■百武、リチャードソン・ジュニアから油彩画を学ぶ
百武がロンドンに滞在していた頃の作品は、油彩画13点、水彩画1点でした。これらの中で人物を中心に描いた作品はきわめて少なく、現存しているものの中では、前回、ご紹介した《母と子》だけでした。
中には人物を点景として添えられた作品もありますが、風景の比重が高く、すべてが風景画といえるものでした。
おそらく、百武が師事していた画家が、風景を専門とするトーマス・マイルズ・リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr., 1813-1890)だったからでしょう。
果たして、百武はロンドンで、どのぐらい絵を描いたのでしょうか。
百武がロンドン滞在中に描いた作品を見ると、画面に制作年が描き込まれているのは、油彩画7点、水彩画1点でした。最も早いのが1876年で4点、他の4点はいずれも1878年です(※ 三輪英夫編『近代の美術53 百武兼行』、至文堂、1979年、p.33.)。
公務で忙しかったにもかかわらず、1876年と1878年に集中して制作していたことがわかります。
百武は1874年に油彩画を学び始めていますから、1876年といえば、ちょうど油絵の描き方を一通りマスターした段階です。この期間に制作点数が多いのは、学んだばかりの技術を確実なものにするため、さまざまな画題の下で、実践していたのでしょう。
私は単純にそう思ったのですが、三輪氏は別の見解を示しています。
百武が1876年に数多く制作していたことについて、三輪氏は、「明治八年の末か九年の春には、アカデミーに絵を出品する」という、『光風』での記述と合致すると述べているのです(※ 前掲)。
『光風』に掲載された「百武伝」に、「アカデミーに絵を出品する」という記述があったことから、三輪氏は、この時期、百武が数多くの作品を制作したことはアカデミーに出品するためだったと解釈しているのです。
アカデミーに出品したとされているのが、《田子の浦図》と《日本服を着た西洋婦人像》です。タイトルからはどうやら、いずれも日本的要素を織り込んだ作品のようです。三輪氏によれば、《日本服を着た西洋婦人像》は好評を博したそうですが、残念ながら、紛失しており、現在は見ることができません。
受賞できなかったとしても、油彩画を学び始めて間もない百武が、アカデミーに出品しようとしていたことには驚きました。油彩画を学ぶ機会を与えられたからには、それなりの結果を示さなければならないという思いだったのでしょうか。
ちなみに、百武が師事していたリチャードソン・ジュニアは、1832年から1889年の間、ロイヤル・アカデミーその他に出品し続けていました。制作すれば、発表し、出来栄えを世に問うのは、画家として当然のことだったのです。
師を見倣って、百武もまた、アカデミーに出品しようとしていたのかもしれません。
それでは、百武にとってリチャードソン・ジュニアは、どのような師だったのでしょうか。まずは、リチャードソン・ジュニアの画家としての来歴を見ておくことにしましょう。
■リチャードソン・ジュニアの来歴
リチャードソン・ジュニア(Thomas Miles Richardson Jr. , 1813-1890)は、トーマス・リチャードソン(Thomas Miles Richardson Sr. ,1784-1848)の三男として、ニューカッスルで生まれました。
風景画家であった父の指導を受け、リチャードソン・ジュニアは、地元ニューカッスルで画家としてのキャリアをスタートさせています。はじめて展覧会に出品したのは、14歳の時でした。その後も描き続けて、技術を磨き、次第に才能を開花させていきました。1830年代には、水彩による風景画は高く評価されるようになり、商業的にもかなりの成功を収めるようになっていました。
こうして地元で活躍する一方、リチャードソン・ジュニアは、英国協会とロンドンのロイヤル・アカデミーにも、作品を送り続けていました。権威付けが欲しかったのかもしれませんし、活動の舞台が地元ニューカッスルだけでは物足りなかったのかもしれません。いずれにしても、このことからは、画家として生きていく決意を固めていたことがわかります。
