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2021年

マクシミリアン・リュス ②カロリュス・デュランに学ぶ

■カロリュス・デュランの下で学ぶ

 リュスは木版画職人としての修業を終えると、木版工房で働きながら、画塾に通ったり、著名な画家のアトリエに出入りしたりし、独自に絵画を学んでいました。

 1876年になると、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)の下で学び始めます。当時、デュランは、パリの上流階級の人々を数多く描き、肖像画家として人気がありました。すでに数々の賞を受賞し、画家としても教育者としても評価されていました。1904年にはレジオンドヌール勲章を受勲するほどの大御所でした。

 そのデュランに師事し、リュスは油彩画の手ほどきを受けるようになります。きっかけとなったのはアカデミー・シュイスでした。そこで教えていたデュランと出会い、無給の学生として彼のアトリエに受け入れられることになったのです。(※ https://ago.ca/agoinsider/unconventional-impressionist

 デュランは若い頃、スペインに旅し、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599-1660)の作品から強く影響を受けたといわれています。

■ベラスケスの肖像画

 ベラスケスは17世紀のスペインを代表する画家です。国王フェリペ4世に気に入られ、宮廷画家として長年、国王や王女、宮廷の人々の肖像画を描いてきました。彼が、王女マルガリータ・テレーサを描いた一連の作品の一つに、《白い服の王女マルガリータ・テレーサの肖像(La infanta Margarita)》(1656年)があります。

(油彩、カンヴァス、105×88㎝、1656年、ウィーン美術史美術館)

 スペイン国王フェリペ4世の長女、マルガリータ・テレーサが5歳の時の肖像画です。ぷっと膨らんだ頬、緊張した口元、白く透き通るような肌、なんと愛くるしいのでしょう。やや不安げで、可憐な表情が生き生きと描き出されています。綺麗に梳かしつけられた金髪もまだ薄く、柔らかく、この時、マルガリータがわずか5歳でしかないことを思い起こさせてくれます。

 ところが、身に纏っているドレスには、銀糸で模様が刺繍された光沢のある布地が使われています。そして、首回り、襟、胸元、袖などには、金と黒の刺繍が施されており、人目を引きます。さらには、腰幅を広く見せるため、異様なほど大きなペチコーまで着用しています。

 まだ年端もいかない幼児なのに、成人女性と同じようなスタイルの衣装を着用しているのです。

 胸やラグランスリーブの端、袖口にはオレンジ色の花飾りが付けられています。おそらく、可愛らしさを演出するためでしょう。子供らしさを感じさせる要素はそれだけですが、この豪華な服を着せられたマルガリータは健気にも、姿勢正しくポーズを取っています。

 ひょっとしたら彼女はこの窮屈さを、王室に生まれた者の定めとして、我慢しなければならないものの一つとして、幼いながらも、受け入れていたのでしょうか。

 いま見れば、この衣装があまりにも豪華で、堅苦しく、儀式的なので、違和感を覚えてしまいますが、おそらく、これが当時のスペイン宮廷の様式だったのでしょう。

 王家の肖像画には、富みと権力を所有する者の証として、権威と威厳が備わっていなければなりませんでした。たとえ幼いマルガリータが対象だとしても、ベラスケスはそのための設定を避けることはできなかったのでしょう。

 ベラスケスが手掛けた肖像画には、権威、威厳、豪華、華麗、上品といった要素がふんだんに盛り込まれていました。写真技術がまだ発明されていなかった時代、肖像画こそが個人や家族のステイタスシンボルとして機能していたからでした。

 実際、肖像画は個人を確認する証明書としても、個人や家族の歴史を記録するアーカイブとしても有効でした。

 興味深いエピソードがあります。

 マルガリータが、神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する前のことです。それ以前から両者の婚姻は既定路線だったのですが、マルガリータが適齢期になると、スペイン宮廷はベラスケスに描かせた子供の頃の肖像画をいくつか、レオポルト1世に送ったそうです。遠路はるばる会いに行く危険を避けて、肖像画で代用したのです。(※ https://www.habsburger.net/en/chapter/leopold-i-marriage-and-family

 このエピソードからは、肖像画が、本人の確認あるいは、本人のアーカイブも兼ねて機能していたことがわかります。それだけに、肖像画に写実性は不可欠でした。

 ベラスケスはそのための油絵技法を長年にわたって錬磨し続けてきたのです。それを後世のマネやデュランが高く評価し、影響されました。

 それでは、ベラスケスの影響を受けたとされるデュランが、どのような肖像画を描いていたのか、見ていくことにしましょう。

■デュランの肖像画

 肖像画の中でも、「母と子」は重要な画題の一つでした。家族愛、家族の絆の象徴であり、上流階級にとっては、一族の繁栄を示すもの、あるいは、富の継承を示唆するものでもあったからです。デュランも、母と子の肖像画を描いています。

 たとえば、《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(Mother and Children (Madame Feydeau and Her Children), という作品があります。

●《母と子(フェドー夫人と子供たち)》(1897年)

 この作品では、フェドー夫人とその子供たちが描かれています。当時、人気のあった劇作家、ジョルジュ・フェドー(Georges Feydeau, 1862-1921)の妻とその子供たちがモデルです。

(油彩、カンヴァス、190.5×127.8㎝、1897年、国立西洋美術館)

 二人の子供を抱きかかえたフェドー夫人が静かにこちらを見つめています。豪華な黒い衣装とネックレス、大きく開いた胸元に飾られた赤い花が彼女を引き立てています。華やかで上品、いかにも上流階級の女性といった面持ちです。

 膝に寄りかかって母を見上げている男の子は、白い襟飾りのついた黒の正装をしています。その横顔と白い襟以外は、母の黒いドレスに溶け込み、一体化しています。男の子の肩にそっと置かれた母の手に、慈愛が感じられます。

 一方、女の子は光沢のあるベージュ色の衣装を身につけています。襟元には同系色の凝った刺繍が施されており、なんとも豪華なドレスです。これも正装なのでしょう。左手に大きな淡い橙色のバラを持ち、右手を母の膝に置いて、寄りかかるように立っています。母の左手と女の子の右手が触れ合っており、二人の愛情が通い合っているのが感じられます。

 もっとも、女の子の表情はぎこちなく、やや不自然に見えます。この絵のためにポーズを取っているからでしょうか、緊張している様子が感じられます。この作品が日常的な光景を捉えたものではなく、輝かしい瞬間を記録に残そうとする意図の下に、描かれているからでしょう。

 確かに、この作品は家族の肖像画としては完璧でした。

 画面からはまず、家族の絆、愛が感じられます。そして、上品、安定、厳粛さのようなものも感じられます。依頼者が肖像画に求めたであろうものが、過不足なく盛り込まれているのです。

 母と子供たちの配置、色彩バランスなどを考え、じっくりと時間をかけて構想されたのでしょう。だからこそ、画家が企図した通りのメッセージが画面からは伝わってくるのです。この作品を見ていると、デュランが肖像画家として人気を博していた理由がわかるような気がします。

 それでは、構図と色彩の面から、この作品を見ていくことにしましょう。

●人物の配置と構図

 まず、母と子供たちとの関係を、所作の面からみていきましょう。

 男の子は母の膝に身を置き、上目遣いに見上げています。母の手は男の子の背に置かれており、互いの信頼と愛が感じられます。一方、女の子は母を見ているわけではありませんが、身体をぴったりと母に寄せ、傍に立っています。手の甲を母の手に触れ、緊張感をやわらげている様子が見て取れます。

 所作の面から、母と子供たちとの関係を見ると、男の子も女の子も母に身を寄せ、安心感を得ている様子です。一方、母は、左右の手を使って、安心させるように、子供たちの身体に触れています。保護し、保護される関係が母と子供たちの所作から描き出されています。

 次に、配置の面から母と子の関係を見てみましょう。

 この作品を見て、まず目に入ってくるのは、やや首を傾げた母の顔です。その母を頂点に、寄りかかる男の子の姿勢が、母の身体の傾きに呼応しています。母の頭と男の子の頭を繋ぐラインは、ちょうど、画面の右上から左下に走る対角線と重なり、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 一方、女の子はすっくと立ち、頭を母の方にやや傾けています。その姿勢は、背筋を伸ばしながらも、頭だけを右に傾けた母の姿勢に呼応しています。こうして母と女の子は近づき、二人の頭を繋ぐラインは、肩まで伸びる髪の毛、膨らみのあるパフスリーブへと続き、これもまた、母を頂点とする三角形の斜辺になっています。

 これら二つの斜辺をつなぐと、三角形になります。わかりやすく赤線で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、改めて、この3人の頭が母を頂点とする三角形になるよう配置されていることがわかります。しかも、ほぼ正三角形です。もっとも安定感のある構図が導入されているのです。

 さらに、母の頭を頂点に、男の子の頭が底辺の左底角、女の子の頭が右斜辺の真ん中に位置づけられています。女の子の方が年上で、男の子が年下であるという序列まで示されているのです。

 そして、母と子供たちは、互いに顔を近づけるような姿勢で描かれており、母と子の親密さが表現されています。それぞれの顔の傾き、あるいは視線の方向から、相互の愛情と信頼が表されていることがわかります。

 それでは、色彩の面から、何を読み取ることができるのでしょうか。

●色彩

 床と背景を覆っているのは、焦げ茶色をベースとしたベルベットのような風合いの生地に見えます。画面の半分以上がこの色彩とテクスチャで占められているので、上品で、しかも、落ち着いた印象があります。

 さらに、母と男の子は黒の正装、女の子は光沢のある、やや明るいベージュ色の正装をしています。背景色を除くと、黒の面積が大きく、それ以外は光沢のあるベージュ色です。そのせいか、画面全体に厳粛さと威厳、上品さと落ち着きが醸し出されています。

 ベージュ色のドレスに目を向けると、女の子が手にした淡い橙色のバラの花が、不自然なほど下方に描かれているのが気になります。しかも、この花が大きすぎるのです。否応なく、観客の目は下方に誘導されます。

 そうすると、バラの花弁がいくつか、その下の床に散っているのに気づきます。こうして、さり気なく豪華さが演出され、しかも、画面にちょっとした動きが生み出されているのです。

 そこから見上げた位置に赤いバラが描かれ、大きく開いた母の胸元を飾っています。女の子のドレスに置かれたバラからはやや斜めのライン上にあります。二つの花はそれぞれの衣装を引き立て、彼女たちの存在感を高めています。

 さらに、これら二つの花を結んだラインは、母と娘の頭を結んだラインと並行しています。それぞれのラインを水色で図示すると、次のようになります。

 こうしてみると、二つの花を結ぶラインは、母と娘の髪の毛を結ぶラインとほぼ2倍の長さで、平行に描かれていることがわかります。しかも、その起点はいずれも、母と息子の頭を結ぶ左上から右下への対角線上にあります。

 二つのラインは、母と娘の親密さを示すとともに、二人の関係を支える構造的なラインとしても機能しているのです。

 こうしてみてくると、いずれのラインも母と子供たちを巡る、保護―非保護の関係が示されており、強い家族の絆が表現されていることがわかります。

 興味深いのは、男の子が黒い服を着て、母のドレスの中に溶け込んでいるのに対し、女の子はベージュ色のドレスを着て、黒い服の母とは分離した存在であることが示されていることです。

 この色遣いには、母と男の子の関係、母と女の子の関係が示されているように見えます。年少で、いまだに母に依存している男の子に対し、年長で、母から自立しはじめている時期の女の子という、依存関係の強弱が示されているようにみえます。

 もっとも、母と娘が身につけている花に着目すれば、別の側面が見えてきます。

 その母の胸元を飾っている赤い花が情熱を示すとすれば、女の子が手にしたごく淡い橙色の花は穏やかな従順さを示しています。つまり、デュランは、たとえ色彩で分離されていても、母は情熱を持って娘を庇護し、娘は従順に母に従うという母と娘の関係を、構図と色彩から表現していると考えられるのです。

 こうしてみてくると、デュランが、構図の面からも色彩の面からも明確なコンセプトの下、この母と子供たちの関係を表現していたことがわかります。

 デュランは、厳粛さ、上品さ、豊かさ、華麗さなどの要素を組み込んだ上で、家族の愛、家族の絆を画面に描き出していたのです。依頼者はおそらく、この作品の出来栄えに納得し、感謝したに違いありません。

 この作品を見ていると、肖像画家としてのデュランの人気が定着していった理由がよくわかります。

 宮廷画家ベラスケスからデュランが得たものの一つは、写実性を踏まえた上で、依頼者が求める理念、あるいは概念を画面に組み込むことでした。

■デュランの肖像画に見るベラスケスの影響

 写実的で、しかも、筆触の妙を効かせたベラスケスの油彩画技法は、当時、マネ(Édouard Manet, 1832-1883)から、高く評価されていました。近代美術の父といわれるマネが、「画家の中の画家」だと絶賛していたのです。

 ベラスケスを高く評価し、その影響を受けていたのは、マネばかりではありませんでした。デュランもまた、ベラスケスの影響を強く受け、写実的で古典的な肖像画を数多く描いてきました。

 とくに、上流階級の人々を描くことでは定評がありました。リュスが育った環境では、決して出会うことのない人々でした。彼らは当然、庶民とは服装も違えば、所作も異なります。

 デュランが参考にしたのは、ベラスケスの肖像画でした。宮廷画家として活躍したベラスケスの諸作品から、服装や調度品、所作などを参考にしたのです。

 たとえば、《ウィリアム・アスター夫人(Mrs. William Astor)》(油彩、カンヴァス、212.1×107.3㎝、メトロポリタン美術館)という作品があります。デュランが1890年に描いたもので、この時の衣装とポーズは17世紀の肖像画家ベラスケスを参考にしたと記されています。(※ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/435849

 実際、デュランの肖像画をいくつか見てみましたが、モデルはいずれも正装をし、ポーズを決めた姿勢で描かれていました。おそらく、宮廷画家ベラスケスを参考に肖像画を描いていたからでしょう。どの画面からも、華麗で厳か、富みと繁栄を感じさせる要素が強く、醸し出されていました。

 デュランが描く肖像画を見ていると、肖像画が社会的ステイタスを示す価値を持っていた時代の名残が感じられます。

 デュランが肖像画家として人気を博するようになったのは1868年以降です。先ほどのメトロポリタン美術館の説明では、1890年には肖像画家として絶頂期を極めていたとされています。その30年弱の間、フランスは大きな社会変動に見舞われています。

 とくに、1871年3月26日から5月28日にかけてのパリ・コミューンは画家たちにとっても大きな出来事でした。ところが、そのパリ・コミューンを経てもなお、上流階級にとっては肖像画が必要だったのです。

 さて、人気のある肖像画家として活躍していた1876年、デュランは一風変わった肖像画を描いています。自分の母親を描いた作品です。

 デュランの肖像画をいくつも見てきましたが、この肖像画は異質でした。

■デュラン、母親の肖像画を描く

 肖像画家デュランにしては珍しく、モデルを見たまま、ありのままに描いています。

●《母の肖像》(Portrait de ma mère)1876年

 1876年、ちょうどリュスがデュランのアトリエで学び始めた年、デュランは母親を描いています。作品タイトルは、《母の肖像》(Portrait de ma mère)です。

(油彩、カンヴァス、サイズ不詳、1876年、オルセー美術館がサントクロワ美術館に寄託)

 暗い背景の中から顔面だけが浮き出るように、高齢女性が描かれています。静かで穏やかに観客を見つめています。その透徹した視線には高邁な精神が感じられます。

 悟りの境地に達しているからでしょうか。何事にも動じることなく、凛とした姿勢で、老いと孤独に、静かに向き合う高齢女性の姿が心に残ります。

 さっと描いたように見える中に、端的に対象の本質が捉えられていました。冷静な観察力が強く感じられる作品です。

 おそらく、コンセプトを練り上げることもなく、時間もかけずに制作したのでしょう。カンヴァスに向かったデュランが、老いた母親を美化しようとせず、ありのままに描いていたことがわかります。

 ありのままとはいっても、髪の毛や帽子、首回りで結ばれたリボンなどの描き方を見ると、決して写実的に描かれているとはいえません。どちらかといえば、雑なのです。ところが、不思議なことに、むしろその方が、リアルに捉えられた視線と口元の表情が強調されて見えます。

 描き方に粗と密の部分を創り出すことによって、老いた母親の本質を冷静に捉え、含蓄のある作品に仕上がっているのです。

 キュレーターのアニー・スコッツ-デヴァンブレシー(Annie Scottez- De Wambrechies)は、人生の荒波を超えて生きてきた母親の個性がしっかりと描かれているとデュランの表現力を評価しています。ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)やマネ(Édouard Manet, 1832-1883)と並ぶ表現力の持ち主だといっているのです。(※https://www.latribunedelart.com/carolus-duran-une-superbe-sensation-d-art-un-poeme-de-labeur

 リュスは1876年、デュランのアトリエで働くようになります。そこで、デュランが手掛けるさまざまな肖像画を目にしてきました。それらの肖像画を見て、感じること、考えさせられること、多々あったと思いますが、リュスがもっとも刺激を受けたのが、《母の肖像》でした。

■リュス、おばさんの肖像画を描く

 デュランの《母の肖像》の制作過程をつぶさに見てきたリュスは、1980年、おばさんの肖像画を描きました。デュランと同様の画法で描いたといわれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, Silvana, 2019)

 《オクタヴィアおばさんの肖像》は、リュスがデュランから何を学んだのかを示唆する重要な作品といえます。

●《オクタヴィアおばさんの肖像》(1880年)

 デュランが《母の肖像》を描いたのと同様の画法で描いたとされるのが、リュスの《オクタヴィアおばさんの肖像》です。

(油彩、カンヴァス、77.9×66.7㎝、1880年、ホテル・デュー美術館所蔵)

 高齢女性が両手を前で組み、こちらを見ています。老いてはいますが、肌艶がよく、とても元気そうです。顔の表情がリアルに表現されています。

 額に刻まれた深い皺、眉間から鼻先までの鼻梁の肉付き、鼻翼から伸びるほうれい線、すぼめた口元など、老化によって起きる顔面の変化が的確に捉えられています。

 図録では、リュスが光と影に留意して顔面の表情をリアルに描いたのは、デュランが母親の肖像を描いた時に使ったのと同じ手法を取ったからだと書かれています。(※ “Léo Gausson Maximilien Luce,Pionniers du néo-impressionnisme”, p.14. Silvana, 2019)

 果たして、そうでしょうか。

 確かに、この作品では、光が当たったところと影になった部分とが丁寧に描き分けられ、眉間の縦皺、額に波打つ横皺、目の下のたるみなどがとても写実的に描かれています。

 顔面の骨格を踏まえ、鼻先、たるんだ頬の縁、目の下や目尻などにわずかながら赤味が添えられています。老いに伴う皮膚の変化が的確に表現されているのです。

 光と影、明と暗を使い分けて、顔の質感、量感を表現しているところには、ルネサンス以来の写実性が感じられます。つまり、この作品には、デュランが影響を受けたといわれるベラスケスに繋がる写実性が見受けられるのです。

 実際、この作品を見ていると、オクタヴィア小母さんを目の前にしているかのような錯覚に襲われます。それほど、リアルに、生き生きと描かれています。

 とはいえ、デュランの《母の肖像》と比べると、何かが足りないのです。それが一体、何なのか、二つの作品を比較してみる必要があるでしょう。(2021/12/29 香取淳子)

マクシミリアン・リュス ① 木版画職人から画家へ

■「スイス プチ・パレ美術館展」で出会った、リュスの二つの作品

 2021年11月5日、滋賀県の佐川美術館で開催されていた「スイス プチ・パレ美術館展」に行ってきました。展示作品は、
スイス プチ・パレ美術館展 が所蔵する65点で、いずれも創設者オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-1998)のコレクションです。

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏は図録の冒頭で、父は不当に過小評価されている画家たちの作品を対象に収集していたと記しています。自身の審美眼を信じ、評論家に取り上げられず、美術史からも見落とされがちな画家たちに光を当てようとしていたというのです。そのせいで、いくつかの美術雑誌からは長い間、批判され続けていたそうです。(※ 図録『スイス プチ・パレ美術館展』イントロダクション)

 たしかに、会場に展示されていたのは、ルノワールの作品以外、これまでに見たことのない作品ばかりでした。

 オスカー・ゲーズはコレクションを始めた当初、ユトリロやボッティーニなどモンパルナスとベル・エポックの画家を好んでいました。その後、新印象派とポスト印象派のコレクション、フォーヴィスムへと関心が移り、コレクションの幅が広がっていったといいます。実業家であったオスカー・ゲーズは、次のような方針の下、収集を進めていたようです。要約すれば、①作品購入費の基準を設定し、同じ作家の作品を購入し続ける、②抽象芸術は避ける、というものでした。(※ 前掲。)

 その結果、収集されたのは、オスカー・ゲーズの審美眼に適い、購入することができた19世紀末から20世紀初頭にかけての作品ばかりでした。そして、1965年、彼はジュネーブの旧市街近くに建てられた邸宅を購入し、内装を改修してプチ・パレ美術館を創設しました。1968年のことでした。

ジュネーブ プチ・パレ美術館

 第二帝政時代の古典主義様式の建物です。見るからに優雅な佇まいが印象的です。

 ここに、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリで醸成された美術の潮流を表現したコレクションが、展示されているのです。建物といい、コレクションといい、まさに20世紀に向けたパリの夜明けを象徴する美術館だといえます。

 こうして自身の美術館を創設したオスカー・ゲーズは、不当に過小評価されていると思っていたコレクションを次々と、一般公開していったのです。

 さて、展示作品の中で、もっとも印象深かったのが、マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)の《若い女の肖像》(Portrait de jeune femme)です。多くの作品が展示されている会場で、この作品を見た瞬間、惹きつけられてしまいました。1893年に制作されたこの作品は斬新で、小ぶりながら、私にはひときわ輝いて見えました。

(油彩、カンヴァス、55×46㎝、1893年、スイス プチ・パレ美術館)

 若い女性がまばゆい太陽の光を浴びて、こちらを眺めています。かつて見た映画の一シーンのように思え、どこか懐かしい気持ちにさせられました。

 もちろん、初めて見る作品でした。これを描いたマクシミリアン・リュスが、どのような経歴の画家なのかも知りません。画風からわかるのは、ただ、スーラやシニャックの影響を受けているのではないかということだけでした。

 何故、そう思ったのかといえば、境界線や輪郭線を使わずに、さまざまな色を載せた斑点のようなもので、モチーフが造形されていたからです。もっとも、だからといって、はっきりとスーラやシニャックの影響を受けているともいいきれません。

 というのも、確かに、斑点のようなもので、画面全体が構成されているのですが、それは、私が知っているスーラやシニャックなどの作品で見られた点とは明らかに異なっていました。この作品で使われていたのは、粒の揃った小さな点ではなく、大きく、しかも、不揃いでした。

 茫漠とした形状の捉え方に、スーラやシニャックの緻密さは見られませんが、モチーフのエッセンスは見事に捉えられています。しかも、眩いような光と若い女性の輝きが情感たっぷりに表現されているのです。

 何とも不思議な作品でした。

 会場には、リュスの作品としてもう一つ、風景画が展示されていました。タイトルは、《La Meuse à Feynor》(フェイノールのムーズ川)です。

(油彩、カンヴァス、60×73㎝、1909年、スイスプチ・パレ美術館)

 夕暮れ前のムーズ川の光景が、色彩バランスとタッチの妙を効かせ、情緒豊かに捉えられています。1909年に制作されたこの作品には、《若い女の肖像》とは違って、どちらかといえば、印象派の趣がありました。

 果たして、リュスはどのような画家だったのでしょうか。

 会場で作品を見てからというもの、気になって仕方がありません。わずか2点しか展示されていなかったというのに、画風がまるで異なっていました。しかも、どちらも、自由でのびのびとした筆遣い、色の使い方、対象の捉え方、そのどれもが魅力的でした。

 帰宅してから、さっそく調べてみました。ところが、リュスの経歴に関する記述としては、Wikipediaぐらいしか見当たりません。それ以外に入手できるものとしては、図録に掲載された作品を紹介する記事の中で、断片的に紹介されている情報ぐらいでした。

 リュスについて日本で得られる情報は、予想外に少なかったのです。展示作品から強い印象を受けていたせいか、意外でした。

 とはいえ、Wikipediaからは、リュスが木版画職人として修業を積んでいたこと、ゴブラン織りの工場で働いていたことなどがわかっています。

 そこで、今回は、リュスの経歴を追いながら、木版画職人がどのようにして画家になっていったのかを考えてみたいと思います。

■マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce, 1858-1941)

 1858年3月13日、パリのモンパルナスで、リュスは誕生しました。父は鉄道員、母は店員でした。彼は労働者階級の子どもとして生まれ育ったのです。生計を立てるための労働をせずに、画家として生きていけるような出自ではありませんでした。

 リュスは、14歳(1872年)から3年間、木版画職人として修業しています。生活の資を得るため、木版画職人になる道を選択していたのです。おそらく、子どもの頃から絵が好きだったのでしょう。見習いとして働きながら、夜は工芸学校で絵画を学んでいました。リュスが油彩画を始めたのはその時でした。

 修業を終えると、1876年には、版画家のウジェーヌ・フロマン(Eugène Froment, 1844-1926)の工房で働き始めました。元々、絵心があったのでしょう、リュスは、時を経ず、挿し絵入り新聞「イリュストラシオン」や「The  Graphic」などの挿し絵として使う木版画を制作するようになっていきました。

 商業誌のための挿絵を制作していた経験を通して、画力が鍛えられただけではなく、市場ニーズをくみ取るセンスも涵養されていた可能性があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、大きく変貌を遂げていった美術界の潮流に乗って、リュスは画家としての地位を確立していたようにも思えます。

■版画修業をしながら、絵画を学ぶ

 リュスは仕事として木版画を制作する傍ら、アカデミー・シュイス(Académie Suisse)に通って特別コースを受講していました。

 アカデミー・シュイスは、1815年にパリのシテ島、オルフェーヴル通りに開校された私立の画塾です。授業料が安かったので、貧しい画学生でも、モデルを使った授業を受けることができました。その後、グランド・シュミエール通りに移転し、アカデミー・コラロッシに改名しました。ここで学んだ画家には、カミーユ・コロー、オノレ・ドーミエ、ギュスターヴ・クールベなどがいます。

 リュスは、肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエで学んでいましたが、デュランも、1859年から1861年まで、アカデミー・シュイスで学んでいました。当時、有為の若手画家が学ぶ画塾だったようです。

 このような来歴をみてくると、リュスが木版画職人にとどまらず、画家に必要とされるさまざまな技量を身に着ける努力を怠らなかったことがわかります。

 ちょうどその頃、制作したのが、《モンルージュの広い庭》です。

(油彩、カンヴァス、43×37、1876年頃、個人蔵)

 まだ18歳ごろの作品ですが、明と暗、そして、暖色と寒色のコントラストが強く、非常に印象的です。

 陽光に照らされた明るい小道が、手前から奥へと観客を誘導するように伸びています。小道は途中で、葉の茂みに中に消えてしまい、その代わりに目につくのが、明るい陽射しを受けた建物の一部です。

 こんもりと茂った林の向こう側に、聳えるように建物が立っています。観客は、暗い木々の茂みのちょっとした隙間から、覗き見るような恰好で、その建物と向き合うことになります。とても興味深い構図です。

 遠近法を踏まえ、明暗を際立たせた構図で描かれているせいか、単なる風景画に収まらない物語性を感じさせられます。

 荒い筆触と、陽光が生み出すドラマティックな画面構成からは、印象派の影響を受けているようにも見えます。なんとも妙味のある作品でした。

 ちょうど、その頃、リュスは、画家マイヤール(Diogène Ulysse Napoléon Maillart, 1840-1926)から勧められ、ゴブラン国立織物製作所の入学試験を受け、合格しました。当時、肖像画家マイヤールからも指導を受けていたのです。

 マイヤールの経歴を見ると、パリの国立高等装飾学校で教育を受けた後、国立高等美術学校(通称:École des Beaux-Arts)のレオン・コニエ教室で学んでいます。1648年に設立された王立絵画彫刻アカデミーの後継だとされています。多くの著名な画家を排出しています

