ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
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展示拒否された《オルナンの埋葬》について考えてみる。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたクールベの作品は、なにも《画家のアトリエ》だけではありませんでした。その5年前に制作された《オルナンの埋葬》もまた、門前払いされていたのです。

 そこで今回は、《オルナンの埋葬》を取り上げ、展示拒否の理由について考えてみたいと思います。

 まずは、《オルナンの埋葬》の画面から見ていくことにしましょう。

■《オルナンの埋葬》((Un enterrement à Ornans, 1849-1850)

 ギュスターヴ・クールベ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)が、1849年から1850年にかけて制作したのが、この作品です。

(油彩、カンヴァス、315×668㎝、1849‐1850年、オルセー美術館蔵)

 大勢の人々が葬式に集まっている光景が描かれています。中央に大きく穴が掘られ、その際で片膝をついた男が神父を見上げています。神父は厳かな表情で聖書を広げており、どうやらこれから埋葬が始まろうとしているところのようです。

 背後には荒涼とした風景が広がっています。夕刻なのでしょうか、それとも、未明なのでしょうか。陽が落ちた空はどんよりと暗く、まるで参列者の気持ちを代弁しているかのように見えます。

 画面右側には、黒い喪服を着た人々が参列しています。皆、一様に顔を伏せ、ハンカチを目に当てている人もいれば、鼻と口を覆っている人もいます。故人を悼み、哀しみに打ちひしがれている様子がうかがえます。

 全体に沈鬱な雰囲気が漂う中、白い布のせいで、ひときわ明るく見えるのが、画面の左側です。

 中でも際立って見えるのが、お棺に被せられている十字マークのついた白い布です。その周辺には二人の子どもがおり、いずれも白い服をまとい、赤茶色の帽子をつけています。手前の子どもは聖具を持ち、神父のすぐ後ろに続いています。もう一人の子どもは顔を上向けて、お棺をかつぐ人になにやら問いかけているようです。そのすぐ隣には、長い棒状の十字架を持つ人がおり、やはり白い服を着ています。

 この白い服を着た人たちは、どうやら、神父の手助けをして儀式を執り行う役割を担っているようです。

 十字架を持った人はやや上目づかいで、こちらを見ています。どういうわけか、画面の中でただ一人、鑑賞者と視線を合わせるように描かれ、何かを訴えかけているように見えます。彼が持つ十字架には、哀悼の標識のようにキリスト像が付けられています。

 画面左側のお棺を担いだ人々は皆、黒い帽子、黒い衣装を身に着け、肩から白いマフラーを垂らしています。顔を伏せているので、表情はよくわかりません。

 こうしてみてくると、埋葬へのかかわり方によって、身に着けた衣装の白と黒の配分の違いがあるように見えてきます。

 たとえば、黒い帽子をかぶり、黒い服の肩から白いマフラーをかけているのが、お棺をかついでいる人々です。そして、黒いチョッキの下に白いシャツを着たのが、墓穴を掘った人、黒いマントに白のふち飾りをつけたのが、神に祈りを捧げ、聖書を朗読する神父といった具合です。

 一方、白の割合の多い衣装をまとっているのが、聖具を持った子どもであり、十字架を持った神父の補佐役でした。子どもであれ、大人であれ、儀式に必要な聖具を携え、埋葬の儀式で重要な役割を負った人々です。

 彼らが、喪の色であり、純粋無垢の色であり、神聖な色でもある白の服をまとっているのは、そのためなのでしょう。

■参列者たち

 さて、白でもなければ黒でもない、赤茶色の服と帽子を身に着けた男が二人、中央に描かれています。帽子や服装からは聖職者ではないようですが、なんらかの役目を担っているように見えます。美術評論家のルービン(James Henry Rubin, 1944-)によれば、この二人は、教区の世話役なのだそうです(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店、2004年、p.78.)

 さらに、中央右寄りに、もう二人、白でも黒でもない衣装を身に着けた人物がいます。よく見ると、燕尾服です。黒ではありませんが、礼装として着用されるフォーマルな衣装です。傍らには白い猟犬もいます。いったい、どういう人物なのでしょうか。

 彼らについて、ルービンは、次のように説明していました。

「一世代前の身なりをした年長の男が二人いるが、彼らはウードとテスト双方の友人で、リベラルな共和主義の信念を共有していた」(* ルービン、前掲。p.76.)

 ウードとは、1848年8月に亡くなったクールベの祖父であり、テストとは、翌9月初めに亡くなった大叔父のクロード=エティエンヌ・テストです。ここに描かれた二人は、亡くなった祖父と大叔父の友人で、彼らとはリベラルな共和主義の信念を共有していたというのです。

 画面から、彼らが描かれている部分を抜き出してみましょう。

(* 前掲。部分)

 燕尾服の男が二人、膝までのズボンをはき、その下に、白や淡いグリーンのタイツを履いています。

 いつ頃の服装なのか、気になって、調べてみました。すると、時代ごとの変化が図示され、説明されているページが見つかりました。

(* https://oekaki-zukan.com/articles/12023

 上の図でみると、二人の友人たちが着用していたのは、まさに19世紀初頭の衣装でした。それ以前のものに比べ、襟が大きくなり、コートの前が短くなって、アクティブな感じがします。装飾性が薄れ、軍服のような印象です。

 調べてみると、確かにルービンがいうように、彼らが着ているのは一世代前の衣装でした。二人とも黒の山高帽子をかぶっていますから、礼服として着用していたのでしょう。

 そういえば、ルービンは、クールベの祖父も大叔父も、彼らと共和主義の信念を共有していたと書いていました。ひょっとしたら、古き良き第一共和政を偲び、敢えて、この時、着用していたのかもしれません。

 ルービンはさらに、二人の左側に立っている髭の男は、オルナンの村長で、その隣は、村では著名な法律家だと記しています。こうしてみると、オルナンの主要なメンバーが総出で、クールベの大叔父の埋葬に臨んでいたことがわかります。

■新しく造られた墓地での埋葬

 《オルナンの埋葬》は、縦315㎝、横668㎝にも及ぶ巨大な画面に、大勢の参列者を登場させた渾身の力作です。一人ひとり、丁寧に描かれており、当時の人が見れば、すぐにも誰なのか分かったに違いありません。

 完成させるのに、膨大なエネルギーを費やしたはずです。

 おそらく、相次いで身内を亡くした悲しみが、クールベの創作意欲をかき立てたのでしょう。あるいは、大叔父が、新しく町外れの造られた墓地に、初めて埋葬された人物になったせいでもあるかもしれません。

 大叔父は、町外れに新しく造られた墓地に、最初に埋葬された人物でした。画面からは、感傷的な思いを振り払い、見たままの光景をありのままに描こうとする姿勢が感じられます。クールベにとっては大きな出来事でしたが、個人的な思いを断ち切るようにして、この作品を描いているのです。

 画面を見ているうちに、ルービン(James Henry Rubin, 1944-)がこの作品について、ちょっと気になる指摘をしていたことを思い出しました。

 該当箇所を引用してみましょう。

 「亡くなった祖父の家の屋根裏部屋に設けたアトリエで、クールベは《オルナンの埋葬》を描き始めた。題名に不定冠詞を使うことによって、クールベはこの埋葬に対して特別な地位を主張しなかった。つまり、それは故郷の町における「ある埋葬」にすぎないのである」

(* ジェームズ・H・ルービン著、三浦篤訳、『クールベ』、岩波書店 、2004年、p.75.)

 改めて、この作品の原題を見ると、《Un enterrement à Ornans》となっていました。確かに、不定冠詞の「un」が付けられています。敢えて定冠詞を置かなかったところに、クールベの意図があるというのが、ルービンの解釈でした。

 これでは、大切な大叔父の埋葬が、まるで名もないオルナンの住民の埋葬のように見えてしまいます。もちろん、それを承知の上で、クールベは敢えて、タイトルに定冠詞を付けず、「Un」にしたのでしょう。

 それでは、クールベはなぜ、タイトルに定冠詞「le」を使わず、不定冠詞「un」を使ったのでしょうか。

■クールベの意図は何か?

 そもそも、クールベの父は、周辺3つの村を含めた地主で、オルナンにもブドウ畑と邸宅を所有していました。羽振りのいい地主だったのです。母はオルナンの地主の娘で、その父もまた地主であり、徴税吏でもありました。フランス大革命当時からの共和派で、自信家で粘り強く、魅力的な人物でした。クールベに少なからぬ影響を与えたといいます(* 稲葉繁美「ギュスターヴ・クールベ生涯と作品」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』1989年、p.148.)。

 このように、クールベの一族は代々、地元オルナンを含めた地域の富裕層であり、知識階級であり、名士でした。決して名もない一住民ではなかったのです。ところが、クールベは大叔父の埋葬を、オルナンの一住民の埋葬として作品化しました。

 いったい、なぜなのでしょうか。

 考えられる理由としては、大叔父が、町外れに新しく造られた墓地に、初めて埋葬された人物だったことです。

 墓地はそれまで居住区内に設置されていましたが、衛生改革の一環として、新たに町外れに設置されることになりました。ナポレオンがパリを対象に進めていた政策ですが、周辺にまで広がっていたのです。

 教会は当然、人里離れた場所に墓地を設置することに反対しました。旧来の考えに縛られた住民にとっても受け入れがたかったでしょう。埋葬に関わることなので、相当の意識変革が必要でした。

 ところが、クールベの大叔父の家族は、最初の埋葬者になることを受け入れました。私的な思いよりも公共の利益である、衛生改革を優先させたのです。それだけに、クールベは、大叔父の埋葬を貴重なものと捉えたに違いありません。

 オルナンで生き、そして、死を迎えた人が受け入れるべき埋葬例として、記録しておこうとしたのではないかという気がするのです。

 オルナンにとってはまさに、歴史的事件でした。

■オルナンの歴史として記録する

 人口の増加に伴い、大都市パリでは、衛生面の問題が多々発生するようになっていました。その一例が墓地です。

 たとえば、パリ中央市場に隣接したイノサン墓地には、亡くなった人々の遺体が放置されて悪臭を放ち、衛生面から大きな社会問題となっていました。1786年にようやく撤去され、パリ中心部に墓地を造ることが、衛生上の理由から禁止されるようになりました。その後、ナポレオンの指示によって、19世紀の始めには3つの新しい墓地が当時のパリの境界周辺に設置されました(* https://paris-rama.com/paris_history_culture/016.htm)。

 以来、パリでは、衛生改革の一環として、墓地の立地に規制がかけられるようになりました。墓地は居住区の外に設置しなければならないと法律で定められたのです。その後、パリに倣ってオルナンでも、町外れに墓地が新たに造られることになりました。

 オルナンは、パリの南東345キロメートルに位置しています。

オルナン

 中世から塩を運ぶ道の中継地点として、栄えてきた地域です。人の往来があり、歴史があり、伝統のある町でした。それだけに、新たな墓地の設置をめぐっては、町を二分する議論が交わされていたようです。

 これまでの伝統を守りたいという守旧派と、ナポレオンが進める衛生改革に倣おうとする改革派との間で、対立が起きていたのです。

 ルービンは、新しい墓地の設置をめぐる諍いについて、次のように記しています。

「その墓地の場所は、伝統的な統制を維持したいと考える地方の教会と、居住区域の外に墓地を置くことによってナポレオンの下で制度化された近代の衛生上の措置に従いたいとする、町の住民のより世俗的な分派とのあいだで争いの的となっていた」(* 前掲。p.75)

 訳語がわかりにくいですが、墓地を新たに居住区域外に設置することについて、地元の教会を中心とする勢力と、一部の先進的な住民たちとの間でもめていたようなのです。

 クールベの大叔父が新しく造られた墓地に埋葬されているので、最終的には、ナポレオンが進める衛生改革に従おうとする先進的な住民の意見が通ったことがわかります。決着したのが、画面で描かれている場所でした。

 改めて、《オルナンの埋葬》を見てみると、背景は明らかに郊外の風景でした。参列者の背後に、ほぼ無彩色の岩山が描かれており、なんとも殺風景で、荒涼とした雰囲気が漂っています。

 そもそもオルナンは、町の中心にルー川が流れ、その川向こうに、町を見下ろすように、岩山が広がっているような場所でした。

(* https://www.mmm-ginza.org/special/201110/special01.html

 クールベはこの地で生まれ、育ち、そして、絵画の手ほどきを受けました。パリに出て、画家になってからは、オルナンを画題にした作品をいくつも手がけています。オルナンへの思い入れが強かったことがうかがい知れます。

 そのオルナンで墓地が新しく造られ、初めて埋葬された人物が大叔父だったのです。クールベが、埋葬の場面を描いておこうと決意したのも不思議はありませんでした。

■大叔父を悼む

 大叔父への哀悼の気持ちを表現したかったのでしょうし、なによりも、オルナンで生まれ育った人間として、強い創作衝動に駆られたのではないかと思います。

 そう思えるのが、クールベのモチーフの取り上げ方であり、描き方です。参列者が実に詳細に、写実的に描かれています。実際にこの絵の前に立って、画面を見たとしたら、まるでその場にいあわせているかのような錯覚を覚えたに違いありません。

 ルービンによれば、《オルナンの埋葬》で描かれた人物は、すべてオルナンの住民でした。しかも、50人ほどの人々がほぼ等身大で描かれており、当時の人が見れば、すぐ誰だとわかるほどリアルに描写されていたようです。

 家族、友人、オルナンの名士たちがことごとく、取り上げられていたばかりか、亡き祖父ウードまでも、お棺をかつぐ人として描かれていました(* ルービン、前掲。pp.75-78.)。

 祖父だとされるのは、お棺に寄り添うように、すぐ脇に立ち、顔を左に向けて俯いている人物です。黒い帽子を目深にかぶっており、その表情はよくわかりませんが、ルービンによれば、これがひと月前に亡くなったクールベの祖父なのだそうです。

 すでに亡くなり、埋葬に参加できない祖父を、クールベは、大叔父のお棺を担ぐ人として登場させ、哀悼の意を表す機会を与えていたのです。

 タイトルに不定冠詞を使い、まるでクールベとは関わりのない一住民のような扱いをしながら、実は、さり気なく、見る人が見ればわかるといった体で、大叔父へのオマージュを捧げていたのです。

 こうしてみると、《オルナンの埋葬》には、クールベの、家族や親族に対する想い、オルナンの地そのものへの想いが込められていることがわかります。実際、写実的に描かれた画面からは、そのような深い情感が満ち溢れていたのでしょう。

 扱ったモチーフの数の多さといい、画面の巨大さといい、《オルナンの埋葬》は確かに、オルナンで発生した一大事件を記録した大作でした。まさに、オルナンの歴史画ともいえるものだったのです。

 この作品は当時、スキャンダラスな作品だとして、話題を呼びました。

 巨大な画面に埋葬の光景が描かれ、名もない群集がほぼ等身大で多数、描かれていたからです。しかも、クールベは、遠近法、陰影法を無視し、ありのままの光景を美化せず、理想化せず、写実的に描きました。

 モチーフといい、画題といい、画面の大きさといい、画法といい、すべてが当時の美術界のルールから逸脱していました。まさにアカデミズムへの挑戦といえるものでした。

 一方、この作品は、美術界ばかりではなく、為政者たちをも刺激していたに違いありません。

 ちょうど、この頃、クールベはたて続けに、話題作を制作しています。そのきっかけとなったのが、《オルナンの食休み》でした。振り返ってみることにしましょう。

■《オルナンの食休み》(L’Après-dîner à Ornans)

 クールベは長い間、サロンに出品しても、なかなか受賞することができませんでした。ところが、1849年6月15日に開催されたサロンでは、出品した11点の作品のうち7点が入選しています。ほとんどがオルナンの生家近くの風景を描いたものでした。

