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トランプ政権は、米国の健康を取り戻せるか?①

■ケネディを厚生長官に指名

 2025年1月20日、再び、トランプ大統領が誕生しました。アメリカを偉大な国にするための人事が物議をかもしています。昨年11月14日以来、医療、製薬業界から強い反発を受けているのが、ロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官指名でした。 

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(※ https://www.bbc.com/japanese/articles/c1dpknq45xqoより。図をクリックすると、拡大します)

 2024年11月14日、アメリカ大統領に決まったトランプは、さっそく、弁護士のロバート・ケネディ・ジュニアを厚生長官に指名すると発表しました。厚生省は、疾病対策センター(CDC)、食品医薬局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)などを管轄する重要な政府機関です。米国人の健康や食全般を管理する組織の長官として、トランプはケネディを指名したのです。

 発表するやいなや、トランプは、自身のソーシャルメディア「トゥルース・ソーシャル(”Truth Social”)」で、「アメリカ人は長い間、公衆衛生の欺瞞、誤報、偽情報を拡散してきた食品産業複合体と製薬会社に押しつぶされてきた」とぶち上げました。

 そして、ケネディが長官に就任すれば、「厚生省は、アメリカで圧倒的な健康危機の一因となっている有害な化学物質、汚染物質、農薬、医薬品、食品添加物からすべての人々を確実に守る上で、大きな役割を果たすだろう」と述べました。
(※ 前掲。URL)

 いきなり食品業界、製薬業界を攻撃した上で、改善できるのはケネディだとアピールしたのです。いかにもトランプらしい派手なパフォーマンスでした。もちろん、トランプは、ロバート・ケネディ・ジュニアが公衆衛生行政を取り仕切ることによって、「米国は再び健康になる!」と自身のキーフレーズをもじって、アピールすることも忘れません。

 ロバート・ケネディ・ジュニアは、実は、民主党員でした。ところが、大統領選には無所属で立候補し、環境保護や薬物問題への取り組みを訴えてきました。それが高く評価され、それなりに支持を集めていました。

 ところが、大統領選に勝利するには程遠く、8月には選挙戦から撤退することを表明しました。以後、トランプを全面的に支持する側に回ってきました。

 トランプは選挙活動を共にするうち、ロバート・ケネディ・ジュニアの考え方、価値観、世界観などを把握したのでしょう。自分と志を一つにして、アメリカの健康行政を任せられると判断し、当選すると早々に、彼を厚生長官に指名しました。

 もちろん、トランプ大統領から指名されたといっても、上院の承認がなければ、就任することはできません。なんといっても、厚生長官は重要なポストです。政権人事にはそれだけのチェック機能が働くよう制度化されているのです。

 それでは、ロバート・ケネディ・ジュニアがどういう人物なのか、彼の来歴、考え方、世界観などについて簡単に振り返っておきましょう。

■ロバート・ケネディ・ジュニアとは?

 まず、ロバート・ケネディ・ジュニアは、あの有名なケネディ一族のメンバーだということを言っておく必要があるでしょう。彼が9歳の時に、叔父であるジョン・F・ケネディ大統領が、ダラスでパレード中に暗殺されました。1863年のことでした。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 また、彼が14歳だった1968年、父親であるロバート・ケネディ元司法長官が、ロサンゼルスで大統領選のキャンペーン中に暗殺されました。

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(※ Wikipedia。図をクリックすると、拡大します)

 現職の大統領、現職の上院議員官が、公衆の面前で暗殺されたのです。両事件ともとりあえず、犯人は逮捕されましたが、真相はわからないまま、数十年が過ぎました。多感な時期に叔父と父親を銃撃されたロバート・ケネディ・ジュニアは、政治の世界がいかに厳しく、苛酷で、魑魅魍魎なものなのか、よく知っているはずでした。

 多くの人々の面前で暗殺が行われ、いまだに誰もが納得できる事件の解釈ができないでいます。何十年というもの、大勢の人々が調べあげ、推測しようとしても、なかなか真相にはたどり着けませんでした。というのも、長い間、事件の記録が伏せられてきたからでした。

 トランプ大統領は就任してまもない1月23日、ジョン・F・ケネディ元大統領の暗殺事件に関する記録の全面公開を担当部署に命じました。未公開となっている記録を機密解除する大統領令に署名したのです。

 米国立公文書記録管理局によると、元大統領暗殺の記録は約500万ページにも及ぶそうです。2022年12月時点で97%以上が公開されましたが、安全保障上の理由などで未公開のものもあるといいます。

 逮捕後に射殺された犯人リー・ハーベイ・オズワルドの単独犯とアメリカ政府は断定していますが、あまりにも不自然です。当時の映像を照合しても、辻褄が合わないのです。中央情報局(CIA)や旧ソ連、キューバなどの関与しているのではないかという説は今なお消え去っていません。

 また、1968年に暗殺された元大統領の実弟ロバート・ケネディ元司法長官とマーティン・ルーサー・キング牧師の記録も機密解除されました。

 トランプ大統領のおかげで、これら謎の多い暗殺事件についての機密がとりあえず解除されたのです。この時、ホワイトハウスに集まった記者団に向かって、「大きな一歩だ。多くの人が長い間待っていた」とトランプ大統領は語ったといいます。

 トランプ大統領の就任後の一連の行動を見ると、これまでアメリカ社会が抱えてきた闇を一つずつ暴いていこうとしているかのように思えます。

 そして、残念なことに、闇は今なお、アメリカ社会を覆い、混乱させているように見えます。

 今期のトランプ大統領は、アメリカ社会に巣くってきた闇を次々と暴き、透明性のある社会に再構築していこうとしているように思えます。ロバート・ケネディ・ジュニアを厚生長官に指名したのも、おそらく、彼なりの課題解決の一環なのでしょう。

 それでは、ロバート・ケネディ・ジュニアの価値観、世界観はどのようなものなのでしょうか。

■ロバート・ケネディ・ジュニアの問題意識

 民主党員のロバート・ケネディ・ジュニアは、無所属で2024年の大統領選に出馬しました。ワクチンや環境問題など、見るに見かねない政治状況が進行し、悪化していました。アメリカ社会はすでに分断され、解決の方法もないような状態になっていました。

 ケネディは著書を出し、人々に警告を発してきましたが、それには限界があります。影響力も少なく、現状を変えることはできませんでした。そこで、いっそ大統領になって、制度を変えるべきだと考えたのでしょう。

 ところが、こちらはさらに闘う相手が巨大すぎました。当選の見込みがないことが明らかになった8月に、大統領選から撤退し、トランプ氏が大統領の支持に回りました。

 ケネディ氏が関心を抱いていたのは、ワクチン行政や食品行政でした。コロナワクチンについては、「すべてのワクチンは安全ではなく、効果もない」と発言しており、著書では、「ファウチ医療顧問や、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツはパンデミックを利用し、民主主義へのクーデタを起こした」というような主張もしています。

 ロバート・ケネディ・ジュニアがなぜ、大統領選に出馬したのか、その理由を推し量ることのできる著書があります。

 “The Real Anthony Fauci: Bill Gates, Big Pharma, and the Global War on Democracy and Public Health”という本で、2023年2月14日に“Skyhorse”から出版されました。

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(※ Amazon English version。図をクリックすると、拡大します)

■“The Real Anthony Fauci: Bill Gates, Big Pharma, and the Global War on Democracy and Public Health”の概要

 アマゾンのページを見ると、53人からのコメントがつき、4.8の高い評価がついています。まず、ここで紹介されているこの本の概要を見てみることにしましょう。以下の文章はおそらく出版社の担当者が書いたものなのでしょう。

 『The Real Anthony Fauci』では、ファウチが初期のエイズ危機の際、製薬会社と提携してエイズの安全で効果的な特許切れの治療法を妨害し、「アメリカの医師」としてそのキャリアをスタートさせた経歴を明らかにしています。

 また、ファウチは不正な研究を画策し、その後、エイズに効果がないことを知っていたにもかかわらず、米国食品医薬品局(FDA)の規制当局に致命的な化学療法を承認するよう圧力をかけました。

 このようにファウチは、連邦法を繰り返し違反し、製薬会社のパートナーが貧困層の黒人の子供たちを有毒なエイズやがんの化学療法の治験の対象とすることを許可しました。

 さらに2000年初頭、ファウチはシアトルにあるゲイツ氏の邸宅の書斎でビル・ゲイツ氏と握手し、無限の成長可能性のあるワクチン事業を掌握することを目指し、パートナーシップを固めました。

 こうして世界的な資金力と、国家元首や主要メディア、ソーシャルメディア機関との間に培われた関係を通じて、製薬会社、ファウチ、ゲイツの同盟は結成され、世界の保健政策を支配するようになりました。

 つまり、『The Real Anthony Fauci』では、ファウチ、ゲイツ、その関係者たちが、メディア、科学雑誌、主要な政府機関および準政府機関、世界諜報機関や影響力のある科学者や医師に対する支配力を利用して、COVID-19の毒性と病因に関する恐怖のプロパガンダを大衆に流し、議論を封じ込め、反対意見を容赦なく検閲する様子が詳細に解説されているのです。

 そのようなことが可能になったのは、ファウチが、国立アレルギー感染症研究所 (NIAID) の所長として、納税者から提供される年間 61 億ドルの資金を科学研究に配分し、世界中の科学的健康研究の主題、内容、結果を決定できる権限を与えられていたからでした。

 ファウチは、自由に使える莫大な資金力を利用して、病院、大学、ジャーナル、そして何千人もの影響力のある医師や科学者に並外れた影響力を行使することができました。彼らのキャリアや所属機関を台無しにしたり、昇進させたり、報奨を与えたりする力を使ったのです。
(以上、アマゾン英語版より)

 ファウチ(Anthony Stephen Fauci, 1940年12月24日 – )に焦点を当て、アメリカの医学界、政府、メディア、製薬業界などが一体化して、ワクチン行政を進めてきたことを明らかにしています。それでは、この本に対するレビューをいくつかご紹介しましょう。

■レビュー

 「ヨーゼフ・ゲッベルス博士は『一度ついた嘘は嘘のままだが、千回ついた嘘は真実になる』と書いています。人類にとって悲劇的なことに、ファウチ博士とその手下たちから発せられる嘘は数え切れないほどあります。RFKジュニアは何十年にもわたる嘘を暴露しています。」
—Luc Montagnier, Nobel laureate

 「ボビー・ケネディは私が今まで出会った中で最も勇敢で、妥協を許さない誠実な人物の一人です。いつか彼はその功績を認められるでしょう。それまでの間、この本を読んでください。」、「あらゆる嘘にもかかわらず、あるいはその反動として、ボビーは正真正銘の民衆の英雄になりつつあります。私はいつもその言葉を耳にします。」
—Tucker Carlson

 「ロバート・F・ケネディ・ジュニアは、法廷弁護士として、世界有数の大企業を相手に、人々や環境に害を与えた責任を追及してきました。これらの企業は不正行為を否定しましたが、裁判官や陪審員は何度もケネディの立場が正しいと納得しました。ケネディの情報は常に考慮されるべきであり、賛成か反対かにかかわらず、私たちは皆、彼の話を聞くことで学びます。」
—Tony Robbins, New York Times bestselling author

 「ボビー・ケネディと私は、新型コロナウイルスとワクチンをめぐる現在の議論の多くの側面で意見が一致しないことで有名です。ファウチ博士についても意見が一致しません。しかし、ボビーの意見を読んだり聞いたりすると、いつも学ぶことがあります。だから、この本を読んで、その結論に異議を唱えてください。」
—Alan Dershowitz, Felix Frankfurter Professor of Law, Emeritus, at Harvard Law School; author of The Case for Vaccine Mandates

(以上、アマゾン英語版より。投稿者の名前は太字で示しています)

 この本については評価も高く、好意的な意見が多いですが、実際にケネディが厚生長官に指名された時、多くの人々が反対しました。利害関係がある人々は当然、反対表明をし、ケネディ就任に決定権を持つ上院議員に働きかけを行っています。

 上院の承認を得なければ承認されないので、上院議員に対し、関係する各界から次々と、ケネディの就任に対する反対意見や署名、手紙などが送られました。

■反対表明
 
 関係業界からさまざまな反対表明が代表的なものをいくつか、ご紹介しましょう。

●ケネディ就任に警戒する製薬業界
 
 ケネディはかねてから、ワクチンに対して懐疑的な立場をとっていました。一応、「米国民からワクチンを取り上げるつもりはない」と発言していますが、実は、「ワクチンには大きな欠陥がある」とし、「科学的な研究を確実にし、人々が情報を基に選択できるようにする」ことが必要だと述べています(※ Bloomberg, 2024/11/15)。

 さらに、製薬業界の改革を政治目標として掲げており、業界への規制強化や料金制度の見直しを主張していました。

 それだけに、トランプ大統領がケネディを厚生長官に指名したことが発表されると、ワクチンメーカーの株が軒並み下がりました。モデルナは5.6%安、ファイザーは2.6%安、ビオンティックとノババックスは7%安といった具合です。

 一方、メディア側は、「医療や公衆衛生の分野の専門教育を受けたことがなく、環境問題を専門にする弁護士であるケネディは、保健福祉省という巨大官庁のトップとしては異例の人選だ」としています(※ Wired, 2024/12/9)。

 確かに、厚生省の傘下には、食品医薬品局(FDA)、疾病予防管理センター(CDC)、国立衛生研究所(NIH)、メディケア・メディケイド・サービスセンター(CMS)などの大きな組織があります。高度な専門家集団を抱えているのです。

 だからこそ、関連業界でのキャリアのないケネディが、厚生長官を務めるには不適格だというのですが、ケネディは、これまで過剰な加工食品の取り締まりや予防医療の推進など、党派を超えて支持される提言をしてきました。狭い専門知識に毒されていないからこそ、医療行政、食品行政を多面的に捉えることができる利点も見過ごせないでしょう。

 トランプ大統領がケネディのメリットとして捉えた特性を、彼らはデメリットとして制限をかけているのです。

●反対表明するノーベル賞受賞者たち

 興味深いのは、77人のノーベル賞受賞者らが、米上院宛てに12月9日付けの書簡を送りつけたことでした。彼らは、ケネディが厚生長官に就任すれば、アメリカの公衆衛生を危険にさらし、「健康科学における米国の世界的リーダーシップを損なう」ことになると警告し、上院議員らにケネディの指名を拒否するよう求めました。

 この書簡に署名した著名なノーベル賞受賞者の中には、2024年の経済学賞受賞者であるサイモン・ジョンソンとダロン・アセモグル、2024年の医学賞受賞者であるビクター・アンブロスとゲイリー・ラブカン、2023年に新型コロナワクチンの1つを開発した功績で医学賞を受賞した免疫学者のドリュー・ワイスマンらが含まれていました。

 ノーベル賞受賞者という権威をもって脅しをかけているのです。

 トランプの政権移行チームの広報担当者はこれに対し、「米国民は、エリートたちからあれこれ指図されることにうんざりしている。この国の医療システムは壊れている。ケネディは、トランプ大統領のアジェンダを実行し、医療の信頼性を取り戻し、アメリカを再び健康にする」とコメントしています。

 また、元ニューヨーク市長で、公衆衛生プログラムへの大口寄付者であるマイケル・ブルームバーグは、トランプ大統領にケネディの起用を再考するよう呼びかけました。彼は、ワクチンの懐疑論を流布するケネディを任命することが、「大規模な医療過誤」に等しい指摘し、「上院には、ケネディという極めて危険な指名を阻止する義務がある」と述べています。
(※ https://forbesjapan.com/articles/detail/75770)

 こうしてみてくると、反対意見の多くは医療関係者、研究者、科学者などでした。後で述べますが、一般の人々はどちらかといえば、ケネディの指名をいい選択だと答えていたのです。これが何を意味するかを理解するには、先ほどご紹介したロバート・ケネディ・ジュニアの著作を深く読み込む必要があるのでしょう。

 興味深いのは、親族からの強烈な反対表明でした。

●キャロライン・ケネディ

 トランプ大統領から厚生長官に指名されたといっても、ロバート・ケネディ・ジュニアの就任には上院の承認が必要でした。そのための公聴会が、投票に先立ち1月29日に開かれることになっていました。

 その前日の28日、従妹で元駐日大使のキャロライン・ケネディは、ロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官就任に反対を求める書簡を上院議員に送りました。この書簡の中で、彼女は、ロバート・ケネディ・ジュニアが自身の利益のためにワクチンを接種しないよう呼びかけたのだと述べ、彼には厚生省を率いるだけの医療、財務、行政の経験がないと強く訴えました。

 それだけでは物足りなかったのか、キャロラインはXに動画を投稿し、上院議員に宛てた手紙を読み上げながら、ロバートは、「今日に至るまでの人生で偽り、うそをつき、ごまかし続けている」などと批判しました。

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(※ 共同通信、2025年1月29日。図をクリックすると、拡大します)

 このような批判に対し、ロバート・ケネディ・ジュニアは、上院財政委員会の書面証言で、自分は「反ワクチン」でも「反産業」でもなく、「ワクチンは医療で極めて重要な役割を担っている」と確信しているとし、自身の子どもも予防接種を受けていると主張しました。
(※ https://jp.reuters.com/world/us/PLN4MWELNVNZFCHSVRUU4E4ZVQ-2025-01-29/)

■世論調査では高評価

 11月19日から22日にかけて、CBSニュースとYouGovが共同で、米国の成人2232人を対象に調査を実施しました。その結果、米国人の過半数はトランプ次期大統領の政権移行を支持しており、彼が指名した重要ポストの人選についても多くが賛成していることが明らかになりました。

 最も肯定的な評価を受けたのは、ロバート・ケネディ・ジュニアで、回答者の47%が彼の厚生長官への指名を「良い選択」だと回答し、「良くない」と答えたのは34%、「よく知らない」は19%でした。
(※ https://forbesjapan.com/articles/detail/75383)

 もっとも、ロバート・ケネディ・ジュニアがトランプの指名通りに就任できるかどうかは、上院の議決次第です。上院では共和党が53名、民主党が47名ですが、共和党の中で明らかにケネディに反対票を投じると思われる議員が二人いるといわれています。

 共和党の方が議席数が多いとはいえ、議員たちはこれから行われる公聴会でのやり取りを参考に最終決定をします。ですから、ケネディが就任できるのかどうかはまだわからないのです。

 それでは、実際の公聴会はどうだったのでしょうか。

■上院財務委員会での公聴会

 1月29日、ケネディは上院財務委員会に呼ばれて質問を受けました。共和党の上院議員ロン・ジョンソンはケネディに対し、まず、「あなたが民主党を敵に回し、ケネディ家を敵に回して長官職を受けいれてくれたことに感謝したい」と述べました。

 確かに、ロバート・ケネディ・ジュニアはこれまで、民主党に席を置いていました。大統領選には無所属で出馬し、その後、共和党のトランプを支持する側に転向していました。当然のことながら、民主党からはさまざまな嫌がらせやデマを流され続けたことでしょう。

 また、代々、民主党の家系であったケネディ一族からは疎遠にされました。これも当然のことですが、従妹のキャロライン・ケネディからは長官承認に反対してほしいという手紙が上院に提出されました。

 このように、ロバート・ケネディ・ジュニアは、古巣である民主党やケネディ家を敵に回すことになりましたが、それでも、彼はこの困難な仕事を引き受けたのです。

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(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 その辺りの事情がよくわかっているロン・ジョン上院議員は、ケネディがどれほど大きな代償を支払ってこの仕事を引き受けたか、そのことに感謝したいと述べているのです。

 彼がなぜ感謝するかと言えば、アメリカは今大きく分断されてしまっており、国としての体を成さなくなってきているからでした。とくにひどいのは、医療行政、食品行政に対する人々の不満でした。

 結果として政府への不信が募り、さらに分断が進んでいるのが現在の状態なのです。だからこそ、ケネディに厚生長官としてこれらの行政を担当してもらい、アメリカを一つにするため、尽力してもらいたいと述べているのです。

 ケネディはそれに答え、「子どもには民主党も共和党もない。みんな、私たちの子どもです。子どもたちの66%が何らかの病で苦しんでいます」と現状を訴えています。

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(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 素晴らしいシーンでした。現状をこのように認識しているケネディだからこそ、きっと子どもや国民に向き合った医療行政、食品行政を行ってくれるでしょう。厚生長官に就任すれば、目標に向かって果敢に政策を遂行し、アメリカ人の健康を取り戻してくれるだろうという気にさせられます。

 ひょっとしたら、ケネディが厚生長官に就任したら、アメリカだけではなく、アメリカの医薬行政の影響下にある世界の人々の健康をも取り戻せるのではないかという気になってしまいそうでした。

 ロン・ジョンソン議員は席上で、「全米6万3000人の医師たちのケネディ支持を表明した署名入り手紙を受け取った」といい、その手紙をカメラに向けて見せました。

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(※ You tube映像より。図をクリックすると、拡大します)

 現場の医師の多くがケネディの就任を支持しているというのです。このことからは、どれほど多くの医師たちが、現在の医療行政、食品行政に不信感を抱いているかがわかります。

 もちろん、民主党上院議員からの質問も中継されていました。

 こちらは流されている映像をみるかぎり、ケネディに対し、最初から偏見と誤解に基づく質問をしているだけでした。「あなたは、陰謀論者ではないか」とか「医療業界からお金を受け取るか」など、公聴会での質問とは思えないほどレベルの低いものでした。

 この動画が公開されると、たちまち401万回のビューがつき、コメント欄には民主党はひどいといった意見が相次いだようです。確かに動画を見ていると、そういいたくなる理由がわかるような気がします。

 最後に、ロン・ジョンソン議員から、「今のアメリカの保険・医療行政は信頼を失っている。信頼を回復するには透明性が必要だが、あなたは約束できますか?」と問われたケネディは、「約束する」と答えていました。これを見ていたアメリカ人はどう思ったでしょうか。

 念を押すように尋ねるロン・ジョンソンの態度には、これまで政府の医療行政を批判してきたケネディに託すしかないという気持ちが透けて見えます。というのも、腐敗した医療行政を立ち直らせるには、なによりも透明性が不可欠だからです。今期の厚生長官は、まさにケネディのように忖度のない人物でしか、担当できない仕事なのです。

●厚生教育労働年金委員会での公聴会

 指名される前、ケネディは、新型コロナワクチンを、「人類に対する犯罪」と非難していました。ところが、上院厚生教育労働年金委員会では、「私はどちらにも反対ではない。安全に賛成なだけだ」と表明し、「私の子どもたちはみな、ワクチン接種を受けた。ワクチンは医療において極めて重要な役割を果たすと考える」と答えていました。

 また、ケネディは新型コロナの治療として、専門家が否定しているイベルメクチンやヒドロキシクロロキンを推奨していたといいます。さらに、銃乱射事件が増加したのは、プロザックなどの抗うつ薬の使用が原因だとも主張していました。

