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02月

アジア創造美術展2017:画材や技法を活かした多様性の魅力

■アジア創造美術展2017
 アジア創造美術展がいま、国立新美術館で開催されています。主催者は亜細亜太平洋水墨画会で、開催期間は2017年1月25日から2月6日までです。2月2日、たまたま用事があって六本木を訪れた際、立ち寄ってみました。

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 私は今回はじめて、この展覧会に参加しました。会場をざっと見渡してみただけで、これまで訪れたことのある展覧会に比べ、独創性の高い作品が多いような気がしました。まず、キャンバスサイズに工夫の跡が見られます。連作あり、段差をつけたキャンバスの組み合わせあり、極小サイズ、極横長サイズ、極縦長サイズあり、といった具合です。いずれもモチーフや作品内容に合わせ、効果的に選択された表現空間です。

 実をいえば、私は昨今の展覧会には少々、食傷気味でした。それこそウドの大木といった印象しかない大きな作品ばかりを目にすることが多かったせいかもしれません。似たような画風が多いのも気になっていました。創意工夫の跡があまり感じられなかったのです。

 おそらく、そのせいでしょう、この展覧会ではことさら、出品者たちのきめ細かな工夫の跡に好ましさを覚えました。見慣れた規格サイズでは得られない繊細な表現空間が創り出されており、新鮮な驚きを感じさせられたのです。

 それでは、この会場で印象に残った作品をいくつか紹介していくことにしましょう。

■油彩画
 会場でもっとも印象的だったのが、矢吹威斗氏の「創の炉火」です。数多い展示作品の中で、思わず目を奪われ、立ち止まってしまいました。ショッキングな絵でした。

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 焼けた鉄棒を両手でしっかりと握りしめた男が、火の塊のように熱くなっていると思われるその先を、自身の首に突きつけている異様な光景です。興味深いことに、その顔は苦痛に歪んでいるわけではありません。目を見開いて何かを凝視していますが、口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいるように見えます。

 首に突きつけられた鉄棒の先の中心部分は黄色く、その周辺は赤黒く、首から遠ざかるにつれ、鉄棒本来の黒褐色に着色されていますから、相当、この鉄棒は相当熱くなっているはずです。

 ですから、見る者は条件反射的に、描かれた顔の表情から苦痛を読み取ろうとしてしまうのですが、男の顔に苦痛の痕跡は見られず、むしろ恍惚感、あるいは、何かを悟ったような満足感とでもいえるような表情が浮かんでいます。見る者の予想を裏切るギャップがあるのです。

 さらに見ていくと、大きなごつい手がしっかりとこの鉄棒を握りしめている部分に関心が移ります。男の両手からは強い意志が感じられます。よほど強靭な意志がなければ、このような自虐的な行為はできないと、この部分を注目して見る者は思います。

 そして、もう一度、離れてこの絵全体を見てから、タイトルを見たとき、ようやく、モチーフを部分的に見たときに感じた矛盾が解消され、納得できるような気がしてくるのです。

 この絵のタイトルは「創の炉火」です。おそらく、創造に伴う「火」を指しているのでしょう。そして、タイトルから推察される観点からこの作品を見てみると、創造過程での苦しみ、そして、創造した暁の喜びが一枚の絵に見事に表現されていることがわかります。

 一枚の絵の中で見る者の気持ちを何段階かに分けて刺激し、最終的に納得させてしまう・・・、まるで見る者の気持ちの推移を意識したかのような構成が巧みだと思いました。

 3枚のキャンバスを段差をつけてつなぎ合わせ、この迫力のある画面が構成されています。右から、顔面と焼けた鉄棒を突きつけられた首、鉄棒を握りしめる右手と左手の一部、そして、左手と鉄棒、といった順で、同じサイズのキャンバスが均等に段差をつけてつなぎ合わされています。

 この3枚のキャンバスをつなぐ共通のモチーフが鉄棒です。熱い鉄棒で横から串刺しにする格好で、手や首、顔といった身体部位が描かれています。ですから、この鉄棒は、表現者が表現行為に至る熱いエネルギーを示唆しているように思えます。

 一方、この絵の背景は暗く、顔、首、鉄棒の一部だけに明るい色が塗られています。ここだけスポットライトを浴びているようにも見えるのですが、このような色遣いに作者の創作態度を垣間見ることができるといえるかもしれません。つまり、どのようなものであれ、ドラマティックなモノ、あるいは行為こそ、表現するに値する、という態度です。

