■マルタ館の建設費未払い
次々と起こる建設代金未払い問題が、マルタ館でも発生していました。下請け会社のI社は、約1億2千万円の未払いを抱え、現在、東京地裁に提訴しています。
2024年12月、マルタ館の工事は、外資系元請けのG社、一次下請けのS建設、I社が協議して、開始されました。G社は仮設物建築のスペシャリストで、世界中で万博やスポーツ大会の仮設物を作ってきた実績があります。内装工事を請け負ったI社の社長は当初、「こんな大きな会社と仕事ができるなんてすごい」と喜んでいたといいます。
ところが、G社は協議の場でも平面図2枚しか渡さず、内装についてもほとんど指示を出しませんでした。G社のやり方に不安を感じたのか、1月末に、S建設と3次下請け業者は撤退してしまいました。以後、すべての責任がI社にのしかかってきたのです。
マルタ館は、パビリオンの中ではもっとも遅く着工したので、工期が短く、しかも、図面は現場で何度も変更され、困難を極める仕事内容でした。それでもI社は不眠不休で働き、開幕までにマルタ館の工事を完了させました。ところが、元請けのG社は1億2千万円にも上る建設代金を支払っていないというのです。(※ http://www.labornetjp.org/news/2025/0617expo)
それでは、I社が苦労して完成させたマルタ館をご紹介しましょう。

(※ https://www.expo2025.or.jp/official-participant/malta/)
まず、やや湾曲した石造り風の壁面が、目につきます。自然石の素材感と洗練されたデザイン性が、なんとも印象的です。壁面の前には水が湛えられ、背後から光を受けると、石の壁や大きな木が水面に照らし出されるよう設計されています。光と水面を巧みに利用し、幻想的な雰囲気が醸し出されているのです。
この素晴らしいパビリオンを、I社は、たった2枚の平面図を渡されただけで、完成させたのです。現場では、何度も設計変更を要求されたといいます。外国人とのやり取りの中で、コミュニケーションがスムーズにいかないことも多々、あったでしょう。それでもI社は開幕までに工事を完了させました。その責任感は、さすが日本の建設会社だといわざるをえません。ところが、その対価が支払われていないのです。
マルタ館については、11分48秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。
こちら → https://youtu.be/xybFRSzM3X0
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この動画を見ていて、わかったことがあります。それは、正面の湾曲した壁面が、昼間はスクリーンとして活用されていたことです。

(※ 前掲の公式動画から)
大きなスクリーンに広大な海が映し出されています。入り口で並んでいる来場者たちは、まるで海の中に佇んでいるような気持ちになっていたにちがいありません。これは、マルタが地中海に浮かぶ小島であることを、来場者に直感的に理解させる仕掛けだといえます。
はたして、マルタはどのような国なのでしょうか。
■マルタ共和国とは?
古来、さまざまな勢力や国から支配されてきたマルタは、1974年12月13日、イギリスから独立し、マルタ共和国となりました。イタリアのシチリア島の南に位置し、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島など3つの島々から構成されています。面積は316平方キロメートルで、東京23区の面積の約半分の大きさです。
マルタの全体像が分かるような地図を探してみました。

(※ https://ritoful.com/archives/20113)
左が地中海での各国の位置関係を示す地図、右が3つの島から成るマルタ共和国の地図です。
左の地図を見ると、マルタがイタリアのシチリア半島のごく近くに位置し、北アフリカのチュニジアにも近いことがわかります。イタリア、チュニジア、ギリシャ、トルコ、エジプトに挟まれ、地中海に浮かんでいる小さな島国が、マルタ共和国でした。
マルタはまさに地中海の要衝の地なのです。
右の地図を見ると、マルタ共和国は、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島などから構成されており、一番大きいマルタ島に、首都ヴァレッタが置かれているのがわかります。
ヴァレッタの写真がありますので、見てみることにしましょう。

