ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


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「ノスタルジア」とは何か?

■「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展の開催

 東京都美術館で今、「ノスタルジア、記憶のなかの風景」展が開催されています。開催期間は2024年11月16日から2025年1月8日までで、8人の画家の作品が、ギャラリーA、Cで展示されています。

 まず、展覧会のチラシをご紹介することにしましょう。

 チラシの表紙には、展示作品の一つ、《いつもの此の道》(芝康弘、2017年)が採用され、その上に8人の画家の名前と所属、その右に展覧会のタイトル「記憶のなかの景色」が記されています。

 該当部分を拡大してみましょう。

チラシ

 表紙の画面に採用された《いつもの此の道》は、多くの日本人から、「ノスタルジア」の感情を引き出す典型的な光景の一つといえるでしょう。かつてはどこでも見受けられた里山の風景の一環であり、人里と人が住まない自然との結節点でもあった風景です。

 柔らかな陽射しに照らされ、畔の草が輝き、木の葉が風にそよいでいます。右手に田んぼがあり、左手にため池があるような場所で、子どもたちが虫取りをしています。ひたすら虫を追ってきたのに、ふいに行方がわからなくなったのか、二人ともやや呆然として立ち尽くしています。

 はるか遠い子どものころ、見慣れた光景の一つです。自然の営みと隣り合わせで人々は暮らしており、子どもたちもまたそのような環境の中で遊び、学んでいた時代でした。

 柔らかな陽射しが、辺り一面を優しく包み込み、この風景そのものがまるでタイムカプセルに入れられてでもいるかのように見えます。あらためで、もはや二度と手に入れることのできない光景だということを強く認識させられます。心の奥底から、ふつふつとノスタルジーの感情が湧き上がってくるのを覚え、切ない気持ちに襲われてしまいます。

 そういえば、この展覧会の開催趣旨は、8人の画家たちの作品を通して、ノスタルジアという複雑な感情が持っている意味と可能性を探るというものでした。

 果たして、絵画は見る者の心の奥底に潜む「ノスタルジア」の感情をどのように覚醒させ、喚起するのでしょうか。展示作品を通して、考えてみることにしたいと思います。

 私は12月7日に東京都美術館に出かけ、展示作品を鑑賞してきました。ところが、その後、風邪をひいて発熱が長引き、回復に時間がかかってしまいました。

 ここでは、発熱後3週間を経てもなお印象深く思えた作品を取り上げてみたいと思います。

■発熱3週間後もなお印象深い作品

 発熱3週間後も経てば、会場で鑑賞した時の印象はいつしか薄れ、引き続き、心を締め付けられるような思いにさせられた作品は以下の数点でした。

 《蓮田》(阿部達也、2021年)、《六月の詩》(芝康弘、2011年)、《epoch》一部(玉虫良次、2019‐2023)、《友》(近藤オリガ、2018年)、等々です。

 見てすぐに感情がかき立てられる作品もあれば、時間をかけて心に落ち、ゆっくりと発酵してから情感が湧き上がってくるような作品もありました。いずれも心が強く揺さぶられ、切ない気持ちにさせられる作品ばかりでした。

 これらの作品は、いくつかに分類することができますが、まずは、阿部達也氏の《蓮田(茨城県かすみがうら)》、そして、芝康弘氏の《六月の詩》から見ていくことにしましょう。いずれも画面がそのままストレートに見る者の情感を刺激する作品です。

 たとえば、《蓮田》の場合、風景そのものが巨大な感傷を誘う力を持ち合わせています。実際にこの光景を見たことがある者、そうでない者にも等しく、一定の感情を喚起させるだけの訴求力があります。

 また、《6月の詩》は、光景そのものがしみじみとした気持ちにさせてくれます。子どものころ、このような経験をした者はいるでしょうし、このような光景を見かけた者もいるでしょう。この光景は、ある年代以上の日本人にとっては共通して経験していた光景であり、普遍的なものでした。都市化が進む以前、どこでも身近に見られた光景であり、誰もが追体験できる光景だったのです。

 この作品から覚醒させられるのは、懐かしさであり、この光景がもたらす幸せの感覚でしょう。いずれももはや手に入れることのできないものです。

 それでは、風景や光景のどの要素が見る者に作用しているのでしょうか。

■風景や光景がもつ訴求力

 まず、阿部竜也氏の作品から見ていくことにしましょう。

●阿部達也氏《蓮田(茨城県かすみがうら)》

 阿部達也氏が出品された10作品のうち、私がもっともノスタルジーを感じさせられたのは、この作品でした。


(油彩、カンヴァス、50.0×72.2㎝、2021年、作家蔵)

 画面中ほどに地平線が設定されており、地平線近くは黄色がかった色で、そこから上は白い雲のようなものが空を覆い、上空に近づくと、青くなっています。地平線周辺が明るく輝いているのは、おそらく、立ち昇る朝陽のせいでしょう。

 地平線から手前は蓮田が広がり、どこまでも続く蓮田の水面に陽光がきらめいています。逆光のせいか、蓮の葉は黒っぽく描かれており、枯れているようにも見えます。広い蓮田に葉がまばらに散在しており、寂寥感が漂っています。

 見ているだけで、胸がしめつけられるような感傷を覚えさせられる光景でした。これまで蓮田を見たことがなかったにもかかわらず、私は、この作品を見て、深いノスタルジーを感じてしまったのです。

 おそらく、画面に透明感があり、寂寥感があったからでしょう。その透き通るような寂寞感に、私は心が打たれました。改めて、ノスタルジーには、透明感と寂寥感がつきものだということを感じさせられました。

 そして、思い出したのが、阿部氏が風景画を手掛けるきっかけとなったエピソードでした。

 阿部達也氏は、画家になりたてのころ、人物画を描いていましたが、やがて行き詰ってしまったそうです。そんな時、たまたま、携帯で夕日を撮影している女性を見かけ、啓示を得ました。図録の中で次のように述べています。

 「人が心を動かされるものは、どこか遠くや、自分の内面を底までさらわなくても、身近なところにいくらでもあったことに気づいたのです。それからの私の制作方針は、写真で撮ってきた風景を、なるべくそのままに、個人的感情を差し込まないように描くことになりました。(中略)みる人によってその人なりの感情を込めて見られるような、余白の大きな、広い絵を私は描きたいのです」(※ 図録『ノスタルジア、―記憶の中の景色』p.18)

 ご紹介した作品は、阿部氏が現地で写真を撮り、それをそのままカンヴァスに置き換えたものでした。もちろん、どのアングルで風景を捉えるのか、どの瞬間にシャッターを切るのか、一瞬を捉えた写真の中に、阿部氏の選択があり、世界観や美意識が反映されていることはいうまでもありません。

 この蓮田が阿部氏にとって既知の風景だったのかどうかわかりませんが、少なくとも、この瞬間の蓮田を美しいと感じられたのでしょう。

 そして、阿部氏がカンヴァスに描きとったこの作品を、私もまた美しいと思い、心を締め付けられるような気持ちになりました。感動が伝播する過程に立ち会うことができました。

 これこそ風景がもつ訴求力の一つなのでしょうし、ひょっとしたら、集合無意識のような反応の一つといえるものなのかもしれません。

 次に芝康弘氏の《六月の詩》を見てみましょう。

●芝康弘氏の《六月の詩》

 芝康弘氏が出品された7点のうち、私がもっともノスタルジーを感じたのは《六月の詩》でした。


(紙本彩色、162×162㎝、2011年、東京オベラシティアートギャラリー蔵)

 画面に吸い寄せられるように見てしまいました。子どものころ、経験したことがあるような光景であり、いつかどこかで見たことのあるような光景でもありました。画面を見ていると、いまにも子どもたちの話声が聞こえてきそうな気がします。

 子どもたちの衣服はもちろん、田んぼの稲や畔の草、どれも優しく丁寧に描かれています。柔らかく、周囲全体を包み込むような色調が、二度と戻ってこない過去をオブラートでくるんでいるように思えます。こちらは、心が締め付けられるというよりはむしろ懐かしく、幸福感を伴う追憶の気持ちで満たされます。

 透明感のある色調が、過ぎ去った時間の浄化を表し、そこはかとない寂寥感を生み出しています。このような風景も、このような子どもたちの遊びも、もはや二度と手に入れられないものになってしまっているのです。そのことに気づくと、一見、ほのぼのとして見えるこの作品に限りないノスタルジーを感じてしまいます。

 人は、刻々と変化する時間や空間を制御することもできないまま、「今」を生き、「今いる空間」を生きていることのむなしさを感じさせられます。

 阿部氏も、芝氏も描き方はきわめて写実的です。だからこそ、画面が直接的に見る者の気持ちに訴えかけることができたのでしょう。風景や光景そのものが抜群の訴求力を持っている場合、写実的に描くことこそが、見る者の気持ちを動かし、ノスタルジーの思いに耽らせることがわかります。

■奇妙な感覚を喚起させられた作品

 展示作品の中には、その前に立つと、奇妙な感覚に襲われざるをえない作品がありました。それが、「ノスタルジア」といえる感情なのかどうか、わかりませんが、なんとも不思議な感覚が喚起されます。

 たとえば、玉虫良次氏の《epoch》です。一つの壁面をほぼ占拠するほど巨大な作品でした。これまで見たこともない作品ですが、どこかで見たことがあるようにも思える作品です。

 巨大すぎて、ごく一部分しか、ご紹介できませんが、この作品の場合、一部も全体もその印象が大きく変わることはないように思えます。作品の一部は、全体であり、一部を知れば、全体を把握することができるような構造になっているからです。

 それでは、作品を見ていくことにしましょう。

●玉虫良次氏の《epoch》

 194×1590㎝の巨大な大きさの作品で、2019年から2023年にかけて制作されました。ここでは、その一部分をご紹介することにしましょう。


(油彩、カンヴァス、194×1590㎝の一部、2019‐2023年、作家蔵)

 手前と左中ほどに路面電車が走り、右手にそびえるビルからは、人が大勢、登ったり降りたりしています。バルコニーにも大勢の人々がいて、身を乗り出すようにして下を見ています。

 ビルから降りたすぐ先に、掲示板のようなものが設置されており、その前に人々が群がって覗き込んでいます。自治体か政府からなにかしら告知がされているのでしょう。このような光景を見ていると、日本ではなく、アジアのどこかの国の風景のように思えてきます。

 見渡すと、青と白のストライプの庇をつけた小さなお店が、あちこちにあります。店内にお客がほとんどいないお店もあれば、大勢のお客を待たせているお店もあります。人々の日常生活をささえる食品等を販売しているのでしょう。必要なものを買い、不必要なものは買わないという様子が見て取れます。

 街中に人があふれかえっていますが、おそらく、大勢の人々は生活に余裕がなく、その日暮らしなのでしょう。

 子どもを抱いた母親、荷車を引く男性、ただ、突っ立っているだけの子ども・・・、あらゆる人々の生活行動がすべて、この街中で再現されているかのような光景です。所々に、自転車が放置され、野良犬が佇み、群れた人々が街のあちこちで散見されます。

 彼らが何をしているのかといえば、掲示板を見つめ、人々の様子をうかがい、何をするというわけでもなく、ただ、群がっているだけでした。

 こうしてみてくると、作者は、ある時代の日本社会を描こうとしていたのではないかという気がしてきます。というのも、この作品には、アジアの街で見られるような、人々の群がりの中で生み出される体臭のようなものまでも描かれているからでした。

 たとえば、ご紹介した画面の手前部分を拡大してみましょう。


(※ 前掲一部分)

 ベランダにいる人々を描いたものなのでしょうか。人々がひしめきあっている様子が描かれています。互いに触れ合いそうなほど至近距離に、老若男女がいて、何をするわけでもなく、群がっているのです。しかも、彼らの顔は、老いも若きも男性も女性もみな、赤茶けた顔色で描かれています。

 ここには、汚れや体臭を気にすることもなく、必死に生きようとする人々が描かれています。ただひたすら生き抜くことを目指して日々、群れの中で暮らしていることがすぐにもわかるような絵柄です。

 このような光景は、いまではごく一部の世代の人々の記憶に残っているだけでしょう。貴重な光景であり、もはや二度と見ることのできない光景の一つといえるでしょう。

 玉虫氏は、自身の子どものころについて、次のように記しています。

 「旧中山道沿いにある小さな商店街、借家の用品雑貨店での立ち退きになるまでの10年位の日常生活、家が狭くてのんびりして居られず、暗くなるまで外で過ごし、親より近所にある色々な店の人々の中で育ったような気がする」(※ 前掲、p.94)

 いまでは、ここで描かれたような光景を二度と見ることはできないでしょう。ここで描かれているのは、戦後復興期の日本社会の一端であり、必死に生き延びようとする人々の強烈なエネルギーです。プライバシーや清潔感などいっこうに気にすることもなく、人々はひたすら時代の動きを把握し、貪欲に生きていこうとしていた時代でした。

