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絵画

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑤:カイユボットと第2回印象派展

■画家への進路変更

 カイユボットの父親は、1866年1月15日ミロメニル通りとリスボン通りに面した角地に土地を購入しました。第二帝政時代に高級住宅地として開発された地区です。瀟洒な建物が完成したのが1866年11月で、カイユボットが18歳の時でした。

 その頃、カイユボットは父親の希望で法律家をめざし、フランスのエリート養成機関であるリセ・ルイ=ル=グランに通っていました。22歳で弁護士免許を取得しますが、その後、招集され普仏戦争に参加し、除隊してからは画家の道を目指すようになります。23歳の時でした。

 年譜をみると、24歳の時に父親とイタリアに旅行し、デ・ニッティスと交流を持った?」と書かれています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 調べてみると、デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis、1846 -1884)は、1864年にナポリの展覧会で賞を得てから1867年にパリに出て、画商と契約を結んでいました。ところが、気に染まず、再びイタリアに戻っていました。カイユボット親子と会った後、1872年に再び、パリに来て画家活動をしていたようです(※ Wikipedia)。

 パリではカフェ・ゲルボアを拠点に後に印象派を称される画家たちと交流を深め、とくにマネやカイユボット、ドガとは頻繁に会っていました。ドガが1874年にデ・ニッティスとカイユボットに第1回印象派展に出品するよう勧めたのは、このデ・ニッティスの家でした。(※ https://www.impressionism.nl/nittis-giuseppe-de/

 イタリア出身の新進画家デ・ニッティスは1846年生まれで、カイユボットは1848年生まれです。年齢の近い二人を引き合わせたのは、ひょっとしたら父親だったのかもしれません。画家への進路変更を知った父親はおそらく、カイユボットを後押しするつもりで多忙な中、イタリア旅行をしたのでしょう。

 一方、カイユボットは近所に住む実業家で画家のルアールとも知り合いでした。彼から紹介されたドガを通して、後に印象派と称されることになる画家たちとの交流が増えていきました。

 もちろん、第1回印象派展の開催に奔走するドガから出品を誘われました。先ほどいいましたように、デ・ニッティスの家で共に誘われたのです。

 ところが、カイユボットは断っています。前にも言ったように、官展に代表されるアカデミズムに未練があったのかもしれませんし、新しい絵画勢力の動きに同調しきれなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、1874年に開催された第1回印象派展にカイユボットは出品しませんでした。

 一方、ドガの親友であったアンリ・ルアール(Henri Rouart ,1833 – 1912)は、当時40歳で、しかも実業家でしたが、11点も出品しています。展覧会のために奔走するドガのためにひと肌脱いだのでしょう。

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)もまた、第1回印象派展の開催に尽力した画家の一人でしたが、その彼をカイユボットに紹介したのもルアールでした。実業家でありながら、有望な画家たちを次々とカイユボットに紹介していたのです。

 こうして画家を志して間もないのに、カイユボットはすでに、後に印象派と称されるようになる画家の多くと知り合っていました。

 イタリア人画家デ・ニッティスにしろ、13歳も年上のルアールにしろ、さまざまな画家との橋渡しをしてくれた人物はいずれも父親を介して知り合っていました。そこにカイユボットのひ弱さが感じられます。

 実は、父親はカイユボットが法律家になる道を用意していました。それに応えてエリート養成機関に通い、カイユボットは弁護士免許も取得しました。ところが、除隊後、彼は進路を変更し、画家を志望するようになります。それでも、父親はそれも受け入れ、カイユボットが画家になるための援助を惜しみませんでした。

 そのような頃、アカデミーに対抗する画家たちが、自分たちの手で展覧会を開催しようとしていました。中心になって動いていたのが、ドガ、モネ、ピサロ、ルノアールでした。当然、カイユボットもドガから出品を誘われました。ところが、まだどこにも発表したことのないカイユボットがせっかくの機会を断っているのです。

 なぜ、カイユボットは第1回印象派展に出品しなかったのでしょうか。

■父親の死

 当時、カイユボットが交流していたのは、受賞経験があり、批評家からなにがしか評価されていた画家たちでした。大した活動もしていない自分が同じ立場で出品できるわけがないとカイユボットが考えていたとしても不思議はありません。

 まだ一度も作品を公開したことがなく、受賞歴もないので、カイユボットは出品を躊躇したのかもしれないのです。確かに、これまでの経歴を振り返ってみれば、その可能性は考えられます。

 上流階級の息子として生まれ、庇護されて育ってきただけに、カイユボットは優しくひ弱で、打たれ弱く、批評家や観客からの批判を恐れた可能性も考えられます。いったん作品を公開すれば、画家の創作意図とはかけ離れた解釈がされ、想像もしなかった罵詈雑言を浴びせられることもあります。

 あるいは、その年に父親が亡くなったことが関係していたのかもしれません。

 実は、カイユボットの父親は1874年12月24日に亡くなっています。享年75歳でした。死因が何だったのかはわかりませんが、その頃、父親が衰弱していたのだとすれば、絵画を描く気にはなれなかったでしょう。仮に自信作があったとしても、出品しようという気持ちにもなれなかった可能性があります。

 第1回印象派展が開催されたのが、1874年4月15日から5月15日でした。

 父親の死はその8か月も後のことですから、病に臥せっていたのでなければ、父親のせいで彼が出品しなかったわけではないでしょう。

 こうしてみてくると、ドガから誘われても、第1回印象派展に出品しなかったのは、自信がなく、作品を公開する気持ちになれなかったからのように思えます。

 いずれにせよ、父親が亡くなった時、カイユボットはわずか26歳でした。

 これから画家としての人生が始まろうとするとき、父親がいなくなってしまったのです。それまで大切に庇護されてきただけに、大きな喪失感に苛まれたでしょうし、虚脱感にも襲われたでしょう。父親の死は確かに、彼の人生にとって大きな転機となりました。

 さらに大きな変化は、実業家であった父親の巨額の遺産を受け継いだことでした。

 画家として身を立てる前に、カイユボットは大富豪になってしまいました。とはいえ、彼はそれまでの生活形態を変えようとはしませんでした。父親の死後も弟のルネとともに、パリのミロメニル通りの家に住み続け、これまでと同じように、夏になれば、避暑のためにイエールで過ごしていました。

 父親の死が契機となったのでしょうか、カイユボットは真剣に絵と向き合うようになります。大きな喪失感を埋め、進むべき方向を探るには、とりあえず絵画を描くしかなかったのかもしれません。

 なによりもまず、父親の死を受け入れて悲しみを乗り越え、少しずつ生活を軌道に乗せていく必要がありました。それには、生きる目標を新たに設定し、突き進んでいくしかなかったのでしょう。

 そういう状況の中で仕上げたのが、《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet)です。

■《床の鉋かけ》の題材はどこから?

 《床の鉋かけ》は、床の鉋かけをする労働者の作業風景を題材とした作品です。実は、カイユボットのアトリエを自宅に増築する際、床を削り、鉋かけをする労働者たちの様子を描いたものでした。

 高級住宅地として開発されたミロメニル通り11番地とリスボン通り13番地の角地に、父親が建てた瀟洒な邸宅があります。そのリスボン通り側の右手に荷物用玄関上に、3階部分が増築されました。カイユボットが絵を描くためのアトリエです。ここは大きなひさし窓のあるアトリエとして使用され、別階段で行き来することができたといいます(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 このアトリエが完成したのが、1874年4月でした。この頃、カイユボットは画家として生きていこうとしていたのでしょう。増築してアトリエを作ることを決め、費用を出したのはもちろん、父親です。亡くなる8か月前のことでした。

 これだけでも、父親がカイユボットの画家への思いを受け入れ、そのためのあと押しをしていたことがわかります。

 それでは、《床の鉋かけ》を見ていくことにしましょう。

■《床の鉋かけ》(Les raboteurs de parquet、1875年)

 3人の男性が半裸になって、床に這いつくばり、床板を削っている様子が描かれています。木くずがカール状になって、周囲に散らばっており、リズミカルに作業が進んでいる様子が示されています。室内は薄暗く、ベランダから鈍く降り注ぐ陽光が、唯一の明かりです。


(油彩、カンヴァス、102×146㎝、1875年、Musée d’Orsay所蔵)

 ベランダ越しに射し込む陽光が、室内にそっと入り込み、その鈍い光が、床板の艶、労働者たちの背中や腕の筋肉の盛り上がりを、ことさらに強く印象づけています。

 実は、カイユボットは彼らが作業する様子をデッサンしていました。


(鉛筆、紙、48×31㎝、1875年、caillebotte.net蔵)

 男たちの三人三様の作業の様子が描かれています。実際に労働者たちの動きを観察しながら、デッサンをし、それを参考にして画面構成をしたのでしょう。

 それでは、油彩画作品と見比べてみましょう。動作からみると、デッサン上の男性は、画面では真ん中、デッサン右の男性は、画面では右、デッサン左の男性は画面では左に配置されていることがわかります。

 画面の真ん中と右の男性は明らかに、肩から腕、腕から手にかけての形態、そして、鉋を持つ手の動きなど、このデッサンを参考に描かれています。左の男性は必ずしもデッサンを踏まえたものとはいえません。鉋を持つ手の様子も実際の絵とは異なっています。

 おそらく、三人のバランスを考えた時、左側の男性の所作、形態を大幅に変更する必要があったのでしょう。

 なぜ、そうする必要があったのか、デッサンと実際の絵画とを比較し、カイユボットの意図を考えてみたいと思います。

■デッサンとの比較

 デッサンと実際の絵画を比較し、カイユボットがこの作品で何を描きたかったのかを把握したいと思います。そのため、デッサンの踏まえて描いたと思われる真ん中と右の男性、そして、デッサンとは異なった姿態で描かれている左の男性とを分けてみました。

 まず、真ん中と右の男性について、実際の絵を見ていきましょう。


(前掲。部分)

 二人ともデッサンとは鉋を持つ手の形態が同じです。違っているのは、腹部が薄く、背中に力点を置いて描かれていること、二人が会話をしながら作業を楽しそうに作業を進めていること、傍らにワインのボトルとグラスが置かれていること、等々です。

 二人とも三角筋。上腕、前腕の筋肉が盛り上がっている様子が描かれています。背中や腕の一部は、汗で光っているように見えるところがあります。この二人の姿態からは、身体を動かすことの喜びが感じられます。作業風景を描きながら、労働の辛さや過酷さは微塵も感じられません。

 それでは、デッサンとは異なった形態で描かれていた左の男性はどうでしょうか。


(前掲。部分)

 こちらは両手で鉋を持つのではなく、右手を伸ばして床材のうす皮をはぎ、左手は身体を支えるために膝の近くに置いています。真剣な表情で床を見つめ、作業を進めています。窓に近いところにいるせいか、室内に注ぎ込んだ外光が男性の顔や上半身をくっきりと際立たせています。

 この男性の場合、背中、上腕、前腕、そして、手の甲がはっきりと見えるように描かれています。とくに肩の僧帽筋、三角筋、背中から腹部にかけての広背筋、斜筋などが丁寧に描かれ、逞しさが強調されています。

■屈強な体躯に男性美を見たのか?

 カイユボットが思いを込めて描いたのは、この左側の男性だったのではないかという気がします。実際に観察してデッサンした状態とは大幅に異なり、理想形の男性の上半身を描いたのではないかという気がするのです。

 右の二人の男性は、前から見下ろす恰好で描いているので、描かれている身体部分は限られています。ところが、左の男性はやや斜めのポーズで距離を置いて描かれているので、上半身や顔を過不足なく表現されています。労働の辛さや疲労といったものは感じられず、身体を使うことの喜びが感じられます。

 作業する三人三様の姿態を捉えたこの作品には、ある種の美しさが感じられます。ひょっとしたら、カイユボットは半裸の労働者をこのような構図で描くことによって、筋肉質の男性美を描こうとしていたのかもしれません。

 いずれも若い男性で、優れた体躯の持ち主です。

 ふと思い出しました。

 カイユボットは1870年7月26日から数ヶ月間セーヌ県の機動憲兵隊(第八歩兵隊第七隊)に召集されました。その時の軍の記録に、「身長1m67cm、赤褐色の髪とまゆげ、グレーの瞳」と記されているといいます(※ http://caillebotte.net/blog/about-him/38)。

 カイユボットはどうやら身長が低かったようです。ひょっとしたら、これら三人の労働者たちに羨望を抱いていたのではないかという気がしてきました。よく見れば、三人とも似たような体躯で、似たような顔つきです。

 はっきりと描かれているのは左の男性ですが、半裸の作業風景を三人に分散して描くことによって、さまざまな身体部位の筋肉の動きを描きたかったのではないかという気がするのです。カイユボットが理想とする体躯を描くには三人三様の姿態が必要だったのでしょう。

■官展に出品し、落選

 カイユボットは《床の鉋かけ》を1875年のサロン・ド・パリ(官展)に出品しました。ところが、審査員から「低俗」と評されて落選してしまいました。1875年4月のことです。

 落選した理由は、労働者階級の人々が、半裸になって、床に膝まずき、仕事をしている様子を描いたことだといわれています。これらが審査員に衝撃を与え、「下品な題材」だとみなされたのです(* https://en.wikipedia.org/wiki/Les_raboteurs_de_parquet)。

 改めて、この作品を見ると、至近距離から見下ろす恰好でモチーフを捉える視点がなんとも斬新です。この時代にはありえないアングルでモチーフが捉えられ、画面に躍動感を与えています。このように近くから見下ろす視点で描かれているからこそ、床に膝まずいて作業する労働者たちの背中や腕の筋肉がごく自然に表現できているのです。

 彼らはズボンしか着用しておらず、上半身は裸です。だからこそ、背中や腕の筋肉の盛り上がりを生き生きと描くことができているのですが、それが否定されました。まるで古代の英雄たちのように、筋肉質の身体が見事に浮き彫りにされていました。審査員はそのことをどう評価したのでしょうか。

 古代英雄の裸身を好んで題材にしてきたアカデミーが、労働現場で鍛えあげた筋肉質の男性を描くことには嫌悪感を示し、低俗だと非難し、拒絶したのです。アカデミーのこの評価には偏見と矛盾を感じざるをえません。

 もちろん、男性が膝まずいた姿を捉えたことへの嫌悪感があったのかもしれません。労働者階級の作業風景を描いた作品だとはいえ、床に這いつくばっている姿勢は、男性ならではの威厳を棄損し、もっぱら鍛え抜かれた腕や背中ばかりを強く印象づけます。おそらく、そのことが、審査員たちに、「低俗」だという印象を与えてしまった大きな要因なのでしょう。

 審査員はおそらく全員が男性だったのではないかと思ますが、権威を棄損し、労働者階級をモチーフに男性美を描いたことが、審査員たちを不快にさせ、「低俗」という評価を下させたのではないかという気がします。

■落選後のカイユボット

 そのころ、カイユボットは、イタリア人画家デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)やその仲間たちと頻繁に会うようになっていました。デ・ニッティスは1874年の第1回印象派展に出品をしており、ボナの弟子であったベローやドガ、デブータン、マネらと親しくしていました。

 カイユボットが落選し、落ち込んでいることを知ったデブータンは、カイユボットの様子をデ・ニッティスに知らせました。彼はすぐさま、カイユボットを自宅に招待することを思いつき、ともに過ごしながら、官展に落選しても、その経験から学び、さらに素晴らしい絵を描けば、官展の審査員を見かえすことが出来ると慰めました。

 こうしてカイユボットは落選の痛手を少しずつ乗り越え、絵画に対するエネルギーに置き換えていきました。

 一方、カイユボットの落選を知ったルノワールとルアールは、1876年2月5日、カイユボットに手紙を出し、「官展ではなく、第2回印象派展に出品しないか」と誘いかけました。彼らは第2回印象派展の準備を進めていたのです。

 すでに画廊経営者のデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 – 1922)氏と契約を結び、もっとも大きな部屋を含む二室を借りることができたとその進捗状況を述べています。

 そして、「費用は出品者一人につき一口120フラン、2月25日までにデュラン・リュエル氏のところまで支払いにいくこと。オープンは3月20日、期間は一ヶ月、5点まで。もし参加の意思があるのなら早めに私達のうちのどちらかに返事を下さい。」と出品のための条件を記しました。(※ http://caillebotte.net/chronology/

 もちろん、カイユボットはこの誘いに応じました。官展に落選したことが、第2回印象派展に出品する直接のきっかけになったのです。

■第2回印象派展

 1876 年4月11日から5月9日まで、第 2 回印象派展がデュラン・リュエルの画廊で、開催されました。第 1 回印象派展は、批評家や一般の観客からかなり批判されましたが、ルノワールとモネは今後も続けて印象派展を開催したいと考えていました。画家にとって作品を公開できる場を確保することは不可欠でした。

 問題は資金繰りです。

 ちょうどその頃、彼らはカイユボットが官展に落選して落ち込んでいることを知りました。これ幸いとばかり、カイユボットに手紙を送り、彼を第2回印象派展に誘い込むことに成功しました。父親から莫大な遺産を受け継いだばかりのカイユボットは、単独で展覧会開催のための資金を提供しました。

 こうして第2回印象派展の開催にこぎつけることができたのです。

 ペルティエ通り( rue le Peletier)11番のデュラン・リュエルの画廊には、20人の画家たちの作品、約 252 点が展示されました。第1回印象派展とは違って、今回は、画家ごとにまとめて展示され、わかりやすい展示構成になっていました。

 カイユボットは、第 2 回印象派展開催のために莫大な資金を提供しただけではなく、絵画8 点を出品しました。この展覧会ではじめてカイユボットの作品が公開されたのです。

 展覧会hで、その中の一つ、官展に落選した《床の鉋かけ》(Les Raboteurs de Parquets)が評判になりました。

 話題になったもう一つの作品は、ドガの《綿花事務所》(A Cotton Office in New Orleans)です。この作品は、近代的な産業界の一端をテーマにし、アカデミックな画法を踏まえて描かれていました。

 美術評論家のデュランティ(Louis Edmond Duranty, 1833 – 1880)は、「新しい絵画」という論考の中で、ドガとカイユボットの作品を特に、「都市風俗を鋭いデッサン力で描写した」と賞賛しています(※ http://caillebotte.net/chronology/)。

 確かに、しっかりとしたデッサンに基づき、写実的に描かれた《床の鉋かけ》にはインパクトがありました。この作品についてはすでに紹介しましたので、翌年、同じ画題で描かれた、《床削り別版》をご紹介しましょう。

■《床の鉋かけ 別版》(Les raboteurs de parquet、1876年)

 同じ題材で描かれたとはいえ、1875年の作品と比べると、明らかに衝撃度が異なります。


(油彩、カンヴァス、80×100㎝、1876年、個人蔵)

 右手中央に、床に這いつくばって作業をしている中年男性、左奥に、足を投げ出しカンナをいじっている少年が配置されています。二人は窓際の壁と画面右端を結ぶ対角線上に描かれており、その対極になるのが、窓からの陽光を受けて輝く床です。かなり広いスペースを取ってあり、くっきりと床に映し出された窓の形が印象的です。

 床板の微妙な色の違いが丁寧に、描き分けられており、その質感が見事に捉えられています。カイユボットがきわめて写実的な画家であったことを改めて思い知らされました。

外の風景が、窓ガラス越しにぼんやりと描かれています。一方、窓から射し込む陽光は、磨き抜かれた床に窓の形をくっきりと描き出しています。リアルな窓と床に映し出された窓が垂直につながり、画面に不思議な空間を作り出しています。

 この作品で印象的なのは、この不思議な空間です。

 画面左上から手前までの、リアルな窓と床に映し出されたヴァーチャルな窓が縦のラインを創り出し、それが一種の光源として、働く二人の労働者の姿を照らし出す恰好になっています。

 床に力点を置いた構図にすることで、対角線のラインにレイアウトされた二人を活かすことができているのです。

 年齢の離れた二人は作業中に話し合うこともなく、それぞれ俯いて、ひたすら自身に与えられた仕事に没頭しています。労働者の典型を示そうとしているのでしょう。

 興味深いのは、描かれた労働者が、若い筋肉質の男性ではなく、中年男性と少年に変更されていたことでした。しかも、中年男性はシャツを着用して作業しており、いささかも裸身を見せてはいません。奥の方で座っている少年は、半裸ですが、腕も背中もまだ筋肉の付いていない幼い身体です。

 モチーフの選び方、描き方を見ると、同じ題材でありながら、明らかに、前年の作品を修正していることがわかります。《床の鉋かけ》では濃厚に滲み出ていたセクシュアルな要素が完全に除去されているのです。

 《床の鉋かけ》の落選理由として挙げられた「低俗」批判に対し、このように対応しているのです。前作に対する審査結果を踏まえた作品だといわざるをえません。

 この作品では、 《床の鉋かけ》 で見られたような独創性、意外性、吸引力といったものは希薄になっています。画面の衝撃度は弱められていますが、逆にいえば、それだけに、窓から射し込む陽光が床の上に創り出した空間の妙味と、幾何学的な画面構成が強く印象づけられます。

 両作品を見ていえるのは、カイユボットが写実性の高い画家であり、アカデミズムの技法を踏まえ、確かな画力をもっているということでした。

■独自の画風を育んだパリの邸宅

 上流階級の邸宅で働く職人を描いた二つの作品のうち、1875年に制作されたものには、モチーフに対するカイユボットの熱い思いが感じられます。半裸で作業する若い男性はいずれも筋骨隆々としており、産業革命時代の英雄にも見えます。

 そもそも労働者の作業を描いた作品はこの時期、極めてまれでした。アカデミックな技法を踏まえたうえで、独創的なアングルでモチーフを捉えたこの作品は、アカデミズムへの挑戦のようにも見えます。

 残念なことに、その果敢な挑戦心は落選という結果でへし折られました。翌年、描いた作品はその批判を踏まえて修正し、挑戦心を隠してしまっています。逆に際立って見えるのが、艶出しされた床です。その床が微妙な陽光の差し込みを反映し、豊かな空間を作り出していました。何気ない日常生活を見事に作品化した稀有な例といえるでしょう。

 二つの作品からは、確かなデッサン力、微妙な色調の差異に基づく肉付け丁寧な描きわけが際立っていることがわかります。カイユボットは、アカデミーが奨励した技術を完全に体得し、実践できていることが証明されました。レオン・ボナの下で学んだ写実的な手法を確実に身に着けていたのです。

 そればかりではありません。ドガやデ・ニッティスらとの交流を通してカイユボットは、自然光に対する感受性、大胆な遠近法などを身に着けていたこともわかりました。

 つまり、ここでご紹介した二つの作品からは、カイユボットが、レオン・ボナの下でアカデミックな技法を獲得したうえで、印象派をはじめ新しい潮流の画家たちのエッセンスも取り入れて、独自のスタイルを築き上げていたことが透けて見えるのです。

 カイユボットの独創性は、アカデミーが奨励した入念なデッサン、モデリング、正確な色調を理解し、その手法に基づいて描いたうえに、印象派ならではの大胆な遠近法、自然光に対する鋭い感覚などを取り入れて作品化したことだといえるでしょう。(2025/1/29 香取淳子)

「ノスタルジア」とは何か?

■「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展の開催

 東京都美術館で今、「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展が開催されています。開催期間は2024年11月16日から2025年1月8日までで、8人の画家の作品が、ギャラリーA、Cで展示されています。

 まず、展覧会のチラシをご紹介することにしましょう。

 チラシの表紙には、展示作品の一つ、《いつもの此の道》(芝康弘、2017年)が採用され、その上に8人の画家の名前と所属、その右に展覧会のタイトル「記憶のなかの景色」が記されています。

 該当部分を拡大してみましょう。

チラシ

 表紙の画面に採用された《いつもの此の道》は、多くの日本人から、「ノスタルジア」の感情を引き出す典型的な光景の一つといえるでしょう。かつてはどこでも見受けられた里山の風景の一環であり、人里と人が住まない自然との結節点でもあった風景です。

 柔らかな陽射しに照らされ、畔の草が輝き、木の葉が風にそよいでいます。右手に田んぼがあり、左手にため池があるような場所で、子どもたちが虫取りをしています。ひたすら虫を追ってきたのに、ふいに行方がわからなくなったのか、二人ともやや呆然として立ち尽くしています。

 はるか遠い子どものころ、見慣れた光景の一つです。自然の営みと隣り合わせで人々は暮らしており、子どもたちもまたそのような環境の中で遊び、学んでいた時代でした。

 柔らかな陽射しが、辺り一面を優しく包み込み、この風景そのものがまるでタイムカプセルに入れられてでもいるかのように見えます。あらためで、もはや二度と手に入れることのできない光景だということを強く認識させられます。心の奥底から、ふつふつとノスタルジーの感情が湧き上がってくるのを覚え、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 そういえば、この展覧会の開催趣旨は、8人の画家たちの作品を通して、ノスタルジアという複雑な感情が持っている意味と可能性を探るというものでした。

 果たして、絵画は見る者の心の奥底に潜む「ノスタルジア」の感情をどのように覚醒させ、喚起するのでしょうか。展示作品を通して、考えてみることにしたいと思います。

 私は12月7日に東京都美術館に出かけ、展示作品を鑑賞してきました。ところが、その後、風邪をひいて発熱が長引き、回復に時間がかかってしまいました。

 ここでは、発熱後3週間を経てもなお印象深く思えた作品を取り上げてみたいと思います。

■発熱3週間後もなお印象深い作品

 発熱3週間後も経てば、会場で鑑賞した時の印象はいつしか薄れ、引き続き、心を締め付けられるような思いにさせられた作品は以下の数点でした。

 《蓮田》(阿部達也、2021年)、《六月の詩》(芝康弘、2011年)、《epoch》一部(玉虫良次、2019‐2023)、《友》(近藤オリガ、2018年)、等々です。

 見てすぐに感情がかき立てられる作品もあれば、時間をかけて心に落ち、ゆっくりと発酵してから情感が湧き上がってくるような作品もありました。いずれも心が強く揺さぶられ、切ない気持ちにさせられる作品ばかりでした。

 これらの作品は、いくつかに分類することができますが、まずは、阿部達也氏の《蓮田(茨城県かすみがうら)》、そして、芝康弘氏の《六月の詩》から見ていくことにしましょう。いずれも画面がそのままストレートに見る者の情感を刺激する作品です。

 たとえば、《蓮田》の場合、風景そのものが巨大な感傷を誘う力を持ち合わせています。実際にこの光景を見たことがある者、そうでない者にも等しく、一定の感情を喚起させるだけの訴求力があります。

 また、《6月の詩》は、光景そのものがしみじみとした気持ちにさせてくれます。子どものころ、このような経験をした者はいるでしょうし、このような光景を見かけた者もいるでしょう。この光景は、ある年代以上の日本人にとっては共通して経験していた光景であり、普遍的なものでした。都市化が進む以前、どこでも身近に見られた光景であり、誰もが追体験できる光景だったのです。

 この作品から覚醒させられるのは、懐かしさであり、この光景がもたらす幸せの感覚でしょう。いずれももはや手に入れることのできないものです。

 それでは、風景や光景のどの要素が見る者に作用しているのでしょうか。

■風景や光景がもつ訴求力

 まず、阿部竜也氏の作品から見ていくことにしましょう。

●阿部達也氏《蓮田(茨城県かすみがうら)》

 阿部達也氏が出品された10作品のうち、私がもっともノスタルジーを感じさせられたのは、この作品でした。


(油彩、カンヴァス、50.0×72.2㎝、2021年、作家蔵)