 入選した中の1点が《オルナンの食休み》で、これは2等賞を受賞しました。

(油彩、カンヴァス、195×257㎝、1848‐49年、リール美術館蔵)

 この作品は、国家の買い上げとなり、リール美術館に収められました。これによって、クールベはその後、無鑑査の特権を享受することになりました。その後は、落選の憂き目を見ることもなく、出品作品を自由に展示できることになったのです。

 この作品を見たドラクロワは、「誰にも依存せず、前触れもなく出現した革命家」とクールベを称し、アングルは、「過度の資質ゆえに芸術そのものからもはみ出してしまった」と評しています(* 稲葉繁美編、「ギュスターヴ・クールベ 生涯と作品 年譜」、『ギュスターヴ・クールベ展カタログ』、1989年、p.149)

 当時、画壇の大御所であったロマン派のドラクロワは、クールベを美術界の革命家と呼び、新古典派のアングルは、有り余る才能ゆえに芸術からはみ出してしまったと評していたのです。両者の評価からは、クールベの作品が当時の画壇では異質であり、評価の対象にならなかったことが示されています。

 実際、これまでのサロンであれば、決して受賞できなかったような作品でした。

■臨時政府下のサロンで2等賞

 1848年のサロンは、二月革命直後の3月に開催されました。王政を倒して樹立された臨時政府の下で開催されたのです。臨時政府は、過激派であれ穏健派であれ、共和主義者で構成されており、5月4日に憲法制定国民会議が開催されるまで続きました。

 サロンが開催されたのは革命直後でしたから、臨時政府はおそらく、過激派が多数を占めていたのでしょう。そのせいか、この時のサロンは無審査で行われました。

 実は、それまでのサロンは審査基準が狭量で、一部の画家たちの不興を買っていました。ドーミエ、テオドール・ルソーなどは1847年、サロンとは別の独立した展覧会を組織する決議をしていたほどでした。

 そのような画家たちの動きを踏まえたものか、それとも、出品しさえすれば、どんな作品でも展示されるべきだという過激な共和主義者の考えに基づいたものなのか、理由はよくわかりませんが、この時のサロンは無審査でした。

 その結果、クールベは出品作品10点すべてを展覧することができました。ところが、それは、他の画家も同様で、この時のサロンの展示点数は5500点にも及ぶことになって、混乱をきわめました。

 玉石混交の作品の中で、目クールベの作品が目立つことはなく、話題を呼ぶこともありませんでした。興味深いことに、クールベは、父親に送った手紙の中で、「共和政は芸術家に最適の政体ではない」と書いています(* 稲葉、前掲。p.149)

 クールベはおそらく、審査がなくどんな作品でも展示されるという仕組みは、優れた作品を選び出す機能をもっていないと言いたかったのでしょう。

 その反省から、1849年のサロンでは、審査が復活されています。

 出品者たちが選出した審査委員で構成された委員会が、鑑査を行うという方式が採用されたのです。より多様な作品を選出するという点では、以前の審査方法より優れていました。

 新たな審査方式の下、クールベが出品した11点のうち7点が入選しました。そのうちの1点が、2等賞を受賞した《オルナンの食休み》だったというわけです。

 ようやくクールベの作品世界に日が差してきました。

■新しい写実主義

 クールベの作品は、これまでサロンを牛耳ってきたアカデミーや一般大衆から受け入れられることはありませんでした。たいていの作品が、スキャンダラスな作品として罵倒され、異様な作品だと評され、退けられてきたのです。

 労働者あるいは庶民の生活を画題にし、対象を美化せず、理想化せず、ありのままに描いていたからでした。

 クールベの作品に多少は理解を示していたドラクロワでさえ、「羊の群れにとびこんできたオオカミ」と表現し、異端児扱いをしていたのです(* 清水正和、「19世紀パリ近代化と芸術家たちの対応」、『甲南女子大学研究紀要』35号、1999年、p.65)。

 当時、クールベの作品そのものが、アカデミーに対する挑戦だったのです。

 その後、クールベは《石割り》(Les Casseurs de pierre)を制作しています。

(油彩、カンヴァス、165×259㎝、1849年、1945年に爆撃を受けて焼失)

 こちらもまた、大きな作品です。一人の男がハンマーを持って石を割り、もう一人の男が割られた石をザルに入れて運んでいます。一人は帽子をかぶり、もう一人は後ろ向きになっているので、二人の顔は見えません。

 顔が見えないだけに、彼らの所作が強く印象づけられます。その所作の中に、労働の過酷さが滲み出ています。

 たとえば、膝をついてハンマーを打ち下ろす姿には、疲れが見えますし、膝でザルを支えながら、割られた石を運ぶ後姿には、労働の過酷さが見えます。オルナンの岩山で仕事をしているのでしょうか、山際には陰がありますが、二人の男が作業している場所には、陽が照り付けています。

 サロンで入選して以来、たて続けに描いた作品はいずれも、このような労働者の生活の一端を捉えたものでした。アカデミックな美術界にはない画題です。オルナンを舞台に発表した作品からは、この頃、クールベは自身の絵画世界を確立しつつあったように思えます。

 画壇の主流であった新古典主義やロマン主義に抗い、新たな写実主義を打ち立てようとしていたのです。

■なぜ展示拒否されたのか

 審査方式が変わった後、2等賞を受賞したのが、《オルナンの食休み》でした。それに続き、《石割り》、《オルナンの埋葬》とクールベは、故郷をモチーフに作品を制作してきました。いずれも二月革命直後に制作されており、労働者が社会の表舞台に出てきてからの作品です。

 それまでにはなかった作風だと評価されるようになり、新たな潮流を作り出しました。いずれの作品も、描かれたモチーフや情景に社会が反映されていました。そして、モチーフとして取り上げられた労働者たちの所作や表情の中に、労働の過酷さや疲労感、希望のなさが浮き彫りにされていたのです。

 クールベはこれらの作品を通して、名もない人々の哀歌を奏でようとしていたように思えます。モチーフはなんであれ、画面には、生きることの意味を問い、生き続けることの価値を問う深いメッセージが込められていたのです。

 ご紹介した三つの作品に違いがあるとすれば、それは、描かれた人物の人数の多寡でした。

 《オルナンの食休み》と《石割り》は、労働後の休憩時であれ、労働中であれ、生活苦が彼らの所作を通して描かれていました。モチーフの数は、2人から4人です。

 ところが、《オルナンの埋葬》の場合、圧倒的多数の人物が、ほぼ等身大で描かれていました。すべて名もない庶民の群像です。それまで絵画で描かれたこともなければ、もちろん、描く価値があるとも思われなかったモチーフです。

 しかも、遠近法を無視し、陰影法も気にせず、アカデミックな技法から逸れた描き方でした。

 ただ、画面に力がありました。描かれた人物や情景が放つエネルギーが、それまでの絵画にはない魅力を放っていました。

 もちろん、それに気づく人もいれば、気づかない人もいたでしょう。気づいたとしても、ほとんどの人がそれを的確に言語化できなかったのではないかと思います。

 たとえば、当時の大御所、ドラクロワは、クールベの絵が放つ力に気づいていましたが、長年にわたって刷り込まれた固定観念から、
「羊の群れにとびこんできたオオカミ」 と表現するしかありませんでした。

 そして、為政者たちはこの作品に、ドラクロワがいう「羊の群れにとびこんできたオオカミ」を感じたのではないかという気がします。つまり、危険を感じ、恐怖を覚えたのです。

 登場人物の数が多ければ多いほど、画面から放たれるエネルギーは強くなります。

 1855年のパリ万博で展示拒否されたのは、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》でした。おそらく、膨大な登場人物が発散する巨大な生のエネルギーが、為政者に危険を感じさせ、恐怖を覚えさせたのではないかと思うのです。

 《オルナンの埋葬》が描かれたのは、二月革命の後でした。民衆であれ、知識階級であれ、新しい社会を求めて、人々が立ち上がった時期でした。それらの人々の力によって、王政は倒されました。為政者たちは、名もない人々、生活苦にあえいでいる人々が群集化すると危険だということをよく知っていました。

 彼らが等身大の庶民が多数、描かれた作品を見て、恐怖を覚えたとしても無理はありませんでした。

 権力に抵抗し、人としての尊厳や自由を求め、新たな世界を切り開こうとしていた時代だったからこそ、為政者たちは、人々が群れ集まることを恐れました。群集になると、人は容易に狂暴化することを経験していたからでした。

 もちろん、アカデミックなルールを無視したクールベの画法が、為政者に社会秩序の混乱を連想させ、恐怖心をかき立てたとも考えられます。

 こうしてみてくると、クールベの二つの作品が展示拒否されたのは、アカデミックな画法を踏まえずに、多数の人物を名もない人々を取り上げ、写実的に描いていたからではないかという気がします。(2024/6/21 香取淳子)

クールベの作品はなぜ、1855年のパリ万博で展示拒否されたのか?

■1855年のパリ万博

 初めての万国博覧会は、1851年にロンドンで開催されました。それに刺激されて、ナポレオン三世が開催を決意したのがパリ万博(1855年5月15日~11月15日)です。このパリ万博では、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、本格的な美術展示が行われました。万博としては初めてのことでした。

 フランスならではの独自性を加えて、万博に新機軸を打ち出し、価値の創出を図ったのでしょう。

 美術品を展示するために、本格的なパビリオンを設置した理由について、ナポレオン三世は次のように述べています。

  「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』、pp.123-124.)

 ナポレオン三世は、万博会場に本格的な美術品の展示スペースを設けることを、フランスの義務とまで言っているのです。 1855年パリ万博で、本格的な展示スペースが設けられることになったのはフランスで開催されたからだといえるかもしれません。

■万博に美術セクション

 このパリ万博から、美術部門は飛躍的に拡充され、万博の大きな呼び物の一つとなりました。「産業の祭典」から「芸術と産業の祭典」へと変身したのです。主会場のシャンゼリゼ大通りに隣接した「産業宮」とセーヌ河畔の「機械館」に加え、モンテーニュ大通りに面した場所に、2万平方メートルの展示室を持つ「美術宮」(通称モンテーニュ宮)が建てられました。

 それに伴い、恒例の「サロン」展は中止され、すべての作品展示はこの万博美術展に集約されることになりました。「美術宮」を万博会場に設置することによって、美術を通したフランスの国威発揚の場が創り出されたのです。

 そこでは主に 、ドラクロワ、アングルなど、当時の画壇の巨匠たちの作品が展示されました。

 たとえば、ドラクロワの《アルジェの女たち》、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》などです。

 

 一方、出品しても、審査員から展示拒否された作品もありました。

 たとえば、クールベはこの時、13点の作品を万博事務局に提出していましたが、そのうち、《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》は展示を拒否されています。

■抗議のため、個展を開催

 クールベはこれに抗議し、「レアリスム」というタイトルの個展を自己資金で開催しました。万博の美術会場と同じモンターニュ通りに、この個展会場を設け、40点余りの自作を一般に公開しました(*https://www.chiba-muse.or.jp/ART/Courbet/index.html) 。

(* https://j6rsyq3ia6hq.blog.fc2.com/blog-entry-340.html

 建物の正面と横に、「EXPOSITION COURBET」の文字が見えます。まさにクールベの個展会場です。展示拒否されたクールベは万博開催期間中、ここで自身の作品を展示していたのです。

 当時、画家が自分の作品だけを展示した「個展」を開催する習慣はありませんでした。ですから、これが世界初の「個展」だといわれているのです(* https://www.artpedia.asia/gustave-courbet/)。

 興味深いことに、せっかく「個展」を開催したにもかかわらず、クールベの個展に見に来る人はほとんどいませんでした。入場料を半額に下げても、入場者は増えなかったそうです。

 ところが、画壇の大家であったドラクロアは、この作品について、「異様な傑作だ」と評価していたそうです(* https://www.y-history.net/appendix/wh1204-026.html

 果たして、どのような作品だったのでしょうか。

 それでは、クールベの《画家のアトリエ》から見ていくことにしましょう。

《画家のアトリエ》 (L’Atelier du peintre)

 

 クールベ ( Gustave Courbet, 1819 – 1877)は、スイス国境の小さな田舎町オルナンで生まれ、法学を学ぶためにパリに出てきましたが、途中で転向して画家になりました。フランスの第二共和制から第二帝政・第三共和政の時代に生き、「生まれながらの共和主義者」と自称していたようです。

 当時、画壇の主流であった古典主義やロマン主義の潮流には抗い、ありのままの現実を捉え、表現しようとする写実主義の流れの中にいる画家でした。

 《画家のアトリエ》は、クールベが36歳の時に制作された作品です。

(油彩、カンヴァス、361×598㎝、1855年、オルセー美術館蔵)

 

 画面には数多くの人々が描かれており、一見しただけでは何を描こうとしているのか、よくわかりません。まず、視線がひきつけられるのは、画面中央の右寄りに描かれたヌードモデルです。暗い画面の中でそこだけ白く、明るく描かれているので、つい、視線が引き寄せられてしまうのです。

 ところが、よく見ると、さまざまな風体の人物が描かれているのがわかります。それだけではなく、犬や骸骨、果ては、カンヴァス後ろの壁に、磔にされているような裸体の男性まで描かれています。

 異様なほどのモチーフの数の多さと乱雑にも思える多様さで、クールベは、いったい、何を伝えようとしているのでしょうか。

 しばらく画面を見ているうちに、一見、混沌として見える画面ですが、それなりの秩序にしたがって描かれているのではないかという気がしてきました。というのも、大勢の人々を描いた画面は、三つに部分で構成されているように見えてきたからです。

 ひょっとしたら、画面を分割して見ることが、この絵を理解するための手がかりになるのかもしれません。  

 まず、中心部分を抜き出してみましょう。

 暗い画面の中で唯一、明るい光が当たっている部分であり、何よりも、画家クールベが描かれているところです。

(* 前掲。部分)

 

 裸体のモデルは、脱ぎ捨てた衣服の端で身体の前を覆いながら、やや首をかしげ、画家の手元を見つめています。画家は筆を持った右腕を高く上げ、気取ったポーズでなにやら説明しているように見えます。足元近くでは、幼い子供がまっすぐに立ち、画家を見上げています。

 この一角だけを見れば、不自然だと感じることもなく、なんの違和感もありません。

 モデルの胸と臀部の乳白色の肌の輝き、裸身の前を隠すために手にした明るい衣服の裾の豪華さが、暗い色調の画面の中で際立って見えます。

 一方、右側に見える男性たちは一種の背景として捉えることができます。彼らの姿には画家と同質の雰囲気があり、連続性が感じられます。

 この箇所だけ見れば、モチーフのレイアウト、画面全体の色構成、明暗、遠近、いずれをとってもバランスの取れたいい作品といえます。足元でじゃれている猫の尻尾が太すぎて不自然なのが気になりますが、ヌードモデルを頂点に、手前に三角形の形で広がる淡い黄土色のジュータンを配置しているところ、バランスの取れた色構成になっていると思います。

 さて、この部分で描かれているモチーフは、左から、モデル(女性)、画家(男性)、子供の順で配置されています。年齢といい、性別といい、体形、姿勢といい、変化があって、バランスのいい組み合わせであり、配置になっています。そのせいか、モチーフが相互に立てられており、安定感のある構図です。

 男性と女性は至近距離で描かれ、親愛な様子がうかがえます。一方、子供はやや離れたところにまっすぐに立ち、自立しているようにも思えます。二人の男女を父と母に見立てれば、この三人は両親と子という関係に置き換えることができます。これは次代に続く家族の最小単位であり、これまた安定感があります。

 興味深いのは、女性はどう見ても絵のモデルにしか見えないのに、画家が描いているのは風景画だということです。しかも、筆を持つ画家の右腕の位置も不自然です。さらに、子供が見つめているのは、画家の手指ではなく、画家の顔です。

