ヒト、メディア、社会を考える

香取淳子のメディア日誌
このページでは、香取淳子が日常生活の中で見聞きするメディア現象やメディアコンテンツについての雑感を綴っていきます。メディアこそがヒトの感性、美意識、世界観を変え、人々の生活を変容させ、社会を変革していくと考えているからです。また、メディアに限らず、日々の出来事を通して、過去・現在・未来を深く見つめ、メディアの影響の痕跡を追っていきます。


留意事項
■当サイトで紹介する論文やエッセイなどを引用される場合は、著者名、掲載誌名、発行号、発行年月、該当ページを明記してください。
■当サイトで公表する文章を引用される場合は、著者名、日付、URLを明記してください。



ブログ一覧

「大阪、関西万博2025」④:マルタ館で見る、幕末日本

■マルタ館の建設費未払い

 次々と起こる建設代金未払い問題が、マルタ館でも発生していました。下請け会社のI社は、約1億2千万円の未払いを抱え、現在、東京地裁に提訴しています。

(※ https://katori-atsuko.com/?news=%e3%81%be%e3%81%9f%e3%81%97%e3%81%a6%e3%82%82%e6%9c%aa%e6%89%95%e3%81%84%e8%a8%b4%e8%a8%9f%e3%80%81%e4%b8%87%e5%8d%9a%e5%8d%94%e4%bc%9a%e3%81%af%e3%81%a9%e3%81%86%e8%b2%ac%e4%bb%bb%e3%82%92%e5%8f%96

 2024年12月、マルタ館の工事は、外資系元請けのG社、一次下請けのS建設、I社が協議して、開始されました。G社は仮設物建築のスペシャリストで、世界中で万博やスポーツ大会の仮設物を作ってきた実績があります。内装工事を請け負ったI社の社長は当初、「こんな大きな会社と仕事ができるなんてすごい」と喜んでいたといいます。

 ところが、G社は協議の場でも平面図2枚しか渡さず、内装についてもほとんど指示を出しませんでした。G社のやり方に不安を感じたのか、1月末に、S建設と3次下請け業者は撤退してしまいました。以後、すべての責任がI社にのしかかってきたのです。

 マルタ館は、パビリオンの中ではもっとも遅く着工したので、工期が短く、しかも、図面は現場で何度も変更され、困難を極める仕事内容でした。それでもI社は不眠不休で働き、開幕までにマルタ館の工事を完了させました。ところが、元請けのG社は1億2千万円にも上る建設代金を支払っていないというのです。(※ http://www.labornetjp.org/news/2025/0617expo

 それでは、I社が苦労して完成させたマルタ館をご紹介しましょう。

(※ https://www.expo2025.or.jp/official-participant/malta/

 まず、やや湾曲した石造り風の壁面が、目につきます。自然石の素材感と洗練されたデザイン性が、なんとも印象的です。壁面の前には水が湛えられ、背後から光を受けると、石の壁や大きな木が水面に照らし出されるよう設計されています。光と水面を巧みに利用し、幻想的な雰囲気が醸し出されているのです。

 この素晴らしいパビリオンを、I社は、たった2枚の平面図を渡されただけで、完成させたのです。現場では、何度も設計変更を要求されたといいます。外国人とのやり取りの中で、コミュニケーションがスムーズにいかないことも多々、あったでしょう。それでもI社は開幕までに工事を完了させました。その責任感は、さすが日本の建設会社だといわざるをえません。ところが、その対価が支払われていないのです。

 マルタ館については、11分48秒の動画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/xybFRSzM3X0

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 この動画を見ていて、わかったことがあります。それは、正面の湾曲した壁面が、昼間はスクリーンとして活用されていたことです。

(※ 前掲の公式動画から)

 大きなスクリーンに広大な海が映し出されています。入り口で並んでいる来場者たちは、まるで海の中に佇んでいるような気持ちになっていたにちがいありません。これは、マルタが地中海に浮かぶ小島であることを、来場者に直感的に理解させる仕掛けだといえます。

 はたして、マルタはどのような国なのでしょうか。

■マルタ共和国とは?

 古来、さまざまな勢力や国から支配されてきたマルタは、1974年12月13日、イギリスから独立し、マルタ共和国となりました。イタリアのシチリア島の南に位置し、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島など3つの島々から構成されています。面積は316平方キロメートルで、東京23区の面積の約半分の大きさです。

 マルタの全体像が分かるような地図を探してみました。

(※ https://ritoful.com/archives/20113

 左が地中海での各国の位置関係を示す地図、右が3つの島から成るマルタ共和国の地図です。

 左の地図を見ると、マルタがイタリアのシチリア半島のごく近くに位置し、北アフリカのチュニジアにも近いことがわかります。イタリア、チュニジア、ギリシャ、トルコ、エジプトに挟まれ、地中海に浮かんでいる小さな島国が、マルタ共和国でした。

 マルタはまさに地中海の要衝の地なのです。

 右の地図を見ると、マルタ共和国は、マルタ島、ゴゾ島、コミノ島などから構成されており、一番大きいマルタ島に、首都ヴァレッタが置かれているのがわかります。

 ヴァレッタの写真がありますので、見てみることにしましょう。

(※ https://diamond.jp/articles/-/345221

 コバルト色をした地中海のまっただ中に、石造りの建物が海の際まで建てられているのが見えます。まさに要塞都市ですが、これが、マルタ共和国の首都、ヴァレッタです。ここに、マルタの地政学上の特徴をみることができます。

 地中海の真ん中に浮かぶマルタは、古来、さまざま勢力から侵略され、支配されてきました。1530年になると、聖ヨハネ騎士団がマルタを拠点に活動しはじめました。彼らはやがて、マルタ騎士団と呼ばれるようになります。

 これに危機感をおぼえたオスマン帝国は1565年、4万もの大軍を率いて、マルタを攻撃してきました。マルタ騎士団はわずか8千程度の兵力で、4ヶ月間、これに抵抗していました。そのうち、カトリック教国側の援軍がマルタに到着すると、オスマン軍はたちまち撤退していったという事件がありました。

 この襲撃に懲りたマルタは、翌1566年、防衛のために新たな要塞都市の建設に着手しました。出来上がった都市は、当時のマルタ騎士団の団長ラ・ヴァレットの名前に因み、ヴァレッタと名付けられました。マルタは、防衛を最優先させなければならないほど、地政学上のリスクが高い地域だったのです。

 実際、古代からさまざまな民族がマルタを通り、上陸し、支配しては、去っていきました。その結果、この小さな島には、数多くの遺跡が残され、多様な民俗文化が根付いています。

■マルタに残された、世界遺産の数々

 マルタには、新石器時代から人間が生活していたといわれ、マルタ島やゴゾ島には約30の、神殿と思われる巨石建造物が残されています。そのうち、ゴゾ島のジュガンティーヤ神殿は、1980年に世界遺産に認定されました。

 その後、マルタ島でも5つの巨石神殿が発見されました。これらが追加登録されて、ジュガンティーヤ神殿 を含む神殿群は、1992年にマルタの巨石神殿群と名称変更されました。

こちら → https://www.mtajapan.com/heritage

 ここでは、ジュガンティーヤ神殿の他に、ハジャーイム神殿、イムナイドラ神殿、タルシーン神殿などが紹介されています。風化が進み、現在は巨大なテントで覆われていますが、神殿内部の見学は可能で、一般公開されているそうです。

 これらの巨石遺跡に関する動画を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/0OD7W2qMRhA

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 興味深いことに、島内の各所に平行に穿たれた2本の溝の跡が残されています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Misra%C4%A7_G%C4%A7ar_il-Kbir

 この溝は「カート・ラッツ(車輪の轍)」と呼ばれ、水路だという説と、神殿などに石を運ぶためのレールだという説があります。

 カート・ラッツと呼ばれる2本の平行線が、島の至る所に見られます。その一方、まるでジャンクションのように穿たれた石の溝も残されています。

(※ 前掲URL)

 こちらは、まるで鉄道のポイントのように見えます。このような分岐点が所々に存在していることから、マルタには、古代の運送の痕跡がそのまま残されているといえます。

 先ほどいいましたように、ヴァレッタは港を見下ろす格好で、シベラスの丘の上に建造されています。まさに石造りの城塞都市です。そして、このヴァレッタの街そのものも世界遺産に登録されているのです。

(※ Wikipedia)

 11世紀の以降のさまざまな様式の建造物が、ヴァレッタには残されています。バロック建築、マニエリスム建築、近代建築、新古典主義建築などです。これらの多様な建築様式の建造物もまた、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 こうしてみてくると、マルタが地中海の要衝の地だからこそ、さまざまな文化が堆積してきたことがわかります。もちろん、東洋と西洋をつなぐ交通の結節点にもなっていたでしょう。

 実は、幕末の日本人が、このマルタを訪れていた痕跡が残されていたのです。

■マルタ館で展示された日本の甲冑

 地中海のマルタと縁があったとは、とうてい思えないのに、マルタのパビリオンに、日本の甲冑が展示されていました。向かって左が西洋の鎧、右が日本の甲冑です。東西の武具が並べて展示されていたのです。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 この甲冑は、2015年にマルタの武器庫で発見されたといいます。幕府がヨーロッパに派遣した使節団が、マルタに贈呈したものでした。1862年に欧州を訪れる途中、使節団はマルタに立ち寄っていました。その際、マルタから大歓迎された使節団が、その返礼として、甲冑を贈っていたのです。

 発見された時点で、すでに150年以上も経ていた甲冑です。当然のことながら、経年劣化が進み、欠損した箇所も目立つようになっていました。劣化部分や欠損部分については、京都美術品修復所が、1年半かけて修復を完了させました。2025年3月22日、読売新聞は、修復が終わった甲冑が、将軍家ゆかりの光雲寺で披露されたことを伝えていました。

(※ 読売新聞、2025年3月23日)

 使節団がマルタに贈ったのは、甲冑3点でした。それらが修理され、そのうち1点が、今回、マルタのパビリオンで展示されているのです。家老級の武士が身につける鉄製の高級甲冑だといいます。

(※ マルタパビリオンの動画より)

 たしかに、磨きこまれ、黒光りしている甲冑には、重々しい威厳と凛とした美しさがあります。なるほど、家老級の武士が身につける甲冑なのだと納得させられました。

 アンドレ・スピテリ駐日大使は「万博で甲冑を見て、マルタと日本の歴史的なつながりを感じてほしい」と話しています(※ 読売新聞、2025年3月23日)。

■遣欧使節団はなぜ、マルタに立ち寄ったのか?

