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晦日に再訪した秩父

■今年、やり残したこと
 2017年12月30日、今年もいよいよ終わろうとしているというのに、なんだか気持ちが落ち着きません。何かやり残したことがあるような気がして仕方がないのです。ああでもないこうでもないと思いを巡らせているうちに、ようやく思い当たりました。秩父神社にお参りできなかったことが気になっていたのです。

 さっそく、レッドアロー号に乗って、秩父に向かいました。晴れ上がった青空の下、冬の装いをした秩父の山並みが広がっています。車窓からは、雪の溜まった窪地も見えます。実は秩父に来るのはこれで二度目でした。前回、来たのは今月2日の夕方、秩父夜祭を見るためでした。

■夜祭の人混み
 12月2日から3日にかけて、秩父夜祭が開催されました。この夜祭では花火が打ち上げられるということを知って、酔狂にも、行ってみることにしたのでした。

 私は知らなかったのですが、実は、秩父夜祭は、2016年12月1日、「秩父祭の屋台行事と神楽」を含む『山・鉾・屋台行事』33件が、ユネスコ無形文化遺産に登録されています。西武秩父線は一時、廃線すら話題に上ったこともあったのですが、ユネスコ登録以来、一躍、注目を集めるようになったようです。

こちら →http://www.city.chichibu.lg.jp/6694.html

 ユネスコに登録されたことを知って、私も秩父に行ってみようと思いました。このとき、私が乗ったレッドアロー号の車両では、乗客の半数は外国人でした。それも、一目で外国人とわかるヒトたちです。ユネスコに登録されてから、秩父は首都圏内の観光地として注目を浴び始めているのでしょうか、そんな気がするぐらいでした。

 秩父駅に降りても大変な人混みでした。

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 もちろん、秩父神社に向かう道路も、ヒトで溢れかえっていました。

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 立錐の余地もないほどです。身動きのとれないほどの混みように、これ以上進むのは無理ではないかという思いが強くなっていきました。山車が狭い道をふさぐようにして、神社を目指して集まってきています。それに合わせるように、人々もまた、各方面から押し寄せてきます。満員電車のような混みように、ついには、秩父神社を目の前にしながら、先に進むことを断念してしまいました。

 そうはいっても、人混みに逆らって、西武秩父駅に戻るのも大変でした。そこで、メイン通りから横町に入り、混雑を避けながら、戻っていくことにしたのですが、途中、珍しいお店を見ました。

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 どうやら、この辺り一帯はかつて絹織物で栄えたようでした。そのことを知らせる標識もあります。「買継商通り(出張所横丁)」という標識があり、簡単な説明文が刻まれています。当時は交通が不便で、近郷の織物工場が製品を置き、取り引きをするため、出張所を作っていたと書かれています。この出張所横丁は一年中、賑わっていたようです。

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 再び、メイン通りに戻ってみると、神社に向かう山車に出会いました。夜なので、よく見えませんが、精巧な彫り物が添えられた、とても立派な山車でした。

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 ようやく、西武秩父駅まで戻ってきました。一休みしようと思ったのですが、駅に隣接したフードコートもまた、大勢の人々が列を作っていました。座ることもできません。これではどうしようもないと思い、iPhoneで調べてみると、ひとつ手前の横瀬駅から歩いて行ける距離に、武甲温泉があることがわかりました。

■武甲温泉
 一休みするため、武甲温泉に行くことにしました。秩父で花火が打ち上げられる頃になるまで、温泉に入っていようと思ったのです。横瀬駅を降りて、武甲温泉に向かう道は人通りも少なく、清冽な空気に包まれていました。

 暗闇の中に満月が静かな光を投げかけています。幻想的な雰囲気の中、下っていくと、暗闇の中、ぼおっと明るく照らされたところがあり、それが武甲温泉でした。

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 温泉には地元の人が数人いるぐらいでした。露天風呂には人の気配もありません。ゆっくりと身を沈め、夜空を眺めると、左手に満月、右手に花火が見えました。秩父で打ち上げられた花火がここでも見られたのです。秩父夜祭は豪快な花火で有名です。それが空を恰好の舞台に、次々と打ち上げられ、静かな闇の中に華やかさを作りだしていました。

 横瀬駅で秩父行きの電車を待っていると、夜空に大きく、花火が打ち上げられているのが見えました。暗闇の中、ゆっくりフェードインしてきたかと思うと、たちまちフェードアウトしてしまう花火を見ていると、いつになく、心が大きく揺さぶられました。冬の夜空に華麗に花開いた花火に、「つかの間の美」あるいは、「滅びの美」を感じてしまったからでした。

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 そんなわけで、秩父夜祭を十分に堪能することはできませんでしたし、肝心の秩父神社にもお参りできませんでした。それが晦日の朝、気になって落ち着かない気分になっていた原因でした。

 さて、秩父の夜祭については、さまざまな映像がネット上にアップされているので、ご紹介しておきましょう。

こちら →https://navi.city.chichibu.lg.jp/p_festival/1030/

■晦日の秩父
 晦日、レッドアロー号に乗って、再び、秩父を訪れました。夜祭の際、お参りすることができなかった秩父神社に行くためでした。乗った車両は今回、日本人ばかりでしたし、空席もあります。西武秩父駅に降りても、ヒトは少なく、ちょっと待つと、行き交うヒトが途絶える瞬間もありました。

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 おそらく、これが平常の姿なのでしょう。駅に隣接するみやげ物店やフードコートも混みあっていません。

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 秩父神社もまた、訪れているヒトの数が適度で、落ち着きがありました。

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 境内に入ると、二本の垂れ幕が翻っていました。秩父神社は2015年に鎮座2100年を迎え、2016年にはユネスコ世界遺産に登録されるといったお祝い事が続きました。それを記念するための垂れ幕がいまだに掛けられているのです。お祝い事が重なったことへの喜びがひしひしと伝わってきます。

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 さて、秩父神社は「北辰の梟」が有名なのだそうです。
本殿北側に彫刻された梟は「北辰の梟」と名付けられており、身体は正面を向き、顔は正反対を向いて描かれているのが特徴なのだそうです。写真を撮ってみましたが、肝心の梟が小さくてよく見えません。木の葉や鳥にまぎれるように小さく、中央に彫られているのが梟です。

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 この「北辰の梟」にちなんで、以下のような説明がされているサイトを見つけました。興味深いので、ご紹介しておきましょう。毎年、受験生が多数、お参りに来るそうです。

こちら →https://www.hokushin-t.jp/hukurou.html

 そもそも、秩父神社は、八意思兼命の十世の子孫である知知父彦命が創建したといわれています。

こちら →http://www.chichibu-jinja.or.jp/saijin/index.htm

 八意思兼命は政治、学問、工業、海運の祖神です。受験生が数多くお参りにくるものも、ひょっとしたら、「北辰の梟」のせいばかりではないのかもしれません。秩父神社の祖神が、学問を奨励し、工業あるいは産業を振興し、交通を切り拓いていくことを旨としているなら、積極果敢な精神こそ、その真髄です。受験生ばかりでなく、起業者、創造者もまた、お参りに来てもいいでしょう。

 秩父神社を出ると、すぐ前の店の屋根の看板に「和同開珎」が掲げられていました。ここはかつて純度の高い銅が生産されていた土地のようです。

■再訪した秩父で見たもの
 今回は昼間、訪れたせいで、前回は気づかなかった街の古い建物に印象付けられました。今では見かけることもない煙草店がありました。角が丸くかたどられ、大きな紋章が目立つ3階建ての建物です。

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 少し進んでみると、煙草店の表示が見えます。

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 医院もまた、今では滅多に見ることもできない風雅な建物でした。

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 そうかと思えば、2階に縁台のついた、時代を感じさせる建物もあります。

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 こちらは印刷店でした。

 石畳の街の両側に経つ建物から、往時の街の営みが感じられます。山深い秩父の街の繁栄が建物を通して、今に蘇ってきたようです。

 秩父神社を左に曲がって歩いて行くと、これまた時代を感じさせる建物がありました。

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 こちらは酒造店でした。中に入ると、特産のお酒が並んでいました。ボトルにしてもラベルにしても手作り感が面白く、赤ワインと梅酒、酒粕を買いました。

 伝統を生かしながら、21世紀の現代社会に訴求できるものは何か、この秩父の街で見たような気がします。郷愁を感じさせるとともに、時代を超えて静かに輝く身体性とでもいえるものが、街の随所に見受けられたのです。

 西武秩父に隣接して、土産物店やフードコート、そればかりではなく、温泉も設置されていました。

こちら →
(HPより。図をクリックすると、拡大します)

 この温泉は泉質もよく、さまざまな湯を楽しむことができるよう配慮されていました。湯に浸かっていると、次第に気持ちもほぐれてきます。便利で機能的で、都会生活者にはぴったりの温泉でした。

 晦日の朝、落ち着かない気分を払拭するため、秩父神社にお参りをしてきました。ついでに、秩父の街を散策し、温泉に入って、ようやく気分がおさまり、2017年の終わりを迎えることができました。来年も、いい年でありますように。(2017/12/31 香取淳子)

石川組製紙にみる起業家の栄枯盛衰

■「石川組製紙ものがたり」展の開催
 入間市博物館でいま、「石川組製紙ものがたり」展が開催されています。開催期間は2017年10月21日(土)から12月10日(日)、開催時間は9時から17時までです。

こちら →http://www.asutomo.net/event/detail.php?id=12345

 2017年11月25日、たまたま埼玉県に行く用事があったので、ついでに立ち寄ってみました。はじめて訪れたのですが、入間市博物館は、見晴らしのいい高台に建てられており、広大な緑地に佇む姿は壮観でした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 私は知らなかったのですが、埼玉県はかつて、主要な養蚕県だったそうです。とくに入間市近辺は、水田に適さない土地が多く、江戸時代から農業の合間に、養蚕が行われていたといいます。それが、明治時代になると、外貨を稼ぐ物資として、明治政府から生産を奨励されるようになりました。

 養蚕はどうやら生活文化としてもこの地域にしっかりと根付いていたようで、展示品の中には、蚕の神様を描いた大きな軸もありました。

こちら →
(解説ガイドブック、p.8、図をクリックすると、拡大します)

 これは入間市近辺の野田で行われていた「おしら講」で掛けられていた蚕の神様を描いたものです。大正11年(1922年)の作品だそうですから、江戸時代から少なくとも、そのころまでは、主要な生活文化として根付いていたのでしょう。

■石川組製糸
 本展覧会のタイトルは、「石川組製糸ものがたり」です。その名の通り、展示品を丁寧に見ていけば、石川組製糸の創業から廃業に至る過程がわかるようになっています。

 石川組製糸は1893年に創業されました。ちょうど、家内工業的な座繰製糸から近代的な機械製糸へと転換しはじめていたころでした。石川組製糸も創業の翌年には機械製糸に移行しています。

 もっとも、それよりも10数年前の1877年に開催された第1回内国勧業博覧会ですでに機械製糸の様子が披露されており、歌川国明がその情景を描いています。

こちら →
(解説ガイドブック、p.11より。図をクリックすると、拡大します)

 上図を見ると、女性たちがおしゃべりをしながら、一列に並んで仕事をしている様子がわかります。機械化され、分業化された仕事を彼女たちはてきぱきとこなしながら、どこか楽しそうです。そんな情景をまるでもの珍しいものでも見るかのように、観客たちが興味深そうに眺めています。

 この錦絵からは、近代化に突入していった明治時代の人々の様子を垣間見ることができます。開国の機運に燃えていたのでしょうか。多くの人々は、次々と新しいものを受け入れ、新機軸を開くための努力を惜しまず、学びながら、自身を変革させていきました。激動の時代に合わせていった人々の姿が健気で、いとおしく思えます。