 こうして細かく見ると、一見、調和がとれ、安定感があるように見えた中心部分が、実は、なんともチグハグで、違和感があることに気づきます。

 次に、画面の右部分を取り出して、見てみることにしましょう。

(*前掲、右部分)

 ここでは、圧倒的に男性が多く描かれています。本を読んでいる人がいるかと思えば、真剣な表情で前方を見ている人もいます。全般に服装がきちんとし、顎鬚を生やし、それなりの地位のある人々のように見えます。

 手前の女性が羽織っているケープには光沢があり、奥の女性が来ている明るい色のワンピースはデザインがよく、良質の素材のように見えます。衣服からは、裕福な家の女性のように見えます。とくに手前の女性は艶のいい顔に生き生きとした表情を見せています。

 こうしてみると、右側部分で描かれている人々はどうやら、社会的地位もお金もあり、余裕のある生活をしている人々のように思えます。

 そう思って、再び、画面を見ると、手前の女性の足元に、腹ばいになって人が見えます。手に筆を持ち、絨毯の上に紙を広げ、なにやら書きつけています。眼鏡をかけており、年配の人物のようです。

 暗くてわかりにくいので、この人物を黄色の矢印で示しておきました。

(* 前掲、部分)

 立っている人、座っている人、それぞれが前方を見つめているのに、この人物は、周囲の人々に合わせることをせず、独自の世界に没入しています。周囲の人々もそれを黙認しているのが不思議です。

 そういえば、この部分で独自の世界に浸っているのがあと二人います。群れから離れて一人静かに本を読んでいる人、天窓から射し込む陽射しを浴びて、周りを気にせず、女性と戯れている人物です。

 こうしてみてくると、この部分で描かれている人々は二種類に大別されていることがわかります。社会のルールに従って生き、それなりの地位を得て、豊かに暮らしている多数の人々と、社会的秩序の中にいながら、自身の生き方を貫き、それが許されている3人といった違いです。

 それでは、左側に描かれた人々を見てみることにしましょう。

(* 前掲、部分)

 こちらは一見して、人々の表情に生気がありません。ほとんどすべての人がうなだれており、疲れ切って睡魔に襲われているように見えます。奥の方に異国の服装をしている人がいて、金色の布に包まれた何かを抱え、嘆き悲しんでいます。

 右側には、手前の黒い帽子をかぶった人は両手を膝に置き、うなだれています。よく見ると、頬に赤い血の跡が見えます。切り付けられたのでしょうか、頬から口にかけてかなり広い範囲で傷跡が残っています。その足元にはナイフが転がっているのが見えます。

 その人の隣に、骸骨のようなものが見えます。さらに、その前には、痛みを抑えるように脇腹に手を当て、ズボンも履かず、むき出しの足を出してくず折れるように膝をついている人がいます。そして、右奥の壁には、裸体の男性が、まるでキリストのように、磔の姿勢でつるされています。

 一方、左側には、軍人のような人もいれば、狩人のような人もいます。立っていられるだけの体力がある人々なのでしょう。それでも、ほとんどがうなだれています。貧困と傷害、苦難と痛苦しかないような人生がうかがえます。

 そのような悲惨な生活をうかがわせる人々の中で、唯一、前を向いている人物がいます。おそらく聖職者なのでしょう、抱えるようにして持っている本(聖書?)に手を置き、心配そうな表情を浮かべています。

 この部分で生気が感じられるのは、この聖職者と白のブチ犬だけです。この猟犬には攻撃性が見られ、状況に抗う姿勢が感じられます。この左側部分は全体に、暗く、沈鬱で、苦悩しか感じられません。

 再び、中央部分に戻ってみましょう。

 画家はモデルと語らいながら、呑気に風景を描いています。ところが、左側のモチーフからは、その巨大なカンヴァスの裏側には、悲惨な世界が横たわっていることが示されています。

 先ほどよりも少し範囲を広げ、中心部分と左右両側の一部を抜き出してみました。

(* 前掲、部分)

 明らかにこの世界の光と影が表現されていることがわかります。右側にいる人々が光に相当するとすれば、左側にいる人々は影に相当します。そして、絵を描く人も、文章を書く人も、本を読む人も、光の側に描かれています。

 クールベが、政治的、経済的、社会的に上位に立つ人々の中に、絵であれ、文章であれ、創作者を位置付けており、芸術や文学、哲学等を高く評価していることが示されています。

 一見すると、わかりにくかった《画家のアトリエ》でしたが、画面を3つに分割し、細部を見てから、全体を見直すと、改めて、非常に示唆深い作品だということがわかります。人生の深淵、世界の構造がこの作品の中にしっかりと描きこまれているのです。

 確かに、ドラクロアがいうように、この作品は「異様な傑作」でした。

 それでは、なせ、この作品が1855年パリ万博で展示拒否されたのでしょうか。それについて考えるには、パリ万博の当局が何を望んでいたかを知らなければなりません。

 このパリ万博で展示されていたのは、ドラクロワの《アルジェの女たち》であり、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 まずは、ドラクロアの《アルジェの女たち》を見てみることにしましょう。

■《アルジェの女たち》(Femmes d’Alger dans leur appartement)

 ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 – 1863)が、36歳の時に描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、180×229㎝、1834年、ファーブル美術館蔵)

 左上の窓からまばゆい光が入り込み、女性たちを照らし出しています。いずれも端整な顔立ちに白い肌、豊満な身体つきが印象的です。3人は思い思いの衣装を身につけ、イヤリング、ネックレス、髪飾り、指輪、アンクレットなどで着飾っています。

 左側の女性は端整な顔を正面に向け、右腕を肘置きについて、膝頭をそろえ横すわりになっています。真ん中の女性は胡坐をかいて座り、右側の女性は左膝を立て、右膝をついて座っています。

 座り方はさまざまですが、皆、裸足です。話し合うこともなく、物憂げな表情を浮かべています。水タバコを吸っていたのでしょうか、右の女性は水パイプの管を持っています。辺りには、けだるい雰囲気が漂っています。

 右端には、黒人女性が立ち去ろうとして振り向きざま、彼女たちを見下ろしている様子が描かれています。女性たちの世話係なのでしょうか、画面に描かれた4人の女性のうち、彼女だけはスリッパを履き、忙しそうに立ち働いているように見えます。

 この作品は、ドラクロワが実際にアルジェリアのハレムを訪れた経験に基づいて、描かれました。

 ハレムとは、イスラム世界において家屋内の女性専用の居場所を意味します。中東の都市生活の中で、女性を隔離する風習が厳格化していったのがハレムです。とくに、王侯貴族や富裕層の家庭でこの風習が顕著にみられましたが、中流以下では一夫一妻の家庭が普通でした。

 厳格なルールの下、女性たちの生活が拘束されていたのです。厳格なルールの一例をあげれば、素顔を見られても、罪とならないのは,女性の父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,および女性たちの奴隷たちだけでした。このようなハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風があるといわれています。(* 前嶋 信次、https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%A0-117620)。

 ドラクロワは中東文化に興味を抱いていましたが、1832年、フランス使節団の記録係として、モロッコ、スペイン、アルジェリアを訪れる機会を得ました。34歳の時でした。

 フランスは1830年6月、アルジェリアを植民地にしており、外交上、その西隣モロッコとの友好関係を樹立しておかなければなりませんでした。政治的必要性から使節団が派遣されたのですが、画家ドラクロワにとっては幸いでした。

 18世紀のナポレオンによるエジプト遠征以来、フランスでは東方への関心が高まっていました。画家たちは、東方の風俗や風景を描き始め、「オリエンタリズム」という流行現象が起こっていたほどです。

 ドラクロワも中近東や北アフリカなどのイスラム文化圏に憧れており、滞在中は、地中海の強烈な陽射しや鮮やかな色彩に歓喜し、寸暇を惜しんで風景や人物をスケッチしていました(* 高橋明也へのインタビューより。https://artscape.jp/study/art-achive/10176044_1982.html)。

 アルジェリアを訪れたドラクロワは、かねてから興味のあったハレムに、立ち入ることができました。ある船主のハレムに案内されたのです。ドラクロワは感極まって、「なんと美しいことだろう、まるでホメロスの時代のようだ」と叫んだといいます(* 前掲。URL)

 異国の風俗習慣を描いた作品が、なぜ、パリ万博で展示されたのでしょうか。しかも、万博開催よりも21年も前の作品です。

 考えられるのは、ドラクロワが大御所だったからだけではなく、当時の画家たちが憧れていた中東世界が華麗に表現されていたこと、フランスにとっては勝利を彷彿させる作品であったこと、等々に因るのではないでしょうか。アルジェリアはフランスが1830年に占領したばかりの国でした。

 フランスの優位を示すとともに、当時の人々の異国情緒をも満足させることのできる作品でした。実際、多くの画家たちが、異国情緒あふれたこの作品に刺激されました。

 たとえば、ルノワールは《アルジェリア風のパリの女たち》(1872年)を描き、ピカソは《アルジェの女たち(バージョン0)》(1955年)を描いています。

 敢えて21年も前の作品を展示したのは、この作品が当時、多くの鑑賞者を魅了する要素を備えていたからにほかなりません。

 さて、万博会場に展示されたのは、もう一方の大御所、アングルの《第一執政ナポレオン・ボナパルト》でした。

 それでは、見てみることにしましょう。

■《第一執政ナポレオン・ボナパルト》(Premier Consul Napoléon Bonaparte)

 アングル(Dominique Ingres, 1780~1867)が捉えたナポレオンの姿です。若く、雄々しく、壮麗です。

(油彩、カンヴァス、226×144㎝、1803‐1804、リージュ美術館蔵)

 ナポレオンが皇帝になる前、第1執政であったころの肖像画です。第1執政になったのは1799年11月、ブリュメールのクーデタによって総裁政府を打倒した後、執政政府を打ち立てた時です。軍事クーデタで政体が変更され、フランス革命は終わりを告げることになりました。

 これが、ナポレオンが独裁権力を掌握する第一歩となりました。

 いかにも凛々しく,精悍なナポレオンの立像を捉えています。アングルは新古典主義絵画の領袖らしく、美しく、毅然としたナポレオンを極めて精緻に描いています。威厳があり、権威の裏付けとしての正統性の感じられる姿といえます。

 アングルは数多くのナポレオン像を描いていますが、パリ万博に出品したのはこの作品でした。

 1799年の憲法制定後就いた第一執政の行政権は強く、ナポレオンはその専制的権力をもって財政確立のためにフランス銀行を設立し、行政、司法制度を改革し、警察力を強化しました。軍事的独裁体制を樹立したのです(* https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2310)。

 未来に向かって突き進んでいく、エネルギッシュな時の姿を描いているからでしょう。革命の意義を忘れず、フランスを強い国に導いていこうとする姿勢が敬愛されていた頃の姿です。

 実は、ナポレオンの肖像画は数多く描かれており、いかにも英雄らしい姿を描いたのはダヴィッド(Jacques Louis David, 1859~1890)でした。ナポレオン自身もダヴィッドの描く昭三画を好んでいたようでした。

 ところが、アングルの場合、ダヴィッドの描く雄々しさに加え、アカデミックが要求する精緻さと優雅さを添えていた点で、肖像画として含蓄のあるものになっていたといえるでしょう。

 そのような一味違う表現が可能だったのは、アングルのデッサン力によるものでした。彼のデッサン力は素晴らしく、近代絵画の巨匠の中でその右に出る者はいないといわれたほどでした(* https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/1981/post_20.html)。

 皇帝時代のナポレオンではなく、有り余るエネルギーをフランスのために使っていた頃の姿です。栄光にあふれ、フランスを導く勇士であり、強靭化しようとする指導者の姿です。

 ナポレオン三世が開催したパリ万博に、この作品が展示されるのは当然でした。

 ドラクロワの作品にしても、アングルの作品にしても、まさしく、ナポレオン三世が1855年という時期に開催したパリ万博で展示されるのにふさわしい作品だったことがわかります。

 両作品とも、フランスが領土を拡大していた時代を彷彿させる画題であり、権威を否定するものではなく、現実社会の暗部を見ようとするものでもありません。しかも、画風は、新古典主義であり、ロマン主義でした。現実を直視するのではなく、鑑賞者に、未来と希望を感じさせる作品だったのです。

■なぜ、クールベの《画家のアトリエ》は展示拒否されたのか

 先ほどもいいましたが、クールベの《画家のアトリエ》を見たドラクロワは、「異様な傑作」という表現で、評価していました。「異様」だけど、「傑作」だというのです。まさに言い得て妙、という気がします。

 当時、このような画題を作品化する画家はいなかったのでしょう、だから、「異様」と表現したのだと思います。ただ、画面には現実世界の真実が余すところなく表現されており、「傑作」としかいいようがない、というのが、ドラクロワの率直な感想だったのだと思います。ドラクロワには、この作品の優れた点がよくわかっていたのでしょう。

 さて、ドラクロワには《民衆を導く自由》(Liberty Leading the People)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、260×325㎝、1830年、ルーブル美術館蔵)

 これは、1830年7月革命を起こし、フランス国王シャルル10世を打倒したことを記念して制作された、とても有名な作品です。

 乳白色の胸を露わにした女性が、右手で三色旗を高く掲げ、左手に銃剣を握りしめ、倒れた人々を踏みつけ、つき進んでいく姿が描かれています。人々を鼓舞するかのように、後ろを振り返り、叱咤激励している雄々しい姿です。

 足元は死体の山になっており、多くの犠牲を払いながら、自由を求めて突き進む姿が表現されています。

 アングルのように英雄を描くのではなく、市井の女性を一種の女神として描いています。表現もアングルのような精緻さはありませんが、逆に、メッセージを伝える力は抜群です。訴求ポイントを的確に押さえ、ドラマティックに画面構成をしているからでしょう。

 描かれた世界は為政者を震え上がらせるものです。民衆の力の凄さ、犠牲をいとわず、自由を求めて突き進むエネルギー、そのようなものが画面いっぱいにあふれています。この作品は、悲惨な場面を描きながら、実は鑑賞者に勇気を与える結果になっています。

 こうしてみてくると、なぜ、クールベの《画家のアトリエ》が展示拒否され、ドラクロワの作品が展示されたのかがわかってきます。

 同じように政治的課題を題材としながら、クールベの作品では現状分析にとどまり、未来が見えてきません。それに対し、ドラクロワの作品は、悲惨な現実を描きながら、未来に対する可能性や希望が感じられるからでしょう。

 ナポレオン三世は1855年パリ万博を開催するに際し、フランスならではの新機軸を打ち出し、価値創出を企図していました。フランスらしく、美術作品のために独立した展示会場を設けたのはそのためでした。

 だからこそ、当局は、題材はどのようなものであれ、未来に希望を感じさせる作品を求め、それを否定するような作品は、展示拒否したのではないかという気がします。

(2024/5/31  香取淳子)

クルーズ事業は地域を潤す起爆剤になりうるか?

