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子どもの日:ショウブは私たちに何をもたらせてくれていたのか。

■子どもの日の入間川
 ゴールデンウィークだというのに、街角は人影もまばらで、閑散としています。ちょっと前まではスーパーでよく見かけていた子どもの姿も、入店規制されるようになったせいか、最近はほとんど見かけなくなりました。誰もが家に引きこもっているのでしょうか。

 それでも、スーパーではショウブが売られていました。子どもの日が近づくと、必ず、店頭に並ぶ季節商品です。入口付近に置かれているのを見かけると、わたしは、半ば条件反射的に、手を伸ばしてしまいます。

 手にした途端に、鼻を衝くのが、ちょっとクセのあるショウブの匂いです。他では経験したことのない、あの独特の香りに誘われるように、私の脳裏に、実家のヒノキの浴槽に浮かべられたショウブの葉が蘇ります。

 毎年、子どもの日になると、母はショウブを湯船に入れ、子どもたちを入浴させていました。ショウブ湯に浸かると、年中、健康でいられると言いながら、長いショウブの葉を湯に浮かべるのです。

 子どものころの私は、ショウブの匂いがあまり好きではありませんでした。ところが、母が毎年、子どもの日になると、決まってショウブ湯を使わせるので、いつしか、当然と思うようになってしまいました。

 母は年中行事を大切にする人でした。子どもの日に、ショウブ湯や粽、柏餅を欠かすことはありませんでした。ショウブにしても、粽や柏の葉にしても、どれも香りの強い植物です。とくに独特の香りを放つのがショウブでした。

 スーパーでショウブを見かけると、つい、買い求めてしまうのは、おそらく、ショウブが放つあの独特の香りのせいでしょう。あの香りがトリガーとなって、過ぎ去った子どもの日を再び、甦らせ、息づかせてくれるのです。

 5月5日、入間川遊歩道を訪れてみました。

 並木の緑は、わずか数日のうちに、いっそう濃くなっていました。時が駆け足で過ぎ去っていったのをこの目で確認しているようでした。この季節は葉の色や形、大きさが激しく変化します。可視化されているだけに、いっそう、時の過ぎるのが速いように思えるのでしょう。

■シャガ
 入間川遊歩道を歩いていると、路辺に小さな菓子箱が置いてありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 菓子箱の中には、引き抜いたばかりの草のようなものがいくつも入っています。そういえば、以前、ここには、スイセンの球根が置かれていたような気がします。

 足を止めて、改めて見てみると、「どうぞご自由に シャガ」と書かれた紙札が添えられています。この草のようなものは、おそらく、「シャガ」という植物なのでしょう。

 すぐさま、スマホで検索してみると、アヤメ科の植物で、多年草だと説明されており、花弁の写真が掲載されていました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 模様入りの見事な花弁です。ただの草がこんなに綺麗な花を咲かせるようになるのでしょうか・・・。だとすれば、きっと、この辺に生えているはずだと思い、周辺を探してみました。

 道路に降りてみると、土手にスマホで見たのと似たような花が咲いているのを見つけました。


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 こちらは白ではなく、青紫ですが、ひらひらした花弁の形状が似ています。近づいてみることにしましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 こうしてみると、遠目には似ているように見えましたが、近づいて見比べてみると、なんだか少し違うような気がします。花の形状や模様が明らかに異なっています。シャガは模様入りと白の花弁が交互に組み合わされていましたが、こちらはそうではなく、縦に繋がって花が咲いています。しかも、シャガにはあった黄色と後の細かい斑点模様が、こちらにはないのです。

 ひょっとしたら、別の花かもしれません。気にしないで歩き進めることにしました。

■川辺で遊ぶ子ども
 川の方から子どもの声が聞こえてきました。見ると、河川敷には子どもや大人が数人、何やらのぞき込んでいます。川面に彼らの影が映り込み、のどかな光景が見られました。

 その近くに、青い小さなテントのようなものが見えます。どうやら、傍らで大人が座り込んでいるようです。ひょっとしたら、テントの中で子どもが休んでいるのかもしれません。


(図をクリックすると、拡大します)

 新型コロナウイルスのせいで、外出自粛が続いています。学校は休校になり、図書館、遊園地、公園も閉鎖です。いま、子どもたちの行き場はどこにもないのです。だからといって、いつまでも家に閉じ困っているわけにもいきません。親は思案の末、子どもの日ぐらいは・・・、という思いで、河原に家族で繰り出してきたのでしょう。

 河川敷には、のびやかな子どもたちの声に交じって、大人の声が響いていました。

 少し歩くと、川の中に入っている子どもがいました。周囲に保護者のような大人はいませんから、おそらく、地元の子どもたちなのでしょう。


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 それぞれ網のようなものを持ち、夢中になって、川面を覗いています。小魚でも獲っているのでしょうか。

 しばらく佇んで、子どもたちの姿を見ていると、桜木の葉を通して快い風がさぁーと吹いてきます。それがなんともいえず爽やかで、久しぶりに、気持ちが和んでいくような気がしました。

 のどかな光景が目の前に広がっており、気持ちが癒されました。

■ショウブの葉が連想させる刀身
 遊歩道に目を転じると、柔らかな陽光が、桜木の幹や枝の陰影を、路面にくっきりと刻み込んでいるのに気づきました。


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 木々の隙間から漏れた陽射しはそのまま伸びて、道路脇の草むらを柔らかく照らし出しています。まるでそこだけスポットライトを浴びたかのように、すらっと伸びた葉の形状が鮮やかに、浮き彫りにされていました。

 普段なら、きっと見過ごしてしまっていたでしょう。ところが、この時ばかりは、足を止めずにはいられませんでした。何の変哲もない草むらが陽光を浴びて、ひときわ輝いていたのです。まるで見てほしいといわんばかりでした。

 長く伸びた陽射しが、ありふれた光景を非日常の世界に変貌させていました。際立っていたのが、手前に群生している草です。一本、一本、根本から明るく照らし出されており、まるで剣のような鋭利さを見せています。

 周囲の草むらに沈み込み、存在感もなく群生していた葉が、陽光に照らされた途端に、主役になりました。まるでスポットライトを浴びているかのように、その葉の長さと形状がくっきりと浮き立ち、刀身のようでした。

 近づいてみると、先日、スーパーで買い求めたショウブとそっくりでした。背が高く、葉が剣のような形状をしています。手で触れてみると、しっかりとした厚みがあり、まさしく、先日、浴槽に浮かべたショウブと同じ感触でした。


(図をクリックすると、拡大します)

 刀身のような葉を見ていると、なぜ5月の節句を男の子の節句としたのかがわかるような気がしてきました。

 ショウブ(菖蒲)の形状は刀身を連想させるばかりか、ショウブは「尚武」(武道)と発音が同じです。

 慶應大学教授の許曼麗氏は、「菖蒲」の読み方について、次のように説明しています。

「萬葉集には菖蒲を詠んだ歌が十三首ある。ところが、この菖蒲について、古代の歌人たちは「あやめ」と混同していたようである。萬葉歌においては、表記は「昌蒲」、「菖蒲」、「安世女(売)具佐(左)」など様々であるが、いずれも、アヤメ、又はアヤメグサと読ませている。菖蒲(草)を詠んだ歌も、すべてアヤメ(グサ)と読ませている」(※ 「和歌が語る端午の様相」『慶應義塾大学商学部創立五十周年記念日吉論文集』、pp.97-108. 2007年)

 古来、菖蒲はアヤメと呼ばれてきたと許氏はいいます。それが、鎌倉時代になって、ショウブと呼ばれるようになったそうなのです。次のように記しています。

「鎌倉時代になり、菖蒲は「アヤメ」ではなく、「ショウブ」すなわち、尚武という意味が加えられ、伝来の歳時行事と渾然一体となり、現代生活の中、我々もよく知っている単語の節句の形を成したのである」

 古来、「アヤメ」と呼ばれてきた菖蒲が、鎌倉時代になってから、尚武という意味を付加するため、「ショウブ」になったと指摘しています。武家社会の価値観を反映し、「菖蒲」の呼称に変化が生じたというのです。5月5日を男の子の節句として武者人形を飾る風習もこれで理解できました。

 そもそも端午の節句は、中国から伝来した生活行事でした。

 許氏は、「五月は悪い月である。そのため、禁忌が多い」とし、「五色の糸で香袋を縫っては体に付けたり、粽を食べたり、雄黄酒を額に塗ったりする。または艾草で人形(艾人)を、菖蒲で蒲剣を作って家の扉に飾る」と記しています(※ 前掲)。

 日本では五月の節句は子どもの日、あるいは男の子の節句とされていますが、中国では五月は忌月とされており、端午節には避邪除災の行事が集中しているようです。中国から伝来してきた生活文化も、長い年月を経るうちに、日本社会に合うようアレンジされてきたのでしょう。

 ショウブは古来、薬効があるとされてきた植物の一つでした。そのせいか、ショウブ湯に入るという風習はいまなお、続いています。中国から伝来してきた行事のうち、健康志向のものは日本の生活文化として根付いているといえるのかもしれません。
 
■マムシに注意!
 遊歩道をさらに歩いていくと、巨大な桜木の下に、妙な立て看板がありました。


(図をクリックすると、拡大します)

 「マムシに注意!」と大きな赤い字で書かれています。これを見た途端、こんなところにマムシが出るのかと驚いてしまいました。マムシの名前は知っていますが、私はこれまで、一度も見たことはありません。

 それだけにこの看板にはちょっとした違和感を覚えてしまったのですが、桜木の下で生い茂る草むらを見ているうちに、ひょっとしたら、本当にマムシが出るのかもしれないと思えてきました。

 というのも、江戸東京博物館で開催された「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」という展覧会で見た、子どもの腹かけに蛇の絵が描かれていたことを思い出したからでした。

 この展覧会を鑑賞したのは2017年4月8日でしたが、いまだに印象に残っています。特に印象に残っているのが、子どもの腹かけでした。(※ http://katori-atsuko.com/?s=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%80%80%E5%8C%97%E4%BA%AC)

 中国では端午の節句になると、「五毒肚兜」といわれる腹かけを子どもたちに着用させ、健康を祈願するといいます。腹かけには「五毒」とされる「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」が図案化され、刺繍されています。

「五毒」がわかりやすくデザインされた腹かけをネットで見つけましたので、ご紹介しておきましょう。


(図をクリックすると、拡大します)

 なぜ、端午の節句にこのような図案の腹かけを子どもに着用させるのか、私は不思議でなりませんでした。さっそく、百度で調べてみました。すると、概略、次のような説明が出ていました。

 5月になると、ヘビ、サソリをはじめとする害虫が草むらから出てきます。子どもたちもまた、陽気になった戸外で遊ぶようになります。ですから、子どもたちが害虫から危害を加えられる危険性が高くなります。そこで、中国では、子どもや親に害虫に気をつけるよう、警告するために、あのような図案の腹かけをさせる風習が生まれたというのです。

「マムシに注意!」という立て看板を見て、ふと、江戸博物館で見た腹かけを思い出し、中国の生活文化の実用性、実利性を感じました。

 中国では端午の節句になると、子どもに「五毒肚兜」の腹かけを着用させる一方で、ショウブ湯に入れて、健康を祈願してきました。日本では端午の節句には武者人形を飾り、鯉のぼりを立て、ショウブ湯に入ります。中国の年中行事のうち、ショウブ湯を今に残る生活文化として取り入れてきたのです。ショウブには薬効があることが知られていたからでしょう。

 ショウブが薬草として重宝されていたことは、和歌にも表現されています。

■歌に詠まれた薬猟
 許曼麗氏は、「端午」という言葉の初出は、『続日本紀』の仁明天皇承和6年(839年)5月5日の項で、「是端午之節也、天皇御武徳殿、観騎射」と書かれていることを紹介しています。また、それより228年も前の推古天皇19年(611年)5月5日に、「十九年夏五月五日薬猟於菟田野、取鶏鳴時集于藤原池上以会明乃往之・・・」(『日本書紀』)の記述があるとし、端午にまつわる行事はそれ以前に中国から日本に伝わっていたと指摘しています(※ 前掲)。

 端午の節句はすでに万葉の時代には中国から伝来しており、関連行事も行われていたそうです。興味深いのは、5月5日に薬猟という行事が行われ、鹿茸や薬草を採っていたということです。時代が下るにつれ、形式的なものになり、騎射や競走馬に変わっていったようですが、薬草を採ることが宮中の行事になっていたとは、私には驚きでした。

 薬猟に関し、許氏は、次のような大友家持の歌を紹介しています。

 「かきつはた 衣に摺り付け ますらおの きそひ狩りする 月は来にけり」
(杜若 衣に摺り付け 丈夫の競い狩りする 月は来にけり)

 これは、『万葉集』に収録された歌ですが、許氏は、「杜若で染め上がった艶やかな服を着て、五月の競狩りに赴く古代人の姿が浮き出ている」と解釈しています。

 堂々とした立派な男性が端午の節句には杜若で染めた服を着て、薬猟に出かける時季が来たと詠っているのですが、私はこの句の中で、なぜ、「杜若」が使われているのかが気になりました。薬猟を歌に詠むとすれば、「杜若」ではなく、薬草の「菖蒲」ではないのかと思ったからでした。

「菖蒲」には薬効があるとされ、端午の節句に薬猟をするのはそのためだといわれていました。

 そこで、杜若と菖蒲の関係がどうなのか、調べてみることにしました。

■杜若か、菖蒲か、アヤメか
 語源由来辞典を引いてみると、杜若は、「花汁を摺って衣に染めるための染料にしていたところから、カキツケハナ(掻付花)カキツケバタ(書付花)の説が通説になっている」と説明されています。

 杜若は語源からいっても、染料としての役割が重視されていたといっていいでしょう。

 念のため、Wikipediaを見ると、杜若はアヤメ科の植物で、湿地に群生すると説明されています。写真が掲載されていましたので、ご紹介しておきましょう。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 これが杜若です。中心の花弁は直立し、周辺の花弁は垂れています。その組み合わせが興味深く、独特の美しさを生み出していました。

 入間川の土手にも、これと似たような形状と色彩の花が群生していました。


(図をクリックすると、拡大します)
 
 近づいてみると、遠目には似ているように見えましたが、こうして見比べてみると、直立している花弁の形状が異っているように思えます。

 Wikipediaで調べてみると、これと似たような花が見つかりました。


(Wikipediaより。図をクリックすると、拡大します)

 花菖蒲と書かれています。

 確かに、よく似ています。入間川の土手で咲いていたのは盛りを過ぎていますが、直立した花弁の丸みや花弁のひらひらした様子が、この花菖蒲にそっくりです。

 そういえば、花菖蒲はアヤメともいわれます。

 そこで、Wikipediaを見ると、次のように説明されていました。

 アヤメの多くが山野の草地に自生しており、他のアヤメ属の種であるハナショウブやカキツバタのように湿地に生えることは、まれである。葉は直立し、高さ40-60cm程度。5月頃に径8cmほどの紺色の花を1-3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名の元になる。花茎は分岐しない。北海道から九州まで分布する。

 また、次のようにも説明されています。

 古くは「あやめ」の名はサトイモ科のショウブ(アヤメグサ)を指した語で、現在のアヤメは「はなあやめ」と呼ばれた。アヤメ類の総称として、厳密なアヤメ以外の種別にあたる、ハナショウブやカキツバタを、アヤメと呼称する習慣が一般的に広まっている(※ Wikipediaより)

 こうしてみると、アヤメ、杜若、花菖蒲はいずれも、アヤメと呼称されていることがわかります。似たような葉や花の形状から、遠目には見分けがつきにくいからでしょう。

 Wikipediaのアヤメの項に、その見かけ方が表にまとめられています(※ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A4%E3%83%A1)。

 これを見ると、大きな違いといえば、アヤメや杜若は、花の色数が少ないのに対し、花菖蒲はさまざまな色があるということです。

 土手にはさまざまな色の花が咲いていましたが、おそらく花菖蒲なのでしょう。

■種類の豊富な花菖蒲
 再び、道路に降りて、土手を見てみましょう。遊歩道からやや下がったところにピンク系の花が群生しています。


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 背後に桜の巨木が見えます。桜の木を中心に、辺り一帯の草花が集落を形成しているかのようでした。

 中でも気になるのは、彩り豊かな花菖蒲です。入間川沿いの土手には、複雑な形状をしたさまざまな花菖蒲が咲いていました。いずれも背は高く、葉は先ほど見たショウブのように、刀身のような形状をしています。

