■「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展の開催
東京都美術館で今、「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展が開催されています。開催期間は2024年11月16日から2025年1月8日までで、8人の画家の作品が、ギャラリーA、Cで展示されています。
まず、展覧会のチラシをご紹介することにしましょう。
チラシの表紙には、展示作品の一つ、《いつもの此の道》(芝康弘、2017年)が採用され、その上に8人の画家の名前と所属、その右に展覧会のタイトル「記憶のなかの景色」が記されています。
該当部分を拡大してみましょう。
表紙の画面に採用された《いつもの此の道》は、多くの日本人から、「ノスタルジア」の感情を引き出す典型的な光景の一つといえるでしょう。かつてはどこでも見受けられた里山の風景の一環であり、人里と人が住まない自然との結節点でもあった風景です。
柔らかな陽射しに照らされ、畔の草が輝き、木の葉が風にそよいでいます。右手に田んぼがあり、左手にため池があるような場所で、子どもたちが虫取りをしています。ひたすら虫を追ってきたのに、ふいに行方がわからなくなったのか、二人ともやや呆然として立ち尽くしています。
はるか遠い子どものころ、見慣れた光景の一つです。自然の営みと隣り合わせで人々は暮らしており、子どもたちもまたそのような環境の中で遊び、学んでいた時代でした。
柔らかな陽射しが、辺り一面を優しく包み込み、この風景そのものがまるでタイムカプセルに入れられてでもいるかのように見えます。あらためで、もはや二度と手に入れることのできない光景だということを強く認識させられます。心の奥底から、ふつふつとノスタルジーの感情が湧き上がってくるのを覚え、切ない気持ちに襲われてしまいます。
そういえば、この展覧会の開催趣旨は、8人の画家たちの作品を通して、ノスタルジアという複雑な感情が持っている意味と可能性を探るというものでした。
果たして、絵画は見る者の心の奥底に潜む「ノスタルジア」の感情をどのように覚醒させ、喚起するのでしょうか。展示作品を通して、考えてみることにしたいと思います。
私は12月7日に東京都美術館に出かけ、展示作品を鑑賞してきました。ところが、その後、風邪をひいて発熱が長引き、回復に時間がかかってしまいました。
ここでは、発熱後3週間を経てもなお印象深く思えた作品を取り上げてみたいと思います。
■発熱3週間後もなお印象深い作品
発熱3週間後も経てば、会場で鑑賞した時の印象はいつしか薄れ、引き続き、心を締め付けられるような思いにさせられた作品は以下の数点でした。
《蓮田》(阿部達也、2021年)、《六月の詩》(芝康弘、2011年)、《epoch》一部(玉虫良次、2019‐2023)、《友》(近藤オリガ、2018年)、等々です。
見てすぐに感情がかき立てられる作品もあれば、時間をかけて心に落ち、ゆっくりと発酵してから情感が湧き上がってくるような作品もありました。いずれも心が強く揺さぶられ、切ない気持ちにさせられる作品ばかりでした。
これらの作品は、いくつかに分類することができますが、まずは、阿部達也氏の《蓮田(茨城県かすみがうら)》、そして、芝康弘氏の《六月の詩》から見ていくことにしましょう。いずれも画面がそのままストレートに見る者の情感を刺激する作品です。
たとえば、《蓮田》の場合、風景そのものが巨大な感傷を誘う力を持ち合わせています。実際にこの光景を見たことがある者、そうでない者にも等しく、一定の感情を喚起させるだけの訴求力があります。
また、《6月の詩》は、光景そのものがしみじみとした気持ちにさせてくれます。子どものころ、このような経験をした者はいるでしょうし、このような光景を見かけた者もいるでしょう。この光景は、ある年代以上の日本人にとっては共通して経験していた光景であり、普遍的なものでした。都市化が進む以前、どこでも身近に見られた光景であり、誰もが追体験できる光景だったのです。
