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岩倉具視幽棲旧宅⑦:使節団はアメリカで何を見たのか(2)最初の大陸横断鉄道

■セントラル・パシフィック鉄道

 1872年1月31日、岩倉使節団一行はサンフランシスコを発ち、大陸横断鉄道で東海岸に向かいました。

 その時の様子を、久米は次のように記しています。

 「朝7時にグランド・ホテルを発ち、フェリー・ボートでオークランドの長い桟橋の波止場に至り、カリフォルニア太平洋鉄道の列車に乗った。アメリカには昼夜を走り続ける列車用に寝台車という車両があり、一等客はこの車両に乗る」
(※ 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記 Ⅰアメリカ編』、慶應義塾大学出版会、2008年、p.110.)

 久米はここで、「カリフォルニア太平洋鉄道の列車」と書いていますが、正確にいえば、「セントラル・パシフィック鉄道(Central Pacific Railroad)」です。カリフォルニア州にあるセントラル・パシフィック鉄道なので、カリフォルニア太平洋鉄道と勘違いしたのでしょう。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道は、カリフォルニア州サクラメントからユタ州オグデンまでのレール(1,110km)を敷設した鉄道会社です。一方、ネブラスカ州オマハにある(1,749km)を敷設しました。両者が、オグデンのプロモントリーサミット(Promontory Summit)で繋がり、アメリカ最初の大陸横断鉄道が完成したのです。1969年5月10日のことでした。

 使節団一行は、完成してまだ3年にも満たない大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ったのです。

 久米は、セントラル・パシフィック鉄道の列車に乗るまでの様子を記し、乗車してからは、車両の様子を克明に説明しています。

 「車両は一両で24人、中央を通路にし、車両の前後に広い室が設けられ、ここでストーブを焚き、洗顔のための水盤や用水タンクを備え、トイレットもここにある。(中略)床にはカーペットが敷いてあり、快適である。二人の乗客はテーブルに向かってものを書いたり本を読んだりできる。夜は長椅子を合わせてベッドとし、また上のフックを外すとベッドが降りてきて上下二台の寝台となる。シーツや枕を備え、寝台の前にはカーテンを引いて寝るのである」(※ 前掲。p.111.)

 このように車内の設備がいかに便利で快適かを具体的に記しています。

 続けて久米は、ヨーロッパにはこのような車両がないと記し、それは、ヨーロッパが身分制社会の国だから、貴賤のものが一緒の席に座ったり寝たりすることを嫌うからだと理由づけています。ヨーロッパの鉄道事情については、おそらく、現地で聞き及んでいたのでしょう。

 アメリカでは、このような設備の整った列車にも、お金を支払うことさえできれば、乗車できるのです。

 この時、使節団一行は、同行する官吏や学生たち、アメリカのデロング(Charles E. DeLong、1832-1876)公使の一家など、総勢100人余にも達していました。一両当たり乗車できるのが24人ですから、五つの車両を借り上げて出発しています。

 1872年といえば、この大陸横断鉄道が開通してから間もない頃です。そんな時に、大勢の日本人が車両を五つも借り切って、大陸横断の旅に出たのですから、地元でも大きな話題になっていたに違いありません。

 実は、久米らが列車を見るのは、これが初めてではありませんでした。

 サンフランシスコに着いて間もない頃、使節団一行は、セントラル・パシフィック鉄道会社から記念式典に招待されたことがあったのです。

 セントラル・パシフィック鉄道といえば、アメリカ大陸の西から東に向けての鉄道建設を請け負った鉄道会社です。その鉄道会社から、使節団一行は招待されていたのです。

 おそらく、一行がこの大陸横断鉄道に乗って、サンフランシスコを発ち、シカゴを経てワシントンに移動する計画を事前に伝えていたからでしょう。だからこそ、鉄道会社は、新しい車両のお披露目記念式典に、使節団を招待したのだと思います。

 一行はサンフランシスコ市のホテルに宿泊していました。

■サンフランシスコとオークランドをつなぐ旅客フェリー

 鉄道に乗るには、サンフランシスコから旅客フェリーに乗って、オークランドに行かなければなりません。

 その時の様子を、久米は、次のように記しています。

 「1872年1月22日、朝9時、アメリカ公使のデロングとともに、エル・カピタンという蒸気船に乗って、オークランドの長い桟橋に着いた。(中略)桟橋の一番先には水上に広い上屋が作られており、ここがフェリーと汽車の乗り換え場所になっている。だから船が桟橋の駅舎に着いたときは、船が島に着いたのかと思った。列車に乗り換えると、その列車が桟橋の上に敷いた鉄道を走るので、驚かないものはなかった。汽笛を鳴らしながら桟橋を渡っていく様子は、まるで水上を飛んでいるようである」
(※ 前掲。pp.79-80.)

 久米はこのように記していますが、その中に、「エル・カピタン」という聞きなれない言葉が出てきます。

 これは一体、何なのかと調べてみると、当時、サンフランシスコ湾で運行されていた蒸気動力の旅客フェリーでした。

 サンフランシスコとオークランドは、狭い海を隔てて向かい合っています。至近距離の海上を、人々はこのエル・カピタンに乗って、往来していたのです。

 この旅客フェリーは、サンフランシスコから、鉄道のあるオークランドまで乗客を運ぶ一方、セントラル パシフィック鉄道でオークランドに駅に到着した乗客をサンフランシスコまで運んでいました。大陸横断鉄道の完成を見越して、1868 年に建造されたのが、このエル・カピタンでした。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/El_Capitan_(ferry)

 それでは、エル・カピタンがどのような旅客フェリーなのか、写真を見てみることにしましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、久米が書いているように、確かに、桟橋の先に上屋が見えます。その隣に、エル・カピタンが横づけされていますから、ここが、フェリーと汽車との乗り換え場なのだということがわかります。

 実際にエル・カピタンと汽車の両方に乗ってみた経験を、久米は、次のように表現しています。

 「降りる客は船首から降り、乗船客は側面から乗り、乗降に当たっての混雑は皆無である。陸からすぐに船、船からすぐに陸、ただ外輪が動いて波に揺れるのを見れば、もう自分が水上にいることを知る。また汽車の汽笛が鳴り、車輪の轟きを聞けば、すでに足が地上にあることを知るのである」(※ 前掲。p.80.)

 船上から陸へ、そして、陸からすぐに海上へと、スムーズに乗り換えできる利便性と機能性に、久米はただ、ただ驚いています。乗客のためのインフラがこれほど整備されているとは思いもしなかったのでしょう。

 驚きのあまり、久米は、サンフランシスコでこうなのだから、米欧の大都市なら、どれほどすばらしいのだろうかとつい、想像を巡らせてしまうのでした。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が参加しました。主催者として応対したのが、コーエン(Alfred Andrew Cohen , 1829-1887)社長でした。そこで用意されていたイベントが、新しい車両が披露され、参加者が実際に試乗してみるというものでした。

 久米はその時の様子を次のように書いています。

 「列車の中にキッチンを設けて昼食のサービスがあった。オークランドを過ぎ、サンフランシスコ湾の東岸を60メートルほど走り、正午にサン・ノゼ町のミルピタス駅に着いた、使節団一行、その他の客たちは下車し、付近の庭園をしばらく散歩したのち、再び列車に乗った」(※ 前掲。pp.80-81.)

 この時の車両がどんなものだったのかわかりませんが、1870年頃のセントラル・パシフィック鉄道の食堂車の図がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experienceより。図をクリックすると拡大します)

 これを見ると、セントラル・パシフィック鉄道の食堂車がいかに豪華な設えだったのかがわかります。車内はきらびやかな装飾が施され、木製の調度品には丹念に彫刻されています。至る所、贅を尽くしたディテールが印象に残ります。

 しかも、このような豪華な上級車両でも、料金を払えば誰でも利用することができました。

 豪華な車両は、女性の旅行に対する意識改革に大きな影響を与えたといわれています。当時、中流あるいは上流階級の白人女性は、気軽に一人で旅行することはなかなかできませんでした。ところが、この車両のように、自宅のリビングルームのような雰囲気があれば、女性でもリラックスして乗車することができます。安心して乗車できるということがわかれば、女性も鉄道で旅行しようという気にもなるでしょう。女性に向けた鉄道旅行が推奨されれば、利用客の増加につながる可能性がありました。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-experience )。

 さて、セントラル・パシフィック鉄道が開催した式典には、男女150人が招待されていました。

 なぜ、女性が招待されていたのかわからなかったのですが、上記のような車両の内装をみれば、新しい車両のお披露目が、実は、女性の鉄道旅行に対する潜在需要を喚起する一つの方策でもあったことがわかります。

 この記念式典でセントラル・パシフィックの社長として応対していたのが、コーエンでした。1863 年にサンフランシスコ & アラメダ鉄道会社を設立し、1864 年に運行を開始した人物です。

 まずは、ヘイワードでの草創期の鉄道事業がどういうものだったのかを見ておくことしましょう。

■地元ヘイワードの鉄道事業者、コーエン

 1860 年代初頭、ヘイワードでは、地元農産物の輸送とサンフランシスコに通う人々の通勤のための鉄道が必要とされていました。

 ヘイワードに最初に列車を通したのが、アルフレッド A. コーエンでした。

 1864年にヘイワードで、サンフランシスコ & アラメダ鉄道(San Francisco and Alameda Railroad)を創設したコーエンは、1829年、西インド諸島のプランテーション所有者の子として、ロンドンで生まれました。ところが、1833年の奴隷解放法(the Emancipation Act of 1833 freeing the slaves)とスコットランド銀行の破綻によって、一家は財産を失ってしまいました。

 長じたコーエンは1850 年、一攫千金を狙って、ゴールド・ラッシュに沸いていたカリフォルニアにやってきました。サンフランシスコで仕事を見つけて法律を学び、1857 年に司法試験に合格しました。弁護士になったコーエンは、サンフランシスコでは有力な弁護士として成功していました。

 弁護士だったコーエンは1863 年のある日、ふと、ヘイワードとアラメダ、オークランド、サンフランシスコなどの大都市を、鉄道とフェリーで結ぶことを思いつきました。
(※ https://www.cohenbrayhouse.org/about-6

 彼は元々、ワーム・スプリングス(Warm Springs)のリゾートに興味を持っていました。だから、ヘイワード(Hayward)を通る鉄道は、リゾート客をホテルに運ぶ最適手段になると思っていたのです。さらに、鉄道とフェリーを連結すれば、大きな利益が得られるとも考えました。

 一方、アラメダ(Alameda)が住宅地として整備されはじめたのをみて、やがて、小麦、大麦、牛などの商取引に、ヘイワードの重要性が高まってくるだろうと予測しました。

 地域の発展を目指そうとすれば、鉄道網の整備は不可欠でした。

 さまざまな観点から、鉄道需要を予測したコーエンは、ヘイワード地域の大土地所有者であったファクソン・D・アサートン(Faxon D. Atherton)などと組み、新しくサンフランシスコ&アラメダ鉄道会社を設立しました。1864年のことです。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 コーエンは1864年に、サンフランシスコ & アラメダ鉄道を運行すると、翌1865 年には、サンフランシスコ & オークランド鉄道を買収し、合併しています。さらに、その後、アラメダからヘイワードまでの列車を運行したかと思えば、サンフランシスコ行きのフェリーを1日5便、運行するようにもしていました。

 サンフランシスコに行くのに乗客は、アラメダでフェリーに乗らなければなりませんでしたが、この路線ができたことによって、ヘイワード地域の住民は、サンフランシスコへも比較的容易に通勤できるようになりました。

 ジョセフ・リー(Joseph Lee,) が、鉄道とフェリーが最初に連結した日の様子を1868年頃に描いています。その絵を撮影した写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ Wikimedia. 図をクリックすると、拡大します)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joseph_Lee_painting_Alameda_Shore_(1868).jpg

 1864 年 8 月 25 日、鉄道とフェリーが最初に連結しました。その時のアラメダ海岸の光景が描かれています。桟橋の先に白い蒸気を吐き出しながら、静かに進んでいくフェリーが見えます。

 前景に、土手を降りて来る人が描かれています。それ以外にほとんど人が見当たりません。当時、鉄道やフェリーを利用する人はまだ、それほど多くはなかったのでしょう。のどかな田園風景が広がっています。

 ところが、鉄道が通って、フェリーと繋がり、さまざまな都市へのアクセスがよくなると、地元経済も次第に、活性化されていきました。

■地元への貢献、そして、セントラル・パシフィックへ売却

 コーエンは、物資の輸送から人々の通勤に至るまで、地元の人々に役立つよう、鉄道事業をきめ細かく采配し、展開していきました。地域の人々にとっての利便性を高め、地場産業の発展のためになくてはならない人でした。

 才気があり、覇気も胆力もある人物でした。

 ところが、せっかく築き上げたそれらの事業は、1869 年にセントラル・パシフィック鉄道に買収されてしまいました。その後、コーエンは、セントラル・パシフィック鉄道会社所属の弁護士になっています。
(※ https://localwiki.org/oakland/Alfred_A._Cohen

 ですから、1872年1月に使節団が記念式典に招待された時、コーエンは社長ではなかったはずです。

 不思議に思って、資料を渉猟してみると、株を売却したコーエン氏は、そのまま、セントラル・パシフィック鉄道の社長を務めるようになっていました。

 とはいえ、セントラル・パシフィック鉄道は、経営を完全に彼に任せていたわけではありませんでした。経営を管理するため、独自の総監督を配置していたそうですから、コーエンは形式上の社長だったのでしょう。
(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 なにしろ、コーエンは、サンフランシスコ & アラメダ鉄道の創設者でした。いってみれば、地元ヘイワードの名士でしたから、セントラル・パシフィック鉄道としても、コーエンは疎かにすることはできなかったのでしょう。

 使節団一行が招待された際、コーエンが社長として式典を采配していましたが、それには、コーエンが鉄道事業を通して、地元を活性化させた人物だったという事情があったのです。

 それでは、なぜ、コーエンは、自分が創設した鉄道会社をセントラル・パシフィックに売却したのでしょうか。

 それは、1868 年 10 月にヘイワード断層で大地震が発生し、サンフランシスコ & アラメダ鉄道が大きな被害を受けたからでした。

 サンフランシスコ市域の近くを、サンアンドレアス断層とヘイワード断層が走っており、これらの断層が、これまで何度も地震を引き起こしていました。

 1868年の地震の被害はとくに甚大でした。サンフランシスコ & アラメダ鉄道の線路にも深刻な被害が生じただけではなく、Dストリート駅が倒壊してしまったのです。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ HAHS Collectionより。図をクリックすると、拡大します)

 駅舎が倒壊し、茫然と佇む人の背後に車両が見えます。

 幸いなことに、車両や従業員に大した被害はありませんでしたが、駅舎の倒壊で、コーエンは大きな損失を被ってしまいました。駅舎が再建されても、その後、経営を続けることは難しくなっていました。

 それでもコーエンは、なんとか解決策を見出そうとしましたが、もはや鉄道会社を運営し続けることはできず、1869年、サンフランシスコ&アラメダの株売却を決定せざるをえませんでした。

 ちょうどその頃、セントラル・パシフィック鉄道が、ベイエリアの小規模な鉄道路線の買収に動いていました。大陸横断鉄道を完成させるためでした。コーエンはそれを知って、セントラル・パシフィック鉄道に自社株を売却したのです。

 そもそも、サンフランシスコ&アラメダ鉄道は、初年度に貨物で 2万1,000 ドル、旅客券で 4万ドルの収益を上げていましたが、建設費は100 万ドルもかかっていました。その後の収支も同様で、コーエンらはこの鉄道事業から、大きな投資利益を得ることは出来ませんでした。(※ https://www.haywardareahistory.org/railroads-of-hayward

 その上、1868年の大地震で追い打ちをかけられました。駅舎まで倒壊するという被害を受けた以上、もはや鉄道事業を継続することは困難でした。地元のサンフランシスコ&アラメダ鉄道が、大手のセントラル・パシフィック鉄道に吸収されるのは自然の流れだったのです。

 一方、セントラル・パシフィック鉄道は、1862年の議会で承認された「太平洋鉄道法」に基づき、建設資金を主に、米国債で賄うことができました。さらに、カリフォルニア州やサンフランシスコ市からも助成金を得ることができました。

 セントラル・パシフィック鉄道が建設したのは、大陸横断鉄道のうち、カリフォルニア州からユタ州までの西から東に向かう路線でした。そのセントラル・パシフィックも、現在は、東から西に向かう路線を建設したユニオン・パシフィック鉄道に吸収されています。鉄道というインフラ事業は、大資本が絡まなければ、安定した経営が難しい事業でした。

 さて、使節団一行が乗った列車が走るのは、平坦な場所だけではありませんでした。湿原地帯もあれば、峻厳な山脈地帯もあります。とくに困難をきわめたのが、山岳地帯の線路の敷設工事でした。労働内容は苛酷で、しかも、高度な技術と忍耐力が要求されました。そのような作業をこなせる労働者を集めるだけでも大変でした。

 1872年1月31日、サンフランシスコを発った使節団一行は、大陸横断鉄道に乗って東へ東へと向かいました。車窓からは、カリフォルニア州からユタ州にかけてのさまざまな地形が見えてきます。さまざまな地形から浮かび上がってくるのは、広大なアメリカが創り出す文化の姿であり、社会の形でした。

■使節団が見た車窓からの光景

 使節団一行は、車窓からサンホアキン川を眺め、その周辺のいたるところに、沼地や湿地ができているのを見ました。カリフォルニア平野は平坦だったので、川も緩やかに流れ、平地に流れ出ることも多かったのだろうと、久米は推測し、このような地形ではまず、輸送路を建設するのが先だと述べています。

 久米は次のように書いています。

 「カリフォルニアにはまだ、古代中国の禹のような名人が必要で、暗渠排水によって土地を改良するのを待っているといえそうだ。鉄道から支線を出し、数本の鉄路が荒れた湿原の中に敷設されているのを見た。荒地を開拓するにはまず、輸送のための路を開くのが最初である」(※ 前掲。p.112.)

 車窓から湿地帯を見たとき、久米は、古来、しばしば洪水が起きていた中国で、禹が治水の成功によって、夏王朝の創始者となったという故事を思い起していました。漢籍に造詣の深い久米ならではの感想です。

 さらに、もう一か所、久米が、中国の故事を連想していたのが、シエラネバダ山脈を通過し、絶壁をうがったトンネルを見た時のことでした。

 ちょっと長くなりますが、引用しましょう。

 「咽ぶような汽笛が車輪の響きと混ざり合いながら列車は疾走し、安らかに寝ている間に絶壁をうがったトンネルをくぐり抜け、山脈の背後に走り抜けた。まったく鬼神の業かと思われるほどである。李白が「蜀道難」という詩で、「地崩山砕壮士死 而後天梯石桟相鉤連」(地面が崩れ、山が砕けて、たくましい男たちが死んだ。その犠牲によって天にも通ずる梯子や、石のかけはしが鎖によってしっかりつなぎ合わされた)」と詠っている難工事といえども、このトンネル工事ほど難しくはなかったのではないか」(※ 前掲。p.129.)

 久米ら一行は、眠っている間に、無事、トンネルをくぐり抜け、山脈の裏側に抜け出ることが出来ました。固い岩盤を切り崩して作ったトンネルのおかげでした。

 だからこそ、久米は、この標高の高い山地にトンネルを掘って線路を通した労働者の労苦をしのび、李白の「蜀道難」に匹敵する偉業であり、まさに神業だと評したのです。

 そして、工事の過程で、多くの犠牲者を出したに違いないことを想像し、このトンネル工事ほど難しい工事はなかったのではないかと感慨深く、感謝の気持ちを表しています。

 確かに、シエラネバダ(Sierra Nevada)は、カリフォルニア州東部を縦貫する大きな山脈です。ロッキー山脈よりも高いこの山脈は、これまでずっと、東部アメリカから西海岸に進出するのに大きな妨げとなっていました。

 上空写真を見てみましょう。

こちら →
(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 山また山が、どこまでも続いている様子がよくわかります。草木はほとんど生えておらず、岩山のように見えます。

■シエラネバダ山脈のサミット駅

 実際、シエラネバダ山脈は、列車で走行するのも、想像以上に大変だったようです。高度が高く、勾配もきついので、自力走行が難しく、機関車に牽引してもらって、ようやく動くといったような有様でした。

 久米は次のように書いています。

 「シャディ・ランに着いた。ここはもう標高1300メートルほどの高地である。ここから鉄道の傾斜はますます急になり、機関車を増結して三重連で牽引した。(中略)山は重なって、路は険しいが、列車は二重窓をとざし、ストーブが暖気を送ってくるので春風の中で銀世界を眺めているようである」

 酷寒の中、勾配のきつい路線の走行がいかに大変かを記す一方、久米は、車内には二重窓とストーブとあって、寒さから守られていることに感謝しています。そのような車内の快適さを、「春風の中で銀世界を眺めているよう」だと表現しています。

 おそらく、どれほど苛酷な自然でも技術力によって克服し、人間にとって居心地のいい環境に作り替えていくアメリカ人の気力に感嘆していたのでしょう。

 こうして列車は機関車を連結し、勾配のきつい路線を走行しましたが、5時間かけて、わずかに80キロメートル足らず進んだだけでした。列車の速度があまりにも遅く、一行がサミット駅に到着したのは、日も暮れていました。

 降雪はやまず、使節団一行がここに到着した時、雪は深さ2,3メートルにも及び、駅舎は半ば雪に埋もれていました。それでも、この駅の中の小屋で、一行は昼食兼夜食を取ることができました。ようやく一息つくことができたのです。

 久米は、サミット駅での酷寒の様子を、「客車を出ると、その寒さは皮膚を削るようである」と表現しています。

 なにしろ、シエラネバダ山脈越えの最高地点が、サミット駅です。海抜2100メートルで、四方に高い山が連なっています。客車の外が凍えるような寒さだったのも当然でした。

 当時の写真があります。

こちら →
(※ Wikimedia。Pond, C. L.撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、1870年に撮影されたサミット駅です。ちょっとわかりづらいかもしれませんが、左側に列車が停まっているのが見えます。使節団一行は、ここにあるような列車に乗ってやって来て、しばらく停車し、時を過ごしたのだと思われます。

 調べてみると、セントラル・パシフィック鉄道が、当時、使っていた車両の写真がありました。ご紹介しましょう

こちら →
(※ Wikimedia。John B. Silvis撮影。図をクリックすると、拡大します)

 これは、セントラル・パシフィック鉄道の機関車 113 号「ファルコン」です。ネバダ州アルジェンタで、1869 年 3 月 1 日に撮影されています。

 車両の先頭に、2人の男性が座っているのが見えます。

 左が、ユニオン・パシフィック(UPRR )の技師ジェイコブ・ブリッケンダーファー (Jacob Blickensderfer) で、右が、セントラル・パシフィック鉄道(CPRR)の 技師ルイス・メッツラー・クレメント (Lewis Metzler Clement) です。太平洋鉄道委員会の一員として、彼らが線路を点検しているときの写真です。

 ちなみに、この「ファルコン」は、ニュージャージー州パターソンのダンフォース機関車工場で製造された機関車です。見るからに頑丈で立派な車両ですが、まだ手作りの要素が多々残っていて、人と機械が協力して、列車を走行させていた頃の車両だということがよくわかります。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CPRR_Locomotive_-113_FALCON)

 さて、サミット駅で、雪かき用の機関車と連結してようやく、一行が乗った列車は、出発することができました。列車はその後、シエラネバダ山脈の中腹にあるトンネルに入っていきます。

 やがて、固い岩盤を削って作られたトンネルを抜け、使節団一行は、眠っているうちに、シエラネバダ山脈越えをすることができました。

■鉄道工事と中国人労働者

 セントラル・パシフィック鉄道は、1863 年にカリフォルニア州サクラメントから、建設をスタートさせ、険しいシエラネバダ山脈を越え、ネバダ州まで続く1,110 kmの新しい線路を敷設しました。

 このシエラネバダ山脈越えのルートを発見し、標高を含む詳細な地形調査を行ったのは、セオドア・D・ジュダ(Theodore Dehone Judah ,1826 – 1863)でした。サクラメントバレー鉄道の主任技師であり、後にロビイストになり、その後、下院の太平洋鉄道委員会の書記官にも任命された人物です。

 彼らが議会で、太平洋鉄道法案の通過に尽力した結果、1862年7月1日にリンカーン大統領が同法に署名したという経緯があります。この法案の可決によって、東からのユニオン・パシフィック鉄道、西からのセントラル・パシフィック鉄道が、大陸横断鉄道を敷設することが決定されたのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 セントラル・パシフィック鉄道は、さまざまに検討したあげく、結局、ジュダが提案するシエラネバダ山脈越えルートを採用することになりました。そのため、初期工事のほとんどは、丘陵地帯の切断や発破、埋め立て、橋や架台の建設、トンネルの掘削と発破、シエラネバダ山脈上へのレール敷設などでした。峻厳な山脈ルートに不可避の難工事を強いられたのです。

 どの工程を取ってみても、生命の危険を伴う苛酷きわまりない作業でした。

 たとえば、シエラネバダ山脈を通る鉄道路線のために、セントラル・パシフィック鉄道は、15 本のトンネルを建設しなければなりませんでした。

 トンネルを掘るには、まず、1 人が花崗岩の表面に削岩機を当て、他の 1 ~ 2 人が大きなハンマーを振り回してドリルを順番に打ち、ゆっくりと岩に進入させていかなければなりません。そして、ドリルがうがった穴の深さが約25 cm になると、黒色火薬を充填し、導火線を設置して、安全な距離から点火して、爆破するのです。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/First_transcontinental_railroad

 火薬よりも強力なのが、ニトログリセリンでした。これは、1846年にイタリア人アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero,1812 – 1888)によって発明された起爆剤です。

 セントラル・パシフィック鉄道では、トンネル建設中に、このニトログリセリンを大量に使用しました。安定供給を確保するため、自社でニトログリセリン工場を所有し、稼動させていたほどです。その工場は中国人労働者によって運営されていました(※ 前掲。URL)。

 危険なニトログリセリン工場の運営もまた、中国人に任されていたのです。彼らは勤勉に働くので、経営者たちから信頼されていました。そして、中国人たちもまた、最も過酷で危険な条件であったにもかかわらず、真面目に、誠意を込めて働いていました。

 その一端を示すスケッチがありますので、ご紹介しましょう。

 イラストレーターのジョセフ・ベッカー (Joesph Becker, 1841-1910)が、中国人労働者たちの生活の一端をスケッチした鉛筆画です。

こちら →
(鉛筆、紙、サイズ不詳、1869年、Bancroft Library, University of California, Berkeley.図をクリックすると、拡大します)

 雪が舞い散る寒い日、列車が通りかかると、辮髪姿の中国人が多数、小屋から出てきて、列車に挨拶しています。線路の傍に近づいている者がいるかと思えば、山の斜面から、手を振っている者、中には、帽子を振っている者もいます。トンネルを通り抜けてきた列車に挨拶しているのです。彼らの歓喜の声が、峻厳な山中から聞こえてきそうです。

 中国人労働者にとって、トンネルを抜けて走ってくる列車を見ることこそ、唯一の楽しみだったのかもしれません。トンネルは彼らの苛酷な労働の成果であり、列車が無事、そこを通り抜けてくるのを見ることは、成果の確認でした。

 危険と隣り合わせの労働と、深い疲労感に押しつぶされそうになっている日々の中で、列車をみることは、彼らにとって何にも代えがたい喜びだったに違いありません。

 中国人労働者は、極寒の冬であれ、炎天下の夏であれ、苛酷な労働に耐えてきました。鉄道工事期間中に、爆発、地滑り、事故、病気などで多くが死亡していったといわれています。彼らは、言葉も通じない異国の地で日々、苛酷な労働を強いられ、時に負傷し、時に死亡し・・・、あまりにも多くの犠牲を払ってきていました。

 先ほどもいいましたが、トンネルを建設するには、岩盤を爆破しなければならず、危険な作業が伴いました。そのため、セントラル・パシフィック鉄道は、中国人労働者を大量に雇用していました。そして、トンネル掘削工事では、作業効率を高めるために、爆破力の高いニトログリセリンを使用しており、多数の犠牲者を出していたのです。

 久米はここを通過する際、トンネル工事の苛酷さを想像し、李白の詩、「蜀道難」を思い出していました。まさに、多数の中国人労働者の犠牲の下に、トンネルが完成し、列車はシエラネバダ山脈を越えることができたのです。

 それにしても、なぜ、アメリカの大陸横断鉄道の建設に、白人ではなく、中国人労働者が尽力したのでしょうか?

■なぜ、中国人労働者なのか?

 セントラル・パシフィック社は当初から、現場労働者を雇用し、維持することに苦労していました。というのも、せっかく採用しても、多くの白人が、鉄道建設よりもはるかに儲かる金や銀の採掘所に移ってしまうからでした。

 鉄道労働者が不足してきたとき、経営者らが注目したのが中国人でした。

 1848年から1855年にかけてのゴールド・ラッシュの時期に、多くの中国人がカリフォルニアにやって来ており、その後も住みついていました。大半は金鉱夫か、ランドリーかキッチンなどのサービス産業で働いていました。

 経営者たちは、そんな中国人たちに目をつけたのです。

 ところが、実際に彼らを見た経営者たちは、鉄道建設には向かないと判断せざるをえませんでした。当時、カリフォルニアに来ていた中国人の身体は小さく、華奢でした。鉄道工事の経験もなく、これでは、苛酷な労働をこなせないとみなされたのです。

 英語もしゃべれませんから、現場監督の指示を正確に受け取れるかどうかも懸念されました。身体能力、経験、意思疎通の面で、トンネル建設工事などの危険な作業を任せられないと思われたのです。

 経営者たちは労働力不足に悩み、何度も求人広告を出しました。ところが、白人からの応募はわずか数百しかありませんでした。そこで、仕方なく、中国人労働者の雇用に踏み切ったのです。
(※ https://www.history.com/news/transcontinental-railroad-chinese-immigrants

 こうして、セントラル・パシフィック鉄道の線路や橋、トンネルなどの建設は、中国からの移民労働者によって行われるようになりました。熟練した白人監督者の指示の下、現場労働者として中国人が大変な作業を担当するのです。

 1865 年後半のセントラル・パシフィック社では、約3,000 人の中国人と1,700 人の白人が雇用されていましたが、中国人は肉体労働者として低賃金で働き、白人はほぼ全員が監督職や熟練技能職で、中国人よりも高い賃金で、楽な労働内容で働いていました。

 圧倒的に不利な条件であったにもかかわらず、中国からは次々と、労働者が流入してきました。

 建設作業員は12,000人もにおよぶ中国人移民で構成され、1868年時点では全体の80パーセントが中国人だったといわれています(※ Wikipedia)。

 1868年といえば、バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)が成立した年でした。

■バーリンゲーム条約

 バーリンゲーム条約(Burlingame Treaty)とは、清国の使節団の特命全権大使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame, 1820 – 1870)が、アメリカ国務長官ウィリアム・スワード(William Henry Seward,1801 – 1872)と交渉し, 1868年7月28日にアメリカと締結した条約を指します。

 1858年に締結された天津条約を拡張する形で結ばれたもので、8条から成る「天津条約追加條款」です。

 その内容は、中国からの移民制限の緩和を目的として、いくつかの基本原則を確立し、中国の国内問題へのアメリカの干渉を制限するというものでした。
(※ https://history.state.gov/milestones/1866-1898/burlingame-seward-treaty

 画期的なのは、中国人のアメリカへの入国と旅行を自由にできる権利を約束し、最恵国待遇原則に従って、アメリカ国内の中国人の保護を認める措置が含まれていたことでした。

さらに、両国の国民に教育と学校教育への相互アクセスを認めており、これらの条項は両国間の平等の原則を強化する役割を果たすものでした(※ 前掲、URL)。

 1868年に描かれた、バーリンゲーム使節団の肖像画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ 出典:Library of Congress, LC-USZ62-42697、
https://www.foreignaffairs.com/articles/united-states/2017-11-23/burlingame-mission
 図をクリックすると、拡大します)

 この図の中央で、洋装で立っている髭を生やした男性が、特命全権大使のバーリンゲームです。そして、前列右から2番目が正使で特命全権大使の孫家毅、3番目がやはり正使で特命全権大使の志剛です。

 清朝政府は、バーリンゲームを使節団の特命全権大使に任命しましたが、それと同格で、役人であった孫家毅と志剛を参加させました。アメリカ人バーリンゲームの交渉活動を監督するとともに、彼らにも外交交渉の経験を積ませるためでした。

 実際、彼らは、わずかな機会をとらえて、欧米との外交交渉術を学び取ったようです。訪露中に、バーリンゲームはサンクト・ペテルブルグで急逝してしまいましたが、その後の外交は、志剛がリーダーとなって、それまでと遜色のなく、対応することができたといいます。
(※ 矢久保典良、https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/index.html

 バーリンゲームのおかげで、清国に有利な条約をアメリカと結ぶことができましたし、清朝の役人が外交交渉術を学ぶ機会を持つこともできました。

 清国政府が、初代アメリカ駐清公使であったバーリンゲームを、遣欧米使節団の特任全権大使に任命したのは、賢明だったといわざるをえません。

 もっとも、その効果は長く続きませんでした。

■バーリンゲーム条約の効果と失効

 経営者たちからは、中国人は、従順で信用できる労働者だとみなされていました。しかも、安い賃金で大勢、集めることができるので、当初、この条約は歓迎されていました。中国人もまた、この条約があったからこそ、一定の保護は受けられると思い、安心してアメリカにやって来たのでしょう。

 国政調査によれば、中国からの流入人口は、1861-1870間が64301人、1871-1880間が123201人、そして、1881-1890間が61711人でした。10年単位で、流入人口の推移をみると、バーリンゲーム条約が結ばれた後の10年間に、流入人口がほぼ倍増していることがわかります。
(※ 越川純吉、「アメリカにおける中国人の法律上の地位」、『中京法学』17巻1号、1982年、pp.59-63.)。

 不法入国もあるでしょうから、必ずしも正確な人数とはいえませんが、この30年間の人口の推移を見ると、明らかにバーリンゲーム条約の効果とその喪失をみることができます。

 一方、この条約の影響は、1870年代に清国からアメリカへ留学生が派遣されたことになった経緯にも見ることができます。

 バーリンゲーム条約の締結後、清国から官吏級の若者たちが40名、アメリカで大学教育を受けることになりました。

 清国は当初、彼らをイギリスに留学させる予定だったそうです。ところが、当時、アメリカ総領事であったスワード(George Frederick Seward, 1840 – 1910)の助言によって、留学先をアメリカに変更したといいます。
(※ 黄逸、「南北戦争直後のアメリカから見た清日両国の使者」、『関西大学東西学術研究所紀要』巻53、2020年、p.130.)