彼が好んで描いたのが、イングランド北東部、あるいは、スイスやイタリアのアルプス地方の景色でした。そのような高原の風景を求め、国内、国外を問わず、さまざまな場所に旅行しました。1837年には、フランス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダを旅行し、それぞれの景色をスケッチしています。
1838年にはそれらのスケッチをまとめ、26枚の図版で構成された『大陸のスケッチ』(“Sketches on the Continent”)というタイトルの大型画集を出版しています。図版のうち11枚は、彼自身が制作したリソグラフでした。(※ https://www.stephenongpin.com/artist/236675/thomas-miles-richardson-jr)
リチャードソン・ジュニアにとって初めての画集、『大陸のスケッチ』は、A Ducotes & C. Hullmandells Lithographic Practicals で印刷されました。56×38cmの大型本で、再版はされなかったようです。(※ https://www.mountainpaintings.org/T.M.Richardson.html)
その『大陸のスケッチ』に収められた作品の一つが、大英博物館に所蔵されています。
タイトルは《Ascending the Gt St Bernard》です。
(リソグラフ、紙、26×35.4㎝、1838年、大英博物館蔵)
伸びやかな筆の動きが印象的な作品です。背後に見える山並みは、まるで水墨画かのように淡く、稜線だけがくっきりと描かれています。画面中央には、二人の人物と馬が配されていますが、その周囲は無彩色で表現されています。そのせいか、画面全体に落ち着きと静謐さが感じられます。抽象的で、しかも、柔らかな風景表現に、日本の水墨画との親和性が感じられます。
この作品は、次のように説明されていました。
「道に二人の人物が描かれている山の風景。一人は馬に乗り、もう一人は馬から降り、杖を手に、足には犬を連れて馬の横に立っている。 リチャードソンの「大陸のスケッチ」より。」(※ https://www.britishmuseum.org/collection/object/P_1959-0411-15)
画集の説明書きをそのまま引き写したものなのでしょうが、あまりにも素っ気なく、即物的な説明です。
背後に連なる山並みの表現には、風景画家としてよく知られたターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)に通じるところもないわけではありませんが、全般に、淡白で、優しく柔軟な印象があります。その一方で、空白が多く、省略の多い表現が際立っており、西洋画にはあまり見られない画風です。
当時の評論家はこの作品を見て、どう説明したらいいか戸惑ったに違いありません。それほどこの作品には、西洋画にはない柔らかさ、そして、融通無碍な雰囲気がありました。旅行先で見たまま、感じたままを即興で描いたせいか、このスケッチには、筆運びに勢いと伸びやかさがあり、気の流れが感じられます。
なぜ、この作品は東洋的な味わいのある画風なのでしょうか。それが気になって調べてみると、リチャードソン・ジュニアの兄、ジョージ・リチャードソン(George Richardson, 1808-1840)に、似たような印象の作品がありました。
タイトルは《North Shore, Newcastle upon Tyne》です。
(エッチング、シート、サイズ不詳、制作年不詳、所蔵先不詳)
リチャードソン・ジュニアの長兄ジョージもやはり画家を志しており、地元の名簿に「歴史と風景の画家」と自ら宣伝していたほどでした。18歳になると、人物画、風景画、動物画を絵画クラスで教えるようになっており、その後、弟であるリチャードソン・ジュニアと共に、ニューカッスルで美術教室を開いています。(※ https://www.saturdaygalleryart.com/george-richardson-biography.html)
こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアは、風景画家である父親ばかりか長兄からも、絵画的刺激を受け、指導を得られる環境にいたことがわかります。
それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの作品に戻ることにしましょう。
初期作品を見ていくと、リチャードソン・ジュニアにはしては珍しく、油彩画が残されていました。《Highland Lake Scene》というタイトルの作品で、《Ascending the Gt St Bernard》の2年ほど前に制作されています。
■油彩画
それでは、リチャードソン・ジュニアの油彩画、《Highland Lake Scene》を見てみることにしましょう。
(油彩、ボード、25×38.1㎝、1835年頃、Laing Art Gallery蔵)
背景の山並みの描き方が、先ほどの《Ascending the Gt St Bernard》にとてもよく似ています。油彩とリソグラフというメディアの違いがありますが、山が霧にけぶる様子をしっとりと描き出している点では共通しています。
淡く、優しい色で稜線を柔らかく表現し、山と山の狭間は白を加えて暈し、空気遠近法を巧みに取り込んでいるのが印象的です。
手前から中央にかけて、静かな湖面を描き、手前中央に水辺の草むらを配し、その右側に数頭の牛と牛飼いが描かれています。風景画の中にさり気なく、人々の生活シーンが取り入れられています。
引いて見ると、牛飼いや牛は濃い褐色か淡い褐色で描かれているので、風景の中に溶け込んで見えます。人や動物が描かれているのですが、風景の一部として組み込まれてしまっています。
ここにリチャードソン・ジュニアの人間観、自然観が浮き彫りにされているように思えました。人も動物も草木も岩も皆、大自然の一部なのです。
さて、一般に、風景に適したカンヴァスサイズはPサイズといわれ、その縦横比率は1対1.51です。一方、この作品の縦横比率は、1対1.524ですから、ほぼPサイズだといえます。この作品が、風景画として安定感のあるサイズの中に収められていることがわかります。
制作されたのが1835年、リチャードソン・ジュニアがまだ22歳の頃の作品です。ところが、構図といい、配色といい、油彩でありながら、堅苦しくなく、優しく柔らかく、まるで熟達した画家のように洗練された表現が印象的です。
この作品にはすでにリチャードソン・ジュニアの独自性が浮き彫りにされています。
画面には、油彩画ならではの重量感の中に、水彩画のような柔軟性が混在しており、興趣のある作品になっていました。伸びやかな筆遣いには、水彩との親和性が感じられます。この作品を見て居ると、リチャードソン・ジュニアの絵の才能は明らかに、水彩画領域にあるように思えてきます。
水彩画家としての評価を高めていきながら、リチャードソン・ジュニアは、兄であり、画家仲間でもあるジョージとともに、地元ニューカッスルで美術教室を開催し、運営していました。
それでは、再び、リチャードソン・ジュニアの来歴に戻ることにしましょう。
■旧水彩画協会(OWCS)の会員に推挙
1843 年、彼は、「旧水彩画家協会」(Old Water-Colour Society:OWCS) の会員に選出されました。生来の天分に加え、これまでの地道な努力が認められたのです。
OWCSは、1804 年にウィリアム・フレデリック・ウェルズ(William Frederick Wells)によって設立された水彩画家協会です。1812 年には、油彩・水彩画家協会として改組され、その後、1820 年には水彩画家協会に戻りましたが、1831 年に分裂し、新水彩画家協会という別のグループが設立されました。
それを機に、1804 年に設立された方は旧水彩協会、あるいは単にオールド ソサエティといわれるようになり、新水彩画協会とは区別されるようになったのです。