 印象に残ったものをいくつかご紹介していきましょう。

 まず、直立しているピンクの花弁に赤紫の垂れた花弁、この色合わせが面白く、見とれてしまいました。群生しています。


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 近づいてみると、こんなふうです。


(図をクリックすると、拡大します)

 まるでアヤメのように斑紋があります。何度見ても、やはり、花菖蒲かアヤメか、見分けが付きません。黄色の斑紋があるせいか、この花からは豪華な印象を受けます。

 白と濃い赤紫の取り合わせが素晴らしい花も群生していました。


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 どこかしら気高さがあります。

 近づいてみると、ここにもやはり、黄色の斑紋が見えます。


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 背が高く、草むらにすっくと立った姿が際立っています。
 
 見渡すと、直立した青の花弁に垂れた紫の花弁という取り合わせの花もありました。


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 こちらも群生しています。

 近づいてみると、華麗な佇まいが印象的です。


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 黄色というより黄土色の斑紋が大きく、そこだけまるで金色の文様が付いているかのようでした。これもやはり成熟しており、豪華な雰囲気を漂わせています。

 花菖蒲はなんと種類が豊富なのでしょう。

 これまでご紹介したのは主に、二色で構成された花でした。クリーム色、一色で存在感を放っている花もありました。


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 直立した花弁が丸みを帯びており、遠目からはバラのように見えました。柔らかな色合いが優しさを感じさせます。手前に見える葉も背が高く、形を崩さず、刀身のようにしっかりと立っていました。

 さまざまな花菖蒲が咲き乱れている土手は、まるで個性を競う展示場のようでした。どの花も背が高く、花弁の色や形状に存在感があって、惹きつけられます。花菖蒲の形状や色彩や文様は多様で、魅力に満ち溢れていました。

■5月の節句に、ショウブの薬効を思う
 許氏は、「杜若は菖蒲(あやめ)と非常に類似した植物である。しかし、菖蒲と同じように辟邪(悪魔を追い払う)の効果があると思われたのか否かは定かではない」と記しています(※ 前掲)。

 古来、ショウブは薬草として認知され、生活に取り入れられてきました。その後、時代が下るにつれ、美しい花を咲かせる花菖蒲に人々の関心が移っていきました。隠れた薬効よりも、見た目の美しさが価値を持つようになったからでしょう。

 ショウブはサトイモ科の多年草の植物で、滅多に花を咲かせることはなく、「アヤメ」や「花菖蒲」とは明らかに異なるといわれています。特に地下茎には芳香があり、薬効があるとされています。中国ではその芳香が邪気を払い、長寿の源泉になると考えられてきたそうです。

 日本に伝わってきた当初はそのようなところに価値が置かれ、薬猟といった行事にも取り入れられていたようです。ところが、そのような行事はやがて形骸化し、今ではせいぜい、子どもの日にショウブ湯に入るぐらいになってしまっています。

 いつごろからか、薬草を生活に取り入れ、健康を維持していく生活習慣が廃れてしまったように思えます。縦断的な生活文化を伝える担い手がいなくなり、横断的なマスメディア主導の生活文化が中心になっていったせいでしょう。

 そんな今、新型コロナウイルスに世界中が翻弄されています。

 食糧の確保、防疫対策がどれほど大切なことか。様々に行動を規制され、経済的に追い詰められたいま、ようやく、縦断的に生成されてきた生活文化の価値を思い知らされているような気がします。(2020/5/12 香取淳子)

桜が散り、ツツジが咲きました。

■早緑色に染まった遊歩道
 4月16日、入間川の遊歩道に出かけると、桜の花は散り、葉桜として道の両側を覆っていました。あれほど華麗だった川辺から華やかさがすっかり失われ、まったく別の場所に来たような気分にさせられました。

 いつの間にか、遊歩道を取り囲む桜の木々が、華やかさから若さへと、アピールポイントを変貌させていたのです。

こちら →
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 可憐な淡いピンクの花は、早緑色の葉桜となっていました。もちろん、ピンクであろうが、早緑であろうが、桜花(葉)の可憐さに変わりはありません。小さく群生した葉桜は、風にそよそよと揺らぎながら、太くて黒い幹や枝を引き立てていました。軽やかに揺れる桜葉は、雄々しく伸びる幹や枝の堅固さをことさらに強調し、見事な明と暗、動と静のコントラストを見せています。

 早緑(さみどり)という表現がぴったりの光景が、目の前に開けていました。

 見上げると、小枝の先に群生する葉が風にそよいでいました。葉の一つ一つがなんと小さく、そして、なんと繊細な動きを見せているのでしょう。薄く、柔らかく、まるでその先に見える空に溶け込んでいるかのようでした。

 よく見ると、周囲と溶け合っているようでいながら、一枚一枚、その形状は意外に明瞭で、空を背景に、しっかりと自らの存在を誇示していました。

 今、何気なく、早緑という言葉を使ってしまいましたが、これほど見事に春の訪れを示す言葉はないでしょう。

 桜の花が散ったかと思えば、そっとやって来て、その葉を淡く柔らかな色合いに染め上げます。そして、いつの間にか、誰も気づかないうちに去ってしまう・・・、そんなところに、「早緑(さみどり)」の妙味があります。

 ほんのひととき、自らを輝かせるところに、なんともいえず微笑ましい謙虚さが感じられるのです。まるで春の訪れを伝えるためだけに色づくのが「早緑」です。主張しているわけではないのに、不思議な存在感があって、心惹かれます。

 5月5日、再び、訪れてみると、桜の葉はすでに、「早緑」から「緑」に変貌しつつありました。

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 これを見ると、葉が大きくなり、色合いもやや濃くなりはじめているのがわかります。群生している葉が大きくなったせいか、桜並木はうっそうとした趣をみせはじめていました。

■母が教えてくれた「さみどり」
 どういうわけか、私はこの言葉が好きで、この季節になると使ってみたくなります。使う場がなければ、ひそかに、「さ・み・ど・り」と、一語一語区切って発音してみることもあるぐらいです。

 口に出してみると、言葉の響きが優しく、柔らかく、次第に、安らぎに満ちた気持ちになっていきます。ひょっとしたら、この言葉がきっかけで、若い頃の母を思い出すからかもしれません。

 小学校に入る直前の春、母と一緒に庭にいたことがあります。ちょうど木々が芽吹き始めたばかりで、そこかしこに柔らかい新芽が小枝から顔を出していました。黄緑色に光る葉の様子を見つめていると、母はその一つを指さし、「これは、さみどり、っていうのよ」と教えてくれました。

 聞きなれない言葉だったので、不思議に思い、「きみどり?」と聞き返すと、「さみどり、よ」と、はっきりと口調で母はいいました。そして、若葉に手を触れ、「小さな緑だから、さみどりっていうのよ」と説明してくれました。

 私は「きみどり」は知っていましたが、「さみどり」はそれまで聞いたことがありません。この時、はじめて聞いた言葉でした。

 母の説明を聞いて、緑にも小さいのがあることを知って、なんだか、とても嬉しくなってしまいました。途端に、「みどりいろ」をした葉や草がとても身近に思えるようになったことを思い出します。

 どんなものでも、小さなものが好きだった私は、「小さな、みどり」という母の説明に惹きつけられました。そして、ヒトと同じように「みどり」にも、赤ちゃんや子ども、大人、老人といったものがあるのだと思うと、急に親近感を覚え、世界が広がったような気がしたものでした。

 この時期の葉の色を表現するのに、黄緑という言葉があります。ところが、「さみどり」という言葉を知ってからというもの、私にとって「きみどり」は、単に色を表現した色彩語にすぎなくなりました。音の響きが強く、しかも、「さみどり」に含まれている馥郁とした味わいも感じられず、ただ色彩情報を伝えるだけの記号でした。

 母は「さみどり」を、「小さいみどり」と説明してくれました。ところが、いま、パソコンで「さみどり」と入力すると、「早緑」と漢字に変換されて、「小緑」にはなりません。また、辞書には「さみどり」は「早緑」と登録され、「若葉や若草の緑色」と説明されています。ひょっとしたら、母は、小さな私が理解できるように、「さみどり」を「小さな、みどり」と説明してくれたのかもしれません。

 当時、母は30歳前後でした。優しく、穏やかな中に、どこか毅然としたところがありました。ちょうどこの時期の「さみどり」のような人だったといえるかもしれません。自己主張することなく、周囲と調和して暮らしていました。それでいて、決して流されることなく、そこかしこに母らしさを貫いていました。そんなところを見て、私は子ども心に、母には毅然としたものがあると感じていたのでしょう。

■桜木の間に咲くツツジ
 4月26日、木々の間にツツジが咲いていました。遊歩道には一定の間隔で、桜木の間にツツジが植えられています。そのツツジが花開くと、葉桜になっていた並木道が一転して、新たな景観を見せていました。

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 明るい陽射しを浴びて、木々や枝が遊歩道にくっきりとした陰影を落としています。ピンクがかった鮮やかな赤が、桜木の緑に華を添え、どことなく浮き立つ気分にさせてくれます。

 それにしても、なんと目に鮮やかな光景なのでしょう。

 大きく太い桜木の下に、そっと寄り添うように、灌木のツツジが咲いています。

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 つい一週間ほど前までは可憐な風情を漂わせていた桜が、いつの間にか、葉桜になり、緑が濃くなってくると、今度は、雄々しい威容を見せ始めていました。太くがっしりとした幹や枝には、時を経て、風雪に耐えてきた強さが表れています。改めて、桜には可憐さと雄々しさが共存していることがわかります。

 巨木の根元に蹲るように花を咲かせたツツジが、いま、この遊歩道の主人公です。遠くを見ると、白いツツジ、そして、その先には赤いツツジが見えます。

 まず、赤系ピンク色の花にズームインしてみましょう。

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 近づいてみると、存在を強く主張するかのように大きく開いた5枚の花弁が、ことさらに印象的です。この季節になると、どこでも見かけるツツジですが、じっと見ると、平凡ななかにも生活に根付いた美しさが感じられます。

 白い花も見事です。

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 花は大きく、花芯が数本、優雅な弧を描いています。ありふれた花なのに、こうして近づいてみると、典雅な美しさがあり、意外な存在感があります。

 中には、赤と白の花を咲かせる木を交えて植えられているところもありました。

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 こちらの花弁は開花しきっていないせいか、まだ小さく、量では圧倒されますが、花そのものの存在感はそれほどでもありません。むしろ、その後方に見える桜木の早緑色の葉が、さわやかに背後の空を染め上げているのが目につきます。

 枝先を見れば、早緑色の葉がさらに淡く、柔らかさを湛えたまま、まるで空に溶け込んでしまいそうです。枝先の辺り一帯は霞みがかったようにぼんやりとし、エッジがきわだっていないせいか、気持ちが緩み、思わずまどろんでしまいそうです。

 ふと、「みどりの空」という表現が思い浮かびました。

■みどりの空
 かつて、日本には「みどりの空」という表現があったそうです。

 国文学者の森田直美氏は、色彩語としての「みどり」の色相領域を古典文学の様々な表現を踏まえ、考察しています。結論として、古典文学の「みどり」にはブルーが含まれていた可能性があると指摘しています(※ 「古代における「みどり」の色相領域を再考する」、『中古文学』第78号、2006年12月)。

 古典文学から様々な表現が紹介されていました。その中で、興味をひかれたのが、次の句です。

 かすみはれ みどりの空ものどけくて あるかなきかにあそぶ糸遊
(霞晴れ 緑の空ものどけくて あるかなきかに 遊ぶ糸遊)

 この歌は『和漢朗詠集』415の「読み人知らず」の作品です。この歌については、うっすらと記憶に残っていますから、きっと、高校の時に学習したのでしょう。うららかな春の日の情感がとてもよく表現されています。

 糸遊というのは、陽炎(かげろう)を指します。

 霞が晴れ、天気のいい春の日には、温度が上がった地面から空気が立ち上り、ゆらゆら揺れているように見えることがあります。それを、作者は、「あるかなきかにあそぶ糸遊」と表現し、愛で、楽しんでいるのです。

 この歌からは、平安時代の人々が自然現象の中に、愛おしさや美しさを見出し、それを言葉にして楽しんでいたことがわかります。そこには自然を観察し、なんらかの価値を発見し、作品化する過程が介在します。つまり、歌を詠むという行為には、美を堪能するセンスと表現欲、高度な言語処理能力が必要なのです。平安時代の人々は、それを一種の娯楽として楽しんでいました。なんと素晴らしい文化を日本人は育んでいたのでしょう。

 入間川遊歩道の葉桜やツツジを見れば、平安人はどのような歌を詠むでしょうか。

■「さみどり」の下で感じた、小さな幸せ
 早緑の季節に、遊歩道を歩いていると、わけもなく若い頃の母が思い出され、記憶に残る平安時代の歌が脳裏を横切りました。

 暖かい陽光を背に受けてゆっくり歩き、時に立ち止まって、歩を進めているうちに、幸せな気分が満ち溢れてきました。それはきっと、「さみどり」を教えてくれた若い頃の母や、「みどりの空」を詠み込んだ平安時代の歌人が、忘れかけていた大切なものを思い出させてくれたからでしょう。

 機能性、合理性が優先され、あらゆるものが尺度化された生活空間の中で暮らしていると、色彩ですら、カラーチャートに従って認識するようになってしまいます。

 あれほど気持ちを動かされた「さみどり」は、小学校に入ると、たちまち、無いも同然になってしまいました。母が教えてくれた「さみどり」は、カラーチャートのどこにも見当たらなかったのです。

 いつしか、草や葉を表現する色は、「黄緑」「緑」「深緑」に限定されてしまいました。クレパスやクレヨンの色彩のバリエーションがこのぐらいだったからです。気持ちを揺り動かされることなく、選択し、組み合わせて表現するしかありませんでした。そのことに、子どもの頃から、なんとなく違和感を覚えていました。それはおそらく、これらの言葉が色彩を即物的に表現する語でしかなかったからでしょう。

 草や葉にもライフサイクルがあり、生きてきた時間は着実にその色に反映されます。ところが、機能的に尺度化されたカラーチャートの色彩には、その種の情報が含まれていません。幼かった私が、「さみどり」という言葉から感じ取った葉の生命を、「きみどり」という語からは感じられないのです。「きみどり」は、機能的に色彩を識別する記号でしかありません。

 そんなことを思いながら、ふと、路辺を見下ろすと、下草に埋もれるように、小さな段ボール箱が置かれていました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 近づいてみると、水仙の球根が多数、入っていました。それらの球根の間に、「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた札が添えられています。

 立ち止まって、見ているうちに、再び、幸せな気分になっていきました。(2020/5/7 香取淳子)

桜を見て、新型コロナウイルス由来のパラダイムシフトを思う。

■新型コロナウイルスが一変させた街の光景
 新型コロナウイルスがいま、世界を大きく変貌させています。メディアは日々、感染者数、死者数を報道し、人々の危機感を煽っています。一方、政府や都府県などの行政は人々に外出の自粛を求め、対面接触の自粛を要請しています。おかげで街の光景は一変してしまいました。

 通りを歩いても、道を行きかう人々はみなマスクをし、誰とも語らうことなく、足早に歩いています。見渡せば、ほとんどのお店はシャッターを下ろし、開店しているのはわずか、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどです。

 スーパーで買い物をして、清算しようとすると、いつもと違ってレジ前には透明のシールが設置されています。飛沫感染を防ぐためですが、キャッシュカードも自分で操作して支払う仕組みに変わっていました。店内では間隔を空けて並ぶよう何度もアナウンスがあり、レジ前にはラインが引かれ、待つ位置が決められています。いつの間にか、さまざまなところで非対面、非接触が徹底されていました。

 ほんの一か月ほど前は、街もこれほど閑散としていませんでした。まだお店は開いており、人々は明るく言葉を交わしながら、街を歩いていました。ところが、いまはそれが遠い昔の光景のように思えます。

 3月、4月といえば、例年、卒業式、入学式の季節です。これまでは晴れ姿の親子連れを度々、目にしたものですが、今年はそのような光景を目にすることもありませんでした。入園式、入学式、入社式など、桜とセットで行われてきた晴れの儀式も今年は行われず、ただ、桜だけが咲いて、散っていきました。

