ヒト、メディア、社会を考える

2016年

変容を迫られる国際空港:セキュリティ対策、文化情報の発信

■変容した成田空港
 久しぶりに成田空港に着いてみると、数年前とは様相が異なっていました。空港入場前の検問が廃止され、空港ターミナルの内装も洗練されており、国際空港にふさわしい雰囲気が漂っていました。このところ羽田空港を利用することが多く、成田空港から出国するのは数年ぶりだっただけに、この変化が好ましく思えました。

 さて、今回のソウル行はLCCを利用したので、第3ターミナルからの出発です。こちらのロビーは簡素ながらも、こぎれいな印象です。調べてみると、この第3ターミナルはLCC専用のターミナルで、昨年4月にオープンしたようです。以来、成田空港の総利用者数は増加し続けており、2015年度は前年比5%増となり、開港以来、初めて3700万人を超えたそうです。

こちら →http://www.naa.jp/jp/2016/01/20/docs/20160121-unyou.pdf

 成田空港の総利用者数はその後も増え続け、現在、3800万人を超えているといいます。利用者数が増えれば、それだけ、搭乗手続きや出入国の手続きを簡素化する一方、厳重な安全対策が必至となります。二つの相反する課題への取り組みが迫られるようになるのです。

 さて、出発当日の2016年12月21日、私はつい寝坊してしまい、空港に着くのが予定より1時間も遅れてしまいました。国際線の場合、通常は出発時刻の2時間前に空港に着いていなければならないのに、チェックインカウンターに着いたのが1時間弱前だったのです。それでも、なんの支障もなく搭乗できたのは、パスポートと旅程表だけで搭乗手続きができたからでした。搭乗手続きの簡素化のおかげといえるでしょう。その後の出国審査もスムーズに運び、空港での滞留時間はこれまでになく少なくて済み、快適でした。

■インチョン空港での指紋、虹彩記録
 ソウルのインチョン空港に着いて驚いたのが、セキュリティチェックの厳重さでした。入国審査の際、パスポートチェックだけではなく、両手の人差し指の指紋記録が取られ、両眼の虹彩記録が取られたのです。指紋については今後、指紋認証が導入されることは聞いていたので納得しましたが、虹彩記録まで取られ、ちょっと不愉快な気分になってしまいました。とはいえ、各国でテロが続発している現状では、安全対策上、仕方のないことなのでしょう。

 調べてみると、顔認証による搭乗手続きについてはすでに2004年、日本とインチョン空港との間で実証実験が行われていました。成田国際空港の村田憲治氏は、「一連の実証実験の結果、ICパスポートを活用して、出入国審査にまで検証範囲を広げることになった」といいます(「SPT : Simplifying Passenger Travel バイオメトリック認証を用いた新しい航空手続き」、“IPS Magazine”, Vol.47, No.6, June 2006, pp.583-588)。ですから、その後、さらに検討を重ねたうえで、現在のセキュリティ対策に至ったのでしょう。

 グローバル化に伴い、確実な本人認証ができる手法として、生体認証が注目を集めてきました。生体認証であれば、紛失や盗難の恐れもなく、本人だけが持つ特徴によって認証できます。生体認証とは、指紋の模様、虹彩の模様、手のひらや指の静脈の模様、目鼻の位置などの特徴点、声紋などによる本人確認です。

こちら →title_03
(http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000647より)

 生体認証には一般的には指紋が使われるとイメージされますが、これは精度がそれほどよくないそうです。精度が高いとされているのが、虹彩であり、手のひらや指の静脈だといわれています。ところが、手のひらや指の静脈の場合、読み取りセンサー場複雑で装置が大きくなるというデメリットがあるといわれています。また、虹彩の場合も読み取り装置が大きく、システムが比較的高額だといわれていますが、今回、インチョン空港では指紋と虹彩の両方が使われました。コストよりも安全を重視した結果なのでしょう。

 インチョン空港では入国審査が厳重で、ちょっと不快感を覚えましたが、その反面、出国手続きは簡便でした。通常はパスポートに押されるスタンプもありませんでした。念のため、担当者に尋ねてみましたが、出国スタンプは要らないということでした。スタンプの省略によって、出国手続きに要する経費の節減にもなっています。

■インチョン国際空港
 インチョン空港はこれまで乗り継ぎでよく利用してきましたが、今回、訪れてみて、利用者が快適に時間を過ごせるよう、さまざまな工夫がされているように思いました。たとえば、クリスマスシーズンだったせいか、到着ロビーには下のような装置が設えられていました。

こちら →p1030064
(図をクリックすると、拡大します)

 また、出発ロビーに向かう階上からは、コンサートの準備風景が見えました。

こちら →p1030081-640x480
(図をクリックすると、拡大します)

 出発ロビーに上がると、演奏するオーケストラの音色が上まで響いてきました。まるでコンサート会場にいるかのようでした。

■文化情報発信基地としての国際空港
 これまで何度かインチョン空港を利用していたのに気づかなかったのですが、空港内の搭乗棟の4階に韓国文化博物館がありました。利用者が飛行機の出発時刻まで過ごすための文化的な計らいでした。

こちら →img_3719
(図をクリックすると、拡大します)

 落ち着いた趣向の博物館で、もちろん、無料で入館できます。展示内容としては、伝統美術、宮中文化、印刷文化、伝統音楽の4部門です。伝統美術としては、高麗銅鐘や釈迦塔、甘露図、印刷文化としてはハングル、宮中文化としては宮中の衣服や宋廟の映像などを見ることができ、伝統音楽としては、「センファン」の音が3DCGとアニメーション技法によって聞くことができます。

 もっとも印象深かったのが、「甘露図」です。添えられている説明を読むと、これは甘露を施し、餓鬼の世界で苦しむ衆生を救済するために、食べ物を供養する儀式の手順を描いた絵だそうです。この絵以外にも韓国では、この種の絵がたくさん描かれているのでしょう、展示されているのは韓国国内で現存する作品の中でもっとも古い絵だと書かれています。

こちら →img_3721
(図をクリックすると、拡大します)

 「甘露」の意味がよくわからなかったので、帰国してWikipediaを見ると、甘露とは、中国古来の伝説で、天子が仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露のことだと説明されています。このことから、韓国もまた中国文化の影響を受けてきたことがわかります。いつの世も弱者、貧者、困窮者をどのように救済し、穏やかな治世を実現させていくかが為政者の力量であることに変わりはありません。
 
 この絵をよく見ると、権力の座に就けば、自ずと身を正すのが為政者の在り方だと説いているように思えます。さらに仔細にこの絵を見ていくうちに、ソウルの光化門広場で見てきたばかりのデモ隊のテント群、縄で縛られた朴大統領の人形、「退陣!」と赤文字で書かれた立て札などを思い出してしまいました。教訓は活かされないからこそ、長く伝えられていく必要があるのかもしれません。

■国際空港の役割
 インチョン空港を見ていると、国際空港はまさにその国の玄関であり、訪問者を出迎え、そして、見送る場であるということを思い知らされました。グローバル化の時代、多種多様な人々が国境を越えて、入国し、出国していきます。ですから、たとえ、わずかな時間だとしても、海外からの来訪者に自国の文化を端的に知らせる恰好の場なのです。搭乗棟設えられた韓国文化博物館は簡素ながら、見事にその役割を果たしていました。20分もあれば、すべての展示品を観覧することができるのです。

 成田空港に着くと、空港内に和風の音楽を現代風にアレンジした曲が流れています。さり気なく日本文化が発信されているのです。快適だったインチョン空港と比べ、いよいよ国際空港競争の時代に入ったという印象を受けました。ブランド品、免税品のショップはどこの空港でも同じで、もはや目新しくはありません。その国の文化をどのように効果的に空港内に取り込み、簡素ながらも印象深く、海外からの訪問者にアピールしていくか、それが差別化のキーになるのだという気がしてきました。

 ちなみに、Newsweek 2016年10月11日号で「空の旅を変えるスマート空港」という特集が組まれていました。それを読むと、「ショッピングが楽しめる世界の空港ランキング」でインチョン空港は第2位、成田は10位でした。1位はロンドンのヒースロー空港です。インチョンと成田を比べると、ショップ自体はそれほど大きな違いはないと思ったのですが、利用者に対するきめ細かなサービスに違いがあったのかもしれません。いずれにせよ、すでに飛行機での大量移動の時代に入ったということが実感させられました(2016/12/25 香取淳子)

いわき市立美術館で見た、Roberto MATTAの作品

■「不思議な動物たち」展
 2016年10月30日、ふたたび、いわきを訪問する機会がありました。前回、心に残る作品に出会えたことを思い出し、さっそく、市立美術館に立ち寄ってみました。今回、鑑賞したのは、常設展の小企画「不思議な動物たち」(開催期間は2016年9月27日~12月28日)です。いわき市立美術館では所蔵作品を前期2回、後期2回に分けて展示していますが、私が訪れたとき、この小企画では内外の画家の作品43点が展示されていました。その中でもっとも惹きつけられたのが、Roberto MATTAの作品でした。

 大きさといい、存在感といい、会場でひときわ目立っていたのが、この作品だったのです。画面いっぱいに不思議な空間が生み出されており、見た瞬間に引き付けられました。いったい、誰の作品なのでしょうか・・・。気になって、絵の周囲を見ると、横に、「ロベルト・マッタ制作」と作者名が表示されていました。

 ロベルト、マッタ・・・? 私がこれまでに聞いたこともなかった画家でした。もちろん、このような画風は見たこともありません。とはいえ、色彩の処理が繊細で、色調に暖かな伸びやかさがあり、とても魅力のある絵です。私は一目でこの作品に心を動かされ、しばらく見入っていました。作品のタイトルは、「ハート・プレイヤー」、1945年に制作された油彩画で、サイズは194.5×252.0㎝、です。

■「ハート・プレイヤー」にみる”ヤマアラシのジレンマ”
 会場では写真撮影が禁止されていましたので、残念ながら、ここでこの作品をお見せすることはできません。なんとか紹介できないものかと思い、ネットで探してみたところ、該当作品は見つかりましたが、カラーではありませんでした。

こちら →%e3%83%8f%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%bb%e3%83%97%e3%83%ac%e3%82%a4%e3%83%a4%e3%83%bc
(https://jp.pinterest.com/beluconb/roberto-matta/より。クリックすると図が拡大します)
 
 会場で私がこの作品に惹きつけられたのは、画面全体を方向づけていた色調でした。それなのに、カラーの写真を入手できず、残念でなりませんが、逆に言えば、白黒だからこそ、この絵の構造がよく見えるという利点があります。たとえば、どのようなモチーフがどのように配置されているのか、それがどのような効果をもたらしているのか、といったようなことを見ていくには白黒写真はうってつけなのかもしれません。

 さて、この絵で気になるモチーフは対角線上に配置された二人の人物です。まず、観客側に顔を向けている方の人物は、白い肌や胸のふくらみから当然、女性かと思ってしまうのですが、身体に目を向けると、必ずしもそうとはいえません。よく見ると、両性具有者のようです。一方、観客側に背中を向けている方は色が浅黒く、そして、頭部の形状を考え合わせると、どうやら男性のようです。

 いずれも顔面や頭部は奇妙な物体で構成されており、ヒトというには難があります。とはいえ、これらのモチーフを見ると、誰しもヒトが描かれていると思ってしまうでしょう。というのも、これら二つのモチーフの身体は明らかにヒトの形状をしており、腕と手の表現にはヒトでしかありえない意思の反映が見られるからです。

 ヒトと認識するもっとも重要な部分(顔面や頭部)にヒトとしての要素がなかったとしても、それ以外の部分でヒトと印象付ける要素があれば、総じてヒトだと認識してしまう、曖昧な情報でも柔軟に処理できるのが人間の脳が下す判断の的確さで、なかなか機械化できない領域ですが、それが、ここに示されています。

 このように曖昧な情報でも総合的に的確な判断を下すのが人間の脳だとすれば、マッタの絵の異様な形状のモチーフはひょっとしたら、そのような反応を確認するための仕掛けだったのかもしれません。そのように思いをめぐらしていくと、さらにこの絵に興味が湧いてきます。

 さて、明確なメッセージを放っていると思われるのが、両者の腕と手の表現です。

 二人の人物が向かい合って描かれているのですが、まるで相手をこれ以上近づかせまいとしているかのように、両腕を伸ばし、両手をストップの仕草で描いています。とても強い表現ですが、両者の手が接しているわけではありません。よく見ると、二人の間には矩形の棚のようなものが置かれています。それも床から天井まで、この棚が完全に二人を遮断しているのです。まるで直接のコミュニケーションを阻害する装置のようです。

 あらためて二人の人物を見ると、白い肌の人物は頭上と両肩、両脇に武具のようなものを装着しており、浅黒い肌の人物は背中や肩にボルトのようなもの、臀部にナイフ、頭部に刀にも見えるものを装着しています。両者とも武具をまとって対峙しているのです。

 両者の間を隔てる棚には正方形、長方形、丸味を帯びた三角形の白や黒の図形が浮遊するように描かれています。ですから、これらの図形は一種のシグナルで、両者の間になんらかのコミュニケーションがあり、情報が交わされていることが示唆されています。ところが、そのような交流がありながらも、両者は一定の距離を隔てて対峙しているという構図に、この絵の真髄があるような気がします。

 次に、両者の背後を見ると、白い肌の人物の背後には足元から頭上まで電波のような同心円がいくつも描かれており、背後を守るバリアのように見えます。一方、浅黒い肌の人物の背後には曲線がいくつも不規則な形状で描かれています。これもバリアといえなくはありません。

 こうしてみてくると、両者は背後をバリアで保護し、向かい合った前面も棚を介在させることで一定の距離を保つよう配置されていますから、水平方向が厳重に保護されていることがわかります。一方、足は床下の穴のようなものに固定されており、頭上は頭部に装着した武具のようなもので守られていますから、垂直方向も守られているといっていいのかもしれません。

 そういえば、この作品のタイトルは「ハート・プレイヤー」でした。ですから、画面に描かれた白い肌の人物を浅黒い肌の人物は、気持ち(heart)をやり取りするプレイヤー(player)といったところなのでしょうか。この絵を詳しく見ていくと、両プレイヤーの周囲には厳重なバリアが張り巡らされています。ですから、私はつい、”ヤマアラシのジレンマ”を思い出してしまいました。

 ”ヤマアラシのジレンマ”とは心理学用語で、距離の観点から見たヒトとヒトの関係の在り方を示すものです。つまり、ヒトとヒトは近づきすぎると往々にして痛い思いをすることになりますが、かといって離れてしまうと、寂しくてたまらない・・・という傾向がみられます。ですから、一般に、ヒトとヒトとの関係は一定の距離を保っておくのがいいというような意味あいで使われています。

 さて、この作品は1945年に制作されています。1945年といえば、第2次世界大戦の最末期です。そのような時期に、社会に目を向けるのではなくヒトの内面に目を向け、このような作品を手掛けたRoberto MATTAとはいったい、どのような人物だったのでしょうか。

■Roberto MATTAとは
 Wikipediaによると、1911年、マッタはチリのサンティアゴで生まれ、建築を学びました。コルビジェの下で働くため、1933年にパリに旅立ちましたが、そこで、ルネ・マグリットやダリ、アンドレ・ブルトンなどと出会ってその影響を受け、シュールレアリスムの画家としてスタートを切り、活動を続けていたようです。1938年ごろからは戦火を避けてアメリカに移住し、第2次大戦中はアメリカで絵を描いて過ごしました。1948年以後、フランスに定住しましたが、戦局がひどい時期はアメリカに滞在していたのです。

 それを知ってようやく、戦時下にありながら、マッタが内面に目を向けた作品を手掛け続けてこられた理由がわかりました。彼自身の意思の強さもあったでしょうが、なによりも、戦争という大きな環境の変化に屈することなく、マッタが自身の興味関心を追求できる環境を選ぶことができたからでした。

 私は知らなかったのですが、1995年、マッタは高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したそうです。

こちら →http://www.praemiumimperiale.org/ja/component/k2/matta

 このホームページのプロフィールには「人の心の意識下にあるもの、目には見えないものを幻想的、SF的に、ダイナミックに表現する、そのスタイルを自ら「心理学的形態学」あるいは「インスケープ(心象風景)」と名付けている。その画面からは一種混沌としたエネルギーの横溢が伝わってくる」と記されています。マッタが長年にわたって、ヒトの内面世界を追求し、表現活動を積み重ねてきたことが評価されているのです。

