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27日

カイユボットは第二帝政時代をどう描いたか ④:第1回印象派展を批評家はどう見たか

■批評家から見た印象派の画家の作品

 第1回印象派展で、批評家ルイ・ルロワ(Louis Leroy, 1812-1885)から酷評されたのが、ピサロの作品、《白い霧》でした。アカデミズムの作品を見慣れてきた批評家にとっては耐えられないレベルだったのでしょう。

 果たして、どのような作品だったのでしょうか、今回はまず、この作品から見ていくことにしましょう。

●《白い霧》(Hoarfrost, 1873年)

 ピサロ(Camille Pissarro, 1830 – 1903)は、第1回印象派展の開催に尽力した画家たちの一人で、当時、43歳でした。展覧会には、出品目録No.136からNo.140までの5点が展示されました。いずれも風景画ですが、その中の一つが、酷評されたこの作品です。

(油彩、カンヴァス、65.5×93.2㎝、1873年、オルセー美術館蔵)

 丘陵地にある畑に畝が幾筋も伸び、その上をうっすらと霜が降りている様子が描かれています。その畝の合間を縫うように、薪を背負って歩く農夫の後ろ姿が捉えられています。暖を取るための冬支度をしているのでしょう。

 画面全体を見渡すと、右手前以外は、畝の描き方、霜の描き方、いずれも雑で、何とも不自然に見えます。傾斜地の起伏を考慮せず、ただ太い線を引いただけの幾筋もの畝がいかにも稚拙なのです。しかも、この部分の霜もまた、地面全般に薄い白を重ねただけでした。

 これでは、ルイ・ルロワに貶されても、文句はいえないでしょう。

 もっとも、薪を背負って歩く農夫の姿が添えられたことで、画面からは、初冬を迎えた農村の生活の厳しさが伝わってきます。風景がとしては稚拙ですが、農夫を描くことによって、観客を誘い込む情感が、画面に生み出されたのです。

 さて、評論家のルイ・ルロワは、この作品に対する感想を、案内した観客と対話するという形式で表現しています。引用してみましょう。

 「ほら…深く耕された畝に霜が降りているのが見えるでしょう」

 「あの畝?あの霜?でも、汚れたキャンバスにパレットの削りかすを均一に置いたものです。頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」

 「そうかもしれません…でも印象は表現されています」

 (※ ジョン・リウォルド、三浦篤、坂上桂子訳、『印象派の歴史』、2019年、角川ソフィア文庫、pp.32-33)

 対話形式なので、否定のニュアンスは若干、弱められていますが、ルイ・ルロワのいうように、稚拙な表現であったことは疑いようもありません。彼は、案内した観客の言葉を引用しながら、「汚れたキャンバスにパレットの削りカスを均等にまき散らしたとしか見えない」と酷評しているのです。

 極めつけは、「頭も尻尾もなく、上も下もなく、前も後ろもありません」と評した上で、「でも、印象はそこにあります」と結論づけているところです。そのようなオチをつけなければ、当時はこの作品を評価することができなかったのでしょう。

 アカデミズムの技法を踏まえずに描かれた画面は、たしかに、前後、左右、上下がなく、捉えどころがありません。当時、西洋画の基本であった遠近法や透視図法も採用されておらず、筆触を消すための入念な仕上げも施されていませんでした。アカデミーの基準で評価できる作品ではなかったのです。

 これまでの判断基準を適用できないこの作品を見たとき、評論家ルイ・ルロワは、その捉えどころのなさの中にこそ「印象はある」と、揶揄するしかなかったといえます。

■当時の評価基準と第1回印象派展

 なにもピサロばかりではありません。第1回印象派展には、今では著名な多くの画家たちが出品していましたが、ほとんど評価されていませんでした。評論家や審査員たちはアカデミックでない作品をどう評価していいかわからず、ただ、絵画とみなせるか否かで判断していただけでした。

 たとえば、マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 – 1898)は、当時の審査員たちについて、「審査員は、これは絵画である、あれは絵画でないといっていればよい」と述べています(※ 前掲、p.46)。絵画の評価基準はそれほど混沌とした状況にあったのです。そして、印象派の画家の作品のほとんどは、「絵画ではない」という判断をくだされていました。

 そもそも、アカデミズムの支配から抜け出そうとして、制作活動を展開していたのが、第一回印象派展に出品した画家たちでした。当然のことながら、多くの批評家にとって彼らの作品は理解しがたく、戸惑い、困惑するしかありませんでした。

 その後、「印象派」という漠然とした呼び名で彼らが総称されたことで、一つの流れが生み出されました。アカデミズムではなく、新しい題材や表現を模索する画家たちの登場という流れです。

