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香取淳子のメディア日誌
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高市内閣2.0 ②:国家情報局の設置、いつまで「スパイ天国」の名に甘んじようとするのか?

■国家情報局の設置

 2026年2月24日、高市首相は衆議院本会議で、内閣情報調査室を国家情報局に格上げすると表明しました。今国会で提出予定の法案、61本の内の一つが、国家情報局の設置だと述べたのです。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=ew4r5e81Ays

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 国家情報局とは、関係機関から情報を収集して集約し、その分析結果を活用するための組織です。さらに、外国からの不当な干渉を防止するため、必要な制度設計を進め、そのための対策を講じるともいいます。

 前回、ご報告したように、今回の総選挙では、さまざまな人やメディアから中国寄りの情報戦をしかけられたばかりか、SNSを使った巧妙な認知戦も浴びせられました。幸い、中国が企図した結果にはなりませんでしたが、喫緊にカウンターインテリジェンス対策を講じなければならないことがわかりました。

 国家情報局の設置は、自民党と維新の会との覚書にすでに明記されていました。

こちら → https://storage2.jimin.jp/pdf/news/information/211626.pdf

 2025年10月20日に、自民党と維新の会との間で覚書が交わされました。覚書の第5条に、「インテリジェント政策」が設定されており、具体的な内容として6項目挙げられていました。そのうちの一つが、「内閣情報調査室を国家情報局に格上げ」するというものです。

 調べてみると、内閣情報調査室は、1952年に創設されていました。「内調」といわれる組織で、昭和27(1952)年に総理府に内閣総理大臣官房調査室として設置されました。その後、さまざまな機能を追加しながら、現在に至っています。

 今回、自民党が提案しているのが、インテリジェンス機能の強化です。

■カウンターインテリジェンス

 自民党がインテリジェンス機能強化に向けた提案を、日経新聞は8項目にまとめ、提示しています。

(※ 日経新聞、2026年2月25日)

 いずれも、2025年10月20日に発行された自民党と維新の会との合意書で、第5項「インテリジェンス政策」として取り上げられています。「国家情報局の設置・運用」に向けた提案が5件、「カウンターインテリジェンス・対外情報収集」に向けた提案が3件、といった具合です。

 「カウンターインテリジェンス」は、聞きなれない言葉ですが、これは、外国やテロ組織によるスパイ活動、破壊活動、情報窃取から、国家や企業の人・施設・情報を守る防衛活動を指します。

 直近では、2026年2月28日に行われたイスラエルとアメリカによるイラン攻撃に、カウンターインテリジェンスの典型例が見られます。

 まず、イスラエルとアメリカがイラン攻撃について、どのように発表し、どのような声明を出したのかとみてみることにしましょう。

■イラン攻撃の声明

●イスラエル

 イスラエルの国防省は28日朝(現地時間)、イランへの先制攻撃を始めたと発表しました。「イスラエルへの脅威を排除するため」としており、イランへの攻撃を発表した直後、イランの首都テヘランでは少なくとも3回の爆発音が響きました。そのうちの一つはテヘラン大学の近くとみられています(※ 読売新聞オンライン、2026年2月28日15分41)。

 イスラエルのネタニヤフ首相は、FOXニュースで次のように述べています。

 「イランは新たな拠点や施設と地下壕の建設に着手した。もし、いま行動しなければ彼らの弾道ミサイル計画と核爆弾開発は数か月以内に手が出せなくなり、将来いかなる行動を取ることも不可能になっていたはずだ」

 このようにイラン攻撃の正当性を主張したうえで、イラン国民が民主的に選ぶ政権を樹立するために条件を整えると述べました。そして、トランプ大統領がいなければ、この作戦は実行に移されなかったと感謝しています。

 これに先立ち、ネタニヤフ首相は、2月1日のイランからのミサイル攻撃で9人が犠牲となったイスラエル中部の現場を視察し、「テヘランの暴君(イラン)は民間人を標的にしている。我々は民間人を守るためにイランを攻撃している」と述べました。

(※ TBSニュース映像より)

 実は、イランでは攻撃された2月28日、南部の小学校で165人が犠牲になっていました。これについてFOXニュースの記者が問いかけても、ネタニヤフ大統領は何も答えず、その場を立ち去ったといいます。

●アメリカ

 米紙ニューヨーク・タイムズは2月28日、米当局者の話として、米軍によるイラン攻撃が進行中と報じました。イスラエル軍と協調して攻撃に踏み切ったとみられると報じられていました(※ 読売新聞オンライン、2026年2月28日15分41)。

 一方、トランプ大統領はイラン攻撃について、次のようにスピーチしています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=0CXYMb2IN0M

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 トランプ大統領は、「過去36時間にわたり、アメリカとその同盟国は『壮絶な怒り作戦』を発動した」と述べ、「イランの元最高指導者、アヤトラ・ハメネイは死亡した」と宣告しました。そして、「イラン革命防衛隊、イラン軍、警察に対し改めて警告する。武器を捨て自らの罪を認めろ。さもなければ確実な死が待っている。惨めな最期となるだろう」と警告しています。

 アメリカ中央軍は2月28日、イランを攻撃した際の映像を公開しました。

こちら → https://youtu.be/MTwac6J34Vg

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 艦艇からミサイルが発射された瞬間、衛星から撮影されたと思われる爆撃地の白黒の映像、ミサイルで目標が破壊される瞬間など、衝撃的な映像が次々と映し出されました。実際に死傷者の姿は映し出されていませんが、爆発の先には多数の死傷者がいるはずです。

 アメリカ軍は悪びれることもなく、攻撃映像を公開しました。堂々と犯行声明を出しているようにも見えます。

 イスラエルとアメリカがイランとの外交の場を放棄し、いきなり武力に訴えたことによって、中東で新たな戦争の口火が切られたのです。

 実際、イランの革命防衛隊は3月2日、イランとオマーンの間に位置するホルムズ海峡を封鎖したと述べました。「通過を試みる船舶はすべて焼き払う。この地域から一滴の石油も流出させない」としています(※ TBS、2026年3月3日)。

 2月28日、ハメネイ師と政権中枢の人々は、まさにピンポイントで攻撃され、殺されました。イランは一挙に首脳陣を失い、国家体制を喪失してしまったのです。司令官を失ったイラン革命防衛隊は、いわば手負いの獅子となってしまったのです。

 関連諸国を含みながら、中東では攻撃の連鎖が続くことになるでしょう。

 それにしても、なぜ、一国の首脳陣が、いとも簡単に攻撃され、抹殺されてしまったのでしょうか。イラン攻撃に至る、イスラエルとアメリカの動きを振り返ってみましょう。

■ネタニヤフとトランプ、イラン攻撃直前の動き

 アメリカとイランは2026年2月6日、2025年の攻撃以降はじめての核協議を開催しました。この時、アメリカは軍事行動に出る可能性を示唆しながら、イランに譲歩を迫っていました。当然のことながら、議論は平行線をたどったままでした。

 その数日後、イスラエルのネタニヤフがアメリカを訪れ、イランに対する攻撃開始について協議しています。

 トランプ大統領とネタニヤフ首相がイラク攻撃について会談をする一方、その背後で、モサド(Mossad、イスラエル諜報特務庁)とアメリカの対外情報機関CIA( Central Intelligence Agency、中央情報局)が動いていました。

 モサドは、ハメネイ師やイラン首脳陣の情報収集に努め、それらの情報を踏まえ、行動パターンを割り出しました。それに基づき、CIAとともにイラン攻撃のタイミングと作戦を練っていたのです。

 イランが中東地域の米軍施設などに先制攻撃に出る可能性を、モサドは 把握していました。ところが、トランプ大統領は、その段階ではまだ、外交的な解決を望んでいたといいます(※ 日経新聞、2026年3月2日)。

 ネタニヤフに詰め寄られたのでしょうか、あるいは、イランが譲歩の姿勢を見せなかったからでしょうか、トランプ大統領は態度を変えました。

 2月24日の一般教書演説で、「外交を通じた解決を望むが、世界一のテロ支援国家が核兵器を保有するのは許さない」と主張し、イランとの交渉が決裂するなら、武力攻撃に踏み切る可能性を示唆したのです。

 CNNは、トランプ大統領のスピーチの該当箇所を次のように紹介しています。

 「彼ら(イラン)は今後兵器計画の再建を試みないよう警告を受けた。とりわけ核兵器に関してだ」

 「それにもかかわらず、彼らは全てをやり直そうとしている。我々はそれを根絶したが、彼らは再び最初からやり直そうとしている。そして今この瞬間も、邪悪な野望を追求している」

 トランプ大統領は、依然として合意を結ぶことを望んでいると明言する一方で、「世界一のテロ支援国家による核兵器の保有は決して許さない」と言い添えていたのです。(※ https://www.cnn.co.jp/usa/35244299.html)

 イラン攻撃の意思表明をしたのも同然でした。

 このトランプ大統領の一般教書演説から、イラン攻撃の布告を読み取っていたのが、イランのアッバス・アラグチ外相でした。

■イラン外相によるSNSへの投稿

 2月24日、アラグチ外相は、トランプ氏の演説に先立って、SNSに、「我々はいかなる状況下でも核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利も放棄しない」と投稿しました。そして、「米国側が外交を優先すれば、合意は手に届く範囲にある」と呼びかけたのです(※ 読売新聞、2026年2月25日)。

 イラン外務省の報道官も2月25日、トランプ大統領が一般教書演説で指摘した、イランの核兵器保有の意図やミサイル開発の実態などについて、「大きなウソの繰り返しだ」と、SNSで批判しています(※ 読売新聞、2026年2月25日)。

 実際、その可能性は否定できません。

 アメリカでも、トランプ大統領の主張は、情報機関の報告によって裏付けられたものではないという非難の声があがり、専門家も、イランが核能力を急速に強化できるとする大統領側近らの最近の主張に、疑問を呈していました(※ ロイター、2026年3月1日)。

 実際のところ、どちらが正しいのかはわかりません。

 ただ、中東ではイスラエルだけが核を保有していました。宿敵であるイランが核保有を切望していたとしても不思議はありません。イランが、「我々はいかなる状況下でも核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利も放棄しない」と主張するのは当然のことでした。

 ちなみに、世界で核を保有しているのは9カ国しかありません。そのうちの一つがイスラエルです。


(※ https://mirai-bridges.com/kakuhoyuukoku/#google_vignette)

 イスラエルは、核拡散防止条約(Non-Proliferation Treaty)上、核兵器の所有は認められていませんが、実際は90発も持っているのです。

 2025年6月、イスラエルは イランとの衝突で、圧倒的な軍事力と諜報力の高さを見せつけました。さらに叩いておかなければ安心できないと考えたのでしょう。以来、イスラエルは虎視眈々とチャンスを狙い、イランの政治体制を転覆させることを計画していました。

 アメリカを味方につけたイスラエルは、2026年初来、イランとの協議を重ねてきました。そして、2026年2月28日、イランの核兵器開発阻止を大義にし、アメリカと共同戦線を組み、イランを攻撃し、首脳部を崩壊させました。

■イラン攻撃の動機は?

 ネタニヤフやトランプがイラン攻撃に向かった動機付けは何だったのでしょうか?

 たとえば、ネタニヤフ首相は今年、総選挙を控えていますが、汚職や長期政権への反発が広がっており、支持は落ちていました。イランを攻撃して指導体制を転覆させれば、支持基盤が安定する可能性が指摘されています(※ ロイター、2026年1月16日)

 トランプ大統領もまた、今年、中間選挙を控えています。とくに、昨年、エプスタイン文書が公開されて以来、支持者が離れていることは事実です。2月16日、「私は潔白だ」としてエプスタインとの関係を否定していますが、トランプ支持層である「MAGA派」のトランプ離れが加速しているといわれています。(※ https://www.fnn.jp/articles/-/1008986)

 両者は、2026年に選挙によって国民の審判を受けるという点で、共通していました。「核兵器開発の阻止」という誰にも理解されやすいスローガンの下、イラン攻撃を行い、成功すれば、支持が高まるのは予想されました。選挙を控えたネタニヤフとトランプの利害が一致したのです。

 ネタニヤフとトランプは、「核兵器は開発せず、原子力技術の平和利用の権利」を主張するイランの意向を踏みにじりました。

 今回のイラン攻撃で特筆すべきなのは、ピンポイント攻撃の成功です。これは、2026年1月のベネズエラ攻撃の成功を引き継ぐものであり、勝利をもたらしたものは、インテリジェンス機能と兵器の圧倒的な差でした。

■モサドとCIAの連携プレー

 トランプ大統領は、イラン攻撃を声明したスピーチで、「ハメネイ師は我々の情報力や高度に洗練された追跡システムを逃れることができなかった」と語っていました。確かにハメネイ師や幹部たちの行動は逐一、イスラエルに把握されていました。

 会合の開催場所と開催時刻、さらには襲撃された場合の避難場所など、すべてを把握し、逃げ道を塞いだうえで、攻撃を仕掛けました。ピンポイント攻撃を成功させるだけの情報が収集されていたのです。

 背後で、イスラエルの対外諜報機関モサドが動いていました。

 モサドは、ハメネイ師の行動パターンを把握するため、日々、監視していました。彼がどこに住み、誰と会い、どのように連絡を取り、攻撃の脅威があった場合、どこに退避する可能性があるか、等々を探っていたのです。イランの首脳陣についても同様、モサドは密かに監視し、行動パターンを割り出していました。

 イランの政治指導者や軍の高官らは、普段、ハメネイ師と同席することは滅多になかったそうです。襲撃されることを極度に警戒していたからです。彼らは用心深く、連絡を取り合い、情報交換をして、意思決定をしていました。

 ところが、モサドは、ハメネイ師やイランの高官たちが、ハメネイ師の自宅の敷地内で会合を予定していることを嗅ぎつけました。最終開催時刻が、2月28日午前です。

 モサドは2月28日午前、側近らを集めたイラン首脳陣の定例会合が開催されることを把握しました。当初、夜間開催の予定だったのですが、直前になって、午前の開催に変更されました。

 ハメネイ師や首脳陣全員が亡くなったいま、なぜ、突然、開催時刻が変更になったのかはわかりません。ただ、開催時刻の変更に合わせ、イスラエルとアメリカは攻撃時刻を変更しました。

 イスラエル軍とアメリカ軍は、テヘランのパスツール地区にあるハメネイ師の邸宅に約30発の爆弾を撃ち込みました。彼らが地下シェルターに逃げ込む時間を与えずに、ハメネイ師と側近ら40人以上を殺害したのです(※ 読売新聞オンライン、2026年3月3日05:00)。

■決め手はヒューミント?