 画面中ほどに地平線が設定されており、地平線近くは黄色がかった色で、そこから上は白い雲のようなものが空を覆い、上空に近づくと、青くなっています。地平線周辺が明るく輝いているのは、おそらく、立ち昇る朝陽のせいでしょう。

 地平線から手前は蓮田が広がり、どこまでも続く蓮田の水面に陽光がきらめいています。逆光のせいか、蓮の葉は黒っぽく描かれており、枯れているようにも見えます。広い蓮田に葉がまばらに散在しており、寂寥感が漂っています。

 見ているだけで、胸がしめつけられるような感傷を覚えさせられる光景でした。これまで蓮田を見たことがなかったにもかかわらず、私は、この作品を見て、深いノスタルジーを感じてしまったのです。

 おそらく、画面に透明感があり、寂寥感があったからでしょう。その透き通るような寂寞感に、私は心が打たれました。改めて、ノスタルジーには、透明感と寂寥感がつきものだということを感じさせられました。

 そして、思い出したのが、阿部氏が風景画を手掛けるきっかけとなったエピソードでした。

 阿部達也氏は、画家になりたてのころ、人物画を描いていましたが、やがて行き詰ってしまったそうです。そんな時、たまたま、携帯で夕日を撮影している女性を見かけ、啓示を得ました。図録の中で次のように述べています。

 「人が心を動かされるものは、どこか遠くや、自分の内面を底までさらわなくても、身近なところにいくらでもあったことに気づいたのです。それからの私の制作方針は、写真で撮ってきた風景を、なるべくそのままに、個人的感情を差し込まないように描くことになりました。(中略)みる人によってその人なりの感情を込めて見られるような、余白の大きな、広い絵を私は描きたいのです」(※ 図録『ノスタルジア、―記憶の中の景色』p.18)

 ご紹介した作品は、阿部氏が現地で写真を撮り、それをそのままカンヴァスに置き換えたものでした。もちろん、どのアングルで風景を捉えるのか、どの瞬間にシャッターを切るのか、一瞬を捉えた写真の中に、阿部氏の選択があり、世界観や美意識が反映されていることはいうまでもありません。

 この蓮田が阿部氏にとって既知の風景だったのかどうかわかりませんが、少なくとも、この瞬間の蓮田を美しいと感じられたのでしょう。

 そして、阿部氏がカンヴァスに描きとったこの作品を、私もまた美しいと思い、心を締め付けられるような気持ちになりました。感動が伝播する過程に立ち会うことができました。

 これこそ風景がもつ訴求力の一つなのでしょうし、ひょっとしたら、集合無意識のような反応の一つといえるものなのかもしれません。

 次に芝康弘氏の《六月の詩》を見てみましょう。

●芝康弘氏の《六月の詩》

 芝康弘氏が出品された7点のうち、私がもっともノスタルジーを感じたのは《六月の詩》でした。


(紙本彩色、162×162㎝、2011年、東京オベラシティアートギャラリー蔵)

 画面に吸い寄せられるように見てしまいました。子どものころ、経験したことがあるような光景であり、いつかどこかで見たことのあるような光景でもありました。画面を見ていると、いまにも子どもたちの話声が聞こえてきそうな気がします。

 子どもたちの衣服はもちろん、田んぼの稲や畔の草、どれも優しく丁寧に描かれています。柔らかく、周囲全体を包み込むような色調が、二度と戻ってこない過去をオブラートでくるんでいるように思えます。こちらは、心が締め付けられるというよりはむしろ懐かしく、幸福感を伴う追憶の気持ちで満たされます。

 透明感のある色調が、過ぎ去った時間の浄化を表し、そこはかとない寂寥感を生み出しています。このような風景も、このような子どもたちの遊びも、もはや二度と手に入れられないものになってしまっているのです。そのことに気づくと、一見、ほのぼのとして見えるこの作品に限りないノスタルジーを感じてしまいます。

 人は、刻々と変化する時間や空間を制御することもできないまま、「今」を生き、「今いる空間」を生きていることのむなしさを感じさせられます。

 阿部氏も、芝氏も描き方はきわめて写実的です。だからこそ、画面が直接的に見る者の気持ちに訴えかけることができたのでしょう。風景や光景そのものが抜群の訴求力を持っている場合、写実的に描くことこそが、見る者の気持ちを動かし、ノスタルジーの思いに耽らせることがわかります。

■奇妙な感覚を喚起させられた作品

 展示作品の中には、その前に立つと、奇妙な感覚に襲われざるをえない作品がありました。それが、「ノスタルジア」といえる感情なのかどうか、わかりませんが、なんとも不思議な感覚が喚起されます。

 たとえば、玉虫良次氏の《epoch》です。一つの壁面をほぼ占拠するほど巨大な作品でした。これまで見たこともない作品ですが、どこかで見たことがあるようにも思える作品です。

 巨大すぎて、ごく一部分しか、ご紹介できませんが、この作品の場合、一部も全体もその印象が大きく変わることはないように思えます。作品の一部は、全体であり、一部を知れば、全体を把握することができるような構造になっているからです。

 それでは、作品を見ていくことにしましょう。

●玉虫良次氏の《epoch》

 194×1590㎝の巨大な大きさの作品で、2019年から2023年にかけて制作されました。ここでは、その一部分をご紹介することにしましょう。


(油彩、カンヴァス、194×1590㎝の一部、2019‐2023年、作家蔵)

 手前と左中ほどに路面電車が走り、右手にそびえるビルからは、人が大勢、登ったり降りたりしています。バルコニーにも大勢の人々がいて、身を乗り出すようにして下を見ています。

 ビルから降りたすぐ先に、掲示板のようなものが設置されており、その前に人々が群がって覗き込んでいます。自治体か政府からなにかしら告知がされているのでしょう。このような光景を見ていると、日本ではなく、アジアのどこかの国の風景のように思えてきます。

 見渡すと、青と白のストライプの庇をつけた小さなお店が、あちこちにあります。店内にお客がほとんどいないお店もあれば、大勢のお客を待たせているお店もあります。人々の日常生活をささえる食品等を販売しているのでしょう。必要なものを買い、不必要なものは買わないという様子が見て取れます。

 街中に人があふれかえっていますが、おそらく、大勢の人々は生活に余裕がなく、その日暮らしなのでしょう。

 子どもを抱いた母親、荷車を引く男性、ただ、突っ立っているだけの子ども・・・、あらゆる人々の生活行動がすべて、この街中で再現されているかのような光景です。所々に、自転車が放置され、野良犬が佇み、群れた人々が街のあちこちで散見されます。

 彼らが何をしているのかといえば、掲示板を見つめ、人々の様子をうかがい、何をするというわけでもなく、ただ、群がっているだけでした。

 こうしてみてくると、作者は、ある時代の日本社会を描こうとしていたのではないかという気がしてきます。というのも、この作品には、アジアの街で見られるような、人々の群がりの中で生み出される体臭のようなものまでも描かれているからでした。

 たとえば、ご紹介した画面の手前部分を拡大してみましょう。


(※ 前掲一部分)

 ベランダにいる人々を描いたものなのでしょうか。人々がひしめきあっている様子が描かれています。互いに触れ合いそうなほど至近距離に、老若男女がいて、何をするわけでもなく、群がっているのです。しかも、彼らの顔は、老いも若きも男性も女性もみな、赤茶けた顔色で描かれています。

 ここには、汚れや体臭を気にすることもなく、必死に生きようとする人々が描かれています。ただひたすら生き抜くことを目指して日々、群れの中で暮らしていることがすぐにもわかるような絵柄です。

 このような光景は、いまではごく一部の世代の人々の記憶に残っているだけでしょう。貴重な光景であり、もはや二度と見ることのできない光景の一つといえるでしょう。

 玉虫氏は、自身の子どものころについて、次のように記しています。

 「旧中山道沿いにある小さな商店街、借家の用品雑貨店での立ち退きになるまでの10年位の日常生活、家が狭くてのんびりして居られず、暗くなるまで外で過ごし、親より近所にある色々な店の人々の中で育ったような気がする」(※ 前掲、p.94)

 いまでは、ここで描かれたような光景を二度と見ることはできないでしょう。ここで描かれているのは、戦後復興期の日本社会の一端であり、必死に生き延びようとする人々の強烈なエネルギーです。プライバシーや清潔感などいっこうに気にすることもなく、人々はひたすら時代の動きを把握し、貪欲に生きていこうとしていた時代でした。

 この作品からは街の匂い、当時の人々の体臭すら感じとることができます。もはや見ることはできず、経験することもできない時代の記憶が、この作品には表現されていました。

■特定の時間、空間と結びついた「ノスタルジア」の感情

 こうしてみてくると、「ノスタルジア」の感情は、特定の時間や時期、特定の場所に結び付いた風景であり、光景であり、状況だということがわかります。もはや二度と見ることができないという思いが、「ノスタルジア」の感情をさらに強化していることも理解できます。

 特定の「時空」と結びついた一回性の感情だからこそ、哀切感や寂寥感、哀惜感が付随し、複雑な情感を醸成するのでしょう。

 今回、ご紹介した《蓮田》にしても、《六月の詩》にしても、《epoch》にしても、それらの作品が喚起する「ノスタルジア」には、さまざまな情感が付随していました。そこには、作品と見る者との間に、目に見えない交流があり、その交流によって作品世界がさらに豊かなものになっていく過程も含まれています。

 絵画を発信源とする影響過程とでもいえるものが、会場内でループしていたといってもいいかもしれません。おそらく、主催者側が想定した展覧会の趣旨の射程距離はそのようなものだったのでしょう。

 ところが、会場の一角に、近藤オリガ氏の作品が展示されることによって、展覧会がさらに豊かなものになっていたような気がします。というのも、近藤オリガ氏の出品作品は一目で他の展示作品とはことなっていたからです。

 近藤オリガ氏の作品には、どれも清らかな透明感が漲っていました。この世のものとも思えない、清らかさ、無垢、そして、どこにも帰属しないことからくる解放感、時空の枠組みではとらえられない自由・・・、といったようなものが画面からあふれていたのです。

 作品の前に立つと、奇妙な感情が湧き上がってくるのが感じられます。捉えどころのない感情のようでいて、その実、どこかでしっかりと経験したことがあるようなデジャブ感もあります。

 近藤オリガ氏の一連の作品からは、それまでとはちがって、時空を超えた「ノスタルジア」とでもいえるような感情が喚起されたのです。

■時空を超えた「ノスタルジア」

 興味深いのは、近藤オリガ氏の作品です。展示作品6点のどれもが深い憂いと哀しみに満ちており、見る者の心を打ちます。題材は異なっても、魂の根源にまで洞察の及んだ画面が、時空を超えた世界に誘ってくれるからでしょう。

 できるだけ筆触を残さず、滑らかにリアルに描かれた幻想空間が、見る者の心の奥深くを刺激します。そこから派生した感覚を、「ノスタルジア」と表現していいのかどうかわかりませんが、少なくとも、哀切感、寂寥感は強く感じさせられました。

 一連の展示作品のうち、ことさらにその種の感情を刺激されたのが、近藤オリガ氏の《友》でした。

 ご紹介していくことにしましょう。

●近藤オリガ氏の《友》

 近藤オリガ氏の作品は6点、展示されていました。いずれも時空の軸がなく、無重力空間に存在しているような構成が印象的でした。なかでも、空間のレイアウトが独特で、印象に残ったのが、《友》でした。


(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2018年、作家蔵)

 遠方に連なる山並みに抱かれるように身を横たえ、静かにまどろむ子どもの姿が、画面中ほどに描かれています。子どもは片手をだらりと垂らし、意識なく眠っているように見えます。その下には犬が横たわり、まるで子どもを守る番犬のように、寝そべったまま鋭い眼光をこちらに向けています。

 この犬は、まさに、子どもにとって忠実な《友》でした。

 大空の雲間から漏れ出た光が、寝そべる子どもを照らし出した後、にらみつける犬をくっきりと浮き彫りにしています。本来なら、番犬は隠れて子どもを警護しているはずですが、ここでは、まるでスポットライトを当てられたかのように、その存在を露わにしています。

 犬が寝そべっているのは、子どもの真下です。まるで二段ベッドの上と下にそれぞれ居場所を作っているかのように見えます。もちろん、二段ベッドがあるわけではなく、床はおろか、壁すらもありません。

 とにかく奇妙な空間でした。

 はるか遠方に山並みが広がっており、雲間から陽光が射し込んでいます。それが大気を照らし、山を照らし、寝入っている子どもの顔や手足を照らし出しています。その明るさの余波を受けて、犬のいる空間の視認性が高くなっていることがわかります。

 興味深いことに、山並みを描いた遠景と、子どもと犬が描かれた近景との間に中景がありません。はるか遠くの山々を照らし出していた陽光が、いきなり、子どもの寝姿を照らし出すという非現実的な設定になっているのです。

 このように、画面上で距離の圧縮が行われる一方、壁や床といった居場所の基準となる要素が描かれていません。いってみれば、座標軸が省かれたところで、子どもがうたた寝をし、犬が寝そべっている姿が描かれているのです。

 座標軸が設定されていないせいか、子どもも犬も、無重力空間に浮いているように見えます。これまでに見たことのない光景であり、絵柄でした。それなのに、見ていると、心が締め付けられるような感情が湧き上がってきます。まさに、「ノスタルジア」といってもいいような感情でした。

 かつて経験したことのある光景でもなければ、見たことのある風景でもありません。それなのに、なぜ、心の奥深く、感情が刺激されたのでしょうか。

 ふと思いついて、図録から近藤オリガ氏の言葉を探してみました。何か手がかりを得られるのではないかと考えたからでした。

 近藤オリガ氏は、次のように記していました。

 「ノスタルジアは私にとってはタイムマシンです。幼き頃見ていた自然の風景、心の風景全てが記憶の底にあり、スイッチが入ると、マシンに乗って何時でも懐かしい記憶の世界に戻ることができます。例えば、玄関先に座って父を待つ自分や、両親と一緒に月を眺めている自分の姿も現れてきます」(※ 図録、前掲、pp95-96)

 それにしても不思議な空間でした。

 かつて見た光景ではなく、かつて生きた世界でもないのに、どういうわけか、ノスタルジーとでも表現できるような感覚が呼び覚まされるのです。見ているだけで切なく、愛おしく、そして、心が痛みます。

 描かれた世界が重力のない幻想空間だったということからは、ひょっとしたら、胎内空間へのノスタルジーが呼び覚まされたのかもしれせん。

 いずれにせよ、近藤オリガ氏の作品が加わることによって、この展覧会に豊かさが加味されました。「ノスタルジア」を喚起するものは決して、特定の場所や時間や時代と結びついたものだけではないことが明らかにされたのです。とても興味深い展覧会でした。(2024/12/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ④:第1回印象派展を批評家はどう見たか

■批評家から見た印象派の画家の作品

 第1回印象派展で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)から酷評されたのが、ピサロの作品、《白い霧》でした。アカデミズムの作品を見慣れてきた批評家にとっては耐えられないレベルだったのでしょう。

 果たして、どのような作品だったのでしょうか、今回はまず、この作品から見ていくことにしましょう。

●《白い霧》(Hoarfrost, 1873年)

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)は、第1回印象派展の開催に尽力した画家たちの一人で、当時、43歳でした。展覧会には、出品目録No.136からNo.140までの5点が展示されました。いずれも風景画ですが、その中の一つが、酷評されたこの作品です。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、オルセー美術館蔵)

 丘陵地にある畑に畝が幾筋も伸び、その上をうっすらと霜が降りている様子が描かれています。その畝の合間を縫うように、薪を背負って歩く農夫の後ろ姿が捉えられています。暖を取るための冬支度をしているのでしょう。

 画面全体を見渡すと、右手前以外は、畝の描き方、霜の描き方、いずれも雑で、何とも不自然に見えます。傾斜地の起伏を考慮せず、ただ太い線を引いただけの幾筋もの畝がいかにも稚拙なのです。しかも、この部分の霜もまた、地面全般に薄い白を重ねただけでした。

 これでは、ルイ・ルロワに貶されても、文句はいえないでしょう。

 もっとも、薪を背負って歩く農夫の姿が添えられたことで、画面からは、初冬を迎えた農村の生活の厳しさが伝わってきます。風景がとしては稚拙ですが、農夫を描くことによって、観客を誘い込む情感が、画面に生み出されたのです。

 さて、評論家のルイ・ルロワは、この作品に対する感想を、案内した観客と対話するという形式で表現しています。引用してみましょう。

 「ほら…深く耕された畝に霜が降りているのが見えるでしょう」

 「あの畝?あの霜?でも、汚れたキャンバスにパレットの削りかすを均一に置いたものです。頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」

 「そうかもしれません…でも印象は表現されています」

 (※ ジョン・リウォルド、三浦篤、坂上桂子訳、『印象派の歴史』、2019年、角川ソフィア文庫、pp.32-33)

 対話形式なので、否定のニュアンスは若干、弱められていますが、ルイ・ルロワのいうように、稚拙な表現であったことは疑いようもありません。彼は、案内した観客の言葉を引用しながら、「汚れたキャンバスにパレットの削りカスを均等にまき散らしたとしか見えない」と酷評しているのです。

 極めつけは、「頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」と評した上で、「でも、印象はそこにあります」と結論づけているところです。そのようなオチをつけなければ、当時はこの作品を評価することができなかったのでしょう。

 アカデミズムの技法を踏まえずに描かれた画面は、たしかに、前後、左右、上下がなく、捉えどころがありません。当時、西洋画の基本であった遠近法や透視図法も採用されておらず、筆触を消すための入念な仕上げも施されていませんでした。アカデミーの基準で評価できる作品ではなかったのです。

 これまでの判断基準を適用できないこの作品を見たとき、評論家ルイ・ルロワは、その捉えどころのなさの中にこそ「印象はある」と、揶揄するしかなかったといえます。

■当時の評価基準と第1回印象派展

 なにもピサロばかりではありません。第1回印象派展には、今では著名な多くの画家たちが出品していましたが、ほとんど評価されていませんでした。評論家や審査員たちはアカデミックでない作品をどう評価していいかわからず、ただ、絵画とみなせるか否かで判断していただけでした。

 たとえば、マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 – 1898)は、当時の審査員たちについて、「審査員は、これは絵画である、あれは絵画でないといっていればよい」と述べています(※ 前掲、p.46)。絵画の評価基準はそれほど混沌とした状況にあったのです。そして、印象派の画家の作品のほとんどは、「絵画ではない」という判断をくだされていました。

 そもそも、アカデミズムの支配から抜け出そうとして、制作活動を展開していたのが、第一回印象派展に出品した画家たちでした。当然のことながら、多くの批評家にとって彼らの作品は理解しがたく、戸惑い、困惑するしかありませんでした。

 その後、「印象派」という漠然とした呼び名で彼らが総称されたことで、一つの流れが生み出されました。アカデミズムではなく、新しい題材や表現を模索する画家たちの登場という流れです。

 まだ確かな方向性は見えてこないものの、未来を感じさせ、新しい時代の到来を予感させるものがありました。

 当時、アカデミズムの基準が盤石なものではなくなりはじめていましたが、新しい評価基準、評価視点はまだ定まっていませんでした。社会変動に伴い、美術界のヒエラルキーにも揺らぎが見え始めたころ、登場してきたのが、印象派として括られた画家たちでした。

 産業革命後、新興勢力が台頭してくるにつれ、美術市場にも変化が訪れていました。

 それまで顧客であった王族、貴族、富裕者層に加え、新たにブルジョワジー層が美術市場の顧客として浮上してきていたのです。進取の気性に富む彼らは、アカデミックな画法を堅苦しく思い、自由な視点で選ばれた題材、自由な画法で描かれた作品に注目しました。

 美術市場の裾野が広がるにつれ、反アカデミックな姿勢の画家たちの作品にも関心が寄せられるようになっていたのです。明らかに産業化に伴う時代の変化が、美術界にも押し寄せていました。

 とはいえ、サロンの力はもちろん、まだ絶大でした。

 たとえば、マネ( Édouard Manet, 1832 – 1883)は、ドガに誘われながらも、決してこの第1回印象派展に出品しようとしませんでした。それは、どうやらサロンに出品しなければ、画家として認められないと考えていたからだったようです。逆に、ドガに向かって、「一緒にサロンに出品しましょう。あなたなら、よい評価を受けますよ」とまでいっていたそうです(※ 前掲、p.27)。

■サロンの権威

 ナポレオン3世の第二帝政期にパリは大改造され、ヨーロッパ最先端の文化都市になっていました。それを象徴するように、サロンが社会的行事として定着しており、美術批評も盛んにおこなわれていました。

 それだけに、当時、画家として認められるには、サロン(Salon de Paris)に出品して評価されることが前提になっていました。

 サロンが絶対的な力を持つ状況下で、画家が作品を売ろうとすれば、サロンでの成功が不可欠でした。サロンの審査員から高評価を得る必要があったのです。

 ところが、サロンの審査委員のほとんどは、アカデミーの会員でした。審査員は、画家の間での選挙と行政による任命によって選ばれるシステムでしたが、どちらの場合も結局、アカデミー会員から選ばれることが多く、サロンの審査基準がアカデミーから逸れることはなかったのです。

 サロンの審査基準は、新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに基づくものでした。そして、そのような評価基準は一般の美術評論家はもちろん、観客にまで幅広く浸透していました。

 アカデミーに基づく審査基準、そこから派生した絵画全般の評価基準に支えられ、サロンの権威はますます強化されていきました。当時の絵画観はサロンによって、形成されていたのです。

 そのような状況下で、第1回印象派が開催されたとしても、出品した画家たちの作品が高評価を得る可能性はほぼないに等しい状況でした。

 実際、それは展覧会への入場者数にみごとに反映されていました。同じ年に開催されたサロンは連日、大勢の観客でにぎわい、入場者数は40万人にも及びましたが、印象派展はわずか3500人程度でした。

■『落選展』よりひどい、『第1回印象派展』

 共和主義者の評論家たちは比較的、印象派の画家たちに好意的でしたが、それでも、「思い出すと必ず笑ってしまうほどの、あの有名な『落選者展』でさえ、カピュシーヌ大通りの展覧会に比べたらルーヴルのようなものだ」と評していました。

 『落選者展』とは、サロンに落選した作品を集めて展示した展覧会です。たいていの場合、1863年の展覧会を指しますが、これはナポレオン三世によって開催されたものです。

 第二帝政期以降のサロンは保守的な傾向を強め、1863年のサロンでは3000点以上の作品が落選しました。画家たちからの抗議が殺到したので、ナポレオン三世の発令で開催されたのが、『落選者展』です。ところが、多くの批評家や観衆は、サロンに落選した作品を見て嘲笑していたのです。

 その『落選者展』よりも「カピュシーヌ大通りの展覧会」(『第1回印象派展』)の方がひどいといっているのです。

 そんな中で、批評家のカスタニャリ(Jules-Antoine Castagnary, 1830 – 1888)は、印象派の画家たちを、どちらかといえば、客観的に評価していました。

 「彼らに共通の概念は、滑らかな絵肌の仕上げを求めずに、概略的な要素を示すだけで満足することである。ひとたび印象が把握されれば、彼らのするべきことは終わったことになる。(中略)彼らは、風景を表現しているのではなく、風景から得られる感覚を表現しているという意味において、印象派の画家といえるのである」(※ 前掲、p.50)

 こうして評論家たちは彼らを、次第に、「印象派」の画家として位置づけていくのですが、ドガはこう呼ばれることを嫌いました。というのも、当時、この言葉には嘲笑的なニュアンスが込められていたからでした。

 ちなみに、ドガは第1回印象派展の開催に力を尽くしており、親しくしていたルアールはもちろん、年若いカイユボットにも出品を勧めていました。この展覧会によって、アカデミズムにはない新機軸を打ち出そうとしていたのです。

 実は、ドガは手厳しい評論家たちからも比較的評価は高かったのです。

 それでは、ドガの作品は一体、どのようなものだったのか、見てみることにしましょう。

■第1回印象派展への出品作品、同時期の作品

 ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)は当時39歳で、10点出品していました。出品目録のNo54からNo63までがドガの出品作品です。これら10点のうち、デッサン画やパステル画を除いた作品のうち、Wikipediaで紹介されているのが、No57の《Blanchisseuse 》でした。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95

 ドガはこの時期、洗濯する女性を取り上げ、多くの作品を描いており、紛らわしいタイトルがいくつもありました。さらに、この作品のタイトルについては、日本版Wikipediaでは、女性定冠詞「la」が付けられ(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95)、出品目録では定冠詞がなく(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_%C5%93uvres_pr%C3%A9sent%C3%A9es_%C3%A0_la_premi%C3%A8re_exposition_impressionniste_de_1874)、フランス版Wikipediaでは、複数定冠詞「les」付けられていました(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Edgar_Degas#/media/Fichier:Edgar_Degas_-_Washerwomen_-_Google_Art_Project.jpg)。

 後の人々がこの作品のタイトルをどう扱えばいいのか迷った形跡がうかがえます。ここでは、日本版Wikipediaに従い、女性定冠詞の付いたタイトルを使います。

 それでは、ドガの作品《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)を見てみることにしましょう。

●ドガ、《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)

 非常に小さい作品です。最初、鏡に映った女性の姿を描いているのかと思いましたが、よく見ると、顔立ちから表情、手の位置まで異なっています。二人の女性が顔を寄せ合っている様子を描いたものでした。

(油彩、カンヴァス、21×15㎝、1870‐1872、アンドレ・マルロー近代美術館蔵)

 女性が二人、ともに目を伏せ、憂いに沈んでいるような表情を浮かべているのが印象的です。暗い表情のせいか、左の女性が頭から顎にかけて巻いている白い布は、包帯のように見えますし、右の女性の手は口元を手で押さえており、歯の痛みに苦しんでいるように思えます。

 タイトルは《洗濯女》ですが、洗濯するシーンは描かれておらず、女性たちの頭部に焦点が当てられているところがユニークです。辛く厳しい彼女たちの日常を、頭痛あるいは歯の痛みなど、頭部周辺の痛みに置き換え、象徴的に表現したとも考えられます。

 ドガはこの頃、洗濯する女性をモチーフに、いくつも作品を残していますが、いずれも上半身で作業をする姿が描かれており、このような構図の作品は見当たりません。おそらく彼女たちの心理に肉薄しようとしたのでしょう、至近距離で二人の顔面が描かれています。クローズアップで捉えた二人の構図が面白く、画面に込められたメッセージが気になります。

 そういえば、ドガは新興ブルジョワジーの出身で、1855年にエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)入学し、アングル派の画家ルイ・ラモート(Lois Ramote )に師事しました。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究しています。

 彼の経歴を見れば、明らかにアカデミーの教育を受けているのですが、第1回印象派展を開催した頃、手がけていた題材は、洗濯女や踊り子でした。ブルジョワ階級の出身でありながら、労働者階級の人々に深く心を寄せて、制作していたことがわかります。

 果たして、どのような観点から描こうとしていたのでしょうか。試みに、作品タイトルBlanchisseuseとEdgar Degasをキーワードに検索してみたところ、驚くほど多数の作品があがってきました。

 当時、ドガは洗濯する女性をどのように捉えていたのか把握するため、それらの中から一つ作品を取り上げ、ご紹介していきたいと思います。

 ここでは、第1回印象派展の開催(1874年)に近い、1873年に制作された作品《A Woman Ironing》を取り上げることにしたいと思います。

 この作品の出品時のタイトルは元々、《Une Blanchisseuse》(洗濯)でした。それが時を経て、そのまま、《Une Blanchisseuse》とするもの、あるいは、作品内容に合わせ、《La Repasseuse》とするもの、さらには、《A Woman Ironing》と英語表記で画面内容に合わせたもの、といった具合に三種類もありました。先ほどご紹介した《洗濯女》と同様です。