 だから、医師と医療従事者で構成する医療保護委員会は、ケネディは信用できないとし、同氏の就任に反対する医師の署名を1万5000人分集めたのです。
(※ https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-01-28/SQTDGHT1UM0W00)

 こうしてみてくると、ケネディの言動に危なっかしさが感じられないわけでもありません。ただ、トランプが本気で医療行政、食品行政を大幅に改革したいと考えているなら、ケネディほど適した人物はいないともいえます。

 これまでケネディが取り組んできたことを振り返れば、政府の腐敗、医療業界、製薬業界の堕落に対峙するには恰好の人物です。忖度することなく批判し、攻撃し、しかも対案を提示することができるのですから・・・。

 もっとも、公聴会でのケネディの対応を見ていると、これまでの過激な言動を控えめにしている様子がうかがえます。指名後、何があったのかはわかりませんが、公聴会での応答を見る限り、少なくとも反対勢力から相当な圧力がかけられていたことは間違いないでしょう。

 とにかく、厚生長官として正式に承認されるには、上院本会議での採決が必要です。上院は共和党が53人で、民主党は47人で6議席上回っています。とはいえ、共和党で明らかにケネディに反対する議員がすでに2人いるといわれています。さらに批判的な議員がいるかもしれませんので、厚生長官に就任できるかどうか、まだわかりません。

 それでも、もし、上院委員会でケネディの就任が可決されれば、前代未聞の任命になるでしょう。何年にもわたって健康行政を批判してきた人物が政権内部に入り、管轄する省のトップになるのです。

 改めて、ロバート・ケネディ・ジュニアを指名したトランプ大統領に慧眼に敬服せざるをえません。腐敗しきった行政を立ち直らせるには、能力のある対極にいる人物を長に据えるしか手段はないのです。

 ケネディが厚生長官になれば、政権内部に医療行政や食品行政への反対意見が直接、届きます。そして、そこでのやり取りを公開するのです。そうすれば、「体制の腐敗 vs 透明性」という構図を取ることができ、人々に納得してもらうことができます。

 逆にいえば、ケネディを起用しなければならないほど、アメリカの医療行政、食品行政は腐敗しきっているということにもなります。

 公聴会はまだ残っています。

 果たして、どういう結果になるのか、興味津々です。この人事が世界の健康医療行政に与える影響も計り知れないでしょう。今期のトランプ政権は、閉塞感の漂う世界を大きく変えていくのではないかという気がしてなりません。(2025/1/31 香取淳子)

兵庫県知事選にみる、県民の目覚め(2)

■失職させられた斎藤元彦氏

 風邪をひいて発熱し、寝込んでいる間に、早や年末を迎えてしまいました。人々を熱狂させた知事選後、あっという間の1か月半でした。

 開票日、当選確実の速報が出たときの、斎藤事務所前の様子です。

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(※ Youtube 映像より。図をクリックすると、拡大します)

 押しかけた人々で通りが塞がれてしまっています。誰もがスマホを事務所前に向け、歴史的瞬間を収めようとしています。当選を決めた斎藤知事が出てきて、挨拶するのを待ち構えているのです。

 大勢の県民にとって、今回の選挙は特別の意味がありました。

 自分たちが選んだ知事がいつの間にか、パワハラ疑惑、おねだり疑惑で連日、テレビの餌食になっていたのです。テレビばかりではありません。週刊誌も同様の報道を繰り返し、斎藤知事はまるで稀代の極悪知事のような扱いを受けていました。

 元西播磨県民局長が告発文書をマスコミ等にばら撒いたからでした。

 この文書は誹謗中傷にあたるとし、知事はこの元県民局長を3か月の停職処分にしました。弁護士の意見を聞いたうえでの客観的な措置だったのですが、知事側と元県民局長との間に亀裂が生じ、6月13日、県議会は百条委員会を設置することにしました。
 
 7月19日の百条委員会で申し開きをすることができたのですが、7月8日にこの元県民局長が自ら命を絶ってしまいました。これを受けて、県労組は知事に辞職を要求し、マスコミによる知事バッシングはさらにひどくなっていきました。

 一連の流れを整理すると、以下のようになります。

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(※ 2024年7月19日、日経新聞。図をクリックすると、拡大します)

 その後、9月19日には全会一致で不信任決議が可決されました。86人全員が不信任決議案に賛成し、斎藤知事は「知事失格」を宣告されることになったのです。すると、斎藤知事は、県議会を解散するのではなく、自動的に身分を失う「失職」を選択し、新たに出直し選挙に打って出たのです。

 結果は、投開票日早々に当確がでるほどの勝利でした。

 選挙期間中の熱気を思い返すと、当然の結果なのかもしれません。ただ、終盤になって、各組織が稲村を支持するようメンバーに要請を図り、兵庫県市長会有志の22名が共同で記者会見を開き、反斎藤を表明するほど露骨な動きを見せるようになっていました。

 街頭での人気は高くでも、膨大な組織票に勝利することができるかどうか、危ぶまれていたのです。

■県民 vs 既得権益層

 今回の知事選で大きな役割を果たしたのが、立花孝志氏だったということは前回、ご報告しました。

 「なぜ、元西播磨県民局長は百条委員会に出席する前に命を絶ったのか」、「なぜ百条委員会は結論を出す前に全会一致で知事不信任案を可決してしまったのか」、「なぜ、自民党、立憲民主党、その他大勢の議員が知事失脚に加担したのか」。

 思い返せば、不思議なことは多々ありました。ところが、誰もそれを口に出せなかったのです。それほどテレビや週刊誌、新聞等から反斎藤の報道が垂れ流されていたのです。立花氏はそれを「テレビは洗脳の道具」だと言い放ち、公開討論の場で、集まった人々に向かって、テレビに騙されるな、事実を見ていこうと訴えました。

 それがユーチューバーたちのカメラで捉えられ、拡散されていきました。

 立花氏にはNHK党所属の国会議員から情報が入ってきますし、兵庫県議会、あるいは、関係者からさまざまな情報がもたらされていました。それを集まった群集の前で、披露するのです。その場で質問があれば、応え、誰もが、兵庫県政について考え、意見表明できる場に変換されていきました。

 今回、立花氏は当選することを目標にせず、立候補していたので、そのようなことが可能になったのです。これが、県民の目を開かせるきっかけとなったように思えます。日を次いで、討論会への参加者が増えていきました。

 まさに政治の原点のようなやり取りが各所で展開されていきました。その光景をユーチューバーたちが撮影し、放送しますから、否が応でも県民の目に留まります。テレビや新聞ではない情報源からの情報を得て、県民は考えるようになります。

 果たして、何が正しいのか?

 結局、総合的に判断し、合理的ではないことには裏があると判断せざるをえなくなったのでしょう。

 立花孝志氏もまた、公開討論の場でさまざまな事実を明らかにしていきました。結局、斎藤元彦氏は、県民のために政策を刷新し、さまざまな改革をしようとしていたのではなかったかということに気づくようになったのです。

 もちろん、それまで目にしていた情報とは違っているので、県民としては、そのための検証もしていかなければなりません。SNSから情報を得、それまで得ていた情報と照合し、最終的に整合性があるかないかで判断するようになっていったのではないかと思います。

 さまざまな情報を前にして混乱する県民に対し、立花孝志氏は、絶妙な対立軸を設定し、提示しました。

 すなわち、「県民 vs 既得権益層」という対立軸です。

■誰が県民のための政治をしてくれるのか

 今回の選挙は、税金を納めている「県民」と、その税金を何らかの形で給付してもらっている「既得権益層」との間の戦いだという枠組みをわかりやすく提示したのです。

 斎藤元彦氏を知事の座から失脚させようとしたのは、天下りを禁じられた高齢幹部たち、あるいは、その予備軍であり、県庁建て替えで莫大な資金を手にすることになる事業者、あるいはその関係者であり・・・、といった具合に、それまでの兵庫県政がいかに無駄なところに税金を投入していたかが次々に明らかにされていきました。

 県民全体が潤うように税金が使われているわけではなく、特定の層に利益が落ちるような政策を続けることによって、兵庫県の財政がきわめて悪化していたことも明らかになりました。

 選挙の前に知るべき候補者に関する情報が、今回の選挙では、SNSを経由して、県民に届くようになっていったのです。

 読売新聞社が11月17日に行った出口調査によると、前知事の斎藤元彦氏の県政を評価する人が7割を超え、そのうちの6割強が斎藤氏に投票しました。投票の際に最も参考にした情報として、「SNSや動画投稿サイト」をあげた人の9割弱が斎藤氏を支持したことがわかりました。

こちら →
(※ 読売新聞 2024年11月17日。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、71%の投票者が斎藤氏の県政を支持していることがわかります。一方、県政を評価しない投票者のうち大半が稲村氏に投票しています。稲村氏は終盤になって労組や各組織が支持を表明し、最後は市長会の22名から支持を取り付けていた候補者です。自民党、立憲民主党、その他さまざまな党派、いわば既得権益層が支持していた候補者です。

 興味深いことに、支持政党別に投票先を見ると、斎藤氏は各政党支持者から満遍なく投票されていることがわかります。

 この図からは、今回の選挙は、「個人vs 組織」、「県民 vs 既得権益層」という対立軸の下、県民が動いていたことがわかります。

■斎藤元彦氏の政策

 斎藤氏は11月17日に投開票する兵庫知事選で、斎藤元彦前知事は10月23日、選挙戦に向けて政策を発表しました。政策全体については、「これまで進めてきた改革、兵庫の躍動を止めないというのが大きなテーマ」と説明し、「未来を担う若者が輝く兵庫」「誰もが活躍できる兵庫」「安全安心に暮らせる兵庫」「県政改革等が進む兵庫」の4つの柱を建てています。(※ https://news.kobekeizai.jp/blog-entry-17979.html)

 当選後、改めて、これらの政策について説明がされました。まず、第1番目の取り組みとしては、若者に向けた政策です。

こちら →
(※ https://www.youtube.com/watch?v=h6RMR6EtLBQ&t=28sより。図をクリックすると、拡大します)

 県立大学の授業料等の無償化、県立高校の環境整備、毎年100人の高校生チャレンジ留学、不妊治療支援特化条例の制定、等々の政策を行うとしています。これらはほんの一例ですが、まずは少子化対策としても、子どもたちの未来に向けた取り組みとしても画期的なものだといわざるをません。

 県立大学の授業料等が無料になれば、優秀な学生が県内に残り、県のために働いてくれる可能性も期待できます。また、家庭に頼っていては、日本の子どもたちが海外に留学する機会も持てない可能性がありますが、高校生の段階で世界向けたチャレンジ留学を支援するということも日本の未来と考え合わせた政策といえます。

 そのための財源を確保する手段として、斎藤氏は次のような方針を明らかにしています。

こちら →
(※ https://www.youtube.com/watch?v=h6RMR6EtLBQ&t=28sより。図をクリックすると、拡大します)

 1000億円かかるとされていた県庁舎の建て替えをコンパクトなものにする、効果の検証されない海外事務所の閉鎖、約1500億円の隠れ借金への対処、等々の行財政改革を通して財源をできるだけ増やし、それを必要なところに振り分けていくとしています。
 
■なぜ、このような政策を掲げる斎藤氏が失脚させられたのか?

 まず、1000億円もかかるとされた県庁舎の建て替えです。ここには多くの事業者、県庁の職員、政治家等が関係していました。

 実は、この県庁舎の建て替えは、前政権の井戸知事の時代に計画されていたものでした。

こちら → https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/news/091801298/

 1000億円もかかる県庁舎は、公共建築物で最近、トラブル続きの隈研吾氏の設計によるものでした。実際、隈研吾氏のコンセプトイメージに合わせ、建物内外を緑化する方針だったようです。

こちら →
(※ 前掲。URL。図をクリックすると、拡大します)

 全国でいま、隈研吾氏のデザインで建築された多数の県庁舎、市庁舎、美術館、博物館等で次々とトラブルが発覚しています。数年で木材が腐食し、見た目が悪いばかりか、安全面でも危惧されているというものです。

 木材のために定期的に修理のために数億円かかり、地方自治体などの財政を圧迫しているのが実情でした。それを兵庫県も踏襲していたのです。

 隈研吾氏の建築物は自治体や地方の事業者にとって継続的な収益が期待できる仕様だったからにほかなりません。兵庫県も他の自治体と同様、県議会、県庁内、政界財界にこの利権に群がろうとする勢力がはびこっていたのでしょう。

 実際、斎藤氏が下野していた期間、副知事の服部洋平氏が知事職務代理者に就任していました。その間に、この県庁舎案は元に戻されていたのです。斎藤氏が選挙で勝利しなければ、兵庫県民は巨額の建築費に悩み、定期的に負担せざるをえない巨額の修理費に悩ませられ続けていたことでしょう。

 斎藤氏は知事に選ばれると早々に、県庁舎案の白紙撤回を明言しています。
(※ https://www.youtube.com/watch?v=FEAuVS0ca8g)

 斎藤氏が知事になる以前の兵庫県の財政状況はひどいものでした。

こちら →
(※ http://daishi100.cocolog-nifty.com/blog/2024/10/post-c3c51d.html。図をクリックすると、拡大します)

 一連の事象からは、斎藤元彦氏は、前政権の腐敗ぶりにメスを入れようとしたので、失脚させられたことは明らかです。

■兵庫県庁舎建設スケジュール

 なぜ、百条委員会が調査が終わるのを待つ前に全会一致で斎藤知事の不信任案を決議してしまったのか、合理的な説明もないまま、失職させてしまったことの理由もわかります。

 県庁舎のスケジュールを見ると、今年中に斎藤知事をやめさせなければ、隈研吾案の建築が不可能になってしまうからでした。

 隈研吾事務所が提示したスケジュールがあります。

こちら →
(※ https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/news/091801298/。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、2021年から2025年度中に、「本体・整備の完了」そして、「解体」にまでこぎつけなければならないことになっていたのです。

 そのために、選挙では既得権益層が斎藤氏をさまざまに妨害し、当選した後も。妨害を続けています。それほど既得権益層にとって、県庁舎の建設はおいしい事業だったのでしょう。繰り返し、斎藤氏を誹謗中傷し、当選してからも、執拗に妨害工作を行っています。

 それだけ兵庫県の政財界が腐食していることの証ともいえるでしょう。

 立花孝志氏のような破壊力のある政治家が登場しなければ、これほどの闇が暴かれることはなかったでしょうし、県民が政治を身近なものとして真剣に考えることもなかったでしょう。

 前回もいいましたが、今回の選挙で多くの県民が、「立花さんありがとう!」といい、「斎藤さんごめんなさい!」と訴えていました。

 テレビや新聞、政財界の人々の言うことだけを聞いていれば、県民にとっての政治ではなく、一部の利権者にとってな政治しか行われないのは必至でした。

 まだまだ目が離せません。既得権益層が、斎藤氏の失脚を願って、さまざまな仕掛けを用意しているに違いありませんから・・・。いずれにしても、今回の兵庫県知事選挙は、興味深く、身近に感じられるものでした。

 なにより兵庫県民の政治に対する意識が高くなっているのではないかという気がします。
(2024/12/31 香取淳子)

兵庫県知事選にみる、市民の目覚め(1)

■前代未聞の選挙結果

 斎藤元彦前知事(47)の失職に伴う兵庫県知事選が11月17日投開票され、無所属で出馬した斎藤氏が、元尼崎市長の稲村和美氏(52)や前参院議員の清水貴之氏(50)らを破り再選を決めました。

 斎藤氏が111万3911票、稲村氏が97万6637票、清水氏が25万8388票という結果でした。失職したのが9月30日、その直後、たった一人でJR須磨駅の前で辻立ちをし、住民に折り目正しくお辞儀をしている斎藤氏を捉えた写真が、印象に残っています。文字通り、孤立無援の出発でした。

 それからわずか47日、再び、知事に選ばれたのです。前代未聞の出来事でした。

 優勢だといわれていたのが、稲村氏でした。無所蔵とはいいながら、自民党、立憲民主党、国民民主党など政党からの支持がありましたし、兵庫県職員労働組合、連合兵庫など、大きな組織もまた、稲村氏の支持に回っていました。

 さらに、終盤になると、22名の市長が稲村氏の支持を訴えました。記者会見の席上でテーブルを叩いて、斎藤氏を否定した市長もいました。29の市長のうち、ほとんどが稲村氏支持を強く表明していたのです。

 稲村氏に対する組織的な支援は盤石でした。尼崎市長であった実績が評価され、兵庫県知事として最適任だと喧伝されていたのです。
 
 もちろん、マスメディアは斎藤氏を否定する側でした。それまでの斎藤バッシングの報道をみれば、当然の流れでした。

■兵庫県知事選挙に至る経緯

 3月12日に当時西播磨県民局長だった男性が、報道機関等に告発文書を送付しました。それを発端に、連日、斎藤氏の「パワハラ」、「おねだり」が報道されるようになりました。

 この告発文書について、斎藤氏は「嘘八百」だとし、県民局長を、停職3か月の懲戒処分にしました。今となれば、当然の措置でしたが、県議会はこの件を問題視し、百条委員会を設置しました。

 ところが、証人喚問の直前に、この県民局長は自ら命を絶ちました。弁明の場を与えられたというのに、それをせず、命を絶ったため、斎藤氏への攻撃は一層激しくなりました。

 マスコミはそれまでの「パワハラ」「おねだり」に、「人殺し」まで加え、一方的に、斎藤氏を誹謗中傷し続けました。斎藤氏の説明を聞くこともなく、罵詈雑言を浴びせ続けた結果、県議会は、百条委員会が終了していないにもかかわらず、全員一致で知事への不信任決議を可決してしまいました。

 斎藤氏に与えられた選択肢は、県議会の解散か失職でした。不当な攻撃を受けていたにもかかわらず、斎藤氏は県議会議会の解散を要求せず、自ら失職する道を選びました。

 選挙戦に至る経緯をまとめると、次のようになります。

こちら →
(※ 日経新聞 2024年11月18日、図をクリックすると、拡大します)

 上の表をみればわかるように、斎藤氏は、約半年間にわたって、マスメディアからバッシングされ続けていました。おそらく、誰もが県議会が可決した不信任決議を信じ、斎藤氏がそのまま職を退くだろうと思っていたでしょう。

 ところが、斎藤氏は、出直し選挙に挑みました。おそらく、勝算もないまま、理念に基づいて行動したのでしょう。

 知事選には過去最多の7人が立候補しました。結果は先ほどお知らせしたとおりですが、投票率は55.65%で、2021年の前回(41.1%)を大幅に上回っていました。浮動票が大きく動いたのです。

■斎藤氏はなぜ、再び、知事に返り咲くことができたのか

 斎藤氏は、なぜ再選されたかを問われ、組織や政党の支援がないなか、SNSが一番大事なツールだった」と述べています(※ 2024年11月18日付、毎日新聞)。

 孤立無援でスタートした彼は、SNSでの発信と、県民に直接語りかける街頭活動が、普段、選挙に行かない人々を動かし、大きな得票に結び付いたと認識していました。

 もちろん、他の候補者たちも同様の戦術を展開していました。現代の選挙戦でSNSは欠くことのできない戦術の一つになっています。どの候補者もSNSを駆使した選挙活動を展開するのは当然でした。

 ところが、斎藤氏がもっとも大量に得票し、組織票をバックに優勢といわれた稲村氏を抜いて勝利しました。なぜ半年間もマスコミから非難され続けた斎藤氏が、これほど多くの票を獲得できたのでしょうか?

 私がもっとも興味を抱いたのが、この点でした。

 当時、マスコミも世論もともに、斎藤氏は辞職すべきだという論調でした。

■斎藤氏は本当に「パワハラ」「おねだり」をしていたのか?