 これに関し、元自衛隊統合幕僚長の河野克俊氏は、経済学者の高橋洋一との対談で、開催時刻の直前の変更を知りえたのは、内通者がいたからだと語っていました。


(※ ユーチューブ映像より)

 河野氏は、ハメネイ師らの会合時間の変更をイスラエルが把握できたのは、ヒューミントによるものだと指摘し、モサドや米英の情報機関は、インテリジェンス能力がきわめて高いと述べています(※  https://www.youtube.com/watch?v=eXSJF84NxvA)。

 実は、それだけではありませんでした。

 モサドの内情に詳しい二人の人物が、英紙「フィナンシャル・タイムズ」に語ったところによると、テヘランの交通監視カメラのほぼすべてが、何年も前にハッキングされていました。映像は暗号化されてイスラエルにあるサーバーに送信されていたといいます。

 最も重要で、かつ有益だったのが、ハメネイ師の邸宅に近いパスツール通りに、絶妙な角度で設置されたカメラでした。

 このカメラからは、ハメネイ師の警護にあたる護衛や車の運転手たちが、車をどこに駐車するかを把握することができました。さらに、厳重に警備された施設の中の日常的な動きをそのまま見ることができました(※ COURRiER Japon、2026年3月3日19:00配信)。

 モサドは、尾行、観察してハメネイ師らの情報を把握していただけではなく、テヘランに設置された交通監視カメラをライブで見られるようにしていました。人を使い、機材を使って、徹底した情報把握を行っていたのです。しかも、どうやら内部に密通者までいたようなのです。対外諜報機関としてはこれ以上ないほど、モサドは卓越した能力を発揮していたのです。

 日本大学危機管理学部教授の小谷賢氏は、「情報の収集と分析と評価までをインテリジェンスと呼ぶ」と定義づけ、そのカテゴリーを次の5つに分類しています。

(※ https://www.youtube.com/watch?v=Sv51z6JNGdg&t=63s)

 上から2番目に紹介されているのが、ヒューミントです。ヒューミントとは、国が工作員を外国に送って情報を取る活動を指します。

 河野氏は、モサドが直前の時間変更を正確に把握していたのは、ヒューミントによるものだろうと推察していました。当事者しか知りえない会合時間の変更など、内通者がいなければ、わかりようがないからです。どれほど優秀な工作員だとしてもそれだけは無理でした。

 このことからは、ハメネイ師のごく近くに、内通者がいたことが示されています。

■日本のカウンターインテリジェンスはどうか?

 2026年3月6日、日経新聞は、今回のイラン攻「イラン国内のアプリや防犯カメラがハッキングされるなど、イスラエルのサイバー技術が駆使されている」と報じています。

 さらに、「SNS上でのスパイ活動や人工知能(AI)を使った市民監視も活発で、軍関係のIT企業が暗躍」しており、「軍民一体で高める”サイバー戦闘力”がイスラエルの軍事作戦を支えている」と伝えています。

 高度なIT技術力が、カウンターインテリジェンスのために駆使されており、戦闘が新たなステージに入っていることが示されています。サイバー戦闘力が問われる時代に入っていることは明らかです。

 イスラエルのITを駆使した監視網について、日経新聞は次のように表にまとめています。

(※ 日経新聞、2026年3月6日)

 人々が日常的に使う通信機器をハッキングし、情報を収集するだけではなく、ポケベルなどには爆薬を仕掛け、兵器に変えているのです。

 トランプ大統領が、イラン攻撃を声明した際、「ハメネイ師は我々の情報力や高度に洗練された追跡システムを逃れることができなかった」と語っていましたが、イスラエル軍はIT機器を兵器に変換することまでしていたのです。

 翻って、日本のカウンターインテリジェンス能力はどうなのでしょうか?

 日本はG7の中で唯一、スパイ行為を包括的に取り締まる「スパイ防止法」を持たない国です。そのため、国家機密の流出に対しても、特定秘密保護法など個別の法律で対応せざるを得ないのが現状です。

 高市首相は3月3日、政府のインテリジェンス機能強化策を議論する有識者会議を、今夏をめどに設置する考えを表明しました。スパイ防止関連法の制定や、対外情報収集能力の在り方を議題にするというのです。主要諸国に比べ、相当遅れていますが、カウンターインテリジェンス強化に向けてスタートしただけましと考えるしかないのかもしれません。

 2026年3月6日、高市政権が制定を目指す「スパイ防止法」に反対する集会が、国会内で開かれました。「市民がスパイの疑いを持たれ、冤罪事件の犠牲になりかねない」との懸念が表明され、政府の動きに対し、早期に反対の機運を高める必要があるとの主張です(※ 共同通信、2026年3月6日18:01)。

 主要メディアはほぼこれに追従する論調で報じています。

 果たして、日本はいつまで、「スパイ天国」の名に甘んじようとするのでしょうか。

(2026/03/06 香取淳子)

高市内閣2.0 ①:情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

■第2次高市内閣の発足

 2026年2月18日、第105代内閣が誕生しました。第2次高市内閣が発足し、高市首相の記者会見が行われました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=UyA-xfxlAz0

 思い返せば、4か月前、第1次高市内閣は、衆議院の首班指名選挙で237票しか取れず、過半数を僅か4票上回るだけの勢力で発足しました。ところが、今回、解散総選挙で自民党が圧勝した結果、衆議院では350票を上回る得票で、高市早苗氏は余裕で首班指名されました。

 安定した基盤の下、第2次高市内閣がスタートしたのです。

 高市首相は、国民の皆様から力強く背中を押していただけたと感謝し、「責任ある積極財政」、「安全保障政策の抜本的強化」、「政府のインテリジェンス機能の強化」など重要な政策転換を推進していくと表明しています。

 そして、「自民党、日本維新の会との連携を深め、政府・与党一丸となって政策の実現に向け、ギアを更に上げてまいります」と述べ、本日より、「高市内閣2.0」の始動です」と宣言しました。(※ 全文は、https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0218kaiken.html

 第2次高市内閣の発足に際し、第1次高市内閣のメンバーが全員、再任されました。

(※ 内閣府HPより)

 この内閣メンバーについて、高市首相は、それぞれの政策分野で、先頭に立つのにふさわしい人材ばかりだと評価し、既に全速力で、政策実現にまい進してくれていると述べています。実際、このメンバーによって、短期間にうちにさまざまな事案が解決されています。

 外交であれ、ガソリン税の減税であれ、第1次高市内閣はわずか4か月間で成し遂げました。このような実行力が、多くの国民に評価され、高市内閣の高い支持に直結していることは確かです。

■選挙後も高い内閣支持率

 産経新聞社とFNNは、2月14と15日に合同世論調査を実施しました(固定電話、携帯電話で調査を実施し、全国の18歳以上の男女1008人から回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は、前回調査(1月24、25両日実施)比1.2ポイント増の72.0%でした。政権発足以降、5カ月連続で7割台の高水準を維持しているのに対し、不支持率は同0.6ポイント減の22.8%でした(※ 産経新聞、2026年2月15日)。

 高市内閣が依然として、高い支持率を維持していることがわかります。

 また、日本経済新聞社とテレビ東京は、2月13日から15日に世論調査を実施しました(全国の18歳以上の男女に、携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式による電話で実施し、回答率は39.1%、946件の回答)。

 その結果、高市内閣の支持率は69%でした。1月に実施した前回調査よりも2%上昇したのに対し、「支持しない」は前回と同率の26%でした。


(※ 日経新聞、2026年2月15日)

 第1次高市内閣が発足した際、自民党は少数与党でした。無事、首班指名を受けられるかかどうか、危ぶまれるほど基盤の脆弱な政党だったのです。維新の会と連立を組むことによって、ようやく首班指名を受けることができたほどでした。

 国会では野党から、ヤジを飛ばされ、揚げ足取りの質問を浴び続けました。主要メディアは首相の失言を待ち構え、拡散の用意をしていました。いつ何時、倒れても不思議はないほど弱い内閣だったのです。

 ところが、解散総選挙を経て誕生した第2次高市内閣は、これまでの内閣ではありえなかったほど、高い支持率を得ています。

 第1次高市内閣はようやく発足したと思えば、たちまち、野党や主要メディア、さらには自民党内からもさまざまな攻撃を受け続けました。国会では野党からヤジを飛ばされ、レベルの低い質問に振り回されました。

■あぶり出された中国の影

 とくにひどかったのが立憲民主党で、国会では岡田克也議員が執拗に、失言を引き出すための質問を繰り返しました。誘導尋問を投げ続けた結果、岡田氏は高市首相から、台湾有事発言を引き出しました。

 主要メディアはここぞとばかり、大きく報道し、その報道を見た中国が飛びついてきました。

 中国駐大阪総領事の薛剣氏が、過激な発言で高市首相を罵ったのです。彼が参考にしたのが朝日新聞の電子版の記事だったといわれています。既に削除され、別の記事に差し替えられていますが、それだけ煽情的な見出しであり、記事内容だったのでしょう。

 高市首相の台湾有事発言に、中国政府自体も、すぐさま反応しました。

 日本への渡航自粛の呼びかけ、水産物の輸入停止、留学生の就学禁止、パンダの引き上げ、挙句の果てはレアアースの輸出停止、さらにはヨーロッパなど海外での陰口外交など、ありとあらゆる嫌がらせを、高市内閣に仕掛けてきました。

 発足したばかりの高市内閣を徹底的に叩き、ひざまずかせようとしたのです。

 中国にしてみれば、保守色の強い高市内閣の誕生は、危険そのものでした。これまでのように日本を思い通りに動かせなくなるばかりか、築き上げた利権さえ奪われかねなかったのです。

 ところが、高市内閣は、次々と仕掛けてくる中国の脅しに対し、断固とした姿勢を貫きました。誤った情報には堂々と抗議しながら、中国との対話の窓口を閉じることはありませんでした。騒ぎ立てず、静かに対応し、洗練された外交を展開しました。

 高市内閣は、中国の理不尽な態度にじっと耐えました。

 その一方で、これまでの政権には見られなかったロジカルで凛とした態度を世界に示しました。少数与党の第1次高市内閣が、戦狼外交を繰り広げる中国に対し、毅然とした態度を貫いたのです。

 子どものように騒ぎ立てる中国に対し、静かに大人の対応を見せる第1次高市内閣に、どれほど多くの日本人が胸のすく思いをしたことでしょうか。多くの国民は心の中で拍手喝采をしました。このわずか4か月間に、高市内閣が展開した明るくて強い外交が、日本人に、忘れていた誇りを取り戻してくれたのです。

 高市首相の台湾有事発言をめぐって、国内でもさまざまな対応が見られました。政治家や評論家はもちろんのこと、主要メディア、一部の企業、芸能人に至るまで、高市首相の発言の揚げ足を取り、口汚く非難しました。

■中国での利権

 その後、わかってきたのは、反高市で動いた人々の多くが、中国から何らかの利益を得ていることでした。

 たとえば、高市首相から台湾有事発言を引き出した岡田克也氏の場合、兄の岡田元也氏がイオンのCEOで、中国で大きな事業を展開していました。

 イオンは、2008年から中国での事業を展開し、2025年4月時点で北京、天津、山東省、江蘇省、浙江省、湖北省、湖南省、広東省に24店舗を出店し、2025年11月にはさらに湖南省の店舗が加わり、計25店舗となります。

 2030年までに中国全土で31店舗体制を目指し、とくに成長性の高い内陸部や長沙市などに集中して出店し、日本式のサービスやデジタル技術を活用した高機能な大型モールを運営するという計画でした。

 2025年11月27日、湖南省長沙市で、オープンしたばかりの「イオンモール長沙湘江新区」は、湖南省第2号店でした。

(※ https://www.47news.jp/13516083.html)

 大勢の人々が開店したばかりのイオンモールに押しかけている様子がわかります。延床面積が約23万平方メートルだといいますから、東京ドーム(約4.7万平方メートル)のなんと5倍ほどになります。

 巨大な規模の店舗に、4大勢の人々が押しかけているのですから、莫大な利益が見込まれているのでしょう。

■みずほ銀行エコノミストの記事

 衆議院選挙期間中の2月2日、みずほ銀行は「みずほマーケット・トピック」を公開しました。

こちら → https://www.mizuhobank.co.jp/forex/pdf/market_analysis/econ2600202.pdf

 記事のタイトルは、「高市演説を受けて~危うい現状認識~」です。きわめて煽情的なタイトルが示すように、要約部分もまた感情的なものでした。

 みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌大輔氏が書いた記事の冒頭要約部分は、次のような内容です。

 まず、「週末は高市首相の情報発信が大いに注目された。衆院選の応援演説において円安が関税バッファーとして作用しているほか、外国為替資金特別会計(以下外為特会)の抱える外貨資産の含み益が膨張している状況を用いて円安が好ましい相場現象であるかのような発言を行ったことが注目されている」と記しています。(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 彼が根拠としたのは、日経新聞2月1日の記事でした。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA010HQ0R00C26A2000000/

 ここから高市首相の発言を切り取って、記事のネタ元にしています。少々、長くなりますが、高市首相の応援演説を引用しましょう。

 「国内投資がとことん低い。だからよその国は今もう何をしているかって言ったら、海外に投資してるんじゃなくて、自分の国内に投資をする。自分の国内で工場をつくる。自分の国内で研究開発拠点をつくる。だから、自分の国内で投資をしているんです。ここは日本は弱かった。ガラッと変えようとしてます。高市内閣で。

 だって為替変動にも強い経済構造をつくれるではないですか。国内でつくるんだから。為替が高くなったが、それがいいのか悪いのか、円高がいいのか、円安がいいのか、どっちがいいのか、皆わからないですよね。