 江戸幕府は、文久元年(1862年)にヨーロッパに使節団を派遣しました。1858年に交わされたオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約のうち、新潟・兵庫の開港および江戸・大坂の開市の延期交渉、そして、樺太の国境画定交渉を進めるためでした。

 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、幕府の使節団は、イギリス海軍の蒸気フリゲート艦、オーディン号(HMS Odin)に乗船し、欧州に向かいました。

 一行の渡欧経路を見ると、品川港を出発し、長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、アデン保護領を経てエジプト・スエズに上陸し、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出た後、再び船に乗って地中海を渡り、英領マルタを経て、4月3日にマルセイユに入っていました。

 フランスのマルセイユに入る前の3月28日、使節団は、たしかにマルタ島のヴァレッタに立ち寄っていたのです。

 一行が、なぜ、エジプトのアレクキサンドリアから直接、マルセイユに行かず、マルタに立ち寄ったのかといえば、カイロ滞在時に、フランス行きの船を手配することができなかったからでした(※ 前掲、pp.47-48)。

 当初の予定では、フランスを訪問するのが先でした。ところが、使節団一行をフランスに運ぶ船の手配ができず、ひとまず、イギリスの船でマルタまで行こうということになったのです。一行を運んだのは、イギリスの兵員輸送船ヒマラヤ号でした。

 当時、マルタは英領でした。イギリスは、1814年にマルタを支配下に置き、全盛期のイギリスを支えるための貿易、軍事上の重要な拠点にしていました。

 使節団が見たヴァレッタの印象は次のようなものでした。

 「マルタ島の印象は、全島がすべて岩で覆われた不毛の地のそれであった。とくに港の三方はみな城塞のようである」(※ 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、pp.49. 1989年、新潮社)

 港に面したところはみな城塞のようだと書かれています。実際、ヴァレッタはマルタ騎士団によって、1566年に要塞都市に造りかえられていました。日本の武士の目に、石造りの街ヴァレッタが、堅固な要塞に見えたのは、当然のことだったのかもしれません。

■マルタに贈呈した甲冑

 さて、ヒマラヤ号がヴァレッタに入港すると、一行は大歓迎されました。

 「哨戒艇が六隻ばかり本船の周りにやって来て、護衛についた。それより三使は、日章旗を掲げた艀に乗り換え、セント・アングロ要塞から十五発の祝砲を受けながら上陸し、「ダンスフォード・ホテル」に入った」(※ 前掲、pp.49-50)。

 ヒマラヤ号からは、まず、三使が、日章旗を掲げた艀に乗り換え、祝砲を受けながら、ヴァレッタ上陸しました。三使とは、「全権公使」のことで、竹内安徳(正使、56歳)、松平康直(副使、33歳)、京極高朗(目付、39歳)の三名を指します。使節一行の主要メンバーです。

 一行は、これら三使の他に、事務方のトップである柴田剛中(組頭、46歳)をはじめ、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪ら、総勢36名で構成されていました。

 三使と柴田剛中の4人が、パリで撮影された写真が残されています。ご紹介しましょう。

(※ Wikipedia)

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

 正使の竹内保徳は、箱館奉行に任じられた際は海防や開発に尽力し、外交や蝦夷地の事情にも通じていました。しかも、「君子風の良吏なりければ正使の価値を備へたる人物」といわれ、温厚篤実で、ものに動じることもなく、樺太境界の交渉には適任でした(※ 前掲、p.17)。

 三使の中で、日本の伝統文化を貫き通したのは、副使の松平康直でした。洋行経験者から持参の必要はないといわれながらも、甲冑や槍などを持参することを主張し、その結果、三使だけは甲冑等の持参を許されたそうです(※ 前掲、p.19)。

 もちろん、彼は渡航中も、日本の礼儀作法を固持していました。

 幕府は、使節一行の渡航に際し、締盟六か国の国王や首相、政府高官に送る土産として、大量の漆器や甲冑を用意していましたが、ただ立ち寄っただけのマルタに、家老クラスの武士が着用する甲冑を3つも贈呈したのは、ひょっとしたら、副使の松平康直の意向が強く働いていたのかもしれません。

 さて、ヴァレッタで三泊すると、一行は再び、ヒマラヤ号に乗って、フランスに入りました。しばらく滞在すると、今度はフランスの軍艦「コルス」に乗って、午前十時ごろイギリスに向かいます。ドーバーに着いたのが、1862年4月30日(文久2年4月2日)の午後1時ごろでした。

■使節団が見た、第2回ロンドン万博

 翌1862年5月1日、ロンドンでは第2回万国博覧会が、サウスケンジントンにある王立園芸協会庭園の隣接地で開幕しました。この開会式には使節団の三使も招かれています。もちろん、使節団の面々も、ロンドン滞在中になんども万博会場に足を運びました。

 万博会場を訪れた一行の姿を描いた図が残されています。

(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/086r.html

 羽織袴に刀を差し、物珍しそうにあちこち見てまわる使節一行の様子が描かれています。実際、見るもの、聞くものが目新しく、驚きに耐えなかったのでしょう。会場には、世界各国の物産が一堂に集められ、展示されていました。

 出品された品目は、金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶、浮きドッグの模型、美術工芸品、銃砲など百種類を超えていました。使節団にとっては見たこともないものばかりでした。その会場の一角に、駐日公使オールコックが持ち込んだ日本の物産が展示されていました。

 使節団の一人、高島祐啓は次のように記しています。

 「日本ノ品ハ外国未曽有ノ奇物多トイヘトモ、惜ムラクハ彼ノ地ニ渡ル所皆下等ノ品多クシテ、各国ノ下ニ出シタルハ残念ナリト云フヘシ」(※ 前掲。p.78)

 日本から出品されたものには、ガラクタが多く、見るに耐えなかったというのです。高島がガラクタと認識していたのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、草履などの日用品でした。英国人であるオールコックは、そのような日用品にも、展示価値があると判断したのでしょう。

■使節団は、第2回ロンドン万博で何を見たか?

 イギリスはこの頃、カナダ、オーストラリア、ジャマイカ、エジプト、南アフリカ、インドやその周辺にまで勢力圏を拡大し、広大な資源を有する植民地帝国を形成していました。目論んでいたのは、技術格差に基づく交易による世界制覇でした。

 当時、イギリス産の工業製品を、インドの綿花・アヘン、中国の茶、絹織物などと取引し、暴利をむさぼるという形で各地に進出していました。自由貿易を掲げて、取引を行い、イギリスの権益を最大化していくという方法です。

 たとえば、中国に対しては、1840年にアヘン戦争を起こして清朝を屈服させ、香港を獲得しました。さらに、太平天国の乱に乗じて、アロー戦争をしかけ、1860年に北京条約によって開港を増やし、権益を拡大しました。

 このような帝国主義的手法によって、イギリスは世界各地に進出し、勢力圏を拡大させていたのです。いち早く産業革命を終えたイギリスならではの優位性によるものでした。イギリスの手法を学んだ欧米列強が引き続き、アジアに進出してきていました。

 七つの海を支配し、大英帝国を築き上げたイギリスは、日本との交易を求め、鎖国下の日本を何度か訪れていました。使節一行がマルタに立ち寄ることになったのも、実は、幕末の混乱に乗じて列強と結ばされた条約の修正をめぐる交渉のためでした。

 そして、使節団の欧州渡航の手配をしたのが、初代イギリス駐日公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809 – 1897)でした。幕府の窮地を見て取った彼は、ヨーロッパ締盟国に、開港開市延期についての親書を送り、合わせて使節団を派遣する旨を伝達すればどうかと幕府に提案しました。

 この提案が受け入れられると、彼は、フランスをはじめ、交渉国とのスケジュール調整をし、渡航費用、滞在費などの分担交渉なども行いました。もちろん、ヨーロッパまでの航路も、香港、シンガポール、インド、エジプト、マルタといった具合に、すべて当時のイギリス領を経由したものでした。

 使節団は、欧州渡航の行程で、イギリスの政治的力を見せつけられたでしょうし、ロンドン万博会場では、経済力の基礎となった技術力を見せつけられていたことでしょう。会場には蒸気機関、銃砲、浮きドッグの模型などが展示されていました。帝国主義時代を支え、産業化社会を進展させた技術の一端が披露されていたのです。

 翻って、「大阪、関西万博2025」をみれば、「いのち輝く未来社会のデザイン」という総合テーマの下、披露されているのは、ロボット技術であり、生命技術、リサイクルシステムであり、自然エネルギー、等々です。

 これらの技術がはたして、「いのち輝く未来社会」を約束してくれるものなのかどうか・・・。実際、ユスリカの大量発生では、万博会場設営のために夢洲の生態系が破壊されたことが明らかになりました。

 新規技術の導入に際しては、技術単体の機能や効能を見るだけではなく、技術相互の影響や累積効果、間接的な影響等を見ていく必要があるでしょう。AIが一般化する時代の到来を迎え、これまではともすれば、なおざりにされてきた、総合的、全体的な観点から、技術を検証していく必要が高まってきていると思います。

(2025/7/1 香取淳子)

「大阪、関西万博2025」③:生態系を壊されたユスリカ、逆襲か?

■万博会場で発生した大量のユスリカ

 万博会場で大量の虫が発生していることが、開幕一か月後あたりから、SNSでさかんに取り上げられるようになりました。万博協会によると、5月14日頃から大量に確認され始めたといいます。

 SNSでの騒動に呼応して、新聞やテレビでも取り上げられるようになりました。たとえば、大阪のテレビ局MBSは5月22日、ユスリカの飛来について、次のように伝えています。

こちら → https://youtu.be/Oqytv2HySGE

(※ 5月22日MBSニュースより。CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 番組では、大屋根リングにびっしりと張り付いている大量の虫が映し出されます。これらはユスリカという虫で、蚊のようにヒトの血を吸ったり病気を媒介したりすることはないと説明されていました。害がないとはいえ、決して気持ちのいいものではありません。


(※ MBSニュース映像より)

 この虫が、会場のいたるところで確認されているというのです。次いで、ユスリカの死骸がたくさん落ちている場所が映し出され、大群が飛来し、空を覆っている写真も示されました。


(※ MBSニュース映像より)

 これは暗くなり始めたころの写真ですが、まだ明るい時間帯でも、ユスリカは飛来してきているようでした。

 三人の女性がウチワや扇子で虫を追い払いながら、大屋根リングを歩いている様子が映し出されます。

 レポーターが女性にインタビューすると、いかにも関西人らしく、「虫も、万博見に来たんかなって、言ってるんですけど」と笑顔で答えていましたが、不快感がなかったとはいえないでしょう。

 深刻なのは、会場内の飲食店です。店長の話では、大量のユスリカが店内に入り込んで床に落ち、それを来客が踏むので床が汚れて、掃除が大変だというのです。客の印象も悪くなるでしょうし、場合によっては虫が食べ物に落ちることもあるでしょう。店舗にとっては衛生管理上のコストも嵩みます。

 ユスリカの大量飛来が発覚したのがゴールデン明けから5月半ばぐらいでした。以後、発見されるたびに、万博協会には報告されているはずですが、万博協会ははたして、どのような対応をしてきたのでしょうか。

■万博協会の対応

 万博協会は26日、発生を抑えるための対策本部(本部長・石毛博行事務総長)を設置したと発表しました。同日、開催された1回目の会合で、高科淳・副事務総長は、これまで薬剤を中心とした対策を行ってきたが、ユスリカの会場への大量飛来を抑えることができていないと説明しています。

 万博協会は、当初、薬剤を撒けば、何とかなるだろうと思っていたのでしょう。ところが、いっこうに効かず、かえって増えているような状態だったのです。高科氏は今後、「環境への影響を考慮しながら、大阪府や大阪市と協力し、全力かつ迅速に対応を続けていく」と述べています。

 その後も、ユスリカの飛来は止む気配を見せませんでした。

 おそらく、来場者や会場内の施設や店舗関係者、スタッフなどから、万博協会への問い合わせが殺到したのでしょう。

 万博協会は2025年6月2日、「大阪・関西万博会場におけるユスリカの大量飛来についての現状と対策状況」というタイトルのお知らせを万博HP上に掲載しています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250527-02/

 万博HP上に掲載されたとはいえ、新しい情報はなく、これまで報道されてきたことを、整理しただけのような内容でした。

 万博協会は、複数の事業者の協力を得て、調査を実施した結果、次のように報告しています。

①会場内に大量飛来しているのは、ユスリカ科の一種であるシオユスリカであること、

②シオユスリカは淡水と海水が混じる汽水域で発生しており、発生源は、ウォータープラザ及びつながりの海であること、

③夕方から夜にかけての時間帯で大量発生し、主な飛来場所は、会場南側の大屋根リングの上(スカイウォーク)や、東西の水辺エリアであるが、会場の広い範囲でも確認されている、等々。

 まず、大量発生している虫を特定し、その発生源を明らかにしたうえで、主な飛来場所と飛来時間帯を報告しています。次いで、ユスリカ対策として、雨水桝等には、ユスリカの成長抑制剤を散布したこと、協会施設には、忌避剤による侵入防止策、清掃、消毒を実施し、営業店舗等には、忌避剤を使用した侵入対策、清掃、消毒を支援してきたこと、等を説明しています。

 興味深いのは、発生源と思われるウォータープラザやつながりの海には、当初から成長抑制剤を投入しておらず、これまでは成長抑制剤を撒いてきた雨水桝等には、今後もそうするのかどうかの言及がなかったことです。

 このことからは、万博協会は当初、手っ取り早く駆除できる薬剤に飛びついたものの、その後、薬剤を使用することに慎重な姿勢を見せ始めたことがわかります。おそらく、薬剤をしばらく使ってみても、効果がなかったことが影響しているのでしょう。あるいは、薬剤散布による人体や環境への影響を懸念したからかもしれません。

 万博協会の対応の微妙な変化については思い当たる節があります。

■薬剤に害はないのか?