■殖産振興の一つとしての繊維産業
 幕末の1858年、日米修好通商条約が締結されて以来、お茶や生糸といった入間の特産物が注目されるようになりました。対米向けの輸出物資として、その生産が奨励されるようになりました。近代化に着手した明治政府はまず、製糸や紡績といった軽工業を中心に外貨稼ぎを画策したのです。

 当時、繊維産業の輸出に占める割合は50%強にもなっていたそうです。その中心は生糸で、以後しばらくは、生糸、絹は外貨獲得の主要な物資でした。殖産振興の一つとして戦略的に産業化が推進されていたのです。

 官営工場として有名なのは、さきごろ世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸工場ですが、埼玉県入間近辺にも製糸事業者が何人もいて、互いに競い合い、切磋琢磨して、事業を発展させていきました。石川組製糸もその一つでした。

 輸出品としての生糸は多少の変動はありますが、1868年から1930年ごろまではトップを維持していました。下記グラフを見ると、明治期から大正を経て、昭和の初期に至るまで生糸、絹織物など繊維産業が輸出産業として重要な役割を果たしていたことがわかります。

こちら →
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4750.htmlより。図をクリックすると、拡大します)

 やがて繊維産業は衰退し、船舶、鉄鋼、そして、自動車、機械・機器へと日本の主要な輸出品目は変化していきます。

■石川幾太郎 
 展覧会は第1章から第7章で組み立てられていました。その中で、私が強く印象づけられたのは、創業者である石川幾太郎(いくたろう)の人生でした。幕末に生を受け、日本の近代化のうねりの中で地域のために必死に生き、さまざまな面で大きく地域貢献も果たしたにもかかわらず、一代でその事業を終えました。

 そうした姿が、私の祖父の姿に重なるのです。

 私の祖父は、石川幾太郎よりも20年ほど遅く生まれています。その名前は、漢字表記こそ違いますが、読みは同じ、「いくたろう(郁太郎)」でした。兵庫県に生まれながら、上京し、東京神田で予備校のようなものに通ってから、京都帝国大学医学部に入学しました。

 卒業後は地域医療に専念し、医師会を立ち上げる一方で、地域のヒトたちと社会を考えるための勉強会を行っていたようです。私が子どものころ、実家の中庭と裏庭の中間に、「錬生館」と名付けられた建物がありました。

 庭を抜けて数段ほどの階段を上がって、建物の扉を開けると、その右横はちょっとした棚になっており、茶道具などが置かれるようになっていました。南西の二面はガラス張り、東面の壁面一体は本棚になっており、普段は襖で隠されていました。珍しい高床式の建物でしたが、いま思えば、本を湿気から守るためだったのでしょうか。

 祖父はここで勉強会を開催し、地域の有志たちと日本社会のあるべき姿を話し合っていたようです。その「錬生館」は台風で壊れたまま修理されることもなく、いまでは弟の家の一部になっています。

 庭に残る礎石を見ると、急に、祖父を思い出してしまうことがあります。日本が近代化のために明け暮れていたころ、地域医療に貢献するだけではなく、文化的支柱を求めて勉強を続けていた祖父の姿にふと、畏敬の念を覚えるのです。

 石川幾太郎に関心を覚えたのも、実はこの点でした。繊維産業で成功を果たし、さまざまな点で地域社会に大きく貢献していながら、その事業を継続することはできませんでした。そこに、ヒトの世の栄枯盛衰を感じずにはいられません。改めて、ヒトが生きるということの意味を考えたいと思いました。(2017/11/30 香取淳子)

メッツ絵画教室の講師作品展が開催されています。

■メッツ絵画教室講師作品展
 銀座並木通りのギャラリー杉野でいま、メッツ絵画教室の講師作品展が開催されています。開催期間は2017年10月30日(月)から11月4日(土)、開催時間は11時から19時(最終日は17時まで)です。

こちら →
(ギャラリー杉野:http://www.geocities.jp/anartgalleryjp/access.html
(図をクリックすると、拡大します)

 出品作品は、メッツ絵画教室で指導を担当している若手画家10人による新作です。日本画、洋画、具象画、抽象画、風景画、人物画、動物画、等々。さまざまなモチーフがさまざまな構図、技法によって作品化されており、見応えがあります。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 メッツ絵画教室(新宿、銀座)では、現役の若手画家が指導を担当しており、主催者は時折、このような展覧会を催し、画家たちに発表の舞台を提供しています。

 今回、展示されていた作品はいずれも、手法であれ、テーマであれ、モチーフであれ、斬新な取り組みが印象的でした。日々、表現を模索している若手画家たちの心意気がそのまま伝わってくるようでした。今後、さらに研鑽を積み、新たな表現世界を切り拓いていって頂きたいと思います。(2017/10/31 香取淳子)

国交樹立150周年記念:デンマークと日本をつなぐ、スエンソンとアンデルセン

■国交樹立150周年記念「アンデルセン展」の開催
 狭山市立博物館で、国交樹立150周年記念「アンデルセン展」が2017年8月26日から10月22日まで開催されています。アンデルセンといえば、著名な童話作家です。それが、なぜ、日本とデンマーク国交樹立150周年の記念企画として取り上げられたのか、私には不思議でした。

 子どものころ、私はアンデルセンの童話をよく読んでいましたが、彼がデンマーク人だということを意識したことはありませんでした。外国、それも、せいぜい、ヨーロッパの童話作家という程度の認識です。ですから、今回、日本との国交樹立記念イベントとして、アンデルセン展が開催されていることを知って、軽い驚きをおぼえました。

 これまで私はデンマークにはあまり馴染みがなく、それほど関心もありませんでした。おそらく、一般の日本人もそうでしょう。ですから、今回、国交樹立150周年と聞いて、やや違和感を覚えたのです。

 150年前といえば1867年、まだ元号が明治になる以前の出来事です。そんな時代に、日本がデンマークと国交樹立していたのかと、すぐには信じられなかったのです。ところが、1867年、日本とデンマークは国交樹立していたというのです。

 明治維新以前に日本と関係があった諸外国といえば、米、露、仏、英、蘭ぐらいしか私は思いつきません。まさか、北欧のデンマークと関係があったとは・・・。なぜ、デンマークと国交を樹立するに至ったのか、アンデルセン展よりもそのことにまず、私は興味をかき立てられました。

 そこで、デンマーク大使館のHPを見ると、1867年に日本とデンマークは修好通商航海条約を締結していたことがわかりました。つまり、国交を樹立していたのです。

こちら →http://lifeisdesign.net/1069/

 上の写真は大日本印刷が制作した「修好通商航海条約」の精密なレプリカです。両国の国交樹立150周年を記念して、今回、デンマークに残されている原本を元に複製されました。画面を見てわかるように、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の署名(源慶喜)まである貴重なもので、現在、国立公文書館に保存されています。

 なにも、このレプリカ制作に限りません。両国の国交樹立150周年記念に関し、大々的なキャンペーンが展開されています。各地で展開されるイベントや関連事業に使う共通のロゴまで、日本とデンマークのデザイナーによって考案されていました。

こちら →
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 それにしても、デンマークはなぜ、維新の動乱期に、日本との国交を樹立したのでしょうか。

 デンマーク大使館によると、当時、デンマークは1864年の対プロシア(プロイセン)戦争の敗北から立ち直る過程にあり、日本との貿易に期待していたそうです。開国を目前にした極東の島国との交易に期待せざるをえないほど、デンマーク経済はひっ迫していたのでしょうか。

 そこで、ざっと調べてみると、1864年、ドイツ系住民の暴動を機にプロシア・オーストリア連合軍とデンマークとの間で戦争が勃発しました。その結果、ビスマルク率いる連合軍にデンマークは敗北し、以後、14世紀以降北欧の大国であったデンマークが凋落していきました。

■明治維新前後の日本とデンマーク 
 明治以前に日本にやってきた欧米人はオランダ、イギリス、フランス、ロシアなど多数にわたっています。諸外国との国交樹立という観点からみれば、1854年に日米和親条約を結んだ後、1858年に米、英、仏、露、欄と修好通商条約を締結し、貿易を開始しました。その後、1860年にポルトガル、1861年にプロシア、1864年にスイス、1866年にベルギー、そして、デンマークとは1867年1月12日でした。大政奉還によって徳川幕府が終焉したのが1867年10月14日、まさに、幕府最後の条約署名でした。

 当時、来日したデンマーク人を探し出すのは容易ではありませんでした。ようやく、1866年にデンマーク人エドゥアルド・スエンソン(Edouard Suenson)がフランス軍の軍人として日本にやってきたという記録をみつけました。

 興味深いことに、1867年にフランス公使が徳川慶喜と謁見した際、スエンソンも陪席していました。よほど信頼が厚かったのでしょうか、あるいは、語学が堪能だったのでしょうか。フランス軍に在籍していたとはいえ、スエンソンはデンマーク人です。

 そういえば、幕府がデンマークとの条約を締結したのが1867年1月12日でした。スエンソンが離日し、デンマークに帰国したのが1867年7月ですから、日本とデンマークの修好通商航海条約の締結に彼が関与していたのは明らかです。その流れでいえば、幕府との交渉に実績のあるスエンソンが、フランス公使に付き添って徳川慶喜に謁見したというのは、決して不思議なことではありません。

 さて、デンマークに帰国した後、スエンソンはデンマーク海軍に復帰しました。ちょうどそのころ、デンマークのコペンハーゲンに国際通信社を目指した会社が設立されました。設立者は中国や日本にまで通信回線を延長したいと考えていたそうです。そこで、白羽の矢が当たったのが、エドゥアルド・スエンソンでした。

 当時のヨーロッパ北部の情勢を考えると、デンマークで最先端の電信を使った国際通信社を立ち上げようとしたこともわかります。プロシヤとの戦争後、勢力を誇ったデンマークが次第に凋落し、ドイツが支配勢力を高めていたのです。デンマークが軍事に役立つ情報網を敷こうとしていたとしても不思議はありません。日本で滞在経験のあるスエンソンが担ぎ出されることになったのも当然のことでした。

 当時のスエンソンの写真を見つけることができました。

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 説得されたエドゥアルド・スエンソンは再び、来日し、海底ケーブル敷設責任者として重要な事業を担当しました。1871年8月には長崎と上海間で海底ケーブルが開通し、8月末には長崎とウラジオストック間で海底ケーブルが開通しました。1872年1月1日には日本とヨーロッパが電信回線で直結したのです。

 1894年当時の長崎電信局の様子を描いた水彩画が残されています。真ん中に長崎電信局、そして、上方には大仏や富士山、下方には日本の四季などが描かれており、外国人の目から見た日本の景観が捉えられています。

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 スエンソンはその後、1877年に通信会社の社長に昇進し、1908年までその責務を果たしました。明治政府はその功績を称え、1883年に勲三等旭日中綬章、1891年には勲二等瑞宝章を贈りました。一人のデンマーク人が明治の開花期、海底電信ケーブルを敷設するという近代化に向けての大きな役割を果たしていたのでした。

こちら →http://atlantic-cable.com/Books/GNT/index.htm

 それでは、アンデルセン展に移りましょう。

■デンマーク人・アンデルセン
 国交樹立150周年記念イベントの一環として企画されたのが、狭山市立博物館でのアンデルセン展でした。ここにはデンマークのオーデンセ市立博物館が所蔵するアンデルセンの遺品を含め、関連作品が約30点展示されています。

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 展示品の中でひときわ大きく、存在感を放っていたのが、アンデルセン愛用のカバンでした。旅行を通して多くを学んだといわれるアンデルセン、そして、当時の旅行スタイルが偲ばれます。遺品だからこそ、アンデルセンの生きた時代の空気が感じられました。