 Wikimedia Commonsでは、この作品のタイトルが《A Woman Ironing》になっていましたので、こちらのタイトルを使うことにしました。それでは、この作品を見てみることにしましょう。

●《アイロンがけをする女性》(A Woman Ironing)

 アイロンがけをする女性が逆光の中で捉えられています。


(油彩、カンヴァス、54.3×39.4㎝、1873年、メトロポリタン美術館蔵)

 窓から射し込む陽光が明るく反射して、アイロンがけをする手元やその周辺、壁面など辺り一帯が白く描かれています。その白さを覆うように、女性の頭上には、たくさんの衣類がぶら下がっており、アイロンがけの仕事がまだまだ続くことが示されています。この室内の様子で、いかに過酷な労働なのかが示されています。

 アカデミズムの画家からすれば、稚拙な表現に見えるかもしれませんが、ラフな色彩とタッチで描かれているからこそ、色調のコントラストが際立って見えます。この強いコントラストが、《工場の前のルアール》と同様、画面からメッセージ性を生み出しているのです。

 辺り一面を白く見せてしまうほど、強い陽光が窓から射し込み、アイロンがけをする女性は、逆光で暗く描かれています。全体に白っぽい画面の中、窓枠と女性だけが、黒褐色で描かれています。まさに、光と影が描かれているのです。

 このような色調のコントラストが、観客の想像力を刺激し、画面を魅力的なものに見せているといえるでしょう。

 《洗濯女》といい、《アイロンがけをする女性》といい、働く女性をモチーフに斬新な構図と色構成で捉えています。どこででも見かける日常の光景が、シャープな視点で切り取られ、作品化されているのです。さまざまな試みをしながら、新機軸を打ち出そうとしているのがわかります。

 ドガが従来のアカデミズムに収まりきらない画家であることは確かでした。もっとも、だからといって、印象派の画家として一括してしまうこともできません。

■反アカデミズムとしての第1回印象派展

 第1回印象派展は、さまざまなグループの画家たちが協調し、力を出し合って創設した展覧会でした。サロンとは別に、作品発表の場を設け、絵画の販売チャンネルを画家自らが持つためでした。サロンに認められず、生計を立てることのできない画家たちが危機感を覚え、発案した事業だったのです。

 画家自らが発表の場を設けることによって、サロン以外の評価基準による絵画の流通を目指しました。この展覧会は、いってみれば、画家自らが画策した、販売のためのインフラ整備でした。第1回印象派展の開催に尽力したのが、ルノワール、ピサロ、ドガでした。

 会期が終わり、ふたを開けてみれば、開催期間中に作品が売れたのは、シスレー、モネ、ルノワール、ピサロぐらいでした。主要メンバーのうち、ドガの作品には買い手がつかなかったのです。

 一部の批評家からは評価されていたにもかかわらず、ドガの作品は売れませんでした。おそらく、第1回印象派展に参加した批評家や観客たちの感性や美意識、絵画観にドガの作品がマッチしなかったからではないかという気がします。

 印象派は一般に、目の前にあるものを見たまま、即興で描くというイメージがあります。だからこそ、筆致が粗く、遠近感や立体感がなく、混沌として、稚拙に見えるのですが、ドガの作品にはそれがなく、むしろ思考の痕跡が見受けられます。

 今回、ご紹介した《洗濯女》にしても、《アイロンがけをする女性》にしても、印象派の画家が好む日常の生活光景を題材にしながら、その表現方法にはアカデミズムを踏まえた実験的要素があり、試行錯誤の後が見られます。

 ドガ自身も、「印象派」と呼ばれるのを好みませんでした。彼らとは違うという認識があったのでしょう。実際、1855年にエコール・デ・ボザールに入学してアングル派のルイ・ラモートに師事したばかりか、イタリアを訪れ、古典研究をしていました。美術に関し正規のアカデミズム教育を受けていたのです。

 改めてドガの作品を見直してみると、西洋絵画の基礎の上に、新しい時代の息吹を吹き込もうとしていたように思えます。産業革命を経て新興ブルジョワジーが台頭してきたように、封建体制に根付く新古典主義を乗り越え、独自の境地を開こうとしていたのです。

 ドガは、反アカデミズムという枠には収まりますが、印象派という枠には収まり切れませんでした。進取の気性に富み、テクノロジーを愛し、独自の境地を切り拓こうとした画家だったといえるかもしれません。

(2024/11/27 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ③:カイユボットの交友関係と第1回印象派展 

■カイユボットの交友関係

 カイユボットは画家になりたての頃、同窓だったジャン・ベローや、ミロメニル通りの近くに住んでいたアンリ・ルアール(Henri Rouart,1833 – 1912)と交流していました。ルアールはカイユボットより15歳も年長でしたが、近所に住んでいたので、親交を深めていたのでしょう。

 一方、ルアールは、ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)とはリセのクラスメートでした。リセを卒業すると、ルアールはエコール・ポリテクニークに進んでエンジニアとして働き、実業家になりましたが、ドガはエコール・デ・ボザールに進み、画家としてキャリアを築いています。進路は違っても、二人は生涯の友人でした。

 ドガがルアールを描いた作品があります。

●《工場の前のルアール》(Henri Rouart in Front of His Factory)

 経営する工場を背後に佇むルアールの上半身が描かれている作品です。

(油彩、カンヴァス、65×50㎝、1875年、カーネギー美術館蔵)

 まず、目に入るのがルアールの横顔です。シルクハットを被って、顎髭をたくわえ、いかにも実業家然としています。この時、ルアールは41歳、脂の乗った年齢です。なにか難題でも抱え込んでいたのでしょうか、一点を見つめ、身じろぎもせずに佇んでいる姿が印象的です。深刻な表情が気になります。

 工場につづく背後の道路、その脇の木立はすべて、黒褐色の濃淡で描かれています。手前から三分の二までの画面が暗い色調で覆われているのです。空さえもどんよりと曇り、まるでルアールの心情を反映させているかのようです。

 暗い画面の上部を横断するように、工場が描かれています。白い壁、赤い屋根の上に、淡いベージュ色の高い煙突がそびえるように立っています。画面が暗いだけに、工場の明るさが際立って見えます。その近代的な明るさが、産業化の象徴のように感じられます。

 稼働している工場は明るく描かれ、それ以外は暗い色調でまとめられています。画面の大部分を暗く描き、工場だけを明るく描いた色構成が、明暗のコントラストを強め、ルアールの苦悩を強調しているように思えます。そこにドガのこの作品に込めた表現意図が感じられるのです。ルアールの実業家としての一側面を、色彩の面からドガは見事に描ききったといえるでしょう。

 一方、ルアールの立ち姿は、画面右寄りにどっしりとした縦のラインを示し、重みを与えています。黒いシルクハットに平行して、淡いベージュの煙突が描かれ、縦のラインとなって画面上部に達しています。この二つのラインが、明暗のコントラストを保ちながら、画面を縦方向に安定させていることがわかります。

 さらに、道路にはパース線がいくつも引かれ、工場までの遠近感がしっかりと表現されています。これらのパース線は、手前から工場までの空間を、斜めのラインで整理し、暗い道路周辺の曖昧さを排除しています。

 パース線が到達している工場は、画面を横方向で安定させています。縦、横、斜めのラインで、画面全体を構造化し、調和をもたらしていることがわかります。ドガは、画面の色構成によってコントラストを強め、メッセージ性を高める一方、幾何学的な構図で、画面を構造的に安定させていたのです。

 この作品は、画面が幾何学的に構造化されており、産業化時代に重視された科学性が強調されているように思えます。さらに、顕著な明暗のコントラストは、産業化が格差を拡大していくことを示唆しているようにも感じられます。

 第二帝政時代、産業化の推進が奨励されていました。実業家は、時代を牽引する人々であり、近代性、先進性の象徴でもありました。その実業家であるルアールを、ドガは、彼の近代的な工場を背景に、幾何学的な構成で描きました。

 ドガはこの作品で、産業化のエッセンスを描こうとしていたのではないかと思います。

 一方、ルアールの暗い表情からは、財力があり、一見、華やかに見えるブルジョワジーにも、実業家ならではの苦悩と焦慮感があることが示唆されています。産業化を急いでいた時代だからこそ、見出されたテーマであり、問題点でした。ドガはそのエッセンスを、色彩と絶妙な画面構成によって、見事に描き切ったといえます。

■画家としてのルアール

 実業家ルアールは、画家としても活動しており、1868年から1872年まではサロン・ド・パリに出品していました。ドガに誘われ、1874年の「第1回印象派展」には11点も出展しています。

 どのような作品があるのか気になって、出品目録を見ると、確かに、No.148からNo.158まで作品11点が、アーティスト名ルアール(Henri Rouart)で出品されていました。(* https://en.wikipedia.org/wiki/First_Impressionist_Exhibition

 ところが、作品の詳細は記載されておらず、タイトル名と画家名が書かれているだけです。仕方なく、タイトル名を手掛かりにネットで調べてみました。出品した11作品中、唯一、ルアールの作品画像を入手できたのが、《Forêt》でした。

 それでは、作品を見てみましょう。

●《森》(Forêt)

 繊細なタッチの風景画です。一見して、印象派よりも古い時代の作品のように見えます。


(油彩、カンヴァス、59.5×73.2㎝、制作年不明、所蔵先不明)

 木の幹や枝葉、下草の描き方にアカデミズムの画法を見ることができます。いつ制作された作品なのかわかりませんが、少なくとも、印象派の画家たちの影響を受ける前の作品だと考えられます。

 木々の間から漏れる陽光が幹や枝をくっきりと照らし出し、葉を輝かせています。細部まで丁寧に描かれており、森のひそやかな息遣いが伝わってきます。下草には、木々の影が伸び、森の中の、光と影が織りなす調和のある美しさが捉えられています。光と影に着目して画面構成をしているところに、印象派との親和性が感じられます。

 ルアールは、この第1回印象派展だけではなく、その後も、印象派展には何度か出品しています。実業家でありながら、ルアールは画家としても活動していましたが、展覧会に出品しても受賞するわけでもなく、画家として評価されたということもありませんでした。

■パトロンとしての役割

 当時、絵を売って画家として生計を立てていくのは至難の業でした。貧困にあえぐ画家たちがなんと多数いたことか。実業家のルアールは、やがて、画家というよりはむしろ、パトロンの役割を担わされるようになっていきます。とくに印象派展に出品した画家たちの作品を購入することによって、彼らの生活を金銭的に支援するようになっていたのです。

 実は、ルアールの父親もカイユボットの父親と同様、軍服を製造販売する裕福な事業家でした。軍と結びついたブルジョワ階級でした。だからこそ、高級住宅地であるミロメニル通りに居を構えることができ、その財力に任せて、売れない画家たちの作品を購入することができたのです。

 ルアールが1912年に亡くなった後、印象派の画家たちの絵画が285点、それ以前の画家たちの作品77点が収集されていたことがわかりました(※ Wikipedia)。彼が購入していたのは、もっぱら印象派の画家たちの作品でした。

 さて、カイユボットは、近所に住んでいるという理由でルアールと付き合うようになりましたが、やがて、ルアールを通して知り合ったエドガー・ドガ(Edgar Degas,1834 – 1917)やジュゼッペ・デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)などとも親交を深めていくようになります。

 ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスらと交流するようになってから、カイユボットも印象派の画家たちとの交流が増えました。そのせいか、次第にアカデミズムとは距離を置くようになっていました。ところが、第1回印象派展には、ドガから誘われながらも、出品しませんでした。

 第1回印象派展は1874年に開催されています。1874年といえば、カイユボットの父親が亡くなった年でした。ひょっとしたら、展覧会への出品どころではなかったのかもしれません。

 そう思って、父親の亡くなった日を調べてみると、1874年12月24日でした(※ http://caillebotte.net/family/)。第1回印象派展の開催が1874年4月15日から5月15日ですから、カイユボットが出品しなかったことと、父親の死とは関係がなかったことがわかります。

 それでは、なぜ、カイユボットは出品しなかったのでしょうか。

 ドガから誘われてすぐ、出品するほど、カイユボットはまだ深く、印象派にコミットしていなかったのかもしれません。あるいは、サロンへの思いを捨てられなかったのかもしれませんし、第1回印象派展が評価の付けられない展覧会だったからかもしれません。いずれにしろ、カイユボットはドガやルアールから誘われても、出品しませんでした。

 それでは、第1回印象派展は、どのような経緯で開催されることになったのでしょうか。

 実は、開催当初、この展覧会は、「印象派展」という名称ではありませんでした。「画家、彫刻家、版画家等の協会」による「第一回展覧会」というタイトルだったのです。その後、「印象派展」と呼ばれるようになりますので、ここでは、「第1回印象派展」とさせていただきます。

 なぜ、「印象派展」と呼ばれるようになったのかについても触れながら、「第一回印象派展」を振り返ってみたいと思います。

■第1回印象派展

 第1回印象派展は、1874年4月15日から5月15日まで開催されました。のちに印象派と呼ばれる画家たちによる最初のグループ展でした。主なメンバーは、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾでした。

 元々、モネはサロンとは別に、画家たちが自費で展覧会を開催したいと考えていました。制限なく自由に、作品発表の場を設けたいという気持ちからでした。その考えに賛同する画家たちを組織化して会費を徴収し、芸術家の共同組合のようなものを設立しようとしていたのです。

 やがて、作品発表の場が限定されているのを嫌った画家たちが、モネの計画を受け入れるようになりましたが、組織化には難航しました。誰も経験がなかったからです。そんな中、ピサロは、当時、会員になっていた「歴史画家、風俗画家、彫刻家、版画家、建築家、素描家の協会」を参考に、基本的なプランを提案しました。

 ピサロの提案に基づき、株式、月々の賦払金、会社の定款、出資規定などを定めた株式会社が設立されました。会社名は、「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」です。設立認可は1873年12月27日で、ルノワールがその管理者になりました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、pp.19-23)。

 開催されたのはカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダール(本名=Félix Tournachon, 1820-1910)がアトリエとして使っていた場所でした。


(※ Wikipedia)

 入場料は1フランで、期間中の来場者数は3500人でした。この展覧会のカタログの写真がありましたので、ご紹介しましょう。


(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes

 「画家、彫刻家、版画家等の協会」が発行したカタログの表紙です。「第一回 展覧会」と大きく表題が書かれ、その下に、「1874」と発行年、「カピュシーヌ大通り35番地」と開催場所が書かれています。表紙のどこにも「印象派」という文字がありませんが、それは、当時はまだ印象派と命名されていなかったからでした。このカタログは0.5フランで販売されていました。

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)が出品した作品の中に、このカピュシーヌ大通りを描いた作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《カピュシーヌ大通り》(Boulevard des Capucines)

 モネはカピュシーヌ大通りを題材に、何点か制作していますが、これは第1回印象派展に出品された9点のうちの一つです。


(油彩、カンヴァス、60×80㎝、1873年、プーシキン美術館蔵)

 街路樹がそびえ、その下を大勢の人々が行き交う様子が俯瞰して描かれています。木々も建物も人々も粗いタッチで描かれており、一見、稚拙に見えますが、陽光の射し込む方向をしっかりと捉え、光の当たる部分と影になる部分が、色彩を微妙に使い分けて表現されています。だからこそ、情緒豊かな空間が表現されているようにも思えます。

 すぐ近くのビルのバルコニーからは男性が二人、身を乗り出して通りを眺めており、この通りの賑わいがよくわかります。

 この大通りの35番地で、第1回印象派展が開催されました。30名の画家たちが作品を165点、出品しました。

■開催に至る経緯

 第1回印象派展に参加した画家たちは、当時、学んだ画塾に基づき、いくつかのグループを形成していました。

 たとえば、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンなどは、シャルル・シュイスの開いた画塾のアカデミー・シュイスで学んだ仲間たちでした。

 また、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどは、シャルル・グレールの画塾で学んだ同窓でした。

 このように別々の画塾で学んだ画家たちを繋いだのが、モネでした。

 相互に交流するようになった画家たちはやがて、モンマルトルのバティニョール街(現、クリシー街)にあったカフェ・ゲルボア(Café Guerbois)に集まり、絵画について議論をするようになりました(※ Wikipedia)。

 その流れとは別に、マネは、落選展に出品した《草上の昼食》(1863年)が大きな物議をかもした後、1864年にバティニョール通り34番地の家に引っ越してきました。その頃から、彼もカフェ・ゲルボワに通うようになっていました。

 サロン・ド・パリに出品した《オランピア》(1865年)が再び、大きなスキャンダルになると、マネの周辺に、若い芸術家や文学者たちが多数集うようになりました。いつしか、マネのアトリエや、マネの通うカフェ・ゲルボアが、芸術家たちのたまり場になっていったのです。

 バティニョールのマネのアトリエに集った画家や文学者の姿を描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、204×273㎝、1870年、オルセー美術館蔵)

 これは、ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836 – 1904)が1870年に描いた作品で、タイトル名も《バティニョールのアトリエ》です。カンヴァスに向かって筆を執っているマネを中心に、ルノワール、モネ、バジール、ゾラなどが描かれています。画家や作家が集って芸術論を交わし、絵画を語り、文学を論じていた様子がうかがい知れます。

 活発な芸術談義が行われていたのは、なにもマネのアトリエに集まったバティニョール派の画家たちだけではありませんでした。さまざまな芸術家グループ、画家グループもまた、カフェ・ゲルボアに集って芸術論、絵画論を交わし、芸術行政を批判しては、自分たちの作品発表の場を模索していたのです。

■展覧会の開催と出品資格をめぐる論議

 普仏戦争後の1873年に、恐慌が起こり、それまでバティニョール派の画家をはじめ、後に「印象派」と呼ばれる画家たちを支援していた画商デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831- 1922)が、一時的にその支援を打ち切らざるをえなくなりました。バティニョール派やカフェ・ゲルボアに集っていた画家たちは、作品を販売する手がかりを失ってしまったのです(※ Wikipedia)。

 彼らは半ば必然的に、モネを中心に組織を作り、グループ主催の展覧会の開催を考え始めました。開催の大枠はほぼ固まってきたのですが、出品資格をめぐって論争が起こりました。多くの画家が、展覧会への参加はグループメンバーだけにした方がいいという意見でしたが、ドガは、グループの展覧会には、サロンで受賞経験のある画家たちも招待すべきだと主張したのです(※ 前掲)。

 ドガは、とくにマネを中心にしたグループの作品が、サロンの潮流から大きく逸脱していると認識していました。実際、マネの作品がスキャンダラスだとして世間を騒がせたことはまだ人々の記憶に新しい出来事でした。

 ドガは、グループメンバーだけに出品資格を限定すると、自分たちの作品までも民衆から非難されかねないと懸念していたのでしょう。実際、サロンに出品するような画家を交えておかなければ、せっかくの展覧会が、前衛的なものだと受け止められる可能性があったのです。

 それは、ドガにしてみれば、画家生命を脅かしかねない危険性を孕むことになります。だからこそ、サロン受賞経験者を招待するという体にするしかなかったのです。

 結局、ドガの提案はグループメンバーに受け入れられました。それは、参加資格を広げれば、一人当たりの出費が安くなるという経済的な理由からでした。こうして、サロンを無視することなく、不要な摩擦を避けて、展覧会が開催されることになったのです。

 興味深いことに、マネはこの第1回印象派展に出品しませんでした。どういうわけか、出品した画家のリストの中にマネの名前はありませんでした。展覧会への影響を恐れたのかどうかわかりませんが、結局、マネは出品しなかったのです。

 こうしてみてくると、カイユボットが、ドガから出品を誘われながらも、それを断った理由がわかるような気がします。

 それでは、「第1回印象派展」はどのような評価を受けていたのでしょうか。

■第1回印象派展の評価

 評論家のルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)は、風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』(英語版)紙に、軽蔑と悪意をこめて、第1回印象派展を、「印象主義の展覧会」と評しました。モネの作品タイトル、《印象、日の出》(Impression, soleil levant)をもじって命名したものでした(* https://arthive.com/publications/1812~Pictorial_Louis_Leroys_scathing_review_of_the_First_Exhibition_of_the_Impressionists)。

 以来、アカデミズムに対抗して展覧会を開催した画家グループは、「印象派」と呼ばれるようになります。

 モネの《印象、日の出》はいったい、どのような作品だったのでしょうか、見てみることにしましょう。

●《印象、日の出》(Impression, soleil levant)

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)は、第1回印象派展に9点の作品を出品していました。その中の1点が、《印象、日の出》です。32歳の時、故郷ル・アーブルの港の朝の景色を描いたものです。

 これは、モネが、幼少期を過ごしたル・アーブルの町に、妻と息子とともに滞在した時、描かれた作品です(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Impression,_soleil_levant)。


(油彩、カンヴァス、48×63㎝、1872年、マルモッタン、モネ美術館蔵)

 青みがかったグレーを基調に、港湾風景が描かれています。淡い色調の中で、空と海の境界も判然とせず、すべてが混然一体となった中、手前のボートと画面中ほどの太陽が、存在感を放っています。

 漠然とした曖昧で取り止めのない情景が、粗いタッチで描かれています。微妙な色使いや色調、柔らかなタッチには、イギリスの風景画家ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)の作品の影響がうかがえるといえなくもありませんが、ターナーほどのシャープさはなく、鮮烈さもありません。アカデミズムの技法を無視した作品でした。

 すべてが曖昧模糊としており、作品というよりも着想段階のイメージのように見えます。ルイ・ルロワがいうように、港を見て得た印象を描いているように見えるのです。アカデミズムの絵を見慣れた評論家や観客には理解しがたい作品だったのでしょう。

 この作品は、ルイ・ルロワから「印象主義」のレッテルを貼られました。これが、やがて、この展覧会に出品していた画家たちを指す言葉として定着し、アカデミズムから逸れた画家たちを指す「印象派」の命名由来となったのです。

■玉石混交?

 著名な批評家たちのほとんどがこの展覧会に対し沈黙していたといわれています。そんな中、好意的な展覧会評を書いた批評家もいました。

 たとえば、アルマン・シルヴェストル(Armand Silvestre, 1837-1901)です。彼は、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガなどの作品を賞賛し、あるいは、評価を保留しながらも、総じて、「この展覧会は見るに値する」と言っています。それでも、「サロンに入選したこともない誰にでも門戸を開放するのはよくない」と苦言を呈していました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、p.48-49)。

 中には才能を感じさせる作品もあったとはいえ、展示作品のレベルはまさに玉石混交だったと批判しているのです。この上は、展覧会としての水準を高める必要があるとし、せめて、出品資格をサロン入選者に限定すべきではないかと、シルヴェストルは述べていました。

 作品を鑑賞したくて来るのではなく、好奇心から来場する者が多く、作品を見て嘲笑する人もいれば、爆笑する人もいたといいます。サロンを訪れる人々の態度とは明らかに異なっていたのです(※ 前掲、p.47)。

 第1回印象派展に出品した画家のリストを見ると、展覧会の開催に尽力したモネ(9点出品)やルノワール(7点出品)、ドガ(10点出品)、ピサロ(5点出品)、ルアール(11点出品)などの名前が見られます(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes)。

 総入場者数は3,500人で、同じ頃に開催されたサロンの入場者数は40万人でした。初回なので周知されていなかったからかもしれませんが、サロンの入場者数に比べ、圧倒的に少なかったのです。

 ドガは、第1回印象派展の開催に際し、グループメンバーだけではなく、サロンの入賞経験者も招待すべきたと主張していました。その意見が通り、仲間内だけの展覧会にとどまらずにすみましたが、結果はサロンとは大きくかけ離れて少ない入場者数でした(※ 前掲)。 一般に知られていなかったというだけではなく、批評家たちから好評価を得られなったことも、来場者数の少なかったことの一因でした。

■「展覧会」事業としての結果はどうだったのか?

