ヒト、メディア、社会を考える

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「練馬アニメカーニバル2018」が開催されました。

■「練馬アニメカーニバル2018」の開催
 2018年10月20日から21日の11:00から18:00、練馬駅北口で「練馬アニメカーニバル2018」が開催されました。土曜日、立ち寄ってみたのですが、意外に人数が少なく、驚きました。アニメイベントの開催地ならどこも若いヒトが溢れかえっているのかと思っていたのですが、どうやらそうでもなく、会場では若者より親子連れの方が目立っていました。若者向けアニメキャラクターを使った看板がちょっと場違いに思えたほどでした。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 とはいえ、会場でもらったパンフレットを見ると、とても充実した内容で、アニメや漫画を端的に知りたいと思う者にとっては恰好のコンテンツが用意されていました。とくに、「練馬にいた!アニメの巨人たち LIVE高畑勲完読編」や「“アニメはネットで見る“のが常識に?! ネット配信はアニメビジネスに変革をもたらしたか」などのトークショーやシンポジウムが、私には興味深く思えました。

こちら →https://animation-nerima.jp/event/carnival/
 
 アニメそのものはもちろんのこと、よしもとアニメ芸人のライブ、イベント関連のアニメ作品の上映、アニメ制作体験のワークショップなども用意されていました。練馬駅は大江戸線、西武池袋線、有楽町線を利用できますから、アクセスになんら問題はありません。それなのになぜ、ヒトが集まっていないのか、私には不思議でなりませんでした。

 なぜ私がそんなふうに思ったかというと、2週間ほど前に徳島で見かけたアニメイベントとつい、比較してしまったからでした。

■「マチ★アソビvol.21」
 実は、徳島国際美術館に出かける予定で、10月6日から7日にかけて徳島に宿泊しました。その1か月ほど前に旅程を決めて、ホテルを予約しようとしたのですが、どういうわけか、希望したホテルは予約できませんでした。予約で満杯だというのです。ところが、徳島に着いてみると、街はいたって静かでほとんど人通りはありません。なぜ、どのホテルも予約客でいっぱいだったのか、理解できませんでした

 10月7日午前中、眉山ロープウェイに乗って山頂まで登ってみようと思い、阿波踊り会館に行きました。そこでようやく、ホテルの予約が取れなかった理由がわかりました。山頂でアニメイベントがあるというのです。山頂までのエレベーター前には若者が大勢並び、周辺の部屋や階段にまで溢れかえっていました。12時から眉山山頂で「FateHF×AbemaTVスペシャル」が開催されるので、全国各地からやってきた若者たちが列を作っていたのでした。

こちら →https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12246-105812/

 山頂のステージでは、コスプレあり、キャラクターやアイドルの登場ありといった具合に、若者たちが今を楽しむ空間が創り出されていたのです。山頂ではこのようなイベントが行われ、街中では各所でアニメ上映会が行われていました。

こちら →http://www.machiasobi.com/passrull.html

 徳島では町おこしの一環として、毎年この時期にアニメイベントが開催されており、大勢の若者たちを全国から集めるパワーを発揮していたのです。
 
こちら →http://www.machiasobi.com/

 「マチ★アソビvol.21」の今年の開催期間は、2018年9月から10月8日まででした。私が大塚国際美術館に行く予定でたまたま徳島を訪れたのが、このアニメイベントの開催日だったというわけでした。おかげで図らずも、徳島でのアニメイベントの集客状況を見ることができました。

 徳島と比較すると、今回の練馬アニメイベントはあまりにも参加者数が少なく、そして活気がなく、驚いてしまったのです。アニメ発祥の地といわれ、アニメ会社も多数ある練馬で開催されたアニメイベントなのになぜ、参加者が少なかったのか。しかも、若者が圧倒的に少なかったのか。私には理解できませんでした。

 先ほどご紹介したように、練馬アニメカーニバルのプログラムはとてもよく出来ていました。アニメを俯瞰し、把握しようとすればこちらのイベントの方がはるかに充実しており、参考になると私は思いました。とくに素晴らしかったのが、氷川竜介氏と原口正宏氏のトークショーでした。

■氷川竜介氏×原口正宏氏、高畑勲監督を語る
 これは、2018年4月5日に82歳で亡くなった高畑勲監督について、明治大学特任教授の氷川竜介氏とアニメ史研究家の原口正宏氏が語り合うというコーナーです。私は途中から参加したのですが、ジョークを交えて両者の対話を聞きながら、専門家ならではの蘊蓄を楽しむことができました。その一端をご紹介しましょう。

 司会者から、高畑勲監督の作品で印象に残るのはと問われ、氷川氏は「じゃりん子チエ」(1981年公開)を挙げ、原口氏は「パンダコパンダ」(1972年公開)を挙げました。

◆じゃりん子チエ

こちら →http://www.futabasha.com/chie/

 「じゃりん子チエ」を挙げた氷川氏は、高畑監督は原作に忠実にアニメ作品を制作していたといいます。原作をいったんバラバラに解体して本質を掴んでから再構成するかたこそ、面白くてやがて悲しいトーンができあがるというのです。たとえば、人間にとって本当の孤独とは何かという哲学的なテーマも、高畑監督の手にかかれば、穏やかなユーモアの中で味わい深く表現されていくというわけです。