 2020年春、新型コロナウイルスが猛威を振るい、激動の様相を見せ始めています。その余波を受けて、桜が咲いて、散っていくプロセスを楽しむこともできないまま、春が過ぎていこうとしているのです。そこで、今回は、桜の開花から散るまでの様子を振り返ってみたいと思います。

 そういえば、3月29日、桜が咲いたというのに、季節外れの雪が降りました。ひょっとしたら、なんらかの予兆だったのでしょうか。

■季節外れの雪
 2020年3月29日、朝起きると、雪が降っていました。窓を開けると、辺り一面が少しずつ雪で白く覆われていくのが見えます。じっと見ているうちに、入間川の桜がどうなっているのか、気になってきました。

気になり始めると、もう居ても立っても居られません。雪が降りしきる中、西武線に乗り、桜並木を見に出かけました。酔狂だといわれるかもしれませんが、桜の季節に雪が降るなど、滅多に経験できるものではありません。出かけなければ、きっと後悔すると思い、出かけてみたのですが、決断して正解でした。

 着いてみると、入間川の遊歩道はこれまでとは違った趣を見せていました。

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 花も木も遊歩道も、いたるところ、雪に覆われていました。中には、雪の重みで枝がいまにもスロープについてしまいそうな木もありました。

 花弁もまた雪の重みで、大きくしな垂れています。見上げてみると、桜の花びらに雪が積もり、大きく膨らんで見えました。ボリューム感たっぷりで、前回見た、可憐な風情はすっかり消え失せていました。

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 路面をみると、一面に桜の花が散り、淡いピンクの道がどこまでも続いていました。風が吹き、雪が吹雪いて、花びらが散り、遊歩道を優雅な模様で飾り立てていたのです。

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 ただのアスファルトの遊歩道が、桜の花のおかげで、見違えるように変身していました。季節外れの雪と桜の花によって、辺り一帯が幻想的で、風雅な様相に変貌していたのです。

 もちろん、雪が降ったからと言って、これでもう今年の桜が終わったというわけではありません。まだ4月に入っていないのです。

■最後の輝きを見せる桜
 2020年4月6日、再び、入間川沿いの桜並木を訪れました。澄み渡った青空の下、桜の花は眩いばかりの美しさを見せていました。

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 黒く太い幹から四方八方に伸びた枝には、可憐な風情の花弁が群れたまま、軽やかに風にそよいでいます。淡いピンクの桜花は、黒く太い幹に引き立てられるように、辺り一面を明るく輝かせています。

 思わず、見惚れてしまいました。花と幹の色彩が絶妙なコントラストを見せていただけではありません。動と静、軽と重、儚さと堅固さといった具合に、想念をさまざまに刺激するコントラストが、桜の花と幹のモティーフには含まれていたのです。

 桜の花は鮮やかでありながら、清らかで、潔く、そして、可憐な風情を漂わせています。一方、黒く太い幹や枝に小さな花びらが群生する様子は妖しく、なんともいえない美しさをたたえています。

 見ているうちに、ふと、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている!」というフレーズが脳裏をよぎりました。高校生のときに読んだままですが、美しさを表現するにはあまりにも衝撃的なので印象深く、いまだにこのフレーズを覚えていたのです。

 梶井は桜の花を見て、その美しさに打たれます。その部分を原作から引用してみましょう。

「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止を澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ」(※青空文庫より)

 梶井は桜の花を、「どんな樹の花でも」と一般化しながら、生命の盛りを迎えると、それは周囲に神秘的な雰囲気を発散させるというのです。ちょうど燃え盛る生への欲求が放つ後光のようなものであり、そのオーラが見る者の心を打つといいます。桜の花には、そのような得体の知れない、輝くような美しさがあるというのです。

 梶井は、桜の花を美しいと思い、それが得体の知れなさに根差していると思うだけに、やがて不安になっていきます。

 そして、次のように解釈します。

 「おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう」(※ 青空文庫より)

 梶井は、その得体の知れない美しさの起源を、「一つ一つ屍体が埋まっている」と想像することで納得するのです。この世のものとも思えないほどの美しさには、「死」のイメージが作用しているからだと考え、理解したといっていいでしょう。

 ところが、そう解釈して納得できるようになってみれば、今度は、不安に襲われてしまうのです。ここに、梶井の美に対する複雑な心理的反応を読み取ることができます。

 梶井は、桜の花の背後に、成熟と死を想像することで、その美しさを観念的に完結させています。そして、成熟し、いま、まさに枯れようとするとき、桜は最後の美しさを見せると総括するのです。

■多義性を孕む美しさ、そして、哀れの情感
 古来、日本を代表する花として、桜は多くの人々から好まれてきました。それは、桜にこのような多義性が含まれているからかもしれません。とくに、生と死といったアンビバレントな要素を合わせもつところに、多くの日本人は哀れを感じ、美しさを感じるようになっていたのでしょう。

 さて、桜並木は所々、木々の陰を路面に落としながら、どこまでも伸びています。路面を見ていると、まるで、どこか別世界に誘われでもするかのような錯覚に襲われます。

 ふと我に返り、頭上を見上げると、すでに花は落ち、葉だけをのぞかせている枝がいくつもあります。桜の花はもはや峠を越し、華やかさを失いつつあるということなのでしょう。とはいえ、下の写真を見ると、左上の枝にはまだ多くの花弁が陽光を受け、白く光って見えます。まさに、最後の輝きを見せているのです。

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 見ていると、ふと、「花の色は 移りにけりな・・・」というフレーズが頭の中で響き渡りました。子どもの頃、百人一首で親しんだ歌で、すぐにも暗唱することができます。

 「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 これは、古今集に収録された小野小町の歌です。

 毎年、お正月を迎えると、家族で百人一首を楽しんでいました。子どもながら、「花の色は 移りにけりな」というところが気になって、すぐに覚えてしまいました。意味もはっきりとわからないまま、この歌は私の十八番でした。

 この写真の桜の木には、花が散って葉だけになった枝もあれば、まだ華麗な花弁を残している枝もあります。それを見て、脳裏をかすめたのが、この歌でした。桜を見るたび、反射的に思い出してしまいます。それは、時の経過がモノの姿を変え、存在意義すら大きく変えてしまう現実が詠み込まれているからでしょう。

 小野小町はたいそう美人だったといいます。だからこそ、時が移ろうにつれ、衰えていく容色に耐えられない悲しみを抱いたのかもしれません。

 鮮やかに開花してはすぐさま散ってしまう桜の花には、確かに、時の経過が凝縮して示されています。生(咲く)から死(散る)へのプロセスがとても短いのです。小野小町が桜にわが身を重ね合わせ、歌を詠んだのも、このドラマティックなプロセスに歌心を刺激された可能性があります。

 子どもの頃はわからなかったこの歌の意味がいま、手に取るようにわかるようになりました。大したこともできないまま、歳を重ねていくうちに、いつの間にか、容色が衰え、身体の自由も効かなくなってしまったという思い・・・。悔いてもはじまらないのですが、この歌には、高齢になれば誰しも味わうに違いない感情がとてもよく表されていると思います。

 それでは、桜並木に戻ってみましょう。

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 この写真を見ると、上の方の枝にはまだ淡いピンクの花がついていますが、下の方の枝はすでに葉桜になっています。そして、桜花や葉桜をつけた枝がやさしく風にそよいでいます。花が散った後の新芽と、散らずに残った花とが一本の樹の中でみごとに共存しているのです。

 ヒトとは違って桜は、花が散れば、すぐさま若葉が出て、早緑の輝きを見せ始めます。死(散る)と誕生(新芽)がほぼ同時に発生します。死と生が密接に結びついているのです。桜ならではの情感といえるでしょう。

 さまざまな表情を見せてくれる桜の木をみてくると、古来、ヒトが桜にさまざまな思いを託して来た理由がわかったような気がします。

 さて、桜にはソメイヨシノと八重桜があります。これまでご紹介してきたのはソメイヨシノでした。3月中旬から下旬にかけて開花します。

 入間川遊歩道には、それよりも遅く開花する八重桜も植えてありました。

■葉桜から八重桜へ
 4月15日、性懲りもなく、また、入間川遊歩道を訪れました。

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 予想通り、ソメイヨシノは完全に葉桜になっていました。よく見ると、その先に赤紫色の花が見えます。

 近づいてみると、見事な八重桜でした。向きを変えて撮影したのがこの写真です。

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 ソメイヨシノとは違って、このボリューム感に圧倒されます。花の下から撮影すると、さらに、どっしりとした重厚感が感じられます。

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 桜といいながら、この花には可憐という表現は似合いません。楚々とした風情はなく、どちらかといえば、豪華なボタンのような印象です。

 新型コロナウイルスのせいで、桜見会は中止され、さまざまなイベントも次々と中止になりました。その代わりといってはなんですが、今回、入間川の桜並木をご紹介しました。人の往来も少なく、ゆっくりと桜の様相を見ることができたような気がします。

■新型コロナウイルスはパラダイムシフトの予兆か?
 桜の花が咲き、散って葉桜になってもなお、新型コロナウイルスの猛威はとどまりません。いまや世界中に拡散し、日々、感染者数、死者数が増えています。それに合わせ、各国政府は一様に、都市封鎖、外出禁止、外出自粛などの対策をとっています。新しいウイルスに対する治療方法はまだ確定されておらず、確たる治療薬もまだ開発されていません。ですから、感染源を物理的にシャットダウンするしか方法がないのが現状です。

 その結果、さまざまな社会活動に対する影響が出ており、経済活動が停滞しています。あっという間に、世界中が貧困化し、生命を絶とうとする人さえ出かねない状況に陥ってしまったのです。感染して死ぬか、経済的に行き詰って死ぬかの二択がささやかれるほど、死が身近なものになってきました。

 どうやら、このまま感染が終息しなければ、好むと好まざるとにかかわらず、人々は行動を制限された生活を強いられることになりそうです。仮に終息したように見えたとしても、ウイルスがヒトの体内で息を潜めているかもしれません。いずれにせよ、感染を避けるために、非対面、非接触のコミュニケーションに移行せざるをえなくなっています。

 テレワーク、オンライン授業、オンライン会議などは、新型コロナウイルス騒動によって、大きく推進されるでしょう。折しも先進諸国では5Gネットワークが開始されています。5G、AI、ビッグデータを活用した社会変革もまた当然、推進されるでしょう。

 このまま年内に終息するのか、あるいは、ウイルスが常態化してしまうのか、それはわかりません。仮に年内に終息したとしても、おそらく、新型コロナウイルス発生以前の社会にはもはや戻ることはできないのではないかと思います。

 世界が歩調を合わせて、感染者数、死者数を逐一報道し、一斉に都市封鎖、外出制限などの対策をとっています。感染力は弱いといわれ、死者数はインフルエンザの方が多いといわれながらも、各国とも過剰に思えるほどの対策をとっています。時間差で似たような政策を展開しているのをみると、世界各国が一斉に、新型コロナウイルスの発生を契機に、パラダイムシフトに取り組んでいるようにみえるのです。

 今年、桜が咲いてから、季節外れの雪が降りました。大きな社会変動の予兆でなければいいのですが・・・。(2020/4/20 香取淳子)

桜の花が咲きました。

■土手に咲く桜
 西武線の仏子駅で下車し、10分ほど歩くと、入間川沿いの遊歩道に辿り着きます。毎年、桜の季節になると、ここを訪れることにしていますが、今年は3月23日、時間に余裕ができたので出かけてみました。

 桜を鑑賞するにはちょっと早すぎたようですが、それでも一部、花が咲きかかっていました。遊歩道からは、生い茂る草が緑のスロープとなって川辺まで伸び、巨大な桜の根をしっかりと支えています。

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 枝の一部に花が咲き、その淡いピンクの花弁が夕陽に照らされて、ことさらに輝いて見えました。風にそよぐ可憐な風情がなんともいえず、つい、見入ってしまいます。まだ蕾のままの枝もあれば、花開いた枝もあり、同じ幹から出た枝でも、開花の時期はそれぞれで、そんなところに微妙な生命の営みを見る思いがしました。

 桜の花をじっと見つめていると、ふと、父の姿が思い出されました。

 春が近づくと、父は、家から歩いて5分ほどの川べりに植えられた桜を見るのを待ちかねるように過ごします。幅10mほどの小さな川ですが、やはり、川の両側に桜が植えられていて、毎年、春になると見事な桜花を楽しませてくれます。

 いつだったか、帰省した折、一緒に川沿いを散策していると、父が突然、「願わくば、花の下にて我死なん、その如月の望月のころ」と口ずさんだことがありました。そのとき、父はたぶん、80歳ぐらいだったと思います。私は驚いて思わず、振り返ってみましたが、父は何もいわず、ただ、桜の花をじっと見上げていました。

 他を寄せ付けない雰囲気に、私は声をかけることもできず、父の視線を追って、桜を見上げました。淡いピンクの花弁の背後には、所々、雲を漂わせながら、青空が広がっていました。

 その時に見たのと同じような光景が、ちょうど目の前に広がっていました。

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 見ているうちに、不意に、天高く吸い込まれていくような気持ちになりました。そして、なんとなく、あの時の父の気持ちがわかったような気がしてきたのです。

 私も、心の中でこの句を口ずさんでみました。

 「願はくば、花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」

 これは、続古今和歌集に収録された西行法師の歌です。花といい、月といい、この歌には日本人が好むモチーフが詠み込まれています。しかも、生命の誕生をイメージさせる「春」と、生命の終焉を意味する「死」が、一つの句の中に違和感なく、共存しているのです。日本人の感性が色濃く表出しているように私には思えました。

 日本人が桜を好むのは、この二律背反ともいえるアンビバレンツな感覚を呼び覚ましてくれるからではないでしょうか。ふっと、そんな気がしてきました。

 入間川沿いの桜木は、そのときに見た枝よりもはるかに太く、しっかりとしていて、一部咲きの小さな桜花をいっそう儚げに見せていました。手を伸ばせば、いまにも届きそうに見えるほど近く、桜花をつけた枝は垂れ下がっています。まるで手に取ってほしいと言わんばかりです。

父の気配を感じました。

 あのときの願いとは違って、父は紅葉の秋、まるで桜が散っていくように、さっと旅立っていきました。長患いすることもなく、83歳で人生を終えました。

■桜のトンネル
 さて、桜で両側を囲われたこの並木道は、入間川の上流に向けて、約300m続きます。昭和42年から43年にかけて植えられたそうです。

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 私は桜の季節になると、毎年、ここを訪れています。満開の時期に、この遊歩道を歩くと、桜トンネルをくぐる気分に浸ることができます。穏やかに流れる川面を眺めては、降り注ぐ桜の花弁を浴び、自然が与えてくれる悦楽を堪能することができるのです。

 ここに来るたび、日本人が古来、桜を愛でてきたことを再確認するような気分になりますが、今回もそうでした。桜といえば、すぐに思いつくのが本居宣長です。

 本居宣長はたいそう桜を好んだそうで、いくつも歌にしています。高齢になってから詠んだものに、有名な一句があります。

 「敷島のやまとごころを、人問はば、朝日に匂ふ山桜ばな」

 61歳の時に詠まれたといわれています。この歌は軍国主義と結びつけて取り上げられることが多く、歌意がそのまま伝わっていないように思えます。それが残念ですが、私は、この歌の中に、本居宣長の日本観が的確に表現されているのではないかと思っています。

 この歌は、「大和心はどういうものかと人に聞かれれば、朝日に照り輝く山桜のようだと答えよう」という意味を表しています。日本的な感性がどういうものか、山桜を引き合いにして、表現しているのです。

 街中や公園で桜を見るのではなく、山や川べりで桜を見ると、おそらく、宣長がこの歌に託した意味がよくわかるのでしょう。入間川沿いの遊歩道で桜を見て、私は改めて、宣長が捉えていた日本文化の真髄がわかったような気がしました。

 本居宣長もまた西行法師と同様、桜花に日本人の感性を見出し、その文化を重ね合わせてみていたのでしょう。

■夕陽が創り出す光景
 私が入間川沿いの遊歩道を訪れたのは、まもなく夕刻になろうとするころでした。桜の枝の後方に、沈む太陽が見え、辺り一面を暮色に染め上げていました。

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 宣長が詠んだ句に倣えば、この光景には、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」とでも表現できるような妙味がありました。