 まだ確かな方向性は見えてこないものの、未来を感じさせ、新しい時代の到来を予感させるものがありました。

 当時、アカデミズムの基準が盤石なものではなくなりはじめていましたが、新しい評価基準、評価視点はまだ定まっていませんでした。社会変動に伴い、美術界のヒエラルキーにも揺らぎが見え始めたころ、登場してきたのが、印象派として括られた画家たちでした。

 産業革命後、新興勢力が台頭してくるにつれ、美術市場にも変化が訪れていました。

 それまで顧客であった王族、貴族、富裕者層に加え、新たにブルジョワジー層が美術市場の顧客として浮上してきていたのです。進取の気性に富む彼らは、アカデミックな画法を堅苦しく思い、自由な視点で選ばれた題材、自由な画法で描かれた作品に注目しました。

 美術市場の裾野が広がるにつれ、反アカデミックな姿勢の画家たちの作品にも関心が寄せられるようになっていたのです。明らかに産業化に伴う時代の変化が、美術界にも押し寄せていました。

 とはいえ、サロンの力はもちろん、まだ絶大でした。

 たとえば、マネ( Édouard Manet, 1832 – 1883)は、ドガに誘われながらも、決してこの第1回印象派展に出品しようとしませんでした。それは、どうやらサロンに出品しなければ、画家として認められないと考えていたからだったようです。逆に、ドガに向かって、「一緒にサロンに出品しましょう。あなたなら、よい評価を受けますよ」とまでいっていたそうです(※ 前掲、p.27)。

■サロンの権威

 ナポレオン3世の第二帝政期にパリは大改造され、ヨーロッパ最先端の文化都市になっていました。それを象徴するように、サロンが社会的行事として定着しており、美術批評も盛んにおこなわれていました。

 それだけに、当時、画家として認められるには、サロン(Salon de Paris)に出品して評価されることが前提になっていました。

 サロンが絶対的な力を持つ状況下で、画家が作品を売ろうとすれば、サロンでの成功が不可欠でした。サロンの審査員から高評価を得る必要があったのです。

 ところが、サロンの審査委員のほとんどは、アカデミーの会員でした。審査員は、画家の間での選挙と行政による任命によって選ばれるシステムでしたが、どちらの場合も結局、アカデミー会員から選ばれることが多く、サロンの審査基準がアカデミーから逸れることはなかったのです。

 サロンの審査基準は、新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに基づくものでした。そして、そのような評価基準は一般の美術評論家はもちろん、観客にまで幅広く浸透していました。

 アカデミーに基づく審査基準、そこから派生した絵画全般の評価基準に支えられ、サロンの権威はますます強化されていきました。当時の絵画観はサロンによって、形成されていたのです。

 そのような状況下で、第1回印象派が開催されたとしても、出品した画家たちの作品が高評価を得る可能性はほぼないに等しい状況でした。

 実際、それは展覧会への入場者数にみごとに反映されていました。同じ年に開催されたサロンは連日、大勢の観客でにぎわい、入場者数は40万人にも及びましたが、印象派展はわずか3500人程度でした。

■『落選展』よりひどい、『第1回印象派展』

 共和主義者の評論家たちは比較的、印象派の画家たちに好意的でしたが、それでも、「思い出すと必ず笑ってしまうほどの、あの有名な『落選者展』でさえ、カピュシーヌ大通りの展覧会に比べたらルーヴルのようなものだ」と評していました。

 『落選者展』とは、サロンに落選した作品を集めて展示した展覧会です。たいていの場合、1863年の展覧会を指しますが、これはナポレオン三世によって開催されたものです。

 第二帝政期以降のサロンは保守的な傾向を強め、1863年のサロンでは3000点以上の作品が落選しました。画家たちからの抗議が殺到したので、ナポレオン三世の発令で開催されたのが、『落選者展』です。ところが、多くの批評家や観衆は、サロンに落選した作品を見て嘲笑していたのです。

 その『落選者展』よりも「カピュシーヌ大通りの展覧会」(『第1回印象派展』)の方がひどいといっているのです。

 そんな中で、批評家のカスタニャリ(Jules-Antoine Castagnary, 1830 – 1888)は、印象派の画家たちを、どちらかといえば、客観的に評価していました。

 「彼らに共通の概念は、滑らかな絵肌の仕上げを求めずに、概略的な要素を示すだけで満足することである。ひとたび印象が把握されれば、彼らのするべきことは終わったことになる。(中略)彼らは、風景を表現しているのではなく、風景から得られる感覚を表現しているという意味において、印象派の画家といえるのである」(※ 前掲、p.50)