 兵庫県議会が全会一致で不信任議決を可決した段階で、「おかしい」と思った人物がいました。NHK党の参議院議員、浜田聡氏です。まだ誰もが斎藤氏が悪い、知事を辞職すべきだと思っていた時期に、彼はYouTubeで、「兵庫県知事は悪なのかっ!?」というタイトルの情報を発信していました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=7qes_4kQDvw
(CMは適宜、カットして視聴してください)

 当時、私は浜田議員のYouTubeを見て、それまで感じていた違和感が整理され、言語化されたような気がしたことを思い出します。そもそも議員が86人もいる県議会が、全会一致で不信任案を可決したということ自体が不自然でした。

 何かが隠されていると考えるのが合理的なのかもしれません。

 コメント欄にも、同様の見解が多数寄せられていました。コメントを一つ、ご紹介しておきましょう。

 「マスコミ総がかりでの針小棒大な知事攻撃に、兵庫県議会で反対する方がただの1人もいなかったとは恐ろしいです。自殺された理由も良く分かっていないのに、知事が原因であると決めつけつるし上げる恐ろしいマスコミにあえて異論を唱える浜田先生、義を見てせざるは勇無きなりとは正にこのことです。応援しております」

 浜田氏のYouTubeにはこのような見解がつづられていたのです。おそらく、この動画を見て、一部の県民が、目を覚まし始めたのでしょう。これはほんの一例ですが、連日のマスコミ報道に晒されながらも、違和感を覚え、疑念をもつ県民が少なからずいたのです。

 県民の一部は、「何か変なことが起こっている」と思い始めていました。とはいえ、それが何なのか、よくわかりません。県政に関する情報がないのです。実際は何があったのか、本当のことを知りたいという欲求が次第に、県民の間で広がっていきました。

 県政を伝えるマスコミも、県議会もあまりにも表層的な情報を繰り返し、斎藤氏をバッシングすることに終始していました。真実を知りたいという県民の思いに応える機能はありませんでした。

 そんな折、彗星のように登場してきたのが、NHK党の党首立花孝志氏でした。立花孝志は政治家であり、ユーチューバーでもあります。

■立花孝志氏、真実解明のために立候補

 立花孝志氏は、一通りの候補が出揃ってから、知事選候補者として正式に名乗りを上げました。候補者になれば、発言の機会を与えられますから、知りえた真相を話すことができます。関係者からも情報を得ることができるでしょうから、より精緻な背景分析をすることができます。

 立候補しましたが、立花氏自らが当選することを目的としていませんでした。兵庫県政に絡む闇を暴き、真実を明らかにするには、知事選に立候補するのが最適の方法でした。

 候補者になれば、政見放送に出ることができますし、県民に向けて演説することもできます。合法的に意見陳述する場を持てるのです。

 それまでマスコミ報道や県議会の報告しか目にしたことのない県民に、さまざまな事実を伝え、総合的に真実を判断してもらえる機会を提供することができるのです。県政を理解し、その実情を知った上で、候補者の政策を聞き、投票するというのが、民主主義国家の国民に与えられた権利です。

 マスコミによって覆い隠され、偏向された情報ではなく、さまざまな情報を知った上で、政治家を選ぶというのは当然の権利であり、そうすることによって、よりよい政治家を選出することができます。まずは、兵庫県政についての真実を伝えたいというのが、立花氏の立候補の理由でした。

 斎藤氏が嵌められているとわかっていたからにほかなりません。

 立花氏は、国政調査権を行使できるNHK党の国会議員の浜田氏や斎藤氏から、斎藤氏が失職せざるをえなくなった状況を把握していました。おそらく県民が知りえない情報を把握していたのでしょう。当然のことながら、兵庫県政の闇、マスコミの闇に気づいていました。

 どうすれば、この事実を県民に知らせることができるか、立花氏なりに戦略を練っていたのでしょう。兵庫県の政界、行政、経済界、マスコミが癒着し、長年の間、覆い隠してきた闇を暴くのは並大抵のことではできません。

 並大抵の政治家ができるものではありません。既得権益層と闘うには、押しつぶされるのは覚悟の上、場合によっては襲撃され、危害を加えられるかもしれないのです。闇の勢力と闘うには、知力、気力、腕力、胆力のある政治家しか対峙できません。

 立花氏は適任でした。次々と奇策を思いついては実行し、その都度、現在進行形の状態で県民に状況説明を行いました。

 立候補以来、日々、頻繁にYouTubeに動画をアップしました。その都度、県民の意識は変化していたでしょうが、それでも、マスコミ報道によって植え付けられた斎藤氏に対する固定観念を覆すのは容易なことではありませんでした。

■ポスターに見る立花孝志の見解

 10月末から11月10日まで、私は神戸に滞在していました。ちょうど兵庫県知事選挙期間中だったので、現地で掲示板を見ました。 そこには候補者のポスターが5枚貼られていました。No.3に斎藤氏、No.6が立花孝志氏のポスターです。

こちら →
(※ 11月6日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 立花氏のポスターは少し変わっていました。通常の候補者のポスターとは大幅に異なっており、文字主体で構成されていました。一応、写真も掲載されていますが、とても小さく、候補者をアピールするといえるものではありません。部分はほとんどないといっていいのです。それでは、立花氏のポスターの部分を拡大してみることにしましょう。

こちら →
(※ 前掲。一部、図をクリックすると、拡大します)

 最も目立っているのは、「前明石市長のパワーハラスメントを忘れるな」というスローガンです。その後に13行の小さな文字の文章が続き、「本当に前知事は悪人だったのでしょうか?」という一文で終わります。

 右下の角に、立花氏の顔写真が掲載されていますが、申し訳程度の大きさです。このポスターが自分をアピールするためのポスターではないのは明らかでした。

 さて、「前明石市長のパワーハラスメントを忘れるな」というスローガンは秀逸でした。

 パワハラで失職した前明石市長が、選挙で再選された事例を引き合いに、斎藤氏を再び返り咲かせ、県政を任せようというメッセージでした。誰もが知っている前明石市長のエピソードを踏まえたところに、立花氏のセンスが感じられます。

 その下に小さな文字で書かれた文章では、内部告発制度が元県民局長によって悪用され、捏造情報が外部に向けて発信された結果、斎藤氏がバッシングされ続け、挙句の果ては失職することになったことが綴られています。

 実は、立花氏自身、20年間働いたNHKの不正経理を内部告発した経験がありました。それだけに、内部告発制度が悪用されてはならないと主張しているのです。そして、県民に向けては、テレビ情報に惑わされず、ネットやその他の媒体で情報を検証し、何が本当なのか、自分で調べてください、と呼び掛けています。

 ポスターの最後には、「前知事は本当に悪い人なのか?」と記され、詳しいことは立花孝志のYouTubeを見てください、とし、QRコードが添えられています。このポスターは、候補者立花氏から県民に向けた大きな問いかけでした。

 選挙の際には様々な情報をうのみにせず、クリティカルに判断し、自身で考え、結論を出すようにいっているのです。立花氏は、選挙を本来の姿に戻そうとしているように思えます。

 立花氏のやり方はやや荒っぽいやり方ですが、そうでもしなければ、「第4の権力」といわれたマスコミがミスリードし、社会を歪めてしまいかねない深刻な状況に今、なっているのです。

■「斎藤さん、ごめんなさい」、「立花さん、ありがとう」コール

 多くの県民は立花氏のこの呼びかけに応えました。テレビや新聞を見るだけではなく、YouTubeやXなども見るようになりました。さまざまな情報を収集して照合し、何が正しいのか正しくないのか、自分なりに判断するようになった結果、斎藤氏の街頭演説に出かけるようになりました。

 街頭演説で斎藤氏の政策を具体的に知ると、家に帰ってさらに調べ、知識が深まってくるにつけ、県の財政がいかに逼迫した状態なのか、県立高校の設備がいかに劣悪なのか、県庁舎の建て替えが無駄に高額なのか、というようなことがわかってきたのです。

 県議会が全員一致で不信任を突きつけた斎藤氏こそ、実は、兵庫県が失ってはならない人物なのではないかと気づき始めたのです。思い返すのは、連日テレビ報道された斎藤バッシングです。県民の間から、誰が言うともなく、「斎藤さん、ごめんなさい」という声が立ち上がるようになってきました。

 その声はやがて大きくなり、「立花さん、ありがとう」コールを伴って、さらに大きなうねりとなっていきました。

■「いじわるに負けるな」、「正義は勝つ」、子どもたちのコール

 11月9日夕方、尼崎中央商店街で斎藤氏が練り歩きをしたときの様子をビデオでご覧いただきましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=0GNGP7Twtwk

 ひしめき合うように人々が押し寄せています。「がんばれ!」という声が飛び、女性の声で、「兵庫県の宝!」という声も響き渡ります。やがて、手拍子とともに、「さいとう、頑張れ!」の声が次第に大きくなっていきます。

 老若男女を問わず、県民がこの商店街に集い、斎藤氏を応援している様子がカメラに捉えられているのです。

こんなシーンもありました。

こちら →
(※ YouTube映像より、図をクリックすると、拡大します)

 斎藤氏の練り歩きの途中、反斎藤のグループがやじったり、貶したりした時、思いもよらず、子どもが声をあげ、「いじわるに負けるな!」といったのです。すると、子どもたちが続いて何人も、「いじわるに負けるな!」と大声をだし、アンチを規制しました。

 反斎藤グループがやじると、お母さんたちが、「兵庫県の宝!」と声をはりあげ、アンチの声を打ち消していきます。

 アンチも執念深く、ヤジを飛ばし続けます。斎藤氏がかすんでしまうほどの勢いでヤジが飛ぶと、子どもたちがまた、「正義が勝つぞ!」と声を張りあげます。それに合わせて、お母さんたちが、「さいとうさんは、兵庫県の宝!」と叫びます。

こちら →
(※ YouTube映像より、図をクリックすると、拡大します)

 高齢者に執拗に絡むアンチもいました。どうなることかとハラハラしてみていました。高齢者は気丈に対応し、周囲もその様子を見守りながら、練り歩きを続けていたので安心しました。まさに老若男女が身体を張って、斎藤氏を応援していたのです。

 中盤以降、斎藤氏が出かける先々で、このような現象が起きるようになりました。加古川では、こんなに人がいたのかと驚かれるほど、大勢の人が押しかけていました。姫路、三宮、神戸なども同様です。将棋倒しが心配されるほどのフィーバーぶりでした。
 
 各地の熱狂的な様子をYouTubeで見ていた私は、斎藤氏が圧勝するのではないかと思っていました。それほど県民の熱量が尋常ではありませんでした。

 ところが、投票日直前まで、稲村氏優位と報道されていました。

 県民の自由意志による投票とは違って、稲村氏には、兵庫県の政財界、マスコミ、自治労等大手の組合などの組織票がついていたからでした。しかも、兵庫県内29市のうち22市長が直前に会見を開き、稲村氏を支援すると表明したのです。

 彼らはなぜ、それほどまでに斎藤氏を知事の座に就かせたくなかったのでしょうか。これについては次回、取り上げていきたいと思います。
(2024/11/30 香取淳子)

彼岸花を堪能する。

■秋の入間川の川べり

 秋になると、毎年、入間川の川べりに彼岸花が咲きます。今年は暑かったので、少し遅れましたが、それでも9月25日には、真っ赤な花弁が川べりを華やかに染め上げ始めました。

こちら →
(9月25日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 緑一面の川べりを、彼岸花が赤い色を添え始めました。まだ蕾のものもあれば、すでに花弁を開いているものもあって、初々しさが感じられます。

 それが、9月26日になると、場所によっては、いっせいに花を咲かせているところがありました。太い桜の幹の下、華やかさが際立っています。

こちら →
(9月26日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 9月29日になると、遊歩道から川べりまでのスロープを赤い花、白い花が覆うようになりました。

こちら →
(9月29日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 赤い花に交じって、白い花が負けじとばかりに、大きな花弁を開いています。白い彼岸花はあまり見かけたことがありません。彼岸花は赤い花だと思っていただけに、圧倒的に多い赤い花の中で、繊細な花弁をそよがせている白い花が、なんとも健気に見えます。

 スロープの下を流れる入間川では、魚釣りをしている人がいます。

 ゆっくりと流れる入間川の川べりを、人と彼岸花が思い思いの時を過ごしているのを見て、思わず頬がゆるみました。このようにして、人と自然が長い間、生を共にしてきたのだという思いが込み上げてきたのです。

 10月2日には、遊歩道の傍らでも赤い花に交じって白い花が咲き誇っていました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 ここでも圧倒的に多いのは赤い花です。それだけに、白の花弁の清らかさが際立って見えます。柔らかな陽射しを浴びて、どの花もきらきらと輝いています。

 遊歩道に上がってみると、両側が彼岸花で覆われていました。まさに花道です。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 桜の木の太い幹と枝が遊歩道を囲み、その下に咲く彼岸花の赤と白を引き立てています。自然が創り出した一服の絵を堪能しているような気分になります。

 ふと思い立って、そのまま、巾着田に行ってみることにしました。ここから車で15分ぐらいのところに、彼岸花で有名な巾着田があります。埼玉県日高市にある「巾着田曼殊沙華公園」はいまや観光地化しています。最寄り駅は西武線高麗駅で、そこから徒歩15分のところにあります。

■巾着田

 「巾着田曼殊沙華公園」に着いてみると、すでに大勢の人々が訪れており、なかなか前に進めません。外国人の姿も多々、見られました。アジア人はもちろん、欧米系の外国人もグループで来ており、あちこちで写真を撮っていました。

 巾着田というのは、高麗川が蛇行して創り出した景勝地で、巾着の形をしていることから名づけられました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 案内板をみると、確かに、巾着の形をしていることがよくわかります。昭和40年代後半に、当時の日高町がこの用地を取得し、藪や竹林に覆われた土地を整地したところ、9月になると一斉に彼岸花が咲くようになったそうです。

 高麗川の増水等によって流れてきた漂流物の中に、彼岸花の球根がまじっており、それが根付いたのではないかと考えられています。この「巾着田曼殊沙華公園」では、秋の彼岸になると、500万本の花が咲き、滅多に見ることのできない景勝地になっています。

 人々の間をかいくぐって撮影してみました。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 見渡す限り、真っ赤な彼岸花が咲き乱れています。思わず異世界に入り込んだような気になってしまったのも無理はありません。観光客が大勢いるのですが、それ以上に多い彼岸花に圧倒されてしまうのです。つかの間、この世ではない世界に入り込んでしまったような気分になります。

 実は、管理事務所のある辺りはまだ彼岸花はなく、清流の流れる元光景が見れらます。

こちら →
(10月2日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 彼岸花で覆いつくされる以前は、おそらく、このような光景が広がっていたのでしょう。それが、増水によって流れ着いた彼岸花の球根が根付き、現在のような圧倒的な景観を生み出したのです。自然の妙を感じざるをえません。

 ふと、彼岸花はどこからやってきたのか気になってきました。帰宅して、調べてみると、どうやら中国が原産地のようです。さらに、調べてみると、彼岸花にまつわる伝説があることがわかりました。

■中国の伝説

 ネットで、彼岸花にまつわる次のような伝説を見つけました。ご紹介しましょう出典は、「彼岸花:传说来自地狱的花,它的背后有一段不为人知的浪漫故事」(※ https://baijiahao.baidu.com/s?id=1688559112388711229&wfr=spider&for=pc)です。

 赤い彼岸花は曼殊沙華とも呼ばれ、とてもロマンチックな伝説があります。伝説によると、昔、二人の妖精がこの花を守る約束をし、一人は曼殊、もう一人は沙華という名前で、それぞれが彼岸花の葉と花を守っていました。長年にわたり、彼らはお互いに強く惹かれあってきましたが、彼岸花には、花は咲いても葉が見られない、葉は見られるのに花が咲かないという特性があります。

 やがて二人は神の意志に反して密かに会うようになり、恋に落ちました。その年、彼岸花は燃えるような赤い花を咲かせました。その花は緑の葉に映えてとても魅力的で、この光景を見た誰もが彼岸花の美しさにため息をつくほどでした。

 ところが、二人の関係が神々にバレてしまい、二人は地獄に落とされ、一生会えないようにさせられてしまいました。地獄に落とされた二人は、三途の川の向こう側に咲く彼岸花を見るたびに、前世の記憶を思い出しました。お互いに対する恋心は時間が経っても消えず、むしろ情熱は高まり、ますますお互いを恋しく思うようになりました。

 ある時、仏僧が向こう側を通りかかり、二人が恋に落ちた物語を知りました。そこで、仏僧は可哀そうに思い、彼岸花を天国に連れて行こうとしました。ところが、仏僧が三途の川を通りかかったとき、水で仏僧の衣服が濡れてしまい、着物の中に入れていた彼岸花も濡れてしまいました。

 濡れて曼荼羅となった白い花は天に運ばれ、天国の花となり、赤い彼岸花は地獄に落ちてしまいました。それ以来、赤と白の彼岸花の一方は地獄に、もう一方は天国に咲くようになりました。

 これが中国の伝説の概略です。

■中国の伝説を解読する
 
 この中国の伝説には、仏典由来と植物学由来の要素が含まれていて、とても興味深く思いました。

●花と葉の分離

 たとえば、この伝説では、「彼岸花」、すなわち、「曼殊沙華」の花の部分を守る妖精が「曼殊」、葉の部分を守る妖精が「沙華」とされています。本来、一つのものが、二つに分かれてキャラクター設定されているところに、植物としての「彼岸花」の特性の一つが示されています。

 つまり、彼岸花には、花と葉が別々の時期に咲くという特性があります。9月末から10月にかけて咲くのが花で、この時期に葉はありません。先ほど見たように、花が咲いている時は、葉はなく、すっくと立った茎の上に大きな花弁が開いています。

こちら →
(9月26日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 葉がないのが奇妙に思えます。花が枯れた後は茎だけになり、やがて葉が育ってきて、翌年4月までは葉だけになります。花と葉が同時に開くことはないのです。

 『花壇地錦抄』にも、「曼殊沙華、花色朱のごとく、花の時分葉はなし、この花何なるゆえにや、世俗うるさき名をつけて、花壇などには大方植えず」(伊藤伊兵衛著、1695年)と書かれているように、古来、彼岸花が花は、葉とは時期を異にして咲くことが知られていました。

 ちなみに葉は次のような形状をしています。

こちら →
(※ https://biome.co.jp/biome_blog_087/、図をクリックすると、拡大します)

 葉はニラに似た形です。華麗な花の姿からは想像もできない、雑草のような形状です。やはり、彼岸花は葉がなく、まっすぐ伸びた茎の上で花開いているのがふさわしいと思えてきます。

 『花壇地錦抄』でも、「花壇などには植えず」と書かれているように、彼岸花はたいてい、田の畔や、川辺に咲きます。

 日本列島で繁殖している彼岸花は、染色体が基本数の3倍ある三倍体で、種子で子孫を残せないといわれています。その代り、土の中で球根を盛んに分球して繁殖してきており、遺伝的には統一遺伝子を持っています。同じ地域の個体が、開花期や花の大きさ、色、茎丈がほぼ同じように揃っているのは、同一遺伝子だからです(※ Wikipedia)。

●梵語由来の「曼殊沙華」

 彼岸花には多くの別名がありますが、もっとも多く使われているのは、「曼殊沙華」です。これは梵語由来の語で、天の花を意味し、見る者の悪業を払うとされています。

 中国の伝説では、この「曼殊沙華」を二つに分け、主人公二人の名前にしていました。「曼殊」と「沙華」です。この二人が恋に落ち、素晴らしい花を咲かせるのですが、これが神様に知られ、罰を受けることになります。二人は地獄に落とされ、二度と会えないようにされてしまうのです。

 本来、会えるはずのない「花」と「葉」が、出会って恋に落ち、花を咲かせるという神の摂理、自然の摂理に反する行為を行ってしまったからでした。

●輪廻転生

 地獄に落ちた二人は、三途の川の対岸で真っ赤な花を咲かせる彼岸花を見るたび、前世を思い出し、恋しい気持ちを募らせます。ここに輪廻転生の概念が組み込まれています。

 俗に、人は亡くなると、三途の川をわたって、あの世に行くといわれますが、三途の川は、此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にある川なのです。

 仏教では、輪廻転生は、悟りを開けずに六道の中で過ごすことを意味します。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界のことで、生前の行為の善悪によって死後に行き先が決まります。

 二人は、前世で恋に落ち、一緒になったことを咎められて、神様から地獄に落とされたのにもかかわらず、三途の川の対岸に咲く彼岸花を眺め、幸せの絶頂だった頃を起こしていたのです。

●天国の花

 ある時、通りかかった仏僧がこの物語を聞いて可哀そうに思い、彼岸花を天国に連れて行こうとしました。

 ところが、三途の川を渡ろうとした時、仏僧の衣服が水に濡れてしまいました。その時、抱え持っていた彼岸花の一部もまた水に濡れてしまいました。

 水に濡れなかった赤い花は、そのまま地獄に落とされ、水に濡れて白くなった花は天に運ばれ、曼荼羅となって天国の花になりました…、というのが、中国の伝説でした。

 興味深いのは、赤い彼岸花が三途の川の水に濡れて白くなり、曼荼羅となって、天国の花となったというくだりです。なぜ、そのような展開になったのでしょうか。

 彼岸花はそもそも天国の花でした。曼殊沙華や曼陀羅華について、次のような説明があります。

 『法華経』の巻第一序品に、釈尊が多くの菩薩のために大乗の経を説かれた時、天は、「蔓陀羅華・摩訶曼陀羅華・蔓殊沙華・摩訶蔓殊沙華」の四華を雨(ふ)らせて供養した、とされています。
(※ https://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000rnh.html)

 曼殊沙華も曼陀羅華も、お釈迦様が供養のために天国から降らせた花であり、天界の花だったのです。赤いのが曼殊沙華、白いのが曼陀羅華という違いです。

 それでは、なぜ、水に濡れて白くなった彼岸花は、曼荼羅となって天国に行くことができたのでしょうか。

 伝説の最後のところで出てきた展開が気になって調べてみました。

●毒性のある花

 なぜ、水に濡れた彼岸花が曼荼羅になって、天国の花になったのでしょうか。調べてみると、それは、彼岸花の毒性と関連していました。

 実は、彼岸花にはアルカロイド系のかなり強い毒性があります。ところが、この毒は水に晒すことによって容易に除去することができるといわれています。毒を除去した後の球根からは極めて良質の澱粉がとれるので、飢饉の際の救荒作物いわれています。

 そのような植物学的特性を踏まえ、中国の伝説では、水に濡れて毒性が除去された彼岸花が、天国の花になったという展開にされたのでしょう。つまり、彼岸花には毒性がありますが、繁殖力が旺盛で、しかも、球根からは良質の澱粉をとることができます。水に晒し、毒性さえ除去すれば、安全に利用することができるということが、最後に示されていたのです。

 彼岸花は身近なところに咲く花です。毒性のあることを知らなければ、人々が生命の危険にさらされないとも限りません。中国では、必要な生活情報を物語化してわかりやすくし、人々に伝える工夫をしていたのです。

 「曼殊」と「沙華」のロマンティックな関係もごく短い期間の出来事でしかなかったように、彼岸花が鮮やかな赤の花弁を誇示していたのもせいぜい二週間ぐらいでした。

■盛りを過ぎた彼岸花

 10月10日になると、彼岸花は枯れ、花弁の形状を残したまま、まぶしいほど鮮やかな赤は失せ、薄茶色に変色していました。

こちら →
(10月10日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 10月12日になると、それまではまっすぐに立って、大きな花弁を支えていたはずの茎が、倒れそうになっていました。茎が急速に老いさらばえたように、色も変色していました。

こちら →
(10月12日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 黄緑色だった茎が薄茶色になり、明らかに生命力が希薄になっているように見えます。

 見渡すと、いつの間にか、彼岸花は跡形もなく、秋の気配が辺り一面に広がっていました。

こちら →
(10月12日撮影、図をクリックすると、拡大します)

 入間川の遊歩道から華やかさがすっかり消えていました。桜木は葉を落とし、紅葉した葉が遊歩道に落ちています。どうやら、次の季節の準備にはいったようです。

 思えば、9月末から10月初旬ぐらいまで、彼岸花は鮮やかな姿を川辺で見せてくれていました。日々、変化する彼岸花の美しさを堪能させてもらいましたが、10月半ばになると、まるで力尽きたように花は消え、茎さえもしおれて、そそくさと店じまいをしてしまいました。

 川べりの木々は、葉を落とし始め、晩秋から冬へと向かっています。人間以外はほぼみな、自然の摂理に従って、生きているように思えます。(2024/10/29 香取淳子)

幕末・明治期の万博 ⑦:ナポレオン三世の第2回ロンドン万博への対抗意識

■パリ万博のイベント効果

 前回、ヴィクトリア女王をエスコートするナポレオン三世を描いた絵をご紹介しました。嬉しそうな表情を浮かべ、万博会場を案内する姿がなんとも印象的でした。女王夫妻が来訪してくれたおかげで、開催目的の一つが達成できたのです。ラフなスケッチでしたが、画家は、ナポレオン三世の心情を、みごとに捉えていたのです。

 1855年のパリ万博は、ナポレオン三世が強く望んで開催されました。革命を経て皇帝の座に就いた彼はなによりも、樹立した第二帝政を特にイギリスから承認してもらいたがっていました。イギリスの承認を得れば、他の諸外国も追随し、国際的な承認が得られるという思惑があったからでした。

 ヴィクトリア女王夫妻は1855年8月20日、パリの万博会場を訪れて、展示品はもちろん、趣向を凝らした展示会場も見てくれました。ナポレオン三世にとっては十分、万博の開催目的は達成されました。女王が来訪してくれただけで、万博の開催は大成功だったのです。