 展示品の中で私がもっとも深く印象づけられたのが、切り絵でした。

■コミュニケーション・ツールとしての切り絵
 アンデルセンはヨーロッパ各地を旅行して見聞を広め、童話や詩、小説などを書きました。ところが、旅先では言葉が通じないことも多かったそうです。そうした場合、彼は即興で切り絵を作成し、コミュニケーションに役立てたといわれています。当意即妙に彼は、あり合わせの紙を使って、手際よく切り絵を作りました。それらをコミュニケーションの補助として使ったり、場合によっては、謝礼として相手に渡したりしたそうです。

 切り絵のモチーフはアンデルセンが童話で取り上げた白鳥などの動植物、ピエロやバレリーナ、人魚や魔女、お城やアラブのモスクでした。旅先では言葉で十分に意思を伝えられなかったアンデルセンでしたが、器用に白い紙や新聞紙など身近な紙を使って、切り絵を作ったおかげで、当地の人々に驚かれ、そして、称賛されたようです。

 展示物の中で私がもっとも印象づけられたのが、「お盆の上に白鳥と建物をのせた道化師」というタイトルの切り絵です。

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 これは、アンデルセンをシンボリックに表現した切り絵だといわれています。この一枚の切り絵にはアンデルセンに関する多くの情報が盛り込まれています。

 たとえば、向かって右端の図は白鳥です。「みにくいアヒルの子」がやがて美しく変身し白鳥になるといった自身の代表作を表しています。その隣の建物は14歳で洗礼を受けたクヌート教会、頭の真上にあるのが風車、その隣が、17歳のときに入学したラテン語学校、そして、左端が、オーデンセにある生家です。この切り絵にはまさに、アンデルセンの経歴、作品、生まれ育った環境などがシンボリックに表現されているのです。

 この切り絵を参考に、アンディ・ウォーホールが制作した作品も展示されていました。妙味がありました。19世紀ヨーロッパの切り絵に20世紀アメリカの洗練さが添えられていたのです。

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 アンディ・ウォーホールらしい絶妙な色遣いが、アンデルセンの切り絵に別の生命を与えています。生い立ちや身体にコンプレックスを抱えて生きてきたアンデルセンですが、それが作品の中に様々に結晶化されていきました。おかげでどの作品にも、後世に長く伝えられるだけの生命が与えられたことを改めて、感じさせられます。

■時空を超えて子どもと生きるアンデルセン
 アンデルセンの翻訳本が日本で出版されたのが明治21年、1889年のことでした。以来、挿絵も装丁もさまざまなアンデルセンの童話が版を重ね、出版され続けています。童話といえば、アンデルセンかグリムというほど、世代を超えて、しっかりと日本の子ども文化に根付いています。

 子どものころ、私はグリムよりもアンデルセンの方が好きでした。「雪の女王」「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」「人魚姫」など、どれ一つとっても、そのストーリーには心に響くものがありました。だからこそ、アンデルセンの名を聞いただけで懐かしく思い、再び読み返してみようという気になったのですが、残念ながら、もはやアンデルセンの絵本は私の手元にありません。

 そこで、文庫本を購入し、アンデルセンの童話を読み返してみました。記憶している内容以上のものがありました。子どものころは気づかなかったのですが、現実社会の深遠さ、苛酷さが的確に描かれています。その一方で、行間からはユーモアと詩情を読み取ることができます。改めて、アンデルセンが時空を超えて生き続けていることを感じさせられました。

 「アンデルセン展」の会場に入口には、子どもに語りかけるアンデルセンの像が置かれていました。

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 像の下の台座には、以下のように書かれていました。
*****
アンデルセンは生涯独身で、子どももいませんでした。それで、友人やその友人の子ども、孫を家族のように思っていました。アンデルセンを訪ねると、アンデルセンは、大人も子どもも自身の童話で楽しませ、切り絵や絵本を作り、歌を歌い、演奏しました。
「私はこの世界の一員だ」アンデルセンは常々、こう言っていました。
****

 アンデルセンは右手を高く上げて、一人の子どもの肩に手を回し、もう一人の子どもの顔を優しく見つめています。その姿はまるで、たとえ貧しく生まれたとしても、あるいは、醜く生まれたとしても、誠実に真摯に才能を磨き続ければ、やがてはヒトに受け入れられると、子どもたちに静かに語っているように見えました。

 子どものころは貧しくても、その後、努力し、童話の世界で才能を開花させたアンデルセンは、生前はもちろんのこと、死後も有名であり続け、その作品は親しまれ続けました。

 調べてみると、アンデルセンは生前、すでに有名になっていました。山室静の『アンデルセンの生涯』(新潮選書、1975年)によると、1875年の70歳の誕生日には国を挙げてお祝いしてもらっただけではなく、ヨーロッパ各国からも祝辞や贈り物が届けられたほどでした。

■デンマークと日本をつなぐ、スエンソンとアンデルセン 
 今回の「アンデルセン展」に、「日本・デンマーク国交樹立150周年記念」と銘打たれていたので、不思議に思いました。そもそも、日本とデンマークが150年も前に国交樹立していたこと自体、知りませんでしたから、違和感があったのです。

 デンマークと日本はなんと明治に元号が変わる直前に、修好通商航海条約を結んでいたのです。その後も良好関係は続き、日本が海外とつながるインフラ、海底ケーブルも実はデンマーク人のスエンソンによって開設されていたことを知りました。

 ざっと調べたところ、デンマーク人のスエンソンによって1871年、長崎と上海、長崎とウラジオストックとの間に、海底ケーブルが敷設されました。日本とヨーロッパが電信回線で直結したのです。日本が近代化の産声を上げようとする直前に、デンマーク人スエンソンが通信の領域でそのお膳立てをしてくれていたことがわかります。

 一方、明治21年に翻訳されて日本に紹介されたアンデルセンの童話は、日本の子どもたちの幼児教育の一環を担ってきました。童話という形式で、ヨーロッパ文化に触れる機会を日本の子どもたちに提供してくれていたのです。

 アンデルセンの童話はグリムやイソップとは違って、単なる教訓話にとどまりません。どの作品にも、描かれている世界を突き抜けて、別の世界が広がっているような感覚がかき立てられ、気持ちが揺さぶられます。アンデルセンのヒトやモノ、動植物に対する理解が深く、広いからでしょう、現実社会の深淵をあぶりだす凄みがあります。それが子どもだけではなく、大人の気持ちにも深く食い込むのです。

 こうしてみてくると、日本とデンマークをつないでいるのは、童話作家のアンデルセンと通信会社社長のスエンソンだといえるでしょう。

 アンデルセンの童話はいまなお読み継がれ、スエンソンが敷設した海底ケーブル回線はいま、光海底ケーブル網となり、世界中に張り巡らされています。近代化に向けて立ち上がろうとした明治維新の前後、デンマークは日本に、未来につながる通信インフラと、未来を担う子どもに向けた文化を提供してくれていたのです。その後も日本とデンマークが友好関係を維持できているのも当然かもしれません。(2017/9/27 香取淳子)

金澤隆展:「鳳凰の舞」にみる日本画の新たな地平

■「第2回金澤隆日本画展」の開催
 池袋の東武デパートに出かけた際、たまたま立ち寄った6F美術画廊で「金澤隆日本画展」が開催されていました。気まぐれにふらりと入ってみただけなのに、思わず引き込まれ、しばらく作品の前で佇んでいました。「日本画展」と銘打たれていましたが、日本画の枠に収まり切れない魅力を感じさせられたのです。

 会場に置かれていた案内ハガキを見ると、「第2回金澤隆日本画展」と書かれていますから、今回は、東武デパートでの開催第2回目になるのでしょう。期間は8月24日から30日ですから、私は最終日に訪れたことになります。

 残念ながら、会場では写真撮影が禁止されていました。ですから、展示作品を個別にご紹介することはできませんが、どれも精緻な絵作りで感心してしまいました。鳥の羽毛や虎の毛並みのつややかさ、そして、蝶々の翅の繊細な模様といった具合に、細部が一つ一つ、克明に描かれているのです。

 ずっと眺めていても見飽きることがなかったのは、おそらく、どの作品にも細部へのこだわり、描き方の緻密さが見受けられたからでしょう。昆虫であれ、鳥であれ、虎であれ、どんなモチーフを描いても、迷いのない筆致が作品に力強さを与えていましたし、繊細な筆さばきによって微妙な動きが表現されていました。

■圧倒された、「鳳凰の舞」
 展示作品の中で、私がもっとも惹かれたのが、「鳳凰の舞」というタイトルの作品です。案内ハガキに掲載されていましたから、主催者側から見ても、これがこの展覧会のイチ押しの作品なのでしょう。

こちら →
(案内チラシより。図をクリックすると、拡大します)

 サイズはF50ですが、豪華で、壮大な印象を受けます。画面いっぱいにモチーフが描かれているからでしょうか。それとも、黒地をバックに金の濃淡でモチーフがまとめられているからでしょうか。

 背景の黒地に金の粉が散って、輝いています。離れて見ると、まるで無数の星がきらめく夜空のようにも見えます。その夜空を金の鳳凰が華麗に、そして優雅に舞っています。 よく見ると、頭部から肩にかけての量感のある羽根、そして、先端にいくほど重量感がなくなり、細かな、小さな羽根が描かれています。

 無数の羽根の重なり方、つながり方、そして、注意深く設定されたきめ細かな諧調が、羽根のそこかしこに微妙な動きを生み出していました。ですから、離れてみると、軽やかに羽根を揺らし、鳳凰が舞い、躍っているように見えるのです。

 頭部の大きさと羽根の描き方からは、大気中で身体を支え、飛翔するための物理的構造がしっかりと押さえられていることがわかります。さらに、舞うという動作を可能にするための羽根の大きさ、量、バランス、動きなども考え抜かれて描かれています。

 つまり、骨太に描かれている部分がある一方で、限りなく細かく、仔細に描かれている部分があって、相互に補完しあっているのです。だからこそ、想像上の動物である鳳凰にも生命体としてのリアリティが感じられるのでしょう。

 その結果、巨大な体躯をささえる羽根の先端部分には、息の通った軽やかさが生み出され、羽根の先の揺らぎ、さらには、羽根の先がこすれる音すら感じられるようにもなっています。この絵を見て、まさに「神は細部に宿る」を実感しました。

■構図、そして、余白
 もう一度、この絵を見てみましょう。

 絵全体でいえば、圧倒的に羽根の分量が多いことに気づきます。左側は画面に収まり切れないほど、羽根の先端が広がりを見せています。しかも、羽根は、肩の部分、その下の部分、さらにその下の部分、そして、大きく広がる先端部分といった具合に、何種類もの描き分けがされています。羽根そのものに一枚、一枚、まるで一種の装飾のように、華麗でモダンな印象が残るよう処理されています。

 しかも、その羽根の描き方で、空気や風の動きを感じさせる表現が施されています。

 たとえば、中央やや下あたりの羽根は大きく金色で縁取りされており、左方向に先が向いています。羽根の向きが大きな流れとは逆になっているのです。大きく右に揺れている羽根を描きながら、その先端は左に揺れています。ですから、そこに動きが感じられるようになります。羽ばたきで起こった微風なのか、それとも軽い風が吹いていたのか、わかりませんが、この二次元の画面にそのような動きが感じられる仕組みが描出されているのです。

 一方、頭部は垂れた状態で描かれており、まるで鳳凰が自身の頭を羽根の中に沈め込もうとしているかのように見えます。興味深いことに、観客への訴求力が強いはずの頭部が小さく、目にも輝きがなく、むしろ印象に残りにくいように設定されて、描かれているのです。

 そういえば、この作品のタイトルは「鳳凰の舞」でした。舞うという行為を強調して見せるには、このような構図がもっとも適しているのかもしれません。

 さて、先ほどもいいましたように、この絵の背景は黒地に金の粉を散らした状態のもので、いわゆる日本画らしからぬものでした。ところが、それがまるで夜空のように見えて、鳳凰の姿をぐっと引き立てていました。

