■リチャードソン・ジュニアの作品傾向
リチャードソン・ジュニアは、峻厳な自然を好んで描き、その中に、人々の生活の一端を点景として添えることを好みました。厳しい自然環境の下、人々が助け合いながら生きている様子を、敢えて、画面に取り込んでいたのです。そうすれば、鑑賞者の気持ちに響くことがわかっていたからでしょう。
ラスキンが、リチャードソン・ジュニアは、同じテーマの下、同じようなモチーフを使って、繰り返し作品を制作してきたと指摘していたことが思い出されます。
前回、ご紹介したように、ジョン・ラスキンは、リチャードソン・ジュニアがどの作品にも好んで使ってきたモチーフがあるとし、次のように説明していました。
「彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれている。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland)
改めて、リチャードソン・ジュニアの作品を見てみると、確かに、作品全般について、ラスキンが指摘するような傾向が見られました。
興味深いのは、ほとんどの作品に、犬、馬、人が取り入れられていることでした。荒涼とした風景の中に点景として、それらのモチーフが添えられており、温もりを感じさせられます。
はっきりとわかるように描かれているものもあれば、よく見なければ風景に溶け込んでしまっているものもあります。
リチャードソン・ジュニアの作品の多くは、死後、散逸してしまっていますが、残された作品を見ると、描く対象は変わっても、取り上げられるモチーフや描き方が変わることはほぼありませんでした。
ところが、作品を見ていくうちに、お馴染みのモチーフを使わず、描き方も大幅に異なった作品があることに気づきました。
岩を全面的に打ち出した作品で、タイトルは、《A Rocky Stream in Scotland》です。
さっそく、見てみましょう。
■《A Rocky Stream in Scotland》
この作品を見た瞬間、抽象画かと思ってしまいました。画面がリアルではなく、一見、何が描かれているのかわからなかったのです。
(水彩、鉛筆、厚紙、34.5×84.5㎝、制作年不詳、スコットランド美術館蔵)
タイトルを見てようやく、この作品が、スコットランドの岩だらけの渓谷を描いたものだということがわかりましたが、それでも、まだ、淡い褐色でベタ塗りされた色彩の塊が岩だとは思えません。
描かれたモチーフには、物体としての量感がなく、質感もなく、陰影もありませんでした。ただ、マットなバーントシェンナが、画面の随所に、しかも、大量に置かれているだけだったのです。とうてい岩には見えず、せいぜい赤土にしか見えませんでした。
ラスキンは、リチャードソン・ジュニアが好んで使ってきたモチーフについて、次のように述べていました。
「岩だらけの土手、ある場所では青く、別の場所では茶色に描かれている土手であり、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」
ラスキンが指摘する、リチャードソン・ジュニア定番のモチーフが、この《A Rocky Stream in Scotland》には見られなかったのです。
この作品の中に、定番モチーフがあるとすれば、「岩だらけの土手」あるいは、「茶色に描かれている土手」ぐらいでした。
この作品では、人間の温もりを象徴するモチーフはカットされ、自然の荒々しさを象徴するモチーフだけが取り上げられていたのです。
しかも、これまでの作品とは明らかに、表現方法が異なっていました。対象をリアルに描くのではなく、形状をフラットにし、色をマットなものにして、抽象的に表現していたのです。
それにしても、リチャードソン・ジュニアは、なぜ、この作品を抽象的に表現したのでしょうか。
改めて、画面を見ると、この作品では、岩や山肌にリアリティがないのはもちろんのこと、渓谷を流れる川もまた、とても川には見えませんでした。白い幅広の線が幾筋か引かれているだけだったのです。川に見えないのも当然でした。
リチャードソン・ジュニアは、果たして、この作品で何を描きたかったのでしょうか。
■自然界で繰り返される死と生の象徴か?