 むかし、民主党政権の時、たしかドル70円台の超円高。日本で物をつくっても輸出しても売れないから、円高だったら輸出しても競争力ないですよね。日本の企業、海外にどんどん出ていっちゃった。

 それで、失業率もすごい高かった。そっちがいいのか。今円安だから悪いって言われるけれども、輸出産業にとっては大チャンス。食べ物を売るにも、自動車産業も、アメリカの関税があったけれども、円安がバッファーになった。ものすごくこれは助かりました。

 円安でもっと助かってるのが、外為特会っていうのがあるんですが、これの運用、今ホクホク状態です。

 だから円高がいいのか、円安がいいのかわからない。これは総理が口にすべきことじゃないけれども、為替が変動しても強い日本の経済構造を一緒に私はつくりたい。だから国内投資をもっと増やしたい。そう思ってます」

 上記は日経新聞がまとめた高市首相の応援演説です。大勢の聴衆が集まった会場での発言ですから、多少の誇張もあれば、簡略化もあるでしょう。文書化され、整理された発言ではありません。ところが、唐鎌氏は文脈を読まずに切り取って、取り上げ、次のように自身の見解を述べているのです。

 「総じて、今回の高市発言が円安容認だったかどうかは本質的な話ではない。それよりも「為替が修正されれば、日本企業の行動変容が劇的に期待できる」という前時代的な価値観が温存されている可能性の方が気になったし、さらに言えば、外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」(※ 唐鎌大輔、「みずほマーケット・トピック」2026年2月2日)

 「・・・、本質的な話ではない」とか、「前近代的な価値観が温存されている可能性が気になった」、「外為特会が果たして有事の際に温存されておくべき弾薬と理解されているのかどうかも気がかりであった」等々。唐鎌氏の言葉使いが感情的で、独りよがりで、煽情的なのが印象的でした。

 要約の後で展開された本文も同様、恣意的な表現、根拠を示さない決めつけ、乱暴な展開が気になりました。このような雑なレポートが選挙期間中に公表されたのです。

 このレポートが発表されると、野党や一部のメディアが騒ぎ、首相を非難しました。たとえば、TBSは次のような報道をし、拡散していました。

■TBSの報道

 高市早苗首相が、1月31日の衆院選応援演説で、「外為特会で、運用が今ホクホク状態だ」と発言したことについて、2月3日、TBSは次のように報じています。

こちら → https://youtu.be/fHToz4ZdNkw

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 「高市総理の“円安でホクホク”発言余波続く きょうも円安進行」といった切り取りで報道されていました。

 この動画を見ればわかるように、高市首相は、「円安でもっと助かっているのが外為特会、これの運用、今ホクホク状態です。だから円高がいいのか、円安がいいのかはわからない。これは総理が口にすべきことではないけれども、為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」と述べています。

 高市首相の発言の主旨は、明らかに「為替が変動しても強い、日本の経済構造を作りたい」でした。ところが、画面に為替のボードが表示され、「円安を招いたのが高市首相・・・」といったナレーションで始まります。

 2月2日にみずほ銀行のエコノミストがミスリードするようなレポートを出し、それを受けて3日にテレビが報道したことで、市場が反応しました。“総理の発言は円安を容認している”との受け止めが広がり、円売りが加速したのです。

 片山さつき財務大臣は、2月3日、記者会見を行い、次のように述べました。

 「総理は円安が経済に与える影響について、一般論として輸入物価の上昇を通じて国民生活や事業活動の負担を増加させるといったマイナス面がある一方、国内投資が進み、国内で生産した製品が海外に輸出しやすくなることを通じ、企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、教科書に書いてあることを申し上げたのであり、特に円安メリットということを全然強調しておりません」(※ 前掲ユーチューブ)

 片山氏は、高市首相の発言はあくまでも「円安が経済に与える影響の一般論」だと述べ、円安により輸入物価が上昇して国民生活や事業活動の負担が増す一方で、輸出しやすくなり企業の売り上げが改善するといったプラス面もあるという、「総理が日ごろ思われている教科書的な整理だ」と説明し、「私も財務大臣として全く同じ(見解)だ」との認識を示しました(※ 『時事通信』、2026年2月3日)。

■コメント欄にみるテレビ報道の影響

 この動画のコメント欄を見ると、ほとんどすべてのコメントが否定的なものでした。「金融のプロ中のプロのみずほ銀行が異例のレポートで高市演説を批判するほどの日本経済への打撃」といったコメントがありましたので、みずほ銀行エコノミスト見解が、高市下げに一定の効果を与えたことは明らかです。

 コメント欄で唯一、中立的で客観的な意見が見られました。ご紹介しておきましょう。

 「高市首相は円高のデメリットも伝えています。故意に円安のことしか切り取りせず偏向報道し、揚げ足取りする行為は公職選挙法、放送法違反でしょう」

 「悪夢の民主党政権では、円高1$75円が進行しすぎて、国内企業は海外に工場を移動してしまい、国内の失業者は大幅に増えました。海外の工場で作った物を日本に逆輸入することになってしまった。輸出国なので1$300円でも上等です。悪夢の民主党政権時では長引くデフレにより、日経平均株価は7000円台にまで暴落し、完全失業率5%越えと経済はボロボロになりました」

 このコメントは、まず、選挙期間中にこのような内容の放送を流したTBSに対し、放送法違反だと指摘しています。そして、円高のデメリットの部分を過去の事例に基づき、説明し、デフレに陥った日本経済がボロボロになったことを思い出させてくれています。

 さて、選挙期間中に、高市首相の応援演説から一部を切り取り、「高市下げ」の記事を公表したのは、みずほ銀行エコノミストでした。煽情的な語句でつづられた文章だっただけに、人々を感情的に動揺させました。

 こちらも岡田氏の場合と同様、中国での利権と絡んでいたことがわかりました。

■みずほ銀行、中国に証券会社を新設

 みずほフィナンシャルグループ(FG)は2025年10月1日、中国での証券子会社の新設を巡り、中国証券監督管理委員会(CSRC)から許可を受けたと発表しました。

 新会社の社名は、「みずほ証券(中国)有限公司」で、傘下のみずほ証券が100%出資し、北京市に設立します。資本金は23億人民元(約500億円)を予定しており、主に中国企業が発行する社債を引き受け、投資家に販売する債券ビジネスを展開します。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZRSP697516_R01C25A0000000/

 2023年にCSRCに証券会社設立を申請し、24年に受理されていました。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20240624release_jp.pdf

 開業時期は、現時点ではまだ、「回答できる段階にない」ようですが、開業後は主に中国企業の債券の引受業務や、中国の債券市場でのセールス&トレーディング業務を手がけるといいます。

こちら → https://www.mizuho-fg.co.jp/release/pdf/20251001release_jp.pdf

 中国ではすでに、傘下のみずほ銀行を通じ、銀行間取引市場で、証券化商品や人民元建て債券「パンダ債」の引受業務を展開してきました。新たな証券会社を通じて、証券取引所を介した債券売買にも参画し、現地で人材を採用ことも予定しているといいます(※ 日経新聞、2025年10月1日)。

 中国は、2020年に証券会社に関する外資規制を撤廃し、株式市場を含む中国資本市場に外国金融機関がより積極的に参入する道を開いていました。ゴールドマン・サックスやBNPパリバなども相次いで、全額出資の証券部門を開設する認可を受けています(※ ロイター、2025年10月1日)。

 みずほ銀行は、中国の金融政策に沿って、北京で証券会社を立ち上げていたのです。もちろん、共産党政権に覚えめでたくなければ、できる話ではありません。

 こうしてみてくると、みずほ銀行チーフエコノミストの唐鎌氏の記事は、ポジショントークだったといわざるをえません。選挙期間中にあえて「高市下げ」の記事を公表して騒ぎを大きくし、反高市工作を行っていたとしか思えないのです。

 工作活動を行っていたのは、もちろん、日本人ばかりではありません。中国政府やその周辺もまた、反高市工作を行っていました。

■中国による反高市工作

 日経新聞は、今回の衆院選に関し、SNSを使った情報工作とみられる動きが見つかったと報じています。Xのデータを分析したところ、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)。

 衆院解散が報道された1月中旬、次のようなハッシュタグ(拡散を狙ったキーワード)がX上に広がり始めました。

(※ https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00020520W6A210C2000000/)

 このようなハッシュタグをつけて投稿していた複数のアカウントが見つかりました。それらを並べて比べると、投稿パターンやプロフィル情報が不自然に一致していました。

 日本経済新聞は、これらの投稿データを精査し、情報工作を目的としたアカウントを探りあてました。その結果、情報工作アカウントが、一般的な利用者とは異なる動きをしていたことがわかりました。

 たとえば、共通ハッシュタグの多用、プロフィル画像の使い回し、法則性があり、酷似した利用者ID、等々です。さらに、投稿者を特定できる情報がない匿名によって、同じパターンの内容を、他のアカウントと連動して投稿するといったことも主な特徴でした。

 日経新聞はこの調査結果に基づき、次のように報じています。

 「8日投開票の衆院選に関し、X(旧ツイッター)のデータを分析したところ、情報工作とみられる動きが見つかった。400ほどの中国系のアカウント(投稿者)が連携し、高市早苗政権の印象を下げる投稿を拡散していた」(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 中国語の表現や字体を含むアカウント、あるいは、中国政府に近いアカウントとつながりのあるアカウントなど、400ほどの中国系アカウントが連携し、高市政権の印象を下げる投稿を拡散していたというのです。

 言語別に発信量の推移を示したグラフも、掲載されていました。

(※ 日経新聞、2026年2月23日)

 上の図で明らかなように、工作に使われたとみられる一連のハッシュタグの投稿は、1月14日ごろから急激に増え、解散表明直後の1月20日には中国語と日本語を合わせて600件を超えました。

 400ほどある工作アカウントの少なくとも76%は、選挙直前の25年12月以降に開設されていました。運営側のXも、この不自然な動きを検知しており、凍結・閲覧制限に動きました。工作アカウントのうち2月4日時点で4割超が、Xから事実上の「不正認定」をされています。

 このようなアカウントは選挙期間中に、次々と凍結されたのですが、新たな工作アカウントが毎日、補充され、ハッシュタグは拡散され続けました。工作の拡散パターンを分析すると、工作アカウントには2つの類型があることがわかったといいます。すなわち、「発信源アカウント」と「拡散加速アカウント」です。ちなみに、「発信源アカウント」とは、中国政府の主張をなぞる投稿を中国から大量に発信するものを指します(※ 前掲URL)。

 Xの推定では、中国系の工作活動は、アカウントを数百万規模で動かすことができます。ところが、今回、工作のために動かしたアカウントの規模は、その潜在能力に比べて少ないものでした。したがって、今回の工作の主目的は、選挙への介入よりも、ステルス化(探知されにくくする技術)やAI画像など、様々な手法を試すことにあったのではないかと推測されています。

■AI画像を使った工作

 PwCコンサルティング(https://www.pwc.com/jp/ja/about-us/member/consulting.html)の村上純一パートナーは、生成AIが普及したことによって、言語などによる壁がなくなり、情報工作をする側にとっては、「何を目的に、いつ、どのテーマで工作を仕掛けるか」だけの問題となっていると指摘します。

 たとえば、社会的対立をあおるAI画像の例があります。

(※ 前掲URL。別々に投稿された画像を日経新聞が1枚にまとめて配置)

 上の図は、社会保障をめぐる若年層と高齢者層との対立、夫婦別姓をめぐる問題などを可視化したAI画像です。画像をメインに置くことによって、メッセージを簡略化し、明確化できるので、印象操作をしやすくなることがわかります。

 現時点では、まだ文字に中国語の痕跡が残ったりしており、品質レベルは低いです。とはいえ、今後、AI技術が進化していくことによって、より自然な画像や文章が量産できるようになるのは確かです。選挙時に限らず、平常時にも、印象操作や分断工作の脅威はさらに増していくことでしょう。

■情報戦、認知戦に耐えて、圧勝!

 ネット上では情報戦が激しさを増しています。なにも中国系のアカウントに限りません。ロシア政府が背後にいるとみられるグループが、米国など諸外国の選挙に介入した事例がすでに確認されています。

 今回の選挙では、国会でも政治家による妨害工作が行われましたし、経済界でもエコノミストによる「高市下げ」の印象操作が行われました。それでも、高市内閣は圧勝しました。選挙後も高い支持率を維持しています。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 興味深いのは、高市首相の解散理由です。

 2026年1月23日、記者会見を開いた高市首相は、「高市早苗に、国家経営を託していただけるのか。国民の皆様に直接、御判断を頂きたい」と解散の理由を述べました(※ https://www.jimin.jp/news/press/212284.html)。

 確かに、高市内閣は就任すると、「日本列島を、強く豊かに」するため、重要政策を大転換し、全く新しい経済・財政政策を始めました。その多くが、前回の衆議院選挙で、自民党の政権公約には書かれていなかった政策でした。

 「重要な政策転換について、国民の皆様に正面からお示しし、その是非について、堂々と審判を仰ぐことが、民主主義国家のリーダーの責務」という首相の考えは筋が通っています。そして、政策転換の本丸は、「責任ある積極財政」だといい、「行き過ぎた緊縮志向。未来への投資不足。この流れを、高市内閣で終わらせます」と表明したのです。

■アジェンダ設定による勝利か

 積極的で、挑戦的な政策を象徴するような、自民党のポスターが作成されました。

(※ https://www.jimin.jp/news/information/212092.html)

 赤と白、黒で色構成されたポスターには、洗練された都会風のテイストと、果敢にチャレンジする泥臭さと力強さが感じられます。高市内閣が掲げた「日本列島を、強く豊かに」のスローガンが見事に表現されているのです。

 「高市氏」(自民党)か、それとも、「野田氏&斎藤氏」(中道改革連合)か、と二者択一を迫られたら、ほとんどの国民は「高市氏」を選ぶしかないでしょう。「テンポよく、積極的に政治を動かすリーダー」か、それとも、「周りへの忖度に終始し、いつまでも決められないリーダー」か、多くの国民にとって、答えは一つでした。

