、「尚武」あるいは「勝負」と発音が同じだからでしょう。端午の節句に兜や鎧を飾るのと同様、菖蒲湯に入るのも、男の子の成長と出世を願う風習でした。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代の遺産といえるでしょう。

■江戸文化とそのエッセンス
 萩市の商家で五月人形展を見ました。鎧、兜に武者人形を飾る武家社会の風習が豪商に受け継がれ、今に至っています。私が見たのは、大正、昭和期に製作されたものでしたが、その頃はまだ男系長子相続制から派生した生活文化が根を張っていたのでしょう。

 それが今では、端午の節句は子どもの日として年中行事化されています。5月5日が近づくと、スーパーでは菖蒲の葉が売り出され、男の子であれ、女の子であれ、子どものいる家庭では、無病息災を願って菖蒲湯に入ります。

 薬草である菖蒲湯に浸かるという中国から伝わってきた風習に倣い、端午の節句、本来の「子どもの健康、安全、成長を願う」役割を取り戻しつつあるといえます。中国では、端午の節句には、子どもに「五毒肚兜」という特別の腹かけをさせて、安全と健康を祈願するそうです。

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 5月になると、寒さから解き放たれた子どもたちは戸外での遊びに興じ始めます。ところが、その時期、小動物たちも活発に活動を始めます。子どもたちが戸外で遊んでいるとき、それらの小動物に咬まれたり、刺されたりして、その毒素が体内に入り込む危険性があります。それを「五毒」として注意喚起しているのです。「五毒」とは、「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」を指すそうです。腹かけの由来を知ると、「五毒肚兜」は、とても理に適った子どものための行事だということがわかります。(詳細は、下記URLをご参照ください。)

こちら →
http://katori-atsuko.com/?news=%E3%80%8C%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A8%E5%8C%97%E4%BA%AC%EF%BD%9E18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%81%A8%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%EF%BD%9E%E3%80%8D%E5%B1%95%E3%81%8C%E9%96%8B%E5%82%AC

 ところが、日本の端午の節句は、五月人形を飾り、鯉のぼりをたてます。いずれも男の子の成長と出世を願っての行事です。子ども全般ではなく、もっぱら男の子の安全な成長と出世を祈願した行事だということが興味深いのですが、五月人形も鯉のぼりも菖蒲湯も、江戸時代に定着した風習だということを知ると、納得できます。武家政権が安定し、男系長子相続が定着した江戸時代だからこそ根付いた生活文化だったのです。

 その生活文化によって培われた誇り高い精神と、海を隔てて朝鮮半島を臨み、山陽道に出るにも、九州に出るにも不便な土地柄で育まれた逆境をバネとする精神が、吉田松陰を生み、高杉晋作を生み、その後継者たちを生んだのでしょう。

 海を隔てた広い世界の動きを察知する能力、西欧列強からの攻勢に備えた戦略的な動き、既存体制に歯向かって進む勇気、新しいものを貪欲に取り込む進取の気勢・・・。今回、コンパクトな萩の城下町を歩いてみて、その種の気概をもった人々が互いに共鳴しあって、果敢な行動に打って出た状況がよくわかるような気がしました。

 萩の城下町を歩き、松下村塾、高杉晋作生誕地などを訪れてみて、ヒトがその精神を十分に開花させ、思いもかけないほどの勇躍ができるのは、相互に意見を言い合える、進取の気性を持った人々から成る小さなコミュニティからではないかという気がしました。(2017/5/24 香取淳子)

回顧2015:ノーベル賞ダブル受賞に見る日本の生活文化

 今年もいよいよ残すところあと1日、悲喜こもごも、さまざまなことがありました。もっとも印象に残っているのが、大村智氏と梶田隆章氏のノーベル賞ダブル受賞です。このニュースに接したとき、近来になく、晴れやかで心豊かな気持ちになりました。十月初旬、立て続けに発表されたニュースに接したときの印象を思い起こし、お二人の業績を振り返ってみたいと思います。