 万博公式サイトに、「ユスリカ対策のために使用している成長抑制剤とは何ですか。人体・環境に影響はないですか」という質問が掲載されていました(※ 大阪、関西万博公式サイト)。

 ユスリカの大量発生以来、このような内容の質問が数多く、万博協会に寄せられていたからでしょう。これに対する万博協会の回答は、次のようなものでした。

①これまで雨水桝に、ユスリカの幼虫が羽化して飛翔することを防ぐ目的で、成長抑制剤を投入してきたが、人体が触れる場所には投入していない、

②成長抑制剤は、安全性が確認された市販品を使っており、人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入している、等々。

 気になるのは、回答文に、「人体が触れる場所には投入していない」とか、「人体・環境に悪影響がないように、用法・用量を守って投入」などの表現がみられることです。いずれも薬剤使用による人体への影響を否定しようとするものであり、万博協会の防御の姿勢を垣間見ることができます。

 どのような薬剤を使用するにせよ、生物を駆除する薬剤には、人体や環境になんらかの影響があると考えるのが自然です。大量に飛来してくるユスリカを駆除するには、相当の量が必要になるでしょう。空中に散布するとなれば、当然のことながら、人体や自然への悪影響も考えられます。

 そのせいか、万博協会はHP上ではどの薬剤を使っているかを明らかにせず、ただ、市販の製品を使用法、使用量を守って撒いていると説明しているだけでした。そして、どういうわけか、この時点で万博協会は、なぜユスリカが大量に発生したのかについては言及していません。

■夢洲は生物多様性ホットスポット

 夢洲でのユスリカ発生は、実は、専門家から4年前に指摘されていました。

 夢洲は、1977年に埋め立て免許が取得された、埋め立て処分場です。埋め立てている間に、湿地や砂礫地ができ、いつの間にか、コアジサシやシギ・チドリ類など、貴重な鳥の生息場所となっていました。さまざまな生物が暮らすようになっており、多様な生態系が生まれてきていました。その結果、夢洲は2014年に、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに指定されていたのです。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/documents/20316/guide20book20compact.pdf

 生物多様性ホットスポットとは、地球規模での生物多様性が高いにもかかわらず、人類による破壊の危機に瀕している地域のことを指します(※ Wikipedia)。

 大阪湾沿岸の自然は、開発によって近世から現代にいたるまで、ずっと失われ続けてきました。その自然が、わずかながら夢洲で再生し、命あふれる生物多様性のホットスポットになっていたのです。埋立地の夢洲で、数多くの生命を支えていたのが、塩性湿地とヨシ原でした。

 ところが、2018年11月23日、パリで開催された博覧会国際事務局(BIE)の総会で、2025年万博の開催地として大阪が選ばれてしまいました。

 以来、野鳥王国、夢洲の運命が激変したのです。

■なぜ、夢洲が万博会場に選ばれたのか

 当初の会場案に、夢洲は含まれていませんでした。たとえば、2016年度に大阪府が民間コンサルに委託した「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)策定業務」の発注段階では、夢洲は検討対象ではなかったのです。

 ところが、コンサル業者が2016年8月末に府に納めた「国際博覧会大作誘致に係る基本コンセプト(案)」では、万博会場の予定地に「夢洲」が追加されていました。(※ http://hunter-investigate.jp/news/2017/04/-20252627-28-28.html

 なぜ、夢洲が追加されるに至ったのか、その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

 夢洲は、2014年の調査では否定され、2015年の調査では、対象地にも入っていませんでした。突如、候補地に追加されたことが明らかになったのは、2016年7月です。

 7月22日に開かれた検討会議の第1回整備等部会の議事録に、興味深いやり取りが記録されています。委員から、なぜ、夢洲が候補地に追加されたのかと質問された事務局が、当時の松井一郎大阪府知事が独断で夢洲を万博予定地に追加したと回答していたのです(※ 前掲。URL)。

 その2か月ほど前の5月21日、松井知事(当時)は、菅義偉官房長官(当時)と東京で非公式に会談し、夢洲を会場に万博を開催し、終了後は統合型リゾート(IR)として利活用したいという方針を示し、誘致への協力を要請していました(※ 2016年5月23日付産経新聞)。

 大阪府知事の松井氏は5月21日に非公式に官房長官の菅氏と会談し、夢洲を会場とするプランを示し、万博誘致の要請をしていたのです。つまり、5月21日までに、夢洲を会場にするというプランは出来上がっていたことになります。

 2016年12月、経産省は、経済界代表や各界の有識者、地方自治体の代表者等で構成される「2025年国際博覧会検討会」を設置しました。そこで、『「2025日本万国博覧会」基本構想(府案)』(大阪府、2016年11月)に基づいて検討を重ね、パブリックコメントを踏まえて報告書をまとめました。そこには、開催場所として、「大阪府大阪市夢洲地区」と明記されていました。

(※ https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11646345/www.meti.go.jp/press/2017/04/20170407004/20170407004.html

 夢洲は2016年12月にはすでに、開催場所として政財界から承認され、確定していたのです。夢洲が、大阪の生物多様性ホットスポットのAランクに選定されてからわずか2年しか経っていませんでした。

 基本構想を策定した大阪府や大阪市は、そのことを知っていたはずですが、それには触れず、夢洲を会場に選んでいたことになります。

 ちなみに、夢洲が生物多様性ホットスポットAランクに指定されていることは、この時の検討会では知らされていなかったといいます。(※ https://www.ben54.jp/news/2334

 一連の経緯をみると、大阪府の万博用地選定の過程はきわめて不透明なものだったといわざるをえません。見えてくるのは、万博後の土地をIRとして利活用という大阪府の思惑です。

 万博は一過性の祭典ですが、地元にとって重要なのは、跡地を利用した地域開発、地域振興であり、新規事業の立ち上げなどです。継続的に経済効果が見込まれる事業企画こそが必要でした。

 大阪府と市は、万博開催を起爆剤に、大阪をはじめ関西圏の経済力、技術力、都市としての魅力を飛躍的に向上させることを目指しました。万博後の展開を重視すれば、開催場所は夢洲でなければならなかったのです。

 2018年11月23日、パリで開催された第164回博覧会国際事務局(BIE)総会で、2025年国際博覧会が大阪で開催されることが決定しました。この決定を受けて、経済界が動き始めました。

■スーパーシティ構想の一環としての夢洲

 2020年12月、内閣府がスーパーシティ型国家戦略特別区域の指定に関する公募を行ったところ、大阪府と市はこれに応募しました。

 大阪府と市は、2つのグリーンフィールド(夢洲、うめきた2期)で、3つのプロジェクト(夢洲コンストラクション、大阪・関西万博、うめきた2期)を立ち上げ、先端的サービスや規制改革を行うことを提案したのです。

 この提案は、国家戦略特区諮問会議での審議を経て、2022年4月、政令閣議決定により、大阪市域が区域指定されました。

(※ https://www.city.osaka.lg.jp/ictsenryakushitsu/page/0000592767.html

 これら3つのプロジェクトには、経済界が深く関わっています。

 たとえば、関西経済連合会は、2022年8月26日、「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み」を発表しました。これによると、夢洲はスーパーシティ構想の一貫として構想されていました。


(※ 『「夢洲コンストラクション」から始まる関経連の夢洲まちづくりへの取り組み』、p.12、関西経済連合会、2022年8月26日)

 このプロジェクトでは、夢洲は未来社会の実験場として、空飛ぶクルマの社会実装、自動運転での万博アクセス、未来医療の体験などが構想されていました。確かに、これらを実現させるには、広大な空き地が不可欠でした。

 万博会場に選定された夢洲は、まず、万博会場として活用し、万博が終われば、IR、上質なリゾート地といった具合に開発され、スーパーシティとしての未来が構想されていたのです。

(※ 前掲、p.14)

 未来社会を支える技術は、「空飛ぶクルマ」、「自動運転での万博アクセス」、「未来医療の体験」などを通して、万博会場で経験できるようにされていました。閉幕後はそのまま、実社会で利用できるように計画されていたのです。

 万博会場は、未来技術の体験の場であり、シミュレーションの場であり、社会実装に向けた場でもあったのです。

 当時、すでに夢洲とコスモスクエアを結ぶ「夢咲トンネル」に、鉄道部分が造られていました。比較的短期間で、鉄道を通すことも可能だったのです。電車が延伸すれば、夢洲から大阪都心までの所要時間は約20分になります。

 都心に近く、しかも、広大な空き地がある夢洲は、万博会場として最適なばかりか、閉幕後のIRにも恰好の地でした。

 経済界と行政は一丸となって、夢洲を未来社会のデザインで造り替えようとしていました。自然が時間をかけて育み、多様な生物が棲息する環境を、未来技術で覆い尽くそうとしていたとしていたのです。

 もちろん、それを懸念する声はありました。

 実は、2018年11月19日、大阪環境保全協会は、大阪府と大阪市等に対し、要望書を提出していました。万博が大阪で開催されることが決定される直前のことです。

■大阪府と市に対する保全協会からの要望

 大阪自然環境保全協会会長の夏原由博氏は、2018年11月19日、大阪府知事(松井一郎)、大阪市長(吉村洋文)、大阪府議会議長(岩木均)、大阪市会議長 (角谷庄一)宛てに、「夢洲の自然環境保全に関する要望及び質問書」を提出しました。

こちら → https://www.nature.or.jp/action/teigen/yumeshima.html

 この要望書に対し、大阪府からは2018年12月26日にメールで回答があり、大阪市からは2018年12月20日に添付ファイルで回答が寄せられました。いずれも、夢洲が生物多様性ホットスポットとして選定されていること、そして、その重要性については認識していると回答しています。

 さらに、両者は、万博開催事業が環境アセスメントの対象であることを踏まえ、生きもの保全対策に関する手続きをするのは万博協会だという点でも、共通の認識を示していました。

 もちろん、府は、万博協会が適切に手続きをするよう連携すると表明し、市も、手続き中に必要な調査を行い、影響があれば抑制すると回答していました。とはいえ、両者とも、万博協会が手続きの主体だと主張しており、半ば責任逃れのようにも思える回答でした。

 これでは、夢洲の自然環境が破壊されかねないと危機感を募らせたのでしょう。

 大阪自然環境保全協会は、2019年初から夢洲の生物調査を開始しました。調査を実施した保全協会の会員たちは、四季折々の生物たちの姿を詳細に捉え、データとして蓄積していきました。

 調査をした結果、さまざまなことがわかってきました。

■多様な生命を育んできた夢洲の葦原や水辺

 保全協会の会員の一人は、「今の夢洲は虫の王国です。多くのバッタ、多くのトンボ、多くのチョウ、そして“恐ろしいほどの数のユスリカ”がいます。それらが多くの生きものの命を繋いでいっています」と報告しています。

 実は、万博の開幕前から、夢洲にはすでに大量のユスリカがいたのです。

 ユスリカがいるからこそ、それを餌にするバッタなどの昆虫が生息し、昆虫を餌にするさまざまな鳥が生命を育むことができていました。湿地にいたユスリカが、生態系の底辺を支え、夢洲を多様な生物が生息する楽園にしていたことがわかりました。

 保全協会の会員は、調査をしていた時の経験を次のように記しています。

「私たちが夢洲をみてきた期間はわずか2,3年ですが、どれだけ大阪湾の自然の復活力が力強いものか、そしてそこに生きようとする命のなんとたくましいことか、人間の想定を超えるそのエネルギーに感動すら覚えました」

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html

 多様な生物がこの夢洲の地で生息し、つながり合いながら、生命を育んでいました。調査していた会員たちは、そのことに感動し、四季折々の動植物の姿を多数、撮影し、記録に残していました。

