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07月

ピサロとリュス、二人はパリの大改造をどう描いたか

■パリ大改造という課題

 19世紀半ばのパリは人口が集中し、居住環境としては悪化の一途をたどっていました。曲がりくねった狭い道路の両側に、アパートが密集しており、風通しが悪く、低い階には日も当たりませんでした。

 19世紀半ば頃のパリのシテ島にあるオテル・ デュー・パリ付近を写した写真があります。

パリの中心

(* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E6%94%B9%E9%80%A0

 道が狭く、しかも、両側に高層の建物が建っています。風通しが悪く、陽も射さない状況だということが一目でわかります。おそらく、当時、パリのほとんどがこのような状態だったのでしょう。風通しが悪いせいで、糞や汚物の臭いがたちこめていたといいます。

 上の写真をよく見ると、道路中央に溝が掘られています。汚物はここを流れるようになっていたのでしょうが、浅いので、廃棄物や汚物が溢れ、異臭を放っていたようなのです。これが病原菌の発生源になっており、頻繁に疫病が流行していました。

 ナポレオン三世は、非衛生的な状況を改善する必要に迫られていたのです。

 一方、産業化の進行とともに、馬車が一般化し、道路は人や馬で混雑するようになりました。絶えず、交通渋滞が発生し、人の移動や物流を妨げていました。流れをスムーズにするには、道路を直線化し、大幅に拡張しなければなりませんでした。

 そもそもパリは、1163年にノートルダム大聖堂が作られたシテ島が、政治と宗教生活の中心でした。左岸には教会が運営する様々な学校が置かれて学術の中心となり、右岸は商業と経済の中心として発展していきました。

 1180年から始まるフィリップ2世の治世下で、パリに新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設も始まりました。同時に、道路の舗装、中心部に中央市場が建設され、パリは首都として整備されていきました。つまり、パリは12世紀後半に首都としての形を整えたことになります。

 産業革命を経て人口が集中し、人や物の流通が激しくなると、中世に築かれたパリの街は時代には合わず、さまざまな問題が発生するようになっていたのです。

 まずは道路を拡幅し、採光がよく風通しのいい街並みを作り出さなければなりません。

 ナポレオン(Charles Louis-Napoléon Bonaparte, 1808-1873)は以前から、パリの改造プランを立てていました。ところが、大統領時代には実行できる権限がなく、皇帝の座についてようやく取り組むことができたのです。

 まず、胆力があり統率力もあるオスマン(Georges-Eugène Haussmann, 1809 – 1891)をセーヌ県知事に任命し、改造プロジェクトの指揮官に起用しました。1853年のことでした。

 新しい土地に街を造るのではなく、既存の大都市を根本的に改造するのですから、並大抵の人物では務まりません。人々を立ち退かせて、既存の道路や建物を破壊し、反対意見を抑え込みながら、進めていかなければならないのです。

 当時、パリは抜本的な改造をする必要に迫られていました。それも、対処療法的な改造ではなく、100年後、200年後を見据えた大改造です。すでに産業革命は進み、これまでとは違う社会の形態がうまれつつありました。

 変化する社会構造を視野に入れ、人々が健康に暮らしていけるようなパリにしていく必要がありました。

■パリ大改造の基本理念

 パリ大改造は、次の4つの観点から行われました。すなわち、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観です。パリ全体をこれら4つの観点から見直し、既存の道路や建物に破壊し、長期展望の下、新たに造り直しました。

 1853年から1870年まで17年間にわたる大規模工事が行われました。

 街路事業についてオスマンは、「直線化」、「複雑化」、「ショートカット」の観点から設計し直しました。

 まず,パリを縦横断できるよう,真ん中に大通りを建設します。当然、既存の区画や建物が邪魔になりますが、オスマンはそれらをほぼすべて破壊し、新たに区画整理して対処しました。なんとも大胆なやり方です。オスマンでなければ、到底、できなかったでしょう。

 1853年からの17年間というもの、パリの街は文字通り、至る所で、破壊と創造が実践されていたのです。

 日々、変貌を遂げていくパリの街を見て、画家たちはどう思ったのでしょうか。調べてみると、パリの大改造をどう描いた画家が何人かいました。まずは、ピサロ、そして、マクシミリアン・リュスの作品をみていくことにしましょう。

■カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)

 印象派の画家ピサロは、晩年になると、郊外のエラニーからパリに戻り、新しく設置された大通りや広場の様子を連作で描いています。改造されたパリの街の姿が、画家の絵心を強く刺激したのでしょう。ピサロは次々とパリの美しく変貌したパリの街の光景を描きました。