■大村智氏の受賞
 2015年10月5日、北里大学特別栄誉教授の大村智氏がノーベル医学生理学賞を受賞したというニュースが飛び込んできました。スウェーデンのカロリンスカ研究所が2015年のノーベル医学生理学賞受賞者として、北里大学・大村智特別栄誉教授(80歳)、米ドリュー大学・ウィリアム・キャンベル博士(85歳)、中国中医学院・屠呦呦主席研究員(84歳)の三氏に決定したと発表したのです。

 さっそくネットで調べてみました。

 大村氏とキャンベル氏は「寄生虫によって引き起こされる感染症の治療に役立つ新薬Avermectinの発見」、屠氏は「マラリア治療に効果のある新薬Artemisininの発見」が評価され、受賞が決定されました。いずれも開発途上国で脅威となっている感染症対策に役立つ研究です。

こちら →http://www.nobelprizemedicine.org/

 カロリンスカ研究所が用意した報道用資料には、受賞対象となった三氏の研究内容が簡単に紹介されています。

こちら →
http://www.nobelprizemedicine.org/wp-content/uploads/2015/10/Press_ENG.pdf

 開発途上国では寄生虫によって引き起こされる感染症がいかに多いか、それによって人々がいかに壊滅的な打撃を受けているか。上記資料の世界地図を見ると、青色で示されている部分があります。いまだに多くの人々がこの種の感染症の脅威に晒されている地域です。

 大村氏が土壌細菌から発見してキャンベル氏が開発したアベルメクチン(Avermectin)、そして、屠氏が発見したアーテミシニン(Artemisinin)が、これらの地域でいかに多くの感染症患者を救ったか。いずれの場合も驚くほどの画期的な治療効果をあげているのです。

 報道用資料を見ると、カロリンスカ研究所はこれらの研究を「人類への計り知れない貢献」だとたたえています。まさに科学が膨大な数のヒトの命を救っているのです。今回の受賞者たちは科学の本来あるべき姿の一つを示したといえるでしょう。

■微生物の力
 5日夜、北里大学薬学部で大村智氏の記者会見が開かれました。驚いたことに、大村氏は受賞を喜びながらも、次のようにいわれたのです。

「私の仕事は微生物の力を借りているだけのもので、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、全て微生物がやっている仕事を勉強させていただいたりしながら、今日まで来てるというふうに思います。そういう意味で、本当に私がこのような賞をいただいていいのかなというのは感じます」
(http://thepage.jp/detail/20151007-00000001-wordleaf?page=2より)

 なんと謙虚なのでしょう、絶え間ない努力と研鑽の結果、手にしたノーベル賞であるにもかかわらず、このような反応を示されたのです。終始、穏やかな笑顔で臨まれる大村氏のテレビ会見を見て、私は驚いてしまいました。

 大村氏は、日本には微生物をうまく使いこなしてきた歴史がある一方で、人のため、世のために働くという伝統がある、そういう環境の中に生まれてきたことが今回の受賞につながったといわれました。自然と一体化した生活文化、人のために尽くすという生活規範、そのような生活環境の中で生まれ育ったことがノーベル賞受賞につながったといわれるのです。

 さらに、次のようにもいわれました。

「北里柴三郎先生、尊敬する科学者の1人なんですが、とにかく科学者というのは人のためにならなきゃ駄目だ。(中略)ですから人のために少しでもなんか役に立つことないかな、微生物の力を借りてなんかできないか、これを絶えず考えております。そういったことが今回の賞につながっているんじゃないかと思っています」(前掲URLより)

 大村氏は山梨大学を卒業後、定時制高校の先生をしながら東京理科大学大学院に入学し、修了後は母校の助手として研究者人生をスタートさせました。そして、その2年後、尊敬する北里柴三郎が設立した北里研究所に入所し、微生物の研究に打ち込みます。

 大村氏が山梨大学の助手時代に手掛けていたのはワインの研究でした。ワインをはじめ酒、納豆、味噌、醤油などの発行食品はヒトが微生物を有効に活用したものですが、一方で、腸チフス、赤痢、結核などヒトに悪影響を及ぼす微生物もあります。良いにしろ悪いにしろ、ヒトはこれまで微生物と深く関わり、共存して生きてきました。

