ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ②:ブルジョワジーの台頭

 今回は、まず、ナポレオン三世の産業振興政策を振り返り、その後、カイユボット家がどのような社会階層に位置づけられていたのかをみていくことにしましょう。

■ナポレオン三世の産業振興政策とカイユボット家

 第二帝政期のフランスは、ナポレオン三世の産業振興政策が功を奏し、好景気に沸いていました。

 ナポレオ三世は皇帝の座に就くと、早々に、公共事業と銀行改革に着手しました。公共事業とは、鉄道建設、港湾や道路の整備、パリ大改造(都市改革事業)などです。いずれも産業振興策の一環として進められました。

 たとえば、鉄道は1850年から1870年にかけて、営業キロ数で6倍増にも達する勢いで敷設されました。鉄道が開通した結果、農業生産物や工業原料などの運搬が容易になり、沿線には、大規模な近代的な工場が次々と作られていきました。おかげで経済活動は活性化し、フランスもようやく産業化を推進するエンジンが回転しはじめました。

 そのような動きの中で、カイユボットの父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)が、イエールに別荘を購入しました。1860年でした。ちょうど鉄道が敷設されて、イエールに駅ができ、パリから容易に出かけられるようになった頃です。

 一家は夏になると、この別荘で過ごすようになります。建設ラッシュに沸くパリを離れ、自然の風景を楽しみながら、豊かな田園生活を味わうことができたのです。

 前回、ご紹介したように、この別荘は凝った建築で、内装も豪華でした。帝政様式といわれる様式美を備えたものでした。その瀟洒な建物を包み込むように、広大な敷地が広がっており、何とも贅沢な別荘でした。財力に恵まれ、そのような物件情報を入手できる立場にいたからこそ、購入できたのでしょう。

 カイユボットの父親は、軍服等の製造事業を継承していました。軍には軍服やシーツなど布製品を納入しており、豊かな事業経営者でした。しかも、セーヌ県商業裁判所の判事で、知識階級でした。実業家であり、裁判官でもあったのです。まさに、第二帝政を支えるエスタブリッシュメント側の一人でした。

 国力を増強し、産業化を積極的に推進しようとするナポレオン三世の治世下で、カイユボットの父は、軍に関わる事業を行う一方、商行為や商取引に関する法務に携わっていました。時代を動かす根幹で仕事をしていたのです。

 当時、フランスの金融は未発達のままで、産業化に対応できていませんでした。産業が発達するには、物資を運送のための鉄道網だけではなく、お金の流れをよくする商取引のための銀行の整備が不可欠でした。そこで、ナポレオン三世は新たに二種類の銀行を設立し、信用に基づく融資をしやすくしました。

 1852年には、一般大衆の余裕資金を集め、産業に投資するための事業銀行を新しく設立しました。さらに、中小商工業者に役立つような銀行も設立しました。次々と着手された銀行改革の結果、大衆の資金を預金の形で吸い上げ、産業や国債に投資できるようにしたのです。

 もちろん、信用融資を行うには、会社に関する法整備も不可欠でした。

 ナポレオン三世は、1867年7月24日に新会社法を制定しましたが、当時、この新会社法には欠陥がいくつか指摘されており、長くは持たないと予想されていました。ところが、その後100年にもわたって、この新会社法は持ちこたえることができたのです(* 梅津博道、「ナポレオン三世の経済改革」、『北陸大学紀要』第30号、2006年、pp.103-104)。

 多少、欠陥があったとしても、産業化社会の本質を踏まえ、さまざまな局面に対応できる内容だったからでしょう。

 このようにナポレオン三世は、銀行改革と会社法改革を断行しました。その結果、企業と銀行が円滑に機能するようになり、フランス経済が順調に発展していったとされています(* 前掲、pp.103-104)。

 ナポレオン三世は全権を掌握すると、着々とパリの大改造、交通インフラ、社会体制の整備、法の整備を進めました。その結果、停滞していたフランス経済は活性化し、国力も充実していきました。

 そのような第二帝政下で、カイユボットの父親は、軍服製造事業者であり、セーヌ県の商業裁判所の判事でした。事業収入による経済力を持ち、新しい社会に必要な専門知識を持つ知識階級の一員でした。

 王族でもなければ、貴族でもなく、軍人でもありませんが、財力と社会的地位を持ち、社会を動かすエスタブリッシュメント側にいました。カイユボット家は、産業化の進行とともに台頭してきた新興ブルジョワジーだったのです。

■資本主義システムのピラミッド

 1911年にアメリカで出版された興味深い風刺画があります。

(* Nedeljkovich, Brashich, & Kuharich, 1911, the Industrial Worker)

 資本主義システムの下での社会階層を描いた風刺画です。社会階層がピラミッド構造で形成されていることが、人物を通して具体的に示されています。この図は、1911年にアメリカの新聞“the Industrial Worker”に掲載されました。

 社会階層を5つに分類し、少数者が多数を支配する構造を示しています。上から順に、「あなた方を支配する」、「あなた方を騙す」、「あなた方を撃つ」、「あなた方のために飲食する」、「すべての人々のために働く」、「すべての人々のために食料を作る」と、階層ごとに、それぞれの社会における働きと位置づけが端的に記されています。

 王族など、ごく少数の支配階級を頂点に、人々の不平不満を鎮め、緩和する社会的装置としての聖職者層、反抗する人々を暴力的に鎮める軍人層、そして、産業化の進行とともに登場してきたのが新興ブルジョワジーです。図では、着飾った男女がテーブルを囲み、飲食を楽しむ光景が描かれています。

 当時はまだブルジョワジーの社会的役割がよく見えていなかったのでしょうか、享楽的で自己中心的な光景が描かれています。

 その下には、数多くの老若男女が、台座を辛そうに支えている姿が描かれています。スコップを持っている者がいれば、ハンマーを持つ者、旗を振る者もいます。女性たち、そして、子どもたちまで、台座が落ちてこないように、必死で支えています。

 ブルジョワジーが飲食を楽しむ台座の下で、実際に肉体を駆使して働き、食料を生産し、さまざま製品を作っている人々がいることがいることが示されているのです。大勢の人々が辛そうな表情を浮かべ、必死になって、台座をささえているのが印象的です。

 ふと見ると、その傍らには、子どもが倒れています。空腹だからでしょうか、それとも、病気なのでしょうか。大勢の人々の傍らに子どもが倒れているのです。ところが、ごく近くで子どもが倒れているというのに、誰も見向きもせず、必死になって台座を支えています。底辺を支える人々にとっては、自分が生きていくのに必死で、倒れている子どもなどかまっていられないという状況を描きたかったのでしょう。

 この作品は、1901年に帝政ロシア社会を描いた風刺画を参考に描かれたといわれています。

(* Nicolas Lokhoff, 1901, the Union of Russian Socialists)

 1911年のアメリカ風刺画と見比べてみると、それぞれの社会階層の捉え方は、ほぼ同じです。大きな違いといえば、ロシア版では黒い鷲であった頂点のシンボルが、アメリカ版ではドル袋になっていること、さらに、ロシア版では皇帝と皇后を最上位に、その下に行政機構のトップが3人描かれていますが、アメリカ版では君主を中心に、両側に貴族階級と行政のトップが描かれていることでした。

 鷲はロシア帝国のシンボルなので、権力の象徴として描いたのでしょうし、ドル袋は、アメリカ社会の金融至上主義を象徴するものとして描かれたのかもしれません。いずれにしても、社会構造が、少数が多数を支配するという仕組みとして捉えられていることに変わりはありません。

 興味深いのは、少数が多数の人々を支配するための社会的装置として、行政機構、聖職者、軍事組織が設定されていることでした。

 日々、身体を酷使して働き、食料や様々な製品を作りだし、実際に社会を維持しているのは大多数の労働者です。彼らが不満を抱き、反抗しないよう、このような社会的装置によって支配されていることが、図では一目瞭然です。

 実は、1901年のロシア版の元になった風刺画があります。

(* https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Pyramide_%C3%A0_renverser.jpg

 これは、ベルギーの労働党が、1900年の選挙運動中に、「Pyramide à renverser」(倒さなければならないピラミッド)というスローガンのもとで配布した風刺画です。

 やはり社会階層が5つに分類されています。上から順に、「王族」、「宗教主義」、「軍国主義」、「資本主義」と記されており、最下段に、「人民」と書かれています。社会構造を捉える構成は、アメリカ版やロシア版とほぼ同じですが、「王族」と「人民」以外は、社会階層をイデオロギーによって説明している点が異なっています。選挙運動中のスローガンとして描かれたせいでしょうか。

 イデオロギーで説明されているせいか、この図では、支配者層の力の源泉が、時代によって変化してきた過程が示されているようにも思えます。いつの世も、少数の支配階級が大多数の人民を支配するという構造は変わらないのですが、時代によって、中心となる支配力の源泉が変化することが示されているように思えるのです。

 歴史を振り返ると、宗教の力が優勢であった時代があれば、もっぱら武力によって社会秩序が維持されていた時代、そして、資本力が優勢になっていった時代へと、社会が変遷していった過程が描かれているように見えるのです。

 この図で「資本主義」と説明されている階層が、産業化の進行に伴い登場してきたブルジョワジーです。それまで支配者層であった聖職者や軍人とは違って、その役割を明確に示すことができなかったからでしょうか、この図では、太った男たちがタバコを吸い、グラスを傾けている姿が描かれているだけです。

 おそらく、ブルジョワジーの社会的役割を可視化することがむずかしかったのでしょう。

 この階層を、アメリカ版やロシア版では、着飾った男女が飲食している光景で表現していました。つまり、王族でも聖職者でもなく軍人でもないのに、肉体労働をすることなく、生活することができる階層が、産業化の進行とともに登場したことを示しているといえます。

 産業化が進行して優勢になってきたのが、事業を経営する実業家であり、法律、会計、工学、などの専門知識を持つ階層でした。製品を開発し、市場に流通させて利潤を得、それを元手に再投資し、再び、製品を市場に流通させる循環システムに関わっている人々です。

 資本主義社会では、彼らこそが新たに富を稼ぎ出す階層として浮上してきたのです。

 ベルギーの選挙運動のチラシが1900年、そして、ロシア版の風刺画が1901年、それを踏まえたアメリカ版の風刺画が1911年に制作されました。利便性と豊かさを求めた産業化が進行するにつれ、実は、経済格差を生み出し、社会的不平等を拡大させていくことが明らかになりつつあった頃でした。

 カイユボットの父親は、フランスの産業化が軌道に乗り始めた頃、軍に製品を卸す実業家として富を築き、その一方で、商業裁判所の判事としても活躍しました。

■新興ブルジョワジーが求めた文化

 イギリスに比べ、出遅れていた産業化を推進するために、さまざまな改革を進め、帝国主義の覇権争いにも加わろうとしていたのが、ナポレオン三世でした。カイユボットの父親はおそらく、そのような時代の最先端で仕事をしていたのでしょう。新興ブルジョワジーとして財産を成し、裁判官として社会的地位を得ていました。

 パリでは新興ブルジョワジーの文化が花開きはじめました。裕福な市民の間では、華美で贅沢な様式の文化が好まれました。それは、度重なる革命で失われた宮廷文化への追慕ともいえるものでした。そのころのブルジョワジーには独自の文化といえるものはなく、前時代の上流階級の模倣にすぎませんでした。

 産業振興政策のおかげで、フランスの産業は発展し、豊かな市民階級、すなわちブルジョワジーの裾野が広がっていきました。彼らは自由主義を賛美し、科学技術を信奉し、新しいものへの挑戦を好みました。その一方で、旧態依然とした権力には反発しました。

 経済が活性化していくのにともない、新興階級の間で旺盛な消費需要が生まれ、過熱化したあげく、やがて投資ブームを引き起こしたほどでした。

 ブルジョワジーの台頭と軌を一にするように、絵画界では印象派の画家たちが登場してきました。彼らは、アカデミズムに反発し、見たまま、感じたままを表現することに価値を見出しました。伝統にとらわれない自由な発想を大切にし、自身の感性を拠り所にしたのです。

 自由を好み、変革を恐れず、新しいことに挑戦しようとする彼らの姿勢は、ブルジョワジーに通じるものがありました。ブルジョワジーといい、印象派の画家たちといい、第二帝政期とともに登場してきた新しい階層の中には、当時の社会を牽引してきた時代精神をみることができます。

 産業革命による技術革新が、時代を大きく変えようとしていました。そのうねりに敏感な人々が、新たな富裕層になり、新たな表現活動を展開していったのではないかと思います。

 カイユボットの父親は明らかに、当時の社会を動かしてきた側の人物でした。

 前回、イエールの別荘をご紹介しましたが、寝室やリビングの調度品に、宮廷文化の名残がみられるのが印象的でした。絢爛豪華な家具や置物に囲まれて、特権階級ならではの優越感、快適さを堪能していたのでしょう。カイユボットの父親の美意識や生活価値観は、帝政時代から離れることはありませんでした。