■「Space and the Ego」
 なんとしても、「ハート・プレイヤー」をカラーでお見せしたいと思い、再度、ネットで探してみました。それでも、見つかりません。そこで、とりあえず、色調の似た作風の作品を探してみました。先述したように、この作品をいわき市立美術館で見たとき、まず、その色彩や色調、画風に引き付けられたからです。

 なんとか、似たような色調、画風の作品を見つけることができました。

こちら →1945-x-space-and-the-ego
(http://poulwebb.blogspot.jp/2011/07/matta-surrealist.htmlより。クリックすると図が拡大します)

 写真のキャプションには「1945×Space and the Ego」と書かれています。モチーフとしては、線画で描いたようなさまざまな姿態の人体を画面のあちこちにレイアウトし、やはり線画で描いた得体の知れない構造物を随所に配しています。人体の頭部に相当する部分にナメクジ、貝、得体のしれないものが組み込まれています。奇妙ですが、どこか気になってしかたがない・・・、だからこそ、立ち止まって見入ってしまうのですが、不思議に爽快感が感じられます。それはおそらく、絵全体の色彩のバランス、統一感のある色調のおかげで、それらのモチーフに奇妙な調和が醸し出されているからでしょう。

 いわき市立美術館で見た「ハート・プレイヤー」と比べると、人物の捉え方、描き方が似ています。さらに、随所に黒で記号のような四角形を配し、また、随所に線で描き込みをしている点、そして、なにより、全体の色調に類似性を感じさせられます。

 赤、白、黒、水色、黄色、グレーなどがバランスよく配合され、画面で調和的世界を創り出している点も共通していました。そのせいでしょう、個別のモチーフはそれぞれ奇妙奇天烈、理解不能ながら、全体としてそれらが絡み合い、一つに世界を現出しているのです。ヒトの内面を覗いてみれば、ひょっとしたら、このような世界が展開されているのかもしれません。個々のモチーフが個々の体験だとすれば、それらがヒトの内面で相互作用を起こし、別の次元のものになっていく様子が表現されているようにも見えます。

■内面世界に向かう絵画の先駆け?
 20世紀初頭、科学の発達に比例するように、ヒトの内面世界に表現者の関心が向き始めました。シュールレアリスムの動きもその一環として始まったのでしょうし、マッタが内面世界にこだわって作品を制作し続けたのも、おそらく、その流れと無縁ではないでしょう。そういえば、フロイトが『リビドー理論』や『自我とエス』というような書物を刊行したのが1923年でした。マッタは1933年にパリに出かけ、コルビジェの事務所で働いたといわれていますから、当然、深層心理に関するフロイトの著作は目にしていたでしょう。

 ちなみに、先ほど紹介した作品のタイトルは「Space and the Ego」です。「空間と自我」というタイトルですから、フロイトの影響を受けていることがわかります。そして、この作品は1945年に制作されていますから、「ハート・プレイヤー」と同時期の作品なのです。いずれも、ヒトとしての存在を支える空間と自我に焦点を当てた作品といえます。

 こうしてみてくると、産業化の進行がフロイトの精神分析に活躍の場を与えたのと同様、ヒトの内面に焦点を当てて作品を制作してきたマッタの作品世界に、21世紀のいま、多くのヒトが共感を示すのではないかという気がします。

 私自身、今回、いわき市立美術館ではじめてマッタの作品に出会ったのですが、とても衝撃を受けました。単純化されたモチーフの扱いからはさまざまなことを考えさせられますし、色彩のバランスや全体を覆う色調からは気持ちがリフレッシュされ、爽快感が感じられます。マッタの作品を見ていると、右脳、左脳がともに刺激され、見るものの気持ちがそのまま、ふっと異次元に誘われていくような躍動感が感じられるのです。

 ヒトの内面を観察して外部化し、それを見つめ、さらなる高みに仕上げていくのが、マッタの制作姿勢だとするなら、21世紀のいま、その作品世界はさらに輝きを増すでしょう。人工知能と共存しなければならなくなりつつある現在、マッタの作品は新たな光を浴び、多くのヒトの気持ちを捉え、慰めを与えるようになるのではないかと思いました。今回もまた、いわき市立美術館で素晴らしい出会いがありました。(2016/11/30 香取淳子)

Rakuten FinTech conference 2016:ICTは超高齢社会の救世主になりうるか?

■Fin Tech conference 2016
 2016年9月28日、「楽天Fin Tech conference 2016」がホテルニューオータニ東京で、開催されました。最近、AI、ディープラーニング、ロボテック、ビッグデータなどという言葉をよく聞きます。これらのICT主導によって社会インフラの高度化が急速に進み、どうやら今、第4次産業革命とまでいわれているようです。はたして、今後、どのような社会、経済状況になっていくのでしょうか。私は興味津々、このカンファレンスに参加することにしました。

こちら →http://corp.rakuten.co.jp/event/rfc2016/

 当日、ちょっと寝坊してしまったので、プログラム最初のセッションには間に合いませんでした。仕方なく、基調講演はネット中継で見ましたが、全体を俯瞰する内容でわかりやすく、高度なICTを社会インフラに取り込む必要があることを、なんとなく理解できたような気がしました。そこで、今回はこの基調講演を中心にご紹介していくことにしましょう。

 ただ、私は経済にあまり詳しくありません。ひょっとしたら、話の流れがとても論理的だったので、理屈の上でわかったような気になっているだけかもしれません。ですから、ご紹介する際、わからないところは随時、調べながら、進めていくことにします。

 基調講演をされたのは、コロンビア大学教授・政策研究大学院特別教授の伊藤隆敏氏で、講演のタイトルは「Fin Techが切り開く日本経済」です。

■Fin Techが切り開く日本経済
 伊藤氏は冒頭、日本経済が抱える大きな課題として、①労働年齢人口の減少、②労働生産性の低さ、この2点を挙げられました。超高齢社会を迎えた日本で労働人口が減少し、経済が失速していくだろうということは、これまでいろんなところで見聞きしていましたので、課題として伊藤氏がご指摘されたことに納得しました。

 ところが、労働生産性が低いというご指摘に私はやや違和感をおぼえました。これだけ経済力のある日本が農業以外の領域で、労働生産性が低いとは思ってもみなかったのです。そこで、調べてみると、たしかに日本の労働生産性は低く、OECD加盟34カ国のうち21位で、先進諸国の中では最も低いという結果でした。

こちら →0c7efbc4
(http://www.jpc-net.jp/annual_trend/images/intl_comparison_graph.gifより。図をクリックすると拡大します)

 でも、この図をよく見ると、経済破綻しているはずのギリシャが日本よりも上位にあります。いったい、どういうことなのか、腑に落ちません。これが事実だとすると、労働生産性と経済破綻とはなんら関係なさそうに思えます。そこで、労働生産性とは何かを調べてみました。

 労働生産性とは、投入した労働量に対してどのぐらいの生産量が得られたかを表す指標で、GDP(国内総生産)÷就業者数(または就業者数×労働時間)という数式ではじきだされることがわかりました。労働生産性は二つの変数で機械的に処理し、算出しますから、ギリシャのように、GDPが低くても就業者数が少なければ、労働生産性の値は高くなります。その結果、ギリシャが日本よりも上位ランクになってしまったのでしょう。

 とはいえ、日本の労働生産性が低いことに変わりはありません。少子高齢化に伴い、今後さらに労働人口が減っていくことを思えば、GDPが大きく減少することは避けられないことがわかります。このような状況を踏まえ、伊藤氏は、労働生産性の低いことを日本経済の課題とし、なによりもまず生産性を高めることの必要性を説かれたのでしょう。先ほどの数式に照らし合わせれば、労働生産性を上げれば、ヒトの労働力(あるいは労働時間)の減少を補うことができます。つまり、マクロ経済的には労働人口の減少という日本社会の抱えた弱点を補うことができるのです。

■FinTechの活用
 伊藤氏は日本経済の課題を二つ挙げたうえで、FinTechの活用によって、これらの課題を解決できると指摘されました。このFinTechという語も最近、よく使われる言葉です。なんとなくわかりますが、Wikipediaで確認してみました。Fin Techとは金融(Finance)と技術(Technology)を合成させた造語で、金融におけるICT(Information Communication Technology)の活用を意味するようです。

 さて、伊藤氏はこのFin Techの活用によって、日本の金融業に見られる生産性の低さは解消されると指摘されました。ところが、私にはFin Techが具体的にどのようなサービスを指すのかよくわかりませんでした。ただ、プログラムを見ると、「ロボアドバイザリー」「ブロックチェーン」「ビットコイン」など聞きなれない言葉が並んでいます。おそらく、これらがFin Techを活用したサービス例なのでしょう。

 私は午前のセッションをネット中継で視聴し、会場にはお昼ごろ出向き、13:00-13:30に開催されたセッション「データレンディングー資金調達に革命が起きる?」に参加しました。タイトルの「(ビッグ)データレンディング」もまたFin Techを活用したサービスの一つのようです。

■データレンディング
 このセッションの登壇者は海外から4人、日本から1人という構成で、スピーチはすべて英語でした。もちろん、希望すれば、同時通訳のレシーバを借りることができます。これもまた近未来の様相を示すものといえるでしょう。それなりに興味深く思いましたが、このセッションで印象的だったのは、ビッグデータを活用すれば、きめ細かな利用者サービスができるということでした。

 ICTが高度化すると、利用者の日常の利用行動がデータとして積み上げられ、それがビッグデータに基づいて分析されるようになります。たとえば、クレジット会社がカードを発行する際、ビッグデータに基づき、会社独自の基準で与信審査をすれば、これまでなら審査に通らなかったようなヒトにも、カード発行ができるようになります。その仕組みを図示したものが下図です。

こちら →transaction-lending-7
(https://ginkou.jp/business/transaction-lending/より。図をクリックすると拡大します)

 ここには、さまざまなFinTechサービスが活用されていることがわかります。
ビッグデータを参照すれば、利用者利用歴に応じたきめ細かな審査が可能になります。変数にウェイトをつけることによって、勤勉ではあっても収入が低いヒトにも安全を担保しながら、迅速にサービスを提供することができるようになるのです。これが金融機関にとっての与信審査の代替になるとすれば、まさに利用者の側に立って開発されたサービスといえるでしょう。しかも、金融機関にとって、コスト削減と利用者拡大を期待できるメリットもあります。これも、金融の生産性を上げるFinTechサービスの一例です。

■ネットバンキング
 さて、伊藤氏がスピーチの中で取り上げられたFinTechサービスの例はこれよりもはるかにわかりやすく、馴染みのあるものでした。たとえば、アメリカではほとんどがネットバンキングになっており、銀行の支店はなくATMになっているそうですし、途上国でもスマホでバンキングするのが普通で、日本のような支店ネットワークは作らないといいます。いずれもICT主導のバンキングシステムが機能しており、その点で金融の生産性は高いと指摘されました。

 たしかに、海外に行くと、ATMはどこでも見ますが、支店を見ることはほとんどありません。駅やデパート、スーパーなどヒトが集まる場所には必ずいくつものATMがあって、利用者にとってはとても便利です。今後、オリンピックに向けて海外からの観光客がさらに増えるとすれば、海外の諸都市にならって、ヒトの集まる場所には複数のATMを設置するようにするといいかもしれません。これは、利用者にとっても金融機関にとってもメリットのあるFinTechサービスで、金融の労働生産性を高めるものの一つといえるでしょう。

 さて、上記以外にもFinTechをベースにさまざまなサービスが考えられます。これまでとは違い、FinTechを活用すれば、利用者側に立ったきめ細かなサービスが可能になりますから、認知されれば、普及も早いでしょう。NTTデータ経営研究所は下記のようにFinTechが提供するサービス例を挙げています。

こちら →fig01
(https://www.keieiken.co.jp/pub/articles/2016/kinjor04/index.htmlより。図をクリックすると拡大します)

 これは2015年のデータですが、今後、利用者のニーズに応じてさまざまなサービスが開発されていくことでしょう。そこに新たなビジネスチャンスが生まれるでしょうし、さまざまなアイデアの中からはやがて、超高齢社会の課題解決につながるようなサービスも生み出されるかもしれません。今後が期待されます。

■拡大が予測されるFinTech市場
 さまざまなFinTechサービスの例を見てきました。もちろん、それらが日常のものになるには相当時間がかかるでしょう。容易に普及するわけではないこともわかります。Fin Techサービスを取り入れ、最大限の効果をあげていくには、金融機関の意識改革はもちろんのこと、利用者の意識改革、さらには、政府の意識改革が必要になるでしょう。

 そこで、試みに、関連省庁である金融庁のHPを見てみました。すると、2015年12月14日にようやく、FinTechに対する取り組み指針が出されたようです。

こちら →http://www.fsa.go.jp/news/27/sonota/20151214-2/01.pdf

 このような状況をみると、伊藤氏が日本の金融業の労働生産性は低く、FinTechの取り組みも立ち遅れていると指摘された理由がよくわかります。ちなみに、矢野経済研究所は2015年7月から2016年1月にかけて「国内FinTech市場に関する調査」を実施し、2016年3月10日に調査結果を報告しています。民間の研究所はしっかりとFinTech市場に目配りした動きを見せているのです。

 たとえば、FinTechの市場規模については下図のように、見込み値と予測値の推移をグラフ化しています。

こちら →7813_01
(http://www.yano.co.jp/press/pdf/1505.pdfより。クリックすると図が拡大します)

 興味深いことに、上のグラフを見ると、右肩上がりで市場規模が急速に拡大していくことが示されています。最近、滅多に見ることのないほどの大幅な伸びが予測されているのです。これを見ると、FinTech市場が期待できる成長分野だということがわかります。

 まず、2015年の国内FinTechの市場規模を見ると、33億9400万円と見込まれています。矢野経済研究所はこれについて、クラウド型会計ソフトとソーシャルレンディングが市場をけん引したからだと分析しています。そして今後、2020年の東京オリンピック開催に向けて不動産市場が活性化すれば、ソーシャルレンディングにはさらに伸びることが期待できると予測しています。

 このようなFinTech市場の発展の背後には、領域を超えたベンチャー企業同士の連携、ベンチャー企業への投資の拡大、行政施策の整備などが介在していることが示唆されています。つまり、社会的ニーズの高い事業の場合、ある程度普及すれば、その後は行政支援等も含めた好循環の環境が生み出され、飛躍的に広がっていきます。おそらくFinTech市場もそのような展開になると予測されたのでしょう。その結果、2020年には567億8700万円規模に拡大すると試算されています。場合によってはさらなる発展の可能性も考えられます。

■FinTechは超高齢社会の救世主になりうるか?
 伊藤氏はスピーチの終りに近づくと、確認するかのように、日本経済の長所として、「高度な技術力」と「質の高いインフラ」を挙げる一方、短所として、「人口減少」による労働力人口の減少と国内市場の縮小、投資意欲の減退、「金融業の生産性の停滞」による稼ぐ力の脆さ、「財政破綻リスク」だと要約しました。

 このような伊藤氏のスピーチを聞いていると、日本の取るべき道は、FinTechを迅速に取り込むしかないという気がしてきます。たしかに、そうすれば、労働生産性は上がりますから、超高齢社会でもGDPの減少を阻むことができるでしょう。さらに、FinTechを適切に活用すれば、金融、税制面での透明化が進み、より合理的で公正な金融取引、税の徴収が可能になるかもしれません。そうなれば、危惧される日本の財政破綻リスクも回避できるでしょう。

 一方、伊藤氏は、世界経済も日本と同様、低成長、低金利が続くことによって、資産の運用難を引き起こし、停滞しているとしたうえで、今後、さまざまなイノベーションを生み出し、安全に稼ぐ力につなげていく必要があると指摘しました。

 たしかに、OECD最新号のEconomic Outlookに掲載されたグラフを見ると、世界の中でもっとも深刻なのは日本です。日本の成長率は2016年が0.7%、2017年が0.4%、OECD加盟34か国全体は、2016年が1.8%、2017年が2.1%ですから、世界全体も低成長ですが、
日本がいかに低成長にあえいでいるかがわかります。

こちら →eo-chart-2016
(http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/global-economyより。図をクリックすると拡大します)