 パリ市民たちも熱烈に女王夫妻を歓迎しました。その熱気が、歓迎する側だけではなく、される側にも伝わり、増幅されました。一種のイベント効果によって、祝祭空間が生み出されました。

 会場への途上、女王夫妻には、大改造したパリの街を見てもらうことができました。街路や街並みを通して、フランスの政治、経済、文化がいかに優れているか、近代的かを強くアピールすることができたのです。

 もちろん、パリ万博には海外からも多数、来訪しました。34ヶ国が参加し、会期中に516万2000人が来場しました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。彼らもまた、展示会場だけではなく、パリの街並みや街路を見て、感嘆しました。まだ建築途中のところも多々、あったとはいえ、大改造したパリの街並みの訴求効果は抜群でした。

 万博には、国際イベントとしての効果があっただけではありませんでした。ナポレオン三世は、国際展示場としての機能に着目しました。なんと、万博を機にフランスワインを売り出そうと考えたのです。

■製品の格付けとブランド化

 フランスのボルドー地方のワインは、すでにイギリスに輸出されていました。ボルドーからはパリよりもイギリスの方が近いからでした。そこにナポレオン三世は目を付けたのです。

 万博に出品する農産部門の中心産品として、ナポレオンはこのボルドーワインを選び、ボルドー市に格付けすることを命じました。そこで、ボルドー市は商工会議所に依頼し、仲買人組合がワインの格付けを行いました。

 その結果、メドック地方のシャトー(製造所)から、61の赤ワインが1級から5級までの5段階で評価され、格付けされました。第1級に選ばれたのは、メドック地区の「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、「シャトー・マルゴー」、「シャトー・ラトゥール」、グラーブ地区の「シャトー・オー・ブリオン」でした。

 これらは、今日でも有名な4つのシャトーです。そして、1855年のパリ万博のために設定された格付けが今でも、購入の際の目安として通用しているのです。

 現在は、「1855年メドック格付け」と呼ばれています。ピラミッド型の等級構造になっており、上質なワインの序列をわかりやすくするために、設定されました。

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(* https://rys-cafe.bar/column/wine-no-yomimono/knowledge/wine-rating/ 図をクリックすると拡大します)

 上図で示されているように、メドック格付けの場合、1級から5級の評価になっており、頂点の1級は61シャトーのうちの5シャトーを指します。

 それまでは、もっぱら産地とその周辺で消費されるだけでした。ところが、このように格付けをし、安心して良質の産品を買えるようにすることによって、販路が広がりました。鉄道網が整備され、税制が緩和されることによって、やがてフランス全土、さらには全世界へと輸出されるようになりました。

 フランスのワインが世界のブランドとして地位を築いたのは、19世紀半ば以降のことでしたが、それにはナポレオン三世が、1855年パリ万博の際、ワインの格付けを行ったことがおおいに寄与しています。時間が経つとともに、ボルドーワインはブランド化し、輸出品として幅広く海外で消費されるようになりました。

 この一件を見ても、ナポレオン三世が企業家としても優れた資質を持っていたことがわかります。1855年パリ万博を開催することによって、そのイベント効果を活用したのです。一気に産業化を進めることができ、経済力、国力、文化力を高め、イギリスとの格差を縮めることができたました。

 パリ万博の効果は抜群でした。その余韻に浸る間もなく、イギリスが再び、万博を開催しました。

■1862年ロンドン万博

 第2回ロンドン万博が、1862年5月1日から11月15日まで、ロンドンのサウスケンジントンで開催されました。第1回を上回るものにしようという主催者の意気込み通り、会期は前回より一か月も長い171日間でした。入場者数も17万2000人多く、621万1000人に及びました。

 サウスケンジントン会場の絵があります。ご紹介しましょう。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1862_international_exhibition_01.jpg 図をクリックすると拡大します)

 展示会場の面積は23エーカーで、1851年の19エーカーよりもはるかに広いものでした。開催期間は長く、入場者数も多かったのですが、第1回に比べ、強烈な印象を残すことはなかったようです。

 万博の象徴にもなっていたヴィクトリア女王の夫のアルバート公が、1861年に死去したことも影響したのでしょうか、第1回ほどのインパクトを人々に与えることはできませんでした。

 社会状況も影響していたかもしれません。当時、欧米もまた戦乱に明け暮れていました。

 1850年代にイギリスは占領地インドの反乱、クリミア戦争を経験し、アメリカではこの時期、南北戦争が勃発していました。そして、フランスもまたイギリスとともにクリミア戦争(1853‐56年)、アロー戦争(1860年)を戦い、1866年にメキシコに出兵するといったような戦乱に明け暮れていた時代でした。

 そんな最中に企画、開催されたのが1862年のロンドン万博ですから、武器が展示され、銃器が金メダルを獲ったのも当然のことでした。1862年ロンドン万博は、軍需産業のアピールの場としても強く印象づけられる万博でした。

 たとえば、1862年ロンドン万博で金メダルを受賞したのが、ホイットワース(Whitworth)社の銃でした。スケッチ画をご紹介しましょう。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/796r.html 図をクリックすると拡大します)

 ホイットワース社のライフル銃は、南北戦争(1861-65)で南軍に採用されていました。第2回ロンドン万博が開催された頃は、ちょうど南北戦争の真っただ中で、実戦で使われていた武器が出品されていたのです。ここでは近代的な武器が出揃っており、銃の歴史が大きく変化していることが確認できました。

 あらためて、戦時こそ、先端技術の開発が進むのだということを認識させられました。先端技術を発明して殺傷能力の高い武器を開発し、安価に生産できるようにすれば、戦闘に勝利しやすくなるからです。

 先進諸国は、国を挙げて、産業化を推進し、市場を求めて覇権を争っていました。その推進力になるのは最先端技術でした。

■最先端技術

 覇権争いに呼応して、先進国ではさまざまな技術が発明され、製品が開発されていました。第2回ロンドン万博では、そのような社会情勢を反映するかのように、最先端の技術製品が展示されていました。

 来場者にとっては、多様な技術や知識を摂取することができる場になっていました。万博会場が、最先端技術や知識の発信源となっており、開発意欲を刺激する場にもなっていたのです。

 たとえば、ベッセマー(H. Bessemer)の製鋼法やバベジ(C. Babbage)の計算機などが注目されます。

 ベッセマー(H. Bessemer)は1856年に、イギリスで新しい製鋼法を発明しました。これは溶けた銑鉄に空気を吹き込むだけで鋼になるという仕組みの製法です。これによって、鋼を大量生産できるようになり、安価に鋼鉄製品を供給できるようになりました。

 会場ではベッセマーの転炉が展示されていました。鋼鉄製品の製造に不可欠の技術であり、装置でした。各国の来場者たちの関心を集めたことでしょう。

 また、バベジ(C. Babbage)が開発した計算機も展示されていました。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AnalyticalMachine_Babbage_London.jpg 図をクリックすると拡大します)

 まだ多くの人々の関心を集めていなかったかもしれませんが、すでに計算機が造られていたことに驚きました。この時期、先進国では機械化、自動化の動きが活発になっていたことがわかります。

 鋼鉄の製法や計算機など、最先端技術の発明以外にも、ロンドン万博には産業化の更なる発展に寄与できるような製品が多々、出品されていました。機械工学的な製品は、当時の先進国が求めるものでもあったのでしょう。大勢の人々が訪れて刺激され、最新の技術や知識を摂取して帰っていきました。

■日本人一行の来訪

 世界の科学技術の中心ともいうべき第2回ロンドン万博に、日本人一行が訪れていました。鎖国していた日本から、武士の一群が見学に来ていたのです。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_ambassadors_in_London.jpg 図をクリックすると拡大します)

 これは、イラストレイテド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News )の5月24日付記事に描かれていた図です。丁髷姿の武士たちが、羽織袴を着て、刀を差し、会場を見学する様子が描かれています。

 一行は、幕府から派遣された使節団でした。竹内下野守保徳を正使とする総勢38人の使節団が訪れていたのです。彼らは、1858年に幕府が欧州5か国と締結した修好通商条約で交わされた新潟や兵庫の開港および江戸と大坂の開市を延期する交渉と、ロシアとの樺太国境を画定する交渉のためにヨーロッパに派遣されていました。

 使節団は1862年4月20日にロンドンに到着し、5月1日に第2回ロンドン万博の開幕式に出席していました。

 使節団の主要メンバー4人の写真が残されています。

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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bunkyu_Japanese_Embassy_to_Europe_Matsudaira_Takenouchi_Kyogoku_Shibata_1862.png図をクリックすると拡大します )

 左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。

一行はフランスを経てイギリスに入り、ロンドンに到着した翌5月1日にロンドン万博が開幕しました。竹内、松平、京極らは開会式に招かれています(* 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、新潮社、1989年、p.71.)。

派遣使節一行の旅程を組み、通訳としてかかわっていたうちの一人が、駐日大使のオールコックでした。だから、第2回ロンドン万博の開幕に合わせてロンドンに到着することができたのでしょう。

■アームストロング砲

使節団は滞在中に何度も会場を訪れ、熱心に展示品を見学しました。とくに機械類に興味を示していたといいます。幕藩体制に揺らぎが見え、列強からの侵略に備えようとしていたのでしょうか、使節団一行はもっぱら武器に興味を示していたのです。

会場には、1855年に発明されたアームストロング砲も展示されていました。スケッチ画をご紹介しましょう。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/798r.html 図をクリックすると拡大します )

 このアームストロング砲は1855年に開発され、あらゆる半径、枠に対応できたといいます。使節団の興味関心を強くかき立てました。中には、製作過程のメモを取っていた者もいたといいます。利用価値が高いと考えたのでしょう。

 幕末の日本に大きな衝撃を与えたのが、このアームストロング砲でした。実際、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)の際に使われており、薩摩藩に衝撃を与えました。

 薩摩藩はその後、アームストロング砲のマニュアルを入手し、1864年に解説書を出版しています。さらに、薩摩藩や佐賀藩は、グラバー商会経由で、さまざまな重量のアームストロング砲を輸入し、研究を重ねました。

 その結果、佐賀藩はアームストロング砲の複製に成功しています。戊辰戦争では佐賀藩が製造した国産アームストロング砲が使われており、会津戦争では、新政府軍の主力兵器として活用されました(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/)。

 佐賀城には、当時のアームストロング砲が復元されて、展示されています。

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(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/ 図をクリックすると拡大します)

 佐賀藩は、イギリスから輸入したアームストロング砲を分解して研究し、やがて自前で製造できるようにしていったのです。優れた西洋の技術を吸収するには、まず製品を輸入し、その構造を把握してから、模造品を造り、その後、さまざまに改良を加えて国産にしていくという方法でした。

 これはほんの一例ですが、当時の日本人はこのようにして見よう見まねで西洋技術を獲得していったことがわかります。

 さて、この第2回ロンドン万博には、日本の工芸品が展示されていました。

■オールコックが出品した日本の工芸品

 正式に参加していたわけでもなかった日本の工芸品がなぜ、ロンドン万博の会場に展示されていたのでしょうか。

 実は、初代駐日イギリス公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809- 1897)が、日本で収集したコレクションを出品していたのです。漆器や刀剣といった工芸品だけでなく、蓑笠や提灯、草履などの日用品も展示されていました。いずれも、ヨーロッパの人々には物珍しく、絶賛されました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1862-1.html)。

 使節団の一員であった福沢諭吉は、「博覧会は世界各国の物産を一堂に集めたもので、出品された品目は金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶・浮きドックの模型、美術工芸品、鉄砲など百種類を超えた」と記し、会場の一角には「駐日公使オールコックや横浜の居留民が本国政府の要請に応じて適当に選んで送った、日本の展示品も見られた」と報告しています。

 さらに、使節団に同行した医師の高島祐啓は、『欧西紀行』の中で、日本から出品されたものはがらくたが多く、「見るに耐えなかったのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、木履、草履などの類まで並べてあったこと」だと記しています(* 前掲、p.78.)。

 会場で展示されていたのは、どうやら日本人の目から見れば「がらくた」にしか見えないものだったようです。当時の日本人なら、恥ずかしいと思ってしまうような日用品が展示されていましたが、いずれも、イギリス人オールコックが興味を持って日本で収集したコレクションでした。

 オールコックと同様、会場を訪れたヨーロッパ人にも、物珍しく珍重すべきものと思えたのでしょう、日本の工芸品や日用品は、彼らの注目を集めました。オールコックが出品した日本の工芸品は予想を超えて、ヨーロッパの人々の日本に対する関心を高めました。

 アヘン戦争の影響で、ヨーロッパでは人々の関心が、極東アジアに向けられていた時期だったからかもしれません。

■異文化産品の展示

 1862年ロンドン万博では、1855年の第1回パリ万博をヒントに、彫刻や絵画といった美術品が数多く展示されていました。その一方で、植民地からの産品も多数、展示されており、多様性のアピールの場にもなっていました。

 いち早く産業革命を遂げたイギリスが、海外に市場を求めて交易を活性化させており、それを反映するかのように、海外の植民地から、さまざまな産品が出品されていたのです。

 産業化時代、帝国主義時代の動向を如実に反映していたのが第2回ロンドン万博の特徴ともいえました。

 第1回ロンドン万博の水晶宮が与えたような衝撃はありませんでしたが、出品物の多様性からいえば、2回目のロンドン万博はまさに万国博覧会の名にふさわしい内容でした。依然として産業品の展示会としての要素が強いものではありましたが、その中に芸術品や異文化の物品も扱われていたのです。

 ナポレオン三世が再び、第2回パリ万博を開催することを決意したのも不思議はありませんでした。

 1862年ロンドン万博では、芸術品や異文化の工芸品などが一般の入場者の関心を集めましたが、初めて本格的な美術品の展示を行ったのは、1855年パリ万博でした。

 実は、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、絵画を展示したのも、海外の植民地からの文物を大規模に展示したのも、パリ万博が最初でした。ロンドン万博との差別化を図るためにフランスが打ち出した新機軸だったのです。

 そのアイデアが、2回目のロンドン万博に取り込まれて、多数の入場者の関心を集めました。それを知ったナポレオン三世が、イギリスにお株を奪われたような気持ちになっていたかもしれません。

 しかも、日本の使節団一行が、ロンドン万博を見学していました。1862年5月24日の新聞記事で報じられましたから、当然、ナポレオン三世の耳にも入っていたでしょう。このことが、イギリスへの対抗意識を刺激した可能性があります。

■フランスの諸事情

 フランスのリュイ外相は、使節団一行と貿易規制問題について話し合っています。ところが、なんの成果も得られないまま、使節団はロンドンに向かったという経緯がありました(*中山裕史、『幕末維新期のフランス外交』、日本経済評論社、2021年、pp.69-73)。

 フランスにとって懸案の生糸貿易について解決できなかったのです。ナポレオン三世はそのことも懸念していたのではないかと思います。

 絹織物産業はフランスにとって重要な産業でしたが、1860年代に蚕が微粒子病に感染し、大きな打撃を受けていました。ヨーロッパは同様の被害を受けていたので、極東の蚕をいくつか試したみたところ、日本の蚕がもっとも品質が高いということになり、フランスは日本から蚕の輸入するようになりました。その結果、国内使用の蚕が不足するようになり、幕府が輸入規制をしていたのです(* 前掲)。

 1862年に4月にフランスの外相が使節団と話し合ったのはおそらく、その件でしょう。フランスにとって、絹織物産業は外貨を稼げる主要産業でした。それだけに、ナポレオン三世は、日本とは何としても友好関係を築き、スムーズに貿易を進めたいと考えていたにちがいありません。

 ナポレオン三世には、1855年パリ万博にヴィクトリア女王夫妻を招待し、第二帝政を承認してもらっただけではなく、フランスの国際地位を高め、産品のブランド価値を高めることができたという経験がありました。

 このようなフランスの事情を勘案し、ナポレオン三世が、再び、パリ万博を開催して、日本からの蚕輸入をスムーズに進めたいと考えた可能性はあります。旺盛な実業家精神を持ち合わせた彼なら考えそうなことでした。

 1863年6月、ナポレオン三世は万博開催の勅命を発し、第2回万博開催を決定しました。第2回ロンドン版万博からわずか1年後のことでした。

 当時、フランスは対外的にいくつもの火種を抱え、メキシコ派兵でも失敗していました。それにもかかわらず、ナポレオン三世が早々に第2回パリ万博の開催を決意したのは、万博開催こそが、政治的にも経済的にも有益なものだと認識していたからでした。

 興味深いことに、ナポレオン三世は、日本都の蚕や生糸の輸入をイギリスには極秘で行っていました(* 高杜一榮、『蚕の旅』、文芸春秋社、2013年、pp.226-227)。イギリスに対する対抗意識からでしょうか。それとも、日本の良質な蚕や生糸を占有するためだったのでしょうか。
(2024/9/30 香取淳子)

幕末・明治期の万博⑥:ナポレオン三世にとってのパリ大改造と1855年パリ万博

■パリ大改造を託したオスマン

 1850年当時、人口100万人を超える都市はヨーロッパではロンドンとパリしかありませんでした。ロンドンほどではありませんでしたが、大都会パリにも仕事を求めて外部から多くの人々が流入してきており、さまざまな問題が発生するようになっていました。

 前々回に、ご紹介した経済学者のシュヴァリエは、19世紀前半のパリの人口増の特徴として、働き盛りの男性が多いこと、季節労働者が多いこと等をあげています。とくにパリの中心部では人口密度が高く、衛生面、交通面、安全面で問題が多く発生しており、都市改造が焦眉の課題になっていました(* 松井道昭、『フランス第二帝政下のパリ都市改造』、日本経済新聞社、1997年、pp.75-81.)。

 ナポレオン3世は、このようなパリの過密状態を改善するため、街路幅を広げ、広場を整備する一方、新鮮な空気の補給源として公園の整備にも取り組みました。その計画は、ブローニュの森を左肺、ヴァンセンスの森を右肺とみなす人体モデルを念頭に構想したものだったといいます(* https://imp.or.jp/wp-content/uploads/2021/10/special-1.pdf)。

 ナポレオンは大統領就任すると早々に、当時のセーヌ県知事ベルジュ(Jean. Jacques Berger 1790-1859, 知事任期:1848-1853)に、パリ改造に取り組むよう指示しました。ところが、財政健全主義者であったベルジュは市議会と組み、事業実施を遅らせようと画策しました。そこで、第二帝政成立後の1853年6月に、ナポレオンはベルジュを解任し、ジロンド県知事であったオスマン(Georges-Eugène Haussmann、1809 – 1891)を新たなセーヌ県知事に任命したのです。

 ナポレオンが、オスマンに近隣自治体の併合令を引き渡した時の様子を描いた絵があります。アドルフ・イヴォン(Frédéric Adolphe Yvon, 1817 – 1893)が描いた作品です。

こちら →
(* https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Adolphe-Yvon/ 図をクリックすると、拡大します)

 併合令の引き渡しは1859年6月に行われました。書き付けを手にしたナポレオンがにこやかに足を踏み出し、オスマンもまた前のめりになってナポレオンに向き合っている様子が描かれています。ナポレオンがオスマンの力量と手腕を高く評価し、満足している様子が画面からうかがえます。

 セーヌ県知事への任命からすでに6年を経ており、パリ改造はオスマンの手で着々と進行していました。

 そもそも1853年6月29日に行われた知事叙任式に出席した時からすでに、ナポレオンはオスマンに期待を寄せていました。会議室に入るとナポレオンは、真っ先にオスマンの前に歩み寄り、現状況下でもっとも重要な地位にオスマンを就かせることができたのは喜ばしいと言ったそうです(* 前掲、p.96.)。

 実際、オスマンは胆力、根気、才気があり、統率力もありました。パリ大改造を託すにはまたとない人物だったのです。

■パリ大改造のために

 ナポレオンは、式典後の昼食会では、オスマンをウジョニー皇后の脇に座らせ、重用している姿勢を見せつけました。さらに、昼食後は、執務室にオスマンを招き、パリ改造に関する計画を打ち明けています。

 一方、オスマンは回想録の中で、当時の様子を次のように記しています。

 「皇帝は急いで私にパリの地図を見せた。それには工事優先度に応じて、皇帝自らが認めた青・赤・黄・緑の線が引かれていた。それは、皇帝が実行を提案するところの各種の新しい道路を示していた」(* 前掲。p.96-97.)。

 ナポレオンはすでにパリ改造計画を組み立てていたのです。時間をかけ、何度もシミュレーションをし、徹底的に練り上げていました。これまでの為政者の誰も手がつけられなかった大胆な改造プランでした。

 このパリ大改造を安心して任せられる人物は限られていました。

 皇帝の座に就くと、ナポレオンは早々に、ジロンド県知事であったオスマンを新たにセーヌ県知事に任命し、この壮大なプランを委託したのです。オスマンなら実行できるだろうと白羽の矢を立てていたのでしょう。当時、ナポレオンは45歳、オスマンは44歳でした。

 以後、オスマンはナポレオンに逐一、相談しながら、計画を実行に移していきました。事業の進捗とともに、二人の信頼関係は確かなものになっていきました。パリを根本的に作り変えるには強固な絆が必要でした。

 ナポレオンの計画案を踏まえて、オスマンが作成したパリ改造図があります。ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 上図の黒線は新しい道路、方眼の部分は新開発市区、緑の部分は大規模な郊外の公園(左手がブローニュの森、右手がヴァンセンヌの森)といった具合です。

■改造のポイントは何か

 パリ大改造のポイントは、①街路事業、②公園事業、③上下水道事業、④都市美観、等々でした。

 街路事業については、①古い街路を拡幅し、直線化を図る、②幹線道路は複線化し、交通の円滑化を図る、③重要な拠点は斜交路で接合する、等々の原則を掲げて、整理しました。

 たとえば、現在、観光スポットとして有名なパリ凱旋門の界隈は、次のように生まれ変わりました。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paris_Arc_de_Triomphe_3b40740.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 凱旋門を中心に大きな道路が放射状に延び、見事な都市景観を作り出しているのがわかります。既存の区画や建物をほぼすべて破壊し、新しく区画整理するという方針の下、得られた見事な景観です。

 機能と美観を追求した結果、このような見事な景観がもたらされたといえますが、これはほんの一例です。

 オスマンは、市民の利便性を図るために、「ショートカット」といった観点からも道路事業を進めました。主要地点をダイレクトに結ぶ道路を新たに設置し、利便性を高める工夫をしたのです。

 たとえば、ルーブル美術館からオペラ座に行くには,大通りを通らなければなりませんでしたが、ショートカット道路のおかげで,直接行くことができるようになりました。

こちら →
(* https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/civil-worldheritage/seineriverbank 図をクリックすると、拡大します)

 上図で赤い矢印で示された、黄色の丸印二つでつながれた道路です。ナポレオン通りと書かれています。現在の地図で照合してみると、次のようになります。

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(* google map 図をクリックすると、拡大します )