 カイユボットの父親は、パリでも新しく邸宅を建てました。パリ市が、高級住宅地として造成したミロメニル通りに、新しい邸宅を建てたのです。

 それでは。その家をご紹介しましょう。

■パリの邸宅

 1866年に、一家は、ミロメニル通り77番地にある邸宅に引っ越しました、カイユボットが18歳の時です。転居先は、ヨーロッパ橋からほど近く、リスボン通りの交差点にありました。辺りは、上流階級の住宅地として新たに造成された地区でした(*Wikipedia)。

 現存するようですから、写真をご紹介しましょう。外観を見る限り、洗練された、素晴らしい建物です。

(* 『アートを楽しむ section 3』(アーティゾン美術館、2023年2月25日、p.7)

 美しく、瀟洒で、いかにも新興ブルジョワジーが好みそうな建物です。時代を牽引していたブルジョワジーの一員として、
カイユボットの父親 は、高揚感に駆られていたのでしょう。建物の外観から、その気持ちが透けて見えます。

 彼は1866年にパリ市からこの土地を購入し、1866年11月に竣工しました。

 イエールに別荘を購入してから、わずか6年後のことでした。時代の最先端を行くような気分になっていたのかもしれません。カイユボットの父親は、高級住宅地として造成されたこの土地に家を建て、一家はミロメニル通りに引っ越してきました。

 当時、パリでは、古い街路や街並みが次々と壊され、新しく整備して建て直されていました。その一方で、新たな街区が造成され、上流ブルジョワジーが居住する区域が造られました。

 パリの街全体が、清潔で機能的で、美しく、洗練された様相に変貌を遂げている最中でした。不潔で汚い街路や建物が破壊され、造りかえられていくパリの街の中に、富裕層のための一角が設けられたのです。

 見るからに瀟洒なこの邸宅は当時、社交界の中心になっていたようです。

 この邸宅で開催された舞踏会の様子を、カイユボットの友人の画家ベローが描いていました。この邸宅の内部がどのようなものであったのか、そして、パリの社交界でどのような役割を果たしていたのか、作品を通して当時の様子を推察することができます。

 ジャン・べロー(Jean Béraud, 1849 – 1935)は、1878年に《舞踏会》という作品を制作していますが、その背景となったのが、カイユボットの父が建てたパリの邸宅だといわれているのです。

 まずは、この作品を見ていくことにしましょう。

●ジャン・べロー(Jean Béraud)制作、《舞踏会》(Un soirée、1878年)

 ジャン・ベローは、パリの街頭風景やカフェ、市民生活の様子などを好んで描いたことで知られる画家です。その彼が珍しく、舞踏会の様子を描いた作品を残しています。それが、《舞踏会》という作品です。

(油彩、カンヴァス、65.1×116.8㎝、1878年、オルセー美術館蔵)

 この作品は、1878年の官展で展示されました。出品時のタイトルは《舞踏会》でしたが、 古いラベルには「カイユボット邸の夜」と書かれていたそうです。なぜ、二つのタイトルが存在していたのか、しばらく、わからなかったそうですが、その後、この作品が、カイユボット邸で開催された舞踏会を描いたものだということがわかりました。

 なぜ、わかったかというと、画面に描かれていた室内の一部が、母親の死後(1878年11月)に作られたカイユボット家の財産目録の記述と一致していたからでした(*http://caillebotte.net/blog/family/67 )。

 父親は1874年に亡くなり、その4年後に母親が亡くなりました。母の死後、作成された財産目録によって、この作品の舞台が当時のカイユボット邸だということが確認されたのです。

 舞踏会の会場として描かれたこの部屋が、カイユボット邸だったことが明らかになりました。その後、 カイユボット が画家として知られるようになると、この作品は、《 カイユボット邸 の夜 》と呼ばれることが多くなったそうです(*前掲、URL )。

 経歴を調べてみると、カイユボットとベローには接点がありました。

 カイユボットは普仏戦争から帰還した後、レオン・ボナ(Léon Bonnat、1833-1922)の画塾に通って、油彩画の基本を学びはじめました。そこで、共に学んでいたのが、ジャン・ベローだったのです。二人は1873年に、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)に入学し、本格的に油彩画を学びました。

 カイユボットとベローは共に、普仏戦争からの帰還後、ボナの下で油彩画の勉強を始めていたのです。大学では法律を学び、普仏戦争を経て、画家を志すようになったという点でも共通していました。

 ベローもカイユボットと同様、法律を学んでいながら弁護士にならず、普仏戦争から帰還した後、絵の道に転向していたのです。同じような経歴をたどり、最終的に人生を絵画に捧げた仲間の一人でした。だからこそ、パリのこの邸宅にも自由に出入りすることができたのでしょう。

 カイユボットの邸宅で開催された舞踏会に参加しながらも、ベローはどうやら、遠慮しながら筆を執っていたようです。それは、俯瞰するようなモチーフとの距離の取り方でわかります。大きく距離を取って参加者たちを捉え、一種の風物として描いているのです。

 ベローの父親は彫刻家でした。ロシアのサンクトベルクで生まれ、4歳の時に亡くなったので、家族はパリに戻ってきました。 法律を学びましたが、戦争から帰還後、画家を志すようになったという経歴です。

 舞踏会に参加しても、場違いなものを感じていたのかもしれません。個々の人物の焦点を当てることはなく、ドレスの色彩を中心の会場の流れを描き、舞踏会の雰囲気を表現しています。

■カイユボットとベロー

 カイユボットは、せっかくエコール・デ・ボザールに入学しながら、あまり登校しなかったようです。もはや学ぶべきものはないと判断したからでしょうか、それとも、単に興味が持てなくなったからでしょうか。

 そこで、履歴を見ると、カイユボットは1873年にエコール・デ・ボザールに入学していますが、翌年の1874年に父親が亡くなっています。父親の莫大な遺産を引き継いでおり、もはや画家として身を立てていく必要はありませんでした。 まだ26歳でしたが、趣味として絵画に関わり、周辺の画家を支援する立場になっていたのです。

 一方、ベローはエコール・デ・ボザールでしっかりと2年間学び、修了後はモンマルトルでスタジオを開いています。画家として生計を立てていく必要があったからでした。

 
 画家として食べていくには、自身の絵画世界を創り上げなければなりません。独自の世界をどう創り上げていくか、模索していたのでしょう。

 ベローは、パリの市街やカフェなどを舞台に、市民階級の人々の生活風景を好んで描きました。いわゆる市井の人々の日常の光景を取り上げ、画題にしていましたが、モチーフに対する眼差しが温かいのです。

 たとえば、《シャンゼリゼ通りのグルップ洋菓子店》(La Pâtisserie Gloppe au Champs-Élysées)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、38×53㎝、1889年、カルナヴァレ美術館蔵)

 ビュッフェ形式の洋菓子店で、コーヒーや洋菓子を楽しむ老若男女が描かれています。手を伸ばしてケーキを取ろうとしている子どもや女性、立ったまま語りあう男女、小さなテーブルを囲んで語り合う女性たち、いずれも幸せそうな表情で菓子を手にしています。当時のパリ市民の生活の一端がうかがえる作品です。

 彼が描いた作品の多くは、このようにパリ市民の生活風景が題材になっていました。この作品も、都会の生活シーンが生き生きと捉えられています。大改造されたパリの街が、いかに人々が楽しめる街に変貌していたか、当時の様子が手に取るようにわかります。

 さきほどご紹介した《舞踏会》には、そのようなベローの作品傾向とは、やや異質な雰囲気があります。市井の人々を描いた作品とは違って、対象を見る眼差しがよそよそしい感じがするのです。

 改めて作品を見直してみると、室内の様子や調度品などと人々に対する距離の取り方が同じなのです。 男性は黒の礼装、女性は華やかな色のドレスを着用といった具合に、参加者の衣装は丁寧に描かれていますが、それは、まさに調度品を見る眼差しでした。

 せっかくの舞踏会に参加していながら、ベローはその輪に入ることなく、ひたすら観察していたことがわかります。豪華な室内とフォーマルで華やかな衣装に身を包んだ男女を、ただ観察の対象としてだけ捉えていたのでしょう。

 ベローは、華やかな舞踏会の真っただ中にいながら、その雰囲気に巻き込まれることなく、冷静に、客観的なタッチで対象を捉えていました。街頭あるいはカフェで市井の人々を生き生きと捉えたまなざしとは明らかに異なっていました。

 《舞踏会》の画面からよそよそしさを感じさせられたのは、おそらく、そのせいでしょうが、そこに、ベローの画家としてのスタンスが感じられるような気がします。

(2024/9/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ①:イエールの別荘

■第二帝政時代に台頭してきた印象派の画家たち

 第二帝政時代は、アカデミズムに対抗する画家たちが台頭してきた時期に当たります。前回は、ピサロやリュスの作品をご紹介しましたが、彼ら以外にも、多種多様な画家たちが登場し、新たな画題を見出し、斬新な技法で、表現運動を展開していました。

 彼らは次々と、産声を上げ、アカデミズムが主導してきた絵画の見直しを迫りました。光がもたらす色や影、形状の変化を踏まえ、見たまま、感じたまま、受けた印象をそのまま表現することに意義を見出すようになったのです。

 いわゆる印象派の画家たちの登場です。

 産業革命を経て、さまざまな領域で、技術革新が進みはじめていました。画家にとっての大きな技術革新は、チューブ入り絵の具が開発されたことでした。チューブ入り絵具があれば、なにもアトリエにこもって描く必要はありません。

 画家たちは、積極的に戸外に出かけ、心に残る画題を見つけては、思うままに絵を描くようになりました。戸外で直接、見たまま、感じたままを描くようになったのです。以来、画家たちはさまざまなところに美があることに気づき、作品化しようとしました。

 その一つが自然の風景です。

 これまではメインモチーフの背景でしかなかった自然の風景が、実は、メインモチーフそのものになりうることに気づきます。そして、風景が陽光の影響を大きく受けること、さらには、風や空気などを間接的に表現できることにも気づくようになります。

 画家たちに意識革命がもたらされたのです。それに伴い、新たな題材が次々と発掘されました。

 手の届くところにある身近な自然、市井の人々、日常の光景など、これまでなら、画題になると思えなかったものが、モチーフとして取り上げられ、描かれるようになりました。

 これまで取り上げられてこなかったモチーフに、新たな光を当てて、作品化しようとする画家もいれば、科学的な知見を踏まえ、新たな画法を生み出した画家もいました。

 技術革新によって、人々の生活が少しずつ変わり、それに合わせて、人々の価値観も変化しつつあった時代でした。画家たちもまた、そのような時代の変化に適応しようと模索しはじめていたのです。

 陽光や風、空気などに、生成の妙を見出した彼らは、パリの街の破壊と創造の中に、躍動感と未来を見出しました。

 ちょうどその頃、ナポレオン三世が構想してきたパリの大改造計画が、オスマンの手を経て、着々と進められていました。近代化に合わせ、パリの街も構造的に改造する必要があったのです。

 もちろん、パリ大改造に伴う街の変化は、画家たちにとって恰好の題材になりました。

■拡張するパリ

 第2帝政期は、臭くて小汚く、不衛生だったパリの街が、オシャレで鑑賞に堪える街へと大きく変貌しようとしていた時期でした。

 至るところで、スクラップ・アンド。ビルドが展開されていました。古いものが壊され、新しいものに置きかけられていく過程は、画家たちの創作意欲を限りなく、刺激しました。

 それらは激動する時代そのものであり、時代が進む方向性を指し示すものでもありました。彼らにとって、変貌していくパリの街路や建物、道行く人々を描くことは、目に見える時代の変化を捉えることであり、目に見えない時代精神を汲み取ることでもあったのです。

 パリは道路網や鉄道網によって、整備され、拡張されていきました。

 この時期、台頭してきた多くの画家たちの中で、ユニークなのが、カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)です。パリで生まれ、パリで育った画家です。一般にはあまり知られていませんでしたが、20世紀末ごろから、再評価されはじめた画家です。これまではもっぱら、印象派の画家たちの支援者として、あるいは、彼らの作品のコレクターとして、その名を馳せていた人物でした。

 そのカイユボットの作品を通して、パリ大改造時代の人々の生活や建物、街の様子を見ていくのも、一興でしょう。

 今回はとくに、カイユボットならではの画題を取り上げ、当時の社会状況を見ていくことにしたいと思います。

 まずは、カイユボットがどのような画家だったのか、その出自から探ってみたいと思います。

■カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)とは?

