今回は、まず、ナポレオン三世の産業振興政策を振り返り、その後、カイユボット家がどのような社会階層に位置づけられていたのかをみていくことにしましょう。
■ナポレオン三世の産業振興政策とカイユボット家
第二帝政期のフランスは、ナポレオン三世の産業振興政策が功を奏し、好景気に沸いていました。
ナポレオ三世は皇帝の座に就くと、早々に、公共事業と銀行改革に着手しました。公共事業とは、鉄道建設、港湾や道路の整備、パリ大改造(都市改革事業)などです。いずれも産業振興策の一環として進められました。
たとえば、鉄道は1850年から1870年にかけて、営業キロ数で6倍増にも達する勢いで敷設されました。鉄道が開通した結果、農業生産物や工業原料などの運搬が容易になり、沿線には、大規模な近代的な工場が次々と作られていきました。おかげで経済活動は活性化し、フランスもようやく産業化を推進するエンジンが回転しはじめました。
そのような動きの中で、カイユボットの父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)が、イエールに別荘を購入しました。1860年でした。ちょうど鉄道が敷設されて、イエールに駅ができ、パリから容易に出かけられるようになった頃です。
一家は夏になると、この別荘で過ごすようになります。建設ラッシュに沸くパリを離れ、自然の風景を楽しみながら、豊かな田園生活を味わうことができたのです。
前回、ご紹介したように、この別荘は凝った建築で、内装も豪華でした。帝政様式といわれる様式美を備えたものでした。その瀟洒な建物を包み込むように、広大な敷地が広がっており、何とも贅沢な別荘でした。財力に恵まれ、そのような物件情報を入手できる立場にいたからこそ、購入できたのでしょう。
カイユボットの父親は、軍服等の製造事業を継承していました。軍には軍服やシーツなど布製品を納入しており、豊かな事業経営者でした。しかも、セーヌ県商業裁判所の判事で、知識階級でした。実業家であり、裁判官でもあったのです。まさに、第二帝政を支えるエスタブリッシュメント側の一人でした。
国力を増強し、産業化を積極的に推進しようとするナポレオン三世の治世下で、カイユボットの父は、軍に関わる事業を行う一方、商行為や商取引に関する法務に携わっていました。時代を動かす根幹で仕事をしていたのです。
当時、フランスの金融は未発達のままで、産業化に対応できていませんでした。産業が発達するには、物資を運送のための鉄道網だけではなく、お金の流れをよくする商取引のための銀行の整備が不可欠でした。そこで、ナポレオン三世は新たに二種類の銀行を設立し、信用に基づく融資をしやすくしました。
1852年には、一般大衆の余裕資金を集め、産業に投資するための事業銀行を新しく設立しました。さらに、中小商工業者に役立つような銀行も設立しました。次々と着手された銀行改革の結果、大衆の資金を預金の形で吸い上げ、産業や国債に投資できるようにしたのです。
もちろん、信用融資を行うには、会社に関する法整備も不可欠でした。
ナポレオン三世は、1867年7月24日に新会社法を制定しましたが、当時、この新会社法には欠陥がいくつか指摘されており、長くは持たないと予想されていました。ところが、その後100年にもわたって、この新会社法は持ちこたえることができたのです(* 梅津博道、「ナポレオン三世の経済改革」、『北陸大学紀要』第30号、2006年、pp.103-104)。
多少、欠陥があったとしても、産業化社会の本質を踏まえ、さまざまな局面に対応できる内容だったからでしょう。
このようにナポレオン三世は、銀行改革と会社法改革を断行しました。その結果、企業と銀行が円滑に機能するようになり、フランス経済が順調に発展していったとされています(* 前掲、pp.103-104)。
ナポレオン三世は全権を掌握すると、着々とパリの大改造、交通インフラ、社会体制の整備、法の整備を進めました。その結果、停滞していたフランス経済は活性化し、国力も充実していきました。
そのような第二帝政下で、カイユボットの父親は、軍服製造事業者であり、セーヌ県の商業裁判所の判事でした。事業収入による経済力を持ち、新しい社会に必要な専門知識を持つ知識階級の一員でした。
王族でもなければ、貴族でもなく、軍人でもありませんが、財力と社会的地位を持ち、社会を動かすエスタブリッシュメント側にいました。カイユボット家は、産業化の進行とともに台頭してきた新興ブルジョワジーだったのです。
■資本主義システムのピラミッド