 このような現状を踏まえ、OECDのチーフエコノミスト、キャサリン・マン氏は「生産性と潜在的成長率を高めるために行動を起こさなければ、若い世代と高齢者双方の暮らしが悪くなる。世界経済がこの低成長の罠に陥った状態が長くなればなるほど、各国政府が基本的な公約を達成することは難しくなる。何の政策も講じなければ、すでに経済危機で不利益を被った現在の若者のキャリア見通しは悪化し、将来年金受給者となったときの所得がさらに低くなる」と述べています。
(http://www.oecd.org/tokyo/newsroom/global-economyより)

 日本をはじめ低迷する経済にあえぐ国はやがて、FinTechを導入して既存事業の生産性をあげる一方、イノベーションによって新たな事業を開拓する必要に迫られるでしょう。

 幸い、日本には長所として挙げられた高い技術力とインフラがあります。しかも、短所として挙げられた課題は、FinTech移行への動機づけとして活用することができます。つまり、労働人口が減少し、生産性が低いからこそ、FinTechの活用で生産性を高めて労働力不足を補う必要があるという意識を涵養する契機にできるのです。逆説的ですが、超高齢社会という弱点をこのようにして、プラスに転化できる可能性もあります。

 究極の選択の結果、日本がFinTech活用を極め、そのノウハウを蓄積することができれば、ひょっとしたら、高齢化に伴う社会経済的課題は難なく解決できるようになっているかもしれません。とすれば、今度は日本が、そのノウハウを持って、低迷する世界経済を牽引できるようになることも期待できます。

 興味半分でこのカンファレンスに参加してみたのですが、ICTに基づくさまざまなイノベーションの可能性が感じられました。そのせいか、ホテルニューオータニを出るころには少し、気持ちが軽やかになっていました。(2016/10/10 香取淳子)

クールジャパン:それぞれの戦略

■クールジャパン・出版ビジネス・パートナーズフォーラムの開催
 2016年9月23日、ビッグサイト会議棟703会議室で、第23回東京国際ブックフェアの一環として、クールジャパン・出版ビジネス・パートナーズフォーラムが開催されました。登壇者は、司会が慶應義塾大学教授・中村伊知哉氏、報告者が講談社ライツ・メディアビジネス局長・吉羽治氏、手塚プロダクション著作権事業局局長・清水義裕氏、アニメイト海外事業部部長代理・外川明宏氏、KADOKAWA常務執行役員・塚本進氏の4名でした。

 フォーラム開催に際し、クールジャパン政策を担当されている知的戦略推進事務局次長・増田義一氏が挨拶されました。増田氏は、政策を推進する際のキーワードは「連携」だといわれます。産官学の連携、業種間の連携、業態の垣根を超えた連携こそがクールジャパン政策を推進し、実りある展開が期待できるというわけです。

 このような考えの下、2015年12月に産官学連携のプラットフォームとして、一般社団法人Cip協議会が設立されました。国家戦略特区に指定された東京都港区の竹芝地区に、政府と東京都が連携してデジタル・コンテンツの集積拠点を作っていくという構想です。

こちら →http://takeshiba.org/cip-conference/

■デジタル・コンテンツ特区CiP
 海に面した竹芝地区に、国内外のデジタル・コンテンツのハブとなる建物が建設されます。東京オリンピックが開催される2020年には、業務棟(地上39階、地下2階、高さ210m)と住宅棟(地上21階、高さ100m)が完成する予定なのだそうです。このデジタル・コンテンツ特区はビジョン10か条に基づいて構想されており、これらのビジョンが実現すれば、とても魅力的なコンテンツ集積拠点になりそうです。

 ビジョン10か条は以下のように、イラストを使って端的に、シンボリックに表現されています。

こちら →cipvisonban-1
(http://takeshiba.org/より。図をクリックすると拡大します)

 たとえば、上記イラストの上段左端を見てみましょう。このイラストには、パソコンやIT企業、ロボット、コスプレなどが描かれています。いずれも、このデジタル・コンテンツ集積拠点のクラスターを表したものです。

 日本の産業界が培ってきた技術力、近未来に大活躍する兆しを見せ始めたロボット、そして、世界の若者を惹きつけて離さない日本のポップカルチャーといった具合に、現代日本を象徴するとともに、今後の社会を方向づけるようなモチーフが選択されています。ですから、このイラストからは、さまざまなクラスターが絡み合い、総合的にデジタル・コンテンツ領域で日本が力を発揮していこうとする意気込みが感じられます。

 次に、下段、真ん中のイラストを見ると、「TOKYO」と書かれたお面を真ん中に、「KYOTO」、「OKINAWA」、「SINGAPORE」、「USA」、「PARIS」と書かれたお面が放射状に置かれ、それぞれが、「TOKYO」と双方向の矢印でつながれています。まさに東京を中心に、国内外の諸都市をつなぐネットワークの形成を示すものであり、東京を内外のデジタル・コンテンツ制作のハブにしようとするビジョンが示されています。

 その他のビジョンも同様、イラストを使って、わかりやすく的確に、その意図と目的が表現されています。 いずれもICTが進展する状況下で、今後さらにグローバル化が進み、産業構造、文化状況が激変することを踏まえたビジョンといえるでしょう。一目でわかる端的な表現には若い感性が反映されています。次代に向けた取り組みとしてふさわしいと思いました。

■それぞれの戦略
 さて、出版パートナーズフォーラムでも、新しい動きが感じられました。ここでは4人の方が発表されたのですが、その中から、コミック、作品や原作の海外展開について報告されたお二人のご発表をご紹介していくことにしましょう。

■コミック・出版の海外展開
 講談社ライツ・メディアビジネス局長の吉羽治氏は、出版の領域で日本文化を海外に紹介する仕事をされています。これまでは日本文化の紹介だけでは収入が得られず、苦労されたようですが、コミックの出版が定着して以来、状況が変化してきたそうです。

 海外のコミック・アニメ市場がどれほど活況を呈しているか、最近の様子が写真で紹介されました。会場で撮影した写真は不鮮明でしたので、会場の雰囲気を把握するため、他の写真で見て見ることにしましょう。

こちら →%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%83%91%e3%83%b3%e3%82%a8%e3%82%ad%e3%82%b9%e3%83%9d
(http://euro.typepad.jp/blog/2016/04/japan_expo_paris.htmlより。図をクリックすると拡大します)

 パリで開催されたJAPAN EXPO 2016には30万5000人が集まったそうですし、ロサンゼルスで開催されたANIME EXPO 2016にも約30万人が来場したそうです。いずれも史上最高の入場者数でした。

 コミック市場の場合、アメリカ、フランス、韓国、台湾、ドイツなど上位5か国で全体の80%を占めるといいます。コミック販売だけではなく、ライブイベントでのグッズ販売の売り上げも増えているそうです。アニメ人気にも支えられ、コミックは欧米、東アジアなどで安定した市場を形成していることがわかります。

 一方、ファッション雑誌、書籍などはアジア3か国で90%を占めるといいます。興味深かったのは、吉羽氏が、日本文化を共有できる国々での販売が中心になっていると指摘されたことでした。ファッションやライフスタイルに関する生活情報、文字に依存した書籍などの消費には文化的障壁があることが示唆されています。日本文化そのものへの関心が希薄なら、なかなか手に取ってもらえないことがうかがえます。英語に翻訳することで世界に販路は広がったとしても、実際に消費されるには、日本文化への関心あるいは、共感が必要だというわけです。

■作品、原作の海外展開
 手塚プロダクション・著作権事業局局長の清水義裕氏は、長年にわたって、海外市場の開拓にかかわってこられました。手塚作品をできるだけ多くのヒトに読んでもらいたいという思いから、さまざまな工夫をされてきたのです。すでに1990年代から世界のアーティストとコラボで手塚作品の制作を手掛けてこられたそうですから、海外展開のノウハウも蓄積されています。

代表作の「鉄腕アトム」には商品化権が表示されており、手塚プロダクションは日本で初めて商品化権の概念を確立したといわれているほどです。手塚作品は手堅く、スムーズに商品化が行われるようになっています。スタイルガイドに基づいて商品化を行うことによって、ライセンス収入が合理的に得られるようになっているのです。

■スタイルガイド
 手塚作品のキャラクター使用について、スタイルガイドをどのように使うのか、みていくことにしましょう。まず、スタイルガイドから、どのキャラクターを使用したいのかを選びます。

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(https://tezuka.co.jp/business/character/index.htmlより。図をクリックすると拡大します)
 
 どのキャラクターにも、なんらかのイメージが付随しています。利用者は目的にふさわしいイメージのキャラクターを選択し、活用しようとします。それだけにイメージの管理は重要で、手塚作品のキャラクターには、反社会的行為をしない、政治や宗教などの活動に一切かかわらない、未成年者に悪影響を与える商品や広告にかかわらない、といったルールが設けられています。ですから、手塚作品の中のどのキャラクターを選んだとしても、利用者は企業イメージや商品イメージを傷つけることなく使用できるのです。

 仮に鉄腕アトムを選んだ場合、次に、どのビジュアルを使用するかを決めます。

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(https://tezuka.co.jp/business/character/index.htmlより。図をクリックすると拡大します)

 このように基本ビジュアルとして、あらかじめキャラクターの多様な表情を設定しておけば、利用者は選びやすく、プロダクション側も徹底した画像の品質管理ができます。さらに、利用者がキャラクターの画像を使用する際には、手塚プロダクションが監修を行い、品質の維持に努めているといいます。工業製品の品質管理を彷彿させる手法でキャラクターが管理されているのです。

 それを聞いて、手塚治虫の『マンガの描き方』(光文社)という本を思い出しました。ヒトの顔をそのように捉えるのかと面白かったので、覚えていたのですが、たしか、その本の中で、人間の顔のパーツがいくつものパターンとして描かれているものがあったのです。口や目、鼻、顔のカタチ、髪型といった要素を組み合わせて、顔の表情を創っていくのですが、これが上記で紹介したスタイルガイドに相当するように思えたのです。

 日本で最初にテレビアニメーションを手がけただけあって、手塚治虫には明確なキャラクター製造方式というものがあったのでしょう。それが後年、キャラクターの商品化の際、役立ったのだと思いました。

■年齢層別リメイク版
 清水氏はさらに、手塚作品の海外展開に際しては、対象年齢に合わせた展開を行っているといいます。たとえば、「鉄腕アトム」のリメイク版として、4歳から6歳までの就学前児童に向けにテレビアニメ「リトルアストロボーイ」を制作しました。11分49秒の映像がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
https://www.youtube.com/watch?v=IFSuLDabl6I&index=2&list=PLDir0jj5yIIuVLLxTRQGC4lzxJZEImyZX

 これはフランスのディレクターと共同で制作したそうです。フランスなどヨーロッパではアニメは子ども向けコンテンツという認識が強く、暴力等の要素は規制の対象になります。海外展開を考える際、現地の文化慣習を踏まえ、きめ細かくローカライズを図る必要があるからでしょう。

 そして、7歳から12歳向けにはCGテレビアニメ「アストロボーイ・リブート」を制作、提供しています。1分22秒の映像をご紹介しましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=Z240pys_D4A

 こちらも同様、フランス、モナコの制作会社との共同制作です。いずれも「鉄腕アトム」をたくみに換骨奪胎したものといえるでしょう。現地のヒトに受け入れてもらうには、 現地の文化テイストのようなものに合わせなければ、受け入れられにくく、それを打開するには、共同制作がもっとも適しているのかもしれません。

 清水氏はまた、アメリカ市場向けにはパロディもOKという方針で現地展開を図っているといいます。たとえば、「Peeping Life―WE ARE THE HERO」という番組で、アトムを登場させています。

 さらに、中国市場向けにはブラックジャックの実写化の計画が進んでいるといいます。「ブラックジャック」の原作を使用する権利を、中国の映画・テレビ番組制作会社が購入し、中国人の監督、俳優で制作するという内容で契約を結んだそうです。

 一連の事業内容を聞いていると、手塚プロダクションがどれほど積極的に海外展開を企図しているかがわかろうというものです。ローカリティを踏まえ、現地の制作者とコラボで制作すれば、世界に販路を広げることができるということを実証しているように思えます。

■それぞれの戦略
 コミックや原作の海外展開の面からクールジャパン戦略の現状を見てきました。担当者はさまざまな工夫を重ね、ローカライズを踏まえた戦略の下、奮闘なさっていました。そこで、内閣府のデータと照らし合わせ、将来の方向を考えてみることにしましょう。

 内閣府はコンテンツ領域については、以下のように分析しています。経産省の調査に基づき、日本国内のコンテンツ市場規模が今後、横ばいで推移するのに対し、海外の市場規模は年5%制度の成長が見込まるとし、コンテンツ産業の発展のためには海外展開を加速化することが重要だとしています。

こちら →%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%83%86%e3%83%b3%e3%83%84%e5%b8%82%e5%a0%b4
(内閣府データより。図をクリックすると拡大します)

 たしかに、高齢化が進めば、他の産業と同様、日本のコンテンツ産業もシュリンクしていくことは必至でしょう。年5%程度の成長が見込まれるのであれば、なにはともあれ、海外展開を積極的に推進していく必要があると思います。

 ところが、上記の図を見ると、日本コンテンツの海外売り上げのシェアは圧倒的にゲーム産業が占めています。日本アニメは海外で大人気だといわれながら、その規模はゲーム(家庭用、オンライン)のわずか1.2%でしかありません。

 しかも、今後、世界市場に打って出ることのできる次世代の作家がどれほどいるのかといえば、はなはだ心もとないといわざるをえません。新海誠氏、細田守氏など、素晴らしい作品を制作できる監督が出てきていますが、まだごくわずかです。

 文化庁のメディア芸術祭などの出品作品を見ると、近年、諸外国から応募が増え、ユニークなアニメ作品が続々、生み出されていることがわかります。このまま進めば、日本のお家芸だったアニメがいつの間にか、廃れてしまわないとも限りません。

 新しい領域を開拓できるユニークな作家が続々と育つよう、アニメ集積地である東京こそ、多様な文化を醸成できる拠点になってもらいたいと願っています。デジタル・コンテンツ特区として竹芝地区に設定されるCiPがその任を果たしてくれればいいのですが・・・。(2016/10/8 香取淳子)

筑波大学芸術系研究者チーム、孔子像を彩色復元する。

■画期的な研究成果の公開
 2016年8月27日(13:00~15:30)、茗渓会の公開講座、「嘉納治五郎と孔子祭典―湯島聖堂本尊孔子像の彩色復元資料を中心にー」が開催されました。会場は茗渓会館5階の会議室で、同じフロアのラウンジには、この公開講座を含む期間(8月22日から28日)、復元された彩色孔子像、関連資料や映像、模写作品などが展示されていました。

こちら →img_2515
(図をクリックすると拡大します)

 この講座は、第1部「嘉納治五郎と明治の徳教」と第2部「湯島聖堂「孔子像」復元チームが語る、草創期の彩色像の再現」で構成されており、第1部がこの講座全体を俯瞰する見取り図だとするなら、第2部は彩色孔子像の復元に至る具体的なエピソードの紹介という組み立てです。

 第1部の美術史の立場からの孔子像研究から、第2部の精緻な考証を踏まえた孔子像の彫塑、彩色、模写、3DCG表現などに至る流れもスムーズで、孔子像の彩色復元の意義や復元のプロセスが、無理なく理解できる展開になっていました。専門的な内容でしたが、孔子像を巡る考証や制作のプロセスが、パワーポイントで適宜、画像を織り込みながら、説明されたのでわかりやすく、よく理解できたような気がします。

 今回の公開講座は、科学研究費による研究の成果発表の一部として行われました。科学研究費基盤研究(A)東アジア文化の基層としての受講の視覚イメージに関する研究」(研究代表者:守屋正彦、2014年4月-2018年3月)の中間発表といっていいでしょう。筑波大学芸術系儒教美術教員チームによる壮大な研究成果の一端がこの日、一般に披露されたのです。

 当日、配布されたリーフレットには発表内容の要点が記されています。

こちら →http://www.tsukuba.ac.jp/wp-content/uploads/160822_28.pdf

 発表内容について私はこれまでまったく知らず、興味を抱いたこともなかったのですが、考証や復元のプロセスがとても精緻に、論理的に展開されていたので、聞いているうちにいつしか、良質のミステリーの謎解きにも似た面白さに捉われてしまいました。引き込まれて聞いているうちに、あっという間に所定の時間が経っていました。