 カイユボットは1848年8月19日に、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通りの自宅で、生まれました。父親のマルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799–1874)は、軍隊にシーツや軍服などを納入しており、巨額の富を築きあげていました。親から事業を継承した経営者だったのです。

 その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。富裕者であり、知識人であり、行政の一角を担う重要人物でもあったのです。

 ところが、莫大な富と名声、権力を手にしていながら、彼は家庭生活には恵まれておらず、妻とは2度も死別していました。3度目の妻であるセレステ・ドフレネ( Céleste Daufresne, 1819–1878)との間に生まれたのが、今回取り上げる、画家のギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)です。49歳の時に生まれた息子でした。

 その後、カイユボットには二人の弟、ルネ(René , 1851-1876)とマルシャル(Martial, 1853-1910)ができました。父親は20歳も年下の妻との間で、2、3年おきに3人の息子を授かったのです。老境にさしかかった時の子どもたちですから、さぞかし嬉しかったことでしょう。

 子どもたちが健やか育ってくれることを願ったのか、父親は、パリ南郊のイエールに広大な地所が売りに出されると、すぐさま購入し、別荘として活用できるようにしました。1860年のことでした。

 息子たちは12歳、9歳、7歳になっていました。さまざまなことに興味を持ち、冒険を好むようになる年ごろでした。父親はおそらく、子どもたちに、豊かな自然に触れて、のびのびと過ごせる環境を与えたいと考えたのでしょう。

 当時、パリは至るところで工事が行われており、土埃が舞い上がっていました。街は四六時中、騒然としており、落ち着いた生活は望めませんでした。ナポレオン三世がオスマンを指名してパリ大改造に着手してから、すでに7年も経っていましたが、それでも、まだ、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていたのです。

 子どもたちの生育環境として、当時のパリは決して好ましいものではありませんでした。父親がパリ郊外の邸宅を迷うことなく購入し、別荘として活用したのは当然のことであり、賢明なことでした。

 もっとも、父親がこの邸宅を購入したのは、ちょうどパリからイエールまで鉄道が敷かれ、汽車が開通したからだという意見もあります(* https://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201902/montalembert.html)。

 現在、パリ・リヨン駅からメルン(Melun)行きのRER D線に乗れば、約30分でイエール(Yerres)駅に到着します。当時はもっと時間がかかったのでしょうが、汽車に乗れば、パリからも気軽に訪れることができ、自然を存分に楽しむことができるエリアだったのです。

 育ち盛りの子どもたちにとっては恰好の別荘地でした。思いっきり身体を動かして、川や農園で遊び、伸びやかな感性を育んでいきました。自然から触発されることも多かったのでしょう、カイユボットは、全作品の三分の一以上をここで描いたといわれています。

 イエールの別荘が、カイユボットに自然との触れ合いのきっかけを与え、世界観を育み、創作欲を喚起したことは確かでした。

 イエールは一体、どんなところだったのでしょうか。

■イエール(Yerres)の別荘

 一家は夏になると、このイエールの別荘で過ごすようになります。今も残る瀟洒な邸宅があります。

(*https://sumau.com/2024-n/article/1532

 約11ヘクタールもの敷地内に邸宅が建ち、英国式庭園があるかと思えば、農園があり、傍らにはイエール川も流れています。子どもはもちろん、大人も自然を存分に楽しめる仕様になっていたのです。

 しかも、この邸宅は改修されて、古代建築風の列柱や列柱回廊などが施されていました。古代文化を偲びながら、日常生活を堪能できる、贅を尽くした造りになっていました。

 もっとも、若いカイユボットが興味を示したのは、邸宅を取り巻く豊かな自然でした。初期作品のほとんどがここで制作されています。とくに、川をモチーフにした作品はいくつも残されています。馴染みの場所であり、絵心を刺激するものがあったのでしょう。

 それでは、若いカイユボットを惹きつけたイエール川は一体、どのような趣の川だったのでしょうか、作品を見る前に、まず、写真で確かめておくことにしたいと思います。

(* https://ovninavi.com/propriete-caillebotte/

 川の両側を木々が生い茂り、うっそうとした状態になっています。川面には木々の葉が映り込み、緑色に見えます。その緑色の川が大きく蛇行した先に、カヌーが小さく見えます。おそらく、当時も、これと同じような光景だったのでしょう。

 カイユボットはここで川面を眺め、時に泳ぎ、時にカヌー遊びをして、川と戯れていたのでしょう。遊びの場であり、観賞の対象にもなりえた川だったことがわかります。上の写真からは、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。

 それでは、カイユボットはこのイエール川をどう描いたのか、特色のある3つの作品を選び、年代順に見ていくことにしましょう。

●《イエール岸のヤナギ》(Saules au Bord de l’Yerres、1872年)

 イエール川の岸辺に揺れるヤナギを捉えた作品です。

(油彩、カルトン、31×40㎝、1872年、所蔵先不詳)

 水面や木々、川辺の小道が、独特の筆致で描かれています。粗さが残っていますが、構図はユニークで、興趣があります。ヤナギを通して陽光が洩れ、川面に落ちて輝く様子を描いているところに、印象派の影響が感じられます。

 カンヴァスではなく、カルトン(厚紙製の画板)に描かれていますから、ひょっとしたら、習作段階の作品だったのかもしれません。制作されたのは1872年、エコール・デ・ボザールに入学する前でした。画家を志し、レオン・ボナの画塾に通っていた頃の作品ではないかと思います。

 カイユボットの経歴をみると、1870年にエリート養成機関であるリセ・ルイ・ル・グラン(Lycée Louis Le Grand)を卒業し、卒業とともに弁護士免許を取得しました。ところが、弁護士として働く間もなく、徴兵されて、普仏戦争(1870年7月19日から1871年5月10日)に参加しています。帰還後、本格的に絵画の勉強を始めた時期に描かれたのが、この作品でした。

 晴れた日のイエール川が、粗いタッチで捉えられています。おそらく、カイユボットが絵心を刺激された光景をそのまま、カルトン上で再現しようとしたのでしょう。小道や川面を照らす陽光の描き方にカイユボットの思いが感じられます。

 ところが筆の動きに滑らかさがありません。カンヴァスとは違って、カルトンに描いたからでしょうか。とくに、小道や川面に降り注ぐ陽光の描き方がぎこちなく、不自然さが目立っています。

 絵を学び始めて間もない時期に描かれたせいか、あるいは、カルトンのせいか、こう描きたいという思いと、実際に表現された画面とがマッチしていないのです。

 それから3年後に、カイユボットは、《イエール、雨の効果》(1875年)という作品を描いています。画面の隅々にまで神経が行き届き、画力が向上していることは明らかです。

《イエール、雨の効果》 (L’Yerres, effet de pluie、1875年)

 どの季節に描かれたのかはわかりませんが、川面の表情が実に、情感豊かに表現されているのが印象的です。

(油彩、カンヴァス、80.3×59.1㎝、1875年、Eskenazi Museum of Art所蔵)

 前景に小道を配し、中景にイエール川、そして遠景に川べりの木立を配するという画面構成になっています。

 手前の小道を見ると、木枠でしっかりと囲われています。おそらく盛り土で造った小道なのでしょう、崩れ落ちないように、しっかりと木製の枠で固定されています。明らかに人工的に整備された川だということがわかりますが、そのせいで、イエール川がまるでプールのようにも見えます。このイエール川が、別荘の敷地内を滔々と流れているのです。

 川べりの小道には、草も生えていなければ、小石も転がっていません。しかも、どちらかといえば、マットな茶色が使われています。いかにも人工的に造られた小道だということがわかりますが、それだけに、木立の緑や、川面に映りこんだ木々の緑の陰影が際立って見えます。対比の効果といえるものなのでしょう。

 そういえば、背後に並ぶ木立の中に、茶色の小舟が見えます。手前の小道からは川を挟んで真向かいになります。緑で覆われた対岸のアクセントになっており、手前の小道と呼応した色構成になっていることに気づきます。

 興味深いことに、手前の茶色の小道は、三角形に切り取った格好でレイアウトされています。この斜めのラインが、中景に描かれた川面の左方向に向かうラインと呼応し、遠景で描かれた木立の縦のラインを印象付けています。これらのラインが、一見、雑多に見える画面全体を構造的に安定化させていることがわかります。

 小道から小舟にいたる縦のラインに目をむけると、川面には、大小いくつもの波紋ができており、雨がもたらすしっとりとした情緒が丁寧に描き出されています。カイユボットがもっともアピールしたい箇所は、おそらく、このラインなのでしょう。

 ごく自然に波紋が際立つよう、認識されやすい色構成にされています。

 たとえば、川の両側は緑色で覆われていますが、川の中ほどには、木立から漏れる鈍い陽光が注がれ、白濁して見えます。その川面に、木立の幹がくっきりと映り込み、そこにも、たくさんの波紋が描かれています。自然の生成の仕組みに鑑賞者が気づくように、さり気なく色構成されているのです。

 こうして大小さまざまな波紋が描かれ、それらが幾重にもつながって、川面に豊かな表情を添えています。まるで生き物のように、生まれては消え、消えては生まれる様子が捉えられているのです。自然界ならではの生成過程が見事に表現されており、画面から動きとリズムが伝わってきます。

 小道を川と木立の間に、雨を介在させることによって、自然界ならではの絶妙な調和を生み、情感豊かな世界を創り出していたのです。画面からは、雨がもたらす余韻のある風情が感じられます。

 興味深いのは、カイユボットの着眼点です。

 カイユボットは、雨が降ることによって、川面に起きる波紋に着目しました。そして、画面構成、色構成を練り上げ、雨が醸し出す風情を情感豊かに描き出すことに成功しました。画題を発見する着眼力、観察した結果を的確に表現する力、そして、なによりも絶妙な画面構成にみられるきめ細かな感性と美意識に驚嘆させられました。

 この作品は1875年に制作されました。《イエール岸のヤナギ》に比べ、わずか3年ほどの間に、カイユボットが抜群の表現力を発揮し、作品化する力を身につけていたことがわかります。

 この作品からは、カイユボットの豊かな知性と感性、先進性や近代性を感じざるをえません。

 川面にできる無数の波紋が、この作品のメインモチーフです。背後に整然と並ぶ木立の幹、そして、手前の小道は、サブモチーフといえるでしょう。それらの主要なモチーフの中から、円形、直線、縦のライン、斜めのラインなどを掬い上げ、画面上に表現しました。こうして自然に生み出された幾何学模様をさり気なく画面に埋め込み、見事な調和を図ることができたのです。

 このような作品を生み出すことができたのは、カイユボットが愛しみの気持ちを持ってイエール川に接してきたからでしょう。そして、この作品によって、彼は、イエール川が観賞に耐える川であることも示しました。

 もちろん、イエール川は身近な遊びの場でもありました。

 カイユボットは、川を楽しむ人々の姿を捉えた作品もたくさん残しています。その中の一つ、印象に残った作品をご紹介しましょう。

●《イエール川のカヌー》(Périssoires sur l’Yerres、1878年)

 蛇行するイエール川を、2艘のカヌーが静かに前進している様子が描かれています。

(油彩、カンヴァス、157×113㎝、1878年、レンヌ美術館蔵)

 画面を見て、真っ先に目に留まるのが、白いシャツを着た漕ぎ手たちの後ろ姿です。手前の男性が大きく、先を進む男性が小さく描かれており、遠近法にのっとった画面構成になっています。

 2艘のカヌーは競うふうでもなく、ゆっくりとオールを漕ぎながら進行しています。彼らが進む前方を見ると、まるで行く手を阻むかのように、川辺の木々が両側から、深く枝を傾け、川を覆っているように見えます。

 木々の葉は浅黄色に色づき、それが川面に映りこみ、川と川辺が混然一体となって、辺り一面を柔らかく包み込んでいます。淡く柔らかな色彩が、画面全体に広がる中、所々に白が配されており、興を添えています。これまで見てきた2作品とはまた別の興趣が感じられます。

 爽やかな印象があるのです。

 カヌー周辺は白く波打ち、進行方向の川面もまた、白く輝いています。こちらは木陰から射し込む陽光を反映したものなのでしょう。浅黄色を基調に、所々に白をアクセントに使って、画面が色構成されているのです。そのせいか、初夏の爽やかさが感じられます。

 この作品で印象的なのが、白の使い方です。

 まず、漕ぎ手が着用している白いシャツ、そして、カヌー周辺の白い水しぶき、さらには、陽光に輝く白い川面が印象に残ります。まるでこれらの白を通して、イエール川の魅力と存在意義を示しているのではないかと思えるほどでした。

 この作品でカイユボットは、イエール川が、遊び場であるばかりか、自然との触れ合いの場であり、季節を観察し、観賞する場でもあることを表現していたのです。

 気になるのは、カイユボットが、白いシャツを通して、漕ぎ手の肩と上腕の筋肉をかたどるように描いていることでした。鍛え上げられた筋肉は、まるで労働者の肩のように盛り上がっています。ところが、白シャツの袖から下の腕は白く、柔らかそうです。

 見るからに、生計を立てるために肉体を酷使する必要のない人々の身体でした。おそらく、カイユボットの友人たちなのでしょう。白いシャツの盛り上がりが示すものは、カヌー遊びによって手にした筋肉質の身体だったのです。