 1864年に23歳でローマ賞を受賞してローマに留学し、1869年に帰国して以来50年間、国立ゴブラン織物製作所で絵画の教授を務めました。1885年にはレジオンドヌール勲章を受勲しており、肖像画家として多数の作品を残しています。(※ https://fr.wikipedia.org/wiki/Diog%C3%A8ne_Maillart

 このゴブラン国立織物製作所で、リュスは、シュヴルールの色彩理論に触れることになりました。

■シュヴルールの色彩理論との出会い

 W. B. アシュアワース氏は、次のように、シュヴルールが色彩理論を構築した経緯を、次のように説明しています。

 化学者のシュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1789-1889)は、1824年、ゴブラン国立織物製作所の工場長になりました。そこで、色彩の研究をするとともに、染色の苦情にも応対していました。

 なぜ、染色にムラが生じるのか、彼は、ゴブラン織物の製造過程をつぶさに調べました。その結果、色ムラは染色の問題ではなく、色の組み合わせによるものではないかということに気づきました。パターンの色と背景になる地色との間に、同時対比によって色の見え方に違いが生じることを突き止めたのです。

 そこで、シュヴルールは、色の組み合わせについて実験を繰り返し、色の対比と調和について研究しました。1839年には、『色彩の同時対比の法則とこの法則に基づく配色について』を著しています。色彩を「類似色の調和」と「対比色の調和」の2種類に分類し、独自の色彩理論を構築したのです。シュヴルールは、光の混合と色彩の混合とは全く異なると指摘しています。(※ Dr. William B. Ashworth, Jr.:https://www.lindahall.org/michel-chevreul/

 リュスは、国立ゴブラン織物製作所に在籍することができたおかげで、シュヴルール色彩理論の手ほどきを受け、実践しながら、色彩について考える機会を得ていたのです。

 ゴブラン織りは、敷物やバッグなどの日用品だけではなく、鑑賞用のタピストリーも製作されていました。タピストリーの中には、まるで絵画のようにリアリティがあり、情感に富んだものもあります。

 例えば、《チュイルリー公園からのトルコ大使の退場》という作品があります。

(ゴブラン織り、サイズ不詳、1734-37年、ルフェーブルとモメルク工房)

 馬に乗った多数の人々が巨大な広場に集っています。手前の人々の顔がそれぞれ描き分けられており、出発前の慌ただしさが、さらっと表現されています。タイトルからすれば、これがチュイルリー公園なのでしょう。遥か遠方に、パンテオンのドームが見えます。

 さまざまな種類の色糸を使って、モチーフが織り上げられています。当時の様子がありありと目に浮かびます。絵具で表現するのとまったく遜色のない、リアリティのある絵柄に圧倒されてしまいました。この作品を見るだけでも、ゴブラン織りの職人がいかに色彩に敏感でなければ務まらないかがわかります。

 リュスが国立ゴブラン織物製作所に在籍した以前から、光と色彩に敏感な画家たちは、種々の色彩理論に注目しはじめていました。

 たとえば、シャルル・ブラン(Charles Blanc, 1813-1882)の『デッサン諸芸術の文法』(1867年)、アメリカ人物理学者オグデン・ルード(Ogden Nicholas Rood, 1831-1902)の『近代色彩論:芸術および工業への応用』(1881年にフランス語に翻訳)、シュヴルール(Michel-Eugène Chevreul, 1786-1889)の『色彩の同時対照の法則』(1839年)などです。

■色彩理論を手掛かりに

 当時、光と色彩に敏感な画家たちが、色彩理論に注目するようになっていました。押し出しチューブ式油絵具が発明されて以来、アトリエを出て、戸外で絵を描く画家が増えつつありました。

 1841年、イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド(John Goffe Rand, 1801-1873)が、錫製の押し出しチューブ式油絵具を発明しました。その後、彼はキャップの部分をねじ式に改良し、さらに使いやすくなりました。

 チューブ式油絵具のおかげで、画家たちはアトリエから戸外に出て描くようになり、自然がもたらす美しさに気づくようになっていたのです。

 色彩と光を意識して作品を制作していたルノワールは、「チューブ式絵具がなければ、印象派は生まれなかった」と語っていたほどでした。(※ https://en.wikipedia.org/wiki/John_G._Rand

 印象派の画家たちは、葉陰から洩れる太陽の陽射し、陽光に照らされて、きらきらと輝く水面等々、そのようなものの中に、美しさを見出しました。アトリエにこもって描いていただけでは、決して発見できなかった自然の美でした。

 もちろん、画家たちは輝く陽光や、照らし出された木々や水面の明るさを、画布上で表現しようとしました。ところが、混色を重ねると、次第に、暗く、くすんだ色になってしまいます。彼らが求めた瞬間の輝きを捉え、表現することはできませんでした。

 見たままの色彩を創り出しながらも、明るく、輝くような画面を創り出すにはどうすればいいのか、画家たちは色彩理論を手掛かりに、模索せざるをえなかったのです。

 押し出しチューブ式油絵具が開発され、画家たちが戸外で容易に絵を描けるようになったからこそ、発見できたのが、揺らぎ、輝く、自然の美でした。それを表現するための画法を模索していた画家たちが拠り所にしたのが、色彩理論でした。19世紀の科学技術の発達によって手にすることが出来た画材であり、色彩の理論でした。

 こうしてみてくると、リュスは、画家として正規の道を歩んでいませんでしたが、十代の頃から、物の形をいかに捉えるか、色彩の仕組みを知り、それをどう組み合わせ、画面に反映させていくかについて学ぶ機会があったことがわかります。

■十代で身につけた画家としての技量と知識

 労働者階級の子どもとして生まれたリュスは、生活の資を得るため、まずは木版画職人を目指しました。当時はまだ、挿し絵のための木版画職人に需要があったからです。14歳から3年間、そのための修業をしますが、夜は工芸学校に通い、油彩画を学んでいました。

 修了後は版画家フロマン工房で働きながら、アカデミー・シュイスに通い、さらには、美術アカデミーの会員であった肖像画家カロリュス・デュラン(Carolus-Duran, 1837-1917)のアトリエでも学んでいました。1876年のことでした。

 すでに大きな評価を得ていた画家たちから、リュスは貪欲に、描くことについての技量と知識を吸収していったのです。

 ディオジェーヌ・マイヤールはローマ賞を得てローマに留学(1864-1869)し、カロリュス・デュランはリール市の絵画コンクールで受賞し留学資格を得て、イタリアに留学(1862-1864)しています。

 興味深いことに、両者はほぼ同時期に、イタリアに渡って絵画を学んでいるのです。しかも、共に、肖像画を数多く残していますが、いずれも自然主義的な写実主義といえる画風です。イタリアルネサンスに特徴づけられた傾向を引いていることは明らかでした。

 さらに、両者は、レジオンドヌール勲章を受勲しています。ディオジェーヌ・マイヤールは1885年、カロリュス・デュランは1905年です。いずれも、絵画領域で大きな功績を挙げたことが評価され、受勲したのです。

 このようにしてリュスは、十代の多感な頃に、すでに大きな社会的評価を得ていた画家たちの知己を得ていたのです。彼らから、それぞれの画論や画法を学ぶことはいうまでもありません。

 さらに、フロマンの工房では、同世代の風景画家レオ・ゴーソンや、点描画家のエミール・ギュスターヴ・カヴァッロ・ペドゥッツィと出会い、親しく交わるようになっていました。

 ゴブラン織物製作所で実践していたシュヴルールの色彩理論が、スーラの絵画理論に応用されていたことは、彼らから知らされたのです。絵画についての議論が弾み、やがて、共に過ごし、その理論を実践して絵画制作をするようになります。

 当時、木版画職人でしかなかったリュスですが、さまざまな有為の画家たちと出会い、交流し、アドバイスを得てきました。出会いを求め、そのような場所に積極的に出かけていたからでしょう。そして、出会った後、交流が続いたのは、リュスが、画家としての可能性を周囲に感じさせていたからでしょう。

■木版画職人から、画家への道

 実際、リュスには画才があったのでしょう。それはまず、木版画で発揮されました。見習い期間が終わったばかりの若輩ながら、フロマンについてロンドンまで出かけ、当地で木版画を制作して、披露したこともあったのです。

 木版画の修業を終え、軍隊に入るまでのリュスは、木版画職人として働きながらも、絵画に関する技量や知識を極めるため、努力を怠りませんでした。その真摯な姿勢は周囲の人々に快く受け入れられ、交流の幅が広がりました。

 そのような画家たちとの交流の中で才能が豊かに育まれ、徐々に、その才能が周囲に認知されていくことになります。フロマンの工房で働いている間、リュスは着実に、画家としての実力を蓄えていきました。

 その後、1879年から4年間、リュスは兵役に従事しました。ところが、任務を終えた1883年、習得してきた木版画技術がすでに時代遅れになっていることを知ります。リトグラフが主流になりつつあったのです。

 18世紀末に発明されたリトグラフは、19世紀半ば以降、急速に普及していきました。描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りができます。しかも、版を重ねるにつれ、独特の艶のある質感を出すことができますから、リトグラフの普及に拍車がかかったのは当然のことでした。

 リトグラフは、水と油の反発作用を利用した版画なので、製作過程は複雑で、時間もかかりますが、木版画よりも多様で深みのある表現が可能でした。印刷物の需要が高まるにつれ、リトグラフが木版画に取って代わるようになっていたのです。リュスが兵役を終えてパリに戻って来た頃、挿し絵用の木版画職人は必要とされなくなりつつありました。

 たとえば、ドイツ人画家アレクサンダー・ドゥンカー(Alexander Duncker, 1813-1897)が描いた、《1883年のボレク》(Borek (Borkau) in 1883)という作品があります。

(リトグラフ、サイズ不詳、1883年、所蔵先不詳)

 これは、リトグラフで描かれた作品の一例ですが、古典派の作品を想起させる表現方法です。色彩といい、テクスチャといい、タッチの効果といい、この画面を見るだけでも、リトグラフが表現手段として木版画よりはるかに優れていることは明らかです。

 当時、ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa, 1864-1901)やミュシャ(Alfons Maria Mucha, 1860-1939)などが、この技法で版画やポスターなどを制作していました。

 多彩な表現が可能なリトグラフがこのまま普及していけば、早々に、木版画職人は必要なくなるとリュスは考えました。そこで、彼は、木版画職人として生計を立てることを諦め、画家に転向しようと決意します。

 リュスが兵役を終えた1883年、先ほど、ご紹介したドゥンカーが上記の作品をリトグラフで制作し、発表しました。

 19世紀末は技術の進化に合わせ、表現世界にも怒涛の勢いで変化の波が押し寄せてきていたのです。リュスが時代の変わり目を感じて人生を再考し、画家に転向しようとしたのは当然の成り行きでした。

(2021/12/18  香取淳子)

佐川美術館とスイス プチ・パレ美術館展

■佐川美術館へ

 「スイス プチ・パレ美術館展」が、滋賀県の佐川美術館で開催されました。開催期間は2021年9月14日から11月7日まででしたが、私がこの展覧会の開催を知ったのが遅く、会場を訪れたのは、終了2日前の11月5日でした。

 佐川美術館は、守山市水保町北川にあり、最寄り駅はJR湖西線の堅田駅です。交通案内を見ると、美術館に行くには、琵琶湖大橋を渡らなければなりません。そこで、駅前でレンタカーを借りて、美術館に向かいました。

 地図を見ると、広い琵琶湖を横切る線で最も短いのが、堅田から守山へのラインでした。琵琶湖大橋がここに設置されたのは当然だと思いました。

堅田から守山

 金曜日でしたが、琵琶湖大橋を走行する車は少なく、視界を遮るものは何もありません。1400mほどの橋を渡る途中、車中から、壮大な景色を堪能することができました。

 巨大な雲が空を覆うように、至近距離で、いくつも浮かんでいます。重量感のある壮大な光景が目の前に広がっていました。空があまりにも近く、なんだか天界に近づいていくような気がしてきます。

琵琶湖大橋から空を見る

 下車して、橋を撮影したのが下の写真です。

琵琶湖大橋

 ややカーブを描いた橋の曲線によって、空と湖面とが優雅に切り取られていました。千切れ雲が浮かぶ空の青と、湖面のやや深い青とが調和し、見事な景観を創り出していました。

 そうこうするうちに美術館通りに入ると、街路樹がやや褐色がかってきていました。もうまもなく紅葉するのでしょう。

美術館通り

 紅葉すれば、この辺り一帯はそれこそ、美術を鑑賞するのにふさわしいプロムナードになるのでしょう。

■佐川美術館そのものが美術品?

 佐川美術館に着きました。

佐川美術館

 なんという光景でしょう。美術館の周りは水庭で囲われ、なみなみと湛えられた水面に、空や雲、木々が映っています。

 訪れた時は、このようにどんよりとした雲が空を覆っていました。晴れ渡った空の下ではおそらく、別の景観が見られるのでしょう。とはいえ、水庭が創り出す、なんともいえない風情には気持ちが引き込まれました。大きく広がった空を背景に、平屋建ての美術館が佇んでいる姿そのものが、壮大な芸術作品でした。

 場所を変えれば、このような景観もあります。

水庭に臨むアプローチに置かれた彫刻

 水面を臨むアプローチに彫刻作品が置かれています。屋根の稜線と円柱とで、空と建物、水庭が鋭角的に切り取られ、この光景もまた一幅の絵になっていました。

 そして、入口に向かうアプローチの右手奥には、水庭の中に彫刻作品が設置されていました。

入口に向かうアプローチ

 この写真だとよく見えないので、やや拡大してみました。こうすれば、なんとか、2本目の円柱の中ほど奥に、鹿の像が置かれているのが見えるでしょう。

水庭の中に立つ鹿の像

 この像は、彫刻家の佐藤忠良氏が1971年に札幌冬季オリンピックを記念して制作された《蝦夷鹿》です。野生動物がいまにも駆け出していこうとする瞬間が見事に作品化されていました。前足を上げて立っている鹿の姿がとても印象的でした。

■水庭

 建物の中にまだ入っていないというのに、外周だけでこれだけ感動させられてしまったのです。ここを訪れた人は誰しも、私と似たような気持ちになるにちがいありません。その要因は何かといえば、ひとえに、想像を超えた広さの水庭でしょう。

 美術館の周囲がなんと広い水庭で囲まれていたのです。予想もしませんでした。その水庭に、空や雲、木々が刻一刻と変化していく様子が、次々と映し出されていきます。見飽きることのない光景でした。

 ごく自然な営みの中に、どれほど心打つ美しさが潜んでいることか。変幻自在に創り出される光景が、どれほど興趣に富んでいることか。この水庭は、普段は意識することもない自然の美に気づかせてくれる仕掛けだといえるかもしれません。

 アプローチを歩いていくと、足元の水面にさざ波が立ち、目には見えない風の存在を感じさせてくれます。静かで安定した光景の中で、水面が創り出す絶え間ないささやかな動きが、まるで生命の営みのように思えてきます。

 平屋建てのシンプルな建物と水庭、そして、自然とのマッチングが素晴らしく、圧巻でした。

 建物の概要を示したページがありましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/outline/

 ここで記されているように、佐川美術館は、佐川急便株式会社が創業40年の記念事業の一環として1998年3月、設立されました。

■コレクション

 日本画家の平山郁夫氏、彫刻家の佐藤忠良氏の作品が常設展示されています。

 平山郁夫氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/hirayama/collection.html

 佐藤忠良氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/sato/collection.html

 また、2007年9月には、陶芸家の樂吉左衛門氏の作品を展示する「樂吉左衛門館」が新設され、展示作品の幅が広がりました。

 樂吉左衛門氏の所蔵作品は次の通りです。

こちら → https://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/raku/collection.html

 その一方で、今回のような特別企画展を随時、開催し、美術館として充実した活動を展開しています。

 受付を経て、会場に向かいます。入口を入ると、正面に大きなポスターが掲示されていました。

スイス プチ・パレ美術館展

 このポスターで使用されているのは、ルノワール(Renoir, Auguste,1841-1919)の作品、《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》です。

■印象派を代表するルノワールの作品

 強いライトに照らされているせいか、この写真では、衣装の光沢ばかりが強調されて見えます。

 会場に入ると、印象派を代表する作品として展示されていました。実際の作品は次のような色調の画面でした。

(油彩、カンヴァス、92×73㎝、1913年、プチ・パレ美術館所蔵)

 どちらかといえば、地味な色合いの衣装をモチーフの女性はまとっています。ところが、白のハイライトが巧みに使われているせいか、輝くような光沢が際立ち、ゴージャスな印象を与えます。もちろん、このハイライトによって、布の皺、衣装の質感、滑らかさ、柔らかさなどが的確に表現されており、身体の曲線もよくわかります。

 いかにもルノワールの作品らしい豊満な女性の身体が、光沢のある衣装に包まれています。落ち着きのある色彩にもかかわらず、随所にハイライトを効かせた光沢のせいで、華やかさが強調されていました。

 ボリューム感のある身体に比べ、頭部は小さく、ややアンバランスに見えます。ところが、華やかな色彩を使わず、画面構成されているので、静かに笑みを湛えた女性の知的な表情が、逆に強く印象に残ります。

 傍らに花が置かれ、肘掛け椅子に片手を置き、静かにほほ笑む女性・・・、と、モチーフに注意しながら、画面を眺めているうちに、ふと、同じような構図の作品を見たことがあるという気がしてきました。

 記憶を辿りながら、ネットで確認してみると、ルノワールが1915-1917年頃に制作した《バラのある金髪の女性》というタイトルの作品でした。

 この展覧会では展示されていませんでしたので、念のため、《バラのある金髪の女性》をご紹介しておきましょう。

(油彩、カンヴァス、64×54㎝、1915-1917年頃、オランジュリー美術館所蔵)

 豊満な身体つきの女性が椅子の肘に片方の手をかけ、座っています。傍らには花が生けられた花瓶が置かれ、微かな笑みを浮かべ、夢見るような視線を投げかけています。

 そのポーズ、艶のある肌など、この二つの作品には共通している部分があります。

 両者に違いがあるとすれば、それは年齢による女性美の違いでしょう。髪の毛の色、衣装、表情、肌の艶などで描き分けられています。

■晩年に近づいたルノワールの女性観

 《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》は、黒いひっつめ髪で、光沢のあるドレスをまとっています。ドレスの布地やデザイン、ネックレス、指輪からは、正装した女性がパーティで一休みしているように見えます。

 椅子の片肘をついて座っているだけなのに、この女性からは威厳と自信、安定感が感じられます。微かに笑みを湛えた顔は知的で聡明、とても落ち着いています。

 一方、《バラのある金髪の女性》は、カールした赤毛の耳近くに花を挿し、普段着のような服装で、その肌に若さが感じられます。胸元が大きくあいた服の縁は刺繍のようなものがほどこされ、軽くはおったベストは赤褐色で、赤毛と背後の壁色とマッチしています。女性の口元からは笑みがこぼれ、あどけなさの残る表情が印象的です。

 両作品ともモチーフ、構図が似ているばかりでなく、筆遣いも似通っています。とりわけ、腕や胸の肌の艶の出し方、衣装に施したハイライトの効かせ方などに共通の技法が感じられます。

 制作年を見ると、《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》はルノワール、72歳の時の作品で、《バラのある金髪の女性》は74歳から76歳の時の作品です。ルノワールは78歳でなくなっていますから、いずれも晩年に近い時の作品でした。

 両作品とも、カラフルな筆遣いの中にハイライトを効かせ、年齢に応じた女性の美しさが描き分けられていました。若さ、清楚、可憐、深さ、落ち着き、知性、理性、といったような年齢に深く関連した要素、あるいは、概念が、巧みに表現されているのです。

 晩年に近づいてからの、この二作品を見ていると、老いてなお、深化しつづけているルノワールの観察力、画力に驚嘆させられます。女性の内面をしっかりと観察して捉え、それを画面に定着させる方法にさらに磨きがかかっていることがわかります。

 ルノワールは幼女から老女まで、数多くの女性を描いてきましたが、晩年に近づくにつれ、彼なりの女性観が確立されてきたのかもしれません。

 そうそう、ルノワールにこだわり過ぎて、入口のところで手間取ってしまいました。そろそろ会場に入っていくことにしましょう。

■スイス プチ・パレ美術館

 この展覧会では、スイスのプチ・パレ美術館が所蔵する作品65点が展示されていました。同館のコレクションが日本で紹介されるのは約30年ぶりなのだそうです。

 さらに興味深いことに、この美術館は個人が設立した美術館でした。

 スイス プチ・パレ美術館はジュネーブにある私設美術館です。なぜわざわざ「スイス プチ・パレ」と名付けているかといえば、プチ・パレ美術館そのものはすでにパリ8区に存在しているからです。

 パリ8区にあるプチ・パレ美術館は、1900年のパリ万国博覧会のために建てられました。万博後の1902年に、常設展示と特別展のあるパリ市立美術館になりました。

こちら → https://www.petitpalais.paris.fr/

 パリ市立美術館は、館内をヴァーチャルに見ることができるようになっています。

こちら → https://client.paris-gigapixels.fr/petit-palais/

 画面上の「↑」は進む方向を指し、「i」は作品情報を示しています。クリックすると、それぞれが表示されます。

 これを見てわかるように、パリ市立美術館のコレクションの質、規模は相当なものですし、丁寧な作品情報も提供されています。

 今回、佐川美術館でその所蔵作品が展示されているのは、上記のパリ市立美術館の「プチ・パレ美術館」ではなく、ジュネーブにある「スイス プチ・パレ美術館」です。

 スイス プチ・パレ美術館は、チュニジア生まれの実業家オスカー・ゲーズ(Oscar Ghez, 1905-19981)が1968年に創設した美術館です。ホームページを探してみたのですが、見つかりませんでした。それでもなんとか、建物の入り口付近の写真だけは見つけることができましたので、ご紹介しておきましょう。

スイス プチ・パレ美術館入口

 息子のクロード・ゲーズ(Claude Ghez)氏によると、1950年代に次々と家族を失ったオスカー・ゲーズは、悲嘆にくれる気持ちを慰めるように絵画のコレクションにのめり込むようになったそうです。当初は、ユトリロなどのモンマルトルとベル・エポックの画家たちの作品を集め、次いで、新印象派、ポスト印象派、そして、フォーヴィスム、エコール・ド・パリの画家たちの作品を集めていったといいます。

 コレクション熱が高じたオスカー・ゲーズは、1960年には経営していたゴム事業を売却し、すべてのエネルギーを絵画コレクションに注ぎ込むようになります。ちょうどその頃、手に入れたのが、先ほどご紹介した、ルノワールの《詩人アリス・ヴァリエール=メルツバッハの肖像》でした。

 これは、ゲーズが収集したコレクションの中の代表作品の一つです。

 1965年、オスカー・ゲーズは、スイスのジュネーブ旧市街に建てられた優雅な邸宅を購入しました。第二帝政時代の新古典主義様式の建築物です。

 先ほどの写真だけでは外観がよくわかりません。そこで、ネットで探してみると、全景がわかる写真を見つけることができました。

スイス プチ・パレ美術館全景

 ちょっと小ぶりですが、たしかに、見るからに優美な建物です。外壁のコーナーに設えられた上下階、4本の円柱はマドレーヌ寺院のファサードを彷彿させます。この建物を改装し、1968年に開館したのがスイス プチ・パレ美術館です。

 創設者であるオスカー・ゲーズは、コレクターとして自身の審美眼に、絶大な自信を持っていたようです。専門家がほめた作品の購入を嫌い、どちらかといえば、世間の評価が得られない画家、あるいは、美術史で顧みられないような画家の作品を好んで収集したそうです。

 購入資金の問題もあったのかもしれません。いずれにせよ、不当に過小評価されている画家たちの作品に着目して収集し、この美術館で公開して、光を当てていったのです。

 今回、佐川美術館で展示されていたのは、そのようなコンセプトで収集された作品65点で、以下のように分類されます。

1.印象派、2.新印象派、3.ナビ派とポン=タヴァン派、4.新印象派からフォーヴィスムまで、5.フォーヴィスムからキュビスムまで、6.ポスト印象派とエコール・ド・パリ、などに分類され、展示されていました。

 これまで見たこともない作品がほとんどでした。コレクターのオスカー・ゲーズが自身の審美眼の従い、不当に過小評価されている作品を中心に収集したからでしょう。個人が創設した美術館ならではのユニークなコレクションでした。

 興味深いのは、佐川美術館もスイス プチ・パレ美術館もともに、個人が収集したコレクションを元に設立された美術館でした。

 佐川美術館は佐川急便株式会社の総業40周年事業の一環として設立されています。一方、スイス プチ・パレ美術館は、ゴム事業を手掛けるオスカー・ゲーズによって創設されました。個人の審美眼、意向が反映されたユニークな美術館といえます。

 今回、19世紀末から20世紀初頭にかけての評価の定まっていない画家たちの作品を見る機会を得ました。展示作品の中で私が最も印象づけられたのは、新印象派の作品です。どの作品もはじめて見るものばかりでした。

 作品内容については次回、ご紹介していくことにします。

 その前に、琵琶湖について少し、触れておきましょう。

■琵琶湖を臨む

 今回、宿泊したのは琵琶湖マリオットホテルです。

マリオットホテル

 白亜の建物のすぐ傍から林が広がっています。

ホテル傍らの木々

 木々の背後に見える空が限りなく青く、吸い込まれていきそうです。眺めているうちに、いつの間にか、気分が開放され、さわやかな気分になっていきました。

 道路を隔てた先の浜辺では、松林が広がっています。

ホテル前の浜辺

 松林の背後には青空が広がり、所々、たなびく雲がなんとも優雅です。

 浜辺を少し歩くと、砂が堆積して広がったところに、「BIWAKO」の文字が一つずつ、オブジェのように建てられていました。

標識

 どんよりした厚い雲が立ち込める一方、木々の合間から、強い陽射しが射し込み、松林の影を浜辺に濃く焼き付けていました。

 さらに歩いていくと、打ち寄せられた枯れ木が転がっていました。

打ち寄せられた枯れ木

 これを見ると、まるで海辺に打ち上げられた枯れ木のように見えます。それほど琵琶湖は大きく、広く、まるで海のようでした。枯れ木はすでに風化し、砂の色と交じり合っています。

 どこまでも広がる浜辺には、小さな波が打ち寄せていました。この小さな波がどこからか、枯れ木を運んできたのでしょう。

打ち寄せるさざ波

 海と違って、琵琶湖の波は波頭も小さく、とても繊細です。そのまま空を見上げると、波打ち際まで広がっている松林の中で、ひときわ高い木と並行して雲が立ち上っていました。不思議な光景でした。

青空の広がる松林

 目を転じると、松林の奥にマリオットホテルが見えます。

松林から見るマリオットホテル

 青空に雲がたなびく中、松林に守られるように、ホテルが立っていました。なんとも風雅な光景です。

 夜、ホテルの部屋から、素晴らしい夜景を堪能することができました。

ホテルから見た夜景

 そして、朝景色もまた興趣あふれる光景でした。

ホテルから見た朝景色

 大きく広がる青空の下、早朝の清冽な空気が感じられます。琵琶湖を臨んでいるからでしょうか、人々が活動する前の清涼感が、辺り一面にたちこめていたのです。

■美術館とコレクション

 今回はじめて、滋賀県守山市の佐川美術館を訪れ、「スイス プチ・パレ美術館展」を鑑賞してきました。興味深かったのは、佐川美術館もスイス プチ・パレ美術館もともに、事業家が創設した美術館だということでした。

 佐川美術館の建物と外周は、それ自体が芸術作品のように素晴らしいものでした。写真で見る限り、スイス プチ・パレ美術館の建物と外周もまた、第二帝政時代の新古典主義様式を踏襲し、シンプルな優雅さを備えていました。

 新古典主義様式のコンセプトを簡単にいえば、ギリシャ・ローマの古典主義に倣う一方、写実性を重視し、市民的自由を反映させたものといえるでしょう。スイス プチ・パレ美術館のコレクションには、このコンセプトが反映されているように思いました。

 創設者のオスカー・ゲール氏の審美眼が反映されたコレクション内容はユニークで、これまでに見たことのない作品をいくつも見ることができました。

「スイス プチ・パレ美術館展」は、いってみれば、私設美術館のコレクション展でした。美術史から抜け落ちたような作品を見ることができ、新たな発見がありました。一連の作品を通し、芸術家と作品、コレクター、コレクションと美術館、相互の関係について考えさせられました。(2021/11/14 香取淳子)