■様変わりした長崎駅の周辺

 2024年4月13日(土)、長崎を訪れました。久しぶりに見る長崎駅前はすっかり様変わりしていました。駅前が広くなり、駅舎をはじめアミュプラザなどが斬新なデザインの建物に変わっていたのです。人通りも増え、辺り一面に活気が溢れていたのには驚きました。想像もしていなかった変化でした。

 しかも、駅前はいまなお工事中です。

長崎駅前

 上の写真は、駅前の歩道橋から撮影したものです。手前にはクレーン車が置かれ、広い敷地がまだ工事中だということがわかります。これから一体、どのように変貌していくのでしょう。

 激変する景観の中で、これまでと変わらない佇まいを見せていたのが、ホテルニュー長崎でした。このホテルは、1998年3月11日に開業しており、26年の歴史があります。今回、1Fのテラスレストラン・ハイドレンジャで、かつての同僚二人と久々に会食を楽しむことになりました。

 一人は現職で、忙しいさなか、福岡からわざわざ会いに来てくれました。責任のある仕事をいくつも引き受け、それぞれ、大きな成果を上げていました。しばらく会わない間に天与の才が磨き込まれ、ますます輝きを見せるようになっていたのです。頼もしい限りでした。

 もう一人は退職後も引き続き、長崎に住み、日々の生活を楽しんでいる先輩です。食に目がなく、会食の場をホテルニュー長崎にしたのは、彼女の提案でした。駅に近く、フランスで修業を積んだシェフの料理がおいしいというのがお薦め理由です。シェフが変わってから、お客が増えたとも言っていました。

 確かに、お薦め通りの内容でした。

 厳選された食材、粋を凝らした調理、そして、料理を引き立てる食器、それぞれが見事に調和していました。見て快く、味わって美味しく、おまけに、目の前には緑豊かな情緒ある庭園が広がっていました。ガラス越しに眺めながら、完成度の高いコース料理を一品、一品、堪能することができたのです。会話がはずみ、時間を忘れてしまうほど楽しいひと時でした。

■長崎駅前で開業した世界トップクラスのホテル

 2日目の14日(日)は、駅に直結したマリオットホテルのレストランDeJimaで、鉄板焼きコース料理を楽しみました。このお店もやはり、彼女のお薦めです。エントランスの設えが優雅で、なんともいえない興趣がありました。

レストラン入口

 中央には、まるで来客を出迎えるように、古木を模したモニュメントが置かれています。

 こちらは、長崎牛をはじめ、ハタ、タイなどの鮮魚や長崎産の季節野菜、コメ(佐賀県産の農薬節減米)など、地元の素材を活かしたメニューでした。

 鉄板の上で巧みな手さばきをみせながら、シェフは食材について語り、調理法を語ってくれます。食材や調理法をめぐってシェフとの会話がはずみ、話題はやがて、長崎の歴史や文化にまで及びました。

 舌鼓を打ちながら食感を楽しみ、食談義を交わしているうちに、共に食の奥義を究めているような気分になります。作り手のシェフが食情報の発信者とするなら、向かい合って箸を進める私たちはその受信者といえます。まさに、鉄板を舞台とした食のエンターテイメントでした。

 さて、マリオットホテル長崎は、2024年1月16日に開業したばかりのホテルです。九州では初めてで、日本では9番目になるそうです。長崎港や稲佐山の眺望を楽しめるロケーションで、ロビーには海外からの宿泊客が溢れていました。

 一方、長崎駅西口にはヒルトン長崎が出来ていました。こちらは2021年11月1日に開業しており、九州では2番目になるそうです。ヒルトンといい、マリオットといい、世界トップクラスのホテルがここ数年のうちに、次々と開業していたのです。

 今回、長崎を訪れて、数多くの外国人を見かけました。駅前といわず、大通りといわず、外国人の姿を多数、見たのです。空港ではそれほど外国人の姿を目にしませんでしたから、彼等はおそらく、新幹線でやってきたのでしょう。

 そう思って長崎駅の人混みを思い返してみましたが、外国人はちらほら見かける程度でした。街で見かけた外国人の数とは見合いません。彼等は、いったい、どの経路で長崎にやってきたのでしょうか。

 空路ではなく、陸路でもないとすれば、あとは海路しかありません。

 そういえば、長崎に住む先輩が、夕方、松ヶ枝埠頭から出港するクルーズ船を見送りましょうと言っていたことを思い出しました。彼女にはグルメ以外にもう一つの趣味がありました。それが、クルーズ船の見送です。

 新聞でクルーズ船の寄港日をチェックしては出港時間を確認し、わざわざ松ヶ枝埠頭に赴いては見送っているのです。14日に寄港するのは、バイキング・オリオンでした。夕方6時に出港するというので、私も興味津々、付き合うことにしました。

■バイキング・オリオンの見送り

 2024年4月14日(日)、長崎港には、バイキング・オリオンが寄港し、10時間ほど停泊する予定でした。

こちら → http://www.nagasaki-port.jp/cruise_calendar/April.html

 カレンダーを見ると、船は8:00に寄港し、出港は18:00です。10時間ほど松ヶ枝埠頭に停泊しているのです。案の定、先輩はこのバイキング・オリオンを見送る計画を綿密に立てていました。

 長崎港に面して、ショッピングモール夢彩都があります。その2Fに、松ヶ枝埠頭がよく見えるカフェ・メルカードという喫茶店があります。テラス側の席に陣取って、出港を見送ろうというのが先輩の計画でした。

 確かにテラス側の席に座ってみると、目の前が長崎港で、その遠方に、クルーズ船が停まっているのが見えます。テラス越しに見るクルーズ船は、ちょっとしたビルのように大きく、壮観でした。

停泊中のバイキング・オリオン

 これが、バイキング・オリオンです。ノルウェー船籍で、全長228.3m、幅28.8m、総トン数47,842トン、巡航速度20ノット、客室数465、乗客定員930名、乗員数545名のクルーズ船です(※ https://www.cruise-mag.com/database/34774/)。

 予定通り、松ヶ枝埠頭に停泊していたのです。

 私たちがこのカフェに着いたのは午後5時過ぎでしたから、出港までに50分ほどあります。約1時間弱、このカフェに滞在しなければなりません。できるだけカフェに長くいられるように、たくさんのイチゴやアイスクリームがいくつも添えられている大きなワッフルケーキと紅茶を注文しました。

 少しずつケーキを食べ、雑談しながら、クルーズ船を見ているうちに、どうやらバイキング・オリオンが動きはじめたようです。やや前方を黒く小さなタグボートが先導しているのが見えます。

動き始めたバイキング・オリオン

 そうこうするうちに、バイキング・オリオンは向きを変え始めました。

向きを変え始めたバイキング・オリオン

 いよいよ出港態勢に入りました。タグボートに続き、静かに進んでいきます。

タグボートに続き、静かに進むバイキング・オリオン

 テラス側の席から見ていると、巨大なバイキング・オリオンの高さと女神大橋の高さがほぼ同じに見えます。ぶつかるのではないかと心配になります。

女神大橋にさしかかったバイキング・オリオン

 バイキング・オリオンはゆっくりと進み、女神大橋を通過しそうになっています。

通過しつつあるバイキング・オリオン

 こうしてみると、バイキング・オリオンとはわずかながら距離があることがわかります。

 どうやら女神大橋を無事、通過したようです。見届けた先輩は思わず、「ほっとした」とつぶやきました。見送るたび、クルーズ船が無事に女神橋の橋下を通過するかどうか心配でならないというのです。

通過したバイキング・オリオン

 ここまでくると、バイキング・オリオンと女神大橋とはかなり距離がることがわかります。ぶつかるのではないかと心配していたことが杞憂に終わりました。

 無事に出港したことを見届けて、安心する一方、バイキング・オリオンがこの後、どこに行くの、行先が気になってきました。

 調べてみると、鹿児島(4月15日)、広島(17日)、神戸(19日)、東京(22日)、そして、小樽(26日)という順で、各地に寄港する行程が組まれていました。(※ https://funeco.jp/ship/viking-orion/voyage_schedule/2024/

 寄港地はいずれも観光地として魅力のある港です。長崎もまた、それらの港と同様、クルーズ客に人気のある寄港地の一つになっているようです。

■魅力ある寄港地、長崎

 
バイキング・オリオン は、バイキング・オーシャン社が所有する第5番目の船で、2018年6月に命名式がリボルノ(イタリアのトスカーナ州にある都市)で行われました。翌2019年4月27日には長崎に寄港し、大阪、東京を経て、アラスカへ向かい、9月に再び、日本の各地に寄港しています。(※ https://www.cruise-mag.com/database/34774/

 ところが、2020年3月以降、コロナ禍のため、国際クルーズの運航は停止されました。再開されたのが2023年3月ですが、バイキング・オリオンは、翌4月には日本を訪れています。長崎には、2023年4月20日に寄港しただけではなく、6か月後の10月19日にも長崎港松ヶ枝埠頭に停泊しているのです。(※ https://funeco.jp/ship/viking-orion/voyage_schedule/2023/

 バイキング・オリオンの顧客にとって長崎が魅力のある寄港地だったことがわかります。停泊地の松ヶ枝地区は水辺の素晴らしい景観が広がる埠頭ですし、そこから徒歩で、出島やグラバー園、大浦天主堂といった観光地に行くことができます。

 これまでは魅力ある商業施設が少ないのがネックでした。周辺には夢彩都ぐらいしかなかったのです。ところが、今回、長崎駅周辺が大幅に改造されたので、観光だけでなく、ショッピングやグルメも存分に楽しめるようになりました。

 世界には350隻以上の船がありますが、このバイキング・オリオンは約4万8000トンで、乗客定員が930名です。彼等が下船して楽しめるインフラはすでに整っています。

 実際、長崎は、松ヶ枝埠頭から徒歩圏に、出島や歴史文化博物館、美術館はさまざまな史跡があり、ショッピングやグルメを楽しめるコンパクトな街です。限られた時間内に観光、食事、ショッピングしようとするクルーズ客にとっては格好の寄港地だといえるでしょう。

 さて、バイキング・オリオンは、中型のクルーズ船としてランクされていますが、調べてみると、中型船の中ではこのバイキングがクルーズ客の人気を独占していました。(※ https://www.cruise-mag.com/news/9726/

 クルーズ船の顧客の嗜好を踏まえて内装や機能を設え、船内でのアクティビティとエンターテイメントを充実させているからでしょう。

 バイキング社のシリーズは、4番目の船までは外観や船内は皆、同じ造りだったそうです。ところが、今回の、5番目に当たるバイキング・オリオンでは、新たに定員26名のプラネタリウムが設けられました。

 そして、船室は北欧調のシックで高級なデザインで、落ち着いた大人の雰囲気があるといわれています。しかも、全ての客室にベランダがついており、船上では教養講座や外国語クラス、料理の実演ショーなどを楽しめるようになっているといいます。(※ https://travelharmony.co.jp/databox/data.php/vikingcruises_orion_ja/code

 快適な空間を用意し、船上の生活を楽しめるよう、さまざまなサービスが提供されているからでしょう。時間とお金に余裕のある顧客に好まれるのは当然のことかもしれません。

 バイキング・オリオンが、中型クルーズの中で人気ランキング上位を維持しているのは、長崎を寄港地の一つに選び、船内の設備や食事、アクティビティやエンターテイメントを充実させているからだといえます。

■外国船社に好まれる長崎

 国土交通省によると、コロナ禍前の2019年、クルーズ船の寄港回数は、那覇港が260回と最多でした。

(※ 2023年8月6日付日経新聞)

 那覇港の次は、博多港、横浜港と続き、長崎港は4位にランクされています。この表を見る限り、長崎港は上位にランキングされていることがわかります。とくに、外国船社が運航するクルーズ船の場合、長崎は2014年から2020年までの期間、寄港ランキングで2位か3位をキープしていました。

 一方、日本船社が運航するクルーズ船については、これと同期間、長崎はランキング10位に入っていませんでした(※ 令和5年12 月18日、港湾局 産業港湾課)

 寄港ランキングデータからは、日本船社よりも外国船社のクルーズ船の方がより多く、長崎に寄港していることがわかります。

 日本船社と外国船社のクルーズ船の違いは何かといえば、外国船の場合、使用言語は日本語ではなく、日本的なサービスも受けられませんが、一般に、より安価で、はるかに多様なエンターテイメントやアクティビティが楽しめるという特徴があります。(※ https://www.cruisevacation.jp/blog/30663/

 使用言語やサービス内容からいって、外国船社の顧客は基本的に外国人です。外国クルーズ船の寄港が多いということは、長崎が外国人顧客に人気が高いということになります。

 さて、2024年4月に長崎に寄港あるいは寄港予定のクルーズ船は20隻です。30日間で20隻が停泊しており、すべてが外国船籍です。このうち、マルタ船籍の「マイン・シフ5」(9.8万トン)、バハマ船籍の「シルバー・ムーン」(4万トン)、バミューダ船籍の「クィーン・エリザベス」(9万トン)は、4月だけで2回も訪れています。

 規模の面では、4月に長崎に寄港したクルーズ船は10万トン以下がほとんどですが、パナマ船籍の「アドラ・マジック・シティ(13.6万トン)、イタリア船籍の「コスタ・セレーナ(11.4トン)の2隻が10万トンを超えていました。松ヶ枝埠頭に停泊しているのですから、マスト高は65メートル以下だったのでしょう。

 長崎は、外国クルーズ船の寄港需要は高いのですが、大型クルーズ船に対応できないという問題を抱えていました。外国クルーズの寄港需要が高まるにつれ、接岸壁、水深など、長崎港を機能強化する必要に迫られていました。

■長崎港の機能強化

 コロナ以前からすでに松が枝埠頭を整備する必要があることは認識されていました。大型クルーズ船の受け入れ、複数のクルーズ船の受け入れなど、外国クルーズ船全般の受け入れ体制を整備する必要があり、具体案が練られていました。

 ヨーロッパからだけではなく、今後、アジアからのクルーズ需要も増えていくでしょう。確実にクルーズ客を取り込むには、なによりもまず、大型クルーズ船が停泊するようにしなければなりませんでした。

 2019年度以降、長崎港のクルーズ船受入機能は大幅に強化されました。

 たとえば、女神大橋の桁下は65メートルで、22万トン級の大型船は通過できません。クルーズ船の見送りが趣味になっている先輩が、女神大橋にぶつかるのではないかと心配していたように、女神大橋は、マスト高62.9メートルの16万トン級以下の船しか通れないのです。

 そこで、改良案では、女神大橋を通過しないでもいい、小ヶ倉柳地区を整備し、マスト高65メートル、22万トン級の大型船が停泊できるようにしました。

 さらに、松ヶ枝地区を改良する一方、常盤・出島地区は7万トン以下のクルーズ船に特化し、整備したのです。

 具体的には。次のようなプランに沿って、整備されています。

(※ 国交省九州地方整備局)

 上記の写真に見るように、長崎港の改良点を整理すると、次の3点になります。

 まず、①マスト高65㎝、全長361m.の22万トン級クルーズ船が寄港できるよう、小ケ倉柳地区の整備、そして、②松ヶ枝地区の水深を12m、岸壁を410mにし、マスト高62.9m、全長347mの16万トン級が接岸できるよう整備、さらに、③7万トン級クルーズ船を受け入れられるよう、常盤・出島地区の整備、等々です。

 こうしてコロナ明けのクルーズ船再開を待つように、長崎港は整備されたのです。

 クルーズ船の乗客は、寄港地での買い物や飲食への意欲が旺盛だといわれます。時間やお金に余裕のある層がクルーズ旅行を好むからでしょう。その消費意欲の旺盛なクルーズ客が、一斉に下船して、寄港地で飲食し、ショッピングをし、周辺を観光してくれるのです。地域経済への波及効果が見込まれるのも当然です。

 外国クルーズ船の運航が再開されて、地方経済が潤い始めているようです。

 しかも、先進諸国の高齢化に伴い、世界のクルーズ需要は高まっています。

■世界のクルーズ需要

 世界のクルーズ市場規模は、2022年に76.7億米ドルと評価され、2023年から2030年にかけては、年平均成長率(CAGR)11.5%で成長すると予測されています。(※ https://newscast.jp/news/2634037#:~:text=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AF,%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E4%BA%88%E6%B8%AC%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

 クルーズは、船で各地を移動し、船内で食事、宿泊できるばかりか、さまざまなアクティビティやエンターテイメントを船内で楽しむことができます。陸路や空路の旅行に飽きた人々、旅行しながらアクティビティやエンターテイメントも楽しみたい人々、のんびり旅行したい、道中、安全に旅行したい人々など、クルーズならではのサービスに需要が高まっています。