 宣長は「大和心」を、「朝日に匂ふ山桜ばな」の美しさを感じ取る心だと歌に詠みました。ところが、今回、私は夕刻の桜を見て、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」には、さらに、「あはれ」とでもいえるような風情が加わっていることに気づきました。「朝日に匂ふ山桜ばな」に劣らない魅力が、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」にはあると思ったのです。

 太陽を背にすると、一部咲きの桜花が夕陽に照らされ、淡いピンクの花弁をそよがせているのが見えます。

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 背後に巨大な雲が流れているせいか、一部咲きのピンクの桜花がことさらに小さく見えます。なんともいえず可憐で、美しく、まるでそこだけが煌めいているかのようです。

 一方、太陽に向かうと、逆光になり、下の写真のようにすべてが色を失います。夕刻には、このようにポジとネガ、それぞれの美しさやその興趣を、同時に味わうことができるのです。

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 輝きの中だけに美しさが存在するのではなく、輝きを失ったところにも美しさを見出すのが、日本的な感性であり、日本文化の本質ではないかと私は思います。

 私が、桜に惹かれ、日本的感性が呼び覚まされると思うのは、桜にはそのようなアンビバレントな要素が多分にあるからなのです。

 もう一度、夕陽に包まれた光景を見てみましょう。桜木の枝の背後に、太陽が深く沈み込み、強い残照が川面に反映しています。

 まるで沈みかかった太陽が、最後の力を振り絞り、強大なエネルギーを空と川に放っているかのようでした。残照は辺り一面を別世界に変貌させていました。夕陽がもたらすこの空間は、明るい昼間から暗い夜へ誘う境界ともいえるものでした。

 見ていると、父が好んだ御文章が思い出されてきます。

■御文章
 どういうわけか、父は「御文章」が好きでした。子どもの頃、これを聞くのが怖かったのですが、文章のリズムがよく、しかも、父が朗々と、歌い上げるように詠むので、いまだに頭の隅にこびりついています。

Wikipediaからその一説をご紹介しましょう。

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」

 子どもの頃、私が怖いと思ったのは、「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という箇所でした。他の部分は意味がわからなかったのですが、ここだけはなんとなく意味がわかり、ヒトはあっという間に歳をとって、死んでしまうのだと思い、怖かったのです。

■彼岸としての夕刻
 いつもと違って、今回、夕刻に一部咲きの桜を見ました。そのせいか、桜の下に佇んでも、華やぎは感じられず、むしろ、桜のもつアンビバレントな要素に気づかされました。そして、その光景の中に、一種の境界とでもいえるようなものを感じさせられたのです。

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 蕾をつけた桜木の背後に、大きく広がった雲を抱えた青空と、それを反映した川面が見えます。地表の建物や土手が、空と川の境界になるのですが、夕刻のせいか、その地表部分が暗くてよく見えません。

 夕刻には、彼岸の存在感が強調されるのでしょうか。ヒトが生きて、暮らす地表がよくみえず、天空に広がった雲と、それを映し出した川、そして、手前の大きな桜木ばかりが目につきます。

 そういえば、桜並木を見に訪れたのは3月23日は、2020年のお彼岸期間最後の日でした。(2020/3/26 香取淳子)

第51回練馬区民美術展が開催されています。

■練馬区民美術展の開催
 第51回練馬区民美術展が練馬区立美術館で開催されています。期間は2020年2月1日(土)から9日(日)、開催時間は午前10時から午後6時(最終日は午後2時終了)までです。

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 会場では洋画、日本画、彫刻、工芸の4部門に分けて、展示されていました。

 私は今回、「春の日」というタイトルの油彩画(F15号)を出品しました。

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 油彩画(洋画)部門の展示作品は87点でした。レベルの高い作品が多く、それぞれ見応えがありました。足を止めて見入ってしまった作品がいくつもありました。そのうち、強く印象に残った作品をご紹介していくことにしましょう。

■黒田依莉子氏の『深海の記憶』
 区長賞を受賞した作品です。この作品を会場で見たとき、言葉では表現しきれない不思議な魅力を感じました。写真撮影をして自宅で見直してみると、さらに深淵さが増して感じられ、引き込まれてしまいました。

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 画面左側に見えるやや褐色がかった乳白色の物体は、巨大な深海魚の一部なのでしょうか。まるで馬の臀部から脚部にかけての筋肉のように、所々、隆起が見られます。そこには肉塊の持つ柔らかさとその内側にある筋肉の強靭さが感じられます。よく見ると、かすかに朱が添えられている箇所があり、それが血のようにも見えます。

 視線を右にずらすと、頭がい骨と背骨と尾ヒレだけの魚が泳いでいます。肉片は食べられてしまったのでしょうか、骨の白さが不気味です。その真下でクラゲが浮遊していますが、クラゲの傘はまるで押しつぶされたかのように平板です。中心部には赤くて丸い口のようなものがあり、そこから放射状に赤い線が伸びています。いずれも赤く塗られていますから、これもまた血のように見えます。

 その左下にはタコ壺のようなものが転がっています。中にタコが入っているのでしょうか。つい、覗いてみたくなります。その右側には巻き付けられた縄の先が見えます。おそらく、タコ壺を固定するためなのでしょう。さらに目を凝らすと、背後に張り巡らされた漁網に引っかかった海老のようなものが見えてきます。

 やや引いてみると、クラゲは長い触手を縦横無尽に伸ばしており、その動きの中に水の質感が感じられます。水中だということは、肌色の物体の周辺から浮き上がっていく卵のようなものからも感じられます。

 膜につつまれ、真珠のように鈍い光を放ちながら、卵が肌色の物体から次々と水中に浮遊しはじめています。生命が誕生しているのです。

 興味深いことに、馬の臀部のように見える物体の上に、長方形の金箔のようなものが描かれています。自然界と交じり合うことのない人工物です。画面の下に描かれた縄も壺もヒトが作り出した人工物ですが、こちらは自然界と交じり合い、共生し、やがては朽ちていきます。ところが、金箔のように見えるものはいつまでも朽ちることなく、自然界とは異質なまま存在し続けるのでしょう。

「深海の記憶」とは海中から誕生した生命の根源を指しているのでしょうか。あるいは、深い記憶の底に眠る、個体発生と系統発生との連鎖を指しているのでしょうか。この画面からは、生命が誕生して以来の時間の堆積が感じられます。

 その一方で、さまざまな形状、大きさ、色彩のモチーフが画面に多数レイアウトされており、微妙に層化された奥行が生み出されています。それは水平方向に造形された層と、垂直方向に造形された層と一体化し、生命を育む空間の厚みと歴史を感じさせます。

 さらに、画面左上には金箔のようなものが描かれています。異質のものを配することによって、画面にコンフリクトが生み出され、劇的な構成になっています。とても興味深く、眠っていた感覚を甦らせてくれるような作品でした。

■加藤保典氏の『グラス』
 努力賞を受賞した作品です。何気ないモチーフを描きながら、奇妙な魅力があります。

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 グラスが5個、描かれています。このうち、見る者にとって違和感なく存在しているのはただ1つで、それ以外は描かれた視点がそれぞれ大きく異なっています。それが不思議な調和を保ちながら、重なり合って、一つの世界を創り出しています。

 グラスが5個、描かれていると書きましたが、ひょっとしたら、それ以上かもしれません。見る者にそう思わせてしまうほど、ただ一つのグラス以外は見たままを描かず、複雑に絡ませながらレイアウトしています。グラスの底面と上の縁、いずれも円形ですから、重ね合わせ、逆さまにして見せることが可能です。上部も下部の円形だということを利用して、まるでパズルのような絵柄を生み出しているのです。

 この作品を見ていて、ふと、セザンヌのリンゴを描いた作品を思い出してしまいました。タイトルは、『リンゴとオレンジのある静物』です。

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(1999年制作、オルセー美術館所蔵)

 真ん中のリンゴ以外はすべて、どこか違和感があります。リアリティに欠ける表現で描かれているからでしょう。食器の描き方も、布の描き方も雑に見えます。そう見えてしまうのは、セザンヌが遠近法を無視し、立体表現を無視したうえで、複数の視点を組み込んで描いているからでした。

 セザンヌのこの作品は、見る者に違和感や不安定を感じさせます。それは、遠近法や統一した視点といった作法から離れ、微妙に異なる複数の視点を画面に取り入れることによって生み出されていました。

 一方、展示されていた『グラス』は、極端に異なる複数の視点を画面に持ち込み、モチーフを描いた結果、見る者に謎解きの衝動を呼び起こしていました。こちらは不安感というよりは解明欲求を喚起させます。

 いずれも見る者を画面に引き付け、考え込ませる力を持っています。両者に共通するのは、一つの画面に異なる複数の視点を取り込んでいるということです。

 私がこの作品に奇妙な魅力があると思ったのは、現代的な要素が巧みに表現されていたからでした。透明なグラスには無機的でメカニックなイメージがあります。そのグラスをモチーフに、作者は極端に異なる複数の視点を一つの画面に取り込んでいました。だからこそ、シャープで脆い現代性を盛り込むことができたのかもしれません。

 現代社会では、人々は日々、明らかに異なる視点で発信された情報に晒されています。それだけに現状を把握するのにどれほどコストがかかり、負荷がかかっていることか・・・。

 この作品には、現代社会がヒトに押し付けているストレスが象徴されているようにも思えます。鋭角的で、繊細で、とても興味深い作品でした。

■伊藤茂子氏の『まどろむ頃』
 奨励賞を受賞した作品です。会場でこの作品を見たとき、ほっと気持ちが和むのを感じました。

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 淡い色調の画面からは、爽やかな空気と暖かな陽射しが感じられます。中心からやや左寄りに配置された数本の木々をメインに、画面が構成されています。葉は落ち、幹と枝だけの木々が柔らかな陽射しを受けて立っています。下草の生えた地面には水たまりができていて、木々の一部が水に映っています。

 枯草のように見える薄い黄土色のそこかしこに黄緑が配色されており、春の芽吹きが感じられます。遠くを見ると、木々の上部がピンク色で霞むように描かれており、桜を連想させられます。

 この作品には全体に春の雰囲気があります。それも、ようやく訪れたばかりといった趣の、早春を感じさせられます。この作品を見て、私がほっとした気持ちになったのは、見る者の緊張を解きほぐし、安らかな気分にしてくれる何かが画面から滲み出ていたからでしょう。

 それは、安定感のある構図のせいかもしれませんし、柔らかい色調のせいかもしれません。あるいは、水と木、草と空といった何気ないモチーフを優しく包み込んで作品化する画力のおかげかもしれません。

 この作品ではモチーフのエッジははっきりと描かれておらず、色彩だけで識別させています。境界線を引かずにコントラストを抑え、穏やかな色調で全体を整え、いってみれば、朦朧とした表現で画面全体が包み込まれていました。まさに、タイトルの「まどろむ頃」そのものの世界が描出されていたのです。油彩画でありながら、日本的な感性の感じられる作品でした。

■絵画が喚起するさまざまな衝動
 さまざまなジャンルの展示作品を見ていると、不意に、キャンバスを通して私は何を見ているのだろうかという疑問が頭をよぎりました。一目で立ち去る作品もあれば、その前でじっと佇んで見入ってしまう作品もあります。なんらかの判断基準が働いて、そのような鑑賞態度になるのでしょうが、それが何なのか、気になったのです。

 今回の展示作品はどれもレベルが高く、上手か否かで判別しているわけではないのは確かです。モチーフで見ているのかといえば、そうでもなく、色彩や構図、マチエールといったものでもないような気がします。

 それでは何かといえば、見る者を刺激し、なんらかの情感を喚起するような作品だということになりそうです。

 『深海の記憶』、『グラス』、『まどろむ頃』等の作品の前で、私はしばらく、佇んで見ていました。作品と対話していたといってもいいかもしれません。画面から放たれる刺激を受けて考えさせられ、自分なりの見解を見つけようとしていたのです。

 これらの作品には作者が感じ、考え、思い悩んだ軌跡が反映されていました。だからこそ、画面を見ていた私もそれに反応しようとしたのでしょう。そのことに気づいてからは、絵画の価値は、見る者に何らかの衝動を喚起させる力を持つか否かで判断されるのではないかと思うようになりました。もちろん、判断基準は人それぞれで、私の場合は、という注釈つきですが・・・。(2020/2/2 香取淳子)

2020年、明けまして、おめでとうございます。

■富士山は日本一の山
 昨年12月初旬、羽田空港から伊丹空港に向かう途中、右手に富士山が見えました。慌ててスマホを取り出し、撮影したのが下の写真です。


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 冠雪した富士山は、みごとなまでに華麗でした。しかも、山頂から裾野に向けて広がる稜線には、雄々しさが感じられます。限りなく美しく、威厳がありました。改めて、富士山は日本一の山だと思いました。

 富士山は日本の象徴といわれてきましたが、それは、美しく、威厳のある姿に日本社会を彷彿させるものがあったからでしょう。撮影した富士山を手にしているうちに、ふと、日本の持つ美しさについて、思いを巡らせてみたいという気になりました。

 そうこうしているうちに、もう大晦日です。

 年越しそばを食べ、夜もすっかり更けてくると、そのうちに近くのお寺から除夜の鐘が響いてきます。静けさの中で、心に染み入るように深く、ゆっくりと響く鐘の音です。聞いていると、これもまた日本の美しさの一つといえるのかもしれないと思えてきます。

■除夜の鐘、お焚き上げ
 除夜の鐘を聞くと、どういうわけか、いつも、気持ちが洗われるような気になってしまいます。一年を振り返り、不愉快に思ったこと、失敗したこと、後悔するようなこと、心の隅に溜まった澱のようなもの一切合切を、この鐘の音がゆっくりと洗い流してくれるような気持ちになっていくのです。

 すでに12時を過ぎ、新年を迎えています。

 寒い中、鐘の音の誘われるように家を出て、お寺とは反対方向の神社に向かいました。

 大勢の人々が、参拝のために並んでいます。


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 参拝者には、甘酒がふるまわれていました。
私も一杯いただきましたが、口にした途端、たちまち身体中が温まっていくのを感じました。甘酸っぱい味わいが、大晦日のこの行事と結びついて記憶に残ります。

 甘酒を飲んで身体の内部が温まりましたが、今度はお焚き上げの焚火で、身体の外部も温められました。神社の境内で、パチパチと軽い音を立てながら、火の粉を散らしながら、勢いよく火が燃えあがっていました。


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 ここで、去年のお札やお守り、正月飾りなどが焼却されているのです。
お焚き上げには、浄火によってそういったものを天に還すという意味があるそうです。そういえば、燃え盛る炎は、天に向かってめらめらと高く昇っていました。

 炎にはどうやら、ヒトの心を強く揺さぶる力があるようです。じっと見ていても、決して飽きることがありません。それどころか、見つめているうちに、次第に内省的になっていくのを感じます。ゆらめく炎の奥に、来し方行く末を思わせる何かが潜んでいるようでした。

 ヒトは老い、やがて死んでいきます。残された人生をどう生きていくか、日々、心にとどめて暮らしていこうという気になりました。

■元旦のとげぬき地蔵
 今年の元旦はとげぬき地蔵に行ってみることにしました。巣鴨地蔵通り商店街は、かつて「おばあちゃんの原宿」といわれたところです。


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 久しぶりに商店街を歩いてみると、意外にヒトが少なく、驚きました。以前、来たときは混み合っていて、歩くのも大変でしたが、今回はかなり余裕があります。


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 しかも、一目で高齢者とわかる人々の数が大幅に減って、若者、家族連れ、中高年夫婦などが目立ちました。もはや「おばあちゃんの原宿」とはいえなくなっているのです。考えてみれば、「原宿」という言葉もいま、どれだけブランド価値があるのか疑問です。時代の移り変わりの速さには驚くばかりです。

 さて、とげぬき地蔵のある「高岩寺」に着きました。


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 高岩寺は巣鴨にある曹洞宗のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。この地蔵菩薩は秘仏なので、その代わりに、その姿を掘った御影が境内に置かれています。参拝に来た人々はこの御影に祈願すると、ケガや病気などの平癒に効験があるとされています。

 私は境内で販売されていた石の小さなお地蔵さんを買いました。


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 赤い帽子に赤い涎掛けを付けています。その涎掛けには「御願い地蔵さん」と書かれており、背面には「御願いかなう 御願い地蔵さん」と書かれたシールが貼られていました。

