■「不思議な動物たち」展
2016年10月30日、ふたたび、いわきを訪問する機会がありました。前回、心に残る作品に出会えたことを思い出し、さっそく、市立美術館に立ち寄ってみました。今回、鑑賞したのは、常設展の小企画「不思議な動物たち」(開催期間は2016年9月27日~12月28日)です。いわき市立美術館では所蔵作品を前期2回、後期2回に分けて展示していますが、私が訪れたとき、この小企画では内外の画家の作品43点が展示されていました。その中でもっとも惹きつけられたのが、Roberto MATTAの作品でした。
大きさといい、存在感といい、会場でひときわ目立っていたのが、この作品だったのです。画面いっぱいに不思議な空間が生み出されており、見た瞬間に引き付けられました。いったい、誰の作品なのでしょうか・・・。気になって、絵の周囲を見ると、横に、「ロベルト・マッタ制作」と作者名が表示されていました。
ロベルト、マッタ・・・? 私がこれまでに聞いたこともなかった画家でした。もちろん、このような画風は見たこともありません。とはいえ、色彩の処理が繊細で、色調に暖かな伸びやかさがあり、とても魅力のある絵です。私は一目でこの作品に心を動かされ、しばらく見入っていました。作品のタイトルは、「ハート・プレイヤー」、1945年に制作された油彩画で、サイズは194.5×252.0㎝、です。
■「ハート・プレイヤー」にみる”ヤマアラシのジレンマ”
会場では写真撮影が禁止されていましたので、残念ながら、ここでこの作品をお見せすることはできません。なんとか紹介できないものかと思い、ネットで探してみたところ、該当作品は見つかりましたが、カラーではありませんでした。
こちら →
(https://jp.pinterest.com/beluconb/roberto-matta/より。クリックすると図が拡大します)
会場で私がこの作品に惹きつけられたのは、画面全体を方向づけていた色調でした。それなのに、カラーの写真を入手できず、残念でなりませんが、逆に言えば、白黒だからこそ、この絵の構造がよく見えるという利点があります。たとえば、どのようなモチーフがどのように配置されているのか、それがどのような効果をもたらしているのか、といったようなことを見ていくには白黒写真はうってつけなのかもしれません。
さて、この絵で気になるモチーフは対角線上に配置された二人の人物です。まず、観客側に顔を向けている方の人物は、白い肌や胸のふくらみから当然、女性かと思ってしまうのですが、身体に目を向けると、必ずしもそうとはいえません。よく見ると、両性具有者のようです。一方、観客側に背中を向けている方は色が浅黒く、そして、頭部の形状を考え合わせると、どうやら男性のようです。
いずれも顔面や頭部は奇妙な物体で構成されており、ヒトというには難があります。とはいえ、これらのモチーフを見ると、誰しもヒトが描かれていると思ってしまうでしょう。というのも、これら二つのモチーフの身体は明らかにヒトの形状をしており、腕と手の表現にはヒトでしかありえない意思の反映が見られるからです。
ヒトと認識するもっとも重要な部分(顔面や頭部)にヒトとしての要素がなかったとしても、それ以外の部分でヒトと印象付ける要素があれば、総じてヒトだと認識してしまう、曖昧な情報でも柔軟に処理できるのが人間の脳が下す判断の的確さで、なかなか機械化できない領域ですが、それが、ここに示されています。
このように曖昧な情報でも総合的に的確な判断を下すのが人間の脳だとすれば、マッタの絵の異様な形状のモチーフはひょっとしたら、そのような反応を確認するための仕掛けだったのかもしれません。そのように思いをめぐらしていくと、さらにこの絵に興味が湧いてきます。
さて、明確なメッセージを放っていると思われるのが、両者の腕と手の表現です。
二人の人物が向かい合って描かれているのですが、まるで相手をこれ以上近づかせまいとしているかのように、両腕を伸ばし、両手をストップの仕草で描いています。とても強い表現ですが、両者の手が接しているわけではありません。よく見ると、二人の間には矩形の棚のようなものが置かれています。それも床から天井まで、この棚が完全に二人を遮断しているのです。まるで直接のコミュニケーションを阻害する装置のようです。
