■第二帝政時代に台頭してきた印象派の画家たち
第二帝政時代は、アカデミズムに対抗する画家たちが台頭してきた時期に当たります。前回は、ピサロやリュスの作品をご紹介しましたが、彼ら以外にも、多種多様な画家たちが登場し、新たな画題を見出し、斬新な技法で、表現運動を展開していました。
彼らは次々と、産声を上げ、アカデミズムが主導してきた絵画の見直しを迫りました。光がもたらす色や影、形状の変化を踏まえ、見たまま、感じたまま、受けた印象をそのまま表現することに意義を見出すようになったのです。
いわゆる印象派の画家たちの登場です。
産業革命を経て、さまざまな領域で、技術革新が進みはじめていました。画家にとっての大きな技術革新は、チューブ入り絵の具が開発されたことでした。チューブ入り絵具があれば、なにもアトリエにこもって描く必要はありません。
画家たちは、積極的に戸外に出かけ、心に残る画題を見つけては、思うままに絵を描くようになりました。戸外で直接、見たまま、感じたままを描くようになったのです。以来、画家たちはさまざまなところに美があることに気づき、作品化しようとしました。
その一つが自然の風景です。
これまではメインモチーフの背景でしかなかった自然の風景が、実は、メインモチーフそのものになりうることに気づきます。そして、風景が陽光の影響を大きく受けること、さらには、風や空気などを間接的に表現できることにも気づくようになります。
画家たちに意識革命がもたらされたのです。それに伴い、新たな題材が次々と発掘されました。
手の届くところにある身近な自然、市井の人々、日常の光景など、これまでなら、画題になると思えなかったものが、モチーフとして取り上げられ、描かれるようになりました。
これまで取り上げられてこなかったモチーフに、新たな光を当てて、作品化しようとする画家もいれば、科学的な知見を踏まえ、新たな画法を生み出した画家もいました。
技術革新によって、人々の生活が少しずつ変わり、それに合わせて、人々の価値観も変化しつつあった時代でした。画家たちもまた、そのような時代の変化に適応しようと模索しはじめていたのです。
陽光や風、空気などに、生成の妙を見出した彼らは、パリの街の破壊と創造の中に、躍動感と未来を見出しました。
ちょうどその頃、ナポレオン三世が構想してきたパリの大改造計画が、オスマンの手を経て、着々と進められていました。近代化に合わせ、パリの街も構造的に改造する必要があったのです。
もちろん、パリ大改造に伴う街の変化は、画家たちにとって恰好の題材になりました。
■拡張するパリ
第2帝政期は、臭くて小汚く、不衛生だったパリの街が、オシャレで鑑賞に堪える街へと大きく変貌しようとしていた時期でした。
至るところで、スクラップ・アンド。ビルドが展開されていました。古いものが壊され、新しいものに置きかけられていく過程は、画家たちの創作意欲を限りなく、刺激しました。
それらは激動する時代そのものであり、時代が進む方向性を指し示すものでもありました。彼らにとって、変貌していくパリの街路や建物、道行く人々を描くことは、目に見える時代の変化を捉えることであり、目に見えない時代精神を汲み取ることでもあったのです。
パリは道路網や鉄道網によって、整備され、拡張されていきました。
この時期、台頭してきた多くの画家たちの中で、ユニークなのが、カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)です。パリで生まれ、パリで育った画家です。一般にはあまり知られていませんでしたが、20世紀末ごろから、再評価されはじめた画家です。これまではもっぱら、印象派の画家たちの支援者として、あるいは、彼らの作品のコレクターとして、その名を馳せていた人物でした。
そのカイユボットの作品を通して、パリ大改造時代の人々の生活や建物、街の様子を見ていくのも、一興でしょう。
今回はとくに、カイユボットならではの画題を取り上げ、当時の社会状況を見ていくことにしたいと思います。
まずは、カイユボットがどのような画家だったのか、その出自から探ってみたいと思います。
■カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848 – 1894)とは?