 クルーズライン国際協会(CLIA)は、2019年に2970万人だった世界のクルーズ乗客数が2027年には3950万人へと3割超増えると予測しています。コロナ禍で2021年には480万人まで落ち込みましたが、2023年以降、大幅に増える見通しです。

(※ 2023年8月6日付日経新聞)

 さらに、CLIAによると、クルーズ旅行者はこれまで60歳以上が33%と最多だったのが、最近は20代後半から40歳程度までの年齢層の需要が高まってきているそうです。利用者の層が拡大しているのです。

 こうしてみると、コロナ禍で落ち込んだ需要が2023年以降、急速に回復しているのは、クルーズ旅行の魅力が高齢者以外の層にまで浸透しはじめているからだと考えられます。

 もちろん、基盤となっているのは高齢層の根強い需要です。先進諸国では高齢化が進み、時間とお金に余裕のある高齢者が増えています。それが、クルーズ需要を押し上げる主因になっていることは確かでしょう。

 人々は、もはやモノの消費ではなく、体験や活動の消費に関心を移しつつあります。クルーズ旅行の需要はその対象の一つとして増加の一途を辿っています。高齢者を中心に、若い世代にまで広がるクルーズ需要に対応するため、官民を挙げて、基盤整備が加速しているのが昨今の状況です。

 たとえば、国交省が2023年3月から本格的に国際クルーズの運航を再開したのを受けて、同年3月31日に観光立国推進基本計画が閣議決定されました。そこには、次のような目標が盛り込まれました。すなわち、「訪日クルーズ旅客を 250 万人」、「外国クルーズ船の寄港回数を 2,000 回超え」、「外国クルーズ船の寄港する港湾数を100港」などです。

 世界のクルーズ需要を取り込み、日本のクルーズ振興を図るために、港湾周辺地域の魅力を向上させる一方、クルーズ船の受入体制を強化しようとするものです。(※ https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001722639.pdf

 長崎港の機能強化と、長崎駅前のホテルや商業施設の一新されたデザイン景観の大幅な改善などは、クルーズ船受け入れ体制整備の一環なのでしょう。

 クルーズ旅客の満足度を向上させて、寄港のリピート数が上がれば、寄港地の経済が潤う効果を期待できます。クルーズ事業は、次世代の地域産業として注目すべき領域なのかもしれません。

■クルーズ事業の多様な展開

 
 CLIA によると、クルーズ旅行者はこれまで60歳以上が33%と最多でした。明らかに高齢者の需要が高かったのですが、昨今、20歳代後半から40歳程度までの世代にも、クルーズへの関心が高まっていることが判明しました。多様な世代に支えられて、クルーズ市場は今後も成長が続くとみられています。

 実際、さまざまなニーズに対する多様なクルーズサービスが提供されつつあります。

 たとえば、米リンドブラッド・エクスペディションズ(Lindblad Expeditions)HDは、ナショナルジオグラフィック協会と提携し、自然探索のツアーを手掛けているそうです。北極や南極、ブラジルのアマゾンなど特殊なツアーをアピールしているのです。(※ https://www.cruise-mag.com/news/27219/

 一方、米ウォルト・ディズニー(The Walt Disney Company)もクルーズ事業を手掛けるようになっています。キャラクターとの触れ合いやミュージカルの上演、さらには、ディズニー映画の世界を再現したレストランを作り、ファンを引き付ける戦略を展開しようとしているのです。

■ホテルとクルーズ事業

 その東京ディズニーリゾート(TDR)を運営するオリエンタルランド(OLC)は、4月23日、6月に開業する新ホテルを報道公開しました。1泊約34万円以上の客室もある高級ホテルです。

 ホテル事業は、テーマパークとの相乗効果が期待でき、近年、大きな成果を上げています。オリエンタルランドの売上高を見ると、2024年3月期には前期比18%増の869億円と過去最高を見込み、営業利益率も3割と高くなっています(※ 2024年4月24日付日経新聞)。

 そして、米ディズニーランドはクルーズ事業にも参入してきています。

 さらに、 米マリオット・インターナショナル (Marriott International)傘下のザ・リッツ・カールトン(The Ritz-Carlton)は2017年に、クルーズ事業への参入を発表しました。コロナ禍で船の就航こそ、2020年の予定が2022年に遅れましたが、2024年と2025年に1隻ずつ新しく造船し、事業を拡大中です。

 こうしてみてくると、開業したばかりの長崎マリオットホテルは、彼等のクルーズ事業の一環なのかもしれません。

 興味深いことに、長崎マリオットホテルは、長崎港を望み、その建物は客船をイメージしたといわれています。28室のスイートを始め、約7割の部屋にバルコニーを備え、外に出て海風や港町の夜景を楽しめる設えだというのです(※ 2023年10月8日付朝日新聞)。

 そう言われてみると、確かに、長崎マリオットホテルの外観はクルーズ船のように見えます。

(※ https://www.jtb.co.jp/kokunai-hotel/htl/8211A53/photo/

 カフェからバイキング・オリオンを見たとき、まさにこのような外観でした。まるでビルのようだと思いましたが、長崎マリオットホテルは、実際、クルーズ船を模して建造したというのです。

 長崎マリオットホテルの外観に、米マリオット・インターナショナルのクルーズ事業に賭ける思いを見るような気がしました。

 CLIAによると、クルーズ客の消費額は空路客より1日あたり約1万円多いといわれています。空路とは違って、荷物量の制限がないので、土産物を大量に購入することができるからです。飲食し、土産物を買うことによって、クルーズ客は明らかに寄港地にお金を落とすのです。

 コロナ禍の落ち込みから急回復し、世界中で今、クルーズ船ツアーが活況を呈しています。クルーズ船運航各社は新しく造船を急ぎ、異業種からの新規参入も相次いでいます。サービス内容の多様化し、家族連れや若い世代の関心も高まっています。クルーズ船の寄港地に高級ホテルを開業しても十分に採算がとれる状況になりつつあるのです。

 今回、長崎駅前で見た大幅な変化や長崎港の機能強化は、未来を先取りしたクルーズ事業の需要を反映したものといえるでしょう。(2024/4/28 香取淳子)

百武兼行⑩:幕末のイギリス留学、三藩三様

■イギリスの東アジア進出

 佐賀藩藩士の島内平之助は、アメリカからの帰国途中に立ち寄った香港で、英仏軍によって北京が攻撃されたことを聞き及んでいました。1860年9月、第二次アヘン戦争末期に勃発した武力衝突事件です。

 当時、香港はイギリスの支配下にありました。この時、島内が見聞きした出来事の記録は、「米国見聞記」(1861年)に収められ、藩主の鍋島直正に提出されました。

 海外情報を入手しにくい時代に、鍋島直正は、藩士から直接、隣国清朝の悲惨な状況を把握することができていたのです。彼は、海外渡航する藩士には必ずといっていいほど、現地での情報収集を指令していましたが、これは、その成果の一つでした。

 当時、もっとも注目しなければならなかったのが、イギリスの動きでした。ヴィクトリア朝(1837-1901)の最盛期で、産業革命による経済発展が成熟しており、市場拡大のため、東アジアに進出してきていたのです。

 その手先になっていたのが、イギリス東インド会社です。交易を通して各地に進出し、やがて植民地化し、現地の資源を収奪していました。自由貿易主義の下、イギリスは巧妙にアジアでの侵略行為を進めていたのです。

 1858年には、インドの植民地を東インド会社からヴィクトリア女王に委譲させ、二度にわたるアヘン戦争によって、清を支配下に置きました。次のターゲットは明らかに、日本でした。

 そんな最中、佐賀藩で、ちょっとした事件が起こりました。

■石丸安世らの密航事件

 1865年(慶応元年)10月、佐賀藩士の石丸安世(1834-1902)が、突然、行方不明になりました。

(※ Wikipediaでは生年が1839年となっているが、それでは、その後の石丸の経歴と辻褄が合わない。『佐賀県立博物館・美術館報』(No.65)では、1834年(天保5)が生年とされており、佐賀県人物データベースも同様。したがって、本稿でも1834年生年を採用した)

 行方をくらましたのは、石丸ばかりではありませんでした。佐賀藩士の馬渡八郎(生没年不明)、広島藩士の野村文夫(1836-1891)も居所がわからなくなっていました。3人の内、2人は佐賀藩士でした。当然のことながら、佐賀藩は追っ手を差し向け、石丸らの行方を追いました。

 ところが、一応、各方面を捜索したようですが、藩はそれほど熱心には探さず、早々に打ち切ったといいます。

 結局、石丸ら3人は、親交のあったグラバー(Thomas Blake Glover, 1838 – 1911)の手引きで、貨物帆船チャンティクリーア号に乗り込み、イギリスに密航していたことがわかりました(※ Wikipedia)。

 藩に迷惑を掛けたくないという気持ちが強かったのでしょう。石丸らは渡航前に脱藩し、藩との関係を断ち切っていました。

 当時、密航は死罪でした。

 1635年(寛永12)にいわゆる第3次鎖国令が発布され、密航は死罪となっていました。幕府は、中国やオランダなど外国船の入港を長崎に限定する一方、日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じたのです。

 その後、島原の乱(1637年)が勃発したので、幕府はさらに鎖国令を厳格化しました。新たな宣教師が国内に潜入するのを防ぐため、1639年(寛永16)に、全ポルトガル船の日本への入港を禁止したのです。これが最終版の第5次鎖国令です。

 こうして1639年以降、佐賀藩と福岡藩は、長崎港の西泊と戸町の両番所に陣屋を築き、交代で長崎の警備を担当するようになりました。当時、長崎奉行は2000~3000石の旗本で,外事案件に対処できる家臣団や軍事力がありませんでした。警備に関しては、近隣の佐賀藩と福岡藩が担当せざるをえなかったのです。両藩は毎年4月に交代し、9月までの貿易期には約1000人が在勤していました(※ https://www.historist.jp/word_j_na/entry/036127/)。

 佐賀藩は、長崎警固を担う幕府の軍役でした。

 重責を担っているのですから、藩士の密航など、あってはならないことでした。密航者を捜索するのは当然のことだったのです。

 そもそも佐賀藩には、忘れることのできない苦い経験がありました。

 オランダ国旗を掲げ、オランダ船を装ったイギリス軍艦フェートン号が入港してきた事件がありました。このフェートン号事件(1808年)の際、佐賀藩の警固の不備が明らかになってしまったのです。

 佐賀藩は警備を担当していましたが、長い間、大した事件も起こらなかったので、定められた警衛人員を勝手に減らしていたのです。その結果、フェートン号が入港し、オランダ船を拿捕した時も職務を果たせませんでした。関係者は責任を取って自害し、藩主も幕府からお咎めを受けました。

 そのような苦い経験があっただけに、再び、幕府が定めたルールを犯すわけにはいきませんでした。石丸らが脱藩して密航という形で渡英したのも、無理はなかったのです。

 さて、藩士が脱藩し、その直後に行方不明になりました。しかも、一人ではありませんでした。当然のことながら、藩主鍋島直正には報告されていたでしょうが、直正は事前にこの件を把握していなかったのでしょうか。

 そもそも藩主直正の許可がないまま、石丸らは密航という大それたことをしたでしょうか。直正はこの密航事件にいくばくか関与していたのではないでしょうか。

 思い起こすのは、当時の社会状況です。

 すでに1863年6月27日には長州藩から5名、1865年4月17日には薩摩藩から19名がイギリスに向けて密航していました。長州藩と薩摩藩は、イギリスと戦った雄藩です。そこから、志ある藩士たちが次々とイギリスに向かったのです。

 情報通の直正はおそらく、そのことを知っていたはずです。

 まず、長州藩からみていくことにしましょう。

■長州藩士たちのイギリス渡航

 長州藩からは、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名がイギリスに渡航しました。いわゆる長州五傑です。

 彼らの写真をご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 上から順に、遠藤謹助(上段左)、野村弥吉(上段中央)、伊藤俊輔(上段右)、井上聞多(下段左)、山尾庸三(下段右)の配置で写っています。

 この写真は、彼らがロンドンに到着した1863年に撮影されました。蝶ネクタイの正装で革靴を履き、緊張した面持ちでポーズを取っている姿が初々しく、微笑ましく思えます。

 渡航時の年齢は、遠藤が27歳、野村が20歳、伊藤が22歳、井上が28歳、山尾が26歳でした。それぞれが何らかの職務を経験し、時代状況を把握できている年齢だといえます。帰国後はイギリス留学の経験を活かし、さまざまな分野で、日本の近代化に貢献しました。

 それから130年後の1993年、ロンドン大学内に、長州ファイブ(Choshu Five)として、顕彰碑が建てられました。当時、彼らの中の一体、誰が、こんなことを想像したでしょうか。

 先陣を切って渡英した彼らの留学経験が、その後の日本の近代化に大きく影響したことは確かでした。

 まず、彼らの渡航経緯からみていくことにしましょう。

 最初にイギリス渡航を思い立ったのは、山尾庸三(1837 – 1917)と野村弥吉(1843 -1910)でした。

 彼らはなぜ、渡航しようと思ったのでしょうか。先ずは彼らの来歴から見ていくことにしましょう。

■山尾庸三

 山尾庸三(1837-1917)は、長州藩重臣の息子でした。1852年(嘉永5)に江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事した後、江川塾の門弟となりました。

 江川塾とは、幕臣の江川英龍(1801-1855)が、高島流の砲術をさらに改良した西洋砲術の普及を目的に、全国の藩士に教育するため江戸で開いた塾でした。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(後の木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨などが彼の下で学んでいました(※ Wikipedia)。

 山尾はおそらく桂小五郎から、江川塾のことを聞いたのでしょう。江川は海防ばかりか造船技術の向上にも力を注ぎ、1854年(嘉永7)に日本に来航していたロシア帝国使節プチャーチン一行への対処も差配していました(※ https://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page010.html)。

 江川は、爆裂砲弾の研究開発や近代的装備による農兵軍の組織までも企図していましたが、結局、激務で体調を崩し、1855年(嘉永8)に亡くなってしまいます。学びながら実践を繰り返す江川の影響を山尾が深く受けていたことは確かでした。

 1861年(文久元年)、山尾は幕府の船「亀田丸」に乗船し、ロシア領のアムール川流域を査察しています(※ Wikipedia)。

 実は、ロシアの南下政策に備えるため、幕府は1799年(寛政11)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にし、幕府が外交上の問題に直接、関与できる体制を築き上げていました。1802年(享和2)には、蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所に奉行所を建てていたのです。

 ところが、懸念すべきこともなく過ぎたので、幕府は1821年(文政4)、箱館奉行の役割を終了させました。財政難でしたし、対外関係の緊急課題は去ったと判断したからでした。

 ところが、ペリー艦隊が浦賀に来航し、和親条約を結んだ後、1854年(安政元年)4月に箱館に入港してきました。幕府は慌てて、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、幕府直轄地に戻しました。

 再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との外交交渉、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。

(※ https://hakodate-bugyosho.jp/about1.html#:~:text=%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%A7%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AF%9B%E6%94%BF11,%E6%89%80%E3%82%92%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 上図で、赤で囲われている箇所が、箱館奉行所です。

 山尾は1861年にアムール川流域を視察した後、箱館に滞在して武田斐三郎(1827- 1880)に師事し、航海術と英語を学びました。

 武田斐三郎は、ロシアのプチャーチンやアメリカのペリーとの交渉の場に通訳として参加していただけではなく、箱館奉行所では武器の製造まで担当していました。まさに海防を担うにはふさわしい人物でした。

 山尾が箱館に滞在して、武田に師事したのも当然のことでした。次々と押し寄せてくる欧米ロシアの艦隊に対応するには、まず、航海術と英語を学ばなければなりませんでした。

 山尾が海防に関心を抱いていたのは、実際にアムール川流域を視察してロシアの南下政策を実感しただけではなく、地元長州藩もまた海防を考えなければならない地政学的位置づけにあったからでしょう。