 それでは第1部から順に、発表内容をご紹介していくことにしましょう。

■嘉納治五郎と明治の徳教
 第1部は、「嘉納治五郎と明治の徳教」-高等師範学校長が復活させた孔子祭について」という内容で、本研究の代表者である筑波大学教授(美術史)の守屋正彦氏が発表されました。

 興味深かったのは、明治維新以降、行われなくなっていた孔子祭典が開催されるに至ったプロセスです。はじめての孔子祭典は、明治40年(1907年)、孔子祭典会によって開催されました。

 守屋氏によると、孔子祭典会は明治39年に結成され、40年1月16日、互選によって、当時、東京高等師範学校の校長だった嘉納治五郎が委員長に就任したそうです。そして、同年4月、維新後はじめての孔子祭典が行われ、以後、大正8年の第13回まで、孔子祭典会主催によって開催されています。

こちら →http://www.seido.or.jp/cl02/detail-6.html

 孔子祭典会の母体になったのが、明治13年(1880年)に設立された斯文学会でした。守屋氏はこの斯文学会について、「ヨーロッパを視察した岩倉具視は帰国後、孔子学に基づいた道徳教育の在り方を推進」し、それに呼応するように、政、財、官、学界から有志が集い、東アジア文化に共有する孔子学を学ぶ場として設立されたと説明されました。孔子の教えに倣い、道徳教育を行おうとする動きがすでに明治10年代、形を整えつつあったようです。

 当時、全国津々浦々に開化思想が広がり、社会情勢は混乱していました。維新後10年を経て、盲目的に西欧の思想や文化、技術を摂取するだけではなく、漢学に依拠した規範再考の動きが各地で生まれていたようです。欧米に対抗するための諸改革が一段落すると、為政者たちは社会秩序のための根本理念が必要だと思いはじめたのでしょう。欧化主義をとりながらも、儒教を踏まえた生活規範を広げる必要があると思うヒトが増えてきていたのです。

 第1回孔子祭典には多数の指導的立場のヒトが参加しました。写真は、祝賀の言葉に聞き入る人々を背後から写したものです。

こちら →%e7%ac%ac1%e5%9b%9e%e5%ad%94%e5%ad%90%e7%a5%ad%e5%85%b8
(講座案内リーフレットより。図をクリックすると拡大します)

 礼装に身を固めた男性たちが幾重にも並び、頭を垂れて聞いている姿が印象的です。後方には配布された祝文らしいものを読んでいるヒトもいます。この写真からは新しい社会の根幹に孔子学を据えようとする人々の熱気が感じられます。

■学校教育の発祥の地
 第1回祭典委員長に就任したのは、独自の柔道を創り、明治15年(1882年)に講道館を設立した嘉納治五郎でした。彼は東洋で初の国際オリンピック委員を務め、日本のスポーツ界におおいに貢献したことで知られていますが、実は、25年余に及ぶ東京高等師範学校の校長でもありました。

 興味をかき立てられ、ちょっと調べてみました。すると、明治35年10月21日、宏文学院での講演で、「徳育については孔子の道を用いるのがいいであろう」と述べていることがわかりました(陈瑋芬、「「斯分学会」の形成と展開」、1995年)。嘉納治五郎が道徳教育は孔子学に基づくのがいいと考えていたことがわかります。

 守屋氏はまた、明治4年(1871年)に翻訳書『西国立志編』を刊行した中村正直を紹介されました。『西国立志編』はイギリス人サミュエル・スマイルズの著書(”Self Help”, 1859)の翻訳です。この本は明治の終わりまでに100万部以上を売り上げたといわれていますから、当時、意欲に燃えた若者や知識人たちに相当、影響を与えていたと思われます。翻訳者である中村正直は儒学にも造詣が深く、東京女子高等師範学校の校長でもありました。

 私にとって興味深いのは、嘉納治五郎と中村正直が校長を務めていた東京高等師範学校と東京高等女子師範学校が当初、隣り合わせに設置されていたということです。

こちら →img_2506
(展示写真より。図をクリックすると拡大します)

 古い写真なので画像がはっきりしませんが、左が東京女子高等師範学校で、右が東京高等師範学校です。現在は東京医科歯科大学のある場所に当時、両校がありました。元はといえば、徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るために聖堂を設置した場所でした。その後、1797年に幕府直轄学校として昌平坂学問所が開設され、明治4年にこれが廃止されると、今度は1872年に東京師範学校、そして、1874年には東京女子師範学校が設置されました。ラウンジに展示されていたこの写真からは、この地がまさに学校教育発祥の地であったということがわかります。

こちら →http://www.seido.or.jp/yushima.html

 東京高等師範学校はその後、学制改革により、東京教育大学を経て、現在は筑波大学になっています。一方、東京女子高等師範学校は同様に学制改革により、お茶の水女子大学となりました。この写真を見ていると、学生の頃、母校がかつて東京医科歯科大学の場所にあったと聞かされたことを思い出し、懐かしくなりました。

■孔子像の焼失
 第1部では守屋氏の発表によって、孔子祭典の開催に至る経緯がよくわかりました。明治40年に 維新後はじめて孔子祭典が挙行された背景には、近代化の圧力に対抗するかのように儒学再興の機運があったことが印象的です。西欧の文化や思想を摂取する一方、日本の国のカタチを模索していた為政者、識者たちはそのシンボルとして孔子に熱い思いを抱いていたのです。

 孔子学に基づいた道徳教育の在り方を推進しようとする人々によって、維新後はじめて孔子祭典は開催されました。その後も継続して、大正8年までは孔子祭典会主催で開催されていました。ところが、大正9年以降、斯文学会を母体として組織改革された斯文会主催で開催されるようになり、現在に至っているようです。

こちら →http://www.seido.or.jp/cl02/detail-6.html

 祭典ですから、当然、礼拝の対象が必要です。孔子祭典では、「湯島聖堂大成殿本尊孔子像」がその象徴でした。ところが、1923年9月、関東大震災が発生した際、湯島聖堂が罹災し、孔子像や孔子の高弟である四配像も焼失してしまいました。

 その後、湯島聖堂は昭和10年(1935年)に再建されました。ところが、シンボルである孔子像は不在のまま、相当、時間が経ちました。2007年にようやく本尊として、湯島聖堂大成殿に奉納されのが、柴田良貴氏(筑波大学教授)制作の孔子像でした。このブロンズ像は筑波大学芸術系研究者チームによる復元研究の成果です。

こちら →worship_cut02
(http://www.seido.or.jp/worship.htmlより。図をクリックすると拡大します)
 
■孔子像復元研究の経緯と成果
 第2部は2007年に奉納された孔子像に基づき、孔子像の彩色復元に携わった方々が発表されました。

 まず、筑波大学教授の柴田良貴氏(彫塑)が、研究の経緯と成果について説明されました。2007年に奉納された孔子像(ブロンズ像)の復元までに、康音作(木像)、新海竹太郎(ブロンズ像)など、さまざまな図像や画像を参考にしながら、石膏原型を制作することから着手されたそうです。

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(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 上の写真は柴田氏が何度も石膏像の修正を行っているところです。気の遠くなるような作業を繰り返し、石膏原型が完成しました。石膏はもろいので、中間的素材でしかありません。そこで、最終的には火に強く、半永久的に保存できるブロンズ鋳造をし、孔子像の復元にこぎつけました。それが2007年に湯島聖堂大成殿に奉納された孔子像です。

 興味深いのは、柴田氏が復元像には、「復元を行う作家の造形感覚が加味される」という認識を持たれていることでした。繰り返し石膏像の推敲をされる姿を写真で見ていると、たしかに、復元を行う作家の造形感覚こそが制作された像に命を吹き込むのだと思えてきます。復元は決して単なるコピーではないのです。

 柴田氏はさらに、今回の彩色復元像のために、ブロンズ像ではない素材について研究したと説明されました。それは、ブロンズ像には色をつけることができないからですが、彩色が有効な素材として何がふさわしいか、自身の専門と照らし合わせて検討を重ねた結果、奈良時代によく使われていた乾漆像での復元に決めたということです。

 私たちがよく知っている阿修羅像など、唐招提寺に保存されている像の多くはこの乾漆像だそうです。今では使われていない技法を掘り起こし、孔子像の彩色復元を完成させたこのチームの果敢な挑戦には頭が下がります。

■彩色復元
 柴田氏の制作された乾漆像に彩色されたのが、筑波大学准教授の程塚敏明氏(日本画)でした。今では使われていない乾漆像に彩色するため、さまざまな調査や実験をされたようです。

 たとえば、彩色材料についての実験をご紹介しましょう。立体像に彩色する際、問題になるのは、顔料を塗布しても剥落してしまう可能性があることです。どのような材料をどのように使用すれば、剥落を防ぐことができるか、それが、さしあたっての大きな課題でした。そこで、程塚氏は彩色実験をされています。

こちら →img_3269
(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 湾曲した乾漆地に岩絵の具を1回塗布したもの、水干絵の具(泥絵の具)を1回塗布したものを比べると、湾曲した面にも効果的に塗布できるのは水干絵の具だという結果が得られました。それを踏まえ、水干絵の具を使用することにしたといいます。

 もちろん、曲面や垂直面で顔料を定着させるにはどうすればいいか、窪んだ箇所にたまる顔料をどう処理すればいいか、湾曲した面での文様の扱いをどうすればいいか、課題は山積していました。

 素材の工夫、塗り方の工夫など、様々な労苦を重ね、ようやく乾漆像への彩色復元が完成しました。

こちら →images
(2016年3月31日発行、復元研究成果報告論文集より。図をクリックすると拡大します)

 興味深いのは、程塚氏が孔子像の彩色作業について、「筆者の色彩的感性に加え、彫刻、日本美術史、デザインによる横断的な考察により、孔子像の視覚イメージが構築されていった」と説明されたことでした。

 かつては存在していたが、いまは存在しない孔子像をどのような材料で制作し、どのような顔料で彩色するか、隣接領域の研究者たちのチームワークの良さから得られた集合知の結果、最適解が得られたのでしょう。チームワークのいい共同研究ならではの成果をここに見ることができると思いました。

■孔子座像の3DCG
 立体像への彩色復元には、3DCGによる映像もおおいに参考になったようです。程塚氏は乾漆像に彩色する際、様々な角度からの立体像を参考にしたといわれましたが、その3DCGを制作したのが筑波大学准教授の木村浩氏(コンピュータグラフィックス)でした。

 ラウンジに展示されていたのは、「湯島聖堂大成殿内部空間」を3DCGで再現した映像でした。たとえば、次のようなカットがあります。

こちら →img_2508
(展示映像より。図をクリックすると拡大します)

 ここでは赤い柱に赤い梁、そして、赤い碁盤目の天井が表現されています。赤い梁と天井との間の空間に、賢人図像の扁額が掛けられています。高い位置にあって通常、下からはよく見えないのですが、このように3DCGで表現されるとよくわかります。大成殿の内部が3DCGで再現されることによって、扁額の図像がヒトの目にどのように見えていたのか、想像しやすくなっています。

 孔子座像についても3DCGで表現されており、様々な角度から立体図を確認できます。ですから、背面、側面など、正面から描かれた平面図ではよく認識できない部分を3DCGの映像で確認することで、孔子像をよりリアルに表現することができたのだと思いました。

 木村氏は柱の間隔、高さ、それぞれの位置など、空間を表現できる諸データを資料に基づき収集し、再現したといわれました。二次元で表現された画像を三次元空間に置き換えることによって、聖なる空間についてのイメージが膨らみます。

 大成殿内部の映像を見ていると、聖像は、聖なる空間の高い位置、あるいはよく認識できない位置に置かれてはじめて、聖性を帯びて存在しうるのかもしれないと思えてきました。

■英一蝶筆「孔子像」の模写
 英一蝶筆「孔子像」(斯文会所蔵)の模写を手がけたのが、筑波大学教授の藤田志朗氏(日本画)でした。日本画材を模写することにより、当時の彩色の手法や筆致、使用した色材などについて把握するのが目的だったようです。

 藤田氏は、英一蝶の「孔子像」は衣裳の文様が精緻で、その線描に抑揚があり、芸術性が高いという認識を示されました。

こちら →img_2504
(展示作品より。図をクリックすると拡大します)

 たしかに、模写された図を見ていると、衣の襞、さらには絹の重みを感じさせる筆の精緻さ、滑らかな流れがよくわかります。孔子の立体像を制作する際、このような平面図がおおいに参考になったことが推察されます。

 ラウンジに展示されていた孔子座像を仔細に見ると、見事な衣装の質感、文様の精緻さ、色彩の繊細さに驚かされます。

こちら →img_2510
(展示作品の一部を撮影。図をクリックすると拡大します)

 乾漆像への彩色で、これだけの文様や質感の表現が可能になったのです。乾漆像への彩色を担当した程塚氏の尽力はもちろん、ここには、孔子像の模写を通して得られた画材や彩色手法、筆致などの効果も見ることができます。あらためて、この研究チームの集合知の素晴らしさを感じさせられました。

■研究者チームの英知が結集した研究
 それにしても、なんと意欲的で、壮大で、意義深い研究なのでしょう。隣接領域の芸術系研究者たちが10年の歳月をかけ、関東大震災(1923年)の際、消失してしまった孔子像の彩色復元を実現させてしまったのです。

 本研究「東アジア文化の基層としての儒教イメージに関する研究」(平成26~30年度)は、「美術資料による江戸前期湯島聖堂の研究」(平成15~16年度)、「江戸前期儒教絵画と彫刻の復元研究」(平成17~19年度)、「礼拝空間における儒教美術の総合的研究」(平成21~25年度)、「東アジアに展開した儒教文化の視覚イメージに関する復元研究」(平成23~27年度)を踏まえ、展開されています。

 筑波大学芸術系研究者チームは上記の研究の結果、毎回、文化資産ともいえる成果物を出されており、日本画、日本文化、アジア文化などに多大な貢献をされています。一連の発表を聞き終えて、専門分野の異なる研究者が協力し合って成果を出していくことの素晴らしさを感じました。そして、知の集積の場である大学が持つ巨大な潜在力を見た思いがしました。(2016/9/12 香取淳子)

いわき市立美術館で見た、心に残る作品

■常設展で見た辰野登恵子氏の作品
 いわき市に出かけたのは今回が初めてですが、街なかを散策中に、洒落た建物を見つけました。8月21日の午後、じりじりと照り付ける日差しを受けて、その建物はまぶしく輝いていました。近づいてみると、いわき市立美術館でした。誘われるように美術館に入っていくと、平成28年度常設展前期Ⅱとして、「美術館へようこそー絵画のすがた」と「常磐炭鉱~スケッチブックの記憶~」が開催されていました。

「美術館へようこそー絵画のすがた」のコーナーでは、内外の画家、彫刻家の作品24点が展示されていました。いずれもいわき市立美術館所蔵の作品で、いわゆる現代美術に分類されるものでした。

こちら →160329132537_0
(http://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1001000005276/index.htmlより)

 このコーナーで私がもっとも惹きつけられたのは、上の写真には写っていませんが、辰野登恵子氏の『UNTITLED 95-8』です。深みのある鮮やかな赤で着色された巨大な図形がなんともいえない存在感で、観客に迫ってきます。奇妙な図形は、ヒトとヒトが対峙しているようにも見え、器具の一部のようでもあり、単なる記号のようにも見えます。

 何が描かれているのか、描かれていることにどのような意味があるのか、よくわかりません。絵を見たときヒトが条件反射的に求めてしまう意味が、この絵からは解読できなかったのです。ところが、この絵からは、ヒトの気持ちをゆさぶるような迫力と、生命に直結したようなエネルギーを感じさせられました。だからこそ、意味はわからないながらも、私はこの絵に惹きつけられてしまったのでしょう。

 会場では撮影できませんでしたので、ここでその絵をお見せすることはできません。後で、インターネットで検索してみると、似たような作品を見つけることができました。この作品の後に描かれたと思われる作品です。

こちら →UNTITLED 95-9
(http://xn--zck9awe6d.jp.net/wp-content/uploads/2014/09/561.jpg より。図をクリックすると拡大します)