 この絵ばかりではありません、その他の作品もすべて、日本画で通常、見受けられる余白が見られませんでした。一見、余白に見えても、実はメインモチーフを引き立てるための背景として処理されていました。私が金澤氏の作品を一覧して、新鮮味を覚えましたが、それも一因になっているかもしれません。

■伝統を踏まえ、新たな地平を
 なにも「鳳凰の舞」に限りません。金澤氏の作品はどれも、日本画でよく見かけるような題材を扱い、日本画的な精緻な筆致で描きながら、実はどの作品にも一歩、突き抜けた何かがありました。日本画といいながら、どこか異なる要素が混じっているのです。

 その違和感が快く、いつになく長時間、会場に滞在してしまいました。新鮮な味わいに浸っていたのです。しばらく作品を見ているうちに、なんとなく、その源泉がわかったような気がしてきました。

 「鳳凰の舞」に戻ってみましょう。

 たとえば、羽根です。一枚、一枚、丁寧に描かれた羽根をよく見ると、前後、左右が明らかになるよう微妙な差異がつけられています。日本画ですが、立体的な表現が心掛けられているのです。

 その観点から、背景を見直してみると、単なる黒地に見えた背景が実は微妙な諧調がつけられていました。ですから、金の粉を散らすだけで、夜空の星屑に見えるのです。他の作品も同様です。作品に合ったさまざまな方法で背景までも立体的な表現が工夫されていたのです。

 ですから、背景とはいえ、どれも決して単調なものではありませんでした。色調を変化させ、層を変え、凹凸をつけ、諧調を変えるといった具合に、よく見なければ気づかないほどの微妙な差異をその中に組み込むことによって、金澤氏は絵に奥行きを与えていたのです。

 会場に置かれていた金澤氏のプロフィールを見て、驚きました。精緻な筆致、選ばれる題材からもう少し高齢の方かと思っていましたが、なんと、1986年生まれ、ようやく30代に入ったばかりの若手でした。

 今回、展覧会ではじめて金澤氏の諸作品を拝見しました。作品の秀逸さばかりではなく、日本画の伝統を踏まえながらも、その枠を超え、新たな地平を切り拓いていこうとする姿勢に好感をおぼえました。意欲的な若手画家の今後に期待したいと思います。(2017/8/30 香取淳子)

SNS事業者の社会的責務は?

■「青少年ネット利用環境整備協議会」の発足
 2017年7月26日、「青少年ネット利用環境整備協議会」が発足しました。この協議会にはグリーやサイバーエージェント、DeNA、フェイスブック、ミクシィなど、サイト事業者15社が参加しました。競争関係にあるサイト事業者がともに手を携え、利用者の被害防止に立ち上がったのです。おそらく、SNSサイトによる被害が増えているのでしょう。2016年にサイト別でもっとも被害が多かったツィッターも参加する意向を示しているといいます。

 私はあまりよく知らなかったのですが、SNSの利用がきっかけで被害にあった子どもは年々増え続けており、2016年には過去最高を更新したそうです。ですから、まずは子どもの被害を防止する方策を練り上げていくことが必要です。この協議会では、情報を共有して被害防止に努めるだけではなく、有識者を交え、調査研究も行っていくといいます。被害の実態を踏まえ、より科学的で効果的な対応を試行していくのでしょう。

こちら →http://www.news24.jp/articles/2017/04/20/07359464.html

 警察庁によると、2016年にSNSを利用して犯罪の被害にあった18歳未満の子どもは1736年に達し、過去最高だった2015年をさらに更新したといいます。16歳と17歳が全体の約半数を占めていますが、9歳の女子児童が被害にあるケースもあったそうです。数字で示される被害者の年齢をみてもわかるように、被害内容は淫行、児童ポルノ、児童買春などです。

 夏休みを控えた6月27日、国家公安委員会委員長と文部科学大臣が以下のような共同メッセージを出しました。

こちら →http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen/kyoudoumessage.pdf

 これを読むと、被害はかなり深刻です。サイト事業者が共同で子どもの被害防止のために立ち上がったことの理由がわかりました。先ほどの記事では、ツィッターもこの協議会に参加する意向を示しているといいます。実は2016年、被害を最も多く出したサイト事業者がツィッターだったのです。

 警察庁の調べでは、SNS別に被害をみると、ツィッターが446人で最多だったそうです。2015年に比べほぼ倍増したといいますから、ツィッターもこの協議会に参加する意向を示しているという記事を読み、ほっとしました。

 コントロールの効かないネットの世界で、どれほどの成果をあげられるのかわかりませんが、有識者の支援を得て、効果が期待できる防止策の開発にかかわってもらいたいと思います。

 ちなみに総務省は以下のように、SNS利用上の注意点を示し、利用者に注意を促しています。

こちら →http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/security/enduser/security02/05.html

■SNSサイト別にみた日本の月間アクティブユーザー数
警察庁は2016年、ツィッターでの犯罪被害が多かったと報告していますが、実際の利用動向はどうなっているのでしょうか。2016年末時点のデータを見ると、日本でもっとも多いのはライン、次いでツィッター、そして、フェイスブック、インスタグラムという順になっています。

こちら →
(http://media.looops.net/news/2017/02/17/2016q4_facebook_instagram_twitter_line/より。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、前年比で伸び率の高かったのはインスタグラムで174%、次いでツィッターの114%、ラインとフェイスブックは108%と同じです。2016年はツィッターの利用者数が伸び得たことが犯罪被害の増加と関連しているのかもしれません。

 世界に目を向ければ、圧倒的に利用者が多いのはフェイスブックでした。明らかに日本の動向とは異なります。

こちら →
(http://media.looops.net/news/2017/02/17/2016q4_facebook_instagram_twitter_line/より。図をクリックすると、拡大します)

 
 地域別に見ていくと、フェイスブックは月間アクティブ利用者が18.6億人で前年比104%と、順調に伸びています。もっとも伸び率が高いのがアジア太平洋地域で107%、比較的低調の北米の101%以外の地域も順調に利用者が増えています。

 一方、ツィッターは101%、ラインは99%の伸び率でした。日本では上位のSNSサイトも世界的にみると、伸び率は低調なのです。

 そのフェイスブックが7月26日、2017年4~6月期決算を発表しました。それによると、売上高は前年同月比45%増で93億2100万ドル(約1兆300億円)、純利益が71%増の38億9400万ドルでした。いずれも過去最高を更新したといいます。

こちら →http://www.nikkei.com/article/DGXLASGN27H10_X20C17A7000000/

 2017年6月末時点での月間利用者数は20億6000万人で、前年同月比17%増を記録しました。毎日利用する人は13億2500万人にも達しています。世界人口は現在、72億7552万人といわれていますから、どれほど多くのヒトがフェイスブックを利用しているかがわかります。米国の調査会社e-Marketerは2017年7月17日、世界のSNS利用者人口(2016-2021)を発表しました。

こちら →
(https://www.emarketer.com/Articles/Print.aspx?R=1016178より。図をクリックすると、拡大します)

 これを見ると、2017年にSNS利用者は世界人口の3分の1を占めるようになり、今後さらに増加していくと予測されています。フェイスブックに代表されるSNSが国境を越えたメディアとして大きな影響力を発揮しはじめていることがわかります。いつの間にか、国籍や土地、職業、年齢などに捉われないさまざまなコミュニティが形成されているのです。サイト事業者が社会的責任を問われるようになるのは当然のことでしょう。

■フェイスブック
 フェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグは2016年6月22日にシカゴで開催した「Facebook Community Summit」でこれまでのミッションの変更を発表しました。

こちら →http://www.refinery29.com/2017/06/160364/facebook-communities-summit-2017

 これまでの10年間、Facebookは世界をよりオープンにし、つなげていることをミッションにしてきましたが、今後は、コミュニティを構築し、世界をより密接なつながりを持てるようにするというのです。

 マーク・ザッカーバーグのこのような考えは、すでに2017年2月16日、「Building Global Community」というタイトルの長文のメッセージをFacebook上でコミュニティメンバー宛に発信していました。

こちら →
https://www.facebook.com/notes/mark-zuckerberg/building-global-community/10154544292806634

 SNSサイト事業者として世界最大の利用者をもつフェイスブックだからこそ、マーク・ザッカーバーグにはその利点も欠点もよく見えていたのでしょう。人々をつなげるだけでは不十分で、人々がコミュニティを構築し、世界をより親密なつながりを持てる力をつけていくことが重要だと認識を変えていったのです。

 その背後にはSNSを通して犯罪が増えてきたという現実があるのかもしれません。創設者のマーク・ザッカーバーグが切に、利用者が有意義なコミュニティに参加し、人生を豊かなものにしていくことを願っていることがわかります。

■SNS疲れ?
 SNS利用者が増えるにつて、さまざまな調査が行われるようになりました。たとえば、LINEと博報堂は共同で2017年7月上旬、10代から60代の男女3705人に対し、LINE上でフェイクニュースに関する調査を実施しました。その結果、友人がフェイクニュースをシェアしていても、約8割は何も指摘せず放置する傾向が見られました。その理由の約半数は「面倒くさい」からだというのです。

こちら →https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170721-00000008-withnews-sci

 具体的には「トラブルにまきこまれたくない」、「ニュースがフェイクかどうか確定が面倒」というようなものでした。

 さきほど、Facebookのマーク・ザッカーバーグが「密なつながりをもてるよう」ミッションを変更したといいましたが、日本で行われた調査の結果からは、「密なつながり」を拒むような傾向が見られるのです。

 そこで日本での実態をさらに見ていくと、たとえば、東京新聞の細川暁子氏は、さまざまな利用者に取材をし、2017年3月27日、同紙で次のような報告をしています。

 大学時代にフェイスブックを始めた女性はいま、400人とつながっています。彼女は「心の中で、どうでもいいと思った投稿にも、義務的に”いいね”ボタンを押す」といいます。反応を示すことで友人関係を保っているといいながらも、フェイスブックをやめるつもりはありません。「自分だけじょうほうに乗り遅れたり、つながりが切れるのが怖い」というのです。

 これ以外にもつながりが切れるのを恐れ、無理をしてSNSに参加している利用者が次々と紹介されます。この報告からは、主体的にコミュニティに参加するというより、仲間外れになることを恐れ、あるいは、悪口をいわれることを恐れ、無理してSNSを続けている人々の姿が浮き彫りにされています。
 
 これについて、2015年に日本人の情報行動について調査を実施した東京大学大学院・橋元良明教授は、「SNS疲れを感じている人は多いと思う」と指摘し、「仲間外れや無視を恐れ、強迫観念的にSNSでつながりを求めていると、”いい人”を装う自分と、本来の自分らしさとの境界線が分からなくなるのでは」と分析しています。

 新しいメディアが登場するたび、ヒトはを手に入れ、適応しようとします。時に負担を感じながらも、仲間外れになることを恐れ、利用をやめることはありません。もちろん、好んで利用し続けるヒトもいるでしょう。こうして自発的にせよ、義務感からにせよ、多くの利用者は他者とのつながりを求めてSNSを利用し続けることになります。

 一方、サイト事業者にはSNSを通したデータが刻々と蓄積されていきます。蓄積されたデータが増えれば、行動を予測することも容易になります。はたしてそれがどのような結果を生むのでしょうか。

■SNSが掌握するビッグデータ
 2017年7月、米アマゾンの元チーフ・サイエンティストのアンドレアス・ワイガンドの訳書『アマゾノミクス』(原題:Data for The People)が刊行されました。私はまだ手にしていないので、日本アマゾンに2017年7月29日に投稿されたカスタマー評価をみると、2(「データとの付き合い方について、触りだけ知りたい方にはちょうどいいかもしれないが、全体的には薄い内容に感じられました。」)でした。投稿者が期待したほどの内容ではなかったのでしょう。
 