(※ https://diamond.jp/articles/-/345221)
コバルト色をした地中海のまっただ中に、石造りの建物が海の際まで建てられているのが見えます。まさに要塞都市ですが、これが、マルタ共和国の首都、ヴァレッタです。ここに、マルタの地政学上の特徴をみることができます。
地中海の真ん中に浮かぶマルタは、古来、さまざま勢力から侵略され、支配されてきました。1530年になると、聖ヨハネ騎士団がマルタを拠点に活動しはじめました。彼らはやがて、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。
これに危機感をおぼえたオスマン帝国は1565年、4万もの大軍を率いて、マルタを攻撃してきました。マルタ騎士団はわずか8千程度の兵力で、4ヶ月間、これに抵抗していました。そのうち、カトリック教国側の援軍がマルタに到着すると、オスマン軍はたちまち撤退していったという事件がありました。
この襲撃に懲りたマルタは、翌1566年、防衛のために新たな要塞都市の建設に着手しました。出来上がった都市は、当時のマルタ騎士団の団長ラ・ヴァレットの名前に因み、ヴァレッタと名付けられました。マルタは、防衛を最優先させなければならないほど、地政学上のリスクが高い地域だったのです。
実際、古代からさまざまな民族がマルタを通り、上陸し、支配しては、去っていきました。その結果、この小さな島には、数多くの遺跡が残され、多様な民俗文化が根付いています。
■マルタに残された、世界遺産の数々
マルタには、新石器時代から人間が生活していたといわれ、マルタ島やゴゾ島には約30の、神殿と思われる巨石建造物が残されています。そのうち、ゴゾ島のジュガンティーヤ神殿は、1980年に世界遺産に認定されました。
その後、マルタ島でも5つの巨石神殿が発見されました。これらが追加登録されて、ジュガンティーヤ神殿 を含む神殿群は、1992年にマルタの巨石神殿群と名称変更されました。
こちら → https://www.mtajapan.com/heritage
ここでは、ジュガンティーヤ神殿の他に、ハジャーイム神殿、イムナイドラ神殿、タルシーン神殿などが紹介されています。風化が進み、現在は巨大なテントで覆われていますが、神殿内部の見学は可能で、一般公開されているそうです。
これらの巨石遺跡に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。
こちら → https://youtu.be/0OD7W2qMRhA
(※ CMはスキップするか、削除してください)
興味深いことに、島内の各所に平行に穿たれた2本の溝の跡が残されています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Misra%C4%A7_G%C4%A7ar_il-Kbir)
この溝は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、水路だという説と、神殿などに石を運ぶためのレールだという説があります。
カート・ラッツと呼ばれる2本の平行線が、島の至る所に見られます。その一方、まるでジャンクションのように穿たれた石の溝も残されています。

(※ 前掲URL)
こちらは、まるで鉄道のポイントのように見えます。このような分岐点が所々に存在していることから、マルタには、古代の運送の痕跡がそのまま残されているといえます。
先ほどいいましたように、ヴァレッタは港を見下ろす格好で、シベラスの丘の上に建造されています。まさに石造りの城塞都市です。そして、このヴァレッタの街そのものも世界遺産に登録されているのです。

(※ Wikipedia)
11世紀の以降のさまざまな様式の建造物が、ヴァレッタには残されています。バロック建築、マニエリスム建築、近代建築、新古典主義建築などです。これらの多様な建築様式の建造物もまた、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。
こうしてみてくると、マルタが地中海の要衝の地だからこそ、さまざまな文化が堆積してきたことがわかります。もちろん、東洋と西洋をつなぐ交通の結節点にもなっていたでしょう。
実は、幕末の日本人が、このマルタを訪れていた痕跡が残されていたのです。
■マルタ館で展示された日本の甲冑
地中海のマルタと縁があったとは、とうてい思えないのに、マルタのパビリオンに、日本の甲冑が展示されていました。向かって左が西洋の鎧、右が日本の甲冑です。東西の武具が並べて展示されていたのです。

(※ マルタパビリオンの動画より)
この甲冑は、2015年にマルタの武器庫で発見されたといいます。幕府がヨーロッパに派遣した使節団が、マルタに贈呈したものでした。1862年に欧州を訪れる途中、使節団はマルタに立ち寄っていました。その際、マルタから大歓迎された使節団が、その返礼として、甲冑を贈っていたのです。
発見された時点で、すでに150年以上も経ていた甲冑です。当然のことながら、経年劣化が進み、欠損した箇所も目立つようになっていました。劣化部分や欠損部分については、京都美術品修復所が、1年半かけて修復を完了させました。2025年3月22日、読売新聞は、修復が終わった甲冑が、将軍家ゆかりの光雲寺で披露されたことを伝えていました。

(※ 読売新聞、2025年3月23日)
使節団がマルタに贈ったのは、甲冑3点でした。それらが修理され、そのうち1点が、今回、マルタのパビリオンで展示されているのです。家老級の武士が身につける鉄製の高級甲冑だといいます。