 当時の写真を見ると、確かに、空き地だった場所が、季節が変わるとあっという間に草原に変わっていくことがわかります。草原にヒバリが巣材を運んでいるかと思えば、セッカがそれを警戒しています。

 湿地にはヨシが進出して生い茂り、夏になると、そこを爽やかな風が吹き渡ります。時には、カエルの大合唱をバックに、トンボや若ツバメが草原を飛び交っていました。昆虫や小動物、鳥たちなどが共に、草原で生命を輝かせていたのです。

 2019年7月初旬には、次のような光景が見られました。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/landscape.html)

 この写真について、撮影者は次のように記しています。

 「7月初旬、2区の湿地に3000羽を超えるコアジサシが休んでいました。そして時折、群れになって飛び上がり、湿地の上を旋回します。おそらく渡りの前の大集合なのでしょう。夢洲で今年生まれた幼鳥もこの中に混ざって、その後すぐ旅立ちました」(※ 前掲URL)

 夢洲で撮影された写真を見ると、さまざまな生き物がのびのびと生命を育んでいる様子が伝わってきます。鳥たちは葦原で休み、餌をついばみ、繁殖していきます。夢洲には生き物たちの豊かな世界が広がっていました。

■工事の進行に伴い、草原の消滅

 まず、2019年7月26日に撮影された夢洲の草原の姿をご紹介しましょう。

(※ https://www.nature.or.jp/action/yumeshimamirai/photobook/prolog.html

 青々とした草原の中で、多数の白い鳥が行き交っています。夢洲はまさに鳥たちの楽園でした。草原には、鳥たちの餌となる昆虫や小動物が数多く生息していたからです。ところが、その草原が、万博の会場用地として造成され、土がむき出しになってくると、もはや昆虫や小動物が生きられる環境ではなくなってしまいました。もちろん、鳥たちもまた、棲むことができなくなってしまいました。

 次に、同じ場所で、2021年8月22日に撮影された写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲URL)

 土砂の山の上に、鳥の姿が見えます。撮影者によると、ここにいたのは、チョウゲンボウの家族なのだそうです。ポツンと佇んでいる様子を見ると、草原が失われ、もはや棲めなくなったことを嘆き悲しんでいるようにも思えます。

 工事が始まってから、多様な生き物の楽園だった夢洲が、一転して、生き物の棲めない場所になっていったのです。

■万博協会による「環境影響評価準備書」に対する意見書

 2021年10月1日、大阪市は、万博協会が作成した「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」(2021年9月)を公開し、縦覧を開始しました。

こちら → https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000544704.html

 大阪自然環境保全協会にとって、この準備書はとうてい納得できるものではありませんでした。事前に要望書を出していたにもかかわらず、万博協会の準備書は、環境への配慮が欠けたものになっていたのです。

(※ https://www.nature.or.jp/assets/files/ACTION/yumeshima/20211105expo2025_iken.pdf

 たとえば、準備書99ページで示された「表3.1(5)事業計画に反映した環境配慮の内容」について、「配慮のための前提が満たされていない」とし、「重要種への影響はほとんど回避・低減できていない」と、保全協会は指摘しています。

 さらに、「生物多様性ホットスポットとしての夢洲は、干潟・代替裸地として選定されているが、準備書ではそうした環境の保全・再生についての具体的な言及はない」と批判しています。

 保全協会は、大阪市が2021年12月11日に開催した「環境影響評価準備書に関する公聴会」に出席し、夢洲には多様な生き物が生息していることを説明し、環境保全を求めました。夢洲での調査結果を踏まえての要望でした。

 もちろん、環境保全協会は意見書を提出しました。さらには、「生き物たちの自然環境を守るために、ご一緒に環境影響評価準備書を読み解き、大阪市へ意見を送りましょう」と市民にも広く呼びかけました。

 再び、「準備書」の99ページを見ると、「配慮の内容」として、具体的に、「会場内にはグリーンワールドやウォーターワールドを整備し、自然環境の整備に配慮する」と書かれ、「グリーンワールド等の整備における植栽樹種については、在来種を中心に選定することにより生態系ネットワークの維持・形成に配慮し、外来種の混入防止に努める」と記されています。

 確かに、植物の生態系については具体的に書かれています。ところが、動物については具体的な内容は何も書かれていないのです。つまり、ウォーターワールドについてはなんら言及されていなかったといえます。

 興味深いのは、この「準備書」に対する大阪市長の意見です。

 2024年1月29日、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書に関する市長意見」が公開されました。

 大阪市長は、「夢洲では多様な鳥類が確認されていることから、専門家等の意見を聴取しながら、工事着手までにこれら鳥類の生息・生育環境に配慮した整備内容やスケジュール等のロードマップを作成し、湿地や草地、砂れき地等の多様な環境を保全・創出すること」と表明していたのです。(※ https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/cmsfiles/contents/0000556/556173/iken.pdf

 大阪市長の意見には、具体性があります。とくに、「専門家等の意見を聴取しながら」、「工事着手までに・・・、整備内容やスケジュール等のトードマップを作成し」、「湿地や草地、砂礫地等の多様な環境を保全・創出すること」といった具合に、環境保全のためのポイントをついた見解が述べられています。

 動物の生態系を支える基礎部分について、ポイントを押さえて書かれています。「準備書」に欠けている点を補完する内容でした。

 大阪市長は、大阪市環境影響評価条例の規定に基づき、2022年2月9日付けで、「2025年日本国際博覧会環境影響評価準備書」について、事業者である万博協会に対する意見を述べていることがわかります。当時の大阪市長は松井一郎氏でした。

 一方、万博協会は、「準備書」で動物の生態系について言及しなかったばかりか、実際には、当時の大阪市長の補完的な意見すら無視していました。一過性の祭典を華麗に遂行し、無事に終わらせることを優先させたのです。

 その結果、万博協会は、「つながりの海」を造成するために、浅瀬を無くし、湿地もなくしてしまいました。

 万博協会にとって、「ウォータープラザ」や「つながりの海」は、大屋根リングとともに、万博会場をショーアップするための装置でした。その目的を達成するために、造成工事の過程で、水辺の環境保全を犠牲にしてしまいました。万博会場のデザインやショーアップ効果を優先させたからにほかなりません。

■「ウォータープラザ」と「つながりの海」に求められたショーアップ効果

 6月2日に記者会見した高科淳副事務総長は、ユスリカの発生源は海水が入る「ウォータープラザ」と「つながりの海」だと説明しました。

(※ 産経新聞、2025年6月4日)

 「ウォータープラザ」では水上ショーが行われ、「つながりの海」ではドローンショーが行われています。毎晩、夜空を舞台に、華麗な光のショーが、水辺で楽しめるように企画されていたのです。

 ドローンショーを見てみましょう。

こちら → https://youtu.be/br3YZUnuM2c

(※ CMはスキップするか、削除してください)

 色とりどりの光は、夜空を輝かせるだけではなく、水面をも煌めかせて、観客を幻想的な世界に引き込みます。地上からは、夜空に輝くショーを見ることができ、大屋根リングの上からは、間近でショーを見ることができるばかりか、見下ろせば、水面に反射した光の乱舞を見ることができます。

 夜空にライトアップされたショーは、水面に映し出されることによって、煌めきを倍加させていました。このようなショーアップ効果を狙って作られたのが、ウォータープラザであり、つながりの海でした。

■ユスリカが問う、「いのち輝く未来社会のデザイン」とは?

 会場に大量に飛来してきているのは、シオユスリカだと万博協会が発表しました。調べてみると、シオユスリカは、海水と淡水が混ざる汽水域や潮だまりなど浅い海水に発生し、昼間は植栽の中や、風があまり当たらない場所などに潜んでいるそうです。夕方になると、「群飛」と呼ばれる行動をとり、オスの成虫が集団で「蚊柱」を形成します。そこに突っ込んでくるメスとの出会いを待って、交尾に成功して卵を産めば、すぐに死んでしまうというのです(※ https://note.com/kincho_jp/n/n9c53051ca48e)。

 なぜ、ユスリカが大量に発生したかというと、万博会場を造成するため、多様な生き物が棲んでいた湿地や草地を壊してしまったからでした。

 もともとごみ処分場だった夢洲周辺の海水は、有機物を多く含み、滋味豊かです。ユスリカは、水中や湿った土の中から卵から幼虫になりますから、造成工事にもめげずに繁殖していったのでしょう。

 ところが、ユスリカを餌にしていた昆虫や鳥などは、造成工事によって棲み処を奪われ、駆逐されてしまいました。天敵がいなくなったユスリカが大量に発生し、会場のあちこちに蚊柱が立つのは当然の成り行きだったのです。

 「大阪、関西万博2025」は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、開催されています。ところが、実際には、「いのち輝く」自然の生態系を破壊し、その代わりに、ヒトの生命維持のための最新技術を展示したにすぎませんでした。ユスリカの大量発生は、まさに、「いのち輝く未来社会のデザイン」への逆襲だといえるでしょう。

(2025/6/22 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」②:宮田裕章パビリオンとは?

■さまざまなパビリオン

 「大阪・関西万博2025」には、さまざまなパビリオンが建ち並び、来場者の目を楽しませてくれています。海外パビリオンは、斬新で個性的な建物が51、建造されています。外観には、それぞれの国の文化や伝統、特産や主張などが反映されており、興味津々です。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/official-participant/

 一方、国内パビリオンとしては、国や地方自治体、組織団体のパビリオンが4,民間パビリオンが13、設置されています。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/domestic-pv/

 それ以外に今回は、個人がプロデュースした、シグネチャーパビリオンが8、設置されています。各界で活躍する8人のプロデューサーが企画したテーマ性の強いパビリオンです。

こちら →https://www.expo2025.or.jp/project/

 プロデューサーに選ばれたのは、福岡 伸一(生物学者、青山学院大学教授)、河森 正治(アニメーション監督、メカニックデザイナー)、河瀨 直美(映画作家)、小山 薫堂(放送作家)、石黒 浩(大阪大学教授)、中島 さち子(音楽家、数学研究者、STEAM教育家)、落合 陽一(メディアアーティスト)、宮田 裕章(慶応義塾大学教授)です。

 これら8人のプロデューサーたちが、どういう基準で選ばれたのかはわかりませんが、少なくとも、「いのち輝く未来社会のデザイン」という万博のテーマに沿って、選出されたのは確かです。

 生物学、アニメ、映画、放送のクリエーター、ロボット工学、教育学、メディア・テクノロジー、データサイエンスなどを専門とする方々です。

 まずは、万博のテーマと最も関係の深そうな医学部教授である宮田裕章パビリオンを取り上げ、その内容を見ていくことにしたいと思います。宮田氏の専門はデータサイエンスです。

■宮田裕章パビリオン

 独創性を競い合うように目立つパビリオンが建ち並ぶ中で、ひときわユニークな建物が宮田裕章パビリオンでした。

 建物といっていいのかどうかわかりません。何本かの銀色の柱に囲まれ、雲の形をした庇のようなものがあります。ここに「Better Co-Being」と書かれているので、かろうじてこれが宮田パビリオンだということがわかる程度で、建物らしいものは何もありません。ただ、木立に囲まれて、建造物が建っているだけです。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 見てのとおり、屋根もなければ、天井もなく、壁もありません。内と外とを分ける隔てになるようなものが一切ないのです。これでは雨風をしのぐことができず、太陽の陽射しをもろに浴びてしまいます。建物という概念から大きく逸脱したパビリオンでした。

 もっとも、これだけ見てもパビリオンの外観がよくわかりません。パビリオンの全体像がもっとわかるように、少し引いて見ました。


(※ Better Co-Being 公式サイト)

 素晴らしい晴天の下、影ができているのは、パビリオンの名が書かれた庇のようなものの下だけでした。引いて見ると、覆うものが何もない建造物だということがよくわかります。木々で囲まれた空間の中に、銀色の柱が何本か立ち、その周辺一帯を細かなグリッドが無数に覆っています。その線が細すぎて、空に溶け込んでしまっているように見えます。まさに建物というよりは戸外に設置された遊具でした。