 この作品からは街の匂い、当時の人々の体臭すら感じとることができます。もはや見ることはできず、経験することもできない時代の記憶が、この作品には表現されていました。

■特定の時間、空間と結びついた「ノスタルジア」の感情

 こうしてみてくると、「ノスタルジア」の感情は、特定の時間や時期、特定の場所に結び付いた風景であり、光景であり、状況だということがわかります。もはや二度と見ることができないという思いが、「ノスタルジア」の感情をさらに強化していることも理解できます。

 特定の「時空」と結びついた一回性の感情だからこそ、哀切感や寂寥感、哀惜感が付随し、複雑な情感を醸成するのでしょう。

 今回、ご紹介した《蓮田》にしても、《六月の詩》にしても、《epoch》にしても、それらの作品が喚起する「ノスタルジア」には、さまざまな情感が付随していました。そこには、作品と見る者との間に、目に見えない交流があり、その交流によって作品世界がさらに豊かなものになっていく過程も含まれています。

 絵画を発信源とする影響過程とでもいえるものが、会場内でループしていたといってもいいかもしれません。おそらく、主催者側が想定した展覧会の趣旨の射程距離はそのようなものだったのでしょう。

 ところが、会場の一角に、近藤オリガ氏の作品が展示されることによって、展覧会がさらに豊かなものになっていたような気がします。というのも、近藤オリガ氏の出品作品は一目で他の展示作品とはことなっていたからです。

 近藤オリガ氏の作品には、どれも清らかな透明感が漲っていました。この世のものとも思えない、清らかさ、無垢、そして、どこにも帰属しないことからくる解放感、時空の枠組みではとらえられない自由・・・、といったようなものが画面からあふれていたのです。

 作品の前に立つと、奇妙な感情が湧き上がってくるのが感じられます。捉えどころのない感情のようでいて、その実、どこかでしっかりと経験したことがあるようなデジャブ感もあります。

 近藤オリガ氏の一連の作品からは、それまでとはちがって、時空を超えた「ノスタルジア」とでもいえるような感情が喚起されたのです。

■時空を超えた「ノスタルジア」

 興味深いのは、近藤オリガ氏の作品です。展示作品6点のどれもが深い憂いと哀しみに満ちており、見る者の心を打ちます。題材は異なっても、魂の根源にまで洞察の及んだ画面が、時空を超えた世界に誘ってくれるからでしょう。

 できるだけ筆触を残さず、滑らかにリアルに描かれた幻想空間が、見る者の心の奥深くを刺激します。そこから派生した感覚を、「ノスタルジア」と表現していいのかどうかわかりませんが、少なくとも、哀切感、寂寥感は強く感じさせられました。

 一連の展示作品のうち、ことさらにその種の感情を刺激されたのが、近藤オリガ氏の《友》でした。

 ご紹介していくことにしましょう。

●近藤オリガ氏の《友》

 近藤オリガ氏の作品は6点、展示されていました。いずれも時空の軸がなく、無重力空間に存在しているような構成が印象的でした。なかでも、空間のレイアウトが独特で、印象に残ったのが、《友》でした。


(油彩、カンヴァス、130×162㎝、2018年、作家蔵)

 遠方に連なる山並みに抱かれるように身を横たえ、静かにまどろむ子どもの姿が、画面中ほどに描かれています。子どもは片手をだらりと垂らし、意識なく眠っているように見えます。その下には犬が横たわり、まるで子どもを守る番犬のように、寝そべったまま鋭い眼光をこちらに向けています。

 この犬は、まさに、子どもにとって忠実な《友》でした。

 大空の雲間から漏れ出た光が、寝そべる子どもを照らし出した後、にらみつける犬をくっきりと浮き彫りにしています。本来なら、番犬は隠れて子どもを警護しているはずですが、ここでは、まるでスポットライトを当てられたかのように、その存在を露わにしています。

 犬が寝そべっているのは、子どもの真下です。まるで二段ベッドの上と下にそれぞれ居場所を作っているかのように見えます。もちろん、二段ベッドがあるわけではなく、床はおろか、壁すらもありません。

 とにかく奇妙な空間でした。

 はるか遠方に山並みが広がっており、雲間から陽光が射し込んでいます。それが大気を照らし、山を照らし、寝入っている子どもの顔や手足を照らし出しています。その明るさの余波を受けて、犬のいる空間の視認性が高くなっていることがわかります。

 興味深いことに、山並みを描いた遠景と、子どもと犬が描かれた近景との間に中景がありません。はるか遠くの山々を照らし出していた陽光が、いきなり、子どもの寝姿を照らし出すという非現実的な設定になっているのです。

 このように、画面上で距離の圧縮が行われる一方、壁や床といった居場所の基準となる要素が描かれていません。いってみれば、座標軸が省かれたところで、子どもがうたた寝をし、犬が寝そべっている姿が描かれているのです。

 座標軸が設定されていないせいか、子どもも犬も、無重力空間に浮いているように見えます。これまでに見たことのない光景であり、絵柄でした。それなのに、見ていると、心が締め付けられるような感情が湧き上がってきます。まさに、「ノスタルジア」といってもいいような感情でした。

 かつて経験したことのある光景でもなければ、見たことのある風景でもありません。それなのに、なぜ、心の奥深く、感情が刺激されたのでしょうか。

 ふと思いついて、図録から近藤オリガ氏の言葉を探してみました。何か手がかりを得られるのではないかと考えたからでした。

 近藤オリガ氏は、次のように記していました。

 「ノスタルジアは私にとってはタイムマシンです。幼き頃見ていた自然の風景、心の風景全てが記憶の底にあり、スイッチが入ると、マシンに乗って何時でも懐かしい記憶の世界に戻ることができます。例えば、玄関先に座って父を待つ自分や、両親と一緒に月を眺めている自分の姿も現れてきます」(※ 図録、前掲、pp95-96)

 それにしても不思議な空間でした。

 かつて見た光景ではなく、かつて生きた世界でもないのに、どういうわけか、ノスタルジーとでも表現できるような感覚が呼び覚まされるのです。見ているだけで切なく、愛おしく、そして、心が痛みます。

 描かれた世界が重力のない幻想空間だったということからは、ひょっとしたら、胎内空間へのノスタルジーが呼び覚まされたのかもしれせん。

 いずれにせよ、近藤オリガ氏の作品が加わることによって、この展覧会に豊かさが加味されました。「ノスタルジア」を喚起するものは決して、特定の場所や時間や時代と結びついたものだけではないことが明らかにされたのです。とても興味深い展覧会でした。(2024/12/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ④:第1回印象派展を批評家はどう見たか

■批評家から見た印象派の画家の作品

 第1回印象派展で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)から酷評されたのが、ピサロの作品、《白い霧》でした。アカデミズムの作品を見慣れてきた批評家にとっては耐えられないレベルだったのでしょう。

 果たして、どのような作品だったのでしょうか、今回はまず、この作品から見ていくことにしましょう。

●《白い霧》(Hoarfrost, 1873年)

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)は、第1回印象派展の開催に尽力した画家たちの一人で、当時、43歳でした。展覧会には、出品目録No.136からNo.140までの5点が展示されました。いずれも風景画ですが、その中の一つが、酷評されたこの作品です。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、オルセー美術館蔵)

 丘陵地にある畑に畝が幾筋も伸び、その上をうっすらと霜が降りている様子が描かれています。その畝の合間を縫うように、薪を背負って歩く農夫の後ろ姿が捉えられています。暖を取るための冬支度をしているのでしょう。

 画面全体を見渡すと、右手前以外は、畝の描き方、霜の描き方、いずれも雑で、何とも不自然に見えます。傾斜地の起伏を考慮せず、ただ太い線を引いただけの幾筋もの畝がいかにも稚拙なのです。しかも、この部分の霜もまた、地面全般に薄い白を重ねただけでした。

 これでは、ルイ・ルロワに貶されても、文句はいえないでしょう。

 もっとも、薪を背負って歩く農夫の姿が添えられたことで、画面からは、初冬を迎えた農村の生活の厳しさが伝わってきます。風景がとしては稚拙ですが、農夫を描くことによって、観客を誘い込む情感が、画面に生み出されたのです。

 さて、評論家のルイ・ルロワは、この作品に対する感想を、案内した観客と対話するという形式で表現しています。引用してみましょう。

 「ほら…深く耕された畝に霜が降りているのが見えるでしょう」

 「あの畝?あの霜?でも、汚れたキャンバスにパレットの削りかすを均一に置いたものです。頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」

 「そうかもしれません…でも印象は表現されています」

 (※ ジョン・リウォルド、三浦篤、坂上桂子訳、『印象派の歴史』、2019年、角川ソフィア文庫、pp.32-33)

 対話形式なので、否定のニュアンスは若干、弱められていますが、ルイ・ルロワのいうように、稚拙な表現であったことは疑いようもありません。彼は、案内した観客の言葉を引用しながら、「汚れたキャンバスにパレットの削りカスを均等にまき散らしたとしか見えない」と酷評しているのです。

 極めつけは、「頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」と評した上で、「でも、印象はそこにあります」と結論づけているところです。そのようなオチをつけなければ、当時はこの作品を評価することができなかったのでしょう。

 アカデミズムの技法を踏まえずに描かれた画面は、たしかに、前後、左右、上下がなく、捉えどころがありません。当時、西洋画の基本であった遠近法や透視図法も採用されておらず、筆触を消すための入念な仕上げも施されていませんでした。アカデミーの基準で評価できる作品ではなかったのです。

 これまでの判断基準を適用できないこの作品を見たとき、評論家ルイ・ルロワは、その捉えどころのなさの中にこそ「印象はある」と、揶揄するしかなかったといえます。

■当時の評価基準と第1回印象派展

 なにもピサロばかりではありません。第1回印象派展には、今では著名な多くの画家たちが出品していましたが、ほとんど評価されていませんでした。評論家や審査員たちはアカデミックでない作品をどう評価していいかわからず、ただ、絵画とみなせるか否かで判断していただけでした。

 たとえば、マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 – 1898)は、当時の審査員たちについて、「審査員は、これは絵画である、あれは絵画でないといっていればよい」と述べています(※ 前掲、p.46)。絵画の評価基準はそれほど混沌とした状況にあったのです。そして、印象派の画家の作品のほとんどは、「絵画ではない」という判断をくだされていました。

 そもそも、アカデミズムの支配から抜け出そうとして、制作活動を展開していたのが、第一回印象派展に出品した画家たちでした。当然のことながら、多くの批評家にとって彼らの作品は理解しがたく、戸惑い、困惑するしかありませんでした。

 その後、「印象派」という漠然とした呼び名で彼らが総称されたことで、一つの流れが生み出されました。アカデミズムではなく、新しい題材や表現を模索する画家たちの登場という流れです。

 まだ確かな方向性は見えてこないものの、未来を感じさせ、新しい時代の到来を予感させるものがありました。

 当時、アカデミズムの基準が盤石なものではなくなりはじめていましたが、新しい評価基準、評価視点はまだ定まっていませんでした。社会変動に伴い、美術界のヒエラルキーにも揺らぎが見え始めたころ、登場してきたのが、印象派として括られた画家たちでした。

 産業革命後、新興勢力が台頭してくるにつれ、美術市場にも変化が訪れていました。

 それまで顧客であった王族、貴族、富裕者層に加え、新たにブルジョワジー層が美術市場の顧客として浮上してきていたのです。進取の気性に富む彼らは、アカデミックな画法を堅苦しく思い、自由な視点で選ばれた題材、自由な画法で描かれた作品に注目しました。

 美術市場の裾野が広がるにつれ、反アカデミックな姿勢の画家たちの作品にも関心が寄せられるようになっていたのです。明らかに産業化に伴う時代の変化が、美術界にも押し寄せていました。

 とはいえ、サロンの力はもちろん、まだ絶大でした。

 たとえば、マネ( Édouard Manet, 1832 – 1883)は、ドガに誘われながらも、決してこの第1回印象派展に出品しようとしませんでした。それは、どうやらサロンに出品しなければ、画家として認められないと考えていたからだったようです。逆に、ドガに向かって、「一緒にサロンに出品しましょう。あなたなら、よい評価を受けますよ」とまでいっていたそうです(※ 前掲、p.27)。

■サロンの権威

 ナポレオン3世の第二帝政期にパリは大改造され、ヨーロッパ最先端の文化都市になっていました。それを象徴するように、サロンが社会的行事として定着しており、美術批評も盛んにおこなわれていました。

 それだけに、当時、画家として認められるには、サロン(Salon de Paris)に出品して評価されることが前提になっていました。

 サロンが絶対的な力を持つ状況下で、画家が作品を売ろうとすれば、サロンでの成功が不可欠でした。サロンの審査員から高評価を得る必要があったのです。

 ところが、サロンの審査委員のほとんどは、アカデミーの会員でした。審査員は、画家の間での選挙と行政による任命によって選ばれるシステムでしたが、どちらの場合も結局、アカデミー会員から選ばれることが多く、サロンの審査基準がアカデミーから逸れることはなかったのです。

 サロンの審査基準は、新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに基づくものでした。そして、そのような評価基準は一般の美術評論家はもちろん、観客にまで幅広く浸透していました。