 地図を見ると、長州藩は日本海に面している一方、瀬戸内海への入り口である下関海峡にも面しています。

(※ https://www.touken-world.jp/edo-domain100/choushuu/

 実際、幕末には、この界隈を欧米列強の船が次々と押し寄せてきました。頑丈な装備の船が海上を通過するのを見るたび、人々は、危機感を抱いていたに違いありません。山尾が航海術や英語力を高めなければならないと考えるのは当然のことでした。

 彼は単に書物から学ぶだけではなく、実践も積み重ねてもいました。

■留学願いを藩に提出

 1863年(文久3年)3月、山尾は、長州藩がジャーディン・マセソン商会から購入した「癸亥丸」の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行しています。この時、「癸亥丸」の船長を務めたのが野村弥吉でした。

 二人は相通じるところがあったのでしょう。帰藩すると、山尾と野村はただちに、イギリス留学の願いを藩に提出しました。彼らとは別に、井上馨(1836 – 1915)も洋行願いを出しており、3名の渡英が決定されました。後に、伊藤博文と遠藤謹助が加わり、渡航者は結局、5名となりました(※ Wikipedia)。

 藩主毛利敬親(1819-1871)が藩命を下し、5名のイギリス留学が決定したのですが、当時、日本人の海外渡航は禁止されていました。そこで、5名は脱藩したことにし、密航者扱いで渡英しています。

 ちなみに、渡航前に英会話ができるのは野村だけで、他の4人は辞書を引きながらなんとか応対できる程度だったそうです(※ Wikipedia)。

 井上と野村は藩主の許可を得ると、早々に京都を発ち、6月22日に駐日イギリス総領事エイベル・ガウワー(Abel Anthony James Gower, 1836-1899)を訪ねて洋行の志をのべ、周旋を依頼しました。そして、6月27日、彼の斡旋でジャーディン・マセソン(Jardine Matheson)商会の貿易船チェルスウィック(Chelswick)号で横浜を出港しました。

 ロンドンに着いたのが、1863年11月4日でした。

■長州藩の留学生を支えたヒュー・マセソン

 伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助、井上聞多(馨) らは、イギリス人化学者ウィリアムソン(Alexander William Williamson, 1824 – 1904)の斡旋で、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部に聴講生の資格で入学することができました。そればかりか、ウィリアムソンの家に寄留させてもらい、留学生の化学教育も彼が担当してくれました。

 至れり尽くせりの待遇ですが、それは、現地の大物起業家ヒュー・マセソンが手配してくれたからでした。

 ヒュー・マセソン (Hugh Matheson、1821-1898)は、マセソン商会 (Matheson and Company) のシニアパートナーで、リオ・ティント鉱業グループの創設社長でした。

 彼は1863年に、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィックから、日本人留学生の世話を頼まれました。そこで彼は、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の化学教授であるアレクサンダー・ウィリアムウィリアムソンを紹介するとともに、同大学への聴講学生登録の便宜を計ったのです。

 長州藩からの留学生は皆、このUCLで学びました。

 山尾庸三と野村弥吉(井上勝)は、約6年間にわたってヒュー・マセソンの世話になり、最先端技術を習得することができました。

 たとえば、山尾庸三はUCLで2年間、英語と基礎化学を学び、修了後、成績優秀者として優等賞を授与されています。分析化学で4位、理論化学で10位でした。

 その後グラスゴーに移り、やはりヒュー・マセソンの紹介で、グラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けながら、夜はアンダーソン・カレッジ(後に、the University of Strathclyde)の夜学コースで学びました。

 その間、ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン(Colin Brown)の自宅に下宿しています。

 また、野村弥吉は、1868年(明治元年)まで、UCLで鉱山技術や鉄道技術などを学び、同年9月、無事、UCLを卒業してから帰国しました。留学した藩士のうち、山尾と野村が最も長くロンドンに滞在したことになります。

 井上馨と伊藤博文の滞在はわずか1年でした。下関戦争が勃発したので、彼らは急遽、帰国したのです。残った3人は、1865年(慶応元年)にイギリスに留学してきた薩摩藩第一次英国留学生と出会い、異国での交流を喜び合いました。

 その後、遠藤謹助(1836-1893)は病気が悪化し、1866年(慶応2)に帰国しました。残ったのは野村と山尾とふたりです。彼らは遠藤が去った後も2年にわたって勉学に励み、明治元年9月、無事、UCLの卒業を果たしました。

 木戸孝允からは、再三、「母国で技術を役立てるように」と要請されていました。そこで、卒業を機に11月、山尾と野村は帰国の途に就きました。

 こうしてみてくると、長州藩士たちの留学生活はきわめて恵まれたものであったように思えます。

 なぜかといえば、井上と野村がまず、駐日イギリス総領事に留学の斡旋を依頼したからでしょう。その結果、総領事の斡旋で、ジャーディン・マセソン商会横浜支店長のケズウィック(William Keswick, 1834–1912)を紹介してもらうことができました。渡航の手配から現地での留学手続きまで、マセソン商会の関係者がさまざまな便宜を図ってくれたのです。

 イギリスで影響力のある人物に依頼したので、現地での留学生活がスムーズに運んだのではないかという気がします。ヒュー・マセソンが地元の実業界、教育界の大物だったので、有用な人物を知り合うことができ、学習の機会も、実践の機会も与えられましたのでしょう。

 伊藤博文と井上馨は長州藩の事情、遠藤謹助は病気の悪化で、早期に帰国せざるをえませんでしたが、彼らは帰国後、新政府の下で大活躍をしています。

 野村と山尾は5年余も滞在し、学業を全うしてUCLを卒業しました。帰国後、山尾は工部省の設立に尽力し、科学技術の振興に貢献しました。野村は鉄道事業に携わり、その発展に寄与した結果、日本の鉄道の父と呼ばれるほどになりました。

 なぜ、彼らが大活躍できたのかといえば、密航という形を取りながらも、正規のルートで留学し、所定の課程を学修することが出来たからではないかと思います。彼らにはなによりも、長州藩の藩命があり、駐日イギリス大使の斡旋があり、マセソン協会の支援がありました。

 だからこそ、理論から実践に至る西洋の科学技術をある程度、身につけることができ、日本に持ち帰ることができたのだと思います。

 それでは、薩摩藩の場合はどうだったのでしょうか。

■薩摩藩士の渡航と薩英戦争

 薩摩藩からイギリスへの渡航者は19人でした。渡航した19名のうち、16名が撮影された写真があります。

(※ https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/takarabako/shiseki/satsumahan.html

  これら留学生の中には、寺島宗則(1832-1893)や五代友厚(1836-1885)が含まれています。いずれも薩英戦争が勃発した際、乗船していた汽船が拿捕され、捕虜になった経験のある薩摩藩士です。

 実は、薩摩藩のイギリス渡航と、この薩英戦争とには深い関係がありました。

 薩英戦争(1863年8月15日 – 17日)とは、薩摩藩とイギリスの間で起こった武力衝突です。1862年(文久2)9月14日に、横浜港付近の生麦村で発生した事件を巡る戦闘でした。

 生麦事件の解決とその補償を迫るイギリスと、それを拒否しようとする薩摩藩が、鹿児島湾で激突したのです。

 その経緯を簡単に説明しておきましょう。

 1863年8月15日にイギリス艦隊5隻が、薩摩藩の蒸気船3隻の舷側に接舷し、イギリス兵50~ 60人ほどが乱入してきました。薩摩藩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷し、乗組員を強制的に陸上へ排除し、船を奪い取ってしまったのです。

 このとき、船奉行添役として乗船していた五代友厚や船長の寺島宗則は、捕虜としてイギリス艦隊に拘禁されました。

 捕虜となっていた五代友厚は、西洋の技術を目の当たりにし、圧倒的な差を実感しました。

(※ Wikipedia)

 その後、解放されましたが、イギリス軍の捕虜になって罪人扱いされていた五代友厚は、そのまま薩摩藩に帰るわけにもいきませんでした。幕吏や攘夷派から逃れるためにも、長崎に潜伏せざるをえなかったのです。

 長崎には出島があり、外国人居留地がありました。さまざまな人が行き交い、いろんな噂が流れていました。それらの情報を見聞きするにつれ、五代は時代が大きく変化していることを実感するようになりました。

■五代友厚が出した上申書

 長崎に滞在している間に、五代はトーマス・グラバーと懇意になりました。グラバーから世界情勢を聞き、列強の動きを知るにつけ、国の未来に危機感を募らせていきました。なんとかしなければと思うようになった彼は、1864年6月頃、薩摩藩に、今後の国づくりに関する上申書を提出したのです(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 それは、「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ、世界の大勢に遅れ、国の発展に役立たない」というような内容でした。新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、さらには、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)などが書かれていました(※ 前掲URL)。

 五代は、長崎でさまざまな情報に接するにつけ、また、グラバーから世界情勢を知るにつけ、時代は刻々と変化していることを実感しました。そして、時代を大きく変化させている中心が、西洋の科学技術だということを察知したのでしょう。

 藩への上申書には、最新技術を導入して藩の産業を近代化すること、西洋の最先端技術や知識を習得するため留学生を派遣すること、外国人技術者を起用し、最新技術を移入すること、などが喫緊の課題として盛り込まれていました。

 こうした五代の上申書が契機となって実現したのが、薩摩藩主導のイギリス留学でした。

■薩摩藩遣英使節団

 長州藩との違いは、薩摩藩首脳が英国留学の必要性を認め、正式の使節団として渡航者たちをイギリスに送り出したことです。藩士五代友厚の上申書に基づくものだったとはいえ、薩摩藩藩主や首脳部は彼の危機感を共有しました。そして、藩の未来を託して使節団のメンバーを構成したのです。

 薩摩藩は、英国への留学生派遣を、近代化に向けた継続的な事業と考えていたのでしょう。人選から、費用、寄留先まで薩摩藩が引き受けています。未来を託した留学生は、薩摩藩開成所で学ぶ者の中から選ばれました。

 1865年2月13日、視察員4人と留学生15人が選ばれ、藩主から留学渡航の藩命が下されました。当時は、日本人の海外渡航は禁止されていたので、表向きの辞令は、「甑島・大島周辺の調査」というものでした。しかも、万が一の場合を考え、一人ひとり、藩主から変名を与えられていました(※ https://ssmuseum.jp/contents/history/)。

 海外渡航が漏れれば、密航者として扱われ、死罪になりました。まだ日本人の海外渡航は禁じられていたからこそ、変名まで用意しなければならなかったのです。

 1635(寛永12)年以来、鎖国政策の一環として日本人の海外渡航が禁止されてきました。解禁されるのは、1866年(慶應2)でした(※ 鈴木祥、「明治期日本と在外窮民問題」、『外交資料館報』第33号、2020年、p.21.)。

 幕府はすでに1860年(万延元年)に遣米使節団を送っており、1862年(文久2)にも遣欧使節団を送っていました。欧米との交渉が不可避になりつつあったのです。そのような状況下で、薩摩藩が独自の遣英使節団を送ったとしても不思議はありませんでしたが、幕府以外は、まだ密航者扱いでしか海外渡航できなかったのです。

 薩摩藩がイギリス渡航する頃はまだ解禁されておらず、十分に警戒する必要がありました。こうして準備万端整えた留学生ら一行は、1865年4月17日、グラバーが用立てた蒸気船「オースタライエン号」に乗船し、鹿児島県の先端、羽島沖を出発しました。

 次に、渡航者のメンバーをみておくことにしましょう。

■渡航者の内訳

 薩摩藩遣英使節団は、新納久脩(32歳)を使節団長として、五代友厚(27歳)、松木弘安(寺島宗則、32歳)らの外交使節団と、薩摩藩開成所学頭の町田久成(27歳)と留学生14人、通訳1名から構成されていました。

 留学生はいずれも薩摩藩開成所の生徒で、中には、13歳から17歳までの10代が5名含まれていました。

 薩摩藩開成所とは、1864年(元治元年)に設置された薩摩藩の洋学校です。中国の『易経』の中の故事にちなみ、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを奨励する意味が込められています。翻訳や学問だけでなく、みずから学びを実践に繋いでいくという意図があるといわれています(※ Wikipedia)。

 リストの中に、後に政治家、外交官、思想家、教育者として活躍する森有礼の名前がありました。当時、17歳でした。

 留学生の中で一人、「長崎遊学生」という肩書きでリストに載っていたのが、中村博愛(22歳)です。調べてみると、薩摩藩の子息でした。長崎でオランダ医学、薩摩藩開成所で英語を学んでいたので、『長崎遊学生』なのでしょう。薩摩藩の留学生として選ばれ、イギリスでは化学を学び、明治政府の下では、外交官、官僚、政治家として活躍しています。

 このように渡航者リストからは、薩摩藩の将来ビジョンが見えてきます。新しい時代を切り開いていこうとする信念の下、まずは、西洋技術を学び、欧米列強に対抗できるよう近代化を進めようとする展望です。

 渡英した彼らを記念し、鹿児島中央駅の前に、「若き薩摩の群像」が設置されています。

(※ Wikipedia)

 手を高く掲げる者もいれば、胸を張って遠くを見つめている者もいます。まさに、「あらゆる事物を開拓、啓発し、あらゆる務めを成就する」ことを胸に刻んでいるように見えます。それぞれが大きな希望を抱いて渡航したのでしょう。未来に向かって突き進もうとする様子に力強さが感じられます。

 薩摩藩は、藩士たちを使節団として構成し、イギリスに向けて送り出しました。意欲ある若者に将来を託していたからでした。

 思い返すのは、佐賀藩の対応です。

 佐賀藩は、藩士を積極的に海外渡航させることはしませんでした。むしろ逆に、脱藩して密航した石丸らに、追っ手を差し向けていました。

 もちろん、深追いさせず、早々に引き上げさせています。とはいえ、密航者に追っ手を差し向けるという対応からは、佐賀藩が幕府の命に背くことを極端に恐れているように思えます。おそらく、当時なお、フェートン号事件の苦い経験が尾を引いていたからでしょう。

 藩主の直正は、長州藩や薩摩藩が決行した密航留学について、どのように思っていたのでしょうか。

 少なくとも、薩摩藩の一行が、グラバーが手配した貿易船に乗り、鹿児島沖から密かに出航したことは知っていたはずです。

■鍋島直正とグラバー

 アンドリュー・コビング(Andrew Cobbing, 1965- )氏は、『鍋島直正公伝』や『長崎談叢』の記述を踏まえた上で、次のように概括しています。

 直正が、「素より法を守るに厳格なれば、表面には敢て之を軽々に看過せられぬ」と主張したと紹介する一方、後年、グラヴァ―自身が、「石丸と云ふ人と馬渡と云ふ人を閑叟公から頼まれて英吉利へやった」と回想していたと記しています(※
アンドリュー・コビング 、『幕末佐賀藩の対外関係の研究』、鍋島報效会、1994年3月、p.76.)。

 この記述からは、直正の微妙な立場がよくわかります。

 佐賀藩は、長崎警護を担当していましたから、幕府の鎖国禁止令に背くわけにはいきませんでした。そうかといって、長州藩や薩摩藩が次々と藩士をイギリスに渡航させているのを、ただ指をくわえて眺めているわけにもいかなかったのでしょう。

 興味深いことに、直正は1865年5月22日にグラバーに面会しています(※ 前掲。p.76.)