1911年にアメリカで出版された興味深い風刺画があります。
(* Nedeljkovich, Brashich, & Kuharich, 1911, the Industrial Worker)
資本主義システムの下での社会階層を描いた風刺画です。社会階層がピラミッド構造で形成されていることが、人物を通して具体的に示されています。この図は、1911年にアメリカの新聞“the Industrial Worker”に掲載されました。
社会階層を5つに分類し、少数者が多数を支配する構造を示しています。上から順に、「あなた方を支配する」、「あなた方を騙す」、「あなた方を撃つ」、「あなた方のために飲食する」、「すべての人々のために働く」、「すべての人々のために食料を作る」と、階層ごとに、それぞれの社会における働きと位置づけが端的に記されています。
王族など、ごく少数の支配階級を頂点に、人々の不平不満を鎮め、緩和する社会的装置としての聖職者層、反抗する人々を暴力的に鎮める軍人層、そして、産業化の進行とともに登場してきたのが新興ブルジョワジーです。図では、着飾った男女がテーブルを囲み、飲食を楽しむ光景が描かれています。
当時はまだブルジョワジーの社会的役割がよく見えていなかったのでしょうか、享楽的で自己中心的な光景が描かれています。
その下には、数多くの老若男女が、台座を辛そうに支えている姿が描かれています。スコップを持っている者がいれば、ハンマーを持つ者、旗を振る者もいます。女性たち、そして、子どもたちまで、台座が落ちてこないように、必死で支えています。
ブルジョワジーが飲食を楽しむ台座の下で、実際に肉体を駆使して働き、食料を生産し、さまざま製品を作っている人々がいることがいることが示されているのです。大勢の人々が辛そうな表情を浮かべ、必死になって、台座をささえているのが印象的です。
ふと見ると、その傍らには、子どもが倒れています。空腹だからでしょうか、それとも、病気なのでしょうか。大勢の人々の傍らに子どもが倒れているのです。ところが、ごく近くで子どもが倒れているというのに、誰も見向きもせず、必死になって台座を支えています。底辺を支える人々にとっては、自分が生きていくのに必死で、倒れている子どもなどかまっていられないという状況を描きたかったのでしょう。
この作品は、1901年に帝政ロシア社会を描いた風刺画を参考に描かれたといわれています。
(* Nicolas Lokhoff, 1901, the Union of Russian Socialists)
1911年のアメリカ風刺画と見比べてみると、それぞれの社会階層の捉え方は、ほぼ同じです。大きな違いといえば、ロシア版では黒い鷲であった頂点のシンボルが、アメリカ版ではドル袋になっていること、さらに、ロシア版では皇帝と皇后を最上位に、その下に行政機構のトップが3人描かれていますが、アメリカ版では君主を中心に、両側に貴族階級と行政のトップが描かれていることでした。
鷲はロシア帝国のシンボルなので、権力の象徴として描いたのでしょうし、ドル袋は、アメリカ社会の金融至上主義を象徴するものとして描かれたのかもしれません。いずれにしても、社会構造が、少数が多数を支配するという仕組みとして捉えられていることに変わりはありません。
興味深いのは、少数が多数の人々を支配するための社会的装置として、行政機構、聖職者、軍事組織が設定されていることでした。
日々、身体を酷使して働き、食料や様々な製品を作りだし、実際に社会を維持しているのは大多数の労働者です。彼らが不満を抱き、反抗しないよう、このような社会的装置によって支配されていることが、図では一目瞭然です。
実は、1901年のロシア版の元になった風刺画があります。
(* https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Pyramide_%C3%A0_renverser.jpg)
これは、ベルギーの労働党が、1900年の選挙運動中に、「Pyramide à renverser」(倒さなければならないピラミッド)というスローガンのもとで配布した風刺画です。
やはり社会階層が5つに分類されています。上から順に、「王族」、「宗教主義」、「軍国主義」、「資本主義」と記されており、最下段に、「人民」と書かれています。社会構造を捉える構成は、アメリカ版やロシア版とほぼ同じですが、「王族」と「人民」以外は、社会階層をイデオロギーによって説明している点が異なっています。選挙運動中のスローガンとして描かれたせいでしょうか。