 アカデミーに基づく審査基準、そこから派生した絵画全般の評価基準に支えられ、サロンの権威はますます強化されていきました。当時の絵画観はサロンによって、形成されていたのです。

 そのような状況下で、第1回印象派が開催されたとしても、出品した画家たちの作品が高評価を得る可能性はほぼないに等しい状況でした。

 実際、それは展覧会への入場者数にみごとに反映されていました。同じ年に開催されたサロンは連日、大勢の観客でにぎわい、入場者数は40万人にも及びましたが、印象派展はわずか3500人程度でした。

■『落選展』よりひどい、『第1回印象派展』

 共和主義者の評論家たちは比較的、印象派の画家たちに好意的でしたが、それでも、「思い出すと必ず笑ってしまうほどの、あの有名な『落選者展』でさえ、カピュシーヌ大通りの展覧会に比べたらルーヴルのようなものだ」と評していました。

 『落選者展』とは、サロンに落選した作品を集めて展示した展覧会です。たいていの場合、1863年の展覧会を指しますが、これはナポレオン三世によって開催されたものです。

 第二帝政期以降のサロンは保守的な傾向を強め、1863年のサロンでは3000点以上の作品が落選しました。画家たちからの抗議が殺到したので、ナポレオン三世の発令で開催されたのが、『落選者展』です。ところが、多くの批評家や観衆は、サロンに落選した作品を見て嘲笑していたのです。

 その『落選者展』よりも「カピュシーヌ大通りの展覧会」(『第1回印象派展』)の方がひどいといっているのです。

 そんな中で、批評家のカスタニャリ(Jules-Antoine Castagnary, 1830 – 1888)は、印象派の画家たちを、どちらかといえば、客観的に評価していました。

 「彼らに共通の概念は、滑らかな絵肌の仕上げを求めずに、概略的な要素を示すだけで満足することである。ひとたび印象が把握されれば、彼らのするべきことは終わったことになる。(中略)彼らは、風景を表現しているのではなく、風景から得られる感覚を表現しているという意味において、印象派の画家といえるのである」(※ 前掲、p.50)

 こうして評論家たちは彼らを、次第に、「印象派」の画家として位置づけていくのですが、ドガはこう呼ばれることを嫌いました。というのも、当時、この言葉には嘲笑的なニュアンスが込められていたからでした。

 ちなみに、ドガは第1回印象派展の開催に力を尽くしており、親しくしていたルアールはもちろん、年若いカイユボットにも出品を勧めていました。この展覧会によって、アカデミズムにはない新機軸を打ち出そうとしていたのです。

 実は、ドガは手厳しい評論家たちからも比較的評価は高かったのです。

 それでは、ドガの作品は一体、どのようなものだったのか、見てみることにしましょう。

■第1回印象派展への出品作品、同時期の作品

 ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)は当時39歳で、10点出品していました。出品目録のNo54からNo63までがドガの出品作品です。これら10点のうち、デッサン画やパステル画を除いた作品のうち、Wikipediaで紹介されているのが、No57の《Blanchisseuse 》でした。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95

 ドガはこの時期、洗濯する女性を取り上げ、多くの作品を描いており、紛らわしいタイトルがいくつもありました。さらに、この作品のタイトルについては、日本版Wikipediaでは、女性定冠詞「la」が付けられ(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95)、出品目録では定冠詞がなく(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_%C5%93uvres_pr%C3%A9sent%C3%A9es_%C3%A0_la_premi%C3%A8re_exposition_impressionniste_de_1874)、フランス版Wikipediaでは、複数定冠詞「les」付けられていました(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Edgar_Degas#/media/Fichier:Edgar_Degas_-_Washerwomen_-_Google_Art_Project.jpg)。

 後の人々がこの作品のタイトルをどう扱えばいいのか迷った形跡がうかがえます。ここでは、日本版Wikipediaに従い、女性定冠詞の付いたタイトルを使います。

 それでは、ドガの作品《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)を見てみることにしましょう。

●ドガ、《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)

 非常に小さい作品です。最初、鏡に映った女性の姿を描いているのかと思いましたが、よく見ると、顔立ちから表情、手の位置まで異なっています。二人の女性が顔を寄せ合っている様子を描いたものでした。

(油彩、カンヴァス、21×15㎝、1870‐1872、アンドレ・マルロー近代美術館蔵)

 女性が二人、ともに目を伏せ、憂いに沈んでいるような表情を浮かべているのが印象的です。暗い表情のせいか、左の女性が頭から顎にかけて巻いている白い布は、包帯のように見えますし、右の女性の手は口元を手で押さえており、歯の痛みに苦しんでいるように思えます。

 タイトルは《洗濯女》ですが、洗濯するシーンは描かれておらず、女性たちの頭部に焦点が当てられているところがユニークです。辛く厳しい彼女たちの日常を、頭痛あるいは歯の痛みなど、頭部周辺の痛みに置き換え、象徴的に表現したとも考えられます。

 ドガはこの頃、洗濯する女性をモチーフに、いくつも作品を残していますが、いずれも上半身で作業をする姿が描かれており、このような構図の作品は見当たりません。おそらく彼女たちの心理に肉薄しようとしたのでしょう、至近距離で二人の顔面が描かれています。クローズアップで捉えた二人の構図が面白く、画面に込められたメッセージが気になります。

 そういえば、ドガは新興ブルジョワジーの出身で、1855年にエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)入学し、アングル派の画家ルイ・ラモート(Lois Ramote )に師事しました。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究しています。

 彼の経歴を見れば、明らかにアカデミーの教育を受けているのですが、第1回印象派展を開催した頃、手がけていた題材は、洗濯女や踊り子でした。ブルジョワ階級の出身でありながら、労働者階級の人々に深く心を寄せて、制作していたことがわかります。

 果たして、どのような観点から描こうとしていたのでしょうか。試みに、作品タイトルBlanchisseuseとEdgar Degasをキーワードに検索してみたところ、驚くほど多数の作品があがってきました。

 当時、ドガは洗濯する女性をどのように捉えていたのか把握するため、それらの中から一つ作品を取り上げ、ご紹介していきたいと思います。

 ここでは、第1回印象派展の開催(1874年)に近い、1873年に制作された作品《A Woman Ironing》を取り上げることにしたいと思います。

 この作品の出品時のタイトルは元々、《Une Blanchisseuse》(洗濯)でした。それが時を経て、そのまま、《Une Blanchisseuse》とするもの、あるいは、作品内容に合わせ、《La Repasseuse》とするもの、さらには、《A Woman Ironing》と英語表記で画面内容に合わせたもの、といった具合に三種類もありました。先ほどご紹介した《洗濯女》と同様です。

 Wikimedia Commonsでは、この作品のタイトルが《A Woman Ironing》になっていましたので、こちらのタイトルを使うことにしました。それでは、この作品を見てみることにしましょう。

●《アイロンがけをする女性》(A Woman Ironing)

 アイロンがけをする女性が逆光の中で捉えられています。


(油彩、カンヴァス、54.3×39.4㎝、1873年、メトロポリタン美術館蔵)

 窓から射し込む陽光が明るく反射して、アイロンがけをする手元やその周辺、壁面など辺り一帯が白く描かれています。その白さを覆うように、女性の頭上には、たくさんの衣類がぶら下がっており、アイロンがけの仕事がまだまだ続くことが示されています。この室内の様子で、いかに過酷な労働なのかが示されています。

 アカデミズムの画家からすれば、稚拙な表現に見えるかもしれませんが、ラフな色彩とタッチで描かれているからこそ、色調のコントラストが際立って見えます。この強いコントラストが、《工場の前のルアール》と同様、画面からメッセージ性を生み出しているのです。

 辺り一面を白く見せてしまうほど、強い陽光が窓から射し込み、アイロンがけをする女性は、逆光で暗く描かれています。全体に白っぽい画面の中、窓枠と女性だけが、黒褐色で描かれています。まさに、光と影が描かれているのです。

 このような色調のコントラストが、観客の想像力を刺激し、画面を魅力的なものに見せているといえるでしょう。

 《洗濯女》といい、《アイロンがけをする女性》といい、働く女性をモチーフに斬新な構図と色構成で捉えています。どこででも見かける日常の光景が、シャープな視点で切り取られ、作品化されているのです。さまざまな試みをしながら、新機軸を打ち出そうとしているのがわかります。

 ドガが従来のアカデミズムに収まりきらない画家であることは確かでした。もっとも、だからといって、印象派の画家として一括してしまうこともできません。

■反アカデミズムとしての第1回印象派展

 第1回印象派展は、さまざまなグループの画家たちが協調し、力を出し合って創設した展覧会でした。サロンとは別に、作品発表の場を設け、絵画の販売チャンネルを画家自らが持つためでした。サロンに認められず、生計を立てることのできない画家たちが危機感を覚え、発案した事業だったのです。

 画家自らが発表の場を設けることによって、サロン以外の評価基準による絵画の流通を目指しました。この展覧会は、いってみれば、画家自らが画策した、販売のためのインフラ整備でした。第1回印象派展の開催に尽力したのが、ルノワール、ピサロ、ドガでした。

 会期が終わり、ふたを開けてみれば、開催期間中に作品が売れたのは、シスレー、モネ、ルノワール、ピサロぐらいでした。主要メンバーのうち、ドガの作品には買い手がつかなかったのです。

 一部の批評家からは評価されていたにもかかわらず、ドガの作品は売れませんでした。おそらく、第1回印象派展に参加した批評家や観客たちの感性や美意識、絵画観にドガの作品がマッチしなかったからではないかという気がします。

 印象派は一般に、目の前にあるものを見たまま、即興で描くというイメージがあります。だからこそ、筆致が粗く、遠近感や立体感がなく、混沌として、稚拙に見えるのですが、ドガの作品にはそれがなく、むしろ思考の痕跡が見受けられます。

 今回、ご紹介した《洗濯女》にしても、《アイロンがけをする女性》にしても、印象派の画家が好む日常の生活光景を題材にしながら、その表現方法にはアカデミズムを踏まえた実験的要素があり、試行錯誤の後が見られます。

 ドガ自身も、「印象派」と呼ばれるのを好みませんでした。彼らとは違うという認識があったのでしょう。実際、1855年にエコール・デ・ボザールに入学してアングル派のルイ・ラモートに師事したばかりか、イタリアを訪れ、古典研究をしていました。美術に関し正規のアカデミズム教育を受けていたのです。

 改めてドガの作品を見直してみると、西洋絵画の基礎の上に、新しい時代の息吹を吹き込もうとしていたように思えます。産業革命を経て新興ブルジョワジーが台頭してきたように、封建体制に根付く新古典主義を乗り越え、独自の境地を開こうとしていたのです。

 ドガは、反アカデミズムという枠には収まりますが、印象派という枠には収まり切れませんでした。進取の気性に富み、テクノロジーを愛し、独自の境地を切り拓こうとした画家だったといえるかもしれません。

(2024/11/27 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ③:カイユボットの交友関係と第1回印象派展 

■カイユボットの交友関係

 カイユボットは画家になりたての頃、同窓だったジャン・ベローや、ミロメニル通りの近くに住んでいたアンリ・ルアール(Henri Rouart,1833 – 1912)と交流していました。ルアールはカイユボットより15歳も年長でしたが、近所に住んでいたので、親交を深めていたのでしょう。

 一方、ルアールは、ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)とはリセのクラスメートでした。リセを卒業すると、ルアールはエコール・ポリテクニークに進んでエンジニアとして働き、実業家になりましたが、ドガはエコール・デ・ボザールに進み、画家としてキャリアを築いています。進路は違っても、二人は生涯の友人でした。

 ドガがルアールを描いた作品があります。

●《工場の前のルアール》(Henri Rouart in Front of His Factory)

 経営する工場を背後に佇むルアールの上半身が描かれている作品です。

(油彩、カンヴァス、65×50㎝、1875年、カーネギー美術館蔵)

 まず、目に入るのがルアールの横顔です。シルクハットを被って、顎髭をたくわえ、いかにも実業家然としています。この時、ルアールは41歳、脂の乗った年齢です。なにか難題でも抱え込んでいたのでしょうか、一点を見つめ、身じろぎもせずに佇んでいる姿が印象的です。深刻な表情が気になります。

 工場につづく背後の道路、その脇の木立はすべて、黒褐色の濃淡で描かれています。手前から三分の二までの画面が暗い色調で覆われているのです。空さえもどんよりと曇り、まるでルアールの心情を反映させているかのようです。

 暗い画面の上部を横断するように、工場が描かれています。白い壁、赤い屋根の上に、淡いベージュ色の高い煙突がそびえるように立っています。画面が暗いだけに、工場の明るさが際立って見えます。その近代的な明るさが、産業化の象徴のように感じられます。

 稼働している工場は明るく描かれ、それ以外は暗い色調でまとめられています。画面の大部分を暗く描き、工場だけを明るく描いた色構成が、明暗のコントラストを強め、ルアールの苦悩を強調しているように思えます。そこにドガのこの作品に込めた表現意図が感じられるのです。ルアールの実業家としての一側面を、色彩の面からドガは見事に描ききったといえるでしょう。