 二人がどんな用件で会っていたのかはわかりませんが、時期が時期だけに、気になりました。薩摩藩の藩士19名がイギリスに発った直後であり、石丸安世らが密航するまでに5カ月あります。この5カ月を留学の諸手配をするのに必要な期間だとみることもできます。

 もちろん、別件でグラバーに面会していた可能性もあります。グラバーは、直正にとって商取引の相手でした。商用でたまたま、この時期に会っていただけなのかもしれません。

 佐賀藩は1854年3月から、マセソン商会から委託されたグラバー商会を通して高島炭を、上海や香港に輸出するようになっていました。蒸気船の燃料として、カロリーの高い塊炭である高島炭が、欧米諸国から求められたからでした(※ 森 祐行、「日本における選炭技術の変遷とその後の展開」、『資源処理技術』vol.45, No.2、1998、p.16.)。

 佐賀藩内の高島炭鉱から産出される塊炭は、当時、東アジアを航行していた欧米の蒸気船の燃料として需要が高かったのです。直正は藩政改革に伴う財源として、欧米からの需要の高い高島炭に目をつけました。

 高島炭の取引で、直正が頼りにしたのはグラバー商会でした。

 西洋の技術による高島炭鉱の開発と、高島炭を海外に販売するため、直正は1868年、佐賀藩とグラバー商会との合弁会社を設立しています(※ 前掲、p.17.)。

 もっとも、合弁会社の件は石丸らの密航事件とは直接、関係していないでしょう。石丸らの密航事件は1865年で、合弁会社設立の3年後です。注目すべきは、直正とグラバーの間にはすでに商取引の関係があり、知己の間柄だったことです。

 直正は必要とあれば、いつでも、グラバーに渡航を依頼することができたのです。しかも、石丸はグラバーとは懇意な関係でした。

 なにより、グラバーは、長州五傑のイギリス渡航の手配をし、薩摩藩遣英使節団のイギリス留学の世話をしていました。日本人渡航禁止の時代に、渡英、現地での滞在、教育機関の手配といった重責を担う役割を果たしていたのです。

 グラバーはまさに、幕末日本とイギリスとを繋ぐキーパーソンだったといえます。

 果たして、グラバーはどのような人物だったのか、石丸はなぜ、彼と知り合いになったのか、簡単に見ておきましょう。

■グラバーと石丸安世

 スコットランド・アバディーンシャーで生まれたグラバー(Thomas Blake Glover, 1838-1911)は、1859年(安政6)に上海へ渡り、当時、東アジア最大の商社だったジャーディン・マセソン(Jardine Matheson )商会に入社しました。同年9月19日、開港後まもない長崎にやって来ると、同じスコットランド人K・R・マッケンジー(K.R. Mackenzie)が経営する貿易支社に勤務しました(※ Wikipedia)。

 グラバーが長崎にやって来たのは1859年、21歳の時でした。この時、石丸は、長崎海軍伝習所で航海術や語学などを学んでおり、3年目を迎えていました。25歳でした。

 石丸安世は、藩校弘道館で儒学や武術を学んでいましたが、1854年(安政元年)に藩主の直正に命じられて蘭学寮に入り、物理や化学など西洋の科学技術を修めています。

 直正は、弘道館で学んでいた16、17歳の生徒の中から、成績の優秀な生徒を選んで二つに分け、家格の低い藩士の次男、三男に蘭学寮で、物理や化学などを学ばせました。この時、秀才として選ばれ、蘭学寮に入ったのが、石丸安世、小出千之助、江藤新平らでした(※ https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00367689/index.html)。

 蘭学寮は、佐賀藩年寄であった朱子学者の古賀穀堂(1777 – 1836)の具申書「学政管見」に基づき、1851年(嘉永4)に設置されました。西洋の科学技術の必要性を痛感していた鍋島直正が古賀の提案を受けて設立したのです。

 直正は、上級家臣から下級武士まで全藩士の子弟の入学を求めました。優秀な成績を収めれば、身分にかかわらず抜擢していきました。その一方で、25歳までに成果を収めなければ、家禄を減らし、役人に採用しませんでした。厳しい「文武課業法」を制定し、徹底して藩士の子弟たちに勉学を推奨したのです。

 直正が構築した教育システムは、家格で役職が決まる当時の門閥制度に風穴を開ける教育改革といえるものでした(※ 前掲。URL.)。まさに能力主義の教育システムであり、近代化を推進できるメンタリティを涵養するシステムでもありました。

 石丸はこの蘭学寮で勉学を修めると、1856年(安政3)、再び、藩主に命じられて、長崎海軍伝習生になりました。以後、海軍伝習所が閉鎖になる1859年までここで学んでいます。

 海軍伝習所とは、江戸幕府が1855年(安政2)に長崎で開設した海軍士官の養成機関です。幕臣や雄藩の藩士の中から生徒を選抜し、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術、化学、医学、測量等などの諸科学を学ばせていました。軍艦操練所が築地に整備されたので、1859年(安政6)に閉鎖されています(※ Wikipedia)。

 安政期の伝習所を考証し、復元した図があります。陣内松齢が描いたもので、現在、鍋島報效会に所蔵されていますので、ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NagasakiNavalTrainingCenter.jpg

 多数の和船が行き交う中、図の右上に、ちょうど扇形の出島の先辺りに、黒煙をはいている船が見えます。これが、オランダから提供された木造の外輪蒸気船スンビン号です。実際にこのような蒸気船を使って、生徒たちは航海術などの勉強をしていたのです。

 スンビン号は、1855年(安政)に、長崎海軍伝習所の練習艦として、オランダから幕府に贈呈された軍艦です。 幕府にとって初めての木造外車式蒸気船でした。

 この蒸気船を描いた作品がありました。作者はわかりませんが、1850年に制作されています。ご紹介しましょう。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paddle_steamer_Soembing_gift_by_King_William_III.jpg

 海軍伝習所では、軍艦の操縦だけでなく、造船や医学、語学などが教えられていました。海軍士官として欧米に対抗できるような教育を行っていたのです。ところが、1859年(安政6)、築地の軍艦操練所が整備されたので、長崎海軍伝習所は閉鎖されてしまいました。

 閉鎖後、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の日本海軍で活躍したそうです(※ Wikipedia)。

 ところが、石丸はそのようなコースを歩んでいないのです。海軍伝習所が閉鎖された後、その英語力を買われた石丸は、貿易業務のために、藩の英語通訳として長崎に赴任していました。主な業務の傍ら、長崎の外国人居留地に出向いては、彼らから情報収集する業務も担当していたそうです(※ Wikipedia)。

 1861年(文久元年)、石丸安世は、小出千之助、中牟田倉之助、大隈八太郎(重信)、馬渡八郎らと共に英学を学ぶよう命じられ、長崎英語伝習所で学び始めます。外国人から直接、学べるということで評判になっていました(※ Wikipedia)。

 1861年、石丸は再び、藩命で長崎に滞在し、今度は英語を学び始めることになったのです。西洋の最先端技術を学ぶにはまず、英語を学ばなければならないというのが直正の見解でした。

 一方、グラバーは1861年、長崎を去ったマッケンジーの事業を引き継ぎ、フランシス・グルーム(Francis Groom)と共に、「グラバー商会」を設立しています。フランシスは、神戸を開発したアーサー・グルーム(Arthur Hesketh Groom, 1846-1918)の兄でした。

 石丸が再び、長崎英語伝習所で学ぶようになった頃、グラバーはグラバー商会を立ち上げ、オーナーとして貿易事業を采配するようになっていました。

 当初は生糸や茶の輸出を中心とした貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となっていました。

 ところが、1863年に、尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除した文久の変(文久3)が起こると、これからは政治的混乱状態になると予想したのでしょう。グラバーは、討幕派の藩であれ、佐幕派の藩であれ、幕府であれ、要求があれば誰にでも、武器や弾薬を販売し始めました。

 グラバーは、刻々と変化する日本の政治情報を渇望しました。一方、石丸は欧米列強の日本に関する情報を必要としていました。

 グラバーと石丸が長崎で出会い、懇意になっていた可能性が出てきました。

■直正は、石丸らの密航に関与していたのか

 長崎英語伝習所で英語を学び、英語力を鍛えました。長崎の居留地に行っては、外国人を相手に会話力を磨いていたのでしょう。石丸安世は、佐賀藩随一の英語の達人だったといわれるようになっていました。

 石丸は英語力だけではなく、コミュニケーション能力、状況判断力、情勢分析力なども秀でていました。貴重な人材です。藩主の直正が見逃すはずはありませんでした。

 1863年(文久3)の下関戦争、薩英戦争の際、石丸は、英字新聞から戦況を把握し、戦闘の様子や損害について、逐一、藩に報告を送り続けていました。英語を理解できる人が皆無に近い状況下で、石丸は、欧米の情報収集およびその分析を一手に引き受けていたのです。

 このように、諜報活動ともいえる役割を与えられていたのですから、石丸と直正の間には絶大な信頼関係があったに違いありません。

 しかも、脱藩して密航したのが、下関戦争、薩英戦争の後です。とても、直正に無断で密航を決行したとは思えません。

 この件について、コビング氏は資料に基づき、諸状況を考え合わせた上で、次のように推測しています。

 「長崎にいた石丸が他藩の密航に関する情報を拾いながら、留学に対する興味をグラバーに示した結果、グラバーが石丸を誘い、最後に許可を下した直正がグラバーに依頼する展開であったのではないか」というものです(※ 前掲。p.76.)

 懇意にしていた石丸を留学させたいと思ったグラバーが、そのことを直正に伝え、直正が内密にその許可を与えたのではないかというのがコビング氏の見解でした。

 グラバーが求める日本の政治情報を伝える一方、石丸は、巷で噂になっている他藩の密航情報について、グラバーに確認していたのかもしれません。将来を考えれば、海外渡航は必然でした。グラバーに熱い渡航の思いを打ち明けていたとしても不思議ではありません。

 さらに、コビングは次のようにも記述していました。

「鍋島河内が「英国グラバが私費を以て石丸、馬渡を本国に遊ばしめたる」と述べたように、グラヴァ―が佐賀藩士二人の留学費用を負担する事になった」(※ 前掲。コビング、p.76.)

 佐賀藩二人の渡航費、滞在費用等をグラバーが支払ったというのです。それは事実だったのかもしれませんし、グラバーが支払った体にして、実際は直正が費用を出していた可能性もあります。

 実際に直正はグラバー商会と商取引がありました。後に合弁会社を設立するぐらいですから、グラバーが石丸らの費用を負担したとしても、それは、両者の取引の一環といえます。いずれにしても、直正が石丸らの渡英に関与している痕跡を残したくなかったことだけは明らかだといえるでしょう。

■幕末のイギリス留学、三藩三様

 さて、長州藩、薩摩藩に引き続き、佐賀藩も藩士が密航してイギリス留学を果たしました。いずれもイギリス人の手を借りて、渡航や留学、滞在の手配をすることができ、現地で学ぶことができました。

 海外渡航が禁止されていた時代のイギリス留学が、欧米の現状を把握し、西洋の科学技術を学ぶための突破口となったことは確かです。その後、有為の士が海外を目指しました。とはいえ、こうして振り返ってみると、幕末のイギリス留学も三藩三様だったことがわかります。

 藩と幕府との関係、藩とイギリスとの関係、藩の将来ビジョンといったようなものが関係していたのでしょうが、最も大変だったと思われるのが、佐賀藩藩士の渡英でした。

 藩からは正式に認可されることなく、渡英しており、渡航から留学、滞在に至るまでもっぱらグラバー頼みで行われました。他藩の場合とは違って、佐賀藩の場合、石丸とグラバーの個人的な信頼関係から、イギリス留学が実現したのです。

 石丸は1834年生まれで、グラバーは1838年生まれですから、二人は4歳違いです。石丸は英語の達人といわれるほどでしたから、お互いに打ち解け、何でも話し合える関係になっていたのかもしれません。

 有能な人材に、イギリスでの学習機会を与えたいという思いが、グラバーの積極的な支援になっていたように思えます。激動の時代を生きた二人が、洋の東西を越えて認め合い、好感を抱き、心の交流を積み重ねた結果といわざるをえません。(2024/3/16 香取淳子)

百武兼行⑨:近代化への取り組みと写真術

 前回、佐賀藩に写真術が導入されたプロセスを見てきました。今回も引き続き、西洋の近代技術が何故、渇望されたのか、当時の社会状況を踏まえ、考えてみることにしたいと思います。

 まず、写真術が導入された過程を振り返ることから、始めることにしましょう。

■最初に写真術を導入した薩摩藩

 前回、見てきたように、幕末日本にいち早く写真術を導入したのは、薩摩藩と佐賀藩でした。いずれも長崎経由で撮影機材を入手し、それぞれ別個に、試行錯誤を繰り返し、研究を重ねた上で、実際に藩主の写真撮影を行っていました。

 薩摩藩が1857年に銀板写真を撮影し、佐賀藩が1859年に湿板写真を撮影しています。

 ちょうどその頃、江戸幕府は、ヨーロッパ諸国とロシアに使節団を派遣することを決定しています。1858年に締結した修好通商条約について、ヨーロッパとは開港開市の延期交渉、ロシアとは樺太国境画定交渉をする必要があったからです(※ https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html)。

 文久元年12月22日(1862年1月21日)、幕府派遣の使節団は渡欧しました。横浜から長崎を経て、香港、シンガポールを経由し、エジプトを経て、フランス、イギリス、オランダ、プロシャ(ベルリン)、ロシアといった行程でした。

 この遣欧使節団に、佐賀藩の川崎道民(随行医師)と薩摩藩の松木弘安(後の寺島宗則、通訳兼医師)が参加していました。彼らは、医師として、通訳として、遣欧使節団の構成メンバーでした。

 興味深いことに、彼らはオランダに着くと、公務の合間に、わざわざ写真館に出かけていました。そして、名刺型の肖像写真を撮影し、日本に持ち帰っています。日本では見たこともない持ち運びの出来る写真でした。

 両者はいずれも、写真術に関わりがありました。佐賀藩の川崎道民は撮影経験があり、松木弘安は薩摩藩が行っていた写真術研究のメンバーだったのです。

 そもそも日本で最初にダゲレオタイプの写真を撮影したのが、薩摩藩の市来四郎(1829-1903)でした。彼は、松木弘安(1832-1893)や川本幸民(1810-1871)らと共に、島津斉彬の指示の下で写真術の研究をしていました。砲術など火薬に関する勉学を修め、西洋技術に明るくことが目に留まり、島津斉彬に認められていたのが、この市来四郎でした。

 また、川本幸民は、漢方医を学んだ後、西洋医学を学ぶため、江戸に留学しました。医学ばかりか、蘭学や物理、化学にも精通していました。彼は、翻訳書を出版したことで、島津斉彬に認められ、薩摩藩籍になりました。元はといえば、三田藩の侍医の息子です。医師であり、蘭学者でした(※ Wikipedia)。

 薩摩藩で造船所建設の技術指導をした後、蕃書調所の教授となり、1861年に『化学新書』を出版しています。化学書を多数執筆したので、日本化学の祖ともいわれています。

 一方、松木は長崎で蘭学や医学を学んだ後、江戸に赴いて川本幸民から蘭学を学び、蘭学塾に出講しました。その後、蕃書調所の教授手伝いとなってから帰郷し、薩摩藩主・島津斉彬の侍医となっています。その後、再び、江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、今度は、英語を独学し、横浜で貿易実務に関わったという異色の経歴の持ち主です(※ Wikipedia)。

 こうしてみてくると、日本で最初に写真撮影をした薩摩藩には、西洋の技術や知識、情報に精通したエリートが集結していたことがわかります。西洋の科学技術を積極的に導入することを目的に、藩主の島津斉彬が、各地から優秀な人材を呼び寄せていたからにほかなりません。

 写真術の導入はその一環と捉えることができます。

■2番目に湿板写真を撮影した佐賀藩

 幕末日本で2番目に写真撮影をしたのが、佐賀藩の川崎道民でした。医師として万延元年使節団の訪米に随行した川崎は、折を見つけ、写真館に通い詰めました。現地の技師から直接、指導を受けて、写真術を身につけるためでした。