 上から見ると、森を思わせるたくさんの木々で覆われた空間の中に、無数のグリッドで構築されたパビリオンがひっそりと佇んでいるのがわかります。グリッドの天井に相当する部分は一面、雲のようなもので覆われており、周囲の木々と一体化しています。上から見ると、なおのこと、森の一部でしかなく、これがパビリオンだとはとうてい思えません。

 自然と一体化している様子を可視化したのが宮田パビリオンでした。設計はSANAA、施工は大林組です。

 SANAAとは、建築家・妹島和世氏と建築家・西沢立衛氏によるユニットで、1995年に設立されました。これまで数多くの賞を受賞しており、主な受賞作品に、金沢21世紀美術館、ニューミュージアム(アメリカ)、ルーヴル・ランス(フランス)などがあります。

 公式サイトに掲載された、宮田氏、妹島和世氏、西沢立衛氏との対談を見ると、宮田氏はこれらの作品を見て、SANAAに設計を依頼しようと思ったようです。プロデューサー宮田裕章氏の思いを具現化したのが、この奇妙な建造物だったのです。

 それでは、意表を突くこのパビリオンがどのようにして生み出されたのか、三者対談を踏まえ、探ってみることにしたいと思います。

■万博史上初の境界のないパビリオン

 万博会場の中心に、「静けさの森」が設置されています。「いのち輝く未来社会のデザイン」 の象徴として、会場の真ん中に造られました。万博記念公園をはじめ、大阪府内の公園などから、将来間伐予定の樹木なども移植し、新たな生態系を構築しています。植えられた樹種は、アラカシ、 イロハモミジ 、 エゴノキ、クヌギ 、 コナラ、 ヤブツバキ等々です。


(※ https://forest-expo2025.jp/)

 広さは約 2.3ha、樹木本数は約 1,500 本、水景施設は池1ヶ所 / 水盤3ヶ所です。ここでは、「平和と人権」 「未来への文化共創」 「未来のコミュニティとモビリティ」「食と暮らしの未来」 「健康とウェルビーイング」 「学びと遊び」「地球の未来と生物多様性」 など7つのテーマで、アート体験やイベントが実施されます。

 「静けさの森」は、テーマ事業プロデューサー宮田裕章、会場デザインプロデューサーは大屋根リングをデザインした藤本壮介、ランドスケープデザインディレクターは忽那裕樹、アートディレクターの長谷川祐子らが手掛けました。喧騒から離れた新しい命が芽吹く静かな森の中で、”いのち”をテーマにした様々な体験を通し、来場者が地球や自分自身の”いのち”に思いを馳せることができる空間になっています。

 実は、宮田氏は、「静けさの森」プロジェクトにプロデューサーとして関わっていました。その関係もあったのでしょう、自身のパビリオンをこの森とつながるようなものにしたいと思ったそうです。というのも、森は再生可能な資源であり、多様な生態系を育む群体なので、「共に歩む」、「お互いがつながる」という万博コンセプトを的確にアピールできると思ったからでした。

 マップで確認すると、確かに、宮田パビリオンは、「静けさの森」のすぐ近くに設営されていました。


(※ 公益社団法人2025年日本国際博覧会協会)

 静けさの森とつながるようなイメージのパビリオンの建造を望み、宮田氏が設計を依頼したのが、妹島氏と西沢氏が運営するSANAAでした。

 宮田氏の思いを聞いた西沢氏は、「箱的なパビリオンが建っているのではなく、境界を超えるような建築、中と外がつながる空間」をイメージしました。一方、妹島氏は、「人が出たり入ったり、雨や風も入ったり、森みたいな建築、中と外がつながるような空間」をイメージしました。その結果、出来上がったのが、天井も壁もないパビリオンでした。

 妹島氏は、このパビリオンは人間が、「完全にはコントロールできない空間なので、天候の変化を感じながらインタラクティブに楽しめる場所になると面白い」といいます。そして、西沢氏は、「快適性は気候風土、地域性と一体のものなのです。私たちが古来心地良いと感じてきた快適性というのは、このような明るく風通しのよい、透明な空間だとストレートに表現することは重要」だといいます。

 両者は、宮田パビリオンの本質を的確に捉え、実現しました。

 天井もなく、壁もなく、人間が完全にコントロールできない空間だからこそ、天候が変化するたび、対応せざるをえません。このパビリオンでは、来場者は自然につながりあうようになっていくのです。そうなれば、人は本来、持っていたはずの感性を取り戻していくことにもなるでしょう。

 古来、私たちが自然とのかかわりの中で培ってきた,風土に根ざして培われてきた快適性についての感覚も、取り戻すことができるようになるにちがいありません。

 西沢氏は、「建築物は、空間を占拠するところがある」とし、「共有を空間的に表すことができれば、面白い」と語っています。

 そもそも建築物というものは、壁であれ、天井であれ、なにかしら囲いを作ることによって、成立します。つまり、囲われた空間を占拠することによって、建物になりえているのです。

 ところが、このパビリオンは、グリッドと柱だけで構成された建造物です。囲わず、隔てず、空間を占拠せず、建物とはいえないほど開放な造りになっています。建物の概念を否定するような建造物なので、必然的に内と外とがつながらざるをえません。

■縁側を連想させる空間

 確かに、宮田パビリオンは境界のない建築物でした。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 雲の広がる青空から陽光がグリッドを潜り抜けて射し込み、風がグリッドの中を吹き抜けていきます。明るい空に溶け込むパビリオンは、まるで巨大なジャングルジムのようにも見えます。

 この写真を見ていて、ふいに思い浮かんだのが、日本家屋に設えられた縁側です。日本家屋の特徴ともいえる縁側は、建物の床が板で造られるようになってから生み出されました。母屋の周囲に庇の間が造られるようになったのが、縁側の起源だといわれています。

 敷地に余裕がなければ設えることができないので、縁側が一般家屋に取り入れられるようになったのは、それほど古くはありません。大正時代になってようやく、庶民の家でも、庭に面した部屋に縁側が造られるようになりました。

 縁側は、庭に面して造られているので、移り変わる季節の情緒を感じるには最適の場所でした。四季折々の微妙な変化を捉え、繊細な日本文化を育むのに恰好の空間になっていたのです。

 西洋家屋にも「ウッドデッキ」、「ベランダ」、「テラス」、「ポーチ」、「バルコニー」など、縁側に似たようなものがあります。いずれも家屋に付随していますが、縁側のように家の内と外とが一体化したものではありません。あくまでも戸外の空間なのです。

 一方、縁側の場合、夜は雨戸で閉じられていますが、朝になって雨戸が明けると、陽光が射し込み、風が入り込み、家の内と外とが交流します。家の中と外とが一体化し、戸外の自然と直接、触れ合える空間になっています。

 縁側は家の中に造られているので、外と縁側の間に一つ、縁側と室内の間に一つ、戸や壁があります。だから、縁側部分に空気の層ができます。つまり、縁側は家の内と外との空気の緩衝地帯になっているのです。だからこそ、縁側が断熱材として機能し、夏は太陽の熱を和らげ、冬は寒さを遮断してくれるのです。

 もちろん、縁側で日向ぼっこをすることもできれば、縁側に腰かけ、近所の人とお茶を飲み、雑談をすることもできます。縁側は、人と自然、人と人とがつなげる空間になっているからこそ、憩いの場ともなり、社交の場にもなってきたのでしょう。

 縁側を思い起こしてから、このパビリオンを見返すと、人と自然が直接、かかわりあう戸外の空間だという点で、西洋家屋のウッドデッキやテラスに近いものといえます。

 それでは、このパビリオンのコンセプトはどのように設定されていたのでしょうか。

■パビリオンのコンセプトは?

 施工を担当したのは、大林組でした。次のような観点から、このパビリオンの施工に臨んだといいます。

 「屋根も壁もないパビリオン。その姿で、時代の転換点における、建築の役割を再定義したいと思いました。森との境界線を引くのではなく、森と溶け合い、響き合うパビリオン。パビリオンの中に立つ来場者一人ひとりが、まだ見ぬ響き合いの時代を思い描くことでしょう」(※ https://www.obayashi.co.jp/expo2025/detail/pavilion_04.html

 設計図を見たとき、大林組の担当者はどれほど驚いたことでしょう。とはいえ、このパビリオンの形態がどんなに意表を突くものだったとしても、受け入れようとはしていたようです。この形態を時代の転換点を示唆するものだと認識することによって、これを踏まえて、未来社会における建築の役割を再定義したいと述べています。

 大林組の担当者はおそらく、境界線を引かないことによって生み出される、周囲と溶け合い、響き合える空間に着目したのでしょう。このような空間は、未来の建築に求められる一つの要素だと直感したからかもしれません。

 たしかに、来場者がこのパビリオンに入ると、内と外とが一体化しているので、直接、自然に触れることになります。刻々と変化する自然環境に反応していくうちに、次第に、原始的な感覚を取り戻していくことでしょう。ちょっとした陽射しの変化、風の流れ、空気の湿り気の具合に合わせ、身体が自然に反応するようになります。

 このパビリオンの中では、人と自然が相互作用を繰り返し、つながりあっていきます。その時、同じ空間にいる人と人も同様です。相互作用を通して、人と自然、人と人がつながりあえる空間こそ、実は、未来社会で求められる建築の一つの要素かもしれないのです。

 プロデューサーの宮田氏は、「共につながり、共に生きる」ことが未来の可能性を広げる重要なキーワードになると考え、パビリオンを、「Better Co-Being」と名付けたといいます。

 Better Co-Beingは、「様々な地域で大切にされてきた考えや表現との間に共通点を見出し、異なるコミュニティ同士を共鳴させる側面も有する」という考え方だといいます。

 「静けさの森という空間的なつながりだけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術活動を振り返りながら、過去から紡がれる様々な理念や表現との共鳴も試みている」とし、コンセプトを踏まえたパビリオンでの体験が企画されています(※ Better Co-Being 公式サイト)。

■パビリオンでの体験

 パビリオン内では、来場者同士がつながり、響き合う中で共に未来を描くという体験が企画されています。来場者は、その日その時間にたまたま出会った一期一会のつながりに基づき、グループを組んで、3つのシークエンスからなる共鳴体験を巡りながら、共に未来に向かうという構成になっています。

 たとえば、シークエンス1では、ベルリン在住の現代美術家、塩田千春氏が、「言葉の丘」と名付けたインスタレーションを展示しています。パビリオン内の小高い丘が広がる空間に、張り巡られた赤い糸と、線で形作られた机と椅子が浮かび上がるといった仕掛けになっています。

 宙を舞う文字は、多様な言語でいくつかのテーマを表し、糸の揺れとともに広大なネットワークを形成します。赤い糸と文字が織りなす詩的な空間が、交流の可能性を可視化し、未来に向けた共生の問いを突きつけるという展開になっています。

 このインスタレーションを手がけた塩田千春は、糸や日常的なオブジェクトを使い、「記憶」、「存在と不在」、「つながり」などの概念を探究し続けてきたアーティストです。

 次に、シークエンス2では、「人と世界の共鳴」をテーマに、各地域で培われてきた自然や文化、そこに根ざす人々の暮らしと響き合う作品が提示されます。音声を軸にして展開されているのが、宮島達男氏のサウンド・インスタレーション作品、「Counter Voice Network – Expo 2025」です。

こちら → https://youtu.be/ZNaYWY7OS8Y

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 ちょっとわかりにくいですが、ここでは、さまざまな言語を使って、異なるリズムで「9、8、7……、1」というカウントダウンが聞こえてきます。数字の中で、「0」を発せず、カウントダウンの合間に、時折、静寂が訪れます。そのたびに、来場者には“死”や“無”を想起させるという仕掛けになっています。

 音の発生源に近づくと、カウントダウンを続ける人々の名前と言語が表示され、また、関連するモチーフやストーリーがWEBアプリ上に立ち上がります。

 来場者の共鳴体験をサポートするのが、WEBアプリです。これは、インスタレーションの解説をする一方、来場者の体験や選択を万博のテーマに沿って分析、表現し、来場者に多様な価値観への気づきを促すものです。