 こうして評論家たちは彼らを、次第に、「印象派」の画家として位置づけていくのですが、ドガはこう呼ばれることを嫌いました。というのも、当時、この言葉には嘲笑的なニュアンスが込められていたからでした。

 ちなみに、ドガは第1回印象派展の開催に力を尽くしており、親しくしていたルアールはもちろん、年若いカイユボットにも出品を勧めていました。この展覧会によって、アカデミズムにはない新機軸を打ち出そうとしていたのです。

 実は、ドガは手厳しい評論家たちからも比較的評価は高かったのです。

 それでは、ドガの作品は一体、どのようなものだったのか、見てみることにしましょう。

■第1回印象派展への出品作品、同時期の作品

 ドガ(Edgar Degas, 1834 – 1917)は当時39歳で、10点出品していました。出品目録のNo54からNo63までがドガの出品作品です。これら10点のうち、デッサン画やパステル画を除いた作品のうち、Wikipediaで紹介されているのが、No57の《Blanchisseuse 》でした。(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95

 ドガはこの時期、洗濯する女性を取り上げ、多くの作品を描いており、紛らわしいタイトルがいくつもありました。さらに、この作品のタイトルについては、日本版Wikipediaでは、女性定冠詞「la」が付けられ(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%B0%E8%B1%A1%E6%B4%BE%E5%B1%95)、出品目録では定冠詞がなく(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_%C5%93uvres_pr%C3%A9sent%C3%A9es_%C3%A0_la_premi%C3%A8re_exposition_impressionniste_de_1874)、フランス版Wikipediaでは、複数定冠詞「les」付けられていました(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Edgar_Degas#/media/Fichier:Edgar_Degas_-_Washerwomen_-_Google_Art_Project.jpg)。

 後の人々がこの作品のタイトルをどう扱えばいいのか迷った形跡がうかがえます。ここでは、日本版Wikipediaに従い、女性定冠詞の付いたタイトルを使います。

 それでは、ドガの作品《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)を見てみることにしましょう。

●ドガ、《洗濯女》(La Blanchisseuse, 1870-1872)

 非常に小さい作品です。最初、鏡に映った女性の姿を描いているのかと思いましたが、よく見ると、顔立ちから表情、手の位置まで異なっています。二人の女性が顔を寄せ合っている様子を描いたものでした。

(油彩、カンヴァス、21×15㎝、1870‐1872、アンドレ・マルロー近代美術館蔵)

 女性が二人、ともに目を伏せ、憂いに沈んでいるような表情を浮かべているのが印象的です。暗い表情のせいか、左の女性が頭から顎にかけて巻いている白い布は、包帯のように見えますし、右の女性の手は口元を手で押さえており、歯の痛みに苦しんでいるように思えます。

 タイトルは《洗濯女》ですが、洗濯するシーンは描かれておらず、女性たちの頭部に焦点が当てられているところがユニークです。辛く厳しい彼女たちの日常を、頭痛あるいは歯の痛みなど、頭部周辺の痛みに置き換え、象徴的に表現したとも考えられます。

 ドガはこの頃、洗濯する女性をモチーフに、いくつも作品を残していますが、いずれも上半身で作業をする姿が描かれており、このような構図の作品は見当たりません。おそらく彼女たちの心理に肉薄しようとしたのでしょう、至近距離で二人の顔面が描かれています。クローズアップで捉えた二人の構図が面白く、画面に込められたメッセージが気になります。

 そういえば、ドガは新興ブルジョワジーの出身で、1855年にエコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts)入学し、アングル派の画家ルイ・ラモート(Lois Ramote )に師事しました。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究しています。

 彼の経歴を見れば、明らかにアカデミーの教育を受けているのですが、第1回印象派展を開催した頃、手がけていた題材は、洗濯女や踊り子でした。ブルジョワ階級の出身でありながら、労働者階級の人々に深く心を寄せて、制作していたことがわかります。

 果たして、どのような観点から描こうとしていたのでしょうか。試みに、作品タイトルBlanchisseuseとEdgar Degasをキーワードに検索してみたところ、驚くほど多数の作品があがってきました。

 当時、ドガは洗濯する女性をどのように捉えていたのか把握するため、それらの中から一つ作品を取り上げ、ご紹介していきたいと思います。

 ここでは、第1回印象派展の開催(1874年)に近い、1873年に制作された作品《A Woman Ironing》を取り上げることにしたいと思います。

 この作品の出品時のタイトルは元々、《Une Blanchisseuse》(洗濯)でした。それが時を経て、そのまま、《Une Blanchisseuse》とするもの、あるいは、作品内容に合わせ、《La Repasseuse》とするもの、さらには、《A Woman Ironing》と英語表記で画面内容に合わせたもの、といった具合に三種類もありました。先ほどご紹介した《洗濯女》と同様です。