 アメリカの方がイギリスよりも健全な関係を築けると、清国政府は判断していたのかもしれません。

 黄氏は、「砲艦政策を通じて清国市場独占や植民地の獲得を目指したイギリス」よりも、「英清間の一連の外交的かつ軍事的衝突において中立の立場をとり、貿易をきっかけに清国への影響力を構築していったアメリカ」の方に、清国人は好意的感情を持っていたと記しています。

 さらに、イギリスは、主としてアヘンを清国に輸出し、清国からは茶を輸入という貿易内容でした。清国が禁止しているインド産アヘンを、イギリスは公然と輸出してきていたのです。害悪以外のなにものでもありませんでした。

 一方、アメリカは、白綿布を清国に輸出し、清国からは茶を輸入するという内容でした。清国人がイギリスよりもアメリカに好意的なのは、貿易内容がより健全なものだったからでもありました(※ 前掲。pp.125-126.)。

 清国政府は近代化を進めるため、エリート層を欧米で学ばせる必要性を感じていましたが、それまでの関係を踏まえ、産業革命を成功させたイギリスではなく、イギリスからの独立を勝ち取り、進取の気性に富むアメリカで学ばせようとしていたのです。

 ところが、この時点ですでに、アメリカでは中国人排斥の動きが顕著になりはじめていました。

 興味深いことに、1872年8月29日付の“Daily Evening Bulletin”には、‘China following Japan’という見出しの記事の中に、次のようなことが書かれていました。

 「これらの若者たちはそれぞれ、不本意ながらも、やがて帰国することになるだろうが、確実に、国際交流の価値と、アジア最大の国を排斥した愚行を伝える伝道者になるだろう」(※ 前掲。p,130.)

 実際、その10年後の1882年5月6日、最初の「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)が、議会を通過し、チェスター・A・アーサー(Chester Alan Arthur, 1829 – 1886)大統領がこれに署名しました。この法律によって、中国人労働者の米国への移民は10年間、禁止されました。

 そればかりではありません。すでに入国していた中国人に対しても新たな要件が課されました。 アメリカを出国した場合、再入国するには証明書を取得しなければならなくなったのです。こうして、アメリカ史上、最も重い制限が、中国人に課せられることになりました。(※ https://www.archives.gov/milestone-documents/chinese-exclusion-act

 バーリンゲーム条約からわずか4年ほどで、中国人の移住が禁止されてしまったのです。条約がいかに当てにならないものか、国同士の力関係、その時の経済状況などによって、容易に変わってしまうことの一例でした。

 バーリンゲーム使節団一行と同様に、不平等条約の改正のための準備交渉に訪れていた岩倉使節団は果たして、この一件をどのように感じていたのでしょうか。

■不況下で発生していた襲撃事件

 久米は、中国人労働者について、次のように述べています。

 「サンフランシスコ近辺の労働賃金はきわめて高いのだが、弁髪の連中がごく安い賃金で仕事を引き受けてしまうので資本家としてはおおいに利潤が上がり、開発も進められた。しかし、そのおかげで白人種は仕事の口を奪われ、大きな不満が白人側から巻き起こって、とうとう清国人を追放せよという議論が沸騰するようになった」(※ 前掲。p.109.)

 なぜ中国人労働者が騒動を引き起しているかについて、久米は、低賃金で仕事を引き受けるからだと分析しています。

 低賃金で雇えば利潤が増えるので、経営者は中国人労働者を採用したがります。ところが、その分、他の労働者には仕事がまわらず、白人労働者の不満を買っているというのです。つまり、騒動の原因は、中国人労働者が白人労働者の仕事を奪っているからだと指摘しているのです。

 単なる旅行者にすぎなかったにもかかわらず、久米は、きわめて的確な状況分析を行っています。そればかりか、資本主義の原理のようなものにまで思考が及んでいることに気づきます。

 中国人労働者なら低賃金で雇用できるという状況が、経営者には、コストをカットして利潤を増加させるメリットをもたらし、白人労働者には、仕事を奪われる、あるいは、中国人労働者と同程度の賃金にまで引き下げられるデメリットをもたらします。

 このメカニズム一連の騒動を引き起していると、久米はみているのです。経営者側も雇用者側も自己利益で動く限り、このメカニズムは解消のしようがありません。衝突を繰り返し、やがては、法的規制にまで及んでしまう・・・、といった流れが、「中国人排斥法」(1882年)成立の背景にあるのでしょう。

 それでは、アメリカ政府や企業は、中国人排斥現象に対してどのような態度を示しているのでしょうか。それについて、久米は、次のように分析しています。

 「州政府では、しばしば追放策を協議してきたが、民主国の原則からして、そのようなことは実行できないという論理がある。まだ企業の側からすると、安い労働を駆逐しては具合が悪いのである。あれやこれやの事情があって、清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」(※ 前掲。p.109.)

 住民からの突き上げで、州政府もこれについて検討してきたようです。

 ところが、行政の立場からすれば、大所高所からの視点を外すことはできず、民主主義を掲げて独立した国家として、排斥運動に手を貸すことはできないという立場を取ってきました。

 一方、企業側は、資本の論理からいって、中国人労働者を排斥したくないというのが本音でした。結果として、使節団一行が滞在した頃は、久米が述べているように、「清国人追放は行われないということになって歳月が過ぎた」のです。

 問題が深刻化したのは、1873年に始まった世界的な大不況からです。

 堀井氏は、岩倉使節団が訪米した直後あたりに、さまざまな排斥運動が勃発したことを説明しています。

 「1871年にロサンゼルスでバーリンゲーム条約に反対する暴動が発生し、中国人22名が殺された事件を初めとして、反中国人暴動はカリフォルニア各地から他州へ拡大していった。ほぼ西部のすべての州の60地区以上で反中国人暴動が勃発したが、中国側の史料は、これらの暴動で中国人200人余りが殺されたことを伝えている」
(※ 前掲。p.24.)

 排斥運動は、それ以後も継続的に発生しています。有名なものでは、1877年7月にサンフランシスコの暴動、1885年9月のワイオミング州ロックスプリングでの事件、等々があります。中華街や鉄道会社、船会社が襲撃され、軍隊まで出動したケースがあれば、武装した白人集団によって中国人居住区が襲撃されたケースもありました(※ 前掲)

 いずれも当時、世界を襲っていた大不況のさなかの出来事でした。不況で仕事にあぶれた人々が狂暴化し、暴徒化し、中国人移民に対する襲撃事件を引き起す結果になっていたのです。

 一連の事件は、移民労働者として他国で働くことの意味を問いかけているように思えます。

 1882年の中国人排斥法は10年間の時限立法でしたが、1892年の更新を経て、1902年には恒久的な措置として実施されることとなりました。これらの排斥法が解除されたのが、1943年12月17日に制定、「マグヌソン法」(Magnuson Act)として知られる「中国人排除廃止法」(The Chinese Exclusion Repeal Act of 1943)です。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Magnuson_Act

 勤勉な中国人労働者の後を引き継いだのが、日本人でした。日本人の場合、下層の労働者に留まらず、事業を起こす者、市場向け野菜栽培業者となった者もいましたが、後に、「1924年移民法」((Immigration Act of 1924)で排除の対象となりました。この時は、東アジア全体からの移民も禁じられています。

 使節団が訪米した頃、アメリカ経済はまだ好況でした。1868年から1873年の間に国内で総延長53,000 kmもの新線が敷設され、鉄道に対する投資は過熱していました。その後大不況に転じるとは、使節団一行の誰も想像しなかったに違いありません。
(2023/9/8 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑥:使節団はアメリカで何を見たのか(1)

■アメリカでの岩倉使節団

 明治5年1月21日(1872年2月29日)、使節団一行はワシントンに着きました。いよいよグラント大統領に会い、条約改正交渉の準備に入る時がやってきたのです。

 久米邦武編、水澤周訳注、『特命全権大使 米欧回覧実記Ⅰ』(慶應義塾大学出版会、2008年)に沿って、他の資料も踏まえながら、ご紹介していくことにしましょう。日付は西暦で表現することにします。

 アーリントン・ホテルに着いたところ、大統領夫人から花束が大使に送られていました。当時、雪が降っていたそうですが、夫人からの花束は、さぞかし一行の気持ちを暖かく、和ませてくれたことでしょう。

 1872年3月4日、12時からはグラント大統領との謁見に臨みました。大使、副使は衣冠、5人の書記官は直垂を着用し、全員、帯剣して、玄関からホワイトハウスに入りました。階段の両側に警護官が数十人、整列して立っている中を通り、使節団はまず、ブルー・ルームに通されました。

 ブルー・ルームは、ホワイトハウスの1階にあります。

 間取り図がありますので、ご紹介しましょう。入口を入ってすぐ正面にある楕円形の部屋で、ブルーで色付けされているところです。

こちら →
(※Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 この部屋は、ホワイトハウスを訪れる来客を、最初に通す部屋として使われているようです。

 1875年に描かれたブルー・ルームの鉛筆画があります。岩倉使節団が訪問した頃とほぼ同時期の作品です。

 一行は玄関を入ると、まず、ここに通されました。

こちら →
(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 天井が高く、荘厳な設えの部屋で、豪華なシャンデリアが印象に残ります。

 一方、グラント大統領とコルファックス副大統領、フィッシュ国務長官など閣僚たちは、イースト・ルームに入り、部屋の南側中央に着席しました。

 イースト・ルームは、先ほどの間取り図でいえば、エントランスを入ると、すぐ左手に見える大きな部屋です。

■大統領との謁見

 大統領との謁見場面については、岩波文庫版『特命全権大使 米欧回覧実記』(一)(1999年刊、初版:1977年)の田中彰氏の校注に詳細が記されています。当時の様子を詳しく知ることができますので、ちょっと長くなりますが、この校注を踏まえ、慶応義塾大学版『米欧回覧実記』(2008年)の水澤周氏の現代語に従って、ご紹介していくことにしましょう。

 アメリカ側がイースト・ルームに入るのを見計らったように、フィッシュ国務長官が森弁務使とともにブルー・ルームに来て、使節団に挨拶しました。挨拶が終わると、国務長官は自ら岩倉大使を案内して、イースト・ルームに招き入れました。続いて、副使以下も部屋に入り、大統領の右側に整列しました。

 全員が揃ったのを見届けると、フィッシュ国務長官は、岩倉具視大使を大統領に紹介しました。双方とも握手はせずに敬礼だけを交わしたそうです。続いて、岩倉大使は、大統領の左側に並ぶ文武諸長官たちに会釈してから、大統領に向かって口上書を読み上げました。

 岩倉大使が、天皇陛下の国書を大統領にお渡しできるのは光栄だと述べると、書記官が前に進んで、国書を大統領に渡し、受け取った大統領は、それをフィッシュ国務長官に渡します。

 大使が、欧米諸国の文明を学び、友好な外交関係を築き上げることを宣言すると、大統領もそれに応えて歓迎の意を表し、自ら、副大統領や諸長官を大使や副使らに紹介しました。岩倉大使も副使以下を大統領に紹介し、互いに礼を交わすと、双方、列を解いて、しばらく談話するといった具合に進行し、謁見の儀が終了しました。

 その後、大統領は、使節団一同をホワイト・ルームに招き、大統領夫人や各長官の夫人に引き合わせました。こうしてなごやかな会談を終えると、使節団一行はホワイトハウスを辞し、ホテルに戻りました。
(※ 久米邦武編、田中彰校注、『特命全権大使 米欧回覧実記』1、1999年(初版1977年)、岩波書店、pp.385-386.)

 なんとも仰々しい初対面の挨拶ですが、これが正式の大統領との謁見スタイルなのでしょう。

 さて、謁見を終えた一行が次に通されたのが、「ホワイト・ルーム」でした(水澤周氏の校注)。ところが、ホワイト・ルームというものがホワイトハウスにはありません。

 そこで、田中彰氏の校注を確認すると、一行は「白堂」に招かれたと書かれています。この「白堂」というものがどこを指すのかわかりませんので、先ほどの案内図を見てみました。考えられるのは、左側にある「STATE DINING ROOM」です。

 「STATE DINING ROOM」は、イースト・ルームに近く、約140人は入れる食堂です。格式があり、料理を用意することもできますから、使節団一行と大統領と閣僚、それぞれの夫人たちが歓談するのにふさわしい部屋といえます。

 元々はオフィス・スペースでしたが、第5代大統領モンロー(James Monroe、1758 – 1831)の政権時(1817-1825)に大規模な家具が取り付けられ、「STATE DINING ROOM」として使われるようになりました。

 1874年に撮影された写真がありましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(※ https://www.whitehousehistory.org/white-house-tour/state-dining-room

 使節団が訪れたのが1872年、通された時の室内の様子はおそらく、このような状況だったのでしょう。なごやかに歓談するのにふさわしい設えになっています。

■条約改正に関する日米会談

 初対面の挨拶を交わした後、使節団一行は、1872年3月11日、国務省を訪れ、第1回外交会談を行いました。

 使節団側は、岩倉大使、副使ら5名の外、森少弁務使、塩田一等書記官、サンフランシスコ在勤のブルックス領事が出席しました。一方、アメリカ側は、フィッシュ(Hamilton Fish、1808 – 1893)国務長官、同次官チャールズ・ヘール(Charles Hale, 1831 – 1882)らが出席しています。

 森少弁務使の進行にしたがって、会談は進められ、折りを見て、条約改正問題を切り出しましたが、アメリカ側から、条約改正には国家元首の委任状が必要だと指摘されました。日本側が全権委任状を持っていなかったので、フィッシュ国務長官が、条約についての協議はできても、調印はできないと主張したのです。

 フィッシュ国務長官との会談記録が残っています。

こちら →
(※ 国立公文書館、Ref.A04017148800。図をクリックすると、拡大します)

 アメリカ側にしてみれば、委任状がなければ、使節団を日本の代表だと正式に認めることができません。当然の成り行きでしたが、外交に慣れない岩倉使節団にとっては思ってもみない展開でした。

 この日の会談の本題は、条約改正期限の延期要請と日本側に新条約調印の権限が付与されているかどうかの確認でした。両国間で質疑応答が繰り返されましたが、アメリカ側からは大した回答も得られないまま終わってしまいました。

 第1回の会談終了後、伊藤博文と森有礼は、予備交渉ではなく、本格的な条約改正交渉に移行すべきではないかと考え、岩倉らにそれを提言しました。この二人は英語がわかりますから、アメリカ側の反応に何らかの手ごたえを感じたのかもしれません。

 岩倉はその後、木戸、大久保、伊藤を集めて協議した結果、使節団は、今後、予備交渉ではなく、本格的な改正交渉に着手することに決定しました。それには委任状が必要なので、大久保と伊藤の両副使が帰国し、全権委任状を取得することになりました。

 二日後の3月13日、一行は再び、国務省に赴き、第2回の外交会談を行っています。会談内容は実記に記載されていませんが、おそらく、全権委任状を取得したうえで、本格的な条約改正交渉をしたい旨、アメリカ側に伝えたのでしょう。

 伊藤と大久保は、帰国する直前、これまでの会談の経緯を振り返り、岩倉や木戸と交渉の要点を議論しました。その結果、領事裁判権と関税自主権については、いくつかの条件を満たせば、今後の交渉次第で達成できる可能性があるという見解が共有されました。

 そして、3月20日の朝6時、大久保副使が、ニューヨーク経由で日本に向かい、翌21日の夜8時、伊藤副使がワシントンを発ちました。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/history/index.html
 
 こうして二人が日本に向かった後も、会談は進められました。

 実際に会談を重ねていくと、期待に反し、日米双方の溝は深まる一方でした。

■交渉決裂

 『米欧回覧実記』を見ると、一行は、7月14日に、伊藤と大久保がサンフランシスコに着いたという電報を受け取っています。そして、7月22日の朝6時、二人は全権委任状を携え、ワシントンに到着しました。

こちら →
(※ 国立公文書館、A00302104.図をクリックすると、拡大します)

 ようやく本格的な交渉をする準備ができたのです。

 実は、伊藤と大久保がワシントンを去っていた間にも、何度か協議の場がもたれていました。たとえば、7月10日、岩倉は、フィッシュ国務長官をガリソンの山荘に訪問し、数時間会談しています。これは条約改正問題に関する第9回会談でした。この時、岩倉に同行したのは、外務官僚の塩田三郎、通訳の福地源一郎でしたが、なんの成果もありません。

 交渉は次第に悪化し、楽観視できない状態になっていました。そのことを察知した岩倉は、いよいよ最終決断をすべき時期が来たと思いはじめていたようです。

 伊藤らが到着する直前に、岩倉と木戸の間で、新たな策が練られていました。それは、アメリカだけを相手にしていたのでは埒が明かないので、改正条約調印のための欧州合同会議を開催するという計画でした。そして、アメリカがこの案を拒否すれば、条約改正交渉を中止するという方針を決定していたのです。
(※ https://www.jacar.go.jp/iwakura/column/column3.html

 ワシントンに到着したばかりの伊藤と大久保は、これまでの交渉経緯を聞かされました。日本側の草案が受け入れられる可能性のほとんどないことを知って、伊藤と大久保も、すでに岩倉らが決定していた方針に従わざるをえませんでした。

 7月22日15時から、第11回会談が開催されましたが、案の定、日本側の提案はアメリカ側から拒否されました。そこで、かねてからの手はず通り、日本側から交渉の打ち切りを通告しました。

 ようやく全権委任状を用意できたというのに、条約改正交渉を中止せざるをえなかったのです。

 アメリカとの交渉が決裂してしまった以上、他国との条約改正交渉に臨めるはずもありませんでした。

 使節団一行は、結局、条約改正の予備交渉のため、ワシントンに約半年も滞在していましたが、それが無駄に終わったのです。

 もっとも、その間、一行は、国会をはじめ諸官庁、さらには、海軍兵学校、陸軍士官学校など、連邦政府管轄下の諸機関を視察しています。

 条約改正については成果が得られませんでしたが、ワシントンで、当時のアメリカを取り巻く国際情勢、国内情勢をつぶさに観察することができたのは、日本にとってきわめて有意義だったといっていいでしょう。

 使節団が訪れた当時、アメリカはまだ南北戦争の影が長く尾を引いており、その復興期にありました。戦争後に大統領に就任したグラントが、どのような政策を展開してきたかについても、一行は見届けることができていました。

 南北戦争(1861-65)は、34州で構成されていたアメリカ合衆国が、南部・11州と北部・23州とに分かれて戦った内戦です。その南北戦争の後、1868年に大統領選挙で勝利を収めたのが、共和党のユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant、1822 – 1885)で、元北軍の将軍でした。

 謁見式で、グラント大統領に会った久米は、次のように述べています。

 「グラント氏は日頃寡黙で、従容たる様子をしており、大樹将軍といった感じの人であるが、そのあっさりして風雅なこともこの通りである」(※ 前掲。p.349.)

 そのグラント大統領が、南北戦争の戦後処理では辣腕をふるっていました。

■グラント大統領とアラバマ請求

 久米は7月27日、ワシントンを去る時、次のような感想を述べています。

 「聞くところによると、南北戦争当時ヨーロッパ諸国は、外面では中立を約束しながらひそかに南部に肩入れして武器を売り与え、あるいはその分離独立を支持しようとし、あるいは辺境地域をそそのかして自ら占領しようと計画するなどさまざまな陰謀が行われた。イギリスからはアラバマ号が南部に救援艦として派遣され、北部の海軍がこれを沈めたことについてはついに英米両国の大議論となり、われわれ一行がワシントンに滞在中にも、両国が宣戦布告をしそうな勢いとなったけれども、各国が仲立ちをして、ワシントン出発までは事が起こらなかった」(※ 前掲。p.346.)

 グラント大統領は元北軍の将軍でした。それだけに、南軍に加担し、戦争中に何度も攪乱工作を仕掛けてきたイギリスには許せないものがあったのでしょう。グラントが大統領に就任すると、早々に、アメリカ政府はイギリスに、いわゆるアラバマ請求を行っています。

 なぜかといえば、南北戦争中に、イギリスは南軍に加担し、北軍商船への攻撃を繰り返していたからでした。南軍の通商襲撃部隊は、イギリスの造船所で建造された偽装巡洋艦アラバマ号を使って、北軍に大きな打撃を与えていたのです。

 アラバマ号は1864 年にフランス沖で沈没するまでに、60 以上もの打撃を大西洋上で、北軍の商船に与えていました。そのことに怒りをおぼえていたグラント大統領は1869年、それら一連の攻撃に対する損害賠償請求をイギリス行いました。
(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Alabama_Claims

 1861年に始まった南北戦争は当初、北軍が優勢でした。北軍(アメリカ合衆国)は人口が多く、工業化が進展し、中央集権化が進んでいました。寄せ集めの南軍(アメリカ連合国)よりもはるかに機能的な政体であり、戦争は、すぐにも終結に向かうと思われていました。

 ところが、南軍(アメリカ連合国)の偽造巡洋艦アラバマ号が、1862年8月から北軍の商船に対する破壊活動を繰り返すようになりました。アラバマ号が、北軍の輸送に多大な損害を与えた結果、南北戦争を長引かせることになってしまったのです。

 2年に亘って、アラバマ号を追跡していた北軍の軍艦キアサージ号は、1864年6月11日、アラバマ号が修理と補給のために、フランスのシェルブールに入港したのを見届けました。好機が訪れたとばかりに、北軍のキアサージ号は、その3日後、シェルブール港に入り、航路を封鎖しました。

 6月19日、公海上で2隻の軍艦は激しい砲撃戦を行い、1時間後にアラバマ号は沈没しました(※ Wikipedia キアサージ号とアラバマ号の海戦)。

 この戦いは当時、フランスやイギリスで大きく報道されました。人々の関心をかき集め、話題をさらっていたのです。

 フランス人画家のマネ(Édouard Manet, 1832- 1883)は、この戦いをテーマに作品を仕上げています。よほど創作意欲をかき立てられたのか、短期間のうちに完成させいます。英語の作品タイトルは、《The Battle of the Kearsarge and the Alabama》です。

こちら →
(油彩、カンヴァス、134×127㎝、1864年、フィラデルフィア美術館。図をクリックすると、拡大します)

 手前に乗員救助のためのヨット、画面上方の中央に、沈み始めたアラバマ号が描かれています。その背後に煙に隠れたキアサージがかろうじて見えます。沈んでいくアラバマ号に焦点が当てられており、とてもドラマティックな画面構成です。

 マネはこの戦闘を直接、目撃したわけではありませんが、新聞報道に刺激され、夢中になって、描き始めました。26日後には完成させて、パリの画廊で展示しています。その後、この作品は1872年のサロンでも展示されました。

 さて、このアラバマ号事件は、結局、英米両国が事件を国際仲裁裁判に付託することで合意しました。1871年5月8日に締結されたワシントン条約に基づいた措置でした。その結果、1872年9月14日、イギリスの中立義務違反とされ、1550万ドルの賠償額を決定する判決が下されました。
(※ Wikipedia 国際仲裁裁判、https://millercenter.org/president/ulysses-s-grant/key-events

 岩倉使節団一行がワシントンに滞在していた時は、まだ、この判決は出ていませんでした。ですから、久米が述べているように、当時、米英間にはいまにも戦争が勃発しかねない雰囲気が漂っていたのでしょう。

 戦争が終結したとはいえ、依然として、南北の対立は根強く、グラント大統領にもさまざまな再建策が求められました。

■グラント大統領の再建政策

 1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックスで北軍が南軍を包囲しました。南軍のリー将軍は、北軍のグラント将軍に降伏の交渉を求め、4年にもわたる南北戦争はようやく終結しました。

 それでも、議会ではまだ南北の対立が続き、人々の奴隷制度に関する見解の相違は解消されていませんでした。奴隷制度を争点に展開された南北戦争は、大きなしこりを双方に残したまま、戦後を迎えていたのです。

 戦争が終結した直後の1865年4月15日、南北戦争の発端となった第16代リンカーン大統領(Abraham Lincoln, 1809- 1865)は、南軍のシンパによって暗殺されました。

 その後、副大統領であったジョンソン(Andrew Johnson, 1808 – 1875)が第17代大統領となり、再建業務を引き継ぎました。以後、4年間、ジョンソン大統領が南北戦争の戦後処理を行いました。

 ところが、一連の再建政策は、南部に寛大な対応だとみられ、ジョンソン大統領は、共和党急進派のメンバーとは相いれませんでした。

 たとえば、黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部の指導者の政治的権利を復活させています。また、共和党内の多数派が黒人解放・奴隷制廃止の方向に動いていたのに、ジョンソンは奴隷制廃止を唱える連邦議会と対立していました。

 政権のレームダック化を免れることはできず、1869年3月4日、任期満了に伴い退任しています。

 一方、連邦議会はジョンソン政権末期から勢力を増大させており、1868年6月までに、旧南部連合諸州の大半を連邦に復活させています。再建された州の多くは、州知事や下院および上院議員の大半が北部出身の男性で占められました。その中には、新たに解放されたアフリカ系米国人と提携する人々も多く、ルイジアナ州とサウスカロライナ州の議会では、アフリカ系米国人が議席の過半数を占めていました。
(※ https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3481/

 このような政治状況の下、グラントは第18歳大統領になりました。

 着任早々、グラント大統領は、共和党急進派が提唱していた再建政策を実行しました。その一つが、鉄道建設を重視した開発政策です。これは、リンカーン大統領が行っていた政策でもありました。

 リンカーン大統領政権下の1862年、太平洋鉄道法が制定され、連邦政府の財政支援のもとで大陸横断鉄道の建設が推進されました。

 その3年前の1859年、アメリカ合衆国では、すでに東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達していました。西部開拓が進む中、西海岸までの延伸を求める声が高まっていました。そのためのロビー活動が積極的に展開されていたのです。

 リンカーン大統領は1862年7月1日、ミズーリ川から太平洋に至る鉄道の建設を求める太平洋鉄道法に署名しました。この法律は、プロジェクトの資金として国債を提供し、鉄道の走行距離の完了スケジュールを提出することが業者に義務付けられていました。

 国債の返済が必要であり、走行距離の完了という要件があったため、線路を建設する鉄道会社は迅速に作業しなければならず、政府にとってはリスクの少ないプロジェクトでした。
(※ https://millercenter.org/president/ulysses-s-grant/key-events

 当時は南北戦争のさ中で、南部と北部の分断が進んでいました。そんな中で進められた大陸横断鉄道の建設には、分断されつつあったアメリカ合衆国をなんとか統合し維持しようとする企図も込められていたようです。

 太平洋法を受けて1862年に法人化されたのがユニオン・パシフィック鉄道で、同年、議会で承認されたのが、セントラル・パシフィック鉄道でした。この二つの鉄道会社が敷設したレールが、グラント政権が誕生した後、ユタ州のプロモントリー・サミット(Promontory Summit)でつながりました。1969年5月10日のことでした。

 完成記念に、「ゴールデン・スパイク」が打ち込まれました。

こちら →
(※ Wikipedia。スタンフォード大学で保存され、展示されています。図をクリックすると、拡大します)

 大陸横断鉄道の完成を金の犬釘で行うというアイデアは、サンフランシスコの投資家デービッド・ヒューズ(David Hewes)が考えたものでした。この時の犬釘は、サンフランシスコのウィリアム・T・ガーラット・ファウンドリー(William T. Garratt Foundry)で製造され、その両側に鉄道会社の役員の名前が彫り込まれています。そして、犬釘が打ち込まれる最後の完成区間には、カリフォルニア月桂樹で作られた特別な枕木が使用されています(※ Wikipedia)。

 1869年5月10日の式典を前に、ユニオン・パシフィック鉄道の119号機関車とセントラル・パシフィックの60号機関車が引き出され、1本の枕木分の距離を置いて、二つの車両が正面から向き合うように設置されました。

 こうしてプロモントリー・サミットで、西から進むセントラル・パシフィック鉄道の路線と、東から進むユニオン・パシフィックの路線とが連結したのです。

 記念すべき式典には、政府や鉄道の関係者、工事を請け負った労働者たちが参加しました。

 当時の写真がありますので、ご紹介しましょう。

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(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 完成を喜ぶ人々の声が聞こえてきそうな写真です。中央に、握手を交わしている二人の人物が写っています。左がセントラル・パシフィック鉄道のサミュエル・S・モンタギュー(Samuel S. Montague)氏で、右がユニオン・パシフィック鉄道のグレンビル・M・ダッジ(Grenville M. Dodge)氏です。
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1869-Golden_Spike.jpg

 政権が誕生してまもなく、大陸横断鉄道が完成しました。グラント大統領にとって幸先がよく、政権運営にも弾みがついたことでしょう。戦後のグラント政権下で、鉄道に対する投資が盛んになったのも当然でした。

 政府による土地の払い下げと鉄道に対する補助金が大きな推進力となっていたのです。その結果、1868年から1873年の間に総延長33,000マイル (53,000 km) もの新線が敷設されました。

 すぐにはリターンが見込めない鉄道事業に多くの資本が投下され、リスクを伴いながらも、活況を呈していました。過剰な資本投下の結末がどうなるかはわからないまま、南北戦争後のアメリカ経済は、鉄道建設のおかげで好況でした。

 使節団は訪れる先々で歓迎されましたが、それは、『米欧回覧実記』校注者の水澤周氏が指摘するように、アメリカが南北戦争の後、一時的に経済が豊かになっており、気持ちの上で余裕があったからかもしれません。

 実は、岩倉使節団もこの鉄道を利用していました。

 1871年12月21日、横浜港を出発した一行は、24日間の船旅を経て、サンフランシスコに着きました。そして、サンフランシスコを発ったのが1872年1月31日、この時、彼らは鉄道を利用しているのです。

 久米はアメリカ合衆国総説の項で、次のように記しています。

 「鉄道の架設の状況はヨーロッパ諸国をはるかに超えている。1864、5年頃までの鉄道総延長は約6万1000キロメートルほどであったが、70年にはほとんど9万6000キロメートルに達した。これは世界中の鉄道総延長の半ばに相当する。中でも3年前に完成したオマハ・カリフォルニア間の鉄道は、その工事の雄大なことで世界を驚かせ、貿易の状況を一変させるに至った」(※ 前掲。p.46.)