 カイユボットが見たままの情景を描いた画面から、彼らの生活の一端が見えてきました。別荘生活を楽しむことができる富裕層の生活です。第2帝政時代の特権階級であり、カイユボットだからこそ、描くことができた光景です。

 実は、カイユボットが画家としてそれほど知られていなかった理由の一つに、彼自身、画家として生計を立てる必要がなかったということがあります。父親から莫大な資産を受け継いだ彼は、画家として収入を得る必要がなく、積極的な売り込みをしなかったからでした。

 画家として身を立てる必要のなかったカイユボットは、印象派の画家たちの生活を支えるコレクターとして、もっぱら彼らの作品を購入していたのです。

 それでは、再び、イエールの別荘に戻ることにしましょう。

 カイユボットは、イエール川以外に、邸宅の周辺を描いた作品もいくつか残しています。その中に、《田舎のポートレート》という作品があります。当時の女性たちの生活を伺い知るには格好の作品なので、ご紹介しましょう。

●《田舎のポートレート》( Portraits à la campagne, 1876年)

 カイユボットが、イエールの邸宅を訪れた親戚の女性たちを描いた作品です。タイトルは、《田舎のポートレート》です。

(油彩、カンヴァス、95×111㎝、1876年、バロン ジェラール芸術歴史博物館蔵)

 邸宅の脇で、年齢の異なる4人の女性がそれぞれ、思い思いの作業をしている姿が描かれています。刺繍をしている者もいれば、読書をしている者もいます。家事から解放された午後のひととき、女性たちが庭に出て、好きなことをしている様子が捉えられています。

 手前に描かれているのは、カイユボットの従妹のマリー(Marie)です。水色のドレスに身を包み、刺繍に余念がありません。上着の裾やスカートの裾にフリルがあしらわれており、普段着とはいえ、上質の衣服を着用していることがわかります。俯き加減の横顔といい、刺繍を施す手といい、若い女性らしい乳白色の肌が印象的です。

 彼女の後ろに見えるのは、年配の女性たちで、やはり黙々と刺繍をしています。刺繍は当時の女性たちの手すさびであり、趣味であり、一種の娯楽だったのでしょう。老いも若きも一様に、手元を見つめ、指を細やかに動かしているのが印象的です。

 もっとも、遠くに描かれている女性は読書をしています。年配の女性で、やはり黒っぽい服を着ていますが、ただ一人、皆から離れるようにして、読書しているのです。当時、女性が本を読むのは一般的な趣味とはいえなかったのでしょう。ひょっとしたら、変り者扱いされていたのかもしれません。彼女は画面の一番奥に配置されていました。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちはそれぞれの趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちは午後のひとときを趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 第二帝政時代の富裕層の生活の一端を物語る光景ともいえます。

  カイユボットは富裕層の子弟としてパリに生まれ、育ちました。12歳のころには、イエールに別荘を持ち、夏はそこで過ごすのが恒例となっていました。第2帝政時代を特権階級の子弟として過ごしたのです。カイユボットだからこそ、この作品を描くことができたといえます。

 この作品は、1877年4月にパリで開催された第3回印象派展で発表されました(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Portraits_%C3%A0_la_campagne)。

 さて、イエールの別荘には、帝政時代の富裕層の生活の残滓をいくつも見ることができます。一体、どのようなものだったのか、写真を通してみてみることにしましょう。

■イエールの別荘に残された、帝政時代の面影

 カイユボットが描いたのは、邸宅の外でしたから、背後に庭園の一部を見ることができただけです。邸宅の内部は一体、どうなっているのでしょうか、写真で確かめてみることにしましょう。まずは、リビングです。

(* https://hirokokokoro.livedoor.blog/archives/19579017.html

 シャンデリア、テーブル、壁に掛けられた絵画、食器、いずれも贅を凝らしたもので、豪華なことこの上もありません。調度品を見るだけで、第二帝政時代の富裕層がいかに贅沢な生活をしていたのか、その一端を偲ぶことができます。

 次に、両親の主寝室を見てみることにしましょう。主寝室の設えを見れば、この別荘がどれほど豪華なものであったか、一目瞭然です。

(* https://crea.bunshun.jp/articles/-/21403?page=2

 カーテンといい、ベッドといい、ジュータンといい、まさに王侯貴族の寝室です。

 ちなみに、この写真のキャプションには、帝政様式と書かれていました。帝政時代の様式を踏まえて、造られた寝室だったのです。そういえば、窓際の壁にナポレオンの絵が飾られています。

 カイユボットの父親は、ナポレオンを信奉していたのでしょう。皇帝を頂点とした富裕層が好んだ様式に合わせ、寝室を設え、彼らが好んだ調度品を身の回りに置いていました。父親が、帝政時代の為政者の価値観を内面化していたことがわかります。

 さて、この主寝室で目を引かれるのが、天井に接して掲げられた、威容を誇る黄金の鷹像です。ベッド側のカーテンの上に設置されています。この豪華な像は、権力こそが富の源泉であることを象徴しているように思えます。そして、近代化を推進しながらも、往時の贅沢を忘れられない第2帝政時代を端的に示すものでもあるように見えます。

 カイユボットの父親は、王族でも貴族でもありませんでしたが、知識階級であり、富裕層でした。時代の流れに敏感で、行動力があり、時代を動かすエネルギーを持った新興階級の一人でした。

 その息子で、画家を志したのが、カイユボットです。

 今回、彼の作品を4点、取り上げてきました。そこから見えてくるのは、時代の動きを吸収しようとする心構えであり、富裕層の間で垣間見える不安感であり、安らぎの源泉としての、女性たちの旧態依然とした生活習慣でした。(2024/8/31 香取淳子)

ピサロとリュス、二人はパリの大改造をどう描いたか

■パリ大改造という課題

 19世紀半ばのパリは人口が集中し、居住環境としては悪化の一途をたどっていました。曲がりくねった狭い道路の両側に、アパートが密集しており、風通しが悪く、低い階には日も当たりませんでした。

 19世紀半ば頃のパリのシテ島にあるオテル・ デュー・パリ付近を写した写真があります。

パリの中心

(* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E6%94%B9%E9%80%A0

 道が狭く、しかも、両側に高層の建物が建っています。風通しが悪く、陽も射さない状況だということが一目でわかります。おそらく、当時、パリのほとんどがこのような状態だったのでしょう。風通しが悪いせいで、糞や汚物の臭いがたちこめていたといいます。

 上の写真をよく見ると、道路中央に溝が掘られています。汚物はここを流れるようになっていたのでしょうが、浅いので、廃棄物や汚物が溢れ、異臭を放っていたようなのです。これが病原菌の発生源になっており、頻繁に疫病が流行していました。

 ナポレオン三世は、非衛生的な状況を改善する必要に迫られていたのです。

 一方、産業化の進行とともに、馬車が一般化し、道路は人や馬で混雑するようになりました。絶えず、交通渋滞が発生し、人の移動や物流を妨げていました。流れをスムーズにするには、道路を直線化し、大幅に拡張しなければなりませんでした。

 そもそもパリは、1163年にノートルダム大聖堂が作られたシテ島が、政治と宗教生活の中心でした。左岸には教会が運営する様々な学校が置かれて学術の中心となり、右岸は商業と経済の中心として発展していきました。

 1180年から始まるフィリップ2世の治世下で、パリに新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設も始まりました。同時に、道路の舗装、中心部に中央市場が建設され、パリは首都として整備されていきました。つまり、パリは12世紀後半に首都としての形を整えたことになります。

 産業革命を経て人口が集中し、人や物の流通が激しくなると、中世に築かれたパリの街は時代には合わず、さまざまな問題が発生するようになっていたのです。

 まずは道路を拡幅し、採光がよく風通しのいい街並みを作り出さなければなりません。

 ナポレオン(Charles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808-1873)は以前から、パリの改造プランを立てていました。ところが、大統領時代には実行できる権限がなく、皇帝の座についてようやく取り組むことができたのです。

 まず、胆力があり統率力もあるオスマン(Georges-Eugène Haussmann, 1809 – 1891)をセーヌ県知事に任命し、改造プロジェクトの指揮官に起用しました。1853年のことでした。

 新しい土地に街を造るのではなく、既存の大都市を根本的に改造するのですから、並大抵の人物では務まりません。人々を立ち退かせて、既存の道路や建物を破壊し、反対意見を抑え込みながら、進めていかなければならないのです。

 当時、パリは抜本的な改造をする必要に迫られていました。それも、対処療法的な改造ではなく、100年後、200年後を見据えた大改造です。すでに産業革命は進み、これまでとは違う社会の形態がうまれつつありました。

 変化する社会構造を視野に入れ、人々が健康に暮らしていけるようなパリにしていく必要がありました。

■パリ大改造の基本理念

 パリ大改造は、次の4つの観点から行われました。すなわち、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観です。パリ全体をこれら4つの観点から見直し、既存の道路や建物に破壊し、長期展望の下、新たに造り直しました。

 1853年から1870年まで17年間にわたる大規模工事が行われました。

 街路事業についてオスマンは、「直線化」、「複雑化」、「ショートカット」の観点から設計し直しました。

 まず,パリを縦横断できるよう,真ん中に大通りを建設します。当然、既存の区画や建物が邪魔になりますが、オスマンはそれらをほぼすべて破壊し、新たに区画整理して対処しました。なんとも大胆なやり方です。オスマンでなければ、到底、できなかったでしょう。

 1853年からの17年間というもの、パリの街は文字通り、至る所で、破壊と創造が実践されていたのです。

 日々、変貌を遂げていくパリの街を見て、画家たちはどう思ったのでしょうか。調べてみると、パリの大改造をどう描いた画家が何人かいました。まずは、ピサロ、そして、マクシミリアン・リュスの作品をみていくことにしましょう。

■カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)

 印象派の画家ピサロは、晩年になると、郊外のエラニーからパリに戻り、新しく設置された大通りや広場の様子を連作で描いています。改造されたパリの街の姿が、画家の絵心を強く刺激したのでしょう。ピサロは次々とパリの美しく変貌したパリの街の光景を描きました。

 ピサロがよく描いていたのがオペラ座通りです。雨の日、冬の日、陽光の射す日など、同じ風景でも季節や天候の違いによっていかに趣が異なるものか、繊細な筆致で捉えています。

 ここでは、そのような作品の中から、パリ大改造をもっともよく表現できていると思える作品をご紹介することにしましょう

●《オペラ座通り、朝の陽光》(Avenue de l’Opéra, le soleil du matin, 1898年)

 ピサロがよく描いたのが、ホテルからオペラ座通りを見下ろした光景です。いくつかある中で、もっともよくパリ大改造のコンセプトを捉えていると思えるのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、66×81.9㎝、1898年、フィラデルフィア美術館蔵)

 手前の広場から大きな道路が伸びています。路上には人々や馬車が多数、描かれていますが、いずれも点のように小さく見えます。この広い直線道路の先に見えるのが、オペラ座です。

 画面の奥に、特徴的な青色の屋根が見えます。実際の姿を写真で見てみることにしましょう。

オペラ座

(*https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Opera_full_frontal_architecture,_May_2009.jpg

 これは、1862年に着工し、1875年に完成したガルニエ宮です。格式が高く、荘厳な美しさがあります。

 さて、ピサロの作品に戻りましょう。

 正面奥に見えるオペラ座に向かう道路の両側には、重厚な建物が立ち並び、その一階は店舗になっています。人々がオペラ通りを散策しながら、ウィンドーショッピングを楽しむことができるようになっているのです。

 建物そのものが優れたデザインで建築されており、まるで芸術作品のようです。

 手前の広場には、円形の噴水が左右に設置されており、直線道路の際でシンメトリーな柔らかさを添えています。

 噴水の周囲には木々が植えられており、自然のやすらぎが醸し出されています。奇妙なのは、建物や噴水、道路の大きさに比べ、人々や馬車などが極端に小さく描かれていることです。おそらく、ピサロが都市の形態あるいは構造そのものに焦点を当てて描こうとしているからでしょう。

 パリの街がどのように変わったのか、どのように整備されたのかが、この作品からはとてもよく理解できます。

 パリ大改造のために大プロジェクトに取り組んだナポレオン三世は、街路、公園、上下水道、美観、等々の観点から改造プランを練り上げました。ナポレオンに任命されたオスマンは、自身にアイデアを織り込みながら、大改造事業を展開しました。

 ピサロの作品からは、オスマンが追及した街路の直線化、そして、ナポレオンが掲げた都市の美観化が見事に調和して実現されていることがわかります。

 ピサロとは違った視点でパリの大改造を捉えた画家がいます。新印象派の画家マクシミリアン。リュス(Maximilien Luce, 1858 – 1941)です。

■Maximilien Luce(Maximilien Luce,1858- 1941)