イデオロギーで説明されているせいか、この図では、支配者層の力の源泉が、時代によって変化してきた過程が示されているようにも思えます。いつの世も、少数の支配階級が大多数の人民を支配するという構造は変わらないのですが、時代によって、中心となる支配力の源泉が変化することが示されているように思えるのです。
歴史を振り返ると、宗教の力が優勢であった時代があれば、もっぱら武力によって社会秩序が維持されていた時代、そして、資本力が優勢になっていった時代へと、社会が変遷していった過程が描かれているように見えるのです。
この図で「資本主義」と説明されている階層が、産業化の進行に伴い登場してきたブルジョワジーです。それまで支配者層であった聖職者や軍人とは違って、その役割を明確に示すことができなかったからでしょうか、この図では、太った男たちがタバコを吸い、グラスを傾けている姿が描かれているだけです。
おそらく、ブルジョワジーの社会的役割を可視化することがむずかしかったのでしょう。
この階層を、アメリカ版やロシア版では、着飾った男女が飲食している光景で表現していました。つまり、王族でも聖職者でもなく軍人でもないのに、肉体労働をすることなく、生活することができる階層が、産業化の進行とともに登場したことを示しているといえます。
産業化が進行して優勢になってきたのが、事業を経営する実業家であり、法律、会計、工学、などの専門知識を持つ階層でした。製品を開発し、市場に流通させて利潤を得、それを元手に再投資し、再び、製品を市場に流通させる循環システムに関わっている人々です。
資本主義社会では、彼らこそが新たに富を稼ぎ出す階層として浮上してきたのです。
ベルギーの選挙運動のチラシが1900年、そして、ロシア版の風刺画が1901年、それを踏まえたアメリカ版の風刺画が1911年に制作されました。利便性と豊かさを求めた産業化が進行するにつれ、実は、経済格差を生み出し、社会的不平等を拡大させていくことが明らかになりつつあった頃でした。
カイユボットの父親は、フランスの産業化が軌道に乗り始めた頃、軍に製品を卸す実業家として富を築き、その一方で、商業裁判所の判事としても活躍しました。
■新興ブルジョワジーが求めた文化
イギリスに比べ、出遅れていた産業化を推進するために、さまざまな改革を進め、帝国主義の覇権争いにも加わろうとしていたのが、ナポレオン三世でした。カイユボットの父親はおそらく、そのような時代の最先端で仕事をしていたのでしょう。新興ブルジョワジーとして財産を成し、裁判官として社会的地位を得ていました。
パリでは新興ブルジョワジーの文化が花開きはじめました。裕福な市民の間では、華美で贅沢な様式の文化が好まれました。それは、度重なる革命で失われた宮廷文化への追慕ともいえるものでした。そのころのブルジョワジーには独自の文化といえるものはなく、前時代の上流階級の模倣にすぎませんでした。
産業振興政策のおかげで、フランスの産業は発展し、豊かな市民階級、すなわちブルジョワジーの裾野が広がっていきました。彼らは自由主義を賛美し、科学技術を信奉し、新しいものへの挑戦を好みました。その一方で、旧態依然とした権力には反発しました。
経済が活性化していくのにともない、新興階級の間で旺盛な消費需要が生まれ、過熱化したあげく、やがて投資ブームを引き起こしたほどでした。
ブルジョワジーの台頭と軌を一にするように、絵画界では印象派の画家たちが登場してきました。彼らは、アカデミズムに反発し、見たまま、感じたままを表現することに価値を見出しました。伝統にとらわれない自由な発想を大切にし、自身の感性を拠り所にしたのです。
自由を好み、変革を恐れず、新しいことに挑戦しようとする彼らの姿勢は、ブルジョワジーに通じるものがありました。ブルジョワジーといい、印象派の画家たちといい、第二帝政期とともに登場してきた新しい階層の中には、当時の社会を牽引してきた時代精神をみることができます。
産業革命による技術革新が、時代を大きく変えようとしていました。そのうねりに敏感な人々が、新たな富裕層になり、新たな表現活動を展開していったのではないかと思います。
カイユボットの父親は明らかに、当時の社会を動かしてきた側の人物でした。
前回、イエールの別荘をご紹介しましたが、寝室やリビングの調度品に、宮廷文化の名残がみられるのが印象的でした。絢爛豪華な家具や置物に囲まれて、特権階級ならではの優越感、快適さを堪能していたのでしょう。カイユボットの父親の美意識や生活価値観は、帝政時代から離れることはありませんでした。