 久米が、「その工事の雄大なことで世界を驚かせ」と書いているのが、1869年5月10日に開通した最初の大陸横断鉄道のことです。ネブラスカ州オマハとカリフォルニア州オークランドを結び、アメリカ経済の活性化にも大きく貢献しました。

 さまざまな問題を孕みながらも、この大陸横断鉄道の完成が、南北戦争によって分断されていたアメリカを再建し、西部開拓を含めたアメリカの再編に大きな影響を与えたことは確かでしょう。(2023/8/23 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅⑤:岩倉使節団の訪欧米とウィーン万博への初参加に何をみるか。

 前回みてきたように、明治新政府の喫緊の課題として、不平等条約改正協議のため、関係諸国との交渉をしなければなりませんでした。廃藩置県を断行すると、早々に、岩倉具視を全権大使として使節団を編成し、課題解決に向けて動き出したのです。

 一方、ほぼ同時期に、ウィーン万博への参加打診があり、明治政府は初めて参加することを決定しました。

 岩倉使節団の訪欧米も、ウィーン万博への初参加も、明治政府がはじめて現地に出向き、列強と渡り合う機会となります。

 そこで、今回は、使節団の参加メンバーから何が見えてくるか、ウィーン万博にへの初参加を明治政府は同見て居たのかを考えてみることにしたいと思います。

■岩倉使節団の編成

 1871年7月14日、明治政府は廃藩置県を断行しました。それまで300弱あった藩を廃止し、地方統治を明治政府管轄下の府と県に一元化したのです。

 さらに、7月29日には太政官制を発布し、太政官に正院(国家意思決定機関)・左院(議法機関)・右院(行政機関)の3院を設置して、その下に各省を置き、中央集権体制の基礎を固めました。

 着々と中央集権体制を整備していく中、喫緊に取り組まなければならない課題がまだ残っていました。一つは、不平等条約改正協議の期限延長を交渉すること、もう一つは、近代国家としての内実を整えること、等々です。1872年5月には条約改正協議の期限が切れることになっていたのです。

 これらの課題を解決するには、海外に使節を派遣して、関係諸国と交渉するとともに、現地を視察してくる必要がありました。

 そこで、結成されたのが、岩倉具視を特命全権大使とする遣欧米使節団です。

 全権大使が岩倉具視、副使に、参議の木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳が選ばれました。いずれも明治政府の要員です。

こちら →
(※ 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、クリックすると図が拡大します)

 彼らの出身と職位は、岩倉が公家で右大臣、木戸が長州で参議、大久保が薩摩で大蔵卿、伊藤が長州で工部大輔、山口が肥前で外務少輔でした。維新を断行した勢力で構成されていることがわかります。

 この写真は1872年12月、サンフランシスコ到着直後に撮影されたものだそうです(※https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Iwakura_mission.jpg)。

 この時、岩倉が47歳、木戸孝允が39歳、山口尚芳が33歳、伊藤博文が31歳、大久保利通が42歳でした。彼らの表情には、新体制を背負って立つ気概が感じられます。

 岩倉具視は公家の正装をし、副使の4人はシルクハットを持ち、洋式の正装をしています。単なる視察ではなく、条約改正協議に関する交渉が主な目的でしたから、正装が必要だったのでしょう。山口と伊藤はブラックタイをしていますから、現地で調達したのかもしれません。ブラックタイは、19世紀英米のフォーマルなドレスコードです。

 彼らはその後、諸機関や諸施設を見学した後、22日にサンフランシスコを発っています。

 使節団の旅程を見ると、サンフランシスコには12月6日に着いています。歓迎会が相継いだそうですから、その間隙を縫って、記念写真を撮影したのでしょう。

■旅程と使節団メンバー

 一行は1871年11月12日に横浜港を発ち、まず、アメリカ、次いで、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イタリアを訪問し、スエズ運河を経由し、マラッカ海峡を通過して香港、上海に立ち寄り、1873年9月13日に横浜港に着きました。なんと1年10カ月にも及ぶ長旅でした。

 出発時の使節団は、随行員を含め46名でした。それに、女性を含めた留学生が43名と随行員18名が加わり、総勢107名にも及びました。

 年齢構成は、40代8名、30代17名、20代17名、10代2名でした。20代、30代を中心に編成されていました。次代を担う若者層に期待し、中心メンバーに据えていることがわかります。

 使節団メンバーの出身を見ると、最も多いのが幕臣で13名、次いで肥前藩の8名、長州藩5名、土佐藩4名、公家3名、薩摩藩2名、後は、九つの府や県から1名ずつといった内訳です。興味深いことに、幕臣と肥前藩(佐賀藩)出身者が多いのです。

■なぜ、幕臣と肥前出身者が多いのか?

 使節団に、なぜ、幕臣と肥前藩出身者が多いのか、不思議に思ったのですが、その職務内容を見ると、外務を担当する者が多くみられたので、なんとなく納得しました。海外での業務遂行に支障をきたさないような人選が行われたのでしょう。それにはなんといっても語学力が不可欠です。

 たとえば、副使として参加していた山口尚芳は、肥前藩出身の外務少輔です。外務少輔とは、外国との交流や貿易、監督に関して外務卿を補佐し、必要に応じて、外務卿や外務大輔の代理を務める役職です。

 使節団の渡航の主な目的が、条約改正協議の予備交渉ですから、外務の専門家は不可欠です。外務少輔以外にも、外務少丞、外務少記、外務大録、外務大記などの職名がついたメンバーが参加していました。

 山口尚芳(1839-1894)は、幼い頃から優秀だったので、将来を期待されていたそうです。やがて、佐賀藩主・鍋島直正の命令で長崎に遊学するようになります。そこで、オランダ語や蘭学を学び、フルベッキが来日して、長崎英語伝習所で教えるようになると、英語を学び、藩に戻ってからは翻訳方練兵掛として勤務していました。

 山口尚芳はオランダ語と英語が堪能だったのです。

 これはほんの一例ですが、岩倉使節団に肥前藩出身者が多かったのは、外国語が堪能だったからだと考えられます。鎖国時代に唯一、海外に開かれていた長崎に近く、海外の文化や語学に触れる機会、学ぶ機会に恵まれていました。近代化への志向性も高く、使節団メンバーとしての適性があると判断されたのでしょう。

 一方、幕臣出身者は、外務要員もいますが、租税、検査、教育、兵学、造船など、国家を支えるさまざまな業務を担当していることが注目されます。明治新政府は、優秀なテクノクラートとして幕臣を高く評価していたことがわかります。新しい国家体制の中に組み込み、活用しようとしていたのです。

 46名の布陣をみると、岩倉使節団のメンバーは、それぞれの領域で、近代国家の構築に寄与できるような人材が選ばれていたことがわかります。優秀な若い人材を欧米で実地見学させ、現地でさまざまな経験を積ませたうえで、帰国後は、新国家建設のために能力を発揮してもらおうという算段です。

 ちなみに、使節団が帰国した後、『特命全権大使米欧回覧実記』を刊行したのは、肥前藩出身の久米邦武でした。出発時の肩書きは権少外史です。権少外史とは、太政官正院の書記官で、位階は正七位です(※ https://coin-walk.site/J069.htm#TOP、明治4年7月制定)。

 久米邦武(1839-1931)もまた、優秀な人材でした。肥前藩士久米邦郷の三男として佐賀城下で生まれ、藩校である弘道館で学んだ後、江戸の昌平坂学問所で学びました。弘道館での成績は首席を通し、藩主鍋島直大(1846-1921)に論語の御前講義を行っています。

 漢籍の素養は、『特命全権大使米欧回覧実記』の執筆に活かされました。簡潔で要を得た表現はいまなお評価が高く、貴重な史的資料として重視されています。

 こうしてみてくると、肥前藩がさまざまな人材を輩出していたことがわかります。

 鎖国していた江戸時代、長崎出島は唯一、海外に開かれた日本の窓口でした。肥前藩は、長崎出島に近いという点で、地理的優位性がありました。当然のことながら、藩主は、蘭学や洋学、オランダ語や英語の重要性をいち早く、認識していましたし、世界情勢にも通じていました。そして、藩内の近代化にも早くから取り組んでいました。

■幼い頃に留学

 岩倉使節団の副使であった山口尚芳は、まだ8歳だった子息の俊太郎(1863-1923)を従者として帯同し、尚芳が帰国した後も、俊太郎はそのままイギリスに留学させています。

 幼い頃に海外に出たせいか、俊太郎は語学の習得は早かったようで、次のように説明されています。

「回覧中、尚芳が大隈重信に書き送った書簡中にも、幼い俊太郎が時にはすでに自ら通訳をかって出るなど、その語学習熟の速さに驚嘆した様子が記されている。津田梅子など、幼くして使節団に同行した留学生は多くいたが、なかでも彼は、一行中で「神童」と称されるほどの怜悧さを持ち合わせていたという」
(※ https://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/jinbutu/text/syuntarou.html)

 9年後に帰国しましたが、彼の英語はもはやイギリス人とまったく変わらないほどだったそうです。1887年に東京帝国大学工科を卒業した後、再び米国に留学し、鉄道運輸や土木工学などの研究を積み、帰国後は鉄道事業に貢献しました。

 先ほどいいましたが、岩倉使節団には女子留学生が5名、加わっていました。もっとも幼いのが津田梅子です。1864年12月31日生まれですから、出発時点ではまだ満6歳でした。山口俊太郎より2歳も年下だったのです。

こちら →
(※ Wikipedia。クリックすると図が拡大します)

 右から2番目、白い服を着た女の子が津田梅子(1864-1971)です。佐倉藩士として生まれ、幕臣であった津田家に婿入りした津田仙と初子夫妻の次女として生まれました。津田仙は、梅子が誕生した時、江戸幕府に出仕して外国奉行支配通弁(通訳官)を務めていましたが、梅子が3歳の頃、幕府派遣使節の随員として福沢諭吉らと渡米しています。

 幕末に幕府がアメリカに使節を派遣したと聞くと、違和感を覚えますが、1867年、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣しました。

 この時、随行団のメンバーとして加わったのが、通訳を担当する福澤諭吉や津田仙でした。

 1867年1月23日、幕府使節団は、郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港しました。このコロラド号は、オーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分だったようで、福沢諭吉は、「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と、「福翁自伝」に記しています(※ Wikipedia)。

 福沢諭吉は、幕府の命を受けて何度か欧米を訪れています。1859年には幕府海軍の軍艦「咸臨丸」に乗ってアメリカに行き、1861年には英軍艦「オーディン号」に乗ってヨーロッパに行きました。そして、1867年は軍艦ではなく、郵便船の「コロラド号」で渡米したのですが、その性能、装備、設備は素晴らしく、技術力の一切合切に驚嘆したというのです。

 福沢諭吉は早くから、これから学ぶべきは、もはやオランダ語ではなく、英語だと察知していました。欧米での現地経験、あるいは書物等を通して、そのような見解を得ていたのでしょう。津田仙は福沢諭吉から、米英が優勢だという認識を聞いていたのかもしれません。

 さて、1871年10月、開拓次官の黒田清隆が正院に伺い出て、開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業を実現させました。女子にも教育の機会を与えようという思いからでした。それを知った津田仙は、梅子を応募させました。実は、姉の琴子(1862-1911)を応募させようとしたのですが、拒否したので、断念していました。ところが、それを聞いた梅子はが自分から、アメリカに行きたい、といったので応募させ、留学が実現したのでした。

■帰国後の梅子の人生

 明治政府が募集した官費女子留学生は、留学期間が10年で、旅費・学費・生活費は全額政府が負担し、さらに奨学金として毎年800ドルを支給するという破格の条件でした。ところが、応募したのは、旧幕府側士族の少女5名だけでした。年齢は、14歳が2名、11歳、8歳、6歳がそれぞれ1名です(※ Wikipedia)。

 彼女たちはそれぞれ、大きな希望を抱いて渡航したはずですが、留学を終え、帰国しても何も職は用意されていませんでした。開拓使の黒田清隆が敢えて女子のために門戸を開いたというのに、帰国してみれば、奮闘して身につけた能力を活かす場はなかったのです。

 そもそも、官費女子留学生を所管していた開拓使は、1882年2月に廃止されており、梅子が帰国した際、その管轄は文部省に引き継がれていました。11年間の留学を終えて帰国しても、官職が用意されることはありませんでした。

 失意に暮れる梅子にも、1885年9月、転機が訪れます。岩倉使節団で一緒だった伊藤博文の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語教師の職に就くこととなったのです。華族女学校教授補は、宮内省御用掛、奏任官に准じた扱いでした。そして、1886年11月には華族女学校教授となり、同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監と梅子だけでした。

 梅子は華族女学校で3年余り教えましたが、上流階級的気風には馴染めなかったようで、1889年7月、再び、アメリカに留学します。

 今度は、ブリンマー大学で生物学を専攻し、梅子は留学3年目の1891年から1892年の冬に、「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げています。研究成果は、指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933年 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」( “The Orientation of the Frog’s Egg”)にまとめられ、1894年にイギリスの学術雑誌 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.に掲載されました。梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となったのです(※ Wikipedia)。

 自身の経験を踏まえ、女子教育の場の必要性を感じた梅子は、やがて学校の設立を構想するようになりました。アメリカからの資金援助もあり、1900年7月、東京府知事に設立申請を出して認可を受け、9月14日、「女子英学塾」を開校しました。

 女子英学塾は、華族と平民との区別のない女子教育を目指していました。それまでの良妻賢母をモットーとする女子教育とは違って、進歩的で自由でありながら、レベルの高い授業が評判となっていたようです。

 6歳でアメリカに渡った梅子が、留学生活11年を経て帰国後、さまざまな経験をして、再び、渡米し研鑽した後、創り上げた理想の英語塾であり、自由な精神を育む学びの場でした。

 やがて梅子は亡くなりますが、その死から4年が過ぎた1933年、梅子を記念して校名が「津田英学塾」に改められました。その後、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、梅子の女子教育への思いは、今に至るまで継承されています。

 こうしてみてくると、岩倉使節団は、参加メンバーの活動を通して、日本に少しずつ、変化をもたらしてくれていることがわかります。津田梅子が行ったのは、女性に対する自由平等な英語教育の機会の提供でした。

■列強と渡り合うための武器

 興味深いことに、激動の時代を経験し、欧米との間に、技術的、文化的、制度的な落差があることを感じた人々は、教育を重視し、塾あるいは学校の設立に向かっています。

 たとえば、福沢諭吉(1835-1901)は1858年に開設した蘭学塾を、1868年に慶応義塾をと名付け、以後、教育活動に専念しました。そして、大隈重信(1838-1922)は1882年、政治学と経済学の融合を志向した政治経済学の構築を目指し、東京専門学校を設立しています。

 福沢諭吉は漢籍を学んだ後、長崎に遊学してオランダ通辞からオランダ語を学び、次に江戸に赴き、幕府の通辞から英語を学んでいます。ほとんど独学に近い形でオランダ語と英語を学んでいるのです。

 一方、肥前藩出身の大隈重信は藩校で漢籍を学び、アメリカ人宣教師チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、1829 – 1910)の私塾で英語を学び、後に、致遠館で教えていたオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck、1830 – 1898)から英語を学んでいます。

 彼らは、外国語を習得したからこそ広がった視野の中で、日本の将来を考え、日本の運営を考えてきました。学び方の違いはあっても、それぞれ、実際に英語を駆使し、教育や情報収集、海外との交渉に役立てています。

 福沢は、1868年に蘭学塾を慶応義塾として以来、官職に就かず、教育活動に専念しました。欧米の書物を翻訳して新しい技術や文化、思想の紹介をしています。さらには、アジアや世界の中の日本の位置づけについての自身の見解を綴って、激動期の指針となるようなメッセージを発信しています。

 他方、大隈は、浦上四番崩れ(隠れキリシタンの弾圧事件)について、各国政府との交渉が行われていた1868年、イギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させました。これを契機に、大隈は政府内で頭角を現すことになりましたが、この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であったとされています(※ Wikipedia)。

 大隈は、各国との難しい交渉の場で、英語を駆使して、問題を解決していたのです。英語力ばかりではなく、キリスト教文化あるいは、欧米の社会についての知識があったからこそ、それらの問題を解決に導くことができたのでしょう。その後、海外との交渉で、大隈は不可欠の存在となりました。

 福沢は、海外の情報や文化を翻訳し、紹介して、当時の日本人の眼を見開かせました。さらに、激動下の日本認識について広い視野から見解を述べることによって、当時の日本人を啓蒙していました。それに対し、大隈は、実際に外国要人との交渉の場で、その力量を発揮しました。

 いずれも当時の日本社会に大きく寄与しています。改めて、列強と渡り合うための武器とは何かということを考えさせられます。意思疎通のための語学の重要性ばかりではなく、背景理解のための、社会や文化についての知識や洞察の重要性が認識されます。

 ちょうどその頃、肥前出身の佐野常民は、博覧会事務局副総裁として、どうすべきか模索していました。ウィーン万博に出品するにあたって、何をすれば、日本のためになるのか、考えていました。

■ウィーン万国博覧会

 ウィーン万国博覧会は、1873年5月1日から11月1日にかけてオーストリア・ウィーンのプラータ公園で開催されました。

こちら →
(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873.html、クリックすると図が拡大します)

 上記の図は、博覧会場本館の表門です。

 日本のパビリオンは中国の隣で、メインパビリオンのほぼ東端にありました。この主会場以外に、機械、農業、美術など個別の展示館が建設されていました。

 ウィーン万博は明治政府がはじめて公式に出品した博覧会でした。30カ国が参加し、参加者は725万人でした。7万点以上が出品されましたが、イギリス、フランス、アメリカからは革新的な発明品、作品、製品が出品されておらず、目新しさに欠けたそうです。

 一方、インドや中国、日本からは、珍しくて優れた工芸品が出品されており、参加者の評判がよかったそうです。特に日本については、初めての参加だったせいか、ジャポニスムが巻き起こったといわれています(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873.html)

 明治政府はウィーン万博初参加のために、入念に準備していたようです。

 博覧会事務局副総裁の佐野常民は、ウィーン万博に参加するにあたって、目的を5項目定め、1872年6月に明治政府に提出しています。開催の約1年前のことです。

 5項目いずれも興味深いので、ちょっと長いのですが、引用しておきましょう。

①日本国内で生産される上質な物産と製品を収集・展示し、日本国が豊穣な国土を持ち、優秀な製品を生産できるということを海外諸国に対してアピールする。

②海外各国の展示品と最先端の技術を詳細に調査し、その技術を学び、日本へ持ち帰ることによって日本の技術水準を高める。

③国内の物産を収集することにより、学芸の進歩のために不可欠である博物館の建設を計画する。

④日本国内の上質な物産と製品が海外諸国の耳目を集め、輸出産業の充実につながるようにする。

⑤海外諸国の出展品の原価と販売価格を調査することにより、海外諸国が求めている品々を把握し、貿易の際の基礎資料とする。
(※ https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1873-4.html)

 言い換えれば、①製品や作品を通して日本を世界にアピールする、②海外の製品と最先端技術を把握し、日本製品に取り入れる、③国内の製品や作品を展示できる博物館を作り、製品や作品の進展につなげる、④日本の良質な製品を世界に広く知ってもらい、輸出振興につなげる、⑤海外の出品製品の原価と販売価格を調べ、海外が何を求めているかを把握し、対応できるようにする、等々。

 万博を商品の展示場とみなし、海外の市場調査をし、日本製品の強みは何かを把握しようとしていたことがわかります。

 実際、ウィーン万博についてはかなり入念に準備していたようです。

こちら → https://www.atpress.ne.jp/releases/168733/att_168733_1.pdf

 この中には、実際に出品された製品や作品が載せられています。

 有田焼の大きな花瓶や人形、金属製の灯篭、装飾メアシャムパイプなど、精緻な細工の工芸品が多数、出品されていました。このような工芸品なら、現地の人々を惹きつけ、日本ブームが起こるのも当然だと思わせられます。

 1873年ウィーン万博に出品されたという磁器の絵皿を見つけました。染付花籠文の絵柄が印象的です。

こちら →
(※ Wikimedia、クリックすると図が拡大します)

 花と花瓶がとても繊細なタッチで描かれています。青の濃淡だけでモチーフがきめ細かく表現されているせいか、花びらや葉、茎、それぞれ固有の色彩を感じさせられます。落ち着いた上品な設えの中に、活き活きとした華やぎがあります。

■岩倉使節団の訪欧米とウィーン万博への初参加に何をみるか。

 岩倉使節団一行は、ウィーン万博会期中の1873年6月3日にウィーンに到着し、5日に岩倉、伊藤、山口が会場を訪れています。以後、4日間にわたって博覧会を見学し、6月18日に、一行はウィーンを発っています。

 会場の賑わいを肌で感じたことでしょうし、日本の工芸品や製品が人気を博していることも見かけたことでしょう。言葉が違えば、風俗習慣も違う異国の地で、日本の工芸品や製品が話題を集めていることに発奮したに違いありません。

 不平等条約改正協議のための事前交渉のための訪欧米でしたが、実際に交渉はうまくいきませんでした。ただ、各地の状況を視察することができ、世界がどのような方向で動いているのかがわかったことは大きな収穫だったでしょう。

 とくに、万博は商品の展示場でもあり、次元を別にした各国の争いの場でもあることを察知したかもしれません。

 列強が日本に開国を迫り、仕方なく、日本は社会変革を起こし、列強に対抗できる国家へと変貌しつつありました。岩倉使節団のメンバー、あるいはウィーン万博関係者が行っていることは近代化への一環でした。彼らは欧米各地で、いったい何を見たのでしょうか。翻って、これまでの日本をどう見たのでしょうか。
(2023/7/31 香取淳子)
 

岩倉具視幽棲旧宅④:列強の圧力、そして、胎動する留学への動き

 安政五カ国条約の締結以降、開港を求める列強の強硬な態度、あるいは、上陸した水兵たちとのトラブルをきっかけに、さまざまな事件が起こりました。言葉がわからず、制度もわからない中で発生した、異文化接触に伴う事件でした。

■兵庫開港要求事件

 安政5年(1858年)、強引に開国を迫る列強に押し切られるように、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとそれぞれ、修好通商条約を締結しました。まとめて安政五カ国条約といわれるものですが、いずれも将来に禍根を残す不平等条約でした。

 中でも、喫緊の課題は、兵庫港などの開港が1863年に予定されていたことでした。孝明天皇をはじめ、京都に近い兵庫港の開港に反対する勢力が強く、その年の実現は困難だったのです。

 そこで、幕府は文久元年(1862)、開港延期交渉のため、ヨーロッパに使節団を送りました。正使は竹内保徳、副使は松平康直、総勢36名に通訳2名の使節団でした。使節団は、イギリスでロンドン覚書を交換し、兵庫開港は5年間延長して1868年1月1日とすることで合意を得ました。

 ところが、慶応元年9月(1865年11月)、開港を待ちきれずにイギリス、フランス、オランダの連合艦隊が、いきなり、兵庫沖に侵入してきました。兵庫開港要求事件といわれるものです。

 そもそも、イギリス公使のパークスらは、勅許を得ないまま締結された安政五カ国条約に、不安を覚えていました。そこで、兵庫の早期開港と天皇の勅許を求め、幕府に圧力をかけたのです。

 イギリス4隻、フランス3隻、オランダ1隻の合計8隻からなる艦隊が、横浜を出港し、1865年11月4日に兵庫港に到着しました。パークスをはじめ、フランス、オランダの公使、アメリカの代理公使を乗せており、政治的圧力をかけてきたのは明らかでした。

 パークスらに追い立てられるように、幕府は、朝廷との交渉を進めました。ところが、孝明天皇は、安政五カ国条約については勅許しましたが、兵庫開港については依然として勅許せず、ロンドン覚書での合意を変更することはありませんでした。

 1868年1月1日、念願の兵庫港が開港しました。各国の艦隊が停泊しているのがわかります。イラストレイテッド・ロンドンニューズには、次のような、神戸開港を伝える銅版画が掲載されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)
 
 上図の左下の白い部分が、外国人居留地です。神戸港の開港とともに、建設されました。ヨーロッパの都市計画技術に基づいて居留地を設計したのは、イギリス人土木技師ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)でした。

 敷地は整然と整備され、格子状の街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが設置されました。美しく調和のとれた街並みです。

 ジョン・ウィリアム・ハート(John William Hart、1836 – 1900)が、1878年に描いた絵が残されています。


(※ 神戸市立博物館。図をクリックすると、拡大します)

 外国人居留地は、各国領事、兵庫県知事、登録外国人から選ばれた3名以内のメンバーによる「居留地会議」という組織によって運営されていました。道路、下水、街灯などを管理するほか、警察隊を組織し、居留地内の犯罪を取り締まっていました。警察隊が捕らえた犯罪者は、各国の領事に引き渡され、各国の法律によって裁かれました。
(※ https://www.kobe-kyoryuchi.com/history/)

 安政五カ国条約によって、治外法権が認められていたからでした。日本で外国人が関与した事件が発生しても、日本の警察は裁くことができないのです。

 兵庫開港の直後に神戸事件、続いて、堺事件が起きました。いずれも外国人が日本に居留するようになったからこそ、起きた事件でした。

■神戸事件と堺事件

 1868年2月4日、備前藩の隊列が神戸の三宮神社近くにさしかかった時、付近の建物から出てきたフランス水兵2人が、行列を横切ろうとしました。これは、当時の日本人にとっては、大変、無礼な行動でした。

 日本側から見ると、この時のフランス水兵の行為は、非常に無礼な行為に当たります。

 隊長が制止しようとしましたが、言葉が通じず、水兵たちが強引に横切ろうとしたので、終には、切り付け、軽傷を負わせてしまいました。

 彼らはいったん、民家に逃げ込んだ後、今度は拳銃を取り出し、挑んできました。それを見た備前藩の兵士が発砲し、銃撃戦に発展してしまったというのが、この事件の経緯です。弾が撃たれたとはいえ、ほとんど当たっておらず、負傷者は2名ほどだったそうです(※ Wikipedia)。

 実際は小競り合い程度に過ぎなかったのですが、たまたま、隣の居留予定地を実況見分していた欧米諸国公使たちを巻き込むことになりました。発砲音を聞きつけたイギリスのパークス公使は激怒し、各国艦船に緊急事態を宣言し、その日のうちに、居留地の防衛を名目に、神戸中心地は占拠されてしまいました。

 諸国公使は、在留外国人の身の安全と事件の日本側責任者の厳重処罰を、明治政府に要求し、明治政府もそれに応諾せざるをえませんでした。

 この事件に遭遇したのは、備前藩でした。

 明治政府に命じられ、摂津西宮の警備に赴く途中の出来事でした。当時の武士のルールでは、行列を横切ることは非常に無礼なことで、切り付けられるのも当然だったのです。ところが、列強の憤りを買った結果、外交官列席の下で、フランス水兵に切り付け、軽傷を負わせた兵士が切腹させられた上、上司は謹慎処分にされました。

 列強と日本との力の差をまざまざと見せつけられる事件でした。

 外国人が日本で違法に近い行為をしても、罰せられるのは日本人という理不尽な悲哀を、当時の日本人は味わったのです。

 時を経ず、似たような事件が起きました。堺事件です。

 1868年3月8日、フランス水兵が上陸して狼藉を働いたと苦情を受けた土佐藩の警備隊長が、これらのフランス兵を帰艦させようとしました。ところが、言葉が通じず、帰艦しようとしないので、土佐藩の兵士が水兵を捉えようとしたところ、水兵は土佐藩の隊旗を奪って逃げようとしました。

 大切な隊旗が奪われたので、土佐藩の兵士は激怒し、とっさに発砲しました。これが契機となって、銃撃戦となり、フランス水兵11名が死亡しました。

 フランス人イラストレーター、ゴッドフリー・デュランド(Godefroy Durand, 1832 – 1896)が、この事件の様子を描いています。


(※ Wikimedia, Le Monde Illustré, 8 March 1868, 図をクリックすると、拡大します)

 今回もまた、日本側は煮え湯を飲まされるような処置を迫られました。

 明治政府は、賠償金15万ドルを支払ったうえに、土佐藩の指揮官および隊士20名の死刑を要求され、やむなく、呑まざるをえなかったのです。

 列強と当時の日本との国力の差は大きく、日本国内で狼藉を働いた外国人に対し、当然の処置をしただけなのに、処置した日本人が、逆に、極刑を強いられるという結果を免れることができなかったのです。

 どれほど無念の思いをしたことでしょう。

 このような理不尽なことをなくすには、まず、列強と並ぶ近代国家に変わって、不平等条約を解消する必要がありました。近代国家とみなされないからこそ、欧米は自分たちが優位な立場にいると思い、勝手なことをするのです。

 勝手なことをさせないためには、なによりも、欧米の技術や知識、学問を学び、彼らと同等だということを見せつける必要がありました。開国したからには、欧米と対等の技術、学術、制度や文化を持ち、対等にコミュニケーションできなければなりませんでした。

 おそらく、幕府の一部はそれに気づいていたのでしょう。

 1862年、初めての留学生が幕府から派遣され、オランダに出向いています。

■幕府が、留学生をはじめて派遣

 実は、幕府は西洋の学術や技術を導入するため、すでに、欧米に留学生を派遣する計画を立てていました。当初、軍艦の注文と留学生の派遣先として、アメリカを想定し、準備していましたが、南北戦争(1861-1865)が激化したため、1862年1月、アメリカが軍艦の製造を断ってきました。

 そこで、幕府は急遽、発注先をオランダに変え、軍艦の発注と留学生派遣を交渉し、早々に決定しています。

 1862年4月11日、幕府から命を受けたメンバーは、軍艦操練所から、榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から、津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わりました。
(※ https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_6.html)

 1865年にオランダで撮影された彼らの写真があります。


(※ 津田真道関係文書47-3、国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 後列左から、伊東玄伯(医学)、林研海(医学)、榎本武揚(海軍機関学)、(布施鉉吉郎)、津田真道(法律経済)、そして、前列左から、沢太郎左衛門(砲術)、(肥田浜五郎)、赤松則良(造船学)、西周(法律経済)です。

 なお、内田正雄(海軍諸技術)と田口俊平(海軍測量術)はこの時、欠席しており、この写真に写っていません。また、写真に写っている後列の(布施鉉吉郎)と前列の(肥田浜五郎)は留学生ではありません。

 派遣された留学生は、軍艦操練所から5人、蕃書調所から2人、長崎養生所で医学を学ぶ2人の計9人、そして、船舶運用、造船製図、製鉄鋳物、測量機械、鍛冶術などの職方6名でした。

 メンバーの大部分を占めるのが、軍艦操練所からの5人と職方の6名です。

 軍艦の発注と抱き合わせの留学なので、当然と言えば当然ですが、幕府には、オランダに依頼した軍艦が竣工するまでの間、彼らにその立ち合いと監督を兼ねて、現地で先進的な造船学や航海術を学ばせたいという意図がありました。

 興味深いのは、その中に、西や津田らの洋学者、伊東や林らの医学生が加わっていたことでした。

 開明派の幕吏や蕃書調所からの強い要望があったからなのでしょうが、軍事技術以外の社会科学、人文学、医学など、近代化に必要な人材がメンバーに加えられていたことの意義は大きいといわざるをえません。

 たとえば、津田真道は帰国後、日本初の西洋法学を紹介しています。そして、明治維新後は、新政府の司法省に出仕して『新律綱領』の編纂に参画し、司法領域で大きな貢献をしています。

 また、西周は帰国後、徳川慶喜の側近として活動し、維新後は、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任し、『万国公法』を訳刊しています。1870年10月22日には乞われて明治政府に出仕し、以後、兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任しました。軍人勅諭・軍人訓戒などの起草に関与し、軍政の整備とその精神の確立などに努めています。

 幕府が派遣した最初の留学生たちは、欧米と並ぶ近代化を目指して、軍事と法を整備するだけでなく、近代医学を学び、医療の改善を図りました。その一方で、日本に西欧の技術や学術を持ち込んだのです。

 軍艦を発注しようとした際、幕府は留学生の派遣までは考えていませんでした。

 軍艦の製造を依頼するなら、ついでに留学生も派遣してはどうかと提案したのは、アメリカ人駐日公使のタウンゼント・ハリスでした。

■タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)

 アメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804-1878)は、1856年に初代駐日総領事として来日した頃から、日本人や日本の日常生活を高く評価していました。

 『日本滞在日記』(1856年)には、日本人について、「喜望峰以東の最も優れた民族」と書かれており、好意的に捉えていることがわかります。下田の町についても、「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」と書き残しています(※ Wikipedia)。

 ハリスは、1858年に日米修好通商条約が締結されると、初代駐日公使となりました。

 江戸幕府は当初、軍艦の製造をアメリカに依頼していました。その際、ハリスは幕府に、ただ軍艦を発注するだけではなく、人材をアメリカに派遣し、軍事技術や理論なども学んできてはどうかと薦めたのです。

 彼は、日本人の能力を高く評価しており、「私は、蒸気機関の利用によって世界の情勢が一変したことを語った。日本は鎖国政策を放棄せねばならなくなるだろう。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえすれば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう。」(※ Wikipedia、前掲)と語っています。

 日本人に軍艦の製造現場を見せ、技術や理論を学ばせれば、たちまち、欧米列強に並ぶ国になるとハリスは思っていたのでしょう。

 この時、オランダに派遣された留学生は、田口良直(45歳)を除き、20代から30代の若者ばかりでした。意欲のある有能な若者が、列強に対抗できる技術や知識を身につけるために渡欧したのです。

 そして、帰国すると、期待どおりの成果をあげています。

 さて、列強の到来で国家存亡の危機を感じたのは、なにも、幕府だけではありませんでした。列強のアジア侵略を知る機会のあった藩士たちもまた、大きな危機感を覚えていました。

 たとえば、長州藩の吉田松陰(1830- 1859)、下総佐倉藩の西村茂樹(1828-1902)、そして、松代藩士の佐久間象山(1811-1864)などです。

 蘭学者の西村茂樹は1851年、佐久間象山に師事し、砲術修業をしています。ペリーが来航すると、西洋の砲術を修業しようとオランダ留学を思いつきます。藩老に相談すると、強く諫められたので、諦めたようです。

 同じようなことを考え、実行に移したのが、吉田松陰でした。松陰は佐久間象山の弟子でもありました。ペリー来航時に停泊中の軍艦に乗り込み、アメリカに密航しようとしたのも象山の考えに従ったからでした。

 それでは、吉田松陰について、振り返っておくことにしましょう。

■吉田松陰幽囚旧宅

 吉田松陰は長州藩士で、5歳の時、叔父吉田賢良の養子となりました。養父は山鹿流軍事師範を世襲している中級武士でした。19歳で山鹿流軍学の師範を継承しましたが、すでに時代遅れだと認識していました。1850年には長崎留学、1851年には江戸遊学と見聞を広めていくにつれ、その思いはますます強くなっていきました。