 展覧会に対する評価は、4週間以上に及んだ会期中の入場者数の推移に如実に反映されていました。初日は175人だったのが、最終日には54人にまで減っていました。中には2人しかいなかった日もあったそうですから、好奇心に駆られて訪れてはみたものの、好評価することができず、入場者数は次第に減っていったと考えられます。

 展覧会終了後、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir ,1841 – 1919)が、会計係であったオーギュスト・オッタン(Auguste-Louis-Marie Jenks Ottin、1811 – 1890)の協力を得て、収支報告書を作成したところ、総支出は9,272フランで、収入は10,221フランでした。収入の内訳は、入場料、カタログ販売、作品販売手数料、寄付金等です(※ 前掲、p.56)。

 かろうじて黒字にはなりましたが、大多数の画家の作品は売れず、年会費60フラン分を回収できませんでした。この展覧会は、当初の目論見とは違って、作品の販売チャネルにはならなかったのです。作品の発表機会の少ない画家にとって、重要な機能が果たされませんでした。

 この展覧会は、画家たちが共同出資した会社によって開催されており、作品の売却代金の10%を手数料として納めることが合意されていました。展覧会終了後の財務報告では、360フランが手数料収入として記録されており、その内訳は、シスレーが100フラン、モネが20フラン、ルノワールが18フラン、ピサロが13フラン、その他の画家からの手数料でした。ちなみに、展覧会開催に尽力したドガの作品はどういうわけか、全く売れていません。

 今では著名な作品も、当時は評価されていなかったのです。せっかく発表の場を自分たちの手で創設したというのに、批評家からも観客からも好評価を得られず、新しい息吹を人々の心に吹き込むことはできませんでした。

 もっとも、画家たちによって私的に運営される展覧会が開催されたことの意義はありました。一つは、画家自身が市場と向き合い、その厳しさを実感できる契機となったことであり、もう一つは、アカデミズム以外の様々なジャンルの絵画が、人々の目に触れるチャンスを作ったことでした。

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 二度、三度と繰り返し展覧会を開催するうちに、やがて、批評家の見方が変わり、人々の目が彼らの作品に向けられる時がくるでしょう。1874年、画家たちは重要な一歩を歩みはじめました。画家たちは、サロンや画商頼みの待ちの姿勢から、攻めの姿勢へと気持ちを変化させたのです。

 産業革命後の経済状況は激変しており、社会の各層でその対応が迫られていました。対応を誤れば、そのまま歴史の底に埋もれてしまいます。第二帝政時代、全権力を握ったナポレオン三世は、産業化を促進するため、次々と改革を進めました。

 諸改革の一つである新会社法は、商業活動を活性化するために制定されました。1867年7月24日のことでした。その6年後、画家たちは自身の手で会社を設立し、安定した作品発表の場を求めて展覧会を開催したのです。

 こうしてみてくると、第1回印象派展は画家たちにとって、新時代への対応策だったといえるでしょう。(2024/10/28 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ②:ブルジョワジーの台頭

 今回は、まず、ナポレオン三世の産業振興政策を振り返り、その後、カイユボット家がどのような社会階層に位置づけられていたのかをみていくことにしましょう。

■ナポレオン三世の産業振興政策とカイユボット家

 第二帝政期のフランスは、ナポレオン三世の産業振興政策が功を奏し、好景気に沸いていました。

 ナポレオ三世は皇帝の座に就くと、早々に、公共事業と銀行改革に着手しました。公共事業とは、鉄道建設、港湾や道路の整備、パリ大改造(都市改革事業)などです。いずれも産業振興策の一環として進められました。

 たとえば、鉄道は1850年から1870年にかけて、営業キロ数で6倍増にも達する勢いで敷設されました。鉄道が開通した結果、農業生産物や工業原料などの運搬が容易になり、沿線には、大規模な近代的な工場が次々と作られていきました。おかげで経済活動は活性化し、フランスもようやく産業化を推進するエンジンが回転しはじめました。

 そのような動きの中で、カイユボットの父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)が、イエールに別荘を購入しました。1860年でした。ちょうど鉄道が敷設されて、イエールに駅ができ、パリから容易に出かけられるようになった頃です。

 一家は夏になると、この別荘で過ごすようになります。建設ラッシュに沸くパリを離れ、自然の風景を楽しみながら、豊かな田園生活を味わうことができたのです。

 前回、ご紹介したように、この別荘は凝った建築で、内装も豪華でした。帝政様式といわれる様式美を備えたものでした。その瀟洒な建物を包み込むように、広大な敷地が広がっており、何とも贅沢な別荘でした。財力に恵まれ、そのような物件情報を入手できる立場にいたからこそ、購入できたのでしょう。

 カイユボットの父親は、軍服等の製造事業を継承していました。軍には軍服やシーツなど布製品を納入しており、豊かな事業経営者でした。しかも、セーヌ県商業裁判所の判事で、知識階級でした。実業家であり、裁判官でもあったのです。まさに、第二帝政を支えるエスタブリッシュメント側の一人でした。

 国力を増強し、産業化を積極的に推進しようとするナポレオン三世の治世下で、カイユボットの父は、軍に関わる事業を行う一方、商行為や商取引に関する法務に携わっていました。時代を動かす根幹で仕事をしていたのです。

 当時、フランスの金融は未発達のままで、産業化に対応できていませんでした。産業が発達するには、物資を運送のための鉄道網だけではなく、お金の流れをよくする商取引のための銀行の整備が不可欠でした。そこで、ナポレオン三世は新たに二種類の銀行を設立し、信用に基づく融資をしやすくしました。

 1852年には、一般大衆の余裕資金を集め、産業に投資するための事業銀行を新しく設立しました。さらに、中小商工業者に役立つような銀行も設立しました。次々と着手された銀行改革の結果、大衆の資金を預金の形で吸い上げ、産業や国債に投資できるようにしたのです。

 もちろん、信用融資を行うには、会社に関する法整備も不可欠でした。

 ナポレオン三世は、1867年7月24日に新会社法を制定しましたが、当時、この新会社法には欠陥がいくつか指摘されており、長くは持たないと予想されていました。ところが、その後100年にもわたって、この新会社法は持ちこたえることができたのです(* 梅津博道、「ナポレオン三世の経済改革」、『北陸大学紀要』第30号、2006年、pp.103-104)。

 多少、欠陥があったとしても、産業化社会の本質を踏まえ、さまざまな局面に対応できる内容だったからでしょう。

 このようにナポレオン三世は、銀行改革と会社法改革を断行しました。その結果、企業と銀行が円滑に機能するようになり、フランス経済が順調に発展していったとされています(* 前掲、pp.103-104)。

 ナポレオン三世は全権を掌握すると、着々とパリの大改造、交通インフラ、社会体制の整備、法の整備を進めました。その結果、停滞していたフランス経済は活性化し、国力も充実していきました。

 そのような第二帝政下で、カイユボットの父親は、軍服製造事業者であり、セーヌ県の商業裁判所の判事でした。事業収入による経済力を持ち、新しい社会に必要な専門知識を持つ知識階級の一員でした。

 王族でもなければ、貴族でもなく、軍人でもありませんが、財力と社会的地位を持ち、社会を動かすエスタブリッシュメント側にいました。カイユボット家は、産業化の進行とともに台頭してきた新興ブルジョワジーだったのです。

■資本主義システムのピラミッド

 1911年にアメリカで出版された興味深い風刺画があります。

(* Nedeljkovich, Brashich, & Kuharich, 1911, the Industrial Worker)

 資本主義システムの下での社会階層を描いた風刺画です。社会階層がピラミッド構造で形成されていることが、人物を通して具体的に示されています。この図は、1911年にアメリカの新聞“the Industrial Worker”に掲載されました。

 社会階層を5つに分類し、少数者が多数を支配する構造を示しています。上から順に、「あなた方を支配する」、「あなた方を騙す」、「あなた方を撃つ」、「あなた方のために飲食する」、「すべての人々のために働く」、「すべての人々のために食料を作る」と、階層ごとに、それぞれの社会における働きと位置づけが端的に記されています。

 王族など、ごく少数の支配階級を頂点に、人々の不平不満を鎮め、緩和する社会的装置としての聖職者層、反抗する人々を暴力的に鎮める軍人層、そして、産業化の進行とともに登場してきたのが新興ブルジョワジーです。図では、着飾った男女がテーブルを囲み、飲食を楽しむ光景が描かれています。

 当時はまだブルジョワジーの社会的役割がよく見えていなかったのでしょうか、享楽的で自己中心的な光景が描かれています。

 その下には、数多くの老若男女が、台座を辛そうに支えている姿が描かれています。スコップを持っている者がいれば、ハンマーを持つ者、旗を振る者もいます。女性たち、そして、子どもたちまで、台座が落ちてこないように、必死で支えています。

 ブルジョワジーが飲食を楽しむ台座の下で、実際に肉体を駆使して働き、食料を生産し、さまざま製品を作っている人々がいることがいることが示されているのです。大勢の人々が辛そうな表情を浮かべ、必死になって、台座をささえているのが印象的です。

 ふと見ると、その傍らには、子どもが倒れています。空腹だからでしょうか、それとも、病気なのでしょうか。大勢の人々の傍らに子どもが倒れているのです。ところが、ごく近くで子どもが倒れているというのに、誰も見向きもせず、必死になって台座を支えています。底辺を支える人々にとっては、自分が生きていくのに必死で、倒れている子どもなどかまっていられないという状況を描きたかったのでしょう。

 この作品は、1901年に帝政ロシア社会を描いた風刺画を参考に描かれたといわれています。

(* Nicolas Lokhoff, 1901, the Union of Russian Socialists)

 1911年のアメリカ風刺画と見比べてみると、それぞれの社会階層の捉え方は、ほぼ同じです。大きな違いといえば、ロシア版では黒い鷲であった頂点のシンボルが、アメリカ版ではドル袋になっていること、さらに、ロシア版では皇帝と皇后を最上位に、その下に行政機構のトップが3人描かれていますが、アメリカ版では君主を中心に、両側に貴族階級と行政のトップが描かれていることでした。

 鷲はロシア帝国のシンボルなので、権力の象徴として描いたのでしょうし、ドル袋は、アメリカ社会の金融至上主義を象徴するものとして描かれたのかもしれません。いずれにしても、社会構造が、少数が多数を支配するという仕組みとして捉えられていることに変わりはありません。

 興味深いのは、少数が多数の人々を支配するための社会的装置として、行政機構、聖職者、軍事組織が設定されていることでした。

 日々、身体を酷使して働き、食料や様々な製品を作りだし、実際に社会を維持しているのは大多数の労働者です。彼らが不満を抱き、反抗しないよう、このような社会的装置によって支配されていることが、図では一目瞭然です。

 実は、1901年のロシア版の元になった風刺画があります。

(* https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Pyramide_%C3%A0_renverser.jpg

 これは、ベルギーの労働党が、1900年の選挙運動中に、「Pyramide à renverser」(倒さなければならないピラミッド)というスローガンのもとで配布した風刺画です。

 やはり社会階層が5つに分類されています。上から順に、「王族」、「宗教主義」、「軍国主義」、「資本主義」と記されており、最下段に、「人民」と書かれています。社会構造を捉える構成は、アメリカ版やロシア版とほぼ同じですが、「王族」と「人民」以外は、社会階層をイデオロギーによって説明している点が異なっています。選挙運動中のスローガンとして描かれたせいでしょうか。

 イデオロギーで説明されているせいか、この図では、支配者層の力の源泉が、時代によって変化してきた過程が示されているようにも思えます。いつの世も、少数の支配階級が大多数の人民を支配するという構造は変わらないのですが、時代によって、中心となる支配力の源泉が変化することが示されているように思えるのです。

 歴史を振り返ると、宗教の力が優勢であった時代があれば、もっぱら武力によって社会秩序が維持されていた時代、そして、資本力が優勢になっていった時代へと、社会が変遷していった過程が描かれているように見えるのです。

 この図で「資本主義」と説明されている階層が、産業化の進行に伴い登場してきたブルジョワジーです。それまで支配者層であった聖職者や軍人とは違って、その役割を明確に示すことができなかったからでしょうか、この図では、太った男たちがタバコを吸い、グラスを傾けている姿が描かれているだけです。

 おそらく、ブルジョワジーの社会的役割を可視化することがむずかしかったのでしょう。

 この階層を、アメリカ版やロシア版では、着飾った男女が飲食している光景で表現していました。つまり、王族でも聖職者でもなく軍人でもないのに、肉体労働をすることなく、生活することができる階層が、産業化の進行とともに登場したことを示しているといえます。

 産業化が進行して優勢になってきたのが、事業を経営する実業家であり、法律、会計、工学、などの専門知識を持つ階層でした。製品を開発し、市場に流通させて利潤を得、それを元手に再投資し、再び、製品を市場に流通させる循環システムに関わっている人々です。

 資本主義社会では、彼らこそが新たに富を稼ぎ出す階層として浮上してきたのです。

 ベルギーの選挙運動のチラシが1900年、そして、ロシア版の風刺画が1901年、それを踏まえたアメリカ版の風刺画が1911年に制作されました。利便性と豊かさを求めた産業化が進行するにつれ、実は、経済格差を生み出し、社会的不平等を拡大させていくことが明らかになりつつあった頃でした。

 カイユボットの父親は、フランスの産業化が軌道に乗り始めた頃、軍に製品を卸す実業家として富を築き、その一方で、商業裁判所の判事としても活躍しました。

■新興ブルジョワジーが求めた文化

 イギリスに比べ、出遅れていた産業化を推進するために、さまざまな改革を進め、帝国主義の覇権争いにも加わろうとしていたのが、ナポレオン三世でした。カイユボットの父親はおそらく、そのような時代の最先端で仕事をしていたのでしょう。新興ブルジョワジーとして財産を成し、裁判官として社会的地位を得ていました。

 パリでは新興ブルジョワジーの文化が花開きはじめました。裕福な市民の間では、華美で贅沢な様式の文化が好まれました。それは、度重なる革命で失われた宮廷文化への追慕ともいえるものでした。そのころのブルジョワジーには独自の文化といえるものはなく、前時代の上流階級の模倣にすぎませんでした。

 産業振興政策のおかげで、フランスの産業は発展し、豊かな市民階級、すなわちブルジョワジーの裾野が広がっていきました。彼らは自由主義を賛美し、科学技術を信奉し、新しいものへの挑戦を好みました。その一方で、旧態依然とした権力には反発しました。

 経済が活性化していくのにともない、新興階級の間で旺盛な消費需要が生まれ、過熱化したあげく、やがて投資ブームを引き起こしたほどでした。

 ブルジョワジーの台頭と軌を一にするように、絵画界では印象派の画家たちが登場してきました。彼らは、アカデミズムに反発し、見たまま、感じたままを表現することに価値を見出しました。伝統にとらわれない自由な発想を大切にし、自身の感性を拠り所にしたのです。

 自由を好み、変革を恐れず、新しいことに挑戦しようとする彼らの姿勢は、ブルジョワジーに通じるものがありました。ブルジョワジーといい、印象派の画家たちといい、第二帝政期とともに登場してきた新しい階層の中には、当時の社会を牽引してきた時代精神をみることができます。

 産業革命による技術革新が、時代を大きく変えようとしていました。そのうねりに敏感な人々が、新たな富裕層になり、新たな表現活動を展開していったのではないかと思います。

 カイユボットの父親は明らかに、当時の社会を動かしてきた側の人物でした。

 前回、イエールの別荘をご紹介しましたが、寝室やリビングの調度品に、宮廷文化の名残がみられるのが印象的でした。絢爛豪華な家具や置物に囲まれて、特権階級ならではの優越感、快適さを堪能していたのでしょう。カイユボットの父親の美意識や生活価値観は、帝政時代から離れることはありませんでした。

 カイユボットの父親は、パリでも新しく邸宅を建てました。パリ市が、高級住宅地として造成したミロメニル通りに、新しい邸宅を建てたのです。

 それでは。その家をご紹介しましょう。

■パリの邸宅

 1866年に、一家は、ミロメニル通り77番地にある邸宅に引っ越しました、カイユボットが18歳の時です。転居先は、ヨーロッパ橋からほど近く、リスボン通りの交差点にありました。辺りは、上流階級の住宅地として新たに造成された地区でした(*Wikipedia)。

 現存するようですから、写真をご紹介しましょう。外観を見る限り、洗練された、素晴らしい建物です。

(* 『アートを楽しむ section 3』(アーティゾン美術館、2023年2月25日、p.7)

 美しく、瀟洒で、いかにも新興ブルジョワジーが好みそうな建物です。時代を牽引していたブルジョワジーの一員として、
カイユボットの父親 は、高揚感に駆られていたのでしょう。建物の外観から、その気持ちが透けて見えます。

 彼は1866年にパリ市からこの土地を購入し、1866年11月に竣工しました。

 イエールに別荘を購入してから、わずか6年後のことでした。時代の最先端を行くような気分になっていたのかもしれません。カイユボットの父親は、高級住宅地として造成されたこの土地に家を建て、一家はミロメニル通りに引っ越してきました。

 当時、パリでは、古い街路や街並みが次々と壊され、新しく整備して建て直されていました。その一方で、新たな街区が造成され、上流ブルジョワジーが居住する区域が造られました。

 パリの街全体が、清潔で機能的で、美しく、洗練された様相に変貌を遂げている最中でした。不潔で汚い街路や建物が破壊され、造りかえられていくパリの街の中に、富裕層のための一角が設けられたのです。

 見るからに瀟洒なこの邸宅は当時、社交界の中心になっていたようです。

 この邸宅で開催された舞踏会の様子を、カイユボットの友人の画家ベローが描いていました。この邸宅の内部がどのようなものであったのか、そして、パリの社交界でどのような役割を果たしていたのか、作品を通して当時の様子を推察することができます。

 ジャン・べロー(Jean Béraud, 1849 – 1935)は、1878年に《舞踏会》という作品を制作していますが、その背景となったのが、カイユボットの父が建てたパリの邸宅だといわれているのです。

 まずは、この作品を見ていくことにしましょう。

●ジャン・べロー(Jean Béraud)制作、《舞踏会》(Un soirée、1878年)

 ジャン・ベローは、パリの街頭風景やカフェ、市民生活の様子などを好んで描いたことで知られる画家です。その彼が珍しく、舞踏会の様子を描いた作品を残しています。それが、《舞踏会》という作品です。

(油彩、カンヴァス、65.1×116.8㎝、1878年、オルセー美術館蔵)

 この作品は、1878年の官展で展示されました。出品時のタイトルは《舞踏会》でしたが、 古いラベルには「カイユボット邸の夜」と書かれていたそうです。なぜ、二つのタイトルが存在していたのか、しばらく、わからなかったそうですが、その後、この作品が、カイユボット邸で開催された舞踏会を描いたものだということがわかりました。

 なぜ、わかったかというと、画面に描かれていた室内の一部が、母親の死後(1878年11月)に作られたカイユボット家の財産目録の記述と一致していたからでした(*http://caillebotte.net/blog/family/67 )。

 父親は1874年に亡くなり、その4年後に母親が亡くなりました。母の死後、作成された財産目録によって、この作品の舞台が当時のカイユボット邸だということが確認されたのです。

 舞踏会の会場として描かれたこの部屋が、カイユボット邸だったことが明らかになりました。その後、 カイユボット が画家として知られるようになると、この作品は、《 カイユボット邸 の夜 》と呼ばれることが多くなったそうです(*前掲、URL )。

 経歴を調べてみると、カイユボットとベローには接点がありました。

 カイユボットは普仏戦争から帰還した後、レオン・ボナ(Léon Bonnat、1833-1922)の画塾に通って、油彩画の基本を学びはじめました。そこで、共に学んでいたのが、ジャン・ベローだったのです。二人は1873年に、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)に入学し、本格的に油彩画を学びました。

 カイユボットとベローは共に、普仏戦争からの帰還後、ボナの下で油彩画の勉強を始めていたのです。大学では法律を学び、普仏戦争を経て、画家を志すようになったという点でも共通していました。

 ベローもカイユボットと同様、法律を学んでいながら弁護士にならず、普仏戦争から帰還した後、絵の道に転向していたのです。同じような経歴をたどり、最終的に人生を絵画に捧げた仲間の一人でした。だからこそ、パリのこの邸宅にも自由に出入りすることができたのでしょう。

 カイユボットの邸宅で開催された舞踏会に参加しながらも、ベローはどうやら、遠慮しながら筆を執っていたようです。それは、俯瞰するようなモチーフとの距離の取り方でわかります。大きく距離を取って参加者たちを捉え、一種の風物として描いているのです。

 ベローの父親は彫刻家でした。ロシアのサンクトベルクで生まれ、4歳の時に亡くなったので、家族はパリに戻ってきました。 法律を学びましたが、戦争から帰還後、画家を志すようになったという経歴です。

 舞踏会に参加しても、場違いなものを感じていたのかもしれません。個々の人物の焦点を当てることはなく、ドレスの色彩を中心の会場の流れを描き、舞踏会の雰囲気を表現しています。

■カイユボットとベロー

 カイユボットは、せっかくエコール・デ・ボザールに入学しながら、あまり登校しなかったようです。もはや学ぶべきものはないと判断したからでしょうか、それとも、単に興味が持てなくなったからでしょうか。

 そこで、履歴を見ると、カイユボットは1873年にエコール・デ・ボザールに入学していますが、翌年の1874年に父親が亡くなっています。父親の莫大な遺産を引き継いでおり、もはや画家として身を立てていく必要はありませんでした。 まだ26歳でしたが、趣味として絵画に関わり、周辺の画家を支援する立場になっていたのです。

 一方、ベローはエコール・デ・ボザールでしっかりと2年間学び、修了後はモンマルトルでスタジオを開いています。画家として生計を立てていく必要があったからでした。

 
 画家として食べていくには、自身の絵画世界を創り上げなければなりません。独自の世界をどう創り上げていくか、模索していたのでしょう。

 ベローは、パリの市街やカフェなどを舞台に、市民階級の人々の生活風景を好んで描きました。いわゆる市井の人々の日常の光景を取り上げ、画題にしていましたが、モチーフに対する眼差しが温かいのです。

 たとえば、《シャンゼリゼ通りのグルップ洋菓子店》(La Pâtisserie Gloppe au Champs-Élysées)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、38×53㎝、1889年、カルナヴァレ美術館蔵)

 ビュッフェ形式の洋菓子店で、コーヒーや洋菓子を楽しむ老若男女が描かれています。手を伸ばしてケーキを取ろうとしている子どもや女性、立ったまま語りあう男女、小さなテーブルを囲んで語り合う女性たち、いずれも幸せそうな表情で菓子を手にしています。当時のパリ市民の生活の一端がうかがえる作品です。

 彼が描いた作品の多くは、このようにパリ市民の生活風景が題材になっていました。この作品も、都会の生活シーンが生き生きと捉えられています。大改造されたパリの街が、いかに人々が楽しめる街に変貌していたか、当時の様子が手に取るようにわかります。

 さきほどご紹介した《舞踏会》には、そのようなベローの作品傾向とは、やや異質な雰囲気があります。市井の人々を描いた作品とは違って、対象を見る眼差しがよそよそしい感じがするのです。

 改めて作品を見直してみると、室内の様子や調度品などと人々に対する距離の取り方が同じなのです。 男性は黒の礼装、女性は華やかな色のドレスを着用といった具合に、参加者の衣装は丁寧に描かれていますが、それは、まさに調度品を見る眼差しでした。

 せっかくの舞踏会に参加していながら、ベローはその輪に入ることなく、ひたすら観察していたことがわかります。豪華な室内とフォーマルで華やかな衣装に身を包んだ男女を、ただ観察の対象としてだけ捉えていたのでしょう。

 ベローは、華やかな舞踏会の真っただ中にいながら、その雰囲気に巻き込まれることなく、冷静に、客観的なタッチで対象を捉えていました。街頭あるいはカフェで市井の人々を生き生きと捉えたまなざしとは明らかに異なっていました。

 《舞踏会》の画面からよそよそしさを感じさせられたのは、おそらく、そのせいでしょうが、そこに、ベローの画家としてのスタンスが感じられるような気がします。

(2024/9/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ①:イエールの別荘

■第二帝政時代に台頭してきた印象派の画家たち

 第二帝政時代は、アカデミズムに対抗する画家たちが台頭してきた時期に当たります。前回は、ピサロやリュスの作品をご紹介しましたが、彼ら以外にも、多種多様な画家たちが登場し、新たな画題を見出し、斬新な技法で、表現運動を展開していました。

 彼らは次々と、産声を上げ、アカデミズムが主導してきた絵画の見直しを迫りました。光がもたらす色や影、形状の変化を踏まえ、見たまま、感じたまま、受けた印象をそのまま表現することに意義を見出すようになったのです。

 いわゆる印象派の画家たちの登場です。

 産業革命を経て、さまざまな領域で、技術革新が進みはじめていました。画家にとっての大きな技術革新は、チューブ入り絵の具が開発されたことでした。チューブ入り絵具があれば、なにもアトリエにこもって描く必要はありません。

 画家たちは、積極的に戸外に出かけ、心に残る画題を見つけては、思うままに絵を描くようになりました。戸外で直接、見たまま、感じたままを描くようになったのです。以来、画家たちはさまざまなところに美があることに気づき、作品化しようとしました。

 その一つが自然の風景です。

 これまではメインモチーフの背景でしかなかった自然の風景が、実は、メインモチーフそのものになりうることに気づきます。そして、風景が陽光の影響を大きく受けること、さらには、風や空気などを間接的に表現できることにも気づくようになります。

 画家たちに意識革命がもたらされたのです。それに伴い、新たな題材が次々と発掘されました。

 手の届くところにある身近な自然、市井の人々、日常の光景など、これまでなら、画題になると思えなかったものが、モチーフとして取り上げられ、描かれるようになりました。

 これまで取り上げられてこなかったモチーフに、新たな光を当てて、作品化しようとする画家もいれば、科学的な知見を踏まえ、新たな画法を生み出した画家もいました。

 技術革新によって、人々の生活が少しずつ変わり、それに合わせて、人々の価値観も変化しつつあった時代でした。画家たちもまた、そのような時代の変化に適応しようと模索しはじめていたのです。

 陽光や風、空気などに、生成の妙を見出した彼らは、パリの街の破壊と創造の中に、躍動感と未来を見出しました。

 ちょうどその頃、ナポレオン三世が構想してきたパリの大改造計画が、オスマンの手を経て、着々と進められていました。近代化に合わせ、パリの街も構造的に改造する必要があったのです。

 もちろん、パリ大改造に伴う街の変化は、画家たちにとって恰好の題材になりました。

■拡張するパリ

 第2帝政期は、臭くて小汚く、不衛生だったパリの街が、オシャレで鑑賞に堪える街へと大きく変貌しようとしていた時期でした。

 至るところで、スクラップ・アンド。ビルドが展開されていました。古いものが壊され、新しいものに置きかけられていく過程は、画家たちの創作意欲を限りなく、刺激しました。

 それらは激動する時代そのものであり、時代が進む方向性を指し示すものでもありました。彼らにとって、変貌していくパリの街路や建物、道行く人々を描くことは、目に見える時代の変化を捉えることであり、目に見えない時代精神を汲み取ることでもあったのです。

 パリは道路網や鉄道網によって、整備され、拡張されていきました。

 この時期、台頭してきた多くの画家たちの中で、ユニークなのが、カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)です。パリで生まれ、パリで育った画家です。一般にはあまり知られていませんでしたが、20世紀末ごろから、再評価されはじめた画家です。これまではもっぱら、印象派の画家たちの支援者として、あるいは、彼らの作品のコレクターとして、その名を馳せていた人物でした。

 そのカイユボットの作品を通して、パリ大改造時代の人々の生活や建物、街の様子を見ていくのも、一興でしょう。

 今回はとくに、カイユボットならではの画題を取り上げ、当時の社会状況を見ていくことにしたいと思います。

 まずは、カイユボットがどのような画家だったのか、その出自から探ってみたいと思います。

■カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)とは?