 高市内閣には、国民にアピールするための政策アジェンダはたくさん、ありました。ところが、高市首相は、敢えて簡略化し、リーダーの資質に落とし込んで、アジェンダ設定をしたのです。「明るく未来を描き、テキパキと行動する女性」か、それとも、「現状維持にこだわる、暗く、覇気のない高齢男性」か、きわめてわかりやすく、対立構造が創り出されました。

 結果は明々白々でした。

 こうしてみてくると、自民党の圧勝は、卓越したアジェンダ設定によるものだったといわざるをえません。中国がどれほど強烈な情報戦、認知戦を仕掛けてこようとも、はるかに及ばないほどの訴求力が、このアジェンダ設定にはあったのです。

 今回の選挙では、情報技術の発達とSNSの普及によって、いつの間にか、認知戦の時代に突入していることが明らかになりました。

 これまでの情報戦やこれからの認知戦に対し、日本は今後、どう対応していくべきか、これもまた、高市内閣2.0が取り組むべき喫緊の課題です。(2026/2/25 香取淳子)

「鼓の胴の松飾り」が物語るもの

■本丸玄関に掲げられたしめ飾り

 佐賀城本丸歴史館の城門をくぐって中に入ると、まず目に入ってくるのが、本丸御殿の玄関です。

 軒下の天井近くには、大きくて太いしめ飾りが飾られているのが見えます。鼓の胴のような形が印象的です。アップしてみましょう。

 明らかに、普段、見かけない形状のしめ飾りです。調べてみると、これは「鼓胴型」といわれるもので、神社の飾りなどで使われているようです。訪れたのは、12月半ば過ぎでしたから、おそらく、正月飾りなのでしょう。胴の中央部分には、ゆずり葉がたくさん取り付けられ、葉陰にみかんが見え、その下には、紅白の水引を巻き付けた半紙でくるまれた黒いものが見えます。

 変則的な形状だといいながら、添えられているのはいずれも、お正月を祝うための縁起物です。ゆずり葉は、「子孫繁栄」や「世代交代」の象徴として、正月の縁起物に用いられますし、みかんも、「子孫繁栄」の意味を込めて飾られます。 紅白の水引はもちろん、お祝い事の際には必ず使われるものです。

 調べてみると、次のような文書がみつかりました。

こちら → https://saga-museum.jp/sagajou/docs/4e6592467de7748fef647b0cba3cebd3.pdf

 この文書を読んで、いくつかのことがわかりました。まず、このしめ飾りが「鼓の胴の松飾り」と呼ばれていること、そして、この松飾りが「島原の乱」に因むものであること、等々です。

 さらに、この文書の最後には説明書きが添えられており、橙(だいだい)、楪(ゆずりは)、炭(すみ)、南天(なんてん)の意味が書かれていました。

■鼓の胴の松飾り

 文書の後に添えられた説明書きを読んで、気づいたことがいくつかあります。

 たとえば、私が「みかん」だと思っていたものが、実は、「橙」だったことです。みかんも橙も同じ柑橘類ですが、橙は「だいだい」と発音しますから、「代々栄える」という意味が込められているようで、語呂合わせです。

 見たときは、気づかなかったのですが、このしめ飾りには、南天も添えられていたようです。「なんてん」と発音しますから、「難を転じる」という意味になります。こちらも、語呂合わせで添えられた縁起物です。

 さらに、半紙の先からはみ出していた黒いものの正体がわかりました。「炭」だったのです。説明では、「黒が邪気を払う色とされるからとも、読みを「住み」に通じさせて永住を祝う意からともいう」と記されています。

 改めて、藁で造られたしめ飾りを見ると、バランスのいい色合わせが印象的です。赤(南天)、黄色(橙)、緑(ゆずりは)、黒(炭)など、色とりどりのものが添えられており、それぞれが、家族の無事と安全、そして、代々の繁栄を願う縁起物でした。

 それにしても、一風変わった正月飾りでした。

 変則的な形状だからこそ、印象深いのかもしれません。新年を迎えたとき、家族の安全と幸せ、子孫の繁栄、恙なく、無事な暮らしを願う人々の気持ちがしっかりと、鼓の中に込められているように思えました。

 興味深いのは、この松飾りが、「島原の乱」に由来する正月飾りだと説明されていることです。それでは、松飾りに纏わるエピソードを辿ってみることにしましょう。

■島原の乱にまつわるエピソード

「島原の乱」とは、寛永十四(1637)年から十五(1638)年にかけて、島原・天草地域でキリシタン農民が蜂起し、原城に立て籠った事件を指します。江戸幕府は西国大名を動員し、鎮圧に赴かせました。隣接地なので、当然のことながら、佐賀藩も参戦しています。

 さきほどご紹介した文書では、次のように記されています。

 「佐賀藩では、3万5千人を島原に送り、鍋島勝茂の三男直澄が大手、長男元茂が搦手の指揮をとりました。勝利のきっかけを作ったのは、佐賀藩の一番乗りの武功でした。

 しかし、そのことが抜け駆けであると逆に軍令違反とされ、同年6月29日、鍋島勝茂は幕府への出仕を止められ、謹慎処分を受けることになりました」(※ 前掲、URL)

 これが前段の部分です。

 ここでは、①佐賀藩が島原の乱で武功を立てたこと、②それにもかかわらず、謹慎処分をうけたこと、すなわち、一つの出来事に対する二つの矛盾する局面が示されています。

 一つは、攻撃して鎮圧に成功し、幕府に貢献したという局面、すなわち、目的を達成し、効果で測定される局面です。こちらは客観的に判断できる事実です。そして、もう一つは、勝利を導いた過程に対する評価の局面です。こちらは幕府の見解に基づき、判断されました。

 結果として、佐賀藩主の鍋島勝茂は、鎮圧に成功したにもかかわらず、理不尽にも、謹慎処分を受けてしまいます。上記の文章でいえば、「一番乗りの武功」が、「軍令違反」とされ、処分を受けたのです。その処分が六か月におよぶ謹慎処分でした。

 そして、後段の部分では次のように記されています。

 「ところが、年も押し迫った12月29日、突然、この謹慎処分が解けました。質素な正月の準備をしていた佐賀藩江戸上屋敷では、門松などの正月飾りは用意しておらず、困惑してしまいました。そこで、かねてかれ出入りのあった出雲屋庄兵衛に、松などの材料を集めさせ、米俵などのわらを使い、にわかに松飾りを作らせました。その松飾りの形が鼓の胴部に似ていたことから「鼓の胴の松飾り」といわれるようになりました。この松飾りは大変評判がよく、佐賀藩江戸上屋敷で飾られていました」(※ 前掲、URL)

 ここでは、①年末の十二月二十九日、突然、謹慎処分が解かれたこと、②佐賀藩江戸上屋敷では、正月飾りを準備しておらず、慌てて出入りの業者に作らせたのが、この「鼓の胴の松飾り」だったということ、が語られています。

 幕府から処分を解かれたという側面と、そして、正月飾りを用意していなかったが、なんとか間に合わせたという側面が語られています。危機を乗り越えて得られた安堵感、そして、共に正月を祝うことができた幸福感が浮き彫りにされています。

 この時の、藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々の、安堵感と幸福感を象徴するのが、この「鼓の胴の松飾り」というわけでした。

 このエピソードの前段では、幕府から理不尽にも謹慎処分にされ、佐賀藩主が不遇を受け入れざるをえなかった状況が語られています。そして、後段では、藩主の謹慎処分が解けた年末、佐賀藩江戸上屋敷の人々が、心のこもった松飾りを手配し、無事にお正月を迎えることができたと述べられています。藩主と佐賀藩江戸上屋敷の人々が一体となって、危機を乗り越え、共に正月を祝うことができたというハッピーエンドのエピソードになっているのです。

 もっとも、先ほどの文書に記された説明ではこれだけのことしかわかりません。当時の佐賀藩の人々の気持ちを把握するため、まずは、島原の乱が勃発した経緯から、みていくことにしましょう。

■島原の乱の勃発から幕府の対応

 島原の乱が勃発したのは、寛永十四(1637)年十月二十五日のことでした。キリシタンに対する過酷な弾圧と島原藩による重税がきっかけで、一揆が勃発したのです。この日、島原の代官・林兵左衛門が撲殺されたばかりか、島原各地の代官が次々と襲撃を受け、一揆の規模が広がりました。翌二十六日には島原城が攻撃され、城下町が放火されました。

 一連の暴動を知った熊本藩は、情報収集のために歩御使番(伝令)を島原に派遣しました。(※ 上田哲也、「熊本藩細川家の忍び」、『忍者研究』3号、2020年、p.19)

 一方、佐賀藩主の鍋島勝茂(1580-1657)は、寛永十四(1637)年十月二十六日、江戸でこの島原一揆の報に接しました。佐賀藩が最も早く、一揆の情報を掴んでいたといわれていますが、それは、島原藩から支援を求める書状が届いていたからでした。島原藩から佐賀藩宛ての求援状の日付は、熊本藩宛てのものよりも一日早かったのです。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』、24号、1979年、p.58)

 このように、一揆勃発の直後に、島原藩から隣接藩へ支援を求める書状が届いていたのです。ところが、両藩は、越境して支援に赴くことができませんでした。武家諸法度の規定に縛られ、幕府の命令なしに支援することが禁じられていたからでした。

 書状を受け取った佐賀藩は、豊後府内(大分城)にいた目付(旗本、御家人を監視する幕府の役人)に急報して、指示を仰ぎました。ところが、目付からの注進が幕府に届いたのが十一月九日でした。一揆が勃発してから半月も経っていました。

 情報が遅れたため、幕府の軍事的対応も遅れ、その間に、一揆の勢力は拡大してしまいました。十一月十九日には島原南部一帯を支配したばかりか、唐津領天草でも蜂起し、富岡城を落城寸前にまで追い詰めていました。

 幕府は、上使として板倉重昌(1588-1638)、石谷貞清(1594-1672)を派遣し、隣接で対応する藩として、佐賀と唐津を充てました。ところが、唐津領の天草で一揆が勃発した知らせを受け、幕府は、唐津を久留米藩と柳川藩に変更し、熊本藩を肥後天草の警備に充てました。

 佐賀藩主の鍋島勝茂は、上使板倉重正に随伴して領地に戻ることを幕府に願い出ましたが、許されませんでした。他の九州外様大名と同様、世子(大名の跡継ぎの子)である小城の鍋島元茂(紀伊守、1602-1654)と蓮池の直澄(甲斐守、1616-1669)を下国させ、乱の鎮圧に当たらせることになったのです。(※ 中村質、前掲、p.62)

 上使が久留米に到着したのが十二月三日、それを受けて、久留米、柳川の藩兵が六日に島原に到着し、唐津、熊本藩が九日に天草に上陸しました。ところが、その時、一揆勢はすでに原城に籠っていたのです。

 原城が主戦場になりました。

■原城攻撃

 第一回目の原城攻撃は十二月十日で、この時の籠城者数は二万数千人でした。一般に城攻めの場合、籠城者の数倍から十倍の兵員が必要だとされていました。ところが、幕府側は、島原藩、佐賀藩、久留米藩、柳川藩、上使(幕府)勢を含めても五万有余にすぎませんでした。当然、勝利するはずはなく、続く十二月二十日、そして、寛永十五(1638)年元旦の戦闘でも幕府軍は敗退しました。


(※ https://ktymtskz.my.coocan.jp/D/ieys7.htmより)

 上の図では、城壁の外から攻める幕府軍と、内から抗戦する反乱軍が描かれています。一場面だけを切り取った絵なので、城壁を挟んで、両軍が互角に戦っているように見えますが、城外にいる幕府軍は圧倒的に不利でした。上使の板倉が戦死した寛永元年正月の戦闘では、諸藩を合わせ、死傷者は三千九百人にも及んだといわれています。(※ 中村質、前掲、p.63)

 原城には約三万人が、武器や食料を運びこんで立て籠もり、討伐軍に備えていました。もちろん、その中には女性や子供、高齢者などが含まれていますから、実際に戦えるのは五千人ぐらいでした。

 それでも一揆勢が善戦できたのは、原城が難攻不落の要塞だったからです。原城は島原半島(長崎県)の南端にあり、東と南と北が海で、西側だけが陸につながっている地形に建っていました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Remains_of_Hara_castle_as_seen_from_the_sea.JPG

 上の写真は、海から見た原城の跡です。確かに、三方が海で囲まれており、ぎりぎりまで崖が迫っています。明らかに、攻めるのが極めて難しく、自然の要塞だったことがわかります。

■難攻不落の原城

 この原城は、有馬貴純(生没年不詳)によって、明応五(1496)年に築城されました。肥前の戦国大名だった有馬貴純は、居城であった日野江城を難攻不落の城に強靭化すると、次に高来郡を制圧し、さらに、短期間のうちに藤津、杵島の両郡を併合しました。(※ 松本慎二、「原城」、『西海考古』第3号、2001年7月、p.99)

 実戦を繰り返し、島原半島をほぼ手中に収めたのです。さまざまな戦闘経験を積んでいるだけに、築城に際しては、難攻不落であることを絶対条件にしたのでしょう。先ほどの写真を見ると、この原城が、きわめて攻めにくい地形に建造されていたことがわかります。

 ここを居城にしていたのが、キリシタン大名の有馬晴信(1567-1612)でした。

 有馬晴信は、関ヶ原の戦いでは、徳川方についていたため、領地の所有は保証されました。ところが、奪われた領地の回復を求めて贈収賄事件を起こし、そのうえ、貿易権を巡る長崎奉行殺害の企てが発覚したので、甲斐国に流されました。慶長十七(1612)年、幕命によって自害させられました(※ 松本慎二、前掲、p.100)。

 原城の主がいなくなってしまったのです。

 慶長二十(1615)年六月十三日、一国一城令に則って、日野江城と原城は破棄されました。当時、江戸幕府は諸大名に対し、居城以外のすべての城の破却を命じる法令による措置を講じたのです。統制を図るためでした。

 島原の乱が勃発した時、原城はすでに廃城でした。

 一揆をおこした人々は、これ幸いと、廃城になった原城に立て籠もりました。この城は、戦国大名が攻め込まれることを前提に、築城されました。それだけに、攻めるのがきわめて難しく、なかなか陥落しませんでした。