 内容紹介を見ると、「インターネット上での検索や位置情報サービスの利用、フェイスブックでの「いいね!」やインスタグラムへの写真の投稿など、意識的、無意識的に残すデジタル痕跡を通じて、あなたがいつ、どこに行ったのか、どんな人とどれだけ親密につきあい、何に関心を持っているかがデータ会社に把握されている」と書かれています。

 たしかに、パソコンを開くと私が欲しくなるような商品の広告が自動的に現れます。過去の購入歴に従って、私が購入しそうな商品の広告が掲載されるのでしょう。当初はなぜ私の好きなものがわかるのか、気持ち悪くなっていましたが、今ではもう慣れてしまいました。私が無意識のうちにネット上に残したデジタルデータが集積され、より購入可能性の高い消費者だと判断されて、広告が発信されたのでしょう。

 私はネットでモノを購入する際、最近は、事前に対象商品の評価をチェックするようになりました。時にはその評価に騙されることがあります。実際に商品を手にしてみて、評価が大幅に異なっている場合、次から購入しませんし、よほどひどい場合は購入先にコメントを寄せることもあります。それらがフィードバックされていきますから、仮に偽情報が混じっていたとしても、情報量が膨大になれば、評価の正確さの度合いは高まっていくのでしょう。量が質の変換を促してくのです。

 こうしてみてくると、SNSが自動的に集積したデータ、警察庁が収集したデータなど、できるだけ多くの関連情報を総合的に分析すれば、SNSを通した犯罪被害を防止することもできるようになるのではないかという気がしてきました。

 今回、SNS事業者によって設立された協議会が有識者を交え、積極的に調査研究を行っていけば、効果的な対策が生み出されることも不可能ではないと思います。成果が期待されます。(2017/7/30 香取淳子)

広告デジタルアーカイブ:知の循環システムに向けた試み

■特集「広告デジタルアーカイブの未来像」
 吉田秀雄記念事業財団から、最新号の『アド・スタディーズ』(Vol.60 Summer 2017)が送られてきました。

こちら →

 表紙を見ると、今号は、「広告デジタルアーカイブ」の特集になっています。巻頭ページを読んで、その理由がわかりました。2013年以来、吉田秀雄記念事業財団が進めてきた「新デジタルアーカイブ構築プロジェクト」がようやく一つの区切りを迎えたからでした。すでにそのプロトタイプは完成しており、新アーカイブは、「デジタルハブ(略称デジハブ)」と名付けられているようです。

 アドミュージアム東京は、所蔵する広告資料のアーカイブシステムを刷新するという目的で、このプロジェクトをスタートさせたといいます。それがいま、実用段階に入ったということなのでしょう。そういえば、先日、資料閲覧のため、アド・ミュージアム東京を訪れましたが、工事中で閉館になっていました。新システムの導入のため、諸設備が刷新されている最中なのでしょう。たしかに巻頭ページには、アドミュージアム東京では今、2017年12月のリニューアルオープンに向けて、専用端末を設置して来館者が利用できるよう、準備が進められていると書かれています。

 さて、このプロジェクトでは新アーカイブの構築だけではなく、その活用方法についても、その可能性が種々、模索されてきました。新アーカイブを利用した教育実験がさまざまな分野の研究者によって行われました。実験で得られた知見に基づき、さらに多様な展開を検討していくことが企図されているのです。

 デジタルアーカイブの単なるバージョンアップに留まらない壮大なプロジェクトです。果たしてどのような構想の下、このプロジェクトが推進されてきたのでしょうか、概観してみることにしましょう。

■技術、著作権、文化の側面から検討
 まずはこのプロジェクトの中心メンバーである東京大学教授の吉見俊哉氏と国立情報学研究所教授の高野明彦氏の対談からみていくことにしましょう。

こちら →http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_60_01_01.pdf

 このプロジェクトは、技術的な課題や著作権上の問題を洗い出すことからスタートしたと吉見氏は述べています。いずれもコンテンツをデジタルアーカイブに取り込んでいく際、避けられない大きな課題です。それらにどう向き合い、解決していくかという難問から吉見氏らは着手したのです。

 新アーカイブの構想には、技術面でのトップランナーである高野氏、文化関連の著作権スペシャリストであり、弁護士の福井健策氏、そして、文化理論のトップランナーである吉見氏、この3人による共同作業が不可欠でした。吉見氏に依頼された、広告資料のデジタルアーカイブのバージョンアップ事業は、それぞれ最適任者を得て、技術、著作権、文化の3つの方向から細密に検討され、実現に至ったのです。

 このプロジェクトでは、その利活用の側面でも周到な準備がされています。新アーカイブを使ってどのような研究や教育が可能なのか、さまざまな実験的な研究が行われてきました。今号の特集では、「デジハブ」教育利用実験レポートとして6種の論考が掲載されています。これらを読むと改めて、単なるアーカイブの構築を超え、その利活用まで視野に入れた構想の下、用意周到に推進されてきたプロジェクトだということがわかります。

 この対談で高野氏は、東日本大震災後に吉見氏とともにデジタルアーカイブの活動を始めたことが契機となったと述べておられます。中心メンバーのお二人には、大震災によって突如、社会の記憶を喪失するという経験、同じようなことが今後も起こりかねないという危機感から、デジタルアーカイブの活動に着手するという共通体験があったのです。

 このようなエピソードを読むと、新アーカイブが、その公共性、社会的利活用といった側面にまで配慮されて、構築されていることの背景がよくわかります。

■21世紀型広告ミュージアムの要件
 もちろん、東日本大震災後のデジタルアーカイブの立ち上げ経験を、そのままこのプロジェクトに反映させることはできません。今回は、コマーシャルという映像コンテンツを扱う難しさがありました。アドミュージアム東京には多くのCMが収蔵されていますが、映像ですから、文字データのように規範となる整理方法が定まっておりません。ですから、プロジェクトとしてはまず、映像データの整理方法から考えなければなりませんでした。デジタルアーカイブの構築経験はありましたが、今回はまた別の技術的な難問に対処していく必要に迫られたのです。

 高野氏は、21世紀型広告ミュージアムに求められる機能として最も重要なものは、①メディアの違いを超えて登録管理可能なデジタルアーカイブ技術を活用し、②コレクション全体の価値を高めるためのキュレーションが十分に行われ、③それが、新しい展示や研究、教育の現場で活用できるプラットフォームとして提供されることだと述べています。

こちら →http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_60_01_02.pdf

 さらに、ミュージアムの外で教育利用する場合の著作権等については、権利に関する情報も併せてアーカイブシステムで管理すれば、利用者が安心してコンテンツを利用できるようになると高野氏は指摘します。

 高野氏はさらに、デジタル一次情報は一元的に管理し、複数のバックアップを取って、デジタル情報の保全を図るといいます。そして、権利情報やメタ情報については利活用データベースに置き、権利情報登録のプラットフォームと利活用支援のためのプラットフォームを構築するという構想を紹介してくれています。こうして利用者からのフィードバックを活用してキュレーションを進めていくオープンなシステムが構築されれば、メタ情報の精度が高まる効果も期待されます。

 高野氏はまた、新デジタルアーカイブでは、コレクション管理機能とキュレーション機能をバランスよく提供するために、基本情報のデータベースとは別に、柔軟なキュレーションを可能にするBOXを配備しているといいます。そして、このBOXの集積こそが、新デジタルアーカイブのキュレーション機能、利活用支援プラットフォームの中核になるのだそうです。これらは相互に深く関わりあいながら、進化していく性質もあるといいますから、まさに21世紀型ミュージアムが備えるべき新デジタルアーカイブといえます。

■利活用に際しての著作権等
 文化コンテンツの著作権等に関する中心メンバーが弁護士の福井健策氏です。デジタルアーカイブの構築過程で、現物資料の収集および保存についてはとくに問題はありませんが、資料のデジタル化とネットワークを通じた利活用については、著作権等についての細心の注意が必要になります。

 福井氏は、著作物のデジタル化に至るまでの考え方をチャート化しています。まず、著作権法上保護される「著作物」か?、そして、保護期間は満了しているか、さらには、複製や公開について権利制限規定の適用はあるか?、等々のチェックをしたうえで、著作権者の許諾が必要か否かが決まるといいます。それらチェックを経て、最終的に、デジタル化した著作物をインターネットを経由した公開する段階で、再度、著作権者の許諾を得る必要があるといいます。これだけで、著作権処理がいかに大変な作業であるかがわかります。

 著作権や著作隣接権以外にも、留意すべき権利として、肖像権、パブリシティ権、プライバシー権などがあります。このように見ていくだけで、著作物をネット上で公開し、利用することの障壁がまだかなり高いことがわかります。

こちら →http://www.yhmf.jp/pdf/activity/adstudies/vol_60_01_04.pdf

 デジタルアーカイブが構築されれば、コンテンツ利用の進化によって、さらなる研究、教育、文化の振興が期待されています。それだけに、もっと簡便に著作権等についての処理ができるようにしていく必要があるでしょう。福井氏によると、アーカイブ振興のための法改正が検討されているといいます。そうなれば、このハードルがもっと下がる可能性があるといいますから、今後はもっと容易に、デジタルアーカイブの構築ができるようになっていくかもしれません。

 デジタル技術の進化が社会のさまざまな領域で大きな変革をもたらそうとしているいま、著作権者を守るだけではなく、利用者の利便性を図るための法整備が迫られているといえるでしょう。

■循環型社会とアーカイブ
 デジタル技術の進化はメディアにも大きな変化をもたらしています。吉見氏は現代のメディア状況について、「今、生じているのは、マス・メディアからソーシャル・メディアへの移行以上に、メディアそのものの危機なのです」といいます。そして、その背後には、社会構造そのものの変化があると指摘しています。メディアの変化だけではなく、「消費型」社会から、「循環型」社会への転換にも留意しなければならないというのです。

 ソーシャルメディアの普及に伴い、情報の流れが双方向で、しかも広範囲に拡散するようになっています。誰もが自由に情報発信できるようになったメディア状況下では、感情を刺激する情報が流通しやすくなり、事実検証もされないまま、加工され、歪曲され、補足されて流れていくことも多々あります。マスメディアが信頼を失う一方で、虚偽情報、感情刺激型の情報の流通に歯止めをかけることができません。情報の劣化が深刻な状態になっているのが現状です。

 吉見氏はこのような状況をアーカイブと関連づけ、「循環型のメディアの仕組みとしてあるのが、まさにアーカイブです」といいます。既存情報をいつでも取り出せるようにアーカイブ化しておけば、それがモデルとなって、クォリティの低い情報の流通が防げるのではないかというのです。

 それを受けて、高野氏は、「自然科学の世界では、過去のデータを調べて未来を予測するためにアーカイブがつくられます」といい、「アーカイブは、いわば集合的な記憶のバンクです。これまで個別の記憶として分かれていた小さなアーカイブを紡ぎ合わせて、より大きなコンテクストの中によみがえらせる装置」と、今後、デジタルアーカイブが果たすであろう役割を指摘しています。

 ソーシャルメディアが普及する一方で、さまざまな領域にAIが入り込んでいます。現在、進化したデジタル技術による大きな社会変革が進行中だといっていいでしょう。そうした中、過去と現在を結び、未来へとつながていく情報連鎖の収蔵庫として今後、デジタルアーカイブの役割は重要になっていくでしょう。吉田秀雄記念事業財団が立ち上げようとしている新デジタルアーカイブはその先鞭をつけることになっていくでしょう。12月のリニューアルオープンがとても楽しみです。(2017/6/30 香取淳子)

「19世紀パリ時間旅行」展が開催されています。

■「19世紀パリ時間旅行」展の開催
 練馬区立美術館で今、「19世紀パリ時間旅行」展が開催されています。期間は2017年4月16日から6月4日までです。学芸員によるギャラリートークがあるというので、私は5月25日に行ってきました。