 一方、ルアールの立ち姿は、画面右寄りにどっしりとした縦のラインを示し、重みを与えています。黒いシルクハットに平行して、淡いベージュの煙突が描かれ、縦のラインとなって画面上部に達しています。この二つのラインが、明暗のコントラストを保ちながら、画面を縦方向に安定させていることがわかります。

 さらに、道路にはパース線がいくつも引かれ、工場までの遠近感がしっかりと表現されています。これらのパース線は、手前から工場までの空間を、斜めのラインで整理し、暗い道路周辺の曖昧さを排除しています。

 パース線が到達している工場は、画面を横方向で安定させています。縦、横、斜めのラインで、画面全体を構造化し、調和をもたらしていることがわかります。ドガは、画面の色構成によってコントラストを強め、メッセージ性を高める一方、幾何学的な構図で、画面を構造的に安定させていたのです。

 この作品は、画面が幾何学的に構造化されており、産業化時代に重視された科学性が強調されているように思えます。さらに、顕著な明暗のコントラストは、産業化が格差を拡大していくことを示唆しているようにも感じられます。

 第二帝政時代、産業化の推進が奨励されていました。実業家は、時代を牽引する人々であり、近代性、先進性の象徴でもありました。その実業家であるルアールを、ドガは、彼の近代的な工場を背景に、幾何学的な構成で描きました。

 ドガはこの作品で、産業化のエッセンスを描こうとしていたのではないかと思います。

 一方、ルアールの暗い表情からは、財力があり、一見、華やかに見えるブルジョワジーにも、実業家ならではの苦悩と焦慮感があることが示唆されています。産業化を急いでいた時代だからこそ、見出されたテーマであり、問題点でした。ドガはそのエッセンスを、色彩と絶妙な画面構成によって、見事に描き切ったといえます。

■画家としてのルアール

 実業家ルアールは、画家としても活動しており、1868年から1872年まではサロン・ド・パリに出品していました。ドガに誘われ、1874年の「第1回印象派展」には11点も出展しています。

 どのような作品があるのか気になって、出品目録を見ると、確かに、No.148からNo.158まで作品11点が、アーティスト名ルアール(Henri Rouart)で出品されていました。(* https://en.wikipedia.org/wiki/First_Impressionist_Exhibition

 ところが、作品の詳細は記載されておらず、タイトル名と画家名が書かれているだけです。仕方なく、タイトル名を手掛かりにネットで調べてみました。出品した11作品中、唯一、ルアールの作品画像を入手できたのが、《Forêt》でした。

 それでは、作品を見てみましょう。

●《森》(Forêt)

 繊細なタッチの風景画です。一見して、印象派よりも古い時代の作品のように見えます。


(油彩、カンヴァス、59.5×73.2㎝、制作年不明、所蔵先不明)

 木の幹や枝葉、下草の描き方にアカデミズムの画法を見ることができます。いつ制作された作品なのかわかりませんが、少なくとも、印象派の画家たちの影響を受ける前の作品だと考えられます。

 木々の間から漏れる陽光が幹や枝をくっきりと照らし出し、葉を輝かせています。細部まで丁寧に描かれており、森のひそやかな息遣いが伝わってきます。下草には、木々の影が伸び、森の中の、光と影が織りなす調和のある美しさが捉えられています。光と影に着目して画面構成をしているところに、印象派との親和性が感じられます。

 ルアールは、この第1回印象派展だけではなく、その後も、印象派展には何度か出品しています。実業家でありながら、ルアールは画家としても活動していましたが、展覧会に出品しても受賞するわけでもなく、画家として評価されたということもありませんでした。

■パトロンとしての役割

 当時、絵を売って画家として生計を立てていくのは至難の業でした。貧困にあえぐ画家たちがなんと多数いたことか。実業家のルアールは、やがて、画家というよりはむしろ、パトロンの役割を担わされるようになっていきます。とくに印象派展に出品した画家たちの作品を購入することによって、彼らの生活を金銭的に支援するようになっていたのです。

 実は、ルアールの父親もカイユボットの父親と同様、軍服を製造販売する裕福な事業家でした。軍と結びついたブルジョワ階級でした。だからこそ、高級住宅地であるミロメニル通りに居を構えることができ、その財力に任せて、売れない画家たちの作品を購入することができたのです。

 ルアールが1912年に亡くなった後、印象派の画家たちの絵画が285点、それ以前の画家たちの作品77点が収集されていたことがわかりました(※ Wikipedia)。彼が購入していたのは、もっぱら印象派の画家たちの作品でした。

 さて、カイユボットは、近所に住んでいるという理由でルアールと付き合うようになりましたが、やがて、ルアールを通して知り合ったエドガー・ドガ(Edgar Degas,1834 – 1917)やジュゼッペ・デ・ニッティス(Giuseppe De Nittis, 1846 – 1884)などとも親交を深めていくようになります。

 ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスらと交流するようになってから、カイユボットも印象派の画家たちとの交流が増えました。そのせいか、次第にアカデミズムとは距離を置くようになっていました。ところが、第1回印象派展には、ドガから誘われながらも、出品しませんでした。

 第1回印象派展は1874年に開催されています。1874年といえば、カイユボットの父親が亡くなった年でした。ひょっとしたら、展覧会への出品どころではなかったのかもしれません。

 そう思って、父親の亡くなった日を調べてみると、1874年12月24日でした(※ http://caillebotte.net/family/)。第1回印象派展の開催が1874年4月15日から5月15日ですから、カイユボットが出品しなかったことと、父親の死とは関係がなかったことがわかります。

 それでは、なぜ、カイユボットは出品しなかったのでしょうか。

 ドガから誘われてすぐ、出品するほど、カイユボットはまだ深く、印象派にコミットしていなかったのかもしれません。あるいは、サロンへの思いを捨てられなかったのかもしれませんし、第1回印象派展が評価の付けられない展覧会だったからかもしれません。いずれにしろ、カイユボットはドガやルアールから誘われても、出品しませんでした。

 それでは、第1回印象派展は、どのような経緯で開催されることになったのでしょうか。

 実は、開催当初、この展覧会は、「印象派展」という名称ではありませんでした。「画家、彫刻家、版画家等の協会」による「第一回展覧会」というタイトルだったのです。その後、「印象派展」と呼ばれるようになりますので、ここでは、「第1回印象派展」とさせていただきます。

 なぜ、「印象派展」と呼ばれるようになったのかについても触れながら、「第一回印象派展」を振り返ってみたいと思います。

■第1回印象派展

 第1回印象派展は、1874年4月15日から5月15日まで開催されました。のちに印象派と呼ばれる画家たちによる最初のグループ展でした。主なメンバーは、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾでした。

 元々、モネはサロンとは別に、画家たちが自費で展覧会を開催したいと考えていました。制限なく自由に、作品発表の場を設けたいという気持ちからでした。その考えに賛同する画家たちを組織化して会費を徴収し、芸術家の共同組合のようなものを設立しようとしていたのです。

 やがて、作品発表の場が限定されているのを嫌った画家たちが、モネの計画を受け入れるようになりましたが、組織化には難航しました。誰も経験がなかったからです。そんな中、ピサロは、当時、会員になっていた「歴史画家、風俗画家、彫刻家、版画家、建築家、素描家の協会」を参考に、基本的なプランを提案しました。

 ピサロの提案に基づき、株式、月々の賦払金、会社の定款、出資規定などを定めた株式会社が設立されました。会社名は、「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」です。設立認可は1873年12月27日で、ルノワールがその管理者になりました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、pp.19-23)。

 開催されたのはカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダール(本名=Félix Tournachon, 1820-1910)がアトリエとして使っていた場所でした。


(※ Wikipedia)

 入場料は1フランで、期間中の来場者数は3500人でした。この展覧会のカタログの写真がありましたので、ご紹介しましょう。


(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes

 「画家、彫刻家、版画家等の協会」が発行したカタログの表紙です。「第一回 展覧会」と大きく表題が書かれ、その下に、「1874」と発行年、「カピュシーヌ大通り35番地」と開催場所が書かれています。表紙のどこにも「印象派」という文字がありませんが、それは、当時はまだ印象派と命名されていなかったからでした。このカタログは0.5フランで販売されていました。

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)が出品した作品の中に、このカピュシーヌ大通りを描いた作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《カピュシーヌ大通り》(Boulevard des Capucines)

 モネはカピュシーヌ大通りを題材に、何点か制作していますが、これは第1回印象派展に出品された9点のうちの一つです。


(油彩、カンヴァス、60×80㎝、1873年、プーシキン美術館蔵)

 街路樹がそびえ、その下を大勢の人々が行き交う様子が俯瞰して描かれています。木々も建物も人々も粗いタッチで描かれており、一見、稚拙に見えますが、陽光の射し込む方向をしっかりと捉え、光の当たる部分と影になる部分が、色彩を微妙に使い分けて表現されています。だからこそ、情緒豊かな空間が表現されているようにも思えます。

 すぐ近くのビルのバルコニーからは男性が二人、身を乗り出して通りを眺めており、この通りの賑わいがよくわかります。

 この大通りの35番地で、第1回印象派展が開催されました。30名の画家たちが作品を165点、出品しました。

■開催に至る経緯

 第1回印象派展に参加した画家たちは、当時、学んだ画塾に基づき、いくつかのグループを形成していました。

 たとえば、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンなどは、シャルル・シュイスの開いた画塾のアカデミー・シュイスで学んだ仲間たちでした。

 また、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどは、シャルル・グレールの画塾で学んだ同窓でした。

 このように別々の画塾で学んだ画家たちを繋いだのが、モネでした。

 相互に交流するようになった画家たちはやがて、モンマルトルのバティニョール街(現、クリシー街)にあったカフェ・ゲルボア(Café Guerbois)に集まり、絵画について議論をするようになりました(※ Wikipedia)。

 その流れとは別に、マネは、落選展に出品した《草上の昼食》(1863年)が大きな物議をかもした後、1864年にバティニョール通り34番地の家に引っ越してきました。その頃から、彼もカフェ・ゲルボワに通うようになっていました。

 サロン・ド・パリに出品した《オランピア》(1865年)が再び、大きなスキャンダルになると、マネの周辺に、若い芸術家や文学者たちが多数集うようになりました。いつしか、マネのアトリエや、マネの通うカフェ・ゲルボアが、芸術家たちのたまり場になっていったのです。

 バティニョールのマネのアトリエに集った画家や文学者の姿を描いた作品があります。


(油彩、カンヴァス、204×273㎝、1870年、オルセー美術館蔵)

 これは、ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836 – 1904)が1870年に描いた作品で、タイトル名も《バティニョールのアトリエ》です。カンヴァスに向かって筆を執っているマネを中心に、ルノワール、モネ、バジール、ゾラなどが描かれています。画家や作家が集って芸術論を交わし、絵画を語り、文学を論じていた様子がうかがい知れます。

 活発な芸術談義が行われていたのは、なにもマネのアトリエに集まったバティニョール派の画家たちだけではありませんでした。さまざまな芸術家グループ、画家グループもまた、カフェ・ゲルボアに集って芸術論、絵画論を交わし、芸術行政を批判しては、自分たちの作品発表の場を模索していたのです。

■展覧会の開催と出品資格をめぐる論議

 普仏戦争後の1873年に、恐慌が起こり、それまでバティニョール派の画家をはじめ、後に「印象派」と呼ばれる画家たちを支援していた画商デュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831- 1922)が、一時的にその支援を打ち切らざるをえなくなりました。バティニョール派やカフェ・ゲルボアに集っていた画家たちは、作品を販売する手がかりを失ってしまったのです(※ Wikipedia)。

 彼らは半ば必然的に、モネを中心に組織を作り、グループ主催の展覧会の開催を考え始めました。開催の大枠はほぼ固まってきたのですが、出品資格をめぐって論争が起こりました。多くの画家が、展覧会への参加はグループメンバーだけにした方がいいという意見でしたが、ドガは、グループの展覧会には、サロンで受賞経験のある画家たちも招待すべきだと主張したのです(※ 前掲)。

 ドガは、とくにマネを中心にしたグループの作品が、サロンの潮流から大きく逸脱していると認識していました。実際、マネの作品がスキャンダラスだとして世間を騒がせたことはまだ人々の記憶に新しい出来事でした。

 ドガは、グループメンバーだけに出品資格を限定すると、自分たちの作品までも民衆から非難されかねないと懸念していたのでしょう。実際、サロンに出品するような画家を交えておかなければ、せっかくの展覧会が、前衛的なものだと受け止められる可能性があったのです。

 それは、ドガにしてみれば、画家生命を脅かしかねない危険性を孕むことになります。だからこそ、サロン受賞経験者を招待するという体にするしかなかったのです。

 結局、ドガの提案はグループメンバーに受け入れられました。それは、参加資格を広げれば、一人当たりの出費が安くなるという経済的な理由からでした。こうして、サロンを無視することなく、不要な摩擦を避けて、展覧会が開催されることになったのです。

