■母危篤の知らせ
「母、危篤の知らせ」を受け、翌朝7月17日の新幹線に乗って、入院先の病院に向かう途中、「今、亡くなりました」と義妹から連絡が入りました。午前9時35分、医師である弟に手を取られ、安らかに旅立っていったということでした。
実は、その8日前の7月9日、母を見舞いに病院を訪れたばかりでした。その時は熱もなく、呼吸も比較的順調で、血圧も安定していました。ただ、尿が出ないので、弟は心配していました。
母は一見、健康そうに見えましたが、手や足を見ると、確かに浮腫んでおり、腎臓や心臓の機能が低下していることは明らかでした。
母は眠っていましたが、私が来たことに気づいたようで、「おかあさん!」と呼びかけると、顔をこちらに向けて、しっかりと視線を合わせてくれます。「来たよ」というと、微かに頷くような素振りを見せてくれました。私の声を認識し、できる限りの反応を示してくれたのです。
しばらくすると、母はうとうとして眠り込んでしまいました。顔色がよく、呼吸も比較的安定していましたが、母は呼びかけに応えるだけでも、相当、エネルギーを消耗していたのでしょう。
再び、「お母さん」と呼びかけてみました。すると、そっと目を開けて私を追い、じっと見つめた後、かすかに頷いてくれました。とても澄んだ目をしていたのが印象的でした。しっかりと脳が働き、意識が活性化している証拠です。
そう思った瞬間、母は私を見つめたまま、「ガァー」という大きな声を出しました。音といった方がいいのかもしれません。ちょっと驚きましたが、一緒に母を見舞っていた弟夫婦は、「久しぶりに声を出した」といっていました。
微かに頷き、大きな声を出し、目はしっかりと私を見つけていましたが、母はまもなく目を閉じてしまいました。
目を閉じた母の寝顔はとても穏やかに見えました。安心しきったような安らかさがあり、ほっと気持ちが和みます。肌の艶はよく、頬にはわずかながら、赤みがさしています。素人目には母の健康状態はとてもいいように思えました。6月末に危篤状態に陥ったとは思えないほどの回復ぶりでした。
思い返せば、母は何度も、生死の境を乗り越えてきました。施設の高齢患者がコロナに感染して数名が亡くなった際は、母だけが無事でした。肺炎にかかった際も、危篤だといわれながら、なんとか持ち直し、以後、小康状態を保ってきました。母は基礎体力に恵まれていただけではなく、運にも恵まれていたのでしょう。
なんどか危篤状態に陥りながらも、母が長寿でいられたのは、医師である弟のおかげでした。弟は母の体調に変化があると随時、担当医と連絡を取りあい、最善の処置を施してきました。だからこそ、母は命を永らえさせることができていたのです。
母の長命はひとえに、基礎体力に恵まれていたこと、医師である弟の見守りがあったこと、等々に依るものでした。
ただ、母はすでに102歳を迎えています。
これ以上、長くいても母に負担をかけるだけだと思い、眠っている母に、「また、来るね」とだけいって、私は病室を後にしました。去り際に振り返ってみると、母は目を閉じたまま、顔をこちらに向けていました。迷いのない、とても安らかな寝顔でした。
それが、母との永遠の別れになってしまいました。
■善正院釋尼翠徳
7月17日、母に会いに行く途中の新幹線の中で、訃報を受けました。義妹からは、「これから母を自宅に連れて帰るので、病院ではなく、家に来てほしい」と連絡がありました。
実家に帰ると、離れにある仏間に母は寝かされていました。顔には白い布、身体には白い布団が掛けられています。白い布を取ると、母の顔にはまだ生気がありました。いつものように、ただ眠っているだけのように見えます。
ところが、白い布団の下の身体にはドライアイスが施されており、母はもはやこの世の人ではありませんでした。穏やかな寝姿を見せていながら、実は、私たちの手の届かない世界に、母は旅立ってしまっていたのです。
母が亡くなった後、ご住職が枕経をあげに来られた際、弟は戒名について相談していました。是非とも「徳」の字を入れてほしいと頼んでいるのが聞こえてきましたが、私もまったく同感でした。「名は体を表す」とはよくいったもので、母は、「徳子」という名前の通り、常日頃、「徳のある行い」を実践してきた人でした。
困った人がいれば、なんとか助けになろうとし、苦しんでいる人がいれば、そっと傍らにいてあげようとする母の姿を、子どもの頃から、私は見てきました。まるで修行を積んだ僧侶のように、母はごく自然に、徳のある行いができる人だったのです。それだけに、法名に「徳」の字を入れてほしいという弟の願いは、家族の誰もが共有するものでした。