マンチュリア文字とペインティングの融合:サマンは満洲文化を取り戻せるか。

■溝口・赫舍里・暁文絵画展

 溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展が10月18日から23日まで、銀座6丁目のギャラリーGKで開催されました。22日に出かけようと思っていたのですが、一日中雨だったので、最終日の23日、お昼ごろに出かけました。久しぶりに出かけてみると、銀座4丁目の交差点は人通りも多く、それを目当てに衆院選の立候補者が声高に呼びかけていました。

 

 23日の東京都のコロナ感染者数は32人で、7日連続で50人以下になりました。ひと頃に比べれば激減しています。これでようやく、日常を取り戻せそうです。マスク着用とソーシャルディスタンスは不可欠だとしても、今後は絵画鑑賞も自由にできるようになるでしょう。

 さて、向かう先は、溝口・赫舍里・暁文絵画展です。タイトルだけ見ると、3人展かと思ってしまいますが、実は溝口・へセリ・シャオウェン氏お一人の展覧会です。日本人と結婚して溝口姓、それに満洲名の赫舍里、中国名の暁文セットにした名前です。3つの文化を背景に、創作活動を展開されている満州族出身の画家です。

 今回、満洲文字と絵を絡ませて構成された作品が展示されるということでした。 果たして、どのような作品を鑑賞することができるのでしょうか。 大変、興味があります。

 それでは、展示作品の中からいくつか印象に残ったものを、ご紹介をしていくことにしましょう。

■心中サマン

 タイトルの横に「心中サマン」と書かれた作品がいくつかありました。さっそく鑑賞していくことにしましょう。

●《万物精霊》

 まず、画面の上に文字が整然と縦書きで書かれていたのが印象的でした。

(2017年頃、制作)

 画面右中央に椿の葉のような広めの葉が何枚か、描かれています。深みのある濃い緑色に濃淡が施され、なんとも艶やかです。その葉の上といわず、周りの大気といわず、辺り一面に大小さまざまな黒い斑点が散らばり、まるで得体の知れない物体が浮遊しているように見えます。そして、葉の真ん中では白い葉脈が走り、それぞれの葉にちょっとした動きを生み出しています。葉の大きさ、向き、その重なり具合などが丁寧に描かれており、ひそやかな生の営みを感じさせられます。

 厚みのある葉の形状が、グラデーションの中でしっかりと描かれています。葉の広がりは画面の半分ほどを占めているにもかかわらず、背景色とのコントラストが少なく、しかも、濃いグレーの濃淡と斑点が画面全体を覆っているせいか、存在感が弱く、沈み込んで見えます。

 ひょっとしたら、小鳥を目立たせるための色構成なのかもしれません。

 左上方には小鳥が一羽、枝に止まって、その下に広がる葉を見下ろしています。明るい黄土色と白の羽毛で覆われた姿が、その周辺を明るく照らし出し、眼下に広がる薄暗い葉とは対照をなしています。ここに、どこへでも飛んでいける自由を持つ鳥と、どこにも移動することができず、その場にい続けるしかない植物との対比を見ることもできます。

 さて、鳥の周辺以外、画面は寒色の濃淡で構成されています。それだけに、整然と縦に書かれた金色の満洲文字が目につきます。何が書かれているのか意味がわかりませんが、主要なモチーフを残し、金の満洲文字が画面を全体装飾するように覆っているのです。

 眺めていると、特徴的な文字の形に気づきました。

 Wikipediaで調べてみると、「満洲」という意味でした。

 改めて画面を見ると、この文字が繰り返し出てきています。画面全体に書かれたこの文字の中に、今はない満洲を哀惜する作者の心情を感じ取ることができます。

●《心中薩満》

 会場で見たときは、水色に近い藍色で覆われた画面が印象的でしたが、写真に写すと、群青色に近い色調になってしまいました。そのぶん、金で描かれた大小さまざまのサマンが強調されて見えます。

(2014年頃、制作)

 芋の葉のような形の葉が3枚、すっくと上に向かって伸び、1枚は下に折れたように垂れています。上に伸びる力と下に垂れる力を拮抗させているような画面構成が斬新です。その葉を取り巻くように、金色の大小さまざまなものが円を描くように配置されています。よく見ると、仏像のようにも見えます。

 上半分をクローズアップして見ました。

 

 大きいもの、小さいもの、立っているもの、座っているもの、手を曲げているもの、手を下ろしているもの、多種多様な姿をした仏像のようなものが無数に描かれています。

 全身がはっきりと描かれているものがあれば、半身あるいは一部分が背景に溶け込んでいるものもあります。葉を取り巻く辺り一帯に、この仏像のようなものが浮遊しているのです。

 空間自体に深みがあり、何か厳かなものを感じさせられます。時空を超えた何か・・・、それが何か、わかりませんが、気になってタイトルを見ると、その横に、説明が書かれていました。

「私は天を観た。天も私を観た。天・地・人・生命・自然・神・万物霊」とだけ書かれています。

 上を向く3枚の葉は天を指し、下を向く1枚の葉は地を指しているのでしょう。あるいは未来を指し、過去を指しているのかもしれません。これらの葉を取り巻く無数の仏像のようなものはおそらく、人でもあり、神でもあるのでしょう。

 仏像のように見えるものの中には、背景の中に半身、あるいは一部分が溶け込んでしまっているものがあります。つまり、実体ではなく、形象であり、想念であり、さらにいえば、生命そのもの、あるいは万物の霊そのものなのでしょう。

 とても引き込まれます。

 気になったので、今度は下半分をクローズアップしてみました。

 

 今まで気づかなかったのですが、満洲文字が整然と縦書きで藍混じりの淡い色で書かれています。目を凝らさなければ見えないほどですが、この満洲文字が添えられることによって、絵で描かれた空間に絵の構成とは別の秩序が与えられているように見えました。

 この下半分にも仏像のようなものが、大小さまざまな形態で描かれています。はっきりとした姿を現しているものもあれば、ぼんやりとしているもの、重なり合っているもの、さらには、周囲に溶け込んでしまっているもの、多種多様な姿の中に万物の霊を見る思いがします。物質ではなく霊魂だからこそ、至る所に浮遊し、時に重なり合い、時に溶け合い、共にこの世界の構成要素として存在しているのでしょう。

 見ているうちに、何かとても重要なことに気づかされた思いがしてきました。

 すべての存在にはおそらく、ふつふつと湧き上がるように魂が宿り、そこかしこに浮遊しているのでしょう。この作品を見て、それに気づかされたからこそ、あらゆるものの尊厳を冒してはならないという気持ちが、ごく自然に沸き起こって来たのです。

 この作品については、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、背景の藍色が淡いせいか、葉や花瓶の筆触がよくわかります。

 そして、もう一つ、心中サマンと書かれた作品がありました。

●《水仙図》

 会場で見ると、もう少し明るい色合いだったような気がするのですが、写真撮影すると、やや暗い色調になっています。

(2015年頃、制作)

 花の咲いた水仙が2株、対角線上に配置されています。葉は思い思いの方向に嫣然と揺らぎ、葉先は軽やかに空に舞っています。その形状はなまめかしい動きを表しており、まさに女性の象徴です。

 どういうわけか、2株ともしっかりと根の部分まで描かれています。根は宙に浮いていて、しかも、跳ねています。つまり、この水仙は土を介さないで、存在していることが示されています。そして、根の下の部分、茎の周り、その周辺一帯に、金の浮遊物が浮いています。

 こちらは仏像のように見えるものは数えるほどしか描かれていません。微細な破片のほとんどが、その形状から何かを想像できるものではなく、ただの浮遊物のようにしか見えません。

 ただ、右側の茎の周辺、真ん中の花の周辺に、気体のような金の浮遊物が密集しているのが奇妙です。

 花が咲き、茎が揺れる辺りに、この浮遊物が集中しているのです。このことからは、呼吸する、花を咲かせる、風に揺れる、といった大気に付随した生命活動と関連していることが示されています。気体のように目に見えないものが、このような形で可視化されているといっていいのかもしれません。

 目に見えないものをそのように可視化できれば、この世に存在するあらゆるものに命が宿り、霊魂があることを示すことができます。

 この作品に満洲文字は書かれていませんでしたが、仏像のようなものはいくつか描かれていました。それ以外に、先ほどご説明した気泡のようなもの、気体のようなもの、さらにいえば、気のようなものが随所に描かれており、生命現象、あるいは、精神現象そのものが描き込まれているように思いました。

 この作品についても、後に、作家の溝口・へセリ・シャオウェン氏から、写真が送られてきました。会場で見たのと同じ色調です。

 

 私が会場で撮影したものよりも、藍色の濃淡がよくわかります。全般に淡い藍色になっているので、暈し表現が効いているのを見て取ることができます。繊細でしなやかな葉の動き、曲線の妙味が秀逸です。

 ご紹介してきた三作品には共通して、「心中サマン」という語が書き添えられていました。そして、モチーフである鳥や葉、花の上や周囲に、満洲文字や仏像のようなものが描かれていたのも共通していました。

 そのせいか、画面全体が神秘的で荘厳な雰囲気で包まれているように思えました。満洲文字と絵画が融合することによって、神秘的で奥深い世界が創出されていたのです。まさに満洲文字が創り出す精神の小宇宙でした。

 ふと、中国の絵画理論といわれる「絵画六法」を思い出しました。

■絵画六法

 中国南北朝の時代に謝赫という画家がいました。彼は『古画品録』の序の中で、「絵画六法」という中国の絵画理論を記しています。原文は次の通りです。

  • 気韻生動是也
  • 骨法用筆是也
  • 応物象形是也
  • 随類賦彩是也
  • 経営位置是也
  • 伝移模写是也

 王凯氏はこれについて、次のように述べています。

「この絵画六法は顧愷之の絵画理論を発展させたもので、絵画の優劣を決めるための基準を与え後世の画論の重要な指標となった。(中略)中でも気韻生動が最も重要な法とされる。気韻とは神韻、神気、生気、壮気などとも言い換えられることがあるが、見る人を感動させる力であり、調和の取れたリズムを持つことを指す」(※ 王凯、『中国絵画の源流』pp.26-27. 秀作社出版、2014年6月)

「気韻生動」とはすなわち「气韻生动」で、見る者の精神を活性化することと解釈することができます。画面を見た鑑賞者の気持ちが動かされることを、作品の評価基準の一つに挙げているのです。

 絵画の存在意義に関連する重要な要素だと思います。

 最後の伝移模写について、王凯氏は次のように述べています。

 「张璪(唐代)は「外師造化、中得心源」と述べた。自然を教師としながら自分の心の中にあるものを源泉として作品を描く、という意味である。(中略)「伝移模写」は単なる絵を移すこと、まねて写すこと、或いは複製ではないことが明らかになった」(※ 王凯、前掲。pp.21-22.)

 この箇所を読んでいて、私は、溝口・へセリ・シャオウェン氏が会場で話されていたことを思い出しました。彼女は「中国では美大に入ると、1,2年生はしっかりと宋代の画家の作品の模写をさせられる」と話されていたのです。線とか色、形などに忠実に模写するのはもちろんのこと、重視されたのはその画家の魂を汲み取ることだということでした。

■宋代に確立された山水画、花鳥画

 何故、宋代の画家なのかということを聞きそびれてしまったので、ちょっと調べてみました。すると、宋代は中国絵画史のピークであり、転換期でもあったそうです。この時期に山水画と花鳥画の様式が確立され、特に山水画は中国絵画を代表するジャンルともなっています。

 山岡泰造氏は、宋代の山水画について、次のように記しています。

 「宋代は山水画のさまざまな構成要素が出揃った時代であり、しかもそれに無数の変化と個性を与えるための線描(及び線描を否定するや墨法)の多様性が生まれた時代であった。したがって、そこに成立する情景も複雑で多岐にわたるものであった」(※ 山岡泰造「宋代の山水画論について(一)」『関西大学東西学術研究所紀要』p.77. 2003年3月)

 このような状況を知ると、画力を養うための模写には、宋代の作品は恰好の教材だったことがわかります。

 山岡氏はさらに、次のようにも述べています。

 「輪郭線すなわち描画には画く人の気持ちが反映して速度や肥痩やリズムが生まれる。そしてそれによって表される物の形にも線を通して画く人の気持ちがあらわれるのである。画く人の気持ちは、その人が画こうとする対象(具体的な対象がない場合でも幻想的対象)から受け取るものであり、それを構成要素およびそれらによる構成に反映させることによって、見る人による対象(絵画)が成立するのである」(※ 前掲)

 作者の気持ちを画面に反映させることができるようになったのも、水墨画ならではの写意を表すための技法と構図が宋代に出揃ったからにほかならないのでしょう。

 再び、王凯氏に戻ると、彼は次のように「絵画六法」を総括していました。

 「絵画六法」の「法」はただの単純な絵画技法ではない。高度な哲学思想の本質をもって把握しなければならない論理である。この「法」は、宇宙、天地、生命の「気」の論説であり、即ち、天文、地理、社会、歴史、政治、軍事などに繋がり、認識論、方法論、特徴論、画法論、創作論、そして鑑賞論を含み、主体と客体の「真・善・美」の思想方式という科学的論理を持つものである」(※ 王凯、『中国絵画の源流』p.12. 秀作社出版、2014年6月)

 このような認識が広く一般に受け入れられているからこそ、中国では絵に文字が書かれても違和感がないのでしょう。違和感がないどころが、むしろ格調が高くなると考えられていた節があります。大画家はしばしば大書家でもありました。詩、書、画は、人の精神活動の現れとして同根なのです。

 それでは、個展会場に戻りましょう。

■満洲文字と絵画の融合

 会場を見渡すと、満洲文字が書かれた作品もあれば、仏像のような画像が描き込まれた作品もありました。それぞれメインモチーフと見事に調和し、画面を豊かなものにしていました。印象に残った作品をいくつかご紹介していくことにしましょう。

●《ハイピスカス》

 花のように見えますが、何の花かはわかりません。モチーフの色彩、画面の色調に圧倒されました。近づいて、タイトルを見ると、《ハイピスカス》と書かれています。

(2016年頃、制作)

 よく見ると、この作品にも満洲文字が散りばめられています。画面右中央から左下にかけて、斜めに縦書きで同じ文字が書かれています。どういう意味なのかわかりません。目を凝らすと、画面左端と右端にも縦長に文字が書かれています。さらに、モチーフを取り巻く恰好で、文字が淡く、書かれています。そのせいか、文字はほとんどモチーフの周辺に溶け込んでいます。

 ちょっと引いて、画面全体を見ると、満洲文字がモチーフを補完するように配置されて書かれています。そのせいか、画面が安定し、独特の深みが表出しています。

 文字ではなく画像が散りばめられている作品もありました。

●《菊神》

 画面の色調に惹かれ、足を止めて見入ったのが、この作品でした。タイトルは《菊神》です。

(2018年頃、制作)

 黄色の絹地を使って描いたそうです。右下に文字が書かれていますが、アルファベット表記で、溝口・へセリ・シャオウェンと書かれていますから、これは署名です。

 この作品ではまず、モチーフと背景の色調がとても似通っていることに気づきます。

 このような色構成をすると、モチーフはともすれば、背景の色調に溶け込み、沈んでしまいかねません。ところが、この作品はそうはなっておらず、むしろ、背景とモチーフとが一体となって、深い哀愁を帯びた情感を醸し出しています。

 花びらであれ、花芯であれ、葉であれ、茎であれ、丹念に精緻に描き込まれているからでしょう。まるで工筆画のようです。

 モチーフは輪郭線とぼかしで正確に写し取るように描かれています。そのせいか、背景と似た色彩で描かれているのに、モチーフは決して背景の中に埋没することなく、むしろ、くっきりと存在感を示すことができています。

 よく見ると、葉の上に仏像のようなものが見えます。

 少し、クローズアップして見ましょう。

 

 この仏像のようなものは葉脈と同じ色で描かれているので、うっかりしていると見落としてしまいますが、よく見ると、手前の葉の上に4カ所、仏像のようなものが立っている姿で描かれています。さらに視線を上げると、花の上に描かれた茎にも、形は判然としませんが、仏像のようなものが描かれています。

 至る所に神がいて、この世界を秩序立てて安定を図り、守っているというメッセージなのでしょうか。

 満洲文字ではなく、仏像のような画像を使ったのは、おそらく、この作品のモチーフが工筆画のような精密さで描かれているからでしょう。ここでは敢えて文字をつかわず、画像を使って、工筆画のもつ硬さをやわらげ、画面のバランスを取ろうとしたのではないかと思いました。

 そういえば、先ほどご紹介した《ハイピスカス》は、至る所に文字が書かれていました。こちらのモチーフは写意画の画法で描かれていました。荒く、大胆に描かれたモチーフには文字をレイアウトし、堅苦しさを持ち込み、硬軟のバランスに配慮した画面構成になっていました。

 最後に、文字を全面に打ち出した作品がありましたので、ご紹介しましょう。

●《女神》

 まず、文字が全面に押し出された作品です。画面全体に上から縦書きで文字が整然と描かれています。

(2016年頃、制作)

 絵は文字の下に描かれているのですが、辛うじて女性の顔が見える程度です。やや暗い色調の中にピンク系の色が適宜、散らされ、文字の背後から明るさを出しています。《女神》というタイトルからは、歴史の匂いが感じられます。

 案の定、「1599」という数字が繰り返し、書かれています。気になったので、Wikipediaで調べてみると、明代に女真を統一していたヌルハチがモンゴル文字の表記を応用して「無圏点字」を制定した年だとされていました。

  ところが、無圏点字は、モンゴル文字の体系をそのまま使っていたので、満洲語を表記するのは問題が多かったようです。そこで、ヌルハチの子ホンタイジの時代に、従来の文字に点や丸を添えて、満洲語の一音が一文字で表記するように改良されました。それが1632年です。改良された文字のことを「有圏点字」というそうです。

 改めて、この作品を見ると、いくつかの文章は、確かに文字の横に〇が付いていたり、点が付いていたりしています。ところが、2行目、5行目、8行目、9行目で、アルファベット表記の文章も見えます。2行目はフランス語かと思って調べてみましたが、意味が通じません。アルファベット表記の文字だということがわかっても、何語かはわかりませんでした。

 ちなみに、清代では、満州文字は「清文」、「国書」と呼ばれ、モンゴル文字、漢文とともに三体といわれていたそうです。ところが清朝末期の西太后は満州族でありながら、満洲文字は読めなかったそうです。

 興味深いことに、民間の漢人は満州語と満洲文字の習得は禁止されていました。漢人で満州語や満洲文字を学ぶことが許されていたのは、科挙合格者の状元(首席合格者)、榜眼(第2位で合格)などの成績優秀者に限られていたといわれています。

 なぜかといえば、清代の公文書は満洲文字と漢文が併用されており、満洲文字で書かれた文書の方が漢文で書かれたものより、詳細に記述してあることが多かったからだそうです。使用文字によって情報内容を操作するとともに、情報へのアクセスに制限をかけていたのでしょう。清代の官職で満洲文字を理解できるものが優位に立てるのは当然でした。

 このことからは、文字が国の統治にいかに深く関わっていたかがわかります。

 清朝初期の記録は、満州語で書かれたものしか残っておらず、ごくわずかの人しか当時のことは理解できません。先例や伝統が優先される事象に対応できるのは、満洲語を理解出来る者だけでした。満洲語を使えるというだけで、彼らは権力を保持できましたが、いったん文字が使われなくなると、そこで記録は途絶えてしまいます。

■サマンは満洲文化を取り戻せるか?

 現在、満洲文字によって支えられ、存在していたはずの文化が、人々の記憶から失われかねない事態になっています。

 今回、溝口・へセリ・シャオウェン氏の個展で、満洲文字と絵を融合させた作品を何点か鑑賞する機会を得ました。これまでご紹介してきたように、それらの作品を通して、文字は、絵の価値を損なうことなく、むしろ、格調や深みを付与できることがわかりました。

 満洲文字が画面に添えられることによって、絵だけでは得られない深みを感じさせられました。満洲文字の意味はわかりませんが、 思索につながる深さを感じさせられたのは、 おそらく、文字そのものがもつ抽象化された概念がそこに含まれているからでしょう。

 翻って、日本の場合を考えてみると、明治期の西欧化政策の下、「書ハ美術ナラズ」として書画は分離されました。中国由来の書画一体観の下、日本で連綿と形成されてきた江戸時代までの文化が断ち切られたのです。

 このときは近代化政策の一環として、明治政府が美術も西洋基準に合わせようとしたからでした。いつの世も、文化は政治経済によって断ち切られ、変貌させられがちです。それでも、その文化を愛でる人々がいる限り、再び、息を吹き返し、甦っていくことでしょう。満洲文字に支えられた文化も同様だと思います。

  いつの日か、 それこそ サマンの力によって、満洲文化を取り戻すことができるでしょう。 (2021/10/25 香取淳子)

画家たちが愛した「フォンテンブローの森」を見る。

■風景画とアカデミズム

 18世紀末から19世紀初頭にかけて、社会動向を反映して美術界にも大きな変化が訪れていました。

 たとえば、風景は長い間、肖像画、歴史画の背景でしかありませんでした。ところが、産業革命を経て市民階級が台頭してくると、次第にありのままの光景を描いた風景画が求められるようになります。そのような美術市場の動向を反映し、アカデミズムにも風景画を認める動きが出てきていたのです。

 鈴木一生氏は当時のフランス美術界について、次のように書いています。

 「一般に人気が高かったのは、歴史物語を含まないオランダ絵画に代表される自然主義風景画であった。実際、19世紀初頭の絵画市場において、高い値が付く絵画のほとんどは、アカデミーからは下位ジャンルだと見做されていたオランダの風景画や風俗画であった。(中略)オランダ絵画は、同時代の新古典主義の画家と比べても圧倒的高値で売買されていた」 (※ 鈴木一生、「1810 年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、pp.22. 2017年4月)。

 市民階級には、ありのままに描かれた風景画が好まれていたのです。このような状況をアカデミーも無視することができず、ローマ留学賞に風景画部門を加えるような動きがでてきました

 当時、アカデミーが風景画の理想として挙げたのが、プッサン(Nicolas Poussin、1594年6月15日-1665年11月19日)の作品でした。

 鈴木一生氏は、「イタリアの情景をプッサンやクロードのように描く、それはまさに歴史風景画の理想であった。(中略)歴史画の延長でありながら、独立した風景画を賛美しようとする意図があった。つまり、アカデミーの中での風景画の格上げとは、風景画に精神性を加えること、プッサンといった巨匠と同時代の風景画を結びつけることであった」と書いています(※ 前掲書。pp.34-35. )。

 その代表として挙げられているのが、ニコラ・プッサンの《蛇のいる風景》です。

(油彩、カンヴァス、119.4×198.8㎝、1648年制作、ロンドン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 手前に暗褐色の道と土手、中ほど両側に暗緑色の大木、そして、その奥左側に建物、さらに奥右側に建物を配し、上部三分の一ほどは雲がかった空が描かれています。画面には3人の人物が描かれていますが、目を凝らさないとよく見えません。

 とはいえ、葉陰から漏れる陽光に照らし出された人物の動作から、なにやら事件が発生しているようです。まるでライトを浴びた舞台のように、道の一部が照らし出されているので、人物が何をしようとしているのかを想像することができます。

 この作品を見た瞬間は風景画ですが、よく見ると、小さく描かれた人物の動作と配置によって、鑑賞者に物語を想像させるような仕掛けになっています。物語の内容によっては宗教画であり、歴史画でもあるという組み立てになっているのです。

 1810 年代後半から1820 年代にかけてのサロンではようやく、風景画が認められつつありました。とはいえ、風景画に対する見解はさまざまでした。プッサンのような歴史風景画にこだわる人々がいる一方で、市民の嗜好を反映した自然主義的な風景画を認めようとする人々もいました。

 1820 年代以降になると、アカデミーの中でも自然主義的な風景画に好意的な見解がさらに増えていきました。

 一部の画家たちが、そのような風潮に呼応するような動きを見せます。

■フォンテンブローの森

 パリの南方約60㎞のところに、バルビゾンという名の村があります。フォンテンブローの森に隣接しており、19世紀の半ばあたりから画家たちが滞在するようになりました。ここに来れば、ありのままの自然を観察し、作品化することができるので、画家たちに好まれたようです。

 ところが、18世紀半ばから19世紀にかけてイギリスで起こった産業革命の影響がフランスにも及び、19世紀半ばごろには、あちこちで環境破壊が起こっていました。人々の利便性を高め、生産性を向上させるための破壊活動でした。

 産業革命後の近代化がパリ郊外にまで及びはじめ、伸びやかに広がったフォンテンブローの森が破壊されそうになりました。周囲に鉄道や工場が建設され、バルビゾン周辺の環境が破壊されそうになっていたのです。それに向かって立ち上がったのがルソーやミレーなどバルビゾンに移住した自然派の画家たちでした。

 たとえば、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)は森の樹木が伐採されていくのを憂え、当時の皇帝ナポレオン3世に伐採禁止を直訴しました。その結果、1853年には森の中のバ・ブレオーやフランシャール、アプルモン谷など風光明媚な場所624ヘクタールが、国の自然保護区に指定されました。1861年になると、保護区はさらに1,097ヘクタールにまで拡大されたといいます(※ 井出洋一郎、『バルビゾン派』、p.5. 東信堂、1993年)。

 もっとも、それで問題が解決したわけではありませんでした。

 政府はその後、手間のかかる広葉樹を切り倒し、成長が早く利用しやすい松などの針葉樹に植え替え作業を進めようとしました。木々を伐採してしまうわけではないので、反対運動は起こらないと思ったのかもしれません。

 木々が伐採してしまわないから問題がないわけではありません。広葉樹から針葉樹への植え替え作業そのものが自然の生態系を壊してしまうことになるのです。

 ルソーは再び、ミレーと共に反対運動を起こし、今度は皇后に働きかけて、森の内部まで植え替えを進めさせないようにしたといいます(前掲)。

 革新的な風景画家であったばかりか、 ルソーは 自然保護活動の先駆けでもあったのです。

 こうしてルソーら画家たちの働きかけがなければ、破壊されかねなかったフォンテーヌの森の原型が保たれました。バルビゾン村の人々はその功績を称え、後の画家たちがルソーとミレーのレリーフを岩に刻んで碑を建てています。

https://www.fra5.net/une/barbizon.htmlより)

 ありのままの自然を好んだ画家たちは、身を挺して、フォンテンブローの森を守ってきたのです。そして、新たな表現世界のトポスとして、この森をモチーフに次々と作品化していきました。

 彼らはバルビゾン村を中心に、隣接するフォンテンブローの森などを写生して風景画を描き、やがてバルビゾン派と称されるようになります。

 たとえば、ルソーは1829年からフォンテンブローの森を訪れ、木々を描くようになっていますが、コローも同年春、バルビゾンに移住し、フォンテンブローで制作し始めています。ルソーは17歳、コローは33歳の時でした。

 そこで、今回は、ルソー(Théodore Rousseau)とコロー(Jean-Baptiste Camille Corot)を取り上げ、トポスとしての「フォンテンブローの森」について考えてみたいと思います。

■ルソー

 バルビゾン村の画家グループの中心人物が、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau、1812年4月15日―1867年12月22日)でした。彼は1829年、17歳の時からフォンテンブローの森を訪れ、木々や情景を観察していは次々と制作していきました。やがて、他の画家たちと共に、「1830年代派」と呼ばれるようになります。

 バルビゾンの自然を愛したルソーの作品にはとくに、これまでの画家には見られない斬新な風景表現が随所に見受けられ、注目されました。制作年が若い順に、三作品をご紹介しましょう。

●《森の大樹》

 たとえば、1835年から40年の間に描かれた《森の大樹》という作品があります。

(油彩、カンヴァス、39.0×30.0㎝、1835-40年、村内美術館所蔵)

 画面中央に、枯れてざっくりと裂け、木肌が剥き出しになった幹が描かれています。背後にはうっそうとした木々の茂みが広がっています。

 木々の葉、枝、幹を、黄褐色、暗褐色、暗緑色の濃淡で描き分け、生い茂る木々の深みが巧みに表現されています。近景、中景、遠景を意識して、色構成を考え、モチーフが配置されているからでしょう。