 カイユボットは1848年8月19日に、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通りの自宅で、生まれました。父親のマルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799–1874)は、軍隊にシーツや軍服などを納入しており、巨額の富を築きあげていました。親から事業を継承した経営者だったのです。

 その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。富裕者であり、知識人であり、行政の一角を担う重要人物でもあったのです。

 ところが、莫大な富と名声、権力を手にしていながら、彼は家庭生活には恵まれておらず、妻とは2度も死別していました。3度目の妻であるセレステ・ドフレネ( Céleste Daufresne, 1819–1878)との間に生まれたのが、今回取り上げる、画家のギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)です。49歳の時に生まれた息子でした。

 その後、カイユボットには二人の弟、ルネ(René , 1851-1876)とマルシャル(Martial, 1853-1910)ができました。父親は20歳も年下の妻との間で、2、3年おきに3人の息子を授かったのです。老境にさしかかった時の子どもたちですから、さぞかし嬉しかったことでしょう。

 子どもたちが健やか育ってくれることを願ったのか、父親は、パリ南郊のイエールに広大な地所が売りに出されると、すぐさま購入し、別荘として活用できるようにしました。1860年のことでした。

 息子たちは12歳、9歳、7歳になっていました。さまざまなことに興味を持ち、冒険を好むようになる年ごろでした。父親はおそらく、子どもたちに、豊かな自然に触れて、のびのびと過ごせる環境を与えたいと考えたのでしょう。

 当時、パリは至るところで工事が行われており、土埃が舞い上がっていました。街は四六時中、騒然としており、落ち着いた生活は望めませんでした。ナポレオン三世がオスマンを指名してパリ大改造に着手してから、すでに7年も経っていましたが、それでも、まだ、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていたのです。

 子どもたちの生育環境として、当時のパリは決して好ましいものではありませんでした。父親がパリ郊外の邸宅を迷うことなく購入し、別荘として活用したのは当然のことであり、賢明なことでした。

 もっとも、父親がこの邸宅を購入したのは、ちょうどパリからイエールまで鉄道が敷かれ、汽車が開通したからだという意見もあります(* https://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201902/montalembert.html)。

 現在、パリ・リヨン駅からメルン(Melun)行きのRER D線に乗れば、約30分でイエール(Yerres)駅に到着します。当時はもっと時間がかかったのでしょうが、汽車に乗れば、パリからも気軽に訪れることができ、自然を存分に楽しむことができるエリアだったのです。

 育ち盛りの子どもたちにとっては恰好の別荘地でした。思いっきり身体を動かして、川や農園で遊び、伸びやかな感性を育んでいきました。自然から触発されることも多かったのでしょう、カイユボットは、全作品の三分の一以上をここで描いたといわれています。

 イエールの別荘が、カイユボットに自然との触れ合いのきっかけを与え、世界観を育み、創作欲を喚起したことは確かでした。

 イエールは一体、どんなところだったのでしょうか。

■イエール(Yerres)の別荘

 一家は夏になると、このイエールの別荘で過ごすようになります。今も残る瀟洒な邸宅があります。

(*https://sumau.com/2024-n/article/1532

 約11ヘクタールもの敷地内に邸宅が建ち、英国式庭園があるかと思えば、農園があり、傍らにはイエール川も流れています。子どもはもちろん、大人も自然を存分に楽しめる仕様になっていたのです。

 しかも、この邸宅は改修されて、古代建築風の列柱や列柱回廊などが施されていました。古代文化を偲びながら、日常生活を堪能できる、贅を尽くした造りになっていました。

 もっとも、若いカイユボットが興味を示したのは、邸宅を取り巻く豊かな自然でした。初期作品のほとんどがここで制作されています。とくに、川をモチーフにした作品はいくつも残されています。馴染みの場所であり、絵心を刺激するものがあったのでしょう。

 それでは、若いカイユボットを惹きつけたイエール川は一体、どのような趣の川だったのでしょうか、作品を見る前に、まず、写真で確かめておくことにしたいと思います。

(* https://ovninavi.com/propriete-caillebotte/

 川の両側を木々が生い茂り、うっそうとした状態になっています。川面には木々の葉が映り込み、緑色に見えます。その緑色の川が大きく蛇行した先に、カヌーが小さく見えます。おそらく、当時も、これと同じような光景だったのでしょう。

 カイユボットはここで川面を眺め、時に泳ぎ、時にカヌー遊びをして、川と戯れていたのでしょう。遊びの場であり、観賞の対象にもなりえた川だったことがわかります。上の写真からは、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。

 それでは、カイユボットはこのイエール川をどう描いたのか、特色のある3つの作品を選び、年代順に見ていくことにしましょう。

●《イエール岸のヤナギ》(Saules au Bord de l’Yerres、1872年)

 イエール川の岸辺に揺れるヤナギを捉えた作品です。

(油彩、カルトン、31×40㎝、1872年、所蔵先不詳)

 水面や木々、川辺の小道が、独特の筆致で描かれています。粗さが残っていますが、構図はユニークで、興趣があります。ヤナギを通して陽光が洩れ、川面に落ちて輝く様子を描いているところに、印象派の影響が感じられます。

 カンヴァスではなく、カルトン(厚紙製の画板)に描かれていますから、ひょっとしたら、習作段階の作品だったのかもしれません。制作されたのは1872年、エコール・デ・ボザールに入学する前でした。画家を志し、レオン・ボナの画塾に通っていた頃の作品ではないかと思います。

 カイユボットの経歴をみると、1870年にエリート養成機関であるリセ・ルイ・ル・グラン(Lycée Louis Le Grand)を卒業し、卒業とともに弁護士免許を取得しました。ところが、弁護士として働く間もなく、徴兵されて、普仏戦争(1870年7月19日から1871年5月10日)に参加しています。帰還後、本格的に絵画の勉強を始めた時期に描かれたのが、この作品でした。

 晴れた日のイエール川が、粗いタッチで捉えられています。おそらく、カイユボットが絵心を刺激された光景をそのまま、カルトン上で再現しようとしたのでしょう。小道や川面を照らす陽光の描き方にカイユボットの思いが感じられます。

 ところが筆の動きに滑らかさがありません。カンヴァスとは違って、カルトンに描いたからでしょうか。とくに、小道や川面に降り注ぐ陽光の描き方がぎこちなく、不自然さが目立っています。

 絵を学び始めて間もない時期に描かれたせいか、あるいは、カルトンのせいか、こう描きたいという思いと、実際に表現された画面とがマッチしていないのです。

 それから3年後に、カイユボットは、《イエール、雨の効果》(1875年)という作品を描いています。画面の隅々にまで神経が行き届き、画力が向上していることは明らかです。

《イエール、雨の効果》 (L’Yerres, effet de pluie、1875年)

 どの季節に描かれたのかはわかりませんが、川面の表情が実に、情感豊かに表現されているのが印象的です。

(油彩、カンヴァス、80.3×59.1㎝、1875年、Eskenazi Museum of Art所蔵)

 前景に小道を配し、中景にイエール川、そして遠景に川べりの木立を配するという画面構成になっています。

 手前の小道を見ると、木枠でしっかりと囲われています。おそらく盛り土で造った小道なのでしょう、崩れ落ちないように、しっかりと木製の枠で固定されています。明らかに人工的に整備された川だということがわかりますが、そのせいで、イエール川がまるでプールのようにも見えます。このイエール川が、別荘の敷地内を滔々と流れているのです。

 川べりの小道には、草も生えていなければ、小石も転がっていません。しかも、どちらかといえば、マットな茶色が使われています。いかにも人工的に造られた小道だということがわかりますが、それだけに、木立の緑や、川面に映りこんだ木々の緑の陰影が際立って見えます。対比の効果といえるものなのでしょう。

 そういえば、背後に並ぶ木立の中に、茶色の小舟が見えます。手前の小道からは川を挟んで真向かいになります。緑で覆われた対岸のアクセントになっており、手前の小道と呼応した色構成になっていることに気づきます。

 興味深いことに、手前の茶色の小道は、三角形に切り取った格好でレイアウトされています。この斜めのラインが、中景に描かれた川面の左方向に向かうラインと呼応し、遠景で描かれた木立の縦のラインを印象付けています。これらのラインが、一見、雑多に見える画面全体を構造的に安定化させていることがわかります。

 小道から小舟にいたる縦のラインに目をむけると、川面には、大小いくつもの波紋ができており、雨がもたらすしっとりとした情緒が丁寧に描き出されています。カイユボットがもっともアピールしたい箇所は、おそらく、このラインなのでしょう。

 ごく自然に波紋が際立つよう、認識されやすい色構成にされています。

 たとえば、川の両側は緑色で覆われていますが、川の中ほどには、木立から漏れる鈍い陽光が注がれ、白濁して見えます。その川面に、木立の幹がくっきりと映り込み、そこにも、たくさんの波紋が描かれています。自然の生成の仕組みに鑑賞者が気づくように、さり気なく色構成されているのです。

 こうして大小さまざまな波紋が描かれ、それらが幾重にもつながって、川面に豊かな表情を添えています。まるで生き物のように、生まれては消え、消えては生まれる様子が捉えられているのです。自然界ならではの生成過程が見事に表現されており、画面から動きとリズムが伝わってきます。

 小道を川と木立の間に、雨を介在させることによって、自然界ならではの絶妙な調和を生み、情感豊かな世界を創り出していたのです。画面からは、雨がもたらす余韻のある風情が感じられます。

 興味深いのは、カイユボットの着眼点です。

 カイユボットは、雨が降ることによって、川面に起きる波紋に着目しました。そして、画面構成、色構成を練り上げ、雨が醸し出す風情を情感豊かに描き出すことに成功しました。画題を発見する着眼力、観察した結果を的確に表現する力、そして、なによりも絶妙な画面構成にみられるきめ細かな感性と美意識に驚嘆させられました。

 この作品は1875年に制作されました。《イエール岸のヤナギ》に比べ、わずか3年ほどの間に、カイユボットが抜群の表現力を発揮し、作品化する力を身につけていたことがわかります。

 この作品からは、カイユボットの豊かな知性と感性、先進性や近代性を感じざるをえません。

 川面にできる無数の波紋が、この作品のメインモチーフです。背後に整然と並ぶ木立の幹、そして、手前の小道は、サブモチーフといえるでしょう。それらの主要なモチーフの中から、円形、直線、縦のライン、斜めのラインなどを掬い上げ、画面上に表現しました。こうして自然に生み出された幾何学模様をさり気なく画面に埋め込み、見事な調和を図ることができたのです。

 このような作品を生み出すことができたのは、カイユボットが愛しみの気持ちを持ってイエール川に接してきたからでしょう。そして、この作品によって、彼は、イエール川が観賞に耐える川であることも示しました。

 もちろん、イエール川は身近な遊びの場でもありました。

 カイユボットは、川を楽しむ人々の姿を捉えた作品もたくさん残しています。その中の一つ、印象に残った作品をご紹介しましょう。

●《イエール川のカヌー》(Périssoires sur l’Yerres、1878年)

 蛇行するイエール川を、2艘のカヌーが静かに前進している様子が描かれています。

(油彩、カンヴァス、157×113㎝、1878年、レンヌ美術館蔵)

 画面を見て、真っ先に目に留まるのが、白いシャツを着た漕ぎ手たちの後ろ姿です。手前の男性が大きく、先を進む男性が小さく描かれており、遠近法にのっとった画面構成になっています。

 2艘のカヌーは競うふうでもなく、ゆっくりとオールを漕ぎながら進行しています。彼らが進む前方を見ると、まるで行く手を阻むかのように、川辺の木々が両側から、深く枝を傾け、川を覆っているように見えます。

 木々の葉は浅黄色に色づき、それが川面に映りこみ、川と川辺が混然一体となって、辺り一面を柔らかく包み込んでいます。淡く柔らかな色彩が、画面全体に広がる中、所々に白が配されており、興を添えています。これまで見てきた2作品とはまた別の興趣が感じられます。

 爽やかな印象があるのです。

 カヌー周辺は白く波打ち、進行方向の川面もまた、白く輝いています。こちらは木陰から射し込む陽光を反映したものなのでしょう。浅黄色を基調に、所々に白をアクセントに使って、画面が色構成されているのです。そのせいか、初夏の爽やかさが感じられます。

 この作品で印象的なのが、白の使い方です。

 まず、漕ぎ手が着用している白いシャツ、そして、カヌー周辺の白い水しぶき、さらには、陽光に輝く白い川面が印象に残ります。まるでこれらの白を通して、イエール川の魅力と存在意義を示しているのではないかと思えるほどでした。

 この作品でカイユボットは、イエール川が、遊び場であるばかりか、自然との触れ合いの場であり、季節を観察し、観賞する場でもあることを表現していたのです。

 気になるのは、カイユボットが、白いシャツを通して、漕ぎ手の肩と上腕の筋肉をかたどるように描いていることでした。鍛え上げられた筋肉は、まるで労働者の肩のように盛り上がっています。ところが、白シャツの袖から下の腕は白く、柔らかそうです。

 見るからに、生計を立てるために肉体を酷使する必要のない人々の身体でした。おそらく、カイユボットの友人たちなのでしょう。白いシャツの盛り上がりが示すものは、カヌー遊びによって手にした筋肉質の身体だったのです。

 カイユボットが見たままの情景を描いた画面から、彼らの生活の一端が見えてきました。別荘生活を楽しむことができる富裕層の生活です。第2帝政時代の特権階級であり、カイユボットだからこそ、描くことができた光景です。

 実は、カイユボットが画家としてそれほど知られていなかった理由の一つに、彼自身、画家として生計を立てる必要がなかったということがあります。父親から莫大な資産を受け継いだ彼は、画家として収入を得る必要がなく、積極的な売り込みをしなかったからでした。

 画家として身を立てる必要のなかったカイユボットは、印象派の画家たちの生活を支えるコレクターとして、もっぱら彼らの作品を購入していたのです。

 それでは、再び、イエールの別荘に戻ることにしましょう。

 カイユボットは、イエール川以外に、邸宅の周辺を描いた作品もいくつか残しています。その中に、《田舎のポートレート》という作品があります。当時の女性たちの生活を伺い知るには格好の作品なので、ご紹介しましょう。

●《田舎のポートレート》( Portraits à la campagne, 1876年)

 カイユボットが、イエールの邸宅を訪れた親戚の女性たちを描いた作品です。タイトルは、《田舎のポートレート》です。

(油彩、カンヴァス、95×111㎝、1876年、バロン ジェラール芸術歴史博物館蔵)

 邸宅の脇で、年齢の異なる4人の女性がそれぞれ、思い思いの作業をしている姿が描かれています。刺繍をしている者もいれば、読書をしている者もいます。家事から解放された午後のひととき、女性たちが庭に出て、好きなことをしている様子が捉えられています。

 手前に描かれているのは、カイユボットの従妹のマリー(Marie)です。水色のドレスに身を包み、刺繍に余念がありません。上着の裾やスカートの裾にフリルがあしらわれており、普段着とはいえ、上質の衣服を着用していることがわかります。俯き加減の横顔といい、刺繍を施す手といい、若い女性らしい乳白色の肌が印象的です。

 彼女の後ろに見えるのは、年配の女性たちで、やはり黙々と刺繍をしています。刺繍は当時の女性たちの手すさびであり、趣味であり、一種の娯楽だったのでしょう。老いも若きも一様に、手元を見つめ、指を細やかに動かしているのが印象的です。

 もっとも、遠くに描かれている女性は読書をしています。年配の女性で、やはり黒っぽい服を着ていますが、ただ一人、皆から離れるようにして、読書しているのです。当時、女性が本を読むのは一般的な趣味とはいえなかったのでしょう。ひょっとしたら、変り者扱いされていたのかもしれません。彼女は画面の一番奥に配置されていました。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちはそれぞれの趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちは午後のひとときを趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 第二帝政時代の富裕層の生活の一端を物語る光景ともいえます。

  カイユボットは富裕層の子弟としてパリに生まれ、育ちました。12歳のころには、イエールに別荘を持ち、夏はそこで過ごすのが恒例となっていました。第2帝政時代を特権階級の子弟として過ごしたのです。カイユボットだからこそ、この作品を描くことができたといえます。

 この作品は、1877年4月にパリで開催された第3回印象派展で発表されました(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Portraits_%C3%A0_la_campagne)。

 さて、イエールの別荘には、帝政時代の富裕層の生活の残滓をいくつも見ることができます。一体、どのようなものだったのか、写真を通してみてみることにしましょう。

■イエールの別荘に残された、帝政時代の面影

 カイユボットが描いたのは、邸宅の外でしたから、背後に庭園の一部を見ることができただけです。邸宅の内部は一体、どうなっているのでしょうか、写真で確かめてみることにしましょう。まずは、リビングです。

(* https://hirokokokoro.livedoor.blog/archives/19579017.html

 シャンデリア、テーブル、壁に掛けられた絵画、食器、いずれも贅を凝らしたもので、豪華なことこの上もありません。調度品を見るだけで、第二帝政時代の富裕層がいかに贅沢な生活をしていたのか、その一端を偲ぶことができます。

 次に、両親の主寝室を見てみることにしましょう。主寝室の設えを見れば、この別荘がどれほど豪華なものであったか、一目瞭然です。

(* https://crea.bunshun.jp/articles/-/21403?page=2

 カーテンといい、ベッドといい、ジュータンといい、まさに王侯貴族の寝室です。

 ちなみに、この写真のキャプションには、帝政様式と書かれていました。帝政時代の様式を踏まえて、造られた寝室だったのです。そういえば、窓際の壁にナポレオンの絵が飾られています。

 カイユボットの父親は、ナポレオンを信奉していたのでしょう。皇帝を頂点とした富裕層が好んだ様式に合わせ、寝室を設え、彼らが好んだ調度品を身の回りに置いていました。父親が、帝政時代の為政者の価値観を内面化していたことがわかります。

 さて、この主寝室で目を引かれるのが、天井に接して掲げられた、威容を誇る黄金の鷹像です。ベッド側のカーテンの上に設置されています。この豪華な像は、権力こそが富の源泉であることを象徴しているように思えます。そして、近代化を推進しながらも、往時の贅沢を忘れられない第2帝政時代を端的に示すものでもあるように見えます。

 カイユボットの父親は、王族でも貴族でもありませんでしたが、知識階級であり、富裕層でした。時代の流れに敏感で、行動力があり、時代を動かすエネルギーを持った新興階級の一人でした。

 その息子で、画家を志したのが、カイユボットです。

 今回、彼の作品を4点、取り上げてきました。そこから見えてくるのは、時代の動きを吸収しようとする心構えであり、富裕層の間で垣間見える不安感であり、安らぎの源泉としての、女性たちの旧態依然とした生活習慣でした。(2024/8/31 香取淳子)

ピサロとリュス、二人はパリの大改造をどう描いたか

■パリ大改造という課題

 19世紀半ばのパリは人口が集中し、居住環境としては悪化の一途をたどっていました。曲がりくねった狭い道路の両側に、アパートが密集しており、風通しが悪く、低い階には日も当たりませんでした。

 19世紀半ば頃のパリのシテ島にあるオテル・ デュー・パリ付近を写した写真があります。

パリの中心

(* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E6%94%B9%E9%80%A0

 道が狭く、しかも、両側に高層の建物が建っています。風通しが悪く、陽も射さない状況だということが一目でわかります。おそらく、当時、パリのほとんどがこのような状態だったのでしょう。風通しが悪いせいで、糞や汚物の臭いがたちこめていたといいます。

 上の写真をよく見ると、道路中央に溝が掘られています。汚物はここを流れるようになっていたのでしょうが、浅いので、廃棄物や汚物が溢れ、異臭を放っていたようなのです。これが病原菌の発生源になっており、頻繁に疫病が流行していました。

 ナポレオン三世は、非衛生的な状況を改善する必要に迫られていたのです。

 一方、産業化の進行とともに、馬車が一般化し、道路は人や馬で混雑するようになりました。絶えず、交通渋滞が発生し、人の移動や物流を妨げていました。流れをスムーズにするには、道路を直線化し、大幅に拡張しなければなりませんでした。

 そもそもパリは、1163年にノートルダム大聖堂が作られたシテ島が、政治と宗教生活の中心でした。左岸には教会が運営する様々な学校が置かれて学術の中心となり、右岸は商業と経済の中心として発展していきました。

 1180年から始まるフィリップ2世の治世下で、パリに新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設も始まりました。同時に、道路の舗装、中心部に中央市場が建設され、パリは首都として整備されていきました。つまり、パリは12世紀後半に首都としての形を整えたことになります。

 産業革命を経て人口が集中し、人や物の流通が激しくなると、中世に築かれたパリの街は時代には合わず、さまざまな問題が発生するようになっていたのです。

 まずは道路を拡幅し、採光がよく風通しのいい街並みを作り出さなければなりません。

 ナポレオン(Charles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808-1873)は以前から、パリの改造プランを立てていました。ところが、大統領時代には実行できる権限がなく、皇帝の座についてようやく取り組むことができたのです。

 まず、胆力があり統率力もあるオスマン(Georges-Eugène Haussmann, 1809 – 1891)をセーヌ県知事に任命し、改造プロジェクトの指揮官に起用しました。1853年のことでした。

 新しい土地に街を造るのではなく、既存の大都市を根本的に改造するのですから、並大抵の人物では務まりません。人々を立ち退かせて、既存の道路や建物を破壊し、反対意見を抑え込みながら、進めていかなければならないのです。

 当時、パリは抜本的な改造をする必要に迫られていました。それも、対処療法的な改造ではなく、100年後、200年後を見据えた大改造です。すでに産業革命は進み、これまでとは違う社会の形態がうまれつつありました。

 変化する社会構造を視野に入れ、人々が健康に暮らしていけるようなパリにしていく必要がありました。

■パリ大改造の基本理念

 パリ大改造は、次の4つの観点から行われました。すなわち、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観です。パリ全体をこれら4つの観点から見直し、既存の道路や建物に破壊し、長期展望の下、新たに造り直しました。

 1853年から1870年まで17年間にわたる大規模工事が行われました。

 街路事業についてオスマンは、「直線化」、「複雑化」、「ショートカット」の観点から設計し直しました。

 まず,パリを縦横断できるよう,真ん中に大通りを建設します。当然、既存の区画や建物が邪魔になりますが、オスマンはそれらをほぼすべて破壊し、新たに区画整理して対処しました。なんとも大胆なやり方です。オスマンでなければ、到底、できなかったでしょう。

 1853年からの17年間というもの、パリの街は文字通り、至る所で、破壊と創造が実践されていたのです。

 日々、変貌を遂げていくパリの街を見て、画家たちはどう思ったのでしょうか。調べてみると、パリの大改造をどう描いた画家が何人かいました。まずは、ピサロ、そして、マクシミリアン・リュスの作品をみていくことにしましょう。

■カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)

 印象派の画家ピサロは、晩年になると、郊外のエラニーからパリに戻り、新しく設置された大通りや広場の様子を連作で描いています。改造されたパリの街の姿が、画家の絵心を強く刺激したのでしょう。ピサロは次々とパリの美しく変貌したパリの街の光景を描きました。

 ピサロがよく描いていたのがオペラ座通りです。雨の日、冬の日、陽光の射す日など、同じ風景でも季節や天候の違いによっていかに趣が異なるものか、繊細な筆致で捉えています。

 ここでは、そのような作品の中から、パリ大改造をもっともよく表現できていると思える作品をご紹介することにしましょう

●《オペラ座通り、朝の陽光》(Avenue de l’Opéra, le soleil du matin, 1898年)

 ピサロがよく描いたのが、ホテルからオペラ座通りを見下ろした光景です。いくつかある中で、もっともよくパリ大改造のコンセプトを捉えていると思えるのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、66×81.9㎝、1898年、フィラデルフィア美術館蔵)

 手前の広場から大きな道路が伸びています。路上には人々や馬車が多数、描かれていますが、いずれも点のように小さく見えます。この広い直線道路の先に見えるのが、オペラ座です。

 画面の奥に、特徴的な青色の屋根が見えます。実際の姿を写真で見てみることにしましょう。

オペラ座

(*https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Opera_full_frontal_architecture,_May_2009.jpg

 これは、1862年に着工し、1875年に完成したガルニエ宮です。格式が高く、荘厳な美しさがあります。

 さて、ピサロの作品に戻りましょう。

 正面奥に見えるオペラ座に向かう道路の両側には、重厚な建物が立ち並び、その一階は店舗になっています。人々がオペラ通りを散策しながら、ウィンドーショッピングを楽しむことができるようになっているのです。

 建物そのものが優れたデザインで建築されており、まるで芸術作品のようです。

 手前の広場には、円形の噴水が左右に設置されており、直線道路の際でシンメトリーな柔らかさを添えています。

 噴水の周囲には木々が植えられており、自然のやすらぎが醸し出されています。奇妙なのは、建物や噴水、道路の大きさに比べ、人々や馬車などが極端に小さく描かれていることです。おそらく、ピサロが都市の形態あるいは構造そのものに焦点を当てて描こうとしているからでしょう。

 パリの街がどのように変わったのか、どのように整備されたのかが、この作品からはとてもよく理解できます。

 パリ大改造のために大プロジェクトに取り組んだナポレオン三世は、街路、公園、上下水道、美観、等々の観点から改造プランを練り上げました。ナポレオンに任命されたオスマンは、自身にアイデアを織り込みながら、大改造事業を展開しました。

 ピサロの作品からは、オスマンが追及した街路の直線化、そして、ナポレオンが掲げた都市の美観化が見事に調和して実現されていることがわかります。

 ピサロとは違った視点でパリの大改造を捉えた画家がいます。新印象派の画家マクシミリアン。リュス(Maximilien Luce, 1858 – 1941)です。

■Maximilien Luce(Maximilien Luce,1858- 1941)

 リュスは、ピサロのようにパリの街並みそのものを俯瞰して捉えるのではなく、そこで暮らす人々の視線で大改造を捉えようとしていました。

 当時、パリでは至る所で工事が行われ、日々、その景観は変貌していました。完成形を描いたのがピサロだとすれば、リュスはその過程を描きました。ですから、色も形も統一が取れておらず、雑駁な印象がありますが、逆に、当時のパリの街の様子が生き生きと描かれているように思えます。

 たとえば、リュスに、《リュミエール通りの貫通》という作品があります。

●《リュミエール通りの貫通》(L’ouverture de la rue Reaumur、1896年)

 この作品では、構造部分がむき出しになっています。手前の建物はみな、軸組が丸見えになっており、足場なのでしょうか、壁面に板が何本も立てかけられています。窓は空洞で、明らかに建築途上の建物だということがわかります。

 リュスの作品には珍しく、荒っぽいタッチで描かれていますが、それだけに、建築現場の生々しい様子をスケッチ感覚で捉えようとしているようにも見えます。

(油彩、カンヴァス、35.8×51.4㎝、1896年、Christie’s所蔵) 

 細部を細かく丁寧に描くのではなく、全体を粗く、素早く捉え、その瞬間のパリの街の表情を捉えることに主眼を置いていたのかもしれません。手前はとくに色彩も形もばらばらで統一感がありません。

 一見、ラフな印象を受けますが、遠近法にしたがって描かれているので、画面そのものは秩序だって構成されています。

 ピサロの作品と同様、人々は点のように小さく描かれています。そのせいか、道路がとても広く感じられます。その広い道路に沿って、建築現場が続いています。騒音と土埃でごった返す建築現場の脇を、大勢の人々が平然と行き交っている光景に、パリ市民のエネルギーと未来への希望が感じられます。

 この画面には、破壊し、再び建築するといったプロセスの一端が描かれており、新たな生命を得て蘇るパリの街のエネルギッシュな姿が浮き彫りにされています。

 実際に当時のパリの様子がどんなものだったのか、資料を探してみました。道路を掘り起こし、廃墟になったような場所を撮影した写真を見つけましたので、ご紹介しましょう。

(*https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/3417344/

 まるで爆撃された後のような光景です。建物が壊され、瓦礫が散乱しています。道路が深く掘り返され、大きな土の山ができています。これはほんの一例ですが、すでに出来上がって機能していた都市を、根本的に改造することがいかに大変なことか、うかがい知れます。

 この写真を見ているうちに、リュスがパリ改造をどう捉えていたのかがわかるような気がしてきました。俯瞰して都市の機能を描こうとするのではなく、人々の視線を取り入れ、都市のあるべき姿を描こうとしていたのではないかと思えてきたのです。

 パリを大改造するために、ナポレオン三世やオスマンが多大な尽力を果たしてきました。それと同様、パリに住む人々もまた、生まれ変わるパリの街に寄り添い、様々な生活上の不便を耐え、変貌する姿に希望をつないでいたのでしょう。

 この作品からは、生のエネルギーが感じられます。

 リュスはさらに、破壊し建築する当事者としての労働者の姿を捉えていました。

●《荷車を押す労働者》(Travailleurs poussant un wagonnet、1905年)

 リュスの作品の中に、建築現場で働く労働者を素描したものがあります。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1905年、Musée de l’Hotel-Dieu.所蔵)

 粗さの残る筆致の中に、労働者の動きと現場の雰囲気がみごとに捉えられています。重い荷車を押す男たちがいるかと思えば、その傍らで作業をしている者、手前から彼らに近づこうとしている者、振り返ってみている者などが描かれています。

 荷車を押す労働者たちだけではなく、その周辺の労働者を描くことによって、作業現場の様子がよりリアルに表現されていることがわかります。力を合わせることによって大きな作業ができることを示唆しているように見えます。

 背後には建築現場があり、労働者たちがさまざまな作業をしており、さらにその背後にビルのようなものが建っているのが見えます。パリの街をひっくり返すような勢いで、改造工事が進められている様子が捉えられています。

 ナポレオン三世は、社会を支えているのは農民であり、労働者であると認識していました。彼らの生活を安定させることができれば、社会も安定するという考えでした。だからこそ、皇帝の地位に就くと早々に、労働者共同住宅の建設に取り組んだのです。

 そのような考えは、このパリ大改造プランにも見られます。

 そもそも、先ほどご紹介したパリ大改造プランの発想は、人々が健康な生活ができるようにパリを改造するというものでした。そして、改造プランそのものは人体の構造に模して作成されていました。そのことをふっと思い出しました。

 建築現場をもう少し、構造的に捉えた作品もあります。

●《建築現場》(Le chantier, 1911年)

 リュスが53歳の時の作品です。先ほどの作品とは違って、画面は極めて緻密に構成されています。

(油彩、カンヴァス、73×60㎝、1911年、Musée d’Orsay所蔵)

 大きなビルの建築現場で、大勢の労働者たちが働いています。足場が組まれ、労働者たちが細い板の上でさまざまな作業をしています。画面下の方ではセメントを掬い上げている者、こねている者、運んでいる者がいます。大きなビルの奥の方にも足場がかけられ、クレーンのようなものも見えます。