 カメラや機材、書物だけでは知り得ない実際の運用方法を、川崎は、現地で写真技師に教えを請い、日参して学び、撮影できるようになったのです。前回、報告したように、彼の熱心な取り組みは現地メディアにも報じられていました。

 このようなエピソードからは、川崎が一見、個人的な興味関心から、アメリカで写真術を身につけてきたようにみえます。確かに、好奇心が旺盛で、学習意欲の高い川崎には、そのような側面もあったのでしょう。

 とはいえ、当時、一介の藩士が、個人的な動機だけで、写真術を学ぶことが許されたとも思えません。

 実は、渡米前に、挨拶に伺った川崎は、藩主の鍋島直正から、現地で情報を収集してくるように指令されていました(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-68/)。

 現地での写真術の習得はおそらく、鍋島直正が求めた技術情報収集の一環だったのでしょう。

 海外渡航の前に、情報収集の指令を受けていたのは、何も川崎道民に限りません。

 たとえば、遣米使節団には、6名の佐賀藩士が参加していました。そのうちの一人、島内平之助(1883-1890)は、佐賀藩の火術方に所属していましたが、川崎と同様、渡米前に、直正から種々の視察および情報収集の指令を受けています。

 指令通り、島内は帰国後、米国見聞記と砲術調査書を文久元年(1861)に書き上げ、藩主に報告しています。(※ 岩松要輔、「幕末佐賀藩士が見た中国」、『International Symposium on the History of Indigenous Knowledge』2012年、p.89)

■海外渡航の藩士に向けた情報収集の指令

 鍋島直正は、藩士たちの海外渡航の機会を捉えては、彼らに現地での情報収集を命じていました。貴重な海外渡航の機会を無駄にしなかったのです。実際、彼らからさまざまな現地情報を得た直正は、藩を取り巻く内外の情勢判断に役立てることができました。

 島内平之助は、帰国途中で香港に立ち寄った際の見聞録を残していました。

 船上から見た香港の地形、停泊する外国船や清国の船の様子を描く一方、英仏連合軍に攻撃された北京の状況を書き記していたのです。さらに、この時、交流していた米国人士官が、日本が努力して軍備を整えれば、英仏の強兵といえども軍艦を向けることはできないとささやいたことも書き添えていました(※ 前掲)。

 香港で見かけた光景と、伝え聞いた北京への英仏の攻撃事件から、島内はおそらく、明日は我が身と思ったことでしょう。その思いを米国人士官の言葉として書き添えていました。軍事力がなければ、いとも簡単に欧米から蹂躙されてしまうことを、島内はこの時、実感したのです。貴重な経験でした。

 島内が書き記した香港での経験は、鍋島直正の内外の情勢分析に大きな影響を与えたことでしょう。

 新聞社も通信社もなかった時代、海外渡航した藩士たちの情報こそが、直正に貴重な情報をもたらしていました。藩士たちは公務の合間に、現地を視察するだけでなく、情報収集するだけでなく、それを記録に残していたのです。情勢判断のための資料として、なによりも得難いものでした。

 一方、万延元年(1860)の遣米使節団に島内らと共にアメリカに赴いた川崎道民は、文久2年(1862)の遣欧使節団にも医師として随行しました。その川崎道民もまた、アメリカからの帰国後、視察報告として、(航米実記)を記しています。

 現在、東京国立博物館に保存されていますので、下巻の巻頭部分をご紹介しましょう。

(※ https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091102

 名前の上に、「西肥」と書かれており、西の肥前(佐賀藩)出身であることが示されています。川崎道民は佐賀藩医松隈甫庵の四男として天保2年(1831)に生まれ、須古(現彼杵郡白石町)の侍医川崎道明の養子になっていますから、確かに、肥前の西部出身なのです。

 下巻の冒頭では、ニューヨークはアメリカ全州のうち最も繁栄した大都会だということから書き起こしています。大都市ニューヨークでの滞在期間中に、川崎道民はさまざまな出来事を見聞します。

 それらの中で、もっとも印象深かったのが、写真と新聞でした。

 いずれも広報媒体として優れた機能を持っています。客観性、再現性、拡散性があり、不特定多数に対して均一の情報を発信するには、最適の媒体でした。川崎は衝撃を受けました。アメリカで初めてその実用例を見た時の衝撃は、ヨーロッパでさらに強化されました。

 オランダでは名刺型写真を撮影し、日本では得られない写真の進化形も経験しています。持ち運びのできる写真は個人の証明写真ともいえるものでした。西洋の新しい技術が人々の生活の中に入り込み、人と人、人と社会との関係を変貌させていくことを予感していたのかもしれません。

 アメリカでもヨーロッパでも見かけた新聞にも川崎は興味を持ちました。対象を機械的に写し出すことが出来る写真には客観性があり、出来事をありのままに伝える新聞とは親和性があると考えたのでしょう。

 日本にも新聞が必要だと感じた川崎道民は、明治5年(1872)、佐賀県で初めての新聞「佐賀県新聞」を発行しています。地域での啓蒙活動に使うつもりで立ち上げましたが、残念ながら、発行部数が伸びずに資金繰りがつかず、2か月後には廃刊されました(※ 前掲URL)。

 川崎道民が発刊した新聞は、政府や県の仕事を県民に伝える記事で構成されていました。同一情報を不特定多数に拡散できる新聞の機能を使うことによって、県民に幅広く行政情報を伝えようとしたのですが、時期が早すぎたのか、結局は失敗しました。

 ちなみに、日本で最も早く開設された新聞事業は、1871年1月28日に横浜で発行された「横浜毎日新聞」です。こちらは当初、貿易に関する情報が紙面の中心でしたが、次第に民権派の新聞と目されるようになっていきました。1906年7月に「東京毎日新聞」と改名され、1940年11月30日に廃刊されています(※Wikipedia)。

 「横浜毎日新聞」は発刊後、紆余曲折を経ながらも、1940年11月末まで継続しています。ところが、「佐賀県新聞」はわずか2か月で廃刊になってしまいました。人口規模のせいでしょうか、それとも記事内容のせいでしょうか、いずれにしても、新政府誕生とともに、新聞事業が立ち上がっていたことには留意すべきでしょう。

 幕末から欧米列強が次々と、日本の近海を訪れ、開国を迫っていました。そのような動乱期に生きた川崎道民だからこそ、誰にも分け隔てなく情報を拡散できる新聞の必要性を感じていたのかもしれません。

 欧米列強の脅威は、誰よりも鍋島直正が感じていたにちがいありません。だからこそ、渡航する藩士に現地での情報収集を命じていたように思います。

■フェートン号事件の余波

 当時、海防への懸念を募らせていた鍋島直正は、積極的に、西洋技術の導入を図り、研究開発を進めていました。

 たとえば、1850年に日本初の実用反射炉を完成させています。威力の強い鉄製の洋式大砲を鋳造するためでした。この反射炉を使って、1851年には、日本で初めて鉄製大砲を鋳造しています。反射炉の操業と大砲の製造には多額の費用がかかり、時には、佐賀藩の年間歳入の4割にも上ったこともあったようです(※ Wikipedia)。

 それでも、鍋島直正は、積極的な西洋技術の導入を推進し続けました。海防の必要性を強く感じていたからでした。

 実は、鍋島藩にはフェートン号事件という苦い経験があったのです。

 文化5年(1808)、イギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて長崎港に入ってきました。慣例に従って、オランダ商館員2名と長崎奉行所の通詞が出迎えのため、船に乗り込もうとしました。その途端、商館員2名が拉致され、イギリス船に連行されてしまいました。偽の国旗を掲げたイギリス船に騙され、長崎港への侵入を許してしまい、オランダ商館員が拉致されたというのが、フェートン事件のあらましです。

 そのフェートン号が描かれている絵を見つけました。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Phaeton_(frigate).jpg

 画像が荒く、書かれている文字を読むことはできないのですが、帆船です。

 帆船時代には、戦列艦よりも小型・高速・軽武装で、戦闘のほか哨戒、護衛などの任務に使用された船をフリゲート艦と称したそうです(※ Wikipedia)。

 急遽、対応を迫られた長崎奉行所は、フェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求しました。ところが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけでした。

 攻撃したくても、できませんでした。

 実は、その年、長崎を警衛する当番は佐賀藩でした。ところが、これまで大した事件もなかったので、経費削減のため、守備兵を幕府に無断で10分の1ほどに減らしていたのです。事件の際、長崎には本来の駐在兵力はわずか100名程度だったという状態でした(※ Wikipedia)。

 仕方なく、長崎奉行所は急遽、九州諸藩に応援の出兵を求めました。彼らの到着を待っている間に、水と食料を得たイギリス船は長崎港を去ってしまいました。

 結果だけを見れば、日本側に人的、物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されていますから、事件は平穏に解決したように思えます。ところが、長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして切腹し、鍋島藩の家老など数人も、勝手に兵力を減らしていた責任を取って切腹しています。

 そればかりではなく、幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたことを咎め、11月には第9代藩主鍋島斉直(1780-1839)に100日の閉門を命じました。鍋島斉直は、直正の父で、1805年に家督を継いでいます。

 フェートン号事件が起こったのは1808年ですから、直正がまだ7歳の時です。幼心に強烈な印象が刻み込まれたことでしょう。なによりも、フェートン号事件以後、長崎警備の費用が嵩み、藩の財政を圧迫していきました。

 直正は17歳で、第10代藩主になりましたが、財政難から藩政改革に乗り出さざるを得ませんでした。磁器や茶、石炭などの産業の育成、交易に力を注ぐ一方、藩校である弘道館を拡充し、出自にかかわらず優秀な人材を登用するといった教育改革を行いました。

 もちろん、長崎警備も強化しています。

 二度と同じようなことを起こさないため、海防を強化しなければなりませんでした。ところが、財政難だった幕府からは支援が得られなかったので、独自に西洋の軍事技術を導入していきました。

 まずは、精錬方(佐賀藩の理化学研究所)を設置し、反射炉をはじめ科学技術を積極的に取り込み、実用化していきました。

 鍋島直正が軍事や資源開発、産業化に関する科学技術に大きな関心を寄せていたのは確かです。とはいえ、川崎道民に対する指令やそのエピソードからは、それだけではなかったようにも思えます。写真術が持つ記録性、正確な再現性などにも関心を抱いていたような気がするのです。

■写真術と西洋の科学技術の導入

 砲術や火薬といった武器でもなく、資源開発のための掘削に仕えるわけでもない写真術の研究が、佐賀藩の中で、どのような位置づけになっていたのかはわかりません。ただ、鍋島家が設置した博物館「徴古館」には、初期の湿板カメラが残されていますので、このカメラから、何か推察できるものがあるかもしれません。

 これは、川崎道民が1959年に、鍋島直正を撮影したカメラです。

 この湿板カメラには、相当、使い込んだ痕跡がみられるといいます。佐賀藩の科学研究施設であった精煉方(佐賀藩が1852年11月に設けた理化学研究所)で、使用されていた可能性があるとされています(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216303)。

 人物を撮影しただけではなく、精密機器の記録装置としても使われていたのかもしれません。

 佐賀藩では精錬方を設置し、西洋の科学技術を研究し、実用化できるようにしていました。諸研究のうち、軍備強化の一環として建造されたのが、製砲工場でした。

 陣内松齢が昭和初期に描いた作品、「多布施公儀石火矢鋳立所図」が残されています。

(絹本着色、68.6×85.1cm、昭和初期、公益財団法人鍋島報效会蔵)

 この図は、1854年に佐賀県多布施川沿いに建造された製砲工場です。ここには次のような解説が記されています。

「嘉永6年(1853)のペリー来航後、幕府は佐賀藩に鉄製砲50門を注文し、品川に台場を建設することとした。これを受けて佐賀藩では、先の築地反射炉に続き、嘉永6年7月多布施川沿いに新たに公儀石火矢鋳立所(製砲工場)を設けて鋳造にあたり、150ポンド砲2門を献上した。本図は昭和初年に描いた考証復元図で、2基(4炉)の反射炉が向かい合っている」(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218840

 ここでは当初、多布施反射炉での大砲鋳造に関する洋書の翻訳、薬剤や煙硝、雷粉などの試験を行っていました。やがて、範囲を広げるようになり、蒸気機関や電信機についても研究を行うようになっています(※ Wikipedia)。

 次いでに、蒸気機関車を見ておきましょう。

(※ 鍋島報效会蔵)

 上の写真は、蒸気機関研究のため、佐賀藩精煉方が、安政2年(1855)に製作に着手したとされる蒸気車の雛形です。2気筒の蒸気シリンダーがありますが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力の不足を補うために、歯車の組み合わせによるギヤチェンジを行っていたと考えられています(※ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199422)。

 その2年前の嘉永6年(1853)に、精錬方の田中久重、中村奇輔、石黒寛二らが、外国の文献を頼りに製作した、軌間130 mmの蒸気機関車や、蒸気船の雛型(模型)があります(※ Wikipedia)。

(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Model_steam_locomotive_by_Tanaka_Hisashige_and_others.jpg

 この模型は、外国語の文献だけで、田中久重らが作り上げたものです。

 先ほど、ご紹介した1855年の雛形と見比べてみると、構造自体に大きな変化はないように見えます。この模型を手掛かりに、1855年の模型が製作されたことがわかります。構造体をほぼそのままに、細部を調整し、実用化段階の材料を使って作られたのが、1855年の模型だといえるでしょう。

 機関車部分、レールなどは鋼鉄で作られており、とても精緻な構造物です。

 イギリスで最初に蒸気機関車が作られたのが1804年、紆余曲折を経て、実際に営業運転できるようになったのが、1825年でした。総延長40キロの走行ができるようになったのです。1840年代には急速に鉄道が発展し、主要都市間を結ぶ鉄道網が敷かれといいます。

 そういえば、ダゲレオタイプの写真術が公開されたのが1839年です。以後、肖像写真に始まり、風景写真、報道写真、証明写真など、さまざま用途で写真が使われるようになっていきます。

 西洋の科学技術は、機械的反復性をテコに、急速に社会を変貌させていきました。

 1855年の雛形を見ると、鋼鉄を使い、精密な仕様で製作されています。蒸気機関だからこそ、とくに頑丈で高精度のものでなければならなかったのでしょう。西洋の科学技術を習得するには、そのメカニズムを把握するだけではなく、機械的な正確さが不可欠だったことがわかります。

 先ほどもいいましたが、川崎道民が使ったカメラには、何度も使用された形跡がありました。精錬方で使用されていたのではないかと考えられています。このことからは、佐賀藩の科学技術研究所では、西洋の文献以外に、写真術を使って西洋の科学技術の解明を図っていた可能性も考えられます。

 こうしてみてくると、西洋の科学技術の導入に積極的だった薩摩藩と佐賀藩が、最初に写真術を導入したのは、おそらく、写真ならではの正確な再現性、複製性が、西洋の科学技術の導入に不可欠だったからではないかと考えられます。

 さて、幕末日本でいち早く写真術を導入したのが、薩摩藩と佐賀藩でした。この両藩にはいくつか共通性が見受けられます。

 いずれも藩主が有能でした。藩を取り巻く国内情勢、海外情勢を的確に把握し、将来動向を見据えた上で、積極的な藩政改革を行っていました。幕末の動乱期に、右往左往するのではなく、確固たる信念をもって、藩を采配していたのです。

 その中心にあるものは、西洋技術の導入でした。

 西洋の科学技術を導入するために、両藩とも有為の人材を積極的に登用しました。そして、藩内の教育を向上させ、充実させる一方、江戸や長崎に遊学させたり、海外渡航の機会を与えたりしていました。

 欧米列強に立ち向かうには、まずは、西洋の科学技術を理解し、実用化し、実践できる人材の育成が肝要だったからでした(2024/2/29 香取淳子)