 さて、シークエンス2のインスタレーションを手掛けたのが、現代美術家の宮島達男氏でした。この作品は音声に焦点が当てられています。多様な音声が重なるサウンドスケープを聴きながら、来場者がパビリオン内で眺める景色は、森と空の境目がなく、すべてが融合し、溶け合った風景だという構成です。

 来場者はカオスな状態に陥ることになります。このようなパビリオン内での体験を経ると、来場者は必然的に、思索的、内省的にならざるをえません。結果として、「人と自然」、「人と人のつながり」を捉え直すようになるという展開になっています。

 そして、シークエンス3は、「人と未来の共鳴」がテーマで、来場者同士がつながり、共に世界に向き合うことで、より良い未来が訪れることが提示されます。集った人々が世界とのつながりを感じながら、ともに虹を創るという体験が、このシークエンスの骨格となります。

 宮田裕章氏とクリエイティブチームEiM が制作したのが、インスタレーション作品で、タイトルは、「最大多様の最大幸福」です。

 「最大多数の最大幸福」という概念は、限られた資源の下、合理的な指針として、産業社会で長く機能してきました。ところが、デジタル技術が発達した現代では、一人ひとりの違いを尊重しながら豊かさを生み出す仕組みが可能になっています。そこで、最大多様の最大幸福が可能になっていることを示唆するために、この作品が提示されています。

 実は、このパビリオンには大きな仕掛けがあります。頭上のキャノピーに仕込んだノズルから散水し、人工の雨を降らせることができます。人工的に雨を降らせれば、晴れた日には虹ができるのです。

(※ Better Co-Being 公式サイト)

 そのため、高さ7mのキャノピーに沿って約400本の繊細なワイヤーが張られ、それぞれにサンキャッチャーが取り付けられています。これらは不均質の集合として、多様性の祝福を象徴しています。晴れた日には自然光を浴びて虹色の輝きが広がり、曇天や雨の日には霧と人工光のコントラストが幻想的な光景をつくり出します。

 さらに、来場者の動きによって、降り注ぐ雨も変化し、日中と夜とで異なる表情を見せます。来場者はこの空間で、異質のものが交わり合うことで、新たな可能性が生まれる様相を体感することができます。

 そして、エピローグです。ここでは先ほどご紹介したWEBアプリが活躍します。来場者の体験と、大林組が提供した現地の環境データを重ね合わせ、未来のイメージを五感で感じられる映像が体験として創出されます。一人ひとりの記憶や意思が響き合い、世界との繋がりが映し出されるのです。

 球体LEDの装置が中心に据えられ、15名の来場者がそれぞれの体験やインスピレーションを持ち寄ることで、未来のイメージが可視化されます。

 これらのイメージは、リアルタイムで収集される気象データや空間そのものの特性と結びつき、未来への対話を生み出します。つまり、共鳴の場が映像として提示されるのです。それがやがて、来場者それぞれが、自分と他者、そして世界とのつながりを再考する場となります。未来は他者や世界との結びつきの中にあり、その結びつきが織り成す多様な響きこそが、新たな時代を形づくる鍵となることを理解できるようになるというわけです。

 それでは、宮田氏はこのパビリオンを通して、何を訴えたかったのでしょうか。

■宮田氏が訴えたいことは何か

 宮田氏は公式サイトで、このパビリオンのコンセプトとして、次のように述べています。

 まず、「デジタル技術は人間の可能性を広げる一方で、深刻な分断と人権制限の手段にもなり得る存在」だと指摘し、「そのような課題を直視した先にこそ、デジタル技術による真の価値創造の可能性がある」との認識を示します。

 そして、「データの共有や多様なつながりの可視化は、人と人、社会と自然、現在と未来をつなぐ新たな回路を築きうる」とし、「デジタル技術を「共鳴」の力へと転じ、未来へと続く価値創造の基盤として再定義したい」と語ったうえで、「共鳴とは、単なる可視化や情報交換の域を超え、互いの行動や意志が折り重なることで新たな社会像を形作っていくプロセスを指す」と説明し、「監視や統制の道具としてではなく、人間を主体的に多様な可能性に接続し、未来を共創する力へと昇華する」とその目的を述べています。

 つまり、宮田氏が訴えたいのは、デジタル技術の負の側面を排除して、有効活用し、人々が主体的で多様な可能性を手に入れられる社会にしていきたいということなのでしょう。宮田氏は最後に、パビリオンで提示するのは、「具象的な未来の姿」ではなく、「本パビリオンでの体験を通して、問いを立てるものである」と結論づけています。

 こうしてみてくると、宮田氏が訴えたかったことは、シークエンス3で提示された「最大多様の最大幸福」に尽きるのではないかという気がします。

 実際、気候変動など地球規模の危機によって、人々の意識や行動、社会システムも大きく変容せざるをえなくなっています。その一方で、デジタル技術によってさまざまな可能性が見えてきました。ですから、宮田氏がデジタル技術を利活用し、これまでは不可能だった「最大多様の最大幸福」の実現を目指そうとするのは理解できます。

 ただ、パビリオンで来場者に提示された体験の内容が、「最大多様」とどう結びつくのか、理念と実際との乖離が大きいというように感じました。多様性をどのように捉えるのか、多様性の受容と幸福感とがどう結びつくのかという点も明瞭ではありませんでした。

 とはいえ、最新デジタル技術を未来社会のために、利活用していこうとするチャレンジ精神は素晴らしいと思いましたし、万博の開催意義の一つもおそらく、そこにあるのでしょう。

(2025/5/30 香取淳子)

「大阪・関西万博2025」①:「大屋根リング」は歴史に残るか?

■開幕とともに、「1万人の第九」

 4月13日、「大阪・関西万博2025」が開幕しました。開幕式には、天皇、皇后両陛下をはじめ、石破首相など政財界の重鎮が参加していました。改めて、この万博が国をあげてのイベントだということを感じさせられます。

 「大阪・関西万博2025」については、「開幕までに完成しない」、「大屋根リングの土手が崩れた」、「工事現場で爆発事故が起こった」、「参加表明国が続々と辞退している」、「チケットが売れていない」など、ネガティブなニュースばかりを目にしていました。

 挙句の果ては、「パビリオンの建設が間に合わず、開催中止」とまでいわれていましたから、私はすっかり興味をなくしてしまっていました。

 ところが、4月13日、開幕してみると、あいにくの雨の中、なんと14万人もの来場者が押し寄せたのです。初日でとくに印象的だったのが、「1万人の第九」です。来場する人々を歓迎するため、大屋根リングには1万人の人々がずらりと立ち並び、ベートーベンの第九を合唱したのです。圧巻でした。

 ベートーベンの交響曲第九番は、壮大なスケールと深い感動を提供する作品だといわれています。力強く始まる第1楽章から、第4楽章の「歓喜の歌」に至るまで、壮大な音楽が展開されます。

 万博で合唱された「歓喜の歌」の歌詞は、フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」に触発されて創られており、人類の普遍的な愛と喜びを讃えています。合唱を取り入れたという点で、第4楽章は、交響曲の伝統的な枠組みを超えた革新的な試みでした。

 44秒ほどの短い動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Vk-JuSIm8U0

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この「1万人の第九」には、日本人をはじめ、中国人や韓国人など、6歳から93歳までの1万263人が参加しました。開場時間の午前9時に合唱が始まり、ベートーベンの交響曲第九番第4楽章の「歓喜の歌」が、迫力ある歌声で会場全体に響きわたりました。

 指揮者は世界を舞台に活躍している佐渡裕氏で、「1万人で歌うのはすごい光景で、ベートーベンも驚いていると思います。とてもうまくいき、すごく誇りに思います」と語っていました。

 家族と共に参加した40代の女性は、「いろんな方向から歌声が聞こえてきて、すごい迫力でとても感動しました。この1万人に入れてもらってよかったです」と話していました。(※ https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250413/k10014776581000.html

 こうして開幕とともに、圧倒的なスケール感のある大屋根リングの上で、「1万人の第九」コンサートが開催されたのです。参加者は、日本人を中心に、中国、韓国からの老若男女でした。大空に響き渡る合唱団の歌声は会場を覆い、来場者たちを感動させたことでしょう。大屋根リングのスケール感を活かした素晴らしい企画でした。

 リングの下は、積み木のようにも見える大屋根リングが、実は、1万人以上の重量に耐えられる強靭な木造建築だということがわかります。

 夜になれば、この大屋根リングを観客席に見立て、水上ショーが行われます。夜空を背景に展開される幻想的なショーです。

■水と空気のスペクタクルショー

 水上ショーを構想したのは、大阪に本社を置く飲料メーカーのサントリーと空調メーカーのダイキンです。サントリーの鳥居副社長は当時、記者会見の席上で、世界中から「大阪、関西万博2025」を見るためにやってくる来場者を驚かせ、楽しませ、後々まで記憶に残るようなイベントを提供したいと語っています。

 サントリーのHPを見ると、「水と生きるSUNTORY」がキャッチコピーになっていますし(https://www.suntory.co.jp/)、ダイキンのHPを開くと、まず、「空気で答えを出す」というメッセージが掲げられています(https://www.daikin.co.jp/)。水上ショーを企画した両社は、「水」と「空気」をコンセプトに事業展開する企業でした。

 両社は、水と空気があるからこそ、すべての生き物は存在することができ、進化を遂げてきたという思いから、「水、空気、光、炎、映像、音楽を駆使して、生命の物語を描く」というコンセプトで、水上ショーを企画しました。

 ショーのタイトルは「アオと夜の虹のパレード」です。

 タイトルにはショーの概要が示されています。「アオ」は、主人公の子どもの名前で、「水」と「空気」それぞれに共通するイメージの「青」にちなんで名付けられています。そして、「夜の虹」とは、空気中の水分量が豊富で、月が明るい夜にだけ見られる自然現象で、虹が出ている間は、生きものに生命力がみなぎる奇跡の時間とされています。(※ 「あまから手帖 online」)

 明るい月夜に虹がかかった時、生きものたちによる祝祭が開かれるといわれている島がありました。ある時、アオは夜の虹と出会います。そこでアオは多様な生きものたちと交わり、心を通わせていきます。祝祭に歓喜するアオを通して、生命が輝く時をショーアップしたストーリーになっています。

 1分53秒のデモ動画をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/qW7Pv1p-nbQ

 この水上ショーは日没後に2回、リングの内側に広がる水辺「ウォータープラザ」で開催されます。リングの南側に広がる水辺に3万平方メートルのウォータープラザで、約300基の噴水が躍動し、レーザー照明が夜空を照らす中、音楽と響き合って幻想的な空間が創り出されます。

 そんな中、ウォーター・スクリーンに映し出される映像が、ストーリーを展開します。水と空気のおかげで生存できる生き物たちの壮大なスペクタクルショーです。クライマックスには実際に水しぶきや、炎の熱さも感じられるそうです。

 万博史上最大級の水上ショーは、毎晩2回開催され、1回約20分間行われます。迫力あるアトラクションが、入場者なら誰でも無料で見られるのです。

 それでは、ショーが開催される場所を確認しておくことにしましょう。

■ウォータープラザと「つながりの海」

 まず、万博会場のレイアウトがどのようになっているのか、図で確認しておくことにしたいと思います。


 これを見ると、夢洲は橋と地下鉄の二通りの経路で大阪とつながっていることがわかります。万博会場は、夢洲の南西の約半分、赤い破線で囲われている部分です。3つにゾーニングされており、もっとも大きいのがパビリオンのゾーンで65.7ヘクタール、次いで、水ゾーンの47ヘクタール、そして、西側に位置する緑ゾーンは42.9ヘクタールです。

 パビリオンゾーン以外には、水と緑のゾーンがほぼ同程度、割り当てられています。万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」を踏まえ、ゾーニングされたことがわかります。