あらためて二人の人物を見ると、白い肌の人物は頭上と両肩、両脇に武具のようなものを装着しており、浅黒い肌の人物は背中や肩にボルトのようなもの、臀部にナイフ、頭部に刀にも見えるものを装着しています。両者とも武具をまとって対峙しているのです。
両者の間を隔てる棚には正方形、長方形、丸味を帯びた三角形の白や黒の図形が浮遊するように描かれています。ですから、これらの図形は一種のシグナルで、両者の間になんらかのコミュニケーションがあり、情報が交わされていることが示唆されています。ところが、そのような交流がありながらも、両者は一定の距離を隔てて対峙しているという構図に、この絵の真髄があるような気がします。
次に、両者の背後を見ると、白い肌の人物の背後には足元から頭上まで電波のような同心円がいくつも描かれており、背後を守るバリアのように見えます。一方、浅黒い肌の人物の背後には曲線がいくつも不規則な形状で描かれています。これもバリアといえなくはありません。
こうしてみてくると、両者は背後をバリアで保護し、向かい合った前面も棚を介在させることで一定の距離を保つよう配置されていますから、水平方向が厳重に保護されていることがわかります。一方、足は床下の穴のようなものに固定されており、頭上は頭部に装着した武具のようなもので守られていますから、垂直方向も守られているといっていいのかもしれません。
そういえば、この作品のタイトルは「ハート・プレイヤー」でした。ですから、画面に描かれた白い肌の人物を浅黒い肌の人物は、気持ち(heart)をやり取りするプレイヤー(player)といったところなのでしょうか。この絵を詳しく見ていくと、両プレイヤーの周囲には厳重なバリアが張り巡らされています。ですから、私はつい、”ヤマアラシのジレンマ”を思い出してしまいました。
”ヤマアラシのジレンマ”とは心理学用語で、距離の観点から見たヒトとヒトの関係の在り方を示すものです。つまり、ヒトとヒトは近づきすぎると往々にして痛い思いをすることになりますが、かといって離れてしまうと、寂しくてたまらない・・・という傾向がみられます。ですから、一般に、ヒトとヒトとの関係は一定の距離を保っておくのがいいというような意味あいで使われています。
さて、この作品は1945年に制作されています。1945年といえば、第2次世界大戦の最末期です。そのような時期に、社会に目を向けるのではなくヒトの内面に目を向け、このような作品を手掛けたRoberto MATTAとはいったい、どのような人物だったのでしょうか。
■Roberto MATTAとは
Wikipediaによると、1911年、マッタはチリのサンティアゴで生まれ、建築を学びました。コルビジェの下で働くため、1933年にパリに旅立ちましたが、そこで、ルネ・マグリットやダリ、アンドレ・ブルトンなどと出会ってその影響を受け、シュールレアリスムの画家としてスタートを切り、活動を続けていたようです。1938年ごろからは戦火を避けてアメリカに移住し、第2次大戦中はアメリカで絵を描いて過ごしました。1948年以後、フランスに定住しましたが、戦局がひどい時期はアメリカに滞在していたのです。
それを知ってようやく、戦時下にありながら、マッタが内面に目を向けた作品を手掛け続けてこられた理由がわかりました。彼自身の意思の強さもあったでしょうが、なによりも、戦争という大きな環境の変化に屈することなく、マッタが自身の興味関心を追求できる環境を選ぶことができたからでした。
私は知らなかったのですが、1995年、マッタは高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したそうです。
こちら →http://www.praemiumimperiale.org/ja/component/k2/matta
このホームページのプロフィールには「人の心の意識下にあるもの、目には見えないものを幻想的、SF的に、ダイナミックに表現する、そのスタイルを自ら「心理学的形態学」あるいは「インスケープ(心象風景)」と名付けている。その画面からは一種混沌としたエネルギーの横溢が伝わってくる」と記されています。マッタが長年にわたって、ヒトの内面世界を追求し、表現活動を積み重ねてきたことが評価されているのです。
■「Space and the Ego」