カイユボットは1848年8月19日に、パリ10区のフォーブル・サン・ドニ通りの自宅で、生まれました。父親のマルシャル・カイユボット(Martial Caillebotte, 1799–1874)は、軍隊にシーツや軍服などを納入しており、巨額の富を築きあげていました。親から事業を継承した経営者だったのです。
その一方で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもありました。富裕者であり、知識人であり、行政の一角を担う重要人物でもあったのです。
ところが、莫大な富と名声、権力を手にしていながら、彼は家庭生活には恵まれておらず、妻とは2度も死別していました。3度目の妻であるセレステ・ドフレネ( Céleste Daufresne, 1819–1878)との間に生まれたのが、今回取り上げる、画家のギュスターヴ・カイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)です。49歳の時に生まれた息子でした。
その後、カイユボットには二人の弟、ルネ(René , 1851-1876)とマルシャル(Martial, 1853-1910)ができました。父親は20歳も年下の妻との間で、2、3年おきに3人の息子を授かったのです。老境にさしかかった時の子どもたちですから、さぞかし嬉しかったことでしょう。
子どもたちが健やか育ってくれることを願ったのか、父親は、パリ南郊のイエールに広大な地所が売りに出されると、すぐさま購入し、別荘として活用できるようにしました。1860年のことでした。
息子たちは12歳、9歳、7歳になっていました。さまざまなことに興味を持ち、冒険を好むようになる年ごろでした。父親はおそらく、子どもたちに、豊かな自然に触れて、のびのびと過ごせる環境を与えたいと考えたのでしょう。
当時、パリは至るところで工事が行われており、土埃が舞い上がっていました。街は四六時中、騒然としており、落ち着いた生活は望めませんでした。ナポレオン三世がオスマンを指名してパリ大改造に着手してから、すでに7年も経っていましたが、それでも、まだ、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返されていたのです。
子どもたちの生育環境として、当時のパリは決して好ましいものではありませんでした。父親がパリ郊外の邸宅を迷うことなく購入し、別荘として活用したのは当然のことであり、賢明なことでした。
もっとも、父親がこの邸宅を購入したのは、ちょうどパリからイエールまで鉄道が敷かれ、汽車が開通したからだという意見もあります(* https://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/201902/montalembert.html)。
現在、パリ・リヨン駅からメルン(Melun)行きのRER D線に乗れば、約30分でイエール(Yerres)駅に到着します。当時はもっと時間がかかったのでしょうが、汽車に乗れば、パリからも気軽に訪れることができ、自然を存分に楽しむことができるエリアだったのです。
育ち盛りの子どもたちにとっては恰好の別荘地でした。思いっきり身体を動かして、川や農園で遊び、伸びやかな感性を育んでいきました。自然から触発されることも多かったのでしょう、カイユボットは、全作品の三分の一以上をここで描いたといわれています。
イエールの別荘が、カイユボットに自然との触れ合いのきっかけを与え、世界観を育み、創作欲を喚起したことは確かでした。
イエールは一体、どんなところだったのでしょうか。
■イエール(Yerres)の別荘
一家は夏になると、このイエールの別荘で過ごすようになります。今も残る瀟洒な邸宅があります。
(*https://sumau.com/2024-n/article/1532)
約11ヘクタールもの敷地内に邸宅が建ち、英国式庭園があるかと思えば、農園があり、傍らにはイエール川も流れています。子どもはもちろん、大人も自然を存分に楽しめる仕様になっていたのです。