 空から降り注ぐ陽光が随所に射し込み、葉先や幹が所々、明るく照らし出されており、画面に生気がもたらされています。豊かな森の営みが浮き彫りにされ、見ているだけで、森のひそやかな息遣いが聞こえてくるような気がします。

 メインモチーフの選び方といい、構図、筆触を活かした描き方といい、とても斬新で、しかも迫真力があります。

 裂けた幹そのものがドラマティックで、ただの枯れた木にすぎないのに強烈な存在感があります。自然をありのままに描きながらも、そこにモチーフの捉え方一つで大きなドラマが感じられます。近景と遠景とを描き分け、ドラマティックな効果をあげているのです。

 確かに、新古典主義、歴史風景画などとは明らかに異なっています。現代の作品だと言っても違和感のないほど、対象の捉え方にルソーの独自性が見られ、新鮮です。

  この作品を見ると、一部とはいえ当時の人々が、ルソーの斬新な風景表現に注目していた理由がわかります。

 幹の裂けた木肌の描き方には、印象派を想起させるような、光を意識した色遣いが感じられます。明らかに新時代の作品でした。

 風景を背景として描くのではなく、歴史を重ね合わせ、理想的に描くのでもなく、ありのままに描きながらも、独立した一つの作品として存在させているのです。モチーフの切り取り方、構図、色構成などが細密に工夫されているからでしょう。

●《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》

 ルソーは数多くの風景画を描いていますが、構図が面白くて惹きつけられたのが、《フォンテーヌブローの森のはずれ、日没》でした。ルソーが36歳ごろに描いた作品です。

(油彩、カンヴァス、142×198㎝、1848-49年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 左右と上部が木々、下部が下草で覆われています。そのせいか、四方が暗緑色で囲まれる格好になり、鑑賞者の視線は必然的に、画面中央に誘導されます。

 視線を誘導されるまま、画面に目を凝らすと、右側中央寄りの木の一部は切り取られ、左側中央寄りの木もまた上部が無くなっているのに気づきます。画面中央を取り囲む左右の木の一部が欠損しているのです。さらに、中央右寄りに、褐色で描かれた歪な恰好の木の幹は大きく傾き、今にも倒れそうになっています。

 いずれのモチーフも不安定で、鑑賞者に不安をよびおこすような形状であり、配置でした。鑑賞者の視線を集める画面中央に、欠損状態の木々をレイアウトし、不安感を強調するような画面構成になっているのです。

 王立森林局がフォンテーヌブローの森を切り開こうとしていた時期に描かれたのでしょうか。この作品にはルソーの主張が感じられます。

 傷んだ状態の木々が、鑑賞者の視線を集めやすい中央に配置されています。しかも、中央の目立つ位置に描かれた木の幹は大きく歪み、倒れかかっているように見えます。欠損状態、歪な状態の木々を画面の中央にレイアウトすることによって、ルソーは、森林の伐採に警告を鳴らしているように思えるのです。

 画面中央の左下を見ると、うっかりすると見落としてしまいそうなほど小さく、沈み込む太陽が描かれています。その小さな光源は辺り一面に光を注ぎ込み、日没の哀愁を画面中央近辺で浮彫にしています。見ていると、しみじみとした情感がかき立てられます。

 前景を見ると、手前から中ほどにかけて、牛が群れて水を飲んでいる姿が捉えられています。夕陽の輝きの中で、牛や木々の影が水面に落ち、そこには日没の哀愁と、無事一日が終わったというかすかな安堵が感じられます

 さらに目を凝らすと、画面中央左寄りに人の姿が見えます。牛飼いなのでしょうか。明るい残照の下、風景の中に溶け込んでしまっているように見えます。

 こちらは、不安感を誘うような木々の形状とは逆に、穏やかな陽射しに包まれた人と動物の安らかなひとときが捉えられています。まるで森林が果たしてきた人や動物への恵みを訴えかけているかのような作品でした。

 陽光の扱いと筆触を活かした描法に、印象派の要素が感じられます。この作品は1850年と1851年のサロン、そして、1855年の第1回パリ万博に出品されました。フランス美術界でルソーの評価を高めたといわれています。

 この作品には、不安感をあおる要素と安堵感をもたらす要素とが混在しており、風景だけを描きながらも、鑑賞者に思索を促すところがあります。そのあたりにアカデミー側が格調の高さを感じたからかもしれません。

 その後も一貫して、ルソーは写実的に風景を描き続けました。自然を愛し、ありのままに描く姿勢を貫き通したのです。

●《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》

 ルソーの代表作の一つとされるものに、《アプルモンの樫、フォンテーヌブローの森》があります。40歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、64×100㎝、1852年、オルセー美術館所蔵)

 なんとも壮大な作品です。

 大きな樫の木々の下で牛が三々五々、草をはみ、水を飲んでいます。空いっぱいに雲が広がり、その合間から射しこむ陽射しが柔らかく、辺り一面を明るく照らし出しています。静かで平和なひとときが見事に描かれています。

 手前には緑色の下草が広がっており、中ほどはやや褐色がかった巨木、そして、その背後には所々、水色が混じったどんよりとした曇り空と色彩バランスも巧みです。

 この作品では近景、中景、遠景の色彩バランス、そして、モチーフの配置の妙が際立っています。単なる風景を描いただけのように見える作品ですが、さりげなく、しかも見事にメッセージが描き込まれています。

 圧倒的に大きな存在感を示す自然の下、動物とヒトが調和し、平和裏に生きている姿が暖かく、哀愁をこめて描かれています。自然を愛する者ならではのモチーフの選択、配置、構図といえます。

 この作品は1852年のサロンに出品されました。そして、1855年に開催された第1回パリ万博に出品され、その後、1865年にモルニー公爵に買い上げられました。ようやくアカデミーから評価され、権威筋から購入されたのです。

 ルソーは1867年、第2回パリ万博で審査委員長に任命されました。

 画家としてステップアップしていくにつれ、最初はアカデミーから相手にされなかった風景画が次第に権威づけられ、絵画の一ジャンルとして認められるようになりました。

 ルソーはその後も一貫して、フォンテンブローの森やバルビゾン周辺の自然を描き続けました。ここでご紹介したのはルソーの作品のほんの一部でしかありません。バルビゾンの雰囲気を把握するため、さらに多くのルソーの作品を動画でご紹介しておきましょう。

こちら → https://youtu.be/2JtTg9oYAJI

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■コロー

 カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot、1796年7月16日-1875年2月22日)もまたルソーと同様、自然を愛し、フォンテンブローの森を様々に描いてきました。

 前回、《荷車―マルクーシの思い出》(1855年)、《モルトフォルテーヌの思い出》(1864年)、《孤独》(1866年)をご紹介しましたので、今回は、また別の作品をご紹介していくことにしましょう。

 コローは1840年代から偉大な風景画家として知られるようになりますが、そのきっかけとなったのが、1833年にサロンに出品した《フォンテーヌブローの森の浅瀬》でした。

●《フォンテーヌブローの森の浅瀬》

 1833年、サロンに出品したのが、《フォンテーヌブローの森の浅瀬》(原題はForest of Fontainebleau)です。2等賞を受賞しました。コロー、37歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、90.2×128.8㎝、1830年制作、ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵)

 画面の半分ほどはうっそうと生い茂る木々で占められています。右側には大きな木々が茂って浅瀬に影を落とし、その左手奥には剥き出しになった土手の上に木々が生い茂っています。

 画面中ほどから右下にかけて、蛇行する川に沿った周辺に陽が射し、下草や岩や水を明るく照らし出しています。光と影、明と暗を巧みに配置しながら、水辺に流れる静かなひとときが描出されています。

 深い暗緑色の葉と暗褐色の幹が背後からの陽射しを遮り、その下の浅瀬に暗い影を落としています。画面は静謐を湛え、寝そべって読書する女性の姿を引き立てています。

 深い静寂がしっかりと描き出されているからこそ、読書するという内省的行為が引き立てられています。風景と人の行為とが見事に調和し、鑑賞者の気持ちを惹き付けます。

 当時のフランス美術界では、アカデミックな風俗画や肖像画がもてはやされていました。風景はその時もまだ、神話や歴史をテーマとした人物画の背景でしかなかったのです。

 そのような風潮の中で、自然主義的な風景画が受賞することはなく、ルソーなど、1836年にサロンに《牛の山下り》という作品を出品しましたが、落選してしまいました。その大胆な自然主義が新古典主義画壇の反感を呼んだのです。以後10年間というもの、サロンに出品しても落選し続けたため、ルソーは「落選王」と揶揄されていたそうです(井出洋一郎、前掲)。

 ところが、コローの《フォンテーヌブローの森の浅瀬》は、風景画でありながら、サロンで2等賞を受賞しています。

 いったい、何故なのでしょうか。

 再び、この作品を見てみると、風景画とはいえ、ここでは風景と人物が等価で描かれています。風景は決して、人物の背景ではありませんが、かといって、風景そのものが自己主張し、メインモチーフとして取り上げられているわけでもないのです。

 ルソーとの違いはおそらく、そのあたりにあるのでしょう。なによりもまず、風景との向き合い方が異なっているように思えます。風景そのものの中に表現する意味を見出すのではなく、人物との調和にその意味が見いだされ、描かれているのです。

 そのせいか、コローの風景はルソーとは違って、ややパターン化された描き方に見えます。

 コローはどのような作品にも人物を描き込んでいます。しかも、女性です。そのせいでしょうか、コローの作品にはどこかしら詩情が感じられ、抒情性が感じられます。

 18世紀末に刊行された『芸術家のための実践遠近法基礎』という本の中で、著者のヴァランシエンヌは自然を捉える方法は二つあるとし、①自然をあるがままに示す方法、②自然を理想的に、豊かな想像力に基づいて描く方法、があるといっています(鈴木一生、「1810年代後半の歴史風景画の変化」『成城文藝』第239号、p.35. 2017年)。

 バルビゾン派が認められるまではおそらく、風景画はもっぱら、②の要素のある作品が評価されてきたのでしょう。実際、コローの作品には②の要素がありました。その後の作品も同様です。

 たとえば、1850年に制作された《朝、ニンフの踊り》という作品があります。

●《朝、ニンフの踊り》

 こちらも風景と女性(ニンフ)をモチーフにした作品です。とはいえ、風景の描き方が先ほどの作品とはやや異なっています。

(油彩、カンヴァス、98×131㎝、オルセー美術館所蔵)

 大きな木の下でニンフたちが手をつなぎ、踊っています。柔らかな陽光が彼女たちの肩や背に落ち、白く艶やかな肌が煌めいて見えます。朝のさわやかな大気の下、彼女たちの賑やかな声が聞こえてきそうです。

 木々は空高く枝を伸ばし、太い幹に支えられています。右側半分ほどを占める、うっそうと生い茂る暗緑色の葉には所々、陽が射し込み、そこから陽射しが漏れて、踊るニンフたちや下草を明るく輝かせています。

 よく考え抜かれた構図です。

 右側の巨木からは生い茂る葉が中央部分で垂れ下がり、まるでそこだけくり抜いたかのように空洞ができています。その背後には、はるか彼方に、うっすらと丘が見え、空が大きく広がっています。

 木の周辺では、手をつないだニンフたちが弧をえがくように配置されています。朝の陽射しが、木々や下草、ニンフたちの上に明と暗を創り出し、それが画面に動きとリズムを生み出しています。生命の躍動を感じさせる絵柄です。

 伸びやかな自然の下で、自然と万物が調和して生きる、平和なひとときが描かれているといってもいいでしょう。まさに神話の世界です。

 この作品で印象深いのは、中央部分に描かれた背の高い木です。右側の木々とは違って軽やかで、風にそよぐ囁きさえ聞こえてきそうです。枝は細く、枝先に付いた葉は淡色で描かれており、霞がかったように、背後の空に溶け込んでいます。そこになんともいえない幻想的な詩情が感じられ、その下で踊るニンフたちの姿と見事に調和しています。

 うっそうと葉の生い茂る暗緑色の右側木々、そして、淡色で軽やかに描かれた真ん中の木、そこには、モチーフの色彩、形状、配置などに見事なコントラストの妙味が感じられます。

 コローは自然をありのままに描いたのではなく、想像力を働かせ、美しさの極致を求めて再構成し、このように表現したのでしょう。自然に触発されたとはいえ、理想を求めて画面構成され、創り出された美しさがこの作品にはありました。

 真ん中の木の枝先の葉が、暗緑色の幹にかぶっているところの描き方、そして、下草の描き方には、印象派を彷彿させるところもあります。

 こうしてみてくると、コローの作品が人気を得た理由がわかるような気がします。モチーフを見れば自然主義であり、構図を見ればロマン主義でもあり、新古典派の要素があり、印象派の要素もあるといった多面的要素が見られるのです。

 当時の美術界で目指されたさまざまな要素が取り込まれているようでいて、全体画面を見れば、しっかりとコローの世界が創り出されているのです。

 実は、コローは1821年から22年にかけて当時、風景画家として著名だったアシール=エトナ・ミシャロン(Achille-Etna Michallon、1796年10月22日―1822年9月24日)の下で学んでいます。

 ミシャロンは1817年、初めてローマ賞に風景画部門を設立された際の受賞者でした。受賞作品は《倒れた女性》です。

(油彩、カンヴァス、105×81㎝、1817年制作、ルーヴル美術館所蔵)

 彼は幼い頃から、美術に興味を抱き、18世紀後半の著名な風景画家ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ(Pierre-Henri de Valenciennes、1750年12月6日―1819年2月16日)に学びました。

 ヴァランシエンヌは、先ほどもご紹介しましたように、『芸術家のための実践遠近法基礎』という書物を革命暦8年(1799-1800年)に刊行しています。画家であり、理論家であり、教育者でもあったのです。

 試みに、ヴァランシエンヌが1810年に描いた《バッカスと森の風景》を見てみましょう。

(油彩、カンヴァス、40.5×55㎝、1810年制作、アメリカ、バーミンガム美術館所蔵)

 非常に精緻に風景が描かれています。左手奥から射し込む柔らかな陽光が、巨木の幹や枝や葉に反射して彩りを添え、下草を明るく照らし出しては、鑑賞者の視線を集め、巨木の根元で展開されている物語に関心を誘います。

 モチーフといい、色彩といい、よく出来た新古典主義の作品といえるでしょう。

 コローの作品(1850年)、コローが師事したミシャロンの作品(1817年)、ミシャロンが師事したヴァランシエンヌの作品(1810年)を見比べてみると、いずれも壮大な風景の下、人の姿が小さく描かれているという点で共通しています。

 当時の分類でいえば、歴史風景画です。

 巨木の下で、人々の行為が捉えられ、神話か、歴史を題材にして構想されたという点でも共通しています。風景だけを描いていたのでは鑑賞者に理解されない、あるいは、評価されないという懸念があったのでしょうか。

 三作品を見比べてみると、風景の描き方に違いを見て取ることができます。物語の舞台として巨木が設定されていますが、その巨木の描き方に違いがみられるのです。

 ヴァランシエンヌが葉や枝、幹までも均等に精緻に描いているのに対し、ミシャロンは同系色の明暗で生い茂る葉を描いています。そして、コローはさらに大胆に葉を一塊として捉え、細部を省略して描いています。

 時代が下るにつれ、風景の捉え方、木々の捉え方に違いが見られます。三作品を見ているうちに、それは写実の捉え方が異なってきているからではないかという気がしてきました。

 それでは、再び、コローの作品を見ていくことにしましょう。

 コローは各地を旅行し、風景を描いてきましたが、パリ郊外のヴィル・ダブレーの風景もまた、彼が好んで描いた場所です。両親から譲り受けた邸宅がここにあったからですが、ここで描いた作品の中で、これまでとはいっぷう変わった作品がありました。

●《ヴィル=ダブレ―の池》

 展覧会場でこの作品を見ると、ひょっとしたら、見落としてしまうかもしれません。画面が大きいわけでもなく、色調は地味で暗く、際立ったモチーフもありません。鑑賞者の目を引き付けられる要素が見当たらないので、多数の作品の中では埋もれてしまうのではないかと思いました。コロー71歳の時の作品です。

(油彩、カンヴァス、47.5×74㎝、1867年制作、アメリカ、ポートランド美術館所蔵)

 この作品もこれまでと同様、風景と人物が描かれています。ところが、人物の姿はこれまでとは違って、判然と描かれておらず、風景の中に溶け込んでしまっています。近くに2頭、牛が描かれているので、かろうじて牛飼いなのかと思う程度の漠然とした描き方です。

 周辺の木々も草木もなにもかも、形状は不分明ですし、色彩によって識別することもできません。すべてが曖昧模糊とした状態で表現されています。人物や動物は小さく、色彩で識別することもできないほど、目立たないように描かれているせいか、風景が強く印象付けられます。

 もっとも、個々のモチーフを見ると、訴求力が弱く、存在感が希薄です。ところが、画面全体を見ると、幻想的で哀愁を帯びた情感が感じられ、この景観そのものがもたらす漠然とした情緒が感じられます。

 画面を理解するのではなく、何か得体の知れないものが、心の奥深く、ふつふつと沸き起こってくるのを感じさせられるのです。ノスタルジーなのでしょうか。

 近景では地面を覆う下草が暗緑色、所々に水面が光る池やその周辺が暗色で描かれています。周囲には牛飼いや牛なども描かれているのですが、辺り一帯の風景の中に沈み込んでしまっています。

 そして、中景は褐色や暗褐色の草木や灌木、暗緑色の大木、褐色の高い木など、もっぱら木々が大きな面積を占めています。曇り空を背景に、ここで描かれた木々が目立ちます。

 その木々の背後には柔らかな陽射しが射し込み、その奥に広がるエリアを照らし出しています。実際、左側中ほど奥には建物が描かれており、ここで人々が暮らしていることを知らせてくれます。

 背後に曇り空が広がる中、形状、色彩、高低がそれぞれ異なる木々を、波打つように配置することによって、画面に柔らかなリズムと遠近感を生み出しています。

 この作品にも、構図の妙味を感じさせられました。

 さらに、光の使い方が卓越していると思いました。ひっそりとした佇まいの中で暮らす人々の生活を、木々の背後から射し込む鈍い陽光だけで、情感豊かに描き出すことができているのです。暗褐色をベースにした柔らかな色遣いとモチーフの形状が幻想的で、哀愁を感じさせ、その哀愁の中に滔々と流れる詩情を感じさせます。

 老境に入ったコローは明らかに以前とは異なる世界を創出していました。とても深く、心が揺さぶられる思いがします。

■トポスとしてのフォンテーヌブローの森

 今回、ルソーとコローの作品を取り上げ、題材としてのフォンテンブローの森について考えてみました(コローは前回、取り上げた作品を除いて選択したので、フォンテンブロー以外の作品も一つ含まれています)。

 バルビゾン派と呼ばれる画家たちのうち、ルソーとコローだけ取り上げたのですが、彼等の作品を見ていると、フォンテンブローの森は自然を愛する画家たちのトポスとして機能しているように思えました。

 彼等は、フォンテンブローの森やその周辺の風景をさまざまに描いてきました。改めて、二人の作品をいくつか見てみると、モチーフの取り上げ方、描き方、構図、それぞれの個性が明瞭で、しっかりとした作品世界が構築されているのがわかります。

 たとえば、17歳の頃からフォンテンブローの森に着目し、制作してきたルソーは、自然そのものをモチーフにしていました。ありのままの自然を観察し、カンヴァス上に表現してきました。

 それまで誰も取り組んでこなかった木々や丘、空などの風景からドラマを引き出し、ストーリーを組み立て、独自の世界を創り上げたのです。歴史主義、古典主義、ロマン主義に束縛された視点からはとうてい生み出せない世界でした。

 ルソーはだからこそ、サロンには受け入れられず、長い間、落選し続けたのです。素直に対象に向き合って作品化されているせいか、ルソーの作品は今見ても、とても斬新です。本質を突いた表現には時空を超えたものがあり、心動かされます。

 松葉良氏はルソーについて、以下のように書いています。

「バルビゾンの画家達の中で風景画においてもっともすぐれた画家はテオドール・ルソーである。彼が求めたものは、大地や丘、そして森や樹木などの不変の姿であり、常に画家と自然との間の共感であったといえる。そして、一個の小画面が宇宙につらなり、森羅万象がことごとく蘇生するアニミズムの神秘の世界が彼の念願であった」

(松葉良「バルビゾンの画家達とカミーユ・コロー」『文藝論叢』第25号、2012年)

 今回、ルソーの作品を見直してみて、私もそのように思いました。彼の作品には、時を経ても古びない永遠性がありました。それはおそらく、自然をしっかりと観察し、本質を見抜き、ありのままに描いたからこそ得られたのだと思います。

 フォンテンブローの森を守るために活動したルソーは、1836年からバルビゾンに定住したそうです。彼が住居兼アトリエとして使っていた建物が残っています。

https://cercledesamisdebarbizon.com/2018/11/11/miracle-a-barbizon-latelier-rousseau-redevient-enfin-un-site-dexposition-magnifique/

 この建物は今、村立博物館として使われています。

 ルソーは生涯、バルビゾンを愛し、住み続け、そして、骨を埋めました。フォンテンブローの森を守っただけではなく、その後、154年を経てもなお、村に貢献しているのです。

 一方、コローは、1821年から22年まで新古典主義のミシャロンに師事していました。ほんの1年ほどで終わってしまったのは、ミシャロンが肺炎を患い、わずか25歳で、生を閉じたからでした。

 そのミシャロンは、風景画家として名を成したヴァランシエンヌに師事していました。ヴァランシエンヌの作品を見ると、まさにアカデミーが認めた歴史風景画でした。ミシュランもその傾向を受け継いでいますが、新古典主義の要素も見られます。

 そのせいか、コローの作品には新古典主義の影響が見られます。時系列で作品を見ていくと、少しずつその影響が消えているのがわかります。とはいえ、容易に脱出しきれないようで、どの作品にも、どこかしら、新古典主義の痕跡が見られます。

 もっとも、老境に入って制作された作品には、独自色が濃厚になっています。風景に人物を添えるという点は崩さず、風景そのものに焦点を当て、語らせるという意図が見えるのです。

 新古典主義を踏まえながらも、試行錯誤を経て、独自の幻想的な世界を創り出したことがわかります。ルソーとは異なったスタイルで、コローもまた風景そのものが語る世界を創り出していたのです。

 美術のジャンルでは下位に位置づけられていた風景画ですが、産業革命を経て台頭してきた市民階級がやがて、美術市場に変容を迫るようになります。彼等がありのままの姿を描いた風景画を求めたからでした。

 当時、オランダ絵画が好まれたのは、人々のありふれた日常が描かれていたからでした。

 ところが、フランスアカデミーには、プッサンのような歴史風景画、あるいはミシャロンのような新古典主義風景画こそが正統だという認識が残っていました。百歩譲って風景画を認めるにしても、格調高い風景画家を目指すには、イタリアの風景を対象に描くべきだという認識だったのです。

 ルソーもコローも自然主義的な風景画を制作し続けた結果、19世紀後半には、フランスアカデミーの認識を覆すことができました。「フォンテンブローの森」が、トポスとして機能していたからでしょう。(2021/10/11 香取淳子)

コロー、ターナーを通して、フォンタネージの風景画を考える。

■お雇い美術教師:A・フォンタネージ

 このところ、明治初期、工部美術学校の教師として招聘されたイタリア人のアントニオ・フォンタネージについて調べています。

 関連文献を渉猟していると、1855年、彼がパリ万国博覧会を訪れた際、コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)やドービニー(Charles-François Daubigny)、テオドール・ルソー(Théodore Rousseau)などの作品を見て刺激を受けていたことがわかりました。

 果たして、彼らのどのような作品を見て、刺激を受けたのでしょうか、気になりました。

 そこで、コローなどの作品を展示している展覧会はないかと探してみると、2021年6月25日から9月12日まで、SOMPO美術館で「風景画のはじまり コローから印象派へ」展が開催されていました。

こちら → https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2021/musees-reims-2021/

 残念ながら、すでに展覧会は終了していましたが、念のため、作品リストを見てみると、油彩、版画など約80点が展示されていました。いずれもフランスのシャンパーニュ地方にあるランス美術館所蔵の作品です。

こちら → https://www.sompo-museum.org/wp-content/uploads/2021/06/pdf_ex_musees-reims_list.pdf

  約80点のうち、最も多かったのが、ジャン=バティスト・カミーユ・コローの作品で、計19点、その内訳は油彩画16点、版画2点、エッチング1点でした。次いで多かったのが、シャルル・フランソワ・ドービニーで、計7点、油彩画2点、版画5点です。テオドール・ルソーはわずか1点、油彩画が展示されていただけでした。

 コローは1796年7月16日にパリで生まれ、1875年2月22日に亡くなっています。そして、ドービニーは1817年2月15日にパリで生まれ、1878年2月19日に亡くなっていますから、コローとは21歳の年齢差があります。そして、ルソーは1812年4月15日にパリで生まれ、1867年12月22日に亡くなっています。コローとは16歳差です。

 3人ともバルビゾン派に属しているといわれ、コローが切り開いた風景画という新ジャンルを共に育んでいった間柄のようです。

 そこで今回は、コローの作品を中心に19世紀半ばの風景画を概観し、フォンタネージへの影響を考えてみたいと思います。

■A・フォンタネージに影響を与えたバルビゾン派

 バルビゾン派とは、19世紀の 前半から60年代にかけて、パリ南東約60 ㎞の小村「バルビゾン(Barbizon)」を主な拠点として制作活動を行っていた画家達の総称です。そのうち、ミレー、ルソー、 デュプレ、ディアズ、トロワイヨン、 ドービニー、コローら7名が有名で、「バルビゾンの七星」と呼ばれています。

 そのバルビゾン派が登場したのはちょうどフランスで商品経済が活性化しはじめたころでした。フランス革命を経て、産業革命を経験し、市民階層が形成されつつありました。王侯貴族だけではなく、生活に余裕のある市民層もまた、美術作品を愛で、所有したいという欲望をかき立てられるようになっていました。

 ロンドンやパリなどの大都会では美術市場が形成され、自然をモチーフとするバルビゾン派やハーグ派などの作品が好まれ、求められるようになっていたのです。ハーグ派とは1860年から1890年までの間にオランダのハーグで活動していた画家たちの総称です。バルビゾン派と同様、共通の土地に結び付いたモチーフを描いていた画家を指します。

 これまでの宗教画、歴史画、肖像画、人物画、静物画などとは違い、新たなモチーフとして風景を選ぶ画家たちが台頭し始めていたのです。ちょうど産業革命を経て、新興勢力が台頭し、商品経済が活発になり始めていた頃でした。

 商品経済の進展に伴い、国際的な展示場が必要になっていたのです。国境を越えた流通のハブとして万国博覧会が登場してきました。1851年に開催されたロンドン万博が最初で、以後、交互にロンドンとパリが会場となりました。

 絵画の領域でもサロンとは別に、国際的なデモンストレーションの場が必要とされるようになっており、万国博覧会が注目を集めていました。

■フォンタネージが訪れた第1回パリ万国博覧会

 フォンタネージがイタリアからわざわざ訪れたのが、1855年5月15日に開催された第1回パリ万国博覧会でした。11月15日までの半年間、さまざまな工業製品、工芸品、美術品などが展示され、この回からすべての展示品に売値が示されるようになったといいます。国際展示場としての位置づけが明確にされたのです。この時、フォンタネージはコローの作品を見たのです。

 当時、画家としてのコローはどのような位置づけだったのでしょうか。

 1848年、サロンの審査員制度が廃止されたのに伴い、コローは新たな審査委員に任命されました。52歳の時です。彼が審査員になると、それまで認められなかったさまざまな画家たちが受け入れられるようになりました。コロー自身も受賞し、作品2点がフランス政府、その後も1点、ルーヴル美術館に買い上げられました。ようやく画家として軌道に乗り始めたのです。

 ところが、1851年2月、母が亡くなりコローは落ち込んでしまいます。気持ちを慰めるため彼はフランス各地を旅行し、制作に励み、次々と作品を生み出していきますが、ドーフィネ地方で出会ったのがドービニーでした。以来、コローは彼に助言し、手助けするようになります。