 ビルなどの建築現場ではこのように、大勢の労働者が機能分担して働いているのでしょう。それには、彼らを統括して作業全体を進めていく役割を担う人が必要で、おそらく、手前右に描かれている白い服を着た人がそうなのでしょう。

 この作品からは建築現場の構造が見えてきます。つまり、産業革命を経て、分業化が進み、労働者が機能分担して仕事をしはじめている現場の一端が巧に切り取られ、表現されているのです。

 遠近法が使われ、安定感のある画面構成になっています。遠方の労働者たちはごく小さく描かれていますが、姿勢や身体の傾きなどでそれぞれ描き分けられており、生き生きとした現場の営みが伝わってきます。

 日が落ち始めているのでしょう、左手前から影が伸び、作業をしている労働者の背中を暗くしています。厳密に画面構成された建築現場に射し込む陽光が、この作品を情感豊かなものに仕上げています。

 この作品はまさに、産業革命を経て、必然的に進行した分業化の動きを示すものにほかなりません。リュスは、パリ大改造の建築現場を描きながら、実は、産業化の進行が、人々に何をもたらすのか、無意識のうちに問いかけていたのかもしれません。(2024/7/31 香取淳子)

展示拒否された《オルナンの埋葬》について考えてみる。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたクールベの作品は、なにも《画家のアトリエ》だけではありませんでした。その5年前に制作された《オルナンの埋葬》もまた、門前払いされていたのです。

 そこで今回は、《オルナンの埋葬》を取り上げ、展示拒否の理由について考えてみたいと思います。

 まずは、《オルナンの埋葬》の画面から見ていくことにしましょう。

■《オルナンの埋葬》((Un enterrement à Ornans, 1849-1850)

 ギュスターヴ・クールベ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)が、1849年から1850年にかけて制作したのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、315×668㎝、1849‐1850年、オルセー美術館蔵)

 大勢の人々が葬式に集まっている光景が描かれています。中央に大きく穴が掘られ、その際で片膝をついた男が神父を見上げています。神父は厳かな表情で聖書を広げており、どうやらこれから埋葬が始まろうとしているところのようです。

 背後には荒涼とした風景が広がっています。夕刻なのでしょうか、それとも、未明なのでしょうか。陽が落ちた空はどんよりと暗く、まるで参列者の気持ちを代弁しているかのように見えます。

 画面右側には、黒い喪服を着た人々が参列しています。皆、一様に顔を伏せ、ハンカチを目に当てている人もいれば、鼻と口を覆っている人もいます。故人を悼み、哀しみに打ちひしがれている様子がうかがえます。

 全体に沈鬱な雰囲気が漂う中、白い布のせいで、ひときわ明るく見えるのが、画面の左側です。

 中でも際立って見えるのが、お棺に被せられている十字マークのついた白い布です。その周辺には二人の子どもがおり、いずれも白い服をまとい、赤茶色の帽子をつけています。手前の子どもは聖具を持ち、神父のすぐ後ろに続いています。もう一人の子どもは顔を上向けて、お棺をかつぐ人になにやら問いかけているようです。そのすぐ隣には、長い棒状の十字架を持つ人がおり、やはり白い服を着ています。

 この白い服を着た人たちは、どうやら、神父の手助けをして儀式を執り行う役割を担っているようです。

 十字架を持った人はやや上目づかいで、こちらを見ています。どういうわけか、画面の中でただ一人、鑑賞者と視線を合わせるように描かれ、何かを訴えかけているように見えます。彼が持つ十字架には、哀悼の標識のようにキリスト像が付けられています。

 画面左側のお棺を担いだ人々は皆、黒い帽子、黒い衣装を身に着け、肩から白いマフラーを垂らしています。顔を伏せているので、表情はよくわかりません。

 こうしてみてくると、埋葬へのかかわり方によって、身に着けた衣装の白と黒の配分の違いがあるように見えてきます。

 たとえば、黒い帽子をかぶり、黒い服の肩から白いマフラーをかけているのが、お棺をかついでいる人々です。そして、黒いチョッキの下に白いシャツを着たのが、墓穴を掘った人、黒いマントに白のふち飾りをつけたのが、神に祈りを捧げ、聖書を朗読する神父といった具合です。

 一方、白の割合の多い衣装をまとっているのが、聖具を持った子どもであり、十字架を持った神父の補佐役でした。子どもであれ、大人であれ、儀式に必要な聖具を携え、埋葬の儀式で重要な役割を負った人々です。

 彼らが、喪の色であり、純粋無垢の色であり、神聖な色でもある白の服をまとっているのは、そのためなのでしょう。

■参列者たち

 さて、白でもなければ黒でもない、赤茶色の服と帽子を身に着けた男が二人、中央に描かれています。帽子や服装からは聖職者ではないようですが、なんらかの役目を担っているように見えます。美術評論家のルービン(James Henry Rubin, 1944-)によれば、この二人は、教区の世話役なのだそうです(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店、2004年、p.78.)

 さらに、中央右寄りに、もう二人、白でも黒でもない衣装を身に着けた人物がいます。よく見ると、燕尾服です。黒ではありませんが、礼装として着用されるフォーマルな衣装です。傍らには白い猟犬もいます。いったい、どういう人物なのでしょうか。

 彼らについて、ルービンは、次のように説明していました。

「一世代前の身なりをした年長の男が二人いるが、彼らはウードとテスト双方の友人で、リベラルな共和主義の信念を共有していた」(* ルービン、前掲。p.76.)

 ウードとは、1848年8月に亡くなったクールベの祖父であり、テストとは、翌9月初めに亡くなった大叔父のクロード=エティエンヌ・テストです。ここに描かれた二人は、亡くなった祖父と大叔父の友人で、彼らとはリベラルな共和主義の信念を共有していたというのです。

 画面から、彼らが描かれている部分を抜き出してみましょう。

(* 前掲。部分)

 燕尾服の男が二人、膝までのズボンをはき、その下に、白や淡いグリーンのタイツを履いています。

 いつ頃の服装なのか、気になって、調べてみました。すると、時代ごとの変化が図示され、説明されているページが見つかりました。

(* https://oekaki-zukan.com/articles/12023

 上の図でみると、二人の友人たちが着用していたのは、まさに19世紀初頭の衣装でした。それ以前のものに比べ、襟が大きくなり、コートの前が短くなって、アクティブな感じがします。装飾性が薄れ、軍服のような印象です。

 調べてみると、確かにルービンがいうように、彼らが着ているのは一世代前の衣装でした。二人とも黒の山高帽子をかぶっていますから、礼服として着用していたのでしょう。

 そういえば、ルービンは、クールベの祖父も大叔父も、彼らと共和主義の信念を共有していたと書いていました。ひょっとしたら、古き良き第一共和政を偲び、敢えて、この時、着用していたのかもしれません。

 ルービンはさらに、二人の左側に立っている髭の男は、オルナンの村長で、その隣は、村では著名な法律家だと記しています。こうしてみると、オルナンの主要なメンバーが総出で、クールベの大叔父の埋葬に臨んでいたことがわかります。

■新しく造られた墓地での埋葬

 《オルナンの埋葬》は、縦315㎝、横668㎝にも及ぶ巨大な画面に、大勢の参列者を登場させた渾身の力作です。一人ひとり、丁寧に描かれており、当時の人が見れば、すぐにも誰なのか分かったに違いありません。

 完成させるのに、膨大なエネルギーを費やしたはずです。

 おそらく、相次いで身内を亡くした悲しみが、クールベの創作意欲をかき立てたのでしょう。あるいは、大叔父が、新しく町外れの造られた墓地に、初めて埋葬された人物になったせいでもあるかもしれません。

 大叔父は、町外れに新しく造られた墓地に、最初に埋葬された人物でした。画面からは、感傷的な思いを振り払い、見たままの光景をありのままに描こうとする姿勢が感じられます。クールベにとっては大きな出来事でしたが、個人的な思いを断ち切るようにして、この作品を描いているのです。

 画面を見ているうちに、ルービン(James Henry Rubin, 1944-)がこの作品について、ちょっと気になる指摘をしていたことを思い出しました。

 該当箇所を引用してみましょう。

 「亡くなった祖父の家の屋根裏部屋に設けたアトリエで、クールベは《オルナンの埋葬》を描き始めた。題名に不定冠詞を使うことによって、クールベはこの埋葬に対して特別な地位を主張しなかった。つまり、それは故郷の町における「ある埋葬」にすぎないのである」

(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店 、2004年、p.75.)

 改めて、この作品の原題を見ると、《Un enterrement à Ornans》となっていました。確かに、不定冠詞の「un」が付けられています。敢えて定冠詞を置かなかったところに、クールベの意図があるというのが、ルービンの解釈でした。

 これでは、大切な大叔父の埋葬が、まるで名もないオルナンの住民の埋葬のように見えてしまいます。もちろん、それを承知の上で、クールベは敢えて、タイトルに定冠詞を付けず、「Un」にしたのでしょう。

 それでは、クールベはなぜ、タイトルに定冠詞「le」を使わず、不定冠詞「un」を使ったのでしょうか。

■クールベの意図は何か?

 そもそも、クールベの父は、周辺3つの村を含めた地主で、オルナンにもブドウ畑と邸宅を所有していました。羽振りのいい地主だったのです。母はオルナンの地主の娘で、その父もまた地主であり、徴税吏でもありました。フランス大革命当時からの共和派で、自信家で粘り強く、魅力的な人物でした。クールベに少なからぬ影響を与えたといいます(* 稲葉繁美「ギュスターヴ・クールベ生涯と作品」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』1989年、p.148.)。

 このように、クールベの一族は代々、地元オルナンを含めた地域の富裕層であり、知識階級であり、名士でした。決して名もない一住民ではなかったのです。ところが、クールベは大叔父の埋葬を、オルナンの一住民の埋葬として作品化しました。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 考えられる理由としては、大叔父が、町外れに新しく造られた墓地に、初めて埋葬された人物だったことです。

 墓地はそれまで居住区内に設置されていましたが、衛生改革の一環として、新たに町外れに設置されることになりました。ナポレオンがパリを対象に進めていた政策ですが、周辺にまで広がっていたのです。

 教会は当然、人里離れた場所に墓地を設置することに反対しました。旧来の考えに縛られた住民にとっても受け入れがたかったでしょう。埋葬に関わることなので、相当の意識変革が必要でした。

 ところが、クールベの大叔父の家族は、最初の埋葬者になることを受け入れました。私的な思いよりも公共の利益である、衛生改革を優先させたのです。それだけに、クールベは、大叔父の埋葬を貴重なものと捉えたに違いありません。

 オルナンで生き、そして、死を迎えた人が受け入れるべき埋葬例として、記録しておこうとしたのではないかという気がするのです。

 オルナンにとってはまさに、歴史的事件でした。

■オルナンの歴史として記録する

 人口の増加に伴い、大都市パリでは、衛生面の問題が多々発生するようになっていました。その一例が墓地です。

 たとえば、パリ中央市場に隣接したイノサン墓地には、亡くなった人々の遺体が放置されて悪臭を放ち、衛生面から大きな社会問題となっていました。1786年にようやく撤去され、パリ中心部に墓地を造ることが、衛生上の理由から禁止されるようになりました。その後、ナポレオンの指示によって、19世紀の始めには3つの新しい墓地が当時のパリの境界周辺に設置されました(* https://paris-rama.com/paris_history_culture/016.htm)。

 以来、パリでは、衛生改革の一環として、墓地の立地に規制がかけられるようになりました。墓地は居住区の外に設置しなければならないと法律で定められたのです。その後、パリに倣ってオルナンでも、町外れに墓地が新たに造られることになりました。

 オルナンは、パリの南東345キロメートルに位置しています。

オルナン

 中世から塩を運ぶ道の中継地点として、栄えてきた地域です。人の往来があり、歴史があり、伝統のある町でした。それだけに、新たな墓地の設置をめぐっては、町を二分する議論が交わされていたようです。

 これまでの伝統を守りたいという守旧派と、ナポレオンが進める衛生改革に倣おうとする改革派との間で、対立が起きていたのです。

 ルービンは、新しい墓地の設置をめぐる諍いについて、次のように記しています。

「その墓地の場所は、伝統的な統制を維持したいと考える地方の教会と、居住区域の外に墓地を置くことによってナポレオンの下で制度化された近代の衛生上の措置に従いたいとする、町の住民のより世俗的な分派とのあいだで争いの的となっていた」(* 前掲。p.75)

 訳語がわかりにくいですが、墓地を新たに居住区域外に設置することについて、地元の教会を中心とする勢力と、一部の先進的な住民たちとの間でもめていたようなのです。

 クールベの大叔父が新しく造られた墓地に埋葬されているので、最終的には、ナポレオンが進める衛生改革に従おうとする先進的な住民の意見が通ったことがわかります。決着したのが、画面で描かれている場所でした。

 改めて、《オルナンの埋葬》を見てみると、背景は明らかに郊外の風景でした。参列者の背後に、ほぼ無彩色の岩山が描かれており、なんとも殺風景で、荒涼とした雰囲気が漂っています。

 そもそもオルナンは、町の中心にルー川が流れ、その川向こうに、町を見下ろすように、岩山が広がっているような場所でした。

(* https://www.mmm-ginza.org/special/201110/special01.html

 クールベはこの地で生まれ、育ち、そして、絵画の手ほどきを受けました。パリに出て、画家になってからは、オルナンを画題にした作品をいくつも手がけています。オルナンへの思い入れが強かったことがうかがい知れます。

 そのオルナンで墓地が新しく造られ、初めて埋葬された人物が大叔父だったのです。クールベが、埋葬の場面を描いておこうと決意したのも不思議はありませんでした。

■大叔父を悼む

 大叔父への哀悼の気持ちを表現したかったのでしょうし、なによりも、オルナンで生まれ育った人間として、強い創作衝動に駆られたのではないかと思います。

 そう思えるのが、クールベのモチーフの取り上げ方であり、描き方です。参列者が実に詳細に、写実的に描かれています。実際にこの絵の前に立って、画面を見たとしたら、まるでその場にいあわせているかのような錯覚を覚えたに違いありません。

 ルービンによれば、《オルナンの埋葬》で描かれた人物は、すべてオルナンの住民でした。しかも、50人ほどの人々がほぼ等身大で描かれており、当時の人が見れば、すぐ誰だとわかるほどリアルに描写されていたようです。

 家族、友人、オルナンの名士たちがことごとく、取り上げられていたばかりか、亡き祖父ウードまでも、お棺をかつぐ人として描かれていました(* ルービン、前掲。pp.75-78.)。

 祖父だとされるのは、お棺に寄り添うように、すぐ脇に立ち、顔を左に向けて俯いている人物です。黒い帽子を目深にかぶっており、その表情はよくわかりませんが、ルービンによれば、これがひと月前に亡くなったクールベの祖父なのだそうです。

 すでに亡くなり、埋葬に参加できない祖父を、クールベは、大叔父のお棺を担ぐ人として登場させ、哀悼の意を表す機会を与えていたのです。

 タイトルに不定冠詞を使い、まるでクールベとは関わりのない一住民のような扱いをしながら、実は、さり気なく、見る人が見ればわかるといった体で、大叔父へのオマージュを捧げていたのです。

 こうしてみると、《オルナンの埋葬》には、クールベの、家族や親族に対する想い、オルナンの地そのものへの想いが込められていることがわかります。実際、写実的に描かれた画面からは、そのような深い情感が満ち溢れていたのでしょう。

 扱ったモチーフの数の多さといい、画面の巨大さといい、《オルナンの埋葬》は確かに、オルナンで発生した一大事件を記録した大作でした。まさに、オルナンの歴史画ともいえるものだったのです。

 この作品は当時、スキャンダラスな作品だとして、話題を呼びました。

 巨大な画面に埋葬の光景が描かれ、名もない群集がほぼ等身大で多数、描かれていたからです。しかも、クールベは、遠近法、陰影法を無視し、ありのままの光景を美化せず、理想化せず、写実的に描きました。

 モチーフといい、画題といい、画面の大きさといい、画法といい、すべてが当時の美術界のルールから逸脱していました。まさにアカデミズムへの挑戦といえるものでした。

 一方、この作品は、美術界ばかりではなく、為政者たちをも刺激していたに違いありません。

 ちょうど、この頃、クールベはたて続けに、話題作を制作しています。そのきっかけとなったのが、《オルナンの食休み》でした。振り返ってみることにしましょう。

■《オルナンの食休み》(L’Après-dîner à Ornans)

 クールベは長い間、サロンに出品しても、なかなか受賞することができませんでした。ところが、1849年6月15日に開催されたサロンでは、出品した11点の作品のうち7点が入選しています。ほとんどがオルナンの生家近くの風景を描いたものでした。

 入選した中の1点が《オルナンの食休み》で、これは2等賞を受賞しました。

(油彩、カンヴァス、195×257㎝、1848‐49年、リール美術館蔵)

 この作品は、国家の買い上げとなり、リール美術館に収められました。これによって、クールベはその後、無鑑査の特権を享受することになりました。その後は、落選の憂き目を見ることもなく、出品作品を自由に展示できることになったのです。

 この作品を見たドラクロワは、「誰にも依存せず、前触れもなく出現した革命家」とクールベを称し、アングルは、「過度の資質ゆえに芸術そのものからもはみ出してしまった」と評しています(* 稲葉繁美編、「ギュスターヴ・クールベ 生涯と作品 年譜」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』、1989年、p.149)

 当時、画壇の大御所であったロマン派のドラクロワは、クールベを美術界の革命家と呼び、新古典派のアングルは、有り余る才能ゆえに芸術からはみ出してしまったと評していたのです。両者の評価からは、クールベの作品が当時の画壇では異質であり、評価の対象にならなかったことが示されています。

 実際、これまでのサロンであれば、決して受賞できなかったような作品でした。

■臨時政府下のサロンで2等賞

 1848年のサロンは、二月革命直後の3月に開催されました。王政を倒して樹立された臨時政府の下で開催されたのです。臨時政府は、過激派であれ穏健派であれ、共和主義者で構成されており、5月4日に憲法制定国民会議が開催されるまで続きました。

 サロンが開催されたのは革命直後でしたから、臨時政府はおそらく、過激派が多数を占めていたのでしょう。そのせいか、この時のサロンは無審査で行われました。

 実は、それまでのサロンは審査基準が狭量で、一部の画家たちの不興を買っていました。ドーミエ、テオドール・ルソーなどは1847年、サロンとは別の独立した展覧会を組織する決議をしていたほどでした。

 そのような画家たちの動きを踏まえたものか、それとも、出品しさえすれば、どんな作品でも展示されるべきだという過激な共和主義者の考えに基づいたものなのか、理由はよくわかりませんが、この時のサロンは無審査でした。

 その結果、クールベは出品作品10点すべてを展覧することができました。ところが、それは、他の画家も同様で、この時のサロンの展示点数は5500点にも及ぶことになって、混乱をきわめました。

 玉石混交の作品の中で、目クールベの作品が目立つことはなく、話題を呼ぶこともありませんでした。興味深いことに、クールベは、父親に送った手紙の中で、「共和政は芸術家に最適の政体ではない」と書いています(* 稲葉、前掲。p.149)

 クールベはおそらく、審査がなくどんな作品でも展示されるという仕組みは、優れた作品を選び出す機能をもっていないと言いたかったのでしょう。

 その反省から、1849年のサロンでは、審査が復活されています。

 出品者たちが選出した審査委員で構成された委員会が、鑑査を行うという方式が採用されたのです。より多様な作品を選出するという点では、以前の審査方法より優れていました。

 新たな審査方式の下、クールベが出品した11点のうち7点が入選しました。そのうちの1点が、2等賞を受賞した《オルナンの食休み》だったというわけです。

 ようやくクールベの作品世界に日が差してきました。

■新しい写実主義

 クールベの作品は、これまでサロンを牛耳ってきたアカデミーや一般大衆から受け入れられることはありませんでした。たいていの作品が、スキャンダラスな作品として罵倒され、異様な作品だと評され、退けられてきたのです。

 労働者あるいは庶民の生活を画題にし、対象を美化せず、理想化せず、ありのままに描いていたからでした。

 クールベの作品に多少は理解を示していたドラクロワでさえ、「羊の群れにとびこんできたオオカミ」と表現し、異端児扱いをしていたのです(* 清水正和、「19世紀パリ近代化と芸術家たちの対応」、『甲南女子大学研究紀要』35号、1999年、p.65)。

 当時、クールベの作品そのものが、アカデミーに対する挑戦だったのです。

 その後、クールベは《石割り》(Les Casseurs de pierre)を制作しています。

(油彩、カンヴァス、165×259㎝、1849年、1945年に爆撃を受けて焼失)

 こちらもまた、大きな作品です。一人の男がハンマーを持って石を割り、もう一人の男が割られた石をザルに入れて運んでいます。一人は帽子をかぶり、もう一人は後ろ向きになっているので、二人の顔は見えません。

 顔が見えないだけに、彼らの所作が強く印象づけられます。その所作の中に、労働の過酷さが滲み出ています。

 たとえば、膝をついてハンマーを打ち下ろす姿には、疲れが見えますし、膝でザルを支えながら、割られた石を運ぶ後姿には、労働の過酷さが見えます。オルナンの岩山で仕事をしているのでしょうか、山際には陰がありますが、二人の男が作業している場所には、陽が照り付けています。

 サロンで入選して以来、たて続けに描いた作品はいずれも、このような労働者の生活の一端を捉えたものでした。アカデミックな美術界にはない画題です。オルナンを舞台に発表した作品からは、この頃、クールベは自身の絵画世界を確立しつつあったように思えます。

 画壇の主流であった新古典主義やロマン主義に抗い、新たな写実主義を打ち立てようとしていたのです。

■なぜ展示拒否されたのか

 審査方式が変わった後、2等賞を受賞したのが、《オルナンの食休み》でした。それに続き、《石割り》、《オルナンの埋葬》とクールベは、故郷をモチーフに作品を制作してきました。いずれも二月革命直後に制作されており、労働者が社会の表舞台に出てきてからの作品です。

 それまでにはなかった作風だと評価されるようになり、新たな潮流を作り出しました。いずれの作品も、描かれたモチーフや情景に社会が反映されていました。そして、モチーフとして取り上げられた労働者たちの所作や表情の中に、労働の過酷さや疲労感、希望のなさが浮き彫りにされていたのです。

 クールベはこれらの作品を通して、名もない人々の哀歌を奏でようとしていたように思えます。モチーフはなんであれ、画面には、生きることの意味を問い、生き続けることの価値を問う深いメッセージが込められていたのです。

 ご紹介した三つの作品に違いがあるとすれば、それは、描かれた人物の人数の多寡でした。

 《オルナンの食休み》と《石割り》は、労働後の休憩時であれ、労働中であれ、生活苦が彼らの所作を通して描かれていました。モチーフの数は、2人から4人です。

 ところが、《オルナンの埋葬》の場合、圧倒的多数の人物が、ほぼ等身大で描かれていました。すべて名もない庶民の群像です。それまで絵画で描かれたこともなければ、もちろん、描く価値があるとも思われなかったモチーフです。

 しかも、遠近法を無視し、陰影法も気にせず、アカデミックな技法から逸れた描き方でした。

 ただ、画面に力がありました。描かれた人物や情景が放つエネルギーが、それまでの絵画にはない魅力を放っていました。

 もちろん、それに気づく人もいれば、気づかない人もいたでしょう。気づいたとしても、ほとんどの人がそれを的確に言語化できなかったのではないかと思います。

 たとえば、当時の大御所、ドラクロワは、クールベの絵が放つ力に気づいていましたが、長年にわたって刷り込まれた固定観念から、
「羊の群れにとびこんできたオオカミ」 と表現するしかありませんでした。

 そして、為政者たちはこの作品に、ドラクロワがいう「羊の群れにとびこんできたオオカミ」を感じたのではないかという気がします。つまり、危険を感じ、恐怖を覚えたのです。

 登場人物の数が多ければ多いほど、画面から放たれるエネルギーは強くなります。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたのは、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》でした。おそらく、膨大な登場人物が発散する巨大な生のエネルギーが、為政者に危険を感じさせ、恐怖を覚えさせたのではないかと思うのです。

 《オルナンの埋葬》が描かれたのは、二月革命の後でした。民衆であれ、知識階級であれ、新しい社会を求めて、人々が立ち上がった時期でした。それらの人々の力によって、王政は倒されました。為政者たちは、名もない人々、生活苦にあえいでいる人々が群集化すると危険だということをよく知っていました。

 彼らが等身大の庶民が多数、描かれた作品を見て、恐怖を覚えたとしても無理はありませんでした。

 権力に抵抗し、人としての尊厳や自由を求め、新たな世界を切り開こうとしていた時代だったからこそ、為政者たちは、人々が群れ集まることを恐れました。群集になると、人は容易に狂暴化することを経験していたからでした。

 もちろん、アカデミックなルールを無視したクールベの画法が、為政者に社会秩序の混乱を連想させ、恐怖心をかき立てたとも考えられます。

 こうしてみてくると、クールベの二つの作品が展示拒否されたのは、アカデミックな画法を踏まえずに、多数の人物を名もない人々を取り上げ、写実的に描いていたからではないかという気がします。(2024/6/21 香取淳子)

クールベの作品はなぜ、1855年のパリ万博で展示拒否されたのか?

■1855年のパリ万博

 初めての万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。それに刺激されて、ナポレオン三世が開催を決意したのがパリ万博(1855年5月15日~11月15日)です。このパリ万博では、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、本格的な美術展示が行われました。万博としては初めてのことでした。

 フランスならではの独自性を加えて、万博に新機軸を打ち出し、価値の創出を図ったのでしょう。

 美術品を展示するために、本格的なパビリオンを設置した理由について、ナポレオン三世は次のように述べています。

  「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』、pp.123-124.)