 実際、幕府軍は上使板倉の統括の下、第1回、2回、3回にわたって、原城を攻めました。ところが、陥落させることができないまま、敗退し、3回目の攻撃で戦死しています。

 寛永十五年元旦の戦いでは、とくに激しい乱闘が繰り返されました。上使の板倉重昌が戦死し、目付(幕臣の監察にあたる)や使番(諸大名の監督)も負傷してしまいました。この時、死傷者数は、諸藩あわせて三千九百人にものぼりました。凄惨な死闘が展開されたのです。

 一連の原城攻めの中で、もっとも死傷者が多かったのは、寛永元年のこの戦闘によるものでした。中村質氏がまとめた表によると、島原の乱を鎮圧するための戦闘での死傷者は、佐賀藩の場合3654名で、全体(10937名)の33.4%にも及びました。(※ 中村質、「島原の乱と佐賀藩」、『九州文化史研究所紀要』24号、1979年、p.64)

 佐賀藩は大きな犠牲を払って、島原の乱の鎮圧に臨んでいたのです。

■松平信綱、戦法を変えて攻撃

 上使第二陣の松平信綱(1596-1662)と戸田氏鉄(1596-1662)が、島原の陣地に到着したのは、寛永元年正月四日でした。上使板倉が戦死し、幕府軍が最も大きな打撃をこうむった戦闘の三日後です。

 松平信綱と戸田氏鉄が幕府から派遣されたのは、一揆鎮圧後の処理のためでした。幕府としては、島原で勃発した一揆など、容易に鎮圧できると思っていたのでしょう。彼らは板倉が戦死したからではなく、鎮圧できているだろうという想定の下、戦後処理のために派遣されていたのです。

 ところが、江戸からはるばる島原に着いてみると、上使の板倉重昌はその三日前の戦闘で戦死しており、目付の石谷貞清も重傷を負っていました。急遽、板倉に代わって指揮を執ったのが、上司の松平信綱です。幕府軍の総大将として、一揆を鎮圧する責務を負うことになったのです。

 一揆勢の抵抗は、その後も激しく、一月二十八日には副将格の戸田氏鉄が負傷してしまいました。そこで、松平信綱は、戦陣経験のある老将達を集めて、作戦会議を行い、難攻不落の城攻めにふさわしい戦法に切り替えました。すなわち、大量に兵を動員し、仕寄攻めの作戦を取ったのです。「攻城軍十二万七千人」といわれる数をはるかに超える規模であったといいます(※ 中村質、前掲、p.64)。

 ちなみに「仕寄攻め」とは、諸藩陣場から城の塀際まで竹束や板等で防弾の仕寄りを作り上げてから、「城乗り」(城に攻め入ること)にかかる戦法です。工事期間中に、城中の食糧、弾薬等を欠乏させることになるので、兵糧攻めともいえるものでした。

 それでは、「仕寄攻め」とは一体、どういうものなのでしょうか。具体的なイメージを掴むために、ネットで見つけた竹束仕寄りの写真を見てみることにしましょう。


(※ https://livedoor.blogimg.jp/naganoetokino1/imgs/3/0/301cb3af.jpg

 上記の写真は、見るからに、頑丈な建造物です。弾丸や投石から身を守るための盾として使うのですから、これだけたくさんの竹が必要になるのでしょう。あまりにも巨大な竹束には驚いてしまいます。

 まずは塹壕を掘り,このような竹束や大楯を張り巡らせて、敵の矢弾や投石を防ぐ工事をし、防御態勢を整えてから、攻撃に挑むのです。上使の松平信綱は、寛永元年の悲惨な戦闘結果を踏まえ、確実に鎮圧できる戦法に切り替えたのです。

 これだけの工事をしてから戦闘を開始するのですから、実戦に入るまでに時間がかかります。その間、籠城している人々は、城内に食糧や武器の搬入をすることができません。時間はかかりますが、これは、確実に一揆勢を追い詰める戦法でした。

 実際、この戦略に切り替えた結果、一揆勢の兵糧は、二月下旬にはほぼ尽きてしまいました。外堀を固めることによって、強硬な抵抗勢力を徐々に弱体化させ、鎮圧することができたのです。

 二月二十八日、遂に、幕府軍は原城を陥落させることができました。松平信綱が、実戦経験のある老将達と作戦を練り、戦法を兵糧攻めに変更したことが、間接的な勝因でした。

 兵糧攻めは、時間の経過とともに幕府軍に有利に働く戦法でした。ところが、佐賀藩は、功を焦って抜け駆けをしてしまいました。

 鎮圧に至る経緯を振り返ってみることにしましょう。

■鎮圧に至る経緯

 上使・板倉重昌の戦死が幕府に伝えられると、幕府は、直ちに諸藩の藩主に下国し、参戦するよう命じました。命令に従い、佐賀藩主の鍋島勝茂が、島原に着いたのは一月二十九日でした。当時、しばらくは「仕寄攻め」のための工事が続き、戦闘に挑めない状況でした。

 城攻めの布陣が定まったのは、二月二十日ごろでした。

 当初、第一面に、熊本藩、柳川藩、島原藩、久留米藩、佐賀藩、唐津藩、福岡藩の順に横隊を組み、藩の石高に応じて「持場」を定めていました。背後の第二面は、左から、鹿児島藩、上使勢、各地の使者、延岡藩、福山藩の布陣でした。

 佐賀藩は第一面のほぼ中央で、二の丸出口と鳩山出口(絶壁で攻略不能)に面しており、一番の深堀から九番の諫早まで横隊の持場でした。ところが、これでは攻め口が狭くて攻めづらく、後備の兵を置く必要があることから、縦隊四段としました。

 二月二十日付の軍令および塀取仕組図では、島原入りの行軍隊形と基本的に合致する配置が示されていました。ところが、実際の戦闘はそれとは異なった隊形が取られていたのです。

 二月二十一日未明に、福岡、唐津、佐賀、久留米などの諸藩による城兵(城を守る兵士)の夜討ちが行われ、二十七、二十八日には、佐賀藩の抜け駆けに始まる総攻撃が行われました。こうして五か月に亘って籠城していた一揆勢は、完全に鎮圧されたのです(※ 中村質、前掲。p.65)。

 鎮圧に至る経緯をみると、佐賀藩が抜け駆けをし、二日に亘る総攻撃をしかけたおかげで、反乱軍を完全に鎮圧できたことがわかります。ところが、佐賀藩主の鍋島勝茂らは、軍令違反に問われ、出仕を止められました。武功をあげ、鎮圧を成功させたにもかかわらず、幕府からは謹慎処分を受けたのです。

 佐賀藩は、なぜ、謹慎処分を受けなければならなかったのでしょうか?

■厳しい戦後処理

 六月二十九日、藩主・鍋島勝茂は、佐賀藩の軍監(出征時の指揮官)で、先駆けを指揮した長崎奉行の柳原職直(1586-1648)とともに、上使の軍令違反に問われ、幕府への出仕を止められました。軍令に背き、一手先駆けの攻撃を佐賀藩が仕掛けたことに対する処罰でした。半年にわたる謹慎処分を受けています。

 島原の乱の当事者である島原藩は、改易処分(身分剥奪や領地・家屋敷の没収といった重い刑罰)となり、藩主の松倉勝家は後に斬首となりました。領民の生活が成り立たないほど、過酷な年貢の取り立てによって、一揆を招いた責任を問われたのです。大名が切腹ではなく斬首とされたのは、江戸時代ではこの1件だけだったといいます。それだけ厳しい処分がくだされたのです。 

 天草を領有していた領主の寺沢堅高も責任を問われ、領地を没収されています。寺沢堅高は、後に精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となりました。

 そして、当初の上使で、戦死した板倉重昌の嫡子である板倉重矩は、父の戦死後、父の副使であった石谷貞清と共に総突入の際、勝手に参戦し奮闘したことが軍令違反に問われました。父親が戦死した際の不手際を問われ、鍋島勝茂と同様、同年十二月までの謹慎処分を受けています。

 このように関係者はいずれも、厳罰処分を受けています。

 一方、一揆鎮圧を成し遂げた松平信綱は、その勲功を賞され、寛永十六(1639)年一月五日、三万石加増となって六万石で川越藩に移封されています。島原に派遣された幕府軍の指揮を執って、一揆勢の鎮圧に成功した功労が評価されたのです。褒章として、江戸に近い川越藩に移封されたのは、信綱が幕府にとって必要な人材だったからに違いありません。

■武家諸法度の改正

 松平信綱は寛永十五年、老中首座になり、幕政を統括するようになりました。真っ先に手を付けたのが、武家諸法度の改正でした。島原の乱での経験から、武家諸法度の改正をしなければならないと思っていたことがわかります。

 島原の乱が勃発した際、なぜ、幕府の軍事的対応が遅れたのかを振り返ってみれば、武家諸法度を改正しなければならないと思うのは当然でした。

 振り返ってみましょう。

 キリシタンに対する弾圧と島原藩による重税に耐えかねて、一揆が勃発したのは、十月二十五日でした。十月二十七日には島原藩の家老が、江戸に滞在中の藩主・松倉勝家に急使を派遣しています。その一方で、隣接する熊本藩の細川家、佐賀藩の鍋島家にも島原城への救援を依頼しました。(※ 中村質、前掲、p.59)

 ところが、熊本藩も佐賀藩も、寛永十二(1635)年に出された「武家諸法度」に縛られ、救援活動を行えませんでした。

 「武家諸法度」十九条の第四条に、次のような事項があります。

 「江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事」(※ Wikipedia)

「江戸や他藩で何が起こっても、在郷のものはそこを守り、幕府からの命令を待つこと」と定められていたのです。島原藩から支援依頼が来ても、熊本藩も佐賀藩も支援活動に向かうことができず、幕府目付の指示を仰ぐことしかできなかったのです。

 「武家諸法度」が制定されていたせいで、隣接藩がすぐに対応することができず、初動が遅れました。一揆の広がりを招いた原因が武家諸法度にあることは明らかでした。

■軍制の確立と正月飾り

 老中になった松平信綱は、早々に武家諸法度を改正しています。一揆が起これば、近隣諸藩が即刻、越境して鎮圧できるように変更したのです。そればかりではありませんでした。再びこのような一揆が起こらないように、キリスト教を普及させたポルトガルとは断交し、オランダとだけ交易できるようにしました。島原の乱を教訓に、松平信綱は幕藩体制を整備し、鎖国体制を完成させたのです。

 さて、軍令違反に問われ、謹慎処分を受けていた鍋島勝茂と板倉重矩は、同年十二月二十九日に処分が解除されました。

 江戸時代、将軍家が諸大名や旗本とともに祝う儀礼の一つに、年始御礼(正月元日~三日)というものがありました。主従関係を強化する意味あいが大きく、最大規模の年中行事でした。それだけに、幕府としては正月前には処分を解除しようと思ったのでしょう。

 一方、佐賀藩江戸上屋敷の人々は、謹慎処分のまま年を越すのだと思っていたところ、暮れも押し迫った十二月二十九日、突如、藩主の謹慎処分が解かれました。どれほど驚いたことでしょう。

 なにより困ったのは、正月準備も質素なものしか用意していなかったことでした。藩主の処分が解除されたのですから、なんとしても正月飾りは用意しなければなりません。窮余の策で、藩屋敷に出入りしていた出雲屋庄兵衛に頼み、松飾りらしいものを作らせました。それが、冒頭にご紹介した「鼓の胴の松飾り」です。

 松や米俵の藁などあり合わせのものを使って、鼓の胴の形に仕上げられたこの正月飾りは、とても評判がよく、以後、この松飾りはずっと佐賀藩江戸上屋敷で飾られてきました。明治以降も、その伝統を引き継ぎ、佐賀県庁や佐賀市役所に飾られてきたといいます。

 これまで見てきたように、「鼓の胴の松飾り」が造られることになったのは、「島原の乱」の戦後処理がきっかけでした。そして、その「島原の乱」の戦後処理は、幕藩体制の整備や鎖国体制の確立と密接に絡んでいました。

 佐賀藩主を謹慎処分にしたことからは、幕府が、武功を立てるよりも、軍規を遵守することを優先したからといえます。つまり、幕府が、島原の乱を契機に、軍制を強化し、平時にも適合する遵法精神を涵養したかったからではないかという気がするのです。

 江戸時代に入って、外国勢力浸透の危険性に気づいた幕府は、鎖国政策を確立することを選びました。その契機となったのが、「島原の乱」です。一揆勢の鎮圧に成功した佐賀藩の藩主を、抜け駆けをしたことを理由に謹慎処分にしたのは、幕府が、社会統制を強化しようとしていたことを示すものにほかなりません。

(2026/1/30 香取淳子)

陶磁器業界の近代化に貢献したワグネルと納富介次郎

■有田駅で見かけた柿右衛門の陶板

 2025年12月15日午後二時過ぎ、ようやく有田駅に着きました。駅員がチケットを回収するシステムの駅でした。背後に小さな山が見えます。下車したホームの対面に、屋根付きの掲示板のようなものが見えました。ホームの階段を上って渡り、近づいてみると、陶板が展示されていました。

 左下に縦書きで「第十四代柿右衛門」と署名が入っています。遠目からは、一瞬、朝顔かなと思いましたが、よく見ると、ちょっと違っていました。ラッパのように開いた花弁の形状、傍らの葉の形に長い茎、そして、花芯には数本の雄しべが描かれています。おそらく、ユリの花でしょう。落ち着いた赤とベージュの花弁が優しく、穏やかな空間を創り出しています。

 伸びやかに広がる花々を、乳白色の余白が支える画面構成が印象的です。

 製作者の第十四代柿右衛門(1934-2013)は、三百数十年も続く「柿右衛門様式」の伝承者です。昭和五七(1982)年に、十四代柿右衛門を襲名しました。以来、「柿右衛門様式」の中に自分自身の個性を発揮するようになったそうです。「余白の美」を特徴とする「柿右衛門様式」の奥深さ、表現の可塑性に気づいたからでした。

 第十四代柿右衛門は、柔らかな白い磁器の地肌に、赤を中心とした鮮やかな色で、野の草花などを華やかに描くのが特徴だとされています。柿右衛門様式の伝統を継承しながら、自身を表現し、現代の生活空間に合った作品を追求しているのです。平成十三(2001)年、色絵磁器の分野で国の無形文化財、すなわち人間国宝に認定されました。(※ https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250414_00000

 その人間国宝の作品がさり気なく、駅に設置されているのです。確かにいま、有田にいるのだという思いを強くしながら、ホームを歩いているうちに、ふと、駅の脇に貨車が停車しているのに気づきました。

 この貨車で陶磁器を輸送するのでしょうか。コンテナが多数、積み上げられています。後ろには小さな山が見えます。

 さらにホームを歩いていくと、コンテナ置き場のようなものがありました。その背後に、「佐賀県陶磁器工業協同組合」の看板のかかった建物が見えます。

 写真を拡大すると、一階部分に、「有田窯元ギャラリー」というショップの名前が見えます。しかも、その隣に白い胸像が設置されています。この写真でははっきりしないので、調べてみると、ワグネル(Gottfried Wagener, 1831- 1892)の胸像でした。明治初期に鍋島直正に招聘され、有田で技術指導を行った人物です。

 眩いほど白い顔面に、強い信念が感じられます。

■ワグネルとは?