 リュスは、ピサロのようにパリの街並みそのものを俯瞰して捉えるのではなく、そこで暮らす人々の視線で大改造を捉えようとしていました。

 当時、パリでは至る所で工事が行われ、日々、その景観は変貌していました。完成形を描いたのがピサロだとすれば、リュスはその過程を描きました。ですから、色も形も統一が取れておらず、雑駁な印象がありますが、逆に、当時のパリの街の様子が生き生きと描かれているように思えます。

 たとえば、リュスに、《リュミエール通りの貫通》という作品があります。

●《リュミエール通りの貫通》(L’ouverture de la rue Reaumur、1896年)

 この作品では、構造部分がむき出しになっています。手前の建物はみな、軸組が丸見えになっており、足場なのでしょうか、壁面に板が何本も立てかけられています。窓は空洞で、明らかに建築途上の建物だということがわかります。

 リュスの作品には珍しく、荒っぽいタッチで描かれていますが、それだけに、建築現場の生々しい様子をスケッチ感覚で捉えようとしているようにも見えます。

(油彩、カンヴァス、35.8×51.4㎝、1896年、Christie’s所蔵) 

 細部を細かく丁寧に描くのではなく、全体を粗く、素早く捉え、その瞬間のパリの街の表情を捉えることに主眼を置いていたのかもしれません。手前はとくに色彩も形もばらばらで統一感がありません。

 一見、ラフな印象を受けますが、遠近法にしたがって描かれているので、画面そのものは秩序だって構成されています。

 ピサロの作品と同様、人々は点のように小さく描かれています。そのせいか、道路がとても広く感じられます。その広い道路に沿って、建築現場が続いています。騒音と土埃でごった返す建築現場の脇を、大勢の人々が平然と行き交っている光景に、パリ市民のエネルギーと未来への希望が感じられます。

 この画面には、破壊し、再び建築するといったプロセスの一端が描かれており、新たな生命を得て蘇るパリの街のエネルギッシュな姿が浮き彫りにされています。

 実際に当時のパリの様子がどんなものだったのか、資料を探してみました。道路を掘り起こし、廃墟になったような場所を撮影した写真を見つけましたので、ご紹介しましょう。

(*https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/3417344/

 まるで爆撃された後のような光景です。建物が壊され、瓦礫が散乱しています。道路が深く掘り返され、大きな土の山ができています。これはほんの一例ですが、すでに出来上がって機能していた都市を、根本的に改造することがいかに大変なことか、うかがい知れます。

 この写真を見ているうちに、リュスがパリ改造をどう捉えていたのかがわかるような気がしてきました。俯瞰して都市の機能を描こうとするのではなく、人々の視線を取り入れ、都市のあるべき姿を描こうとしていたのではないかと思えてきたのです。

 パリを大改造するために、ナポレオン三世やオスマンが多大な尽力を果たしてきました。それと同様、パリに住む人々もまた、生まれ変わるパリの街に寄り添い、様々な生活上の不便を耐え、変貌する姿に希望をつないでいたのでしょう。

 この作品からは、生のエネルギーが感じられます。

 リュスはさらに、破壊し建築する当事者としての労働者の姿を捉えていました。

●《荷車を押す労働者》(Travailleurs poussant un wagonnet、1905年)

 リュスの作品の中に、建築現場で働く労働者を素描したものがあります。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1905年、Musée de l’Hotel-Dieu.所蔵)

 粗さの残る筆致の中に、労働者の動きと現場の雰囲気がみごとに捉えられています。重い荷車を押す男たちがいるかと思えば、その傍らで作業をしている者、手前から彼らに近づこうとしている者、振り返ってみている者などが描かれています。

 荷車を押す労働者たちだけではなく、その周辺の労働者を描くことによって、作業現場の様子がよりリアルに表現されていることがわかります。力を合わせることによって大きな作業ができることを示唆しているように見えます。

 背後には建築現場があり、労働者たちがさまざまな作業をしており、さらにその背後にビルのようなものが建っているのが見えます。パリの街をひっくり返すような勢いで、改造工事が進められている様子が捉えられています。

 ナポレオン三世は、社会を支えているのは農民であり、労働者であると認識していました。彼らの生活を安定させることができれば、社会も安定するという考えでした。だからこそ、皇帝の地位に就くと早々に、労働者共同住宅の建設に取り組んだのです。

 そのような考えは、このパリ大改造プランにも見られます。

 そもそも、先ほどご紹介したパリ大改造プランの発想は、人々が健康な生活ができるようにパリを改造するというものでした。そして、改造プランそのものは人体の構造に模して作成されていました。そのことをふっと思い出しました。

 建築現場をもう少し、構造的に捉えた作品もあります。

●《建築現場》(Le chantier, 1911年)

 リュスが53歳の時の作品です。先ほどの作品とは違って、画面は極めて緻密に構成されています。

(油彩、カンヴァス、73×60㎝、1911年、Musée d’Orsay所蔵)

 大きなビルの建築現場で、大勢の労働者たちが働いています。足場が組まれ、労働者たちが細い板の上でさまざまな作業をしています。画面下の方ではセメントを掬い上げている者、こねている者、運んでいる者がいます。大きなビルの奥の方にも足場がかけられ、クレーンのようなものも見えます。

 ビルなどの建築現場ではこのように、大勢の労働者が機能分担して働いているのでしょう。それには、彼らを統括して作業全体を進めていく役割を担う人が必要で、おそらく、手前右に描かれている白い服を着た人がそうなのでしょう。

 この作品からは建築現場の構造が見えてきます。つまり、産業革命を経て、分業化が進み、労働者が機能分担して仕事をしはじめている現場の一端が巧に切り取られ、表現されているのです。

 遠近法が使われ、安定感のある画面構成になっています。遠方の労働者たちはごく小さく描かれていますが、姿勢や身体の傾きなどでそれぞれ描き分けられており、生き生きとした現場の営みが伝わってきます。

 日が落ち始めているのでしょう、左手前から影が伸び、作業をしている労働者の背中を暗くしています。厳密に画面構成された建築現場に射し込む陽光が、この作品を情感豊かなものに仕上げています。

 この作品はまさに、産業革命を経て、必然的に進行した分業化の動きを示すものにほかなりません。リュスは、パリ大改造の建築現場を描きながら、実は、産業化の進行が、人々に何をもたらすのか、無意識のうちに問いかけていたのかもしれません。(2024/7/31 香取淳子)

展示拒否された《オルナンの埋葬》について考えてみる。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたクールベの作品は、なにも《画家のアトリエ》だけではありませんでした。その5年前に制作された《オルナンの埋葬》もまた、門前払いされていたのです。

 そこで今回は、《オルナンの埋葬》を取り上げ、展示拒否の理由について考えてみたいと思います。

 まずは、《オルナンの埋葬》の画面から見ていくことにしましょう。

■《オルナンの埋葬》((Un enterrement à Ornans, 1849-1850)

 ギュスターヴ・クールベ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)が、1849年から1850年にかけて制作したのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、315×668㎝、1849‐1850年、オルセー美術館蔵)

 大勢の人々が葬式に集まっている光景が描かれています。中央に大きく穴が掘られ、その際で片膝をついた男が神父を見上げています。神父は厳かな表情で聖書を広げており、どうやらこれから埋葬が始まろうとしているところのようです。

 背後には荒涼とした風景が広がっています。夕刻なのでしょうか、それとも、未明なのでしょうか。陽が落ちた空はどんよりと暗く、まるで参列者の気持ちを代弁しているかのように見えます。

 画面右側には、黒い喪服を着た人々が参列しています。皆、一様に顔を伏せ、ハンカチを目に当てている人もいれば、鼻と口を覆っている人もいます。故人を悼み、哀しみに打ちひしがれている様子がうかがえます。

 全体に沈鬱な雰囲気が漂う中、白い布のせいで、ひときわ明るく見えるのが、画面の左側です。

 中でも際立って見えるのが、お棺に被せられている十字マークのついた白い布です。その周辺には二人の子どもがおり、いずれも白い服をまとい、赤茶色の帽子をつけています。手前の子どもは聖具を持ち、神父のすぐ後ろに続いています。もう一人の子どもは顔を上向けて、お棺をかつぐ人になにやら問いかけているようです。そのすぐ隣には、長い棒状の十字架を持つ人がおり、やはり白い服を着ています。

 この白い服を着た人たちは、どうやら、神父の手助けをして儀式を執り行う役割を担っているようです。

 十字架を持った人はやや上目づかいで、こちらを見ています。どういうわけか、画面の中でただ一人、鑑賞者と視線を合わせるように描かれ、何かを訴えかけているように見えます。彼が持つ十字架には、哀悼の標識のようにキリスト像が付けられています。

 画面左側のお棺を担いだ人々は皆、黒い帽子、黒い衣装を身に着け、肩から白いマフラーを垂らしています。顔を伏せているので、表情はよくわかりません。

 こうしてみてくると、埋葬へのかかわり方によって、身に着けた衣装の白と黒の配分の違いがあるように見えてきます。

 たとえば、黒い帽子をかぶり、黒い服の肩から白いマフラーをかけているのが、お棺をかついでいる人々です。そして、黒いチョッキの下に白いシャツを着たのが、墓穴を掘った人、黒いマントに白のふち飾りをつけたのが、神に祈りを捧げ、聖書を朗読する神父といった具合です。

 一方、白の割合の多い衣装をまとっているのが、聖具を持った子どもであり、十字架を持った神父の補佐役でした。子どもであれ、大人であれ、儀式に必要な聖具を携え、埋葬の儀式で重要な役割を負った人々です。

 彼らが、喪の色であり、純粋無垢の色であり、神聖な色でもある白の服をまとっているのは、そのためなのでしょう。

■参列者たち

 さて、白でもなければ黒でもない、赤茶色の服と帽子を身に着けた男が二人、中央に描かれています。帽子や服装からは聖職者ではないようですが、なんらかの役目を担っているように見えます。美術評論家のルービン(James Henry Rubin, 1944-)によれば、この二人は、教区の世話役なのだそうです(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店、2004年、p.78.)

 さらに、中央右寄りに、もう二人、白でも黒でもない衣装を身に着けた人物がいます。よく見ると、燕尾服です。黒ではありませんが、礼装として着用されるフォーマルな衣装です。傍らには白い猟犬もいます。いったい、どういう人物なのでしょうか。

 彼らについて、ルービンは、次のように説明していました。

「一世代前の身なりをした年長の男が二人いるが、彼らはウードとテスト双方の友人で、リベラルな共和主義の信念を共有していた」(* ルービン、前掲。p.76.)

 ウードとは、1848年8月に亡くなったクールベの祖父であり、テストとは、翌9月初めに亡くなった大叔父のクロード=エティエンヌ・テストです。ここに描かれた二人は、亡くなった祖父と大叔父の友人で、彼らとはリベラルな共和主義の信念を共有していたというのです。

 画面から、彼らが描かれている部分を抜き出してみましょう。

(* 前掲。部分)

 燕尾服の男が二人、膝までのズボンをはき、その下に、白や淡いグリーンのタイツを履いています。

 いつ頃の服装なのか、気になって、調べてみました。すると、時代ごとの変化が図示され、説明されているページが見つかりました。

(* https://oekaki-zukan.com/articles/12023

 上の図でみると、二人の友人たちが着用していたのは、まさに19世紀初頭の衣装でした。それ以前のものに比べ、襟が大きくなり、コートの前が短くなって、アクティブな感じがします。装飾性が薄れ、軍服のような印象です。

 調べてみると、確かにルービンがいうように、彼らが着ているのは一世代前の衣装でした。二人とも黒の山高帽子をかぶっていますから、礼服として着用していたのでしょう。

 そういえば、ルービンは、クールベの祖父も大叔父も、彼らと共和主義の信念を共有していたと書いていました。ひょっとしたら、古き良き第一共和政を偲び、敢えて、この時、着用していたのかもしれません。

 ルービンはさらに、二人の左側に立っている髭の男は、オルナンの村長で、その隣は、村では著名な法律家だと記しています。こうしてみると、オルナンの主要なメンバーが総出で、クールベの大叔父の埋葬に臨んでいたことがわかります。

■新しく造られた墓地での埋葬

 《オルナンの埋葬》は、縦315㎝、横668㎝にも及ぶ巨大な画面に、大勢の参列者を登場させた渾身の力作です。一人ひとり、丁寧に描かれており、当時の人が見れば、すぐにも誰なのか分かったに違いありません。

 完成させるのに、膨大なエネルギーを費やしたはずです。

 おそらく、相次いで身内を亡くした悲しみが、クールベの創作意欲をかき立てたのでしょう。あるいは、大叔父が、新しく町外れの造られた墓地に、初めて埋葬された人物になったせいでもあるかもしれません。

 大叔父は、町外れに新しく造られた墓地に、最初に埋葬された人物でした。画面からは、感傷的な思いを振り払い、見たままの光景をありのままに描こうとする姿勢が感じられます。クールベにとっては大きな出来事でしたが、個人的な思いを断ち切るようにして、この作品を描いているのです。

 画面を見ているうちに、ルービン(James Henry Rubin, 1944-)がこの作品について、ちょっと気になる指摘をしていたことを思い出しました。

 該当箇所を引用してみましょう。

 「亡くなった祖父の家の屋根裏部屋に設けたアトリエで、クールベは《オルナンの埋葬》を描き始めた。題名に不定冠詞を使うことによって、クールベはこの埋葬に対して特別な地位を主張しなかった。つまり、それは故郷の町における「ある埋葬」にすぎないのである」

(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店 、2004年、p.75.)