さらに、弟はご住職に、戒名に「院号」をつけてほしいと要望していました。院号とは、寺院や社会に大きく貢献した人に贈られる格式の高い法名を指します。弟は、父と同様、母にも院号をつけてもらえるよう願ったのです。
ご住職はそのような弟の思いを汲んで、本山に申請してくださり、承認されて授与された法名が、「善正院釋尼翠徳」でした。
まず、院号として「善正院」、次いで、道号として「釋尼」、そして、法名として、母の名から一字取って、「翠徳」と名付けられました。付け加えられた「翠」は、宝石の「翡翠」のイメージから、「生前の行いや人柄が、宝石のように美しく光り輝き、多くの徳を積んだこと」を讃える意味になるそうです。
徳を積み、気品のある生き方をしてきた母にはぴったりの法名です。生前の生き方を引き継いだ意味の法名をいただき、母はこれからも、仏の弟子としての存在を確かなものにすることができるでしょう。
そう思って、遺影写真を見ると、気のせいか、母の穏やかな微笑みが、安堵の表情に変わったように思えます。
この遺影写真は、弟夫婦が選びました。撮りためた数ある写真の中から、日頃の母をよく表しているものが選ばれています。母はこの写真のように、穏やかで慎ましく、物静かな人でした。目立つことを嫌い、控え目で、いつも人の後ろにいようとするような人でした。
対人関係では、消極的だと思える母でしたが、生き方には、凛とした姿勢がみられました。自分が生きていくための軸、あるいは、指針を母は堅持していたのでしょう。その軸に沿って、母はどんな場合も気高く、強く、しかも、しなやかに生きてきたように思えます。
母には気丈な精神を支えるだけの身体的な強さがありました。90歳ごろまでは自転車に乗ってスーパーに買い物に行き、自分で献立を考えては調理していました。ラジオ体操を欠かさず、屈伸運動をしても、床に楽々と手がつくほどのしなやかさを保っていました。
そんな母でも、100歳前後になると、身体の自由が利かず、言葉のやり取りもできなくなっていました。母は徐々に、身体の自由をなくし、やがて言葉すら失っていきました。そして、最晩年には、呼びかけに反応しようとして、声を出しても、言葉にはならず、しわがれた音がでるだけでした。
もはや家族や親族ともコミュニケーションを取れなくなっていましたが、不思議なことに、私を見つめる母の目には聡明な光が宿っていたのです。目の表情や視線の動きの中に、わずかに母の意思を感じることはできたのです。
最晩年でも、母は、少なくとも人がいることは認識できており、呼びかけには応えようとしていました。なんとか言葉を発しようとし、発声できるだけの意志と行動がありました。発話はできなくなっていましたが、母の目は澄み、そこにはすべてを見通しているような知性がありました。
最期まで聡明さを失わなかった母でした。
そして、母はついに、不自由な生活に母は終止符を打ちました。2026年7月17日9時35分、身体の不自由、コミュニケーション不可能の状態から、母は解放されました。現世の辛い拘束から解き放たれ、そのまま浄土で生まれ変わり、仏となったのです。
■阿弥陀如来とともに
2026年7月19日(日)18:00から通夜式、20日(月)14:00から告別式が、浄土真宗本願寺派の親族葬として行われました。
花に包まれ、祭壇から微笑む母には、人生を完了させた充実感が感じられました。その母の下に、家族や親族が集まって、お別れをしてくれました。縁の深い人々に旅立ちを見送られ、母はさぞかし満足していたことでしょう。
浄土真宗には、「往生即成仏」という教えがあります。
親鸞聖人は、「人が命を終えた時、阿弥陀如来の働きによって、迷いの世界から浄土へ生まれ、そのまますぐに悟りを開いて仏になる」と説きました。「この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となり」とされ、成仏するのに、さまざまな段階を経る必要がないのが、他の宗教とは異なる浄土真宗の特徴なのです。
母は息を引き取った瞬間から、阿弥陀如来の下に庇護され、「摂取不捨」と呼ばれる絶対的な救いの中に置かれました。「摂取」とは、「あたたかい光で包み込み、しっかりと救い取ること」とされ、「不捨」とは、「どんなことがあっても、決して捨てないこと」とされます。
阿弥陀如来が一度その慈悲の中に包み込んだら、決して見捨てることはなく、見放すこともないというのです。このような教義の下、母は、息を引き取った瞬間から、阿弥陀如来に見守られ、心おきなく極楽浄土で過ごすことができているのです。
このような浄土真宗の特徴は、ご住職による読経の仕方にも表れていました。