 展覧会のチラシがなんともオシャレでした。パリの街角を描いたモノトーンのエッチングをメインに、黄色の地にタイトルを載せています。抑制を効かせた色彩の構成に洗練されたパリの趣が感じられます。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。)

 上の図を見てわかるように、この展覧会のサブタイトルは、「失われた街を求めて」です。これを見た瞬間、思わず、プルーストの小説『失われた時を求めて』を連想してしまいました。小さな文字なのにレイアウトのせいか、意外に目立ちます。リーフレットを裏返して、説明文を読んでみると、この展覧会は鹿島茂氏(明治大学教授)の「失われたパリの復元」(『芸術新潮』に連載)に基づいて構成されたものだということがわかりました。私がプルーストを連想してしまったのも無理はありません。鹿島氏といえば、著名なフランス文学者です。たしか、プルーストの書評も書かれたいたはずです。

 鹿島氏はフランス文学について造詣が深いだけではなく、書誌学者であり、コレクターでもあります。ANA国内線を利用するとき、私は必ず、機内誌『翼の王国』に連載されている「稀書探訪」を読みます。ですから、鹿島氏が一流の目利きだということはわかっていました。

 鹿島氏のこの連載記事から、パリで発見された稀書の唯一無二の面白さ、挿絵の美しさ、装丁のすばらしさ、等々を私は知りました。書物という媒体そのものを味わうことの楽しみを鹿島氏の文章によって教えられたことを思い出します。その鹿島氏がこの展覧会に関与しておられるのです。

 はたして、この展覧会ではどんなコレクションを見せていただけるのでしょうか。
 
 展覧会のチラシを見ると、「絵画や衣装など多様な美術作品を通して、パリの歴史を辿り、大改造以前・以後のパリを紹介します」と書かれています。鹿島氏のコレクションを中心に、関連するビジュアル作品を通して、近代都市パリの成立過程を浮き彫りにしていこうというのです。

 プルーストの小説、『失われた時を求めて』では、主人公がマドレーヌの味覚から幼いことの記憶が呼び覚まされていきますが、この展覧会では、地図、本の挿絵、絵画、ポスター、衣服など、当時のビジュアルを手がかりに、観客の脳裏に失われたパリの街を甦らせようという試みのようです。

■会場構成とそのコンセプト
 会場は1章から6章に分け、諸作品が類別されて展示されていました。1章の「パリ、変貌の歴史」、2章の「タブロー・ド・パリ」、3章の「オスマン男爵のパリ大改造」、4章の「1870年、新しいパリ」、5章の「世紀末のパリ~ベルエポック」、6章の「20世紀、描かれ続けるパリ」といった具合です。

 1章、2章は鹿島氏のコレクションを中心に、パリの大改造以前の地図や絵画などの関連作品が多数、展示されていました。ここでは、シテ島を中心とした狭いエリアのパリから大改造を契機に大きく躍動していくパリを把握するためのさまざまなビジュアル情報が提供されます。

 3章は、やなり鹿島氏のコレクションを中心に、当時の貴族階級の衣装やナポレオン3世とウジェニー皇后の肖像画などが展示されていました。パリ大改造に着手した時代のパリの暮らしが把握できるような構成でした。

 4章、5章、6章も同様に、ビジュアル作品を通して時代状況や文化状況、そしてパリの街とヒトの様子がわかるような仕組みになっていました。ジャンルを問わず、多層的、多角的に関連作品が集められ、章ごとのコンセプトに従って展示されていたので、なるほど、パリはこんなふうに変貌を遂げていったのかということを実感できます。

 コンセプトの中心に据えられていたのが、第二帝政期のナポレオン3世の治世下で、着手されたパリの大改造です。1853年、ナポレオン3世からパリ改造の命を受け、セーヌ県知事のオスマン男爵はパリ改革のために大ナタを振るいました。その後、パリの街はどう変貌したか、木版場、挿絵、油彩画、木版画、ポスターなどを援用し、変貌したパリの諸相が把握できる工夫が凝らされていました。ストーリーのしっかりとした構成になっていたと思います。

 さまざまな展示作品の中で私はとくに、絵画に興味をおぼえました。そこで、絵画作品を中心に19世紀のパリにタイムスリップすることにしましょう。

■パリの街角
 まず、展覧会のチラシに使われていた作品から見ていくことにしましょう。これは、アドルフ・マルシアル・ポテモンのエッチングで、「ロラン・ブラン・ガージュの袋小路」というタイトルの作品です。鹿島氏のコレクション、『いにしえのパリ』に収められた作品で、はっきりとした制作年はわかりませんが、パリ大改造前のパリの姿が捉えられています。

こちら →
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 狭い小路からパリの街角を臨む構図で、大都会ならではの複雑さと洗練された機能性が感じられます。画面中央にくっきりと描かれた街燈のデザインが印象的です。背後に見える建物にはピグマリオンと書かれています。デパートなのでしょうか。小路から覗き見る恰好で、ヒトと建物が捉えられており、いかにもパリの街角らしい洒脱さが表現されています。

 学芸員の話によると、これを描いたアドルフ・マルシアル・ポテモンは、いまでは見ることのできない失われたパリの風景を数多く描いた版画家だそうです。彼は、誰もが知っているモニュメンタルな場所を描くのではなく、人々が生活した場所、その情景を好んで描いたといいます。そのような制作姿勢だからこそ、彼の作品には資料的価値が高いといえます。

 彼の作品からは、当時の人々の生活の匂いを感じることができますし、いまでは見ることのできない中世の面影を残したパリを知ることができます。そのせいか、鹿島氏も彼の作品を好んで収集することになったようです。その結果、鹿島氏の所蔵する彼の作品は300点にもなったといいます。

■エッフェル塔
 エッフェル塔は1889年にパリで開催されるバンコク博覧会用に建てられました。当時はまだパリを象徴するようなシンボリックな建物がなかったので、万博の目玉になるような建築案を公募したところ、エッフェルらの案が満場一致で採択されたといいます。

 Wikipediaによれば、その理由は、「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴を持ち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」と書かれています。フランスが国威をかけて建築したのがエッフェル塔だったのです。

 当時、よほど印象深かったのでしょう、会場では数多くのエッフェル塔を描いた作品が展示されていました。高く聳え立つエッフェル塔は当時、とても現代的なモチーフだったのでしょう。周辺風景の中のエッフェル塔、建築中のエッフェル塔、塔の脚部など、さまざまな角度からエッフェル塔は描かれていました。当時の画家たちにとって、エッフェル塔はモチーフとして斬新で刺激的だったことが推察されます。

 そんな中、もっとも印象に残ったのが、アンリー・ルソーの「エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望」という作品でした。

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 1896年から98年にかけて制作された油彩画です。エッフェル塔が完成してから8,9年後に制作された作品です。

 遠くから見て、すぐルソーの作品だということはわかるのですが、タイトルがなければ、エッフェル塔とはとても思えません。塔の脚部の広がりがないので、火の見櫓のようにしか見えないのです。どういうわけか、塔の頂上にフランス国旗が描かれています。フランスを象徴する塔だということを示したかったのでしょうか。

 どうひいき目に見ても、稚拙な絵だといわざるをえません。改めて、ルソーが独学で絵を習得した日曜画家であったことを思い出しました。ところが、見ているうちにいつしか、この絵に惹かれてしまっていることに気づきます。不思議なことに、数多くある精緻で巧みな表現の作品よりもはるかにこの絵には魅力があったのです。エッフェル塔を含む周辺の光景がとても暖かく、心に馴染むように描かれているからでしょうか。

 ■ブローニュの森
 さて、1870年、第二帝政は崩壊し、ナポレオン3世は失脚してしまいます。それに伴い、パリの大改造も終了するのですが、それと引き換えに、印象派の画家たちが保守的な美術界の批判にさらされながら、新しい技法を伴って台頭してきます。

 その1870年に、「森の散歩道」というタイトルで油彩画を描いたのが、あの有名なルノワールです。会場で展示されている作品は、小さくて華やかさがなく、うっかりすると見過ごしてしまいそうでした。

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 女性と二人の子どもが描かれているのですが、遠景で顔がはっきりと見えないうえに、洋服の色彩が地味で風景に埋没してしまいそうです。華やかな色彩が取り入れられておらず、とてもルノワールとは思えないのですが、森の様子はとてもよくわかります。

 葉を描く筆致は単調ですが、枝ぶりはしっかりと描かれており、森の構造、木々の間を吹き抜ける柔らかな風や清涼な空気すら感じられそうです。この森がブローニュの森です。ここもパリ大改造計画の一環として、大幅に整備されたそうです。

■ポン・ヌフ
 セーヌ川の右岸からシテ島を経由して左岸を結ぶ橋がポン・ヌフです。王政時代の建築を代表するパリで最も古い橋だといわれています。このポン・ヌフを、新印象派を代表する画家ポール・シニャックが描いています。1912年と1927年に制作された作品が展示されていました。いずれも水彩画です。

 1912年に描かれた作品はまるで水墨画のように、モノトーンで黒の境界線が目立つ描き方でした。やや粗雑な印象を受けました。シニャックはこの橋に相当、思い入れがあったのでしょうか、15年後の1927年、再び、同じような構図でこの橋を描いています。

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 この1927年に制作された作品は淡い色で着色されています。前作に比べると、境界線や輪郭線も繊細で、都会的な印象が増しています。橋だけではなく、その周囲の木々や建物、川浪が丁寧に描かれています。ポン・ヌフが美しく見える構図なのでしょう。こちらは20世紀に入ってからの典型的なパリの光景で、有名な観光スポットともいえます。

■パリの街角
 それでは、パリの街角を描くことで有名なユトリロの作品も見ておきましょう。展示されていたユトリロの作品の中で最も新しいのが、「モンマルトルのキュスティーヌ通り」でした。1938年に制作された油彩画です。

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 左手の大きな建物からは垂れ幕が下がり、右手の建物の窓には看板のようなものがかかっています。明らかに産業化が進行しつつある近代都市の光景です。歩道には電話ボックスのようなものがあり、路上には数人の人々が歩いていますが、不思議なことに、車も馬車も走っていません。都会でありながら喧噪さはなく、落ち着いた雰囲気です。そのせいか、そこはかとなく、ユトリロならではの、都会の詩情が感じられます。

 展覧会の最後に展示されていたのが、やはりパリの街角を描いた作品を多く残した佐伯祐三の「ガス灯と広告」でした。

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 こちらは1927年に制作された油彩画です。先ほど紹介したユトリロの作品よりも11年も過去の作品なのですが、こちらの方が近代的に見えます。モチーフの捉え方、描き方の違いからくるものでしょう。

 佐伯祐三の作品で描かれているのは、広告用のポスターが隙間なく張られた壁とその前の歩道です。よく見ると、その前の道路を女性と子どもが歩いているのですが、それを敢えてぼかして目立たなくし、広告の方を強調しています。

 1927年に描かれているのですが、コマーシャリズムに押しつぶされそうになっている現代社会を先取りするかのような作品です。ここには都会の喧騒があり、ヒトがそれに吞み込まれそうのなっている気配が漂っています。産業化の進行とともに社会がいよいよ複雑になり、あわただしく、殺伐としてくることを予感しているような作品です。

■パリの変貌に見る、資本主義の台頭
 この展覧会は鹿島氏のコレクションを中心に、パリの大改造の以前と以後を比較する構成を取りながら、都市の発展過程における政治と社会、そしてメディアと芸術文化が浮き彫りにされていました。多様なビジュアル作品のおかげで、パリの変貌過程でリアリティ豊かに把握することができ、当時のヒトと社会を実感することができました。素晴らしい展覧会だったと思います。

 興味深かったのは、鹿島氏のコレクションです。多色刷石版画、手彩色のドライポイント、手彩色の木版画、手彩色の銅版画、等々によって描かれた数多くの挿絵が、この展覧会を生き生きとしたものにしてくれていました。それらが、当時の人々の生活に肉薄した情報を提供してくれたからです。