 1852年から1853年にかけてはスイス、オランダの各地を訪れ、制作をしました。コローは実際にさまざまな土地を訪れ、スケッチをし、風景画を次々と制作していきました。自身の画風というものを着実に確立していったのです。

■《荷車―マルクーシの思い出》

 1855年のパリ万博に、コローは《荷車―マルクーシの思い出》という作品を出品しました。

(油彩、カンヴァス、97×130㎝、1855年頃制作。オルセー美術館所蔵)

 フォンタネージが見たのはおそらく、この作品なのでしょう。手前で作業をする人が描かれ、やや後ろに馬車のようなものがあり、そこにも人がいます。農村の人々の生活の一端が優しく、丁寧に描かれています。そのせいか、ありふれた風景を描いただけなのに、画面から豊かな詩情が溢れ出しています。

 風景をメインモチーフとして取り上げていますが、その中に小さく人物を入れ込むことによって、風景はただの風景ではなくなっているのです。

 この風景は、人々が生きる場としての空間であり、雲がたなびき、風がそよぎ、陽が射し込み、木々が生い茂り・・・、といった自然の営みが行われる空間でもあることを感じさせてくれます。

 さらに、この作品は人が生きることを俯瞰してみる視点に気づかせてくれます。色彩を抑制し、自然のおおらかな姿に力点を置いて描かれているからでしょう。

 この作品は、ナポレオン三世によって購入されました。

 宗教画や歴史画や肖像画を見飽きた人々にとって、この画面がどれほど新鮮に感じられたかがわかります。この作品には人が生を営む場としての自然が素直に捉えられています。だからこそ、見ているうちに、いつしか、鑑賞者を内省させていく力を持っているのです。

 万博に出品した作品がナポレオン三世に購入され、コローの画家としての認知度は高まり、風景画家としての地位も揺るぎないものになっていきました。

■第2回ロンドン万国博覧会に出品

 1962年に開催された第2回ロンドン万博にも、コローは作品を出品しています。受賞はしませんでしたが、この時初めてドーバー海峡を渡り、イギリスの画家たちの面識を得ることができました。興をかき立てられたのでしょうか、一週間の滞在期間中に3点の小作品を仕上げています。

 ところが、彼の作品を見たイギリス人はフランス風景画の新派という程度の認識しか示さなかったと言います(※ ケネス・マッコンキー、「銀色のたそがれ」と「ローズピンクの曙」、図録『カミーユ・コロー展』、1989年より)。

 帰国後の1864年、コローの代表作の一つとしてよく知られた、《モルトフォルテーヌの想い出》という作品を描いています。やはり風景画ですが、画風が明るくなっています。

(油彩、カンヴァス、89×65㎝、1864年制作。ルーヴル美術館所蔵)

 湖の傍に、葉を落として太い幹が目立つ一本の木が立っています。木の周辺には女性と子どもたちが描かれています。女性は背伸びして両手を高く上げ、木から何かを掴もうとし、小枝に触れています。枝についた実を取ろうとしているのでしょうか。

 木の下には子どもが二人います。一人は身をかがめて何かを拾っており、もう一人は片手を伸ばし、女性に何か話しかけているようです。この女性は母親なのでしょうか。湖畔で柔らかな陽射しを浴び、母と子どもたちがのどかに過ごす光景が優しい色調で描き出されています。

 空から降り注ぐ穏やかな陽射しが、湖面といわず、背後の木々や丘といわず、辺り一面を優しく柔らかな色合いに染め上げています。湖面には木々が影を落とし、手前の巨木の葉陰からは穏やかな陽射しが漏れてきています。幸せな気分が画面全体に醸し出されており、見ていると、気持ちが和みます。

 風景画とはいっても、先ほどご紹介した《荷車―マルクーシの思い出》とは明らかに印象が異なります。暖かな陽射しの中で母と子の心温まる情景を描いたこの作品は、画面が明るく人と自然が調和しており、一種の理想化された絵柄の風景画といえるでしょう。

 それに反し、《荷車―マルクーシの思い出》は寒色と暗色で描かれているので、陰鬱で沈み込んだ印象があります。

 風景をメインモチーフに人の姿を小さく描いて添えるという点では共通していても、色彩の使い方といい、構図、モチーフの絵柄といい、両者の印象は大幅に異なっているのです。

 訪英後の作品である《モルトフォルテーヌの想い出》は、自然と人をありのまま描くというよりは、理想的に描く方向で調整されています。人の気持ちを和ませる柔らかな色彩が多用され、情感をかき立てるようにモチーフが造形されているように見えます。

ひょっとしたら、コローはロンドン万博に出向いた際、当時、風景画で著名なターナー(Joseph Mallord William Turner)の作品を見たのではないでしょうか。

■ターナーの影響?

 そう思うと急に、コローは著名な風景画家ターナーの作品を見たに違いないという気がしてきました。訪英した当時、ターナー(1775年4月23日―1851年12月19日)はすでに亡くなっていましたが、コローが風景画の先達ターナーの作品を見なかったはずはありません。

 そこで、ターナーの作品をチェックしてみました。すると、初期の作品と1819年にイタリアを訪れた後の作品とでは画風が全く異なっていることがわかりました。ターナーは1802年にアカデミーの正会員になっています。イタリアを訪れる前はいかにもアカデミー受けのする写実的な風景画を描いていました。空や大気、陽光などを丁寧にリアリスティックに描くのが特徴でした。

 ところが、イタリアを訪れ、明るい光を色彩に刺激を受けた後、画風が変わってしまいました。形よりも色彩に力点を置いた作品が多くなっているのです。

 そこで、ターナーの初期の作品をチェックしてみました。すると、《小川を渡る》という作品に、《モルトフォルテーヌの想い出》との類似性を感じさせられました。

(油彩、カンヴァス、193×165㎝、1815年制作。テート・ギャラリー所蔵)

 木々に囲まれた水辺で、穏やかな陽光を浴び、女性が横座りになっており、その姿が水に映っています。浅い川なのでしょう、川向うにはもう一人女性がいて、岩に手をかけています。川辺で憩う二人の女性の姿がいかにも古典的、アカデミックな捉え方で描かれています。

 木々は陽光で明るく輝き、川べりもまた暖かな陽射しで溢れています。画面から幸せな気分が溢れています。人と自然が調和している様子が表現されており、理想化された風景画といえるでしょう。

 明るい空と陽光を反映した木々の煌めき、そして、柔らかな陽射しが岩や川面、草木のあちこちに感じられます。見ているとつい、幸せな気分になってしまうところが、コローの《モルトフォルテーヌの想い出》と似通っています。

 風景を描きながらも暖色と寒色を巧みに使い分け、景観にメリハリをつけて描いているせいか、画面がドラマティックに構成されています。ありのままの自然を描いたというより、風景画の理想形が描かれているのです。

 メインモチーフは自然の壮大さを感じさせるように描き、サブモチーフである人の姿は見る者に物語を感じさせるような姿勢、あるいはポジションで描かれています。単に風景をありのままに描くのではなく、見栄えよく自然を切り取り、モチーフを配置しているせいか、ピクチャレスクに見えるのです。

 この点でもコローの《モルトフォルテーヌの想い出》と、ターナーの《小川を渡る》は似通っています。

 こうして見比べてみると、渡英する前と後で見られるコローの風景画の変化に、ターナーの初期作品が影響していることがわかります。

■第2回パリ万国博覧会に出品

 そして1867年、コローは第2回パリ万博に作品6点を出品しました。それらの作品のうち代表的なものは、《孤独》でした。

(油彩、カンヴァス、95×130㎝、1866年制作。ティッセン=ボルネミッサ美術館)

 木の傍に一人の女性が座っています。その目の前には湖のようなものが広がっており、周囲はうっそうとした小高い木々に包まれています。《孤独》というタイトル通り、人気のない場所で女性が一人、横たわっている姿が気になります。何か物思いにふけっているのでしょうか、顔を湖面のかなたに向けている姿に引き込まれ、見入ってしまいます。

 目の前の湖面には木々が深く影を落とし、薄暗さに拍車をかけています。とはいえ、たなびく雲もまた水面に映り、うっそうとした風景にちょっとした明るさを添えています。見ていると、気持ちが次第に内面に向かっていくのが感じられます。つい、内省、沈思黙考という言葉が脳裏を過ぎります。

 この作品には観客の気持ちを深く内省化させる力があるように思えます。

 手前の草むらや木々の葉先に白い点が添えられているせいか、暗い画面の中にもちょっとした華やぎが感じられます。ロマン主義的な要素とでもいえるでしょう。小花のように見えますし、葉に落ちた陽光が反射しているようにも見えます。陽射しや風、大気によって微妙に変化する自然の美しさ、妙味といったものがきめ細かく捉えられています。

 ありふれた風景を描きながらも、うっかりすると見落としがちな美しさをしっかりと捉え、表現している点が秀逸だと思いました。暗い画面だからこそ、淡い色、白色などがハイライトとして効いているのです。

 この作品は、風景をメインモチーフにしながらも、人物を描き込んでいるという点で、これまでの作品と共通しています。

 ところが、《モルトフォルテーヌの想い出》とは明らかに色彩の使い方が異なっています。もっぱら寒色、暗色を使い、全体に沈み込んだ色調で構成されています。色調の面からいえば、ターナーの影響を受ける以前の、《荷車―マルクーシの思い出》の描き方に戻ったかのようです。

 画面の両側にはうっそうと葉の生い茂る巨木、そして、真ん中の巨木は葉先が淡い色で描かれています。おそらく、そのせいでしょう、葉先が背後の空に溶け込み、暗色の太い幹がいっそう目立って見えます。暗く沈み込んだ色調の中で、女性がただ一人座って、水面に顔を向けている姿が強く印象づけられます。

 木々の描き方を見ると、メインの巨木の葉の色は薄く、枝先だけを白く点で描いています。その巨木の下で女性が座り、目の前の水面に顔を向けています。水面の周りを木々が覆っていますから、川ではなく、湖なのでしょう。

 女性の手前は、地面を這う草で覆われ、その草の葉先には小さな白い点がいくつか描かれています。ひょっとしたら、小さな白い花なのかもしれません。ごく小さな白い点々にもかかわらず、それらは静謐な画面の中にひっそりとした賑わいをもたらしています。

 コローはこうして、もっぱら寒色、暗色を多用しながら、淡い色や白色を効果的に使い、ピクチャレスクな画面を創り出しているのです。

 見る者に何かを感じさせずにはおかない構図であり、絵柄です。人を内省させる力を持った《荷車―マルクーシの思い出》とは違って、この作品には古典的で、洗練された味わいが加味されています。そのあたりにターナーの初期作品の影響がみられるといえかもしれません。

 この作品もナポレオン三世によって買い上げられました。

 《孤独》をはじめとするコローの出品作品について、美術誌『アート・ジャーナル』が取り上げ、「汚れた色で主題をあくせく描いている」と評しました(※ 前掲。ケネス・マッコンキー)。

 確かに、色調やモチーフだけを見れば、そう見えるかもしれません。ただ、構図や人物の姿勢や配置、暗色と淡色のバランスなどに配慮して描かれたこの作品には、詩情豊かな心情が見事に描き出されています。評者は寒色や暗色を「汚れた色」と思ったのでしょうが、沈んだ色の画面だからこそ、奥深い味わいや自然ならではの妙味を引きだすことができたのです。白色や淡い色をハイライトとして効果的に使ったからでした。

 この雑誌にはラファエル前期の色彩を重視する傾向があったといわれています。そのような観点で見れば、暗い色調で創り出されたコローの画面を肯定的に捉えられなかったのも無理はないのかもしれません。

 とはいえ、この時、コローの出品作品が美術誌に取り上げられたのです。それだけでも、コローの風景画が批評家たちから無視できない存在になっていたことの証だといえるでしょう。

■フォンタネージ制作、《The loneliness》

 興味深いことに、フォンタネージもコローと同じタイトルの作品を描いています。1875年に制作されていますので、来日の前年に描かれたものです。

(油彩、カンヴァス、149×114㎝、1875年制作。レッジョ エミリア美術館所蔵)

 夕暮れ時なのでしょうか、少し赤味を残した空が画面の半分以上に広がっています。その日最後の輝きを放ちながら陽が暮れ落ちていく様子が印象派風のタッチで描かれています。

 画面の手前には女性が一人、岩のようなものに腰掛けています。帽子の縁と背中に夕陽が落ち、顔はよく見えませんが、物思いに沈んでいるように見えます。女性が座る岩の周辺にはところどころ、夕陽に反射し、水面が光っています。ほとんど水がなくなった川なのでしょう。

 筆触を活かした描き方に、なんともいえない情感が込められています。

 明るさの残る夕暮れの空の両側に、黒褐色の木々が枝を伸ばしています。秋なのでしょうか、葉は少なく、枝や幹が黒く、強く描かれています。その背後に見える暮れなずむ空の色の微妙なグラデーションが素晴らしく、引き込まれて見てしまいました。

 引いて見ると、改めて、夕暮れ時の空の美しさが見事に表現されていることがわかります。夕暮れ時は一日の終わりであり、昼から夜、そして、今日から明日への橋渡しにつながる時でもあります。いってみれば、時の境界です。それが夕焼け空の下、一人岩に腰掛けている女性に託して描かれているのです。

 卓越した象徴表現であり、風景と人の心情を巧みに統合して表現したともいえる風景画です。この作品を見ていると、フォンタネージの絵画論を垣間見ることができるような気がしました。

■フォンタネージの絵画論

 フォンタネージは、1876年に工部美術学校に招聘され、学生たちに絵画論を講義していました。その講義録の中で、風景を描く際、描くものを取捨選択することの必要性と有効性について説いていました。

 ほとんどの風景はありのままに描いても良い作品にはなりえません。だから、要らないものは省き、モチーフの配置を考え、画面構成をする必要があるといっているのです。さらに興味深いことに、彼は、削除はしてもいいが、加えてはならないと言っているのです。

 確かに、既に存在するものは自然の摂理の中で組み立てられていますから、それを削除しても全体構成を大きく歪めることにはなりません。ところが、新たに考え付け加える場合、自然に組み立てられたものとの調和、統合を図るのが容易ではありません。そのようなことを踏まえ、彼はありのままの風景から何かを削除することは良しとしても、加えることは拒否していたのではないかと思います。

 改めて《The loneliness》を見ると、左側の木々のいくつかは原風景から省かれたものがあるかもしれないと思いました。木々のいくつかを削除することによって、木々の分量が左右で異なり、アンシンメトリーな構図になります。その結果、夕暮れ時の空をいっそう情感豊かなものに感じさせることができ、さらには、真ん中に配置された女性の前方に広がりを感じさせる効果が生まれています。

 さらに、女性の帽子の縁と背中に白のハイライトを入れ、足元やその周辺にランダムに白のハイライトを入れています。そのせいか、夕陽の下、一人ぽつねんと座る女性の心情が強く伝わってきます。

 ありのままの風景を描いたように見えて、実は、「省く」という作業、あるいは、ハイライトを入れるという作業を通して、はじめて、作品として豊かなものに仕上げていくことができることをこの作品から学んだような気がしました。

 カメラで撮影することと見ることの違い、ボイスレコーダーで記録することと聞くことの違いも実は、そのようなところにあるのでしょう。ヒトはカメラのようには見ていませんし、ボイスレコーダーのようには聞き取っていません。選択的に見、選択的に聞き取っているのが実状です。

 省くことよって訴求効果を高めることができるのは、余計な刺激を削除することによって、ヒトの感覚を訴えたいことにフォーカスさせることができるからでしょう。そう考えると、フォンタネージの絵画論には含蓄深いものがあるといわざるをえません。(2021/09/28 香取淳子)

映画『イン・ザ・ハイツ』に、カリビアン・ディアスポラの魂を見る。

■ラテンのヒップホップで、暑気払いを

 2021年8月6日、近くのユナイティッドシネマで、『イン・ザ・ハイツ』を見てきました。その日も朝からうだるように暑く、うんざりするような気分でした。コロナ禍で外出もできず、適当な憂さ晴らしもできません。気だるく、何をする気にもならないでいるとき、ふと、夕刊で見た映画評の「熱いリズム」という言葉が脳裡をかすめました。

 ずいぶん前に読んだはずですが、その言葉と写真だけは妙に鮮明に記憶に残っていたのです。タイトルと写真を見ただけで、記事を読んではいませんでした。確認してみると、その記事では、2021年7月30日、封切されたばかりの映画“イン・ザ・ハイツ”が紹介されていました。


(2021年7月30日、日経新聞より)

 暑いさ中でも、人々は楽しそうでした。写真を見ているうちに、ミュージカル映画を見るのも悪くないなという気になってきました。映画館の大画面で、ノリのいい音楽とキレキレのダンスを見れば、きっと、暑気払い、コロナ払いもできるでしょう。

 さっそく、ネットで座席をチェックすると、まだ相当、余裕がありました。朝1番のチケットをオンラインで購入すると、ようやく気持ちが落ち着きました。これで一安心、開始直前に映画館に着いても大丈夫です。

 朝10時5分、映画は始まりました。

 男が子どもたちを前に、「昔あるところに・・・」と話しだす冒頭シーンを見た瞬間、2年ほど前に見たミュージカル映画『アラジン』を思い出しました。この映画も、男が子どもたちに話しかけるシーンで始まっていたのです。それが、ちょっと気になりました。ミュージカルにお定まりのオープニングなのでしょうか?

 そういえば、観客は日常生活を引きずったまま映画館にやって来ます。その観客の意識を手っ取り早く切り替え、現実世界から物語の世界へ誘導するための入り口なのかもしれません。音楽を積み重ね、繋いでいくミュージカルでは境界を設定しにくく、明らかにトーンの異なった導入部が必要なのかもしれません。

 『アラジン』と同様、この映画も、エンディングとオープニングが対応したシーンで編集されていました。子どもたちに語りかけながら、主人公が過去の出来事を振り返り、現在の自分たちを語るという形式になっていたのです。

 さて、子どもに語りかけるシーンから、場面は一転して、この物語が展開されるワシントンハイツに移ります。アップテンポの音楽を背景に、リズミカルなカット割りで構成されているので、観客はすぐにも作品世界に引き込まれていきます。

 テンポの速いラップとキレの画面を見ているうちに、画面に合わせて身体を揺すり、リズムを取っているのに気づきました。私もいつの間にか、ラテンの「熱いリズム」に感染していたのです。コロナ鬱も暑気疲れもたちまち、どこかに吹き飛んでしまいました。

 それでは、『イン・ザ・ハイツ』がどのような映画なのか、見ていくことにしましょう。

 まずは、2分25秒のUS版予告映像(日本語字幕付き)をご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/CxaMDJTbjKs

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 よく出来た予告映像です。ラップとヒップホップに絡め、映画の概要やエッセンスが的確に表現されています。この予告映像の展開に沿って、映画の概要やコンセプトを見ていくことにしましょう。

■映画の概要

 たとえば、冒頭のシーン。主人公が子どもたちに向かって、「ある所にワシントンハイツという場所があった」と話し始めます。次いで、「ワシントンハイツの一日が始まる」という字幕とともにラップが流れ、主人公のウスナビが暮らす日常のエピソードが映像で綴られます。

 消火栓の安全ピンを抜き、立ち上る水しぶきを浴びて大騒ぎする子どもたち、シャッターに落書きをする若者、追いかける主人公のウスナビ(コンビニ店主)など、住民の朝のルーティーンが短いショットで重ねられます。物語が展開されるワシントンハイツの日常が、断片的な映像を積み重ねて紹介されるのです。やがて文字だけの静止画になります。

「ミュージカルの金字塔「ハミルトン」の製作者がおくる」

『ハミルトン』とは、2016年に空前の大ヒットを飛ばしたミュージカル映画です。トミー賞、グラミー賞、ローレンス・オリヴィエ賞、ピューリッツア賞など、さまざまな賞を受賞しています。

 この大ヒット作『ハミルトン』で、製作・脚本・音楽・作詞などを務めたリン・マニュエル・ミランダ(Lin-Manuel Miranda)が、この映画では原作・製作・音楽を担当していました。(※ https://theriver.jp/hamilton-release/

 だから、「ミュージカルの金字塔「ハミルトン」の製作者がおくる」なのです。最初にアピールすべきポイントだと担当者は考えたのでしょう。この文字だけの静止画の後、かき氷を載せた手押し車を引く男が現れます。

 その映像に、「冷たい、かき氷はいかが」という字幕がかぶります。このかき氷売りに扮した男こそ、原作者のリン・マニュエル・ミランダです。


(ユーチューブ映像より)

 再び、文字だけの静止画になります。

 「傑作ミュージカルの映画化」

 『イン・ザ・ハイツ』は、2005年に初演されたブロードウェイミュージカルで、リン・マニュエル・ミランダの出世作でした。当時、新境地を開拓した作品として、大きな話題を呼びましたが、なかなか映画化することができませんでした。それが今回、ようやく映画化されたのです。まさに、待望の「傑作ミュージカルの映画化」なのです。

 もちろん、物語が展開されるワシントンハイツや登場人物なども、ラップとヒップホップに乗せて、生き生きと紹介されています。

■物語が展開する場所、主要な登場人物

 いきなり、女性の足元をローアングルで捉えたショットが現れ、驚きましたが、美容院の経営者ダニエラ、そこで働くカルラ、クカなど3人の女性たちでした。

 このショットに、「これは消えかけていたワシントンハイツの物語」という字幕がかぶります。

 彼女たちは、ワシントンハイツの一角にあるウスナビの経営するコンビニに行く途中でした。毎朝、店に立ち寄り、ゴシップやちょっとした冗談を交わすのが、彼女たちの朝のルーティーンでした。


(ユーチューブ映像より)

 次いで、コンビニの外側では、バネッサがニーナを見つけ、「天才のお帰りよ」と叫び、再会を喜びあう姿が映し出されます。

 「天才」という言葉を聞いた時、一瞬、違和感を覚えました、映画では後になって説明されますが、ニーナは子どもの頃から成績がよく、この地区から始めて大学に進学した女性でした。地元の人々は誰もが彼女を誇りに思っていました。だから、バネッサも皮肉ではなく真心で、つい、「天才」と呼びかけてしまったのでしょう。

 そのバネッサはケータイで不動産屋と話しながら、コンビニに入ってきます。それを見たベニー(タクシー会社の社員)とソニー(コンビニを手伝う従弟)は、ラップに乗って、軽快にやり取りしながら、ウスナビにバネッサにアタックしろとけしかけます。


(ユーチューブ映像より)

 彼らに押されるように、ウスナビはおずおずと彼女に、「引っ越すの?」と話しかけます。バネッサは「審査が通れば、ダウンタウンへ」と答え、ちょっと誇らしげな表情を浮かべます。


(ユーチューブ映像より)

 バネッサは意気揚々と、店から出て行ってしまいます。ウスナビは悄然とし、ベニーとソニーは手をたたいて笑い転げます。

 このように、ウスナビが朝、店を開けた途端、待ちかねていたかのように、地元の人々がやってきます。買うのはたいてい、ペットボトルかコーヒー、新聞ですが、誰もが決まって買っているのが宝くじでした。

 ウスナビにとっては母親代わりのアブエラも、店が開けば早々にやってきて、コーヒーを頼み、宝クジを買っていきます。彼女の口癖は「忍耐と信仰!」です。「毎日まじめに働いていれば」と、ウスナビや地元の人々を暖かく見守り、母親代わりとしてワシントンハイツになくてはならない存在になっていました。


(ユーチューブ映像より)

 慌てて駆け込んできたのが、ニーナの父親ケヴィン(タクシー会社の社長)です。彼はこの朝、普段よりも多く、20ドル分もの宝クジを買いました。


(ユーチューブ映像より)

 これが彼らの日常なのです。こうして主要な登場人物たちの顔見せが終わったかと思うと、再び、文字だけの静止画になります。

「そこは“夢”が集う場所 N.Y.」

 ニューヨーク市のワシントンハイツ地区には、ラテン諸国からの移民がコミュニティを形成していました。彼らはそれぞれ、大きな夢であれ、小さな夢であれ、さまざまな夢を抱いて暮らしています。遠路はるばるやって来たニューヨークは、彼らにとって、まさに“夢”が集う場所なのです。

■作品コンセプト

 この作品のコンセプトの一つは、「夢」でした。登場人物たちはそれぞれ、何らかの夢を抱いていました。

 たとえば、バネッサは美容院でネイリストとして働きながら、デザイナーになる夢を抱いていました。日々、デッサンをし、作品制作に挑んでいます。

こちら → https://youtu.be/r2AcTFu3rOs

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 お金に余裕のないバネッサは、ゴミ箱に捨てられた布切れを拾い集めては、嬉しそうな表情を見せます。この布切れがあれば、ミシンで縫ってアイデアを形にし、ファッションの勉強に役立てることができます。お金がないなりに、彼女は知恵と工夫で、しっかりと勉強を続けていたのです。

 色とりどりの大きな布が次々と、ビルの屋上から垂れ下がってくるシーンでは、目を輝かせて見上げるバネッサのクローズアップが印象的でした。

 そこに、「誰にも小さな夢がある」という字幕がかぶります。

 ワシントンハイツの住民のほとんどは、ラテン諸国からの移民でした。彼らは故郷では暮らしていくことができず、生きていくためにニューヨークにやってきたのです。営々と働き、ラテン系コミュニティを築き上げ、貧しいながらも助け合って暮らしてきました。そんな彼らが貧困と差別の中で生き伸びていくには、心の支えとして夢が必要だったのです。

 ニーナが帰って来たのを祝って開催されたパーティのさ中、突然、ワシントンハイツが停電してしまいます。暗闇の中で人々はパニックになり、ケータイを片手に、右往左往しながら街頭に出ます。


(ユーチューブ映像より)

 大勢の人々が次々とビルから街頭に出てきます。すると、まるで人々の不安を打ち消すかのように、夜空に高く、花火があがります。

 華麗に夜空を飾ったかと思うと、あっけなく消えてしまいます。そんな花火の儚さは、夢を抱きながらも、叶えられることのないラテン系コミュニティの住民を象徴しているように思えました。

こちら → https://youtu.be/aaFXc7SN8Ak

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 闇夜で花火を見上げる人々を捉えたショットには、「(夢を)叶えるには」という字幕が表示されます。

 そして、美容院での光景、アブエラ(ウスナビの母親代わり)の後ろ姿を捉えたショットが続き、それらの画面に、「お金が必要だ」という字幕がかぶります。アブエラの声でした。

 夢を抱いてニューヨークにやってきても、それを叶えるには、資金が必要でした。アブエラは長年、この街で暮らし、母親代わりとして、住民のさまざまな夢につきあって生きてきました。だからこそ、夢を実現するには、お金が必要だということがわかっていたのです。

 アブエラは口癖のように、「忍耐と信仰」といいながら、毎日、ウスナビの店で宝クジを買っていました。

 そのアブエラが停電の日、パーティのさ中に倒れてしまいました。異変に気づいたウスナビが枕元で「大丈夫?」と心配すると、「今日は一人じゃない、皆がいる」と穏やかに言い、「忍耐と信仰」といつもの言葉を口にしました。そして、そのまま、「暑い、暑い、燃えるよう」と言いながら、亡くなってしまいました。停電でエアコンも止まっていたのです。

 停電はコミュニティにとって、いっときの危機でしたが、もう一つ、住民たちは大きな選択を迫られる危機に直面していました。ワシントンハイツが再開発の対象になっており、低所得層の彼らはやがて住めなくなるという危機に瀕していたのです。

 夢を描き、未来に期待する一方で、彼らは差別と貧困という現実に曝されていました。個人では乗り越えることが難しい障壁でした。

■物語の背景

 ワシントンハイツでは最近、再開発の動きがあり、不法移民の住民が強制退去させられそうになっていました。都市を効率よく活用するため、行政はこの地区に付加価値をつけ、新たに高級住宅地として生まれ変わらせようとしていたのです。

 いわゆるジェントリフィケーション(gentrification:都市の再開発による居住空間の高度化)によって、ワシントンハイツの物価は高騰し、家賃は上がり、低所得層は暮らしにくくなっていました。