 興味深いことに、マネはこの第1回印象派展に出品しませんでした。どういうわけか、出品した画家のリストの中にマネの名前はありませんでした。展覧会への影響を恐れたのかどうかわかりませんが、結局、マネは出品しなかったのです。

 こうしてみてくると、カイユボットが、ドガから出品を誘われながらも、それを断った理由がわかるような気がします。

 それでは、「第1回印象派展」はどのような評価を受けていたのでしょうか。

■第1回印象派展の評価

 評論家のルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)は、風刺新聞『ル・シャリヴァリ(Le Charivari)』(英語版)紙に、軽蔑と悪意をこめて、第1回印象派展を、「印象主義の展覧会」と評しました。モネの作品タイトル、《印象、日の出》(Impression, soleil levant)をもじって命名したものでした(* https://arthive.com/publications/1812~Pictorial_Louis_Leroys_scathing_review_of_the_First_Exhibition_of_the_Impressionists)。

 以来、アカデミズムに対抗して展覧会を開催した画家グループは、「印象派」と呼ばれるようになります。

 モネの《印象、日の出》はいったい、どのような作品だったのでしょうか、見てみることにしましょう。

●《印象、日の出》(Impression, soleil levant)

 モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)は、第1回印象派展に9点の作品を出品していました。その中の1点が、《印象、日の出》です。32歳の時、故郷ル・アーブルの港の朝の景色を描いたものです。

 これは、モネが、幼少期を過ごしたル・アーブルの町に、妻と息子とともに滞在した時、描かれた作品です(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Impression,_soleil_levant)。


(油彩、カンヴァス、48×63㎝、1872年、マルモッタン、モネ美術館蔵)

 青みがかったグレーを基調に、港湾風景が描かれています。淡い色調の中で、空と海の境界も判然とせず、すべてが混然一体となった中、手前のボートと画面中ほどの太陽が、存在感を放っています。

 漠然とした曖昧で取り止めのない情景が、粗いタッチで描かれています。微妙な色使いや色調、柔らかなタッチには、イギリスの風景画家ターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 – 1851)の作品の影響がうかがえるといえなくもありませんが、ターナーほどのシャープさはなく、鮮烈さもありません。アカデミズムの技法を無視した作品でした。

 すべてが曖昧模糊としており、作品というよりも着想段階のイメージのように見えます。ルイ・ルロワがいうように、港を見て得た印象を描いているように見えるのです。アカデミズムの絵を見慣れた評論家や観客には理解しがたい作品だったのでしょう。

 この作品は、ルイ・ルロワから「印象主義」のレッテルを貼られました。これが、やがて、この展覧会に出品していた画家たちを指す言葉として定着し、アカデミズムから逸れた画家たちを指す「印象派」の命名由来となったのです。

■玉石混交?

 著名な批評家たちのほとんどがこの展覧会に対し沈黙していたといわれています。そんな中、好意的な展覧会評を書いた批評家もいました。

 たとえば、アルマン・シルヴェストル(Armand Silvestre, 1837-1901)です。彼は、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ドガなどの作品を賞賛し、あるいは、評価を保留しながらも、総じて、「この展覧会は見るに値する」と言っています。それでも、「サロンに入選したこともない誰にでも門戸を開放するのはよくない」と苦言を呈していました(※ ジョン・リウォルド著、三浦篤他訳、『印象派の歴史 下』、角川文庫、2019年、p.48-49)。

 中には才能を感じさせる作品もあったとはいえ、展示作品のレベルはまさに玉石混交だったと批判しているのです。この上は、展覧会としての水準を高める必要があるとし、せめて、出品資格をサロン入選者に限定すべきではないかと、シルヴェストルは述べていました。

 作品を鑑賞したくて来るのではなく、好奇心から来場する者が多く、作品を見て嘲笑する人もいれば、爆笑する人もいたといいます。サロンを訪れる人々の態度とは明らかに異なっていたのです(※ 前掲、p.47)。

 第1回印象派展に出品した画家のリストを見ると、展覧会の開催に尽力したモネ(9点出品)やルノワール(7点出品)、ドガ(10点出品)、ピサロ(5点出品)、ルアール(11点出品)などの名前が見られます(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Premi%C3%A8re_exposition_des_peintres_impressionnistes)。

 総入場者数は3,500人で、同じ頃に開催されたサロンの入場者数は40万人でした。初回なので周知されていなかったからかもしれませんが、サロンの入場者数に比べ、圧倒的に少なかったのです。

 ドガは、第1回印象派展の開催に際し、グループメンバーだけではなく、サロンの入賞経験者も招待すべきたと主張していました。その意見が通り、仲間内だけの展覧会にとどまらずにすみましたが、結果はサロンとは大きくかけ離れて少ない入場者数でした(※ 前掲)。 一般に知られていなかったというだけではなく、批評家たちから好評価を得られなったことも、来場者数の少なかったことの一因でした。

■「展覧会」事業としての結果はどうだったのか?

 展覧会に対する評価は、4週間以上に及んだ会期中の入場者数の推移に如実に反映されていました。初日は175人だったのが、最終日には54人にまで減っていました。中には2人しかいなかった日もあったそうですから、好奇心に駆られて訪れてはみたものの、好評価することができず、入場者数は次第に減っていったと考えられます。

 展覧会終了後、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir ,1841 – 1919)が、会計係であったオーギュスト・オッタン(Auguste-Louis-Marie Jenks Ottin、1811 – 1890)の協力を得て、収支報告書を作成したところ、総支出は9,272フランで、収入は10,221フランでした。収入の内訳は、入場料、カタログ販売、作品販売手数料、寄付金等です(※ 前掲、p.56)。

 かろうじて黒字にはなりましたが、大多数の画家の作品は売れず、年会費60フラン分を回収できませんでした。この展覧会は、当初の目論見とは違って、作品の販売チャネルにはならなかったのです。作品の発表機会の少ない画家にとって、重要な機能が果たされませんでした。

 この展覧会は、画家たちが共同出資した会社によって開催されており、作品の売却代金の10%を手数料として納めることが合意されていました。展覧会終了後の財務報告では、360フランが手数料収入として記録されており、その内訳は、シスレーが100フラン、モネが20フラン、ルノワールが18フラン、ピサロが13フラン、その他の画家からの手数料でした。ちなみに、展覧会開催に尽力したドガの作品はどういうわけか、全く売れていません。

 今では著名な作品も、当時は評価されていなかったのです。せっかく発表の場を自分たちの手で創設したというのに、批評家からも観客からも好評価を得られず、新しい息吹を人々の心に吹き込むことはできませんでした。

 もっとも、画家たちによって私的に運営される展覧会が開催されたことの意義はありました。一つは、画家自身が市場と向き合い、その厳しさを実感できる契機となったことであり、もう一つは、アカデミズム以外の様々なジャンルの絵画が、人々の目に触れるチャンスを作ったことでした。

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 二度、三度と繰り返し展覧会を開催するうちに、やがて、批評家の見方が変わり、人々の目が彼らの作品に向けられる時がくるでしょう。1874年、画家たちは重要な一歩を歩みはじめました。画家たちは、サロンや画商頼みの待ちの姿勢から、攻めの姿勢へと気持ちを変化させたのです。

 産業革命後の経済状況は激変しており、社会の各層でその対応が迫られていました。対応を誤れば、そのまま歴史の底に埋もれてしまいます。第二帝政時代、全権力を握ったナポレオン三世は、産業化を促進するため、次々と改革を進めました。

 諸改革の一つである新会社法は、商業活動を活性化するために制定されました。1867年7月24日のことでした。その6年後、画家たちは自身の手で会社を設立し、安定した作品発表の場を求めて展覧会を開催したのです。

 こうしてみてくると、第1回印象派展は画家たちにとって、新時代への対応策だったといえるでしょう。(2024/10/28 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ②:ブルジョワジーの台頭

 今回は、まず、ナポレオン三世の産業振興政策を振り返り、その後、カイユボット家がどのような社会階層に位置づけられていたのかをみていくことにしましょう。

■ナポレオン三世の産業振興政策とカイユボット家

 第二帝政期のフランスは、ナポレオン三世の産業振興政策が功を奏し、好景気に沸いていました。

 ナポレオ三世は皇帝の座に就くと、早々に、公共事業と銀行改革に着手しました。公共事業とは、鉄道建設、港湾や道路の整備、パリ大改造(都市改革事業)などです。いずれも産業振興策の一環として進められました。

 たとえば、鉄道は1850年から1870年にかけて、営業キロ数で6倍増にも達する勢いで敷設されました。鉄道が開通した結果、農業生産物や工業原料などの運搬が容易になり、沿線には、大規模な近代的な工場が次々と作られていきました。おかげで経済活動は活性化し、フランスもようやく産業化を推進するエンジンが回転しはじめました。

 そのような動きの中で、カイユボットの父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)が、イエールに別荘を購入しました。1860年でした。ちょうど鉄道が敷設されて、イエールに駅ができ、パリから容易に出かけられるようになった頃です。

 一家は夏になると、この別荘で過ごすようになります。建設ラッシュに沸くパリを離れ、自然の風景を楽しみながら、豊かな田園生活を味わうことができたのです。

 前回、ご紹介したように、この別荘は凝った建築で、内装も豪華でした。帝政様式といわれる様式美を備えたものでした。その瀟洒な建物を包み込むように、広大な敷地が広がっており、何とも贅沢な別荘でした。財力に恵まれ、そのような物件情報を入手できる立場にいたからこそ、購入できたのでしょう。

 カイユボットの父親は、軍服等の製造事業を継承していました。軍には軍服やシーツなど布製品を納入しており、豊かな事業経営者でした。しかも、セーヌ県商業裁判所の判事で、知識階級でした。実業家であり、裁判官でもあったのです。まさに、第二帝政を支えるエスタブリッシュメント側の一人でした。

 国力を増強し、産業化を積極的に推進しようとするナポレオン三世の治世下で、カイユボットの父は、軍に関わる事業を行う一方、商行為や商取引に関する法務に携わっていました。時代を動かす根幹で仕事をしていたのです。

 当時、フランスの金融は未発達のままで、産業化に対応できていませんでした。産業が発達するには、物資を運送のための鉄道網だけではなく、お金の流れをよくする商取引のための銀行の整備が不可欠でした。そこで、ナポレオン三世は新たに二種類の銀行を設立し、信用に基づく融資をしやすくしました。

 1852年には、一般大衆の余裕資金を集め、産業に投資するための事業銀行を新しく設立しました。さらに、中小商工業者に役立つような銀行も設立しました。次々と着手された銀行改革の結果、大衆の資金を預金の形で吸い上げ、産業や国債に投資できるようにしたのです。

 もちろん、信用融資を行うには、会社に関する法整備も不可欠でした。

 ナポレオン三世は、1867年7月24日に新会社法を制定しましたが、当時、この新会社法には欠陥がいくつか指摘されており、長くは持たないと予想されていました。ところが、その後100年にもわたって、この新会社法は持ちこたえることができたのです(* 梅津博道、「ナポレオン三世の経済改革」、『北陸大学紀要』第30号、2006年、pp.103-104)。

 多少、欠陥があったとしても、産業化社会の本質を踏まえ、さまざまな局面に対応できる内容だったからでしょう。

 このようにナポレオン三世は、銀行改革と会社法改革を断行しました。その結果、企業と銀行が円滑に機能するようになり、フランス経済が順調に発展していったとされています(* 前掲、pp.103-104)。

 ナポレオン三世は全権を掌握すると、着々とパリの大改造、交通インフラ、社会体制の整備、法の整備を進めました。その結果、停滞していたフランス経済は活性化し、国力も充実していきました。

 そのような第二帝政下で、カイユボットの父親は、軍服製造事業者であり、セーヌ県の商業裁判所の判事でした。事業収入による経済力を持ち、新しい社会に必要な専門知識を持つ知識階級の一員でした。

 王族でもなければ、貴族でもなく、軍人でもありませんが、財力と社会的地位を持ち、社会を動かすエスタブリッシュメント側にいました。カイユボット家は、産業化の進行とともに台頭してきた新興ブルジョワジーだったのです。

■資本主義システムのピラミッド

 1911年にアメリカで出版された興味深い風刺画があります。

(* Nedeljkovich, Brashich, & Kuharich, 1911, the Industrial Worker)

 資本主義システムの下での社会階層を描いた風刺画です。社会階層がピラミッド構造で形成されていることが、人物を通して具体的に示されています。この図は、1911年にアメリカの新聞“the Industrial Worker”に掲載されました。

 社会階層を5つに分類し、少数者が多数を支配する構造を示しています。上から順に、「あなた方を支配する」、「あなた方を騙す」、「あなた方を撃つ」、「あなた方のために飲食する」、「すべての人々のために働く」、「すべての人々のために食料を作る」と、階層ごとに、それぞれの社会における働きと位置づけが端的に記されています。