 改めて、この作品の原題を見ると、《Un enterrement à Ornans》となっていました。確かに、不定冠詞の「un」が付けられています。敢えて定冠詞を置かなかったところに、クールベの意図があるというのが、ルービンの解釈でした。

 これでは、大切な大叔父の埋葬が、まるで名もないオルナンの住民の埋葬のように見えてしまいます。もちろん、それを承知の上で、クールベは敢えて、タイトルに定冠詞を付けず、「Un」にしたのでしょう。

 それでは、クールベはなぜ、タイトルに定冠詞「le」を使わず、不定冠詞「un」を使ったのでしょうか。

■クールベの意図は何か?

 そもそも、クールベの父は、周辺3つの村を含めた地主で、オルナンにもブドウ畑と邸宅を所有していました。羽振りのいい地主だったのです。母はオルナンの地主の娘で、その父もまた地主であり、徴税吏でもありました。フランス大革命当時からの共和派で、自信家で粘り強く、魅力的な人物でした。クールベに少なからぬ影響を与えたといいます(* 稲葉繁美「ギュスターヴ・クールベ生涯と作品」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』1989年、p.148.)。

 このように、クールベの一族は代々、地元オルナンを含めた地域の富裕層であり、知識階級であり、名士でした。決して名もない一住民ではなかったのです。ところが、クールベは大叔父の埋葬を、オルナンの一住民の埋葬として作品化しました。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 考えられる理由としては、大叔父が、町外れに新しく造られた墓地に、初めて埋葬された人物だったことです。

 墓地はそれまで居住区内に設置されていましたが、衛生改革の一環として、新たに町外れに設置されることになりました。ナポレオンがパリを対象に進めていた政策ですが、周辺にまで広がっていたのです。

 教会は当然、人里離れた場所に墓地を設置することに反対しました。旧来の考えに縛られた住民にとっても受け入れがたかったでしょう。埋葬に関わることなので、相当の意識変革が必要でした。

 ところが、クールベの大叔父の家族は、最初の埋葬者になることを受け入れました。私的な思いよりも公共の利益である、衛生改革を優先させたのです。それだけに、クールベは、大叔父の埋葬を貴重なものと捉えたに違いありません。

 オルナンで生き、そして、死を迎えた人が受け入れるべき埋葬例として、記録しておこうとしたのではないかという気がするのです。

 オルナンにとってはまさに、歴史的事件でした。

■オルナンの歴史として記録する

 人口の増加に伴い、大都市パリでは、衛生面の問題が多々発生するようになっていました。その一例が墓地です。

 たとえば、パリ中央市場に隣接したイノサン墓地には、亡くなった人々の遺体が放置されて悪臭を放ち、衛生面から大きな社会問題となっていました。1786年にようやく撤去され、パリ中心部に墓地を造ることが、衛生上の理由から禁止されるようになりました。その後、ナポレオンの指示によって、19世紀の始めには3つの新しい墓地が当時のパリの境界周辺に設置されました(* https://paris-rama.com/paris_history_culture/016.htm)。

 以来、パリでは、衛生改革の一環として、墓地の立地に規制がかけられるようになりました。墓地は居住区の外に設置しなければならないと法律で定められたのです。その後、パリに倣ってオルナンでも、町外れに墓地が新たに造られることになりました。

 オルナンは、パリの南東345キロメートルに位置しています。

オルナン

 中世から塩を運ぶ道の中継地点として、栄えてきた地域です。人の往来があり、歴史があり、伝統のある町でした。それだけに、新たな墓地の設置をめぐっては、町を二分する議論が交わされていたようです。

 これまでの伝統を守りたいという守旧派と、ナポレオンが進める衛生改革に倣おうとする改革派との間で、対立が起きていたのです。

 ルービンは、新しい墓地の設置をめぐる諍いについて、次のように記しています。

「その墓地の場所は、伝統的な統制を維持したいと考える地方の教会と、居住区域の外に墓地を置くことによってナポレオンの下で制度化された近代の衛生上の措置に従いたいとする、町の住民のより世俗的な分派とのあいだで争いの的となっていた」(* 前掲。p.75)

 訳語がわかりにくいですが、墓地を新たに居住区域外に設置することについて、地元の教会を中心とする勢力と、一部の先進的な住民たちとの間でもめていたようなのです。

 クールベの大叔父が新しく造られた墓地に埋葬されているので、最終的には、ナポレオンが進める衛生改革に従おうとする先進的な住民の意見が通ったことがわかります。決着したのが、画面で描かれている場所でした。

 改めて、《オルナンの埋葬》を見てみると、背景は明らかに郊外の風景でした。参列者の背後に、ほぼ無彩色の岩山が描かれており、なんとも殺風景で、荒涼とした雰囲気が漂っています。

 そもそもオルナンは、町の中心にルー川が流れ、その川向こうに、町を見下ろすように、岩山が広がっているような場所でした。

(* https://www.mmm-ginza.org/special/201110/special01.html

 クールベはこの地で生まれ、育ち、そして、絵画の手ほどきを受けました。パリに出て、画家になってからは、オルナンを画題にした作品をいくつも手がけています。オルナンへの思い入れが強かったことがうかがい知れます。

 そのオルナンで墓地が新しく造られ、初めて埋葬された人物が大叔父だったのです。クールベが、埋葬の場面を描いておこうと決意したのも不思議はありませんでした。

■大叔父を悼む

 大叔父への哀悼の気持ちを表現したかったのでしょうし、なによりも、オルナンで生まれ育った人間として、強い創作衝動に駆られたのではないかと思います。

 そう思えるのが、クールベのモチーフの取り上げ方であり、描き方です。参列者が実に詳細に、写実的に描かれています。実際にこの絵の前に立って、画面を見たとしたら、まるでその場にいあわせているかのような錯覚を覚えたに違いありません。

 ルービンによれば、《オルナンの埋葬》で描かれた人物は、すべてオルナンの住民でした。しかも、50人ほどの人々がほぼ等身大で描かれており、当時の人が見れば、すぐ誰だとわかるほどリアルに描写されていたようです。

 家族、友人、オルナンの名士たちがことごとく、取り上げられていたばかりか、亡き祖父ウードまでも、お棺をかつぐ人として描かれていました(* ルービン、前掲。pp.75-78.)。

 祖父だとされるのは、お棺に寄り添うように、すぐ脇に立ち、顔を左に向けて俯いている人物です。黒い帽子を目深にかぶっており、その表情はよくわかりませんが、ルービンによれば、これがひと月前に亡くなったクールベの祖父なのだそうです。

 すでに亡くなり、埋葬に参加できない祖父を、クールベは、大叔父のお棺を担ぐ人として登場させ、哀悼の意を表す機会を与えていたのです。

 タイトルに不定冠詞を使い、まるでクールベとは関わりのない一住民のような扱いをしながら、実は、さり気なく、見る人が見ればわかるといった体で、大叔父へのオマージュを捧げていたのです。

 こうしてみると、《オルナンの埋葬》には、クールベの、家族や親族に対する想い、オルナンの地そのものへの想いが込められていることがわかります。実際、写実的に描かれた画面からは、そのような深い情感が満ち溢れていたのでしょう。

 扱ったモチーフの数の多さといい、画面の巨大さといい、《オルナンの埋葬》は確かに、オルナンで発生した一大事件を記録した大作でした。まさに、オルナンの歴史画ともいえるものだったのです。

 この作品は当時、スキャンダラスな作品だとして、話題を呼びました。

 巨大な画面に埋葬の光景が描かれ、名もない群集がほぼ等身大で多数、描かれていたからです。しかも、クールベは、遠近法、陰影法を無視し、ありのままの光景を美化せず、理想化せず、写実的に描きました。

 モチーフといい、画題といい、画面の大きさといい、画法といい、すべてが当時の美術界のルールから逸脱していました。まさにアカデミズムへの挑戦といえるものでした。

 一方、この作品は、美術界ばかりではなく、為政者たちをも刺激していたに違いありません。

 ちょうど、この頃、クールベはたて続けに、話題作を制作しています。そのきっかけとなったのが、《オルナンの食休み》でした。振り返ってみることにしましょう。

■《オルナンの食休み》(L’Après-dîner à Ornans)

 クールベは長い間、サロンに出品しても、なかなか受賞することができませんでした。ところが、1849年6月15日に開催されたサロンでは、出品した11点の作品のうち7点が入選しています。ほとんどがオルナンの生家近くの風景を描いたものでした。

 入選した中の1点が《オルナンの食休み》で、これは2等賞を受賞しました。

(油彩、カンヴァス、195×257㎝、1848‐49年、リール美術館蔵)

 この作品は、国家の買い上げとなり、リール美術館に収められました。これによって、クールベはその後、無鑑査の特権を享受することになりました。その後は、落選の憂き目を見ることもなく、出品作品を自由に展示できることになったのです。

 この作品を見たドラクロワは、「誰にも依存せず、前触れもなく出現した革命家」とクールベを称し、アングルは、「過度の資質ゆえに芸術そのものからもはみ出してしまった」と評しています(* 稲葉繁美編、「ギュスターヴ・クールベ 生涯と作品 年譜」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』、1989年、p.149)

 当時、画壇の大御所であったロマン派のドラクロワは、クールベを美術界の革命家と呼び、新古典派のアングルは、有り余る才能ゆえに芸術からはみ出してしまったと評していたのです。両者の評価からは、クールベの作品が当時の画壇では異質であり、評価の対象にならなかったことが示されています。

 実際、これまでのサロンであれば、決して受賞できなかったような作品でした。

■臨時政府下のサロンで2等賞

 1848年のサロンは、二月革命直後の3月に開催されました。王政を倒して樹立された臨時政府の下で開催されたのです。臨時政府は、過激派であれ穏健派であれ、共和主義者で構成されており、5月4日に憲法制定国民会議が開催されるまで続きました。

 サロンが開催されたのは革命直後でしたから、臨時政府はおそらく、過激派が多数を占めていたのでしょう。そのせいか、この時のサロンは無審査で行われました。

 実は、それまでのサロンは審査基準が狭量で、一部の画家たちの不興を買っていました。ドーミエ、テオドール・ルソーなどは1847年、サロンとは別の独立した展覧会を組織する決議をしていたほどでした。

 そのような画家たちの動きを踏まえたものか、それとも、出品しさえすれば、どんな作品でも展示されるべきだという過激な共和主義者の考えに基づいたものなのか、理由はよくわかりませんが、この時のサロンは無審査でした。

 その結果、クールベは出品作品10点すべてを展覧することができました。ところが、それは、他の画家も同様で、この時のサロンの展示点数は5500点にも及ぶことになって、混乱をきわめました。

 玉石混交の作品の中で、目クールベの作品が目立つことはなく、話題を呼ぶこともありませんでした。興味深いことに、クールベは、父親に送った手紙の中で、「共和政は芸術家に最適の政体ではない」と書いています(* 稲葉、前掲。p.149)

 クールベはおそらく、審査がなくどんな作品でも展示されるという仕組みは、優れた作品を選び出す機能をもっていないと言いたかったのでしょう。

 その反省から、1849年のサロンでは、審査が復活されています。

 出品者たちが選出した審査委員で構成された委員会が、鑑査を行うという方式が採用されたのです。より多様な作品を選出するという点では、以前の審査方法より優れていました。

 新たな審査方式の下、クールベが出品した11点のうち7点が入選しました。そのうちの1点が、2等賞を受賞した《オルナンの食休み》だったというわけです。

 ようやくクールベの作品世界に日が差してきました。

■新しい写実主義

 クールベの作品は、これまでサロンを牛耳ってきたアカデミーや一般大衆から受け入れられることはありませんでした。たいていの作品が、スキャンダラスな作品として罵倒され、異様な作品だと評され、退けられてきたのです。

 労働者あるいは庶民の生活を画題にし、対象を美化せず、理想化せず、ありのままに描いていたからでした。

 クールベの作品に多少は理解を示していたドラクロワでさえ、「羊の群れにとびこんできたオオカミ」と表現し、異端児扱いをしていたのです(* 清水正和、「19世紀パリ近代化と芸術家たちの対応」、『甲南女子大学研究紀要』35号、1999年、p.65)。

 当時、クールベの作品そのものが、アカデミーに対する挑戦だったのです。

 その後、クールベは《石割り》(Les Casseurs de pierre)を制作しています。

(油彩、カンヴァス、165×259㎝、1849年、1945年に爆撃を受けて焼失)