この作品から覚醒させられるのは、懐かしさであり、この光景がもたらす幸せの感覚でしょう。いずれももはや手に入れることのできないものです。
それでは、風景や光景のどの要素が見る者に作用しているのでしょうか。
■風景や光景がもつ訴求力
まず、阿部竜也氏の作品から見ていくことにしましょう。
●阿部達也氏《蓮田(茨城県かすみがうら)》
阿部達也氏が出品された10作品のうち、私がもっともノスタルジーを感じさせられたのは、この作品でした。
(油彩、カンヴァス、50.0×72.2㎝、2021年、作家蔵)
画面中ほどに地平線が設定されており、地平線近くは黄色がかった色で、そこから上は白い雲のようなものが空を覆い、上空に近づくと、青くなっています。地平線周辺が明るく輝いているのは、おそらく、立ち昇る朝陽のせいでしょう。
地平線から手前は蓮田が広がり、どこまでも続く蓮田の水面に陽光がきらめいています。逆光のせいか、蓮の葉は黒っぽく描かれており、枯れているようにも見えます。広い蓮田に葉がまばらに散在しており、寂寥感が漂っています。
見ているだけで、胸がしめつけられるような感傷を覚えさせられる光景でした。これまで蓮田を見たことがなかったにもかかわらず、私は、この作品を見て、深いノスタルジーを感じてしまったのです。
おそらく、画面に透明感があり、寂寥感があったからでしょう。その透き通るような寂寞感に、私は心が打たれました。改めて、ノスタルジーには、透明感と寂寥感がつきものだということを感じさせられました。
そして、思い出したのが、阿部氏が風景画を手掛けるきっかけとなったエピソードでした。
阿部達也氏は、画家になりたてのころ、人物画を描いていましたが、やがて行き詰ってしまったそうです。そんな時、たまたま、携帯で夕日を撮影している女性を見かけ、啓示を得ました。図録の中で次のように述べています。
「人が心を動かされるものは、どこか遠くや、自分の内面を底までさらわなくても、身近なところにいくらでもあったことに気づいたのです。それからの私の制作方針は、写真で撮ってきた風景を、なるべくそのままに、個人的感情を差し込まないように描くことになりました。(中略)みる人によってその人なりの感情を込めて見られるような、余白の大きな、広い絵を私は描きたいのです」(※ 図録『ノスタルジア、―記憶の中の景色』p.18)
ご紹介した作品は、阿部氏が現地で写真を撮り、それをそのままカンヴァスに置き換えたものでした。もちろん、どのアングルで風景を捉えるのか、どの瞬間にシャッターを切るのか、一瞬を捉えた写真の中に、阿部氏の選択があり、世界観や美意識が反映されていることはいうまでもありません。
この蓮田が阿部氏にとって既知の風景だったのかどうかわかりませんが、少なくとも、この瞬間の蓮田を美しいと感じられたのでしょう。
そして、阿部氏がカンヴァスに描きとったこの作品を、私もまた美しいと思い、心を締め付けられるような気持ちになりました。感動が伝播する過程に立ち会うことができました。
これこそ風景がもつ訴求力の一つなのでしょうし、ひょっとしたら、集合無意識のような反応の一つといえるものなのかもしれません。
次に芝康弘氏の《六月の詩》を見てみましょう。
●芝康弘氏の《六月の詩》
芝康弘氏が出品された7点のうち、私がもっともノスタルジーを感じたのは《六月の詩》でした。
(紙本彩色、162×162㎝、2011年、東京オベラシティアートギャラリー蔵)
画面に吸い寄せられるように見てしまいました。子どものころ、経験したことがあるような光景であり、いつかどこかで見たことのあるような光景でもありました。画面を見ていると、いまにも子どもたちの話声が聞こえてきそうな気がします。