 次に、大屋根リングと水上ショーが行われるウォータープラザの位置関係を確認しておきましょう。


(※ https://www.pref.osaka.lg.jp/j_fusei/2503/cts0103_477.html

 この案内図を見ると、ウォータープラザは、大屋根リングの南側やや西寄りに三日月形で設定されていることがわかります。

 先ほど見た万博会場のレイアウトでは、このウォータープラザは水ゾーンに組み入れられていました。水ゾーン内の位置関係を把握するため、俯瞰して夢洲全体を見てみました。


(※ https://saitoshika-west.com/blog-entry-7618.html

 リングの外側は「つながりの海」と名付けられていますが、海そのものではなく、海とつながっているところです。「つながりの海」は護岸で囲われており、いってみれば、夢洲の中にあるため池のようなものです。

 ですから、本来なら、浸食されるはずがないのですが、3月7日、護岸が浸食されていることが発見されました。

■護岸の浸食

 今回、浸食が指摘されたのは以下の箇所でした。

(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/

 これを見ると、大屋根リングの外側(つながりの海)の方が、内側(ウォータープラザ)より浸食がひどいことがわかります。護岸の浸食が発生した当時の写真をご紹介しましょう。

(※ 前掲、URL)

 ちょっとわかりにくいかもしれませんが、これが「つながりの海」側の浸食部分です。

 万博協会はこの件について3月10日、護岸を砕石で覆い、浸食した護岸の保護を進めると発表しました。さらに、大屋根リングとウォータープラザ沿い外周道路の安全性には影響がないことを、学識経験者から確認を得たと報告しています。

 ウォータープラザ沿いの外周道路(EVバスや貨物車両等が走行)は、基礎梁と一体の鉄筋コンクリートの床スラブの上に、アスファルトによる舗装を実施しています。これは大屋根リング基礎構造と一体のものであり、外周道路も安定した構造となっていると説明しているのです。

 そして、浸食の原因としては、ウォータープラザとつながりの海に2月中旬より注水を行ったことだとしています。注水後に浸食の発生が確認されているので、これが原因だとしているのです(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250310-07/)。

 実際、2月17日から合計六つのポンプで大阪湾の海水が注入されました。海水が注入されたのは大屋根リングの南の外側にある「つながりの海」32ヘクタールと、その内側にある「ウォータープラザ」3ヘクタールです。

 「ウォータープラザ」はいったん予定水深に達しましたが、「つながりの海」は達しておらず、開幕までに水深1メートルになるよう調整しながら注水が続けられました。海水が十分に満ちると、ライトアップされたリングが水面に反射する光景が見られるからです(※ 朝日新聞、2025年3月2日)。

 万博協会は、海水を引き入れ始めたことで、リングの外側にかかる水圧が高くなっていたところに、風の影響で想定以上に波が高くなり、護岸の浸食がさらに広がったと状況説明しています。

 現在は修復されていますが、浸食の原因の一つは、水上アトラクションを見栄えよくするための結果だったともいえるでしょう。

■アトラクションの舞台として、観客席として機能する大屋根リング

 こうして紆余曲折を経ながらも、開幕すると、万博史上最大級の水上ショーが誕生しました。ラスベガスの有名な水上ショーに勝るとも劣らないアトラクションだという人もいます。

 いずれにしても、ウォータープラザでの水上ショーが、万博名物の一つになることは確かでしょう。夜だけではなく、昼間もここで、音楽に合わせて噴水が躍動する水上ショーが行われます。ウォータープラザでの水上ショーは開催期間中、夜も昼も、老若男女、誰もが楽しめるよう企画されているのです。

 ここでご紹介した、「1万人の第九」といい、万博史上最大級の水上ショーといい、圧倒的に迫力のあるアトラクションでした。一方はスケール感のある大屋根リングを舞台に見立ててコンサートを成功させ、もう一方は大屋根リングを客席と見立ててショーを成功させています。

 大屋根リングは、大勢の入場者を圧倒的な迫力で惹きつけるための装置として機能していたのです。

 実は、開幕前の大屋根リングが、YouTubeの中田チャンネルで紹介されていました。吉村大阪府知事が中田敦彦氏に万博会場を紹介し、説明していくという趣旨の動画でした。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=fwWlu7saGCU&t=196s

(※ CMはスキップするか、削除して視聴してください)

 この動画から、大屋根リングの箇所をご紹介していくことにしましょう。

■中田チャンネルで見た大屋根リング

 中田チャンネルの「大阪・関西万博2025」は、大屋根リングの上で、中田敦彦が両手を広げて叫んでいるシーンから始まります。「大阪万博、始まるぞ!」、「大屋根リング、デカい!」と大声を出しているのです。


 確かに、画面を見ただけでも、大屋根リングは想像を超える大きさでした。俯瞰しなければ、その全体像を一つの画面に収めることはできません。

 上から見ると、大屋根リングの全景はこのようになっています。

 リングの上はまるで道路のようになっていて、側面には芝生が植えられています。吉村知事は、この斜面はすり鉢状に設計されており、来場者はここで、お弁当を広げて食べてもいいし、寝転がってくつろぐこともできると説明していました。

 先ほど、ご紹介したウォータープラザについても、吉村知事は説明されていました。

 大屋根リングの内側が観客席になっていて、ウォータープラザで展開されるショーを見るという仕様になっています。周囲は海ですから、夜になれば、レーザー照明などで創り出された幻想的空間を楽しむことができるのです。

 もちろん、日中の風景も楽しめます。

 大屋根リングの先には海が見え、反対側には六甲山が見えます。海と山の風景が、大屋根リングの先に広がっているのです。一体、どういう仕掛けになっているのかと不思議に思っていると、吉村知事はいつの間にか下に降り、リングを支える木の説明をしています。

 大屋根リングを支える無数の木々は、釘を使わず組み立てられています。清水寺の舞台を作った技術が使われており、耐震性が高いそうです。木々の所々に節目が見られ、まるで林の中にいるような空間が生み出されていました。リングの下の空間は、無数の柱の合間から、太陽光がふんだんに入り込み、明るく、風通しがよく、快適さが充満しているように感じられます。

 これらの大屋根リングを支える多数の柱には、自然の中で育まれてきた日本文化が象徴されているように思えました。多数の木々が支え合い、つながり合い、暖かな空間が創り出されていたのです。まさに「いのち輝く未来社会をデザイン」をテーマとする、「大阪・関西万博2025」のシンボルといえます。

■さまざまに楽しめる大屋根リング

 大屋根リングは、「大阪・関西万博2025」の会場デザインプロデューサーである建築家の藤本壮介氏が構想し、「多様でありながら、ひとつ」というデザイン理念を表現した建造物です。

 2023年6月30日に木組み部分の組み立てを開始し、2024年8月21日に全周約2㎞がつながりました。建築面積は61,035.55㎡、内径は約615m 外径は約675m、全周は約2km、幅は30m、高さは約12m(外側約20m)という壮大なスケールが特徴です。

 日本の神社仏閣などの建築に使用されてきた伝統的な貫(ぬき)接合に、現代の工法を加えて建築された世界最大級の木造建築物です。使われた木材は、国産木材7割(スギ、ヒノキ)、外国産木材3割(オウシュウアカマツ)などです。

 会場の主動線として機能する円滑な交通空間であると同時に、雨風や陽射しなどを遮る快適な滞留空間として利用されるよう建造されています。(※ https://www.expo2025.or.jp/news/news-20250228-04/

 2025年3月4日、世界最大の木造建築物として、大屋根リングがギネス世界記録に認定されました。全周2㎞、幅30m、高さ約12m(外周は約20m)という壮大なスケールを思えば、当然の結果だと思います。

 リングを支える柱の下で撮影された関係者らの写真があります。

 向かって右がデザインプロデューサーの藤本壮介氏です。

 ギネスでは木造建築としてのスケールが評価されましたが、それ以外に、多様な機能をもつ建造物としても大屋根リングには大きな価値があります。

 先ほどもいいましたが、大屋根リングの屋上からは、会場全体を見渡すことができます。リングの外に目を向ければ、瀬戸内海の穏やかな海や夕陽を浴びた光景、振り返れば、大阪の街並み、そして、方向を変えれば、六甲山や明石海峡など、海と空に囲まれた万博会場ならではの魅力を楽しむことができます。

 さらに、リングの上は展望台として機能するばかりか、道路として機能し、舞台としても観客席としても機能しています。類まれな建造物だと思います。

 果たして、藤本氏は万博会場をどのような観点から構想したのでしょうか。

■藤本壮介氏の設計コンセプト

 藤本氏は、人を集める建築の条件について問われ、「一度見ただけで満足する、インパクト重視の施設とならないよう意識しました」と答えています。(※ https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/03069/020300011/

 藤本氏は、もはや建造物に意表を突く衝撃力は求められておらず、その場にいるからこそ可能な体験、あるいは居心地の良さといったものが求められるようになっていると認識しています。

 確かに、現代人のほとんどは、とどまるところを知らない競争に疲れ果て、先の見えない世の中に不安を覚え、すべてに疑心暗鬼になっています。インパクトの強いものを受け止めるだけの心の余裕が失っているような気がします。

 現代人のこのような心的傾向を踏まえ、藤本氏は、大屋根リングを設計する際、自然とのハーモニーを重視したのではないかと思います。だからこそ、リング状の木造建造物を構想したのでしょう。屋根の上の外周をすり鉢状の斜面にし、そこに芝生を植える設計にしたのではないかと思います。

 大屋根リングの上は二層になっています。一層目は黄色のセンターラインの入った幅広の道路が設置され、その上の二層目はその半分の幅の道路になっています。いずれも側面には芝生が敷かれ、縁にはスポットライトが多数、設置されています。

(※ https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/expo2025002/

 夜になって、このスポットライトが灯されれば、いきなり幻想的な世界が現れるという仕掛けです。

(※ https://dempa-digital.com/article/610580

 上の写真は、藤本氏らが大屋根リングの照明を確認した際に撮影されたものです。開幕に向けて、LED照明の色味や明るさなどを調整していたのです。リングの上の照明は季節に応じて調光することができるそうです(※ https://dempa-digital.com/article/610580)。

 大屋根リング全体がライトアップされた動画があります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=eECndMY-WV0

 壮観としかいいようがない光景です。周囲が海なので、夜になれば、光が景観に抜群の効果をもたらします。これだけの夜景は滅多に見ることができるものではないでしょう。

 昼間、大屋根リングの上に上がれば、パビリオンを一望できます。リング上がいきなり展望台になるのです。歩き疲れれば、芝生に寝そべって、陽光を浴び、潮風を感じることもできます。芝生が敷かれているリングの側面は、四季折々の変化に応じて異なる表情を見せてくれるでしょう。

 このリングを構想した藤本氏は、ここに来れば来場者は、「パビリオンの展示を見ただけで帰るのはもったいない」「もうちょっとこの場所にいたい」と感じるはずだといいます。(※ 前掲、URL)

 自然に包まれた安らぎの中で、来場者は見てきたばかりの各国のパビリオン、産業パビリオンなどを思い出すかもしれません。そのような思いを抱いたまま、日常を離れたこの場にもっといたいと思うかもしれません。

 大屋根リングはまさに、人が自然と交わり、楽しめる場になっていました。全長2キロメートルにも及ぶ大きな輪になっているからでした。世界各国からやってきた人々はここで自由に集い、やがて交流するようにもなるでしょう。

 そのような万博のメイン会場が、日本ならではの資材と最新の技術を結集して、建造されていたのです。素晴らしいとしかいいようがありません。「大阪、関西万博2025」は、この大屋根リングのおかげで、歴史に残ることになるのではないでしょうか。

(2025/4/17 香取淳子)

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ⑦:パリの邸宅で弟たちを描く

 この頃、カイユボットはプロレタリアートの働く姿を捉える一方で、実は、ブルジョワジーの姿も描いていました。今回はそれらの作品を見ていくことにしましょう。

■パリの邸宅を舞台に描く

 カイユボットは、1876年(4月11日から5月9日)に開催された第2回印象派展に、作品を8点、出品しました。そのうち、プロレタリアートを対象にしたものが2点、4点がブルジョワジーを対象にしたものでした。

 今回、ご紹介するのは、ブルジョワジーの生活を描いた4点のうち、《窓辺の男》(1875年)と《ピアノを弾く若い男》(1876年)の2点です。いずれもパリの邸宅を舞台に描かれています。