その後、ジョン・ギルバート卿(Sir John Gilbert ,1817 – 1897)が会長だった1881 年に、王立水彩画家協会として王室憲章を取得しました。そして、1988 年には、王立水彩協会(the Royal Water-colour Society)に再び名称変更したという経緯があります。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Watercolour_Society)
このような経緯を見てもわかるように、OWCSは当時、権威のある水彩画家の団体でした。その団体から、リチャードソン・ジュニアは1843年、会員として選出されたのです。30歳の時です。快挙といわざるをえません。
水彩画家としての栄誉にあずかったリチャードソンは、3年後の1846年、ロンドンに移住しました。さらなる飛躍を求め、活動拠点をニューカッスルからロンドンに移したのでしょう。
リチャードソン・ジュニアは、1851 年にはOWCS の正会員になり、以後、77歳で亡くなる、その前年まで、毎年、夏と冬には同協会の展覧会に出品していました。最終的には 700 点を超える水彩画を展示していたそうです。
彼にとって、生きることは各地を旅行し、旅先の風景をスケッチすることでした。スコットランドやイングランド北部、そしてヨーロッパ各地を広範囲に旅行し、気に入った風景を描き、表現力を向上させていきました。
さまざまな場所を訪れ、精力的にスケッチしては作品化し、その成果を展覧会で発表していたのです。その都度、画題に相応しい表現方法を探り、試行錯誤を重ねながら、水彩画の奥義を究めていきました。
名実ともに水彩画家として生き、天分を存分に開花させて、リチャードソン・ジュニアは、画家人生を終えたのです。
風景画家として生きたリチャードソン・ジュニアが追いかけていた画題の一つが、スコットランドにあるベン・ネビス山でした。
■ベン・ネビス山
ベン・ネビス山は、ハイランド地方ロッホアバー地区に連なる、グランピアン山地の西端に位置し、イギリス諸島の最高峰です。スコットランドの山々の中でも、特に、その知名度は高く、地元住民や登山家の間では、「ザ・ベン」として知られています。
現在、ベン・ネビス山への登山者は、年間10万人にものぼっていますが、その4分の3は、ふもとのグレン・ネビスから山の南斜面を進む、「ポニー・トラック」から登るといわれています(※ Wikipedia)。
「ポニー・トラック」は、ベン・ネビス山に登る登山道の一つです。リチャードソンが訪れた頃、人々はもっぱらこの登山道を利用していました。ポニー・トラックは、グレン・ネビスの東側にある海抜20メートルのアチンティーからスタートします。
この登山道は、そもそも、仔馬が天文台に食糧を運ぶための道として作られました。無理なく歩行できるように、この登山道は、ジグザグ道にし、勾配を緩やかにする工夫がされています。
(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)
これは、頂上から見た写真ですが、ジグザグ道のおかげで勾配が緩やかになっているのがわかります。周囲には岩が多く、荒涼とした光景です。
草木の生えた場所もありますが、ベン・ネビス山の頂上に近づいていくにつれ、登山道は岩と小石だらけになります。
(※ http://ben-nevis.com/walks/mountain_track/mountain_track.phpより)
このような険しい地形の風景をリチャードソン・ジュニアは好んで描いていました。
初期の頃は、風景画に適したPサイズで描いていましたが、やがて、パノラマサイズで横長に描くようになっています。高原や山地、湖畔など、広がりのある大自然の魅力を余すところなく表現できるよう、リチャードソンは、作品ごとに工夫していました。
ベン・ネビス山 関連の作品の一つが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》です。
ベン・ネビス山の麓のグレン・ネビスを描いた作品で、OWCSの展覧会に出品されました。
■リチャードソン・ジュニアの作品を評したジョン・ラスキンとは?