子どもたちの衣服はもちろん、田んぼの稲や畔の草、どれも優しく丁寧に描かれています。柔らかく、周囲全体を包み込むような色調が、二度と戻ってこない過去をオブラートでくるんでいるように思えます。こちらは、心が締め付けられるというよりはむしろ懐かしく、幸福感を伴う追憶の気持ちで満たされます。
透明感のある色調が、過ぎ去った時間の浄化を表し、そこはかとない寂寥感を生み出しています。このような風景も、このような子どもたちの遊びも、もはや二度と手に入れられないものになってしまっているのです。そのことに気づくと、一見、ほのぼのとして見えるこの作品に限りないノスタルジーを感じてしまいます。
人は、刻々と変化する時間や空間を制御することもできないまま、「今」を生き、「今いる空間」を生きていることのむなしさを感じさせられます。
阿部氏も、芝氏も描き方はきわめて写実的です。だからこそ、画面が直接的に見る者の気持ちに訴えかけることができたのでしょう。風景や光景そのものが抜群の訴求力を持っている場合、写実的に描くことこそが、見る者の気持ちを動かし、ノスタルジーの思いに耽らせることがわかります。
■奇妙な感覚を喚起させられた作品
展示作品の中には、その前に立つと、奇妙な感覚に襲われざるをえない作品がありました。それが、「ノスタルジア」といえる感情なのかどうか、わかりませんが、なんとも不思議な感覚が喚起されます。
たとえば、玉虫良次氏の《epoch》です。一つの壁面をほぼ占拠するほど巨大な作品でした。これまで見たこともない作品ですが、どこかで見たことがあるようにも思える作品です。
巨大すぎて、ごく一部分しか、ご紹介できませんが、この作品の場合、一部も全体もその印象が大きく変わることはないように思えます。作品の一部は、全体であり、一部を知れば、全体を把握することができるような構造になっているからです。
それでは、作品を見ていくことにしましょう。
●玉虫良次氏の《epoch》
194×1590㎝の巨大な大きさの作品で、2019年から2023年にかけて制作されました。ここでは、その一部分をご紹介することにしましょう。
(油彩、カンヴァス、194×1590㎝の一部、2019‐2023年、作家蔵)
手前と左中ほどに路面電車が走り、右手にそびえるビルからは、人が大勢、登ったり降りたりしています。バルコニーにも大勢の人々がいて、身を乗り出すようにして下を見ています。
ビルから降りたすぐ先に、掲示板のようなものが設置されており、その前に人々が群がって覗き込んでいます。自治体か政府からなにかしら告知がされているのでしょう。このような光景を見ていると、日本ではなく、アジアのどこかの国の風景のように思えてきます。
見渡すと、青と白のストライプの庇をつけた小さなお店が、あちこちにあります。店内にお客がほとんどいないお店もあれば、大勢のお客を待たせているお店もあります。人々の日常生活をささえる食品等を販売しているのでしょう。必要なものを買い、不必要なものは買わないという様子が見て取れます。
街中に人があふれかえっていますが、おそらく、大勢の人々は生活に余裕がなく、その日暮らしなのでしょう。
子どもを抱いた母親、荷車を引く男性、ただ、突っ立っているだけの子ども・・・、あらゆる人々の生活行動がすべて、この街中で再現されているかのような光景です。所々に、自転車が放置され、野良犬が佇み、群れた人々が街のあちこちで散見されます。
彼らが何をしているのかといえば、掲示板を見つめ、人々の様子をうかがい、何をするというわけでもなく、ただ、群がっているだけでした。
こうしてみてくると、作者は、ある時代の日本社会を描こうとしていたのではないかという気がしてきます。というのも、この作品には、アジアの街で見られるような、人々の群がりの中で生み出される体臭のようなものまでも描かれているからでした。
たとえば、ご紹介した画面の手前部分を拡大してみましょう。
(※ 前掲一部分)
ベランダにいる人々を描いたものなのでしょうか。人々がひしめきあっている様子が描かれています。互いに触れ合いそうなほど至近距離に、老若男女がいて、何をするわけでもなく、群がっているのです。しかも、彼らの顔は、老いも若きも男性も女性もみな、赤茶けた顔色で描かれています。