 こちらもまた、大きな作品です。一人の男がハンマーを持って石を割り、もう一人の男が割られた石をザルに入れて運んでいます。一人は帽子をかぶり、もう一人は後ろ向きになっているので、二人の顔は見えません。

 顔が見えないだけに、彼らの所作が強く印象づけられます。その所作の中に、労働の過酷さが滲み出ています。

 たとえば、膝をついてハンマーを打ち下ろす姿には、疲れが見えますし、膝でザルを支えながら、割られた石を運ぶ後姿には、労働の過酷さが見えます。オルナンの岩山で仕事をしているのでしょうか、山際には陰がありますが、二人の男が作業している場所には、陽が照り付けています。

 サロンで入選して以来、たて続けに描いた作品はいずれも、このような労働者の生活の一端を捉えたものでした。アカデミックな美術界にはない画題です。オルナンを舞台に発表した作品からは、この頃、クールベは自身の絵画世界を確立しつつあったように思えます。

 画壇の主流であった新古典主義やロマン主義に抗い、新たな写実主義を打ち立てようとしていたのです。

■なぜ展示拒否されたのか

 審査方式が変わった後、2等賞を受賞したのが、《オルナンの食休み》でした。それに続き、《石割り》、《オルナンの埋葬》とクールベは、故郷をモチーフに作品を制作してきました。いずれも二月革命直後に制作されており、労働者が社会の表舞台に出てきてからの作品です。

 それまでにはなかった作風だと評価されるようになり、新たな潮流を作り出しました。いずれの作品も、描かれたモチーフや情景に社会が反映されていました。そして、モチーフとして取り上げられた労働者たちの所作や表情の中に、労働の過酷さや疲労感、希望のなさが浮き彫りにされていたのです。

 クールベはこれらの作品を通して、名もない人々の哀歌を奏でようとしていたように思えます。モチーフはなんであれ、画面には、生きることの意味を問い、生き続けることの価値を問う深いメッセージが込められていたのです。

 ご紹介した三つの作品に違いがあるとすれば、それは、描かれた人物の人数の多寡でした。

 《オルナンの食休み》と《石割り》は、労働後の休憩時であれ、労働中であれ、生活苦が彼らの所作を通して描かれていました。モチーフの数は、2人から4人です。

 ところが、《オルナンの埋葬》の場合、圧倒的多数の人物が、ほぼ等身大で描かれていました。すべて名もない庶民の群像です。それまで絵画で描かれたこともなければ、もちろん、描く価値があるとも思われなかったモチーフです。

 しかも、遠近法を無視し、陰影法も気にせず、アカデミックな技法から逸れた描き方でした。

 ただ、画面に力がありました。描かれた人物や情景が放つエネルギーが、それまでの絵画にはない魅力を放っていました。

 もちろん、それに気づく人もいれば、気づかない人もいたでしょう。気づいたとしても、ほとんどの人がそれを的確に言語化できなかったのではないかと思います。

 たとえば、当時の大御所、ドラクロワは、クールベの絵が放つ力に気づいていましたが、長年にわたって刷り込まれた固定観念から、
「羊の群れにとびこんできたオオカミ」 と表現するしかありませんでした。

 そして、為政者たちはこの作品に、ドラクロワがいう「羊の群れにとびこんできたオオカミ」を感じたのではないかという気がします。つまり、危険を感じ、恐怖を覚えたのです。

 登場人物の数が多ければ多いほど、画面から放たれるエネルギーは強くなります。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたのは、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》でした。おそらく、膨大な登場人物が発散する巨大な生のエネルギーが、為政者に危険を感じさせ、恐怖を覚えさせたのではないかと思うのです。

 《オルナンの埋葬》が描かれたのは、二月革命の後でした。民衆であれ、知識階級であれ、新しい社会を求めて、人々が立ち上がった時期でした。それらの人々の力によって、王政は倒されました。為政者たちは、名もない人々、生活苦にあえいでいる人々が群集化すると危険だということをよく知っていました。

 彼らが等身大の庶民が多数、描かれた作品を見て、恐怖を覚えたとしても無理はありませんでした。

 権力に抵抗し、人としての尊厳や自由を求め、新たな世界を切り開こうとしていた時代だったからこそ、為政者たちは、人々が群れ集まることを恐れました。群集になると、人は容易に狂暴化することを経験していたからでした。

 もちろん、アカデミックなルールを無視したクールベの画法が、為政者に社会秩序の混乱を連想させ、恐怖心をかき立てたとも考えられます。

 こうしてみてくると、クールベの二つの作品が展示拒否されたのは、アカデミックな画法を踏まえずに、多数の人物を名もない人々を取り上げ、写実的に描いていたからではないかという気がします。(2024/6/21 香取淳子)

クールベの作品はなぜ、1855年のパリ万博で展示拒否されたのか?

■1855年のパリ万博

 初めての万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。それに刺激されて、ナポレオン三世が開催を決意したのがパリ万博(1855年5月15日~11月15日)です。このパリ万博では、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、本格的な美術展示が行われました。万博としては初めてのことでした。

 フランスならではの独自性を加えて、万博に新機軸を打ち出し、価値の創出を図ったのでしょう。

 美術品を展示するために、本格的なパビリオンを設置した理由について、ナポレオン三世は次のように述べています。

  「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』、pp.123-124.)

 ナポレオン三世は、万博会場に本格的な美術品の展示スペースを設けることを、フランスの義務とまで言っているのです。 1855年パリ万博で、本格的な展示スペースが設けられることになったのはフランスで開催されたからだといえるかもしれません。

■万博に美術セクション

 このパリ万博から、美術部門は飛躍的に拡充され、万博の大きな呼び物の一つとなりました。「産業の祭典」から「芸術と産業の祭典」へと変身したのです。主会場のシャンゼリゼ大通りに隣接した「産業宮」とセーヌ河畔の「機械館」に加え、モンテーニュ大通りに面した場所に、2万平方メートルの展示室を持つ「美術宮」(通称モンテーニュ宮)が建てられました。

 それに伴い、恒例の「サロン」展は中止され、すべての作品展示はこの万博美術展に集約されることになりました。「美術宮」を万博会場に設置することによって、美術を通したフランスの国威発揚の場が創り出されたのです。

 そこでは主に 、ドラクロワ、アングルなど、当時の画壇の巨匠たちの作品が展示されました。

 たとえば、ドラクロワの《アルジェの女たち》、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》などです。

 

 一方、出品しても、審査員から展示拒否された作品もありました。

 たとえば、クールベはこの時、13点の作品を万博事務局に提出していましたが、そのうち、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は展示を拒否されています。

■抗議のため、個展を開催

 クールベはこれに抗議し、「レアリスム」というタイトルの個展を自己資金で開催しました。万博の美術会場と同じモンターニュ通りに、この個展会場を設け、40点余りの自作を一般に公開しました(*https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html) 。

(* https://j6rsyq3ia6hq.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

 建物の正面と横に、「EXPOSITION COURBET」の文字が見えます。まさにクールベの個展会場です。展示拒否されたクールベは万博開催期間中、ここで自身の作品を展示していたのです。

 当時、画家が自分の作品だけを展示した「個展」を開催する習慣はありませんでした。ですから、これが世界初の「個展」だといわれているのです(* https://www.artpedia.asia/gustave-courbet/)。

 興味深いことに、せっかく「個展」を開催したにもかかわらず、クールベの個展に見に来る人はほとんどいませんでした。入場料を半額に下げても、入場者は増えなかったそうです。

 ところが、画壇の大家であったドラクロアは、この作品について、「異様な傑作だ」と評価していたそうです(* https://www.y-history.net/appendix/wh1204-026.html

 果たして、どのような作品だったのでしょうか。

 それでは、クールベの《画家のアトリエ》から見ていくことにしましょう。

《画家のアトリエ》 (L’Atelier du peintre)

 

 クールベ ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)は、スイス国境の小さな田舎町オルナンで生まれ、法学を学ぶためにパリに出てきましたが、途中で転向して画家になりました。フランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称していたようです。

 当時、画壇の主流であった古典主義やロマン主義の潮流には抗い、ありのままの現実を捉え、表現しようとする写実主義の流れの中にいる画家でした。

 《画家のアトリエ》は、クールベが36歳の時に制作された作品です。

(油彩、カンヴァス、361×598㎝、1855年、オルセー美術館蔵)

 

 画面には数多くの人々が描かれており、一見しただけでは何を描こうとしているのか、よくわかりません。まず、視線がひきつけられるのは、画面中央の右寄りに描かれたヌードモデルです。暗い画面の中でそこだけ白く、明るく描かれているので、つい、視線が引き寄せられてしまうのです。

 ところが、よく見ると、さまざまな風体の人物が描かれているのがわかります。それだけではなく、犬や骸骨、果ては、カンヴァス後ろの壁に、磔にされているような裸体の男性まで描かれています。

 異様なほどのモチーフの数の多さと乱雑にも思える多様さで、クールベは、いったい、何を伝えようとしているのでしょうか。

 しばらく画面を見ているうちに、一見、混沌として見える画面ですが、それなりの秩序にしたがって描かれているのではないかという気がしてきました。というのも、大勢の人々を描いた画面は、三つに部分で構成されているように見えてきたからです。

 ひょっとしたら、画面を分割して見ることが、この絵を理解するための手がかりになるのかもしれません。  

 まず、中心部分を抜き出してみましょう。

 暗い画面の中で唯一、明るい光が当たっている部分であり、何よりも、画家クールベが描かれているところです。

(* 前掲。部分)

 

 裸体のモデルは、脱ぎ捨てた衣服の端で身体の前を覆いながら、やや首をかしげ、画家の手元を見つめています。画家は筆を持った右腕を高く上げ、気取ったポーズでなにやら説明しているように見えます。足元近くでは、幼い子供がまっすぐに立ち、画家を見上げています。

 この一角だけを見れば、不自然だと感じることもなく、なんの違和感もありません。

 モデルの胸と臀部の乳白色の肌の輝き、裸身の前を隠すために手にした明るい衣服の裾の豪華さが、暗い色調の画面の中で際立って見えます。

 一方、右側に見える男性たちは一種の背景として捉えることができます。彼らの姿には画家と同質の雰囲気があり、連続性が感じられます。

 この箇所だけ見れば、モチーフのレイアウト、画面全体の色構成、明暗、遠近、いずれをとってもバランスの取れたいい作品といえます。足元でじゃれている猫の尻尾が太すぎて不自然なのが気になりますが、ヌードモデルを頂点に、手前に三角形の形で広がる淡い黄土色のジュータンを配置しているところ、バランスの取れた色構成になっていると思います。

 さて、この部分で描かれているモチーフは、左から、モデル(女性)、画家(男性)、子供の順で配置されています。年齢といい、性別といい、体形、姿勢といい、変化があって、バランスのいい組み合わせであり、配置になっています。そのせいか、モチーフが相互に立てられており、安定感のある構図です。

 男性と女性は至近距離で描かれ、親愛な様子がうかがえます。一方、子供はやや離れたところにまっすぐに立ち、自立しているようにも思えます。二人の男女を父と母に見立てれば、この三人は両親と子という関係に置き換えることができます。これは次代に続く家族の最小単位であり、これまた安定感があります。

 興味深いのは、女性はどう見ても絵のモデルにしか見えないのに、画家が描いているのは風景画だということです。しかも、筆を持つ画家の右腕の位置も不自然です。さらに、子供が見つめているのは、画家の手指ではなく、画家の顔です。

 こうして細かく見ると、一見、調和がとれ、安定感があるように見えた中心部分が、実は、なんともチグハグで、違和感があることに気づきます。

 次に、画面の右部分を取り出して、見てみることにしましょう。

(*前掲、右部分)

 ここでは、圧倒的に男性が多く描かれています。本を読んでいる人がいるかと思えば、真剣な表情で前方を見ている人もいます。全般に服装がきちんとし、顎鬚を生やし、それなりの地位のある人々のように見えます。

 手前の女性が羽織っているケープには光沢があり、奥の女性が来ている明るい色のワンピースはデザインがよく、良質の素材のように見えます。衣服からは、裕福な家の女性のように見えます。とくに手前の女性は艶のいい顔に生き生きとした表情を見せています。

 こうしてみると、右側部分で描かれている人々はどうやら、社会的地位もお金もあり、余裕のある生活をしている人々のように思えます。

 そう思って、再び、画面を見ると、手前の女性の足元に、腹ばいになって人が見えます。手に筆を持ち、絨毯の上に紙を広げ、なにやら書きつけています。眼鏡をかけており、年配の人物のようです。

 暗くてわかりにくいので、この人物を黄色の矢印で示しておきました。

(* 前掲、部分)

 立っている人、座っている人、それぞれが前方を見つめているのに、この人物は、周囲の人々に合わせることをせず、独自の世界に没入しています。周囲の人々もそれを黙認しているのが不思議です。

 そういえば、この部分で独自の世界に浸っているのがあと二人います。群れから離れて一人静かに本を読んでいる人、天窓から射し込む陽射しを浴びて、周りを気にせず、女性と戯れている人物です。