美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819- 1900)は、1857年にリチャードソン・ジュニアが OWCSの展覧会に出品 した作品《Glen Nevis, Inverness-shire 》を評し、次のように述べています。
「リチャードソンは徐々に表現力を身につけてきている。コバルト(青)とバーントシェンナ(茶色)を拮抗させて、とても気持ちのいい画面にしている」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland)
まるで以前からリチャードソン・ジュニアを知っているかのような言い方です。実際に知り合いであったかどうかはわかりませんが、少なくとも、作品については知っていたのでしょう。作品の出来栄えの変化を通して画家としての進歩を認めていますから・・・。
ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアとほぼ同時期に生きた美術評論家であり、芸術家のパトロンでした。
オックスフォード大学を卒業した後、長期滞在のためジュネーブを訪れました。そこで手にした雑誌にターナーの批判記事が掲載されているのを見て憤慨し、ターナー擁護のために論文を書きました。それらをまとめて、1843年に出版したのが、『近代画家論』第1巻(Modern Painters, vol.1)でした。
出版の契機となったのは1843年ですが、オックスフォードの学生時代に、ラスキンはこの本を構想しており、実際に書き始めてもいました。ターナーの独創的な構想力に着目していたのです。
当時のターナー(Joseph Mallord William Turner,1775- 1851)は、イギリスを代表する風景画家として一定の評価を得ていました。ところが、一部の批評家からは、彼の風景画は自然に忠実ではないと批判されていました。批判内容は、色彩の面でも、地形的な表現の面でも、明らかに自然の姿に忠実ではないというものでした。つまり、真実の姿を描いていないという批判です。
それらの批判に対し、ラスキンは、「真実は自然の対象に忠実であると同時に、自然を描く画家の観念にも忠実であるのだという、いわば、真実の両義性を根拠に、半ば強引に自然に忠実なるターナー像を主張して」擁護したと、橘高彫斗氏は指摘しています。
(※ 橘高彫斗、「ラスキン『近代画家論』第一巻における風景画鑑賞と享受の過程」、『美学』第71巻1号、2020年6月30日、p.25.)
ちょっとわかりにくいですが、ラスキンは、画家が自然の対象に忠実だということは、一般に、自然をありのままに表現することと捉えがちですが、実は、自然を見る画家の「思考と印象」にも忠実であるべきだと指摘していたのです。
風景画には、自然に対する両義性が必要だとラスキンは考えていました。ところが、ターナーを批判する人々のほとんどが、その片側しか見ておらず、自然を見る画家の「思考と印象」についての側面を見落としているというのです。
描かれた画面を表層的に見るだけで、その真意を汲み取ろうとしないから、ターナーを誤解し、批判するのだとラスキンは考えていました。
風景画の芸術的価値は、自然を単に表層的になぞるだけではなく、画家が自然を見て感じ、内省した心のあり様が画面に反映されていなければならないと、ラスキンは考えていたのです。そのような側面があるからこそ、鑑賞者の心を動かし、感銘を与えるというのです。
ターナーを擁護するためとはいえ、ラスキンは、深い学識と経験、直観力に基づき、風景画のあるべき姿を論理的に組立てていました。
そのラスキンが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)を見て、「表現力を身につけてきている」と評したのです。ラスキンは、以前からリチャードソン・ジュニアの作品に注目していたのでしょう、だからこそ、この作品に進歩の痕跡を見ることができたのだと思います。
『近代画家論』第1巻で、絵画に対する緻密な観察力と考察力を見せたラスキンは、たちまち美術評論家として成功を収め、その後、『ヴェネツィアの石』(The Stone of Venice, 1851-1853)を出版してからは、美術評論家として不動の地位を築きました。
それでは、ラスキンが評した作品、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見てみることにしましょう。
■《Glen Nevis, Inverness-shire 》に見る、コバルトブルー、バーントシェンナ、そして、白
ネビス山の麓にあるのが、グレン・ネビスです。そのグレン・ネビスの渓谷が描かれています。
(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)
やや高みから、グレン・ネビスの渓谷を展望した作品です。両側にごつごつした岩肌が見え、その隙間に白く塗られた枯れ木が何本か見えます。自然の険しさを感じさせられる光景です。