カイユボットの父親は、パリでも新しく邸宅を建てました。パリ市が、高級住宅地として造成したミロメニル通りに、新しい邸宅を建てたのです。
それでは。その家をご紹介しましょう。
■パリの邸宅
1866年に、一家は、ミロメニル通り77番地にある邸宅に引っ越しました、カイユボットが18歳の時です。転居先は、ヨーロッパ橋からほど近く、リスボン通りの交差点にありました。辺りは、上流階級の住宅地として新たに造成された地区でした(*Wikipedia)。
現存するようですから、写真をご紹介しましょう。外観を見る限り、洗練された、素晴らしい建物です。
(* 『アートを楽しむ section 3』(アーティゾン美術館、2023年2月25日、p.7)
美しく、瀟洒で、いかにも新興ブルジョワジーが好みそうな建物です。時代を牽引していたブルジョワジーの一員として、
カイユボットの父親 は、高揚感に駆られていたのでしょう。建物の外観から、その気持ちが透けて見えます。
彼は1866年にパリ市からこの土地を購入し、1866年11月に竣工しました。
イエールに別荘を購入してから、わずか6年後のことでした。時代の最先端を行くような気分になっていたのかもしれません。カイユボットの父親は、高級住宅地として造成されたこの土地に家を建て、一家はミロメニル通りに引っ越してきました。
当時、パリでは、古い街路や街並みが次々と壊され、新しく整備して建て直されていました。その一方で、新たな街区が造成され、上流ブルジョワジーが居住する区域が造られました。
パリの街全体が、清潔で機能的で、美しく、洗練された様相に変貌を遂げている最中でした。不潔で汚い街路や建物が破壊され、造りかえられていくパリの街の中に、富裕層のための一角が設けられたのです。
見るからに瀟洒なこの邸宅は当時、社交界の中心になっていたようです。
この邸宅で開催された舞踏会の様子を、カイユボットの友人の画家ベローが描いていました。この邸宅の内部がどのようなものであったのか、そして、パリの社交界でどのような役割を果たしていたのか、作品を通して当時の様子を推察することができます。
ジャン・べロー(Jean Béraud, 1849 – 1935)は、1878年に《舞踏会》という作品を制作していますが、その背景となったのが、カイユボットの父が建てたパリの邸宅だといわれているのです。
まずは、この作品を見ていくことにしましょう。
●ジャン・べロー(Jean Béraud)制作、《舞踏会》(Un soirée、1878年)
ジャン・ベローは、パリの街頭風景やカフェ、市民生活の様子などを好んで描いたことで知られる画家です。その彼が珍しく、舞踏会の様子を描いた作品を残しています。それが、《舞踏会》という作品です。
(油彩、カンヴァス、65.1×116.8㎝、1878年、オルセー美術館蔵)
この作品は、1878年の官展で展示されました。出品時のタイトルは《舞踏会》でしたが、 古いラベルには「カイユボット邸の夜」と書かれていたそうです。なぜ、二つのタイトルが存在していたのか、しばらく、わからなかったそうですが、その後、この作品が、カイユボット邸で開催された舞踏会を描いたものだということがわかりました。
なぜ、わかったかというと、画面に描かれていた室内の一部が、母親の死後(1878年11月)に作られたカイユボット家の財産目録の記述と一致していたからでした(*http://caillebotte.net/blog/family/67 )。
父親は1874年に亡くなり、その4年後に母親が亡くなりました。母の死後、作成された財産目録によって、この作品の舞台が当時のカイユボット邸だということが確認されたのです。
舞踏会の会場として描かれたこの部屋が、カイユボット邸だったことが明らかになりました。その後、 カイユボット が画家として知られるようになると、この作品は、《 カイユボット邸 の夜 》と呼ばれることが多くなったそうです(*前掲、URL )。
経歴を調べてみると、カイユボットとベローには接点がありました。
カイユボットは普仏戦争から帰還した後、レオン・ボナ(Léon Bonnat、1833-1922)の画塾に通って、油彩画の基本を学びはじめました。そこで、共に学んでいたのが、ジャン・ベローだったのです。二人は1873年に、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)に入学し、本格的に油彩画を学びました。