 ドイツ人化学者ワグネルは、アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場を設立するため、長崎に招聘されました。

 1868年3月29日にマルセイユを出発し、5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着しています。ところが、石鹸工場は軌道に乗らず、工場は取りやめになってしまいました。その後、佐賀藩に雇われ、明治1870年4月から8月にかけて、有田町で窯業の技術指導を行っていました。ワグネルが有田で行った技術指導は次のようなものでした。

●石灰を用いた経済的な釉薬の開発、

●従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用、

●薪不足を解決するための石炭窯の築造実験、(※ 武智ゆり、『近創史』、No.6, 2008年)

 わずか四か月ほどの期間でしたが、ワグネルは以上のような開発や技術指導を有田で行っていました。いずれも磁器製造の品質向上と経費節減につながるものです。ワグネルは、科学的手法によって有田焼製法の近代化に貢献していたのです。

 1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移動し、文部省設立と大学改組に伴い、1872年には医療系の東校(現・東京大学医学部)の数学、博物学、物理学、化学などの教育を担当しています。

 1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となりました。ヨーロッパの人々の嗜好がわかり、理化学分野の知識や技術があったからでした。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」で、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録および説明の作成を行いました。ワグネルの導きがなければ、とても受賞などできなかったでしょう。

 この時の万博で「名誉賞」を受賞したのが、「肥前有田 陶器製造所」でした。(※ 松田千晴、「万国博覧会と作品出品者」、2000年3月、p.28)

 有田での技術指導の効果が、受賞という形で得られたのです。ワグネルは万博出品に際し、「日本的で精巧な手工芸品」であることを求めました。粗雑な機械製品では西欧に負けると思ったのでしょう。近代化していない日本が競争優位に立てるとしたら、まさに「日本的で精巧な手工芸品」しかないと判断したのです。

 1876年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会でも、ワグネルの指導、助言のもとで参加準備に入りました。ここでもワグネルは出品作品について厳しい基準を貫きました。その結果、磁器部門では有田から深川栄左衛門他二名が入賞しています(※ 前掲、p.29)。

 日本政府初参加のウィーン万博で受賞できたのも、フィラデルフィア万博で入賞できたのもワグネルによって、予め出品作品の基準を示されていたからでしょう。欧米人の嗜好を踏まえ、出品作品を選んだ結果、受賞できたといえます。

 これについては当時、日本らしさが失われたと批判する向きもありましたが、日本の陶磁器は人気を博し、飛ぶように売れたといいます。有田香蘭社の出品作品はとくに精巧な美しさで、高評価を得ていたようです。

 技術指導等によって、陶磁器製造の近代化に貢献していたワグネルは、販売ルートの拡大にも大きな役割を果たしていたのです。国際的な展示場であった万博で高評価を得た有田焼は、当然のことながら、輸出産業の花形になっていきます。

 有田駅のホームに立っているだけで、このような陶磁器界の歴史の一コマを感じさせられます。そのまま維新期の有田に思いを馳せていたい気持ちになってしまいますが、実は今回、有田に来たのは所用があったからでした。有田工業高校を訪れるのが主目的でした。

 有田駅から徒歩15分ぐらいのところに有田工業高校はありました。校門を入ると、まず目に入ってきたのが、白い胸像です。近づいてみると、初代校長納富介次郎先生の像と書かれています。

 納富介次郎の像が、なぜ、有田工業高校の玄関に設置されているのでしょうか?

■納富介次郎とは?

 天保十五(1844)年に、納富介次郎(1844-1918)は、佐賀藩の支藩である小城藩の藩士の柴田花守の次男として生まれました。実父からは日本画を学び、安政六(1859)年、十六歳の時に佐賀藩士で儒学者の納富六郎左衛門の養子になると、その翌年から長崎に出て、南画を学んでいることがわかりました。

 日本画であれ、南画であれ、納富介次郎は幼い頃からさまざまな画風の絵を学び続けてきたことがわかります。根っから絵が好きだったからか、それとも周囲が彼の絵の才能を見抜き、学びの場を提供していたからか、経緯はよくわかりませんが、彼がどんな時でも描くことを忘れず、画業の習熟に励んでいたことがうかがい知れます。

 文久二(1862)年に、納富介次郎は、幕府勘定吟味役である根立助七郎の従者として、上海に渡っています。同じ佐賀藩士の中牟田倉之助や長州藩士の高杉晋作と共に上海に出向いて貿易調査を行い、報告書を作成していました。従者とはいえ、十九歳の時に海外業務に携わっているのです。藩命を受けての業務であり、幕府の業務の一環でもありました。

 そういえば、納富は十七歳の時、長崎に出て南画を学んでいました。その時、おそらく、語学も習得したのでしょう。語学ができ、学習能力が高く、臨機応変に対応できる柔軟性と行動力を備えていたからこそ、納富は海外業務に抜擢されのではないかと思います。上海には明治二年(1869)年にも再訪しています。大阪佐賀藩商会と清の貿易業務を行うためでした。そして、明治四(1871)年には、横浜に出て貿易業務に携わっています。興味深いことに、この時、業務の傍ら、納富は油絵を学んでいたというのです。

 横浜には居留地があり、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派記者として来日していたイギリス人チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman、1832 – 1891)が、そこで日本人に油絵を教えていました。1865年に五姓田義松、1866年には高橋由一が入門していたことがわかっています。納富はおそらく、このワーグマンから学んでいたのではないかと思われます。

 実は、ワーグマンは1861年6月25日、イギリス公使オールコックの一行と共に長崎を訪れています。その頃、納富は長崎で南画を学んでいましたから、ワーグマンの噂は聞き及んでいたに違いありません、横浜に赴任した納富が、早々に、ワーグマンの許に出向いて油絵の教えを請うた可能性は高いです。

 納富が横浜で海外業務を担当していた明治四(1871)年、明治政府はオーストリア・ハンガリー帝国からウィーン万博への参加を打診されました。 万博は開国したばかりの日本が国際デビューするのに格好の舞台です。出品物を通して日本の豊かな国土や工芸品をアピールすることができますし、海外の展示品から最新の技術や文化を吸収することもできます。政府は参加することを決め、明治五(1872)年二月にその布告をしています。

■ウィーン万博、フィラデルフィア万博への参加

 明治六(1873)年(5月1日~11月1日)に、ウィーン万国博覧会が開催されました。これは日本政府がはじめて公式に参加し、出品した博覧会です。日本からは、官員、通訳、技術伝習生、御雇外国人、展覧会場の建設要員など、総勢100名近くが派遣されました。万博事務局総裁が大隈重信、現地を仕切る副総裁が佐野常民、ワグネルが顧問で出品物の選定や海外向けの目録、説明書を作成しました。佐賀藩の関係者が主要メンバーとして構成されていたのです。

 納富介次郎は、陶器製造図説編成兼審査官として、参加しました。語学ができ、絵画への造詣の深いこと、貿易業務に明るいことなどが認められたのでしょう。伊万里商社の陶工・川原忠次郎や京都の丹山陸郎は共に陶芸研究員として参加していました。

 ワグネルの斡旋によって、納富、川原は万博終了後もそのままヨーロッパに滞在し、ボヘミアのエルボーゲン製陶所(Elbogen Porcelain Factory)で伝習生として、陶磁器の製造を学びました。その後、彼らはフランスのセーブル製陶所(Manufacture de porcelaine de Sèvres)を見学した後、明治八(1875)年に帰国しています。

 納富や川原は日本人として初めて、ヨーロッパで陶磁器の製法を学び、著名な製造所でさまざまな製品を見てきた稀有な人物でした。この時の伝習経験を通して、納富は、工芸品として作品毎に制作する方法では量産化できず、貿易収支を改善するには限界があると認識するようになりました。

 欧米列強に伍していくには、量産体制を整える必要があると考えるようになり、組織的な人材育成にも取り組む必要があると考えました。納富は帰国後、次々と、工業学校あるいは工芸学校の創立に携わりましたが、それはヨーロッパでの伝習経験が契機となっていたのです。

 納富は、科学技術を駆使し、機能的で需要に応じた陶磁器を製造することが重要であるとも述べています。さらに、陶磁器の製造にはマーケティングが必要だという認識を示していました。商品である以上、日本の陶磁器が欧米でどれだけ需要があるか、顧客の嗜好はどのようなものか、コストに見合う生産ができるのか、といった市場調査が必要だというのです。

 こうしてみると、納富がヨーロッパで学んだものは、単に陶磁器の製造技術だけではなかったことがわかります。陶磁器の製造過程、販路、消費過程にも近代化が必要だということを学んでいたのです。

■自ら考案したデザイン

 帰国翌年の明治九(1876)年にフィラデルフィア万博が開催されました。納富は専任審査官として出品審査を行うばかりか、自らデザインした陶磁器なども出品しました。産地の職人から、明治政府あてに海外向けの作品の図案を示して欲しいという要望があったからでした。

 たとえば、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」という作品があります。

 森谷美保氏は、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」について、「花瓶の胴部には色づく紅葉が映える山中の滝の景色が絵にされ、主な文様は伝統的な山水風景だが、首と足は華やかな色彩で彩られ、瀟洒な耳が和洋折衷の雰囲気を漂わしている」と説明しています。(※ 森谷美保、2021年7月15日、日経新聞)。

 残念ながら、個人のコレクションなので、どのような作品なのか、「色絵紅葉山水文耳付花瓶」をここでご紹介することはできませんが、森谷氏の文章からは、日本の風景ならではの繊細な美しさが表現されているようです。

 この作品の器形図案は、納富介次郎が考案したものでした。図案を香蘭社へ配布し、同社の設立メンバーだった名工・深海墨之助が成形を手掛けたのです。絵付けを行ったのが瓢池園で、ウィーン万博を機に東京で創業した絵付け業者です。明治六(1873)年に、東京深川の森下町に設立された陶磁器の絵付工場には、絵師出身の絵付師を抱えており、絵画的な表現を得意としていたといわれています。

 器形デザイン、成形、絵付けなど陶磁器の製造過程で、それぞれの領域で最高の力量をもつ人材を起用し、作品化したのです。

 納富はウィーン万博に参加した後、ヨーロッパに滞在して陶磁器の製造経験を積みました。そこで学んだのが、これまでの日本の製法を変えなければ、貿易収支を改善できないということでした。さまざまな改革を試みましたが、その一つが工芸デザインの改革でした。

 フィラデルフィア万博への出品作品では、博覧会事務局が輸出品の器形や文様の図案を作成し、産地にそれを配布し、図案と同一の製品を制作させる方法が実践されました。これは質の高い作品を生産する方法であり、納富が開発した陶磁器製造の近代化の一環でした。

 納富介次郎が考案した図案は後に、「温知図録」と呼ばれるようになりました。「温知図録」はまさに官民一体で輸出用の陶磁器製造に取り組んだ成果の一例といえます。

■実践教育に邁進

 帰国後の明治一〇(1877)年、納富は塩田真(1837-1917)とともに、江戸川製陶所を設立しました。共にウィーン万博に参加し、その後オーストリアの製陶所で技術を学んだ仲間の一人です。ところが、営利を顧みない公共的な事業だったので、次第に経営難になり、七年後の明治一七年に閉鎖せざるをえなくなりました。

 当時、陶磁器業界でも近代化が求められるようになっていました。技術はもちろん、経営、組合、特許制度などすべての領域で改革が必要になっていたのです。海外経験のある納富らは、近代化の指導者として各地で活躍しています。

 たとえば、明治一六(1883)年、納富は石川県に招かれて陶器や漆器の製造を指導し、製品を中国に輸出するように勧めています。翌々年に再び招かれて、一年間の技術指導を行い、絵画品評会の審査長なども務めました。この期間に納富は、工芸品の生産体制の協同化、効率化を提言し、同業者組合の設立や物流の効率化なども推進しました。

 ヨーロッパでの陶磁器の製造経験を経て獲得した製法、生産体制の近代化を、納富は次々と実践し、広めていったのです。

 金沢での嘱託期間が終了すると、納富は石川県に働きかけて、人材育成に挑みます。明治二〇(1887)年に金沢工業学校(現・石川県立工業高等学校)が設立されると、その初代校長となりました。これは、日本初の中等実業教育機関で、専門画学部、美術工芸部、普通工芸部の三部が設けられていました。

こちら → https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/kenkoh/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B4%B9%E4%BB%8B

 その後、明治二七(1894)年に富山県工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)を創立し、やはり初代校長となり、三年以上勤務しました。ここでは仏壇や高岡銅器の生産が盛んな現地の状況を踏まえ、木材彫刻、金属彫刻、鋳銅、髹漆の四科を設けました。

こちら → https://www.kogei-h.tym.ed.jp/school_information

 続いて、明治三一(1898)年には香川県工芸学校(現・香川県立高松工芸高等学校)を創立し、木工部と金工部を設置しました。ここでも三年以上にわたって初代校長を務めています。