なんとしても、「ハート・プレイヤー」をカラーでお見せしたいと思い、再度、ネットで探してみました。それでも、見つかりません。そこで、とりあえず、色調の似た作風の作品を探してみました。先述したように、この作品をいわき市立美術館で見たとき、まず、その色彩や色調、画風に引き付けられたからです。
なんとか、似たような色調、画風の作品を見つけることができました。
こちら →
(http://poulwebb.blogspot.jp/2011/07/matta-surrealist.htmlより。クリックすると図が拡大します)
写真のキャプションには「1945×Space and the Ego」と書かれています。モチーフとしては、線画で描いたようなさまざまな姿態の人体を画面のあちこちにレイアウトし、やはり線画で描いた得体の知れない構造物を随所に配しています。人体の頭部に相当する部分にナメクジ、貝、得体のしれないものが組み込まれています。奇妙ですが、どこか気になってしかたがない・・・、だからこそ、立ち止まって見入ってしまうのですが、不思議に爽快感が感じられます。それはおそらく、絵全体の色彩のバランス、統一感のある色調のおかげで、それらのモチーフに奇妙な調和が醸し出されているからでしょう。
いわき市立美術館で見た「ハート・プレイヤー」と比べると、人物の捉え方、描き方が似ています。さらに、随所に黒で記号のような四角形を配し、また、随所に線で描き込みをしている点、そして、なにより、全体の色調に類似性を感じさせられます。
赤、白、黒、水色、黄色、グレーなどがバランスよく配合され、画面で調和的世界を創り出している点も共通していました。そのせいでしょう、個別のモチーフはそれぞれ奇妙奇天烈、理解不能ながら、全体としてそれらが絡み合い、一つに世界を現出しているのです。ヒトの内面を覗いてみれば、ひょっとしたら、このような世界が展開されているのかもしれません。個々のモチーフが個々の体験だとすれば、それらがヒトの内面で相互作用を起こし、別の次元のものになっていく様子が表現されているようにも見えます。
■内面世界に向かう絵画の先駆け?
20世紀初頭、科学の発達に比例するように、ヒトの内面世界に表現者の関心が向き始めました。シュールレアリスムの動きもその一環として始まったのでしょうし、マッタが内面世界にこだわって作品を制作し続けたのも、おそらく、その流れと無縁ではないでしょう。そういえば、フロイトが『リビドー理論』や『自我とエス』というような書物を刊行したのが1923年でした。マッタは1933年にパリに出かけ、コルビジェの事務所で働いたといわれていますから、当然、深層心理に関するフロイトの著作は目にしていたでしょう。
ちなみに、先ほど紹介した作品のタイトルは「Space and the Ego」です。「空間と自我」というタイトルですから、フロイトの影響を受けていることがわかります。そして、この作品は1945年に制作されていますから、「ハート・プレイヤー」と同時期の作品なのです。いずれも、ヒトとしての存在を支える空間と自我に焦点を当てた作品といえます。
こうしてみてくると、産業化の進行がフロイトの精神分析に活躍の場を与えたのと同様、ヒトの内面に焦点を当てて作品を制作してきたマッタの作品世界に、21世紀のいま、多くのヒトが共感を示すのではないかという気がします。
私自身、今回、いわき市立美術館ではじめてマッタの作品に出会ったのですが、とても衝撃を受けました。単純化されたモチーフの扱いからはさまざまなことを考えさせられますし、色彩のバランスや全体を覆う色調からは気持ちがリフレッシュされ、爽快感が感じられます。マッタの作品を見ていると、右脳、左脳がともに刺激され、見るものの気持ちがそのまま、ふっと異次元に誘われていくような躍動感が感じられるのです。
ヒトの内面を観察して外部化し、それを見つめ、さらなる高みに仕上げていくのが、マッタの制作姿勢だとするなら、21世紀のいま、その作品世界はさらに輝きを増すでしょう。人工知能と共存しなければならなくなりつつある現在、マッタの作品は新たな光を浴び、多くのヒトの気持ちを捉え、慰めを与えるようになるのではないかと思いました。今回もまた、いわき市立美術館で素晴らしい出会いがありました。(2016/11/30 香取淳子)