 一見しただけでは展示作品かと思ってしまうほど、よく似ています。ですが、よく見ると、メインモチーフの形状や色遣い、背景の形状や色遣いが微妙に異なっています。辰野氏はおそらく、展示作品(UNTITLED 95-8)のどこかに満足できずに、その直後、この『UNTITLED 95-9』を制作したのでしょう。背景の模様の色遣いが展示作品よりも多様になっていますし、メインモチーフの色遣いがフラットになっています。

 私はどちらかといえば、展示作品(UNTITLED 95-8)の方が好きです。メインモチーフの色遣いに深みがあり、陰影の付け方に濃淡があって、この奇妙な図形の存在感が強調されていたからです。背景の模様の色遣いがコントロールされていることも、メインモチーフを引き立たせる効果がありました。

 具体的に何を表現しているのか、解釈は観客に委ねられています。それだけに、モチーフの形状や色彩だけでなく、背景の形状や色彩も大きな意味を持ってきます。『UNTITLED 95-8』の場合、背景の色遣いが『UNTITLED 95-9』よりも制限されているので、この模様が青い海に浮かぶいくつかの島のように見えます。地球を俯瞰するような構図を背景に、存在感のあるメインモチーフが配置されているといっていいかもしれません。

 ですから、マクロ的にもミクロ的にもヒトと地球とのかかわりが示唆されているように見えますし、ヒトとヒト、ヒトと社会が捉えられているようにも見えます。多様な意味を引き出せそうな作品なのです。私はしばらくこの絵の前で佇んでいました。それだけ、この作品には根源的な迫力があり、このコーナーではとても目立っていました。

■いわき市と常磐炭田
 1Fの展示コーナーに入ってすぐ左手に、もう一つの常設展、「常磐炭鉱~スケッチブックの記憶~」が開催されていました。このコーナーでは炭坑をテーマに制作された作品37点が展示されており、異彩を放っていました。いわき市に関係する美術家12名が制作したもので、いずれも同館所蔵の作品です。

 鉛筆画、コンテ画、水彩画、油彩画、リトグラフ、さらにはセメントによる塑像など、技法も異なれば材質も異なる多様な作品群です。炭坑をモチーフにした37点が集中して展示されているこのコーナーには、地元の美術館ならではの郷土愛が感じられました。

 私はあまりよく知らなかったのですが、福島県いわき市はかつて殖産産業であった炭鉱で栄えていたようです。いわき駅の観光案内所でもらった何枚かのチラシに、「いわき市石炭・化石館 ほるる」がありました。ここでは、いわき市が産炭地として栄えた当時の資料と、市内で発掘された動植物の化石等が展示されています。JR湯本駅から徒歩10分のところにあります。

こちら →http://www.sekitankasekikan.or.jp/about/about.html

 そういえば、子どものころ、社会科の授業で常磐炭田について学んだような気がします。言葉だけ記憶していた常磐炭田が、いわき市を含むこの地域一帯を経済的に支え、繁栄に寄与していた時期があったのです。

 展示作品は、炭坑やそこで働くヒト、炭坑を取り巻く町、などをモチーフにさまざまな観点から制作されていました。そのせいでしょうか、描き方の巧拙にかかわらず、どの作品にもヒトを立ち止まって見入らせる力がありました。生活に根差したリアリティが画材を通して立ち上ってきていたからでしょう。

 このコーナーの展示作品からは、何が描かれているのか、作品を通して作家が何を伝えようとしているのかが直に使わってきました。そして、程度の差はあれ、どの作品からも、生活実態を踏まえた生命力のようなものが滲み出ていました。ヒトと社会のありようを示唆する作品もありました。

■中谷泰氏の作品
 このコーナーでまず、印象に残ったのが、中谷泰氏の作品でした。『炭坑町』(油彩、100×91㎝、1958年)という作品です。

こちら →炭坑町
(https://www.hakkoudo.com/ninki-sakka/%E4%B8%AD%E8%B0%B7%E6%B3%B0/より。図をクリックすると拡大します)

 左上方に描かれた茶色のボタ山に対比するように、2本の煙突を挟んで、右上方に緑の残る鉱山が描かれています。その下には人々の暮らす家々が描かれており、鉱山とそこで働く人々の生活が示唆される構図です。

 煙突からはもくもくと黒い煙があがり、空も黒ずんで見えます。この絵の中でヒトの姿は描かれていませんが、煤煙の空の下で暮らす人々の悲惨な生活が容易に想像できます。ここでの生活は大気汚染など気にしていられないほど苛酷なものだったのかもしれません。

 右上方に描かれた山は左側のボタ山よりも手前にやや小さく、緑色で描かれています。かつてはこのような緑の木々に覆われていた山が石炭の発掘が繰り返され、やがて、左のボタ山のように茶色になってしまうということが示されているような気がします。観客にしてみれば、ここに緑の山が描かれていることで、ほっとした気持ちになります。

 ネットで調べると、この作品にとてもよく似た『炭坑』(油彩、1956年)があることに気づきました。

こちら →

5.0.2 JP

5.0.2 JP


(http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=5166&edaban=1より。図をクリックすると拡大します)

 この作品では、『炭坑町』には描かれていなかったヒト(手ぬぐいを頭に巻いた女性)が描かれています。しかも、右上方の山が緑色ではなく茶色で、そこには山頂に続く道も描かれています。ですから、この絵では、右上方の山もボタ山なのです。二つの大きなボタ山の下で、煤煙に包まれて働く人々の暮らしがこの絵のモチーフになっています。全体が黒っぽい茶色で覆われているので、この絵からは救いようのない辛さが感じられます。

 『炭坑』の制作年が1956年、『炭坑町』の制作年は1958年です。つまり、中谷氏は『炭坑』に満足しきれなくて、その後、『炭坑町』を制作したのだと思われます。

 同じモチーフを扱いながら、この二つの作品には描き方が異なっており、そこに中谷氏のモチーフに対する気持ちの変遷を見ることができます。『炭坑』が炭坑で働く人々の暮らしを見たまま描くことによって、この絵に批判を込めたのだとすれば、『炭坑町』の方は、直接的な批判色を薄め、あるべき姿を提示することによって間接的に批判をしているといえます。

 右のボタ山を敢えて緑色にし、ヒトの姿を消すことによって、婉曲的な批判に変容しているのです。ですから、同じモチーフを扱いながら、『炭坑町』の方が深みのある作品になっており、観客に訴える力も増していると思います。

 中谷氏がモチーフにしたのではないかと思われる風景写真をネットで見つけました。

こちら →top-img
(http://tankouisan.jp/より。図をクリックすると拡大します)

 この写真を見ると、中谷氏が最初は見たままのボタ山の光景を描き、その後、修正を加えたのだということがわかります。そうすることによって、絵としての陰影を刻み、画面に深みを増すことができているように思いました。

 さて、一連の作品の中で、私がもっとも惹かれたのは、中谷泰氏の『春雪』(油彩、91×100㎝、1960年)という作品です。

こちら →春雪
(http://machinaka.cocolog-nifty.com/blog/cat44385196/より。図をクリックすると拡大します)

 まず、絵として美しいと思いました。白の占める面積が大きいからでしょうか、墨絵のような美しさがあります。ここには煤煙はなく、ボタ山もそのふもとの家々も雪で覆われています。そのせいか、この絵には清らかささえ感じられます。良いも悪いもすべて雪によって包み込まれているからでしょう、諦念にも似た静けさと調和の下で黙々と働くヒトの暮らしが透けて見え、限りない愛おしさを感じさせられました。

■現実の超克と生きる力
 思いもかけず立ち寄ったいわき市立美術館で、辰野登恵子氏と中谷泰氏の作品に出会いました。辰野氏の作品からは、俯瞰の構図を背景にしたモチーフに巨大な生命力を見ました。そこには観客を捉えて離さない、モチーフの色彩と形状、それを支える背景の色彩と形状から生み出される迫力がありました。

 中谷泰氏の作品からは、社会批判の形にさまざま様相があることを教えられました。『炭坑』では直接的に、『炭坑町』では間接的に社会批判につながる表現がなされていました。両作品ともボタ山をメインにした光景から、大気汚染に晒され、苛酷な労働を強いられる炭坑の町のヒトの生活が浮き彫りにされています。ですから、見ていると、自然に社会批判の意識が立ち上ってくるのです。

 ところが、『春雪』ではその種の社会批判を超えた、ヒトと人生、あるいは、ヒトと自然といったようなものが見えてきます。雪で覆われたボタ山の光景が、目の前の現実を俯瞰する構図で捉えられているからでしょう。

 こうして見てくると、辰野登恵子氏の作品からも中谷泰氏の作品からも、現実の超克とその暁に得られる生きる力というものが見えてくるような気がします。たまたま訪れたいわき市で思いもよらず、素晴らしい作品に出合いました。(2016/8/24 香取淳子)

第17回日本・フランス現代美術世界展で見たLOILIER Hervé氏 の作品

■第17回日本・フランス現代美術世界展の開催
 JIAS日本国際美術家協会主催の「第17回日本・フランス現代美術世界展」(会期は2016年8月3日から8月14日)が、国立新美術館3A展示室で開催されています。8月9日、たまたま六本木に行く用事があったので、立ち寄ってみました。

 会場では油彩、水彩、アクリル、写真などさまざまなジャンルの作品(海外作品81点、国内作品300点余)が展示されていました。ここでは、油彩画として印象に残った作品を紹介することにしましょう。

■ LOILIER Hervé氏 の『タージ・マハルの夕べ』
 海外作品の展示コーナーでまず目についたのが、LOILIER Hervé氏 の『タージ・マハルの夕べ』です。モチーフを捉えた力強い構図、洗練された色遣い、自由奔放なようでいて実は非常に繊細なタッチ、思わず引き込まれて見てしまいました。

 この作品を仮にAとしましょう。

こちら →A
(80×80㎝、キャンバス、油彩、クリックすると図が拡大します)

 この作品(A)には、絵画ならではの魅力、さらにいえば、油彩画ならではの魅力が満ち溢れていました。キャンバスに油彩という表現方法だからこそ持ちうる最大限の魅力が引き出されていたのです。立ち止まって見ているうちに、なぜかマクルーハンの「メディアはメッセージだ」という箴言が思い出されてきました。

 マクルーハンといえばテクノロジーとヒトや社会との関わりを省察し、世界に一躍、名を馳せたメディア学者です。絵画とはなんのゆかりもありません。それなのになぜ、この絵を見て、そのような箴言が思い浮かんだのか、不思議です。しばらく思いを巡らせてみることにしましょう。

 この絵を見るとたしかに、キャンバスと油絵具という媒体(メディア)によって、色彩の深みと層の厚さに支えられた優雅さが表現されていました。だからこそ、私は油彩画の本質につながる何かをこの作品から感じさせられたのでしょう。ですから、モチーフとこの作品との関係を丁寧に辿ってみると、ひょっとしたら、油彩画の本質の一端を浮き彫りにできる可能性も期待できます。

 ネットで調べてみると、H. LOILIER氏はタージ・マハルをモチーフにいくつか作品を手掛けているようです。写真とそれらの作品、そして、今回の展覧会で見た『タージ・マハルの夕べ』を比較検討してみると、何か見えてくるものがあるかもしれません。

 ちなみに、フランスのWikipédiaを見ると、LOILIER Hervé氏は1948年生まれのフランス人で、2012年までエコール・ポリテクニークの視覚芸術科で教えていたようです。

■写真で見るタージ・マハル
 まず、タージ・マハルという、この作品のモチーフを写真で見てみたいと思います。

こちら →133345536582791 (1)
(https://plus.google.com/+IndiatourinautTajmahal/postsより。クリックすると図が拡大します)

 被写体をレンズで機械的に捉えると、このようになります。確かに荘厳で美しく、大理石で建造された建物の持つ迫力が伝わってきます。現地に赴いてこの建物を見ると、実際、このように見えるのでしょう。前庭、水面を含めると、左右上下対称の幾何学的なレイアウトが見事です。

 旅行会社のチラシなどでよく見かけるタージ・マハルは、インド・イスラム文化の代表的な建造物で、世界遺産にも登録されています。いまでは誰もが知っている有名な観光地になっていますが、実は墓所です。ムガル帝国の第5代皇帝が1631年に死去した妃を偲び、贅をつくし、22年もの歳月をかけて、1653年に完成したのがこの霊廟なのです。

 霊廟とはいいながら、白亜の宮殿のようにも見える華麗さに驚きますが、この建物が、愛する妃を偲んで建設されたと聞けば、納得できます。ですから、絵のモチーフとしてタージ・マハルを描く場合、第5代皇帝の妃への深い愛、妃の優雅さ、華麗さなどが表現されていなければなりません。建物の荘厳さを描くだけではなく、優雅、華麗といった要素を描き込むことが不可欠なのです。

 ところが、被写体を機械的に写し出すだけの写真で、優雅、華麗といった要素を表現するのは容易なことではありません。H. LOILIER 氏もさまざまな試行錯誤を経て、この作品に到達したのでしょう。それが証拠に、この作品以前に描かれたいくつかのタージ・マハルの絵には、表現に苦労し、変更を重ねた痕跡が残されているのです。

■LOILIER Hervé氏 の“Taj Mahal”
 H. LOILIER氏には“Taj Mahal”(キャンバスに油彩、60×60㎝)と題された作品があります。

 この作品を仮にBとしましょう。

 こちら →B
(http://www.galerie-saint-martin.com/artiste.php?id_artiste=74&PHPSESSID=af5aa6fe174890a1ec5d3416b416a424より。クリックすると図が拡大します)

 この作品の制作年はわかりませんが、『タージ・マハルの夕べ』(A)とは明らかにモチーフのレイアウトが異なります。

 写真を見るとよくわかるのですが、タージ・マハルでは基壇の上に立つ墓廟の四隅に4つの尖塔があります。Wikipediaによれば、これらの尖塔は、「皇妃に使える4人の侍女」に譬えられるとされています。墓廟が皇妃だとすれば、尖塔は侍女だというのです。

 ところが、この作品では尖塔が真ん中と左端に描かれており、この尖塔によって画面が分割されています。ですから、強く印象づけられるのは墓廟ではなく、この2本の尖塔なのです。

 そして、尖塔と墓廟は、水平線を挟んで上下対称の構図になっています。地上部分と水面部分の割合がほぼ同じなのです。地上部分は前方に尖塔が描かれ、墓廟は後方に描かれています。そして、墓廟の上の丸屋根はやや小さく描かれていますから、墓廟よりも尖塔の方が強く印象づけられます。

 一方、水面部分は逆さに映ったモチーフがラフに描かれており、墓廟よりも尖塔の方がその形態がはっきりした描き方になっています。ですから、ここでも尖塔の方が際立って見えます。

 時刻はやはり夕刻なのでしょう、残照の輝きが空にも水面にも広がっています。青を基調とした色遣いで建物が描かれているせいか、暮色の光景の方が強く印象付けられます。逆に、タージ・マハルの荘厳さ、優雅さ、華麗さが希薄になっています。

 こうして見てくると、同じモチーフを扱いながら、『タージ・マハルの夕べ』の方がはるかに優雅で美しくタージ・マハルが捉えられ、思わず引き込まれてしまう魅力が醸し出されていることがわかります。

■LOILIER Hervé氏 の“TAJ MAHAL AU LEVANT”
 H. LOILIER氏にはこれ以外にもまだタージ・マハルを扱った作品があります。“TAJ MAHAL AU LEVANT”(キャンバスに油彩、92×73㎝)という作品です。

 この作品を仮にCとしましょう。

こちら →C
(http://www.galerie-saint-martin.com/artiste.php?id_artiste=74&PHPSESSID=af5aa6fe174890a1ec5d3416b416a424より。クリックすると図が拡大します)

 これも制作年はわかりませんが、モチーフのレイアウトは『タージ・マハルの夕べ』により近づいています。墓廟に尖塔が2本というモチーフに変わりはありませんが、そのレイアウトが“Taj Mahal”(B)とは異なっています。

 墓廟を左半分に収め、尖塔を小さくし、墓廟の丸屋根が大きく描かれています。そして、水面ははっきりとは描かず、地上の建物に力点を置いて描かれています。このような描き方によって、Bよりも墓廟が強調された構図になっています。

 画面全体は黄色を基調とした色遣いで、ラフスケッチのようにも見えますが、青を基調とした“Taj Mahal”よりも、優雅さが生み出されています。おおざっぱな筆のタッチによって、柔らかさ、優美さが表現されているのです。