 当時はナポレオン通りと命名されていたのが、いまはオペラ通りになっています。このショートカット道路が、オペラや美術を鑑賞するのにどれほど役立ってきたことでしょう。道路事業の整備がパリの価値を高め、市民に芸術鑑賞の機会を提供してきたことがわかります。

 ナポレオンとオスマンが進めたパリ大改造が、現在にまで生きる大事業であったことがわかります。大改造計画が徹底的に実施されたからこそ、パリはその後、長く、芸術の都といわれるようになったのです。

 このように街路を拡幅し、整備することによって、交通渋滞を解消しただけではなく、居住民には日照や通風を確保することができました。さらに、反政府組織の潜伏や暴動の阻止にも効果があり、有事の際には、軍隊の円滑な移動も可能になりました。

 街路事業に併せ、オスマンは公園事業にも取り組みました。先ほどの改造図の緑の部分はまさに、パリに新鮮な空気を送り込む機能を果たすことになりました。パリ全体を人体に見立てれば、ブローニュの森は左の肺、ヴァンセンスの森は右の肺という位置づけだったのです。

 オスマンは公園事業を担当する土木技師として、アドルフ・アルファン(Jean-Charles Adolphe Alphand, 1817‐1891)を公園局長に抜擢しました。

 そもそもナポレオンは衛生上の観点から、パリを近代的で風通しがよく、住みやすい首都にしたいと考えていました。

 その意向に沿って、アルファンは、パリの両側に二つの巨大な森林公園を配置し、内部に3つの都市公園、そして、シャンゼリゼをはじめとする24の広場を設計しました。すべてのパリ市民が、徒歩 30 分で緑地に行けるように、公園や広場が整備され、5万本にもおよぶ木が植えられました。
(* https://www.leparisien.fr/politique/adolphe-alphand-le-grand-jardinier-d-haussmann-qui-mit-la-campagne-a-paris-26-05-2019-8079936.php

 上下水道事業については、土木技師ウジェーヌ・ベルグラン(Eugène Bergrin)が抜擢され、水不足への対応から、新たな水源用の導水路が敷設されました。また、衛生上の観点から、飲用と非飲用とに分けて供給されるようになり、巨大な地下溝が整備され、汚水処理が整備されました。

 もちろん、街の景観についても工夫されました。オスマンは美観を維持するためのルールを設ける一方、新ルーブル宮、新オペラ座、市庁舎、鉄道駅など、主要な公共建築物を新しく建設したり、再建したりして、街路の中心に配置しました。

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(* https://imp.or.jp/special-1-3/、クリックすると、拡大します)

 オペラ通りの平面図です。公共建築物を記念碑とみなし、パリ全体を芸術都市として生まれ変わらせたのです。

 さらに、街路や上下水道が整備され、景観にこだわって作り直されました。パリの街は、まさに産業化社会にふさわしい近代都市へと変貌していきました。

■技術優先主義と経済合理性

 オスマンは首都改造を断行するため、徹底的な技術優先主義を貫いたといわれています。土木工学的な側面はもちろんのこと、事業を進める際も実務本位の姿勢を徹底させました。

 まずはセーヌ県の機構改革を行い、それまでの縦割り行政を知事直轄の管理下に置きました。一般部門と特別部門とに分け、重点課題は特別部門に一任するという機能的な機構改革を行ったのです。
 
 人事についても同様、技術優先主義を採り、進取の気性に富み、卓越した技術をもつテクノクラートを抜擢し、採用しました。オスマン配下の四天王といわれるアルファン、ベルグラン、バルタール、デシャンらはパリ大改造プロジェクトで指導的立場に就くまで、無名の技師にすぎませんでした(* 松井道昭、前掲、p.354-355)。

 このようにオスマンが技術優先主義を貫き、断固として改造事業を展開したからこそ、パリは華麗に変身することができたといえます。もちろん、その背後に、ナポレオン三世による強力な支援があったことはいうまでもありません。

 ナポレオン三世は、パリ大改造についてのプランを雌伏期間中に、入念に練り上げていました。逃亡先のロンドンで産業革命の実態をつぶさにみていた彼は、産業発展には新たな社会秩序が必要で、都市の形態もまたそれに対応していかなければならないと考えていました。だからこそ、産業発展との調和を考え、綿密な改造プランを立てていたのです。

 実際、ナポレオンは、「わが国にはこれから開墾すべき広大な未開の領土がある、開通させるべき道路がある、穿つべき港がある、船を通せるようにすべき運河がある、完成させるべき鉄道網がある」といい、「国力は経済から生まれる」と断言しています(* ティエリー・ランツ著、幸田礼雅訳、『ナポレオン三世』、白水社、2010年、p.114)。

 さらに、「資本を増やすような順調な産業が存在しなければ、農業自体も揺籃期から抜けられない。つまりすべては、公的財産の諸要素の連続的発展において繋がりあっている」との認識を示したうえで、ナポレオンは次のような方針を提示しています。

 「羊毛と綿に対する税の廃止、砂糖とコーヒーに対する段階的減税、連絡道路の精力的かつ持続的改善、輸送費の全般的低減、農業と工業に対する貸付、大規模な公共工事、禁制事項の廃止、大国との通商条約の締結」(* 前掲、p.115)。

 当時のフランスの経済力は、イギリスやアメリカはもちろんのこと、ベルギーや北ドイツ圏にも及びませんでした。鉄道は未発達でしたし、産業化は進んでおらず、大部分が手工業のままでした。

 だからこそ、国家は財政上の負担を減らし、競争力を高めながら、産業を発展させていかなければならないとナポレオンは考えていました。そのために、さまざまな改革に着手していきましたが、その最たるものがパリ大改造でした。

 パリの大改造は、市民にとって安全で衛生的で便利な都市生活を実現させただけではなく、街を美しく、芸術的な都に変貌させました。これに世界が注目しないはずはありませんでした。

 パリの大改造には、実は政治的効果もあったのです。

■政治的効果

 大改造の期間中に、開催されたビッグイベントがいくつかあります。その一つがパリ万博です。1855年5月15日から11月15日までの期間、シャンゼリゼで開催され、516万2,000人(有料入場者のみ)が参加しました。入場者数でロンドン万博(603万9,000人)に勝ることはできませんでしたが、フランスならではの特徴が組み込まれ、目論見通り、大きな存在感を示すことができました。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html、図をクリックすると、拡大します)

 上図は万博が開催されたシャンゼリゼを鳥瞰した図です。道路は広く、まっすぐに伸びており、辺り一面が緑に覆われています。壮観な光景です。緑豊かなシャンゼリゼを出現させており、パリの大改造の一端を万博に訪れた観客に見せることができました。

 1855年のパリ万博の開催を担当したのが、経済顧問のシュヴァリエでした。サンシモン派の経済学を信奉し、ナポレオンから絶大な信頼を得ていた人物です。彼は実際にロンドン万博の会場を視察しており、フランスこそ最初に万博を開催すべきだったと認識していました。

 実際、フランスにはこれまでに何年も国内で産業博覧会を開催してきた実績があったからです。国際的な産業博覧会を開催しようとしていたのですが、国内の保護主義者たちから反対され、実現できなかったという経緯がありました。それだけに、産業化を推進するため、是非ともパ万博を開催しなければならないとシュヴァリエは固く決意していました。

 一方、ナポレオン三世もまた、是非ともパリで万博を開催しなければならないと思っていました。クーデタを引き起こして皇帝の座に就いたナポレオンは、皇帝として国際的に承認され、その正統性が担保される必要がありました。そのため、早急にパリで国際的なイベントを開催する必要があったのです。

 こうして、パリ大改造のさなか、万博が開催されました。おかげで海外の要人に華やかに変貌していくパリの姿を見せることができ、一定の政治的効果を得ることができました。

 その一つが、パリでの和平会議の開催です。

■クリミア戦争の和平会議

 1856年2月25日の午後、パリのオルセー通りにあるフランス外務省の新築の建物でクリミア戦争の和平会議が開幕しました。外務省に到着した各国代表が通されたのは、壮麗な大使の間でした。

 この大使の間は第二帝政期に花開いた装飾芸術のショールームのような部屋だったとオーランド・ファージスは記しています(* Orlando Figes著、染谷徹訳、 『クリミア戦争』下、白水社、2015年、p.198-199.)

 フランスの肖像画家エドゥアール・デュビュフ(Édouard Dubufe, 1819-1883)が、この和平会議の様子を描いています。ご紹介しましょう。

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(油彩、カンヴァス、311×511㎝、1856年、オルセー美術館所蔵 図をクリックすると、拡大します)

 中央の円形テーブルの傍に座り、顔を画面右側に向けている男性がいます。これがフランスの外務大臣ヴァレンフスキ(Alexandre Colonna-Walewski, 1810-1868)です。当時、46歳、1855年5月に外務大臣に任命されたばかりでした(* https://en.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Colonna-Walewski)。

 クローズアップしてみましょう。黄色のマーカーで示した人物が、ヴァレンフスキです。この和平会議の議長を務めました。

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(* 前掲。図をクリックすると、拡大します)

 自信に満ちた表情が印象的です。パリが和平会議の開催地になったことで、外交の焦点が一時的にパリに移っていたのです。ヴァレンフスキはナポレオン三世への手紙の中で、次のように記しています。

 「今回の事態を経てフランスが一回り「大きくなったことは、誰にも否定できない事実です」と書き、「この戦争から最大の利益を引き出せるのはフランスであり、現在、フランスが欧州大陸で最も重要な国であることは間違いありません」と記しています(* 前掲。p.199)。

 パリ万博の記憶もまだ新しい時期に、パリ和平会議が開催されました。ビッグイベントが立て続けにパリで開催されたのです。フランスがヨーロッパの中心であることを印象づけ、国威を示したことは明らかでした。

 これこそ、ナポレオン三世がパリ万博に期待したことの一つでした。

■ヴィクトリア女王夫妻の万博参加

 ナポレオン三世にとって、1855年パリ万博のもう一つの成果は、ヴィクトリア女王が訪問してくれたことでした。

 ヴィクトリア女王夫妻は、8月20日にパレ・デ・ボザールを視察し、22日にはパレ・ダンストリーを訪問しています。ヴィクトリア女王夫妻は、行く先々で熱狂的な拍手で迎えられました。

 軍の楽隊は歓迎のために、イギリス国歌を演奏しました。それを聞いたフランス人たちの多くは、何世紀にもわたってイギリスと対立してきたことを思い起こし、感極まってむせびました。

 実は、ヴィクトリア女王がパリ万博会場を訪れたことには、深い政治的意味がありました。単なる万博視察にとどまるものではなく、ナポレオン三世がフランスの正統な皇帝であることを英国が公式に認めたことの表明にもなったのです。覇権国イギリスからの承認が世界に知られることが、ナポレオン三世の望みでしたが、それが叶いました。

 ナポレオンは、初めて万国博覧会の産業宮殿を訪れたヴィクトリア女王夫妻を、中央中庭に案内しました。嬉しそうな表情でナポレオンが、ヴィクトリア女王をエスコートしている絵があります。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 中央中庭には、王冠の宝石と、ゴブラン、ボーヴェ、オービュッソン、セーヴルといった帝国の工房の最新製品が展示されていました。そのセーヴルの展示品の中に、1851年のロンドン万国博覧会の記念として制作された花瓶がありました。

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(* https://www.arthurchandler.com/paris-1855-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 これは、ジャン=レオン・ジェロームがデザインして制作された、セーヴルのロンドン万博記念の花瓶です。まさに、記念碑的な花瓶ですが、ナポレオン三世はこれを、1855年パリ万博に訪れたヴィクトリア女王と夫のアルバート公にプレゼントしました。

 ヴィクトリア女王は、8月22日付の日記に、アルベール王子がこの花瓶をナポレオンから贈呈されてことのほか喜んだと記しています。図案といい、デザインといい、色調といい、この花瓶があらゆる意味で傑作だったからでした。

 製作費は合計17,958フランだったといいます。この花瓶は1856年5月初旬にロンドンに発送され、バッキンガム宮殿の1階にあるボウルームに保管されました(* https://www.arthurchandler.com/1855-sevres-vase)。

 パリが大きく改造されることによって、衛生的で便利で、美しくなり、市民が誇りを持てる街に変貌しました。さらには、国際的なイベントが開催されるようにもなり、国家としての地位も向上しました。

 ナポレオン三世が構想し、オスマンが実現させたパリ大改造は、産業革命を経て近代化を強いられた国家が展開したプロジェクトとして、大きな成功事例といえるかもしれません。(2024/8/31 香取淳子)

幕末・明治期の万博⑤:ナポレオン三世が望んだ労働者共同住宅

■民衆に支持され、圧勝したルイ・ナポレオン

 1848年12月10日に行われた大統領選で、ルイ・ナポレオンは、最有力候補であったカヴェニャック将軍を大差で破って当選しました。得票数は553万4520票で、投票者数の74.2%にも及ぶものでした。はじめて行われた直接選挙で、泡沫候補と思われていたルイ・ナポレオンが、圧倒的多数の支持を獲得し、大統領選に勝利したのです。

 当時の様子を描いた絵があります。

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(* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Campagne_pr%C3%A9sidentielle_de_1848.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 手前に、二人の子どもが喧嘩している様子が描かれています。左の子どもはナポレオンのポスターを持ち、右の子どもはカヴェニャック将軍のポスターを持っています。それぞれ相手の肩を掴み、すごい形相をしてにらみ合っています。

 子どもの喧嘩のネタになるほど、この大統領選がホットな話題であったことがわかります。

 子どもはただ、二人のどちらが勝つか負けるかを言い争っているだけですが、その後ろに立つ若い母親は、訴えかけるような表情で、「ルイ・ナポレオン・ボナパルト」と書かれた紙をこちらに見せています。ナポレオンを支持し、是非とも勝利してもらいたいのでしょう。

 そして、画面の左側を見ると、警官が後ろ姿を見せ、帽子をかぶった男に何か尋ねています。男はばつの悪そうな表情をみせ、上部を折り畳んだ新聞をこちらに見せています。「・・・新聞」と書かれた紙面の下に、二人の人物が小さく描かれているのが見えます。おそらく、ナポレオンとカヴェニャック将軍が描かれているのでしょう。男はひょっとしたら、選挙絡みで、なにか警官から咎められるようなことをしていたのかもしれません。

 背後の壁には大統領選と書かれた紙が貼られ、選挙を迎えたパリの街の様子が端的にとらえられています。

 そういえば、この絵では、投票権を持たない子ども二人と女性が支持者を鮮明にしているのに、投票権を持つ男性はどちらを支持しているのか明らかにはされていません。画家はどちらかの肩を持つようなことを避けていたのかもしれませんが、若い母親がはっきりとナポレオン支持を表明しているように、二人の候補者を比べてみれば、民衆の潜在欲求をよく理解していたのは、ルイ・ナポレオンの方でした。

■社会の安定には経済の発展を

 高山裕二氏は、ナポレオンが立候補した際のポスターに掲載されていたメッセージを、次のように紹介しています。

 「人民に選ばれた者は商業、産業、繁栄のために選ばれた者でもあってもらいたい。万人に認められたその名が、赦しと和解の第一の保証であってもらいたいのだ。なぜなら、諸階級の和解がなければ平和も産業も信用もなく、あるのは貧困と無秩序だからだ」(* 高山裕二、「ボナパルティズム再考‐フランス第2帝政の統治制度と理念に関する素描‐」、『フランス哲学・思想研究』26号、p.6, 2021年)

 ルイ・ナポレオンは有権者に、貧困に陥ることなく、安定した生活を得ようとすれば、まず、経済的な発展が不可欠だと訴えていました。だからこそ、為政者に求められるのは、経済発展に寄与する政策を展開することだと主張していたのです。この姿勢は大統領に就任した後も変わりませんでした。

 もっとも、初めての共和国大統領に選出されたからといって、ナポレオンが全権を掌握したわけではありませんでした。

 実は、大統領選が行われる(12月10日)前の11月に、憲法制定議会が開催されました。そこで、共和国の政治形態が決定され、大統領の任期とその権限が決められていました。

 直接普通選挙で選ばれた大統領は、行政の執行権を持ち、内閣を任命し解任することもできるが、議会の解散権については認められておらず、しかも、任期は4年で、再任はできないというものでした。

 普通選挙の結果、どんな大統領が選ばれたとしても、議会にある程度の決定権を残し、大統領が自由にふるまえないように制限をかけていたのです。しかも、その任期は4年間に限られていました。

 民衆から圧倒的な支持を受けて、大統領に選出されたナポレオンでしたが、政界では四面楚歌の状態でした。長く海外で逃亡生活を続けていたため、知己も少なく、組閣もままならないような状況でした。これでは、思い通りの政治を行うことなどできません。

 当面、ナポレオンは一貫して、左右対立の調停者として共和国を守っていくという姿勢を貫きました。社会の秩序を守り、安定した生活を提供するというスタンスを崩さなかったのです。

■民衆に寄り添うナポレオン

 大統領就任後も、フランス内外で政変が次々と勃発しました。民衆にとって、生活の安定など程遠い状態でした。ところが、どういうわけか、政変が起こるたびに、ナポレオンの政敵は消滅するか、弱体化していきました。

 ナポレオンは政権内では依然として孤立し、思うように動けませんでしたが、いったん外に出て民衆に接すると、熱い声援を受けました。やがて、全国を遊説して回るようになると、農民や労働者からさらに強い支持を受けるようになりました。

 人々は長引く政治的混乱に疲れ果てていました。ナポレオンが提唱する秩序の回復と生活の安定を心底、求めていたのです。

 労働者の立場に身を置いて考えることができたナポレオンは、そのような民衆の潜在欲求をしっかりと把握していました。そして、ことあるごとに、為政者として民衆に寄り添い、社会を改善していくことをアピールし続けました。

 たとえば、1850年に鉄道序幕式が開催された際、ナポレオンは次のような演説をしています。

 「私は日々、確信を深めています。もっとも親身な、もっとも献身的な私の友は、宮廷の中にはおらず、あばら家の中にいる。彼らは、金箔塗りの天井の下ではなく、作業場や畑にいる」(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社文庫、2010初版、p.106)

 実際、ナポレオンは全権を掌握した暁には、労働者のための政策を実行しようと考えていました。国家を強靭化するには、まず、社会改革を実践しなければならないと思っていたからです。つまり、社会を支えている労働者を庇護し、生産性を上げることが大切で、それには、労働者の生活を守り、労働環境を整備しなければならないと考えていたのです。

 労働者こそが、モノを生産し、サービスを提供して実社会を維持しているからでした。社会を安定させるには、実質的に社会を支えている労働者こそ守らなければならないという考えを、ナポレオンは、大統領に就任するはるか以前から抱いていました。

 1840年まで遡ってみましょう。

■アムの牢獄

 ルイ・ナポレオンは何度も暴動をおこしていますが、1840年8月4日に起こしたのが、ブローニュの暴動といわれるものです。54名の部下を率いて蒸気船で英仏海峡に面した都市ブローニュに上陸し、民衆に蜂起を呼びかける演説を行ったのです。これは失敗して逮捕され、終身刑に処せられました。1840年10月、パリの北135キロの地点にあるソンム県のアム要塞に収容されたのです。

 当時の様子を描いたスケッチがありますので、ご紹介しましょう。

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(* https://www.wikiwand.com/、図をクリックすると、拡大します)

 読書し、思索にふけるルイ・ナポレオンの様子が描かれています。ドア近くには兵士や執事のような人物が描かれており、服役中でありながら、体面を保って暮らせるよう配慮されていたことがわかります。

 実際、アムの牢獄は、ナポレオンにとっては思索にふけることができる時間であり、空間でした。服役していたとはいいながら、必要な本はその都度、差し入れてもらうことができました。

 ナポレオンは猛烈に読書し、思索にふけりました。アダム・スミスなどの自由主義経済学者からルイ・ブランやプルードンなどの社会主義者、サンファンタンやミシェル・シュヴァリエなどのサン・シモン主義者の著作を読み漁り、社会を根本的に改造する方法を模索しました(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社文庫、2010初版、pp.56-59)。

 アムに収容されている間、ナポレオンはいってみれば、社会改革に関する研究を行っていたのです。その結果をまとめたのが1844年に出版された『貧困の根絶』でした。

■『貧困の根絶』

 この著書の中でナポレオンは、国家予算の使い方によって、労働者の貧困を根絶することは可能だと述べています。そして、貧困問題を解決するには、政治の力だと結論づけ、次のように述べています。

 「もしすべての住民から毎年徴収される税金を、必要もない官職を増設したり、不毛な記念碑を建立したり、あるいは平和のさなかに軍隊を設けたりするといった非生産的な用途に用いるなら、そのとき税金は重圧となり、国を疲弊させ、取るだけ取って何も与えない凶器と化す。したがって、国家予算の目的とは労働者階級の生活の向上でなくてはならない」(* 鹿島茂、前掲。p.62)。

 つまり、国家予算が、新しい生産様式の創出と労働の組織化のために使われるなら、適切に資金運用されることになり、新たな富を生み出し、好循環が導き出されます。結果として、労働者の貧困を根絶することができると述べているのです。

 予算が「新しい生産様式と労働の組織化のために使われるなら」と、ナポレオンは書いていますが、それは、新たに富を生み出す労働には、組織化と規律が必要だと認識していたからでした。

 ナポレオンは長く、海外での逃亡生活を送ってきました。それぞれの地で見聞した様々な事象から、労働の組織化と規律がいかに重要かを認識していたのでしょう。見聞した事例を思索するだけではなく、アムの牢獄で数多くの関連書を読んで検証し、社会と労働に関する理論化を行っていたのです。

 ナポレオンの労働者についての考えを、鹿島茂は次のように要約しています。

 「労働者階級は、なにものも所有していない。なんとしてもこれを持てる者にかけなければならない。(中略)労働者階級は、現在、組織もなければ連帯もなく、権利もなければ未来もない。彼らに権利と未来を与え、協同を教育と規律によって彼らを立ち直らせなければならない」(* 前掲。pp.59-60)。

 ナポレオンはアムの牢獄で、経済や社会、政治に関する著作を読み漁り、思索にふけっていました。その結果、国家の安定を図り、秩序を回復するには、なによりもまず、労働環境の整備、労働者の生活の改善に努めなければならないと考えるようになっていたのです。

 労働者の生活を安定させることこそが、さまざまな暴動をなくし、社会を安定させるキーポイントになると考えていたことがわかります。

■絶対的権力を掌握するために

 ルイ・ナポレオンは、労働者の生活改善をすることから、混乱した社会を立て直そうと考えていましたが、それには独裁的な権力が必要でした。圧倒的多数に支持され、大統領に選出されたとはいえ、共和国大統領の任期は4年で、しかも、再任は禁止されていました。絶対的権力を持ちようがなかったのです。

