■パリ万博のイベント効果
前回、ヴィクトリア女王をエスコートするナポレオン三世を描いた絵をご紹介しました。嬉しそうな表情を浮かべ、万博会場を案内する姿がなんとも印象的でした。女王夫妻が来訪してくれたおかげで、開催目的の一つが達成できたのです。ラフなスケッチでしたが、画家は、ナポレオン三世の心情を、みごとに捉えていたのです。
1855年のパリ万博は、ナポレオン三世が強く望んで開催されました。革命を経て皇帝の座に就いた彼はなによりも、樹立した第二帝政を特にイギリスから承認してもらいたがっていました。イギリスの承認を得れば、他の諸外国も追随し、国際的な承認が得られるという思惑があったからでした。
ヴィクトリア女王夫妻は1855年8月20日、パリの万博会場を訪れて、展示品はもちろん、趣向を凝らした展示会場も見てくれました。ナポレオン三世にとっては十分、万博の開催目的は達成されました。女王が来訪してくれただけで、万博の開催は大成功だったのです。
パリ市民たちも熱烈に女王夫妻を歓迎しました。その熱気が、歓迎する側だけではなく、される側にも伝わり、増幅されました。一種のイベント効果によって、祝祭空間が生み出されました。
会場への途上、女王夫妻には、大改造したパリの街を見てもらうことができました。街路や街並みを通して、フランスの政治、経済、文化がいかに優れているか、近代的かを強くアピールすることができたのです。
もちろん、パリ万博には海外からも多数、来訪しました。34ヶ国が参加し、会期中に516万2000人が来場しました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1855.html)。彼らもまた、展示会場だけではなく、パリの街並みや街路を見て、感嘆しました。まだ建築途中のところも多々、あったとはいえ、大改造したパリの街並みの訴求効果は抜群でした。
万博には、国際イベントとしての効果があっただけではありませんでした。ナポレオン三世は、国際展示場としての機能に着目しました。なんと、万博を機にフランスワインを売り出そうと考えたのです。
■製品の格付けとブランド化
フランスのボルドー地方のワインは、すでにイギリスに輸出されていました。ボルドーからはパリよりもイギリスの方が近いからでした。そこにナポレオン三世は目を付けたのです。
万博に出品する農産部門の中心産品として、ナポレオンはこのボルドーワインを選び、ボルドー市に格付けすることを命じました。そこで、ボルドー市は商工会議所に依頼し、仲買人組合がワインの格付けを行いました。
その結果、メドック地方のシャトー(製造所)から、61の赤ワインが1級から5級までの5段階で評価され、格付けされました。第1級に選ばれたのは、メドック地区の「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、「シャトー・マルゴー」、「シャトー・ラトゥール」、グラーブ地区の「シャトー・オー・ブリオン」でした。
これらは、今日でも有名な4つのシャトーです。そして、1855年のパリ万博のために設定された格付けが今でも、購入の際の目安として通用しているのです。
現在は、「1855年メドック格付け」と呼ばれています。ピラミッド型の等級構造になっており、上質なワインの序列をわかりやすくするために、設定されました。
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(* https://rys-cafe.bar/column/wine-no-yomimono/knowledge/wine-rating/ 図をクリックすると拡大します)
上図で示されているように、メドック格付けの場合、1級から5級の評価になっており、頂点の1級は61シャトーのうちの5シャトーを指します。
それまでは、もっぱら産地とその周辺で消費されるだけでした。ところが、このように格付けをし、安心して良質の産品を買えるようにすることによって、販路が広がりました。鉄道網が整備され、税制が緩和されることによって、やがてフランス全土、さらには全世界へと輸出されるようになりました。
フランスのワインが世界のブランドとして地位を築いたのは、19世紀半ば以降のことでしたが、それにはナポレオン三世が、1855年パリ万博の際、ワインの格付けを行ったことがおおいに寄与しています。時間が経つとともに、ボルドーワインはブランド化し、輸出品として幅広く海外で消費されるようになりました。
この一件を見ても、ナポレオン三世が企業家としても優れた資質を持っていたことがわかります。1855年パリ万博を開催することによって、そのイベント効果を活用したのです。一気に産業化を進めることができ、経済力、国力、文化力を高め、イギリスとの格差を縮めることができたました。
パリ万博の効果は抜群でした。その余韻に浸る間もなく、イギリスが再び、万博を開催しました。
■1862年ロンドン万博
第2回ロンドン万博が、1862年5月1日から11月15日まで、ロンドンのサウスケンジントンで開催されました。第1回を上回るものにしようという主催者の意気込み通り、会期は前回より一か月も長い171日間でした。入場者数も17万2000人多く、621万1000人に及びました。
サウスケンジントン会場の絵があります。ご紹介しましょう。