ここには、汚れや体臭を気にすることもなく、必死に生きようとする人々が描かれています。ただひたすら生き抜くことを目指して日々、群れの中で暮らしていることがすぐにもわかるような絵柄です。
このような光景は、いまではごく一部の世代の人々の記憶に残っているだけでしょう。貴重な光景であり、もはや二度と見ることのできない光景の一つといえるでしょう。
玉虫氏は、自身の子どものころについて、次のように記しています。
「旧中山道沿いにある小さな商店街、借家の用品雑貨店での立ち退きになるまでの10年位の日常生活、家が狭くてのんびりして居られず、暗くなるまで外で過ごし、親より近所にある色々な店の人々の中で育ったような気がする」(※ 前掲、p.94)
いまでは、ここで描かれたような光景を二度と見ることはできないでしょう。ここで描かれているのは、戦後復興期の日本社会の一端であり、必死に生き延びようとする人々の強烈なエネルギーです。プライバシーや清潔感などいっこうに気にすることもなく、人々はひたすら時代の動きを把握し、貪欲に生きていこうとしていた時代でした。
この作品からは街の匂い、当時の人々の体臭すら感じとることができます。もはや見ることはできず、経験することもできない時代の記憶が、この作品には表現されていました。
■特定の時間、空間と結びついた「ノスタルジア」の感情
こうしてみてくると、「ノスタルジア」の感情は、特定の時間や時期、特定の場所に結び付いた風景であり、光景であり、状況だということがわかります。もはや二度と見ることができないという思いが、「ノスタルジア」の感情をさらに強化していることも理解できます。
特定の「時空」と結びついた一回性の感情だからこそ、哀切感や寂寥感、哀惜感が付随し、複雑な情感を醸成するのでしょう。
今回、ご紹介した《蓮田》にしても、《六月の詩》にしても、《epoch》にしても、それらの作品が喚起する「ノスタルジア」には、さまざまな情感が付随していました。そこには、作品と見る者との間に、目に見えない交流があり、その交流によって作品世界がさらに豊かなものになっていく過程も含まれています。
絵画を発信源とする影響過程とでもいえるものが、会場内でループしていたといってもいいかもしれません。おそらく、主催者側が想定した展覧会の趣旨の射程距離はそのようなものだったのでしょう。
ところが、会場の一角に、近藤オリガ氏の作品が展示されることによって、展覧会がさらに豊かなものになっていたような気がします。というのも、近藤オリガ氏の出品作品は一目で他の展示作品とはことなっていたからです。
近藤オリガ氏の作品には、どれも清らかな透明感が漲っていました。この世のものとも思えない、清らかさ、無垢、そして、どこにも帰属しないことからくる解放感、時空の枠組みではとらえられない自由・・・、といったようなものが画面からあふれていたのです。
作品の前に立つと、奇妙な感情が湧き上がってくるのが感じられます。捉えどころのない感情のようでいて、その実、どこかでしっかりと経験したことがあるようなデジャブ感もあります。
近藤オリガ氏の一連の作品からは、それまでとはちがって、時空を超えた「ノスタルジア」とでもいえるような感情が喚起されたのです。
■時空を超えた「ノスタルジア」
興味深いのは、近藤オリガ氏の作品です。展示作品6点のどれもが深い憂いと哀しみに満ちており、見る者の心を打ちます。題材は異なっても、魂の根源にまで洞察の及んだ画面が、時空を超えた世界に誘ってくれるからでしょう。
できるだけ筆触を残さず、滑らかにリアルに描かれた幻想空間が、見る者の心の奥深くを刺激します。そこから派生した感覚を、「ノスタルジア」と表現していいのかどうかわかりませんが、少なくとも、哀切感、寂寥感は強く感じさせられました。