 北里大学時代、大村氏は微生物が作る化合物を400種余り発見しました。その中の17種がヒトや動物の医薬品、あるいは、生化学研究用の重要な薬として実用化されているといわれます。まさに微生物の力を借りてヒトの生活向上に役立てているのです。

■日本の生活文化
 いくら効果があるといっても、開発途上国の人々に薬を飲ませるのは大変です。言語が多様で、服用する薬の適量を知るのに必要な体重計もありません。もちろん、医師や看護婦がいつも同行できるわけでもありません。そこで、大村氏は考えました。

 身長と体重とはほぼ比例するということを踏まえ、身長に応じて投与する錠数を区分するよう、集落の代表者に教えました。きわめて簡単な方法で誰にでも適切な量を投与できるようにしたというのです。大村智氏は画期的な新薬を開発したばかりか、このように、誰もが容易にその薬を使えるよう使用法にも工夫を凝らしたのです。

 大村氏は次のようにいったそうです。

「極めて安全な薬です。だから、医師でなくても、誰でも配ることができる。何回も飲むことで効果が出る薬がほとんどだが、この薬は年一回だけ飲めばよい」
(http://ghitfund.yahoo.co.jp/interview_04.htmlより)

 実際、このような方法を考案することによって、大村氏は劇的に感染症患者を減少させることに成功しました。単なる科学者ではなく、救済者としての面持ちさえ感じられます。

 大村氏の受賞記者会見からは、いまや消滅寸前の古き良き時代の日本の生活文化を感じさせられました。ヒトは目に見えないところでヒトや他の生物、自然界そのものと繋がっており、その繋がりの中で生かされています。

 私はすっかり忘れてしまっていましたが、かつて私たちは親世代から「ヒトのためになるように生きなさい」とよくいわれたものでした。そして、「情けは人の為ならず」ということも何度も聞かされました。ところが、いつの間にか、自分のために生きるのが当然のように思い、うまくいかなければ他人のせいにし、心満たされない日々を過ごすようになってしまっています。

 はたして、こんなことでいいのか・・・。

 大村氏の会見を見ていて、ふっとそんな思いに捉われてしまいました。ノーベル賞の受賞記者会見なのに、見ているうちに、思わず自分の生き方を振り返り、これでいいのかと反省させられてしまったのです。便利さと引き換えにヒトを支えてきた生活文化まで失いつつあるのではないかという気がしたのです。

 穏やかな笑顔で話される大村氏からは終始、不思議なオーラが放たれていました。

■梶田隆章氏の受賞
 翌日6日、東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞することがわかりました。この二日、立て続けにノーベル賞二部門での受賞が決まり、日本中が喜びに包まれました。今回も私はまずネットで受賞を知りました。

 6日夜、東京大学で梶田隆章氏の記者会見が開かれました。席上、梶田氏が次のようにいわれたのが強く印象に残っています。

「観測施設の『スーパーカミオカンデ』を建設したのは戸塚先生の功績であり、研究の代表者でもありました。ニュートリノに質量があることを証明したことについては、戸塚先生の功績が大きいと思います。もしも今も生きていたら共同で受賞したと思います」
(http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20151006/5485421.htmlより)

 ご自身の喜びとともに7年前にガンで亡くなった恩師の戸塚洋二氏の功績を称えられたのです。もちろん、2002年にノーベル物理賞を受賞された小柴昌俊氏の名前もあげられましたが、ノーベル賞受賞の記者会見という栄誉の場で、なによりもまず恩師戸塚氏の偉業を口にされたことに私は驚きました。偉業を我が物とせず、謙虚に先人を称える姿勢に感動したのです。

 ちなみに、スーパーカミオカンデとは、世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置のことで、1991年に建設が始まり、5年間にわたる建設期間を経たのち、1996年4月より観測が開始されました。(http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/より)