 1851年に江戸に留学した際、佐久間象山の木挽町にあった「五月塾」で砲術や兵学を学んでいたと思われます。

 アジア情勢、世界情勢を知った松陰は、1853年に黒船が来航すると、危機感を強めていきます。

 ところが、開国を迫る外国勢に対し、幕府は的確に対応できず、松陰は失望せざるをえませんでした。是非とも、自身の眼で海外情勢を知る必要があると思い、ペリー来航を絶好のチャンスだと思い、密航を企てたのです。

 実際、1854年にペリーが下田沖に再訪した際、松陰は小舟を漕いで黒船に乗り込みました。ところが、すぐさま捉えられ、幕府に送り返されて、幽閉処分になってしまったのです。

 松陰が幽閉された旧宅は、萩市にある松陰神社の境内にあります。木造瓦葺きの平屋建て214㎡の建物で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室のほか、板間・物置・土間などがある大きな建物でした。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 数年前にここを訪れたことがあります。静かな佇まいの中に、思索を醸成する豊かな時間の流れを感じさせられたことを思い出します。

 吉田松陰が幽閉されていたのは、東側にある3畳半の一室です。幽囚室と呼ばれていました。この幽閉部屋はもともと、四畳半でしたが、神棚を設けたため、狭くなったそうです。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 幽囚の間、松陰はここで、読書と著述に専念していましたが、やがて、近親者や近隣の子弟たちに、孟子や武教全書を講じるようになり、1856年9月20日には、禁固中でありながら、「武教全書」の講義を開始しています。

 そして1857年、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾しました。

■松下村塾

 そもそも松下村塾は、松陰の叔父である玉木文之進が、自宅で私塾を開いたのが始まりです。当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから、「松下村塾」という名がつけられました。

 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継承し、子弟の教育にあたりました。そして1857年に、28歳の松陰がこれを継いで、主宰することになりました。


(※ 萩市観光公式サイトより。図をクリックすると、拡大します)

 木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎です。当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。(※ 萩市観光公式サイト)。

 入口に掲げられた、流れるような書体で書かれた「松下村塾」の大きな看板が印象的です。

 松陰は、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と『松下村塾記』に記しています。村名を冠した塾名に誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしていました。

 長州藩の藩校である明倫館は、武士階級の者しか入れず、それも足軽・中間などの軽輩は除外されていました。

 ところが、松下村塾では、それとは対照的に、身分の分け隔てなく、塾生を受け入れていました。それを、藩校明倫館の塾頭を務めたことのある吉田松陰が引き継いだのです。

 松陰は、身分や階級にとらわれず、有志を塾生として受け入れました。わずか1年余りの期間でしたが、多くの逸材に魂を吹き込み、育て上げることができました。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山田顕義、品川弥二郎など、歴史に残る逸材がここから育っています。ちなみに、山縣有朋、桂小五郎は、松陰が明倫館で教えていた頃の弟子で、松下村塾には入塾していません。

 こうしてみてくると、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多く人材を、吉田松陰が育ててきたことがわかります。

 松陰の教授方法は、実にユニークでした。

 一方的に師匠が弟子に教えるスタイルではなく、松陰が弟子と意見を交わし、議論しながら、問題点を探り、考えを深めていく熟議方法を採っていたのです。まさに、民主主義の基本的な性格をもつ教授スタイルでした。

 さらに、書物から学ぶだけでなく、実践を重視していました。もちろん、登山や水泳なども行っており、心身ともに鍛錬しようとしていたことがわかります。

 教育者だったからでしょうか、吉田松陰は多くの書物や書、箴言を残しています。

 たとえば、安政の大獄で収監される直前の1859年4月7日、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中に、松陰は次のような言葉を残しています。

 「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし」

 「幕府も諸侯ももはや酔っ払い同然の用なしだ。在野の人々が立ち上がるのを期待するしかない」と綴り、当時の為政者への絶望感を示す一方、在野の志のある人にわずかな期待をつないでいることがわかります。

 そして、「志士は溝壑に在るを忘れず」という言葉も残しています。「志ある人は、貧困の中、野垂れ死にすることも恐れず、志を貫くことを忘れるな」といっているのでしょう。
(※ 以上、松陰の文言部分はWikipediaより)

 松陰が残した言葉は、どれも、心に響きます。列強が押し寄せてきた激動の時代に、日本を失わないためにどうすればいいか、さまざまに模索していました。それが、残された文言の一つ一つに反映されています。

 やがて、松陰は命を顧みずに立ち上がり、そして、果てていったのです。

■『留魂録』と「夷の術を以て夷を防ぐ」

 松陰が処刑される前に書き残した『留魂録』という書があります。松下村塾の門弟のために著した遺書ともいえるものです。松下村塾門下生の間で、まわし読みされ、志士達の行動力の源泉となったといわれています。

こちら → http://www.yoshida-shoin.com/message/ryukonroku.pdf
(※ 国会図書館 デジタルコレクション)

 冒頭に書かれているのが、次の文言です。

 「身はたとひ武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」

 松陰は『留魂録』を、処刑直前に書き上げました。江戸伝馬町の処刑場に行く前に、同じ牢屋で過ごした人達への別れの挨拶として、この辞世の句を高らかに吟誦したそうです(※ 泉賢司、「松陰精神を活かせ」、『國士館大学武徳紀要』第32号、2016年3月、p.11.)。

 松陰は、当時の志ある若者たちの気持ちをどれほど惹きつけたことでしょう。

 吉田松陰が非業の死を遂げてからも、長州藩では、「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えが多くの若者たちに引き継がれました(犬塚孝明、「長州藩、イギリス留学生」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』別冊歴史読本、64号、第32巻12号、p.120.、2007年3月22日、新人物往来社)。

 ところが、この「夷の術を以て夷を防ぐ」という考えは、吉田松陰自身の考えではなく、松陰の師であった佐久間象山の考えでした。さらに、調べてみると、象山のオリジナルな考えではなく、中国清代の思想家である魏源(1794 – 1857)の『聖武記』を踏まえ、象山がアレンジしたものでした。

 アヘン戦争の敗北に衝撃を受けて書かれたのが、『聖武記』です。この書の中で、魏源は、「夷を以て夷を攻む上策権奇と為す」(※ 新村容子、「佐久間象山と魏源」、『文化共生学研究』第6号、2008年3月、p.73.)と書いています。イギリスと戦うには、西洋の戦艦や武器を配備し、戦うのが妙策だと説いているのです。

 それをアレンジした考えが、佐久間象山が唱える「夷の術を以て夷を防ぐ」という策でした。

 松代藩士で、兵学者であり朱子学者でもあった佐久間象山(1811-1864)は、魏源の『聖武記』を読み、それを解釈して伝え、吉田松陰に大きな影響を与えていました。

 象山は、西洋列強の侵略を防ぎ、文明諸国と同レベルの国になるには、「夷の術を以て夷を防ぐ」しかないと考えていました。有為の人材を欧米に派遣し、現状を視察するとともに、陸海軍事技術、海防、築城の技術を直接、習得させる必要があると考え、その就業期間は3年と見込んでいました。

 この考えは、佐久間象山から、吉田松陰を経て、長州の藩士たちに受け継がれました。

■長州ファイブ
 
 長州藩の藩士、井上聞多は1863年、海軍学の習得を目指し、イギリスへの密航を企てました。同志2人を誘い、藩の上層部に申し出たのです。アジアの情勢、世界の情勢を知っている桂小五郎らが奔走したところ、藩から内命が下りました。

 4月18日、渡された論告書には、次のように書かれていました。

 「海外に渡り学業に励みたいとのこと、鎖国の現時勢では許可し難いが、外国といったん戦いを交えてしまえば、外国のすぐれた技術を学ぶことも難しくなる。そこで三人には五年間、「御暇」を下されるから、その間に「宿志」を遂げ、帰藩後は「海軍一途」をもって奉公するように努力せよ」(※ 犬塚孝明、前掲、p.120.)

 当時、密航すれば、死罪でした。長州藩としては、公然とは申し渡しができません。そこで、藩主毛利敬親は、論告という形で、三人の海外渡航を黙許したのです。

 海軍力の強化と西洋事情の研究が、喫緊の課題になっていたからにほかなりません。三人の渡航を知った伊藤博文と遠藤謹助も参加を申し出て、認められました。

 黙許とはいえ、藩主から渡欧を認めてもらうことができ、ほっとしたのもつかの間、次に彼らは、巨額の渡航費用の捻出に悩まなければなりませんでした。1年間の滞在費を含めると一人1000両は必要と聞かされたのです。

 藩主の手許金から支給された額では足りず、藩が銃砲購入資金として確保していた準備金から5000両を借り、ようやく資金の目途がつきました。

 渡航からロンドンでの生活の手配等については、駐日イギリスや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)、長崎のグラバー商会らの協力を得て行われました。そして、イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の甥にあたるヒュー・マセソンが世話役として対応してくれることになりました。

 こうして準備を終えた一行は、1863年5月12日、横浜港を密かに発ちました。一週間ほどで上海に着きましたが、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文、野村弥吉の5人は、初めて見た上海に驚いてしまいました。

 当時の上海は、東アジア最大の西欧文明の中心地として発展していました。彼らは、上海の繁栄と100艘以上の外国軍艦およびその他の蒸気船を目の当たりにして、世界認識が変わってしまったのです。

 明らかな技術の差、経済力の差を見て、彼らはすぐに、「攘夷」という考えがいかに無謀かを理解したのです。もはや鎖国を続けることはできず、外国を追い払うこともできず、早々に、開国せざるをえないと思うようになったのです。

 出発から4か月後の9月下旬に、一行はロンドンに着き、ロンドン大学で教授の指導を受けながら、分宿して語学勉強に取り組みました。

 ロンドンで撮影された写真が残されています。


(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 写真には、次のような説明が付いていました。

 「The Chōshū Five (長州五傑) were members of the Chōshū han of western Japan who studied in England from 1863 at University College London under the guidance of Professor Alexander William Williamson.」(※ Wikimedia)

 「長州五傑は、西日本の長州藩のメンバーで、1863年からロンドン大学で、アレクサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授の指導の下で学んでいます」と書かれています。

 上段左が遠藤謹助、上段中が野村弥吉、上段右が伊藤俊輔(博文)、下段左が井上聞多(井上馨)、下段右が山尾庸三です。

 いずれも、丁髷を切り、スーツ姿で革靴を履いています。意気揚々とカメラに収まる姿は自信に満ちて見えます。異国の地で日夜、勉学に励み、進んだ学識や技術を身につけていることを実感し、やがては国のために働けると思っているからでしょう。

 井上と伊藤は海軍航海術、野村、山尾、遠藤は分理化学を専攻する予定でした。ところが、1864年、列強が長州藩を攻撃していることがロンドンの新聞に書かれていました。長州藩が列強と戦っていることを知ると、伊藤と井上は、さっそく帰国を決意します。

 列強と戦うことは無謀であると藩を説得するためでした。藩が滅亡するのを救うには、攘夷ではなく、開国だと説得しようとしたのです。

 伊藤と井上はわずか半年ほどロンドンに滞在しただけで帰国し、なんとか藩論を変えようと努力します。ところが、伊藤らの説得は、長州藩士たちを動かすことはできませんでした。

 結局、8月の下関戦争で、長州藩は英・仏・米・蘭の四カ国連合艦隊に敗れてしまいました。欧米との圧倒的な技術の差に負けたのです。敗北の結果、講和のための賠償金も大変な額でした。

 列強と和議交渉を担当したのが、高杉晋作と通訳を務めた伊藤でした。二人は、5つの講和条件のうち、賠償金と彦島の租借については拒絶を貫き通しました。おかげで賠償金は幕府が払うことで合意され、彦島の租借は回避することができたといいます(※ Wikipedia)。

■それぞれの貢献

 ロンドンに残った遠藤、野村、山尾はそのまま5年間、滞在して勉学に励み、卒業してから、帰国しています。帰国後は、それぞれの分野で近代国家建設のために貢献しています。

 遠藤は、造幣局の設置に貢献し、1881年に造幣局長になりました。日本の貨幣制度を整備し、近代日本造幣の粗とも呼ばれています。また、野村はロンドン大学で鉱山・土木を学び、帰国後は、鉄道頭になり、品川・横浜間の鉄道敷設をはじめ、京都・神戸間、そして、1889年には東海道線を全通させました(※ Wikipedia)。

 そして、山尾は帰国後、新政府に出仕し、工部省・工学寮設置を建白し、翌年工部省を得設立しました。1880年には工部卿となっています。

 わずか半年余りで日本に帰国した伊藤は、近代国家建設のため、手腕を発揮します。岩倉使節団に副使官として12カ国を歴訪し、帰国後は政府要職に就き、1885年に、初代総理大臣になっています。

 伊藤と共に帰国した井上は、明治政府樹立後は要職を歴任していましたが、1873年に辞職し、以後、実業界で活躍しました。1876年に渡欧し、財政経済を研究し、資本主義理論を学んでいます。1885年には外務大臣に就任し、実業界や外交で活躍しています。

 興味深いのは、長州ファイブといわれる5人のうち3人が、1863年1月31日の品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちに参加していたことです。高杉晋作隊長の下、井上馨、伊藤博文が火付け役、山尾庸三が斬捨役として参加していたのです。

 イギリス公使館に焼き討ちを仕掛けたというのに、それから3カ月もしないうちに、イギリスへの密航を企て、しかも、首尾よく、藩主から論告を取り付けているのです。

 見つかれば、斬首の危険を冒してまで、幕末にイギリスに密航したのが、長州藩の藩士たちでした。黙許されたのは、欧米の技術や学術が藩にとっても必要だったからにほかなりません。

 密航した5人がその後、それぞれの領域で近代国家建設のために貢献していることを思うと、彼らにも、黙許した藩にも、先見の明があったといわざるをえません。

 5人のその後を見ていると、激動の時代、何が必要で、何をしなければならないかを見極める嗅覚が必要だということを感じさせられました。
(2023/6/30 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅③:欧米列強に伍していくため、岩倉具視が求めたものは何か。

■岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのか

 岩倉具視幽棲旧宅を訪れた際、目にした光景の中で、いつまでも記憶から消えないものがあります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 座布団が置かれただけの、何の変哲もない縁側ですが、この光景からは限りなく想像力が刺激されます。

 岩倉はおそらく、ここで虚空を見つめながら、日本の来し方行く末を考えていたのでしょう。時には、縁側に腰を下ろし、訪れてきた志士を相手に国造りのプランを具体的に語っていたかもしれません。

 あるいは、国の現状を憂い、その舵取りを懸念していたかもしれません。そう思うと、この縁側の光景が脳裏から離れず、何度もリフレインするのです。

 はたして岩倉具視は何を懸念し、何を求めていたのでしょうか。

 これまでみてきたように、下級公家出身の岩倉具視が求めたものはまず、朝廷改革でした。というのも、朝廷内には厳格な序列があり、発言もその序列によって制限されていたからです。下級公家の岩倉だからこそ、そのことの理不尽さを身に染みて感じていました。

 発言が許された立場でいても、多くの公家は唯々諾々とし、抗うことをしませんでした。積極的に情報を収集し、幅広い世間を見ようともせず、旧態依然とした生活に甘んじていたのです。

 しかも、海外諸国が次々と開国を求めてきているというのに、多くの公家に危機感は見られませんでした。これでは朝廷に、時宜に合った対応ができるはずがありません。

 いつまでも伝統的な序列の下、蹴鞠や和歌を嗜むだけでいいのかという思いから、岩倉は次第に、朝廷改革への思いを固めていったのです。

 岩倉が、硬直化していた朝廷に一石を投じたのが、八十八卿列参事件といわれる抗議活動でした。

■『神州万歳堅策』(安政5年1月)

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため上洛しました。この時、関白の九条尚忠は勅許を与えるべきだと主張しましたが、多くの公家は反対しました。反対意見の公家たちを組織化し、抗議活動に変えたのが、岩倉具視でした。

 岩倉は、中山忠能ら合計88名とともに条約案の撤回を求めて抗議活動を行い、回答を得られるまで九条邸を去らなかったのです。この一件は岩倉の行動力、屈せず動じない豪胆さを朝廷内に認知させることになりました。

 岩倉はその二日後には『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。

 主な内容は、①日米和親条約には反対、②条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策などでした。

 興味深いことに、岩倉はこの意見書の中で、相手国の形成風習産物を知るために、欧米各国に使節を派遣すべきだと主張していました。既にこのころから、岩倉は海外を視察する必要があると考えていたのです。

 その内容は非常に具体的でした。

 『岩倉公実記 上巻』には、「朝廷より正使1名随従4,5名、柳営(幕府)より副使1名随従4,5名、三家家門国主より各随従2,3名」を派遣し、少なくとも3年以上かけて、諸国の状況などを視察し、「国々の模様は書取りを以て蘭船に托して朝廷と柳営に言上せしむ可し」と書かれています。
(※ 安岡昭夫「岩倉具視の外交政略」、『法政史学』21巻、p.6、1969年)

 これをみると、派遣する人員、派遣期間、その職務内容まで、岩倉が詳細に考えていたことがわかります。

 しかも、現地で得た情報は逐一記録し、オランダ船に托して朝廷と幕府に送るよう求めてもいます。より正確に、より迅速に諸外国の情報を、朝廷が入手できる仕組みを考えていたのです。

 もちろん、それだけではありません。

 慶応2年(1866年)11月には、岩倉は国事意見書として「航海策」を記し、今後の外交政略を提言していました。

 冒頭の部分をご紹介しましょう。

こちら →
(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣友山・・・」で文章が始まっています。これは、岩倉がまだ蟄居していたころに書かれたものなので、謹慎中に使っていた法名を名乗っているのです。

■「航海策」(慶応2年11月)

 岩倉は、外国への対し方を俯瞰し、時代によって大きく変化してきたことを重く視ました。外交という観点から、これまでの経緯を次のように整理し、書き留めています。

 「攘夷の時代は外国勢を撃退し、近づけないようにしていればよかったが、和親の時代にはそれとは違って、何事もなければ、彼らをうまく手なずけ、思いやりのある気持ちで接し、なにかあれば、懲らしめる」(※ 前掲)といった具合です。

 確かに、幕府は、文化・文政時代(1804-1830)には、接近してきたイギリス船に対し、打払令で対応していました。日本の沿岸に近づく外国船があれば、見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕し、処罰していたのです。

 ところが、アヘン戦争で惨敗した中国を見て、幕府は対応を変えました。西洋の軍事力の強さを認識したからでした。1842年には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限って補給を認めるという薪水給与令を出しました。

 その後、再び、外国船が頻繁に接近してくるようになると、幕府では打払令の復活が議論されました。ところが、沿岸警備が不十分だったので、砲撃すれば逆襲され、そのまま上陸してくる可能性を懸念し、結局、打払令は撤回されたという経緯があります。

 押し寄せる海外勢を暴力的に抑え込むことはできないことを認識せざるをえなくなっていました。来航を拒絶するには、軍事力を高め、沿岸を警備できるようにしておかなければならなかったのですが、それは無理でした。軍備の面で圧倒的な差があったことはわかっていたのです。

 そこで、岩倉は、外国勢に対しては仁と威を使い分けることによってこそ、適切な外交ができると主張していたのです。つまり、徒に拒絶するだけではなく、相手が困った時には助け、危険が及ぶようであれば成敗し、臨機応変に対応していくしかないと考えていたのです。

 この岩倉の見解には、列強の軍事力への警戒心とともに、勅許も得ず軽率に、通商条約を結んでしまった幕府への怒りと不満が込められています。

 幕府は、1859年に横浜、函館、長崎を開港していました。海外との交渉の窓口が急速に広げられてしまったのです。

 岩倉が焦るのも当然でした。四方を海に囲まれた日本では、港は関門として重視する必要がありました。開港すれば、海外から人や物資が流入し、それに伴い、国内秩序が乱される懸念があったのです。

 そこで、当時、外国に開かれていた港の状況がどのようなものだったのか知りたいと思い、検索していると、1865年に撮影された長崎港の写真を見つけることができました。

 ご紹介しましょう。

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(※ Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 長崎港は当時、多数の外国船で賑わっていました。帆船があれば、蒸気船のようなものまで、所狭しとばかりに行き交っています。これらの船からさまざまな物資が運び込まれ、それらの物資に付随して、海外のさまざまな情報が持ち込まれていたのでしょう。

 このような状況を見ると、岩倉が、開港したからには、海軍を設置する必要があると考えていた理由もわかります。

 中国ではアヘンがイギリスから持ち込まれ、やがてアヘン戦争が勃発していました。1842年に南京条約を締結し、香港が割譲されています。このようにしてアジア各国が欧米列強によって、次々と植民地化されていたことを明治政府は知っていましたし、もちろん、岩倉も知っていました。

 欧米列強に対抗できる国家にするにはどうすればいいか、岩倉は国防の重要性と、人材育成の必要性をひしひしと感じていました。列強に対して威と仁を以て接するには、まず、相手を知らなければなりません。

 岩倉は折に触れ、世界各国に渡航して視察し、その優れた点や弱点を把握することの重要性を説いています。とくに公家は早急に外国に応対していく必要があるとし、使節として海外に派遣され、現地の諸状況を把握してくるべきだと主張していました。

 慶応3年(1867年)3月、岩倉は国事意見書として「済時策」を記しています。興味深いことに、ここでも岩倉は、「航海策」と同様の考えを述べています。

■「済時策」(慶応3年3月)

冒頭の部分をご紹介しましょう。

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(※ 岩倉具視関係文書、国立国会図書館デジタルコレクション。図をクリックすると、拡大します)

 「臣」の字が小さく、「友山・・・」と始まる文章で起草されています。この時点でもまだ謹慎処分が解除されていなかったので、岩倉は謹慎中に使っていた法名を名乗っています。

 序文が終わると、項目として「朝廷ヨリ主トシテ航海ノ道ヲ開カル可キ事」を挙げ、開国貿易論を展開しています。次に項目として挙げられているのが、「兵庫開港ノ談判ハ朝廷ニ於テ之ヲ為ス可キ事」です。

 兵庫港の開港は、朝廷で判断すべき事項だとしています。ここでも、安政の通商条約で、幕府が拙速に開港してしまったことへの怒りと不満が感じられます。とくに兵庫港は、朝廷や商都大阪に近いので、江戸に近い横浜港を参考に、貿易制度の整備をすべきだと進言しています。

 横浜港は、安政5年(1858)の日米修好通商条約によって、神奈川開港が決定され、安政6年(1859)に開港しました。

明治初め頃の横浜港の西波止場の写真をご紹介しましょう。

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(※ 横浜開港資料館。図をクリックすると、拡大します)

 西波止場には和船がぎっしりと停泊しています。写真が小さくてよくわからないのですが、ざっと見たところ、外国船は見られないようです。

 ところが、1910年に撮影された写真を見ると、帆船や蒸気船が多数、行き交っているのがわかります。

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(※ 望月小太郎撮影、1910年。Wikimedia。図をクリックすると、拡大します)

 見比べると、横浜港が大きく変貌しているのがわかります。40年余の歳月が技術を変え、人を変え、社会を大きく変えていったことが示唆されています。

 開港すれば、海外からの人や情報が国内に流れ込み、やがて社会が変貌していくのが目に見えていました。

 岩倉が欧米列強に対して抱いていた懸念を、はたして、払拭することはできるのでしょうか。

 とにかく、日本に開国を求める海外勢の態度は執拗で貪欲でした。何度も通商交渉を求めてくる諸国に、アヘン戦争の顛末を知る人々はどれほど危機感を覚えていたことでしょう。彼らには富みを得ようとする強い意欲と意思があり、そのためには手段を選びません。鎖国していた日本人が応対できる相手ではありませんでした。

 一旦、通商条約を結んでしまえば、その後は赤子の手をひねるように、日本が不利な状況に追い込まれていくのは目に見えていました。だからこそ岩倉は、貿易についても詳しく学び、教えていかなければならないと認識していました。

 列強と渡り合えるだけの制度整備と人材育成の必要性を感じていたのです。

■人材育成

 その基盤の一つとして、考えていたのが、国民教育の普及でした。

 「七道の観察使俯管轄内に数百の小学校を設置するべき」だとし、この観察使府には「和漢の諸学を研究する大学校を設ける」構想も抱いていました(※ 安岡昭夫 前掲。p.7)。

 七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道を指し、現在の関東、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州を指します。

 また、観察使府とは、平安時代の桓武天皇が設置した地方官の行政実績を監査するもので、地方行政の向上に一定の効果があったとされています。ところが、平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、わずか4年で廃止されました。

 それにしても、七道の観察使府とはなんと古色蒼然とした言い回しなのでしょう。公家出身の岩倉だからこそ、敢えてこの言葉を使い、王政復古の下での仁政を期待したのかもしれません。

 遥か遠く、平安時代にまで遡って、桓武天皇の偉業を踏まえ、岩倉は、地方行政の一貫として、教育組織を設置しようと考えていました。桓武天皇の地方行政での効果を参考にしたところに、岩倉の天皇による治世への想いが透けて見えます。

 岩倉は一貫して、開国するには、海外勢と平等な関係を築いていく必要があると考えていました。それには、海外情報の収集とその分析が不可欠で、それらを遂行できる人材の育成が肝要だと思っていました。

 一方、岩倉は次のように述べています。

 「海外列国には遺米使、遺英使などの官命を帯びた職員を置き、それぞれの国情を探り、その結果を朝廷に報告すべき」(※ 岩倉具視関係文書より意訳。)

 海外の情報を収集するには、渡航して一時的に滞在して情報を入手するのではなく、専門の職員を現地に駐在させる必要があると岩倉はいっているのです。住んでみなければわからない情報を入手しなければ、万全の対策を講じることはできないと考えていたからでしょう。

 興味深いことに、岩倉はここで、遺米使、遺英使といった言葉を使っています。このことからは、岩倉がこの頃の日本を、遣隋使、遣唐使を派遣していた頃と重ね合わせていたことがわかります。

 かつて中国から文化や技術、制度や思想を学んだように、今後は西洋からそれらを学ばなければならないと思っていたふしが見受けられます。

 このように岩倉は、政府要人をはじめ官僚、次代を担う多くの人々が、欧米の技術、制度、文化、思想を学ぶ必要があると考えていました。西洋との圧倒的な技術力の差を感じていたからにほかなりません。

 こうした経緯をみてくると、新政府が発足したのに伴い、岩倉が欧米に使節団を派遣したいと願ったのは当然でした。

■使節派遣に向けての三者三様の意見書

 岩倉具視は明治2年(1869)2月、新政府樹立早々に、欧米に勅使を派遣するべきだという意見書を提出しています。その目的は、①外交儀礼の聘問の礼、②条約改定問題の協議、を主な任務とするものでした。

 岩倉は、条約締結時の交渉相手であった江戸幕府は崩壊し、新政府が誕生したことを関係諸国に知らせる必要があると考えていました。外交儀礼上、聘問の礼を行わなければならないと思っていたのです。

 その一方で、条約改正について協議したいという意向を、条約締結各国に示す必要があるとも考えていました。おそらく、条約改正協議の期限が1872年5月だということが念頭にあったからでしょう。

 いずれも岩倉にとっては、喫緊の課題でした。

 またこの年、英語教師として幕府に採用されたオランダ系アメリカ人のフルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck, 1830 – 1898)が、当時、会計官副知事であった大隈重信に使節派遣の意見書を送っていました。1969年6月11日頃のことでした。
(※ https://www.facebook.com/verbeck.jp/posts/731989243655751/

 フルベッキが懇意にしていたJ.M, フェリスに宛てた書簡によると、当時、江戸では外国に使節を送るのはこの秋か冬になる可能性があると知らせてくれた人がおり、それで、彼は使節派遣についての意見書(ブリーフ・スケッチ)を書こうという気になったそうです(※ 前掲)。

 なぜ、フルベッキが大隈に意見書を送ったのか不思議でしたが、調べてみると、彼は長崎で大隈重信に英語を教えていたことがありました。

 フルベッキは長崎の致遠館(佐賀藩が長崎に設けた英学校)で英語教師をしていましたが、1869年2月13日に明治政府から大学設立のため江戸に出仕するようにという通達をうけました。法律の改革論議と大学設立の仕事だったといいます。

 おそらく、フルベッキが長崎を離れる前に、学生たちと集合写真を撮ったのでしょう。上野彦馬が撮影した写真が残っています。

こちら →
(※ Wikipedia。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキ親子と学生たち、総勢46名が写っています。

よく見ると、フルベッキ親子と岩倉具定と岩倉具経、そして、大隈重信が、同じ列に並んでいましたので、その部分を拡大してみました。

こちら →
(※ Wikipedia。部分。 図をクリックすると、拡大します)

 フルベッキの右側にいるのが岩倉具定で、フルベッキの子どもの左側にいるのが岩倉具経、その左側にいるのが大隈重信です。岩倉具定は岩倉具視の次男、岩倉具経は三男です。

 大隈重信は佐賀藩士だったので、致遠館で英語を勉強しているのはわかるのですが、岩倉兄弟がなぜ、この集合写真に写っているのが不思議でした。

 調べてみると、岩倉兄弟は1869年6月に致遠館に派遣され、フルベッキに学んでいました。その後、岩倉具定は米国ラトガース大学に、弟の岩倉具経はオックスフォード大学に留学しています。

 先ほどもいいましたように、フルベッキが大隈に意見書を送ったのは、6月11日頃でした。ですから、岩倉兄弟はほとんどフルベッキに学んでおらず、後任から英語や海外事情を学んでいたのでしょう。

 さて、フルベッキは政府要人になっていた大隈に意見書を送りましたが、受け取った大隈はその取扱いに困ったのかもしれません。時期尚早として、その意見書を秘蔵していました。1871年10月26日にフルベッキが岩倉邸に呼ばれるまで、この意見書の存在は誰にも知られていませんでした。

 そして、明治4年(1871)2月、今度は伊藤博文がアメリカから、条約改正準備と特命理事官の各国派遣の意見書を、沢宣嘉・外務卿に提出しています(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討」、『熊本学園大学論集 総合科学』19巻、2号、pp.3-4.)。

 実は、伊藤は明治3年(1870)から財政幣制調査のために渡米していました。新政府樹立後の財政、貨幣について参考にするためアメリカ派遣され、現地で視察、調査を行っていたのです。その傍らで得たさまざまな情報を総合的に判断し、早急に、条約締結国に使節を派遣する必要があると判断したのでしょう。

 このように、当初、欧米への使節派遣の必要性を感じ、意見書を具申していたのは、岩倉具視とフルベッキ、そして、伊藤博文でした。

 岩倉はこれまでの経緯を踏まえて使節派遣の必要性を感じたのでしょうし、伊藤はアメリカに滞在して得たさまざまな情報から、派遣の緊急性を感じたのでしょう。そして、オランダ系アメリカ人のフルベッキは、派遣の噂を聞き、欧米人だからこそわかる使節派遣の際の注意事項を政府首脳に伝えるべきだと判断したのでしょう。

 日本の将来を考えた時、条約改正は不可欠だと判断し、三者三様の立場から、意見書を政府首脳に提出していました。彼らは、条約改正のためには準備のため早急に使節を送る必要があるという認識で一致していたのです。

 ちなみにアメリカで財政、貨幣制度を把握した伊藤は、その翌年に金本位制の採用と新貨条例の公布を主導しています。各方面で、新政府主導の制度整備が着々と進んでいたのです。次の大きな課題は使節団を派遣し、欧米との条約改正のための準備をすることでした。

■当時の状況

 それでは、1871年の状況がどのようなものであったか、政体の側面から見ておくことにしましょう。

 1871年7月14日に廃藩置県が行われ、7月29日には、これまでの太政官制が、正院(最高国家意思決定機関)、左院(議法機関)、右院(行政機関)の三院制と改められました。そして、中央官庁として、神祇省、大蔵省、司法省、文部省、兵部省、工部省、外務省、宮内省が整備されています。

 その後、11月には府県の統廃合を実施して、一使、三府、72県とし、長官に相当する知事、県令には大蔵省の官吏を任命しました。こうして新政府は着々と中央集権体制を整え、幕藩体制からの移行を、形式上、終えたのです。

 残された大きな課題は、不平等条約の解消でした。

 江戸幕府が安政5年(1858)に、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと締結した通商条約は、①治外法権を認めたこと、②関税自主権がなく、協定税率に拘束されていること、③無条件で片務的な最恵国待遇条款を承認したこと、等々の点で、日本にきわめて不利な条約でした。

 安政五か国条約と呼ばれているものです。

 これらの不平等な条項を撤廃するには、一国との交渉ではなく、最恵国待遇を承認した国々すべての同意が必要でした。列強の勢いに押され、拙速に条約締結に踏み切ってしまった徳川政権は、後の世に大きな負債を残していたのです。

 さて、廃藩置県が施行され、取り敢えず、中央集権体制に移行したのが、1871年でした。ようやく近代国家としての体裁を整えることができましたが、翌1872年5月には、条約改正協議の期限を迎えることになっていました。

 新政府としては早急に、期限延長の準備交渉のために使節を派遣しなければなりませんでした。

 期限延長を含め、条約改正に向けたさまざまな交渉の準備のため、欧米に使節を派遣するという名目で、使節団派遣の構想は実現に向けて動き出したのです。

■使節団構想と岩倉使節団

 使節団がどのような過程を経て編成されたかについては諸説あるようです。

 これまで見てきたように、私は当初から、岩倉具視使節団として派遣が決まったものだと思っていました。公家たちを組織化して抗議活動を展開した八十八卿列参事件をはじめ、岩倉がこれまで行ってきた政治活動は一貫して、日本を守るためのものであり、不平等条約の撤廃に向けてのものでした。

 先ほどもいいましたように、岩倉は1869年2月には使節派遣に意見書を出しています。

 ところが、使節派遣構想は大隈重信が言い出したもので、「大隈使節団」こそ、当初の構想だったという説があります。この説では、大隈使節団が岩倉使節団に変更された背景には、廃藩置県後の明治政府内部の政治抗争があったと説明されています。

 たとえば、大庭邦彦氏は、使節団派遣構想は当初、大隈重信主導で1871年8月下旬に具体化され、閣議において「内定」したと書いています。使節団の任務としては、条約改正の延期を締結各国と交渉すること、法律、政治、経済、教育、軍事、宗教など各分野の視察および調査をすること、等々でした。

 この構想が9月に入ると、外務卿岩倉具視を大使とする岩倉使節団構想へと引き継がれていくことになったというのです(※「岩倉遣欧米使節団にとっての「観光」」、『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社、2007年、p.152.)