ご住職は、母が亡くなって自宅に安置されていた際、臨終勤行をあげてくださいました。その時、ご住職は、安置されている母ではなく、仏壇の阿弥陀如来に向かって、正信偈を唱えてくださいました。母はすでに阿弥陀如来の下にいて、守られているからです。阿弥陀如来に向かって読経することは、すなわち、母を弔っていることになるのです。
その後の通夜式、告別式での読経も同様でした。
浄土真宗では、亡くなると同時に誰もが極楽浄土へ往生し仏になる(往生即成仏)と考えます。ですから、お経は、「故人を迷わずに成仏させるため」ではなく、「故人を救ってくださった阿弥陀如来への報恩感謝」のために唱えられるのです。
整理すると、浄土真宗では、能力、善悪、身分に関係なく、すべての人が救いの対象になります(無条件の救い)。しかも、一度その慈悲の中に包み込んだら、決して見捨てず、見放しません(摂取不捨)。ですから、誰もが命が尽きたとき、苦しみのない極楽浄土へ導かれます(極楽浄土への往生)。その結果、この教義の下では、人は大いなる力に守られているという絶対的な安心感を得ることができるのです(現世での安心)。
さて、浄土真宗で最も日常的に、そして、幅広く読経されているテキストが、「正信偈」です。浄土真宗の家庭では、仏壇の前で毎朝、毎晩唱える日常の習慣として広く定着しています。
■正信偈
「正信偈」は、正確には「正信念仏偈」といい、親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収された偈文を指します。文明5年(1473年)3月に、本願寺第8世蓮如上人によって、僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定されました。以来、一般の門徒にも浄土真宗の中心的なテキストとして使われています。
また、亡くなった直後の「臨終勤行(枕経)」や通夜、葬儀の場でも、故人を偲び、阿弥陀如来の教えを聞くために必ずと言っていいほど読まれます。法事や法要、お盆やお彼岸、お寺の「報恩講(親鸞聖人の法要)」など、ほぼすべての法要で読経されます。
その「正信偈」の第一段は、次のような文言で始まります。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
現代語訳は、「生きとし生けるものを喚び覚ましてやまない無量寿如来に帰命し、思いはかれない智慧のみ光に帰依いたします」となります。
(※ https://mjj.or.jp/syoushinge/syoushinge4)
このように親鸞は、阿弥陀如来とは光明そのものであり、その光がすべての人々を照らしており、念仏という方便を通して人に働きかけると述べています。
そして、「正信偈」の続きは次のようになっています。
法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所
睹見諸仏浄土因
国土人天之善悪
建立無上殊勝願
超発希有大弘誓
上記の現代語訳は次のようになります。
「阿弥陀仏がまだ修行中の身(法蔵菩薩)であったはるか昔、世自在王仏という仏様のもとにいらっしゃいました。法蔵菩薩は、あらゆる仏の国々(浄土)がどのようにして出来たのか、そしてそこに住む人間や天人の善悪の姿をすべて見極められました。そして、それらの国々よりもはるかに優れた、この上なく素晴らしい願い(四十八願)を建て、過去に誰も建てたことのない稀で偉大な誓い(本願)を起こされたのです」
(※ https://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/shoshinge05.html)
法蔵菩薩は、すべての人々を救うために、「四十八の誓い(四十八願)」を立てて、長い修行に励みました。その中にある「私の名前を唱えた者は、一人残らず極楽浄土へ往生させる」という誓い(第十八願・本願)を成就し、阿弥陀如来という仏になりました。
その阿弥陀如来を頼って、死後、極楽浄土に生まれ変わることを願うのが、浄土信仰です。「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰もが救われると説くもので、大乗仏教の一つです。
大乗仏教は、すべての生きとし生けるものを救うことを目的とし、悟りを開くために修行し、他者を救うために実践することを重視します。紀元前後のインドで、伝統的な仏教の改革運動として興り、中国、朝鮮半島を経て、日本に伝わりました。日本で信仰されている仏教は、この大乗仏教に含まれます。
阿弥陀如来は、大乗仏教における最も重要な仏様の一尊で、西方極楽浄土の教主です
■親鸞はなぜ、阿弥陀如来を本尊としたのか?