■LOILIER Hervé氏 の“Taj Mahal”
さらに、次のような作品もあります。これは制作年も作品サイズもわかりません。署名も入っていませんから、ひょっとしたら、下描き段階のものなのかもしれません。

 この作品を仮にDとしましょう。

こちら →D
(http://www.lechorepublicain.fr/eure-et-loir/actualite/pays/le-perche/2013/05/18/vente-de-tableaux-modernes-et-de-bijoux-cet-apres-midi_1554934.htmlより。クリックすると図が拡大します)

 この作品も、モチーフは墓廟と2本の尖塔です。先ほどの“TAJ MAHAL AU LEVANT”(C)に極めて近い構図です。ただ、この作品にはまだ水面が明らかに認識できる形で描かれており、曖昧ではありますが、2本の尖塔が水面に写り込んでいるのがわかります。

 しかも、尖塔が手前にはっきりと描かれていますから、かなり目立ちます。おそらく、作品Dは、“Taj Mahal”(B)の後に描かれ、Dが描かれた後、“TAJ MAHAL AU LEVANT”(C)が描かれたのでしょう。『タージ・マハルの夕べ』(A)に近いものがあるとはいえ、構図の面からいえば、まだ墓廟に力点が置かれていないところに絵としての弱さがあります。

 このように写真とタージ・マハルを扱った作品A、B、C、Dを比較してみてくると、H. LOILIER氏がさまざまに試行錯誤しながら、『タージ・マハルの夕べ』(A)に至ったことがわかります。制作年がわからないので、はっきりしないのですが、おそらく、B →D →C → Aという順で描かれたのでしょう。この試行錯誤の過程では、①構図、②色彩、③水面の扱い、という側面を中心に、H. LOILIER氏がその都度、変更し、修正を加え、完成度を高めていったことがわかります。

■構図の変遷過程
 一連の作品の主なモチーフはタージ・マハルの墓廟と2本の尖塔です。作品Bは右寄りに墓廟を配し、2本の尖塔によって画面が半分に切り取られる構図です。ですから、尖塔がとても強く印象づけられます。しかも、水平線で地上と水面に分けられ、水面に写り込んだ尖塔がはっきりと描かれているので、画面全体がこの2本の尖塔によって断絶させられている印象です。

 作品Dではこの構図が変更されています。墓廟は左寄りに配され、2本の尖塔は左右に不均等に配されています。しかも、地上と水面の割合は均等ではなく、水面部分が3分の1に抑えられています。このような修正によって、墓廟が強調され、丸屋根が印象づけられるようになります。優雅さ、華麗さを表現できる部分が強く押し出されるようになっています。

 作品Cでは作品Dの構図を引き継ぎながら、左水平線の位置をやや高く、2本の尖塔の高さを墓廟の高さよりも低く、変更しています。さらに水面部分を曖昧に描くことによって、水面に映り込むはずの尖塔の存在感を弱めています。ですから、墓廟がより強く印象づけられるようになりました。

 作品Aでは、作品Cの構図を踏まえ、右遠景にあった尖塔を削除し、変わりに丸屋根の建物を配しています。このような変更のおかげで、優雅さ、優美さが生み出されました。墓廟の丸屋根も大きく修正され、柔らかさが強調された構図になっています。

 さらに、仰角で捉えた構図には威厳が感じられます。これまでの作品では水面として扱われていた画面の半分ほどを、曖昧な形態のまま建物の前景として配置し、見るヒトに仰ぎの姿勢を取らせています。そして、丸屋根部分が大きく描かれています。仰ぎの構図で、しかも、天上に近い丸屋根が大きく描かれているせいか、霊性が強調されているように思えます。

 構図の変遷過程を見ていくと、H. LOILIER氏が優雅、華麗、優美といった方向でモチーフの形態とレイアウトを変更し、修正を加え、さらに、墓廟、とくに丸屋根部分を仰角で捉える構図にすることによって霊性、威厳、荘厳といった要素を付加していったことがわかります。

■色彩の変遷過程
 作品Bは青を基調とした色遣いで建物が着色されており、総大理石の建造物ならではの堅牢で荘厳な印象が醸し出されていました。墓廟と2本の尖塔の配置、水面に映し出されたそれらの影、左右、上下対称に描かれた構図が格調の高さ、威厳を表しています。夕日に暮れなずむタージ・マハルの姿としても美しく、それなりに調和の取れた作品であることは確かです。

 ただ、優雅、華麗、優美といった要素は表現されていません。タージ・マハルを建造した第5代皇帝がもっとも表現したかったであろうものが描き切れていないのです。

 作品Dは、青味が薄められ、黄色部分がより多く、明るく変更されています。その結果、華やかさ、柔らかさ、優しさといった要素が浮き出ています。尖塔はより明るくされ、水面に映る影も曖昧にされており、存在感が弱められています。

 作品Cは、手前の尖塔の位置をやや右に移動し、丸屋根を損なわないようレイアウトされています。墓廟や尖塔は黄色を中心とした暖色系で覆われ、より優雅、華麗、優美といった要素が強調されています。

 そして、作品Aは作品Cの色構成を踏まえたうえで、茶、オレンジで墓廟や尖塔の稜線が着色されています。おかげで、女性らしい柔らかさと優雅さ、華麗さが演出されています。その一方で、丸屋根や墓廟の入口、窓など、影になる部分に濃い青が配色されています。影部分の濃淡の付け方に深みがあり、味わい深い夕刻の陰影が見事に捉えられています。

■水面の扱い
 作品Bでは、水面に映る墓廟や尖塔の影がしっかりと描かれています。約半分の割合で配置されているからでしょうか、それぞれのモチーフが左右上下対称に描かれているようにも見えます。ところが、作品Dになると、水面の割合が減少し、それに伴い、映じた部分も少なくなっているので、見るヒトの視線は地上の建物に向きます。そして、作品Cは、水面部分の割合は増えているのですが、水面部分が曖昧に処理されているので、観客は地上の建物を仰ぎ見る姿勢となり、自然に建物の威厳が醸し出されています。

 作品Aは、水面に建物の影はいっさい描かず、寒色系、暖色系を微妙に使い分けながら、夕陽の差し込む水面の深い濃淡を描いています。空も同様、右上方を濃いグレーでシャープな濃淡をつけながら色付けしています。そのおかげで、地上も空も水面も乱反射する夕陽の光が的確に捉えられています。夕刻のタージ・マハルを深く、美しく描く効果が生み出されているのです。

■油彩画『タージ・マハルの夕べ』
 会場で見た『タージ・マハルの夕べ』(A)には、第5代皇帝の妃への思いが見事に表現されているように思えました。これまで見てきたように、H. LOILIER氏が試行錯誤を重ね、構図、色彩、水面の扱いなどに微妙な変更を加えていったからでしょう。

 写真と比較してみると、この建物がもつ気高さと崇高さは深い青と白を基調とした色遣いによって表現されていることがわかります。影になる部分に深青系の色をあしらい、建物の稜線には暖色系の色を使っています。そのせいか、この建物には毅然とした崇高さに加え、優雅な美しさが感じられます。色彩の重ね方、荒いタッチなどに油絵ならではの表現技法が反映されているといえるでしょう。

 右遠方の丸屋根の背後には燃えるような黄色を配し、その上方には陽が落ち今まさに暮れようとする暗い色調で描かれています。夕べのタージ・マハルに思いを重ねるヒトの心にぴったりと沿うように、空も水面も建物も、多様な色相を描き分けています。いずれも写真では表現できないものです。H. LOILIER氏のフィルターを通して捉えられた独自のものだということがわかります。

 それはおそらく、H. LOILIER氏がさまざまな色を思いのままにキャンバスに載せ、それぞれの個性を際立たせながらも調和を生み出し、タージ・マハルの優美さを引き出していたからでしょう。そのような芸当は水彩画ではなく、アクリル画でもなく、もちろん、写真でもなく、油彩画だからこそ可能だったのではないかと思います。

 油彩画の本質の一端を垣間見ようとして、タージ・マハルをモチーフとしたH. LOILIER氏の作品を見てきました。多様な色彩の重ね塗り、ラフな筆致による微妙な陰影づけ、補色関係にある色彩の配置による奥行き感の演出など、油絵でしかできない表現によって現実を超えた世界を生み出せることがわかりました。まさに、キャンバスに油絵具という媒体(メディア)によってしか表現できない世界です。

 マクルーハンはテクノロジーとヒトとの関係、社会との関係を省察してきましたが、媒体(メディア)の役割についてはこの絵にも適用できるものだと思いました。(2016/8/17 香取淳子)

Lead Initiative 2016:挑戦する若手起業家に共通するもの

■デジタルによる破壊的変革にどう立ち向かうのか
 2016年7月21日、ANAコンチネンタルホテル東京で、IIJ(インターネットイニシアティブジャパン)主催の「Lead Initiative 2016」が開催されました。午前は、IIJ専務取締役の菊池武志氏のあいさつ、一橋大学教授の楠木建氏の基調講演に続いて、パネルディスカッションが行われ、その後ランチセッションを挟んで、午後は、A会場からF会場に分かれて24のセミナーが開催されました。いずれもICTの進展動向を踏まえ、現在から未来を展望する興味深い企画でした。

こちら →http://www.iij-lead-initiative.jp/ 

 私がとくに興味を抱いたのは、11:30~12:30の時間帯で行われたパネルディスカッションでした。「デジタルによる破壊的変革にどう立ち向かうのか」というタイトルと、NHKの元キャスター国谷裕子氏による司会だという点に惹かれたのです。

 いま、デジタル化の進行はとどまるところを知らず、ヒトの適応能力を超えるほどの勢いで進んでいます。クラウドが定着したと思えば、それを基盤に、IoT、AI、ロボティックスなどが浸透し始めているのです。

 あらゆる領域でデジタル化による大変革が起こっていますが、はたして起業の面ではどうなのか、このパネルディスカッションでは若手起業家から、立ち上げの状況や展望を聞く構成になっています。今後、企業がどのような舵取りをしていけばいいのか、おおいに参考になるでしょう。

 パネリストは、ウォンテッドリー株式会社共同創業者&CEOの仲曉子氏(1984年生まれ)、株式会社FOLIO創業者&CEOの甲斐真一郎氏(1981年生まれ)、株式会社Cerevo代表取締役の岩佐琢磨氏(1978年生まれ)、Qrio株式会社代表取締役の西條晋一氏(1973年生まれ)といった方々です。いずれも30代前半から40代前半の若手起業家で、「デジタルによる破壊的変革」が進行している現在、果敢に新しいビジネスの芽を育てていこうとしているヒトたちでした。

 それでは、発言順にパネリストたちをご紹介していくことにしましょう。

■起業に至る来歴とそのコンセプト
 若手起業家たちがどのような来歴を経て、起業に至ったのか、どのようなコンセプトで事業を立ち上げたのか、会場では不十分だった情報を適宜、ネット情報で補いながら、発言順に、見ていくことにしましょう。

・株式会社Cerevo
 Cerevoの岩佐琢磨氏は、パナソニックに約5年間、勤務し、2007年12月にハードウエアベンチャーの株式会社Cerevoを設立しました。ネットとソフト、ハードを融合させたユニークな製品企画、開発、販売をする会社です。

こちら →https://www.cerevo.com/ja/

 コンセプトは、「ネットと家電で生活をもっと便利に、豊かに」というもので、グローバルニッチに着目した商品開発、多品種少量生産、販売を手掛けていきます。岩佐氏は、IoTの進展によって、高品質の商品の多品種少量生産が可能になったからこそ、このような事業に着手できたといいます。

 直近では、2016年7月20日、ニッポン放送と共同で新コンセプトのラジオ「Hint」を開発しました。Hintは、クリアな音声でラジオを聞ける「ワイドFM」に対応し、無指向性のスピーカーを搭載し、スマートフォンの音をワイヤレスで再生するBluetooth機能を備え、ラジオで流れた音声に反応し、近くのスマートフォンにURLを通知できる、などの特徴があるとされています。そのメカニズムは以下のように図示されています。

こちら →bleradio-660x372
(https://info-blog.cerevo.com/2016/07/20/2503/より。図をクリックすると拡大します)

 まさにインターネットとつなぐことによって既存ラジオの機能を拡張し、新たな商品サービスを提供しようとしているのです。

・ウォンテッドリー株式会社
 次に、ウォンテッドリーの仲曉子氏は、ゴールドマンサックス証券、Facebook日本法人を経て、2010年9月に求人サイトを立ち上げました。その後、2012年2月、Facebookを活用したビジネスSNS「Wantedly」のサービスを開始しました。2013年11月に社名をウォンテッドリー株式会社に変更しています。

こちら →http://site.wantedly.com/

 コンセプトは、「シゴトでココロオドル人を増やす」ことだといいます。仲氏は、仕事について情熱をもって語れるヒトを増やしたいという気持ちから、この事業を立ち上げたのだそうです。仕事こそ自己実現の場であり、社会貢献の場であるべきだという思いからです。弾むような仲氏の話し方には勢いが溢れていました。若さと事業へのモチベーションの高さからきているのでしょう。

 興味深かったので、ネットで調べてみました。

 仲氏はFacebook日本法人に入社後、会社の文化や習慣を理解しようとし、貪欲に吸収していった結果、「世の中をよりオープンに、コネクトし、シェアさせる」というFacebookの理念に感銘するようになったそうです。そして、「個人をエンパワーメントする」というアイデアが気に入り、自分でもやってみたくなって開設したのが、SNS「Wantedly」でした。

 設立から約4年で、Wantedly Adminは急速に認知されていき、2016年1月時点で、「Wantedly」の利用企業数は14000社を突破しました。いまでは月間100万人が利用する国内最大のビジネスSNSになっているといいます。

こちら →利用企業推移
(http://sakurabaryo.com/results/post-2553/より。図をクリックすると拡大します)

 興味深いことに、パネリストの起業家たちは皆、このWantedlyから人材を採用していました。そのことからも、この会社が現在のビジネス状況にマッチした人材採用サービスを提供していることがわかります。

・Qrio株式会社
 さて、Qrioの西條晋一氏は、伊藤忠商事、サイバーエージェントを経て、2013年キャピタルWiLを創業しました。その後、2014年12月にはWiLが6割、ソニーが4割出資するIoT関連のQrio株式会社を立ち上げました。

こちら →http://qrioinc.com/
 
Qrioは、「ものづくりとインターネットの力で、家の中をもっと便利に楽しく」をコンセプトに、スマートロック製品の開発・製造・販売等及びその運営サービスを提供しています。スマートロックの概念図をご紹介しましょう。

こちら →qrio-security-image
(http://type.jp/et/feature/163より。図をクリックすると拡大します)

 Qrioのスマートロックは上図のように、安全に鍵の受け渡しができる仕組みが構築されています。西條氏は、ソニー独自の認証技術を駆使し、「秘密鍵」と「公開鍵」とに分けて暗号をやり取りできるシステムにすることによって可能になったといいます。ソニーと技術提携することによって、設立されたばかりのQrioが、量産可能な品質の製品を市場に出すことができたのです。

 考えてみれば、スマートロックの商機は訪れつつあるように思えます。オリンピックの開催に向けて民泊が推進されていますから、その需要は今後、急速に高まっていくかもしれません。すでに同様の商品を開発している事業者も登場し、ユーザーの観点から商品比較も行われています。

こちら →http://do-gugan.com/~furuta/archives/2015/09/qrioakerun.html

 社会的ニーズに対応した商品を開発し、量産できる品質にして市場に出したとしても、次は同業他社との競争が待ち受けています。この記事を読んで、起業家は常に試練に晒されているのだということを感じました。

・株式会社FOLIO
最後に、FOLIOの甲斐真一郎氏は、ゴールドマンサックス証券、バークレイズ証券を経て、2015年12月、FOLIOを創業しました。誰もが気軽に投資できるよう、投資運用サービスを提供していこうという事業です。

こちら →https://folio-sec.com/

 FOLIOは「資産運用をバリアフリーに」をコンセプトにしています。今後さらに深刻化する高齢社会を考えると、現在の年金レベルがどれほど維持されるか心配になってしまいます。やがて誰もが資産運用し、年金を補っていかなければならなくなるのかもしれません。そのような事態が不可避だとすれば、資産運用の敷居を低くし、利用者の使いやすさを重視した投資サービスへの需要は今後さらに高くなると思います。