 王族など、ごく少数の支配階級を頂点に、人々の不平不満を鎮め、緩和する社会的装置としての聖職者層、反抗する人々を暴力的に鎮める軍人層、そして、産業化の進行とともに登場してきたのが新興ブルジョワジーです。図では、着飾った男女がテーブルを囲み、飲食を楽しむ光景が描かれています。

 当時はまだブルジョワジーの社会的役割がよく見えていなかったのでしょうか、享楽的で自己中心的な光景が描かれています。

 その下には、数多くの老若男女が、台座を辛そうに支えている姿が描かれています。スコップを持っている者がいれば、ハンマーを持つ者、旗を振る者もいます。女性たち、そして、子どもたちまで、台座が落ちてこないように、必死で支えています。

 ブルジョワジーが飲食を楽しむ台座の下で、実際に肉体を駆使して働き、食料を生産し、さまざま製品を作っている人々がいることがいることが示されているのです。大勢の人々が辛そうな表情を浮かべ、必死になって、台座をささえているのが印象的です。

 ふと見ると、その傍らには、子どもが倒れています。空腹だからでしょうか、それとも、病気なのでしょうか。大勢の人々の傍らに子どもが倒れているのです。ところが、ごく近くで子どもが倒れているというのに、誰も見向きもせず、必死になって台座を支えています。底辺を支える人々にとっては、自分が生きていくのに必死で、倒れている子どもなどかまっていられないという状況を描きたかったのでしょう。

 この作品は、1901年に帝政ロシア社会を描いた風刺画を参考に描かれたといわれています。

(* Nicolas Lokhoff, 1901, the Union of Russian Socialists)

 1911年のアメリカ風刺画と見比べてみると、それぞれの社会階層の捉え方は、ほぼ同じです。大きな違いといえば、ロシア版では黒い鷲であった頂点のシンボルが、アメリカ版ではドル袋になっていること、さらに、ロシア版では皇帝と皇后を最上位に、その下に行政機構のトップが3人描かれていますが、アメリカ版では君主を中心に、両側に貴族階級と行政のトップが描かれていることでした。

 鷲はロシア帝国のシンボルなので、権力の象徴として描いたのでしょうし、ドル袋は、アメリカ社会の金融至上主義を象徴するものとして描かれたのかもしれません。いずれにしても、社会構造が、少数が多数を支配するという仕組みとして捉えられていることに変わりはありません。

 興味深いのは、少数が多数の人々を支配するための社会的装置として、行政機構、聖職者、軍事組織が設定されていることでした。

 日々、身体を酷使して働き、食料や様々な製品を作りだし、実際に社会を維持しているのは大多数の労働者です。彼らが不満を抱き、反抗しないよう、このような社会的装置によって支配されていることが、図では一目瞭然です。

 実は、1901年のロシア版の元になった風刺画があります。

(* https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Pyramide_%C3%A0_renverser.jpg

 これは、ベルギーの労働党が、1900年の選挙運動中に、「Pyramide à renverser」(倒さなければならないピラミッド)というスローガンのもとで配布した風刺画です。

 やはり社会階層が5つに分類されています。上から順に、「王族」、「宗教主義」、「軍国主義」、「資本主義」と記されており、最下段に、「人民」と書かれています。社会構造を捉える構成は、アメリカ版やロシア版とほぼ同じですが、「王族」と「人民」以外は、社会階層をイデオロギーによって説明している点が異なっています。選挙運動中のスローガンとして描かれたせいでしょうか。

 イデオロギーで説明されているせいか、この図では、支配者層の力の源泉が、時代によって変化してきた過程が示されているようにも思えます。いつの世も、少数の支配階級が大多数の人民を支配するという構造は変わらないのですが、時代によって、中心となる支配力の源泉が変化することが示されているように思えるのです。

 歴史を振り返ると、宗教の力が優勢であった時代があれば、もっぱら武力によって社会秩序が維持されていた時代、そして、資本力が優勢になっていった時代へと、社会が変遷していった過程が描かれているように見えるのです。

 この図で「資本主義」と説明されている階層が、産業化の進行に伴い登場してきたブルジョワジーです。それまで支配者層であった聖職者や軍人とは違って、その役割を明確に示すことができなかったからでしょうか、この図では、太った男たちがタバコを吸い、グラスを傾けている姿が描かれているだけです。

 おそらく、ブルジョワジーの社会的役割を可視化することがむずかしかったのでしょう。

 この階層を、アメリカ版やロシア版では、着飾った男女が飲食している光景で表現していました。つまり、王族でも聖職者でもなく軍人でもないのに、肉体労働をすることなく、生活することができる階層が、産業化の進行とともに登場したことを示しているといえます。

 産業化が進行して優勢になってきたのが、事業を経営する実業家であり、法律、会計、工学、などの専門知識を持つ階層でした。製品を開発し、市場に流通させて利潤を得、それを元手に再投資し、再び、製品を市場に流通させる循環システムに関わっている人々です。

 資本主義社会では、彼らこそが新たに富を稼ぎ出す階層として浮上してきたのです。

 ベルギーの選挙運動のチラシが1900年、そして、ロシア版の風刺画が1901年、それを踏まえたアメリカ版の風刺画が1911年に制作されました。利便性と豊かさを求めた産業化が進行するにつれ、実は、経済格差を生み出し、社会的不平等を拡大させていくことが明らかになりつつあった頃でした。

 カイユボットの父親は、フランスの産業化が軌道に乗り始めた頃、軍に製品を卸す実業家として富を築き、その一方で、商業裁判所の判事としても活躍しました。

■新興ブルジョワジーが求めた文化

 イギリスに比べ、出遅れていた産業化を推進するために、さまざまな改革を進め、帝国主義の覇権争いにも加わろうとしていたのが、ナポレオン三世でした。カイユボットの父親はおそらく、そのような時代の最先端で仕事をしていたのでしょう。新興ブルジョワジーとして財産を成し、裁判官として社会的地位を得ていました。

 パリでは新興ブルジョワジーの文化が花開きはじめました。裕福な市民の間では、華美で贅沢な様式の文化が好まれました。それは、度重なる革命で失われた宮廷文化への追慕ともいえるものでした。そのころのブルジョワジーには独自の文化といえるものはなく、前時代の上流階級の模倣にすぎませんでした。

 産業振興政策のおかげで、フランスの産業は発展し、豊かな市民階級、すなわちブルジョワジーの裾野が広がっていきました。彼らは自由主義を賛美し、科学技術を信奉し、新しいものへの挑戦を好みました。その一方で、旧態依然とした権力には反発しました。

 経済が活性化していくのにともない、新興階級の間で旺盛な消費需要が生まれ、過熱化したあげく、やがて投資ブームを引き起こしたほどでした。

 ブルジョワジーの台頭と軌を一にするように、絵画界では印象派の画家たちが登場してきました。彼らは、アカデミズムに反発し、見たまま、感じたままを表現することに価値を見出しました。伝統にとらわれない自由な発想を大切にし、自身の感性を拠り所にしたのです。

 自由を好み、変革を恐れず、新しいことに挑戦しようとする彼らの姿勢は、ブルジョワジーに通じるものがありました。ブルジョワジーといい、印象派の画家たちといい、第二帝政期とともに登場してきた新しい階層の中には、当時の社会を牽引してきた時代精神をみることができます。

 産業革命による技術革新が、時代を大きく変えようとしていました。そのうねりに敏感な人々が、新たな富裕層になり、新たな表現活動を展開していったのではないかと思います。

 カイユボットの父親は明らかに、当時の社会を動かしてきた側の人物でした。

 前回、イエールの別荘をご紹介しましたが、寝室やリビングの調度品に、宮廷文化の名残がみられるのが印象的でした。絢爛豪華な家具や置物に囲まれて、特権階級ならではの優越感、快適さを堪能していたのでしょう。カイユボットの父親の美意識や生活価値観は、帝政時代から離れることはありませんでした。

 カイユボットの父親は、パリでも新しく邸宅を建てました。パリ市が、高級住宅地として造成したミロメニル通りに、新しい邸宅を建てたのです。

 それでは。その家をご紹介しましょう。

■パリの邸宅

 1866年に、一家は、ミロメニル通り77番地にある邸宅に引っ越しました、カイユボットが18歳の時です。転居先は、ヨーロッパ橋からほど近く、リスボン通りの交差点にありました。辺りは、上流階級の住宅地として新たに造成された地区でした(*Wikipedia)。

 現存するようですから、写真をご紹介しましょう。外観を見る限り、洗練された、素晴らしい建物です。

(* 『アートを楽しむ section 3』(アーティゾン美術館、2023年2月25日、p.7)

 美しく、瀟洒で、いかにも新興ブルジョワジーが好みそうな建物です。時代を牽引していたブルジョワジーの一員として、
カイユボットの父親 は、高揚感に駆られていたのでしょう。建物の外観から、その気持ちが透けて見えます。

 彼は1866年にパリ市からこの土地を購入し、1866年11月に竣工しました。

 イエールに別荘を購入してから、わずか6年後のことでした。時代の最先端を行くような気分になっていたのかもしれません。カイユボットの父親は、高級住宅地として造成されたこの土地に家を建て、一家はミロメニル通りに引っ越してきました。

 当時、パリでは、古い街路や街並みが次々と壊され、新しく整備して建て直されていました。その一方で、新たな街区が造成され、上流ブルジョワジーが居住する区域が造られました。

 パリの街全体が、清潔で機能的で、美しく、洗練された様相に変貌を遂げている最中でした。不潔で汚い街路や建物が破壊され、造りかえられていくパリの街の中に、富裕層のための一角が設けられたのです。

 見るからに瀟洒なこの邸宅は当時、社交界の中心になっていたようです。

 この邸宅で開催された舞踏会の様子を、カイユボットの友人の画家ベローが描いていました。この邸宅の内部がどのようなものであったのか、そして、パリの社交界でどのような役割を果たしていたのか、作品を通して当時の様子を推察することができます。

 ジャン・べロー(Jean Béraud, 1849 – 1935)は、1878年に《舞踏会》という作品を制作していますが、その背景となったのが、カイユボットの父が建てたパリの邸宅だといわれているのです。

 まずは、この作品を見ていくことにしましょう。

●ジャン・べロー(Jean Béraud)制作、《舞踏会》(Un soirée、1878年)

 ジャン・ベローは、パリの街頭風景やカフェ、市民生活の様子などを好んで描いたことで知られる画家です。その彼が珍しく、舞踏会の様子を描いた作品を残しています。それが、《舞踏会》という作品です。

(油彩、カンヴァス、65.1×116.8㎝、1878年、オルセー美術館蔵)

 この作品は、1878年の官展で展示されました。出品時のタイトルは《舞踏会》でしたが、 古いラベルには「カイユボット邸の夜」と書かれていたそうです。なぜ、二つのタイトルが存在していたのか、しばらく、わからなかったそうですが、その後、この作品が、カイユボット邸で開催された舞踏会を描いたものだということがわかりました。

 なぜ、わかったかというと、画面に描かれていた室内の一部が、母親の死後(1878年11月)に作られたカイユボット家の財産目録の記述と一致していたからでした(*http://caillebotte.net/blog/family/67 )。

 父親は1874年に亡くなり、その4年後に母親が亡くなりました。母の死後、作成された財産目録によって、この作品の舞台が当時のカイユボット邸だということが確認されたのです。

 舞踏会の会場として描かれたこの部屋が、カイユボット邸だったことが明らかになりました。その後、 カイユボット が画家として知られるようになると、この作品は、《 カイユボット邸 の夜 》と呼ばれることが多くなったそうです(*前掲、URL )。

 経歴を調べてみると、カイユボットとベローには接点がありました。

 カイユボットは普仏戦争から帰還した後、レオン・ボナ(Léon Bonnat、1833-1922)の画塾に通って、油彩画の基本を学びはじめました。そこで、共に学んでいたのが、ジャン・ベローだったのです。二人は1873年に、エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)に入学し、本格的に油彩画を学びました。

 カイユボットとベローは共に、普仏戦争からの帰還後、ボナの下で油彩画の勉強を始めていたのです。大学では法律を学び、普仏戦争を経て、画家を志すようになったという点でも共通していました。

 ベローもカイユボットと同様、法律を学んでいながら弁護士にならず、普仏戦争から帰還した後、絵の道に転向していたのです。同じような経歴をたどり、最終的に人生を絵画に捧げた仲間の一人でした。だからこそ、パリのこの邸宅にも自由に出入りすることができたのでしょう。

 カイユボットの邸宅で開催された舞踏会に参加しながらも、ベローはどうやら、遠慮しながら筆を執っていたようです。それは、俯瞰するようなモチーフとの距離の取り方でわかります。大きく距離を取って参加者たちを捉え、一種の風物として描いているのです。

 ベローの父親は彫刻家でした。ロシアのサンクトベルクで生まれ、4歳の時に亡くなったので、家族はパリに戻ってきました。 法律を学びましたが、戦争から帰還後、画家を志すようになったという経歴です。

 舞踏会に参加しても、場違いなものを感じていたのかもしれません。個々の人物の焦点を当てることはなく、ドレスの色彩を中心の会場の流れを描き、舞踏会の雰囲気を表現しています。