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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1862_international_exhibition_01.jpg 図をクリックすると拡大します)
展示会場の面積は23エーカーで、1851年の19エーカーよりもはるかに広いものでした。開催期間は長く、入場者数も多かったのですが、第1回に比べ、強烈な印象を残すことはなかったようです。
万博の象徴にもなっていたヴィクトリア女王の夫のアルバート公が、1861年に死去したことも影響したのでしょうか、第1回ほどのインパクトを人々に与えることはできませんでした。
社会状況も影響していたかもしれません。当時、欧米もまた戦乱に明け暮れていました。
1850年代にイギリスは占領地インドの反乱、クリミア戦争を経験し、アメリカではこの時期、南北戦争が勃発していました。そして、フランスもまたイギリスとともにクリミア戦争(1853‐56年)、アロー戦争(1860年)を戦い、1866年にメキシコに出兵するといったような戦乱に明け暮れていた時代でした。
そんな最中に企画、開催されたのが1862年のロンドン万博ですから、武器が展示され、銃器が金メダルを獲ったのも当然のことでした。1862年ロンドン万博は、軍需産業のアピールの場としても強く印象づけられる万博でした。
たとえば、1862年ロンドン万博で金メダルを受賞したのが、ホイットワース(Whitworth)社の銃でした。スケッチ画をご紹介しましょう。
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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/796r.html 図をクリックすると拡大します)
ホイットワース社のライフル銃は、南北戦争(1861-65)で南軍に採用されていました。第2回ロンドン万博が開催された頃は、ちょうど南北戦争の真っただ中で、実戦で使われていた武器が出品されていたのです。ここでは近代的な武器が出揃っており、銃の歴史が大きく変化していることが確認できました。
あらためて、戦時こそ、先端技術の開発が進むのだということを認識させられました。先端技術を発明して殺傷能力の高い武器を開発し、安価に生産できるようにすれば、戦闘に勝利しやすくなるからです。
先進諸国は、国を挙げて、産業化を推進し、市場を求めて覇権を争っていました。その推進力になるのは最先端技術でした。
■最先端技術
覇権争いに呼応して、先進国ではさまざまな技術が発明され、製品が開発されていました。第2回ロンドン万博では、そのような社会情勢を反映するかのように、最先端の技術製品が展示されていました。
来場者にとっては、多様な技術や知識を摂取することができる場になっていました。万博会場が、最先端技術や知識の発信源となっており、開発意欲を刺激する場にもなっていたのです。
たとえば、ベッセマー(H. Bessemer)の製鋼法やバベジ(C. Babbage)の計算機などが注目されます。
ベッセマー(H. Bessemer)は1856年に、イギリスで新しい製鋼法を発明しました。これは溶けた銑鉄に空気を吹き込むだけで鋼になるという仕組みの製法です。これによって、鋼を大量生産できるようになり、安価に鋼鉄製品を供給できるようになりました。
会場ではベッセマーの転炉が展示されていました。鋼鉄製品の製造に不可欠の技術であり、装置でした。各国の来場者たちの関心を集めたことでしょう。
また、バベジ(C. Babbage)が開発した計算機も展示されていました。
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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AnalyticalMachine_Babbage_London.jpg 図をクリックすると拡大します)
まだ多くの人々の関心を集めていなかったかもしれませんが、すでに計算機が造られていたことに驚きました。この時期、先進国では機械化、自動化の動きが活発になっていたことがわかります。
鋼鉄の製法や計算機など、最先端技術の発明以外にも、ロンドン万博には産業化の更なる発展に寄与できるような製品が多々、出品されていました。機械工学的な製品は、当時の先進国が求めるものでもあったのでしょう。大勢の人々が訪れて刺激され、最新の技術や知識を摂取して帰っていきました。
■日本人一行の来訪
世界の科学技術の中心ともいうべき第2回ロンドン万博に、日本人一行が訪れていました。鎖国していた日本から、武士の一群が見学に来ていたのです。
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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_ambassadors_in_London.jpg 図をクリックすると拡大します)
これは、イラストレイテド・ロンドン・ニュース(Illustrated London News )の5月24日付記事に描かれていた図です。丁髷姿の武士たちが、羽織袴を着て、刀を差し、会場を見学する様子が描かれています。