しかも、この邸宅は改修されて、古代建築風の列柱や列柱回廊などが施されていました。古代文化を偲びながら、日常生活を堪能できる、贅を尽くした造りになっていました。
もっとも、若いカイユボットが興味を示したのは、邸宅を取り巻く豊かな自然でした。初期作品のほとんどがここで制作されています。とくに、川をモチーフにした作品はいくつも残されています。馴染みの場所であり、絵心を刺激するものがあったのでしょう。
それでは、若いカイユボットを惹きつけたイエール川は一体、どのような趣の川だったのでしょうか、作品を見る前に、まず、写真で確かめておくことにしたいと思います。
(* https://ovninavi.com/propriete-caillebotte/)
川の両側を木々が生い茂り、うっそうとした状態になっています。川面には木々の葉が映り込み、緑色に見えます。その緑色の川が大きく蛇行した先に、カヌーが小さく見えます。おそらく、当時も、これと同じような光景だったのでしょう。
カイユボットはここで川面を眺め、時に泳ぎ、時にカヌー遊びをして、川と戯れていたのでしょう。遊びの場であり、観賞の対象にもなりえた川だったことがわかります。上の写真からは、当時の様子をありありと思い浮かべることができます。
それでは、カイユボットはこのイエール川をどう描いたのか、特色のある3つの作品を選び、年代順に見ていくことにしましょう。
●《イエール岸のヤナギ》(Saules au Bord de l’Yerres、1872年)
イエール川の岸辺に揺れるヤナギを捉えた作品です。
(油彩、カルトン、31×40㎝、1872年、所蔵先不詳)
水面や木々、川辺の小道が、独特の筆致で描かれています。粗さが残っていますが、構図はユニークで、興趣があります。ヤナギを通して陽光が洩れ、川面に落ちて輝く様子を描いているところに、印象派の影響が感じられます。
カンヴァスではなく、カルトン(厚紙製の画板)に描かれていますから、ひょっとしたら、習作段階の作品だったのかもしれません。制作されたのは1872年、エコール・デ・ボザールに入学する前でした。画家を志し、レオン・ボナの画塾に通っていた頃の作品ではないかと思います。
カイユボットの経歴をみると、1870年にエリート養成機関であるリセ・ルイ・ル・グラン(Lycée Louis Le Grand)を卒業し、卒業とともに弁護士免許を取得しました。ところが、弁護士として働く間もなく、徴兵されて、普仏戦争(1870年7月19日から1871年5月10日)に参加しています。帰還後、本格的に絵画の勉強を始めた時期に描かれたのが、この作品でした。
晴れた日のイエール川が、粗いタッチで捉えられています。おそらく、カイユボットが絵心を刺激された光景をそのまま、カルトン上で再現しようとしたのでしょう。小道や川面を照らす陽光の描き方にカイユボットの思いが感じられます。
ところが筆の動きに滑らかさがありません。カンヴァスとは違って、カルトンに描いたからでしょうか。とくに、小道や川面に降り注ぐ陽光の描き方がぎこちなく、不自然さが目立っています。
絵を学び始めて間もない時期に描かれたせいか、あるいは、カルトンのせいか、こう描きたいという思いと、実際に表現された画面とがマッチしていないのです。
それから3年後に、カイユボットは、《イエール、雨の効果》(1875年)という作品を描いています。画面の隅々にまで神経が行き届き、画力が向上していることは明らかです。
● 《イエール、雨の効果》 (L’Yerres, effet de pluie、1875年)
どの季節に描かれたのかはわかりませんが、川面の表情が実に、情感豊かに表現されているのが印象的です。
(油彩、カンヴァス、80.3×59.1㎝、1875年、Eskenazi Museum of Art所蔵)
前景に小道を配し、中景にイエール川、そして遠景に川べりの木立を配するという画面構成になっています。
手前の小道を見ると、木枠でしっかりと囲われています。おそらく盛り土で造った小道なのでしょう、崩れ落ちないように、しっかりと木製の枠で固定されています。明らかに人工的に整備された川だということがわかりますが、そのせいで、イエール川がまるでプールのようにも見えます。このイエール川が、別荘の敷地内を滔々と流れているのです。