 近所の商店は次々と店を閉じ、主人公のウスナビも、故国ドミニカに戻って父の遺した店を再開しようと考えるようになっていました。母親代わりのアブエラと従弟のソニーと共に、その夢を実現できればと、二人にはその思いを告げていました。故国に戻れば、貧しくても威厳を持って生きていくことができるはずです。

 ところが、停電した日、あまりの暑さで高齢のアブエラが亡くなってしまいました。一方、生まれた時にここに移住してきたソニーは、自分の故郷はこのワシントンハイツだと言い張り、ドミニカには行きたくないと拒絶します。

 ウスナビはにっちもさっちもいかなくなっていました。

 コンビニの中から街頭を見るウスナビの目に、熱狂的に踊る住民たちの姿が映ります。窓ガラスに反映されたそのショットが見事でした。窓ガラス越しに街頭を見るウスナビの顔の周囲に、激しく踊る住民たちの姿が反射して映り込んでいるのです。そのショットに、「世界が回っているのに」という字幕がかぶります。


(ユーチューブ映像より)

 ウスナビはすぐさま店から出て、街頭で集う人々の間に飛び入り、「僕たちがこの街で共に過ごせるのは」とラップで歌います。すると、ウスナビを捉えたショットに、「今夜が最後になるだろう」という字幕がかぶります。

 熱情的に踊る人々を捉えたショットに、「僕たちを追い出すつもりだ」というウスナビのセリフ。次いで、ソニーがニーナに「僕たちも立ち上がろう」という場面になり、そして、熱狂的な群衆のダンスシーンが展開されます。

こちら → https://youtu.be/8YCC2kDsQ2w

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 ダンスシーンでは、誰もが生き生きとしています。まるで陶酔しているかのように、それぞれが身体をくねらせ、踊りに熱中しています。そのシーンの背後で、「威厳を持って生きるのよ」というセリフが流れます。アブエラの声でした。さらに、「世界に知ってもらうのよ」、「私たちのことを」というセリフが続きます。

 ここに、この作品のもう一つのコンセプトが凝縮して表現されています。移民2世たちが抱く夢とその実現の間には、大きな乖離があります。それこそが現実で、ほとんどの場合、夢を果たすことができず、挫折してしまいます。それでも、威厳だけは持ち続けなければならないという年長者からの教えでした。

 このシーンでは、ワシントンハイツの住民に迫る危機について説明される一方、ラテン系住民へのメッセージが込められていたのです。

 まるで亡くなったアブエラが甦り、熱狂的に踊る彼らを励まし、諫め、そして、その巨大なエネルギーを方向づけようとしているかのようでした。

 再び、文字だけの静止画になります。

「クレイジー・リッチ」監督ジョン・M・チュウ

■監督

 この映画の監督は、台湾系アメリカ人ジョン・M・チュウでした。

 彼は2018年に『クレイジー・リッチ』を製作し、アジア人をキャストにした映画ではじめて、大ヒットを記録しました(※ https://www.hollywoodreporter.com/movies/movie-news/weekend-box-office-crazy-rich-asians-wins-265m-1135824/

 ジョン・M・チュウは1979年にカリフォルニア州で生まれ、2008年、『ステップ・アップ2:ザ・ストリート』で長編映画の監督デビューを果たしました。以後、順調に製作経験を積み重ね、9本目となるこの作品も手堅くまとめられています。

 興味深いのは、2011年に“Justin Biever : Never Say Never”、そして、2013年に”Justin Biever’s Believe”を製作していることでした。ヒップホップのカナダ人シンガーソングライターを題材に映画を製作していたのです。

 試みに、“Justin Biever : Never Say Never”の予告映像を見てみることにしましょう。

こちら → https://youtu.be/4Bg8EuLT1ew

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 この動画からは、ジョン・M・チュウ監督がヒップホップに造詣が深く、ジャスティン・ビーヴァーの素晴らしさを的確に捉えて表現していることがわかります。その他の作品を見ても、作品が全般にリズミカルで、ハギレのいいカット割りで構成されているのが印象的です。

こちら → https://www.imdb.com/video/vi2816851993?playlistId=tt1702443&ref_=vp_rv_0

 画面を見ると、映像と音楽、音響、パフォーマンスがそれぞれ絶妙にマッチしており、ラップやヒップホップでしか表現できない現代社会の深層を捉えることができていました。その手腕はこの映画でも存分に発揮されているといっていいでしょう。

 さて、わずか2分25秒の予告映像でしたが、これまでご紹介してきたように、『イン・ザ・ハイツ』のエッセンスが凝縮して表現されていました。

 ところが、残念なことに、この予告映像では、脚本家、そして、振付師については触れられていません。そこで、脚本家や振付師の考えがわかるようなインタビュー記事あるいは動画をネットで探してみました。

 ようやく関連情報をいくつか見つけました。これらのインタビュー記事あるいは動画を通して、作品作りに際し、彼らがどのような点に気をつけたのかを把握していきたいと思います。

■脚本家

 原作者のミランダは映画化に際し、脚本家のキアラ・アレグラ・ヒュデス(Quiara Alegría Hudes)のアイデアを取り入れたといいます。

 彼女は、ラテン系コミュニティで常に話題になる「ドリーマー」と呼ばれる不法移民の若者問題を取り上げ、映画版では移民問題全般を強調しました。その一方で、都市再開発による低所得層の暮らしにくさにも踏み込んでいます。全般に、社会問題をベースにした作品構成になっています。

 ヒュデスはインタビューに答え、次のように語っています。

こちら → https://ew.com/movies/in-the-heights-writer-quiara-alegria-hudes/

 ヒュデス自身もミランダと同様、移民2世です。両親はプエルトリコから移民し、ニューヨークにラテン系コミュニティを築き上げた世代でした。意気投合した二人は2004年、共同でラテン系コミュニティをテーマにミュージカル脚本を執筆し始めました。それが、ブロードウェイミュージカル『イン・ザ・ハイツ』でした。

 ヒュデスは登場人物の中ではとくに、ニーナやソニーに感情移入できるといいます。というのも、ヒュデスもニーナと同様、子どもの頃から勉学に励み、ラテン系コミュニティからはじめて大学教育を受けた世代だったからです。

 しかも、ニーナと同様、名門大学を卒業しています。ニーナはスタンフォード大学という設定でしたが、ヒュデスはイエール大学で学士号を取得し、ブラウン大学で芸術学修士号を取得しています。

(※ https://en.wikipedia.org/wiki/Quiara_Alegr%C3%ADa_Hudes

 しっかりとしたストーリー構成にするため、ヒュデスは、映画版ではラテン系アメリカ人エリートであることを強調して、ニーナの役割設定をしたと語っています(※ 前掲インタビューURL)。

 授業料の支払で親に経済的負担をかけることに悩むニーナは、追い打ちをかけられるように、学内でいくつか差別的待遇を受けます。ラテン系コミュニティからただ一人、名門大学に入学できたとはいえ、出自がラテン系コミュニティだということに変わりはありませんでした。入学早々、ニーナは厳しい現実を悟らされ、逡巡したあげく、退学を決意して帰郷していたのです。

 興味深いのは、ニーナがワシントンハイツに戻ってくるなり、ダニエラの美容院に行って、ストレートヘアから生まれつきのカーリーヘアに戻したことでした。

こちら → https://youtu.be/UrFH772ytzM

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 ニーナはスタンフォード大学ではアイロンで伸ばしたストレートヘアにしていました。おそらく、ラテン系であることを隠そうとする心理が働いていたのでしょう。その抑圧された感情を晴らすかのように、ワシントンハイツに戻ってくると、彼女は早々に美容院に行って、元のカーリーヘアに戻します。ありのままの自分に戻したのです。

 カーリーヘアになって自分を取り戻したニーナは、ダニエラたちに退学すると告げます。驚く彼女たちを後目にニーナは、なんとも爽やかな表情を見せて美容院を出ていきました。

 一方、父親はニーナの学費を捻出するため、経営しているタクシー会社を売ろうとしていました。それを知ったとき、私の学費のためにこれまでやってきたことすべてを捨ててしまうの?と、ニーナは父親を厳しく問い詰めます。当然のことでした。

 コミュニティの期待を一身に集めてきたニーナでしたが、念願の名門大学に入学すると、自分の居場所がわからなくなり、威厳さえも失いそうになっていました。そんな時、大きく浮上してきたのがウスナビの従弟ソニーでした。

 ソニーといえば、ウスナビが故国ドミニカに戻って一緒に仕事を始めようと選んだ相手です。

 ヒュデスは、そのソニーが、ウスナビがいつも故郷を懐かしんでいるといってなじるシーンを付け加えました。そして、僕はドミニカなんかに行きたくないよ、ここにいたい。このニューヨークこそ僕の故郷で、僕の居場所なんだからとソニーに言わせたのです。

 さらに、‘96,000’の歌のシーンで、ソニーは、もし宝くじに当たって96,000ドルが手に入ったら、僕は自分のためには使わず、この近隣のインフラを改善し、よりよいWi-Fiを使えるようにしたいと宣言しています。つまり、ソニーはお金を手にしたら、自分たちのコミュニティに投資をし、生活環境の向上を図りたいといっているのです。

 これらのシーンを加えることによって、ヒュデスは、しきりに故郷を懐かしむウスナビとは違って、不法移民とはいえ、ソニーの意識はアメリカ人なのだということを示します。

 これは重要なポイントでした。

 一口にラテン系アメリカ人といっても、プエルトリコ系、ドミニカ系、メキシコ系が混在しています。彼らの母語は英語かスペイン語かに分かれるのです。当然、アメリカへの思いも異なるでしょう。さらに、いつアメリカに移住したのかによっても、アメリカへの思いは異なります。そのような点を踏まえ、ヒュデスは、より現実に沿ったストーリー構成を考えたのだと思います。

 プエルトリコ系移民2世であるヒュデスは、ラテン系の中ではいち早くアメリカに移住し、英語を使って暮らしていました。それだけに、そのプエルトリコ系と、いまだに故郷を懐かしみ、スペイン語を捨てきれないドミニカ系との違いに敏感でした。その差異を描かなければ、この作品のリアリティは欠けると思っていたのです。

 もちろん、白人社会に対する移民の気持ちにも敏感でした。ヒュデスは諸々の微妙な文化の差異にこだわって製作に臨みました。

 たとえば、ラテン系の映画評論家が、『イン・ザ・ハイツ』を取り上げた際、ニーナが帰郷した際はストレートヘアだったのに、すぐ元のカーリーヘアに戻したことに言及していました。それを知って、とても嬉しかったとヒュデスは語っています(※ 前掲インタビューURL)。

 ニーナの髪の毛をどうするか、ヒュデスたちは時間をかけて検討したといいます。観客がどれほど気にするかわからないようなことでしたが、ヘアスタイルの変化は、ニーナの気持ちの変化、気持ちの立て直しをはっきりと示すシンボリックな表現だったのです。

 脚本家がリアリティにこだわり、細部にまで真剣にチェックを入れたのと同様、振付師もリアリティにこだわっていました。

■振付師

 振付師のクリス( Christopher Scott )が『イン・ザ・ハイツ』のダンスについて語っている7分30秒の動画があります。

こちら → https://youtu.be/KZJqV09DgcU

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 興味深いことに、この映画はダンスと一体だとクリスは言っています。

 たとえば、サルサはニューヨーク風のストリートなサルサを、ストリートダンスは、ライト・フィート、フレキシング、ポッピング、ブレイクダンスなど、それぞれの文化を表現しているさまざまな要素を取り入れたというのです。

 さらに、ラテンといえば、サルサだけども、ブレイクダンスはアフリカ系だけではなく、プエルトリコ系やドミニカ系もあるといいます。抑圧された人々が、その気持ちをダンスに込めて表現していることを考えれば、ワシントンハイツの住民がライト・フィートを取り入れたように、映画にも新しいダンスを取り入れる必要があるというのです。

 動画で見ると、ライト・フィートはヒップホップのようなものでした。

こちら → https://youtu.be/H9jC18XYXjQ

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 クリスは、その種の文化の違いを理解しなければ、振付にも違和感が出てしまうといいます。監督もおそらく、同じような思いで製作に臨んだのでしょう。

 彼はまず、監督が「ダンスからシーンを考えていった」と語っています。振付を撮影して監督に送ると、意見が戻ってきて、監督が音楽付きのストリートボードを作るのだそうです。だから、「どんなシーンになるか想像しやすい」とクリスはいいます。

 なぜそうするのかについて、監督自身、「ダンスを通して物語が伝わるから」と理由を述べています。

 クリスはジョン・チュウ監督とは約12年間仕事を共にしてきました。二人はおそらく、阿吽の呼吸で理解しあえる関係なのでしょう。

 クリスは若い頃は振付のことだけを考えていたが、ジョン・チュウ監督がカメラにどう映るかを考えなければならないと教えてくれたといいます。お互いに影響し合い、領域を超えて、そのスキルを磨いてきたのでしょう。

 一方、脚本家のヒュデスは、ダンスの「オーディションを見て、ラテン系の才能が集まっていて、誇らしかった」と述べています。クリスがスキルだけではなく、文化の理解、表現の幅などを考え、人集めをしたからでしょう。クリス自身、「世界のトップダンサーがNYスタイルのサルサを踊った」と言っているほどです。

 実際、ダンスシーンのすべてが最高の出来栄えでした。

 この映画では、才能溢れた振付チームの下、素晴らしい才能とテクニックを持ったダンサーたちが練習を重ね、渾身のパフォーマンスを見せてくれたのです。振付師のクリスがいろんなジャンルの最高のダンサーを集め、振付チームを結成して、指導してきたことの成果でした。

 圧巻は、『Canaval Del Barrio』でした。下記の4分48秒の映像のうち、冒頭から2分23秒までがダンスシーンです。

こちら → https://youtu.be/ZDOVLEjbN4o

(冒頭から2分23秒まで。広告はスキップするか、×で消してください)

 クリスは、このダンスシーンでは、ドミニカ系、メキシコ系、コロンビア系がそれぞれ違うスタイルで踊るよう振付をしたといいます。ですから、『Canaval Del Barrio』はラテン系それぞれの文化を象徴したダンスシーンといえるでしょう。

 このシーンには、ラテン系コミュニティが一体となって立ち上がり、「世界にそのビートを響かせろ!」と訴えるウスナビの思いが凝縮されて表現されていました。

 ラテン音楽やダンスは、スペイン人に征服された奴隷たちが、チャチャチャ、マンボ、ソンなどのリズムを生み出したという経緯があります。ですから、そのような歴史を踏まえたうえで、現在のラップやヒップホップ、ライト・フィートなどを取り入れ、クリスは慎重に、さまざまなダンスシーンを創っていったのです。

 振付師クリスが求めていたのは、ジョン・チュウ監督、そして、脚本家キアラ・アングラ・ヒュデスと同様、リアリティでした。

 それでは、『Canaval Del Barrio』の一端を見てみることにしましょう。

■『Canaval Del Barrio』

 『Canaval Del Barrio』の迫力あるダンスシーンの中で、とくに引きつけられたのは、「旗を掲げろ」と名付けられた箇所です。主要登場人物たちの姿を画面のあちこちで見ることができます。ワシントンハイツの住民とともに立ち上がったのです。

こちら → https://youtu.be/bU3luTqDJeE

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 ウスナビはソニーに向かって、「お前の言う通り、ここは無力な移民ばかり」と語りかけ、「街は消える運命で、今夜が集まれる最後かも」と続けます。画面にはニーナ、カルラの姿が見えます。

 ウスナビはさらに、「でも、このまま引き下がるのか?」と問いかけ、「現実を嘆くより、俺は旗を掲げたい」と意思表示します。

 この時、カメラは佇んでウスナビを見つめるバネッサをバストショットで捉え、次いで、ソニーに語りかけるウスナビ、そして、国旗を差し出す子どもの姿を捉えます。


(ユーチューブ映像より)

 子どもたちが真剣な表情でウスナビを見守っています。ウスナビは、子どもの手から国旗を受け取ると、すぐさま、「旗を掲げろ!」と呼びかけます。音楽は次第に大きく、クレッシェンドで表現されます。この時、パフォーマンス、音楽のテンポとリズムで醸し出された画面の熱気が、観客にも直に伝わってきます。

 建物と建物の間には、洗濯物と共に多くの国旗が吊るされています。故国への思いが人々の生活の中にしっかりと組み込まれていることがわかります。

 「今夜こそ、声をあげるんだ!」とウスナビは続けます。画面にはバネッサの顔、ソニーの顔が見え、ウスナビを取り囲む輪が次第に大きくなっていくのがわかります。ウスナビはさらに高く国旗を振り上げ、「歌え、世界まで響かせろ」と皆をたきつけます。


(ユーチューブ映像より)

 ウスナビの傍らにはいつの間にか、カビエラ、カルラ、クカがいて、激しく踊っています。周囲の皆も両手を振り上げ、ジャンプし、感極まった様子です。「皆の旗に魂を込めて」というセリフの下、人々を捉えた映像が流れます。ウスナビの言葉に陶酔したような表情で、大勢の住民が両手を上げ、身体を震わせ、激しく踊っています。


(ユーチューブ映像より)

 この時、ワシントンハイツの住民は老いも若きも気持ちを通わせ、一体となっていたのでしょう。巨大な心のエネルギーが一気に爆発したような感じです。「あの橋を越え、世界へ、どこまでもビートは響く」というウスナビの言葉が力強く、リアリティを帯びて響き渡っています。

 まさに、クライマックス。皆の気持ちが一つになった瞬間でした。

 次いで、「この前のことは忘れて、最後に踊ってくれ」とウスナビはバネッサの手を取ると、曲は転調し、二人は静かに踊りだします。これが、冒頭で紹介した日経新聞の夕刊で見た写真のショットです。周囲の人々は暖かく二人を見守りながらも、陽気にはやし立てます。

■米国ラテン系コミュニティにみる格差社会の縮図

 わずか1分31秒のこの動画からは、ラテン系コミュニティの住民がこれまで大きく声をあげることなく暮らしていたことがわかります。差別に悩み、貧困にあえぎながらも、彼らは大規模な抗議行動をすることもなく、ダンスや音楽で積もる思いを発散させながら生きてきたのです。

 それが、今、ウスナビの旗振りの下、大勢が集まり、それに大きく呼応したのです。歌って、踊って、故国の旗を掲げ、自分たちの存在を世界に知らせようとしはじめたのです。

 再開発で追い詰められてようやく、ワシントンハイツの住民は声をあげようとし始めました。それもラテン系の人々らしく、音楽とダンスに乗せて、陽気に楽しく、自分たちの存在を世界に知らせようとし始めたのです。

 見ていて、思わず、涙が流れそうになりました。

 この映画で語られていることは、何もラテン系コミュニティに限ったことではありません。あらゆる社会に通じます。いってみれば、現代社会の課題とでもいえるようなものが、ラップやヒップホップ、ライト・フィートに乗せて、明るく陽気に提起されていました。

 かつては地域に根付いた独自文化の下で、人々は身の丈に合った豊かさを享受しながら生きていました。ところが、グローバル化の進行によって、いつの間にか、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという構図が定着してしまいました。

 生産性の低い国や地域の住民は生きていけなくなり、故国を捨て、故郷を捨て、豊かな国や都市に移住せざるをえなくなっているのが現状です。その結果、地域との絆が途絶え、人との関係も途切れ、現代社会の人々は誰もが、一粒の砂のように、孤立し、無力になっています。

 この映画で取り上げられたラテン系コミュニティを取り巻く諸問題は、現代社会が抱える構造的な問題だといっていいでしょう。

 人と人を繋ぎとめるものがなくなりつつある一方、アブエラがいうように、何をするにも、「お金が必要」になってきています。その結果、マネタイズできるものが価値を持ち、そうではないものが価値をもたないという仕組みがあらゆる領域に浸透しています。

 果たしてこれでいいのでしょうか。

 『イン・ザ・ハイツ』では、ダンス、音楽、ストーリー、映像、それぞれが見事に絡まり合い、ラテン系コミュニティが抱える問題が的確に捉えられていました。格差社会の縮図ともいえるワシントンハイツを舞台に、カリビアン・ディアスポラの魂が見事に表現されていたといえるでしょう。それだけに、その背後に流れる重い課題を受け止めざるをえませんでした。

 この作品のキーワードは、夢、都市再開発、移民、宝クジ、エリート、差別と貧困、故郷などです。ところが、今回、それらを十分に組み込んで表現することができませんでした。とくにストーリーとダンスシーンとの関係については不十分なまま、書き終えてしまいました。改めて、書いてみたいと思っています。(2021年8月30日 香取淳子)

HYBEと“Dynamite”に見るK-POPの未来

■HYBE、巨大経済圏を構築か?

 2021年7月20日、日経新聞に「BTS事務所、1億人経済圏へ」というタイトルの記事が掲載されていました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGKKZO74027410Z10C21A7FFJ000/

 タイトルを見て興味を覚え、ざっと内容を読んでみました。K-POPの代表ともいえる「BTS(防弾少年団)」の所属事務所であるHYBEが「プラットフォーマー」への転換を急ぎ、オンライン上に1億人規模以上の巨大経済圏を築こうとしているというのです。

 すでに2020年12月期の決算で、HYBEの時価総額はK-POP業界の中で突出していました。


(2021年7月20日付日経新聞朝刊より)

 日本でも有名な「東方神起」や「少女時代」を抱えるSMエンターテイメントよりもはるかに高い時価総額をはじき出していたのです。売上高を見ると、そう大した違いはありませんが、営業益が抜群に高いのが注目されます。

 そもそも時価総額とは、株価に発行済株式数を掛けたもので、企業価値を評価する際の指標になっています。株価には、現在の業績だけではなく、将来の成長への期待が強く反映されますから、HYBEの企業方針、営業政策が今後のエンターテイメント界を牽引するものであることが示されているのです。

 それでは、先ほどの記事に戻ってみましょう。

 2020年はコロナ禍で最大の収益源であるライブの多くが中心になり、「公演売上高」は98%減にまで落ち込んだと書かれています。日本のエンターテイメント業界も同様でした。ところが、HYBEはそのような状況下でも増収増益を達成していたのです(上記の表を参照)。

 何故、そのようなことができたのでしょうか。

■Weverse(ウィバース)

 記事によると、それを誘導したのが、オンライン音楽配信、オンラインライブ、ファンクラブからの収益でした。そして、これらのネット上の顧客の接点となったのが、HYBEが自社で開発したウエブサービス「Weverse」でした。

こちら → https://www.weverse.io/?hl=ja

 Wikipediaを見ると、Weverse(ウィバース)は、HYBEとインターネット企業NAVERが共同出資したWeverse Companyによって開発された韓国のファンコミュニティプラットフォームだと説明されていました。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/Weverse

 初版は2019年6月10日にリリースされ、最新版は2021年5月30日に公開されています。OSはiOSかAndroidで、「Official for All Fans」をキャッチコピーに運営されているといいます。

 Weverse(ウィバース)は、アーティストとファンとの交流に特化し、ツィッター、インスタグラム、ユーチューブの機能を融合させた巨大なコミュニティサイトです。誰でも無料で利用できますから、文字や画像を通してファンとアーティストが直接交流できるのです。もちろん、有料コンテンツやメンバー限定のコンテンツ、グッズ販売などから収益を上げることが出来る仕組みです。

 英語、日本語、中国語、スペイン語、インドネシア語など多言語に対応しており、世界から約2700万人が利用しているそうです。HYBEはWeverse(ウィバース)をプラットフォームに、新たなK-POP業界のビジネスモデルを構築したのです。抜群の時価総額はこの画期的な事業展開が評価されてものでした。

 HYBEは、事業のさらなる拡大戦略を企図していました。

■買収

 先ほどの記事によれば、HYBEは韓国のネット大手ネイバーが運営するファンコミュニティサイト「V LIVE(ブイライブ)」を買収することを決め、HYBEに属していない人気アーティストの発信力を取り込む算段をしているそうです。

 これまでは競合関係にあったWeverse(ウィバース)とV LIVE(ブイライブ)が統合すれば、K-POP全体をカバーする会員数1億人規模にもなるプラットフォームが出来上がるという見通しなのです。

 Wikipediaによれば、V LIVE(ブイライブ)は韓国の動画配信サービスで、国内を拠点とする著名人がファンとのライブチャット、パフォーマンス、リアリティショーなどのライブ動画をインターネット上で放送することができるといいます。

こちら → https://ja.wikipedia.org/wiki/V_LIVE

 ストリーミング配信はオンラインか、iOSかAndroidのモバイル端末で、再生はPCで利用できるといいます。このサービスは2015年8月にリリースされ、NAVERが所有していました。ですから、HYBEとNAVERが共同出資してWeverse(ウィバース)を立ち上げた段階で、今回の統合が企図されていたことがわかります。

 V LIVE(ブイライブ)は、日本、中国、アメリカ、タイ、メキシコなど、15ヵ国に対応していました。Weverse(ウィバース)に統合すれば、さらに幅広い利用者を見込むことができます。

こちら → https://www.vlive.tv/home/chart?sub=VIDEO&period=HOUR_24&country=ALL

 そうなれば、幅広い利用者のニーズに応えられるアーティストの発掘が必要になってきます。HYBEはすでに2021年4月2日、米Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)を買収すると発表しています。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/79fce4fbf9f20148111086be196cd3982a5cd9ba

 Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)には、ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデなどが所属しています。いずれもK-POPの枠を超えた発信力の高いアーティストです。ジャスティン・ビーバーのSNSのフォロワー数は累計4億人を超えるといいますから、Weverse(ウィバース)は世界のエンターテイメント業界を席巻することになるでしょう。

 それほど稼ぎ頭のアーティストを抱えていながら、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)はなぜ、買収に応じたのでしょうか。

 調べてみると、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)は、HYBEはその画期的なシステムとキュレーションによって、所属アーティストをさらに飛躍させるための支援をしてくれると期待していることがわかりました。

 HYBEに参画することは、音楽業界そのものを革新し、大きく変えるチャンスに乗ることだと認識しているのです。グローバル市場を席捲し、開拓し続ける姿勢に感動したせいか、ブラウン自身はどうやら、HYBEの取締役に就任するようです。

こちら → https://news.yahoo.co.jp/articles/66906bbebe21daa9fda2c4d41ab4e457dcf3615e

 もちろん、プラットフォームに対応した新人アーティストの発掘も欠かせません。

■新人アーティストの発掘

 HYBEはさらに、世界最大の音楽企業である米ユニバーサル・ミュージック・グループと連携し、米国で新人を発掘し、育成を開始するため、米国でオーディション番組を制作する予定だそうです(※ 2021年7月20日、日経新聞)。

 ちなみに、米ユニバーサル・ミュージック・グループは、アーティストやソングライターを発掘、育成することを目的とした企業グループです。

こちら → https://www.universal-music.co.jp/about-umg/

 会長のルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)もまた、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のブラウン(Scooter Braun)と同様、HYBEが最も革新的でグローバルな音楽企業だと認識していました。「良い音楽は言語と文化の壁を超えることができる」といい、今回の連携によって、「音楽産業の歴史に一線を画すことができる」と自負しています。

こちら → https://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=2162579

 HYBEは、米ユニバーサル・ミュージック・グループとの連携によって、オーディション番組を通し、新しいK-POPボーイズグループのメンバーを選抜するといいます。現在、2022年の放送開始を目途に進められていますが、優れた資質を持つ人材を発掘し、アメリカ市場はもちろん、グローバル市場で活躍できるように育成するというのです。

 オーディション番組で選ばれると、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッションなどビジュアル面で磨き込まれ、グローバル市場のアーティストとして鍛えられていきます。ミュージックビデオ、ファンコミュニケーションなどが結合されたプラットフォームを舞台に、音楽を通して幅広く人々の気持ちを捉えられるアーティストに作り替えられていくのです。

■HYBEのビジネスモデルと企業文化

 興味深いのは、Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)も、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)も、HYBEのシステムが今後のグローバル市場を狙う上で欠かせないと認識していることでした。

 コロナ禍で急速にオンライン化が進み、あらゆる企業が業態変化を迫られている中、唯一、確かな足取りで歩を進めているHYBEに未来のエンターテイメント業界のビジネスモデルを見出したからなのでしょう。