 その理由として、大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて、政権のヘゲモニーを掌握される可能性を嫌った大久保利通や岩倉具視による「謀議」と「策略」の結果であると書いています(前掲、p.152.)。

 これはほんの一例ですが、大隈重信が使節派遣の発案者だとする説を取る人は大抵、岩倉使節団の発足を新政府内の抗争あるいは陰謀論の結果だと解釈しているのです。

 大庭氏は、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』を引いて説明していましたが、この立場をとる研究者の多くが大久保氏の論に立脚しています。

 試みにWikipediaをみると、使節団派遣の経緯については記述がなく、日本大百科全書では、岩倉使節団の派遣をめぐっては、伊藤博文提案説と大隈重信提案説があるが、それが結果的に岩倉使節団に切り替えられたと説明されており、その理由として新政権をめぐる薩長と非薩長との主導権争いがからむとされています。
(※ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2059

 ここでも、大久保利謙氏の『岩倉使節派遣の研究』に基づいて、使節団の設立経緯が説明されています。このように、使節団派遣の経緯については、大久保利謙氏の見解が大きな影響力を持っていることが示されています。

■「大隈使節団」から「岩倉使節団」への移行と捉えることはできるのか。

 これまでみてきたように、使節団について知ろうとする初学者はまず、大久保利謙氏の説に出会う可能性がとても高いことがわかりました。その結果として、大勢の人がこの見解を共有することになり、一つの歴史的事実として受け止められているのかもしれません。

 これに対し、鈴木栄樹氏は、「従来の岩倉使節団編成過程の研究に対していくつか疑念がわいてきた」と記し、文献資料を踏まえ、実証的に検証していきます。

 大久保利謙氏の、「岩倉使節派遣の研究」(『岩倉使節団の研究』宗高書房、1976年、所収)という論考に対し、鈴木氏は、岩倉使節団編成過程に関する実証研究の起点となったと評価したうえで、「大隈使節団」構想から岩倉使節団への転換を政治抗争と関連付けて捉える大久保氏の見解には疑問を呈するのです。
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.316.)

 そして、大久保氏が「岩倉の全権は、この使節の重大性から、むしろ当然の人事で、大隈では軽く、実は岩倉をおいてこの大任に当たるべき人物はほかになかったといっていい」とし、「岩倉は公家出身の傑物で、幕末期の革新運動の一方の推進者であり、はやく遣外使節の主張を行っていた」とも述べていることに言及しています。

 私がこれまで岩倉具視の活動についてご紹介してきたとおりの見解です。岩倉具視の人となり、政治的立場、社会的地位、これまでの経緯等についての大久保氏の理解になんの異論もありません。

 ところが、大久保氏は、「「大隈から岩倉への推移は、廃藩前後の政府部内の複雑な内情、雄藩間の対立などを考えると、そこに重大な政治的な内情があったことが察せられ、岩倉使節団の成立がそういう政治過程のなかからでた事態であることが考えられる」(※ 大久保論文、前掲)と述べているのです。

 鈴木氏は、そこに違和感を覚え、次のように記しています。

 「当然の人事」でありながら、「重大な政治的な内情があった」という大久保氏の発言ははたしてどのように解釈されるべきなのであろうか」
(※ 鈴木栄樹、「岩倉使節団編成過程への新たな視点」、横山伊徳編、『幕末維新と外交』、吉川弘文館、2001年、pp.319-320.)

 確かに、これまでの言動および活動をみれば、岩倉が全権大使になるのは当然でした。条約締結をした各国首脳と対等に面談できる立場だという点でも、岩倉は適任でした。ところが、大久保氏は、当初は大久保使節団で決まっていたものが、新政府内の内情、雄藩の対立などの政治的過程から岩倉使節団が発足したと述べるのです。

 鈴木氏が疑問に思ったように、大久保氏の記述には、論理に飛躍があり、論理矛盾があるように思えます。

 鈴木氏はまた、「大隈使節団」構想が存在したことを言い出したのが大久保氏だったことに触れ、果たして、そのようなものが存在するのかと疑問を呈しています。後年になって書かれた大隈重信の回想録『大隈伯昔日譚』の中の記述しか証明するものがなく(※ 前掲)、客観的根拠がないに等しいのです。

 こうしてみてくると、大久保利謙氏の使節団成立過程に関する論考で、大きく問題になるのは、①仮に大隈使節団構想というものがあったとして、それを岩倉使節団と同レベルで取り上げ、論じていること、②大隈使節団から岩倉使節団への移行理由を政府内の抗争、あるいは陰謀論で片づけていること、等々だといえます。

 一方、長谷川栄子氏は『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡に基づき、この問題について、次のように見解を総括しています。

① 大隈重信は条約改正交渉成功のため、日本をアピールするための使節を各国に派遣することと、自身が使節の任務を引き受けることを閣議で申し出、ひとまず容れられたが、その閣議で決まったのは使節を外国へ派遣することのみであった。

② その閣議後、岩倉らの議論の中で使節は勅使と位置付けられ、岩倉の大使選任は異議なく決まった。しかし、それに付随して出された木戸・大久保副使案には、廃藩置県直後の新体制整備の最中であることから、三条と板垣が反対した。

③ しかし、条約改正が最も重要な課題であることを国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるために政府指導者層の洋行が必要である、という使節団派遣についての木戸の説明を三条と板垣が理解したことにより、正院構成員全員の了承のもとに大規模な岩倉使節団が編成されることになった。これが新出の木戸書簡により判明した事実である。

④ 大蔵省の強力な指導のもとに健全財政の実現をめざす井上馨は、使節団留守中の大蔵省の掌握と大蔵省批判勢力の排除を画し、木戸・大久保洋行の実現に尽力するとともに、使節団と留守政府のメンバーの約定書調印を提起した。

(※ 長谷川栄子、「岩倉使節団成立過程の再検討―『岩倉具視関係資料』所収の新出書簡を用いてー」、『熊本学園大学論集『総合科学』』、第19巻2号、2013年、p.20.)

 長谷川氏の論文は関係者の書簡を渉猟し、きわめて論理的に、丁寧に考証されており、とても説得力のある見解でした。

■大義のための勅使として派遣が決まった岩倉使節団

 大久保氏が「大隈使節団」と称したものは、新たに出てきた資料に基づいて検証すれば、結局、閣議で「外国に使節を派遣する」ことが決まっただけのものでした。内部抗争とされたものも、条約改正の重要性を国民に認識させ、帰国後の条約改正に向けた改革をスムーズに進めるという点で三条や板垣から了解が得られています。

 一連の流れをみてくると、当時の首脳陣は、列強に伍していける日本を創り上げるため、正院全員一致で、勅使としての岩倉使節団の派遣を決定したことがわかります。

 長谷川氏は論文の最後で、木戸孝允の日記から次のような文章を引用しています。

 「真に我国をして一般の開化を進め,一般の人智を明発し,以て国の権力持し独立不羈たらしむるには僅々の人才世出するとも尤難かるへし,其急務となすものは只学校より先なるはなし」(※ 『木戸日記』)
(※ 長谷川栄子、前掲、p.21.)

 木戸は副使として渡航した際、サンフランシスコで小学校を訪問し、視察しました。子どもたちが活発に発言し、自由に行動していたのを眼にしたのでしょう。「独立不羈」という言葉を使って、自発性の重要性を指摘しています。

 岩倉もまた、以前から、欧米列強に伍していくには人材育成が重要であり、全国津々浦々、そのための教育制度を充実させなければならないと考えていました。西洋に見合ったレベルの技術、文化、制度、思想などを身につけなければ、対等に立ち向かえないと思っていました。

 木戸は、アメリカで小学校を視察し、近代国家を担っていくには、「独立不羈」の精神を涵養すること重要だと認識しています。彼は子どもたちの様子を観察しただけで、当時のアメリカの文化を読み取り、近代国家に何が必要なのかを感じ取ったのです。

 岩倉使節団のメンバーは、政府の最高首脳陣から構成されました。大使・副使と各省の実力者から成る理事官46名が、使節団として編成されています。

 意思決定することができ、政策を実行できる立場のテクノクラートたちが大挙して、欧米を訪問したのです。現地で視察し、調査することによって、欧米の文化、技術、制度、思想を肌で感じ取る機会が創出されました。岩倉使節団の派遣は、新政府の英断だったといえるでしょう。(2023/5/29 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅②:岩倉らは新たな日本の国家像をどう描いたのか。

■幕府と朝廷の代替わり

 岩倉らの有能な公家たちが追放されていた5年間に、幕府も朝廷も代替わりしました。

 将軍家茂は、慶応2年(1866)7月20日、長州征伐に向かう途中、大阪城で亡くなりました。その後継として、12月5日に第15代将軍の座に就いたのが、徳川慶喜です。30歳でした。

 一方、36歳の孝明天皇は、慶応2年(1866)12月25日、悪性の出血性痘瘡が原因で亡くなってしまいました。慶喜が将軍になった20日後のことです。第122代天皇として即位したのが、まだ15歳の明治天皇でした。

 有力な公家が追放された後の朝廷に、幼い天皇と判断力のない公家たちが残されました。朝議を開いても、政治力のある徳川慶喜に仕切られてしまうのは当然のことでした。かといって、慶喜が諸藩を掌握しているわけでもありませんでした。薩摩藩など将軍職の廃止に動こうとしていた藩もあったのです。

 朝廷と幕府の代替わりとともに、日本の国家体制はきわめて脆弱なものになっていました。それを好機とばかりに、欧米列強は開国を求める動きを強めていました。

 たとえば、オールコックの後任大使に任命されたパークス卿(Sir Harry Smith Parkes, 1828 – 1885)は、慶応3年(1867)に大坂で徳川慶喜に謁見し、期限どおり兵庫を開港する確約を取り付けています。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り絶賛しています(※ Wikipedia パークス)。

 この時点で、慶喜はまだ天皇から勅許を得ていませんでした。

 兵庫開港については、慶喜や諸侯も出席した朝議を経て、5月24日に勅許がおりました。ところが、その朝議に幼い天皇は出席していませんでした。将軍慶喜は渋る朝廷を脅したりすかしたりしながら、強引に勅許をもぎ取ったといいます(※ 佐々木克、前掲。p.103.)

 このような徳川慶喜をパークスは、最も優れた人物と評しましたが、公家たちは、政治力のある慶喜に脅威を感じはじめていました。岩倉ら有能な公家が欠けた朝廷内で、朝議が慶喜の意のままに動かされるようになっていたからでした。

 このときの朝議に対する遺憾の思いは、さまざまな方面から、蟄居する岩倉具視に伝えられました。岩倉が国政に危機感を抱いたのも無理はありません。

 それでは、再び、岩倉具視幽棲旧宅に戻ってみましょう。

■岩倉宅を訪れていた中岡慎太郎

 表門から入ると、玄関に辿り着く手前に、庭に入る中門があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 中門を入ると、立派な枝ぶりの松の木が、シンボルツリーのように植えられていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 この木はちょうど、主屋から鑑賞できる位置にあります。手入れの行き届いた閑静な庭を眺めながら、岩倉具視はどのような国家ビジョンを練り上げていたのでしょうか。

 主屋には、興味深い説明書きが展示されていました。


(※ 署名の植彌は管理会社名。図をクリックすると、拡大します。)

 坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが、蟄居する岩倉具視を訪ねて来て、相談を重ねていたというのです。

 また、敷地内にある対岳文庫には、土佐藩の中岡慎太郎が岩倉具視に宛てた書状が、展示されていました。1867年9月10日付けの書状です。上が草体仮名の原文で、左下が活字体に書き起こしたもの、右がその内容を現代語に訳したものです。


(※ 対岳文庫蔵、図をクリックすると、拡大します)

 宛先の「北岡」は、岩倉具視を指し、送り主の「勘蔵」は、中岡慎太郎の偽名です。情報が洩れるのを恐れ、当時はこのように、お互いに偽名を使って連絡を取り合っていたことがわかります。

 書状の内容は、次のようなものでした。

 「幕末の混乱した政局を安定させるため、土佐藩は薩摩藩と協力して、大政奉還と公議政体の創出に向けて尽力することを申し合わせたが、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の京都派遣は武力行使につながるとして反対し、後藤象二郎に武力行使を伴わない大政奉還をめざすよう命じたため、出兵を中止した。そのことを詫び、今後の方策を説明したい」

 中岡慎太郎は、前土佐藩主の山内容堂が土佐藩兵の派遣を中止したことを詫びるとともに、今後、土佐藩はどうすべきか新たな方策を直接、岩倉具視に会って、説明したいといっているのです。

 この書状の日付は1867年9月10日でした。

 その内容が、薩摩藩と土佐藩の申し合わせに関するものだったので、調べてみると、二カ月余前の1867年6月22日、薩摩藩と土佐藩、両首脳の間で「薩土盟約」が結ばれていました。

■薩土盟約

 当時、日本は諸外国との間で約束した開港時期を巡る問題に対処しなければなりませんでした。ところが、有力公家が追放された朝廷では、朝議が機能せず、かといって、幕府に任せれば、外国のいうまま、日本に不利な条約を結んでしまいかねません。

 危機感を覚えた薩摩藩は、雄藩諸侯の合議で政策を決定する体制に持ち込もうとしました。実際、四侯会議(有力な大名経験者3名と実質上の藩の最高権力者1名からなる合議体制)を開催したこともありました。

 薩摩藩はこれを機に、政治の主導権を幕府から雄藩体制に移し、公武合体の政治体制へ変革しようとしていたのです。

 ところが、政治力のある徳川慶喜に思うがまま、操られてしまいました。それまでは公武合体派であった薩摩藩が、これでは討幕せざるをえないと思うようになった契機が、この四侯会議でした。

 一方、土佐藩の中岡慎太郎は、前藩主の山内容堂の四侯会議での不甲斐なさに危機感を覚えました。これでは、日本の未来はないと思ったのです。そこで、土佐藩を脱藩して、薩摩藩に近づき、薩土密約を交わして倒幕の計画を練り上げるという行動に打って出ました。

 一連の手はずを整えてから、中岡は前藩主の山内に承認を迫り、ようやく薩土盟約は成立したという経緯がありました。

 薩土盟約は、薩摩藩と土佐藩との間で交わされた盟約で、徳川慶喜に将軍職を退かせ、幕府でもなく朝廷でもない全く新しい政府を樹立するために協力し合うというのがその趣旨でした。幕府の暴走を止め、政治力のある慶喜に圧力をかけるために、両藩は兵力を動員するという約束を交わしていたのです(※ Wikipedia 薩土盟約)。

 中岡慎太郎の機転の利いた行動がなければ、おそらく、この薩土盟約は成立していなかったでしょう。

 ところが、先ほど、ご紹介した中岡慎太郎の書状にあるように、土佐藩の前藩主・山内容堂が藩兵を出すことに反対しました。最終局面になって、土佐藩は出兵に応じなかったのです。

 中岡慎太郎らが奔走し、その尽力の結果、交わされた薩土盟約でしたが、実行に移されることなく、2か月余で解消されました。前藩主の山内容堂に胆力がなく、その決断ができなかったからでした。

 一方、薩摩藩はこの計画を変更しませんでした。むしろ逆に、土佐藩が欠けたので、その代替として長州藩に応援を求め、9月19日には、薩長両藩の出兵協定を結んでいます。積極果敢に、当初の方針を貫いたのです。すると、翌20日には、芸州藩(広島)が、この協定に加わりました。

 さて、土佐藩は10月3日に出兵しませんでした。前藩主の山内容堂は、その代わりに、後藤象二郎を使者とし、大政奉還建白を徳川慶喜に提出させました。武力行使を避け、徳川慶喜将軍に政権返上の意見書を提出したにすぎませんが、土佐藩としては、これで初志を貫いたことにしたかったのでしょう。

 さまざまな情勢、政局、海外の動きなどを考え、中岡慎太郎らが、脱藩して薩摩藩に近づき、締結にこぎつけた薩土盟約でした。それを、前藩主の山内容堂があっさりと保護にしてしまったのです。

 刻々と変化する情勢をどう分析するか、その先にどのような未来を見るのか、さらには、海外を含めた周囲の動きはどうなのか・・・、さまざまな情報を総合的に的確に判断する力とともに、いざとなれば武力行使も厭わないといった胆力が、混迷期の指導者には不可欠なのでしょう。

 その頃、蟄居する岩倉具視を頻繁に訪れていたのが、大久保利通でした。

■大久保利通と「倒幕の密勅」

 各藩のさまざまな動きがあるなか、中御門経之は10月5日、薩摩藩の大久保利通を邸に呼び、国情を聞いています。翌6日には、大久保と長州藩の品川弥二郎が岩倉宅に呼ばれ、そこで岩倉と中御門に会っていました。具体的な話の内容はわかりませんが、薩摩と長州、両藩の藩士と朝廷側とが密かに会っていたのです。おそらく、大政奉還を進めるための具体的な話し合いをしていたのでしょう。

 佐々木克氏は、会談内容を次のように推測しています。

 「断然と征夷大将軍を廃止」して、「大政を朝廷に収復」し、朝廷が政治の実権を握り、大いに「政体制度」を革新し、「皇国の大基礎」を確立することを、非常の英断をもって、「朝命を降下」するというものである(※ 佐々木克、前掲。p.106.)。

 この時点では明らかに、彼らが将軍職を廃し、朝廷を中心とした政治体制を目指した動いていたことがわかります。

 実際、10月8日、大久保利通ら薩摩藩代表、広沢真臣ら長州藩代表、植田乙次郎ら芸州藩代表らが会合し、武力で幕府を倒し、政変を決行することを決議しました。

 三藩の代表は、その決意を中御門経之らに告げ、幕府の出方次第では武力行使の可能性もあることを理由に、相応の宣旨を発行してもらいたいと願い出ました。

 いよいよ最終局面にさしかかってきたようです。

 そこで、当時の資料を渉猟してみると、該当する古文書を見つけることができました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 長州藩に残されていた古文書です。

 左下に連署された差出人を見ると、右から順に、広沢真臣、福田侠平、品川弥二郎と署名されています。いずれも長州藩の藩士です。続いて、その左側には順に、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通の名前があり、こちらは薩摩藩の藩士です。

 この古文書は、長州藩と薩摩藩の藩士6名によって、中山らに宛て、隠密裏に提出された書状でした。倒幕の正当性を担保する「倒幕の密勅」を求める書状の写しだったのです。

 書状の左上に書かれている宛先は、右から順に、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と書かれており、いずれも公家の中の討幕派として知られている人物です。興味深いことに、最後に書かれているのが、岩倉具視の名前でした。

 そもそも、岩倉が御所から遠く離れた洛外に蟄居せざるをえなくなったのは、尊王攘夷派から佐幕派とみなされていたからでした。ところが、「倒幕の密勅」の請書を見ると、岩倉具視も、この書状の宛先の一人になっているのです。

 一体、なぜなのでしょうか。

■岩倉具視の国家構想

 岩倉具視はそもそも公武合体派だったはずです。朝廷を中心に、幕府と諸侯力を合わせた国家体制の下、外国勢に対応していこうと考えていました。

 それが、なぜ、この時点では、倒幕派に与するようになっていたのでしょうか。その経緯がわからず、岩倉の立ち位置の変化が理解できませんでした。

 調べてみると、幕府には欧米列強に対する危機感がなく、判断力が鈍いことへの不満が、岩倉には蓄積していることがわかりました。

 幕府の体制もまた、硬直化していました。彼らは、積極的に海外情報を摂取しようとせず、的確な決断を下すこともできません。このような幕府の体制では、とても激動の時代を乗り切れないと岩倉は考えるようになっていたのです。

 一方、有力公家が追放された朝廷もまた硬直化し、合理的な判断力に欠けていました。それを憂いた薩摩藩の提案で、四侯会議を開催したこともありました。雄藩の代表を意思決定の場に参加させてみたのです。ところが、政治力のある将軍慶喜に押し切られ、実りある衆議を尽くすことはできませんでした。

 ひょっとしたら、岩倉はこの四侯会議の経緯を聞いて、朝廷と雄藩を中心とした国家体制の構築へと傾いていったのかもしれません。

 調べていると、次のような記述を見つけることが出来ました。

 「岩倉は慶応元年(1865)頃から元水戸藩士の香川敬三などと接触し、公家の中御門経之(妻は岩倉の姉富子)等を通して薩摩藩士藤井良節、井上石見らから情報を得、今後の国家の構想を練っていた」(※ 斉藤紅葉「第二章 岩倉具視の新国家像と動向」伊藤之雄『維新の政治変革と思想』、ミネルヴァ書房、2022年、pp.80-81.)

 岩倉は、蟄居の身分でありながら、元水戸藩士や薩摩藩士などと接触して、情報を得ていたのです。できる限り幅広く情報を集め、刻々と変化する情勢分析を行い、どのような体制が日本にとって最適なのか、日々、考えを巡らせていました。

 国内外の最新の情報を収集した結果、天皇を中心とし、雄藩が支える構造の国家体制を考えるようになっていたのです。

 実際、岩倉は具体的な提言を行っています。

 たとえば、慶応2年(1866)10月頃、岩倉は朝廷に向けて意見書を書いています。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制への「復古」をめざすべきだというものでした。王政復古に加え、薩長の支援があれば、強力な国家体制になると考えていたのです(※ 前掲)。

 確かに、岩倉は以前から、朝廷を中心とした国家体制を構築するのがベストだと思っていました。国家としての統合を図るには、天皇を中心に据えた体制が不可避だと考えていたのです。

 もちろん、天皇とその周辺だけでは国家運営はできません。行政を担当するパートナーが必要でした。

 岩倉はこれまで、為政のためのパートナーとして、幕府と諸藩を想定していました。これまで岩倉が公武一体派とみなされてきた所以です。ところが、この時の意見書では、幕府を外し、薩摩藩と長州藩を両輪として朝廷を支えるという具体的な構想を打ち出してきたのです。

 果たして、どのような状況の変化があったのでしょうか。

 実は、岩倉がこの意見書を出した当時、長州藩は朝敵とみなされ、藩主、藩士共に入京が認められていませんでした。というのも、元治元年(1864)8月20日、長州藩は過激な攘夷思想ゆえに、京都で武力衝突事件を起こしていたからでした。

 薩摩藩と長州藩は攘夷思想の点では一致していましたが、その進め方に大きな違いがありました。薩摩藩が、公武合体の立場から穏便に、朝廷を中心とした体制に移そうとしていたのに対し、長州藩は急進的な攘夷思想の下、一気に王政復古を進めようとしていたのです。

 その結果、薩摩藩は会津藩と組んで戦い、長州藩を京都に出入りできないようにせざるをえませんでした。この事件は、禁門の変、あるいは、蛤御門の変とも呼ばれています。

 この禁門の変の後、長州藩は「朝敵」とみなされ、1864年と1866年には幕府が長州征伐を行っています。1863年と1964年には、イギリス、フランス、オランダア、アメリカとの間で下関戦争が勃発し、長州藩は相当、打撃を受けていました。

 相次ぐ戦禍で、長州藩は勢力を大きく減退させていたのです。

 それでも、岩倉具視は、長州藩に大きな可塑性を見出していました。薩摩藩とともに朝廷を支えるのは長州藩だと着目していたのです。

■長州藩と薩摩藩

 実は、岩倉の意見書が提出される7か月ほど前の慶応2年(1866年)3月7日、京都上京区の小松帯刀邸で、薩長同盟が締結されていました。争っていたはずの薩摩藩と長州藩がいつの間にか、手を組み、政治的、軍事的同盟を結んでいたのです。

 薩摩藩が会津藩と協力して長州藩を京都から追放したのが、1863年に起こった「八月十八日の政変」でした。そして、翌1864年には、上京して出兵してきた長州藩と戦火を交え、敗退させました。「禁門の変」と呼ばれる事件です。この時点で、薩摩藩と長州藩は明らかに敵対関係になっていました。

 ところが、その後、薩摩藩は長州藩に何度も秋波を送り、長州藩との連携を模索しています。というのも、薩摩藩が幕府から距離を置いて、将来の戦闘に備えるには、西国の大名との連携が不可欠だったからでした。

 薩摩藩主の島津久光は、当初、福岡や久留米など九州雄藩との連携を考えました。ところが、うまくいきませんでした。結局、長州藩と提携するしかなく、土佐藩を脱藩した坂本龍馬や中岡慎太郎が、両藩の仲を取り持つ恰好で、交渉が進み、慶応2年(1866年)3月7日、6か条から成る薩長同盟が締結されました。

 坂本龍馬が書いた薩長同盟の裏書が残されています。


(※ 宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵)

 この裏書には日付が書かれていませんが、坂本龍馬らの働きのおかげで、両藩が手を結んだことは明らかでした。岩倉が薩長を頼りになる雄藩だと考えていたことに変わりはありません。 

 穏健派であろうと、過激派であろうと、薩長は攘夷思想の下で活動していました。しかも、両藩とも、その攘夷思想が原因で、海外とトラブルを引き起こし、列強との戦争を経験していました。

 文久3年の薩英戦争であり、文久3年と元治元年の下関戦争です。

 薩摩藩は文久2年(1862)9月14日に起きた生麦事件を契機に、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)を引き起していました。艦隊を持つイギリスに対し、薩摩藩は果敢にも、防戦をし、砲台や弾薬庫、汽船などに損害を受けました。鹿児島城下の約1割が焼失したそうですが、イギリスに比べ、死傷者は比較的少なく、善戦していたといいます。

 岩倉はおそらく、そこにも目をつけていたのでしょう。海外勢と戦うだけの兵力、情報力、そして、胆力があったのです。

 攘夷思想の下、海外勢と戦った長州藩と薩摩藩を岩倉は高く評価し、薩長を両軸とした、朝廷中心の国家体制に切り替えようとしていたのです。

 興味深いことに、岩倉は、朝廷に提出したこの意見書の中で、当時の関白二条斉敬に代わって、前関白の近衛忠煕を天皇の侍臣とするよう、朝廷に求めていました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 近衛家は五摂家のうちの最高家格の家柄でした。そして、前関白の近衛忠煕は公武合体派の一人で、夫人は前薩摩藩主の娘でした。薩摩藩と深い繋がりがあったのです。

 一方、当時の関白であった二条家も五摂家の一つですが、家格としては近衛家に劣ります。しかも、二条斉敬と徳川慶喜とは従弟同士で、幕府と深い繋がりがありました。岩倉は、このような関係も重視したのかもしれません。前関白の近衛忠煕に天皇の侍臣になるよう請願したのです。

 公武合体を唱えていた頃とは違って、岩倉は明らかに、幕府を外し、朝廷と薩長両藩を中心とした新しい国家体制を考えるようになっていました。このような岩倉の変化を、親王や内大臣、薩摩藩士の大久保利通らは、好意的に受け止めるようになっていきます。

 それでは、再び、倒幕を巡る薩長の藩士と朝廷の動きに戻りましょう。

■倒幕の勅許

 先ほど、書状をご紹介しましたが、大久保利通らは、「倒幕の密勅」を求め、中御門らに請願しました。これは、薩摩藩藩主の島津久光の上京を条件に了承されました。そして、翌9日には、大久保利通は、8日の話し合いの一切合切を、岩倉具視に報告しています。

 ここに、薩長藩士を動かし、密かに倒幕を指揮したのが岩倉具視だったことが示されています。

 薩摩藩の大久保利通が密使となって、岩倉具視と中御門ら意思決定者との間を取り持ち、実行部隊と齟齬のないよう、隠密裏に動いていたのです。

 10月13日、岩倉は、薩摩藩の大久保と長州藩の広沢を邸に呼び、沙汰書を授けました。そして、肝心のものは明日、正親町三条実愛から渡されると告げています。肝心のものとは、「倒幕の密勅」です。

 14日には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三名の連名で、倒幕の密勅が出されました。


(※ 岩下哲典監修『幕末維新の古文書』pp.228-229. 柏書房、2017年)

 上記の書状は、毛利父子宛てに出されたもので、10月14日の日付があります。「倒幕の密勅」は、10月13日付けで薩摩藩主宛て、翌14日付けで長州藩主宛てに下されました。

 内容の一部をご紹介すると、「賊臣慶喜を殄戮し、以て速やかに、回天の偉勲を奏し、しかして生霊を山嶽の安きに措くべし、これ朕の願い敢えて懈るある無かれ、」と書かれています。

 その主旨は、「賊臣慶喜」を「殄戮(殺せ)」せよというものでした。文中に「倒幕」といった文字はありませんが、これで、薩長両藩主による出兵への同意がなされたことになりました。

 ちなみに、この密勅の文面は、岩倉具視の側近である玉松操が考え、揮毫したのは、薩摩藩宛てが正親町三条実愛、長州藩宛てが中御門経之だとされています(※ 前掲。p.230.)

 改めて、岩倉具視が倒幕のキーパーソンであり、新たな国家構想の中心人物であったことがわかります。

■キーパーソンとしての岩倉具視

 それにしても、岩倉具視はなぜ、これだけ堂々と倒幕活動に関わることができたのでしょうか。蟄居を強いられ、行動を監視されていたにもかかわらず、薩長藩士らと連絡を取り合い、要人に懇請して密勅を出してもらえるよう手配し、密使に指令を出していたのです。

 なぜ、これだけパワフルに活動することができていたのでしょうか。

 調べてみると、1867年3月29日に、入洛を許すという、一部追放解除令が出されていました。まだ、全面的に赦免されたわけではなく、依然として住まいは洛外とされていましたが、月に一度、一泊だけ洛中への帰宅が許されていたのです。

 もちろん、朝廷政治に関わることはできず、監視されてもいましたが、行動は以前よりもやや自由になっていました。岩倉具視が実際に、洛中帰住を許されたのは、11月8日でしたから、大久保らに指令を出していた頃はまだ、隠密裏に動かなければなりませんでした。

 さて、密勅が出された時点で、徳川慶喜はまだ大政奉還を表明していませんでした。おそらく、倒幕の動きがあることなど、考えもしていなかったのでしょう。慶喜が大政奉還を上表したのは、密勅が発令された10月14日でしたが、その際、将軍職については何も触れていませんでした。

 一方、その頃、薩摩、長州、芸州の諸藩は計画通り、政変の決行に向けて動き出していました。

 遅まきながら、慶喜が将軍職の辞表を朝廷に提出したのは、10月24日でした。将軍職の辞職は事実上、幕府の消滅を意味します。ですから、提出した時点で、この辞表が朝議で認められていれば、倒幕の必要はありませんでした。

 ところが、当時の朝廷に的確な判断を下せる公家はおらず、慶喜の辞表は朝議で却下されました。将軍職は引き続き、慶喜に勅許されてしまったのです。

 もはや、王政復古のための政変を回避することはできなくなりました。

 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩、土佐藩、尾張藩、越前藩、安芸藩の5藩が御所の諸門を封鎖しました。次いで、京都御所の御学問所で、岩倉具視の奏上によって、明治天皇が王政復古の大号令を発せられました。

 この大号令で、江戸幕府、摂政・関白等が廃止となり、新政府が成立しました。

 もちろん、徳川慶喜をかつぐ勢力はまだ力を持ち、新政府に慶喜を参画させようとしていました。岩倉はそのような勢力にも丁寧に対応し、不安定な新政府の瓦解を防いだといわれています(※ 齊藤紅葉、前掲。pp.87-89.)。

 とはいえ、幕府を拠り所にしてきた諸藩は新政府に挑みました。慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争といわれる一連の戦いが各地で続きました。いずれも、薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍に対し、旧幕府軍が戦った内戦です。

 Hoodinski氏がこれらの内戦を整理し、図示した地図がありますので、ご紹介しましょう。


(※ Hoodinski氏、作成、Wikipedia戊辰戦争より)

 上図に見るように、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日‐30日)から始まった内戦は、北進し、1868年5月3日には江戸城が無血開城されました。その後、宇都宮城の戦い、北越戦争、会津戦争などを経て、榎本武揚が率いた箱館戦争に至ります。最後は、函館市五稜郭で行われた戦闘で、1869年6月29日に終了しました。

 旧幕府軍はこれで完全に敗退しました。岩倉らは、新政府の樹立に向けて、動き出します。

 興味深いのが、徳川慶喜の処分についてです。岩倉らは朝議を開き、徳川家に同情的な諸侯に不満が残らないよう、その扱いを検討しました。そして、合議の結果を踏まえ、三条、岩倉、大久保らが相談して最終的な処分を決め、天皇の裁可を得て決定していたのです。

 このような手続きを経ることによって、新政府の下では合議制によって意思決定がなされることが示されたといえます。

 慶喜は死こそ免れましたが、徳川家の領地は駿河国など70万石に削減され、幼い家達が後を継ぐことになりました。徳川家は政治的権力を失ったのです。こうして幕府は実質的に消滅し、岩倉らは、天皇を中心とした新たな体制の樹立に向けて歩み出しました。

 大政奉還とその後の対応を見ると、欧米列強に対抗できる国家体制を推進したキーパーソンは、下級公家出身の岩倉具視だったといわざるをえません。

 岩倉具視は、一部の公家や薩長藩士と共に倒幕を企画して実行しただけではなく、戊辰戦争についてもきめ細かな配慮をして臨みました。おかげで硬直化していた幕藩体制を打ち壊し、スムーズに近代国家を構築できる準備を整えることができました。

■欧米列強に対抗できる国家体制とは?