カイユボットとベローは共に、普仏戦争からの帰還後、ボナの下で油彩画の勉強を始めていたのです。大学では法律を学び、普仏戦争を経て、画家を志すようになったという点でも共通していました。
ベローもカイユボットと同様、法律を学んでいながら弁護士にならず、普仏戦争から帰還した後、絵の道に転向していたのです。同じような経歴をたどり、最終的に人生を絵画に捧げた仲間の一人でした。だからこそ、パリのこの邸宅にも自由に出入りすることができたのでしょう。
カイユボットの邸宅で開催された舞踏会に参加しながらも、ベローはどうやら、遠慮しながら筆を執っていたようです。それは、俯瞰するようなモチーフとの距離の取り方でわかります。大きく距離を取って参加者たちを捉え、一種の風物として描いているのです。
ベローの父親は彫刻家でした。ロシアのサンクトベルクで生まれ、4歳の時に亡くなったので、家族はパリに戻ってきました。 法律を学びましたが、戦争から帰還後、画家を志すようになったという経歴です。
舞踏会に参加しても、場違いなものを感じていたのかもしれません。個々の人物の焦点を当てることはなく、ドレスの色彩を中心の会場の流れを描き、舞踏会の雰囲気を表現しています。
■カイユボットとベロー
カイユボットは、せっかくエコール・デ・ボザールに入学しながら、あまり登校しなかったようです。もはや学ぶべきものはないと判断したからでしょうか、それとも、単に興味が持てなくなったからでしょうか。
そこで、履歴を見ると、カイユボットは1873年にエコール・デ・ボザールに入学していますが、翌年の1874年に父親が亡くなっています。父親の莫大な遺産を引き継いでおり、もはや画家として身を立てていく必要はありませんでした。 まだ26歳でしたが、趣味として絵画に関わり、周辺の画家を支援する立場になっていたのです。
一方、ベローはエコール・デ・ボザールでしっかりと2年間学び、修了後はモンマルトルでスタジオを開いています。画家として生計を立てていく必要があったからでした。
画家として食べていくには、自身の絵画世界を創り上げなければなりません。独自の世界をどう創り上げていくか、模索していたのでしょう。
ベローは、パリの市街やカフェなどを舞台に、市民階級の人々の生活風景を好んで描きました。いわゆる市井の人々の日常の光景を取り上げ、画題にしていましたが、モチーフに対する眼差しが温かいのです。
たとえば、《シャンゼリゼ通りのグルップ洋菓子店》(La Pâtisserie Gloppe au Champs-Élysées)という作品があります。
(油彩、カンヴァス、38×53㎝、1889年、カルナヴァレ美術館蔵)
ビュッフェ形式の洋菓子店で、コーヒーや洋菓子を楽しむ老若男女が描かれています。手を伸ばしてケーキを取ろうとしている子どもや女性、立ったまま語りあう男女、小さなテーブルを囲んで語り合う女性たち、いずれも幸せそうな表情で菓子を手にしています。当時のパリ市民の生活の一端がうかがえる作品です。
彼が描いた作品の多くは、このようにパリ市民の生活風景が題材になっていました。この作品も、都会の生活シーンが生き生きと捉えられています。大改造されたパリの街が、いかに人々が楽しめる街に変貌していたか、当時の様子が手に取るようにわかります。
さきほどご紹介した《舞踏会》には、そのようなベローの作品傾向とは、やや異質な雰囲気があります。市井の人々を描いた作品とは違って、対象を見る眼差しがよそよそしい感じがするのです。
改めて作品を見直してみると、室内の様子や調度品などと人々に対する距離の取り方が同じなのです。 男性は黒の礼装、女性は華やかな色のドレスを着用といった具合に、参加者の衣装は丁寧に描かれていますが、それは、まさに調度品を見る眼差しでした。
せっかくの舞踏会に参加していながら、ベローはその輪に入ることなく、ひたすら観察していたことがわかります。豪華な室内とフォーマルで華やかな衣装に身を包んだ男女を、ただ観察の対象としてだけ捉えていたのでしょう。
ベローは、華やかな舞踏会の真っただ中にいながら、その雰囲気に巻き込まれることなく、冷静に、客観的なタッチで対象を捉えていました。街頭あるいはカフェで市井の人々を生き生きと捉えたまなざしとは明らかに異なっていました。
《舞踏会》の画面からよそよそしさを感じさせられたのは、おそらく、そのせいでしょうが、そこに、ベローの画家としてのスタンスが感じられるような気がします。
(2024/9/30 香取淳子)