■カイユボットとベロー

 カイユボットは、せっかくエコール・デ・ボザールに入学しながら、あまり登校しなかったようです。もはや学ぶべきものはないと判断したからでしょうか、それとも、単に興味が持てなくなったからでしょうか。

 そこで、履歴を見ると、カイユボットは1873年にエコール・デ・ボザールに入学していますが、翌年の1874年に父親が亡くなっています。父親の莫大な遺産を引き継いでおり、もはや画家として身を立てていく必要はありませんでした。 まだ26歳でしたが、趣味として絵画に関わり、周辺の画家を支援する立場になっていたのです。

 一方、ベローはエコール・デ・ボザールでしっかりと2年間学び、修了後はモンマルトルでスタジオを開いています。画家として生計を立てていく必要があったからでした。

 
 画家として食べていくには、自身の絵画世界を創り上げなければなりません。独自の世界をどう創り上げていくか、模索していたのでしょう。

 ベローは、パリの市街やカフェなどを舞台に、市民階級の人々の生活風景を好んで描きました。いわゆる市井の人々の日常の光景を取り上げ、画題にしていましたが、モチーフに対する眼差しが温かいのです。

 たとえば、《シャンゼリゼ通りのグルップ洋菓子店》(La Pâtisserie Gloppe au Champs-Élysées)という作品があります。

(油彩、カンヴァス、38×53㎝、1889年、カルナヴァレ美術館蔵)

 ビュッフェ形式の洋菓子店で、コーヒーや洋菓子を楽しむ老若男女が描かれています。手を伸ばしてケーキを取ろうとしている子どもや女性、立ったまま語りあう男女、小さなテーブルを囲んで語り合う女性たち、いずれも幸せそうな表情で菓子を手にしています。当時のパリ市民の生活の一端がうかがえる作品です。

 彼が描いた作品の多くは、このようにパリ市民の生活風景が題材になっていました。この作品も、都会の生活シーンが生き生きと捉えられています。大改造されたパリの街が、いかに人々が楽しめる街に変貌していたか、当時の様子が手に取るようにわかります。

 さきほどご紹介した《舞踏会》には、そのようなベローの作品傾向とは、やや異質な雰囲気があります。市井の人々を描いた作品とは違って、対象を見る眼差しがよそよそしい感じがするのです。

 改めて作品を見直してみると、室内の様子や調度品などと人々に対する距離の取り方が同じなのです。 男性は黒の礼装、女性は華やかな色のドレスを着用といった具合に、参加者の衣装は丁寧に描かれていますが、それは、まさに調度品を見る眼差しでした。

 せっかくの舞踏会に参加していながら、ベローはその輪に入ることなく、ひたすら観察していたことがわかります。豪華な室内とフォーマルで華やかな衣装に身を包んだ男女を、ただ観察の対象としてだけ捉えていたのでしょう。

 ベローは、華やかな舞踏会の真っただ中にいながら、その雰囲気に巻き込まれることなく、冷静に、客観的なタッチで対象を捉えていました。街頭あるいはカフェで市井の人々を生き生きと捉えたまなざしとは明らかに異なっていました。

 《舞踏会》の画面からよそよそしさを感じさせられたのは、おそらく、そのせいでしょうが、そこに、ベローの画家としてのスタンスが感じられるような気がします。

(2024/9/30 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ①:イエールの別荘

■第二帝政時代に台頭してきた印象派の画家たち

 第二帝政時代は、アカデミズムに対抗する画家たちが台頭してきた時期に当たります。前回は、ピサロやリュスの作品をご紹介しましたが、彼ら以外にも、多種多様な画家たちが登場し、新たな画題を見出し、斬新な技法で、表現運動を展開していました。

 彼らは次々と、産声を上げ、アカデミズムが主導してきた絵画の見直しを迫りました。光がもたらす色や影、形状の変化を踏まえ、見たまま、感じたまま、受けた印象をそのまま表現することに意義を見出すようになったのです。

 いわゆる印象派の画家たちの登場です。

 産業革命を経て、さまざまな領域で、技術革新が進みはじめていました。画家にとっての大きな技術革新は、チューブ入り絵の具が開発されたことでした。チューブ入り絵具があれば、なにもアトリエにこもって描く必要はありません。

 画家たちは、積極的に戸外に出かけ、心に残る画題を見つけては、思うままに絵を描くようになりました。戸外で直接、見たまま、感じたままを描くようになったのです。以来、画家たちはさまざまなところに美があることに気づき、作品化しようとしました。

 その一つが自然の風景です。

 これまではメインモチーフの背景でしかなかった自然の風景が、実は、メインモチーフそのものになりうることに気づきます。そして、風景が陽光の影響を大きく受けること、さらには、風や空気などを間接的に表現できることにも気づくようになります。

 画家たちに意識革命がもたらされたのです。それに伴い、新たな題材が次々と発掘されました。

 手の届くところにある身近な自然、市井の人々、日常の光景など、これまでなら、画題になると思えなかったものが、モチーフとして取り上げられ、描かれるようになりました。

 これまで取り上げられてこなかったモチーフに、新たな光を当てて、作品化しようとする画家もいれば、科学的な知見を踏まえ、新たな画法を生み出した画家もいました。

 技術革新によって、人々の生活が少しずつ変わり、それに合わせて、人々の価値観も変化しつつあった時代でした。画家たちもまた、そのような時代の変化に適応しようと模索しはじめていたのです。

 陽光や風、空気などに、生成の妙を見出した彼らは、パリの街の破壊と創造の中に、躍動感と未来を見出しました。

 ちょうどその頃、ナポレオン三世が構想してきたパリの大改造計画が、オスマンの手を経て、着々と進められていました。近代化に合わせ、パリの街も構造的に改造する必要があったのです。

 もちろん、パリ大改造に伴う街の変化は、画家たちにとって恰好の題材になりました。

■拡張するパリ

 第2帝政期は、臭くて小汚く、不衛生だったパリの街が、オシャレで鑑賞に堪える街へと大きく変貌しようとしていた時期でした。

 至るところで、スクラップ・アンド。ビルドが展開されていました。古いものが壊され、新しいものに置きかけられていく過程は、画家たちの創作意欲を限りなく、刺激しました。

 それらは激動する時代そのものであり、時代が進む方向性を指し示すものでもありました。彼らにとって、変貌していくパリの街路や建物、道行く人々を描くことは、目に見える時代の変化を捉えることであり、目に見えない時代精神を汲み取ることでもあったのです。

 パリは道路網や鉄道網によって、整備され、拡張されていきました。

 この時期、台頭してきた多くの画家たちの中で、ユニークなのが、カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)です。パリで生まれ、パリで育った画家です。一般にはあまり知られていませんでしたが、20世紀末ごろから、再評価されはじめた画家です。これまではもっぱら、印象派の画家たちの支援者として、あるいは、彼らの作品のコレクターとして、その名を馳せていた人物でした。

 そのカイユボットの作品を通して、パリ大改造時代の人々の生活や建物、街の様子を見ていくのも、一興でしょう。

 今回はとくに、カイユボットならではの画題を取り上げ、当時の社会状況を見ていくことにしたいと思います。

 まずは、カイユボットがどのような画家だったのか、その出自から探ってみたいと思います。

■カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)とは?

 カイユボットは1848年8月19日に、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通りの自宅で、生まれました。父親のマルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799–1874)は、軍隊にシーツや軍服などを納入しており、巨額の富を築きあげていました。親から事業を継承した経営者だったのです。

 その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。富裕者であり、知識人であり、行政の一角を担う重要人物でもあったのです。

 ところが、莫大な富と名声、権力を手にしていながら、彼は家庭生活には恵まれておらず、妻とは2度も死別していました。3度目の妻であるセレステ・ドフレネ( Céleste Daufresne, 1819–1878)との間に生まれたのが、今回取り上げる、画家のギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)です。49歳の時に生まれた息子でした。

 その後、カイユボットには二人の弟、ルネ(René , 1851-1876)とマルシャル(Martial, 1853-1910)ができました。父親は20歳も年下の妻との間で、2、3年おきに3人の息子を授かったのです。老境にさしかかった時の子どもたちですから、さぞかし嬉しかったことでしょう。

 子どもたちが健やか育ってくれることを願ったのか、父親は、パリ南郊のイエールに広大な地所が売りに出されると、すぐさま購入し、別荘として活用できるようにしました。1860年のことでした。

 息子たちは12歳、9歳、7歳になっていました。さまざまなことに興味を持ち、冒険を好むようになる年ごろでした。父親はおそらく、子どもたちに、豊かな自然に触れて、のびのびと過ごせる環境を与えたいと考えたのでしょう。

 当時、パリは至るところで工事が行われており、土埃が舞い上がっていました。街は四六時中、騒然としており、落ち着いた生活は望めませんでした。ナポレオン三世がオスマンを指名してパリ大改造に着手してから、すでに7年も経っていましたが、それでも、まだ、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていたのです。

 子どもたちの生育環境として、当時のパリは決して好ましいものではありませんでした。父親がパリ郊外の邸宅を迷うことなく購入し、別荘として活用したのは当然のことであり、賢明なことでした。

 もっとも、父親がこの邸宅を購入したのは、ちょうどパリからイエールまで鉄道が敷かれ、汽車が開通したからだという意見もあります(* https://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201902/montalembert.html)。

 現在、パリ・リヨン駅からメルン(Melun)行きのRER D線に乗れば、約30分でイエール(Yerres)駅に到着します。当時はもっと時間がかかったのでしょうが、汽車に乗れば、パリからも気軽に訪れることができ、自然を存分に楽しむことができるエリアだったのです。

 育ち盛りの子どもたちにとっては恰好の別荘地でした。思いっきり身体を動かして、川や農園で遊び、伸びやかな感性を育んでいきました。自然から触発されることも多かったのでしょう、カイユボットは、全作品の三分の一以上をここで描いたといわれています。

 イエールの別荘が、カイユボットに自然との触れ合いのきっかけを与え、世界観を育み、創作欲を喚起したことは確かでした。

 イエールは一体、どんなところだったのでしょうか。

■イエール(Yerres)の別荘

 一家は夏になると、このイエールの別荘で過ごすようになります。今も残る瀟洒な邸宅があります。

(*https://sumau.com/2024-n/article/1532

 約11ヘクタールもの敷地内に邸宅が建ち、英国式庭園があるかと思えば、農園があり、傍らにはイエール川も流れています。子どもはもちろん、大人も自然を存分に楽しめる仕様になっていたのです。

 しかも、この邸宅は改修されて、古代建築風の列柱や列柱回廊などが施されていました。古代文化を偲びながら、日常生活を堪能できる、贅を尽くした造りになっていました。

 もっとも、若いカイユボットが興味を示したのは、邸宅を取り巻く豊かな自然でした。初期作品のほとんどがここで制作されています。とくに、川をモチーフにした作品はいくつも残されています。馴染みの場所であり、絵心を刺激するものがあったのでしょう。

 それでは、若いカイユボットを惹きつけたイエール川は一体、どのような趣の川だったのでしょうか、作品を見る前に、まず、写真で確かめておくことにしたいと思います。

(* https://ovninavi.com/propriete-caillebotte/

 川の両側を木々が生い茂り、うっそうとした状態になっています。川面には木々の葉が映り込み、緑色に見えます。その緑色の川が大きく蛇行した先に、カヌーが小さく見えます。おそらく、当時も、これと同じような光景だったのでしょう。

 カイユボットはここで川面を眺め、時に泳ぎ、時にカヌー遊びをして、川と戯れていたのでしょう。遊びの場であり、観賞の対象にもなりえた川だったことがわかります。上の写真からは、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。

 それでは、カイユボットはこのイエール川をどう描いたのか、特色のある3つの作品を選び、年代順に見ていくことにしましょう。

●《イエール岸のヤナギ》(Saules au Bord de l’Yerres、1872年)

 イエール川の岸辺に揺れるヤナギを捉えた作品です。

(油彩、カルトン、31×40㎝、1872年、所蔵先不詳)

 水面や木々、川辺の小道が、独特の筆致で描かれています。粗さが残っていますが、構図はユニークで、興趣があります。ヤナギを通して陽光が洩れ、川面に落ちて輝く様子を描いているところに、印象派の影響が感じられます。

 カンヴァスではなく、カルトン(厚紙製の画板)に描かれていますから、ひょっとしたら、習作段階の作品だったのかもしれません。制作されたのは1872年、エコール・デ・ボザールに入学する前でした。画家を志し、レオン・ボナの画塾に通っていた頃の作品ではないかと思います。

 カイユボットの経歴をみると、1870年にエリート養成機関であるリセ・ルイ・ル・グラン(Lycée Louis Le Grand)を卒業し、卒業とともに弁護士免許を取得しました。ところが、弁護士として働く間もなく、徴兵されて、普仏戦争(1870年7月19日から1871年5月10日)に参加しています。帰還後、本格的に絵画の勉強を始めた時期に描かれたのが、この作品でした。