 それは、この絵の構成の面からもいえるかもしれません。クローズアップでモチーフを取り上げ、3枚のキャンバスに分けて描き、段差をつけて展示できるよう、ドラマティックな構成が考えられています。

 この構成を見ていて、ふと、漫画の構成を連想してしまいました。ちなみにこの作品は奨励賞を受賞しています。

■漫画の原画
 この展覧会では上條淳士氏の漫画の原画が展示されていました。第14回目で初めての試みだそうです。

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 小さくてちょっとわかりづらいかもしれませんが、クローズアップを多用し、ドラマティックな箇所を強調して表現するという点で、漫画には絵を超えた表現技法が開発されているのかもしれません。

 私が驚いたのは、「時間」と名付けられた原画です。背景部分の木々や路面の描き方のリアルさに引き込まれ、思わず、立ち尽くして見てしまいました。通常、漫画といえばここまで克明に背景を描かないのではないかと思っていたので、いっそう、その表現力に驚いてしまったのです。

 メインのモチーフよりも背景の方がはるかに面積が大きいということにも、興味をそそられました。なぜ、このような構成にしたのでしょうか。改めて、この原画をよく見てみると、この背景のおかげで、2次元で表現された世界なのに、3次元空間のもつ厚みが感じられるのです。

 さらに、白黒だけで表現された世界なのに、この原画には空気や風、音、木々のざわめきや葉の匂いまで感じられます。もちろん、色を感じ、気温すら感じられます。そして、タイトルにある「時間」も・・・。

 木々の葉を描く白黒のコントラストの強さからいえば、おそらく、早い午後なのでしょう。強い日差しからは初夏に向かう季節のようにも見えます。そこに一人の若い男がうつむき加減で歩いてきます。いったい、何を想っているのでしょうか。

 たった一枚の原画なのに、つい感情移入を誘われてしまいます。それはおそらく、このように背景がきめ細かく描かれているので、主人公の所作から奥行きや深みが感じられるからでしょう。表現世界の微妙さが感じられます。 

■水墨画
 普段、水墨画を見ることがあまりなかったせいか、会場で水墨画の作品を目にしたとき、どういうわけか、懐かしい気持ちになってしまいました。花にしろ、風景にしろ、モチーフの捉え方にとても日本的な感性が感じられたのです。

 そのような中、意外な作品を見つけました。小林東雲氏の「Jeanne d’Arc 」です。

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 モチーフは戦場のジャンヌダルクです。ジャンヌダルクといえば、15世紀、神の啓示を受けてフランス軍に従軍し、めざましい活躍をしてフランスに勝利を導いたにもかかわらず、異端審問にかけられ、19歳で火刑に処された悲劇の女性です。

 そのジャンヌダルクが目を伏せ、死者の前で跪いています。背後には多数の兵士が描かれ、勝利を収めたとはいえ、素直には喜べない気持ちが表されています。そのような情景を浮き彫りにするかのように、右上方から陽光が差し込み、ジャンヌダルクの軍装の白が際立っています。

 剣、鎧、肩当てにはジャンヌダルクの紋章が描かれ、金色で着色されています。白黒で表現された静寂の中で、まるでジャンヌダルクの功績を際立たせるかのように、そこだけ金色が施されています。大勢の兵を従え、剣をついて跪くジャンヌダルク。その悲劇性とフランスを救うために身を投げ出した

 日本の題材ではないのに、しっくりと水墨画の世界に収まっています。ちなみにこの作品は「招待出品」として展示されていました。この作品を見て、水墨画でここまで表現できるのかという思いがしました。

 たまたま同時期、パナソニック汐留ミュージアムで、「マティスとルオー展」が開催されており、ルオーの「ジャンヌダルク」を目にする機会がありました。

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(http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/170114/pdf/leaf.pdfより。図をクリックすると拡大します。)

 小林氏の作品には静謐感と聖性が感じられるのに対し、ルオーの作品にはそのような奥行きが感じられません。それはおそらく、小林氏が戦場の一場面を描きながら、ジャンヌダルクの聖なる側面まで掘り下げようとしているのに対し、ルオーはジャンヌダルクの戦士としての側面を描くのに終始しているからでしょう。

 もちろん、油彩画と水墨画、ジャンヌダルクを取り上げた情景、さらには、モチーフに対する作家の感性、等々が異なっていることも影響しているでしょう。とはいえ、これが同じモチーフを描いた作品だとはとても思えませんでした。あらためて、画材、技法、様式が描かれる内容を規制してしまうのだということを感じさせられました。