 そこで、大統領職に就くと、ルイ・ナポレオンは着々と、軍隊や警察、行政機構などの権力機構を掌握することに注力しました。

 憲法では再任が禁止されていましたから、政権を維持するには、選択肢は二つしかありません。すなわち、大統領の再任を禁止する憲法を改正するか、非合法に権力を奪取するか、この二つでした。

 ところが、憲法の改正には賛成議員の数が四分の三必要だったので、憲法改正の可能性は低く、期待はできませんでした。残るは一つ、クーデタを決起する以外、ナポレオンに選択肢はなかったのです。

 さらに、議会は、普通選挙の影響を危惧し、1850年5月31日法を可決し、選挙権の資格を制限してしまっていました。その結果、普通選挙が行われた時には1000万人ほどいた有権者が600万人にまで減少していたのです。

 20歳以上のすべての男性に与えられていた選挙権が、この法律によって資格が制限され、4割も減少するはめになっていました。議会は、ルイ・ナポレオンを支持した労働者階級の人々を排除する法案を通していたのです。

 議会がナポレオンを恐れ、その勢力を削ごうとしていたことは明らかでした。ナポレオンが怒らないはずがありません。

 用意周到に準備を整えたナポレオンは、就任3年後にクーデタを決行しました。大統領の任期が切れる直前でした。

■クーデタで何を訴えたのか

 もちろん、民衆の支持がなければ、クーデタを起こす意味がありません。ナポレオンは民衆に向けて、クーデタの必然性を訴えました。たとえば、民衆に向けた布告、「人民への訴え」の中で、ルイ・ナポレオンは次のように主張しています。

 「その使命は、国民の正統な必要(les besoins légitimes du people)を満たし、破壊的な情念からそれを保護することで、諸革命の時代を閉じることにある」(「1851年12月2日の宣言」)(* 高山裕二、前掲。p.6)。

 訳語がわかりにくいですが、ナポレオンは、政治家として選ばれた者は、何よりもまず国民の要求を満たすことが肝要で、それを覆そうとする勢力があれば、断固として退けることによって、ようやく、さまざまな革命を終了させることができる、すなわち、人々の欲求を満たし、生活を安定させれば、革命を終わらせることができると訴えかけていたのです。

 ナポレオンが満を持して策を練り、決行したのがこのクーデタでした。

 1851年12月2日、ルイ・ナポレオンは、大統領特権を発動して議会を解散し、反対派議員や軍人を逮捕しました。その一方で、普通選挙の復活と新しい議会選挙の措置を盛り込んだ布告を街中に掲示させました。それが先ほどご紹介した「人民への訴え」です。

 クーデタの日パリの様子を描いた絵がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96#Media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cavalerie_rues_paris_(1851).jpg 、図をクリックすると、拡大します)

 上図を見ると、軍人や警官の姿ばかりが目立ちます。“LA PATRIE”という新聞の号外を配る売り子が前景で描かれていますが、民衆の姿が見当たりません。クーデタといいながら、パリ市民は積極的に参加しなかったようです。

 クーデタに抵抗したのは、一部の議員と知識人だけでした。ほとんどのパリ市民は静観しており、ルイ・ナポレオンのクーデタは完全に成功しました。

 実際、人民投票の結果、クーデタに賛成票が744万票だったのに対し、反対票は64万票でした。有権者の76%が賛成しており、大多数の国民は、議会よりもルイ・ナポレオンを支持したのです(* 野村啓介、『ナポレオン四代』、中公新書、2019年、p.146-147.)。

 クーデタの後、正式に皇帝の座に就く1852年12月までの期間、ルイ・ナポレオンは実質的に独裁権を掌握していました。第二帝政はすでに始まっていたといえます。そして、第二帝政は、基本的には第一帝政の復活といえるものでした。

 実は、ナポレオン三世には、成し遂げるべき大きなプロジェクトがありました。それは、ナポレオン一世が着手できず、ルイ・フィリップがやり残したパリの大改造です。

 それまでも気にはなっていたのでしょうが、ナポレオンはパリ改造を実行に移すことはできませんでした。というのも、パリとその周辺部を合わせたセーヌ県を治めるのは、県知事と警視総監で、この二人の任命権を握っているのは政府、すなわち皇帝だったからです。

 ナポレオンが皇帝の座に就き、彼らの任命権を手にしてようやく、パリ大改造に着手することができるようになったのです。

 ナポレオンが、パリの大改造として最初に取り組んだのが、労働者共同住宅でした。

■大統領時代から準備されていた労働者共同住宅

 クーデタから2週間も経ない1851年12月15日、ナポレオンはパリの不衛生な住宅を強制撤去するための法的措置を講じました。建設予算については、1852年1月22日に大統領令を発布し、オルレアン家の財産を没収して労働者共同住宅の建築費に充てる旨、明記しています。

 任命権を掌握した途端に、ナポレオンは、オルレアン派の閣僚の反発などものともせず、それまで構想していた労働者共同住宅の建築に着手したのです。

 オルレアン家から没収した1000万フランの予算をつぎ込んだだけではなく、ナポレオンは自身の私的財産から出資し、建築コンクールを主催するほどの入れ込みようでした。優れた設計図を提出した建築家には5000フランの賞金を授与するとしています(* 鹿島茂、前掲、p.242)。

 ナポレオンが実現を急いだ労働者共同住宅は1852年、ナポレオン住宅としてロッシュシュアール通り(rue de Rochechouart )58番地に建設されました(前掲、p.245)。

 そこで、ネットでこの住所にある住宅を探してみると、ナポレオン住宅と思われる写真が見つかりました。中庭側から撮った写真です。

こちら →
(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Cit%C3%A9_Napol%C3%A9on、図をクリックすると拡大します)

 写真に寄せられた説明によると、この建物はクーデタ後のものではなく、それ以前のもののようです。次のように説明されています。

 「12月10日に、第二共和政大統領に選出されたばかりのルイ・ナポレオン・ボナパルトの要請により、「ヴーニーの長老」として知られる建築家マリー・ガブリエル・ヴーニー (Marie-Gabriel Veugny,1785-1856 年頃) によって、1849 年から1851年にかけて建設されました」(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Cit%C3%A9_Napol%C3%A9on)。

 この説明を読むと、ナポレオンはどうやら、共和国大統領に選出された段階で、すぐに建築家に要請して、労働者住宅の建築を進めていたようです。

■理想を追求するナポレオン

 ところが、クーデタ後、全権を掌握したナポレオンは再び、労働者共同住宅の建設に挑んでいるのです。自費を投入し、優秀な設計図には賞金を供与するという条件で、建築コンテストを開催しているのです。

 このような経緯を考え合わせると、ナポレオンは、マリー・ガブリエル・ヴーニーが建てた最初の労働者共同住宅に満足していなかった可能性があります。ナポレオンが考える理想の労働者共同住宅とはどういうものだったのでしょうか。

 そこで、ナポレオンが1852年1月に決定した建築コンクールの概要を見ると、次のように書かれています。

 「妻帯ないし独身の労働者が居住するための住宅として要求される条件は、まず清潔で換気が行き届き、適度に暖房が施され、採光がよく、上下水道が完備していることである。こうした建物では各世帯が完全に分離して生活できることが必要で、唯一の共同部分は洗濯場に限られている」(* 鹿島茂、前掲、p.245)。

 ナポレオンが、なによりも衛生面、プライバシーに配慮した設計を求めていたことがわかります。

 このような基準に基づいて、1852年の労働者共同住宅は建築されました。低家賃で200世帯が住むことができ、共同使用の設備も数多く備わっていました。一部のメディアからは「場違いな贅沢さに満ちている」と非難されたりしたといいます。

 そもそも、ナポレオンがなぜ、労働者共同住宅の建築を急いだかといえば、労働者の生活環境を改善することが、生活の安定、社会の安定につながると考えていたからでした。労働者が清潔で衛生的な環境で生活するようになれば、衛生意識が涵養され、健康で規則正しい生活ができるようになるだろうという思いからです。

 こうしてみると、ナポレオン三世は、19世紀半ばですでに福祉政策のようなものを実行しようとしていたといえます。労働者の生活環境、労働環境を改善することが、平和で安定した社会の基盤になるという考えからでした。

 今回、ナポレオン三世の労働者とその居住環境についての考えとその実践を取り上げてみました。その合理的な取り組みには驚くばかりです。

 実は、パリの大改造もこのような考えに基づいて進められました。改造プランには、政治、経済、産業、技術、外交、文化などさまざまな観点が取り入れられています。読書家で思慮深く、海外経験の豊富なナポレオン三世でなければできない大事業でした。

 次回に詳しく、見ていくことにしましょう。(2024/07/29 香取淳子)

幕末・明治期の万博④:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(2)

■普通選挙による大統領の選出

 前回もいいましたように、イギリスに先を越されたフランスは、早々に、パリで万博を開催することを決定しました。当時、フランス内外の政治状況は混沌としていましたが、それでも、ナポレオン三世の開催意欲が強かったからです。

 イギリスに亡命していたルイ・ナポレオンがフランスに戻ったのは、1848年のことでした。そのわずか3年後に、ロンドン万博が開催されたのです。ナポレオンにしてみれば、競争意欲を刺激されたのかもしれませんし、あるいは、未来に希望を託せる一条の光明に思えたのかもしれません。

 その頃、ナポレオンは、矢継ぎ早に訪れる政変の真っただ中にいました。

 二月革命によって王政が倒れ、臨時政府の下、普通選挙が行われ、第二共和政の憲法が成立しました。その共和政憲法の下で行われた大統領選にナポレオンは出馬しました。当初は泡沫候補扱いでしたが、次第に人気が高まり、ついには、圧倒的多数の票を得て、当選しました。

 21歳以上の男性すべてに選挙権が与えられた結果、有権者数はそれまでの24万人から一挙に900万人にまで増えたといいます(* 小山勉、「フランス近代国家形成における学校の制度化と国民統合」、『法政研究』59巻(3/4)、p.323.1993年)。歴史上初めて、普通選挙によって大統領が選出されたのです。

 1848年12月15日、第二共和政の下で、ナポレオンは大統領に就任しました。

■有権者数の拡大とその資質

 21歳以上であれば、誰にも平等に投票権が与えられることになったことの結果でした。教育も受けずに、果たして適切な投票行動を行えるのかといった懸念があったのでしょう。小山氏は、新しく有権者となった人々は、最小限の教育を受けられるようにすべきだとしています。

 一方、鹿島氏は、興味深いことを述べています。

 大統領選をめぐってはプロパガンダ合戦が繰り返されたとしながらも、「こうしたプロパガンダは、あくまで、候補者の思想信条に興味をもつ知識階級の人間にしか影響を及ぼさなかった。有権者の大多数を占める農民にとっては、なにが暴露されようが、そんなことはまったくおかまいなしだったのである」と述べています(* 鹿島茂、『怪帝ナポレオン三世』、講談社学術文庫、2020年、pp.85-86)

 新しく有権者となった者のほとんどが、読み書きができず、新聞はもちろんのこと、選挙公報に出ている候補者の名前すら読めなかったというのです。ですから、もっぱら、耳から入った候補者の名前が、親しみのあるものかどうかが基準になっていたといいます(* 鹿島、前掲)。

 21歳以上の男性という制限付きですが、すべての人に投票権が与えられた普通選挙は、一見、平等に見えます。ところが、有権者が最低限の教育すら受けていなければ、せっかくの投票権が正当に行使されない危険性があることを小山氏は指摘していたのです。

 鹿島氏の指摘と考え合わせれば、小山氏が有権者には最低限の教育が必要だと指摘した理由がよくわかります。

 ルイ・ナポレオンは、有権者が24万人から900万人に激増した普通選挙で、勝利しました。本命視されていたカヴェニャック将軍を大差で破り、第二共和政初代大統領に収まったのです。これまで有権者になりえなかった層が、ナポレオンに票を投じたからでした。

 この時、ナポレオンは、理屈や理論によってではなく、情念や直感によって動く大衆に支えられていることを実感したに違いありません。

 せっかく大統領に選ばれたナポレオンでしたが、共和政の下では思うように動けなかったのでしょう。1851年12月2日、軍隊を動員して議会を包囲し、クーデタを決行しました。そして、議会を解散し、普通選挙を復活して新たな議会を招集すると民衆に布告したのです。議会が解散させられたことによって、1848年共和主義憲法は失効し、第二共和政は事実上、終了しました。

 1851年12月21日に行われた国民投票では、投票率83%、賛成92%の圧倒的多数によって、ナポレオンが起こしたクーデタが支持されました。そして、1年後の1852年末に再び国民投票を行い、1852年12月2日にナポレオン3世として即位しました。絶対的な権力を手に入れ、第二帝政が始まったのです。

■権力の頂点に就いたナポレオン三世

 正装をしたナポレオン三世を描いた肖像画があります。ピエール=ポール・アモン(Pierre-Paul Hamon,1817-1860)がアカデミックな画法で描いたものですが、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Napoleon_III-Winterhalter-Billet_mg_6161.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 全般に、ナポレオン一世ほどの華やかさはありませんが、正装のせいか、恰幅がよく、威風堂々として見えます。表情は沈着で、思慮深さがそこかしこから滲み出ています。亡命先からパリに戻ってわずか4年余りで、皇帝の座に就いたほどの人物です。知略家であり、策謀家であったはずです。そんな様子もうかがえなくもありません。

 思い描いたプランを実行するには、絶対的な権力を掌握する必要があったのでしょう。皇帝になり、ナポレオン三世となってから、次々と、フランスの価値を高めるようなプランを実行していきます。

 その一つが、パリ万博の開催でした。長年思い描いてきた事業とはいえませんが、ロンドン万博の開催に刺激され、なんとしても着手する必要があると判断したようです。

 ロンドン万博が開催されたのは、ナポレオンがまだ大統領だった頃でした。その後、国内政治が第二共和政から第2帝政へと移行し、対外的にはアルジェリア、クリミアなどでたて続けに戦乱が勃発していました。

 フランスの政治が内外ともに不安定な時期でしたが、それでも、国家戦略のために取り掛かる必要があると思った事業が、パリでの万博開催でした。

 パリの大改造、立ち遅れていた産業化の推進など、フランスには達成すべき課題がいくつもありました。フランスの強靭化政策の一環として、以前から開催されてきたのが産業博覧会です。

 それなりに成果をあげていましたが、国内を対象にした産業博覧会でした。対外的なものにしようという意見もあったのですが、国内産業を保護するため、海外の産品を対象にしてこなかったのです。

 ところが、ナポレオンは、それまで毎年、開催してきた産業博覧会を中止し、パリ万博の開催を決定したのです。そして、ナポレオンがパリ万博の進行を任せたのは、全幅の信頼を置く、経済顧問のシュヴァリエでした。

 コレージュ・ド・フランス(Collège de France, 1530- )の経済学教授だったシュヴァリエは、個人の資格でこのロンドン万博を視察しており、大きな衝撃を受けていました。シュヴァリエにしてみれば、このロンドン万博こそ、フランスが最初に開催すべき博覧会でした。すでに産業博覧会を開催していた実績もあります。イギリスに先を越されたという思いは、ナポレオン三世ばかりではなかったのです。

■シュヴァリエとは何者か?

 パリ万博を主導したのは、シュヴァリエ(Michel Chevalier, 1806 – 1879)とル・プレー(P.G.F. LePlay, 1806-82)でした。いずれも社会を科学的、実証的にとらえ、産業化を推進しようとするサン・シモン主義者でした(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。
 
 シュヴァリエは後に、ナポレオン三世の経済顧問になりますが、ロンドン万博を訪れた時はまだ。経済学の教授でした。彼の略歴について、少し、ご説明しておきましょう。

 鉱業学校卒業後、シュヴァリエは技師として働いていましたが、七月革命後にサン・シモン派に入団しています。最高教父のプロスペル・アンファンタン(Prosper. Enfantin, 1796-1864)による指導の下、パリ郊外のメニルモンタンで共同生活に参加していたこともありました。

 やがて。サン・シモン派の機関紙『グローブ』編集長として活動するようになり、自らも「地中海システム」などを寄稿し、次第に頭角を現していきました。シュヴァリエは、アンファンタンの後継者に指名されるほどになりましたが、1832年、サン・シモン派は、反政府的な結社を禁じる刑法291条に違反したとして、一斉検挙されてしまいました。

 裁判で禁固6月の刑を宣告されたシュヴァリエは、サント・ペラジ獄へ収監されましたが、獄中でアンファンタンとは別れ、翌年の出獄後にサン・シモン派を脱退しています(* 藤田その子、「ミシェル・シュヴァリエ小論」、『西洋史学』101巻、1976年、p.40)。

 シュヴァリエの経歴を見れば、明らかに彼がサン・シモン派の主要メンバーだったことがわかります。

 1841年に、シュヴァリエはコレージュ・ド・フランス経済学教授に就任しますが、1848年に二月革命が勃発すると,コレージュ・ド・フランスを罷免されてしまいます。

 ところが、12月に大統領となったルイ・ナポレオンによって、シュヴァリエは地位を回復することができました。そして、第二帝政期(1852‐1870)のナポレオン三世の治世下で、経済顧問を務めています。

 ナポレオン三世に信頼され、気に入られていただけではなく、考え方が近かったのでしょう。シュヴァリエは、いったん罷免された地位を回復してもらった上に、経済顧問に採用されていたのです。

 ナポレオン三世もシュヴァリエも、ロンドン万博に刺激され、早々に、パリ万博の開催を決めています。シュヴァリエは、実際に訪れていたく感嘆し、是非ともパリ万博をと臨んだからでしたし、ナポレオン三世は、そもそもフランスでこそ開催すべきだと思っていたからでした。

 実は、フランスにはイギリスよりも早く、万国博覧会に似た産業博覧会を実施してきた経験がありました。

■フランスで始まっていた産業博覧会

 フランスでは1798年から1849年にかけて、計11回もの産業博覧会がパリで開催されていました。いずれも産業振興を目的にするものでした。

 そもそも博覧会という企画そのものを最初に思いついたのが、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)でした。

 第1回産業博覧会が開催されたのは、フランス革命(1789‐1795)が収束してしばらく経ち、諸制度の変革によって社会が変わりはじめていた頃です。そのような状況下で、内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトー(Francois de Neufchateau, 1750-1828)は、実用的な工芸を育成するための第一回内国産業博覧会を開催したのです。立ち遅れていた産業化を推進しなければならないと思っていたからでした。

 内務大臣だった1798年に描かれたヌシャトーの肖像画に基づき、1812年に、ジャン・ニコラ・ロージエ(Gravure de Jean Nicolas Laugier)が制作した版画があります。見てみましょう。

こちら →
(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Nicolas_Fran%C3%A7ois_de_Neufch%C3%A2teau 図をクリックすると、拡大します)

 いかにも聡明そうな眼差しが印象的です。社会の動向を見据え、あるべき姿を模索していたのでしょう。

 当時、革命やその後の政治的混乱で、フランス経済は疲弊していました。一方、隣国のイギリスはいち早く、産業革命を成し遂げた結果、経済が活性化し、さらなる発展を推し進めていました。そのイギリスに対抗するため、フランスは国内産業を早急に育成しなければならなかったのです。

 実際、安価で良質のランカシャーの織物やウェッジウッドの磁器などが、イギリスから流入し、フランスの市場は食い荒らされていました。

 そこで、ド・ヌシャトーは博覧会を開催し、産品の質を高める必要があると考えました。博覧会とはいっても、芸術作品ではなく、実用的な工芸品を「展示」しようと考えたのです。

 それが産業博覧会でした。工芸品や製品を展示し、幅広い層に訴求できれば、販売網が広がると考えたのです。

■第1回フランス内国博覧会の特徴は、万国博覧会の基本?

 鹿島茂氏は、ド・ヌシャトーが発案し、実行した第1回フランス内国博覧会にはのちの万国博覧会の基本となる特徴がすべて含まれているとし、以下のように列記しています。

① 政府が、産業振興のために主催したものであること。
② 展示されるのは実用目的の商品であり、しかもその商品は、販売されるのではなく、展示されるだけであること。
③ アトラクションやスペクタクルを伴う祝祭であること。
④ 一つの会場にすべての展示品を集めたこと。
⑤ 出品者の資格がほとんどフリーであり、私企業ないし私人であること。
⑥ 単なる展示会ではなく、商品のコンクールであること。
(* 鹿島茂、『絶景、パリ万国博覧会』小学館文庫、2000年、p.31)

 以上の6点を挙げています。

 まず、出品資格として営業免許状を提示し、自らが生産した製品のみ展示できるという条件があります。そして、国家が産業振興のために主催すること、展示されるのは実用目的に産業製品であること、等々の定義づけがされています。

 まさに、産業博覧会とはまさに、産業製品のための大規模な展示会でした。

 興味深いのは、ド・ヌシャトーは博覧会に、◆アトラクションやスペクトラムを伴う祝祭の要素を重視していること、◆展示製品のコンクールを行い、優劣を競い合う仕組みを持ち込んでいること、等々です。

 18世紀末の時点で、ド・ヌシャトーは、展示会には人が大勢集まらなければ意味がなく、多数の来場者を集めるには、祝祭性と競技性、ゲーム性が必要だと認識していたのです。聡明で、先見性のある人物でした。

 実際、第1回産業博覧会(1798年)を描いたスケッチを見ると、気球が会場の上空に浮かび、祝祭空間を作り上げています。

こちら →
(* https://www.arthurchandler.com/1798-exposition 図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、確かに、会場の上空には気球が浮かび、祝祭モードで設営されていることがわかります。より多くの人々が参加したくなるような雰囲気が醸し出されており、祝祭空間を作り出そうとしている開催者たちの意図が見えてきます。

 ド・ヌシャトーのこのような先見性は、1855年のパリ万博で遺憾なく発揮されました。

 たとえば、産業博覧会の特徴の一つに、産品の「コンクール」を行い、権威ある審査委員会によって褒賞するという制度がありました。これは、「サロン」で行われてきた美術作品の審査方法を踏まえたものでした。(* 井上さつき、「19 世紀フランスのフルート製造と博覧会―ジャン=ルイ・テュルーを中心に」、『MIXED MUSES』No.14、2019年、p.46)。

 ド・ヌシャトーは、美術界で採用されていたコンクール制度を産業博覧会に導入していたのです。競争状況を作り出し、出品された工芸品や製品の品質を高め、価値を高めていくためでした。1855年パリ万博ではその経験を踏まえ、さらにブランディング力を高めるための工夫がされました。

■受賞した製品のブランド価値

 フランスを代表するブランドの一つに、クリスタルガラス・メーカーのバカラ(Baccarat)社があります。その製品紹介文に「1855年パリ万国博覧会で名誉大賞受賞」と書かれていることがあります。万博で受賞したことが製品のブランド価値を高めているのです。

こちら →
(* https://www.majorelle.co.jp/shopdetail/000000003830/ 図をクリックすると、拡大します)

 これは、バカラのワイングラスで、1855年パリ万博で名誉大賞を受賞したのと同じデザインで製作されています。アシッドエッチング技法で描かれた文様が美しく、とても人気があるシリーズです。

 出展品に褒章を与えるという仕組みは、1851年の第1回ロンドン万博でも行われました。ところが、1855年第1回パリ万博では、審査方法や審査委員の選定基準を厳格化し、詳細化しました。審査を公正に行うことによって、褒章に権威を持たせようにしていたのです。

 たとえば、1855年パリ万博の産業部門で授与されたメダル数は、グラン・プリ(大金メダル)112、金メダル252、銀メダル2,300、銅メダル3,900、選外佳作4,000でした。この分布をみると、グラン・プリや金メダルを受賞することがいかに難しいかがわかります。

 それだけに、グラン・プリや金メダルを獲得すれば、出展企業にとって強力な宣伝材料になりました。バカラのように、万博で受賞し、その後ブランドとしての地位を確立して、今に続いているメーカーはたくさんあります。

 そのうちの一つが、1855年パリ万博で金メダルを受賞したシンガーミシンです。ご紹介しましょう。

 1850年にアイザック・メリット・シンガー(Isaac Merritt Singer )は、実用的なミシンを制作し、1851年8月12日に、最初の「シンガー」ブランドでミシンの特許を取得しました。最初のシンガー社は、マサチューセッツ州の小さな工房でした。

 1855年に開催されたパリ万博でグラン・プリを受賞したのを契機に、シンガー社は、多国籍企業へと事業を拡大しました。その結果、シンガー社はわずか数年で、国際企業へと発展していったのです。(* https://sewingmachine.mobi/singer-sewingmachine-history/#gsc.tab=0)

 1855年パリ万博で受賞した金メダルの効果でした。審査基準を厳格化することによって、メダルに権威をもたせました。その結果として、ミシンメーカー、シンガー社のブランドを確立させたのです。

 ブランドを確立することによって、メーカーとしての優位性、安定性が増していきました。企業の生存戦略としても、万博への出品は不可欠となっていきました。

 そればかりではありません。出品された産品に値段をつけるようになったのも、1855年パリ万博が最初でした。

■1855年パリ万博の意義は何か?