■車内で見かけた高齢者
 帰る途中、地下鉄の車内で、隣に座った女性が、新聞の切り抜きに鉛筆でなにやら書いているのに気づきました。不思議に思って、ちらっと見てみると、なんと数独パズルをしていたのです。80歳は過ぎているでしょう、真剣な面持ちで鉛筆を握っています。再び、覗いてみると、「中級」と書かれています。


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 すでにいくつか数字が書き込まれていますが、とても難しそうです。

 帰宅してからネットで調べてみると、数独の解き方の映像があることがわかりました。中級の解き方のテクニックについての動画をご紹介しておきましょう。

こちら →https://youtu.be/xPvR6UsuW1w

 ちょっと見ただけでも、かなり難しそうです。地下鉄の電車内で見かけた女性は、脳トレのつもりで数独パズルを解いていたのでしょうか。

 電車を乗り換えて座った席の隣も、高齢女性が座っていました。こちらは真剣な表情でスマホに文字を打っています。ちらっと画面を見ると、「あけおめ」と書かれていました。どうやら年賀状のようです。びっくりしてしまいました。どうみても、70歳以上の女性です。それなのに、若者用語を使って、年賀用のメールを送信しているのです。孫宛に送っていたのかもしれませんが・・・。

 何か、大きな変化が起きつつあるのでしょうか。

■エイジレス社会に向けた動向か?
 高齢者の人口が増えるにつれ、日本社会はいつのまにか、高齢者の動向に左右されるようになっています。時代の動向は、技術、人口のマジョリティ層、社会体制などによって影響されますが、日本の場合、人口のマジョリティ層は高齢者で、今後さらに増加していきます。

 高齢者が少数ではなく、マジョリティになってしまった今、もはや特別扱いされることは少なくなってきました。老いても、自助努力が求められるようになっているのです。

 実際、元旦なのに、巣鴨とげぬき地蔵商店街では、明らかに高齢者とわかる人々の数が減っていました。また、帰りの電車内で見かけた高齢者はいずれも、まるで若い世代のような行動を取っていました。高齢者はもはや、いわゆる「高齢者」のままのんびりとは生きていけなくなっているのでしょうか。

 一方、大晦日には、数多くの若者たちが近くの神社に参拝に訪れ、お焚き上げを見守っていました。ここでは高齢者の姿は少なく、意外な気がしました。深夜で冷え込んでいたからでしょうか、やって来る高齢者がいたとしても甘酒を手にしたら、早々に引き上げていたのです。

 大晦日と元旦、たまたま、神社と電車内で見かけた光景はどちらも、私には意外なものでした。人々はもはや、高齢者だから、若者だからといった年齢意識に拘らず、自分にとって必要と思われる行動をとり始めているように思えました。技術革新によって、さまざまな障壁が壊されてきていますが、いよいよエイジレス社会に進みつつあるような気もします。今年はいったい、どのような年になるのでしょうか。

 今年も、どうぞよろしくお願いいたします。(2020/1/1 香取淳子)

知って理解し、実践して把握する、パラリンピック大会の意義

■マセソン美季氏の日本社会に対する印象
 慌ただしく日々を過ごしているうちに、明日はもう大晦日です。今回は、前回書ききれなかった「日経2020フォーラム」のパネル討論をご紹介することから始めましょう。

 このパネル討論は2019年11月19日に行われ、「パラムーブメントがニッポンを変える」というタイトルの下、野村ホールディングスの池田肇執行役員、日本パラバレーボール協会代用理事の真野嘉久氏、UUUM社長の鎌田和樹氏、日本財団パラリンピックサポートセンターのマセソン美季氏、等々が登壇し、それぞれの立場から意見表明されました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 最も印象に残ったのは、マセソン美季氏の日本社会に対する印象でした。

 すでにマセソン美季氏をご存じの方もいらっしゃるでしょうが、そうではない方もおられると思いますので、まず、略歴をご紹介しておきましょう。

 マセソン美季氏は東京学芸大学1年生だった1993年、交通事故で脊髄を損傷し、下半身不随になってしまいました。人生これからというときに車いす生活を強いられ、どれほど悲嘆にくれたことか、想像もできないほどです。

 ところが、1995年に車いす陸上競技に出会って、マセソン美季氏はアイススレッジ・スピードレースに打ち込むようになりました。その結果、1997年の長野パラリンピックプレ大会では3種目で2位に入り、1998年の長野パラリンピックでは金メダル3個(500m、1000m、1500m)、銀メダル1個(100m)を獲得しています。

 さらに、東京学芸大学を卒業後は米イリノイ州立大学に留学し、障碍者スポーツの指導について学びます。そして、2001年には長野オリンピックで出会ったカナダのアイススレッジホッケーの選手と結婚して、男児二人を出産し、現在はカナダのオタワに居住しています。

 このような輝かしい来歴を知ったとき、私はその精神力と絶え間なく続けてこられた努力に感銘せざるをえませんでした。

 それでは、本題に戻りましょう。

 私が強く印象づけられたのは、交通事故で車いすに乗るようになった途端に、周囲からの視線や態度が変わったとマキソン氏が述べられたことでした。そのとき、周囲の人々との間にバリアーができたことを感じたといいます。

 ところが、結婚してカナダに移住すると、そのような違和感を覚えることもなく、すんなりと周囲に溶け込めたそうです。カナダには多様な人種、国籍の人々が住んでおり、異質な存在を異質なまま受け入れる寛容性が社会の中に醸成されていたからでしょう。

 そのような経験があるからこそ、マセソン氏は、日本も障碍者が自然に受け入れられるような社会になってほしいと願い、さまざまな活動を展開しているといいます。このエピソードを聞いて、私は障碍者にはさまざまな物理的なバリアーがある一方で、心理的なバリアーもあることに気付かされました。

 今回のパラリンピックに向けて、マセソン氏はどのような活動をされているのでしょうか。

■「不可能」を」「可能」に
国際パラリンピック委員会は、今回のパラリンピックに向けて、公認教材を開発しました。そこでマセソン氏は中心的な役割を果たしています。

こちら →https://im-possible.paralympic.org/

 これを翻訳して日本版を作成し、日本の教育現場で使いやすいようにしていく過程でも、中心的役割を果たしています。

こちら →https://www.parasapo.tokyo/iampossible/
 
 この教材は座学と実技で構成されており、子どもたちはパラリンピックの歴史やその意義、競技の魅力などを学ぶことができるように組み立てられています。学習していく過程で、共生社会を構築するための考え方や障害についての理解も学べるようになっているといいます。

 実例として2分13秒の映像が用意されていますので、ご覧いただきましょう。

こちら →https://youtu.be/Tmv4VpIPTO0

 子どもが障碍者スポーツを知って、理解するようになると、次第に障碍者に対する認識が変わっていきます。その結果、子どもの認識の変化を通して教師が変わり、親が変わるといった連鎖が起きるというのです。

 子どもに起きた認識の変化がどれほど周囲に作用するものか、画面では、実際に経験した教師や親が登場してそれぞれ感想を述べています。障碍者スポーツを通して認識が変化すれば、それは子どもの認識の枠内にとどまらず、親や教師にまで影響を及ぼしていく可能性があるというのです。このメカニズムを敷衍させれば、パラリンピックを契機に、共生社会への道筋が開けていく可能性も考えられるでしょう。

 さて、この教材には「I’m POSSIBLE」というタイトルが付けられています。

 会場でも説明されていましたが、「IMPOSSIBLE」(不可能)に「‘」を加えるだけで、「私はできる」と意味が変化します。アポストロフィを加えるだけで、「不可能」から「可能」へと、意味が真逆に変化するのです。なんとポジティブなスローガンなのでしょう。

 公認教材の表紙にもこのスローガンが書き込まれています。

こちら →
(さまざまな公認教材。図をクリックすると、拡大します)

 パラリンピックの説明をいろいろ見聞きするにつれ、次第に、「不可能から可能へ」というメッセージの可視化こそが、パラリンピック大会の意義であり、訴求ポイントでもあるような気がしてきました。

 マセソン氏もこのタイトルを踏まえ、パラリンピック大会の障碍者スポーツを普及させることの社会的意義とその効果を指摘しています。(『社会科 NAVI 2019 vol.21』)

 少し工夫するだけで、障碍者たちのできることが増え、可能性が広がるといいます。そのようなことを座学と実技で具体的に伝えていけば、子どもたちは困難にぶつかっても、諦めずに工夫を凝らして解決しようとするでしょう。そう考えるマセソン氏は、パラリンピック大会は子どもたちにとって重要な学習機会でもあるといいます。

 たしかに、些細な心掛けひとつで心構えが変わり、気持ちが大きく変わっていくものだとすれば、まずは実践してみる必要があるでしょう。マセソン氏らは障碍者スポーツと座学とを重ね合わせ、具体的に教えていけるような教材を開発しました。

 障碍者スポーツを実践して見せることによって、マセソン氏らは子どもたちの背中をそっと押し、障碍者の理解と受け入れを促そうとしているといえるでしょう。それこそ、「アポストロフィ」を加えるだけで、「不可能」を「可能」に変えることができたように、実践を通して、障碍者理解を進めようとしているのです。

■「知らなかった」から、「知る」を経て、「希望」へ
 マセソン氏は、人生最大の危機に陥りながらもそこから立ち上がり、障碍者スポーツを実践してパラリンピックで素晴らしい成績を収めました。さらには、いまなお、障碍者スポーツを通して社会貢献をされています。輝かしいばかりのキャリアです。

 それにしても、マセソン氏は何故、突如、訪れた障碍から立ち上がることができたのでしょうか。

 国連広報センターのインタビュー記事を読んでいて、その理由がわかりました。

 マセソン氏は、事故で車いす生活を送るようになるまで、パラリンピックや障碍者スポーツについて何も知らなかったそうです。ところが、病院の担当医が、脚が動かず寝たきりになっていた時期に、「まだスポーツができる」と教えてくれたのだそうです。悲嘆に暮れていたマセソン氏の心に、さっと希望の光が差し込みました。

 もともと水泳をしていたマセソン氏は、初めて外出許可が出たとき、プールに連れて行って欲しいと願ったそうです。医者と一緒なら何かあっても大丈夫、という気持だったといいます。第1回目のチャレンジに成功したのです。

 その後、担当医から教えてもらい、比較的負荷の低い水泳を通して、運動機能を回復させていきました。身体の状態を知り、それにふさわしいスポーツを実践していくことによって、気持ちが晴れていったといいます。

 マセソン氏は「自分が集中できることを早い時期に見つけ出すことができたのは幸運でした」と述べています。(※国連広報センターブログ)

 実は、1964年のパラリンピックでも、マセソン氏と同様、脊椎損傷で寝たきりになっていた人々がいました。

■1964年パラリンピックに参加したアスリートたち
 東京パラリンピックは1964年11月8日に開催されました。22か国から372人のアスリートが参加しましたが、このうち日本からの参加者は53名でした。脊椎損傷で車いすを利用している人々が9競技に参加したのです。

 当時、アスリートたちのほとんどは病院や施設で暮らしていました。ベッドで寝たきりの中、「命の終わりを不安な中でじっと待っていただけ」だったそうです。当時、脊椎を損傷すれば寝たきりになるのは当然で、褥瘡や泌尿器科系の病気が原因で亡くなる人も少なくなかったといいますが、彼らの死因の大きな要因は、「生きる希望が持てないこと」だったそうです。

 そんな中、東京でパラリンピックが開催されることになりました。ある患者は医者から告げられ、パラリンピックに出場することになったといいます。参加者の多くがそうだったでしょう。彼らはそこで海外の障碍者アスリートたちを目にし、驚いてしまいました。

 海外のアスリートたちは競技の後、選手村のクラブで歌ったり踊ったり楽しく過ごしていたそうです。実際に話をしてみて、日本人アスリートたちはさらに驚きました。彼らは仕事を持ち、家庭を持ち、日常的にスポーツをしていたのです。

 それに反し、日本のアスリートたちは病院で暮らし、スポーツをするわけでもなく、もちろん、仕事も家庭もない状態で生きていました。初めて海外のアスリートたちを見た彼らはあまりの違いに驚き、どう考えていいかわからなくなってしまったそうです。

 パラリンピック後、彼らは生活を大きく変えたといいます。海外のアスリートたちを見て、自身の生活を改善しようとしたのでしょう。地元に帰ってリハビリに取り組む人、免許を取って就職活動をする人、日常的にスポーツに取り組み記録を向上させる人、中にはパートナーを見つけて家庭を築く人もいたそうです。

 パラリンピックに出場して海外のアスリートと交流した結果、障碍をポジティブに受け入れ、社会とかかわって生きていくことの大切さに目覚めたのでしょう。彼らが自発的に生活スタイルを変えていったことの影響は大きかったようです。

 1964年のパラリンピック大会は障碍者の自立を促し、その翌年、日本身体障碍者スポーツ協会が設立されました。

 パラスポーツサイト「挑戦者たち」の編集長の伊藤数子氏は、「2020東京パラリンピックで私たちが遺していこうとしているレガシーの一つは共生社会の実現です」と書いています。(※「53年前の「東京パラリンピック」がくれた宝物」、『スポーツコミュニケーションズ』2017年7月1日)

 パラリンピックは果たして、共生社会に向けて、社会意識を変革しうるのでしょうか。

■パラリンピックは社会意識を変革しうるか
 もう一度、マセソン氏に戻りましょう。

こちら→
(図をクリックすると、拡大します)

 大学卒業後、マセソン氏はイリノイ州立大学で障碍者スポーツ指導法を学ぶようになりますが、そのきっかけとなったのが、海外の大会で何度も目にしたジュニアの選手が活躍する姿でした。

 当時20代だったマセソン氏は、海外では10代の障碍者アスリートたちが活躍していることを知って、驚きます。そして、海外には障碍者アスリートを受け入れる土壌があり、指導者層が厚いからこそ、彼らが十分に能力を発揮することができ、活躍できるのだということに気付きます。

 翻って、日本を見たとき、とてもそのような状況ではないことに愕然としてしまいます。そこで、マセソン氏は一念発起して留学し、障碍者アスリートたちを育てる指導法をイリノイ州立大学で学ぶことにしたのです。10代を育てていかなければ、障碍者スポーツのその後の展開はないと考えたからでした。

 さて、マセソン氏の来歴を辿ってみると、いくつかのターニングポイントを経て、現在に至っていることがわかります。まず、入院中に障碍者スポーツの存在を知ったことが大きなターニングポイントになりました。生きる希望を持てるようになったばかりか、スポーツをすることによって身体機能、精神機能が躍動させられ、機能回復の効果が表れたのです。

 さらに、スポーツを通して、生きる目標が生まれました。障碍者スポーツに邁進した結果、1998年のパラリンピックで金メダル3個、銀メダル1個という快挙を成し遂げたのです。これが第二のターニングポイントです。

 金メダルという大きな社会的承認を得ることによって、障碍者スポーツの指導、その普及への取り組みにも弾みがつきました。そして現在、2020パラリンピックに向けて公認教材の開発、障碍者スポーツの普及促進活動まで手掛けるようになっています。

 このようにみてくると、マセソン氏の場合、スポーツによって自身の障碍を克服することから始まり、障碍者に対する社会の意識変容を目指す働きにまで昇華されていったのです。いってみれば、個人的体験から社会的意識改革を目指すまで広がっているのです。それだけ障碍者を取り巻く現実が厳しいせいかもしれませんし、パラリンピック大会こそ、障碍者スポーツを多くの人々に知ってもらういい機会だと考えているからかもしれません。

 たしかに、障碍者スポーツに触れることによって、人々が障碍者を知り、理解することができるようになれば、障碍者とともに生きていける社会を構築していこうという気にもなっていくでしょう。ひょっとしたら、パラリンピック大会は大きな社会変革の契機になるかもしれません。

 超高齢社会が到来している日本では、心身機能の低下した高齢者の急増に備え、社会インフラの改良が求められています。物理的なバリアフリーが求められるのはもちろんのこと、視聴覚機能の低下による情報バリアフリーにも配慮する必要があるでしょう。

 日本は今後しばらく高齢人口が増大していきますから、障碍者や高齢者に優しい社会システムの構築が不可欠になります。誰もが共生できる社会を実現させようとすれば、社会の意識改革が必要ですが、2020年に開催される東京大会は十分、その契機になりうると思います。(2019/12/30 香取淳子)