(※ マルタパビリオンの動画より)
たしかに、磨きこまれ、黒光りしている甲冑には、重々しい威厳と凛とした美しさがあります。なるほど、家老級の武士が身につける甲冑なのだと納得させられました。
アンドレ・スピテリ駐日大使は「万博で甲冑を見て、マルタと日本の歴史的なつながりを感じてほしい」と話しています(※ 読売新聞、2025年3月23日)。
■遣欧使節団はなぜ、マルタに立ち寄ったのか?
江戸幕府は、文久元年(1862年)にヨーロッパに使節団を派遣しました。1858年に交わされたオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約のうち、新潟・兵庫の開港および江戸・大坂の開市の延期交渉、そして、樺太の国境画定交渉を進めるためでした。
文久元年12月22日、(1862年1月21日)、幕府の使節団は、イギリス海軍の蒸気フリゲート艦、オーディン号(HMS Odin)に乗船し、欧州に向かいました。
一行の渡欧経路を見ると、品川港を出発し、長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領を経てエジプト・スエズに上陸し、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出た後、再び船に乗って地中海を渡り、英領マルタを経て、4月3日にマルセイユに入っていました。
フランスのマルセイユに入る前の3月28日、使節団は、たしかにマルタ島のヴァレッタに立ち寄っていたのです。
一行が、なぜ、エジプトのアレクキサンドリアから直接、マルセイユに行かず、マルタに立ち寄ったのかといえば、カイロ滞在時に、フランス行きの船を手配することができなかったからでした(※ 前掲、pp.47-48)。
当初の予定では、フランスを訪問するのが先でした。ところが、使節団一行をフランスに運ぶ船の手配ができず、ひとまず、イギリスの船でマルタまで行こうということになったのです。一行を運んだのは、イギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号でした。
当時、マルタは英領でした。イギリスは、1814年にマルタを支配下に置き、全盛期のイギリスを支えるための貿易、軍事上の重要な拠点にしていました。
使節団が見たヴァレッタの印象は次のようなものでした。
「マルタ島の印象は、全島がすべて岩で覆われた不毛の地のそれであった。とくに港の三方はみな城塞のようである」(※ 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、pp.49. 1989年、新潮社)
港に面したところはみな城塞のようだと書かれています。実際、ヴァレッタはマルタ騎士団によって、1566年に要塞都市に造りかえられていました。日本の武士の目に、石造りの街ヴァレッタが、堅固な要塞に見えたのは、当然のことだったのかもしれません。
■マルタに贈呈した甲冑
さて、ヒマラヤ号がヴァレッタに入港すると、一行は大歓迎されました。
「哨戒艇が六隻ばかり本船の周りにやって来て、護衛についた。それより三使は、日章旗を掲げた艀に乗り換え、セント・アングロ要塞から十五発の祝砲を受けながら上陸し、「ダンスフォード・ホテル」に入った」(※ 前掲、pp.49-50)。
ヒマラヤ号からは、まず、三使が、日章旗を掲げた艀に乗り換え、祝砲を受けながら、ヴァレッタ上陸しました。三使とは、「全権公使」のことで、竹内安徳(正使、56歳)、松平康直(副使、33歳)、京極高朗(目付、39歳)の三名を指します。使節一行の主要メンバーです。
一行は、これら三使の他に、事務方のトップである柴田剛中(組頭、46歳)をはじめ、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪ら、総勢36名で構成されていました。
三使と柴田剛中の4人が、パリで撮影された写真が残されています。ご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)
左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。
正使の竹内保徳は、箱館奉行に任じられた際は海防や開発に尽力し、外交や蝦夷地の事情にも通じていました。しかも、「君子風の良吏なりければ正使の価値を備へたる人物」といわれ、温厚篤実で、ものに動じることもなく、樺太境界の交渉には適任でした(※ 前掲、p.17)。
三使の中で、日本の伝統文化を貫き通したのは、副使の松平康直でした。洋行経験者から持参の必要はないといわれながらも、甲冑や槍などを持参することを主張し、その結果、三使だけは甲冑等の持参を許されたそうです(※ 前掲、p.19)。
もちろん、彼は渡航中も、日本の礼儀作法を固持していました。
幕府は、使節一行の渡航に際し、締盟六か国の国王や首相、政府高官に送る土産として、大量の漆器や甲冑を用意していましたが、ただ立ち寄っただけのマルタに、家老クラスの武士が着用する甲冑を3つも贈呈したのは、ひょっとしたら、副使の松平康直の意向が強く働いていたのかもしれません。
さて、ヴァレッタで三泊すると、一行は再び、ヒマラヤ号に乗って、フランスに入りました。しばらく滞在すると、今度はフランスの軍艦「コルス」に乗って、午前十時ごろイギリスに向かいます。ドーバーに着いたのが、1862年4月30日(文久2年4月2日)の午後1時ごろでした。
■使節団が見た、第2回ロンドン万博
翌1862年5月1日、ロンドンでは第2回万国博覧会が、サウスケンジントンにある王立園芸協会庭園の隣接地で開幕しました。この開会式には使節団の三使も招かれています。もちろん、使節団の面々も、ロンドン滞在中になんども万博会場に足を運びました。
万博会場を訪れた一行の姿を描いた図が残されています。