 ピサロがよく描いていたのがオペラ座通りです。雨の日、冬の日、陽光の射す日など、同じ風景でも季節や天候の違いによっていかに趣が異なるものか、繊細な筆致で捉えています。

 ここでは、そのような作品の中から、パリ大改造をもっともよく表現できていると思える作品をご紹介することにしましょう

●《オペラ座通り、朝の陽光》(Avenue de l’Opéra, le soleil du matin, 1898年)

 ピサロがよく描いたのが、ホテルからオペラ座通りを見下ろした光景です。いくつかある中で、もっともよくパリ大改造のコンセプトを捉えていると思えるのが、この作品でした。

(油彩、カンヴァス、66×81.9㎝、1898年、フィラデルフィア美術館蔵)

 手前の広場から大きな道路が伸びています。路上には人々や馬車が多数、描かれていますが、いずれも点のように小さく見えます。この広い直線道路の先に見えるのが、オペラ座です。

 画面の奥に、特徴的な青色の屋根が見えます。実際の姿を写真で見てみることにしましょう。

オペラ座

(*https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Opera_full_frontal_architecture,_May_2009.jpg

 これは、1862年に着工し、1875年に完成したガルニエ宮です。格式が高く、荘厳な美しさがあります。

 さて、ピサロの作品に戻りましょう。

 正面奥に見えるオペラ座に向かう道路の両側には、重厚な建物が立ち並び、その一階は店舗になっています。人々がオペラ通りを散策しながら、ウィンドーショッピングを楽しむことができるようになっているのです。

 建物そのものが優れたデザインで建築されており、まるで芸術作品のようです。

 手前の広場には、円形の噴水が左右に設置されており、直線道路の際でシンメトリーな柔らかさを添えています。

 噴水の周囲には木々が植えられており、自然のやすらぎが醸し出されています。奇妙なのは、建物や噴水、道路の大きさに比べ、人々や馬車などが極端に小さく描かれていることです。おそらく、ピサロが都市の形態あるいは構造そのものに焦点を当てて描こうとしているからでしょう。

 パリの街がどのように変わったのか、どのように整備されたのかが、この作品からはとてもよく理解できます。

 パリ大改造のために大プロジェクトに取り組んだナポレオン三世は、街路、公園、上下水道、美観、等々の観点から改造プランを練り上げました。ナポレオンに任命されたオスマンは、自身にアイデアを織り込みながら、大改造事業を展開しました。

 ピサロの作品からは、オスマンが追及した街路の直線化、そして、ナポレオンが掲げた都市の美観化が見事に調和して実現されていることがわかります。

 ピサロとは違った視点でパリの大改造を捉えた画家がいます。新印象派の画家マクシミリアン。リュス(Maximilien Luce, 1858 – 1941)です。

■Maximilien Luce(Maximilien Luce,1858- 1941)

 リュスは、ピサロのようにパリの街並みそのものを俯瞰して捉えるのではなく、そこで暮らす人々の視線で大改造を捉えようとしていました。

 当時、パリでは至る所で工事が行われ、日々、その景観は変貌していました。完成形を描いたのがピサロだとすれば、リュスはその過程を描きました。ですから、色も形も統一が取れておらず、雑駁な印象がありますが、逆に、当時のパリの街の様子が生き生きと描かれているように思えます。

 たとえば、リュスに、《リュミエール通りの貫通》という作品があります。

●《リュミエール通りの貫通》(L’ouverture de la rue Reaumur、1896年)

 この作品では、構造部分がむき出しになっています。手前の建物はみな、軸組が丸見えになっており、足場なのでしょうか、壁面に板が何本も立てかけられています。窓は空洞で、明らかに建築途上の建物だということがわかります。

 リュスの作品には珍しく、荒っぽいタッチで描かれていますが、それだけに、建築現場の生々しい様子をスケッチ感覚で捉えようとしているようにも見えます。

(油彩、カンヴァス、35.8×51.4㎝、1896年、Christie’s所蔵) 

 細部を細かく丁寧に描くのではなく、全体を粗く、素早く捉え、その瞬間のパリの街の表情を捉えることに主眼を置いていたのかもしれません。手前はとくに色彩も形もばらばらで統一感がありません。

 一見、ラフな印象を受けますが、遠近法にしたがって描かれているので、画面そのものは秩序だって構成されています。

 ピサロの作品と同様、人々は点のように小さく描かれています。そのせいか、道路がとても広く感じられます。その広い道路に沿って、建築現場が続いています。騒音と土埃でごった返す建築現場の脇を、大勢の人々が平然と行き交っている光景に、パリ市民のエネルギーと未来への希望が感じられます。