パラリンピックは共生社会、インクルーシブ社会への糸口になりうるか。

■パラリンピックから見える共生社会のビジョン
 2019年11月19日、日経ホールで、「第6回日経2020フォーラム パラリンピックから見える共生社会のビジョン」が開催されました。

こちら →https://events.nikkei.co.jp/13981/

 第1部では、協賛企業の三菱電機の杉山武史社長と、清水建設の井上和幸社長による基調講演が行われました。三菱電機はオリンピック・パラリンピックのオフィシャルパートナー、清水建設はオリンピック・パラリンピックオフィシャルサポーターとして、両大会を支援しています。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/organising-committee/marketing/sponsors/

 会場ではまず、両企業の社長から、30分ずつ基調講演が行われ、パラリンピックへの取り組み内容が報告されました。

 三菱電機は、「エレベーター・エスカレーター・ムービングウォーク」カテゴリーのオフィシャルパートナーとして、大会関連施設や周辺インフラのバリアフリー化を担当するといいます。社長の杉山氏は、「共生社会の実現に向けた私たちの取り組み」というタイトルでお話しされました。

 パラリンピック大会に向けた活動として三菱電機は、①車いすバスケットボールをはじめとするパラスポーツ支援、②障碍者スポーツ普及啓発活動、③心のバリアフリー、等々のプロジェクト活動を設定しています。

 これらの活動を通して、まず、「知る・学ぶ」を実践する。そこから得た「想いをカタチ」にする。そして、「共感する」、「喜び・嬉しさを共有」する過程を経て、ユニバーサルサービスに寄与する製品を開発する。・・・・、そのようなプロジェクト活動と連携し、「活力とゆとりある社会の実現に貢献」を目指すというのです。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 「パラリンピックからの学び」から、これまでは、「Impossible(不可能)」と感じていたことを、「I’m possible(私はできる)」と思えるようにしていくことを目標にしているというのです。

 一方、清水電機は、「施設建設・土木」カテゴリーのオフィシャルサポーターとして、国立代々木競技場第一体育館の耐震改修工事と有明体操競技場の建設を担当するといいます。有明体操競技場はすでに2019年10月29日、完成しています。

こちら →https://www.shimz.co.jp/company/about/news-release/2019/2019025.html

 記事に掲載された写真をみると、内装、外装とも木が使われており、穏やかでぬくもりの感じられる色調が印象的です。木質の大屋根にはカラマツが約1500m3、外装と観客席にはスギが約800m3使われており、木材使用量は合計約2,300m3になります。これは、今回、建設される競技施設としては最大の木材使用量なのだそうです。

 清水建設社長の井上氏は、「シミズによるインクルーシブな社会の実現」というタイトルでお話しされました。

 大会に向けた活動として清水建設は、①音声ナビゲーションシステムの開発と導入、②社内フォーラム開催による意識啓発、③障碍者スポーツ体験会、等々を設定しています。これらの活動を通して、誰もが健康で快適に暮らせるインクルーシブな社会の実現を目指すというのです。
 
 杉山氏の「共生社会」といい、井上氏の「インクルーシブな社会」といい、両社とも目指すところは同じでした。今回のパラリンピックを契機に、あらゆるヒトが暮らしやすい社会の実現に向けて貢献するという方針だったのです。

 それでは、印象に残ったところをご紹介しておきましょう。

■車いすバスケットに挑戦する鈴木亮平
 杉山氏の基調講演の中でとくに印象に残ったのは、パラリンピック・スポーツの動画を作成されているという点でした。帰宅して、さっそく三菱電機のHPを見てみました。すると、俳優の鈴木亮平氏を起用した動画がいくつか掲載されていました。

 がっしりした体格の鈴木亮平氏は、運動神経抜群のように見えます。豪放磊落な風貌で、アスリートたちの輪に溶け込んでおり、うってつけの役割だと思いました。このシリーズで、彼はさまざまなパラリンピック・スポーツにチャレンジしています。

こちら →https://www.mitsubishielectric.co.jp/tokyo2020/activities/challenge/

 ここでは、一般によく知られている車いすバスケットボールの動画、練習編を見てみることにしましょう。5分42秒の動画です。

こちら →https://youtu.be/jCV1brXH5j8

 意外なことに、体力があって、しかも、バスケットボール経験者だという鈴木氏が、最初から根をあげています。この動画は練習編ですから、基本的な動きが紹介されているだけなのですが、それでも、鈴木氏が思うように身体を動かせていないのです。それを見ているだけで、障害を持った状態でスポーツをすることがいかに大変なことかがわかります。

 それに反し、障害を持っているはずのアスリートたちは、敏速にチェアを操作し、巧みなボールさばきを見せています。これには驚いてしまいました。一連のシーンを見ているうちに、これまで障碍者に抱いていた弱者というイメージが瞬く間に覆されてしまいました。

 それにしても、障害を越えて、競技に臨むアスリートたちは、なんと強靭な精神力の持ち主なのでしょう。鍛え抜かれた身体能力と反射神経を総動員し、競技に打ち込む姿に無駄はなく、感動してしまいました。

 この動画は、本番に臨む前の練習編なので、①チェア操作、②ボール操作、③実践練習、と三段階に分けて制作されていました。

 まず、チェア操作の段階で、鈴木氏は障害を持つアスリートに大差をつけられてしまいました。体験の差ですが、運動神経のいい鈴木氏はすぐ操作に慣れていきます。ボール操作の段階では、鈴木氏はバスケットボール経験者のはずですが、うまくシュートできません。ゴールへの距離感がこれまでとはまったく異なるからでした。

 実践練習ではケガをするといけないので、鈴木氏は様々な防具をつけて競技に参加しました。ここでも、障害を持つアスリートたちに圧倒的な力の差をみせつけられるばかりでした。防具による負荷がかかっていたのです。このように練習編を見ただけでも、車いすバスケットには、知恵と工夫と胆力が必要とされていることがわかります。

 一通りの経験を経て、鈴木氏は「大変だけど、楽しかった」と感想を述べていました。通常のバスケットボール以上に、体力、知力、精神力、戦略が必要とされるからでしょうか。鈴木氏の清々しい表情が印象的でした。

 さて、実際の試合時間は、2分のインタバルを2回、10分から15分のハーフタイムを1回、はさみ、第1ピリオドから第4ピリオドまで各10分、合計40分です。車いすバスケットの試合をするのに、どれほど強靭な精神力と体力が必要なのか、想像すらできません。

 車いすの図が掲載されていたので、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(https://miki-force.jp/lineup/bmachine.htmlより)
(図をクリックすると、拡大します)

 車いすバスケットを見るたびに、なぜ車輪が傾いているのか不思議に思っていましたが、この説明を見て、ようやくその理由がわかりました。素早く方向転換できるようにするための傾きだったのです。

 ここでご紹介動画はほんの一部分にすぎません。試合編の前編、後編もありますので、ご覧になるといいと思います。これらは試合風景を撮影しているので、迫力満載の動画です。障碍者イコール弱者ではないということが一目で確認できるでしょう。

 三菱電機はこれ以外にも、いくつものパラリンピック競技を取り上げ、動画を制作しています。いずれも鈴木亮平氏が経験するという形式で、作成されています。どれか一つ、ご覧になるといいでしょう。それだけで、アスリートに対する印象が大きく変わってくることは確かです。

 鈴木亮平氏を起用した一連の動画を見終え、私は、なにか勇気のようなものがふつふつと湧きでてくるのを感じました。なにごとも諦めずに努力を続けていれば、不可能なことはないということを実感できたような気がしてきたのです。

 こうしてみてくると、パラリンピックが観戦者にもたらす最大の効用は、おそらく、観戦者の心からポジティブな感情を引き出し、勇気を与え、希望を感じさせてくれることではないかという気がします。

■音声ナビゲーションシステム
 井上氏の基調講演の中で印象に残ったのは、音声ナビゲーションシステムの開発でした。建設会社の清水建設なのになぜ、他企業と連携して、このようなシステムを開発したのかという点に興味を覚えたのです。

 清水建設は日本IBMと共同で、音声ナビゲーションシステムの開発に取り組んでいるといいます。これはスマートフォンを使って、音声情報を提供しながら、誰でも簡単に目的地に着けるようにするシステムです。

 いまやあらゆる層に普及しているスマホを使い、視覚障碍者、車いす利用者、高齢者、外国人などが街中をスムーズに移動できるようにするサービスを提供しようというわけです。バリアフリーのナビゲーションシステムともいえるかもしれません。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 上図を見てわかるように、これは、スマホを使った地図と音声による道案内です。これまでも似たようなシステムがありましたが、日本語、英語、中国語、韓国語に対応している点、今回のオリンピック・パラリンピックに向けた仕様にもなっています。海外から大勢の観客が訪れたとしても、このシステムを使えば、かなりの部分、対応できるでしょう。

 実際、このシステムを使った実証実験が2019年10月に行われました。

こちら →https://www.shimz.co.jp/company/about/news-release/2019/2019020.html

 実証実験の結果は、下記のようなものでした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、車いす利用者は100%と、とても高く評価しています。予想以上の高評価ですが、一般歩行者、外国人も60%、視覚障碍者も70%、といった具合で、全般に高い評価をしていることがわかります。単なる道案内ではなく、段差、ビル内の案内も含まれている点にこれまでにない利便性を感じたのでしょうか。被験者からのフィードバックに基づき、改善されていけば、さらに使い勝手のいいシステムになっていくでしょう。

 井上氏は、清水建設は建設事業の枠を超えて、持続可能な未来社会の実現を目指していくといいます。そのためには、多様なパートナーと共に、時代を先取りする事業活動を展開していかなければなりません。上記でご紹介したナビゲーションシステムの開発はその一つですが、これは「SHIMIZ VISION 2030」に基づくものでもありました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 このビジョンには2030年と銘打たれています。オリンピック後の10年を見据え、三つの大きな目標が掲げられています。案内システムは、そのうちの「誰もが健康で快適に暮らせるインクルーシブな社会の実現」に向けた取り組みの一つでした。

■パラリンピックは共生社会、インクルーシブ社会への糸口になりうるか
 今回、基調講演をした三菱電機の社長と清水建設の社長はともに、2020年パラリンピック大会を機に社会変革を目指すと語っていました。興味深いことに、製造会社も建設会社もともに、パラリンピックを機に、共生社会あるいはインクルーシブ社会の実現に向けた社会変革を構想していたのです。

 果たして、2020年パラリンピック大会はそのような社会変革の契機になるのでしょうか。

 そこで、パラリンピックサポートセンターのHPを見てみました。すると、トップページに、次のようなキーワードが図示されていました。国際パラリンピック委員会は、出場するアスリートたちが持つ力こそ、パラリンピックを象徴するものだとして、4つの価値を掲げていたのです。すなわち、「勇気」、「強い意志」、「インスピレーション」、「公平」等々です。

こちら →https://www.parasapo.tokyo/paralympic

 確かに、車いすバスケットボールの動画を見て、私は感動してしまいました。障害を持つアスリートたちが、どれほど胆力があり、強い意志を持って競技に臨んでいるかを目の当たりにしたからでした。

 どんな困難があっても決して諦めようとせず、彼らは挑戦し続け、努力し続けて、困難を乗り越えてきたのです。そう思うと、気持ちが大きく揺さぶられてしまいました。障碍者スポーツを見ていると、ヒトは誰でも大きな力を与えられたような気になっていくのではないかと思います。

 障害を持つアスリートたちは、工夫し、努力しさえすれば、不可能を可能にできるということを目の当たりに見せてくれました。彼らはさまざまなバリアーを乗り越え、パワーを手にしてきたのです。そして、そのパワーはおそらく、今後の不確実性の高い社会を乗り越えていく大きな力になりうるものなのでしょう。

 そう考えると、競技し、観戦することを通して障碍者スポーツを体験する、あるいは、メディアを通して障碍者アスリートを知る、といったようなことがいかに重要か、よくわかります。障碍者スポーツを見て、知って、感銘する機会が増えれば、それまで障碍者に抱いていたイメージは容易に覆ります。そうなると、障碍者に対する障壁も自ずと低くなっていくでしょう。
 
 これまで見てきたように、両社はともに、分け隔てのない社会、あらゆるヒトが健康で快適に過ごせる社会の実現をモットーに掲げ、企業活動を展開しようとしています。一見、絵空事のように見えますが、実は、障碍者などの弱者のニーズに沿う製品やサービスの開発が事業活動として浮上しつつあります。

 モノが豊かに行きわたった今、「より便利に、より快適に」というだけではもはや消費需要を喚起できなくなってきています。しかも、高齢者人口は増加の一途を辿っていますから、さまざまな領域で消費需要は今後、低迷し続けるでしょう。

 そのような状況下で需要が見込まれるものの一つが、「障害の負荷を減らす」、「健康を維持する」ためのモノやサービスです。高齢になると誰しも、視聴覚機能が衰える、膝や腰を痛める、歩行が困難になる、といった障害を持つようになります。

 悲しいことに、どれほど健康で有能だったヒトでも、老いれば必ず、身体機能が衰え、歩行も困難になっていきます。そのような高齢者人口が日本では今後、さらに増大していきます。企業としては、そこにターゲットを定めるしかないでしょう。一見、絵空事に思えた三菱電機や清水建設の事業方針は理に適っているのです。

 ちなみに2020年パラリンピックの競技種目は以下の22種目です。それぞれの競技内容は動画で知ることができます。

こちら →https://tokyo2020.org/jp/special/paralympicsportsvideo/

 見てみると、それらの映像には字幕が付与されており、聴覚障碍者にも理解できるように配慮されています。また、視覚障碍者にわかるように、音声ガイドが提供されていました。視聴覚機能に障害を持つ観戦者にも配慮されていることがわかります。

 一方、大会組織委員会はアクセシビリティについてもルールを設け、障害を持つ人もスムーズに参加できるよう配慮しています。

こちら →
https://tokyo2020.org/jp/organising-committee/accessibility/data/support-guide.pdf

 考えてみれば、パラリンピックは全世界を対象にしたビッグイベントです。障碍者スポーツを観戦する滅多にない機会ですから、人々の意識変革を促す大きなきっかけになります。また、観戦者のアクセシビリティに配慮し、誰もが分け隔てなく観戦を楽しめる文化を醸成していけば、バリアーの低い社会に一歩、近づくことができるでしょう。

 こうしてみてくると、モノではなく、建造物でもなく、ヒトが健康で快適に暮らせるためのバリアーの低い社会の実現に向けたサービスこそが、今後の事業活動の中心になっていくかもしれません。工夫して臨めば、パラリンピックは誰もが「共に」、「分け隔てなく」暮らせる社会への糸口に十分、なりうるのです。(2019/11/29 香取淳子)

原ひろ子先生を偲ぶ

 いつの間にかもう10月28日、原ひろ子先生が亡くなられてから、あっという間に三週間が過ぎてしまいました。日が経つにつれ、その存在がいかに大きかったかを思い知らされています。最近、ようやく気持ちの整理がついてきましたので、この場で、原ひろ子先生を偲びたいと思います。

■突然の訃報
 2019年10月11日、「原ゼミの会」から訃報メールが届きました。原ひろ子先生が10月7日、午後6時38分に亡くなられたというお知らせでした。突然のことで驚いてしまいました。なんといっても、まだ85歳、思いもよらないことでした。

 定年退職して帰京してからは毎年、私は、「原ゼミの会」で原ひろ子先生にお目にかかっていました。先生の含蓄のあるお話しを聞くのが楽しみでした。毎回、言葉の端々から何かしら新鮮な刺激を受け、気持ちが鼓舞されていくのを感じさせられていました。今年は6月に開催される予定でした。ところが、腰椎骨折をされて、まだ痛みが残っているということで延期になってしまったのです。

 私の知り合いでも腰椎骨折を経験している人が何人かいますが、だいたい3か月を過ぎる頃から痛みが取れるということを聞いていました。ですから、そろそろ「原ゼミの会」開催のお知らせがくる頃だと思っていた矢先の訃報でした。

■東京大学大学院修了式での告辞
 その後、メンバーから連絡があり、2019年9月13日、東京大学大学院修了式で五神真・東京大学総長が告辞の中で、原ひろ子先生について触れられていたことを知りました。これから社会に出ていく大学院修了者に向けて、はなむけの言葉として、原先生の生き方とその業績を紹介されたのです。

こちら →https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message01_07.html
(英語表記の後、日本語表記があります)