一行は、幕府から派遣された使節団でした。竹内下野守保徳を正使とする総勢38人の使節団が訪れていたのです。彼らは、1858年に幕府が欧州5か国と締結した修好通商条約で交わされた新潟や兵庫の開港および江戸と大坂の開市を延期する交渉と、ロシアとの樺太国境を画定する交渉のためにヨーロッパに派遣されていました。
使節団は1862年4月20日にロンドンに到着し、5月1日に第2回ロンドン万博の開幕式に出席していました。
使節団の主要メンバー4人の写真が残されています。
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(* https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bunkyu_Japanese_Embassy_to_Europe_Matsudaira_Takenouchi_Kyogoku_Shibata_1862.png図をクリックすると拡大します )
左から、松平康直(副使)、竹内保徳(正使)、京極高朗(目付)、柴田剛中(組頭)です。
一行はフランスを経てイギリスに入り、ロンドンに到着した翌5月1日にロンドン万博が開幕しました。竹内、松平、京極らは開会式に招かれています(* 宮永孝、『文久二年のヨーロッパ報告』、新潮社、1989年、p.71.)。
派遣使節一行の旅程を組み、通訳としてかかわっていたうちの一人が、駐日大使のオールコックでした。だから、第2回ロンドン万博の開幕に合わせてロンドンに到着することができたのでしょう。
■アームストロング砲
使節団は滞在中に何度も会場を訪れ、熱心に展示品を見学しました。とくに機械類に興味を示していたといいます。幕藩体制に揺らぎが見え、列強からの侵略に備えようとしていたのでしょうか、使節団一行はもっぱら武器に興味を示していたのです。
会場には、1855年に発明されたアームストロング砲も展示されていました。スケッチ画をご紹介しましょう。
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(* https://www.ndl.go.jp/exposition/data/R/798r.html 図をクリックすると拡大します )
このアームストロング砲は1855年に開発され、あらゆる半径、枠に対応できたといいます。使節団の興味関心を強くかき立てました。中には、製作過程のメモを取っていた者もいたといいます。利用価値が高いと考えたのでしょう。
幕末の日本に大きな衝撃を与えたのが、このアームストロング砲でした。実際、薩英戦争(1863年8月15日‐17日)の際に使われており、薩摩藩に衝撃を与えました。
薩摩藩はその後、アームストロング砲のマニュアルを入手し、1864年に解説書を出版しています。さらに、薩摩藩や佐賀藩は、グラバー商会経由で、さまざまな重量のアームストロング砲を輸入し、研究を重ねました。
その結果、佐賀藩はアームストロング砲の複製に成功しています。戊辰戦争では佐賀藩が製造した国産アームストロング砲が使われており、会津戦争では、新政府軍の主力兵器として活用されました(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/)。
佐賀城には、当時のアームストロング砲が復元されて、展示されています。
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(* https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/cannon-type/ 図をクリックすると拡大します)
佐賀藩は、イギリスから輸入したアームストロング砲を分解して研究し、やがて自前で製造できるようにしていったのです。優れた西洋の技術を吸収するには、まず製品を輸入し、その構造を把握してから、模造品を造り、その後、さまざまに改良を加えて国産にしていくという方法でした。
これはほんの一例ですが、当時の日本人はこのようにして見よう見まねで西洋技術を獲得していったことがわかります。
さて、この第2回ロンドン万博には、日本の工芸品が展示されていました。
■オールコックが出品した日本の工芸品
正式に参加していたわけでもなかった日本の工芸品がなぜ、ロンドン万博の会場に展示されていたのでしょうか。
実は、初代駐日イギリス公使のオールコック(Sir John Rutherford Alcock KCB、1809- 1897)が、日本で収集したコレクションを出品していたのです。漆器や刀剣といった工芸品だけでなく、蓑笠や提灯、草履などの日用品も展示されていました。いずれも、ヨーロッパの人々には物珍しく、絶賛されました(* https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1862-1.html)。
使節団の一員であった福沢諭吉は、「博覧会は世界各国の物産を一堂に集めたもので、出品された品目は金銀銅鉄製品、農工業製品、織物、蒸気機関、船舶・浮きドックの模型、美術工芸品、鉄砲など百種類を超えた」と記し、会場の一角には「駐日公使オールコックや横浜の居留民が本国政府の要請に応じて適当に選んで送った、日本の展示品も見られた」と報告しています。