川べりの小道には、草も生えていなければ、小石も転がっていません。しかも、どちらかといえば、マットな茶色が使われています。いかにも人工的に造られた小道だということがわかりますが、それだけに、木立の緑や、川面に映りこんだ木々の緑の陰影が際立って見えます。対比の効果といえるものなのでしょう。
そういえば、背後に並ぶ木立の中に、茶色の小舟が見えます。手前の小道からは川を挟んで真向かいになります。緑で覆われた対岸のアクセントになっており、手前の小道と呼応した色構成になっていることに気づきます。
興味深いことに、手前の茶色の小道は、三角形に切り取った格好でレイアウトされています。この斜めのラインが、中景に描かれた川面の左方向に向かうラインと呼応し、遠景で描かれた木立の縦のラインを印象付けています。これらのラインが、一見、雑多に見える画面全体を構造的に安定化させていることがわかります。
小道から小舟にいたる縦のラインに目をむけると、川面には、大小いくつもの波紋ができており、雨がもたらすしっとりとした情緒が丁寧に描き出されています。カイユボットがもっともアピールしたい箇所は、おそらく、このラインなのでしょう。
ごく自然に波紋が際立つよう、認識されやすい色構成にされています。
たとえば、川の両側は緑色で覆われていますが、川の中ほどには、木立から漏れる鈍い陽光が注がれ、白濁して見えます。その川面に、木立の幹がくっきりと映り込み、そこにも、たくさんの波紋が描かれています。自然の生成の仕組みに鑑賞者が気づくように、さり気なく色構成されているのです。
こうして大小さまざまな波紋が描かれ、それらが幾重にもつながって、川面に豊かな表情を添えています。まるで生き物のように、生まれては消え、消えては生まれる様子が捉えられているのです。自然界ならではの生成過程が見事に表現されており、画面から動きとリズムが伝わってきます。
小道を川と木立の間に、雨を介在させることによって、自然界ならではの絶妙な調和を生み、情感豊かな世界を創り出していたのです。画面からは、雨がもたらす余韻のある風情が感じられます。
興味深いのは、カイユボットの着眼点です。
カイユボットは、雨が降ることによって、川面に起きる波紋に着目しました。そして、画面構成、色構成を練り上げ、雨が醸し出す風情を情感豊かに描き出すことに成功しました。画題を発見する着眼力、観察した結果を的確に表現する力、そして、なによりも絶妙な画面構成にみられるきめ細かな感性と美意識に驚嘆させられました。
この作品は1875年に制作されました。《イエール岸のヤナギ》に比べ、わずか3年ほどの間に、カイユボットが抜群の表現力を発揮し、作品化する力を身につけていたことがわかります。
この作品からは、カイユボットの豊かな知性と感性、先進性や近代性を感じざるをえません。
川面にできる無数の波紋が、この作品のメインモチーフです。背後に整然と並ぶ木立の幹、そして、手前の小道は、サブモチーフといえるでしょう。それらの主要なモチーフの中から、円形、直線、縦のライン、斜めのラインなどを掬い上げ、画面上に表現しました。こうして自然に生み出された幾何学模様をさり気なく画面に埋め込み、見事な調和を図ることができたのです。
このような作品を生み出すことができたのは、カイユボットが愛しみの気持ちを持ってイエール川に接してきたからでしょう。そして、この作品によって、彼は、イエール川が観賞に耐える川であることも示しました。
もちろん、イエール川は身近な遊びの場でもありました。
カイユボットは、川を楽しむ人々の姿を捉えた作品もたくさん残しています。その中の一つ、印象に残った作品をご紹介しましょう。
●《イエール川のカヌー》(Périssoires sur l’Yerres、1878年)
蛇行するイエール川を、2艘のカヌーが静かに前進している様子が描かれています。
(油彩、カンヴァス、157×113㎝、1878年、レンヌ美術館蔵)