興味深いのは、バーントシェンナが、マットな色合いのまま、画面の左右両側から中央に向けて下ってきていることでした。双方がぶつかる辺りの底面に、白い幅広の線が上方に向けて、散るように描かれています。その様子は、大量の赤土に抗うように、流れていく川のように見えなくもありません。
荒々しい自然の一端が、モチーフの形状によってではなく、マットな色遣いによって、表現されていたのです。バーントシェンナが、岩や山肌や木々を覆い隠すように包み込んでいる様子が印象的です。自然が孕む暴力性を可視化した作品だともいえます。
その一方で、画面中央付近に散らされた白が、画面に鮮やかさと清涼感を添えていました。棒状に描かれた白はまるで枯れ枝のように見えますし、グラデーションを効かせて帯状に描かれた白は、流れる川の波頭のようにも見えました。
白を使って、枯れ枝(静)と波頭(動)が強調されていたのです。それは、自然界で繰り返される死(枯れ枝)であり、生(波頭)の象徴でもありました。バーントシェンナで覆われた画面の中で、白が際立っていました。
無機質な画面の中に、白を加えることによって、静と動の対比が生み出されていたのです。とても斬新な表現方法だと思いました。
とくに白の使い方に、卓越したセンスが感じられます。
言い換えれば、バーントシェンナのマットな色調が、画面からリアリティを喪失させ、エッジの効いた白が、アクセントとして画面を息づかせていたのです。それが、鑑賞者の感覚を翻弄し、戸惑わせ、新鮮な感覚を喚起していたように思います。
ひょっとしたら、この作品の狙いはそこにあったのかもしれません。
そう思うと、この作品を2枚の厚紙を繋いでパノラマサイズにし、通常よりも横長の画面にしていたことにも納得がいきます。
■なぜパノラマなのか?
この作品の画面サイズは、34.5×84.5㎝でしたから、縦横の比率は1対2.45です。空すらも見えない、岩だらけの渓谷を描くのに、わざわざパノラマサイズにする必要があったのでしょうか。初めて見たとき、不思議に思いました。
広い浜辺を描くわけでもなく、広大な山並みを描くわけでもありません。岩だらけの渓谷を描くのに、なぜ、パノラマサイズにする必要があったのか、当初は理解できませんでした。ところが、この作品が、異次元の感覚を喚起することが狙いであったとすれば、このサイズにしたことがわからなくもありません。
鑑賞者を異次元の世界に誘導するには、抽象的な画面をこのサイズで表現することの意義があったのでしょう。
彼の作品を出来る限り多く、見てみました。その結果、このような画風で、このようなサイズの作品は、他に見当たりませんでした。まるで別人が描いたのかと思うほど、それまでとは異なっていました。
リチャードソン・ジュニアにとって、おそらく、これは、最初で最後の作品ではないかという気がします。
もっとも、ただ一つ、この作品と非常によく似た作品があったことを思い出しました。
前回、ご紹介した、《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)です。
■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との類似性
あくまでも私の直観に過ぎませんが、《A Rocky Stream in Scotland》を見た時、ふと、《Glen Nevis, Inverness-shire 》を制作した直後に描かれた作品ではないかという気がしました。それほど、両作品のモチーフの構成、構図、画面の色構成はよく似ていました。
たとえば、左右両側の巨大な岩石、横倒しになった枯れ木、川の流れといったモチーフの構成、さらには、バーントシェンナの濃淡で覆われた画面にエッジの効いた白が配置された色構成など、作品を組立てている基本要素が同じだったのです。
このような基本要素の似かよりを見ると、リチャードソン・ジュニアを創作に駆り立てた発想が同じだったといわざるをえません。
《Glen Nevis, Inverness-shire 》が1857年に制作されたことはわかっていますが、《A Rocky Stream in Scotland》がいつ制作されたのかは不明です。ですから、どちらが先に描かれたのかはわからないのですが、少なくとも同時期の作品だということはいえるでしょう。
しかも、先ほどいいましたように、制作時期は、《A Rocky Stream in Scotland》が後のような気がします。それほど間を置かず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の直後に描かれたのではないかと思いました。