一連の展示作品のうち、ことさらにその種の感情を刺激されたのが、近藤オリガ氏の《友》でした。
ご紹介していくことにしましょう。
●近藤オリガ氏の《友》
近藤オリガ氏の作品は6点、展示されていました。いずれも時空の軸がなく、無重力空間に存在しているような構成が印象的でした。なかでも、空間のレイアウトが独特で、印象に残ったのが、《友》でした。
(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2018年、作家蔵)
遠方に連なる山並みに抱かれるように身を横たえ、静かにまどろむ子どもの姿が、画面中ほどに描かれています。子どもは片手をだらりと垂らし、意識なく眠っているように見えます。その下には犬が横たわり、まるで子どもを守る番犬のように、寝そべったまま鋭い眼光をこちらに向けています。
この犬は、まさに、子どもにとって忠実な《友》でした。
大空の雲間から漏れ出た光が、寝そべる子どもを照らし出した後、にらみつける犬をくっきりと浮き彫りにしています。本来なら、番犬は隠れて子どもを警護しているはずですが、ここでは、まるでスポットライトを当てられたかのように、その存在を露わにしています。
犬が寝そべっているのは、子どもの真下です。まるで二段ベッドの上と下にそれぞれ居場所を作っているかのように見えます。もちろん、二段ベッドがあるわけではなく、床はおろか、壁すらもありません。
とにかく奇妙な空間でした。
はるか遠方に山並みが広がっており、雲間から陽光が射し込んでいます。それが大気を照らし、山を照らし、寝入っている子どもの顔や手足を照らし出しています。その明るさの余波を受けて、犬のいる空間の視認性が高くなっていることがわかります。
興味深いことに、山並みを描いた遠景と、子どもと犬が描かれた近景との間に中景がありません。はるか遠くの山々を照らし出していた陽光が、いきなり、子どもの寝姿を照らし出すという非現実的な設定になっているのです。
このように、画面上で距離の圧縮が行われる一方、壁や床といった居場所の基準となる要素が描かれていません。いってみれば、座標軸が省かれたところで、子どもがうたた寝をし、犬が寝そべっている姿が描かれているのです。
座標軸が設定されていないせいか、子どもも犬も、無重力空間に浮いているように見えます。これまでに見たことのない光景であり、絵柄でした。それなのに、見ていると、心が締め付けられるような感情が湧き上がってきます。まさに、「ノスタルジア」といってもいいような感情でした。
かつて経験したことのある光景でもなければ、見たことのある風景でもありません。それなのに、なぜ、心の奥深く、感情が刺激されたのでしょうか。
ふと思いついて、図録から近藤オリガ氏の言葉を探してみました。何か手がかりを得られるのではないかと考えたからでした。
近藤オリガ氏は、次のように記していました。
「ノスタルジアは私にとってはタイムマシンです。幼き頃見ていた自然の風景、心の風景全てが記憶の底にあり、スイッチが入ると、マシンに乗って何時でも懐かしい記憶の世界に戻ることができます。例えば、玄関先に座って父を待つ自分や、両親と一緒に月を眺めている自分の姿も現れてきます」(※ 図録、前掲、pp95-96)
それにしても不思議な空間でした。
かつて見た光景ではなく、かつて生きた世界でもないのに、どういうわけか、ノスタルジーとでも表現できるような感覚が呼び覚まされるのです。見ているだけで切なく、愛おしく、そして、心が痛みます。
描かれた世界が重力のない幻想空間だったということからは、ひょっとしたら、胎内空間へのノスタルジーが呼び覚まされたのかもしれせん。
いずれにせよ、近藤オリガ氏の作品が加わることによって、この展覧会に豊かさが加味されました。「ノスタルジア」を喚起するものは決して、特定の場所や時間や時代と結びついたものだけではないことが明らかにされたのです。とても興味深い展覧会でした。(2024/12/30 香取淳子)