 技術的にも内容的にも多種多様な挿絵を見ていると、当時、出版というメディア事業がパリで活性化していたことがわかります。貴族の文化がトリクルダウン式に庶民に降りてきて生活文化を作り上げるのではなく、出版というメディア事業が新たな流行の発信源になりつつあったのです。

 この展覧会を通して、資本主義の隆盛の芽生えを、19世紀のパリという都市を通してみることができました。やがて、メディアを媒介に、ヒトと都市が活性化されて産業資本が蓄積され、社会や文化を大幅に変容させていく時代が到来します。それを示唆しているのが最後に展示されていた佐伯祐三の作品でした。とても興味深い展覧会で、楽しめました。(2017/5/27 香取淳子)

「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展が開催されました。

■「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展の開催
 「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展が、江戸東京博物館で開催されました。開催期間は比較的長く、2017年2月18日から4月9日まででした。

 案内チラシを手にしたときから、私は是非とも、見に行きたいと思っていました。18世紀の江戸と北京を比較するという企画が面白く、何をどのような形で比較して見せるのか、興味を掻き立てられたからです。ところが、なかなか時間の都合がつかず、終了前日の4月8日、ようやく江戸博物館を訪れることができました。建物の前はちょうど桜が満開で、訪れる人々の目を楽しませていました。

 まず、この展覧会のチラシがとてもよく出来ているのに感心しました。できるだけ多くの観客を動員するためでしょうか、コンセプトを的確に伝えようとする工夫の跡が、随所に見られました。実をいうと、私はそのようなところに惹かれ、展覧会に行ってみる気になったのでした。

 たとえば、チラシの開催期間を示す数字の上に、さり気なく、「似てて、違って、おもしろい」というキャッチコピーが入れられています。

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 あまりにも日常語すぎて、あれっと思ってしまいますが、おそらく、それがこのコピーの狙いなのでしょう。そもそもこの展覧会は、18世紀の江戸と北京の人々の暮らしを比較しようという企画です。華やかな宮廷の文物を扱うわけではなく、著名な人物の書画が展示されているわけでもありません。展示品は、当時の人々の暮らしを彷彿させるモノや書、絵画、衣類、建物の模型などです。ですから、一般には関心を持ってもらえない可能性の高い企画でした。

 そのような企画にどうすれば現代人の関心を引き寄せることができるか。大きな課題だったのではないかと思います。だからこそ、敢えてこのようなキャッチコピーが挿入されたのでしょう。まずは気軽に展覧会に足を運んでもらうという意図が透けて見えます。

 そうだとすると、今度は文字がそれほど大きくないのが気になります。これではうっかり見過ごされかねません。とはいえ、これ以上、この文字を大きくすると、展覧会の格式を保てないかもしれません。品位を保つギリギリのラインで、さり気なく、このキャッチコピーは挿入されていたと思います。

■「似てて、違って、おもしろい」
 「似てる」、「違っている」という二つの軸は比較の結果、生み出されるカテゴリーです。「似てる」カテゴリーにヒトは親しみを感じますし、「違っている」カテゴリーからは文化の違いを考えさせられます。それぞれに面白く、場合によっては、この展覧会で、固定観念を崩されかねないほどの文化体験ができるかもしれません。

 18世紀の江戸と北京で、人々はどのように暮らしていたのでしょうか。

 18世紀といえば、江戸は徳川幕府の下、人口100万にもおよぶ大都市として成熟期を迎えつつありました。一方、北京は清朝の治世下で繁栄を謳歌していました。いずれも近代化以前の身分制社会で、現代とは大幅に社会状況が異なります。21世紀のいま、江戸と北京の往時を振り返ってみるのも意義深いことでしょう。

 さて、展示品から両者を比較した場合、「似てる」、「違っている」という二つのカテゴリーから、観客はいったい何を見出すことができるのでしょうか。「似てて、違って、おもしろい」というキャッチコピーは、観客が気軽に参加できるよう、あらかじめこの展覧会の観方を提示する仕掛けともいえますが、会場で観客は実際、何を発見できるのでしょうか。

 そう思って再び、このチラシを手に取ってみると、興味深いことに、このキャッチコピーにふさわしい図もチラシに挿入されていました。真ん中の白地の部分に、「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし」という文字が書かれていますが、その下に、図が二つ並べて掲載されています。

 左の図は、一人で天秤棒を担ぐ、江戸の魚売りの男です。ちょっと腰をかがめ、顔を右方向に向けています。そして、江戸の男が首をねじって振り向いた先には、棒に盆栽をつるして運ぶ、北京の二人の男の姿が描かれています。こちらも同じように、ちょっと腰をかがめています。

 男たちが腰をかがめているのは、荷重の負担を軽減するためでしょうか。それとも、身分制社会の中でへりくだって生きざるをえなかった男たちを象徴する姿勢なのでしょうか。いずれにしても、二つの図がこのように並べて配置されると、「似てる」、「違っている」部分が見えてきます。

 それだけではありません。二つの図を並べて配置することによって、図らずもこのチラシにユーモラスな空間が生み出されているのです。

 異なる時間、空間の下で描かれた二つの図が、このようにレイアウトされることによって、一枚の絵に見えます。この二つの図が作り出す関係性が、ユーモラスな空間を生み出しています。それは、江戸の魚売りが振り向き、棒に盆栽を吊るして運ぶ北京の運搬人を見ている構図が触発するユーモアです。

 二つの図を並べて一枚の絵として見たとき、同じように棒でモノを担ぐ(似てる)のに、江戸は一人、北京は二人(違っている)だという比較の面白さが強調されます。その結果、江戸の男が北京の男たちを、うらやましそうに見ているように見えてきます。束の間、当時の庶民の素朴な感情に触れたような気がし、ほほえましくなります。二つの図の配置によって、図らずも、両者に関係性が生み出され、それが、このチラシに上質のユーモアを添えているのです。 

■『熈代勝覧』vs. 『乾隆八旬万寿慶典図巻』  
 さらに、このチラシには興味深い比較が示されています。それは、人々の暮らしぶりを俯瞰的な構図で描いた二つの図です。一つは、江戸の暮らしを描いた『熈代勝覧』の一部、もう一つは、北京の暮らしを描いた『乾隆八旬万寿慶典図巻』の一部です。

 いずれも、人々やその生活空間が俯瞰的に描かれていますから、これらの図から、当時の江戸や北京の社会の一端を垣間見ることができます。絵ですから、江戸あるいは北京で、当時、どのような建物があり、人々がどのような服装をし、何を持ち、どのような行事があるのか、何をしているのか、といったようなことが具体的にわかります。

 まず、『熈代勝覧』から見ていくことにしましょう。

 『熈代勝覧』は1805年に制作され、当時の日本橋通りを、東側から俯瞰する構図で描かれた絵巻物です。長さ12mにも及び、通りに立ち並ぶ多くの店舗や、1671人もの人物が描かれています。

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 日本橋には大勢の人々が行き交い、橋の下には多数の船が並んでいます。さまざまなモノが江戸に運び込まれ、それを販売する商家がその先にずらりと並んでいます。その前には大勢のヒトがひしめき合うように群がっています。江戸の繁栄ぶりが示されています。

 残念ながら、この壮大な絵巻は現在、ベルリン国立アジア美術館が所蔵しており、日本にはありません。

 一方、『乾隆八旬万寿慶典図巻』は、1790年に清朝の乾隆帝が80歳を迎えたときの祝賀行事を描いたものです。祝賀の行列が、離宮から北京場内に入り、紫禁城西華門に至る行程が事細かに描かれています。沿道には余興のためにわざわざ舞台が設えられています。カラフルに着色され、華麗に装飾された建物からは、清朝の技術力、経済力が示されています。

 路上では、清朝の治世下で暮らす人々の生活シーンが種々、見受けられます。道路を清掃するヒト、群がった人々を目当てにモノを売ろうとするヒト、子どもの手を引く親、等々。興味深いことに、ここで描かれている物売りは天秤棒の両側にモノを載せ、一人で担いでいます。江戸時代の魚売りと同じです。

 これは中国故宮博物院で所蔵されており、今回、日本で初公開されました。

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■展示品にみる、18世紀の江戸と北京の暮らし
 会場では、第1章「江戸・北京の城郭と治世」、第2章「江戸・北京の都市生活」、そして、第3章「清朝北京の芸術文化」という章立てで、展覧会は構成されていました。総計185点にも及ぶ書画、陶器、刀剣、看板などが、章立てに沿って展示されており、それらを見ていくうちに、18世紀の江戸と北京の暮らしぶりが自然に、目の前に浮かび上がってくるようでした。

 文字で書かれたものだけではなく、絵画、衣類、生活道具、建物の模型など、非言語的な展示品が多かったせいでしょう、それらを通して具体的に、当時の人々の生活風景を思い浮かべることができました。次々と見ていくうちに、いつの間にか、比較するという観点を忘れていました。

 展示された書や絵画、さまざまなモノ、建物の模型などが直接、観客に語りかけてくる濃密な空間にどっぷりと浸ってしまっていたのです。年月を経て伝えられてきただけに、展示品にはそれぞれ風格がありました。それに、長い歳月を経てきたものだけが持つ、なんともいえない魅力がありました。それらの展示品から、具体的に、18世紀の江戸と北京で暮らす人々の生活を偲ぶことができたのです。得難い経験でした。

 185点にもおよぶ展示品は以下のようなものでした。リストをご紹介しましょう。 

こちら →https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/assets/img/2017/02/list201702.pdf

■江戸と北京の生活
 印象深い展示品はいくつもあったのですが、ここでは、端午の節句にまつわる行事をみていくことにしましょう。

 端午の節句は子どもの成長を願う年中行事で、中国から日本に伝わってきたものです。ですから、当然、江戸も北京も「似ている」はずなのですが、展示品はそうではありませんでした。子どもの成長を祝うという行事の主旨はそれほど変わらないのですが、行事の仕方、行事を象徴するモノが異なっていました。

 日本の場合、端午の節句といえば、鯉のぼりです。ですから、会場では、『名所江戸百景』から歌川広重の絵が展示されていました。

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 出典である『名所江戸百景』は1857年に刊行され、江戸の名所を描いた図が収録されています。この絵は、浮世絵師の歌川広重が水道橋、駿河台あたりを描いたものです。遠くに富士山が見えます。当時は高い建物もありませんから、晴れた日にはこのように富士山がはっきりと見えたのでしょう。

 この絵を見ると、江戸のいたるところで、鯉のぼりがあげられていることがわかります。ですから、当時すでに、子どもの成長を願う行事が鯉のぼりだったことがわかります。晴れた日、人々は富士山を遠景に見ながら、風にたなびく鯉のぼりを鑑賞していたのでしょう。鯉は立身出世の魚ですから、この行事が、男の子を対象にしたものだということがわかります。

 Wikipediaによると、端午の節句に鯉のぼりをするようになったのは、江戸時代からだそうです。男の子の出世と健康を願って、武家から始まった行事だと記されています。

 一方、中国では端午の節句には、腹かけで子どもの健康と成長を願うそうです。

こちら →
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 この腹かけには、小動物や草花、虎の刺繍が施されています。虎が真ん中に配置され、それを囲んで円を描くように、草花や小動物が図案化され、刺繍されています。黒地の布に精緻な刺繍が美しく、芸術品といえるほどです。中国ではこの腹かけのことを「五毒肚兜」というそうです。

 よくわからなかったので、百度で調べてみると、「五毒肚兜」は、子どもの健康と安全を願って、五月の節句に着用させる腹かけのようです。それにしても、腹かけがなぜ端午の節句と関連づけられているのでしょうか、不思議でした。