 この画面には、破壊し、再び建築するといったプロセスの一端が描かれており、新たな生命を得て蘇るパリの街のエネルギッシュな姿が浮き彫りにされています。

 実際に当時のパリの様子がどんなものだったのか、資料を探してみました。道路を掘り起こし、廃墟になったような場所を撮影した写真を見つけましたので、ご紹介しましょう。

(*https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/3417344/

 まるで爆撃された後のような光景です。建物が壊され、瓦礫が散乱しています。道路が深く掘り返され、大きな土の山ができています。これはほんの一例ですが、すでに出来上がって機能していた都市を、根本的に改造することがいかに大変なことか、うかがい知れます。

 この写真を見ているうちに、リュスがパリ改造をどう捉えていたのかがわかるような気がしてきました。俯瞰して都市の機能を描こうとするのではなく、人々の視線を取り入れ、都市のあるべき姿を描こうとしていたのではないかと思えてきたのです。

 パリを大改造するために、ナポレオン三世やオスマンが多大な尽力を果たしてきました。それと同様、パリに住む人々もまた、生まれ変わるパリの街に寄り添い、様々な生活上の不便を耐え、変貌する姿に希望をつないでいたのでしょう。

 この作品からは、生のエネルギーが感じられます。

 リュスはさらに、破壊し建築する当事者としての労働者の姿を捉えていました。

●《荷車を押す労働者》(Travailleurs poussant un wagonnet、1905年)

 リュスの作品の中に、建築現場で働く労働者を素描したものがあります。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1905年、Musée de l’Hotel-Dieu.所蔵)

 粗さの残る筆致の中に、労働者の動きと現場の雰囲気がみごとに捉えられています。重い荷車を押す男たちがいるかと思えば、その傍らで作業をしている者、手前から彼らに近づこうとしている者、振り返ってみている者などが描かれています。

 荷車を押す労働者たちだけではなく、その周辺の労働者を描くことによって、作業現場の様子がよりリアルに表現されていることがわかります。力を合わせることによって大きな作業ができることを示唆しているように見えます。

 背後には建築現場があり、労働者たちがさまざまな作業をしており、さらにその背後にビルのようなものが建っているのが見えます。パリの街をひっくり返すような勢いで、改造工事が進められている様子が捉えられています。

 ナポレオン三世は、社会を支えているのは農民であり、労働者であると認識していました。彼らの生活を安定させることができれば、社会も安定するという考えでした。だからこそ、皇帝の地位に就くと早々に、労働者共同住宅の建設に取り組んだのです。

 そのような考えは、このパリ大改造プランにも見られます。

 そもそも、先ほどご紹介したパリ大改造プランの発想は、人々が健康な生活ができるようにパリを改造するというものでした。そして、改造プランそのものは人体の構造に模して作成されていました。そのことをふっと思い出しました。

 建築現場をもう少し、構造的に捉えた作品もあります。

●《建築現場》(Le chantier, 1911年)

 リュスが53歳の時の作品です。先ほどの作品とは違って、画面は極めて緻密に構成されています。

(油彩、カンヴァス、73×60㎝、1911年、Musée d’Orsay所蔵)

 大きなビルの建築現場で、大勢の労働者たちが働いています。足場が組まれ、労働者たちが細い板の上でさまざまな作業をしています。画面下の方ではセメントを掬い上げている者、こねている者、運んでいる者がいます。大きなビルの奥の方にも足場がかけられ、クレーンのようなものも見えます。

 ビルなどの建築現場ではこのように、大勢の労働者が機能分担して働いているのでしょう。それには、彼らを統括して作業全体を進めていく役割を担う人が必要で、おそらく、手前右に描かれている白い服を着た人がそうなのでしょう。

 この作品からは建築現場の構造が見えてきます。つまり、産業革命を経て、分業化が進み、労働者が機能分担して仕事をしはじめている現場の一端が巧に切り取られ、表現されているのです。

 遠近法が使われ、安定感のある画面構成になっています。遠方の労働者たちはごく小さく描かれていますが、姿勢や身体の傾きなどでそれぞれ描き分けられており、生き生きとした現場の営みが伝わってきます。

 日が落ち始めているのでしょう、左手前から影が伸び、作業をしている労働者の背中を暗くしています。厳密に画面構成された建築現場に射し込む陽光が、この作品を情感豊かなものに仕上げています。

 この作品はまさに、産業革命を経て、必然的に進行した分業化の動きを示すものにほかなりません。リュスは、パリ大改造の建築現場を描きながら、実は、産業化の進行が、人々に何をもたらすのか、無意識のうちに問いかけていたのかもしれません。(2024/7/31 香取淳子)