 東京大学総長の五神真氏が原ひろ子先生のどこに着目されたのか、告辞内容をかいつまんでご紹介しておきましょう。

 原先生は、東京大学が女性に門戸を開いた最初の年に合格されました。1953年に入学された際、入学者約2000名中、女性はわずか8名でした。

 学部、修士課程では文化人類学を専攻され、日本の農・山・漁村で精力的にフィールドワークをされました。やがて「狩猟採集民について研究してみたい」と思うようになり、1959年、アメリカに留学されました。フルブライト奨学金を得てピッツバーグ大学大学院博士課程に進み、1960年にはブリンマー大学大学院人類学科に移り、1961年にカナダ極北で生活するヘヤ―・インディアンの調査研究を開始されました。

 当時、カナダ極北の地で生活する狩猟採集民は、リーダーがおらず、フラットな社会組織だと考えられていました。そこで、研究対象をヘヤー・インディアンに定めた原ひろ子先生は、大学院留学生の立場で、カナダの国立博物館に手紙を書いて支援を取り付け、現地に乗り込み、フィールドワークに励まれたのです。

 戦後間もない時期に、原ひろ子先生はなんと積極果敢に研究者人生を切り拓いてこられたのでしょう。

 青年期のこのような経験を知るだけでも、原ひろ子先生がいかに先進的で革新的な考えの持ち主であり、創造性豊かな努力家であったかがわかります。東京大学総長の五神真氏が、大学院修了者に向けた告辞の中で、原ひろ子先生を取り上げられた理由がよくわかります。

 大学院修了者たちは今後、不確実性の高い社会の中で研究活動を展開していかなければなりません。果たして研究者になれるのか、彼らは時に迷い、時に沈み込むこともあるでしょう。どのような場に身を置くことになろうとも、原ひろ子先生のように積極果敢に、そして、柔軟に道を切り拓いていこうとする姿勢がなければ、成果を得ることは難しいでしょう。原先生の来歴を告辞の中で紹介された五神真氏の思いがひしひしと伝わってきます。

■原ひろ子先生のお顔
 2019年10月13日、代々木斎場で執り行われたお通夜に行ってきました。先生のご遺影はにこやかで、可愛らしく、見ていると、悲しみの中でいっとき、気持ちが和んでいくような気がしました。茶目っ気のある先生の笑顔を思い出してしまったのです。研究者としての厳しさを見せられる反面、どんなヒトをも包み込むおおらかさがあり、笑顔の素晴らしい先生でした。

 最後に、お棺の中の先生にお別れをさせていただきました。先生は軽くお化粧を施されており、まるで少女のような初々しさが感じられました。普段、お化粧されないだけに、頬に薄く差された紅が印象的でした。可愛らしく、そして、穏やかで、とてもいいお顔でした。

 先生と出会った頃を思い出します。

■原ひろ子先生との出会い、そして、得たこと
 大学院在籍時、私は社会学系の研究室に所属していました。ところが、修了しても行き場がなく、途方に暮れていたところ、原ひろ子先生からお声をかけていただき、原研究室の補佐員になることになったのです。

 研究室に通うたびに何かしら新しい発見があり、ワクワクするような知的な刺激を受けていたことを思い出します。というのも、先生が直観力に優れ、観察力に優れた研究者だったからです。

 当時、私は数量化したデータを統計処理し、解析するという手法で調査研究を行っていました。まだ統計手法もそれほど洗練されていませんでしたので、果たしてこれで実態に即した分析ができるのかと疑問に感じていました。それなりに結果は出せるのですが、気持ちにそぐわないものを感じていたのです。

 ベースになる人間観、世界観を、私はもっぱら書物から得た知識によって作り上げていました。それでヒトや社会がわかったような気になっていたのですが、原先生と出会ってからは少しずつ、そのような認識の基盤が崩れていきました。

 原先生は、ヒトの何気ない言動、ありふれた事象の一つ一つに意義を見出し、生活文化の一環として捉えておられました。とても鋭く、説得力があり、魅力的でした。概念によってがんじがらめになって、方向を見失っていた私がようやく見つけた納得できるスタンスであり、パースペクティブでした。

 先生と接することによって私は、概念化以前、すなわち、言葉によって集約される以前の状態にまで、想像力を働かせることができるようにならなければいけないと気づかされたのです。

 もっとも、日常生活の断片から意義ある情報を掬い取るには、生来、直観力、観察力に優れていなければならず、さらには、柔軟な思考回路がなければ、観察結果を知見として結実させることも難しいでしょう。文化人類学というのは研究者の資質、能力に大きく依存した学問だという印象を持ったことを思い出します。

 原先生と接するようになってから私は、「生活文化」という概念に強く印象付けられ、そこに研究者としてのアイデンティティを覚えるようになっていきました。ですから、当時、論文を書いたり、学会発表をしたりする際、私は誇らしい気分で、所属先を「お茶の水女子大学生活文化研究会」としていたほどでした。もちろん、所属メンバーは私一人でしたが・・・。

■研究者として育てていただいたこと
 さて、私は補佐員として原研究室の事務作業を行う一方で、共同研究にも参加させていただきました。1983年、東大小児科の小林登先生を班長とする共同研究「厚生省母子相互研究班」の中の原ひろ子班(文化人類学)の一員に加えていただいたのです。原先生を長とし、文化人類学の馬場優子氏と実証社会学の私の3人のチームでした。

 この共同研究で私は初めて、原先生のご指導の下、文化人類学的手法で研究を行うことになりました。当時2歳9か月から3歳4か月の幼児4人に対し継続的に参与観察や心理テストを行い、それに合わせ、母親に対する調査を行いました。ホリスティックな観点から、母子コミュニケーションとテレビ視聴行動との関係について、実態把握を試みたのです。とても有益な経験でした。研究成果の一つは、「テレビとお話」というタイトルで、小林登・小嶋謙四郎・原ひろ子・宮澤康人編『新しい子ども学』第2巻(海鳴社、1986年)に収録されました。

 大学院終了後の数年間、私は原ひろ子先生という稀有な研究者を身近に感じながら過ごしました。おかげで、研究者としてのアイデンティティを確立することができ、研究者としての基礎的経験とその体力を身につけることもできました。調査研究、学会発表、論文執筆という一連の過程を先生の下で学ばせていただいたのです。

 さらに、ヒトとしての大きな収穫は、先生の言動から得た「気づき」の重要性でした。

■原ゼミの会
 「原ゼミの会」のメンバーもそれぞれ、研究者として、実践者として、先生にしっかりと鍛えられてきたのでしょう。定年退職後、東京に戻ってきてから、私は毎年、「原ゼミの会」に参加していますが、毎回、メンバーのパワフルな活動ぶりに驚嘆させられています。研究活動であれ、実践活動であれ、全国各地で「原ゼミ」のメンバーがパワーを炸裂させているのです。先生はいつも、にこやかにメンバーの報告を聞いておられました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 2016年7月10日、私は幹事の一人として「原ゼミの会」の開催を担当しました。このときも、和気あいあいとした雰囲気の中、メンバーからさまざまな研究活動や実践活動が報告されました。原ひろ子先生は終始にこやかに、メンバーの報告を聞いておられたことを思い出します。ご自身も第一線の研究者として幅広く活躍しながら、後輩の女性たちのパワーを引き出し、そして、暖かく見守ってくださっていたのです。

■読み返してみた『ヘアー・インディアンとその世界』
 先生のことを思い出しているうちに、ふいに、『ヘアー・インディアンとその世界』を読み返してみたくなりました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 今回、時間をかけて読んでみて、もっとも印象深かったのは、死をめぐる叙述の部分、すなわち、病院で聞いた話、そして、実際に死に際のヘヤー・インディアンに接した経験でした。

 原先生は、イヌヴィーク病院で聞き取り調査をした結果、死を間近にしたヘヤー・インディアンは、「経口食を拒否し、家族や親せき、知人に会いたがり」、やがて、「ついに黙ってしまって一晩のうちに死んでしまうのがほとんど」(p.365)だと書いています。
 
 また、実際に見聞したチャー二―の事例から、「死ぬと言い出してからは、紅茶を時折口に含むだけ」になり、テントに集まった家族、親戚、知人に見守られ、「横臥してぼそぼそと思い出話を続けるチャー二―に、みんなはフムフムと相槌を打っている」と原先生は書いています。

 チャー二―を取り囲んだ人々が、「それから?」と言って、話を促したりしないのは、(臨死の人の場合)「霊魂が肉体を出たり入ったりする」とヘヤー・インディアンの人々が考えているからだそうです。「人が目を閉じ、静止するとき、その人は自分の守護霊と交信するのだから、誰もそれを乱してはいけない。その人が目を開け、再びまわりの者とはなしはじめるまで待つ」(pp.367-368)というのです。

 さらに、「良い死に顔をして死んだ者の霊魂は、再びこの世に生まれるべく旅につく」とも考えられており、「良い死に顔で死ぬことは、死にゆく本人の願いでもあり、見送る人々の願いでもある」(p.368)と原先生は記しています。

 『ヘヤ―・インディアンの世界』を読み返してみて、改めて、超高齢社会への大きな示唆を得たような気がしました。
 
 印象深かったのは、ヘヤ―・インディアンの人々が淡々と、「死の自己決定権」とでもいえるようなものを行使していたことでした。先ほどご紹介しましたように、彼らは死期を悟ると、食べ物を口にせず、近親者を集めてお話しをし、生命を終える準備をします。原先生の記述によれば、病院であれ、生活の場であれ、ヘヤ―・インディアンのそのような態度は変わることがありませんでした。時を超え、連綿と継承されてきた死生観だからなのでしょう。

■超高齢社会への示唆
 「守護霊」のお告げを受けると、ヘヤ―・インディアンの人々は死に支度を始めます。今様にいえば、身体の衰えを知ると、「死を自己決定」し、周囲にそれを告知してから、死の準備に入るのです。

 具体的に言えば、食を絶つ一方で、ローソクの火が消えるように、命が尽きるまで、集まった人々を前に次々と思い出を語り、さまざまな想いを語り、この世に別れを告げていきます。そのように肉体の死とその精神的な受け入れとを同期させることによって、死を完結させるのです。

 一方、集まった家族や親せき、知人たちにとっても、これは死を考えるいい機会になります。死期を悟った人が語るさまざまな思いを聞き、その心情に思いを馳せることによって、死を穏やかに受け入れることができます。自然の摂理として死を受け止めることができるからこそ、永遠の別れを静かに受け入れることができるようになるのでしょう。「再生」という概念がその場にいるヒトたちに共有されているからこそ成り立つ生活文化だと思いますが、見事だといわざるをえません。

 それに反し、コマーシャリズムに突き動かされて暮らしているうちに、日本人はいつの間にか、老いや死を受け止める生活哲学を見失ってしまったように思えます。若さ、明るさ、健康をアピールする商品が溢れる社会状況の中で、人々はひたすら若さ、効率性、清潔を追い求めて暮らしています。老いや死にはネガティブなイメージが付与され、生の一環として捉えられずに切り離されて、施設や病院に追いやられています。

 このような文化状況下の2019年、日本の高齢人口(65歳以上)は28.4%と過去最多となりました。今後、この比率はますます増大する見込みです。老いや死を受け止め、それを昇華させていく生活文化、あるいは生活哲学がないまま、果たして、超高齢社会を乗り切れるのでしょうか。

 欲望の肥大化によって稼働している現代社会では、「足るを知る」という言葉は空虚に響きます。そのような社会に生きる私たちは、ヘヤ―・インディアンの人々が共有していた自然と一体化した死生観など持ちようがありません。高齢者人口は今後、増加の一途を辿るというのに、高齢者はこれまでになく、不安で惨めで、落ち着きのない晩年を過ごさざるをえなくなっています。

 原先生は、ヘヤ―・インディアンの再生観について、下記のように記しています。

 「ヘヤ―・インディアンの再生観には、死者と生者を含めての時間を超えた、ヘヤ―の世界における人と人との深いつながりが認識されているように思われる。病や死に直面しての人々の心のつながりや、再生観に見られる人と人とのつながりは、ヘヤ―を外から眺めるとき、まことに重要な事象であると思われる。重要だというのは、この事象が、ヘヤ―文化が固有のヘヤ―文化として少数の人口によって支えられ、世代から世代へと伝えられるうえでの凝縮性というか求心性を保つ役割を担っていると考えられるからである」(p.374)

 この箇所を読んでいて、ふと、現代社会が見失った最も大切なものは、人々の根幹を支える生活文化であり、歴史ではないかと思えてきました。横断的なパースペクティブが優先されて、縦断的なパースペクティブが置き去りにされてしまった結果、人々はまるで根無し草のように、「今を生きる」だけの存在になってしまっているのではないかという気がしてきたのです。

 改めて、コマーシャリズムによる生活文化ではなく、縦断的で根のある生活文化の重要性がわかってきました。とはいえ、果たして、ヒトが生きて、死んでいく過程を支える生活文化、あるいは、生活哲学を、現代社会の中で構築することは可能なのでしょうか・・・。原先生を偲び、言われたことを思い出しているうちに、なんだか、先生から新たな研究課題をいだたいたような気分になってしまいました。(2019/10/28 香取淳子)

スマートコンストラクション:建機業界フロントランナー・コマツの進化

■コマツ、アフリカ市場の開拓
 2019年9月20日、日経新聞で「コマツ、アフリカに新工場」という記事が掲載されていました。見出しだけ読むと、コマツが機械の製造工場を新設するように見えるのですが、リード部分を読むと、補修工場を新設すると書かれています。一体、どういうことなのでしょうか。その背景を知りたい衝動に突き動かされて、私は一気にこの記事を読んでしまいました。

こちら →https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49991150Z10C19A9TJ2000/

 コマツは建設機械メーカーで、売り上げのほぼ9割が建設機械と鉱山機械だといいます。そのコマツがアフリカで建設する新工場が、なんと鉱山機械の補修工場だというのです。私が不思議に思うのも当然でしょう。

 建機大手のコマツが、今後の成長が見込まれるアフリカ市場に進出することに違和感はありません。でも、なぜ、補修工場なのでしょうか。

 そもそも私は建設機械業界に興味はなく、新聞記事で知る程度の知識しかありません。しかも、たいていは見出ししか読まず、中身はスルーしています。ところが、今回の記事は、見過ごすことができませんでした。どういうわけか、気になるのです。

 記事を読み進めると、アフリカ市場にはすでに欧米メーカーが大きく食い込んでいるようです。その一方で、中国メーカーが急速に追い上げてきており、コマツが対応を迫られているという構図が見えてきました。

 そこまで読んでようやく、私がこの記事に引っかかっていた理由がわかりました。似たような記事を読んだことを思い出したのです。補修工場を新設することに違和感を覚えただけではなく、なぜ、立て続けに似たような記事が掲載されたのかが気になったのです。

 さっそく、新聞の切り抜き帖を取り出してみて、記憶に引っかかっていたのは、2019年8月1日付の日経新聞の記事だということがわかりました。

 「コマツ、IoT網で主導権」という見出しの記事でした。

こちら →
https://www.nikkei.com/nkd/industry/article/?DisplayType=1&n_m_code=142&ng=DGKKZO48042280R30C19A7TJ1000

 1か月半も経たないうちに、似たような見出し、紙面構成の記事を二度みたのですから、気になったのでしょう。

 こちらのリード部分では、コマツがどのような過程を経て、データ強者になっていったのか概略が書かれていました。具体的に言えば、1999年に遠隔監視システム「コムトラックス」を発売し、2017年にデータ活用の情報基盤「ランドログ」を立ち上げ、2019年10月には「レトロフィットキット」(他社を含む建機に後付け機器)を試験導入し、2020年に本格発売するという事業展開でした。

 コマツが着手しているのは、まさにデータ・ドリブン型事業といえるものでした。「レトロフィットキット」の導入事業を進めていけば、コマツは建機業でのデータ経済圏で主導権を握ることができるという内容だったのです。

 このようなコマツの事業展開について日経新聞は、米キャタピラーや中国勢とのグローバル競争を見据えているからだと指摘していました。

■米キャタプラーや中国メーカーとのグローバル競争
 見比べて読むと、二つの記事の背後にある状況が見えてきました。それは、コマツを取り巻くグローバル競争です。先行する業界1位の米キャタプラー、そして、急速に追いついてくる中国勢、コマツが比較優位に立つにはどうすればいいのか、というのが課題であり、今回、報道された2件はいずれも、その打開のための事業戦略といえます。