(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/086r.html)
羽織袴に刀を差し、物珍しそうにあちこち見てまわる使節一行の様子が描かれています。実際、見るもの、聞くものが目新しく、驚きに耐えなかったのでしょう。会場には、世界各国の物産が一堂に集められ、展示されていました。
出品された品目は、金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶、浮きドッグの模型、美術工芸品、銃砲など百種類を超えていました。使節団にとっては見たこともないものばかりでした。その会場の一角に、駐日公使オールコックが持ち込んだ日本の物産が展示されていました。
使節団の一人、高島祐啓は次のように記しています。
「日本ノ品ハ外国未曽有ノ奇物多トイヘトモ、惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ、各国ノ下ニ出シタルハ残念ナリト云フヘシ」(※ 前掲。p.78)
日本から出品されたものには、ガラクタが多く、見るに耐えなかったというのです。高島がガラクタと認識していたのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、草履などの日用品でした。英国人であるオールコックは、そのような日用品にも、展示価値があると判断したのでしょう。
■使節団は、第2回ロンドン万博で何を見たか?
イギリスはこの頃、カナダ、オーストラリア、ジャマイカ、エジプト、南アフリカ、インドやその周辺にまで勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していました。目論んでいたのは、技術格差に基づく交易による世界制覇でした。
当時、イギリス産の工業製品を、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などと取引し、暴利をむさぼるという形で各地に進出していました。自由貿易を掲げて、取引を行い、イギリスの権益を最大化していくという方法です。
たとえば、中国に対しては、1840年にアヘン戦争を起こして清朝を屈服させ、香港を獲得しました。さらに、太平天国の乱に乗じて、アロー戦争をしかけ、1860年に北京条約によって開港を増やし、権益を拡大しました。
このような帝国主義的手法によって、イギリスは世界各地に進出し、勢力圏を拡大させていたのです。いち早く産業革命を終えたイギリスならではの優位性によるものでした。イギリスの手法を学んだ欧米列強が引き続き、アジアに進出してきていました。
七つの海を支配し、大英帝国を築き上げたイギリスは、日本との交易を求め、鎖国下の日本を何度か訪れていました。使節一行がマルタに立ち寄ることになったのも、実は、幕末の混乱に乗じて列強と結ばされた条約の修正をめぐる交渉のためでした。
そして、使節団の欧州渡航の手配をしたのが、初代イギリス駐日公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809 – 1897)でした。幕府の窮地を見て取った彼は、ヨーロッパ締盟国に、開港開市延期についての親書を送り、合わせて使節団を派遣する旨を伝達すればどうかと幕府に提案しました。
この提案が受け入れられると、彼は、フランスをはじめ、交渉国とのスケジュール調整をし、渡航費用、滞在費などの分担交渉なども行いました。もちろん、ヨーロッパまでの航路も、香港、シンガポール、インド、エジプト、マルタといった具合に、すべて当時のイギリス領を経由したものでした。
使節団は、欧州渡航の行程で、イギリスの政治的力を見せつけられたでしょうし、ロンドン万博会場では、経済力の基礎となった技術力を見せつけられていたことでしょう。会場には蒸気機関、銃砲、浮きドッグの模型などが展示されていました。帝国主義時代を支え、産業化社会を進展させた技術の一端が披露されていたのです。
翻って、「大阪、関西万博2025」をみれば、「いのち輝く未来社会のデザイン」という総合テーマの下、披露されているのは、ロボット技術であり、生命技術、リサイクルシステムであり、自然エネルギー、等々です。
これらの技術がはたして、「いのち輝く未来社会」を約束してくれるものなのかどうか・・・。実際、ユスリカの大量発生では、万博会場設営のために夢洲の生態系が破壊されたことが明らかになりました。
新規技術の導入に際しては、技術単体の機能や効能を見るだけではなく、技術相互の影響や累積効果、間接的な影響等を見ていく必要があるでしょう。AIが一般化する時代の到来を迎え、これまではともすれば、なおざりにされてきた、総合的、全体的な観点から、技術を検証していく必要が高まってきていると思います。
(2025/7/1 香取淳子)