 ナポレオン三世は、万博会場に本格的な美術品の展示スペースを設けることを、フランスの義務とまで言っているのです。 1855年パリ万博で、本格的な展示スペースが設けられることになったのはフランスで開催されたからだといえるかもしれません。

■万博に美術セクション

 このパリ万博から、美術部門は飛躍的に拡充され、万博の大きな呼び物の一つとなりました。「産業の祭典」から「芸術と産業の祭典」へと変身したのです。主会場のシャンゼリゼ大通りに隣接した「産業宮」とセーヌ河畔の「機械館」に加え、モンテーニュ大通りに面した場所に、2万平方メートルの展示室を持つ「美術宮」(通称モンテーニュ宮)が建てられました。

 それに伴い、恒例の「サロン」展は中止され、すべての作品展示はこの万博美術展に集約されることになりました。「美術宮」を万博会場に設置することによって、美術を通したフランスの国威発揚の場が創り出されたのです。

 そこでは主に 、ドラクロワ、アングルなど、当時の画壇の巨匠たちの作品が展示されました。

 たとえば、ドラクロワの《アルジェの女たち》、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》などです。

 

 一方、出品しても、審査員から展示拒否された作品もありました。

 たとえば、クールベはこの時、13点の作品を万博事務局に提出していましたが、そのうち、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は展示を拒否されています。

■抗議のため、個展を開催

 クールベはこれに抗議し、「レアリスム」というタイトルの個展を自己資金で開催しました。万博の美術会場と同じモンターニュ通りに、この個展会場を設け、40点余りの自作を一般に公開しました(*https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html) 。

(* https://j6rsyq3ia6hq.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

 建物の正面と横に、「EXPOSITION COURBET」の文字が見えます。まさにクールベの個展会場です。展示拒否されたクールベは万博開催期間中、ここで自身の作品を展示していたのです。

 当時、画家が自分の作品だけを展示した「個展」を開催する習慣はありませんでした。ですから、これが世界初の「個展」だといわれているのです(* https://www.artpedia.asia/gustave-courbet/)。

 興味深いことに、せっかく「個展」を開催したにもかかわらず、クールベの個展に見に来る人はほとんどいませんでした。入場料を半額に下げても、入場者は増えなかったそうです。

 ところが、画壇の大家であったドラクロアは、この作品について、「異様な傑作だ」と評価していたそうです(* https://www.y-history.net/appendix/wh1204-026.html

 果たして、どのような作品だったのでしょうか。

 それでは、クールベの《画家のアトリエ》から見ていくことにしましょう。

《画家のアトリエ》 (L’Atelier du peintre)

 

 クールベ ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)は、スイス国境の小さな田舎町オルナンで生まれ、法学を学ぶためにパリに出てきましたが、途中で転向して画家になりました。フランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称していたようです。

 当時、画壇の主流であった古典主義やロマン主義の潮流には抗い、ありのままの現実を捉え、表現しようとする写実主義の流れの中にいる画家でした。

 《画家のアトリエ》は、クールベが36歳の時に制作された作品です。

(油彩、カンヴァス、361×598㎝、1855年、オルセー美術館蔵)

 

 画面には数多くの人々が描かれており、一見しただけでは何を描こうとしているのか、よくわかりません。まず、視線がひきつけられるのは、画面中央の右寄りに描かれたヌードモデルです。暗い画面の中でそこだけ白く、明るく描かれているので、つい、視線が引き寄せられてしまうのです。

 ところが、よく見ると、さまざまな風体の人物が描かれているのがわかります。それだけではなく、犬や骸骨、果ては、カンヴァス後ろの壁に、磔にされているような裸体の男性まで描かれています。

 異様なほどのモチーフの数の多さと乱雑にも思える多様さで、クールベは、いったい、何を伝えようとしているのでしょうか。

 しばらく画面を見ているうちに、一見、混沌として見える画面ですが、それなりの秩序にしたがって描かれているのではないかという気がしてきました。というのも、大勢の人々を描いた画面は、三つに部分で構成されているように見えてきたからです。

 ひょっとしたら、画面を分割して見ることが、この絵を理解するための手がかりになるのかもしれません。  

 まず、中心部分を抜き出してみましょう。

 暗い画面の中で唯一、明るい光が当たっている部分であり、何よりも、画家クールベが描かれているところです。

(* 前掲。部分)

 

 裸体のモデルは、脱ぎ捨てた衣服の端で身体の前を覆いながら、やや首をかしげ、画家の手元を見つめています。画家は筆を持った右腕を高く上げ、気取ったポーズでなにやら説明しているように見えます。足元近くでは、幼い子供がまっすぐに立ち、画家を見上げています。

 この一角だけを見れば、不自然だと感じることもなく、なんの違和感もありません。

 モデルの胸と臀部の乳白色の肌の輝き、裸身の前を隠すために手にした明るい衣服の裾の豪華さが、暗い色調の画面の中で際立って見えます。

 一方、右側に見える男性たちは一種の背景として捉えることができます。彼らの姿には画家と同質の雰囲気があり、連続性が感じられます。

 この箇所だけ見れば、モチーフのレイアウト、画面全体の色構成、明暗、遠近、いずれをとってもバランスの取れたいい作品といえます。足元でじゃれている猫の尻尾が太すぎて不自然なのが気になりますが、ヌードモデルを頂点に、手前に三角形の形で広がる淡い黄土色のジュータンを配置しているところ、バランスの取れた色構成になっていると思います。

 さて、この部分で描かれているモチーフは、左から、モデル(女性)、画家(男性)、子供の順で配置されています。年齢といい、性別といい、体形、姿勢といい、変化があって、バランスのいい組み合わせであり、配置になっています。そのせいか、モチーフが相互に立てられており、安定感のある構図です。

 男性と女性は至近距離で描かれ、親愛な様子がうかがえます。一方、子供はやや離れたところにまっすぐに立ち、自立しているようにも思えます。二人の男女を父と母に見立てれば、この三人は両親と子という関係に置き換えることができます。これは次代に続く家族の最小単位であり、これまた安定感があります。

 興味深いのは、女性はどう見ても絵のモデルにしか見えないのに、画家が描いているのは風景画だということです。しかも、筆を持つ画家の右腕の位置も不自然です。さらに、子供が見つめているのは、画家の手指ではなく、画家の顔です。

 こうして細かく見ると、一見、調和がとれ、安定感があるように見えた中心部分が、実は、なんともチグハグで、違和感があることに気づきます。

 次に、画面の右部分を取り出して、見てみることにしましょう。

(*前掲、右部分)

 ここでは、圧倒的に男性が多く描かれています。本を読んでいる人がいるかと思えば、真剣な表情で前方を見ている人もいます。全般に服装がきちんとし、顎鬚を生やし、それなりの地位のある人々のように見えます。

 手前の女性が羽織っているケープには光沢があり、奥の女性が来ている明るい色のワンピースはデザインがよく、良質の素材のように見えます。衣服からは、裕福な家の女性のように見えます。とくに手前の女性は艶のいい顔に生き生きとした表情を見せています。

 こうしてみると、右側部分で描かれている人々はどうやら、社会的地位もお金もあり、余裕のある生活をしている人々のように思えます。

 そう思って、再び、画面を見ると、手前の女性の足元に、腹ばいになって人が見えます。手に筆を持ち、絨毯の上に紙を広げ、なにやら書きつけています。眼鏡をかけており、年配の人物のようです。

 暗くてわかりにくいので、この人物を黄色の矢印で示しておきました。

(* 前掲、部分)

 立っている人、座っている人、それぞれが前方を見つめているのに、この人物は、周囲の人々に合わせることをせず、独自の世界に没入しています。周囲の人々もそれを黙認しているのが不思議です。

 そういえば、この部分で独自の世界に浸っているのがあと二人います。群れから離れて一人静かに本を読んでいる人、天窓から射し込む陽射しを浴びて、周りを気にせず、女性と戯れている人物です。

 こうしてみてくると、この部分で描かれている人々は二種類に大別されていることがわかります。社会のルールに従って生き、それなりの地位を得て、豊かに暮らしている多数の人々と、社会的秩序の中にいながら、自身の生き方を貫き、それが許されている3人といった違いです。

 それでは、左側に描かれた人々を見てみることにしましょう。

(* 前掲、部分)

 こちらは一見して、人々の表情に生気がありません。ほとんどすべての人がうなだれており、疲れ切って睡魔に襲われているように見えます。奥の方に異国の服装をしている人がいて、金色の布に包まれた何かを抱え、嘆き悲しんでいます。

 右側には、手前の黒い帽子をかぶった人は両手を膝に置き、うなだれています。よく見ると、頬に赤い血の跡が見えます。切り付けられたのでしょうか、頬から口にかけてかなり広い範囲で傷跡が残っています。その足元にはナイフが転がっているのが見えます。

 その人の隣に、骸骨のようなものが見えます。さらに、その前には、痛みを抑えるように脇腹に手を当て、ズボンも履かず、むき出しの足を出してくず折れるように膝をついている人がいます。そして、右奥の壁には、裸体の男性が、まるでキリストのように、磔の姿勢でつるされています。

 一方、左側には、軍人のような人もいれば、狩人のような人もいます。立っていられるだけの体力がある人々なのでしょう。それでも、ほとんどがうなだれています。貧困と傷害、苦難と痛苦しかないような人生がうかがえます。

 そのような悲惨な生活をうかがわせる人々の中で、唯一、前を向いている人物がいます。おそらく聖職者なのでしょう、抱えるようにして持っている本(聖書?)に手を置き、心配そうな表情を浮かべています。

 この部分で生気が感じられるのは、この聖職者と白のブチ犬だけです。この猟犬には攻撃性が見られ、状況に抗う姿勢が感じられます。この左側部分は全体に、暗く、沈鬱で、苦悩しか感じられません。

 再び、中央部分に戻ってみましょう。

 画家はモデルと語らいながら、呑気に風景を描いています。ところが、左側のモチーフからは、その巨大なカンヴァスの裏側には、悲惨な世界が横たわっていることが示されています。

 先ほどよりも少し範囲を広げ、中心部分と左右両側の一部を抜き出してみました。

(* 前掲、部分)

 明らかにこの世界の光と影が表現されていることがわかります。右側にいる人々が光に相当するとすれば、左側にいる人々は影に相当します。そして、絵を描く人も、文章を書く人も、本を読む人も、光の側に描かれています。

 クールベが、政治的、経済的、社会的に上位に立つ人々の中に、絵であれ、文章であれ、創作者を位置付けており、芸術や文学、哲学等を高く評価していることが示されています。

 一見すると、わかりにくかった《画家のアトリエ》でしたが、画面を3つに分割し、細部を見てから、全体を見直すと、改めて、非常に示唆深い作品だということがわかります。人生の深淵、世界の構造がこの作品の中にしっかりと描きこまれているのです。

 確かに、ドラクロアがいうように、この作品は「異様な傑作」でした。

 それでは、なせ、この作品が1855年パリ万博で展示拒否されたのでしょうか。それについて考えるには、パリ万博の当局が何を望んでいたかを知らなければなりません。

 このパリ万博で展示されていたのは、ドラクロワの《アルジェの女たち》であり、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 まずは、ドラクロアの《アルジェの女たち》を見てみることにしましょう。

■《アルジェの女たち》(Femmes d’Alger dans leur appartement)

 ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)が、36歳の時に描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、180×229㎝、1834年、ファーブル美術館蔵)

 左上の窓からまばゆい光が入り込み、女性たちを照らし出しています。いずれも端整な顔立ちに白い肌、豊満な身体つきが印象的です。3人は思い思いの衣装を身につけ、イヤリング、ネックレス、髪飾り、指輪、アンクレットなどで着飾っています。

 左側の女性は端整な顔を正面に向け、右腕を肘置きについて、膝頭をそろえ横すわりになっています。真ん中の女性は胡坐をかいて座り、右側の女性は左膝を立て、右膝をついて座っています。

 座り方はさまざまですが、皆、裸足です。話し合うこともなく、物憂げな表情を浮かべています。水タバコを吸っていたのでしょうか、右の女性は水パイプの管を持っています。辺りには、けだるい雰囲気が漂っています。

 右端には、黒人女性が立ち去ろうとして振り向きざま、彼女たちを見下ろしている様子が描かれています。女性たちの世話係なのでしょうか、画面に描かれた4人の女性のうち、彼女だけはスリッパを履き、忙しそうに立ち働いているように見えます。

 この作品は、ドラクロワが実際にアルジェリアのハレムを訪れた経験に基づいて、描かれました。

 ハレムとは、イスラム世界において家屋内の女性専用の居場所を意味します。中東の都市生活の中で、女性を隔離する風習が厳格化していったのがハレムです。とくに、王侯貴族や富裕層の家庭でこの風習が顕著にみられましたが、中流以下では一夫一妻の家庭が普通でした。

 厳格なルールの下、女性たちの生活が拘束されていたのです。厳格なルールの一例をあげれば、素顔を見られても、罪とならないのは,女性の父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,および女性たちの奴隷たちだけでした。このようなハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風があるといわれています。(* 前嶋 信次、https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%A0-117620)。

 ドラクロワは中東文化に興味を抱いていましたが、1832年、フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアを訪れる機会を得ました。34歳の時でした。

 フランスは1830年6月、アルジェリアを植民地にしており、外交上、その西隣モロッコとの友好関係を樹立しておかなければなりませんでした。政治的必要性から使節団が派遣されたのですが、画家ドラクロワにとっては幸いでした。

 18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方への関心が高まっていました。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め、「オリエンタリズム」という流行現象が起こっていたほどです。

 ドラクロワも中近東や北アフリカなどのイスラム文化圏に憧れており、滞在中は、地中海の強烈な陽射しや鮮やかな色彩に歓喜し、寸暇を惜しんで風景や人物をスケッチしていました(* 高橋明也へのインタビューより。https://artscape.jp/study/art-achive/10176044_1982.html)。

 アルジェリアを訪れたドラクロワは、かねてから興味のあったハレムに、立ち入ることができました。ある船主のハレムに案内されたのです。ドラクロワは感極まって、「なんと美しいことだろう、まるでホメロスの時代のようだ」と叫んだといいます(* 前掲。URL)

 異国の風俗習慣を描いた作品が、なぜ、パリ万博で展示されたのでしょうか。しかも、万博開催よりも21年も前の作品です。

 考えられるのは、ドラクロワが大御所だったからだけではなく、当時の画家たちが憧れていた中東世界が華麗に表現されていたこと、フランスにとっては勝利を彷彿させる作品であったこと、等々に因るのではないでしょうか。アルジェリアはフランスが1830年に占領したばかりの国でした。

 フランスの優位を示すとともに、当時の人々の異国情緒をも満足させることのできる作品でした。実際、多くの画家たちが、異国情緒あふれたこの作品に刺激されました。

 たとえば、ルノワールは《アルジェリア風のパリの女たち》(1872年)を描き、ピカソは《アルジェの女たち(バージョン0)》(1955年)を描いています。

 敢えて21年も前の作品を展示したのは、この作品が当時、多くの鑑賞者を魅了する要素を備えていたからにほかなりません。

 さて、万博会場に展示されたのは、もう一方の大御所、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 それでは、見てみることにしましょう。

■《第一執政ナポレオン・ボナパルト》(Premier Consul Napoléon Bonaparte)

 アングル(Dominique Ingres, 1780~1867)が捉えたナポレオンの姿です。若く、雄々しく、壮麗です。

(油彩、カンヴァス、226×144㎝、1803‐1804、リージュ美術館蔵)

 ナポレオンが皇帝になる前、第1執政であったころの肖像画です。第1執政になったのは1799年11月、ブリュメールのクーデタによって総裁政府を打倒した後、執政政府を打ち立てた時です。軍事クーデタで政体が変更され、フランス革命は終わりを告げることになりました。

 これが、ナポレオンが独裁権力を掌握する第一歩となりました。

 いかにも凛々しく,精悍なナポレオンの立像を捉えています。アングルは新古典主義絵画の領袖らしく、美しく、毅然としたナポレオンを極めて精緻に描いています。威厳があり、権威の裏付けとしての正統性の感じられる姿といえます。

 アングルは数多くのナポレオン像を描いていますが、パリ万博に出品したのはこの作品でした。

 1799年の憲法制定後就いた第一執政の行政権は強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化しました。軍事的独裁体制を樹立したのです(* https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2310)。

 未来に向かって突き進んでいく、エネルギッシュな時の姿を描いているからでしょう。革命の意義を忘れず、フランスを強い国に導いていこうとする姿勢が敬愛されていた頃の姿です。

 実は、ナポレオンの肖像画は数多く描かれており、いかにも英雄らしい姿を描いたのはダヴィッド(Jacques Louis David, 1859~1890)でした。ナポレオン自身もダヴィッドの描く昭三画を好んでいたようでした。

 ところが、アングルの場合、ダヴィッドの描く雄々しさに加え、アカデミックが要求する精緻さと優雅さを添えていた点で、肖像画として含蓄のあるものになっていたといえるでしょう。

 そのような一味違う表現が可能だったのは、アングルのデッサン力によるものでした。彼のデッサン力は素晴らしく、近代絵画の巨匠の中でその右に出る者はいないといわれたほどでした(* https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1981/post_20.html)。

 皇帝時代のナポレオンではなく、有り余るエネルギーをフランスのために使っていた頃の姿です。栄光にあふれ、フランスを導く勇士であり、強靭化しようとする指導者の姿です。

 ナポレオン三世が開催したパリ万博に、この作品が展示されるのは当然でした。

 ドラクロワの作品にしても、アングルの作品にしても、まさしく、ナポレオン三世が1855年という時期に開催したパリ万博で展示されるのにふさわしい作品だったことがわかります。

 両作品とも、フランスが領土を拡大していた時代を彷彿させる画題であり、権威を否定するものではなく、現実社会の暗部を見ようとするものでもありません。しかも、画風は、新古典主義であり、ロマン主義でした。現実を直視するのではなく、鑑賞者に、未来と希望を感じさせる作品だったのです。

■なぜ、クールベの《画家のアトリエ》は展示拒否されたのか

 先ほどもいいましたが、クールベの《画家のアトリエ》を見たドラクロワは、「異様な傑作」という表現で、評価していました。「異様」だけど、「傑作」だというのです。まさに言い得て妙、という気がします。

 当時、このような画題を作品化する画家はいなかったのでしょう、だから、「異様」と表現したのだと思います。ただ、画面には現実世界の真実が余すところなく表現されており、「傑作」としかいいようがない、というのが、ドラクロワの率直な感想だったのだと思います。ドラクロワには、この作品の優れた点がよくわかっていたのでしょう。

 さて、ドラクロワには《民衆を導く自由》(Liberty Leading the People)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、260×325㎝、1830年、ルーブル美術館蔵)

 これは、1830年7月革命を起こし、フランス国王シャルル10世を打倒したことを記念して制作された、とても有名な作品です。

 乳白色の胸を露わにした女性が、右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を握りしめ、倒れた人々を踏みつけ、つき進んでいく姿が描かれています。人々を鼓舞するかのように、後ろを振り返り、叱咤激励している雄々しい姿です。

 足元は死体の山になっており、多くの犠牲を払いながら、自由を求めて突き進む姿が表現されています。

 アングルのように英雄を描くのではなく、市井の女性を一種の女神として描いています。表現もアングルのような精緻さはありませんが、逆に、メッセージを伝える力は抜群です。訴求ポイントを的確に押さえ、ドラマティックに画面構成をしているからでしょう。

 描かれた世界は為政者を震え上がらせるものです。民衆の力の凄さ、犠牲をいとわず、自由を求めて突き進むエネルギー、そのようなものが画面いっぱいにあふれています。この作品は、悲惨な場面を描きながら、実は鑑賞者に勇気を与える結果になっています。

 こうしてみてくると、なぜ、クールベの《画家のアトリエ》が展示拒否され、ドラクロワの作品が展示されたのかがわかってきます。

 同じように政治的課題を題材としながら、クールベの作品では現状分析にとどまり、未来が見えてきません。それに対し、ドラクロワの作品は、悲惨な現実を描きながら、未来に対する可能性や希望が感じられるからでしょう。

 ナポレオン三世は1855年パリ万博を開催するに際し、フランスならではの新機軸を打ち出し、価値創出を企図していました。フランスらしく、美術作品のために独立した展示会場を設けたのはそのためでした。

 だからこそ、当局は、題材はどのようなものであれ、未来に希望を感じさせる作品を求め、それを否定するような作品は、展示拒否したのではないかという気がします。

(2024/5/31  香取淳子)

百武兼行⑩:幕末のイギリス留学、三藩三様

■イギリスの東アジア進出

 佐賀藩藩士の島内平之助は、アメリカからの帰国途中に立ち寄った香港で、英仏軍によって北京が攻撃されたことを聞き及んでいました。1860年9月、第二次アヘン戦争末期に勃発した武力衝突事件です。

 当時、香港はイギリスの支配下にありました。この時、島内が見聞きした出来事の記録は、「米国見聞記」(1861年)に収められ、藩主の鍋島直正に提出されました。

 海外情報を入手しにくい時代に、鍋島直正は、藩士から直接、隣国清朝の悲惨な状況を把握することができていたのです。彼は、海外渡航する藩士には必ずといっていいほど、現地での情報収集を指令していましたが、これは、その成果の一つでした。

 当時、もっとも注目しなければならなかったのが、イギリスの動きでした。ヴィクトリア朝(1837-1901)の最盛期で、産業革命による経済発展が成熟しており、市場拡大のため、東アジアに進出してきていたのです。

 その手先になっていたのが、イギリス東インド会社です。交易を通して各地に進出し、やがて植民地化し、現地の資源を収奪していました。自由貿易主義の下、イギリスは巧妙にアジアでの侵略行為を進めていたのです。

 1858年には、インドの植民地を東インド会社からヴィクトリア女王に委譲させ、二度にわたるアヘン戦争によって、清を支配下に置きました。次のターゲットは明らかに、日本でした。

 そんな最中、佐賀藩で、ちょっとした事件が起こりました。

■石丸安世らの密航事件

 1865年(慶応元年)10月、佐賀藩士の石丸安世(1834-1902)が、突然、行方不明になりました。

(※ Wikipediaでは生年が1839年となっているが、それでは、その後の石丸の経歴と辻褄が合わない。『佐賀県立博物館・美術館報』(No.65)では、1834年(天保5)が生年とされており、佐賀県人物データベースも同様。したがって、本稿でも1834年生年を採用した)

 行方をくらましたのは、石丸ばかりではありませんでした。佐賀藩士の馬渡八郎(生没年不明)、広島藩士の野村文夫(1836-1891)も居所がわからなくなっていました。3人の内、2人は佐賀藩士でした。当然のことながら、佐賀藩は追っ手を差し向け、石丸らの行方を追いました。

 ところが、一応、各方面を捜索したようですが、藩はそれほど熱心には探さず、早々に打ち切ったといいます。

 結局、石丸ら3人は、親交のあったグラバー(Thomas Blake Glover, 1838 – 1911)の手引きで、貨物帆船チャンティクリーア号に乗り込み、イギリスに密航していたことがわかりました(※ Wikipedia)。

 藩に迷惑を掛けたくないという気持ちが強かったのでしょう。石丸らは渡航前に脱藩し、藩との関係を断ち切っていました。

 当時、密航は死罪でした。

 1635年(寛永12)にいわゆる第3次鎖国令が発布され、密航は死罪となっていました。幕府は、中国やオランダなど外国船の入港を長崎に限定する一方、日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じたのです。

 その後、島原の乱(1637年)が勃発したので、幕府はさらに鎖国令を厳格化しました。新たな宣教師が国内に潜入するのを防ぐため、1639年(寛永16)に、全ポルトガル船の日本への入港を禁止したのです。これが最終版の第5次鎖国令です。

 こうして1639年以降、佐賀藩と福岡藩は、長崎港の西泊と戸町の両番所に陣屋を築き、交代で長崎の警備を担当するようになりました。当時、長崎奉行は2000~3000石の旗本で,外事案件に対処できる家臣団や軍事力がありませんでした。警備に関しては、近隣の佐賀藩と福岡藩が担当せざるをえなかったのです。両藩は毎年4月に交代し、9月までの貿易期には約1000人が在勤していました(※ https://www.historist.jp/word_j_na/entry/036127/)。

 佐賀藩は、長崎警固を担う幕府の軍役でした。

 重責を担っているのですから、藩士の密航など、あってはならないことでした。密航者を捜索するのは当然のことだったのです。

 そもそも佐賀藩には、忘れることのできない苦い経験がありました。

 オランダ国旗を掲げ、オランダ船を装ったイギリス軍艦フェートン号が入港してきた事件がありました。このフェートン号事件(1808年)の際、佐賀藩の警固の不備が明らかになってしまったのです。

 佐賀藩は警備を担当していましたが、長い間、大した事件も起こらなかったので、定められた警衛人員を勝手に減らしていたのです。その結果、フェートン号が入港し、オランダ船を拿捕した時も職務を果たせませんでした。関係者は責任を取って自害し、藩主も幕府からお咎めを受けました。

 そのような苦い経験があっただけに、再び、幕府が定めたルールを犯すわけにはいきませんでした。石丸らが脱藩して密航という形で渡英したのも、無理はなかったのです。

 さて、藩士が脱藩し、その直後に行方不明になりました。しかも、一人ではありませんでした。当然のことながら、藩主鍋島直正には報告されていたでしょうが、直正は事前にこの件を把握していなかったのでしょうか。

 そもそも藩主直正の許可がないまま、石丸らは密航という大それたことをしたでしょうか。直正はこの密航事件にいくばくか関与していたのではないでしょうか。

 思い起こすのは、当時の社会状況です。

 すでに1863年6月27日には長州藩から5名、1865年4月17日には薩摩藩から19名がイギリスに向けて密航していました。長州藩と薩摩藩は、イギリスと戦った雄藩です。そこから、志ある藩士たちが次々とイギリスに向かったのです。

 情報通の直正はおそらく、そのことを知っていたはずです。

 まず、長州藩からみていくことにしましょう。

■長州藩士たちのイギリス渡航

 長州藩からは、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名がイギリスに渡航しました。いわゆる長州五傑です。

 彼らの写真をご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 上から順に、遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)の配置で写っています。

 この写真は、彼らがロンドンに到着した1863年に撮影されました。蝶ネクタイの正装で革靴を履き、緊張した面持ちでポーズを取っている姿が初々しく、微笑ましく思えます。

 渡航時の年齢は、遠藤が27歳、野村が20歳、伊藤が22歳、井上が28歳、山尾が26歳でした。それぞれが何らかの職務を経験し、時代状況を把握できている年齢だといえます。帰国後はイギリス留学の経験を活かし、さまざまな分野で、日本の近代化に貢献しました。

 それから130年後の1993年、ロンドン大学内に、長州ファイブ(Choshu Five)として、顕彰碑が建てられました。当時、彼らの中の一体、誰が、こんなことを想像したでしょうか。

 先陣を切って渡英した彼らの留学経験が、その後の日本の近代化に大きく影響したことは確かでした。

 まず、彼らの渡航経緯からみていくことにしましょう。

 最初にイギリス渡航を思い立ったのは、山尾庸三(1837 – 1917)と野村弥吉(1843 -1910)でした。

 彼らはなぜ、渡航しようと思ったのでしょうか。先ずは彼らの来歴から見ていくことにしましょう。

■山尾庸三

 山尾庸三(1837-1917)は、長州藩重臣の息子でした。1852年(嘉永5)に江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事した後、江川塾の門弟となりました。

 江川塾とは、幕臣の江川英龍(1801-1855)が、高島流の砲術をさらに改良した西洋砲術の普及を目的に、全国の藩士に教育するため江戸で開いた塾でした。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨などが彼の下で学んでいました(※ Wikipedia)。

 山尾はおそらく桂小五郎から、江川塾のことを聞いたのでしょう。江川は海防ばかりか造船技術の向上にも力を注ぎ、1854年(嘉永7)に日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処も差配していました(※ https://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page010.html)。

 江川は、爆裂砲弾の研究開発や近代的装備による農兵軍の組織までも企図していましたが、結局、激務で体調を崩し、1855年(嘉永8)に亡くなってしまいます。学びながら実践を繰り返す江川の影響を山尾が深く受けていたことは確かでした。

 1861年(文久元年)、山尾は幕府の船「亀田丸」に乗船し、ロシア領のアムール川流域を査察しています(※ Wikipedia)。

 実は、ロシアの南下政策に備えるため、幕府は1799年(寛政11)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にし、幕府が外交上の問題に直接、関与できる体制を築き上げていました。1802年(享和2)には、蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所に奉行所を建てていたのです。

 ところが、懸念すべきこともなく過ぎたので、幕府は1821年(文政4)、箱館奉行の役割を終了させました。財政難でしたし、対外関係の緊急課題は去ったと判断したからでした。

 ところが、ペリー艦隊が浦賀に来航し、和親条約を結んだ後、1854年(安政元年)4月に箱館に入港してきました。幕府は慌てて、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、幕府直轄地に戻しました。

 再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との外交交渉、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。

(※ https://hakodate-bugyosho.jp/about1.html#:~:text=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AF%9B%E6%94%BF11,%E6%89%80%E3%82%92%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 上図で、赤で囲われている箇所が、箱館奉行所です。