 駐日英国公使であったパークス(Harry Smith Parkes, 1828-1885)は1866年、当時の日本の政治状況を見て、次のように述べていました。

 「中央権力というものが形成されなければならず、それは封建制度のもつ恣意的であり、且つ混乱にみちた支配を、しだいに駆逐していくであろう」(※ 萩原延壽、『英国策論』、pp.216-217. 朝日新聞社、1999年)

 幕府との交渉に難航したパークスは、たとえ条約を締結できても、幕府の直轄地のみで有効だという制約に悩まされていました。幕府と条約を結んでも、天皇が勅許を出さなければ、その条約は日本全体で有効とはみなされなかったのです。

 そのような経験をしてきたパークスは、日本には中央権力が存在せず、恣意的な決定が横行していると思っていたのでしょう。ただ、このような日本のシステムはいずれ、崩壊すると見ていました。

 実際、その変化はすぐにも起ころうとしていました。

 パークスはさらに、次のように述べています。
 
 「この国の歴史は、きわめて興味ぶかい段階にさしかかっている。しかし、このような重要な変革は、現在の階級社会を構成している指導的なひとびとのあいだのはげしい闘争をへずには、おそらくもたらされないであろう」(※ 萩原延壽、前掲。pp.216-217.)

 実際、戊辰戦争といわれる一連の内戦は、旧幕府の新政府に対する抵抗でした。その一方で、これらを俯瞰してみれば、封建制を打破し、近代的な国家体制を構築するための戦いであったともいえます。

 石井孝は、戊辰戦争について、「絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争」と総括し、一連の内戦を次の三つに分類しています(※ 石井孝『維新の內乱』至誠堂、1968年)。

① 「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)」、
② 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)」、
③ 「封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争)」
(※ Wikipedia 戊辰戦争)

 こうしてみると、戊辰戦争は、単に新政府軍と旧幕府軍との戦いであっただけではなく、幕藩体制の下で統治されていた日本が、欧米列強に対抗できる近代国家になるための段階的な戦いでもあったことがわかります。

 幕藩体制の終了に伴い、とりわけ武士の生活が激変しました。岩倉らは、各方面に配慮し、旧幕府軍に対処しました。できるだけ穏便に政権移譲が進み、安定した近代国家を構築できるようきめ細かな布石を打っていたのです。

 なによりもまず、国内が分裂することを避けなければなりませんでした。

 近代国家としての体制を早急に整備しなければ、日本の将来は欧米列強の餌食になりかねませんでした。開国を迫る列強に対するには、否応なく、中央集権的な国家を構築する必要があったのです。

■アーネスト・サトウの『英国策論』

 パークスの下で通訳として働いていたアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)は当時、横浜で発行されていた週刊の英字新聞『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本の政治体制について次のように指摘していました。

 「われわれは、つぎのことを心に銘記しておかなければならない。すなわち、将軍は、日本の政治を指導していると公言しているけれども、実際には、諸国連合(a Confederation of Princes)の首席(the head)にすぎず、われわれとの最初の条約が結ばれたときにも、そうであるにすぎなかったということ、そして、将軍が一国の支配者という肩書きを僭称するのは、この国の半分ほどしか、かれの管轄に属していないのだから、じつに僭越至極な行為であったということである」(※ 萩原延壽、前掲。p.223.)

 さらに、次のようにも述べています。

 「現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。最近、われわれは、天皇の認可(勅許)なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍がみずからの行動によって是認するのを知ったのである」
(※ 萩原延壽、前掲。p.229.)

 このように、アーネスト・サトウは、天皇が将軍よりも上位にあるという認識を示した上で、「天皇と条約を結ぶのがよいことであろう」という考えを記します。

 その一方で、「天皇自身は、条約を結ぶことができないであろう」と述べ、「天皇は条約の遵守を強制することができないからである」とその理由を記しています。というのも、天皇は行政力、軍事力を持たないからでした。

 アーネスト・サトウは、朝廷と幕藩体制が共存する統治体制が対外交渉上、不備があることを指摘していました。だからこそ、日本は、将軍に代わって、天皇を元首とする諸大名の連合体が、支配権力の座につくべきであると提言していたのです。

 日本に開国を迫った欧米列強は、君主制の下、帝国主義、覇権主義の政策で、世界各地を支配していました。その先端をいくのが大英帝国でした。アーネスト・サトウはその統治システムを念頭に、日本の国家体制について提言していたのでしょうか。

 その頃、欧米列強は、進んだ航海技術を武器に世界各地を支配し、その資源を収奪していました。1898年当時、帝国主義国家が支配している地域を示した世界地図があります。


(※ World 1898 empires colonies territory, Wikimedia Commons)

 大英帝国の支配する地域はピンクで表示されていますが、きわめて広大な地域がイギリスの支配下にあったことがわかります。各地の資源を奪い、繁栄を誇っていたのが、この時のイギリスでした。君主制国家体制の下、全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を植民地化していたのです。

 これら欧米列強は、世界戦略の一環として、極東の日本に開国を求め、通商条約を結ぼうとしていたのです。

 ところが、日本の統治システムは、彼らにとって複雑でした。

 というのも、たとえ幕府と条約を締結したとしても、その条約は、将軍の直轄地の住民と貿易を行うことを許すものでしかなく、日本全体との条約を意味するものではなかったからです。

 誰が日本の為政者なのか、彼らは戸惑いました。

 だからこそ、アーネスト・サトウは、『ジャパン・タイムズ』に寄稿し、日本は天皇制と幕藩体制とが共存する統治の形態を正すべきだという考えを示したのです。

 彼はこの論説の中でさらに、条約の改正と日本政府の組織の改造を要求していました。日本が近代化するにはまず、欧米列強が安心して取引できる政治体制にしてもらいたいというのがアーネスト・サトウの本音でした。

■岩倉具視は『英国策論』をどう思ったのか?

 『ジャパン・タイムズ』に寄稿されたアーネスト・サトウの論考は、すぐさま翻訳され、『英国策論』という表題で印刷され、関係者に読まれていました。


(※ 国会図書館デジタルコレクションより)

 町田明広氏は、岩倉具視と『英国策論』ついて、次のような見解を示しています。

 「岩倉具視関係文書」(国立公文書館内閣文庫蔵)には、「英国士官サトウ著になる英国の「策論」(作成年月日未詳)とされる文書が含まれており、末尾に「薩摩藩某翻訳」と記されている。抗幕・廃幕を志向する薩摩藩の朝廷内の最大のパートナーが岩倉具視であり、薩摩藩から「英国策論」が岩倉に渡っていることは看過できない。その内容から、彼らにとって『英国策論』は「精神的支柱ですらあった可能性が高い」
(※ 町田明広「慶応二年政局における薩摩藩の動向―藩政改革と薩英関係の伸展」、『神田外語大学日本研究所紀要』13号、pp.21-22. 2021年)

 当時、『英政策論』は、想像以上に多くの大名たちに読まれていました。政局は時々刻々と変化し、海外の動きを視野に収めた政策が必要でした。アーネスト・サトウの見解が、その後の政局に多大な影響を与えていたことがうかがえます。

 町田氏は、その後の政局について、次のように述べています。

 「この段階で、幕府と強固な結びつきを構築しているフランス・ロッシュと、西国諸侯、とりわけ薩摩藩との関係を密にしているイギリス・パークスの対立が浮き彫りになっており、幕府対薩摩藩の動向にフランス対イギリスというグローバルな要素が加わり、政局の混迷は加速後を上げることになる」(※ 町田明広、前掲。p.24.)

 幕府にはフランス、西国諸侯、とくに薩摩藩にはイギリスといった具合に、武器供与などの海外からの支援動向に、国内の対立が反映されていました。混迷が長引けば、日本が列強に支配下に置かれかねません。

 すでにご紹介しましたが、岩倉は1866年10月頃、朝廷に対し、意見書を出していました。その内容は、徳川から「軍職」を取り戻し、源頼朝以前の体制に復古すべきだというものでした。岩倉はその時点で、朝廷を中心とし、薩長の支援を得て、強力な国家体制にすることを目指していたのです。

 日本国内が分裂せず、安定しなければ、近代国家への変貌など考えられないことでした。

 アーネスト・サトウの『英国策論』がいつ刊行されたのか、日付がないのでわからないのですが、日本語の訳本について、彼は次のように述べています。

 「阿波候の家臣であり、多少英語を知っているわたしの日本語教師沼田寅三郎の助けを借りて、これを日本語に訳し、小冊子のかたちにして沼田の主君の閲読に供したところ、その写本が方々に出まわり、翌年(1867年)旅行に出てみると、その途中で出会った大名たちの家臣がみなこの写本を介してわたしのことを知っており、わたしに好意をもっていることに気づいた」
(※ 萩原延壽、前掲。p.219.)

 『英国策論』の訳本が刊行されるや否や、多くの大名たちに読まれていたのです。

 岩倉が読んだのは薩摩藩士の訳本だったそうですが、1866年の秋に具申書を出す時点で、彼はすでにアーネスト・サトウの見解を知っていた可能性があります。

 岩倉は以前から公武合体派とみなされ、天皇を中心に、将軍、諸藩の大名を為政者とする国家体制を構想していました。ところが、1866年時点の意見書では将軍から軍権をはく奪し、諸藩の大名と同じ扱いにするという考えに変化していたのです。

 このような変化を考えると、岩倉の国家体制観は、アーネスト・サトウの影響を受け、研ぎ澄まされていった可能性も考えられます。少なくとも、アーネスト・サトウの考えを知って、自分たちが描く国家体制に確信を持つことができたことは確かでしょう。

 一連の経緯をみてくると、欧米列強が日本に開国を迫って来たとき、彼らの餌食にならずに済んだのは、公家出身の岩倉具視がキーパーソンとして、水面下で動いていたからにほかならないといわざるをえません。

 情報収集能力、情報分析力に優れ、胆力があったからこそ、岩倉は、意欲ある藩士や公家を惹きつけることができ、新たに描いた国家の実現に向けて邁進することができたのでしょう。
(2023/4/24 香取淳子)

岩倉具視幽棲旧宅①:岩倉具視はなぜ、蟄居させられたのか。

■岩倉具視幽棲旧宅

 2023年1月5日、京都市左京区岩倉上蔵町にある、岩倉具視幽棲住宅に訪れてきました。あれから随分、時間が経ってしまいましたが、幕末の激動期に、岩倉具視がなぜ、ここで蟄居しなければならなかったのか、考えてみたいと思います。

 地下鉄烏丸線の国際会館駅から、京都バス24系統に乗り、終点「岩倉実相院」で下車します。そこから、3分ほど歩くと、かつて岩倉具視が住んでいた旧宅の表門が見えてきます。2023年1月28日にこの欄でご紹介した実相院のごく近くにありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 着いてみると、戸は閉まっており、表門からは入れません。少し歩くと、先に通用門があり、ここから、中に入れるようになっていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここが、なぜ岩倉具視幽棲旧宅と呼ばれているかといえば、孝明天皇から蟄居を命じられた岩倉具視が、幕末の5年間、移り住んでいた場所だからです。

 尊王攘夷運動が高まっていた頃、「四奸二嬪」排斥運動(※ 佐幕派あるいは公武合体派の公家に対する圧力行為)が起こり、岩倉ら6人が糾弾されました。孝明天皇がかばいきれないほどの動きになり、岩倉らは1862年8月20日に蟄居処分、辞官、出家を命じられました。

 不本意ながらも岩倉は、まずは、西賀茂の霊源寺、その後、洛西の西芳寺に移りました。ところが、9月26日、今度は、洛中からの追放命令が出され、岩倉具視は、御所から遥かに遠い、洛外の岩倉に転居せざるをえなくなりました。

 朝廷の中で発言力を高めていた岩倉が、急進的な攘夷派の台頭によって、追い落とされたのです。

 年表によると、当初(1862年)は、岩倉村の藤屋藤五郎の廃屋を借りて住んでいましたが、長く住める場所ではありませんでした。その後、1864年に大工藤吉の住宅を購入して、移り住みました。それが、この岩倉具視幽棲旧宅内の附属屋です。

 それでも、まだ岩倉が住めるような家ではありません。その後、繋屋と主屋を建て増して、何とか住めるようになったのが、この旧宅です。


(※ 岩倉具視幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 敷地内には、附属屋と主屋、繫屋があり、敷地を取り囲む土塀と表門、通用門があります。表門を入ると、主屋の南庭に通じる中門があり、そこをくぐると、主屋の南側に池庭があり、静かな落ち着きのある空間が広がっています。さらに、附属屋と主屋の間には中庭があり、そっと目を休める空間も用意されていました。後に、岩倉具視を記念する遺髪碑、対岳文庫、管理事務所などが設置されています。

 この岩倉具視幽棲旧宅は1932年3月25日に、国指定の史跡にされました。面積は1553㎡で、こじんまりとした、静かで落ち着きのある居宅です。

 附属屋には、当時の生活ぶりを描いた絵が展示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 ここには、岩倉の身の周りの世話をしたり、書き物の手伝いをしたりする家来たちがいました。世話係のうちの一人が、文久3年(1863)1月10日に雇い入れられた西川与三です。彼は、回顧録『岩倉具視公一代絵図』を残しています。上図はその中の一つで、当時の生活の一端を見ることができます。
 
■主屋

 主屋には、簡素ながら、床の間も設置されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 お正月に訪れたせいか、床の間には鏡餅が飾られていました。掛け軸もなく、香炉もなく、いたって簡素な設えでした。おそらく、当時の生活ぶりもこのように簡素で質実なものだったのでしょう。

 主屋と附属屋との間に繋屋があり、それに面して、中庭があります。


(図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、中庭と繋屋は、附属屋と主屋との間に適度な距離を保つ空間として設計されていたように思えます。たとえ、主屋で重要なことが話されていたとしても、これだけの距離があれば、その内容が附属屋まで洩れることはないでしょう。

 主屋は、岩倉具視にとって密談の場であり、情報を整理し、考えをまとめる空間でもありました。それが、廊下と繋屋とによって、附属屋と遮断されているのです。気兼ねなく、話し合うことができたでしょうし、もちろん、安らぎの場にもなっていたでしょう。

 一方、中庭には大きな木もなく、附属屋からも主屋からも一望できるようになっています。障子を開ければ、附属屋から誰がやってくるのか、庭から、誰が忍び込んでくるのか、すぐにも把握できる構造になっていました。もちろん、障子を閉めていても、障子越しに人の気配を感じることもできたでしょう。

 図面を見ると、改めて、繋屋を挟んで、二つの空間が機能別に作られているように思えました。


(図をクリックすると、拡大します)

 附属屋が、日常生活を維持するための空間だとするなら、主屋は、岩倉が思索を巡らせ、熟考する空間、さらには、客を迎えるための空間として設えられていたのでしょう。

 主屋は、岩倉が来訪者から新たな情報を入手し、語り合い、将来ビジョンを打ち立て、練り上げていくための空間として機能していたように思えます。いってみれば、情報を入手し、交換するだけではなく、情報を蓄積し、それらを踏まえて分析し、対策を構想するための空間です。

 蟄居を強いられた岩倉にとって、何よりも大切な空間でした。

 洛外の北方に蟄居していたとはいえ、岩倉具視は、日本の運命を左右する重要な人物でした。それだけに、なによりもまず、刻々と変化する情勢を把握する必要がありました。家来が洛中に出て情報を収集していたでしょうし、来訪者が新たな情報を携えてやってくることもあったでしょう。それら一切合切が、情勢分析には必要でした。

 当時、日本に開国を求め、欧米の艦船が、次々と近海にやって来ていました。どう対処すればいいのか判断がつかず、幕府も朝廷も右往左往していました。判断を誤れば、隣国の中国のように、欧米列強の餌食になりかねませんでした。

 国内情勢を踏まえた上で、国外からの圧力にどう対応すればいいのか判断しなければならず、幕府、朝廷とも、極めて難しい舵取りが迫られていました。対処できる人物は限られていました。

 そんな中、岩倉具視は、さまざまな種類の情報を入手することができたばかりか、的確な判断力を持ち、さらに、朝廷と幕府との間を取り持つことのできる数少ない公家の一人でした。

 それでは、なぜ、それほど重要な人物、岩倉具視が、洛外の北方、岩倉村に転居せざるをえなかったのでしょうか。

 先ほど、「四奸二嬪」排斥運動を契機に、岩倉らは糾弾され、蟄居を強いられたと述べました。急進的な尊王攘夷派が台頭する中、公武合体派は佐幕派とみなされ、敵視され、弾劾されたのです。

 卓見の持ち主で、行動力のある岩倉具視はとりわけ、標的になりやすかったのでしょう。

 まずは、その来歴と人となりをみてみることにしましょう。

■養子縁組をして、岩倉具視に

 年表によると、岩倉具視は文政8年(1825)9月15日、前権中納言堀河康親の第二子として誕生しました。幼名は「周丸」でした。容姿や言動に公家らしい優雅さがなく、公家の女子たちの間では、「岩吉」と呼ばれていたそうです。天保9年(1838)8月8日、岩倉具慶の養子となったため、9月に名を具視と改めました。

 10月28日に従五位下に叙任され、12月11日には元服して、昇殿を許されました。一人前の公家と認められたのです。翌天保10年(1839)からは、岩倉具視として朝廷に出番(宿直勤番)するようになり、年100俵の役料扶持米を受け取っています。満13歳の時でした(※ 佐々木克、『岩倉具視』、p.7-8. 吉川弘文館、2006年)。

 岩倉家への養子縁組を推薦したのは、朝廷に仕える儒学者、伏原宣明でした。岩倉具視は、幼い頃から伏原に師事していましたが、その伏原の目に留まるほど、抜きんでて秀でた子どもだったからです。 

 伏原は、「その挙動をみると、尋常の童子とは異なる、成長して有用の人物になるにちがいない」と岩倉具慶にいって、養子に迎えるようすすめたそうです。幼い頃から、それだけ異彩を放っていたのです。伏原宣明は両家の間を取り持って、養子縁組を実現させたばかりか、岩倉具慶の名を取って、「具視」と命名しました。

 正装した岩倉具視の写真があります。


(※ 岩倉幽棲旧宅HPより。図をクリックすると、拡大します)

 堂々としとした面持ちを見ると、何事にも動じない意思の強さと豪胆さを見て取ることができます。その風貌や態度からは、太々しさの一方で、思慮深さ、洞察力の高さが滲み出ています。いずれも、激動の時代を乗り切るのに不可欠な要素です。

■下級の公家

 幕末に公家の数は137家ありました。ところが、長い伝統の下、家格は定まっており、朝廷内でどこまで昇進できるかということも、ほぼ固定していました。

 たとえば、公家の最高家格は摂家で、摂政・関白となることができ、宮中の席次も太政大臣よりも上でした。九条、近衛、一条、二条、鷹司の五摂家が相当します。その摂家に次ぐのが清華家で、太政大臣まで昇進できます。菊亭、花山院、久我、西園寺、広幡、三条、徳大寺、大炊御門、醍醐の九清華家です。この清華家の下に、大臣家といわれる中院、三条西、正親町三条の三家が続きます。さらに、羽林家、名家、半家、新家などがあって、それら公家の序列は固定化し、動かすことができなかったのです(※ 佐々木克、前掲、p.8-9.)。

 岩倉家は、この清華家の中の久我家の庶流でした。公家としての家格は羽林家でしたが、江戸初期に独立した新家でしたから、下級の公家だったのです。

 岩倉具視は13歳の時に朝廷に入り、いろいろと見聞を深めた結果、いつ頃からか、朝廷改革を進める必要があると思っていたようです。安逸を貪る公家たちの意識と慣習を改めなければ、開国を迫る諸外国の力に対応しきれないと感じていました。

 何とかしなければならないと切に願っていたとしても、そもそも、下級公家の身分では朝廷内で発言権がありません。朝廷改革を行うには、まず権力者に近づき、信頼を得て、発言を認めてもらえるようにするしか道はなかったのです。

 1853年1月、岩倉具視は鷹司政通の歌道の門人になりました。なんと27歳の時です。宮中に出仕するようになってから、14年も経っていました。それなのに、わざわざ、鷹司政通の門下に入ったのです。もちろん、多少は歌を学びたかったのかもしれませんが、それだけではありませんでした。

 当時、鷹司政通は朝廷で大きな権力を握っていました。

 鷹司家は五摂家の一つで、公家の最高家格でした。しかも、政通は、文政6年(1823)に関白・内覧に就任して以来、安政3年(1856)に辞任するまで、34年もの間、朝廷及び公家社会の中で、最高権力者でした。識見があり、天皇からも公家からも信望の厚い人物だったのです。

 さらに、鷹司は幕府や海外からの情報に通じていました。

 佐々木克氏は、鷹司政通が朝廷の制度や故実に知悉しているだけではなく、夫人の実家である水戸藩を通して、幕府や海外からの情報が政通にもたらされていたことに注目しています(※前掲。p.9-10.)。

 政通の夫人は水戸藩主斉昭の姉でした。水戸藩は『大日本史』を編纂したことで有名ですが、多くの学者を輩出しています。攘夷思想が形成されていたことはもちろんのこと、西洋やロシアへの関心も高く、『諸夷問答』や『千島異聞』などの書が作成されていました。漂流民への聞き取り調査を踏まえ、当時、入手できる限りの情報に基づき、作られたものでした。

 このように、水戸藩は当時、各方面からさまざまな情報を入手できる環境にありましたし、それらの情報を総合的に分析できる人材も揃っていたのです。その水戸藩から、鷹司政通は情報を得ることができる稀有な人物でした。

 鷹司政通が長く、公家の最高位にあったのは、動乱期の朝廷にとって幸いだったのかもしれません。公家でありながら、幕府や海外からの情報を入手でき、識見の高い、得難い人物でした。

 その政通は、岩倉具視について、「眼彩人を射て、弁舌流るゝがごとし、誠に異常の器なり」と評したといわれています(※ 佐々木克、前掲、p.7.)。

 鷹司政通は長年、朝廷の最高位にあって、数多くの才能ある人々を見てきたはずです。その鷹司すら、驚かせたほどですから、岩倉具視がどれほどの才人であったか、どれほど胆力のある人物であったかがわかろうというものです。

 一方、岩倉具視はといえば、政通の門下に入ることによって、多様な情報に接することができ、それらを踏まえ、的確な分析ができるようになっていました。他の公家たちよりもはるかに海外事情にも通じ、冷静な情勢判断を下すことができ、一目置かれる存在になっていたのです。

 略年譜をみると、岩倉具視は、安政元年(1854)に孝明天皇の侍従となり、従四位下に叙せられ、安政4年(1858)には孝明天皇の近習となって、従四位上に叙せられています。

こちら → https://iwakura-tomomi.jp/history/

 振り返れば、岩倉具視が、鷹司政通の歌道に入門したのが1853年でした。その後、わずか1年ほどで孝明天皇の侍従となり、さらに、4年後には近習になっているのです。岩倉具視が思惑通り、着実に、朝廷内で頭角を現していったことがわかります。

 実際、鷹司門下に入ると早々に、岩倉は宿願であった朝廷改革に乗り出しています。

■ペリー来航と朝廷改革

 嘉永6年(1853)6月、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 – 1858)が来航しました。強硬な態度に押されるように、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認めてしまいました。その結果、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至ってしまったのです。

 危機感を覚えた鷹司政通は、同年12月28日、廷臣に対し、重大な事態となっていることを心得るようにと諭告しました。岩倉具視はその翌日、この諭告に応える恰好で、次のように意見表明をしています。

 「国内の政治は幕府に委任しているが、対外問題は国体(国家の基本体制)にかかわるものであるから、幕府の対応・措置に注意をはらい、万一にも「失当の措置あらば、断然勅令を以て、差止め」る覚悟を固める必要がある」

 そして、次のように具申しています。

 「今は公家に和歌・蹴鞠を奨励するような時節ではない、学習院を拡充・改革して人材の育成に当たることが急務である。そのための費用として朝廷の積立金を充当されたい」
(※ 佐々木克、前掲。p.10-11.)

 このように岩倉具視は鷹司に対して、堂々と、外交への朝廷の主体的な関与、公家の意識改革、人材育成のための学習院の充実といった方策を提言したのです。朝廷改革の一環として、かねてから岩倉が考えていたものでした。

 この意見書に対し、鷹司は同意を示したものの、即答は避けたといわれています。

 そうこうしているうちに、1854年3月31日、日米和親条約が締結されました。この条約では、「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし、アメリカに対し、下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しています(※ Wikipedia 日米和親条約)。

 これについて鷹司は、この条約が「国体」の変更を伴うものではないという理解の下で、天皇が了承したと幕府に伝えています。いわば条件付きで、天皇は日米和親条約を承認したといっているのです。事後承諾せざるをえなかった朝廷の面目を保つための措置であり、幕府の拙速な対応への危機感の表れであり、さらには、勅許を経なかったことへの警告でもありました。

 もっとも、朝廷は、自発的に対外政策を検討することもなく、幕府主導の対外政策に甘んじざるをえないというのが実状でした。組織が硬直化し、時宜を得た意思決定ができなくなっていたのです。幕府もまた、開国を迫る諸国の攻勢にひたすら慌てふためき、度重なる威喝に屈し、国を守るための適切な行動がとれなくなっていました。

■八十八卿列参事件と「神州万歳堅策」

 安政5年(1858年)1月、老中の堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため、上洛しました。これに対し、関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張しましたが、多くの公卿・公家は反対しています。

 岩倉もまた、条約調印には反対の立場でした。彼は、大原重徳とともに反九条派の公家を集結させ、3月12日に抗議のため、公卿88人で参内しました。この時、九条尚忠は病と称して参内しませんでした。そこで、岩倉は九条邸を訪問し、面会を求めましたが、これも拒否されました。仕方なく、面会できるまで門前で動かずにいたところ、九条が明日、返答すると応じたので、岩倉はようやく九条邸を辞しました。午後10時を過ぎていたといいます(※ Wikipedia前掲)。

 これが、「廷臣八十八卿列参事件」といわれる出来事です。

 老中の堀田正睦は、公家たちの抗議行動の後、3月20日に小御所に呼ばれ、孝明天皇に拝謁しました。天皇は口頭で、「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝えています(※ Wikipedia前掲)。

 岩倉らの反対によって、勅許は与えられなかったのです。公家たちは、力を合わせれば、幕府の意向に掉さすこともできることを経験しました。岩倉具視主導で行われた初めての抗議行動であり、見事に勝利を収めました。

 実は、88人の列参から2日後の3月14日、岩倉具視は、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出しています。その内容は、次のようなものでした。

 「日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)」、「条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策」などを記しています。

 その一方で、単純な攘夷論は否定し、次のように記しています。

 「相手国を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する」、「米国は将来的には同盟国になる可能性がある」、「国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき」(※ Wikipedia 前掲)

 これらを読めば、岩倉具視がきわめて的確に、日本の置かれた状況を把握し、国防に配慮した対策を考えていたことがわかります。各所から収集した情報を踏まえ、岩倉が合理的に情勢判断した結果、導かれた意見書でした。

 この政治意見書を読んだからこそ、孝明天皇は、幕府からの使者である老中、堀田正睦に勅許を与えなかったのでしょう。岩倉具視の見解に一理あると判断したのです。

 この頃から、的確な情勢分析ができ、行動力もある岩倉具視が、朝廷内で大きな影響力を持ち始めていたことがわかります。

■日米修好通商条約の締結

 安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が締結されました。孝明天皇が勅許を与えなかったにもかかわらず、江戸幕府は朝廷に断りなく、勝手に調印してしまったのです。

 実は、日米和親条約の締結以降、幕府とハリス総領事との間で何度も話し合いが行われていました。

 日米和親条約によって、タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804 – 1878)が、初代日本総領事として赴任してきました。彼は、安政4年(1857)10月21日、当時の13代将軍徳川家定に謁見して国書を手渡し、通商条約の締結を進めるため、さまざまな働きかけを行っています。

 幕府は、安政4年(1858)12月11日から条約の交渉を開始させました。交渉は15回にも及び、交渉内容に関して双方の合意が得られた段階で、老中堀田正睦が上洛したという経緯がありました。孝明天皇の勅許を得るためでした。

 ところが、先ほどいいましたように、岩倉具視らの抗議行動で、孝明天皇は勅許を与えませんでした。その結果、幕府は朝廷に断りなく、日米修好通商条約を締結してしまったのです。最終的な判断を下したのは、大老の井伊直弼でした。

 6月27日、老中奏書でこのことを知った孝明天皇は、激怒しました。

 それでも、幕府は平然と朝廷の意向を無視し、アメリカに続いて、オランダ(7月10日)、ロシア(7月11日)、イギリス(7月18日)、フランス(9月3日)、と修好通商条約を締結しています。いずれも勅許なく結ばれた条約です。これら一連の条約は、安政五か国条約といわれています。


(※ Wikipedia)

 いずれも、治外法権を認めたうえに、関税自主権はなく、圧倒的に日本側に不利な不平等条約でした。

 公家たちは、当然のことながら、勅許を待たずに調印した条約は無効だと主張しました。朝廷はこれらの条約を認めず、幕府と井伊大老の独断専行を厳しく非難したのです。その結果、朝廷と幕府との間の緊張が一気に高まっていきました。

 外圧に押され、幕府が暴走しはじめました。幕府側は、朝廷に与する人々を次々と、切腹、死罪、追放などの厳罰に処していったのです。これが、安政の大獄といわれる一連の弾圧です。

 やがて、一連の弾圧および不平等条約への反動が来ました。

 安政7年(1860)3月3日、井伊直弼大老が、外桜田邸を出て、江戸城に向かう途中、水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名によって暗殺されました。桜田門外の変と呼ばれる事件です。

 日米修好通商条約は、国論を二分する大きな案件でしたが、条約締結を決断した井伊大老が暗殺されてしまったのです。政治的混乱は避けられず、国情が不安になる可能性がありました。

 事件直後からその死は秘匿され、幕府には、井伊大老が負傷したので帰邸するとだけ報告されました。実状を知らされなかった将軍・家茂はわざわざ井伊邸に見舞い品を届けさせたほどでした。このようにして井伊大老の死はしばらく伏せられていたのです。

 3月末に井伊直弼は大老職を正式に免じられ、それに伴い、ようやく、その死が公表されました。そして、まるで厄落としをするかのように、同年3月に改元され、万延元年(1860)となりました。

 幕府は朝廷への歩み寄りを見せ、公武合体路線に舵を切っていきます。尊王攘夷派が力を増す一方で、幕府の威信は日増しに低下していきました。幕府にとっては、政情を安定させるための方策が必要でした。尊王攘夷派が台頭してきた情勢の中で、幕臣たちが検討していたのが、孝明天皇の妹、和宮を将軍家茂の夫人に迎えることでした。

■『和宮御降嫁に関する上申書』と破約攘夷

 4月12日、和宮降嫁を希望する書簡が、幕府側から京都所司代に提出されました。孝明天皇はすぐさま、和宮はすでに有栖川宮への輿入れが決定しているとして断っています。当時、朝廷内の大半も降嫁に反対で、交渉は難航しました。

 ところが、孝明天皇はどういうわけか、いったん拒否しておきながら、この件について岩倉に諮問しています。岩倉の意見は、多くの公家たちとは違って、幕府の懇請を受け入れることを勧めるものでした。というのも、岩倉は、幕府の懇請を受け入れれば、朝廷主導の国家体制に踏み出すための第一歩になると判断していたからでした。

 岩倉は、幕府が降嫁を持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ち、人心が離れていることを自覚しているからだと判断していました。だからこそ、朝廷の威光によって幕府の権威を粉飾しようとする狙いがあると分析していたのです。

 岩倉は、「皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わなければならない」とし、『和宮御降嫁に関する上申書』を提出しています。