 パネリスト紹介欄には甲斐氏について、「ロボアドバイザーなどの新しい投資サービスを有機的に結合した次世代証券プラットフォームを構築」と書いてありました。私は「ロボアドバイザー」のことがわからなかったので、後で、ネットで調べてみました。たまたま米国のロボアドバイザーについての記事を見つけたところ、その記事に仕組みについての概念図がありました。

こちら →
http://fis.nri.co.jp/ja-JP/publication/kinyu_itf/backnumber/2015/03/201503_5.html
 
 ちなみに、甲斐氏にはゴールドマンサックス証券などで10年ほどディーラーの経験があります。FOLIOでは上記のようなロボアドバイザーによる自動的処理に加え、顧客の個別状況に応じた提案もしてくれるようです。これが「有機的に結合したプラットフォーム」を指しているのでしょうか。いずれにしても、今後、資産運用に対する需要は高まってくるでしょうから、期待できる事業だと思いました。

■日本の課題
 若手起業家たちのスピーチを聞いているうちに、なんだかワクワクするような気分になってきました。軽やかに、スマートに、デジタル化の荒波に立ち向かっている姿がとても好ましく、日頃、日本社会に感じていた閉塞感がいつの間にか消えてしまったような気さえしました。

 西條氏が興味深い指摘をしていました。日本はアメリカや中国に比べ、人材の流動性が低すぎるというのです。ベンチャーと大企業、民間と官庁、国内中小企業とグローバル企業、等々の間で人材移動がないので、技術が浸透していかず、企業が生み出した成果物が一カ所にとどまっているのが現状だという指摘です。

 仲氏も幅広い海外での経験から、ビジネスマンはインドや中国に関心は抱いても、誰も日本を見ていないといいます。超高齢社会で新規事業を生み出す能力も疑問視されるようではなかなか関心を持たれないでしょう。それだけではなく、日本では能力に対する対価が低すぎるので、優秀な人材を引き留めておくことができず、海外から優秀な人材を呼び寄せることもできないというのです。これは西條氏の指摘とも関連しており、今後の課題として政府が抜本的な施策を講じる必要があるでしょう。

 西條氏は大企業の中では多くの若いヒトがクサっているといいます。だから、若くて優秀なヒトから順に大企業を辞めていくと指摘し、どうすれば優秀なヒトを大企業につなぎとめておけるかということを考えていく必要があるというのです。

 仲氏の意見で興味深かったのは、「イノベーション人材と大企業とのコラボが必要」だという指摘です。日本は素晴らしい技術を持っていながら、十分に活かされていない、それはマーケティングが下手だからだと分析し、イノベーションとマーケティングをうまくつなぎ、流通チャンネルを開拓していく必要があるといいます。たとえ素晴らしいイノベーションだったとしても、それを立ち上げただけでは世界では勝てないというのです。世界で勝つためには、幅広い流通ルートを持つ大企業との連携が必要だというわけです。

■第4次起業ブーム
 今、第4次起業ブームとまでいわれ、日本でもベンチャー企業を育む機運が高まってきているようです。

 すでに経産省は「グローバル・ベンチャー・エコシステム連携強化事業」を推進しており、平成27年から29年にかけての3年間で、IPO・M&Aの件数を1.5倍にするという目標を立てているほどです。ちなみにこのIPOとは株式上場のことで、株式を上場できるだけの成長企業ということを意味します。

こちら →http://www.meti.go.jp/main/yosangaisan/fy2016/pr/pdf/i02_sansei.pdf

 一方、日本ベンチャーキャピタル協会会長の仮屋薗聡一氏は、「ベンチャー企業の育成は国家の要請そのものだと認識している」とし、「現在は学生一人の優れたアイデアだけでは起業できなくなっている。(中略)起業は戦略的で、かつ高度な「大人の戦い」だ。同じ起業でもかつてとは中身がそうとう変わっている」といいます。そして、「かつてはベンチャーといえば、ICTだったが、今はベンチャーといえば、社会問題の解決だ」と指摘しています。(『週刊東洋経済』2016年7月23日号、p.74)

 さまざまな社会問題の解決にベンチャー企業が期待されているというのです。というのも、すでに成熟した市場で商機が見込めるのは、社会問題の解決を事業化するしかないからでしょう。そういう事業に既存企業は手を付けませんから、結局、ベンチャーが手がけることになります。

 社会問題の解決を事業化できれば、元々、ニーズが高い領域ですから、場合によってはベンチャーが手がけた事業が成長産業にもなりえます。そうすれば、効率化によって縮む一方の雇用の場をベンチャー企業が用意できるようになります。そうして雇用の場が広がっていけば、職がなく、収入が不安定なことから派生する社会不安は軽減されていくでしょう。

 そもそも経済成長がなければ雇用は生まれませんし、雇用がなければ、社会は不安定になっていきます。ところが、社会問題を事業化したベンチャー企業が成長産業になっていけば、その悪循環を絶つことができるのです。そのように考えてくると、いまや、社会問題を事業化したベンチャー企業の育成は、起業家だけではなく、国が戦略的に取り組まなければならなくなっていることがわかります。

 もちろん、銀行もこの動きに参入してきています。たとえば、三菱東京UFJ銀行はホームページに成長支援のページを設け、株式上場のグループでのサポート機能を掲げています。

こちら →http://www.bk.mufg.jp/houjin/senryaku/ipo/

 クラウドファンディングという方法もありますから、起業家にとって新規事業のための資金調達は以前より容易になっているのかもしれません。

■若手起業家に共通するもの
 わずか1時間ほどのパネルディスカッションでしたが、4人の若手起業家たちがしっかりとした戦略の下で事業展開していることを知って、おおいに元気づけられました。今後、超高齢社会になっても、このような若者がいる限り、日本はまだ大丈夫だという気がしてきたのです。

そして、この4人にはいくつか共通するものがあることに気づきました。以下、思いついたものを列記します。

① 「ゼロから1を創り出す」という気構え
② 「トップになりたい」というモチベーションの強さ
③ 有名グローバル企業での就業経験
④ 「世界で勝つ」という観点の下、「ユーザー視点でのサービスの開発」
⑤ 趣味

 興味深かったのは、仲曉子氏と甲斐真一郎氏の趣味です。仲曉子氏は漫画を描いていたことがあり、甲斐真一郎氏は一時、ボクサーでもあったようです。そういわれてみると、お二人とも誰もが羨ましがるゴールドマンサックス証券をあっさり辞め、新規事業を立ち上げています。創造性や闘争性が要求される趣味にのめり込んだ経験が、仲氏や甲斐氏を雇用される立場に満足させておかなかったのでしょう。

 いずれにしても私は、このパネルディスカッションを聞いて、どんよりした閉塞感からいっとき、解き放たれたような気がしました。若手起業家たちの果敢な挑戦にエールを送りたいと思います。(2016/7/24 香取淳子)

ロメロ・ブリット展:コマーシャリズム、陽気、楽観的世界観

■ロメロ・ブリット展
 7月1日、西武ギャラリー(西武池袋本店別館2F)で開催中(2016年6月22日-7月4日)のロメロ・ブリット(ROMEO BRITT)展に行ってきました。展示作品は、この展覧会のための新作に加え、原画、立体作品、海外有名人のポートレートなど約110点でした。

こちら →https://www.sogo-seibu.jp/pdf/seibu/010/20160622_romero-britto.pdf

 2016年夏、ブラジルのリオデジャネイロで南米発の夏季オリンピックが開催されます。今回のロメロ・ブリット展はそれにちなんだ企画でした。彼はブラジルを代表するポップアーティストで、2016年夏季ブラジルオリンピックでも、グローバルアンバサダーを務めています。

こちら →
http://www.britto.com/downloads/newsandevents/pressreleases/Romero_Britto_Named_Ambassador_to_2016_Olympic_Games_in_Rio.pdf

 この展覧会に行くまで、私はロメロ・ブリットのことを知りませんでした。招待券をもらったので、ネットで調べてみると、彼は1963年にブラジルのレシフェで生まれたポップアーティストで、現在、53歳です。西武デパートに出かけたついでに立ち寄ってみたのですが、世界的に著名なポップアーティストのようで、彼の作品はブラジル国内にとどまらず、世界100カ国以上の美術館、ギャラリーで展示されているようです。

こちら →http://www.britto.com/front/biography

 会場に入った途端に、陽気で楽しく、遊び心に富んだ独特の世界に引き込まれてしまいます。どの作品も、子どもはもちろん、大人でさえ、浮き浮きとさせられてしまう活力に満ち溢れているのです。おそらく、そのせいでしょう、ロメロ・ブリットは、アウディ、ベントレー、コカ・コーラ、ディズニー、エヴィアンなど、さまざまな有名ブランド企業と提携しています。

 たとえば、ディズニーのミッキーマウスも、ブリットの手にかかれば、次のようになります。

こちら →ミッキーマウス
(MICKEY’S NEW DAY, 2013、図をクリックすると拡大します)

 空にはハートマークが飛び交い、地面には文字のような、子どものいたずら描きのようにも見えるものが描かれています。ミッキーマウスとミニーマウスの背景に、ブリットならではの遊び心が加えられていることがわかります。こうして、ちょっとしたアイデアを加えるだけで、見慣れたディズニーのキャラクターが新鮮に見えてきます。

 これはほんの一例ですが、これを見ていると、さまざまなブランド企業がロメロ・ブリットと提携したがるのもわかるような気がします。既存のキャラクターやロゴに、ロメロ・ブリット風味を加えるだけで、企業のブランドイメージを刷新し、甦らせることができているのですから・・・。

 ロメロ・ブリットもまた、これらの提携事業によって、ポップなセンスにさらに磨きをかけ、現代社会での吸引力を増しています。グローバル社会に有効なブランド戦略を通して、両者にwin-win関係が築かれているように思えました。

■マティス風、ピカソ風の作品
 近年の作品には予想を超えて興味深いものがいくつかありました。ある時期のマティスやピカソの作品に影響されたと思われる作品です。ご紹介していくことにしましょう。

 たとえば、会場の入口近くに展示されていたのが、『Le Monde』(1016×648㎜、2014)です。

こちら →IMG_2328

 顔から首、そして、肩から下にかけて、真ん中で二つに分割され、色分けして描かれています。目と乳房は色も形態も異なって描かれ、アンバランスで不安定な雰囲気が醸し出されています。さらに、首から肩にかけての右半分、左の乳房を新聞の切り抜きで構成されており、斬新な現代性が感じられます。

 この作品のルーツを辿れば、マティスに行きつくのかもしれません。顔を真ん中で二つに分割し、左右で色分けしたところなど、マティス(1869-1954年)の作品、『マティス夫人(緑の筋のある肖像』(1905年)に似たところがあります。

 大胆に単純化し、平面的に構成し、色彩を強調したところは、マティスのさらに後年の作品、『PORTRAIT OF LYNDA DELEGTORSKAYA』(1947年)によく似ています。

こちら →tr
(http://www.henri-matisse.net/paintings/eh.htmlより)
(図をクリックすると拡大します)

 ピカソ(1881-1973年)には、さらによく似た作品があります。シュールレアリズムの時期に描かれた作品で、『本を持つ女性』(1932年制作)です。

こちら →woman-with-book-1932
(http://www.wikiart.org/en/pablo-picasso/woman-with-book-1932より)
(図をクリックすると拡大します)

 単純化され、図案化された顔や胸の描き方、鮮やかで洗練された色彩の配置など、この作品にも、最近のブリットの作品に通じるものがあります。ポップアーテイストのロメロ・ブリットはおそらく、シュールレアリズム期のマティスやピカソの影響を受けていたのでしょう。

■コラージュの力
 入口近くに展示されていた三点の女性像はいずれも新聞の切り抜きを多用したコラージュ作品です。その中で、モチーフを単純化し、歪曲化し、平面的に構成した画面の中で色彩の力を際立たせることによって、都会的で洗練された美しさが感じられる作品もあります。

 たとえば、『Marilete』(1016×597,2015)です。

こちら →IMG_2329
(図をクリックすると拡大します)

 髪の毛の部分はすべて新聞の切り抜きで構成されており、とくに向かって右半分の顔下から首にかけては新聞の写真です。顔と首は真ん中で二つに分割され、右半分が白、左半分が灰色で着色されています。目も菱形である点で左右、共通しているのですが、虹彩部分の色は左右で逆になっています。

 興味深いのは首の部分で、荒いタッチがまるで子どものいたずら描きのようです。紫色の背景の下からはみ出すように、新聞の文字が見えています。そのような背景処理の中に野性味が感じられる一方、この女性の物憂い表情からは、都会的で、知的な印象を受けます。この絵は現代社会の不確実性、非現実性、非身体性が巧みに描出されており、展示作品の中でもっとも心惹かれた作品でした。

 次のような作品もあります。

こちら →IMG_2330
(Pernambucan, 1016×648, 2014)
(図をクリックすると拡大します)

 この作品では顔の右半分に新聞の切り抜きが使われ、その上部は写真で構成されています。よく見ると、首から胸、右上腕部など肌が見えているところは新聞の切り抜きが透けて見えます。新聞の切り抜きの占める割合が画面全体から減っているのに反し、三角や台形など、直線で構成された図形が多用されています。しかも、補色関係にある原色が相互に引き立つように配置されているので、ポップな印象が強化されています。

 極端に単純化したモチーフに文字や図形を配置し、多様で多元的な世界を生み出しています。このような表現から、ブリットがきわめて繊細で洗練されたセンスの持ち主だということがわかります。だからこそ、複雑で人工的な現代社会を的確に掬い上げ、優しく浮き彫りにしていくことができたのでしょう。

■フリーダ・カーロのポートレート作品
 たまにはポップアートを見るのも悪くはないと軽い気持ちで、書店に出かけたついでに会場を訪れたのですが、さらに興味深い発見がありました。

 マリリン・モンローやエリザベス女王など有名人のポートレート作品が展示されているコーナーに、メキシコの女流画家フリーダ・カーロを描いた作品があったのです。ブリットが描いたフリーダ・カーロは、私が彼女に対して抱いていたイメージとはまったく異なるものでした。

 フリーダ・カーロについてご存じない方のために、簡単に説明しておきましょう。

 ドイツ人の父とメキシコ人の母との間に生まれたフリーダ・カーロ(1907-1954年)は、子どものころに患った急性灰白髄炎のせいで、足の成長が止まり、以後、やせ細ってしまったそうです。さらに、18歳のとき、バス事故に遭遇し、その後も後遺症で悩まされ続けたといいます。絵に目覚めたのはそのころで、以後、彼女は画家としての道を歩むようになります。

こちら →フリーダ・カーロ
(Wikipediaより)

 見栄えのしない体躯を隠すためか、フリーダ・カーロはメキシコの民族衣装を着ることが多かったといわれています。事故の後遺症に悩まされ続け、さらに、当時のメキシコ社会の政治状況にも翻弄されながら、フリーダ・カーロは力強く生きてきました。メキシコの現代絵画を代表する画家であり、インディヘニスモの画家としても知られています。

 苛酷な運命に立ち向かい、強く生きてきたフリーダ・カーロに、多くの女性たちは気持ちを通わせ、深く共感したのでしょう、彼女の一生を描いた映画、『フリーダ』が2002年にアメリカで制作されました。日本でも2003年に公開されています。

こちら →http://frida.asmik-ace.co.jp/about_frida.html

 国境を越えて多くの女性を捉えて離さない魅力が、フリーダ・カーロの生き方にはあるのでしょう。2004年、死後50年を経て、写真家・石内都氏は彼女の遺品の撮影を依頼されました。映画監督・小谷忠典氏は3週間にわたる撮影過程を密着取材し、ドキュメンタリー映画に仕上げました。

こちら →http://legacy-frida.info/

 フリーダ・カーロの遺品の背後に、メキシコの風土や伝統、生活文化などが見えてきます。まさに写真という記録媒体を通して、日本の土着文化にも通じる記憶が甦ってきます。

 さて、フリーダ・カーロには数多くの自画像が残されていますが、ロメロ・ブリットが参考にしたのは、頭に花束を載せた、この作品ではないかと思います。

こちら →フリーダ・カーロ自画像
(Wikipediaより。図をクリックすると拡大します)