 こうしてみてくると、この部分で描かれている人々は二種類に大別されていることがわかります。社会のルールに従って生き、それなりの地位を得て、豊かに暮らしている多数の人々と、社会的秩序の中にいながら、自身の生き方を貫き、それが許されている3人といった違いです。

 それでは、左側に描かれた人々を見てみることにしましょう。

(* 前掲、部分)

 こちらは一見して、人々の表情に生気がありません。ほとんどすべての人がうなだれており、疲れ切って睡魔に襲われているように見えます。奥の方に異国の服装をしている人がいて、金色の布に包まれた何かを抱え、嘆き悲しんでいます。

 右側には、手前の黒い帽子をかぶった人は両手を膝に置き、うなだれています。よく見ると、頬に赤い血の跡が見えます。切り付けられたのでしょうか、頬から口にかけてかなり広い範囲で傷跡が残っています。その足元にはナイフが転がっているのが見えます。

 その人の隣に、骸骨のようなものが見えます。さらに、その前には、痛みを抑えるように脇腹に手を当て、ズボンも履かず、むき出しの足を出してくず折れるように膝をついている人がいます。そして、右奥の壁には、裸体の男性が、まるでキリストのように、磔の姿勢でつるされています。

 一方、左側には、軍人のような人もいれば、狩人のような人もいます。立っていられるだけの体力がある人々なのでしょう。それでも、ほとんどがうなだれています。貧困と傷害、苦難と痛苦しかないような人生がうかがえます。

 そのような悲惨な生活をうかがわせる人々の中で、唯一、前を向いている人物がいます。おそらく聖職者なのでしょう、抱えるようにして持っている本(聖書?)に手を置き、心配そうな表情を浮かべています。

 この部分で生気が感じられるのは、この聖職者と白のブチ犬だけです。この猟犬には攻撃性が見られ、状況に抗う姿勢が感じられます。この左側部分は全体に、暗く、沈鬱で、苦悩しか感じられません。

 再び、中央部分に戻ってみましょう。

 画家はモデルと語らいながら、呑気に風景を描いています。ところが、左側のモチーフからは、その巨大なカンヴァスの裏側には、悲惨な世界が横たわっていることが示されています。

 先ほどよりも少し範囲を広げ、中心部分と左右両側の一部を抜き出してみました。

(* 前掲、部分)

 明らかにこの世界の光と影が表現されていることがわかります。右側にいる人々が光に相当するとすれば、左側にいる人々は影に相当します。そして、絵を描く人も、文章を書く人も、本を読む人も、光の側に描かれています。

 クールベが、政治的、経済的、社会的に上位に立つ人々の中に、絵であれ、文章であれ、創作者を位置付けており、芸術や文学、哲学等を高く評価していることが示されています。

 一見すると、わかりにくかった《画家のアトリエ》でしたが、画面を3つに分割し、細部を見てから、全体を見直すと、改めて、非常に示唆深い作品だということがわかります。人生の深淵、世界の構造がこの作品の中にしっかりと描きこまれているのです。

 確かに、ドラクロアがいうように、この作品は「異様な傑作」でした。

 それでは、なせ、この作品が1855年パリ万博で展示拒否されたのでしょうか。それについて考えるには、パリ万博の当局が何を望んでいたかを知らなければなりません。

 このパリ万博で展示されていたのは、ドラクロワの《アルジェの女たち》であり、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 まずは、ドラクロアの《アルジェの女たち》を見てみることにしましょう。

■《アルジェの女たち》(Femmes d’Alger dans leur appartement)

 ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)が、36歳の時に描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、180×229㎝、1834年、ファーブル美術館蔵)

 左上の窓からまばゆい光が入り込み、女性たちを照らし出しています。いずれも端整な顔立ちに白い肌、豊満な身体つきが印象的です。3人は思い思いの衣装を身につけ、イヤリング、ネックレス、髪飾り、指輪、アンクレットなどで着飾っています。

 左側の女性は端整な顔を正面に向け、右腕を肘置きについて、膝頭をそろえ横すわりになっています。真ん中の女性は胡坐をかいて座り、右側の女性は左膝を立て、右膝をついて座っています。

 座り方はさまざまですが、皆、裸足です。話し合うこともなく、物憂げな表情を浮かべています。水タバコを吸っていたのでしょうか、右の女性は水パイプの管を持っています。辺りには、けだるい雰囲気が漂っています。

 右端には、黒人女性が立ち去ろうとして振り向きざま、彼女たちを見下ろしている様子が描かれています。女性たちの世話係なのでしょうか、画面に描かれた4人の女性のうち、彼女だけはスリッパを履き、忙しそうに立ち働いているように見えます。

 この作品は、ドラクロワが実際にアルジェリアのハレムを訪れた経験に基づいて、描かれました。

 ハレムとは、イスラム世界において家屋内の女性専用の居場所を意味します。中東の都市生活の中で、女性を隔離する風習が厳格化していったのがハレムです。とくに、王侯貴族や富裕層の家庭でこの風習が顕著にみられましたが、中流以下では一夫一妻の家庭が普通でした。

 厳格なルールの下、女性たちの生活が拘束されていたのです。厳格なルールの一例をあげれば、素顔を見られても、罪とならないのは,女性の父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,および女性たちの奴隷たちだけでした。このようなハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風があるといわれています。(* 前嶋 信次、https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%A0-117620)。

 ドラクロワは中東文化に興味を抱いていましたが、1832年、フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアを訪れる機会を得ました。34歳の時でした。

 フランスは1830年6月、アルジェリアを植民地にしており、外交上、その西隣モロッコとの友好関係を樹立しておかなければなりませんでした。政治的必要性から使節団が派遣されたのですが、画家ドラクロワにとっては幸いでした。

 18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方への関心が高まっていました。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め、「オリエンタリズム」という流行現象が起こっていたほどです。

 ドラクロワも中近東や北アフリカなどのイスラム文化圏に憧れており、滞在中は、地中海の強烈な陽射しや鮮やかな色彩に歓喜し、寸暇を惜しんで風景や人物をスケッチしていました(* 高橋明也へのインタビューより。https://artscape.jp/study/art-achive/10176044_1982.html)。

 アルジェリアを訪れたドラクロワは、かねてから興味のあったハレムに、立ち入ることができました。ある船主のハレムに案内されたのです。ドラクロワは感極まって、「なんと美しいことだろう、まるでホメロスの時代のようだ」と叫んだといいます(* 前掲。URL)

 異国の風俗習慣を描いた作品が、なぜ、パリ万博で展示されたのでしょうか。しかも、万博開催よりも21年も前の作品です。

 考えられるのは、ドラクロワが大御所だったからだけではなく、当時の画家たちが憧れていた中東世界が華麗に表現されていたこと、フランスにとっては勝利を彷彿させる作品であったこと、等々に因るのではないでしょうか。アルジェリアはフランスが1830年に占領したばかりの国でした。

 フランスの優位を示すとともに、当時の人々の異国情緒をも満足させることのできる作品でした。実際、多くの画家たちが、異国情緒あふれたこの作品に刺激されました。

 たとえば、ルノワールは《アルジェリア風のパリの女たち》(1872年)を描き、ピカソは《アルジェの女たち(バージョン0)》(1955年)を描いています。

 敢えて21年も前の作品を展示したのは、この作品が当時、多くの鑑賞者を魅了する要素を備えていたからにほかなりません。

 さて、万博会場に展示されたのは、もう一方の大御所、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 それでは、見てみることにしましょう。

■《第一執政ナポレオン・ボナパルト》(Premier Consul Napoléon Bonaparte)

 アングル(Dominique Ingres, 1780~1867)が捉えたナポレオンの姿です。若く、雄々しく、壮麗です。

(油彩、カンヴァス、226×144㎝、1803‐1804、リージュ美術館蔵)

 ナポレオンが皇帝になる前、第1執政であったころの肖像画です。第1執政になったのは1799年11月、ブリュメールのクーデタによって総裁政府を打倒した後、執政政府を打ち立てた時です。軍事クーデタで政体が変更され、フランス革命は終わりを告げることになりました。

 これが、ナポレオンが独裁権力を掌握する第一歩となりました。

 いかにも凛々しく,精悍なナポレオンの立像を捉えています。アングルは新古典主義絵画の領袖らしく、美しく、毅然としたナポレオンを極めて精緻に描いています。威厳があり、権威の裏付けとしての正統性の感じられる姿といえます。

 アングルは数多くのナポレオン像を描いていますが、パリ万博に出品したのはこの作品でした。

 1799年の憲法制定後就いた第一執政の行政権は強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化しました。軍事的独裁体制を樹立したのです(* https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2310)。

 未来に向かって突き進んでいく、エネルギッシュな時の姿を描いているからでしょう。革命の意義を忘れず、フランスを強い国に導いていこうとする姿勢が敬愛されていた頃の姿です。

 実は、ナポレオンの肖像画は数多く描かれており、いかにも英雄らしい姿を描いたのはダヴィッド(Jacques Louis David, 1859~1890)でした。ナポレオン自身もダヴィッドの描く昭三画を好んでいたようでした。

 ところが、アングルの場合、ダヴィッドの描く雄々しさに加え、アカデミックが要求する精緻さと優雅さを添えていた点で、肖像画として含蓄のあるものになっていたといえるでしょう。

 そのような一味違う表現が可能だったのは、アングルのデッサン力によるものでした。彼のデッサン力は素晴らしく、近代絵画の巨匠の中でその右に出る者はいないといわれたほどでした(* https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1981/post_20.html)。

 皇帝時代のナポレオンではなく、有り余るエネルギーをフランスのために使っていた頃の姿です。栄光にあふれ、フランスを導く勇士であり、強靭化しようとする指導者の姿です。

 ナポレオン三世が開催したパリ万博に、この作品が展示されるのは当然でした。

 ドラクロワの作品にしても、アングルの作品にしても、まさしく、ナポレオン三世が1855年という時期に開催したパリ万博で展示されるのにふさわしい作品だったことがわかります。

 両作品とも、フランスが領土を拡大していた時代を彷彿させる画題であり、権威を否定するものではなく、現実社会の暗部を見ようとするものでもありません。しかも、画風は、新古典主義であり、ロマン主義でした。現実を直視するのではなく、鑑賞者に、未来と希望を感じさせる作品だったのです。

■なぜ、クールベの《画家のアトリエ》は展示拒否されたのか

 先ほどもいいましたが、クールベの《画家のアトリエ》を見たドラクロワは、「異様な傑作」という表現で、評価していました。「異様」だけど、「傑作」だというのです。まさに言い得て妙、という気がします。

 当時、このような画題を作品化する画家はいなかったのでしょう、だから、「異様」と表現したのだと思います。ただ、画面には現実世界の真実が余すところなく表現されており、「傑作」としかいいようがない、というのが、ドラクロワの率直な感想だったのだと思います。ドラクロワには、この作品の優れた点がよくわかっていたのでしょう。

 さて、ドラクロワには《民衆を導く自由》(Liberty Leading the People)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、260×325㎝、1830年、ルーブル美術館蔵)

 これは、1830年7月革命を起こし、フランス国王シャルル10世を打倒したことを記念して制作された、とても有名な作品です。

 乳白色の胸を露わにした女性が、右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を握りしめ、倒れた人々を踏みつけ、つき進んでいく姿が描かれています。人々を鼓舞するかのように、後ろを振り返り、叱咤激励している雄々しい姿です。

 足元は死体の山になっており、多くの犠牲を払いながら、自由を求めて突き進む姿が表現されています。

 アングルのように英雄を描くのではなく、市井の女性を一種の女神として描いています。表現もアングルのような精緻さはありませんが、逆に、メッセージを伝える力は抜群です。訴求ポイントを的確に押さえ、ドラマティックに画面構成をしているからでしょう。

 描かれた世界は為政者を震え上がらせるものです。民衆の力の凄さ、犠牲をいとわず、自由を求めて突き進むエネルギー、そのようなものが画面いっぱいにあふれています。この作品は、悲惨な場面を描きながら、実は鑑賞者に勇気を与える結果になっています。

 こうしてみてくると、なぜ、クールベの《画家のアトリエ》が展示拒否され、ドラクロワの作品が展示されたのかがわかってきます。

 同じように政治的課題を題材としながら、クールベの作品では現状分析にとどまり、未来が見えてきません。それに対し、ドラクロワの作品は、悲惨な現実を描きながら、未来に対する可能性や希望が感じられるからでしょう。

 ナポレオン三世は1855年パリ万博を開催するに際し、フランスならではの新機軸を打ち出し、価値創出を企図していました。フランスらしく、美術作品のために独立した展示会場を設けたのはそのためでした。

 だからこそ、当局は、題材はどのようなものであれ、未来に希望を感じさせる作品を求め、それを否定するような作品は、展示拒否したのではないかという気がします。

(2024/5/31  香取淳子)