 さらに、百度の説明文を読んでいくと、だんだんわかってきました。5月になると、寒さから取り放たれた子どもたちは戸外での遊びに興じ始めます。ところが、その時期、小動物たちも活発に活動を始めます。子どもたちが戸外で遊んでいるとき、小動物に咬まれたり、刺されたりして、その毒素が体内に入り込む危険性があります。

 そうした危険が子どもたちに及ばないように、警告を発する意味で、端午の節句に子どもたちにこのような腹かけをさせるようです。腹かけの由来を知ると、「五毒肚兜」は、とても理に適った子どものための行事だということがわかります。

 さて、百度を読んで、その由来はわかったのですが、刺繍された図案を見ただけでは、「五毒肚兜」の小動物が何を指すのか、わかりません。そこで、ふたたび、百度で調べると、「五毒」とされている五つの小動物は、「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」を指すことがわかりました。

 大人には大したことがなくても子どもには、このような小動物との接触が生命の危険にも及びかねません。古来、そのような悲劇が多々、あったのでしょう。そこで、このような小動物には気をつけなさいという警告が、端午の行事の中に盛り込まれているのです。

 日常的に使う腹かけに、「五毒」の原因となる小動物がデザインされ、刺繍が施されています。ですから、これは、すべての親に対し、常に注意喚起するよう配慮された行事といえます。そして、対象となる子どもに性別による差異はありません。男の子であれ、女の子であれ、すべての子どもの健康と安全が祈願されており、よく考えられた子どものための行事だと思いました。
 
■近代化以前の日本と中国
 この展覧会は、近代化以前の江戸と北京を、人々の暮らしの観点から比較するという大変、興味深い企画でした。18世紀といえば、江戸が都市として大きく発展し、独自の日本文化を育んでいた時代です。一方、北京もまた清朝の中心として当時、繁栄をきわめていました。江戸も北京もまだ西洋文化の影響を受けず、独自の文化を醸成させていた時代だったのです。

 その後、西洋文化への対応の違い、すなわち、近代化への取り組みの違いから、日本と中国は大幅に異なった道を歩むようになりました。そして、21世紀のいま、あらためて日本と中国との関係を問い直す必要が生まれ始めています。それだけに、この展覧会で示されたような、近代化以前の日本と中国の文化の源流をたどる試みは貴重なものだといえるでしょう。(2017/4/20 香取淳子)

藤田嗣治展が開催されています。

■藤田嗣治展
 東武デパートの6F美術画廊で、いま、藤田嗣治展が開催されています。開催期間が3月30日から4月5日までだと聞いたので、開催初日、さっそく訪れてみました。

こちら →http://www.tobu-dept.jp/ikebukuro/shop/108623201/

 藤田嗣治氏の作品はこれまで雑誌でしか見たことはなく、今回の展覧会を楽しみにしていました。会場で実際に作品を目にしていくうちに、世界中に藤田嗣治ファンがいる理由がわかったような気がしてきました。

 出品作品は少女をモチーフにした小品が多かったのですが、どの作品からも独特の雰囲気がにじみ出ていたのです。一つずつ作品を見ていくたびに、個々の作品を超えた共通の要素があることに気づきます。そして、それらが積み重なって、やがて観客が、藤田ワールドとでもいえばいいような世界に引きずり込まれていくのを感じます。

■「二匹の猫と少女」から見えてくる二つのベクトル
 たとえば、「二匹の猫と少女」という作品があります。展覧会の開催案内のHPに掲載されていますが、この作品には、私が感じた藤田ワールドが端的に表現されているような気がするのです。
 
 この作品は、少女をモチーフにしています。ところが、興味深いことに、画面全体からはそこはかとないアンニュイが漂ってきます。それはおそらく、この少女から、観客が気怠く、人生を突き放したような虚無感を感じさせられるからでしょう。実は、これこそ、藤田ワールドのテイストとでもいえるものではないかと私は思っているのです。

こちら →
(36×27㎝、リトグラフ、1954年制作。図をクリックすると拡大します。)

 この絵の背景には、のどかな田園風景が描かれています。荒くスケッチ風に描かれていますが、ふとした瞬間に、土と木々の匂いが漂ってきそうです。何の特徴もない木々がただ立ち並んでいるだけの質朴な田園風景ですが、不思議な静謐感があります。

 一方、メインモチーフの少女は都会の雰囲気を漂わせています。肩を出した黒のドレスを身にまとい、赤い帽子をかぶっています。田園にはそぐわない服装ですが、このような色の取り合わせ、顔の表情などから、少女とは思えない成熟、あるいは、気怠さ、虚無感が感じられます。

 この作品には、メインのモチーフとその背景から受ける印象に大きなギャップがあります。ところが、よく見ると、この少女は一匹の猫を膝に置き、もう一匹の猫がスカートにまつわりついています。この二匹の猫を絵に取り込むことのよって、このギャップが埋められているように思えます。動きと野生、そして、黒という色彩をサブモチーフの猫に表象させることによって、背景とメインモチーフをつなげているのです。

 このように二匹の猫を少女の周辺に配置することによって、藤田氏は、背景の静謐感とメインモチーフの都会的な虚無感を見事に調和させています。猫というサブモチーフを組み込むことによって、メインモチーフと背景とのギャップを埋めるだけではなく、このギャップを豊かな表現空間に転換しているのです。

 今回、東武デパートで開催された「生誕130年 藤田嗣治展」に展示されていた諸作品を見て、私は、藤田氏の作品には二つのベクトルが内包されており、それらが相互に作用することによって、独特の世界を生み出していると思いました。

 すなわち、純朴、自然、土着的というベクトルと、洗練、技巧、都会的といったベクトルです。

 純朴な題材としては、子ども、土着的なるものが挙げられるでしょう。

■子ども、土着的なるもの
 目についたのが「指をくわえた赤ん坊」というタイトルの作品です。藤田氏の作品イメージには程遠い題材であったからかもしれません。なによりもまず、赤ん坊にしては大人びた表情が気になりました。

こちら →
(34×26㎝、銅版画、1929年制作。図をクリックすると拡大します。)

 タイトルに「赤ん坊」と書かれていますが、このモチーフがしっかりと起き上がっていること、細長い指がしなやかな動きを見せていることなどから、赤ん坊というよりむしろ、このモチーフは幼児のように見えます。

 右下方向に向けられた視線は定まらず、どこか遠い方向を見ているようです。そのせいか、現実にはないものを見ているようにも見えます。赤ん坊や幼児ならモノを凝視し、観察するのが通例ですが、この赤ん坊の視線を見ると、どうやら、そうではなさそうです。

 それが気になって、つい、立ち止まって見入ってしまいました。なにかしら、気持ちに引っかかるものが残るのです。赤ん坊や幼児に対する固定観念に反する描き方がされていたせいでしょうか。どうしても違和感を抱かざるをえないのです。そう思ってよく見ていくと、この赤ん坊の目の表情からは、気怠さのようなものが感じられます。

 自身は現実に存在していながら、実は、現実ではないものを見ている、そんな風情がモチーフの表情に含まれているのです。何かを見ているが、実は見ていない、見ているとしても、虚空を見ているとしかいえないような表情です。そんなところが、さきほどの少女にも共通しています。この視線の「気怠さ」こそ、藤田ワールドを支える要素の一つだといえるでしょう。

 もう一つが都会的、洗練さ、技巧という要素です。

 この赤ん坊の髪の毛を見ると、小さく束ねられ、その一つ一つがリボンで丁寧に結ばれています。赤ん坊でありながら、オシャレに手を抜かないのです。ここに都会的な洗練さを感じさせられます。

 これらの要素は「雪ん子」と名付けられた作品にも見受けられます。
 雪ん子といえば、子どもの姿をした雪の精を指し、日本の民話に頻繁に登場します。ですから、きわめて土着的要素の強いモチーフなのですが、藤田氏の手にかかると、こんなふうにとても都会的に洗練された印象になってしまいます。

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(34×26㎝、銅版画、1929年制作。図をクリックすると拡大します。)

 この少女の目の瞳孔は大きく開かれており、一見、何かを凝視しているように見えますが、実は何も見てはいない・・・、それこそ虚空を見ているような風情です。自身は現実に存在しながら、実は現実を見ていない、そんな気配がこの絵にはあります。

 こうしてみてくると、子どもや土着的要素の強い作品の中にも、しっかりと藤田氏風の虚無感が反映されていることがわかります。 
 
■都会の洗練、そして、虚無 
展示作品の中には、いかにも藤田氏の作品らしいと思えるものがありました。「カフェにて」という作品です。

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(76×64㎝、油彩、キャンバス、1949年制作。図をクリックすると拡大します。)

 カフェで女性が一人、片肘を突いて何やら考え事をしています。テーブルの上にはワイン、ハンドバック、そして、手紙を書きかけていたのでしょうか、インクがこぼれた白い紙があります。女性の背後にはシルクハットを被った男性が横顔を見せており、さらにその奥にはビルが見えます。典型的な都会の街角です。

 そんな街角のレストランで女性が一人、物憂げに腰を下ろしています。ここでも女性は肩を出した黒い服を着ています。目はうつろで、焦点の合わない視線が印象的です。自身は現実に存在していながら、実は現実を見ていない・・・、そんな虚ろな気持ちが透けて見えるようです。

 視線を絡ませるわけでもなく、伏せるわけでもない、ただひたすら、何かここにはないものを見つめている・・・、そんな女性の視線には、これまで見てきた赤ん坊や子どもの視線に共通するものがあります。すなわち、身体的存在と精神的存在との乖離によってもたらされた虚無ともいえる心情です。

 赤ん坊をモチーフにしても、子どもをモチーフにしても、作品からにじみ出ていたあの気怠さ、そして、田園の中でも都会の片隅でも、少女や女性が発散していたあの気怠さ、それこそが藤田嗣治の作品世界を特徴づけるものといえるのではないかと思います。

■アンニュイと藤田ワールド
 これまで紹介してきた作品のうち、銅版画の「指をくわえた赤ん坊」と「雪ん子」はいずれも1929年に制作されました。藤田氏が渡仏して16年、世界大恐慌の発端となったウォール街の大暴落が起こった年です。当時の世相を反映していたのでしょうか。

 この両作品はいずれも、微妙な線と濃淡によって、モチーフのきめ細かな肌とアンニュイな視線、表情を描き出しています。そのせいか両作品とも不思議な静謐感が漂っており、モチーフにそぐわない虚無感がにじみ出ています。

 次にご紹介した、油彩画「カフェにて」は、1949年にパリではなく、ニューヨークで制作されたといわれています。藤田氏は敗戦後の日本に嫌気がさし、1949年に日本を離れたのですが、渡仏許可が下りる前にニューヨークに出向き、その後、、パリに向かいました。以来、二度と日本に戻らなかったといいます。

 最初にご紹介した、リトグラフの「二匹の猫と少女」は1954年に制作されました。この時期、藤田氏は重大な決断をしています。翌1955年には日本国籍を捨て、フランス国籍を取得したのです。藤田氏は1886年生まれですから、69歳で日本人をやめる決断を下したことになります。晩年になって日本を離れる決意を固めたのですから、よほど日本に絶望するようなことを経験したのでしょう。

 藤田氏の来歴と作品を照合してみると、あのアンニュイの源泉がわかってくるような気がしてきます。詳細を知ることはできませんが、藤田氏のどの作品からも醸し出されてくるあの虚無的な心情はおそらく、当時の日本社会で生きづらかったことの反映かもしれません。

 どんなものであったかはわかりませんが、居場所を失うような経験をしてきたからこそ、藤田氏の創り出す作品は、色彩や造形の妙味を超えて、ヒトを引き付け続けるのでしょう。展覧会場で藤田嗣治氏の諸作品を見ることによって、作家の来歴と作風とに密接な関係があることがわかりました。絶望感が深ければ深いほど、そして、それが作品に反映されればされているほど、ヒトの心を打つのだと思いました。(2017/3/31 香取淳子)