 1851年ロンドン万博では、出展品に売り値を示していませんでしたが、1855年パリ万博ではすべての出展品に値札をつけることが義務付けられました。展示品すべてに金銭的な価値を表示することにしたのです。その結果、博覧会が単なる展示場ではなく、商品ディスプレイの意味を持ち始めました。

 来場者は、展示された製品を鑑賞し、評価するだけでなく、実際に消費したいという欲求を抱くようになりました。万博での経験が、デパートや商店街をウィンドウショッピングするという行動の先駆けとなり、消費行動につながっていったのです。

 やがて、産品を消費することによって満足し、幸福感を覚える新たな認識体験が作り出されていきました。

 一方、1855年パリ万博では、出品された製品すべてに値段が付けられました。あらゆるものの価値が貨幣に置き換えられ、平準化されるようになったのです。モノやサービスの価値が貨幣に置き換えられるという仕組みは、徐々に社会に浸透し、あらゆるモノやサービスの交換を容易にしました。商品経済の世界へと進んでいったのです。

 パリ万博を主導していたシュヴァリエは、ナポレオン三世の下、積極的な経済政策を推進しようとしていました。

 当時、フランスはまだ手工業の域を出ておらず、保護貿易主義の下で企業も労働者も、技術革新あるいは生産性の向上といったことに関心を抱いていませんでした。ド・ヌシャトーが創設した産業博覧会は行われていたとはいえ、産業人を大きく刺激するというものではなかったのです。

 人々の関心を技術の進歩、産業の発展に向け、意識改革を図るには、そのためのビッグイベントが必要でした。ロンドン万博を見たシュヴァリエは、会場に展示されていたさまざまな機械類に圧倒されました。それこそ、機械文明による人類の進歩を感じさせられたのです。

 国民の産業に対する意識を変革するには、是非ともパリ万博を開催する必要がありましたし、フランスならでは特異性を加える必要がありました。出品産品に価格を付けること、厳格なコンクール制度の下、選ばれた産品の権威付けを図ること、等々は、いかにもフランスらしい試みでした。

 いずれも万博を主導したシュヴァリエとル・プレーのアイデアでした。

 1855年パリ万博では、出品された産品に価格が設定されました。製品の価値が貨幣価値に置き換えられ、価値判断が平準化されるきっかけを作ったのです。さらに、厳格化されたコンクール制度は、受賞した製品を権威づけてブランド化し、グローバルに流通する契機となりました。

 1851年ロンドン万博が、産業文明を人々に認識させるきっかけになったとすれば、1855年パリ万博は、人々を商品経済の入り口に立たせる契機ことになったといえるでしょう。

 ナポレオン三世が任用したシュヴァリエは、ル・プレーとともに、1855年パリ万博を産業化社会に向けてのとば口としたのです。(2024/6/26 香取淳子)

幕末・明治期の万博③:ナポレオン三世はなぜ、1855年パリ万博の開催を決意したのか(1)

 万博は、政治、経済、文化、外交、最先端技術などが複雑に絡み合って、社会を変貌させるだけでなく、一種のスペクタクルとしても機能します。1851年のロンドン万博がそうでしたし、1855年のパリ万博もそうでした。

 そこで今回は、なぜナポレオン三世が、1855年パリ万博の開催を決意したのか、諸状況を踏まえて、考えていきたいと思います。

■フランスに先駆けて万博開催に挑んだイギリス
 
フランスでは産業振興のため、産業博覧会が1798年から1849年にかけて計11回、パリで開催されていました。商品経済が活性化するにつれ、産業振興の重要性が認識されるようになっていたからでした。

 1830年代になると、国内を対象にした産業博覧会から、国際規模に拡大してはどうかという提案がでてくるようになりました。フランスでもちょうど産業革命が進み始めていた頃でした。商品経済がある程度、発達してくると、競争力のある商品を開発し、市場規模を拡大し、更なる発展をめざそうとするのは当然の成り行きでした。

 ところが、市場を国際規模に拡大することには国内の商業者層が反対しました。彼らが拠り所にしていたのはあくまでも国内市場だったのです。政府による保護主義の下、これまで通りの市場規模を望みました。リスクを被る可能性のあることは避け、国内の産業博覧会以上のものは望まなかったのです。

 そうこうしているうちに、イギリスがフランスに先駆けて、万国博覧会を開催してしまいました。開催場所はロンドンのハイドパーク、開催期間は1851年5月1日から10月15日まででした。

 参加国は34カ国で、一日の平均入場者数は約4万3,000人、会期中の延べ入場者数は約603万9000人でした。これは当時のイギリス総人口の約1/3、ロンドンの人口の3倍にも当たるものでした(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1851.html)。

 第1回ロンドン万博の動員力の凄さには驚かざるをえません。しかも、これは有料入場者だけをカウントした人数でした。なぜ、これほど多くの人々がお金を払ってまで万博会場を訪れたのでしょうか。

 おそらく、いち早く産業革命を達成し、産業化が進行していたイギリスで開催されたこその結果だったのでしょうが、果たして、実際はどうなのか。見ていくことにしましょう。

■第1回ロンドン万博、入場者動員のためのインフラ

 ロンドン万博では、19世紀の半ばに、5か月間とはいえ、604万人もの入場者を会場に動員することができました。このことからは、少なくとも、万博の開催を知る手段を持ち、会場まで移動できる手段を持った人々がそれほど多数いたということが示されています。しかも、それらの手段を利用するには、ある程度の時間とお金に余裕がなければ、不可能です。

 したがって、ロンドン万博の動員力の背景には、まず、同一情報を同時期に不特定多数に発信できるメディが存在し、人々の情報入手手段として日常的に活用されていたことが示されています。

 もちろん、万博開催の情報を知ったとしても、交通手段がなければ、これだけ多数の人々が会場まで移動することはできません。それが可能だったということは、つまり、当時のロンドンでは、すでにメディアが発達して日常的に利用され、交通網が整備されて日常的に利用されていたことがわかります。

 実際、イギリスでは当時、絵入り週刊誌が刊行されており、人々はそれを読み、世の中の出来事を知っていました。

 たとえば、『イラストレイテド・ロンドンニュース』(The Illustrated London News)は、1842年に発刊された週刊誌ですが、イラストの入ったニュースを提供しており、人々はこれを読んで社会情勢を把握していました。

 1842年5月14日付の記事を撮影した写真があります。発刊当時の記事ですが、内容に関係する図が細密に描かれています。ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Illustrated_London_News_-_front_page_-_first_edition.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 記事の中に挿絵が取り入れられているので、わかりやすく情報が伝えられています。文字情報にイラストが添えられており、幅広い読者層をめざした伝達様式になっています。

 一方、多数を動員するには交通網の整備も不可欠です。いち早く産業革命を経ていたイギリスでは、産業化が進むに伴い、物資を輸送する必要から、水路、陸路とも交通網が整備されました。さらに、19世紀半ばには鉄道が発達し、人々の鉄道利用が進んでいたのです。ロンドン万博の開催当時、イギリスでは鉄道が発達し、人々の移動が楽になっていました。

 そもそも蒸気機関による鉄道が世界ではじめて開発されたのはイギリスでした。もちろん、旅客輸送を運営したのもイギリスが初めてです。その後、車両など設備全般の改良を繰り返し、1840年代には特に鉄道輸送が飛躍的に発展していました。ロンドン万博が開催される頃には、主要都市を結ぶ鉄道網がすでに形成されていたのです。
 
 国内ばかりではありませんでした。海外に多数、植民地を持つイギリスは、定期蒸気船航路で、南北アメリカ、アジア、アフリカを結び付ける輸送網を敷いていました。輸送、運輸の面では、当時、ロンドンは文字通り世界の中心として君臨していたのです。

 こうしてみてくると、圧倒的な工業力を誇り、海外に多数の植民地を持っていたイギリスが、フランスよりも一足先に、産業博覧会の国際化を実現させたのは当然のことだったのかもしれません。

 それでは、初めてのロンドン万博はいったい、誰の発案だったのでしょうか。

■ロンドン万博は誰の発案なのか?

 第1回ロンドン万博を中心となって推進していたのは、ヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協会会長のアルバート公(Prince Albert of Saxe-Coburg-Gotha, 1819 – 1861)でした。そのアルバート公に進言したのが、当時ロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール(H. Cole)でした。

 彼は、1849年にパリで開かれた産業博覧会を参観に出かけました。その際、フランスが万国博覧会を開催しようとして果たせなかったことを聞き及びました。長年にわたる博覧会の経験を積み、市場規模を拡大する必要があることもわかっていながら、商業者たちの反対にあって、フランス政府が計画を断念していたことを把握していたのです。

 この時、コールはおそらく、フランスが産業博覧会を国際化できない理由も把握していたのでしょう。フランスの商業者たちが国際化に反対したのは、イギリスからの製品流入を恐れたからでした。

 保護貿易の立場から反対され、フランス政府は市場拡大のチャンスを諦めざるをえなかったのです。そうだとすれば、工業化が進んでいるイギリスは、相当有利な立場にいるといえます。

 そのような情報に接したコールは、イギリスこそ、国際的な産業博覧会を開催すべきだと判断したに違いありません。

 帰国すると早々、コールは諸事情を説明したうえで、予定していた国内博覧会を国際博覧会に拡大してはどうかとアルバート公に進言したのです。

 もちろん、アルバート公はこれを受け入れました。

 ロンドンのハイドパークを会場にすることも決まりました。会場の場所は決まりましたが、建物をどうするか、建築案で難航しました。開催1年前にはコンペを行い、245もの案が出たにもかかわらず、決定的なものが出なかったのです。

 そんな中、庭園技師で、数々の温室を設計したことのあるパクストン(J. Paxton)の会場建築案が、王立委員会に持ち込まれました。これが1850年7月6日のIllustrated London Newsに掲載されて、話題を呼び、世論の大きな賛同を得ました。その結果、彼の設計案が採用されることになったという経緯があります。

 パクストンが提示したのは、画期的な建物案でした。

■水晶宮(クリスタル・パレス)

 ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、その外見から、やがて、クリスタル・パレス(水晶宮)と呼ばれるようになりました。実際、この建物自体が第1回ロンドン万博最大の訴求力のある展示物でした。

 果たしてどのような建物なのか、水晶宮の内部をスケッチした画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/008r.html、図をクリックすると、拡大します)

 太陽の光が、ガラスの天井越しに、巨大な樹木に射し込んでいます。樹木の手前にある噴水からは水が流れ落ち、自然と一体化した美しさが表現されています。周辺一帯には数多くの像が設置されており、庭園師ならではの発想が見事です。自然と最先端技術を組み合わせ、華麗で優雅な建築物を生み出したのです。

 この水晶宮は、長さ約563m、幅約124mの建物で、わずか10カ月で完成させたといわれています。鉄とガラスを素材に使い、当時の最新技術で、クリスタルのように見える会場を建造したのです。工期を抑えるために、工場で製造された部品を現地で組み立てるプレハブ工法が採用されました。

 使われたガラスの数は30万枚で、内部は赤、青、白、黄色で塗り分けられています。外部は白またはストーンカラー(灰色または青灰色)が使われ、縁は青で飾られました。まさに水晶のような輝きを見せる建物でした(* 前掲URL)。

 水晶宮の外観、正面を描いた図があります。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/005r.html、図をクリックすると、拡大します)

 鉄とガラスでできたこの建物からは、優雅さと荘厳さ、そして、高い技術力と繊細なデザイン力が滲み出ており、入場者たちの心に強烈な印象を残しました。

 水晶宮はまさに工業力によって、社会が大変貌を遂げる時代を象徴していました。

■ナポレオン三世にとっての第1回ロンドン万博の衝撃
 
 ナポレオン三世は、第1回ロンドン万博に衝撃を受けました。ひょっとしたら、衝撃というより、先を越されたという思いの方が強かったかもしれません。1854年に開催予定だった産業博覧会を急遽、中止し、パリ万博の開催を決定しました。

 さらに、ロンドン万博の終了から半年しか経っていない1852年3月、急遽、大統領令を発令し、「公式の式典、民間の祭典や軍事祭典にも使える建物を、ロンドンのクリスタル・パレスに倣って、シャンゼリゼのクール・カレに建設することを決定する」と布告したのです。1851年12月のクーデタからわずか4か月を経たばかりで、ルイ・ナポレオンはまだナポレオン三世になっていませんでした。(* 鹿島茂、前掲、p.122.)。

 それなのに、早くも、万博会場について宣言しているのです。

 万博会場として建造された建物は、産業宮殿(palais de l’industrie)と名付けられました。正面玄関を描いたスケッチ画がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/061r.html、図をクリックすると、拡大します)

 ナポレオン三世が勢い込んで建造したわりには平凡な外観です。見比べてみて、改めて、ロンドン万博の水晶宮が画期的な建物であったことがわかります。

 1853年3月の勅令で、この会場を使用できる規模を万国博覧会にまで拡大し、さらに6月にも勅令を発し、産業博覧会、美術博覧会も開催できるようにすると宣言しました。

 美術博覧会にも拡大した理由として、ナポレオン三世は次のように述べています。

 「産業の発達は美術、工芸の発達と密接に結びついている。(中略)フランスの産業の多くが美術、工芸に負っている以上、次回の万国博覧会で美術、工芸にしかるべき場所を与えることは、まさにフランスの義務である」(* 鹿島茂、前掲、pp.123-124.)

 このようなプロセスをみてくると、ナポレオン三世が1855年開催のパリ万博に大きく肩入れをし、フランスならではの価値を創出しようとしていることがわかります。

 なにもフランスばかりではありません。アメリカまた、ロンドン万博を参考にしながらも、ニューヨーク万博に独自の価値を創出しようとしている様子が見受けられます。

■1853年のニューヨーク万博

 実は、アメリカの実業者たちもまた、第1回ロンドン万博に感銘を受けていました。是非ともアメリカでも開催すべきだとし、1853年にニューヨーク万博(1853年7月14日~1854年11月1日)を開催しました。さすが実業家たちだけあってフランスよりも早く、開催を決定し、実行に移していたのです。

 水晶宮の印象がよほど強かったのでしょう、ニューヨーク万博会場の建物は、水晶宮を模倣して、鉄とガラスで作られました。

 ニューヨークのブライアント公園に設営された建物のスケッチ画を見ると、水晶宮を模倣したとはいいながら、建物の外観は全く異なっています。

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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/056r.html、図をクリックすると、拡大します)

 この建物は、カーステンセン(G. J. B. Carstensen)がデザインを考案し、ニューヨークの建築家であるギルデマイスター(C. Gildemeister)が設計しました。カーステンセンは、コペンハーゲンにある人魚像で有名なチボリ公園のデザイナーです。彼は、「階級に関係なく、皆が楽しめる場所を」と願って、国王から土地を借り受け、チボリ公園を造ったそうです。

 確かに、見比べてみると、ニューヨーク万博の会場は、水晶宮というよりも、どちらかといえば、このチボリ公園の方に似ているような気がします。チボリ公園の写真がありますので、ご紹介しましょう。

こちら →
(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TivoliGlassHall.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 この建物には親しみやすく、まるで絵本の世界のような牧歌的な雰囲気があります。カーステンセンをデザイナーに選んだことから、アメリカの実業家たちがニューヨーク万博の会場を、誰もが参加でき、楽しめる空間にしたいと考えていたことがわかります。

 興味深いことに、この建物はデザインこそ牧歌的ですが、資材は第1回ロンドン万博の水晶宮を模倣し、鉄とガラスで建造されています。アメリカの実業家たちが水晶宮から模倣したものはデザインではなく、建築資材であり、その工法だったのです。彼らは水晶宮に次世代の技術を見、工法を見、未来に向けた技術の可能性を見出だしていたのです。

 まさに、水晶宮は次世代技術の塊でした。

 実際、イギリスはこの水晶宮によって、圧倒的な技術力を世界に見せつけることができました。そして、技術の力によって、夢をかなえられることを来場者に強く印象づけたのです。

 水晶宮を会場とした第1回ロンドン万博は、技術の時代の幕開けを象徴していましたが、入場者数で比較しても、第1回ロンドン万博が初期の他の万博を圧倒していました。

 たとえば、1853年にニューヨークで開催された万博の入場者数は115万人でした。そして、1855年のパリ万博は516万2000人です。いずれも1851年ロンドン万博の入場者数を超えることはできませんでした。

 それほどロンドン万博の印象は強烈で、人々の参加意欲を強く喚起する魅力があったことがわかります。

■産業化の進行と万国博覧会

 ナポレオン三世が、このロンドン万博の成功に嫉妬に近い感情を抱いたとしても不思議はありません。もちろん、先を越されたという思いも強かったでしょう。そもそも万国博覧会委を最初に構想していたのはフランスでした。

 1789年以来、11回も国内で産業博覧会を開催した経験もあります。そのような経験を踏まえ、産業博覧会の国際化が提案されてこともありました。ところが、先ほどもいいましたように、商業者層から強く反対され、実現しませんでした。

 実は、ルイ=ナポレオンが大統領に就任した直後に開催された1949年の産業博覧会で、フランス産業博覧会の国際化はほぼ実現しそうになっていたのです。

 最後に開催された 1849 年の産業博覧会は、会期が 6 カ月にもおよび、出展総数は4532 点、アルジェリアをはじめとする海外植民地からも参加しており、準万国博といえるほどの規模に達していました。もはや国内向けの産業博覧会とはいえないほどの広がりをみせていたのです。

 実際、1849 年の博覧会開催に際しては、「万国博覧会」とするという提案もなされていました。ところが、保護貿易に固執する商工業者や地方行政府に反対され、この提案は潰されました。フランスの工業化のレベルが、いち早く産業革命を経験していたイギリスには劣っていたからでした。

 市場を奪われるのではないかという恐怖感が、反対の動きに結集され、その結果、フランスが最初の万国博覧会開催国となるチャンスが失われました。

 そもそも、産業博覧会の開催趣旨が、イギリス工業製品の流入を避け、自国の産業振興を図るというものでした。あくまでも保護主義的な目的で開催されていたのです。実際、フランス国内とその植民地を対象にしている限り、不安はありませんが、イギリスなど工業先進国まで含めてしまうと、工業化レベルの低い国内産業は崩壊しかねなかったのです。商業者たちが反対したのも無理はありませんでした。

 一方、イギリスは産業こそ著しく発展していましたが、産業博覧会のような大規模展示会はありませんでした。せいぜい、民間による小規模な発明展などで商品展示が行われていたにすぎなかったのです。

 当時、イギリスは18世紀末から始まった産業革命によって、農業中心の社会体制から工場中心の体制へと移行しつつありました。世界の工場として、イギリスは繁栄を極めていましたが、第1回ロンドン万博を開催することで、イギリスはその圧倒的な工業力を世界に認知させることになりました。

 実際にロンドン万博を開催して初めてわかったことでした。産業化が進み、商品経済が盛んになっていたからこそ、海外市場の拡大に向けた万国博覧会の開催が必要だったのです。
 
 最初に万博の開催を構想していたのはフランスでしたが、それを実行に移したのはイギリスでした。ハードパワーを駆使して各地を占領してきたイギリスが、ロンドン万博を開催することによって、初めて、ソフトパワーの威力を強く感じたのではないかという気がします。
(2024/5/31 香取淳子)

幕末・明治期の万博②:パリ万博を巡る慶喜、小栗忠順、ロッシュ、それぞれの最期

 前回、パリ万博に関わった二人の幕臣について、ご紹介しました。一人は、小栗忠順(1827-1868)で、もう一人は、渋沢栄一(1840-1931)です。パリ万博への参加決定を促したのが小栗忠順だとするなら、万博使節団一行の欧州滞在から帰国までをサポートしたのが渋沢栄一でした。

 二人はいずれも最後の将軍徳川慶喜(1837-1913)と深く関わっていました。外交、軍事の側面で慶喜にかかわっていたのが小栗忠順でした。

 フランスの駐日公使ロッシュの助けを借りて、幕末の日本にとってもっとも重要で、もっとも困難な外交、軍事の課題に次々と取り組んでいきました。その結果、欧米列強に対抗できる軍事体制の基礎を作ったともいえる人物です。

 そこで、今回は、小栗忠順と最後の将軍徳川慶喜との関係について考えてみたいと思います。

 まずは徳川慶喜の来歴からみていくことにしましょう。

■徳川慶喜

 徳川慶喜は天保8年(1837)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。母は有栖川宮織仁親王の第12王女の吉子女王です。武家の子であり、皇族の子でもあったのです。10歳の時、一橋家の養子となり、一橋徳川家を相続した後、徳川慶喜と名乗るようになりました。