 梶田氏は次のようにもいわれました。

「自然現象が、非常にわれわれが観測しやすいようになっていてくれたおかげで発見できたので、本当にラッキーだと思っています」(前掲URLより)

 先人が素晴らしい研究環境を構築してくれたことに謝意を表明され、ご自身のことを梶田氏は「ラッキー」と表現されたのです。

 私はニュートリノのことも、スーパーカミオカンデのことも知りません。物理学のことはまったくわからないのですが、梶田氏の記者会見を見ていると、寝食を忘れるほどの努力を積み上げた結果、成し遂げることができた偉業であるにもかかわらず、自分を誇ることなく、あくまでも謙虚な姿勢で会見に臨まれたことに深く印象づけられました。

 もっとも、東京大学物理学科を卒業し、現在、東京大学大学院情報学環准教授の伊東乾氏は次のように書いています。

「今回の業績は、何千人という物理学徒の献身的な労苦によって達成されたものですが、もしその代表を選ぶなら、第一に名が挙がらねばならない人はノーベル賞を受けることができませんでした」
「戸塚洋二さん、この人こそ、ニュートリノ振動の観測で本当に汗を流し、足を棒にして働いた中心人物であり、同じ労苦を膨大な数の物理屋、技術者、協力者が惜しみなく提供して、宇宙の構造にとって最も本質的な成果の1つは得られました」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/print/44956より)

 東京大学、そして、物理学の事情をよく知る人物からすれば、梶田氏の謙虚な姿勢は当然だったのかもしれません。

 会見中、梶田氏の謙虚な姿勢は終始一貫、崩れませんでした。日ごろからそのようなお人柄だからなのでしょうか、あるいは、戸塚氏をはじめ先人の苦労を忘れることができないという思いからなのでしょうか。いずれにしても、穏やかな笑顔の背後に謙譲を美徳としたかつての日本文化を重ね合わせることができます。

■偉業の背後にある日本の生活文化
 大村氏といい梶田氏といい、歴史に残る偉業を成し遂げたというのに、この謙虚さはいったいどこから来るのでしょうか。

 受賞発表後の記者会見をそれぞれテレビで見たのですが、いずれの場合も見終えて心の底から嬉しく、なんともいえないさわやかな気分に満たされました。テレビ中継された大村氏、梶田氏の笑顔が実に素晴らしいのです。

 ヒトは年齢を重ねると、その来歴が顔に出るといわれます。お二人の笑顔にはなんの外連味もなく、ヒトの気持ちを和ませる優しさと温かさがにじみ出ていました。テレビ会見を見ていて、ノーベル賞を受賞されるほどの偉業に打たれたのはもちろんのこと、画面を通して伝わってくる笑顔の背後に垣間見えるお二人のお人柄にも感激したことを思い出します。

 そして、12月8日、ノーベル賞受賞式に臨まれるお二人はストックホルムの宿泊先で会見に臨まれ、ここでも素晴らしい笑顔を見せられました。

こちら →201512080013_001_m
西日本新聞2015年12月8日より。

 2015年、さまざまなことがありました。もっとも印象に残ったのが、ノーベル賞受賞者お二人の背後に見受けられた日本の生活文化でした。

 思い起こせば、かつて私たちは親世代から繰り返し、「ヒトのために」、「出しゃばらず、威張らず」、「地道にコツコツと」、というようなことを言われて育ってきました。それがいつの間にか、「ヒトを出し抜き」、「自分を強くアピール」、「機を見るに敏」であることが求められるようになってしまっています。その結果、ヒトは気持ちの安らぎを得にくくなり、心身の病に罹りやすくなっています。はたしてこれでいいのかという思いがつのります。

 一年を振り返ったとき、まず、思い出されたのが、ノーベル賞受賞者お二人の爽やかな印象でした。お二人の記者会見からはかつては全国津々浦々、いきわたっていた日本の生活文化が浮き彫りにされていました。今回のノーベル賞受賞者から垣間見える日本の生活文化を改めて、見直す必要があるのではないかと思いました。(2015/12/30 香取淳子)