 9月21日付の記事はアフリカ市場を巡るものであり、8月1日付の記事はIoT網を巡るものでした。

 まず、将来、成長が期待できるフロンティアとしてのアフリカ市場への対応から見ていくことにしましょう。

 記事によると、アフリカ市場のシェアの大半は、1920年代に進出したキャタピラーやスウェーデンのボルボなどの欧米メーカーが握っているといいます。コマツは1969年代に進出して日系企業のODA需要を取り込んできましたが、現地でのシェアはまだ低いとされています。その間隙を縫うようにしてシェアの伸ばしているのが、中国のメーカーだというのが最近の状況です。

 中国メーカーの躍進ぶりがどれほどすさまじいものか、この記事だけではよくわからないので調べてみると、韓国メディアが中国メーカーの躍進の様子を伝えているのを見つけました。中国勢の猛撃に遭っても、日本メーカーはまだ上位にいますが、韓国メーカーはたちまちのうちに追い抜かれてしまったのです。それに脅威を感じた韓国メディアが、建機メーカーの世界ランキングの結果を踏まえ、伝えています。

こちら →
(韓国経済comより。図をクリックすると、拡大します)

 上の図は2018年度の世界売上高ランキングに基づいたものですが、妙なことに、上位2位までと、中国メーカーと韓国メーカーだけが取り上げられています。うっかりすると、ランキング1位から6位までが取り上げられているように錯覚しかねないのですが、ランキングの配列が、記事内容に合わせて変えられています。

 中国メーカーと韓国メーカーを比較するためなのでしょうが、かなり変則的な表です。そこに韓国メディアの焦りが感じられます。中国勢に抜かれたことに脅威を感じ、不安感を掻き立てられた韓国勢の反応を韓国メディアは代弁していただけなのかもしれません。

 先ほどもいいましたが、業界1位のキャタピラー(米)はすでに1920年代に現地代理店を設置しており、アフリカで高いシェアを誇っています。業界2位のコマツ(日本)は、アフリカには1969年に進出していますが、シェアはそれほど多くありません。

 このようにランキング上位に大きな変動はないのですが、近年、中国勢が大きく躍進してきたのが、波紋を広げているのです。中国勢は2018年には業界6位、7位にランクアップしています。そのせいで、韓国メーカー(9位、20位)がランク落ちしたというのが韓国メディアの記事の主旨でした。

 韓国メディアは、中国勢の台頭の中でもとくに三一重工の躍進が目覚ましいことに注目しています。そしてその躍進の要因として、マーケティング活動の充実と製品のラインナップの拡大を挙げています。

 一方、日経新聞は、三一重工の躍進を、中国政府の「一帯一路」政策によるものだと分析しています。ODA案件が増えたおかげで、中国メーカーが急速にアフリカでシェアを伸ばしたというのです。私はCCTVで時々、「一帯一路」政策の現地での様子を伝える番組を見ていますが、日経新聞のこの分析は納得できます。

■ブルー・オーシャン戦略か?
 アフリカ市場はいまや唯一のフロンティアといえる貴重な市場です。ところが、その市場でコマツは、欧米メーカーの既得シェアを崩すことができず、中国勢からは猛烈な追撃を受けています。いってみれば、にっちもさっちもいかない状態に置かれているのです。

 そんな状況下でコマツが取った戦略が、鉱山機械の補修工場の新設でした。先ほどもいいましたが、コマツは建設機械と鉱山機械を主に扱っています。それがなぜ、鉱山機械に的を絞ったのでしょうか。

 日経新聞の記事によると、それは、アフリカには金やプラチナ、ダイヤモンドなどの資源が豊富で、鉱山機械の需要が多いからだといいます。鉱山機械は現地で需要が多いばかりか、その営業利益率は建機よりも1割程度高いそうです。メーカーにとっては大きなメリットがある事業なのです。

 しかも、鉱山機械の場合、鉱物を掘り起こすため摩耗が早く、月に数回、部品の交換需要が発生するといいます。補修だけではなく、新品の部品需要も期待できるのです。それを知って、なるほどと合点しました。

 コマツのHPを見ると、鉱山の中でダンプトラックとショベルカーが置かれている写真がありました。

こちら →
(コマツHPより。図をクリックすると、拡大します)

 2台のうち、小さく見えるのがダンプトラック930eと表示されています。ネットで調べてみると、これが世界最大のダンプトラックなのだそうです。どれほど大きいものか、知りたくてネットで検索すると、YouTubeに1分の43秒の映像がありました。見てみることにしましょう。

こちら →https://www.youtube.com/watch?v=K5zg0z740OU

 これを見ると、ダンプトラックといいながら、まるでビルのような大きさです。それに比べると、普通の乗用車が必死で逃げ回る小動物のように見えます。鉱山で使われているのが、このダンプトラックです。HPを見ると、その隣のショベルカーはさらに大きいので、実際に見ると、想像を絶するほど巨大なのでしょう。

 これで鉱山を掘り、鉱物を掘り起こしていくのです。鉱物は硬いですから、当然、摩耗も激しいでしょうし、破損もするでしょう。人里離れた鉱山で故障すれば、業務はすぐさまストップしてしまいます。機械はできるだけ故障しないように、メインテナンスを徹底する必要があるでしょうし、故障したとしてもすぐに対応できる体制を整えておくことがなによりも重要になってくるでしょう。

 こうしてみてくると、業界2位のコマツが敢えて補修工場を新設したことの理由がよくわかります。現地の状況を見れば、高い需要が見込まれる事業内容だったのです。建機の補修をメインにしたビジネスモデルがとても新鮮に思えてきました。まさにブルー・オーシャンといえる事業でしょう。コマツの狙いは大当たりするかもしれません。

 そういえば、9月20日付日経新聞の記事の最後の方で、コマツの執行役員の見解が披露されていました。興味深いことに、「安い中国製品に最初は飛び付いたが、その後のサービスが乏しくて困っている顧客も多い」といっているのです。おそらく、それがアフリカ市場の実態なのでしょう。とすれば、中国製の建機が普及すればするほど、それに伴い、補修を提供するビジネスにも需要があるといえます。

 鉱物資源の豊富なアフリカでは、今後、さらなる建機需要が見込めることは確かですから、一見、奇妙に思えた建機の補修というビジネスは、実はとても有望な事業だという気がしてきました。

■データ・ドリブン社会に適したコマツの事業展開
 先ほどもいいましたように、私は建機業界については何も知りませんが、今後、機械が精密化すればするほど、操作できる人材の確保は難しくことは予想できます。その一方で、現場で不測の事態に対応できない事態も多々、発生するでしょう。そうなれば、メインテナンス、補修などのサービス需要が増えることは必至です。

 実は8月1日付の記事はその需要に対する事業内容でした。この記事には図が添えられていました。わかりやすく書かれていましたので、ご紹介しておきましょう。

こちら →
(2019年8月1日付日経新聞より。図をクリックすると、拡大します)

 この図を見ると、コマツはまず、遠隔監視システム「コムトラックス」を開発し、次いで、データ活用の情報基盤「ランドログ」を立ち上げ、そして、「レトロフィットキット」を試験導入し、2020年には本格発売するという行程を経ています。着実に進化しながら、事業展開していることがわかります。

 いずれも情報通信技術と建機を組み合わせたサービスです。これらのサービスによって、安全で正確に、そして、容易に仕事ができる環境を整備してきたのです。さらに、そこで派生したデータに基づき、さらなるサービスが提供できるような事業展開をしてきたことが示されています。

 それでは、コマツが提供してきたサービスを順にみていくことにしましょう。

 ネットで検索すると、コマツが開発したコムトラックス(KOMTRAX)に関する記事が見つかりました。2013年3月㏪に掲載された記事で、当時コマツの取締役会長であった坂根正弘氏の見解が記されています。

■ダントツ商品、ダントツサービス、ダントツソリューション
 坂根正弘氏は「コムトラックス」の開発当時を振り返り、油圧ショベルの盗難対策として構想した商品だったといいます。当時、盗んだ油圧ショベルでATMを壊して現金を強奪する事件が日本で多発していました。私も新聞テレビなどの報道を見た記憶があります。一連の時間をきっかけに、油圧ショベルに「GPSをつけたらどうか」ということになって、開発したのが「コムトラックス」だといいます。

 建設機械にGPSを搭載すれば、所在場所を確認することができます。さらに、通信機能を装備すれば、他のセンサー情報も取れるようになります。そうして、エンジンコントローラーやポンプコントローラーから情報を集めることができれば、その機械がいまどこにいるのか、稼働中なのか休止中なのか、燃料の残量はどのくらいなのかといった情報を取得できます。

 このように、一連の事件を奇貨として、コマツは、建設機械にGPSを搭載し、通信機能を使って、センターにデータを送信する仕組みを開発したのです。これが「コムトラックス」というシステムです。

 「コムトラックス」を開発することで何が起きたかといえば、「コマツの機械を盗んだらすぐ追跡される」と評判になったといいます。さらに、コマツは、500メートル以上車が移動したらお知らせメールが送信される、サーバーから命令するとキーを入れてもエンジンがかからないという仕組みを開発しました。

 その結果、油圧ショベルを盗んでトレーラーに乗せ、ATMの前に行ってもトレーラーから下ろせなくなりました。今度は、「コマツの機械は盗んでも使えない」ということが評判になって、盗難が劇的に減ったといいます。

 坂根正弘氏は、この「コムトラックス」をダントツ商品といいます。その後、「コムトラックス」は情報通信技術の進化とともに進化していきます。

 コマツのHPには「ダントツ商品」というコーナーがあります。

ダントツ商品

こちら →https://home.komatsu/jp/company/tech-innovation/products/

 坂根正弘氏は、ダントツ商品もいつかは競合他社に追いつかれるといいます。それでも売れ続ける仕組みをつくるには、ダントツサービス、さらには、ダントツソリューションを提供していく必要があるというのです。

 コマツのHPには「ダントツサービス」というコーナーがあります。

ダントツサービス

こちら →https://home.komatsu/jp/company/tech-innovation/service/

 たとえば、「コムトラックス」を搭載した機械であれば、データを収集・分析することができます。その結果にしたがって、顧客にこうすれば燃料消費を抑えられるといったようなフィードバック・サービスを提供できるといいます。

 また、コマツのHPには「ダントツソリューション」というコーナーがあります。

ダントツソリューション

こちら →https://home.komatsu/jp/company/tech-innovation/solution/

 たとえば、チリやオーストラリアでは、すでに無人ダンプトラックが動いているといいます。鉱山会社から無人ダンプが必要とされているからです。資源開発が進めば、掘りやすい現場は次々と掘りつくされて、次第に奥地に入っていかざるをえません。決められたルートを往復するだけの単純作業を強いられるダンプの運転手は、気の緩みから転落事故を起こす危険性があります。そのような危険を回避するために、鉱山などでは、無人ダンプトラックの需要が高まっています。

 そこに、飛行場の管制塔のようなコントロールセンターを設置し、数人の監視員が鉱山の中のダンプを管理できるようにすれば、安全でしかも最適な燃料消費も実現できることになります。ICTを活用することによって、結果として、顧客にソリューションを提供できることになるのです。

 坂根正弘氏はすでに2013年、ダントツ商品、ダントツサービス、ダントツソリューションを提供することによって、「コマツでないと困る」という信用を得ることができるといっています。

 「コムトラックス」に始まる商品、サービス、ソリューションの提供ことが顧客の信頼を得る最大の武器だといっているのです。そのような取り組み姿勢はコマツで継承され、さらに進化し、共有されています。

■スマートコンストラクションに取り組むコマツ
 コマツは4年前から「スマートコンストラクション」の取り組みを始めています。スマートコンストラクション推進本部長の四家千佳史氏がこれについて述べている記事を見つけましたので、ご紹介しましょう。

こちら →https://lexus.jp/magazine/20190306/316/tec_smartconstruction_ict.html

 これを読むと、スマートコンストラクションはコマツが手掛けてきたダントツソリューションの進化したものだということがわかります。すでに日本が直面している人手不足という課題に向けて、ICTを活用したソリューション体制を構築しようとしていることがわかります。

 コマツにはスマートコンストラクション専用のHPも設定されています。

こちら →https://smartconstruction.komatsu/

 ホーム画面には、スマートコンストラクションに向けたポリシーが載せられています。見てみることにしましょう。

 「労働力不足やオペレータの高齢化、安全やコスト、工期に関わる現場の課題を、お客様とともに解決していきたい」と考え、「現場全体をICTで有機的につなぐことで生産性を大幅に向上」させ、「未来の現場」を創造していくことによって、課題を解決していくというものでした。

 四家千佳史氏は、建設業界では人手不足が深刻な問題になっているが、とくに不足しているのが、工事を実際に行う技能労働者だといいます。技能労働者の多くが高齢で次々と退職しているのに、新規就労者数が少ないというのが実態で、入管法を改正して外国人労働者を増やしても、この人手不足は解消されないと指摘しています。

 人手不足だからといって、工事を減らすことはできず、新規の工事はもちろん、老朽化したインフラの保守や再整備の工事は不可欠です。では、どうすればいいのか。四家千佳史氏は、「建設現場の労働生産性をあげること。また、建設現場をスマートで安全なものにして、多くの人が参入できるようにする。それ以外に方法はない」といいます。

 そのために、建設現場を根本的に変える必要があるといい、四家千佳史氏が先頭に立って、「スマートコンストラクション」を2015年にスタートさせました。施工計画、施工作業など、これまではベテランの技術者の技量や経験に頼る部分が大きかった建設工事のやり方を根本的に変革する仕組みです。

 スマートコンストラクションでは、ICTを活用して現場のあらゆる要素を3次元のデジタルデータ化し、工事全体を可視化します。そうすることによって、生産性を劇的に高めることができます。さらに、これは人材不足の解消だけではなく、工事の安全性の向上にも寄与できる画期的なソリューションだと四家千佳史氏はいいます。

こちら →
(スマートコンストラクション概念図 コマツより。図をクリックすると、拡大します)

 まず、ドローンを使って施工前の現場を3次元で測量しデータ化します。それとともに、2次元の完成施工図面も3次元データ化します。この二つのデータを比較することによって、施工作業が必要な範囲、作業する場所の形状、施工時に出てくる土砂の量などを正確に割り出します。これらのデータに基づいてコンピュータ上で工事のシミュレーションを行い、何通りもの施工計画案を顧客に提案する、というものです。

 また、施工作業終了後には毎回、ドローンを飛ばして現場の測量を行います。そうすることによって、スケジュールに従って、設計図通りに施工されているかどうかを正確に確認することができます。そして、工事完成後の最終的な検査も、ドローンを使ってスピーディに正確に行うことができるというのです。

こちら →
(ドローンを使った日々の管理 コマツより。図をクリックすると拡大します)

 四家千佳史氏は、スマートコンストラクションによる施工計画はすべて3次元データに基づいているので、同じものは一つもないといいます。これまでの施工実績から得られた知的財産が反映されているからこそ、より現実に即した提案が可能になるのでしょう。ICT技術によって工事の情報全体が3次元デジタル化されているから可能なのだと指摘します。

■社会的課題解決にはICTの高度活用か?
 こうしてみてくると、このシステムの素晴らしさは、3次元デジタルデータによって現場が記録され、それが集積されることによって新たな発見がうまれ、それを踏まえてシステムが洗練されることによって、より現実的な解が得られるようになっていることでしょう。

 興味深いことに、コマツのHPではスマートコンストラクションの導入事例が報告されています。

こちら →https://smartconstruction.komatsu/case/index.html

 全国各地、さまざまな現場で導入されていることがわかります。なによりも現場の声を聞くことができるのが、素晴らしいと思います。現場が異なれば、携わるヒトも異なります。それぞれに活用に仕方があっていいと思いますし、このような事例の積み重ねが新たな発見につながり、新たな課題、ソリューションに向けた取り組みのスタートになるでしょう。

 今回、畑違いの領域に首を突っ込み、書いてみました。知識がないので、いろいろと調べ、考えていくうちに、コマツの取り組みを通して、今後の社会を考える手がかりを得られたような気がします。現代社会で発生しているさまざまな課題はどれも根っこの部分で共通のものがあるからでしょう。そうだとすれば、超高齢社会による課題もこのICTを適切に活用することによって、最適の解が得られるかもしれません。(2019/9/22 香取淳子)