果たして、実際はどうなのでしょうか。それを確認するには、《A Rocky Stream in Scotland》と《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見比べ、両作品の相違性をみる必要があるでしょう。
■《Glen Nevis, Inverness-shire 》との相違性
●《Glen Nevis, Inverness-shire 》の構成
まず、《Glen Nevis, Inverness-shire 》 のモチーフがどのように構成されているかを見てみましょう。
(水彩、紙、84.5×130㎝、1857年、所蔵先不詳)
左右から、バーントシェンナの濃淡で彩られた岩石が、中央の窪みに向けて迫っています。迫力のある画面に、圧倒されてしまいそうです。画面に慣れてくると、遠方に、まるで緊張した視覚を解きほぐすかのように、コバルトブルーが配されています。そして、差し色のように適宜、散らされた白が快く、目に留まります。
この作品は、画面中央から上部にかけて空が開けています。ちょうど逆三角形の形で空が構成されており、手前に広がる岩石の重苦しさを緩和する効果が見られます。
空の部分を青のマーカーで記して見ました。
(※、前掲。青)
雲が垂れ込めているとはいえ、空にかなりの分量が割かれているので、画面の軽重バランスが取れています。画面サイズは風景を描くのに適したPサイズでした。サイズといい、構成といい、画面には何の違和感もなく、自然の峻厳さが伝わってきます。
淡い色で描かれているのが、左上の巨岩の上部、中央手前の台地、そして、右手前の巨石でした。それらは、陽光が射し込む地点であり、左上の巨岩から人々や動物がいる地点へと、鑑賞者の視線を誘導する役割を果たしていました。
該当部分を黄色マーカーで記して見ました。
(※、前掲。青、黄色)
鑑賞者は淡い色に誘導されて、まず、後景の淡い色の雲を見、次に、左上の巨岩を見、そして、中央手前にいる人々や動物に視線を移動させるでしょう。そこで、荒々しい渓谷の中に展開される生活の一端を見るのです。
黄色のマーカーで図示したように、人々や馬や犬がいる場所は平坦なので、安定感があります。その背後には、白い枯れ木が倒れ掛かっており、不安定な造形物が添えられています。ここでの生は、死と隣り合わせであることが示されています。
こうして見てくると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》は、自然の暴力性を強調して見せようとしているように思えます。峻厳な自然の中に、人々や動物の平和な姿を組み込むことによって、それを可視化していました。巨岩や枯れ木などのモチーフによって、鑑賞者の想像力を刺激し、感情に訴えるストーリーを紡ぎ出していたのです。
《Glen Nevis, Inverness-shire 》 には、しっかりとした構造の下で組み立てられた作品世界がありました。鑑賞者を惹きつける魅力はあると思いました。
それでは、《A Rocky Stream in Scotland》はどうでしょうか。
●《A Rocky Stream in Scotland》の構成
まず、この作品にはリチャードソン・ジュニアお定まりのモチーフがます。犬や馬、人といった定番のモチーフが取り入れられていないのです。これまで、画面に温もりや安らぎをもたらしていたモチーフが欠けており、自然の猛々しさがもろに画面に表出してしまっています。
そのせいか、画面には、息詰まるような圧迫感があります。
しかも、この作品では、多くの部分が赤土のように見えるバーントシェンナで覆われています。辛うじて、空に見える部分が上部にわずかに描かれています。青マーカーで囲ってみました。
空のように見えるとはいいながら、あまりにも面積が小さいので、明るさが足りず、画面を覆うバーントシェンナが与える緊張感を緩和する役割を果たしていません。
この作品で、圧倒的な分量を占めているのが、赤土にも見える
バーントシェンナ です。そこから所々、姿を見せているのが、岩石です。質感も量感もなく、もちろん、陰影もありません。ひたすらマットなバーントシェンナが画面を覆っているだけです。
しかも、《A Rocky Stream in Scotland》 は、2枚の厚紙を繋ぎ、パノラマサイズで描かれていました。現実離れしたシュールな世界が広がっていたのです。
●画面サイズ