 山尾は1861年にアムール川流域を視察した後、箱館に滞在して武田斐三郎(1827- 1880)に師事し、航海術と英語を学びました。

 武田斐三郎は、ロシアのプチャーチンやアメリカのペリーとの交渉の場に通訳として参加していただけではなく、箱館奉行所では武器の製造まで担当していました。まさに海防を担うにはふさわしい人物でした。

 山尾が箱館に滞在して、武田に師事したのも当然のことでした。次々と押し寄せてくる欧米ロシアの艦隊に対応するには、まず、航海術と英語を学ばなければなりませんでした。

 山尾が海防に関心を抱いていたのは、実際にアムール川流域を視察してロシアの南下政策を実感しただけではなく、地元長州藩もまた海防を考えなければならない地政学的位置づけにあったからでしょう。

 地図を見ると、長州藩は日本海に面している一方、瀬戸内海への入り口である下関海峡にも面しています。

(※ https://www.touken-world.jp/edo-domain100/choushuu/

 実際、幕末には、この界隈を欧米列強の船が次々と押し寄せてきました。頑丈な装備の船が海上を通過するのを見るたび、人々は、危機感を抱いていたに違いありません。山尾が航海術や英語力を高めなければならないと考えるのは当然のことでした。

 彼は単に書物から学ぶだけではなく、実践も積み重ねてもいました。

■留学願いを藩に提出

 1863年(文久3年)3月、山尾は、長州藩がジャーディン・マセソン商会から購入した「癸亥丸」の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行しています。この時、「癸亥丸」の船長を務めたのが野村弥吉でした。

 二人は相通じるところがあったのでしょう。帰藩すると、山尾と野村はただちに、イギリス留学の願いを藩に提出しました。彼らとは別に、井上馨(1836 – 1915)も洋行願いを出しており、3名の渡英が決定されました。後に、伊藤博文と遠藤謹助が加わり、渡航者は結局、5名となりました(※ Wikipedia)。

 藩主毛利敬親(1819-1871)が藩命を下し、5名のイギリス留学が決定したのですが、当時、日本人の海外渡航は禁止されていました。そこで、5名は脱藩したことにし、密航者扱いで渡英しています。

 ちなみに、渡航前に英会話ができるのは野村だけで、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度だったそうです(※ Wikipedia)。

 井上と野村は藩主の許可を得ると、早々に京都を発ち、6月22日に駐日イギリス総領事エイベル・ガウワー(Abel Anthony James Gower, 1836-1899)を訪ねて洋行の志をのべ、周旋を依頼しました。そして、6月27日、彼の斡旋でジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)商会の貿易船チェルスウィック(Chelswick)号で横浜を出港しました。

 ロンドンに着いたのが、1863年11月4日でした。

■長州藩の留学生を支えたヒュー・マセソン

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) らは、イギリス人化学者ウィリアムソン(Alexander William Williamson, 1824 – 1904)の斡旋で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部に聴講生の資格で入学することができました。そればかりか、ウィリアムソンの家に寄留させてもらい、留学生の化学教育も彼が担当してくれました。

 至れり尽くせりの待遇ですが、それは、現地の大物起業家ヒュー・マセソンが手配してくれたからでした。

 ヒュー・マセソン (Hugh Matheson、1821-1898)は、マセソン商会 (Matheson and Company) のシニアパートナーで、リオ・ティント鉱業グループの創設社長でした。

 彼は1863年に、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィックから、日本人留学生の世話を頼まれました。そこで彼は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学教授であるアレクサンダー・ウィリアムウィリアムソンを紹介するとともに、同大学への聴講学生登録の便宜を計ったのです。

 長州藩からの留学生は皆、このUCLで学びました。

 山尾庸三と野村弥吉(井上勝)は、約6年間にわたってヒュー・マセソンの世話になり、最先端技術を習得することができました。

 たとえば、山尾庸三はUCLで2年間、英語と基礎化学を学び、修了後、成績優秀者として優等賞を授与されています。分析化学で4位、理論化学で10位でした。

 その後グラスゴーに移り、やはりヒュー・マセソンの紹介で、グラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けながら、夜はアンダーソン・カレッジ(後に、the University of Strathclyde)の夜学コースで学びました。

 その間、ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン(Colin Brown)の自宅に下宿しています。

 また、野村弥吉は、1868年(明治元年)まで、UCLで鉱山技術や鉄道技術などを学び、同年9月、無事、UCLを卒業してから帰国しました。留学した藩士のうち、山尾と野村が最も長くロンドンに滞在したことになります。

 井上馨と伊藤博文の滞在はわずか1年でした。下関戦争が勃発したので、彼らは急遽、帰国したのです。残った3人は、1865年(慶応元年)にイギリスに留学してきた薩摩藩第一次英国留学生と出会い、異国での交流を喜び合いました。

 その後、遠藤謹助(1836-1893)は病気が悪化し、1866年(慶応2)に帰国しました。残ったのは野村と山尾とふたりです。彼らは遠藤が去った後も2年にわたって勉学に励み、明治元年9月、無事、UCLの卒業を果たしました。

 木戸孝允からは、再三、「母国で技術を役立てるように」と要請されていました。そこで、卒業を機に11月、山尾と野村は帰国の途に就きました。

 こうしてみてくると、長州藩士たちの留学生活はきわめて恵まれたものであったように思えます。

 なぜかといえば、井上と野村がまず、駐日イギリス総領事に留学の斡旋を依頼したからでしょう。その結果、総領事の斡旋で、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィック(William Keswick, 1834–1912)を紹介してもらうことができました。渡航の手配から現地での留学手続きまで、マセソン商会の関係者がさまざまな便宜を図ってくれたのです。

 イギリスで影響力のある人物に依頼したので、現地での留学生活がスムーズに運んだのではないかという気がします。ヒュー・マセソンが地元の実業界、教育界の大物だったので、有用な人物を知り合うことができ、学習の機会も、実践の機会も与えられましたのでしょう。

 伊藤博文と井上馨は長州藩の事情、遠藤謹助は病気の悪化で、早期に帰国せざるをえませんでしたが、彼らは帰国後、新政府の下で大活躍をしています。

 野村と山尾は5年余も滞在し、学業を全うしてUCLを卒業しました。帰国後、山尾は工部省の設立に尽力し、科学技術の振興に貢献しました。野村は鉄道事業に携わり、その発展に寄与した結果、日本の鉄道の父と呼ばれるほどになりました。

 なぜ、彼らが大活躍できたのかといえば、密航という形を取りながらも、正規のルートで留学し、所定の課程を学修することが出来たからではないかと思います。彼らにはなによりも、長州藩の藩命があり、駐日イギリス大使の斡旋があり、マセソン協会の支援がありました。

 だからこそ、理論から実践に至る西洋の科学技術をある程度、身につけることができ、日本に持ち帰ることができたのだと思います。

 それでは、薩摩藩の場合はどうだったのでしょうか。

■薩摩藩士の渡航と薩英戦争

 薩摩藩からイギリスへの渡航者は19人でした。渡航した19名のうち、16名が撮影された写真があります。

(※ https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/takarabako/shiseki/satsumahan.html

  これら留学生の中には、寺島宗則(1832-1893)や五代友厚(1836-1885)が含まれています。いずれも薩英戦争が勃発した際、乗船していた汽船が拿捕され、捕虜になった経験のある薩摩藩士です。

 実は、薩摩藩のイギリス渡航と、この薩英戦争とには深い関係がありました。

 薩英戦争(1863年8月15日 – 17日)とは、薩摩藩とイギリスの間で起こった武力衝突です。1862年(文久2)9月14日に、横浜港付近の生麦村で発生した事件を巡る戦闘でした。

 生麦事件の解決とその補償を迫るイギリスと、それを拒否しようとする薩摩藩が、鹿児島湾で激突したのです。

 その経緯を簡単に説明しておきましょう。

 1863年8月15日にイギリス艦隊5隻が、薩摩藩の蒸気船3隻の舷側に接舷し、イギリス兵50~ 60人ほどが乱入してきました。薩摩藩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷し、乗組員を強制的に陸上へ排除し、船を奪い取ってしまったのです。

 このとき、船奉行添役として乗船していた五代友厚や船長の寺島宗則は、捕虜としてイギリス艦隊に拘禁されました。

 捕虜となっていた五代友厚は、西洋の技術を目の当たりにし、圧倒的な差を実感しました。

(※ Wikipedia)

 その後、解放されましたが、イギリス軍の捕虜になって罪人扱いされていた五代友厚は、そのまま薩摩藩に帰るわけにもいきませんでした。幕吏や攘夷派から逃れるためにも、長崎に潜伏せざるをえなかったのです。

 長崎には出島があり、外国人居留地がありました。さまざまな人が行き交い、いろんな噂が流れていました。それらの情報を見聞きするにつれ、五代は時代が大きく変化していることを実感するようになりました。

■五代友厚が出した上申書

 長崎に滞在している間に、五代はトーマス・グラバーと懇意になりました。グラバーから世界情勢を聞き、列強の動きを知るにつけ、国の未来に危機感を募らせていきました。なんとかしなければと思うようになった彼は、1864年6月頃、薩摩藩に、今後の国づくりに関する上申書を提出したのです(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 それは、「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ、世界の大勢に遅れ、国の発展に役立たない」というような内容でした。新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、さらには、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)などが書かれていました(※ 前掲URL)。

 五代は、長崎でさまざまな情報に接するにつけ、また、グラバーから世界情勢を知るにつけ、時代は刻々と変化していることを実感しました。そして、時代を大きく変化させている中心が、西洋の科学技術だということを察知したのでしょう。

 藩への上申書には、最新技術を導入して藩の産業を近代化すること、西洋の最先端技術や知識を習得するため留学生を派遣すること、外国人技術者を起用し、最新技術を移入すること、などが喫緊の課題として盛り込まれていました。

 こうした五代の上申書が契機となって実現したのが、薩摩藩主導のイギリス留学でした。

■薩摩藩遣英使節団

 長州藩との違いは、薩摩藩首脳が英国留学の必要性を認め、正式の使節団として渡航者たちをイギリスに送り出したことです。藩士五代友厚の上申書に基づくものだったとはいえ、薩摩藩藩主や首脳部は彼の危機感を共有しました。そして、藩の未来を託して使節団のメンバーを構成したのです。

 薩摩藩は、英国への留学生派遣を、近代化に向けた継続的な事業と考えていたのでしょう。人選から、費用、寄留先まで薩摩藩が引き受けています。未来を託した留学生は、薩摩藩開成所で学ぶ者の中から選ばれました。

 1865年2月13日、視察員4人と留学生15人が選ばれ、藩主から留学渡航の藩命が下されました。当時は、日本人の海外渡航は禁止されていたので、表向きの辞令は、「甑島・大島周辺の調査」というものでした。しかも、万が一の場合を考え、一人ひとり、藩主から変名を与えられていました(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 海外渡航が漏れれば、密航者として扱われ、死罪になりました。まだ日本人の海外渡航は禁じられていたからこそ、変名まで用意しなければならなかったのです。

 1635(寛永12)年以来、鎖国政策の一環として日本人の海外渡航が禁止されてきました。解禁されるのは、1866年(慶應2)でした(※ 鈴木祥、「明治期日本と在外窮民問題」、『外交資料館報』第33号、2020年、p.21.)。

 幕府はすでに1860年(万延元年)に遣米使節団を送っており、1862年(文久2)にも遣欧使節団を送っていました。欧米との交渉が不可避になりつつあったのです。そのような状況下で、薩摩藩が独自の遣英使節団を送ったとしても不思議はありませんでしたが、幕府以外は、まだ密航者扱いでしか海外渡航できなかったのです。

 薩摩藩がイギリス渡航する頃はまだ解禁されておらず、十分に警戒する必要がありました。こうして準備万端整えた留学生ら一行は、1865年4月17日、グラバーが用立てた蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、鹿児島県の先端、羽島沖を出発しました。

 次に、渡航者のメンバーをみておくことにしましょう。

■渡航者の内訳

 薩摩藩遣英使節団は、新納久脩(32歳)を使節団長として、五代友厚(27歳)、松木弘安(寺島宗則、32歳)らの外交使節団と、薩摩藩開成所学頭の町田久成(27歳)と留学生14人、通訳1名から構成されていました。

 留学生はいずれも薩摩藩開成所の生徒で、中には、13歳から17歳までの10代が5名含まれていました。

 薩摩藩開成所とは、1864年(元治元年)に設置された薩摩藩の洋学校です。中国の『易経』の中の故事にちなみ、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを奨励する意味が込められています。翻訳や学問だけでなく、みずから学びを実践に繋いでいくという意図があるといわれています(※ Wikipedia)。

 リストの中に、後に政治家、外交官、思想家、教育者として活躍する森有礼の名前がありました。当時、17歳でした。

 留学生の中で一人、「長崎遊学生」という肩書きでリストに載っていたのが、中村博愛(22歳)です。調べてみると、薩摩藩の子息でした。長崎でオランダ医学、薩摩藩開成所で英語を学んでいたので、『長崎遊学生』なのでしょう。薩摩藩の留学生として選ばれ、イギリスでは化学を学び、明治政府の下では、外交官、官僚、政治家として活躍しています。

 このように渡航者リストからは、薩摩藩の将来ビジョンが見えてきます。新しい時代を切り開いていこうとする信念の下、まずは、西洋技術を学び、欧米列強に対抗できるよう近代化を進めようとする展望です。

 渡英した彼らを記念し、鹿児島中央駅の前に、「若き薩摩の群像」が設置されています。

(※ Wikipedia)

 手を高く掲げる者もいれば、胸を張って遠くを見つめている者もいます。まさに、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを胸に刻んでいるように見えます。それぞれが大きな希望を抱いて渡航したのでしょう。未来に向かって突き進もうとする様子に力強さが感じられます。

 薩摩藩は、藩士たちを使節団として構成し、イギリスに向けて送り出しました。意欲ある若者に将来を託していたからでした。

 思い返すのは、佐賀藩の対応です。

 佐賀藩は、藩士を積極的に海外渡航させることはしませんでした。むしろ逆に、脱藩して密航した石丸らに、追っ手を差し向けていました。

 もちろん、深追いさせず、早々に引き上げさせています。とはいえ、密航者に追っ手を差し向けるという対応からは、佐賀藩が幕府の命に背くことを極端に恐れているように思えます。おそらく、当時なお、フェートン号事件の苦い経験が尾を引いていたからでしょう。

 藩主の直正は、長州藩や薩摩藩が決行した密航留学について、どのように思っていたのでしょうか。

 少なくとも、薩摩藩の一行が、グラバーが手配した貿易船に乗り、鹿児島沖から密かに出航したことは知っていたはずです。

■鍋島直正とグラバー

 アンドリュー・コビング(Andrew Cobbing, 1965- )氏は、『鍋島直正公伝』や『長崎談叢』の記述を踏まえた上で、次のように概括しています。

 直正が、「素より法を守るに厳格なれば、表面には敢て之を軽々に看過せられぬ」と主張したと紹介する一方、後年、グラヴァ―自身が、「石丸と云ふ人と馬渡と云ふ人を閑叟公から頼まれて英吉利へやった」と回想していたと記しています(※
アンドリュー・コビング 、『幕末佐賀藩の対外関係の研究』、鍋島報效会、1994年3月、p.76.)。

 この記述からは、直正の微妙な立場がよくわかります。

 佐賀藩は、長崎警護を担当していましたから、幕府の鎖国禁止令に背くわけにはいきませんでした。そうかといって、長州藩や薩摩藩が次々と藩士をイギリスに渡航させているのを、ただ指をくわえて眺めているわけにもいかなかったのでしょう。

 興味深いことに、直正は1865年5月22日にグラバーに面会しています(※ 前掲。p.76.)

 二人がどんな用件で会っていたのかはわかりませんが、時期が時期だけに、気になりました。薩摩藩の藩士19名がイギリスに発った直後であり、石丸安世らが密航するまでに5カ月あります。この5カ月を留学の諸手配をするのに必要な期間だとみることもできます。

 もちろん、別件でグラバーに面会していた可能性もあります。グラバーは、直正にとって商取引の相手でした。商用でたまたま、この時期に会っていただけなのかもしれません。

 佐賀藩は1854年3月から、マセソン商会から委託されたグラバー商会を通して高島炭を、上海や香港に輸出するようになっていました。蒸気船の燃料として、カロリーの高い塊炭である高島炭が、欧米諸国から求められたからでした(※ 森 祐行、「日本における選炭技術の変遷とその後の展開」、『資源処理技術』vol.45, No.2、1998、p.16.)。

 佐賀藩内の高島炭鉱から産出される塊炭は、当時、東アジアを航行していた欧米の蒸気船の燃料として需要が高かったのです。直正は藩政改革に伴う財源として、欧米からの需要の高い高島炭に目をつけました。

 高島炭の取引で、直正が頼りにしたのはグラバー商会でした。

 西洋の技術による高島炭鉱の開発と、高島炭を海外に販売するため、直正は1868年、佐賀藩とグラバー商会との合弁会社を設立しています(※ 前掲、p.17.)。

 もっとも、合弁会社の件は石丸らの密航事件とは直接、関係していないでしょう。石丸らの密航事件は1865年で、合弁会社設立の3年後です。注目すべきは、直正とグラバーの間にはすでに商取引の関係があり、知己の間柄だったことです。

 直正は必要とあれば、いつでも、グラバーに渡航を依頼することができたのです。しかも、石丸はグラバーとは懇意な関係でした。

 なにより、グラバーは、長州五傑のイギリス渡航の手配をし、薩摩藩遣英使節団のイギリス留学の世話をしていました。日本人渡航禁止の時代に、渡英、現地での滞在、教育機関の手配といった重責を担う役割を果たしていたのです。

 グラバーはまさに、幕末日本とイギリスとを繋ぐキーパーソンだったといえます。

 果たして、グラバーはどのような人物だったのか、石丸はなぜ、彼と知り合いになったのか、簡単に見ておきましょう。

■グラバーと石丸安世

 スコットランド・アバディーンシャーで生まれたグラバー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)は、1859年(安政6)に上海へ渡り、当時、東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン(Jardine Matheson )商会に入社しました。同年9月19日、開港後まもない長崎にやって来ると、同じスコットランド人K・R・マッケンジー(K.R. Mackenzie)が経営する貿易支社に勤務しました(※ Wikipedia)。

 グラバーが長崎にやって来たのは1859年、21歳の時でした。この時、石丸は、長崎海軍伝習所で航海術や語学などを学んでおり、3年目を迎えていました。25歳でした。

 石丸安世は、藩校弘道館で儒学や武術を学んでいましたが、1854年(安政元年)に藩主の直正に命じられて蘭学寮に入り、物理や化学など西洋の科学技術を修めています。

 直正は、弘道館で学んでいた16、17歳の生徒の中から、成績の優秀な生徒を選んで二つに分け、家格の低い藩士の次男、三男に蘭学寮で、物理や化学などを学ばせました。この時、秀才として選ばれ、蘭学寮に入ったのが、石丸安世、小出千之助、江藤新平らでした(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00367689/index.html)。

 蘭学寮は、佐賀藩年寄であった朱子学者の古賀穀堂(1777 – 1836)の具申書「学政管見」に基づき、1851年(嘉永4)に設置されました。西洋の科学技術の必要性を痛感していた鍋島直正が古賀の提案を受けて設立したのです。

 直正は、上級家臣から下級武士まで全藩士の子弟の入学を求めました。優秀な成績を収めれば、身分にかかわらず抜擢していきました。その一方で、25歳までに成果を収めなければ、家禄を減らし、役人に採用しませんでした。厳しい「文武課業法」を制定し、徹底して藩士の子弟たちに勉学を推奨したのです。

 直正が構築した教育システムは、家格で役職が決まる当時の門閥制度に風穴を開ける教育改革といえるものでした(※ 前掲。URL.)。まさに能力主義の教育システムであり、近代化を推進できるメンタリティを涵養するシステムでもありました。

 石丸はこの蘭学寮で勉学を修めると、1856年(安政3)、再び、藩主に命じられて、長崎海軍伝習生になりました。以後、海軍伝習所が閉鎖になる1859年までここで学んでいます。

 海軍伝習所とは、江戸幕府が1855年(安政2)に長崎で開設した海軍士官の養成機関です。幕臣や雄藩の藩士の中から生徒を選抜し、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術、化学、医学、測量等などの諸科学を学ばせていました。軍艦操練所が築地に整備されたので、1859年(安政6)に閉鎖されています(※ Wikipedia)。

 安政期の伝習所を考証し、復元した図があります。陣内松齢が描いたもので、現在、鍋島報效会に所蔵されていますので、ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NagasakiNavalTrainingCenter.jpg

 多数の和船が行き交う中、図の右上に、ちょうど扇形の出島の先辺りに、黒煙をはいている船が見えます。これが、オランダから提供された木造の外輪蒸気船スンビン号です。実際にこのような蒸気船を使って、生徒たちは航海術などの勉強をしていたのです。

 スンビン号は、1855年(安政)に、長崎海軍伝習所の練習艦として、オランダから幕府に贈呈された軍艦です。 幕府にとって初めての木造外車式蒸気船でした。

 この蒸気船を描いた作品がありました。作者はわかりませんが、1850年に制作されています。ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paddle_steamer_Soembing_gift_by_King_William_III.jpg

 海軍伝習所では、軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学などが教えられていました。海軍士官として欧米に対抗できるような教育を行っていたのです。ところが、1859年(安政6)、築地の軍艦操練所が整備されたので、長崎海軍伝習所は閉鎖されてしまいました。

 閉鎖後、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍で活躍したそうです(※ Wikipedia)。

 ところが、石丸はそのようなコースを歩んでいないのです。海軍伝習所が閉鎖された後、その英語力を買われた石丸は、貿易業務のために、藩の英語通訳として長崎に赴任していました。主な業務の傍ら、長崎の外国人居留地に出向いては、彼らから情報収集する業務も担当していたそうです(※ Wikipedia)。

 1861年(文久元年)、石丸安世は、小出千之助、中牟田倉之助、大隈八太郎(重信)、馬渡八郎らと共に英学を学ぶよう命じられ、長崎英語伝習所で学び始めます。外国人から直接、学べるということで評判になっていました(※ Wikipedia)。

 1861年、石丸は再び、藩命で長崎に滞在し、今度は英語を学び始めることになったのです。西洋の最先端技術を学ぶにはまず、英語を学ばなければならないというのが直正の見解でした。

 一方、グラバーは1861年、長崎を去ったマッケンジーの事業を引き継ぎ、フランシス・グルーム(Francis Groom)と共に、「グラバー商会」を設立しています。フランシスは、神戸を開発したアーサー・グルーム(Arthur Hesketh Groom, 1846-1918)の兄でした。

 石丸が再び、長崎英語伝習所で学ぶようになった頃、グラバーはグラバー商会を立ち上げ、オーナーとして貿易事業を采配するようになっていました。

 当初は生糸や茶の輸出を中心とした貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となっていました。

 ところが、1863年に、尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除した文久の変(文久3)が起こると、これからは政治的混乱状態になると予想したのでしょう。グラバーは、討幕派の藩であれ、佐幕派の藩であれ、幕府であれ、要求があれば誰にでも、武器や弾薬を販売し始めました。

 グラバーは、刻々と変化する日本の政治情報を渇望しました。一方、石丸は欧米列強の日本に関する情報を必要としていました。

 グラバーと石丸が長崎で出会い、懇意になっていた可能性が出てきました。

■直正は、石丸らの密航に関与していたのか

 長崎英語伝習所で英語を学び、英語力を鍛えました。長崎の居留地に行っては、外国人を相手に会話力を磨いていたのでしょう。石丸安世は、佐賀藩随一の英語の達人だったといわれるようになっていました。

 石丸は英語力だけではなく、コミュニケーション能力、状況判断力、情勢分析力なども秀でていました。貴重な人材です。藩主の直正が見逃すはずはありませんでした。

 1863年(文久3)の下関戦争、薩英戦争の際、石丸は、英字新聞から戦況を把握し、戦闘の様子や損害について、逐一、藩に報告を送り続けていました。英語を理解できる人が皆無に近い状況下で、石丸は、欧米の情報収集およびその分析を一手に引き受けていたのです。

 このように、諜報活動ともいえる役割を与えられていたのですから、石丸と直正の間には絶大な信頼関係があったに違いありません。

 しかも、脱藩して密航したのが、下関戦争、薩英戦争の後です。とても、直正に無断で密航を決行したとは思えません。

 この件について、コビング氏は資料に基づき、諸状況を考え合わせた上で、次のように推測しています。

 「長崎にいた石丸が他藩の密航に関する情報を拾いながら、留学に対する興味をグラバーに示した結果、グラバーが石丸を誘い、最後に許可を下した直正がグラバーに依頼する展開であったのではないか」というものです(※ 前掲。p.76.)

 懇意にしていた石丸を留学させたいと思ったグラバーが、そのことを直正に伝え、直正が内密にその許可を与えたのではないかというのがコビング氏の見解でした。

 グラバーが求める日本の政治情報を伝える一方、石丸は、巷で噂になっている他藩の密航情報について、グラバーに確認していたのかもしれません。将来を考えれば、海外渡航は必然でした。グラバーに熱い渡航の思いを打ち明けていたとしても不思議ではありません。

 さらに、コビングは次のようにも記述していました。

「鍋島河内が「英国グラバが私費を以て石丸、馬渡を本国に遊ばしめたる」と述べたように、グラヴァ―が佐賀藩士二人の留学費用を負担する事になった」(※ 前掲。コビング、p.76.)

 佐賀藩二人の渡航費、滞在費用等をグラバーが支払ったというのです。それは事実だったのかもしれませんし、グラバーが支払った体にして、実際は直正が費用を出していた可能性もあります。

 実際に直正はグラバー商会と商取引がありました。後に合弁会社を設立するぐらいですから、グラバーが石丸らの費用を負担したとしても、それは、両者の取引の一環といえます。いずれにしても、直正が石丸らの渡英に関与している痕跡を残したくなかったことだけは明らかだといえるでしょう。

■幕末のイギリス留学、三藩三様

 さて、長州藩、薩摩藩に引き続き、佐賀藩も藩士が密航してイギリス留学を果たしました。いずれもイギリス人の手を借りて、渡航や留学、滞在の手配をすることができ、現地で学ぶことができました。

 海外渡航が禁止されていた時代のイギリス留学が、欧米の現状を把握し、西洋の科学技術を学ぶための突破口となったことは確かです。その後、有為の士が海外を目指しました。とはいえ、こうして振り返ってみると、幕末のイギリス留学も三藩三様だったことがわかります。

 藩と幕府との関係、藩とイギリスとの関係、藩の将来ビジョンといったようなものが関係していたのでしょうが、最も大変だったと思われるのが、佐賀藩藩士の渡英でした。

 藩からは正式に認可されることなく、渡英しており、渡航から留学、滞在に至るまでもっぱらグラバー頼みで行われました。他藩の場合とは違って、佐賀藩の場合、石丸とグラバーの個人的な信頼関係から、イギリス留学が実現したのです。

 石丸は1834年生まれで、グラバーは1838年生まれですから、二人は4歳違いです。石丸は英語の達人といわれるほどでしたから、お互いに打ち解け、何でも話し合える関係になっていたのかもしれません。

 有能な人材に、イギリスでの学習機会を与えたいという思いが、グラバーの積極的な支援になっていたように思えます。激動の時代を生きた二人が、洋の東西を越えて認め合い、好感を抱き、心の交流を積み重ねた結果といわざるをえません。(2024/3/16 香取淳子)