 晴れた日のイエール川が、粗いタッチで捉えられています。おそらく、カイユボットが絵心を刺激された光景をそのまま、カルトン上で再現しようとしたのでしょう。小道や川面を照らす陽光の描き方にカイユボットの思いが感じられます。

 ところが筆の動きに滑らかさがありません。カンヴァスとは違って、カルトンに描いたからでしょうか。とくに、小道や川面に降り注ぐ陽光の描き方がぎこちなく、不自然さが目立っています。

 絵を学び始めて間もない時期に描かれたせいか、あるいは、カルトンのせいか、こう描きたいという思いと、実際に表現された画面とがマッチしていないのです。

 それから3年後に、カイユボットは、《イエール、雨の効果》(1875年)という作品を描いています。画面の隅々にまで神経が行き届き、画力が向上していることは明らかです。

《イエール、雨の効果》 (L’Yerres, effet de pluie、1875年)

 どの季節に描かれたのかはわかりませんが、川面の表情が実に、情感豊かに表現されているのが印象的です。

(油彩、カンヴァス、80.3×59.1㎝、1875年、Eskenazi Museum of Art所蔵)

 前景に小道を配し、中景にイエール川、そして遠景に川べりの木立を配するという画面構成になっています。

 手前の小道を見ると、木枠でしっかりと囲われています。おそらく盛り土で造った小道なのでしょう、崩れ落ちないように、しっかりと木製の枠で固定されています。明らかに人工的に整備された川だということがわかりますが、そのせいで、イエール川がまるでプールのようにも見えます。このイエール川が、別荘の敷地内を滔々と流れているのです。

 川べりの小道には、草も生えていなければ、小石も転がっていません。しかも、どちらかといえば、マットな茶色が使われています。いかにも人工的に造られた小道だということがわかりますが、それだけに、木立の緑や、川面に映りこんだ木々の緑の陰影が際立って見えます。対比の効果といえるものなのでしょう。

 そういえば、背後に並ぶ木立の中に、茶色の小舟が見えます。手前の小道からは川を挟んで真向かいになります。緑で覆われた対岸のアクセントになっており、手前の小道と呼応した色構成になっていることに気づきます。

 興味深いことに、手前の茶色の小道は、三角形に切り取った格好でレイアウトされています。この斜めのラインが、中景に描かれた川面の左方向に向かうラインと呼応し、遠景で描かれた木立の縦のラインを印象付けています。これらのラインが、一見、雑多に見える画面全体を構造的に安定化させていることがわかります。

 小道から小舟にいたる縦のラインに目をむけると、川面には、大小いくつもの波紋ができており、雨がもたらすしっとりとした情緒が丁寧に描き出されています。カイユボットがもっともアピールしたい箇所は、おそらく、このラインなのでしょう。

 ごく自然に波紋が際立つよう、認識されやすい色構成にされています。

 たとえば、川の両側は緑色で覆われていますが、川の中ほどには、木立から漏れる鈍い陽光が注がれ、白濁して見えます。その川面に、木立の幹がくっきりと映り込み、そこにも、たくさんの波紋が描かれています。自然の生成の仕組みに鑑賞者が気づくように、さり気なく色構成されているのです。

 こうして大小さまざまな波紋が描かれ、それらが幾重にもつながって、川面に豊かな表情を添えています。まるで生き物のように、生まれては消え、消えては生まれる様子が捉えられているのです。自然界ならではの生成過程が見事に表現されており、画面から動きとリズムが伝わってきます。

 小道を川と木立の間に、雨を介在させることによって、自然界ならではの絶妙な調和を生み、情感豊かな世界を創り出していたのです。画面からは、雨がもたらす余韻のある風情が感じられます。

 興味深いのは、カイユボットの着眼点です。

 カイユボットは、雨が降ることによって、川面に起きる波紋に着目しました。そして、画面構成、色構成を練り上げ、雨が醸し出す風情を情感豊かに描き出すことに成功しました。画題を発見する着眼力、観察した結果を的確に表現する力、そして、なによりも絶妙な画面構成にみられるきめ細かな感性と美意識に驚嘆させられました。

 この作品は1875年に制作されました。《イエール岸のヤナギ》に比べ、わずか3年ほどの間に、カイユボットが抜群の表現力を発揮し、作品化する力を身につけていたことがわかります。

 この作品からは、カイユボットの豊かな知性と感性、先進性や近代性を感じざるをえません。

 川面にできる無数の波紋が、この作品のメインモチーフです。背後に整然と並ぶ木立の幹、そして、手前の小道は、サブモチーフといえるでしょう。それらの主要なモチーフの中から、円形、直線、縦のライン、斜めのラインなどを掬い上げ、画面上に表現しました。こうして自然に生み出された幾何学模様をさり気なく画面に埋め込み、見事な調和を図ることができたのです。

 このような作品を生み出すことができたのは、カイユボットが愛しみの気持ちを持ってイエール川に接してきたからでしょう。そして、この作品によって、彼は、イエール川が観賞に耐える川であることも示しました。

 もちろん、イエール川は身近な遊びの場でもありました。

 カイユボットは、川を楽しむ人々の姿を捉えた作品もたくさん残しています。その中の一つ、印象に残った作品をご紹介しましょう。

●《イエール川のカヌー》(Périssoires sur l’Yerres、1878年)

 蛇行するイエール川を、2艘のカヌーが静かに前進している様子が描かれています。

(油彩、カンヴァス、157×113㎝、1878年、レンヌ美術館蔵)

 画面を見て、真っ先に目に留まるのが、白いシャツを着た漕ぎ手たちの後ろ姿です。手前の男性が大きく、先を進む男性が小さく描かれており、遠近法にのっとった画面構成になっています。

 2艘のカヌーは競うふうでもなく、ゆっくりとオールを漕ぎながら進行しています。彼らが進む前方を見ると、まるで行く手を阻むかのように、川辺の木々が両側から、深く枝を傾け、川を覆っているように見えます。

 木々の葉は浅黄色に色づき、それが川面に映りこみ、川と川辺が混然一体となって、辺り一面を柔らかく包み込んでいます。淡く柔らかな色彩が、画面全体に広がる中、所々に白が配されており、興を添えています。これまで見てきた2作品とはまた別の興趣が感じられます。

 爽やかな印象があるのです。

 カヌー周辺は白く波打ち、進行方向の川面もまた、白く輝いています。こちらは木陰から射し込む陽光を反映したものなのでしょう。浅黄色を基調に、所々に白をアクセントに使って、画面が色構成されているのです。そのせいか、初夏の爽やかさが感じられます。

 この作品で印象的なのが、白の使い方です。

 まず、漕ぎ手が着用している白いシャツ、そして、カヌー周辺の白い水しぶき、さらには、陽光に輝く白い川面が印象に残ります。まるでこれらの白を通して、イエール川の魅力と存在意義を示しているのではないかと思えるほどでした。

 この作品でカイユボットは、イエール川が、遊び場であるばかりか、自然との触れ合いの場であり、季節を観察し、観賞する場でもあることを表現していたのです。

 気になるのは、カイユボットが、白いシャツを通して、漕ぎ手の肩と上腕の筋肉をかたどるように描いていることでした。鍛え上げられた筋肉は、まるで労働者の肩のように盛り上がっています。ところが、白シャツの袖から下の腕は白く、柔らかそうです。

 見るからに、生計を立てるために肉体を酷使する必要のない人々の身体でした。おそらく、カイユボットの友人たちなのでしょう。白いシャツの盛り上がりが示すものは、カヌー遊びによって手にした筋肉質の身体だったのです。

 カイユボットが見たままの情景を描いた画面から、彼らの生活の一端が見えてきました。別荘生活を楽しむことができる富裕層の生活です。第2帝政時代の特権階級であり、カイユボットだからこそ、描くことができた光景です。

 実は、カイユボットが画家としてそれほど知られていなかった理由の一つに、彼自身、画家として生計を立てる必要がなかったということがあります。父親から莫大な資産を受け継いだ彼は、画家として収入を得る必要がなく、積極的な売り込みをしなかったからでした。

 画家として身を立てる必要のなかったカイユボットは、印象派の画家たちの生活を支えるコレクターとして、もっぱら彼らの作品を購入していたのです。

 それでは、再び、イエールの別荘に戻ることにしましょう。

 カイユボットは、イエール川以外に、邸宅の周辺を描いた作品もいくつか残しています。その中に、《田舎のポートレート》という作品があります。当時の女性たちの生活を伺い知るには格好の作品なので、ご紹介しましょう。

●《田舎のポートレート》( Portraits à la campagne, 1876年)

 カイユボットが、イエールの邸宅を訪れた親戚の女性たちを描いた作品です。タイトルは、《田舎のポートレート》です。

(油彩、カンヴァス、95×111㎝、1876年、バロン ジェラール芸術歴史博物館蔵)

 邸宅の脇で、年齢の異なる4人の女性がそれぞれ、思い思いの作業をしている姿が描かれています。刺繍をしている者もいれば、読書をしている者もいます。家事から解放された午後のひととき、女性たちが庭に出て、好きなことをしている様子が捉えられています。

 手前に描かれているのは、カイユボットの従妹のマリー(Marie)です。水色のドレスに身を包み、刺繍に余念がありません。上着の裾やスカートの裾にフリルがあしらわれており、普段着とはいえ、上質の衣服を着用していることがわかります。俯き加減の横顔といい、刺繍を施す手といい、若い女性らしい乳白色の肌が印象的です。

 彼女の後ろに見えるのは、年配の女性たちで、やはり黙々と刺繍をしています。刺繍は当時の女性たちの手すさびであり、趣味であり、一種の娯楽だったのでしょう。老いも若きも一様に、手元を見つめ、指を細やかに動かしているのが印象的です。

 もっとも、遠くに描かれている女性は読書をしています。年配の女性で、やはり黒っぽい服を着ていますが、ただ一人、皆から離れるようにして、読書しているのです。当時、女性が本を読むのは一般的な趣味とはいえなかったのでしょう。ひょっとしたら、変り者扱いされていたのかもしれません。彼女は画面の一番奥に配置されていました。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちはそれぞれの趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちは午後のひとときを趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。

 第二帝政時代の富裕層の生活の一端を物語る光景ともいえます。

  カイユボットは富裕層の子弟としてパリに生まれ、育ちました。12歳のころには、イエールに別荘を持ち、夏はそこで過ごすのが恒例となっていました。第2帝政時代を特権階級の子弟として過ごしたのです。カイユボットだからこそ、この作品を描くことができたといえます。

 この作品は、1877年4月にパリで開催された第3回印象派展で発表されました(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Portraits_%C3%A0_la_campagne)。

 さて、イエールの別荘には、帝政時代の富裕層の生活の残滓をいくつも見ることができます。一体、どのようなものだったのか、写真を通してみてみることにしましょう。

■イエールの別荘に残された、帝政時代の面影

 カイユボットが描いたのは、邸宅の外でしたから、背後に庭園の一部を見ることができただけです。邸宅の内部は一体、どうなっているのでしょうか、写真で確かめてみることにしましょう。まずは、リビングです。

(* https://hirokokokoro.livedoor.blog/archives/19579017.html

 シャンデリア、テーブル、壁に掛けられた絵画、食器、いずれも贅を凝らしたもので、豪華なことこの上もありません。調度品を見るだけで、第二帝政時代の富裕層がいかに贅沢な生活をしていたのか、その一端を偲ぶことができます。

 次に、両親の主寝室を見てみることにしましょう。主寝室の設えを見れば、この別荘がどれほど豪華なものであったか、一目瞭然です。

(* https://crea.bunshun.jp/articles/-/21403?page=2

 カーテンといい、ベッドといい、ジュータンといい、まさに王侯貴族の寝室です。

 ちなみに、この写真のキャプションには、帝政様式と書かれていました。帝政時代の様式を踏まえて、造られた寝室だったのです。そういえば、窓際の壁にナポレオンの絵が飾られています。

 カイユボットの父親は、ナポレオンを信奉していたのでしょう。皇帝を頂点とした富裕層が好んだ様式に合わせ、寝室を設え、彼らが好んだ調度品を身の回りに置いていました。父親が、帝政時代の為政者の価値観を内面化していたことがわかります。

 さて、この主寝室で目を引かれるのが、天井に接して掲げられた、威容を誇る黄金の鷹像です。ベッド側のカーテンの上に設置されています。この豪華な像は、権力こそが富の源泉であることを象徴しているように思えます。そして、近代化を推進しながらも、往時の贅沢を忘れられない第2帝政時代を端的に示すものでもあるように見えます。

 カイユボットの父親は、王族でも貴族でもありませんでしたが、知識階級であり、富裕層でした。時代の流れに敏感で、行動力があり、時代を動かすエネルギーを持った新興階級の一人でした。

 その息子で、画家を志したのが、カイユボットです。

 今回、彼の作品を4点、取り上げてきました。そこから見えてくるのは、時代の動きを吸収しようとする心構えであり、富裕層の間で垣間見える不安感であり、安らぎの源泉としての、女性たちの旧態依然とした生活習慣でした。(2024/8/31 香取淳子)