 それでは、1875年に制作された《窓辺の若い男》から見ていくことにしましょう。

■《窓辺の若い男》(Jeune homme à sa fenêtre、1875年)

 若い男性が、窓際に立って外を眺めている様子が描かれています。後ろ姿なので顔はわかりませんが、弟のルネ(René Caillebotte, 1851-1876)だといわれています。カイユボット(1848年8月19日生まれ)には弟が二人いますが、ルネはすぐ下の弟で、2歳半、年下になります。


(油彩、カンヴァス、117×82㎝、1875年、J. Paul Getty Museum, Los Angeles蔵)

 ジャケットのポケットに手を入れ、両脚を踏ん張るようにして立っているせいか、マッチョな印象があります。ややなで肩ですが、しっかりとした体躯に見えます。ところが、実際は体が弱く、自宅で療養をしていたようです。この作品が描かれた1年後の1876年11月1日には、26歳の若さで亡くなっているのです。

 窓を大きくあけ放って外を眺めている姿は、まるで外気をふんだんに取り込もうとしているように見えます。あるいは、新鮮な外気を吸い、大改造されたばかり街の風景をしっかりと目に焼き付けようとしていたのでしょうか。

 ルネは、一年後にはこの世を去っています。そう思うと、逆光で黒く見える後ろ姿全体が寂しく、悲しそうに見えます。表情をうかがうことのできないのに、切ない思いに駆られてしまいます。

 興味深いことに、ルネは大きくあけ放った窓の右端に立っています。そのせいで、内側に引いたガラス窓にその影が淡く映し出されています。たった一人しか描かれていないのに、画面に人の気配が感じられます。

 しかも、まるで街の風景を自分以外の誰かに見せようとしているかのように、ルネは、左側を大きく開けて立っているのです。おかげで観客の視線はごく自然に、背景の街並みに向かいます。

 バルコニー越しに見えるパリの街並みは、淡い色彩でまとめられており、洗練されたパリの様相が強く印象づけられます。ルネの右側の大きな窓ガラスもまた、淡いグレーで彩色されています。窓の外に広がるパリの街と似たような色調なのです。

 この色調のおかげで室内と室外とに連続性が生まれ、統一感が生み出されています。内と外とがみごとに一体化しているのです。絶妙な構図あり、色構成です。

 室内と室外との境界線になっているのが、ロココ調のオシャレな窓柵です。拡大してみることにしましょう。


(※ 前掲、部分)

 宮廷文化を踏襲したようなこの窓柵は、優美な曲線で造形されています。転倒防止の機能だけではなく、デザインや造形の美にこだわったナポレオン三世治世下の美意識が感じられます。

 窓のすぐ下を見ると、馬車が待機しており、その先には女性が一人、ドレスの裾を引きずるようにして歩いているのが見えます。ルネが眺めているのは、どうやら、その先の遠方の建物のようです。そこで馬車が一台、待機しているのが見えます。

 辺り一帯は瀟洒な建物が整然と立ち並び、大改造したばかりの美しいパリの風景が淡い色調で写実的に描かれています。

 カイユボットの父親が建てたこの邸宅は、ミロメニル77番地とリスボン通り13番地の角地に建っていました。ルネが立って外を眺めているのは、ミロメニル通りに面した窓だといわれています(※ http://caillebotte.net/work/index.php?no=032)。高級住宅地として開発された地域です。

 カイユボットはもう一人の弟、マルシャルマルシャル(Martial Caillebotte, 1853-1910)の姿も描いていました。

■《ピアノを弾く若い男》(Jeune Homme au Piano, 1876年)

 レースのカーテン越しに、柔らかな陽射しが室内に入り込んでいます。穏やかな陽光が、ピアノを弾く若い男性の背中と肩、そして、鍵盤に置かれた両手を明るく照らし出しています。見るからに幸せそうなひと時が描かれています。


(油彩、カンヴァス、81.3×116.8㎝、1876年、アーティゾン美術館蔵)

 演奏会が近づいているのでしょうか、男性は譜面に視線を注ぎ、演奏に余念がありません。譜面台の傍らには分厚い楽譜集のようなものが三冊ほど、置かれています。鏡面仕上げのグランドピアノがブルジョワジーの生活の一端を垣間見せてくれます。

 モデルとなっているのは、音楽家で写真家の弟、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte)です。ギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte)とは4つ違いですが、大変仲が良く、マルシャルが結婚するまで一緒のアパートに暮らしていました。この作品はマルシャルをモデルにした作品の中では最初のものだと言われています。(* http://caillebotte.net/blog/info/328

 1886年に撮影された二人の写真があります。向かって左がマルシャル、右がギュスターヴ・カイユボットです。


(※ Wikipedia)

 この写真からは、カイユボットが弟よりもかなり背が低く、小柄だということがわかります。《床の鉋かけ》(1875年)を見た時から、華奢な体躯だろうと想像していたのですが、この写真でそのことを確認することができました。

 さて、描かれた室内はいかにもブルジョワジーのものらしく豪華で、優美な仕様になっていました。カーテンや壁紙は繊細で優美な文様が織り込まれ、しかも、重厚感があります。カーテンのタッセルもまた多くのボンボンが付いた装飾性の高いものでした。


(※ 前掲、部分)

 カーテンといい、壁紙、絨毯といい、椅子といい、すべてが豪華な仕様で仕上げられた室内で、ひときわ存在感を放っているのが、光沢のある黒のグランドピアノです。部屋が狭く感じられるのは、マルシャルが弾いているのがグランドピアノだったからでしょう。

■ブルジョワジーを象徴するピアノ

 ピアノはもともと、王族や貴族社会の中で発達してきました。ところが、フランス革命後、王族や貴族が没落していくと、ピアノは新興ブルジョワジーの趣味として定着していきます。ナポレオン三世の下で羽振りを利かせていたカイユボット家がまさにその一例です。

 ピアノ演奏の場もそれに合わせるように、ブルジョワジーや亡命貴族たちの社交の場としてのサロン、あるいは、コンサートホールへと移っていきました。

 19世紀前半のフランスでは、エラール(Erard)とプレイエル(Pleyel)がピアノ・メーカーとして競い合っていました。1834年頃の年間生産台数は1000台に達し、1870年代からは生産台数2500台を維持していたそうです。(https://xstage.kuragemoyou.com/archives/14146)。

 マーシャルが弾いているのがどちらのメーカーのピアノなのか、よくわかりませんが、拡大してみると、マルシャルの手の上にエンブレムがみえます。装飾文字なので、よくわかりませんが、どうやらエラールのもののようです。

 1843年製の両社のピアノを比較したビデオがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=d8GqpKhaMo4

(※ CMはスキップしてください)

 エラールのピアノは、19世紀に主にヨーロッパで活躍していたピアニストたちに愛用されたといわれています。それは、作曲家のインスピレーションを喚起するような楽器だったからですが、彼らに愛用されたことによってエラールは発展していきました(※ 『鍵盤楽器辞典』No.12 エラール)。

 さて、1876年の印象派展でこの作品が発表された時、何人かの批評家は、困惑したようです。というのも、やや俯瞰した視点で捉えたピアノの造形がアンバランスに見えるたからでした(* http://caillebotte.net/blog/info/328)。

 そういわれてみれば、確かに、ピアノの形が少し歪んで見えます。幅と奥行きのバランスが実物とは異なっているように思えます。大きなグランドピアノを無理やり画面に入れ込もうとしたせいでしょうか。ピアノの形状に違和感はありますが、この絵の雰囲気を壊してしまうほどアンバランスだというわけでもありません。

 この作品は、ピアノをモチーフの一つにすることによって、当時のブルジョワジーの生活を象徴的に表現することができています。

 さきほどご紹介した《窓辺の若い男》(1875年)の場合、ロココ調の窓柵にブルジョワジーの片鱗を感じさせられました。《ピアノを弾く若い男》の画面にも、レースのカーテンの背後にロココ調の窓柵が見えます。あらためて、この窓柵が、ブルジョワジーならではのアイテムの一つなのだと思い知らされます。

■カイユボットは二人の弟をどう描いたか

 まず、カイユボットは、《窓辺の若い男》で2歳年下の弟ルネをモチーフに描きました。逆光の下、背後からルネを暗色で捉え、背景に大改造されたばかりのパリを淡い色調で収めた作品です。室内と室外を明暗の対比の中で捉え、パリの街の風景とブルジョワジーの生活を、色調によって一体化して捉えた構図が秀逸です。

 その翌年、4歳年下の弟マルシャルを、豪華な室内でグランドピアノを弾く姿を描きました。王侯、貴族が親しんでいたピアノという楽器が、当時、新興勢力であったブルジョワジーの趣味になりつつありました。当時のリアルな状況がマルシャルの日常生活を通して捉えられていたのです。

 両作品ともタイトルに「若い男」という語が入っています。実際、ルネは25歳、マルシャルは23歳でした。実際、若い男であったことは確かですが、敢えてタイトルに入れたところに、新しいことに挑戦する若いエネルギーを表現したかったのではないかという気がします。

 たとえば、《窓辺の若い男》では、後ろ姿のルネよりも、その背後で広がるパリの街の風景の方が強く印象づけられます。ルネをモチーフにしながら、詳細に描かれているのは、ロココ調の窓柵であり、パリの街の風景であり、建物でした。いずれも大改造して生まれ変わったパリの街の美しさが淡い色調で写実的に捉えられていたのです。

 その画面構成に、パリの街を徹底的に改造したエネルギーへの賛美が感じられます。既存のものを壊し、便利で快適で美しい街づくりを完成させた挑戦心への賛美ともいえるでしょう。

 一方、《ピアノを弾く若い男》では、黒光りのするグランドピアノを弾くマルシャルに、当時のブルジョワジーの姿が象徴されているように思えます。王侯貴族の嗜みであったピアノ演奏が、新興階級であるブルジョワジーのものになりつつあった時代でした。

 譜面台の横に分厚い楽譜のようなものが三冊ほども置かれていますから、マルシャルはおそらく、相当な練習量を経て、素晴らしい演奏者になっていたのでしょう。何度も練習し、弾きこなせるようになるには、それなりの努力をしなければなりません。

 刻苦精励した暁に、成果を手にすることができるという仕組みが、新興ブルジョワジーの成り立ちと共通しているともいえます。王侯貴族ではなく、権力者や大土地所有者でもなく、市民階級がアイデアを実行に移し、努力すれば、それなりの成果が得られたのです。

■ブルジョワジーとしての認識

 カイユボット兄弟の父、マルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799-1874)は、ノルマンディに生まれましたが、1830年にパリに引っ越し、フランス軍にベッドや毛布を供給する事業を始めました。軍需で富を得ると、高級住宅街に家を構えたばかりか、別荘や農場、不動産を次々と所有し、パリの再開発にも出資していました。精力的な実業家でしたが、その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。

 初期産業化時代に時流を読み、激変の時代に適応しながら、事業を成功させ、社会的地位を得た人物だったのです。

 残念ながら、子どもたちにそのような事業の才能は受け継がれませんでしたが、カイユボットは弟たちを描く中でさり気なく、ブルジョワジーとして破格の成功を遂げた父親を画面に入れ込んでいました。

 身体が弱く、26歳で亡くなってしまったルネをモチーフにした作品では、その背後に大改造されたパリの街の風景を描き、父親の事業の一端を表現していました。

 仲の良かった弟のマルシャルは実業ではなく、芸術に進路を定めました。彼を描いた作品では、グランドピアノをモチーフの一つに選び、当時のブルジョワ階級の文化的傾向の一端を表現しています。

 これらの作品のいずれも、確かなデッサン力、肉付け、微妙な色調の差異に基づいて描かれていることがわかります。おそらく、二人の弟をそれぞれ描き分けようとしていたのでしょう、作品のテイストは異なりますが、いずれもレオン・ボナの下で学んだ写実的な手法で臨んでいます。

 カイユボットは、アカデミーが奨励した技術を完全に体得し、当時の時代状況、社会状況を巧みに組み込みながら、弟たちの姿を作品化しました。ブルジョワジーとしての認識があったからではないでしょうか。(2025/3/31 香取淳子)