■書
 会場ではさまざまな書が展示されていました。これまで私は書を鑑賞することはほとんどなかったのですが、流れに沿って次々と鑑賞していくうちに、書が拓く世界の奥深さを知らされたような気がしてきました。書は見る者に内省を促し、思索を巡らす楽しみを与えてくれることがわかります。

 考えてみれば、私は書を、意味を伝達する記号としての文字としてしか捉えていませんでした。ところが、今回、この展覧会でさまざまな書を見て、書が切り拓く表現世界の豊かさに気づかされたのです。

 会場に入ってすぐ左手に展示されていたのが、濱崎美智子氏の作品でした。

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 なんと書かれているのかよくわかりませんが、巨大で、威風堂々とした筆さばきには圧倒されてしまいます。紙の上に墨汁をほとばしらせた筆の勢いがなんとも力強いのです。白黒で表現されただけの世界に、多様な色彩とほとばしるエネルギーを感じさせられました。

 この種の勢いは書でなければ表現できないのではないでしょうか。見る者に迸る勢いや流れを感じさせる力は、紙と墨汁という画材だからこそ生み出せたのではないかと思いました。

 ちなみに、この作品は外務大臣賞を受賞しています。

■文化の融合と共生
 「アジア創造美術展」では、絵画、書、彫刻、インスタレーション、工芸、写真、漫画の原画など多種多様な作品が展示されていました。画材も多様、描かれる内容もさまざまでした。中国の切り絵、フェルトのような布を使った作品、カザフスタンの馬の絵など、多様なジャンルの作品が展示されており、とても刺激的でした。

 ジャンルが多様なら、制作様式も多様、もちろん、出品者も多様でした。アジアからの伝統を踏まえた作品があれば、海外の子どもたちの素朴な作品もあります。さまざまなテイストの作品が混然一体となって、創造性豊かな展示空間が演出されていました。なんともいえない不思議な居心地の良さが感じられる空間でした。そのような空間の中にしばらく佇んでいると、ことさらに、多様性こそが創造性の源なのだと思えてきます。

 おそらく、そのせいでしょう、会場全体から”創造”のエネルギーが発散されているように思えたのです。いったい、アジア創造美術展とはどういう趣旨で開催されている展覧会なのでしょうか。興味を覚え、帰宅してすぐ、ネットで調べてみました。

 すると、主催者の亜細亜太平洋水墨画会会長の溝口墨道氏が、「日本とアジアの美術家が集い、文化の融合と共生に資することを目的に」、アジア創造美術展を開催すると述べられていることがわかりました。

こちら →http://www.catv296.ne.jp/~creativeart/C6_1.htm#1

 溝口氏は、東アジアに特徴的な水墨画が明治以降の西欧化により、衰退していったと指摘し、「日本とアジアの美術家が集い、文化の融合と共生」を説かれています。

■境界を越え、育まれてきた日本の美
 私たちはいま、生活の中で日本の美を楽しむゆとりを失ってしまったように見えます。 洋風の生活空間の中では、書を楽しみ、茶を味わい、陶磁器を愛でるといった伝統的な日本の生活文化を享受しがたくなっていることは確かです。

 もちろん、その気さえあれば、リビングでもキッチンでも日本的な美を添えることはできます。ところが、それすらもしなくなっているのが現状だとすれば、日本の生活文化を支えてきた美意識そのものが衰退している可能性があります。

 水墨画はこれまで茶道、華道、陶磁器等、日本の生活文化全般に影響を及ぼしてきました。その水墨画が衰退していったことの結果として、現在の生活文化から日本の美が失われつつあるのだとすれば、まずは、水墨画を楽しむ機会を増やしていくことが必要なのかもしれません。

 今回の展覧会で、私は小林氏の水墨画に出会いました。白黒で表現された世界にわずか金色を加えただけで表現の力がぐんと強くなっていました。モチーフや表現方法の面で、水墨画が切り拓ける世界はまだまだ広いという気がしました。境界を越えれば、さらに豊かな表現世界を築くことができるのではないかと思います。

 さまざまな面でグローバル化が行き詰りつつある現在、表現領域でもいずれ、日本美への回帰が求められるようになってくるかもしれません。実際、さまざまな展覧会に行くと、日本画の領域で最近、多様で多彩な表現が目立っています。そのことを思えば、これまで営々と培われてきた日本の生活美意識を土台に、さまざまな表現活動が志向されてもいいのではないでしょうか。(2017/2/28 香取淳子)