 さらに、次のように、和宮降嫁に際しての条件をいくつか付けています。

 「政治的決定は朝廷、その執行は幕府が当たるという体制を構築すべき」とし、喫緊の課題としては、「朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき」(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)

 岩倉具視は以前から、朝廷が意思決定をし、幕府がそれを遂行する政治体制を理想としていました。朝廷主導の政治体制です。とはいえ、国難の今、まずは公武一体で課題を解決していく必要があるとし、朝廷に無断で締結した一連の条約を破棄するという条件の下で、降嫁は許可してもいいと述べているのです。

 日本の国体を守るには、なんとしてもこれらの不平等条約を破棄しなければならないと岩倉は考えていたのです。

 孝明天皇は、岩倉の見解を受け入れました。朝廷主導の政治体制を実現させるために、まずは、公武一体で臨む必要があると判断し、和宮降嫁の懇請に応じたのです。岩倉の情勢分析、判断力、交渉力に全幅の信頼を置いていたからにほかなりません。

 6月20日、京都所司代を通し、条約破棄と攘夷を条件に、和宮降嫁を承認したことを伝えました。そして、7月4日、四人の老中の連署による「7年から10年以内に外交交渉、場合によっては武力をもって破棄攘夷を決行する」という念書を取り付け、条件についての幕府側の応諾を確認しています。

 孝明天皇は、文久元年(1861)10月20日に和宮が江戸に下向する際、岩倉を勅使として随行させています。下級公家の岩倉が、老中と対等に議論できるようにという配慮からでした(※ 前掲。Wikipedia 岩倉具視)。

■「四奸二嬪」運動と岩倉村での蟄居

 その後、各地で尊王攘夷運動が高まり、公武合体を主張していた岩倉は、いつの間にか、幕府に与する佐幕派とみなされるようになってしまいました。やがて、佐幕派や公武合体派の公家たちは、尊王攘夷派から脅迫され、排斥されるようになっていきます。

 8月16日、三条実美、姉小路公知ら13名の公卿が連名で、岩倉具視、久我建通、千種有文、富小路敬直、今城重子、堀河紀子の6人を弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出しました。岩倉を含む4人の男性と2人の女性は、幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として糾弾されたのです。

 当時、とくに京都では尊王攘夷の気運が高まっていました。

 岩倉具視は、「四奸二嬪」の一人として弾劾されました。岩倉を信頼していた孝明天皇でさえかばいきれず、岩倉らは8月20日に蟄居処分、さらに、辞官、出家命令を受けました。不満に思いながらも、岩倉は逆らわずに辞官して出家し、朝廷を去りました。

 出家した後、まずは、西賀茂の霊源寺に移りました。ところが、そこで身に危険が及ぶようになり、さらに御所から遠い、洛西の西芳寺へと移り住んだのです。

 ちなみに、霊源寺は岩倉家の菩提寺でした。
(※ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ki017.html

 そして、西芳寺は当時、父、岩倉具慶の甥が住持でした。
(※ http://saihoji-kokedera.com/top.html

 このように岩倉は縁故を頼って、次々と落ち延びていったのです。

 それでも糾弾の声はやまず、9月26日には、洛中に居住することを禁じる命令が出されました。仕方なく洛中を出て、御所から遥か遠方の岩倉村に住まいを移しました。文久2年(1862)10月8日のことです。以後、岩倉村での蟄居生活は、1867年11月8日に洛中帰住が許されるまで5年間も続きました。

 洛中帰住が許されても、岩倉具視はまだ完全に赦免されたわけではありませんでした。

 その一か月後の12月8日、小御所で朝議が開催されてようやく、文久2年(1862)と3年(1863)の処分者に対する赦免が行われたのです。激動のさ中、岩倉具視はようやく本領を発揮し、活躍できるようになりました。

■激動期の改革者

 振り返ってみれば、岩倉は初めて宮中に伺候した時から、朝廷改革の必要性を感じていました。下級公家だったからこそ、組織の硬直化による不毛に気づいたのです。

 さらに、ペリー来航時の幕府の対応を見て、なによりもまず、朝廷の主体的な外交関与、そのための公家の意識改革、人材育成、等々の重要性を痛感しました。そのような見解を文書にし、鷹司に提言していたほどでした。岩倉がわずか24歳の時です。

 岩倉は当初から、朝廷の改革を行わなければ、日本の未来はないと思っていたのです。

 その後も、公家の在り方について、岩倉は沙汰書を出しています。日付は明らかではありませんが、公家の実状を熟知しているだけに、その内容には根本的な改革案が含まれていました。

 たとえば、次のような見解が、沙汰書で披露されています。

 「世襲の禄については、時宜によって減少させられることはあっても、加増を仰せつけられることはない。ただし、この後の奉公によって「功労」があれば、一代限り加禄を賜うべきである。官位についても同様で、「世襲の旧弊」は改革され、今後は人材の能力に応じて任命されるので、そのように心得て「文武」のことに「勉励」するべきだ」とされています(※ 斉藤紅葉、「岩倉具視の新国家像と動向」、伊藤之雄編著『維新の政治変革と思想』、pp.91-92. ミネルヴァ書房、2022年)

 沙汰書を見れば、岩倉が、世襲の官位や禄の制度を改革し、能力に応じた取扱いをして、公家たちの自発性を喚起しようとしていたことがわかります。朝廷を中心に、国体を維持した政治体制にするには、なによりも優秀な公家の育成に努めなければならず、勉学を奨励しなければならなかったからでした。

 一方、欧米列強に伍していくには、外交、防衛にも配慮した政治体制でなければならず、それを支える卓越した識見をもつ優秀な人材の登用が必要でした。新たな秩序の体系は、朝廷側であろうと、幕府側、藩側であろうと、能力の高い意欲ある人材によって構築しなければならないと岩倉は考えていたのです。(2023/3/31 香取淳子)

第54回 練馬区民美術展に出品しました。

■第54回 練馬区民美術展の開催

 第54回 練馬区民美術展が、2023年2月4日(土)から2月12日)まで、練馬区立美術館で開催されました。


(図をクリックすると、拡大します)

 今回の展示作品は254点で、その内訳は、洋画1(油彩画)が59点、洋画Ⅱ(水彩、パステル、版画など油彩画以外)が125点、日本画(水墨画含む)が20点、彫刻・工芸が50点です。

 私は、《4月生まれの母》というF12号の油彩画を出品しました。


(図をクリックすると、拡大します)

 左端が私の作品です。

 会場内のライトが額縁のアクリル面に縦に反射し、ちゃんと撮影できていませんでした。撮影後、画像を確認しなかったのが悔やまれます。

■《四月生まれの母》

 次に、私の作品だけを撮りました。


(油彩、カンヴァス、60.6×50㎝、2022年。図をクリックすると、拡大します)

 こちらも会場内のライトが影響したのでしょうか、画面の色調がうまく反映されていません。全般に白っぽく映っています。改めて、絵を写真撮影することの難しさがわかりました。

 さて、今回出品した作品は、母をイメージして描きました。

 大正13年4月生まれの母はもうすぐ99歳になります。認知症が重症化し、3年ほど前から施設でお世話になっています。最近は施設を訪れても、コロナのせいで、直接会うことはできず、ガラス窓越しにしか会えなくなりました。とはいえ、一目、その姿を見るだけで、元気な様子を確認することができ、安心できます。

 昨年訪れた際も、母は見たところ、元気そうで、声をかけると、なにかしら応えてくれました。

 食欲も衰えず、よく食べているせいか、顔色はよく、しっかりとして見えます。その表情を見ていると、私が誰だかわかっているかもしれない・・・と、微かな期待を抱きたくもなります。

 何度も、「お母さん」と呼びかけてみました。聞こえているのかどうか、その都度、車椅子に座った母の目に光が宿り、瞬間、生気がみなぎるように見えます。それを見ると、やはり、わかっているのではないかと思えてきたりします。

 その時、母はなんとも穏やかで、安らかな表情をしていました。

 母は施設の4階でお世話になっています。その4階のスタッフの方々から、母が「100歳のアイドル」と呼ばれていることを知りました。それを聞いて、涙が出そうになるほど、嬉しくなりました。

 母を暖かく、お世話してくださっているスタッフの方々の様子が思い浮かびます。おそらく、母もまた、認知症になっても笑顔を絶やさず、感謝の言葉を忘れないでいるのでしょう。介護する者と介護される者との関係の一端を垣間見たような気になりました。

 老いて、さまざまな記憶が飛び、母はずいぶん前から、私たちの顔もわからなくなっていました。それでもまだ、人としての基本だけはしっかりと脳裡に刻み込まれているのでしょう。それがスタッフの方々との絆をつないでいるのかもしれません。

 若かった頃の母を思い出します。

 母は何事も、声を荒げることなく、穏やかに受け入れてきました。どんなことがあっても辛抱強く耐え、しかも、笑顔を忘れませんでした。

 そんな母の姿がなんども目に浮かぶようになり、今回、出品した作品の画題にしようと思い立ったのです。

■大正、昭和、平成、令和を生きた母

 大正13年(1924)4月5日に生まれた母は、まもなく99歳になります。大正末期に生まれ、昭和、平成、令和と4つの時代を生きてきたのです。激動の時代を乗り越え、よくこれまで無事に生を紡いでこられたものだと思います。

 母が生まれた1924年は一体、どんな年だったのか、見てみましょう。

 年表を見て驚いたのは、ソビエト連邦の議長だったレーニンが1924年1月21日に亡くなっていたことでした。

 第1次世界大戦(1914-918)の後、飢餓のために各国で革命が勃発し、ロシア帝国をはじめ、4つの帝国が次々と崩壊していきました。

 ロシア帝国の崩壊後、1922年12月30日に誕生したのが、ソビエト連邦です。政権を握る議長の座に就いたのがレーニンでした。そのレーニンの死後、後継を巡る闘争を経て、トロツキー派を制し、1924年1月、最高指導者の地位に就いたのがスターリン(1878-1953)でした。

 その後、第一次大戦後の歪みを残したまま、世界は激動の渦に巻き込まれていきます。

 一方、日本では、母が生まれた前年の1923年9月1日に関東大震災が発生していました。建物は倒壊し、火災は発生し、多くの人々が亡くなりました。首都機能は麻痺し、日本全体が極度の飢えと貧困、不安に陥っていました。

 大変な時代に、母は生を受けていたのです。

 やがて世界は、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻から始まる第2次世界大戦に突入しました。

 そのころ、母は15歳、県立姫路高等女学校の生徒でした。

 高等女学校を卒業後も2年間、専攻科に通い、卒業するとすぐ、お見合いで結婚しました。かるた会の席でお見合いが行われたそうですから、百人一首を得意としていた母にとっては絶好の見せ場だったのかもしれません。

 お見合い相手の父は、東京帝国大学文学部英文科(現、東京大学)を卒業し、当時、東京で英語の先生をしていました。そのため結婚すると、母は戦時下の東京で暮らすようになりました。東京での母は、日々、爆撃を逃れ、食糧を調達するのに苦労していたようです。

 結婚の際に親がそろえてくれた着物を持って、農家を訪ね、わずかな食糧と引き換え、なんとか生き延びていました。ところが、戦争末期に、終に、栄養失調になってしまいました。妊娠していたこともあって、一人帰郷し、実家で出産しています。終戦後9カ月、1946年5月、第一子である私が誕生しました。

 その後、父は第四高等学校(現、金沢大学)を経て、岡山大学に移動しました。引っ越すたびに、母は慣れない土地で苦労し、子どもたちを育ててきました。まだまだ調度品は整わず、食糧難の時代でした。

 岡山で暮らしていたのは、池があり、築山のある大きな家でした。微かに記憶に残る家が懐かしく、数年前に訪ねてきました。所々、記憶にある断片と合致し、幼い頃が甦ってきます。

 この家は現在、文化遺産に指定されています。

こちら → https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115694

 門から道路に続く、この白い石道を三輪車で遊ぶ幼い頃の私の写真が残っています。私たちは、この家の一角に間借りして住んでいました。

 ようやく定住するようになったのが、私が幼稚園の頃です。その頃、何があったのかわかりませんが、祖父から戻ってくるようにいわれたのです。以後、父は、家族を実家のある兵庫県に残し、自身は大学のある岡山県に通う生活を送るようになります。

■子どもたちと母

 父の実家に戻った後、しばらくは、祖父母も一緒に暮らしていました。祖父はまだ医者を続けており、家には、家事担当のお手伝いさんや下働きをする男性もいました。私が自転車の乗り方を教えてもらったのは、体格のいいお手伝いさんでした。

 ところが、私が小学校3年生の頃、祖父母は引っ越していきました。薬局を経営する伯母らと共に暮らし始めたのです。このときも、何があったのかわかりません。ただ、祖父母が引っ越すとともに、お手伝いさんも下働きをする男性もいなくなりました。その途端、大きな家ががらんとした空間になってしまいました。それがとても強く印象に残っています。

 家の管理、家事一切を一人でこなさなければならなくなった母はさぞかし大変だっただろうと思います。なにしろ、それまではお手伝いさんと下働きの男性がいてようやく体裁を整えることができたような大きな家でした。

 父は、週に何日間かは勤務のため岡山に出かけ、不在でした。その間、母と子どもたち4人とで暮らさなければならなかったのです。家事ばかりか、防犯の面でも気苦労が絶えなかったのではないかと思います。

 ある時、母が私に、「誰かが入ってきたら、お母さんが抵抗するから、あなたは弟たちを連れて、裏から逃げて」といったのです。そして、玄関にはしっかりと鍵をかけ、その傍らに木刀を置いていました。私が長子で、下にまだ幼い弟妹がいましたから、母は私を助手代わりに使うしかなかったのでしょう。

 昭和30年代の初め、まだ人々は貧しく、物騒な世の中でした。

 小学校4年生の私は、どの経路で弟妹たちを連れて逃げればいいのか、逃げ切れなければどこに隠れれば安全か、などといったようなことを真剣に考えたことを思い出します。

 母は女学校の頃、バスケットボール部の選手でした。体力には相当、自信があったのでしょう。いざとなれば、子どもたちのため、木刀で闘う覚悟をしていたのです。

 4人の子どもを生み、育てた母は、胃潰瘍以外に大きな病を経験することもなく、父が亡くなった後も、気丈に生きてきました。ところが、今、認知症になり、施設のお世話になっているのです。思いもしなかったことでした。

 人が健康で恙なく、平穏に生きていくことがどれほど難しく、得難いものであるかを思い知らされます。

 母を見ていると、この世に生を受け、一人前に成長し、やがて、老いていく、人のライフコースの中で、もっとも過酷なのは、身体の自由が効かなくなった晩年ではないかという気がします。

 ウィーン分離派の画家クリムトは、《三世代の女性》という作品の中で、老年期の悲哀を見事に表現しています。

■クリムトの《三世代の女性》(The Three Ages of Woman, 1905年)

 グスタフ・クリムト( Gustav Klimt, 1862 – 1918)は、帝政オーストリアに生まれた画家です。日本では、《接吻》(The Kiss, 1907-08年)という作品が有名ですが、それ以前に描かれた作品の中で、気になったのが、《三世代の女性》です。


(油彩、カンヴァス、180×180㎝、1905年、ローマ国立近代美術館所蔵)

 画面中央に年齢の異なる女性が3人、描かれています。おそらく、子、母、祖母という設定なのでしょう。幼児期、青年期、老年期の女性の姿がそれぞれ、裸体で描かれているのです。とても珍しい画題でした。

 子どもを抱いた女性は慈愛に満ちた表情を浮かべ、子どもの頭に頬を寄せています。子どももまた安心しきった様子で女性に身を委ねています。理想的な母と子の姿が描かれており、平和で幸福の象徴に見えます。

 この作品を観て、多くの観客がまず、目を引かれるのはこの部分でしょう。

 実際、後に作成されたポスターや複製画では、母と子の部分だけが切り取られ、作品として出回っています。興味深いことに、《母と子》として、この作品はよく知られているのです(※ https://www.aaronartprints.org/klimt-thethreeagesofwoman.php)。

 そもそも、この作品のタイトルは《三世代の女性》です。クリムトがこの作品を通して描こうとしたのは、子、母、祖母といった三世代の女性だったのです。ところが、この作品はクリムトの意図に反し、「母と子」の部分にスポットが当てられてしまいました。

 一体、なぜなのでしょうか。

 それについて考えてみようと思い、人物が描かれている箇所を拡大してみました。


(前掲。部分)

 母子が幸せそうに肌を密着させている様子は、限りなく優しく、暖かく描かれており、観る者の気持ちを和ませてくれます。見ているだけでほほえましく、幸せな気分になれます。

 ところが、左の高齢女性は一人佇み、老醜をさらしています。この姿を見たとき、見るべきではないものを見てしまったような後味の悪さが残りました。

 女性の肌はたるんで萎び、乳房は垂れています。手といわず脚といわず、静脈が浮きあがり、腹部が異様に突き出ています。しかも、女性は、手で髪の毛を引き寄せて顔を覆っており、その表情を見ることはできません。まるで老いを恥じて、顔を隠そうとしているかのようです。

 クリムトはひょっとしたら、老醜そのものをリアルに描こうとしていたのでしょうか。

 母と子の身体は、それほど克明には描かれていなません。ところが、高齢女性の身体は、苛酷なまでに老衰した状況がリアルに描かれています。今まさに生のさ中にいる母と子の姿に比べ、老いさらばえ、死を待つばかりの高齢女性との対比が、なんともいえず残酷に思えました。

■ロダンの《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)

 《三世代の女性》の中の高齢女性の身体は、ロダン(Auguste Rodin, 1840-1917)の《老いた娼婦》(The Old Courtesan, 1901)を参考に描かれたといわれています。1901年にウィーンで開催された19世紀美術展覧会に出品された作品です。
(※ https://www.gustav-klimt.com/The-Three-Ages-Of-Woman.jsp


(ブロンズ、50.2×27.9×20.3㎝、16.8㎏、1885年鋳造、メトロポリタン美術館所蔵)

 これは、かつては美しかった女性の老いた姿を表現した作品です。立体なので、こちらの方がリアルで、老衰の残酷さがいっそう際立っています。

 クリムトは展覧会に参加して、この作品に非常な感銘を受け、翌年、ロダンに会うことが出来た際にはとても喜んでいたそうです。

 このエピソードからは、クリムトは《三世代の女性》で、老衰のリアルを表現しようとしていたと考えざるをえません。

 だからこそ、敢えて、高齢女性とは距離を置いて、母と子を配置し、その密着ぶりが際立つような画面構成にしたのでしょう。

 ちなみにこの作品は、1911年のローマ国際美術展で金賞を受賞しました。クリムト独特の装飾的な美しさの中に、誰しもいつかは迎える老衰という深刻なテーマが、ライフコースの視点を取り込み、巧みに表現されていたからだと思います。

 ところが、その後、この作品は、「母と子」の部分だけが切り取られ、ポスターや複製画として再生産されています。大多数の観客は、快く感じられるものを見たがるという傾向を優先したからでした。

 この一件からは、市場原理に従えば、作者の制作意図とは異なる形で作品を再生産せざるをえないことが確認できたといえます。

■画題としての老いた母

 《4月生まれの母》を描こうと思い立った際、私は悩みました。99歳にもなろうとする母の外見は老衰そのものでした。そのような姿を描くことは、逆に、母を冒瀆することになるのではないかと思ったのです。なによりも、そのような姿を、私は描きたくもありませんでした。

 施設でお世話になっている姿は、確かに、現実ではありますが、母の真実の姿ではありません。

 これまで目にしてきた母の姿の断片が、いくつもの記憶となって、私の脳裡に残っています。それらを反芻しているうちに、母の姿とは、見えている肉体や姿形ではなく、さまざまな記憶、一切合切を含めたもの、すなわち、母が生きるのを支えてきた精神こそ、母の真の姿ではないかという気がしてきたのです。

 いろいろ思いを巡らせているうちに、母を描くとすれば、そのような母の生を貫く精神ではないかという結論に辿り着きました。

 つまり、子どもを守るためには、闘いも厭わない気丈さ、さまざまな困難に遭遇しても、それに耐え抜く強さ、どんな時も笑顔を絶やさない穏やかさ、優しさ・・・、母が生きてきた過程で私が垣間見てきた母の精神を、母のリアルな姿として表現したいと考えたのです。

 この作品で、そのような思いを表現できたかどうか、わかりません。ただ、悲しみと慈愛、忍耐と寛容、安らぎと穏やかさ、優しさ・・・、といったようなものを、顔面の色調や表情などに込めたつもりです。

 背景はもちろん、桜の木です。


(図をクリックすると拡大します)

 入間川沿いに毎年、見事な桜が花を咲かせます。開花した部分とまだ蕾の部分とが混在している時期の桜を取り上げてみました。

 桜花には可憐で、健気で、潔い美しさがあります。母の根本精神を突き詰めれば、そこに到達するような気がします。

 ふと見上げると、真上に桜の木の大きな枝が伸びていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 輝かしく開花した花弁に、ふいに風に吹き付け、はらりと頭の上に落ちてきました。淡いピンク色をした可憐な花びらです。

 画面の母の顔の上にも、この桜の花びらを散らそうと思いました。母はこの桜花のように、老いてもなお初々しいところがありました。

 女学校を卒業してすぐに結婚した母は、一度も社会に出て、働いたことがありません。世間馴れしておらず、もちろん、世間知もなく、いつまでも少女のようなところがありました。

 かつてはそのような母を頼りないと思い、不満に思ったこともありました。ところが、理想を軽視し、即物的な実利優先の世の中になっていくにつれ、世間馴れしていない母の子どもとして生まれ、育てられたことを、とても幸せだと思うようになりました。

 しばらくは、この母を画題に、描いていこうと思っています。(2023/2/27 香取淳子)

実相院で振り返る日本の中世

■ 岩倉実相院

 京都市左京区岩倉上蔵町に、天台宗寺門派の門跡寺院・実相院があります。2023年1月5日、所用で京都を訪れた際、次いでに行ってみることにしました。地下鉄烏丸線の沿線の国際会館駅で24系統京都バスに乗り換え、終点の岩倉実相院で下車すると、目の前に実相院が見えます。


(図をクリックすると、拡大します)

 さらに近づくと、表門は四脚門でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 落ち着いた佇まいの中に、歳月を重ねた重厚感と格式の高さが感じられます。見ていると、次第に身が引き締まる思いがしてきました。

 四脚門は、鎌倉以降、将軍家の正門や勅使門、格式のある寺家の正門などに使われたといわれます。

 パンフレットを見てみると、江戸時代初期、天皇家とのゆかりが深まり、「享保5年(1720)、東山天皇の中宮・承秋門院の大宮御所の建物を賜った」と書かれています。江戸時代になって、承秋門院(東山天皇の中宮)の御殿の一部が移築されたものだったのです。

 今日まで伝わっているのは、この四脚門と実相院の車寄せ、客殿でした。そういわれてみると、この表門には、奥ゆかしく、典雅な趣が感じられます。実相院はまさに、現存する数少ない女院御所なのです。

 確かに、中に入ると、どの部屋にも襖絵があって、壮観でした。とくに印象深かったのが、杉戸に描かれた襖絵です。

 内部は撮影できませんので、実相院HPの画像をご紹介しましょう。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 これは仏間のある牡丹の間に設えられた襖絵です。杉戸に、竹林の中で虎が寝そべっている姿が描かれています。そもそも、竹に虎というモチーフは取り合わせのいい図柄で、古来、縁起がいいとされてきました。

 仏間の杉戸に描かれた襖絵を見ていると、私には、この虎が仏間を守護しているように思えました。

両側には、虎を囲むように、何本もの竹が描かれています。まっすぐに伸びた竹の合間から風が吹き抜けてきて、竹林のしめやかな空気を運んできているような気がします。襖絵を通して、さり気なく、自然が室内に取り入れられているのです。

 何も襖絵に限りません。風や水の流れを感じ、四季折々の変化を愛でるための設えは、さまざまな所に見られました。

 たとえば、石庭です。

 苔むした巨石の周りに刻まれた同心円状の線が、水面に広がる波紋に見えます。その先に設置されたアーチ状の造形物が、水面を跨ぐ橋に見えます。


(実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 写真は2022年11月26日に撮影された石庭です。庭を囲む木々がさまざまに色づき、砂利の白さに興を添えています。手前には庭を望む桟敷があり、ここから四季折々にもたらされる自然の美しさを堪能していたのでしょう。

 優雅な生活の一端が偲ばれます。

 典雅な佇まいは、門跡寺院だからなのでしょうか。

■ 門跡寺院

 実相院は昔から、岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。実相院が岩倉にある門跡寺院だからでしょう。

 門跡寺院とは、天皇家の血を引く方々が、その寺院の住職を務める格式の高い寺院を指します。現在、17の門跡寺院があります。17のうち、11の寺院が天台宗で、真言宗は5、浄土宗は1です(※ https://enman-inn.com/about/)。

 天台宗の寺院の比率が圧倒的に高いことがわかりますが、天台宗には山門派と寺門派があります。

 第3世天台座主の円仁(慈覚大師、794-864)と、第5世天台座主の円珍(智証大師、814-891)には、仏教解釈に違いがありました。やがて、その末流が対立するようになり、以下のような経緯で、2派に分かました。

 正歴4年(993)、円仁派が比叡山の円珍派の坊舎を焼き払ったので、円珍門徒は山を下り、園城寺に入って独立しました。そこで、寺門派と呼ばれるようになりました。一方、山に残った円仁派は山門派と呼ばれています。

 その寺門派の三門跡とされていたのが、円満院、聖護院、実相院です。

 「実相院はとくに室町時代から江戸時代にかけて、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました」(※ 実相院HP)と説明されています。

 寺門派では数少ない門跡寺院の中で、実相院は室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一とされていた」というのです。

 なぜ、実相院が「門跡寺院の随一」だったのでしょうか。

 実相院HPに次のような記述がありました。

 「江戸時代初期に入寺した、義尊(ぎそん)は足利義昭の孫にあたります。義尊の母、法誓院三位局は義昭の子高山(法厳院)との間に義尊(実相院門主)と、常尊(円満院門主)をもうけ、さらに後陽成天皇(一説によると後水尾天皇)との間にも 道晃親王(聖護院門主)をもうけたため、義尊は皇子同様にして後陽成天皇の寵愛を受けました」(※ 実相院HP)

 この記述からはまず、江戸時代初期、天台宗寺門派の三門跡の門主を務めたのが、法誓院三位局の息子たちだったことがわかります。次いで、なかでも実相院の門主である義尊は、時の天皇の寵愛を受けており、多大な支援を得ていたことが示されています。

 その結果、義尊が門主であった時期に、経典や古典籍の大規模な収集、書写、整理などが行われています。それが、実相院の文化的価値を高め、「室町時代から江戸時代にかけて」、「門跡寺院随一」という評価を得ていたのでしょう。

■ 義尊の貢献

 実相院門主の義尊は、天皇や将軍家と深い繋がりがありました。豊かな人脈の中で、諸学、諸芸が磨かれていく一方、義尊は実相院の文化的基盤を整備し、その確立に尽力していたのです。

 次のような記述があります。

 「両天皇、東福門院、三位局など、義尊を取り巻く江戸初期の宮廷生活との深い関わりの中で実相院の文化的基礎は一層確かなものとなりました。義尊は失われた古文書、古記録を熱心に書写したため、重要なものが多くのこされています」(※ 実相院HP)。

 さまざまな写本の中には、義尊筆と書かれたものが数多く残っているそうです。義尊自らが率先して書写し、古典籍、資料などの保存に努めていたのです。

 なにも文化の保存に努めただけではありませんでした。応仁の乱で類焼した実相院の復興に力を尽くし、その後の興隆を図ったのも義尊でした。

 そもそも、門跡寺院は代々、皇室から多大な支援を受けて栄えていました。その中でもとくに実相院が、室町時代から江戸時代にかけて、「門跡寺院の随一」とされていたのは、義尊が門主だったからでした。

 義尊は焼失した建物を復興し、文化財を保存し、資料の充実を図りました。

 先ほどもいいましたように、義尊は、大乗院大僧正義尋の子で、15代将軍足利義昭の孫にあたります。由緒正しい出身であったばかりか、仏教をはじめ諸学、諸芸に通じており、見識のある天皇と親密に交流できる資質を備えていました。

 とくに後水尾天皇とは親しかったようで、実相院には天皇の宸翰が残されています。


(実相院HPより。60.6×49㎝、図をクリックすると、拡大します)

 「忍」の一字です。何年に書かれたものかはわかりませんが、後水尾天皇の不満がこの一字に込められているように思えます。義尊が門主を務めた実相院だからこそ、このような内面を晒すような書が残されているのでしょう。後水尾天皇が義尊に親しみをおぼえ、気を許していたことがわかります。

 一方、義尊の書状も残されています。


(https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/319より。図をクリックすると、拡大します)

 何が書かれているのか、文字を判読することはできませんでした。説明によると、これは、女官を通して渡した、「後水尾上皇の幡枝への遊興に際し、義尊がそのもてなしを依頼されたことへの返書」だそうです(※ 上記URL)。

 このように、義尊は、天皇あるいは上皇との良好な関係を通し、経典、古典籍、王朝文化に関わる資料などを数多く保存し、整理していました。その結果、実相院の文化的価値を高めたことは注目に値します。

 ところで、実相院のご本尊は、不動明王です。

■ 不動明王

 ご本尊は、鎌倉時代に作られたとされる木造立像の不動明王です。


(※ 実相院HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この写真ではちょっとわかりづらいですが、右目を大きく見開き、左目は瞼が垂れて半開きになっています。左右非対称の形相がなんとも恐ろしく、威圧感があります。

 これは、「天地眼」と呼ばれる様式の造形です。

 天台宗の安然(841-915)が記した「不動十九相観」には、不動明王には十九の外見上の特徴があり、この「天地眼」はその一つだと記されています。

 一見、異様な印象を与える不動明王の両眼は、閉じた左目で災いを退け、開いた右目で善を保つことを表しているといわれています。迷いの世界にいる衆生を見守り、正しい仏の道に導くための造形なのです。(※ http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2574)

 このような造形は、おそらく、不動明王が大日如来の化身とみなされているからでしょう。

 大日如来と不動明王はまさに異体同心、ある時は柔和で慈悲深い姿、また、ある時は怖い忿怒の形相をした不動明王の姿となって、迷える衆生を導き、救済しているように思えます。

 Wikipediaでは、不動明王について、次のように説明されています。

 「密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。(中略)真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれることもある」(※ Wikipedia)

 不動明王の由来を知ると、天台宗寺門派の門跡寺院である実相院に、本尊として不動明王が置かれているのは当然といえば、当然のことでした。

 それでは、創建の経緯から、見ていくことにしましょう。

■ 実相院門跡の創建

 実相院は寛喜元年(1229)に創建されたとされていますが、実際は、それ以前から存在していたようです。

 「寺伝によると実相院は静基(1214~59)によって開基されたというが、すでに見てきたように近衛家に関連する門跡としてそれ以前より成立していた。静基は鷹司兼基(1185~1259以降)の子で、近衛基通の孫である。寛喜元年(1229)3月7日に覚朝(1159~1239)より伝法潅頂を受けた。正元元年(1259)閏10月26日に46歳で示寂した(『寺門伝記補録』巻第16、僧伝部巳 非職高僧略伝巻上、前権僧正静基伝)。なお近世期の実相院の相承系譜や『諸門跡譜』、明治時代の『愛宕郡寺院明細帳』『京都府寺誌稿』では静基を開基とすることで一致するものの、開創年については詳かにしていない。なお現在実相院における寺伝の開基年である寛喜元年(1229)は静基が伝法潅頂を受けた年である」
(※ 「実相院」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)

 実相院は近衛家に関する門跡として以前から存在していたというのです。いくつかの資料にあたってみても、静基が開いたことでは一致しているが、開基年は詳らかにされていないと書かれています。

 それでは、実相院のHPでは、どのように記述されているのでしょうか。HPを開いてみると、次のように書かれていました。

 「実相院が門跡寺院となったのは、静基(じょうき)僧正が開山された、寛喜元年(1229年)のことで、そのころは北区の紫野にありました。その後、京都御所の近くに移り、ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています」(※ 実相院HP)

 興味深いことに、ここでは「静基僧正が開山された」と書かれており、「創建された」とは書かれていません。

 さらに、『京都 実相院門跡』には、実相院の創建について、次のような記述があります。

 「鎌倉時代中頃には創建されていたといわれている。寺名については、寛喜元年(1229年)に鷹司兼基の子静基が園城寺に入壇し、実相院と号したことによるという。実相院が門跡寺院となったのも、この初代静基が関白近衛基道通の孫であったことによるところが大きい。そのため鎌倉時代以降、寺領も増加した」(※ 宇野日出生、「洛北岩倉と実相院門跡」、『京都 実相院門跡』、p.43、思文閣出版、2016年)

 以上を総合すると、静基が伝法潅頂を受けた寛喜元年(1229)に、その号にちなみ、実相院が門跡寺院として創設されたといえます。つまり、静基が伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て、正式な僧侶と認められた段階で、実相院は、静基の号を冠した門跡寺院として誕生しているのです。

 場所も当初は現在の岩倉ではなく、北区柴野にありました。その後、京都御所の近くに移り、さらに、応仁の乱(1467-77)が激しくなった頃、戦火を逃れるために、岩倉に移っています。