こちら → https://www.kagawa-edu.jp/kogeih02/gakkousyoukai

 そして、郷里の佐賀県立工業学校(現・佐賀県立佐賀工業高等学校)の二代目校長として着任したのが、明治三四(1901)年です。その二年後の明治三六(1903)年には同校の分校だった佐賀県立有田工業学校(現・佐賀県立有田工業高等学校)を独立開校させ、初代校長になりました。

こちら → https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?content=__trashed-18__trashed

 納富介次郎は、明治二〇(1887)年から明治三六(1903)年までの十六年間、陶磁器の実践教育の場を次々と設立し続けてきました。金沢、高岡、高松、有田などで創立したこれら四校は、納富の理念を引き継ぎ、現在、互いに姉妹校となって、交流を重ねています。

 有田工業高校のホームページには、「校長あいさつ」として、次のように記されています。

 納富介次郎(佐賀県小城市出身)が創設した、石川県立工業高等学校、富山県立高岡工芸高等学校、香川県立高松工芸高等学校とは、平成一二(2000)年に姉妹校交流を締結している。以来、各校との交流を続け、さらに平成一七(2005)年、韓国陶芸高校とも姉妹校交流を締結し、生徒たちは互いの作品を交換し、鑑賞することを通して交流を深めている。

 納富が着手した実践教育の場は、百二十二年の歳月を経た今、姉妹校だけではなく、韓国にまで交流の輪を広げているのです。

 有田工業高校の校訓を見ると、次のように書かれていました。

「勉(ベん)脩(しゅう)- 愛し、創り、光れ」を掲げ、生涯学び続けること(勉脩)を基本に、自らを大切にするとともに他人を思いやり(愛し)、新しいことに積極的に挑戦し(創り)、社会に貢献できる人間になること(光れ)を目指している。(※ https://www.education.saga.jp/hp/aritakougyoukoukou/?sub_page=%E5%85%A5%E5%AD%A6%E6%A1%88%E5%86%85

 冒頭に「勉脩」を掲げ、学びを基本に、自身や他人を大切にし、新しいことに挑戦し、社会に貢献できるような人間になるようにと訴える内容が印象的です。実は、納富が設立した有田工業高校の前身は勉脩(べんしゅう)學舎でした。

■勉脩學舎

 明治十四(1881 )年、江越禮太は白川の地に、日本初の陶磁器工業学校「勉修学舎」を創設し、初代校長を務め、実践教育を行いました。どこよりも早く有田に、陶磁器の実業学校を創設したところに先見の明があったといえます。

 「安易さから脱するには、西洋の技や教えに学び、その長を取り、わが不足を補うことによって名工を育成する必要がある」と説き、窯業技術の普及を主張し、人材育成の場として勉脩學舎を開校しました。(※ 関西佐賀県人会、平成二十八年七月)

 江越禮太(1827-1892)は元小城藩士で、幼い頃から儒学者・草場佩(はい)川(せん)(1787-1867)に学び、その後、江戸で古賀茶渓(さけい)に師事し、長崎では英語を学びました。帰郷後は藩校である興譲館で英語を教えていましたが、明治二(1869)年、藩命で石丸安世らと西松浦郡山代郷で探鉱の開発を行っています。その後、有田白川小学校の教師として働き、明治十四(1881)年、私財に、深川栄左衛門、副島種臣、大隈重信などからの寄付金を加え、日本で最初の実業学校・勉脩學舎を創設しました。

(※ https://www.arita.jp/greats/detail/egoshi_reita.html

 勉脩學舎の入学資格は小学校卒で、教科は絵画、製陶技術、窯業術の三部で構成されました。勉脩学舎が廃校になった四年後に、有田徒弟学校に引き継がれ、佐賀県工業学校有田分校になりました。それを明治三六(1903)年に有田工業学校に昇格させたのが、初代校長となった納富介次郎です。

 納富はヨーロッパでの体験後、陶磁器業界の近代化を考えるようになっていました。帰国後、各地に実践学校を創設し、人材育成に邁進していったのはそのような思いからでした。納富の理念は、現在の有田工業高校にしっかりと受け継がれています。

■有田で見た、二つの白い胸像

 今回、有田を訪れてみて、有田の陶磁器業界が維新期の傑物たちによって支えられ、近代化の波を乗り越えてきたことがわかりました。そして、維新期の先駆者たちが掲げた理想が、実践教育の場を通して脈々と受け継がれ、進展してきたこともわかりました。

 まず、招聘されて長崎にやって来たドイル人化学者ワグネルが、維新期の沸騰するようなエネルギーに吞み込まれるように、陶磁器業界の近代化に渾身の力を注ぎました。それが改革を勢いづかせました。有田で陶磁器製造の大幅な技術革新が行われ、廉価で良質の製品を製造できるようになったのです。

 さらに、ワグネルは有田焼の真髄が超越技巧による繊細な美しさであることを見抜いていました。それこそが、競争優位に立てる要件だと看破していました。基準を落とさず、出品物を選定して臨んだ結果、ウィーン万博でも、フィラデルフィア万博での、有田焼の作品は激賞され、受賞することができました。西洋の審美眼を併せ持つワグネルならではの助言が効いたのです。

 維新期の日本に心血を注いだワグネルは、やがて病床に伏せるようになり、明治二十五(1892)年十一月八日、勲三等に叙せられ瑞宝章が贈与されたその日に、東京・駿河台の自宅で亡くなりました。帰国することなく、日本で生命を終えたのです。六十一歳でした。

 有田工業高校から有田駅に向かう道中、空を見上げると、分厚い雲が広がっていました。

 駅の背後に山が見えます。小高い山々に囲まれた有田で、二つの白い胸像に出会いました。維新期に、陶磁器業界の近代化に大きく貢献したワグネルと納富介次郎の胸像です。いずれも、信念の強さ、ピュアな志を表現しているかのような眩しいばかりの白が印象的でした。(2025/12/29 香取淳子)

高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

■就任早々の外交デビュー

 高市早苗氏が首相に就任してから、日本社会が明るくなってきたような気がします。国内では、 「責任ある積極財政」の方針の下、税率を上げずに税収を増加させて国民の生活を向上させようとしていますし、不法外国人等の問題についても積極的な対策を講じています。国民が懸念している問題に対峙し、積極的に解決しようとしているからでしょう。

 海外に対してもこれまでの首相たちの卑屈な姿勢とは違って、日本として言うべきことは主張し、対話を通して、問題解決を図ろうとしています。そのせいか、高市内閣になってから希望が見えてきたような気がするのです。

 就任して1か月も経っていないというのに、社会の雰囲気はがらりと変わりました。大きく変化したきっかけの一つは、外交によるプレゼンスの大きさです。高市首相は就任後、ASEAN国際会議で外交デビューし、トランプ大統領との会談、APEC首脳会議での、韓国大統領や中国主席との会談などを立て続けに行いました。いずれも、日本のプレゼンスをおおいに高めました。

 そこで、今回は、高市首相がどのように外交を捉え、これまでの首相とは違って、短い間で大きなプレゼンスを示すことができたのか、その要因を探ってみたいと思います。

■日本の国益を守るため、日本外交を取り戻す

 2025年10月21日、高市早苗氏は日本初の女性首相に就任しました。就任後初の記者会見で、「強い日本を作るため、絶対に諦めない」と決意のほどを語っています。


(※ 内閣府HPより)

 高市首相はこの記者会見で次のように述べていました。

 「来週は、マレーシアでのASEAN(東南アジア諸国連合)関連首脳会議、韓国ではAPEC(アジア太平洋経済協力)も開催されます。多くの国の首脳と顔を合わせる絶好のチャンスです。「自由で開かれたインド太平洋」を外交の柱として引き続き力強く推進し、時代に合わせて進化させ、基本的価値を共有する同志国やグローバルサウス諸国との連携を深める。そうした機会としたいと考えております。

 また、トランプ大統領と早期にお会いをして、日米関係を更なる高みに引き上げてまいります。日米関係は、同盟国として、日本の外交・安全保障政策の基軸でございます。二国間の課題にとどまることなく、インド太平洋地域の課題から、中東情勢、欧州・ウクライナに至るまで、日本と米国が直面する課題につきまして、率直な意見交換を通じ、首脳同士の信頼関係を深めてまいります」

「衆議院、参議院共に、自民党と日本維新の会を合わせても過半数には及ばない。少数与党による、厳しく、困難な船出」となりますが、「私は諦めません。この内閣は、「決断と前進の内閣」です。「国民の皆様と共に、あらゆる政策を、一歩でも二歩でも、前進させていく」と語っています。(※ https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2025/1021kaiken.html

 興味深いのは、「日本の国益を守るため、世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻します」と決意を示していたことでした。力強い日本を取り戻すには、外交力で世界の中心にいなければならないという思いが強かったのでしょう。

 実際、高市早苗首相には、就任直後の10月26日から、2つの国際会議と4つの重要な首脳会談が予定されていました。首相はおそらく、それらの国際会議を念頭に、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻す」と語ったのでしょう。首相就任直後でタイトな日程だったとはいえ、アジア各国の首脳と会談できるチャンスを逃すことはできませんでした。

 高市首相は過密スケジュールの中で次々と、国際舞台へのデビューを果たしていきました。まずは、アセアン関連首脳会議です。

■アセアン関連首脳会議

 アセアン関連首脳会議が開催されたのは10月26日で、翌27日にはトランプ米大統領の訪日を控えていました。あまりにもハードなスケジュールなので、一時は欠席も検討されていたそうです。ところが、高市首相は、恒例の国際会議に参加しなければ、日本がアジアを軽視していると見なされかねないことを心配し、10月25日、クアラルンプールに向かったのだといいます(※ 高畑昭男、https//www.nippon.com/)。

 欠席すれば、ASEAN諸国に誤ったメッセージを送りかねないことを危惧したからでした。ネガティブな影響をできるだけ排除するため、高市首相は強行スケジュールを受け入れたのです。

 実際、高市首相が参加したのは正解でした。日本初の女性首相が誕生したばかりで、首脳たちの関心が高まっていました。一体、どのような人物なのか、「一目会いたい」という思いが強くなっていたのでしょう。

 参加者たちは一様に、温かく高市首相を迎え入れてくれました。高市首相もそれに応じ、会議が始まる前にすでに多くの首脳たちと分け隔てなく、にこやかにコミュニケーションを交わしていました。

 その時の様子を撮影したCNBCの動画が(16分7秒)がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/sVQp0gR3gzY

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭から数分間、高市首相が多くの首脳たちとにこやかに挨拶を交わし、時にはハグしている様子が映し出されています。周囲の人々は一様に笑顔で迎え入れており、その場が温かい雰囲気で包まれていたことがよくわかります。会議が始まる前から、高市首相は参加者たちから大歓迎されていたのです。

 首相もまた表情豊かに明るく、彼らの歓待に応えていました。高市首相のこの態度がアジアの首脳たちにとてもいい印象を与えたのではないかと思います。そのせいか、ASEAN主要国やオーストラリア首脳などとの個別会談も次々とセットされました。

 国際会議としては、第28回ASEAN会議(10月26日)、第3回アジア・ゼロエミッション共同体(AZEC)首脳会議(10月26日)、そして、二国間協議としては、日豪首脳会談(10月26日)、日マレーシア首脳会談(10月26日)、日フィリピン首脳会談(10月26日)など、高市首相は短い滞在期間に次々とアジア各国の首脳と会談しているのです。

 高市首相は短期間のうちに、ASEAN諸国の首脳たちに、アジアを重視する日本の姿勢を印象づけることができました。会議前の様子を映し出したCNBCの動画によって、首相の卓越したコミュニケーション能力が伝わってきます。

■細やかな心配り

 興味深いのは、動画の8分2秒のところで、マレーシア大統領が高市首相に、トランプ大統領を迎える忙しい日程の中でよく参加してくれたと述べていることでした。周囲の心配をよそに、高市首相が強行スケジュールを押して会議に参加した誠意が会場の参加者たちに伝わったのです。高市首相がASEAN諸国の首脳に印象づけた誠実さは、やがて高市内閣への信頼になって友好関係の土台となっていくことでしょう。

 そればかりではありません。

 高市首相は、10月26日午後1時42分から約5分間、クアラルンプール日本人墓地を訪問し献花を行い、マレーシアで命を落とした先人を慰霊したのです。


(※ 内閣府HPより)

 その後、午後1時57分から約10分間、マレーシア国家記念碑を訪問し、記念碑への供花を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 これらの行為によって、高市首相の人となりが強く印象づけられました。日本人墓地や記念碑に供花をすることによって、先人を敬い、歴史を大切にする姿勢が現地の人々に伝わります。それこそがまさに平和と安定の重要性を訴えるメッセージとなっていたのです。

 実際、高市首相は会議で中国を念頭に、南シナ海での威圧的な行動に「深刻な懸念」を示したうえで、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調しました。そして、政府の安全保障能力強化支援(OSA)を使って、海洋の安全保障強化を後押しする方針を打ち出したのです。その一方で、人工知能(AI)や量子などの先端技術で共同研究を推進する考えも伝えていました。

 先ほどご紹介したように、首相はマレーシア、フィリピン、オーストラリアの首脳とも個別に会談しました。フィリピンとは、自衛隊とフィリピン軍が食料や燃料などを融通し合うことができる物品役務相互提供協定(ACSA)の実質合意に至っています。そして、豪州とは、重要鉱物の供給網での協力を確認しています。

 ASEANの本会議やAZEC首脳会議をはじめ、短い滞在期間に次々と個別に二国間で会談し、実質的な合意を得ていたのです。

■ASESANとインド太平洋地域の平和、安定、繁栄

 さて、ASEAN会議の冒頭で高市首相は、「ASEANと共にインド太平洋地域の平和、安定、繁栄を守り抜いていきたい」と呼びかけ、FOIP(Free and Open Indo-Pacific:自由で開かれたインド太平洋)を「時代の変化に合わせて進化させていく」と表明しました。