親鸞が、阿弥陀如来を本尊としたのは、人間が自分の力で悟りを開くことができない煩悩の深い存在だと自覚しており、すべての人を救うには「阿弥陀の本願(他力)」こそが唯一無二のものだと考えたからでした。(※ https://jyokoji-takachiho.com/jodo-shinshu/)
そういえば、親鸞は90歳の時、体調を崩し、徐々に衰弱していったことを思い出しました。目はよく見えず、身体の自由は効かず、やがて床に臥すようになってからは、世俗の話は口にせず、ただ仏の御恩について話し、ひたすら念仏を称え続けたといいます。
(※ https://www.shin.gr.jp/shinran/kyoto2.html#k2-3)
親鸞は、言葉を「人間が作った不確かなもの」と認識しながら、「仏の救いに触れるための唯一の架け橋」とも認識していました。
親鸞は、仏像や絵像など姿かたちのあるものよりも、「南無阿弥陀仏」という文字を最も根本的な御本尊としました。それは、言葉こそが、阿弥陀仏の「救いの働きそのもの」を表していると考えるからです。
親鸞は、名号(文字、言葉)を御本尊とする理由として、以下4点をあげています。
① 阿弥陀仏という究極の真理(光や命)は、本来は形も色もなく、言葉を超えた存在。
② 形なき真理が、私たち凡夫(人)に届くために「南無阿弥陀仏」という名(言葉)となって現れ、声(念仏)と文字(経文)による救いとなる。
③ 親鸞は「絵像よりは木像、木像よりは名号」と記し、姿よりも名号を尊ぶ姿勢を徹底させた。
④ 「南無(信じる)」と「阿弥陀仏(救う)」が一体となった名号は、唱えさせる力があるだけでなく、阿弥陀仏からの贈り物(他力)であることを象徴する。
これで思い起こすのは、最晩年の母の姿です。
102歳まで生きた母は、衰弱して身体の自由を失っただけではなく、言葉も出せなくなっていました。ただ、目の動きから、意識活動はできているように見受けられました。
90歳まで生きた親鸞も、晩年は衰弱し、身体機能が衰え、目もよく見えなくなっていたといいます。身体機能が不自由になった親鸞は、抽象的な言葉の力で生き抜きました。言葉は身体を超えることができるからです。
そのような誰にも訪れる末期の状態を見据えたのか、親鸞は、阿弥陀如来の本願による「他力本願」と「念仏」による救いを説きました。自分の力によって修行することが難しい場合、阿弥陀仏による救いの力を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰もが救われると説き、人々を安心させたのです。
そして、「この親鸞においては、臨終の善悪をば申さず」と述べ、最期をどのように迎えられるかを問題にしませんでした。苦しんで最期を迎えても、静かに穏やかに旅立っても、それによってその人の人生の価値が変わることはないと説きました。
親鸞のこのような考え方はどれほど多くの人々を救ってきたことでしょう。どのような最期を迎えたとしても、阿弥陀仏から受け入れてもらえるという安堵感があれば、人は救済されます。死をどのように受け入れるかは、晩年の大きな課題の一つですが、浄土真宗ではその解が与えられているように思えます。(2026/8/31 香取淳子)



























