 HYBEの拡大戦略を進めているのが、創業者のバン・シニョク(房時赫)取締役会議長です。世界的な大ヒット集団BTS(防弾少年団)を育成したことで知られています。

 彼の新人発掘手法は、オーディションでアイドルの卵を選抜し、歌やダンス、外国語などを習得する準備期間を経てデビューといった過程を踏ませます。

 このようなアイドル育成過程は、米ハーバード・ビジネス・レビューの事例研究でも取り上げられたほど、各方面で注目されています。HYBEは、「アイドルを成功に導く方程式を確立している」と絶大な評価を受けているのです。

 たとえば、2020年3月、米Fast Companyが発表した「2020年世界で最も革新的な50社」には、HYBEがなんと、Snap、Microsoft、Teslaに次いで、4位に選ばれているのです。その理由として、コミュニケーションプラットフォーム(Weverse)とeコマースプラットフォーム(Weverse Shop)が挙げられています。

(※ https://www.fastcompany.com/90457458/big-hit-entertainment-most-innovative-companies-2020

 こうしてみてくると、HYBEが確立したプラットフォームが他の追随を許さないものであることがわかります。Ithaca Holdingsイサカ・ホールディングス)のオーナー、ブラウン(Scooter Braun)や、ユニバーサル・ミュージック・グループの会長ルシアン・グレンジ (Lucian Grainge)が容易にHYBEに参画した理由がわかろうというものです。

 しかも、今後、エンターテイメント市場が大きくアジアにシフトしていくことは目に見えています。両社がHYBEに参画したのは経営者の判断として当然でした。アジア市場をはじめとするグローバル市場を席捲するには、HYBEとの連携が不可欠になっているのです。

 実際、HYBEは快進撃を続けていますが、それを牽引しているのが、創業者パン・シヒョクが育成したBTS(防弾少年団)でした。

 初めて英語の歌詞が付けられた楽曲だといわれる“Dynamite”を通して、BTSを見てみることにしましょう。

■“Dynamite”MVの再生回数が10億回を突破

 2021年4月13日、タワーレコード・オンラインニュースで、韓国BTS(防弾少年団)の’Dynamite’ MVの再生回数が10億回を突破したと報じられていました。

こちら → https://tower.jp/article/news/2021/04/13/tg005

 BTSはすでに、“DNA”(13億回)、“Boy with Luv”(11億回)で10億回以上の記録を出していますが、“Dynamite”もそれに続く大ヒットの様相をみせています。

 これは、2020年8月21日にデジタルシングルとして発売され、BTS としては初めてすべての歌詞が英語で書かれた楽曲です。

 すでにこの頃からHYBEが米市場をはじめ、グローバル市場を視野に入れた展開を試みていたことがわかります。果たして、“Dynamite”はどのような楽曲なのか、動画をいくつか見てみることにしましょう。

■BTS “Dynamite” official MV

 2020年9月26日に公開され、1億6904万3281回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分30秒のオフィシャル動画です。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=BflFNMl_UWY

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 背景は明るいタッチのイラスト風に描かれたバスケットボールの練習用コートです。その前で、リズミカルな楽曲に合わせ、歌い、ダンスする7人のメンバーが、三角形で隊列を組んでいます。まもなく、6人が画面から消え、しばらくはメインボーカルがソロでダンスを披露します。時折クローズアップで映し出される顔には少年のような甘さが残っており、やや高い音声とマッチしています。


(ユーチューブ映像より)

 やがて向かって左から3人のメンバーが合流し、左側の眼鏡をかけメンバーがメインとなってダンスしているうちに、右側から3人が加わり、再び、7人で三角形の隊列が組まれます。その中からトップに躍り出てきたメンバーが中心となって歌い、ダンスを披露するといった展開です。次々と主役が移り変わり、メリハリの効いた構成になっていました。

 この曲の別バージョンのMVもありました。

■BTS ’Dynamite’@America’s Got Talent2020

  2020年10月22日に公開された動画は、7152万3776回(2021年7月31日時点)、再生されています。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=e81ad5MpfQ0

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  これはメンバー個々人に焦点を当てて構成されたMVです。遊園地のような場所を背景に、7人のメンバーそれぞれが個性豊かな服装で、ダンスを披露します。遊園地内、屋上、モホークガソリンスタンドの前、さらには、車に乗り込み、その車内で、メンバーはそれぞれソロで、歌い、ダンスをしながら移動して行きます。

 それぞれの持ち味を活かしたシチュエーションが考えられ、パフォーマンスが工夫され快い見せ場が随所に設定されています。こうしてメンバーたちのソロダンスが終わると、7人のメンバーが揃って、三角形の布陣でダンスするといった展開です。ショートストーリー風に展開されていく構成が魅力的です。

 メンバーはそれぞれ、個性を活かした衣装を着用しています。


(ユーチューブ映像より)


 最後辺りになると、遊園地内の各所で白煙が勢いよく立ち上っていく仕掛けが施されています。ダイナマイトの象徴なのでしょうか。クライマックスを飾る仕掛けのようでした。

■BTS ’Dynamite’@Best Artist2020

 2020年11月25日に公開されたこの動画は、2159万1572回(2021年7月31日時点)、再生されていました。リリース後3カ月を経て制作されたこの動画には、ファンに向けたメッセージが加えられていました。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=Rz3I0souiEw

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 このバージョンでは冒頭、ジョングクが右手を高く上げたのが印象的でした。カメラはその手をクローズアップで捉えています。


(ユーチューブ映像より)

 右手の指の関節の上には「ARMY」とペイントされ、薬指には「J」と記されています。メインボーカルのジョングクを示すイニシャルです。手の甲にはハートマーク、人差し指には王冠マークのようなものも描かれています。ファンに向けてのメッセージなのでしょう。きめ細かなファンサービスが感じられます。

 ペイントされた右手を高く掲げるシーンが、「ARMY」と呼ばれるファン組織を意識したパフォーマンスであることは明らかでした。

 このバージョンでもソロが終わると、左側から3人のメンバーが登場し、4人でパフォーマンスが行われますが、ここでも、それぞれ個性を活かしながら、アメリカを意識した衣装を着用しているのが印象的です。


(ユーチューブ映像より)

 さて、2020年8月21日に発売された“Dynamite”のMVを三種類見てきました。9月26日、10月22日、11月25日、ほぼ一カ月ごとに公開されたMVをご紹介してきました。いずれもダンス部分については変わりませんが、衣装や背景、小物といった道具立てについては大幅な変化が見られ、観客を飽きさせない工夫が凝らされていました。

 これらを見ていて、改めて、重要なパートを占めるのがダンスだということがわかりました。詳しく見ていくことにしましょう。

■“Dynamite”のダンス

 ダンスに焦点を当てた動画を見つけました。これを見ると、7人のメンバーが布陣を変化させながらダンスを披露していく様子がよくわかります。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=CN4fffh7gmk

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 画面にはまず、ランダムにポーズを取る7人が登場します。やがてその中の一人が中央に出てきてステップを踏み始めると、その他の6人は両脇に移動し、画面から見えなくなります。ソロでダンスが披露されます。

 2,3秒もすると、向かって左側から3人が踊りながら出てきて、4人体制でダンスが展開されます。画面の左半分を使って4人がステップを踏んで一回転するころ、向かって右側から3人が登場し、7人体制でダンスが披露されます。

 先ほどとは違ったメンバーがトップになり、2列目に2人、3列目に4人といったふうに、三角形の布陣になります。向かって左端にいたメンバーが左に寄って、ソロステップを踏みます。その他のメンバーはバックアップ態勢となって、左端を頂点とした不完全な三角形を成形します。

■“Dynamite”振り付けの練習

 2021年6月4日に公開され、1546万1956回(2021年7月31日時点)、再生されています。3分25秒の動画をご紹介しましょう。

こちら → https://www.youtube.com/watch?v=WhDsAW1ZzZ8

  メンバー全員、上が白のTシャツ、下が水色あるいはブルーのGパンという姿です。服装をシンプルに統一したことで、動きがとてもわかりやすく、振り付け自体がショーとして組み立てられていることがわかります。

 もちろん、衣装は白かブルー系で統一されているとはいえ、髪の毛の色、靴の色、帽子を持っているか否か、眼鏡をかけているか否か、などファッション小物でメンバーの個性はしっかりと識別されています。


(上記ユーチューブ映像より)

 BTSのメンバー7人のうち、Jinはブラウンヘアに白いスニーカー、Sugaは黒髪に黒と白のスニーカー、J-Hopeは黒髪に黄色のスニーカー、RMはブルーヘアに黒のスニーカー、Jiminは黒いスニーカーに黒い帽子、Vはブラウンヘアにブラウンのスニーカー、ブラウンの帽子で、眼鏡をかけ、Jungkook(後ろ向き)は黒髪に底部がネオングリーンの白いスニーカー、といった具合です。

 統一感をかもしながらも、メンバーの個性に配慮したファッションが印象的でした。このグループの特性が見事に表現されています。スタジオでの練習風景のせいか、メンバーの顔には全般にリラックスした表情が見られます。

■“Dynamite”に見るK-POPの未来

 “Dynamite”はメロディがシンプルなので頭に残りやすく、テンポもいいので、よくできたTVCMのようなアディクション効果がありました。これを聞くと誰もが知らず知らずのうちに、身体を動かし、リズムに乗って、幸せな気分になっていきそうです。

 見る者の視聴覚に絶え間ない刺激を与え続け、条件反射的に心身の反応を喚起するように創り出されているからでしょう。

 音楽はシンプルなメロディが繰り返されます。そして、ダンスはそのようなシンプルな曲に合わせて、隊列を変え、7人からソロ、ソロから4人体制、7人体制といった具合に、メリハリをつけた構成になっています。

 ダンスをしながら、数秒ごとに隊列を変更して、布陣を変えていきます。三角形、不定形、台形、そして再び、三角形というように、目まぐるしく陣容を変え、個々のメンバーを引き立てながら、視覚的な動きの美しさを楽しめるような振り付けでした。

 センターを務めるメンバーも適宜、入れ替わり、7人のメンバーが一体となって変容を繰り返しながらパフォーマンスを展開していく様子は、まるで生きている構造体のように見えました。

 衣装も同様、7人のメンバーそれぞれの個性を活かしながらも、全体として何を伝えたいのか、明らかなコンセプトの下、構成されていました。見事なまでに、アーティストの個とグループ全体の調和を図りながら、見る者の視聴覚に快い刺激を与える工夫がされていたのです。

 そういえば、HYBEのアーティスト育成システムが、音楽だけではなく、パフォーマンス、ファッション、ファンとの関係などに留意したものであったことを思い出しました。

 ヒトの感覚を断片的に刺激しながら、条件反射的な刷り込みをしていく手法に、デジタル化社会との親和性を感じさせられました。HYBEの大成功を見ると、K-POP業界、さらには、世界のエンターテイメント業界は今後、このような方向でのコンテンツ制作、アーティストの育成に大きく傾いていくのでしょう。

 これでいいのかなという思いが、ふと、脳裏をよぎりました。(2021年7月31日、香取淳子)

アーティストは社会的課題をどう表現したか:米谷健+ジュリア氏の作品を見る。

福島原発事故から10年、思考停止のままでいいのか?

 2021年6月23日、福井県の美浜原発3号機が再稼働しました。1976年に運転開始し、2011年3月11日の東電・福島第1原発事故まで稼働していた原発です。稼動期間は35年、稼働開始からは45年を経ています。原子炉をはじめ諸施設には多少なりとも経年劣化が生じているはずです。

 老朽化した原発を再稼働してもいいのかと素人ながら、不安に感じてしまいますが、新聞報道によると、4カ月限定で稼動するだけで、10月には再び稼動を停止する予定だといいます。今回の再稼働はおそらく、夏の電力需要を賄うための臨時的なものなのでしょう。

 政府は2030年度には温暖化ガスを46%削減すると宣言しました。その目標を達成するには再生可能エネルギーだけでは足りず、原発で総発電量の2割を賄わざるを得ないといいます。そして、総発電量の2割を得るには30基ほどの原発の再稼働が必要になるともいわれています。

 ところが、これまでに再稼働したのは今回の美浜原発を含めて10基しかなく、すでに老朽化しているものが多いそうです。福島原発事故後の2012年に原子炉等規制法を改正し、原則として稼動期間を40年としましたが、それでも、その基準に照らし合わせると、現在33基ある原発のうち、2030年末時点で稼動可能な原発は20基まで減少するといいます。

 電力源として原発を使用するなら、建て替えが必要なことはいうまでもありません。新設、増設も考えなければならないでしょう。ところが、第5次エネルギー基本計画では、原発の建て替え(リプレース)や新設、増設について言及されておらず、結論が先送りにされています。

こちら→ https://www.nippon.com/ja/currents/d00419/

 脱炭素をめざすとすれば、電力源としての原発は当面、必要であるにもかかわらず、福島原発事故以来、建て替え、新設、増設が検討されておらず、原発政策はいまだに思考停止状態になっているのです。

 事故後の10年間、原発をめぐるさまざまな議論も避けられてきました。脱炭素社会に向けてエネルギー政策をどう捉えていくのか、原発を継続するのかしないのか、しっかりとした議論を踏まえ、早急に安全で安定した電力供給のためのエネルギー政策を整備していく必要があるでしょう。

福島大学で開催されたオーストラリア学会

 2021年6月12日と13日、福島大学でオーストラリア学会が開催されました。福島原発事故10周年を記念して企画されたのが、「フクシマ」を巡る二つのシンポジウムです。両シンポジウムは豪日交流基金(AJF)の助成を得て行われました。福島原発事故は日本だけではなくオーストラリアにも大きな衝撃を与え、日豪関係にも影響していたからでした。

こちら →

http://www.australianstudies.jp/doc/2021_ASAJ_annual_conference_progra_j.pdf

 事故後10年を経たいま、多くの人々の原発に対する関心は次第に薄れてきているうえに、問題は依然として解決されていません。それだけに、事故後の10年間を総括し、そこから何が明らかになり、どのような教訓が得られたのかを洗い出し、今後どのように取り組んでいけばいいのかを検討する必要がありました。

 今回のオーストラリア学会はコロナ下とはいえ、オンラインだけではなく、対面でも参加できるように設定されていました。会場をキーステーションにし、登壇者や司会者、国内外からの参加者が意見交換できるように設営されていたのです。

 会場の大スクリーンには、オンラインで参加した日豪双方の学者、関係者が映し出され、それぞれの分野からの見解が披露されました。私はオンライン(ZOOM)で参加しましたが、発言者以外は映像をオフ、音声はミュートにするという条件が課せられました。おかげで画面が煩雑にならず、発言内容に集中することができました。

 もっとも、ZOOMで参加したので、カメラワークが思い通りにならず、撮影した写真も不鮮明なものにならざるをえませんでした。

米谷健+ジュリア氏によるアーティストトーク

 12日のシンポジウム「フクシマの教訓」の前に、米谷健+ジュリア氏によるアーティストトークが行われました。「見えない恐怖、絶えない不安と表現の力」というタイトルで構成され、とても興味深い内容でした。

 トーク内容は原発事故にとどまらず、多岐にわたりましたが、ここでは、健氏が初期に取り組んだ作品、その後、ジュリア氏とユニットを結成してから発表した作品の中から、とくに、海洋汚染、福島原発事故に関連する作品を取り上げることにします。

 健氏は写真をふんだんに使いながら、アーティストになった経緯、作品への取り組み姿勢、これまで手掛けた作品等々を語っておられました。それらの作品を中心に、適宜、ネット等で得た情報を交えながら、ご紹介していくことにしましょう。

沖縄で伝統陶芸を学ぶ

 健氏は、東京外為市場で金融ブローカーとして3年間働いた後、辞職し、沖縄で陶芸を学びました。脱サラ後、紆余曲折を経て、向かった先が沖縄だったのです。そこで伝統陶芸壺屋焼き陶工の金城敏男氏に師事し、2000年から2003年まで陶芸を修業します。

 当時の作品として会場のスクリーンに映し出されたのが、次の写真です。

(会場写真を撮影)

 取っ手が付いたひし形の壺です。側面には、波頭の上を勢いよく飛び跳ねる魚が二匹、向き合う恰好で描かれています。素朴な味わいの中に躍動する生命力が感じられます。救いを求めるように向かった先の沖縄で発見した生命の輝きとでもいえるようなものが、この作品には見られます。

 実際、沖縄の海はカラフルで、さまざまな生物が生を謳歌しています。

(会場写真を撮影)

 ところが、その輝かしい海の世界もいまや一変してしまいました。サンゴの多くに白化現象が見られるようになり、死滅しはじめているのです。

(会場写真を撮影)

 サンゴが白化する原因は、海水温の上昇によるといわれています。とくに1980年代以降、世界的に白化現象が増加しました。沖縄では2001年と2007年の夏に白化現象が起こりましたが、これは沖縄特有の暖水塊の発生によるとされています。ちょうど健氏が沖縄で陶芸を学んでいる時期、サンゴの白化現象が話題を集めていたのです。

メルボルンで発表された作品

 健氏は2008年に、”Heat: Art and Clime Change”というタイトルの展覧会(RMT Gallery、メルボルン)に出品しています。ネットで検索すると、その展覧会のカタログがありましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら →

https://www.academia.edu/5691163/HEAT_Art_and_Climate_Change_2008_

 最後のページに健氏の作品が掲載されています。

(上記カタログより)

 この作品のタイトルは、”The Dead Sea”です。気候変動によって自然界が大幅に変化していく様子を健氏はインスタレーションで作品化していたのです。沖縄での経験がよほど印象深かったのでしょう。

 そもそも健氏は、沖縄で伝統陶芸の修行をしていたはずです。それなのになぜ、メルボルンでインスタレーションを発表していたのでしょうか。経緯がわからず、驚きました。最初にご紹介した2000~2003年の素朴な味わいのある陶芸作品と、2008年のメッセージ性のあるインスタレーションとがどうしても結びつきません。

 そこで、ネットで検索してみると、健氏の略歴が掲載されていました。何かヒントが得られるかもしれません。作品と略歴とを照らし合わせてみましょう。

こちら →

https://mizuma-art.co.jp/wp-content/uploads/2018/02/Yonetani_cv_jp_20_08.pdf

 これを見ると、沖縄での陶芸修行を終えるとすぐに、オーストラリア国立大学School of Artに入学していることがわかります。

《踏絵》、2003年制作

 オーストラリア国立大学に入学してまもない2003年11月に、健氏は《踏絵》というタイトルの作品を発表しています。さっそくネットで検索してみました。

 すると、これはパフォーマンス型のインスタレーション作品だということがわかりました。まず、オーストラリアの絶滅危惧種11種の蝶を模って、25㎝×25㎝のセラミックのタイルを制作します。そのタイル2200枚を展覧会場の床に敷き詰め、参加者に踏み潰してもらうというものでした。

もっとも、この説明だけでは分かりづらいかもしれません。さらに検索すると、この作品の解説映像をネットで見つけることができました。ご紹介しておきましょう。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/ja/sakuhin/fumie/

 8カ月かけて制作した2200枚ものタイルは、1時間も経たないうちに参加者によって踏み潰されたといいます。確かに、画面を見ると、床一面に敷き詰められたタイルが粉々になっています。

 ところが、興味深いことに、参加者の中には、蝶が模られたタイルを踏み潰すことができなくて、床から拾い上げ壁に立てかけている人がいました。砕けてしまえば、もはや元に戻らないことに耐えられなかったからでしょう。それに続く人もいました。

 言われるままに踏みつぶした人、言われても踏みつぶせなかった人、踏みつぶした後、後悔した人、反応はさまざまでした。絶滅危惧種の蝶が模られたタイルをどう見るか、どう考えるか、指示されるままに踏み潰すことができたか、できなかったか。この作品はまさに、参加者の環境に対する意識を問う現代の「踏絵」でもあったのです。

 沖縄で伝統陶芸を学んだ健氏は、オーストラリア国立大学でSchool of Art & Design科のCeramicsを専攻しました。そこで学び始めて最初に発表したのが、この《踏絵》でした。

 8カ月もの時間をかけて制作したタイルですが、これは単に参加者の反応を引きだすための刺激剤にすぎません。作者から指示され、参加者たちが床一面のタイルを踏み潰した後、会場には、粉々に砕けたタイルと、踏みつぶされず壁に立てかけられたわずかのタイルが残されました。参加者のパフォーマンスを組み込んだ一連の過程そのものが、この作品の全貌でした。

 インスタレーションとパフォーマンスを組み合わせた新しい芸術の誕生といえるでしょう。

インスタレーションとパフォーマンス

 まず、11種の絶滅危惧種の蝶が模られたタイルを敷き詰めた会場そのものが、インパクトの強いインスタレーションでした。踏み潰される前の2200枚ものタイルを見ただけでも、参加者たちはそれぞれ何かを感じ取っていたことでしょう。

 さらに、参加者たちは作者から指示されます。その指示に従って、タイルを踏み潰し始めた時、参加者たちは足裏から伝わってくるタイルの壊れる感触をどう感じたのでしょうか。

 タイルを壊さず、壁に立てかけている人がいましたし、それに続く人もいました。おそらく、壊すことに抵抗を感じ、後ろめたい思いをしていたのでしょう。反対に、タイルを踏み潰すことに身体的な快感を覚えた人もいたかもしれません。中には、足裏から伝わってくる振動に、なにがしか申し訳なさを感じながらも、踏みつぶし続けた人もいたでしょう。

 インスタレーション、パフォーマンス、それぞれ参加者に与える効果は異なります。参加者の環境への認識の違いによってもその受け止め方は異なってくるでしょう。

 インスタレーションにこのようなパフォーマンスを組み込んだおかげで、この作品はメッセージ性が高く、発信力の強い仕上がりになっていました。自然と社会とヒトとのかかわりを、参加者に深く考えさせるだけのインパクトがあったのです。それは、この作品がしっかりとした構造を持ち、明確なコンセプトの下、制作されていたからにほかなりません。

 健氏は8カ月かけてモチーフとなるタイルを制作し、会場の床に敷き詰め、インスタレーション作品としました。それだけでも十分インパクトのある現代美術なのに、健氏はさらに、参加者を巻き込むパフォーマンスを組み込み、参加者への影響力を強化しました。これまでの健氏にはない発想であり、表現活動でした。

 沖縄で陶芸技術を学んでいたころは、せいぜい海洋生物への関心から海洋汚染に関心を抱いた程度ではなかったかと思います。ところが、オーストラリアで学び始めて早々に、これまでとはまったく異なった性質の作品を発表していたのです。

 一体、何があったのでしょうか。

Socially Engaged Art

 そこで、調べてみると、健氏が入学したオーストラリア国立大学School of Art & Design科では、学部生に対し、次のようなコースを設けていることがわかりました。

こちら → https://programsandcourses.anu.edu.au/2021/course/ARTV2801

 Socially Engaged Art実践というコースが設けられ、「社会実践」や「社会彫刻」などの実験が行われています。「社会実践」にしても、「社会彫刻」(人間社会のさまざまな事象を含めて造形しようとする)にしても、社会的な関わりの中で表現活動を実践していこうとするものです。

 アーティストは表現活動を行いますが、このSocially Engaged Artでは、作者とか作品という概念よりも、対話や相互作用そのものに価値を見出す特徴があるといいます。また、参加者を巻き込むインタラクティブな実践という点で、Relational Artと呼ばれる作品群とも通じるものがあるともいわれています(※ Artwordsより)。現代アートの一ジャンルなのでしょう。

 このような説明に照らし合わせると、健氏の《踏絵》はまさにSocially Engaged Artそのものだといえるでしょう。沖縄では得られなかった美術的境地をオーストラリアで獲得したことがわかります。

 健氏は沖縄で海洋汚染の現実を知りました。アートの力で環境破壊に対処していくことができればと願ったことがあったかもしれません。Socially Engaged Art実践というコースはそんな彼にぴったりの学びの場でした。

 以後、健氏は明確なコンセプトの下、参加者を巻き込みながら、アートの力を活用した社会実践を続けていくことになります。

 手始めに制作したのが、《踏絵》でした。この作品では、ヒトが自然界に及ぼしてきた破壊力を、静(インスタレーション)と動(パフォーマンス)の両面から参加者に認識させることができました。

 インスタレーションによって参加者の問題意識を喚起し、パフォーマンスによって身体感覚に基づいて熟考させる・・・、といった仕掛けがあったからです。参加者のそれまでの意識レベルがどうであれ、アートの社会実践を経験してもらうことによって、ヒトは自然とどうかかわればいいのか、参加者それぞれに自覚を促すことができたのです。

 新しい形態の芸術作品でした。

 以後、健氏はこの手法で、次々と作品を発表していきます。

《スィートバリアリーフ》、2009年制作

 修士号を取得した2005年には、砂糖を使った作品を制作し、シドニーやメルボルンで発表しています。これら一連の作品が認められからでしょう、2009年にはオーストラリア代表に選ばれ、ベネチアビエンナーレに出品しています。作品のタイトルは、《スィートバリアリーフ》です。

(会場写真を撮影)

 オーストラリア北東岸には有名なグレートバリアリーフがあります。小さなサンゴやポリプ(イソギンチャクなど固着して触手を広げるもの)などが数十億も集積して形成されている巨大なサンゴ礁です。

(世界遺産オンラインガイドより)

 この辺りには、400種以上のサンゴ、1500種の魚類をはじめ、多種多様な生物が生息しているといいます。約200万年前からの石灰岩が堆積し、その上にサンゴが生息しはじめ、壮大な景観を形成しており、1981年には世界自然遺産に登録されています。

 上空から見ると、このようになっています。

(世界遺産オンラインガイドより)

 見ると、全体に茶色っぽくなっています。気候変動による海水温の上昇でサンゴが白化し、サンゴ礁が死滅に瀕していることがわかります。さらに、水質汚染やサンゴを食べるオニヒトデの発生などで、サンゴ礁の存続自体が危うくなりかけているともいわれています。

 それでは、もう一度、先ほどのベネチアビエンナーレに出品された作品《スィートバリアリーフ》に戻ってみましょう。

 写真手前に見える水色の塊とモデルたちが手にしているオレンジと青の塊が、この作品のモチーフです。白化したサンゴが彩色されているように見えます。白い髪飾りを付け、白いドレスを着ているモデルたちは白化現象を象徴しているのでしょうか、それとも、漂白された砂糖を象徴しているのでしょうか。

 この作品を紹介したページがありましたので、ご紹介しましょう。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/en/works/sweetbarrierreef/

 この作品もまた、インスタレーションとして発表され、会場ではパフォーマンスが披露されていました。

 ここに掲載されたYouTube画面を見ると、着色されたモチーフの中身はどうやらケーキのようです。モデルたちが切り分けて参加者たちに配っています。《スィートバリアリーフ》という名の通り、これらのモチーフは甘いサトウキビで制作されていたのです。

 モチーフの制作に使われたサトウキビは、ヒトの欲望のメタファーであり、さらには、世界が歩んできた植民地化、近代化、消費主義化の象徴でもありました。

 たとえば、クィーンズランド州の東北部にインガムという町があります。元々はアボリジニの土地だったのですが、1880年、そこに植民地製糖会社が設立されました。以来、イタリア移民が雇われて砂糖の生産に大きく貢献し、発展を遂げてきたといいます。この例に限らず、植民地の歴史とサトウキビ農園とは密接なかかわりがあったのです。

こちら →

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00577_Ingham.html

 このように、オーストラリアは輸出産業としてサトウキビ生産を発展させてきました。ところが、生産が活発になるにつれ、やがて環境保護団体からサトウキビ農家に対する批判が高まっていきました。肥料や農薬に含まれる化学物質、赤土の河川への流出などが、サンゴ礁の生態系を脅かしているというのです。

 また、タイや沖縄では、サトウキビ畑の焼き畑が、大気汚染の原因になっていると問題になっています。

こちら → https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210120/k10012823751000.html

 各地のサトウキビ栽培が土壌汚染、大気汚染、海洋汚染を招いていることを作品化したのが、この《スィートバリアリーフ》でした。

 こうしてみてくると、健氏の一連の作品が世界各地で進んでいる環境汚染にメスを入れるものであることがわかります。

アーティストユニットの誕生、そして、福島原発事故

 2009年以降、米谷健氏とジュリア氏はユニットを結成し、作品を制作するようになりました。

 先ほどご紹介した経歴を見ると、ジュリア氏は2003年にオーストラリア国立大学で歴史学の博士号を取得しています。一方、健氏は2003年に陶芸科の修士課程に進んでいますから、二人は同時期にオーストラリア国立大学で研鑽し、研究した仲間だったことがわかります。