さらに、使節団に同行した医師の高島祐啓は、『欧西紀行』の中で、日本から出品されたものはがらくたが多く、「見るに耐えなかったのは、提灯、傘、木枕、油衣、蓑笠、木履、草履などの類まで並べてあったこと」だと記しています(* 前掲、p.78.)。
会場で展示されていたのは、どうやら日本人の目から見れば「がらくた」にしか見えないものだったようです。当時の日本人なら、恥ずかしいと思ってしまうような日用品が展示されていましたが、いずれも、イギリス人オールコックが興味を持って日本で収集したコレクションでした。
オールコックと同様、会場を訪れたヨーロッパ人にも、物珍しく珍重すべきものと思えたのでしょう、日本の工芸品や日用品は、彼らの注目を集めました。オールコックが出品した日本の工芸品は予想を超えて、ヨーロッパの人々の日本に対する関心を高めました。
アヘン戦争の影響で、ヨーロッパでは人々の関心が、極東アジアに向けられていた時期だったからかもしれません。
■異文化産品の展示
1862年ロンドン万博では、1855年の第1回パリ万博をヒントに、彫刻や絵画といった美術品が数多く展示されていました。その一方で、植民地からの産品も多数、展示されており、多様性のアピールの場にもなっていました。
いち早く産業革命を遂げたイギリスが、海外に市場を求めて交易を活性化させており、それを反映するかのように、海外の植民地から、さまざまな産品が出品されていたのです。
産業化時代、帝国主義時代の動向を如実に反映していたのが第2回ロンドン万博の特徴ともいえました。
第1回ロンドン万博の水晶宮が与えたような衝撃はありませんでしたが、出品物の多様性からいえば、2回目のロンドン万博はまさに万国博覧会の名にふさわしい内容でした。依然として産業品の展示会としての要素が強いものではありましたが、その中に芸術品や異文化の物品も扱われていたのです。
ナポレオン三世が再び、第2回パリ万博を開催することを決意したのも不思議はありませんでした。
1862年ロンドン万博では、芸術品や異文化の工芸品などが一般の入場者の関心を集めましたが、初めて本格的な美術品の展示を行ったのは、1855年パリ万博でした。
実は、モンテーニュ大通りの独立したパビリオンで、絵画を展示したのも、海外の植民地からの文物を大規模に展示したのも、パリ万博が最初でした。ロンドン万博との差別化を図るためにフランスが打ち出した新機軸だったのです。
そのアイデアが、2回目のロンドン万博に取り込まれて、多数の入場者の関心を集めました。それを知ったナポレオン三世が、イギリスにお株を奪われたような気持ちになっていたかもしれません。
しかも、日本の使節団一行が、ロンドン万博を見学していました。1862年5月24日の新聞記事で報じられましたから、当然、ナポレオン三世の耳にも入っていたでしょう。このことが、イギリスへの対抗意識を刺激した可能性があります。
■フランスの諸事情
フランスのリュイ外相は、使節団一行と貿易規制問題について話し合っています。ところが、なんの成果も得られないまま、使節団はロンドンに向かったという経緯がありました(*中山裕史、『幕末維新期のフランス外交』、日本経済評論社、2021年、pp.69-73)。
フランスにとって懸案の生糸貿易について解決できなかったのです。ナポレオン三世はそのことも懸念していたのではないかと思います。
絹織物産業はフランスにとって重要な産業でしたが、1860年代に蚕が微粒子病に感染し、大きな打撃を受けていました。ヨーロッパは同様の被害を受けていたので、極東の蚕をいくつか試したみたところ、日本の蚕がもっとも品質が高いということになり、フランスは日本から蚕の輸入するようになりました。その結果、国内使用の蚕が不足するようになり、幕府が輸入規制をしていたのです(* 前掲)。
1862年に4月にフランスの外相が使節団と話し合ったのはおそらく、その件でしょう。フランスにとって、絹織物産業は外貨を稼げる主要産業でした。それだけに、ナポレオン三世は、日本とは何としても友好関係を築き、スムーズに貿易を進めたいと考えていたにちがいありません。
ナポレオン三世には、1855年パリ万博にヴィクトリア女王夫妻を招待し、第二帝政を承認してもらっただけではなく、フランスの国際地位を高め、産品のブランド価値を高めることができたという経験がありました。
このようなフランスの事情を勘案し、ナポレオン三世が、再び、パリ万博を開催して、日本からの蚕輸入をスムーズに進めたいと考えた可能性はあります。旺盛な実業家精神を持ち合わせた彼なら考えそうなことでした。
1863年6月、ナポレオン三世は万博開催の勅命を発し、第2回万博開催を決定しました。第2回ロンドン版万博からわずか1年後のことでした。
当時、フランスは対外的にいくつもの火種を抱え、メキシコ派兵でも失敗していました。それにもかかわらず、ナポレオン三世が早々に第2回パリ万博の開催を決意したのは、万博開催こそが、政治的にも経済的にも有益なものだと認識していたからでした。
興味深いことに、ナポレオン三世は、日本都の蚕や生糸の輸入をイギリスには極秘で行っていました(* 高杜一榮、『蚕の旅』、文芸春秋社、2013年、pp.226-227)。イギリスに対する対抗意識からでしょうか。それとも、日本の良質な蚕や生糸を占有するためだったのでしょうか。
(2024/9/30 香取淳子)