左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいます。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように配されたコバルトブルーが見えます。そして、手前には、差し色のように適宜、散らされた白が目に留まります。
確かに、ラスキンが指摘するように、この作品で目立つのはバーントシェンナ、コバルトブルー、そして、白でした。
褐色や焦げ茶色など、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山の背後に、微かにコバルトブルーの空が見えます。大量の岩山の色とわずかな空の色とが緊張感を保ちながら、画面に一種のハーモニーを奏でていました。
補色関係にある二つの色を、分量に大きな差をつけて配分し、色相差で対立させて緊張を生み出す一方、分量の多寡によってバランスを図っているように思えます。緊張とバランスの塩梅が絶妙でした。
遠方を見れば、淡いバーントシェンナで色づいた濃淡の雲が、青い空の上を軽く覆いかぶさっています。その狭間には、コバルトブルーが、申し訳なさそうにそっと置かれています。その結果、ごくわずかのコバルトブルーが、バーントシェンナの濃淡で覆われた岩山を息づかせ、密やかな躍動感を与えていたのです。
岩で覆われた単調な渓谷を、巧みな色構成でメリハリをつけ、軽やかな筆遣いで、活き活きと描き出していました。
この作品を評し、ラスキンは、「コバルトとバーントシェンナを拮抗させて」と表現していました。画面の造形上のコントラストをさらに劇的に見せているのは、絶妙な色構成の効果だと言いたかったのかもしれません。
白の使い方の巧みさにも触れておく必要があるでしょう。
青空を覆い隠す淡いバーントシェンナで表現された厚い雲、そして、その狭間にごくわずかに置かれた白が、背後から射し込む陽光を表すとともに、画面に明るさを添え、快さを感じさせてくれます。
背後の山波の稜線にも、見え隠れするように白が置かれ、それらは雲のようであり、光の反射面のようにも見えます。単調になりがちな渓谷の風景が、エッジの効いた白の使い方で画面が引き締めら、興趣あるものになっています。
画面手前には、枯れ木や馬、人の衣服が、白でアクセントをつけて、描かれています。渓谷で暮らす人々の生活の一端が、さり気なく表現されていました。色彩によって振り分けられた硬軟の塩梅が絶妙でした。
■モチーフの組み合わせ
ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフに触れ、それらが、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の中でも使われていたとし、次のように説明しています。
「彼は常に、高原の風景を、同じモチーフを様々に組み合わせて描いているが、それはメドレーに過ぎない。同じモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所は青く、別の場所は茶色になっている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」
画面をよく見ると、手前に、人や馬が描かれています。まず、岩山の開けた場所に、腰を下ろして語り合っている二人がいます。その傍らで犬がまるで見張っているかのように、顔をこちらに向けています。そして、語らう二人の近くには、男が一人、背を向けて立っており、その傍らで白い馬が草を食んでいます。
険しい岩山の中に訪れた安らかなひと時であり、憩いのひと時が表現されているのです。寄り添って集う人や動物が、軽やかなタッチで描かれているところに、生命あるものの温もりが感じられます。
一方、彼らの周囲を取り巻く、剥き出しになった岩肌は、いかにも荒々しく、強靭でした。そんな中、白い枯れ木が今にも倒れそうになっている様子が描かれています。エッジの効いた白が、辺り一帯に漂う荒涼とした雰囲気をさらに強化していました。
人や動物が休息している場所と、その周囲の殺伐とした光景との対比が、なんともドラマティックです。そのコントラストが、画面に緊張感をもたらし、興趣を添えていました。
ラスキンは、そのような画面の状況を、次のように評していました。
「そのようなモチーフ全体が、さまざまな原酒をブレンドして作ったシャンパンが醸し出す陽気さの影響を受け、快く、楽しいものになるよう企図されている」と述べているのです。(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland)
実際、リチャードソン・ジュニアが描く初期作品のモチーフは、どれもほぼ決まっていました。モチーフの組み合わせに変化をもたせ、作品としての独自性を打ち出す一方、それらのモチーフのハーモニーによって、観客にとっての快さを演出していたのです。
もっぱら峻厳な自然をテーマに描いてきたリチャードソン・ジュニアだからこそ、人や馬、犬といったモチーフを必要としていたのでしょう。それらのモチーフは画面の中で相互に絡み合って、自然の過酷さの中に、ほっとした安らぎをもたらしていました。画面に漲る緊張を、いくばくか緩和させる機能を果たしていたのです。
(2023/9/27 香取淳子)