画面を見て、真っ先に目に留まるのが、白いシャツを着た漕ぎ手たちの後ろ姿です。手前の男性が大きく、先を進む男性が小さく描かれており、遠近法にのっとった画面構成になっています。
2艘のカヌーは競うふうでもなく、ゆっくりとオールを漕ぎながら進行しています。彼らが進む前方を見ると、まるで行く手を阻むかのように、川辺の木々が両側から、深く枝を傾け、川を覆っているように見えます。
木々の葉は浅黄色に色づき、それが川面に映りこみ、川と川辺が混然一体となって、辺り一面を柔らかく包み込んでいます。淡く柔らかな色彩が、画面全体に広がる中、所々に白が配されており、興を添えています。これまで見てきた2作品とはまた別の興趣が感じられます。
爽やかな印象があるのです。
カヌー周辺は白く波打ち、進行方向の川面もまた、白く輝いています。こちらは木陰から射し込む陽光を反映したものなのでしょう。浅黄色を基調に、所々に白をアクセントに使って、画面が色構成されているのです。そのせいか、初夏の爽やかさが感じられます。
この作品で印象的なのが、白の使い方です。
まず、漕ぎ手が着用している白いシャツ、そして、カヌー周辺の白い水しぶき、さらには、陽光に輝く白い川面が印象に残ります。まるでこれらの白を通して、イエール川の魅力と存在意義を示しているのではないかと思えるほどでした。
この作品でカイユボットは、イエール川が、遊び場であるばかりか、自然との触れ合いの場であり、季節を観察し、観賞する場でもあることを表現していたのです。
気になるのは、カイユボットが、白いシャツを通して、漕ぎ手の肩と上腕の筋肉をかたどるように描いていることでした。鍛え上げられた筋肉は、まるで労働者の肩のように盛り上がっています。ところが、白シャツの袖から下の腕は白く、柔らかそうです。
見るからに、生計を立てるために肉体を酷使する必要のない人々の身体でした。おそらく、カイユボットの友人たちなのでしょう。白いシャツの盛り上がりが示すものは、カヌー遊びによって手にした筋肉質の身体だったのです。
カイユボットが見たままの情景を描いた画面から、彼らの生活の一端が見えてきました。別荘生活を楽しむことができる富裕層の生活です。第2帝政時代の特権階級であり、カイユボットだからこそ、描くことができた光景です。
実は、カイユボットが画家としてそれほど知られていなかった理由の一つに、彼自身、画家として生計を立てる必要がなかったということがあります。父親から莫大な資産を受け継いだ彼は、画家として収入を得る必要がなく、積極的な売り込みをしなかったからでした。
画家として身を立てる必要のなかったカイユボットは、印象派の画家たちの生活を支えるコレクターとして、もっぱら彼らの作品を購入していたのです。
それでは、再び、イエールの別荘に戻ることにしましょう。
カイユボットは、イエール川以外に、邸宅の周辺を描いた作品もいくつか残しています。その中に、《田舎のポートレート》という作品があります。当時の女性たちの生活を伺い知るには格好の作品なので、ご紹介しましょう。
●《田舎のポートレート》( Portraits à la campagne, 1876年)
カイユボットが、イエールの邸宅を訪れた親戚の女性たちを描いた作品です。タイトルは、《田舎のポートレート》です。
(油彩、カンヴァス、95×111㎝、1876年、バロン ジェラール芸術歴史博物館蔵)
邸宅の脇で、年齢の異なる4人の女性がそれぞれ、思い思いの作業をしている姿が描かれています。刺繍をしている者もいれば、読書をしている者もいます。家事から解放された午後のひととき、女性たちが庭に出て、好きなことをしている様子が捉えられています。
手前に描かれているのは、カイユボットの従妹のマリー(Marie)です。水色のドレスに身を包み、刺繍に余念がありません。上着の裾やスカートの裾にフリルがあしらわれており、普段着とはいえ、上質の衣服を着用していることがわかります。俯き加減の横顔といい、刺繍を施す手といい、若い女性らしい乳白色の肌が印象的です。
彼女の後ろに見えるのは、年配の女性たちで、やはり黙々と刺繍をしています。刺繍は当時の女性たちの手すさびであり、趣味であり、一種の娯楽だったのでしょう。老いも若きも一様に、手元を見つめ、指を細やかに動かしているのが印象的です。