 さらに、ASEANが開放性や透明性を確保して地域協力を進めていく独自構想「インド太平洋に関するASEANアウトルック(AOIP)」と連携させる考えも示しました。

 第28回ASEAN会議では、このAOIPの推進に関する共同声明が採択されました。

こちら → https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100924542.pdf

 FOIPとAOIPが本質的な価値観を共有し、法の支配に基づく国際秩序に寄与することを確認したのです。これには、力によってASEAN諸国に脅威を与えている中国を牽制する狙いがありました。

 第28回日ASEAN首脳会議は、10月26日午後4時10分から約65分間、マレーシアの首都クアラルンプールで行われました。その概要は以下の通りです。

こちら→https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/pageit_000001_00004.html

 この時、撮影された写真の中央に収まっているのは、日本の高市首相でした。


(※ 首相官邸HPより)

 首脳たちの真ん中で微笑んでいるのが高市首相です。明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いは、品格があり、威厳を感じさせます。黒っぽいスーツ姿の男性陣の中で、ひときわ輝いて見える効果もありました。まるでアジア外交の中心は日本だといわんばかりの写真でした。

■トランプ大統領との会談

 帰国して間もない10月28日、高市首相は、迎賓館赤坂離宮でアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と首脳会談を行いました。


(※ 内閣府HPより)

 会談の様子は次のようなものでした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=R_LJf7dIVR0

(※ CMはスキップして視聴してください)

 冒頭で、安倍晋三元首相に対する友情に感謝をしていると述べたうえで、高市首相は安倍路線を継承して政権運営をしていくと述べています。そして、強い日本外交を取り戻す決意を表明し、自由で開かれたインド太平洋の進展に向けても、日米でさらに協力を進めたいと述べ、「日米同盟の新たな黄金時代」の構築を呼びかけました。

 その後、大統領専用ヘリに乗って空母ジョージワシントンに着き、二人はスピーチを行いました。まずはトランプ大統領、そして、高市首相です。

こちら → https://youtu.be/znE1y-qls8A

(※ CMはスキップして視聴してください)

 高市首相はまず、地域の平和と安全のために尽力してくれている自衛隊と在日米軍の人々に感謝しました。日本の首相に感謝された彼らは日ごろの任務を思い、気持ちを奮い起こしたに違いありません。

■高市首相の米兵に向けたパフォーマンス

 それにしても日本の首相が、トランプ大統領とともに空母の演台に立って、大勢の米兵の前でスピーチするなど、考えられたでしょうか。歴史に残る一コマであり、世界に向けて日米同盟の絆をアピールする絶好の場となりました。

 興味深いのは、高市首相が大勢の兵士たちに向かって、腕を高く挙げて小躍りするパフォーマンスを見せたことでした。まるで大観衆を前にしたアーティストのようでした。すっかりその場の雰囲気の溶け込み、ごく自然に、このような仕草や動きをとることができたのでしょう。

 その場の雰囲気を読み、とっさに、それに応じたパフォーマンスができるのが、高市首相の強みだと思いました。

 このシーンを取り上げ、「はしゃぎ過ぎ」だと非難する向きもありますが、実は、大勢の人々には言葉よりも、このようなパフォーマンスこそが、端的にメッセージを伝えることができます。それは、音声メッセージよりも視覚メッセージのほうがはるかに強く、瞬間的にイメージを刷り込むことができるからです。

 確かにこのパフォーマンスは、高市首相とトランプ大統領が親密なのだということを世界中に印象づけることができました。これは外交上の大きな成果といえます。実際、このパフォーマンスを見た中国首脳が、習主席と高市首相との会談を急ぐ必要があると判断したと思われるふしが見られます。

 急遽、高市首相と習主席との対面会談が決まったのです。

 そもそも高市氏が首相に就任した際、習近平主席からはお祝いのメッセージがありませんでした。これまでの首相には就任するとすぐにお祝いのメッセージを送っていたにもかかわらず、高市首相にはなかったのです。タカ派のイメージが強い高市首相を嫌ってのことだったのか、それとも、高市政権が短命に終わると思っていたからか、理由はよくわかりませんが、高市首相を無視していたことは確かでした。

 ところが、中国首脳は世界中に配信された動画で、アメリカの空母上で、こぶしを高く掲げる高市首相のパフォーマンスを見たのです。中国首脳がどれほど焦ったことか、容易に想像できます。

 トランプ政権になってから、中国はアメリカから封じ込め政策を展開、強化され、経済危機に瀕していました。それだけに、米兵に向けた高市首相のパフォーマンスはとりわけ中国に強烈なメッセージを放ちました。もはや高市内閣を無視できなくなりました。中国首脳は、高市首相と習近平首席との対面会談を実現せざるをえなくなったのです。

 さて、高市首相はトランプ大統領へのプレゼントでも政策メッセージをアピールしていました。

■トランプ大統領への贈り物

 高市首相は10月28日、トランプ米大統領に帽子を贈りました。黒色をベースにしたキャップで、前立てに金色で「JAPAN IS BACK」と記され、つばの部分に高市首相とトランプ大統領のサインが入っています。


(※ 米ホワイトハウス関係者のXより)

 ここに記された「JAPAN IS BACK」は、首相が自民党総裁選の討論会で繰り返したキャッチフレーズです。トランプ大統領は「Make America Great Again」と書いた赤い帽子を被って大統領選を戦いましたが、それを模して作られたものです。高市内閣が掲げる政策方針が端的に示されています。

 さらにもう一つ、安倍元首相が2017年のトランプ大統領来日の際、ともにゴルフを楽しんだときにパターを贈りました。思い出の品であり、高市政権が安倍元首相の政策を継承する内閣であることを示したのです。空母でのパフォーマンスばかりか、大統領へのプレゼントにも高市首相の外交センスの良さが光っていました。

 次に高市首相を待ち構えていたのは、APEC(アジア太平洋経済協力会議)でした。

■APEC首脳会議への参加

●韓国大統領との会談

 日米会談を無事こなした高市首相は、10月30日、APEC首脳会議に出席するために韓国の慶州を訪れました。そこで、李在明大統領との初めての会談に臨みましたが、高市首相はスマイルと巧みな会話力で打ち解けた雰囲気を醸し出していました。

 この時、高市首相は、「韓国のりや韓国コスメ、韓国ドラマが好き」だとにこやかに語っていたのです。食やファッション、エンターテイメントといった韓国が誇る分野で李大統領を持ち上げ、気持ちをリラックスさせていたのです。

 さらに、高市首相は会談に先立ち、韓国の国旗、そして、日本の国旗に一礼しました。両国家への礼節を示したのです。これで一気に双方の緊張が解け、強硬派同士の対談がスムーズに流れました。対日強硬派とされてきた李在明氏ですが、なごやかに会談することができました。その結果、「未来志向の安定した関係をめざす」ことで合意し、日韓シャトル外交の継続を約束しました。


(※ 首相官邸HPより)

 APECのマークの前で握手する高市首相と韓国の李大統領の笑顔のなんと晴れやかなことでしょうか。この表情からは韓国での会談が一定の成果を上げたことが示されています。いくつもの課題を残しながらも、高市政権と韓国政府との外交がスタートしたのです。左に韓国、右に日本の国旗が置かれ、両氏が担う国家の重みを伝えています。

●中国主席との会談

 翌31日には中国の習近平主席との会談が実現しました。ここでも高市首相は、機転の良さを示しました。固い表情の習近平首席に向かって、「私は信念と実行力を信条としてきた。習主席と率直に対話を重ねてお互いの関係を良くしていきたい」と語りかけたのです。強面の中国に対し、まさに機先を制した格好でした。

 実際、高市首相は習首席に対し、率直に中国に対する懸案事項を説明し、迅速な対処を求めました。その内容は具体的には以下のようなものでした。

①日本産水産物の輸入の円滑化、日本産牛肉の輸入再開と10都県産の農水産物など残された輸入規制撤廃の早期実現、②尖閣周辺海域を含む東シナ海での中国によるエスカレーションや海洋調査活動、日本周辺の中国軍の活動の活発化への対応、③中国によるレアアース関連の輸出管理措置に関し、日中輸出管理対話および当局間の意思疎通を強化、④中国での邦人襲撃事件や拘束された邦人の安全確保および拘束中の邦人の早期釈放、等々です。

 そればかりではありません。

 台湾海峡の平和と安定が国際社会の上でなによりも重要だと指摘しただけではなく、南シナ海、香港、新疆ウイグル自治区等の状況に対し、深刻に懸念していることを表明しました。これまでの日本の首相が口にできなかったことを忖度することなく、述べたのです。

 中国側にしてみれば、予想していたこともあるでしょうし、予想外のこともあるでしょう。どの程度、受け入れられるか、相互に歩み寄れるか、今後の外交力が問われるところですが、高市首相がこれまでの首相が主張できなかったことをはっきりと表明したことには驚いたことでしょう。

 結局、今回の会談では首脳間での対話を進め、日中間の幅広い分野での重層的な意思疎通を行う重要性を確認したことに留まりました。とはいえ、日本初の女性首相が就任したばかりでこれだけ明確に中国に対して要求事項や懸念事項を堂々と述べたのです。画期的なことだといわざるをえません。

 会談後の写真撮影では両者の強張った表情が印象的です。会談内容がハードだっただけに緊張感が解けていないのでしょう。


(※ 内閣広報室より)

 それにしても、習近平首席があまりにも不愛想なのでびっくりしてしまいました。まるで不承不承、握手しているように見えます。それにつられたのか、いつもはにこやかな高市首相の表情も硬く、ひきつっているように見えます。

 もちろん、高市首相は厳しい要求を突き付けながらも、終始一貫、穏やかでにこやかに交渉を進めました。その結果、互いに対話を通じた「戦略的互恵関係」を進めることで一致したのです。

 そもそも高市首相は、韓国に対して、竹島や慰安婦、靖国神社、そして中国に対して、台湾、人権、靖国神社、等々の問題を巡って信念に基づく強硬態度を崩していません。だからこそ、高市首相は両国から警戒されていたのですが、首脳会談後の記者会見で、中国側は「懸念があるからこそ、よく話したい」と表明しています。話し合いの姿勢を見せたのです。

 高市首相は忖度することなく、日本側の立場を縷々説明し、話し合いによって理解を求めようと主張しました。それを見て、中国側が話し合いによって、相互の利益を図る対話重視路線にかじを切ったように見えます。

 それにしてもあまりにも不愛想な習近平首席の表情が気になります。そこで、彼が外国首脳と握手している写真を何枚か見てみましたが、どれも同じように仏頂面をしていました。少しでもにこやかな表情を見せると、権威が落ちてしまうと思っているかのようでした。ですから、この表情は、習近平首席が外国首脳と記念写真を撮る際の定番なのかもしれません。

 興味深いのは高市首相がXで挙げた画像です。


(※ 内閣広報室)

 なんとにこやかで穏やかな表情なのでしょう。高市首相もにこやかに習首席を見上げています。公式の場でなければ習主席とも、このようにとてもいい感じでコミュニケーションが取れていることがわかります。

■高市首相の外交デビュー、成功要因は何か?

 高市首相は就任してからわずか1週間ほどの間に、2つの国際会議と5つの重要な首脳会談をこなしました。ASEAN諸国の首脳たちとの会談を終えて帰国すると、トランプ大統領を迎え、それが終わると、韓国で開催されたAPECに参加し、韓国大統領、中国総書記などと会談を果たしていったのです。

 あまりにもスケジュールがタイトなので、準備不足もあったに違いありませんが、動画を見る限り、高市首相はほとんどの会議で成功を収めたように思います。会議の場面、あるいは会議前後の場面で、高市首相の類まれなコミュニケーション力が発揮されている様子が動画で確認することができました。

 たとえば、ASEANの会議前の様子を撮影した動画では、にこやかに誰とでも分け隔てなく接し、表情豊かにコミュニケーションを交わす様子が伝わってきます。この時、高市首相は明るいベージュのジャケットに黒のスカートといった装いでした。品格があり、威厳も感じられる服装です。

 このような高市首相のTPOを考慮したファッションやパフォーマンス、機転の良さが、海外要人とのコミュニケーションを円滑にし、ひときわ存在感を高めていたように思います。

 また、多数の米兵たちに囲まれ、トランプ大統領とともに演台に立った時は、周囲に溶け込むような黒系のパンツスーツを着用されていました。歓待の雰囲気を感じると即座に、にこやかな表情で右手を高く掲げ、それに対応していました。機転の利いたパフォーマンスであり、大勢の人が見てすぐわかる感謝のメッセージでした。

 今回の外交場面で忘れてならないのは、クアラルンプールの墓地での供花、マレーシア記念碑への供花、韓国国旗および日本国旗への一礼、といったマナーです。先人や死者、歴史を重んじる高市首相の姿勢が人々の心を打ちます。

 国際関係で緊張が高まる中、首相に就任したばかりの高市氏は外交デビューしました。どのような局面でも、外国首脳に対して怯むことなく、毅然と対峙していました。日本として譲れないことは断固とした態度を表明し、頼もしいリーダーの姿を見せてくれました。特に中国や韓国の首脳に対する態度には、これまでの首相たちとは違って忖度せず、毅然としたものがあり、国民を誇らしい気分にさせてくれました。

 一連の外交場面を見てくると、高市首相の外交デビューは明らかに成功したといえます。とりわけ高市首相のファッション、パフォーマンス、機転の利いた対応は、海外ばかりではなく、日本国内にも多大な訴求効果があったのです。

 成功要因は何かといえば、日本を取り巻く諸情勢を踏まえたうえでの課題を掌握していたこと、外国首脳に怯むことなく臨んだこと、TPOをわきまえ、品格と風格、清潔感のある装いをしていたこと、機転の利いたパフォーマンスを取り込み、海外の人々との心理的距離を縮めていたこと、等々ではないかと思います。

 これらの中には学習できるものもありますが、天与のものもあります。

 一連の外交動画を見ていると、高市首相はこの両方を備えた稀有な人物ではないかという気がしてきます。今後、さらに難しくなりそうな国際情勢下にいますが、高市内閣の外交力をもってすれば、日本もなんとかなるのではないかと思えてきます。そして、外交こそ、課題に対する周到な事前準備に加え、TPOを踏まえたファッション、機転の利いたパフォーマンスなど、ビジュアル要素が大切だということを思い知らされました。 (2025/11/16 香取淳子)