 1866年8月29日に、第14代将軍の家茂が亡くなりました。慶喜は、徳川宗家の継承はすんなり受け入れましたが、将軍職については拒み続けました。

 当時、内政、外政とも幕府は危機に瀕していました。将軍職に就いても、労多くして、実りのないことがわかっていたからでしょうか。慶喜がようやく第15代将軍職に就いたのが、1867年1月10日のことでした。

 すでに30歳になっていましたが、それだけに、慶喜はこれまでの将軍よりもはるかに多様な政治経験を積んでいました。その経歴を見れば、将軍職に就く前に、将軍後見職(1862年)に就き、辞任後は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮(1864年)に就いています。幕府ばかりか朝廷の要職にも就いていたのですが、これは先ほど述べた慶喜の出自が影響していたのでしょう。

 さて、禁裏御守衛総督とは、聞きなれない言葉ですが、これは、幕末に朝廷が、幕府の了解のもと、禁裏(京都御所)を警護するため設置した役職です。それだけではありません。徳川慶喜はさらに、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため、摂海防禦指揮という役職にも任命されていました。

 禁裏御守衛総督時代に撮影された慶喜の写真があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 すっきりとした顔つきと、羽織に袴姿がなんとも印象的です。権威を誇示するような仰々しさがなく、シンプルな中にそこはかとない気品が感じられます。

 この写真からは、慶喜の価値意識が滲み出ているように思えます。すなわち、伝統的な権威の意匠を脱ぎ捨て、コンパクトで機動的、行動力に秀でた実践力を重視する価値意識です。

 おそらく、この頃から慶喜は、服装にも合理化、簡素化を図ろうとしていたのでしょう。写真撮影された姿からは、自らそれを実践していたことがわかります。

 列強が次々と押し寄せ、その都度、為政者が判断を迫られる時代になっていました。もはや伝統に裏打ちされた権威が支配力の源泉ではなくなりつつありました。世界情勢を踏まえ、合理的で論理的な判断を下せる能力こそ、為政者に必要とされるようになっていたのです。

 実際、外国勢にどう対応するかを巡って、国内で対立が激化していました。当時、押し寄せてくる課題に適切、的確に対処する能力がなければ、国が沈没しかねない状況に陥っていたのです。

 慶喜が禁裏御守衛総督に就任したのは、1864(元治元年)3月25日です。朝廷から任命され、役料は幕府から受け取っていました(※ Wikipedia)。

 変則的な職位でしたが、配下に京都守護職や京都所司代を従えた慶喜は、やがて在京幕府勢力の指導的役割を果たす存在になっていきました。

 初代駐日フランス公使ベルクールの後任として、ロッシュ(Léon Roches, 1809 – 1900)が来日してきたのは、ちょうどその頃、1864年(元治元年)4月27日のことでした。

 1865年頃に撮影された写真があります。

こちら →
(※ Wikipedia、図をクリックすると、拡大します)

 56歳頃の礼服姿のロッシュです。やや威圧感があり、生真面目そうに見えます。アラビア語に堪能で、アフリカ諸国で総領事を務め、近代化改革のための助言を行ってきたといわれています(※ Wikipedia)。

 そのロッシュがナポレオン3世によって1863年10月23日、駐日公使に任命されました。アラビア語は堪能でしたが、日本語には疎かったようで、初代ベルクールの通訳であったカションを公使館の通訳として雇用しています。

 まずは初代のベルクールからみていくことにしましょう。

■初代駐日フランス公使ベルクール

 ベルクール(Gustave Duchesne, Prince de Bellecourt, 1817 – 1881)は、初代駐日フランス公使として、1859年から1864年まで在職しました。1858年に制定された日仏修好通商条約に基づき、日本に派遣されました。

 当初、ベルクールは全般に、高圧的な態度を見せていました。西洋諸国が中国に対し、武力介入するのを見てきたせいか、日本に対しても武力行使を否定しませんでした。

 たとえば、1863年7月20日に発生したフランス海軍による下関砲台攻撃を是としていましたし、同年8月の英国海軍による鹿児島砲撃も支持していました。武力行使を当然視していたのです。

 ところが、そのような好戦的な姿勢はやがて、フランス本国政府から批判されるようになりました。というのも、当時フランスは、メキシコ出兵(1861年12月8日‐1867年6月21日)で戦力を使っており、日本との摩擦はできるだけ避けたかったからです。

 ベルクールは、フランス政府の意向を受けて、生麦事件の交渉以降、次第に親幕府的な態度をとるようになりました

 たとえば、1863年秋、幕府が横浜の鎖港を言い出したとき、各国の公使はこれを拒否しました。ところが、ベルクールだけは理解を示し、幕府による横浜鎖港談判の使節団派遣を支援しています。

 そのせいか、1864年(元治元年)にベルクールが任務を解かれ、代わりにレオン・ロッシュが着任することに決まったとき、老中はフランス政府にド・ベルクールの留任を嘆願するほどだったといいます(※ Wikipedia)。

 ベルクールが親幕府的な立場を取っていたので、後任のロッシュも引き続き、幕府とは親密な関係を築いていきます。

■後任のレオン・ロッシュ

 ロッシュは日本語に疎かったので、元箱館の宣教師で、ベルクールの通訳を務めていたメルメ・カション(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon, 1828-1889)を、公使館付きの通訳として雇用しました。

 ところが、1866年(慶応2年)末にカションが帰国し、フランス公使館に通訳はいなくなりました。代わりに、塩田三郎らの幕臣が通訳を務めることになったのですが、これが、ロッシュの情報収集に偏りをもたらしていた可能性は否定できません。

 フランス人通訳を介して情報を入手するのと、幕臣の通訳を介して情報を入手するのとでは受け取れる情報内容が大幅に異なってきます。幕府に都合の悪い情報は、幕臣は伝えないでしょうから、フランス側はもっぱら幕府側の情報に基づき、情勢分析をせざるをえなくなります。

 実は、カションは再び、日本に戻る予定で帰国していました。ところが、徳川昭武使節団一行の世話係として、そのままフランスに留まることになったのです(※ Wikipedia)。

 以後、フランス人通訳を雇用することができないまま、ロッシュの通訳はもっぱら幕臣が務めました。通訳を幕臣に依存している限り、反幕府勢力に関する情報を収集することは困難です。当時の混乱した社会状況をフランス公使が的確に把握できなかった可能性があるのです。

 そのような偏った情報環境の下、初代のベルクールの影響もあって、ロッシュは幕府よりの姿勢を強めていきました。

■ロッシュの提案

 1864年(元治元年)12月8日、ロッシュは幕府から、製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されています。以前からこの件を担当していた小栗忠順が、ロッシュに依頼したのですが、これを契機に、ロッシュはさらに幕府寄りの立場を取るようになっていきました。

 その結果、幕府からさまざまな相談を受けるようにもなりました。ロッシュと幕府との間で成立した政索を整理すると次のようになります。

 ロッシュが提案し、幕府が承認した主な政策は以下の通りです(※ Wikipedia)。

① 横須賀製鉄所建設:1865年1月24日約定書提出、10月13日工事開始。
② 横浜仏語伝習所設立:1865年4月1日開校。
③ パリ万国博覧会への参加推薦:1865年8月15日に幕府承諾。
④ 経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款・武器契約の売り込み:1866年
⑤ 軍事顧問団の招聘:1867年1月13日より訓練開始。

 以上がロッシュの提案内容です。いずれも勘定奉行であった小栗忠順とロッシュが綿密に検討した上で作成し、幕府から承認を得たものです。

 5件のうち、①、②、③、⑤は実現しています。

 ④については、一旦はフランス政府との間で成約していました。ところが、1866年にフランスに帰国したカションがパリの新聞に、「日本は一種の連邦国家であり、幕 府は全権を有していない」という論説を寄稿したのが原因で、フランス政府が対日借款の取り消しを要求してきたのです。

 実際、フランス人が幕藩体制をみれば、連邦国家に見えるでしょう。その認識は間違っていないのですが、駐日公使館の通訳カションが、「幕府が全権を有していない」と書いたことがフランス政府の不安を駆り立て、契約の破棄に至ったことは明らかです。

 フランス公使館が雇用していた通訳だけに、カションの寄稿内容はフランス政府を刺激しました。ようやく成約にこぎつけた600万ドルの対日借款がたちまち取り消され、小栗忠順とロッシュが積み重ねた努力が水泡に帰してしまったのです。

 そればかりではありません。ロッシュもまた、幕府に極端な肩入れをしているとみなされました。フランス政府の意向を無視し、個人的な外交をしていると非難され、終には、フランス外務省から帰国命令が出されてしまったのです。

 さて、ロッシュの提案はいずれも、勘定奉行の小栗忠順(1827-1868)が長年、考え抜き、準備してきたものでした。ロッシュの着任を契機にブラッシュアップされ、幕府の政権基盤を強化する目的で策定されています。

 一連の政策を巡るフランスとの交渉をロッシュとともに進めていたのが、小栗忠順でした。

■小栗忠順

 勘定奉行であった小栗忠順は、先ほどご紹介したロッシュの提案のすべてに関わっています。

 1863年、まだ第14代将軍家茂の時代に、製鉄所建設案を幕府に提出しました。この時、幕閣からは反発されましたが、家茂が承認し、江戸幕府が製鉄所建設に動きました。まだロッシュが赴任する以前のことです。

 製鉄所の建設を開始したのは1865年ですが、実は、それ以前に小栗が下準備をしていたのです。建設予定地の手配、鉄鉱石の検分、採掘施設の建設など、一連の作業は、小栗が済ませていました。

 1865年4月1日には横浜仏語伝習所を開校する一方、パリ万国博覧会への参加を幕府に推薦し、1865年8月15日には承諾を得ています。

 さらに、1866年には経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款で、武器契約の売り込みを行っています。この件は、フランス政府との間で一旦は成約していました。ところが、先ほどご説明したように、カションのせいで対日借款は取り消しになってしまいました。

 最後に、フランスの軍事顧問団を招聘し、実際に1867年1月13日から訓練を開始しています。

 こうしてみてくると、小栗が進めてきた一連の事業は、外交あるいは軍事に関連するものだということがわかります。日本が開国した暁には、必要になるだろうと思われる事業をピックアップし、それぞれを着実に開設あるいは開業できるよう手配していたのです。

 先見の明があったからだけではありません。ロッシュとともに、フランス政府を相手に交渉を進めていったプロセスを考えれば、戦略と情報力、そして、胆力と行動力が彼に備わっていたからこそ、可能だったことがわかります。

 将軍家茂の時代に着手し、慶喜の時代になっても引き続き、幕末の外交、軍事にかかわる政策を牽引していたのです。日本を欧米列強に負けない国に変貌させるためでした。

 俊才だったからこそ、列強の脅威を強く感じていのでしょうし、そのための対策の必要性を感じていたのでしょう。愛国心に支えられ、信念をもって、これらの事業を推し進めてきました。その結果として、幕末の混乱の中、フランスの力を借りながら、近代的な軍事体制の構築に着手できています。

 小栗は、遣米使節団の一員として、1860年に米艦ポーハタン号に乗って渡米し、地球を一周して帰国した経験がありました。日米修好通商条約批准のため、アメリカを訪れたのですが、当地で圧倒的な技術力の差を感じていたのです。

 まずは技術力の差を縮めなければならないと彼が考えたのも当然でした。

 赴任してきたばかりのロッシュに、洋式軍隊の整備をするにはどうすればいいか、横須賀製鉄所の建設を具体的にどう進めればいいのかなど、真剣に相談していました。それは、西欧の技術力の圧倒的な優位に対する恐れからであり、貧弱な国防体制への危機感からでした。

 東善寺の前住職だった村上照賢が描いた小栗忠順の肖像画があります。
 
こちら →
(※ https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-21/、図をクリックすると、拡大します)

 いかにも繊細で、優しそう面持ちが印象的です。幕末の動乱期に小栗が積み上げてきた功績に比べ、あまりにも大人しそうな見かけに驚かされてしまいます。ギャップが大きすぎるのです。

 一見、気弱そうに見える小栗のどこに、果敢な行動力と豪胆なエネルギーが潜んでいたのでしょうか。

 この肖像画からははかり知れない綿密な思考と、それに裏打ちされた大胆な行動力を、小栗は持ち合わせていました。それが、将軍を巻き込み、フランス公使、フランス政府を巻き込み、彼が構想した一連の政索を実現させました。

 一部、失敗に終わった政索があったとはいえ、幕末の動乱期に、フランスの力を活用して日本の軍事力強化を図っただけではなく、パリ万博を通して日本の存在をヨーロッパにアピールすることができたのです。

 一介の勘定奉行が、幕府にとってかけがえのない大きな仕事をしてきたのです。

 一方、徳川慶喜は、将軍職に就くことに躊躇していました。請われても、なかなか引き受けようとしなかった経緯があります。それほど、当時、内政、外政とも幕府は危機を迎えていたのです。

 将軍職に就く以前の職歴を見ると、慶喜は、幕政と朝政、外国勢力に備える防衛をも担当しており、これまでの将軍は経験してこなかったような政治的経験をしていました。それだけに、さまざまなネットワークを通して、幕府の将来が見えていたのでしょう。

 慶喜が将軍職に就いたのは1867年1月10日ですが、いずれ開国せざるをえないという認識を持っていたと思われます。就任すると、列強に対抗できるようにさまざまな制度改革を次々と行いました。

■慶応の改革
 
 慶喜が正式に将軍に就任した慶応2年(1866)以降、改革されたものを「慶応の改革」といいます。

 まず、既存の陸軍総裁、海軍総裁に老中を充てました。翌慶応3年(1867年)の5月には会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁にも老中を割り振り、老中をそれぞれ専任の長官にしました。唯一総裁に任じられていなかった老中首座の板倉勝静に、五局を統括調整する首相役をあてがい、事実上の内閣制度を導入しています(※ Wikipedia)。

 こうしてヨーロッパの行政組織の要素を取り込む一方、諸藩や朝廷の権力を削減し、幕府を頂点とする中央集権国家に向けて、体制を変革させようとしたのです。

 具体的には、人材登用を強化する人事制度改革、新税導入を含めた財政改革、旗本の軍役を廃止(銭納をもって代替)した軍制改革など、幕府を強化する改革を進めました。

 諸外国が迫ってくる中、当時、もっとも重要な課題は、軍事改革でした。

■軍事改革

 まず、幕府中枢に総裁制度を導入して陸軍局を設置し、従来の陸軍組織の上に、老中格の陸軍総裁を置きました。その一方で、築造兵といわれた工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成なども行い、組織化を進めたのです。

 こうして幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、旧来型組織は解体あるいは縮小されました。余剰人員のうち優秀な者は陸軍に編入され、武芸訓練機関であった講武所も陸軍に編入されて、陸軍所となりました。

 もちろん、組織改革を行っただけではありませんでした。近代化された軍事を学ぶため、フランスに指導を仰ぎました。

 シャルル・シャノワーヌ(Charles Sulpice Jules Chanoine, 1835 – 1915)大尉らフランス軍事顧問団による直接指導が導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成されることになりました。

 1866年、日本に出発する前に撮影されたフランス軍事顧問団の写真があります。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Members_of_French_Military_Mission_to_Japan_in_1867.png、図をクリックすると、拡大します)

 中央で立っているのが団長のシャルル・シャノワーヌ、その左に座っているのがデュ・ブスケ、同右側がジュール・ブリュネです。顧問団一行は1866年11月19日にマルセイユ を出航し、慶応2年12月8日(1867年1月12日)に横浜に到着しました。

 横浜に到着した翌日から、軍事顧問団は、エリート部隊であった伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の三兵の軍事教練を開始しました。ところが、その数日後、兵士たちの基礎体力が不足していること、馬の取り扱い能力が不足していること、などが指摘されています。

 訓練したみた結果、フランス軍人には、相当、てこ入れをしなければならないと思えたのでしょう。

 慶応3年3月末の二日間、シャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに将軍徳川慶喜に謁見し、幕府陸軍の抜本的な改革をする必要があると述べています。慶喜は、それについては江戸の陸軍総裁松平乗謨が承り、必要経費は勘定奉行より支給すると回答しています(※ Wikipedia)。

 フランスの軍人からはとても戦力にならないと思えたのかもしれません。提言を受けた慶喜は、具体的なことについては担当の陸軍総裁に任せ、必要経費は払うと回答しています。一応、前向きに対処しているのです。

 さて、フランス軍人から訓練を受けた幕府軍の兵士たちも撮影されていました。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokugawa_Shogunate_Soldiers_Boshin_War_c1867.png、図をクリックすると、拡大します)

 1867年に撮影された写真です。西洋式の軍装に身を包んだ幕府軍の歩兵たちが撮影されているのですが、彼等の緊張した面持ちの中に、幼さが見え隠れしているのが印象的です。
 
 興味深いことに、フランスの軍服を身につけた慶喜の写真も残されています。

こちら →
(※ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TokugawaYoshinobu.jpg、図をクリックすると、拡大します)

 この写真は1866年から1867年頃に撮影されたもので、現在、松戸市戸定歴史館に保存されています。慶喜が身を包んだ軍服は、ナポレオン3世から贈られました。フランスの軍事顧問団が来日した際に手渡されたものだといいます。

 こうしてみると、幕府が一方的にフランスからの恩恵を受けているように見えますが、実は、フランスのために日本が尽力したこともありました。

 たとえば、ナポレオン3世が幕府に強く要請し、慶喜が快く受け入れたものがあります。それは、蚕卵紙の輸出でした。井田氏は次のように、慶喜がナポレオン3世の要請に応じたことを記しています。

 「ナポレオン3世の強い要請のもと、幕府・徳川慶喜は1万5千枚の蚕卵紙をおくりとどけることにした」(※ 井田浩三、「伊能図を元にした海外版刊行図」、『地図』56巻1号、2018年、p.40.)

 蚕卵紙というのは、蚕のメスに、寒冷紗、クラフト紙、硫酸紙、糊引紙などの粘着性のある台紙の上で卵を産み付けさせた後、水で余分な糊を洗い落とし、更に塩水や風による自然乾燥によって不純な卵を落として製品化したものです(※ Wikipedia)。

 当時のヨーロッパでは、蚕が原因不明の病に冒され、養蚕が壊滅の危機に瀕していました。先進性を誇るフランスも、日本や中国からの蚕卵の輸入に頼らざるをえない状況でした。ナポレオン3世からのたっての願いを聞き入れ、慶喜は蚕卵紙の輸出の応じたのです。結果として、フランスの危機を救うことになり、わずかとはいえ、互恵関係を築くことができました。

 幕末の一時期、慶喜と小栗、ロッシュは共に、幕府の強化のためにフランスの力を借りて、制度改革を行いました。

 彼等は、その後、どのような運命の展開を迎えたのでしょうか。

■慶喜、小栗忠順、ロッシュの命運

 3人のうち、幕府の強化のためにもっとも力を尽くしたのは小栗忠順でした。

 慶喜が打ち立てた「慶応の改革」のうち、ほとんどが以前から小栗忠順が構想していた政策でした。幕府を守るため、開国すべきという考えに立っていた小栗は、外国の意のままにならないために、なによりもまず、軍事力を近代化が必要だと実感していました。

 当時の日本の軍事力ではとても列強には勝ち目がないことがわかっていたのです。だからこそ、軍艦は欧米から輸入するのではなく、自前で軍艦を建造する必要があると考えていました。1860年に訪れたアメリカで、欧米との技術力の差を小栗は痛いほど感じていたからでした。

 そして、その圧倒的な技術力の差は、実際に建造できる力を身につけないと縮まらないとも考えていました。

 軍艦を製造するには、製鉄所や造船所を建設しなければなりません。さらには、製造技術だけではなく、軍艦を操作する技術、西洋式の軍事訓練など、その周辺作業も学ぶ必要がありました。フランスの軍人や技術者を招聘し、指導を仰いだのはそのためでした。もちろん、フランス人から学ぶためにはフランス語を理解できなければならず、横浜仏語伝習所を設立しています。

 このようにして、小栗は隈なく手を打ち、一定の段階までこぎつけました。

 ところが、1867年11月9日、第15代将軍の慶喜は朝廷に大政奉還をし、幕府の屋台骨が崩れてしまったのです。続いて、1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発して、戊辰戦争に至りました。壊滅の道を進んでいくのです。

 当時、小栗は、榎本武揚や水野忠徳らとともに、徹底抗戦を主張していました。具体的な戦略まで提案していたのです。小栗は軍事作戦にも長けていました。この作戦を採れば、勝てる目算があったといいます。

 ところが、慶喜はこの作戦を採用しませんでした。穏便に済ませたかったのです。

 最初に言いましたように、慶喜は武家の子であり、皇族の子でもありました。薩長が構想する朝廷を中心とする中央集権体制に移行するのも悪くないと考えていたのかもしれません。

 家茂が亡くなった後も、慶喜はなかなか将軍職の承継を受け入れませんでした。幕府を中心とした中央集権体制ではなく、朝廷を中心とした中央集権体制に期待していた可能性があります。

 幕府を存続させるための徹底抗戦を主張する小栗の作戦は、慶喜によって却下されました。

■それぞれの最期

 その後、小栗は江戸を去り、高崎市の東善寺で静かな生活を送っていました。ところが、1868年5月27日、追手に引きずり出され、家臣らとともに処刑されてしまいました。家臣3人が先に次々と斬首され、最後に小栗が斬首されました。

 享年40歳でした。不当だと訴えることもなく、ただ、家族の安全を願って、淡々と理不尽な死を受け入れました。小栗忠順は最期まで胆力のある人物でした。

 一方、ロッシュはその後、まもなく公使を罷免され、1868年6月23日に日本を離れ、フランスに帰国しました。以後、外交官を辞めて引退し、ボルドー郊外で余生を過ごし、90歳で亡くなったといいます。

 そして、慶喜は1868年4月11日、謹慎のため水戸に向かい、15日に到着しています。以後、水戸で暮らしていましたが、榎本武揚らが降伏して戊辰戦争が終結したのを期に、1869年9月、謹慎を解かれました。以後、静岡で趣味に没頭する生活を送り、1913年11月22日、76歳で亡くなっています。

 三者三様の最期を思うと、理不尽な思いに駆られざるをえません。

 なぜ、小栗忠順は無残な最期を迎えなければならなかったのでしょうか。

 幕末の動乱期に、外交の力でフランス政府の支援を得て、軍事力を高める基盤を作り、その一方で、パリ万博参加を実現させて、列強に日本の存在を印象づけました。

 幕末日本にとって誰もなしえなかったほどの功績をあげていながら、報われることなく、生を閉じざるをえなかったのでしょうか。(2024/4/30 香取淳子)