もっとも、遠くに描かれている女性は読書をしています。年配の女性で、やはり黒っぽい服を着ていますが、ただ一人、皆から離れるようにして、読書しているのです。当時、女性が本を読むのは一般的な趣味とはいえなかったのでしょう。ひょっとしたら、変り者扱いされていたのかもしれません。彼女は画面の一番奥に配置されていました。
彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちはそれぞれの趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。
彼女たちの背後には、美しく整えられた庭園が広がり、赤い花が咲き誇っている花壇もあります。戸外ならではの快適さとさわやかさ、自然の豊かさに包まれて、彼女たちは午後のひとときを趣味に没頭しています。富裕層の女性ならではの日常の風景なのでしょう。
第二帝政時代の富裕層の生活の一端を物語る光景ともいえます。
カイユボットは富裕層の子弟としてパリに生まれ、育ちました。12歳のころには、イエールに別荘を持ち、夏はそこで過ごすのが恒例となっていました。第2帝政時代を特権階級の子弟として過ごしたのです。カイユボットだからこそ、この作品を描くことができたといえます。
この作品は、1877年4月にパリで開催された第3回印象派展で発表されました(* https://fr.wikipedia.org/wiki/Portraits_%C3%A0_la_campagne)。
さて、イエールの別荘には、帝政時代の富裕層の生活の残滓をいくつも見ることができます。一体、どのようなものだったのか、写真を通してみてみることにしましょう。
■イエールの別荘に残された、帝政時代の面影
カイユボットが描いたのは、邸宅の外でしたから、背後に庭園の一部を見ることができただけです。邸宅の内部は一体、どうなっているのでしょうか、写真で確かめてみることにしましょう。まずは、リビングです。
(* https://hirokokokoro.livedoor.blog/archives/19579017.html)
シャンデリア、テーブル、壁に掛けられた絵画、食器、いずれも贅を凝らしたもので、豪華なことこの上もありません。調度品を見るだけで、第二帝政時代の富裕層がいかに贅沢な生活をしていたのか、その一端を偲ぶことができます。
次に、両親の主寝室を見てみることにしましょう。主寝室の設えを見れば、この別荘がどれほど豪華なものであったか、一目瞭然です。
(* https://crea.bunshun.jp/articles/-/21403?page=2)
カーテンといい、ベッドといい、ジュータンといい、まさに王侯貴族の寝室です。
ちなみに、この写真のキャプションには、帝政様式と書かれていました。帝政時代の様式を踏まえて、造られた寝室だったのです。そういえば、窓際の壁にナポレオンの絵が飾られています。
カイユボットの父親は、ナポレオンを信奉していたのでしょう。皇帝を頂点とした富裕層が好んだ様式に合わせ、寝室を設え、彼らが好んだ調度品を身の回りに置いていました。父親が、帝政時代の為政者の価値観を内面化していたことがわかります。
さて、この主寝室で目を引かれるのが、天井に接して掲げられた、威容を誇る黄金の鷹像です。ベッド側のカーテンの上に設置されています。この豪華な像は、権力こそが富の源泉であることを象徴しているように思えます。そして、近代化を推進しながらも、往時の贅沢を忘れられない第2帝政時代を端的に示すものでもあるように見えます。
カイユボットの父親は、王族でも貴族でもありませんでしたが、知識階級であり、富裕層でした。時代の流れに敏感で、行動力があり、時代を動かすエネルギーを持った新興階級の一人でした。
その息子で、画家を志したのが、カイユボットです。
今回、彼の作品を4点、取り上げてきました。そこから見えてくるのは、時代の動きを吸収しようとする心構えであり、富裕層の間で垣間見える不安感であり、安らぎの源泉としての、女性たちの旧態依然とした生活習慣でした。(2024/8/31 香取淳子)