 ジュリア氏は大学院修了後、研究職にも就いていたようですが、学問の世界に限界を感じ、アートに魅力を覚えるようになったといいます。健氏との出会いがその引き金になったのかもしれません。もっとも、ジュリア氏のキャリアは研究職からスタートしているので、アートを手掛ける場合も、テーマを設定してから制作に入ることが多いといいます。

 環境破壊をテーマに作品を制作してきた健氏とはお似合いのカップルであり、未来を担うアーティストユニットだといえるでしょう。

(ZOOM画面を撮影したので、角度が限定され、画質も悪いですが、ご了承ください)

 さて、米谷健+ジュリアとしてアーティストユニットを形成して2年後に、福島原発事故が発生します。オーストラリアで福島原発事故を知ったとき、二人は是非とも原発をテーマに作品を制作したいと思ったそうです。

 元々、健氏は環境破壊に関心がありましたし、ジュリア氏も歴史学の研究者なので、技術の進化と社会との関連については興味があったはずです。世界を揺るがす原発事故を機に、二人の制作衝動が刺激されたのは当然でした。

 そもそも原発の燃料であるウランの資源量はオーストラリアがトップなのです。

ウラン資源量トップのオーストラリア

 ウラン資源は世界中に分布していますが、圧倒的な資源量を誇るのが、オーストラリアです。主要15ヵ国だけで世界の既知ウラン資源の95%を占めているのですが、そのうちオーストラリアは30%で、他を圧倒しています。

(日本電子力産業協会国際部報告書『ウラン2018―資源、生産、需要』、2019年2月、p.7より)

 2018年の上記資料をさらに具体的に見ると、オーストラリアのウラン資源量は世界第1位、産出量は第3位でした。

(前掲。p.6 )

 資源量、産出量ともトップクラスのオーストラリアですが、自国内に原子力発電所を持っていません。ですから、研究用以外のウランはすべてアメリカ、EU、日本などの原発所有国に輸出しているのです。

 これらの国だけで輸出量の約90%を占めるそうです。オーストラリアは世界有数のウラン輸出国だったのです。実際、2011年3月11日に爆発した福島第一原発全6基のうち5基の原子炉で、オーストラリア産ウランが使用されていたといいます。

 興味深いことに、オーストラリアは、世界有数のウラン輸出国として原発産業を支えていながら、自国内に原発を持っておらず、一方の日本は、ウラン資源もなく世界唯一の被爆国でありながら、狭い国土に福島原発事故以前は54基も稼動していました。

 福島原発以後、21基の原発の廃炉が決定され、現在稼働中の原発はわずか5発電所の9基だけでした(今回、4カ月限定で美浜原発が再稼働)。それも西日本に集中しており、いずれも「沸騰水型」の福島第1原発とはタイプの異なる「加圧型」だそうです(※ https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00967/)。

 さて、オーストラリアは原発を持っておらず、一見、クリーンなイメージがありますが、実は世界有数のウラン輸出国であり、福島原発事故でもオーストラリアからのウランが使用されていました。

 そのことを申し訳なく思う人々がいました。オーストラリアのアボリジニです。

アボリジニに伝わる緑アリのドリーミング

 福島原発を運営する東京電力は、英国系採掘会社の子会社が運営するレンジャー鉱山から採掘されたウランを購入していました。このレンジャー鉱山は、オーストラリア北部特別地域に住むアボリジニ、ミラー族が先祖代々所有してきた土地でした。

こちら →

https://www.independent.co.uk/news/world/australasia/aborigines-block-uranium-mining-after-japan-disaster-2267467.html

 福島原発事故を知ったミラー族の長老イボンヌ・マルガルラ(Yvonne Margarula)は、国連事務総長に、ミラー族の人々が日本の惨状を心配し、原子力の緊急事態について懸念しているという内容の手紙を書いて送ったといいます。

 ウランを産出して輸出し、利益を得ている鉱山企業レンジャーではなく、先祖代々の土地を奪われたミラー族が、福島原発事故で被害にあった日本に申し訳なく思っているというのです。彼らはウランの採掘についても制限を求め、新たな採掘事業に反対しています。

 米谷健+ジュリア氏は、福島原発事故後、レンジャー鉱山を訪れ、その土地に住むアボリジニから話を聞いています。

こちら → http://yonetanikenandjulia.blogspot.com/2013/11/blog-post_22.html

 アボリジニのコミュニティの中には、代々語り継がれてきた、「その大地を掘り起こせば、たちまちその地中から巨大な緑色のアリが出現し、世界を踏み潰し、破壊するだろう」というドリーミングがあることを彼らは知りました。

 実際、西ドイツで1984年に制作された、“Where the green ants dream”(緑のアリが夢見るところ)という映画(100分)があります。このドリーミングを題材に映画化された作品です。7分2秒の紹介映像を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら → https://youtu.be/2mtouaHkSfA

 探し求めてダーウィンにまで出かけた健+ジュリア氏は、ナバレック鉱山付近にGreen Ants Hillがあり、そこに巨大な緑アリのドリーミングがあることを聞きつけます。実際に話を聞いて、現地の長老からそれを作品化する許可を得ます。

 こうした地道な取材を積み重ね、2012年に制作されたのが、《What the Birds Knew》でした。

福島原発事故に触発されて制作された作品

《What the Birds Knew》、2012年制作

アボリジニに伝わる緑アリのドリーミングにヒントを得て、制作を開始し、出来上がったのが、全長6メートルの巨大アリです。数千個のウランガラス玉で仕上げられています。

こちら → https://www.mori.art.museum/en/collection/2737/index.html

 ガラスの中にウランが含まれているので、暗闇の中では緑色に発色します。

 緑色の巨大なアリのドリーミングは、ウランが埋蔵されている地域のアボリジニの間で代々、伝えられてきました。実際にウランを浴びた巨大なアリがかつて存在していたのかもしれません。それが暗闇で緑色に発色し、恐怖にかられたアボリジニが、ドリーミングを介して、大地を掘るなと後の世代に警告を発していたのかもしれません。

 実際に現地で古老から話を聞き、米谷健+ジュリア氏はこれを作品化しました。ウランガラスを使って制作された巨大アリは、伝えられる通り、暗闇では緑色に発色しています。暗闇で光る緑色は美しくもあり、妖しくもあります。それは、得体の知れない力を感じさせられるからでしょうか。

 このように、健+ジュリア氏は巨大アリをウランガラスで制作し、暗闇の空間に配置することで、アボリジニのドリーミングを再現し、現代社会のドリーミングとして再生させたのです。

《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》2013年制作

 福島原発事故の後、制作開始され、2013年に完成したのが、《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》という作品です。

こちら → http://kenandjuliayonetani.com/ja/sakuhin/crystalpalace/

 ウランガラス、シャンデリアフレーム、ブラックライトなどを素材としたインスタレーションです。それぞれサイズの異なるシャンデリア31個で構成されています。 

 モチーフとなったシャンデリアは豪華で輝かしく、モダニティの象徴ともいえるものでした。形や大きさの違いこそあれ、どれも一様に、暗闇では緑色に輝きますから、壮観といえば、壮観です。

 興味深いのは、これらのシャンデリアは、それぞれ、原発保有国の国名をつけられ、その国の原発から作り出される電力の総出力規模に応じたサイズで制作されていることでした。どの国がどれぐらいの量の原子力発電を行っているかが可視化されているのです。

 一方、この作品のタイトルもまた、いかにも、いわくありげな《クリスタルパレス:万原子力発電国産業製作品大博覧会》です。クリスタルパレスとは、1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会の会場となったガラス張りの建物のことですが、それにちなんでこの作品のタイトルが付けられたといいます。

 調べてみると、確かに、第1回万国博覧会はこのクリスタルパレスで開催されていました。蒸気機関に端を発した産業革命は、イギリスで発祥した石炭利用によるエネルギー革命でした。その後、エネルギー源は石油、原子力、太陽光、風力、地熱、水素など多様になっていきますが、推移の方向としては、資源の枯渇、温暖化などへの懸念から、化石燃料から再生可能燃料へ変化といえるでしょう。

 いずれにしても、現代社会への大きな転換期はこのイギリスで発祥した産業革命だったのです。

 さて、タイトルのコロンの後は、「万原子力発電国産業製作品大博覧会」です。「万国博覧会」をもじり、「国」を「原子力発電国産業製作品」に置き換えています。福島原発事故が起こってもなお、原発をエネルギー源にしている原発所有国を取り上げ、その産業製作品の博覧会という体を取っているのです。

 産業製作品として、華美で豪華なイメージのあるシャンデリアを選び、インスタレーション作品のモチーフとしています。産業革命は人々を伝統社会の枠組みから徐々に解放し、産業化の進行とともに消費社会に誘導していきましたが、奢侈品であるシャンデリアはコマーシャリズムの象徴として捉えることもできます。

原発事故後10年、これからどういう世界に向かうのか

 産業革命以来、石炭から、石油、原子力、天然ガス等多様な電源利用へと推移して、現在に至っています。すでに化石燃料は温暖化の原因であり、枯渇の可能性も指摘されています。電力の安定供給という側面からは原子力利用も当面は捨てきれませんが、放射能汚染の危険が常に付きまといます。

 早急に再生可能性エネルギーに変換していかなければならないのですが、冒頭でもいいましたように、いまだに2割は原子力を使わざるを得ないというのが現状です。

 2021年6月30日、経産省がエネルギー基本計画に将来、原子力発電所の建て替えを盛らない方向で調整に入ったと報道されました。

こちら → https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA0176A0R00C21A6000000/

 2014年のエネルギー基本計画で原発建て替えの表現を削除して以来、建て替え、新設、増設の判断は先送りされたままです。脱炭素の方向を打ち出したにもかかわらず、原発政策に関しては空白状態が続いているのです。

 危険を承知し、災禍を予測しながら、判断を先送りすることの無責任さには言葉を失ってしまいます。いつから日本の行政はこうなってしまったのか・・・。

 はたして、どうすればいいのでしょうか。

 今回、米谷健+ジュリア氏のアーティストトークに参加して、アボリジニがドリーミングを通してウランの危険性を警告していたことを知りました。大変、興味深く思う反面、私たちは豊かさ、便利さと引き換えに何を失ってしまったのかと自問せざるをえませんでした。

 オーストラリア国立大学では学部生に対し「Socially Engaged Art」というコースを設け、アートの社会実践を行っているといいます。アート作品は、展示され、鑑賞されて完結するものではなく、参加者との対話や相互作用を通し、新たな地平を築き上げることに作品としての価値を置くというものです。

 米谷健+ジュリア氏の作品を見てきました。いずれも参加者との相互作用を目的に、社会を考え、環境を問いかける仕掛けが秀逸でした。新しい現代アートの在り方を垣間見たような気がしました。(2021年6月30日 香取淳子)

「World Exhibition 2021」:作品と作家が抱える文化

■World Exhibition 2021の開催

 2021年4月29日、豊洲シビックセンター1Fギャラリーで開催された「World Exhibition 2021」に行ってきました。豊洲駅から徒歩1分、とてもアクセスのいい展示場で、授賞式に合わせて着いてみると、すでに何人か来ておられました。

 この展覧会の主催はAsian Artists Network(代表:山田陽子氏)、共催がアートスペース銀座ワン、後援が外務省/国際機関日本アセアンセンターです。外務省やアセアンセンターが後援者になっているので、気になって、案内ハガキを見ると、出品者は56名、そのうち、アジアからの出品者は18名でした。どうやら美術を通してアジアとの交流を図る展覧会のようです。

 会場では、油彩、アクリル、水彩、切り絵、オブジェなど様々なジャンルの作品が展示されていました。画材が違えば、手法も違う多様な作品を前にして、審査も難しかったのではないかと思いますが、当日14:00から、受賞者の発表、美術評論家の清水康友氏によるギャラリートークが行われました。

 受賞者はグランプリが片岡真梨奈氏、準グランプリが如月夕子氏といちまるのり氏、そして、特別準グランプリとして、momomi sato氏が受賞されました。

 事前に展示作品を一覧していましたが、受賞作品は私が好印象を抱いた作品ばかりでした。いずれも画法や画題、視点などが新鮮で、意欲的な姿勢が感じられます。もっとも、会場には、受賞しなかったけれども、印象に残る作品がいくつかありました。

 そこで今回は、①グランプリ受賞者の作品、②受賞はしなかったけれども印象に残った作品、③アジアの作家の中で印象に残った作品を見ていくことにしたいと思います。この展覧会では、作品概要としてサイズ、制作年などは書かれていませんでしたので、ここでは作家名とタイトルだけを記します。

■グランプリ受賞者の作品

 グランプリを受賞した片岡真梨奈氏は受賞作品以外にも出品されていました。これら2作品を見ると、片岡氏のスタイルはすでに出来上がっていて、独自の表現世界が築かれているように思えました。とても印象深く、しかも、快さの残る作品でした。まず、受賞作品から見ていくことにしましょう。

●片岡真梨奈氏《待ち合わせ》

 2枚のカンヴァスが、位置をややずらして繋げられ、一つの作品として構成されています。下のカンヴァスはペールベージュを基調に、上は白を基調にした色調でまとめられています。いずれも色彩のバランスが快く、優しい落ち着きが感じられます。

 一見、別々の絵が2枚、繋ぎ合わされているかのように見えますが、実は、上と下のモチーフは繋がっており、一つの光景が描かれています。

 下の絵には女性が道路際で立っている姿が描かれています。肩をすくめ、所在なげに佇んでいます。これがメインモチーフなのでしょう。待ち合わせをしているのに、その人はまだやって来ない、そんな時のちょっと不安な心情が、ペールベージュを基調とした画面に的確に表現されています。

 女性の傍らには歪んだ郵便ポストのようなものがあります。おそらく、これを目印にして待ち合わせているのでしょう。人気のない道路にただ一人、ぽつねんと立ちすくんだ様子がなにやら寂しげです。

 女性の背後には大きな木が上に伸び、上の絵につながっています。上の絵の地色が白いので、まるで下の絵を覆っていたペールベージュのフィルムを引き剝がしたかのように見えます。

 下の絵と上の絵とは、この大きな立木と背後のマンションとでつなぎ合わされていますが、いずれも歪んで描かれています。まるで台風のときのような強風に煽られ、大きく揺れているかのように見えます。

 上の絵では、葉を落とした枝が大きく揺れ、電線のようなものが何本も空に舞い、その空の真ん中に人形のようなものが描かれています。相当強い風が吹き荒れていることがわかります。ところが、不思議なことに、同じ光景のはずなのに、下の絵はそれほどでもありません。荒れているように見える上の絵は、ひょっとしたら、待っている女性の心象風景なのかもしれません。

 やや引き下がって、全体を見てみると、画面上に直線は一つもなく、かといって整った曲線というものもありません。あらゆる線はすべて不揃いに曲がりくねり、デコボコしています。道路標識、排水溝、郵便ポスト、センターライン、建物、塀、ステイコーンなど、本来まっすぐなはずの線や円がそうではなく、不定形で捉えられているのです。

 不揃いで、デコボコの線でモチーフが形作られているのがこの作品の特徴の一つです。そのせいか、画面全体からは柔らかく、優しく、ユーモラスな印象を受けました。陰影もなく、イラストのようなフラットな描き方の中に、自然の息遣いと和らぎを感じたのです。ふと、誰か忘れましたが、自然界に直線はないと言っていたことを思い出しました。

 一方、人工的な建物、塀、道路のセンターラインなど、本来、直線であるべき箇所も同じように歪んで描かれているので、不安感、あるいは、不全感といったようなものも感じられます。いってみれば、現代人の多くが抱え持っている心情が感じられたのです。

 片岡氏独特の描き方によって、日常的な光景を画題としながら、現代社会の日常に潜む不安が浮き彫りにされています。素晴らしいと思いました。この作品はアクリルで制作されています。

 会場を見て回ると、片岡氏はもう一つ、出品されていました。《あの子の/The child》というタイトルの作品です。

●片岡真梨奈氏《あの子の/The child》

 まるでイラストのようなフラットな描き方、歪んでデコボコのある輪郭線、調和のとれた色彩など、先ほど、ご紹介した《待ち合わせ》と似た特徴を備えています。この作品もアクリルで制作されています。

 落ち着いた赤と黄土色、これは夕焼けをイメージさせる色彩です。それに、夕闇をイメージさせるやや暖色がかった黒を射し色として加え、この三色で画面は構成されていました。色数が少ないにもかかわらず、詩情豊かな世界が表現されています。

 子どもにとって、夕焼け時といえば、外遊びをやめて、家に帰らなければならない時刻です。それを惜しむかのように、帽子をかぶった子どもが、画面の中央右側に佇んでいます。その後ろには影が長く伸びています。やや間をおいて、左の方にももう一人、小さな子どもの姿が見えます。この子どもの背後にも影が描かれています。

 よく見ると、さまざまなモチーフすべてに長く伸びる影が描かれています。そのせいか、画面全体から寂寥感が漂ってきます。遊び疲れて陽が沈む、誰もが子どものころ経験したあの寂寥感です。何気ない日常の光景を描きながら、観客を画面に引き寄せる魅力を持った作品でした。

■受賞しなかったけれども、印象に残った作品

●ワッレン真由氏《Big Kiss》

 会場を一覧した際、真っ先に目に飛び込んできたのが、この作品でした。

 画面からはみ出しそうに見えるほど大きく、子どもの顔が描かれています。唇を大きく突き出し、甘えるように見つめる視線に引き込まれます。子どもがふとした瞬間に、親密な相手にだけ見せる表情が生き生きと捉えられていました。

 わずかに見える背景も、子どもが来ている服も、この表情を活かすかのように、顔色と同系色でまとめられています。タッチは荒く、パステルか何かでさっとスケッチしたような印象ですが、実際は油彩とアクリルで制作されていました。

 おそらく、このような描き方だからこそ、子どもの一瞬の表情が捉えられているのでしょう。素朴でありながら、訴求力が強く、絵画が持つ原初的な力を見せつけられたような気がしました。

 ワッレン真由氏はもう一つ、作品を出品されていました。《Funny Face》です。

●ワッレン真由氏《Funny Face》

 先ほどの作品と同じような手法で、子どもの表情が捉えられています。こちらも子どもの瞬間の表情がスケッチ風に描かれています。

 画面いっぱいに、子どもが目を大きく見開き、両手で頬を突いている姿が描かれています。圧迫されたせいで、頬は歪み、それに合わせて唇がとがったように突き出ています。先ほどの《Big Kiss》と同じような恰好で唇が突き出ているのですが、こちらは頬が圧迫された結果なのです。多少は痛みもあるのでしょうか、子どもの目の表情が硬いのが気になります。

 《Big Kiss》の場合、明らかに子どもが自発的に見せた表情ですが、《Funny Face》の場合、「やってごらん」といわれて、子どもが無理やり両の拳で頬を突き、その圧力で現れた歪んだ表情です。目の表情が硬くなるのも当然でしょう。この画面からは「Funny」よりむしろ、「強制」のに文字が浮き上がってきます。

 ヒトの顔のインパクトが強いのは、多くの情報がその中に含まれているからだと思います。通常、観客はなによりもまず、ヒトの顔を注視し、無意識のうちに、その表情から情報を読み取り、その結果を総合的に判断します。ですから、時に、作家の意図とは違う反応を示してしまいます。《Big Kiss》ほど、この作品に引き込まれなかったのは、この目の表情のせいでした。

 さて、この会場の約32%はアジアからの出品者でした。印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

■アジアの作家の中で印象に残った作品

●Le Than Thu氏の作品《Woman》

 描き方に特徴があったので、この作品の前で足を止めました。作者のLe Than Thu氏はベトナムの出身です。

 ベトナムのホーチミン市を訪れた際、このような描き方の作品を見たことがあります。絵具を厚く塗り、ナイフで適宜、削っていく方法です。一見、荒っぽく見えますが、さまざまな色を重ね、削って陰影を出し、女性ならではの微妙な表情が表現されています。とても繊細な仕上がりの作品になっていると思いました。

 背景や顔面の要所、要所に配された青系の色調が、この女性に都会的で洗練されたイメージを付加しています。憂いを含み、儚げな美しさが印象に残ります。この作品は紙を支持体にアクリルで制作されています。

●Wai Oo Mon氏《The Corridor》

 会場を一覧した際、陽射しの描き方に惹かれ、この作品に見入ってしまいました。タイトルは《The Corridor》、作者のWai Oo Mon氏はミャンマーの出身です。

 ミャンマーには行ったことがないのですが、ベトナムに行った際、ハノイでこのような建物を見かけました。長い廊下に射しこむ陽光が的確に捉えられています。モチーフの配置と構図が素晴らしいと思いました。

 手前から画面の中ほどまで、強い陽射しを受けた木々の葉影が描かれています。そこから先は廊下に葉陰がなく、歩く女性の右肩やスタートに光が当たっている様子が白色で表現されています。廊下の突き当りには木があり、その葉が陽光に照らし出され、明るくきらめいています。

 何気ない日常の光景を捉えているだけなのに、この作品には、見飽きることのない力がありました。

 たとえば、女性が歩く幅広で天井の高い廊下には、暑さを遮断するための、現地の人々の生きる知恵と生活文化が感じられます。文化と気候、歴史が感じられる奥深い作品でした。この作品はカンヴァスに油彩で制作されています。

●Aung Thu氏《Waiting》

 透明感のある色彩の柔らかさに惹かれ、この作品の前で足を止めました。《Waiting》というタイトルの作品です。作者はAung Thu氏、ミャンマーの出身です。

 誰が大切な人を待っているのでしょう。女性が髪に花を挿し、ベンチに座っています。背後の木の幹や枝の表現が、なんと詩情豊かに、美しく描かれているのでしょう。木の幹や枝など普段、気にもとめないのですが、これほど情感たっぷりに描かれると、見入ってしまわざるをえません。まるで、この木が主人公のようです。

 右側の木の幹、正面の建物、左下の大きな影、いずれも画面の中で大きな面積を占めている箇所です。それが紫色でまとめられているのです。そのせいで、木々の葉や草、女性の衣服などが柔らかく、爽やかに見えます。

 目では捉えられない、風や気温といったものが、この作品では柔らかい色彩を組み合わせて、表現されています。うだるような暑さの中、そっと気持ちのいい風が葉陰から吹いてくるのさえ感じられます。見ていると、気持ちが和み、幸せな気分になってきます。透明水彩の特徴を活かした描き方で、清涼感が感じられます。この作品は水彩で制作されました。

●溝口赫舎里氏《満洲魂》

 会場を一覧した際、気持ちの奥深く訴えかけてくるものがあると感じられたのが、この作品でした。作者は溝口赫舎里氏、中国の出身です。

 何の花でしょうか。まるで深海の底で花開いたかのような趣があります。海をイメージさせる群青色が基調になっているせいでしょうか。

 画面上方に、群青色の泡のようなものが無数に描かれています。ダイバーが吐き出す呼気にも見えます。この無数の泡のようなものには、上方に向けての動きが見られ、そこに生命の営みが感じられます。とはいえ、画面の中に他の生命体は見当たらず、この花だけが一群となって咲いています。

 花弁の先が白で強調され、花芯が金で表現されています。一群の白い花の中央は金色の花粉のようなものが散らばり、花はぼやけています。そこを中心に、辺り一帯から沸き立つように、金色の花粉のようなものが立ち上り、上方に向かっています。

 一体何が描かれているのでしょうか。ヒントを求めて、タイトルを見ると、《満洲魂》と書かれています。

 調べてみると、満洲族は清朝を起こし、栄華をきわめた後、現在は55を数える少数民族の一つとして、中華人民共和国に属しています。国政調査によると、2010年時点で人口は1038万人だそうです。かつて支配階級として繁栄を誇っただけに、いまなお満洲魂への想いは篤いのでしょう。は脈々と受け継がれているのでしょう。

 Wikipediaによると、満州族の教育水準は高く、人口1万人当たりの大学進学者数は1652.2人、中国平均は139.0人、漢族平均は143.1人です。満州族の教育水準がいかに高いかがわかります。そのせいか、満州族は固有の文化を失いながらも、民族意識はとても高いといわれているそうです。

 このような満州族の置かれた背景を知ったうえで、この作品をみると、改めて、この作品の奥深さがわかってくるような気がします。溝口赫舎里氏は《満洲魂》というタイトルで、この作品を制作しました。まさに魂を画面に入れ込んだのです。

 画面には、ダイバーが潜行できないほど深いところで、人知れず、ひっそりと咲いている一群の花が描かれています。深い悲しみも喜びも何もかも、一切合切を内に秘め、花として結実させている様子がうかがえます。一群の花の姿がたとえようもなく儚く、そして、健気でした。そのことに胸を突かれる思いがしました。

 民族の歴史を背負い、それを昇華し、芸術作品として仕上げていることに感銘したのです。やがて闇は晴れ、一群の花が地上で咲くときが来るにちがいないと思わずにはいられません。

■絵画を通してみたアジアの過去、現在、未来

 56人の作家の展示作品ざっと見て、深く印象に残った作品をご紹介してきました。①グランプリ受賞作品、②受賞しなかったけれども印象深い作品、③アジアの作家の印象に残った作品、等々です。作家の来歴もわからないまま、作品を見てきましたが、個々の画面には、アジアの画家たちの過去、現在、未来が色濃く反映されているように思えました。

 たとえば、片岡真梨奈氏の作品は、陰影もグラデーションもなく、輪郭線とマットな色遣いでモチーフが表現されていました。平面的な描き方のせいか、イラストのような味わいがあって、すべてがフラット化している現代社会の片鱗を感じさせられました。

 このような作品は、現代社会の潮流を皮膚感覚で受け止められる若者でなければ表現できないでしょう。すべてがデジタル化し、フラット化していく現代から未来にかけての文化を、この作品から読み取ることができます。

 ワッレン真由氏の作品は、スケッチ風に子どもの顔が画面いっぱいに表現されており、インパクトがありました。一瞬のヒトの表情を捉えるにはスケッチ風の粗さがマッチしていたのです。ただ、ヒトの顔は情報量が多く、クローズアップ画面にすると、それだけアラも目立つので注意する必要があると思いました。

 Le Than Thu氏の作品もヒトの顔をモチーフにしていますが、こちらはさまざまな色を重ね、厚塗りした絵具をナイフで削るという手法で描かれています。荒削りな中に、繊細さが感じられ、現代社会特有の都会的で洗練された文化を感じさせられました。

 Wai Oo Mon氏の作品は、技法をしっかりマスターしたうえでモチーフが表現されており、安定感がありました。この作品がいつ制作されたか知りませんが、現在、ミャンマーは大変な状況に置かれています。

 これまでもおそらく、ミャンマーにはさまざまな事変があったのでしょう。そのような社会状況下では、この作品で描かれたような平穏な日常が何よりも大切なのだと思います。そう思って、改めてこの作品を見ると、廊下に射し込む陽光の柔らかさ、突き当りに置かれた木の葉の輝きが丁寧に描かれており、いまさらながら、画題の持つ深淵さに気づかされます。

 Aung Thu氏の作品も同様です。木々や葉の描き方が優しく、気持ちが和みます。強烈なはずの陽光が柔らかい光に置き換えられ、透明水彩の特徴を活かしながら、平穏な日常生活の大切さが訴えられているような気がします。

 そして、溝口赫舎里氏の作品からは、失った文化への哀惜が感じられます。群青色を基調とした画面から、深く沈潜せざるをえない文化が表現されているように思えました。一方、花の中心一体は金粉が散らされて明るく輝き、やがては復活するという願いが込められているように見えます。

 会場にはこれ以外にさまざまな作品が展示されていました。伝統的技法で表現された作品もあれば、新たな表現世界を求めて技法や色遣いに工夫を凝らしている作品もありました。

 なにしろ出品者の32%がアジアの作家だったのです。それだけに、作品の端々に作家が生きた時代や社会の文化が顔をのぞかせており、とても興味深い展覧会でした。今後も継続して、このような展覧会が企画されることを期待しています。(2021/05/02 香取淳子)