 Wikimedia Commonsでは、この作品のタイトルが《A Woman Ironing》になっていましたので、こちらのタイトルを使うことにしました。それでは、この作品を見てみることにしましょう。

●《アイロンがけをする女性》(A Woman Ironing)

 アイロンがけをする女性が逆光の中で捉えられています。


(油彩、カンヴァス、54.3×39.4㎝、1873年、メトロポリタン美術館蔵)

 窓から射し込む陽光が明るく反射して、アイロンがけをする手元やその周辺、壁面など辺り一帯が白く描かれています。その白さを覆うように、女性の頭上には、たくさんの衣類がぶら下がっており、アイロンがけの仕事がまだまだ続くことが示されています。この室内の様子で、いかに過酷な労働なのかが示されています。

 アカデミズムの画家からすれば、稚拙な表現に見えるかもしれませんが、ラフな色彩とタッチで描かれているからこそ、色調のコントラストが際立って見えます。この強いコントラストが、《工場の前のルアール》と同様、画面からメッセージ性を生み出しているのです。

 辺り一面を白く見せてしまうほど、強い陽光が窓から射し込み、アイロンがけをする女性は、逆光で暗く描かれています。全体に白っぽい画面の中、窓枠と女性だけが、黒褐色で描かれています。まさに、光と影が描かれているのです。

 このような色調のコントラストが、観客の想像力を刺激し、画面を魅力的なものに見せているといえるでしょう。

 《洗濯女》といい、《アイロンがけをする女性》といい、働く女性をモチーフに斬新な構図と色構成で捉えています。どこででも見かける日常の光景が、シャープな視点で切り取られ、作品化されているのです。さまざまな試みをしながら、新機軸を打ち出そうとしているのがわかります。

 ドガが従来のアカデミズムに収まりきらない画家であることは確かでした。もっとも、だからといって、印象派の画家として一括してしまうこともできません。

■反アカデミズムとしての第1回印象派展

 第1回印象派展は、さまざまなグループの画家たちが協調し、力を出し合って創設した展覧会でした。サロンとは別に、作品発表の場を設け、絵画の販売チャンネルを画家自らが持つためでした。サロンに認められず、生計を立てることのできない画家たちが危機感を覚え、発案した事業だったのです。

 画家自らが発表の場を設けることによって、サロン以外の評価基準による絵画の流通を目指しました。この展覧会は、いってみれば、画家自らが画策した、販売のためのインフラ整備でした。第1回印象派展の開催に尽力したのが、ルノワール、ピサロ、ドガでした。

 会期が終わり、ふたを開けてみれば、開催期間中に作品が売れたのは、シスレー、モネ、ルノワール、ピサロぐらいでした。主要メンバーのうち、ドガの作品には買い手がつかなかったのです。

 一部の批評家からは評価されていたにもかかわらず、ドガの作品は売れませんでした。おそらく、第1回印象派展に参加した批評家や観客たちの感性や美意識、絵画観にドガの作品がマッチしなかったからではないかという気がします。

 印象派は一般に、目の前にあるものを見たまま、即興で描くというイメージがあります。だからこそ、筆致が粗く、遠近感や立体感がなく、混沌として、稚拙に見えるのですが、ドガの作品にはそれがなく、むしろ思考の痕跡が見受けられます。

 今回、ご紹介した《洗濯女》にしても、《アイロンがけをする女性》にしても、印象派の画家が好む日常の生活光景を題材にしながら、その表現方法にはアカデミズムを踏まえた実験的要素があり、試行錯誤の後が見られます。

 ドガ自身も、「印象派」と呼ばれるのを好みませんでした。彼らとは違うという認識があったのでしょう。実際、1855年にエコール・デ・ボザールに入学してアングル派のルイ・ラモートに師事したばかりか、イタリアを訪れ、古典研究をしていました。美術に関し正規のアカデミズム教育を受けていたのです。

 改めてドガの作品を見直してみると、西洋絵画の基礎の上に、新しい時代の息吹を吹き込もうとしていたように思えます。産業革命を経て新興ブルジョワジーが台頭してきたように、封建体制に根付く新古典主義を乗り越え、独自の境地を開こうとしていたのです。

 ドガは、反アカデミズムという枠には収まりますが、印象派という枠には収まり切れませんでした。進取の気性に富み、テクノロジーを愛し、独自の境地を切り拓こうとした画家だったといえるかもしれません。

(2024/11/27 香取淳子)