一方、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面サイズは、84.5×130㎝ですから、縦横比は1対1.538です。風景画によく使われるPサイズの縦横比が1対1.414で、海景が1対1.618です。風景よりもやや横幅が広く、海景よりはやや狭いといったサイズです。
両者を比較するには、画面サイズを統一する必要があるでしょう。
そこで、《A Rocky Stream in Scotland》の画面サイズに合わせ、類似性の高い部分を残して、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の画面上部を切り取ってみました。大きく変化したのが、空の部分なので、そこを青のマーカーで囲ってみました。
(※ 前掲。青)
空の大部分が欠落することで、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の印象は大きく異なりました。画面に余裕がなくなり、緊張感だけが残ります。改めて、空という余白部分がいかに大きな役割を果たしていたかがわかります。
変更前のオリジナルと比べると、《Glen Nevis, Inverness-shire 》をサイズ変更すると、作品として成立しなくなってしまうことがわかります。遠近感が崩れてしまうのです。
空の部分を切り取って、余白が少なくなった結果、鑑賞者が画面を見て、想像力を羽ばたかせる余地が少なくなったからでしょう。改めて、風景画には、鑑賞者が自由に想像力を広げられるだけの余白が必要なのだということを感じさせられました。
一方、《A Rocky Stream in Scotland》は、具体的に描かれていないので、空の部分が少なくても気になりません。もともと、遠近の概念が画面に持ち込まれていないからでしょう。
両作品を比較し、類似性と相違性をみてきました。改めて、同じ発想で描かれた作品だということがわかります。空の配置、背せり立つ巨岩で囲まれた渓谷の位置づけ、等、構図はほとんど同じでした。
リチャードソン・ジュニアは、同じ場所を、同じ色構成、同じ構図で描いていたのです。両作品の大きな違いが、モチーフの描き方であり、色調、筆遣い、画面サイズでした。
■なぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのか?
《A Rocky Stream in Scotland》では、モチーフの形状は簡略化され、境界線もなく、それぞれ、色が置かれているだけでした。陰影も量感も質感もなく、フラットな状態で描かれていました。
《Glen Nevis, Inverness-shire 》を見ていなければ、具体的なものをイメージすることはできなかったでしょう。それほど、描かれたモチーフにリアリティはなく、抽象的な描き方に終始していました。
では、なぜ、リチャードソン・ジュニアは、このような作品を描いたのでしょうか?
考えられるのは、ラスキンの評です。
ラスキンは《Glen Nevis, Inverness-shire 》(1857年)について、次のように評していました。
「リチャードソンは、徐々に筆遣いが巧みになっており、コバルトとバーントシェンナを快く拮抗させている。しかし彼はいつも、高原の風景を、同じようなモチーフのさまざまな寄せ集めとしか考えていない。それらのモチーフとは、岩だらけの土手であり、ある場所では青く、別の場所では茶色で描かれているものだ。そして、よじれたスコットランドモミの木、シダ、犬、馬に乗っている人などである」
(※ https://www.stephenongpin.com/object/790470/0/a-rocky-stream-in-scotland)
ラスキンは、筆遣いや色遣いについては評価していましたが、モチーフや構図については「同じようなモチーフをさまざまに寄せ集めて」描いているに過ぎないとして、難色を示していたのです。
おそらく、このような指摘が気になって、リチャードソン・ジュニアは、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたのではないかと思うのです。
実際、《A Rocky Stream in Scotland》では、《Glen Nevis, Inverness-shire 》の色構成、色遣いはそのままにし、定番モチーフのいくつかを大幅にカットして描いていました。
また、画面全体をマットな色遣いにし、平板なタッチに変えていました。ラスキンから、筆遣いや色遣いについては向上したと評価されていたからでしょうか、敢えて、それまでのやり方を変えているように見えました。