 着飾ってはいますが、現代の美的基準からはほど遠く、お世辞にも美しいとはいえません。口の下にはひげがあり、眉も濃く太く、横眼で投げかける視線はとても強く、ちょっと恐いほどです。この風貌だけで、自立を求めて奮闘してきた女性だということがわかりますし、いかにも無骨で、意固地で、不器用で、しかも、激情の持ち主のようにも見えました。

 彼女は民族衣装を好んで着用していたといわれていますが、それも納得できるような気がします。ただ、この絵をしばらく見ているといつしか、花や木々の香りがし、鳥のささやきが聞こえ、風のそよぎが感じられるようになります。不思議なことに、描かれたフリーダ・カーロさえ、とても美しく感じられるようになってくるのです。大地に根を下ろし、連綿と受け継がれてきた土着文化の美しさは時間をかけないとわからないものなのかもしれません。

 どういうわけかフリーダ・カーロは、花や動物に囲まれた自画像をたくさん描いています。生涯にわたって200点を超える作品を残しているといわれていますが、その大半が自画像だったといいます。そして、自画像として彼女自身が捉えた姿はいずれも、この絵のように無骨で力強く、現代社会のいわゆる「愛される」女性像とはほど遠いものでした。

 ところが、ロメオ・ブリットがフリーダ・カーロを描くと、次のように変貌します。

こちら →IMG_2331
(図をクリックすると拡大します)

 なんと無邪気で可愛く、愛らしいのでしょう。もちろん、太い眉、黒い大きな目などの特徴はしっかりと描かれています。ですから、この絵がフリーダ・カーロのポートレートだということはすぐにわかるのですが、一目でわかる特徴を備えていながら、このポートレートのフリーダ・カーロはまるで別人に見えます。

■ロメロ・ブリットの陽気な楽観的世界
 自画像に見られた荒々しい野性味は消失し、幼い愛らしさだけが際立っているのです。二つの作品を見比べてみて、同じモチーフを扱いながら、作者の文化的基盤の違いが色濃く反映されていると思いました。

 フリーダ・カーロの自画像から見えてくるのが、生まれ育った土地や生活文化にこだわる土着文化の世界だとすれば、ロメロ・ブリットが描いたポートレート作品から見えてくるのは、国境を越えて、老若男女、誰にも幅広く受け入れられるグローバル文化の世界といえます。その幅広い流通を可能にするのが、敷居の低さであり、あらゆるものを肯定しようとする楽観的世界といえるかもしれません。

 フリーダ・カーロの自画像とブリットのポートレート作品を見比べてみると、ロメオ・ブリットの物事の捉え方、気持ちのありようがわかってくるような気がします。ロメオ・ブリットの作品はヒトを快くさせる楽観性と柔軟性に満ち溢れているのです。おそらく、この点にブリットが数多くの有名ブランド企業から提携話が持ち込まれている要因があるのでしょう。会場でさまざまな作品を見ていくうちに、グローバルに展開されるコマーシャリズムには、ロメロ・ブリットの作品のように、陽気で他愛なく、楽観的な世界観が不可欠なのだという気がしてきました。(2016/7/18 香取淳子)

森聡展:「ありふれたもの」「なにげないもの」に潜む煌きを求めて

■森聡展
 2016年6月18日、森聡展(2016年6月14日~19日、GALLERY KINGYOで開催)に行ってきました。

こちら →http://www.gallerykingyo.com/

 土曜日の夕刻、わざわざ出かけたのは、たまたま手にした案内ハガキの絵に惹かれ、ぜひとも本物を見てみたいと思ったからでした。

こちら →IMG_3019
(little landscape・flower、麻紙、岩絵の具、2013年、画像をクリックすると拡大されます)

 陰影のある黄土色の花々の中に、赤みがかった褐色の花が一枝、配置されています。一見、孤立したように見えるその花の葉が、花瓶の色調とみごとに調和しており、活けられた花と花瓶との一体化が図られています。

 さらに、背景色がとても印象的でした。上方は黄色を含んだ暖かみのある水色ベースの色で覆われ、下方に向かうにつれ、赤系統の色が滲み出し、流れるように、縦方向で幾筋も加えられています。

 私が惹きつけられたのはこの背景色であり、花と花瓶の色彩と形状でした。そこには洗練された調和があり、都会的な美しさが感じられます。見に来てよかったと思いました。この絵は展覧会への案内役をみごとに果たしたのです。

■『ある夜』
 画廊に入ってすぐ正面に展示されていたのが、『ある夜』(2273×1818㎜、綿布、岩絵の具、2014年)です。

こちら →160616-14
(画像をクリックすると拡大されます)

 この絵を見たとき、まず、その色相に目が引きつけられました。補色関係にあるといってもいい色と色が、まるでぶつかり合うように、大胆に使われていたのです。もちろん、モチーフに固有の色とは異なっています。おそらくそのせいでしょう、ひっそりとしたモチーフの佇まいとは逆に色彩からは、自由、奔放、荒々しさが印象づけられました。

 一方、モチーフの形状やタッチからは、夕刻の風景が想起させられました。どの町角でも見受けられる、寂しさと哀しさ、時には愛おしさまでも入り混じった、あの一種独特の光景です。活動的な昼が終わりを告げ、静寂に包まれた夜を迎えようとする夕刻ならではの寂寥感です。『夕焼け小焼け』の歌を聴くたびに感じてしまうペーソスが、この絵全体に漂っているように思えました。

 ちょっと引き下がってこの絵をみると、黄色系をベースにした色調の空に、青い色調の和風建築物が映えているのがわかります。黄色系と青色系の色がぶつかりあって、互いに引き立て合っているからでしょうか、蔵のような建物が不思議な存在感を放っています。

 この建物は一見、蔵のように見えるのですが、よく見ると、左側に呼鈴のようなものがついています。また、正面を見ると、瓦があるので日本の建物に見えますが、高いところの円窓とその下の半円形の窓は異国の雰囲気を漂わせています。

 さらにいえば、壁は漆喰の土壁ではなく、レンガで作られています。日本のモチーフのように見えて、実は、そうではない。どこにでもありそうでいて、実は、どこにもない。そのような不在のリアリティのようなものがこの作品から醸し出されているのです。

 ちょうど在廊されていた森氏に尋ねてみました。

 蔵だと思い込んでいた建物が、実は、森氏のご自宅近くにある教会だったことがわかりました。身近なもので、しかも、さまざまな思いを仮託できるモチーフとして、この教会を選ばれたそうです。そして、呼鈴のように見えたものは教会の鐘でした。

 この絵を最初に見たとき、私は黄色系と青色系のぶつかり合いに強く印象づけられました。イタリア留学時に卒業作品として制作されたものだったということを知って、ようやく、この絵から受けた不思議な感覚の謎が解けたような気がしました。

■イタリア留学
 森氏は2012年から2015年にかけての2年半、イタリアのフィレンツェ国立美術学院大学院絵画学科に留学していました。大学院修了のための作品として手掛けたのがこの作品です。綿布に日本画の材料である岩絵の具、現地のフレスコ画の顔料を使い、3か月かけて仕上げたといいます。

 そもそも森氏は美大で日本画を学んでいました。卒業後は羽子板の絵付けなど、日本画に関連する仕事をしていたといいます。そして、伝統的な日本画ではなく、現代ならではの日本画を目指して、イタリアに留学しました。ですから、フィレンツェで卒業制作を手がけた際、フレスコ画の画材と日本画の画材を使ったのは当然のことなのです。

 森氏はいいます。
「フィレンチェは遠近法が生み出された町です。遠近法で描いた壁画が今もまだ残っていますよ」

 Wikipediaで調べてみると、たしかに、1400年初、建築家のブルネレスキがフィレンツェの建築物の輪郭を写し取ることによって、幾何学的な方法で遠近法を実証することに成功したとされています。その後、フィレンツェでは遠近法を利用した芸術が急速に開花したようです。

 たとえば、フィレンツェのサンタ・マリア・デルフィオーレ大聖堂の『最後の審判』がそうです。

こちら →

Dome, Florence, Italy

Dome, Florence, Italy


(Wikipediaより、画像をクリックすると拡大されます)

 大聖堂の天蓋を見上げると、遠近法を使うことによって見事な三次元空間が描出されていることがわかります。

 フィレンツェに留学した森氏は、伝統的な西洋画を現地で見たいだけ見ることができたといいます。多くの西洋画を見ることによって、画家としてこれから進むべき方向性を探ることができたようです。

■イタリアで得たもの
 伝統的な日本画を超えた作品を目指し、敢えて西洋画の本場フィレンツェに学びにきた森氏は、そこでいったい、何を得たのでしょうか。

 森氏はいいます。

 「画力を鍛錬するには伝統を模倣するのも必要ですが、それだけで満足することはできません。現代の絵画なら、現代的要素を持ち込む必要があります」

 そして、自分の作品を創り出そうとすれば、自分なりの視点、画法を持たなければならないことをフィレンツェで再確認したというのです。

 イタリアの美術界を見渡すと、伝統に圧倒されて、若いヒトが新しい作品を出しにくい状況だと森氏はいいます。それでも現地の若い芸術家たちはオリジナルな表現を求めて模索し、さまざまな実験を試行していました。そのような若い芸術家たちと交流する中で、森氏もまた、創作に臨む姿勢を再考させられていったようです。

 なぜ、このモチーフでなければならないのか、この表現でなければならないのか、そして、この構図でなければならないのか・・・、等々。制作姿勢をしっかりとしておかなければならないと思うようになったと森氏はいいます。描くという行為の背後にある観念的、思想的基盤を堅固なものにしておくことの重要性に気づかされたのでしょう。

 留学生は中国人が多く、フランス人、リトアニア人、イラン人などもいたそうです。彼らが描く絵を見ると、ヨーロッパは文化の基本が共通しているせいか、国が違ってもヨーロッパ人はどこか似たような作品を制作していたといいます。ところが、文化の基本が異なるイラン人などは、同じモチーフを描いてもオリジナルカラーが作品ににじみ出ていたと森氏は振り返ります。

 日本を離れ、数多くの西洋画を見、さまざまな海外のアーティストと交流して初めて、画家としての文化的基盤の重要性に森氏は思い至ったのでしょう。イタリア留学後、絵に変化が生じています。

 試みに、2013年に制作された作品を見てみることにしましょう。

こちら →http://www.satoshi-mori.com/works2013.html

 2013年の作品は、モチーフが木になりますが、いずれもシルエットとして描かれています。前半は鮮やかな色彩で彩色されていますが、後半はその色彩すら消し去ろうとする気配がみえます。

 たとえば、2013年後半の作品、”view trees”は色彩の要素が除かれ、ベージュと白、黒で表現された作品になっています。その後の”white shade”になると、さらに黒が取り除かれ、白とベージュで表現されています。これは、いったん描いた作品の上から白を塗り、色彩を消すことによって、下からシルエットが浮き彫りになって見える作品です。

こちら →160617-a
(画像をクリックすると拡大されます)

 このように、2013年の絵の変遷過程を見ていくと、森氏がイタリアで何を学び、どのような影響を受けたのかを推察することができます。

 モチーフとして「樹」(ありふれたもの)を選び、まるで日本文化を象徴するかのようにシルエット表現を取り入れ、色合いにイタリア文化を反映させています。これらは、日本文化とイタリア文化のハイブリッド作品であり、普遍化を目指した作品ともいえるでしょう。

 この時期、シンプルな表現に向かっていることから、森氏が描くことの本質、絵画の本質に迫ろうと苦闘していたことがわかります。一連の作品は、本質を見極めようとする意欲の反映であり、イタリアに行ってはじめて掴み得た創作の極みともいえます。

■ゲーム、デザイン、水彩画を経て日本画へ
 森氏がめざすのは伝統的な日本画ではなく、西洋画の影響を受け、その骨法を踏まえたうえで表現される日本画です。ハイブリッドな日本画をめざそうとしているからこそ、森氏は、西洋画の本場ヨーロッパに行って学ぶ必要があると一念発起したのでしょう。

 それでは、なぜ、日本画を軸にして、普遍的でハイブリッドな作品を志向するようになったのでしょうか。森氏に尋ねてみました。

 森氏は子どものころからの美術への関わりを語ってくれました。

 子どものころはゲーム好きだったので、グラフィックデザイナーになりたいと思い、美術系予備校では最初、デザイン科に属していたそうです。ところが、その隣に日本画科があり、そこでたまたま見かけたアメリカ人画家 Winslow Homerの作品に惹きつけられ、美大は日本画を志望したといいます。

 美大に入ってからは日本画の画材や顔料に興味を覚え、制作にのめりこんでいたようです。日本画は薄塗りができるし厚塗りもできる、おまけに箔もつけられるので表現の幅が広いのです。岩絵の具は重ね塗りの変化を楽しめますし、色の空気感を醸し出すことができます。さらに、色の滲みで多様な表現をすることができます。だから、好きだと森氏はいいます。

 しかも、日本画は、油絵ほど明暗や遠近、空間表現が厳密ではありません。そのような点も、森氏には馴染みがよかったようです。

■小さなランドスケープ
 そういえば、この展覧会のタイトルは「小さなランドスケープ」です。メインの展示作品も2016年に制作された、いくつかの「little landscape」でした。いくつか印象に残った作品を見ていくことにしましょう。

 たとえば、こんな作品があります。

こちら →160616-7
(画像をクリックすると拡大されます)

 見上げるような巨木が画面いっぱいに描かれています。葉と幹、そして、幹を覆う別の植物などがきめ細かく描かれており、森の生態系が凝縮されて表現されているかのようです。森氏に尋ねると、実際に山に出かけてスケッチをし、その場の空気感を大切にしながら、描いていくのだそうです。

 こんな作品もあります。

こちら →IMG_3017
(画像をクリックすると拡大されます)

 下の白いのは切り株だそうです。二本の大きな樹の下に、ひっそりと佇むような恰好で白い切り株を配置した構図が面白いと思いました。成長と衰退とが比喩的に表現されているように思えたからです。

 さらに、こんな作品もあります。

こちら →160617-1
(画像をクリックすると拡大されます)

 紅葉した樹なのでしょうか、抑えた色合いでありながら、燃えるような印象を与える黄色系の色彩とその描き方に惹かれます。

 一連の「little landscape」を見ていると、森氏は同じようなモチーフを取り上げ、色彩を抑えたなかで繰り返し、木の表現を追求しているように思えます。まるで求道者のような制作活動の中から、森氏はやがて何らかの境地に到達していくことでしょう。こうしてみていくと、今回の個展に際し、森氏が書かれていることがよく理解できるような気がします。

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 絵に描かれた形象が何であるのか、というより、描かれた形象によってどのように絵画が成り立つのか、というところに興味があります。
 最近は、いくつかの身近な、ありふれた風景を対象にして描いています。同じような対象を反復することによって、ありふれた眺めの中に、ありふれてはいない、そのときにしか立ち現れないものを画面に定着できるように意識しています。(森 聡)
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(http://www.gallerykingyo.com/index.htmlより)
 
■「ありふれたもの」「なにがないもの」に潜む煌き
 森氏の作品歴を見ると、2010年から2011年にかけてはペンギンをモチーフとした作品が多くみられます。

こちら →http://www.satoshi-mori.com/works2010-2011.html

 引き続き、2012年前半にかけてもペンギンがモチーフとして取り上げられていますが、後半には『ありふれたこと』『なにげないこと』といったタイトルの作品が手がけられるようになります。

こちら →http://www.satoshi-mori.com/works2012.html

 これはちょうどイタリア留学の時期に相当します。この時期がおそらく森氏にとっての転機だったのでしょう。これ以後、「ありふれたもの」、「なにげないもの」の中に潜む存在の本質、あるいは存在の意義、あるいは存在の煌き、といったようなものへの関心が芽生えていったような気がします。

 そういえば、大好きだったゲームも平面から3Dに移行した途端に興味を失い、やはり平面がいいと思うようになったと森氏が言っていたことを思い出します。比較の対象を得たことで評価基準が生まれたからでしょう。

 これを敷衍すれば、帰国後の創作活動を経て、森氏は描くことの本質につながるなにかをすでに見出しているかもしれません。実際、今回の個展で帰国後の一連の作品を見ると、その傾向はさらに深化されています。おそらく、そう遠くない将来、森氏はなんらかの発見をし、新たな境地を切り拓いていくことでしょう。

 「ありふれたもの」「なにげないもの」に潜む煌きを求めて、模索しておられる若手画家・森聡氏の今後に期待したいと思います。(2016/6/21 香取淳子)