 それでは、なぜ、岩倉の地が選ばれたのでしょうか。

 先ほどもいいましたように、実相院は岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれていました。このような呼び名からは、実相院が岩倉の地に深く根を下ろしていたことが示唆されています。

 案内図を見ると、実相院の周辺には、大雲寺、岩倉神社、岩倉具視幽棲旧宅、いわくら病院などが図示されていました。


(図をクリックすると、拡大します)

 それぞれ、至近距離にあります。私が実際に訪れたのは、実相院と岩倉具視幽棲旧宅だけですが、調べてみると、大雲寺と実相院は相互に深く関わり合って、この地域の歴史を紡いできたことがわかりました。

 なぜ、岩倉の地が選ばれたのかを知るには、まず、実相院と大雲寺との関係を調べてみる必要があるでしょう。

■ 実相院と大雲寺

 先ほどご紹介した宇野日出生氏は、実相院と大雲寺との関係について、次のように記しています。

 「(実相院が)岩倉に移転した要因は、応仁の乱の戦火から逃れるためだった。戦場となった町中から岩倉へ難を避けざるをえなかったのである。建武三年(1336)9月3日付光厳上皇院宣案によると、実相院は南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していたことが知られる。このような理由から、実相院が岩倉に移ったと考えられるのである」(※ 前掲)

 なぜ、岩倉なのかといえば、「実相院が南北朝時代から大雲寺の事務を管掌していた」からだというのです。

 また、「実相院」(http://www.kagemarukun.fromc.jp/page013j.html)には、以下のように同様の記述があります。

 「それまで大雲寺は同寺中に位置した平等院が大雲寺寺務職を兼帯しており、平等院は後に円満院門跡へと昇格したが、元弘・建武年間(1331-38)に円満院門跡の園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれていた(湯本、著作年未詳)。この頃円満院門跡から円胤(?~1355)が還俗して南朝側にはしるなど、京洛を実効支配していた幕府・北朝側にとって、円満院門跡より、北朝天皇の護持僧となっていた実相院門跡増基の方が信に値することもあったため、実相院が大雲寺を管領することになったと考えられる」(※ 上記URL)

 なぜ、実相院が大雲寺の事務を管掌するようになったかといえば、幕府・北朝側にとって実相院門跡の方が信頼できると思われていたからだというのです。というのも、円満院門跡の一人が還俗して南朝側に走ったことがあるからでした。

 ここに、南北朝時代の抗争の一端を見ることができます。

 一方、大雲寺側の資料によると、次のように書かれています。

 「大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331~38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる」
(※ 「大雲寺」http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003j.html)

 それまで大雲寺の事務を管掌していた平等院が円満門跡となって、建武年間に園城寺に移転したのに伴い、実相院が大雲寺を管領するようになったという経緯は、先ほどの記述と同様です。

 興味深いのは、光厳上皇から「大雲寺および同寺の荘園」を「安堵(幕府などが土地の所有権などを認める)」されたと記述されていることでした。

 1336年9月3日、光厳上皇の命によって、実相院は大雲寺を管掌するばかりか、同寺が所有していた荘園までも所有し管理することになったのです。

 実は、その4カ月ほど前の1336年5月、足利尊氏は光厳天皇を奉じて上京しています。そして、光厳天皇の弟を即位させて光明天皇とし、北朝を立てていました。一方、後醍醐天皇は12月に吉野に逃れ、南朝を誕生させています。

 幕府の後ろ盾を得た光厳上皇の力が強くなっていました。

 ちょうどそのころ、実相院が大雲寺を管掌し、その所有地までも所有することになっていたのです。南北朝の対立が鮮明になっており、北朝側寺院として権勢を高め、支配系統を強化する必要がありました。

 1336年に実相院が大雲寺よりも優位に立ち、明らかな支配関係が発生していますが、その背後には幕府・北朝の意向があったといっていいでしょう。

■ 実相院による大雲寺支配

 南北朝の誕生とともに、大雲寺は実相院による支配を受け始めました。

 大雲寺の年表には、次のような記述があります。

 「実相院が今出川小川から応仁の乱の戦火を避けて大雲寺(成金剛院跡地)へ一時避難し以後今日に至る。実相院による大雲寺統治が長く続く」(※ 「大雲寺」年表)

 大雲寺を管掌していたのが縁で、実相院は岩倉の地に移ってきました。応仁の乱の戦火を逃れるため、というのがその理由でしたが、その後、管掌を介して支配力を強めていきました。

 一方、大雲寺側は実相院に対し、大きな不満を抱くようになっていました。
 
 ところが、文亀2年(1502)8月6日、実相院門跡義忠(1479~1502)が将軍足利義澄の命によって殺害されると、実相院領は収公(幕府に没収)され、8月9日、将軍夫人の日野氏領となりました。

 その結果、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りがみえ、「大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功」しています(※「大雲寺」年表)。

 義忠は将軍継承者の一人であったため、将軍職を奪われることを恐れた義澄の命によって殺害されたといわれています。門主が殺害されたばかりか、実相院領まで収公されてしまったので、一時、実相院の勢力は落ちてしまいました。

 政権争いの厳しさを感じさせられますが、これは、実相院から実効支配されていた大雲寺衆徒には朗報だったのかもしれません。

 宇野氏は、「大雲寺は中世以降、実相院の支配管理となってはいたが、大雲寺衆徒が実相院の下知に応じなかったこともたびたびあった」と記しています(※ 前掲)。

 大雲寺はその後もさまざまな抗争に巻き込まれ、何度も焼き討ちにされました。元亀4年(1573)には明智光秀に攻められ、灰塵に帰したほどですが、その都度、再興されています。

■ 義尊が再興した大雲寺

 大雲寺がようやく安定したのは江戸時代、足利義尊が大雲寺を再興してからでした。寛永18年(1641)の大雲寺年表には次のように記されています。

 「義尊(足利15代義昭の孫)旧伏見城の遺材を充てて大雲寺本堂を再興する。本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札に寛永18年(1641)の年記あり。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂(天台様式)の平面形式を踏襲」(※ 大雲寺年表)

 前にも述べましたが、義尊は実相院を復興させていました。その上、大雲寺も再興させていたのです。見識を持つ人物が資金や資材を動かせる力を持った時、数多くの文化財が失われることなく、保存されることが示されています。

 明暦元年(1655)には大雲寺鐘楼が建立されています。

 安永8年(1779)頃の大雲寺は次のようになっていました。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」、図をクリックすると、拡大します)

 大雲寺の境内の部分をクローズアップしてみましょう。


(※ 日文研データベース「北岩倉大雲寺」部分。図をクリックすると、拡大します)

 本堂の右側に見えるのが、鐘楼です。その右に八所神社と書かれた建物が見えますが、
これが岩倉神社です。

 実は、この岩倉神社が大雲寺のパワースポットなのです。

■ パワースポットとしての岩倉神社

 大雲寺の創建は971年4月2日で、年表には、次のように書かれています。

 「円融天皇が比叡山延暦寺講堂落慶法要の砌、当山に霊雲を眺められ日野中納言藤原文範(ふみのり)を視察に遣わす。文範・真覚(藤原佐里)を開祖として大雲寺創建。佐里卿「大雲寺」の掲額を書く」(※ 大雲寺HP)

 比叡山延暦寺で法会が行われた際、五色の霊雲が立ち昇りました。それを見た天皇が、日野中納言文範を視察させたところ、霊雲の谷(岩倉)に辿り着き、出会った老尼から、その地が観音浄土の地と知らされました。伽藍建立には恰好の土地だったことがわかったというのです。

 そこで、視察した文範と真覚上人(藤原佐里)を開祖とし、その地に大雲寺が創建されました。

 大雲寺を建立するにあたっては、鎮守社として、境内に石座(いわくら)神社を移しています。岩倉の産土神を大雲寺の鎮守のために移動させたのです。

 古来、日本には、巨大な岩石を“磐座(いわくら)”と称して祭壇として使用したり、巨岩そのものを崇拝する習慣がありました。

 たとえば、平安京を造営する際、桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座(いわくら)”を掘り出し、その下に一切経を埋めています。
(※ https://japanmystery.com/z_miyako/rakuhoku/iwakura.html)

 一切経とは仏典を集成したもので、大蔵経ともいいます。その経典を霊験あらたかな磐座(いわくら)に納めることによって、京都を守護させるというのが桓武天皇の計略でした。

 北岩倉、東岩倉、西岩倉、南岩倉など、東西南北に四つの岩倉が設置されたのは、風水思想の四神相応に基づいたものでした。日本古代の磐座信仰を踏まえ、風水思想を取り入れ、桓武天皇は京都に安寧をもたらすシステムを築いていたのです。

 971年に大雲寺が創建されると早々に、岩倉神社が境内に移されています。古代の磐座信仰を踏まえ、大雲寺の安寧を願って移設されたのです。

 平安京は、さまざまな防衛ラインが敷かれた都市でした。陰陽道に基づいた仕掛けがあるかと思えば、仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けもありました。その一つが、“四つの岩倉”と呼ばれるパワースポットでした。

 大雲寺には創建とともに、パワースポットとしての霊験あらたかな岩倉神社が置かれていました。古代天皇制の名残りといえます。

 その古代天皇制に揺らぎがみられたのが、実は、鎌倉時代でした。

■ 両統迭立

 鎌倉時代後半、皇統が2つの家系に分裂し、両統迭立の状態にありました。両統迭立とはそれぞれの家系から交互に君主を即位させていくという仕組みです。

 なぜ、「両統迭立」という仕組みが生まれたのか、その経緯をみていくことにしましょう。

 後嵯峨天皇(1220-1272)は、後深草天皇がわずか4歳の時に譲位し、上皇となって院政を敷きました。ところが、後嵯峨上皇は、その後、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君(天皇家の家督者として政務の実験を握るもの)を定めないまま崩御しました。

 それが、その後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなりました。

 鎌倉幕府は、後鳥羽上皇が挙兵した承久の乱(1221)以降,皇室を監視し、皇位継承に干渉してきました。幕府による朝廷掌握は徹底し、後嵯峨上皇による院政の頃は、ほぼ幕府の統制下にあったといわれています。

 膠着状態に陥っていた皇位継承問題の打開を図ったのは、幕府でした。幕府が、両統交互に即位するという案(両統迭立)を出し,両統の間に協定が成立したのです。 建治元年(1275)のことでした。

 天皇家の系図を見ると、後深草天皇(89代)から亀山天皇(90代)、後宇多天皇(91代)から伏見天皇(92代)といった具合に二つの皇統から交互に君主が出ています。


(宮内庁HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ても、後宇多天皇(91代)から後醍醐天皇(96代)までの6代は、両統から交互に即位していたことがわかります。ところが、後醍醐天皇の代で、この仕組みが機能しなくなり、南朝と北朝に分かれてしまいました。

 というのも、後醍醐天皇が自分の息子に皇位を継承させようとし、両統迭位を求める幕府を打倒しようとしたからでした。計画は事前に幕府に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいます。

 ところが、後醍醐天皇は早々に隠岐から脱出し、幕府打倒の綸旨を諸国に発布します。それに応じた足利尊氏や新田義貞などの功労で、鎌倉幕府は滅亡しました。1333年のことです。

 その翌年(1334年)、後醍醐天皇は京都に帰還して年号を建武と改元し、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。いわゆる「建武の新政」です。

 後醍醐天皇は天皇を中心とした社会に戻そうとしたのですが、元弘の乱後の混乱を収拾することができず、また、公家を優遇した政策が武士たちの反感を招きました。その結果、建武3年(1336)、足利尊氏との戦いに敗れ、政権は崩壊しました。

 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、そこで天皇を中心とする政権を樹立しました。一方、武家側に依存している北朝は、足利尊氏は光厳天皇の後、光明天皇を立てました。

 以上が、「両統迭立」から南北朝誕生に至る経緯です。

 実相院が大雲寺を管掌するようになったのは、ちょうどこの頃のことでした。社会が二分され、北朝と南朝の対立が先鋭化していた時期だったのです。

 武士勢力が台頭し、古代天皇制に消滅に向かっていた時期でもありました。

■ 武士勢力の台頭と古代天皇制の崩壊

 光厳天皇は北朝1代目の天皇で、光明天皇は2代目でした。以後、北朝は5代まで続き、北朝6代の持明院統の後小松天皇(100代)からは北朝系で統一されていきます。これで、ようやく南北朝が統一され、皇統が一つになったのです。

 この時も解決に向けて動いたのは幕府でした。

 明徳3年(1392)、足利義満は、南朝第4代天皇・後亀山天皇との間で、「明徳の和平」を締結しました。それに従って、 後亀山天皇は京都へ赴き、大覚寺で神器を後小松天皇に渡しました。南朝が解消される形で、南北朝合一は成立したのです。

 こうして約56年に亘った南北朝の分裂は終結しました。

 この時、南朝に任官していた公家は、一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落していきました。また、南朝には、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まっていましたが、後醍醐天皇が公家を優遇した政策を取ったので、彼等は失望を募らせ、去っていきました。

 南北朝の時代は、古代天皇制が終焉していく過程であり、その一方で、支配階級としての武士の基盤が確立されていった過程だったと捉えることができるでしょう。

 後醍醐天皇は、天皇が絶対的権力を持つ古代天皇制を復活させようとしていました。ところが、政治制度としての天皇制はすでに、摂政から院政へと変容し、天皇は事実上、最高の支配者ではなくなっていました。

 もちろん、律令制はもはや機能しなくなっていました。荘園を所有するのは貴族や寺社だけではなく、武士も参入してきており、中には大土地所有者になっている者もいました。土地所有の公有制は解体され、私有制に移行していたのです。

 さらに、荘園を侵略する者が絶えなくなっていました。それを封ずるため、源頼朝は、律令制の枠組みを壊すことなく、守護・地頭制を組み込み、全国の治安警察権、土地管理権、徴税権などを掌握したのです。

 後醍醐天皇は鎌倉時代末期、武家政権への抵抗を試み、古代天皇制を復活させようとしましたが、わずか2年半でその試みは終了しました。社会構造が変化し、武家政権への移行は避けられなかったのです。

 今回、訪れた実相院は、北朝側に立っていました。だからこそ、室町時代から江戸時代にかけて、隆盛を誇ることができたといえるでしょう。(2023/1/28 香取淳子)

Idemitsu Art Award 2022展:リアルとファンタジーの合間に

■Idemitsu Art Award 2022展の開催

 国立新美術館で今、「Idemitsu Art Award 2022展」が開催されています。開催期間は2022年12月14日から12月26日まで、開催時間は10:00-18:00(入場は17:30まで)です。

 これまで「シェル美術賞」をして知られていた美術賞が、2022年4月に改称され、「Idemitsu Art Award」となりました。名称が変わっても、次代を担う若手作家を奨励するという目的に変わりはありません。

 これまで通り、40歳までの若手作家を対象に作品募集され、その結果を反映した展覧会、「Idemitsu Art Award 2022展」が今回、実施されました。

 実施概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/news/2022/220603.html

 改称された「Idemitsu Art Award 2022展」には、650名の作家から応募があったといいます。昨年と比べ、作家は142名増え、応募作品は128点増えて860点にも上っているのです。

 これまでと違って、グランプリの賞金が300万円に増額(これまでは100万円)され、25歳以下の出品が無料(1点まで無料、2点目以降は有料)に改良されていたからでしょう。若手作家がこの好機を見逃すはずはありません。改良によって、若手の応募意欲が高まっていたことは明らかでした。

 さて、審査員は上記URLに示された5名ですが、そのうち2名が、今回、新たに審査員に加わりました。福岡市美術館学芸員の正路佐知子氏と、とシェル美術賞2010年度の審査員賞を受賞した画家の青木恵美子氏です。

 新たな視点を加えて審査された結果、グランプリを含む8点の受賞作品、46点の入賞作品が選出されました。今回、展示されていたのは、これら54点の作品です。全般に、優しい色遣いの作品が多いように思えました。

 それでは、会場に入って、鑑賞することにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 40歳以下を対象にした公募展のせいか、会場で見かける観客も若い人が多かったような気がします。

 2022年度のグ受賞作品は8点で、作者および作品概要は以下の通りです。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/winners.html

 それでは、まず、これらの受賞作品の中から、印象に残った作品を何点か、ご紹介していくことにしましょう。

■印象に残った作品

●グランプリ作品:《せんたくものかごのなかで踊る》

 グランプリに選ばれたのが、竹下麻衣氏の、《せんたくものかごのなかで踊る》という作品です。

こちら →
(岩絵具、水干絵具、膠、箔、カンヴァス、162×140㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 得体の知れないものが重なり合い、波打つように、画面を覆っています。形からも、色からも、これらのモチーフが一体、何なのか、推し測ることすらできませんでした。なにしろ、モチーフとモチーフが重なり合って、認識の根拠となる形が崩れてしまっているのです。

 しかも、色と色が溶け合って、境界線すら曖昧です。曖昧模糊とした画面の中で、かろうじてモノとして認識できるのが、細い黒の線で描かれたワイヤーでした。

 もっとも、ワイヤーだということはわかっても、それが「せんたくものかご」だという認識には至りません。作品のタイトルを見て、ようやく、このワイヤーが「せんたくものかご」だとわかった次第です。

 認識の盲点を突かれたような気がしました。

 この作品を見た時、タイトルも見ていたはずなのに、漢字で書かれた「踊る」という言葉に強く印象づけられ、平仮名で書かれた他の言葉を認識していなかったのです。タイトルの中の、「せんたくもの」、「かご」、「なかで」という言葉は、平仮名で書かれていました。そのせいで、すっかり認識のフィルターから洩れてしまっていたのです。

 象形文字から派生した漢字は表意文字なので、一目でその意味を理解できます。ところが、平仮名は表音文字なので、見ただけでは意味を理解できません。

 そのような漢字(表意文字)と平仮名(表音文字)の特性の違いに着目し、作者はタイトルの表記に工夫を凝らしたのかもしれません。タイトルのほとんどは平仮名表記にされていました。そうすることによって、観客がすぐにも理解してしまうことを阻む一方、唯一、漢字表記された「踊る」という言葉を強く印象づける効果があったのです。

 さて、このワイヤーが、「せんたくものかご」なら、奇妙なモチーフの群れは、洗濯物かごに投げ込まれた衣類だということになります。これで、ようやく、描かれているモチーフが、洗濯物かごに入れられた布類だということがわかりました。

 なんと、日常生活の中で、ともすれば見落とされがちな洗濯物が、この作品の画題だったのです。

 このような画題の選び方もまた、観客の認識の盲点を突く要素の一つだったと思います。とくに、作品の中に何らかの意味、あるいは、メッセージを見出そうとする観客にとっては、意表を突かれる画題だったでしょう。

 観客には一般に、作品化される画題は、作者にとって何らかの価値があるはずだという思い込みがあります。それもまた、認識の盲点を突く要素になっていたと思います。

 タイトルにしても、画題にしても、この作品には認識の盲点を突くようなところがありました。何が描かれているのか、すぐにはわからなかったのもそのせいだという気がします。

 さらに、ワイヤーかご以外に、具体的なモノとして同定できるモチーフはありませんでした。色彩についても形状についても、ワイヤー以外はすべて、曖昧模糊としています。

 画面は淡いベージュとグレーを基調として色構成されていました。そんな中、得体の知れない黒い塊が3か所、上から順に適度な間隔を空けて配置されています。これもまた、何か具体的なものと同定することはできません。

 黒い塊は、乱雑に動き出そうとする不定形のモチーフを抑え込む役割を果たしているように思えます。同様に、下方には茶色の塊が配置されており、はみ出そうとしているモチーフをどうにか抑えているように見えます。つまり、濃い色を使って描かれたこれらの物体は、ワイヤーとは別に、秩序のない画面を引き締めていたといえます。

 容積を超えて、ワイヤーかごに投げ込まれた洗濯物は、元の姿を変え、得体の知れない物体に変化せざるをえないのでしょう。確かに、うず高く積み上がった高みからワイヤーかごを大きくはみ出し、床に達してしまったものがあれば、ワイヤーの隙間からはみ出そうとしているものもありました。

 一方、上方には、緑の濃淡で曲線がいくつか、ランダムに描かれています。衣類の模様にも見えますが、乱雑な中にも、そこから軽やかな動きが生み出されていました。下方には、ドット模様の衣類がワイヤーからはみ出し、襞を作っています。さらに、画面の左には、ワイヤーから大きくはみ出し、うねるような格好で、床に達している大きな衣類が描かれています。

 そのような洗濯物の様相を、作者は「踊っている」と捉えました。洗濯物に人格を与え、「踊る」と形容したところに、作者の若い感性が感じられます。

 誰からも見向きもされないような洗濯物を擬人化して、言葉を与え、価値づけようとしている気がしたのです。

 洗濯物に着目し、それらを放埓な様相で表現し、「踊る」と捉えて作品化した作者の着眼点が面白いと思いました。ありふれた日常のものを作品化しようとする試み、それを、認識の盲点を突くような形で表現し、観客に訴求しょうとする意欲に若さが感じられました。

 この作品と似たような雰囲気を感じたのが、《bathroom 1》です。

●鷲田めるう審査員賞:《bathroom 1》

 鷲田めるう審査員賞に選ばれたのが、石川ひかる氏の《bathroom 1》です。

こちら →
(油彩、木炭、パステル、カンヴァス、130.3×162㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 タイル壁に沿って、バスタブ、シャワーヘッド、排水口、ブラシなどが描かれています。それらを見ると、浴室内が描かれていることは明らかなのですが、全体にぼんやりとしています。すべてがまるで水蒸気の漂う空間に閉じ込められているかのように見えます。

 ほとんどのモチーフはぼんやりと淡いグレーで描かれ、オフホワイトで覆われた画面の中に封じ込められています。それだけに、色彩のあるモチーフはことさらに強く印象づけられますが、その形状や描かれ方が不自然でした。

 たとえば、バスタブと排水栓をつなぐ線が赤で描かれています。あまりにも細くて、うっかりすると、見落としてしまいそうになります。この赤い線の一方の端は、バスタブに張られた湯の中に深く沈み込んでしますが、片方の端は水栓を経由して、バスタブに固定されているのです。それが不自然で、違和感を覚えました。

 さらに、バスタブ内の湯は、群青色と水色とに分けて表現されています。風呂の湯なのに、なぜ二色に分けて描かれているのかわかりませんが、いずれも海水の色で描かれています。しかも、表面には無数のさざ波が立ち、波打っています。当然のことながら、海を連想させられますが、やはり、不自然で、違和感を覚えさせられます。

 描かれているものがどれも不自然で、稚拙に見えます。

 たとえば、タイル壁の目地なのに、線がまっすぐに引かれておらず、間隔も不揃いです。バスタブの形状も水道栓も、シャワーヘッドも何もかも、リアリティに欠け、バランスに欠け、稚拙としかいいようのない描き方なのです。

 ところが、やや引いて見ると、水蒸気の立ち込めた浴室の様相が、見事に描き出されていることに気づきます。

 稚拙に見えていた浴室内の光景ですが、引いて見てみると、逆に、蒸気のこもった浴室のむっとした空気、バスタブから人が出た後の湯の揺らぎといったものが巧みに表現されているように思えてきたのです。

 それにしても奇妙なのは、群青色と水色で描かれたバスタブの湯でした。まるで陸に近い海と遠い海とを描き分けているようにも思えます。群青色パート、水色パートのどちらにも表面に波頭が立ち、うねっているように描かれています。

 浴室という狭い密室空間が描かれているにもかかわらず、ごく自然に、波立つ海を連想させられてしまいました。

 水面が波立っているのは、ひょっとしたら、誰かがバスタブから立ち去った後だからかもしれません。あるいは、強風が海面を撫ぜ、さっと通り過ぎた後だったのかもしれません。

 誰もいない浴室内の光景が描かれているだけなのに、ヒトの気配が感じられ、海が連想されました。リアルとファンタジーが混在した世界に迷い込んだような気分になっていたのです。

 なんとも不思議な作品でした。

 この作品には、観客の気持ちをアクティブにするための仕掛けが潜んでいたように思います。どのように表現すれば、どのような効果が得られるのか、作者は熟慮を重ねて制作したのではないかという気がするのです。

 たとえば、総てのモチーフは、ぼんやりと曖昧に描かれるだけではなく、不自然な形態で捉えられていました。稚拙に見える表現でしたが、逆に、観客の想像力は限りなく刺激されます。

 それは、おそらく、稚拙で、不自然に描かれた作品を見ると、観客は半ば条件反射的に、欠損部分を補おうとし、そのための想像力を働かせるからでしょう。

 こうしてみてくると、観客が、作品とアクティブに関わらざるをえないような仕掛けを、作者は用意していたのではないかと思えてきます。すなわち、稚拙で、不自然にモチーフを表現するという戦略です。

 画面の不完全さが、観客を刺激し、無意識のうちに、作品への関与度を高めていくのではないかという気がします。その結果、画面には描かれていない世界までも頭の中で創り出し、想像の世界を堪能するようになるのではないかと思いました。

 それでは、次に、色彩の美しさが印象に残った作品をご紹介しましょう。

●桝田倫弘審査員賞:《プランツとプラネット》

 桝田倫弘審査員賞に選ばれたのが、檜垣春帆氏の《プランツとプラネット》です。

こちら →
(油彩、ペンキ、アクリル、パステル、木炭、カンヴァス、162×130.3㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 会場でこの作品を見た時、まず、画面の色調が艶やかで、美しいのが印象的でした。とはいえ、これまで取り上げてきた作品と同様、この作品も、何が描かれているのか、すぐにはわかりませんでした。

 画面の7割ほどが、オフホワイトと淡いベージュで構成された巨大な空間で占められています。その淡い枯れ葉色の上に、濃い枯草が散乱し、辺り一帯を覆っています。風が吹いて、枯れ葉や枯草が砕けて飛散していったのでしょう、周辺にはその残骸が散っていました。

 興味深いことに、いくつもの光線が、その巨大な空間の中を、自由自在に弧を描きながら、縦横無尽に駆け巡っています。まるで散乱する枯れ葉を繋ぎ留めようとしているかのように見えます。

 裏側にいくつか光源があるのでしょうか、背後から輝いています。そして、下方の群青色の空間との繋ぎ目辺りに、発光体のようなものがいくつか描かれており、画面全体に華やぎが感じられます。

 画面の3割ほどを占める下方の空間は、まるで夜空のようでした。群青色の空間が広がり、星が点々と煌めいています。

 上方の黄色をベースとした空間と、下方の群青色をベースとした空間は、ほぼ補色関係になっていて、互いの色を際立たせています。これまでご紹介してきた作品とは違って、配色のコントラストが明確で、しかも艶がありました。ワクワクするような色の刺激があります。

 ちなみに、この作品のタイトルは、《プランツとプラネット》です。

 まず、通常は仰ぎ見ている宇宙が、この作品では下方に配置されています。しかも、その形状が、まるで宇宙から見た地球のように、プラネットとして描かれているのです。

 一方、そのプラネットと接するようにして描かれたのが、枯れ葉や枯草が舞い散る空間でした。プランツが浮遊する空間が、まるで無限に広がる宇宙のように表現されているのです。私たちが認識しているプラネット(宇宙)とプランツ(地上に生息)との位置関係が真逆に表現されていたのです。

 それにしても、なんと奇妙な空間なのでしょう。

 通常、「プランツ」と聞いて連想するのは、緑色の葉や草、大地に根を張った木々ですが、ここで描かれているのは枯れ葉や枯草でした。枯れて、大地に戻る寸前の植物が、巨大なエネルギーによって放散され、うねりながら、無限の巨大空間の中で舞い散っている様子が描かれていました。

 プランツといいながら、緑色の葉や草(生)ではなく、枯れ葉や枯草(死)が飛散する様子が描かれていました。そして、プランツとして表現されている空間には、いくつもの光線が弧を描きながら、上下左右を巡っています。

 アースカラーで覆われ、黄昏を感じさせる広大な空間に、光の環や発光体のようなものが随所に描かれていたのです。それは、まるで枯草(死)を蘇らせ、プランツ(生)として、プラネット(地球)に送り返そうとするエネルギーのように見えました。

 まさに、輪廻転生の現象のように思えました。

 枯れ葉や枯草は、巨大な宇宙空間で舞い散って、砕け、やがて、下方のプラネットに落下して新たなプランツとして誕生するというメッセージが込められているように思えたのです。

 最初、この作品を見た時、ワクワクするような高揚感を覚えました。この作品の色調に、静かで落ち着いていながら、華やかな煌めきがあったからです。

 そして、どういうわけか、その煌めきの中に、生と死の繰り返しの円環現象を支える永遠のエネルギーと、そこから放たれる美が感じられたからでした。

 以上、受賞作品の中から印象に残ったものをご紹介してきました。次に、入選作品の中から1点、ご紹介しておきましょう。

 入選作品は46作品でした。

こちら → https://www.idemitsu.com/jp/enjoy/culture_art/art/2022/list.html

 これら入選作品の中から印象に残った作品を1点、ご紹介しておきましょう。

●桝田倫弘審査員の推薦:《集合住宅》

 桝田倫弘審査員に推薦されて、入選したのが、アルト・クサカベ氏の《集合住宅》です。

こちら →
(アクリル、岩絵具、パネル、和紙、130.4×162.1㎝、2022年、図をクリックすると、拡大します)

 この作品を見た瞬間、軽やかで都会的な色遣いに、強く印象づけられました。とくに惹かれたのが、繊細な空の色です。黄色や橙色など暖色系の淡い色に、白やセルリアンブルーを程よく加えた色調に、ほのかな陽光の輝きが感じられました。

 ぎらぎらと照りつけるわけではなく、どんよりと曇っているわけでもなく、心地よい明るさと陰りをもたらしているこの色遣いに、都会的な軽やかさと繊細さが表現されていました。

 その空を背景に、建物の設計図のようなものが、赤や黒、グリーンなどの細い線で描かれています。骨組みを示す線の細さが、空の色の繊細さを巧みに引き出していました。線描きならではの簡潔さが、周囲の色を引き立てる効果を生み出していたのです。

 重量感のあるコンクリートの建物が、輪郭線だけで表現されています。それも、赤、黒、青、緑などのごく細い線で、建物の構造がきわめてシンプルに示されていたのです。無駄なものが削ぎ落されていたせいか、画面からは、洗練された切れ味と都会的なセンスが感じられました。

 透けた建物の背後には林が見え、池が見えます。さらに、得体の知れない三角形、あるいは、長方形の造形物も見えます。このように、自然の中に幾何学的なモチーフをはめ込むことによって、人工的で現代的なテイストが加えられていました。

 手前には、建物を支えるコンクリートの杭が数本、立っています。通常、一直線に並べられるはずですが、ここでは、そうではなく、不揃いで、間隔も不均等です。そこに、堅固さの中に柔軟性があり、粗雑さも感じられます。なんともいえない人間臭さが醸し出されていたのです。

 現代的で都会的でありながら、田園の味わいがあり、人がいないのに、その気配が感じられます。そして、暖色系を交えて描かれた背後の空は、幻想的でありながら、リアリティがありました。

 不思議な空間が創出されていました。

 風も空気も通さないコンクリートの厚い壁を描かず、透明にし、背後の林や池が見えています。都会を象徴する建物の中に田園風景を取り込むことによって、風通しの良さと爽やかさを表現することができていました。

 背後に描かれた空は、朝とも午後とも夕刻ともつかない、暖色と寒色の入り混じった色で描かれていました。想像力をかき立てられる一方、ほどよいリアリティが感じられ、気持ちが和む作品でした。

■リアルとファンタジーの合間に

 展示作品の中から、印象に残った作品を4点、ご紹介してきました。いずれも、リアルとファンタジーの合間に作品世界が表現されていたのが、特徴です。

 その中でも理解しにくかったのが、《せんたくものかごのなかで踊る》と《bathroom 1》でした。どちらも、一見しただけでは、何が描かれているのか、作者が何をいおうとしているのか、皆目、わかりませんでした。

 モチーフの形状が曖昧で、モチーフとモチーフ、モチーフと背景との境界も判然としていません。しかも、画面の大半がオフホワイトに近い、淡いアースカラーで覆われていました。そのせいか、ファンタジックで幻想的な空間が描き出されていました。

 画面の色調はやさしく、モチーフの形態もぼんやりとしており、観客を和やかな気持ちにさせてくれます。その一方で、まるで解釈を拒否するかのような奇妙な空間でもありました。作品世界を解釈するための手がかりが欠けていたのです。

 ただ、《せんたくものかごのなかで踊る》には、タイトルの付け方にヒントがあり、《bathroom 1》には、稚拙で不自然に見える描き方にヒントがありました。安直な解釈を回避し、観客の想像力を駆使させるような仕掛けが込められていたのです。

 一方、《プランツとプラネット》と《集合住宅》には、まず、色彩に惹きつけられました。深い色合いに関心を覚えて画面を見ているうちに、ごく自然に、それぞれの作品世界に到達することができたのです。色彩が手掛かりとなり、モチーフの断片がヒントとなって、画面を解釈し、作品世界を堪能することができました。

 今回、若手の作品を何点か見てきて、改めて、リアルとファンタジーの合間にこそ、表現の真実が潜んでいるのではないかという気がしてきました。(2022/12/27 香取淳子)