前回、ご紹介したように、ラスキンは、風景画には自然に対する両義性が必要だと考えていました。そして、次のように述べています。
「形態の真実だけではなく、印象の真実があり、物質の真実だけではなく思想の真実がある。そして、印象と思想の真実は、両方の内で何千倍も重要な真実である。それゆえ、真実は普遍的に適用される用語であるが、模倣は有形の事物だけを認容する狭い芸術分野に限られる」(※、ジョン・ラスキン、内藤史朗訳、『芸術の真実と教育』、2003年、法蔵館、p.29)
こうしてみてくると、リチャードソン・ジュニアがなぜ、《A Rocky Stream in Scotland》を描いたかの理由がわかるような気がします。
おそらく、ラスキンの批評がとても気になっていたのでしょう。
ラスキンは当時、新進気鋭の美術評論家として名声を確立していました。そのラスキンの批評に応えようとして、リチャードソン・ジュニアはこの作品を描いたのでしょう。
当時、リチャードソン・ジュニアは44歳でした。水彩画界では、一通り名の知られた画家になっていました。
その彼が、《A Rocky Stream in Scotland》で、大きな冒険をしていたのです。
印象的なのは、左右両側からの岩だらけの斜面がぶつかる底面に、川が流れている構図です。《Glen Nevis, Inverness-shire 》では、その様子がリアルに描かれていました。その同じ場面を、《A Rocky Stream in Scotland》では、敢えて象徴的に描き、自然の暴力性を表現していました。
ラスキンがいうように、自然を忠実に模倣するのではなく、画家がその自然を観察し、考えを重ねた結果を表現していたのです。荒々しく、寂寥感のある自然の中に、煌めく一抹の清涼感を表現することが出来たのではないかと思います。
画期的な表現でしたが、当時の社会ではなかなか受け入れられなかったのでしょう。リチャードソン・ジュニアの自己変革の姿勢は続きませんでした。
その後、制作された作品は見る限り、いずれもこれまでの画風に戻っていました。
たとえば、1875年に制作された、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》という作品があります。
■ 《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》 (1875年)
この作品では、ラスキンが指摘していた定番モチーフが使われています。
(水彩、ボディーカラー、鉛筆、紙、55.5×86.0㎝、1875年、ニューサウスウェールズ州立美術館)
画面の右手前に、岩だらけの山を切り開いた道を下ってくる人々がいます。岩と似たような色で描かれているので、よく見なければわかりませんが、犬がおり、手前に見えるのは、馬に乗っている男の姿です。
もう少し、近づいてみましょう。
(※ 前掲。部分)
子どもを胸に抱えた男が馬に乗ったまま、身体を傾け、傍らを歩く女性に話しかけています。女性は手に大きな荷物を抱え、男の方に顔を向けています。遠目からは家族に見えます。その手前を犬が歩いており、まるで彼らを先導しているかのようです。
よく見ると、その後にも、馬や人々や荷車のようなものが続いているのがわかります。こちらはさらに色は周囲と同系色で、形状もはっきりとしていません。ほとんど岩山に溶け込んでしまっています。
色彩の面でも、形態の面でも、自然と一体化して生きる人々が捉えられています。モチーフをこのように表現することによって、厳しい自然環境の下、寄り添うように生きる人々の姿が、鮮明に印象づけられます。
この作品もまた、背後に巨大な岩山、手前には、山道の開けた場所が設定されています。陽光が射し込む中に犬や馬、人々が配置されており、生活感あふれる構図です。ストーリーが感じられる組立てになっており、鑑賞者が理解しやすい画面になっていました。
百武兼行がリチャードソン・ジュニアから油彩画の手ほどきを受けはじめたのは、1874年でした。ちょうど、《Eagle Crag and Gate Crag, Borrowdale, Cumberland》が描かれていた頃です。
依然として、定番のモチーフを使い、鑑賞者の情感を誘う画面構成にも変化はありません。荒涼とした自然を取り上げ、その点景として人物を配する構図もこれまで通りでした。
この作品を描いたのが、リチャードソン・ジュニアが62歳の時です。もはや変わりようがなかったのかもしれません。
果たして、百武はリチャードソン・ジュニアから何を学んだのでしょうか。ふと、気になってきました。(2023/10/4 香取淳子)