◆パンダコパンダ

こちら →http://www.pandakopanda.jp/

 一方、「パンダコパンダ」を挙げた原口氏は、この作品の脚本は宮崎駿が手掛けたが、演出は高畑監督が担当しており、高畑監督の本質がこの作品にまぎれもなく現れているといいます。すなわち、日常生活を丁寧に切り取って描き、それを物語の展開の過程に挟み込んでいくという手法です。この手法を採るからこそ、ペシミスティックなものを土台にしても、観客と共有できるものが生み出されると説明します。

 高畑勲監督について、両者は異口同音にそのペシミスティックな姿勢を特徴として挙げています。調べてみると、確かにその要素はありました。たとえば、高畑監督は「母をたずねて三千里」についてのインタビューに答え、以下のように述べています。

 「ハイジの次に作った「母をたずねて三千里」の主人公マルコは、自分の無力さにいらだつ少年です。つらい状況に遭うと、「僕は呪われているんだ!」と叫ぶ。視聴者には「かわいげのない生意気な子」と映るだろうけれど、それでいい。一緒に作った宮さん(宮崎駿監督)は、主人公が旅の先々でトラブルを解決し、一宿一飯の恩義を果たす股旅ものをやりたかったのだろうが、僕は惨めな話がよかった。靴が壊れ、生爪がはがれるといった、目を背けたくなるエピソードもあえて入れた」
(「朝日新聞」2013年12月9日付夕刊)

 この記事を読むと、高畑監督が単なるストーリー展開の面白さだけではなく、登場人物をしっかりと支えるリアリティを求めていたことがわかります。実際、辛いエピソードがストーリーの中に組み込まれると、人物像に陰影が生み出され、笑いに深みが加わります。だからこそ、氷川氏が指摘するように、「面白くてやがて悲しい」気持ちになってしまうのでしょう。日常生活の一端に辛い要素を付加する高畑監督の手法こそが、大人の鑑賞にも耐えられるアニメ作品に仕立て上げているのかもしれません。

■高畑監督の功績
 高畑監督の手掛ける作品は次々とヒットしました。

 もちろん、それらの作品が制作されたのがシリアスなものを求める時代であったことも影響しているでしょう。作品が世に受け入れられるには時代の風潮が深く関わってきます。「パンダコパンダ」は1972年、「アルプスの少女ハイジ」は1974年、「母をたずねて三千里」は1976年、いずれも70年代に放送開始されています。人々がまだシリアスなものを求めていた時代でした。

 原口氏は、高畑勲監督は時代の風潮はどうであれ、子供に何を提供するかという観点からアニメ作品を制作すべきだと思っていたといいます。子供に今、何が不足しているのか。子供に向けて何を作るか、提供するか。そして、何よりもまず、教育、道徳、説教臭さを離れ、子供自体が生き生きと心を解放できるような作品を創るべきだと考えていたというのです。

 見るだけで子供が幸せになれる作品、長い年月を経ても子供たちに親しまれる作品、高畑監督はそのような作品を創ろうとしていたと原口氏はいいます。

 原口氏は、東映時代にTVアニメを一通り経験し、さまざまに試行錯誤した結果、高畑監督は独自の手法を見出したといいます。つまり、描こうとするものを客観的に捉えるとともに、プロセスを省略せずに見せる、それも、愚直なまでに丸ごと見せるという手法です。

 丸ごと見せることによって、観客をエピソードの細部に立ち会わせ、時間と経験を共有させることができます。細部を省略せず、丁寧に描くことによって、物語に時間の厚みを創り出し、観客が共感できる素地を作っていくのです。このような高畑監督の演出手法が、日本アニメに奥行きと風格を与えたといってもいいでしょう。高畑監督が演出した「アルプスの少女ハイジ」はその後の日本アニメに大きな影響を与えたといわれています。

 一方、氷川氏は、高畑監督は日本アニメの巨人だといいます。たとえば、空気は観客にどうやって実感させることができるか、見えないものをあるように見せるにはどうすればいいか。極めて難しい課題です。感情も同様、外から見えないものは表現するのは非常に難しい。それを高畑監督はしっかりと可視化し、実感できるように表現しているといいます。

 空気のある世界はヒトやものが生きている世界でもあります。高畑監督はシーン毎に細部を丁寧に積み重ねていくことによって、空気を感じさせ、見えない領域を観客に感じさせることができます。そして、日常性を画面に入れ込み、リアリズムに徹することで、登場人物の存在に説得力を持たせているのです。

■アニメイベントの集客力と訴求力
 10月7日に徳島のアニメイベント、そして、10月20日に練馬のアニメイベントに遭遇しました。いずれも通りすがりに偶然、見かけました。驚いたのは集客力の違いでした。徳島のアニメイベントは町おこしの一環として開催されており、会場には全国各地から若者たちが馳せ参じていました。閑散とした街並みでは、若者の姿だけが目立つ不思議な光景を何度も目にしました。

 イベントが行われる眉山山頂行のエレベーターに乗ろうとしても、混雑して乗り切れず、手持無沙汰だった私は物産コーナーに向かって、徳島の特産品を買いました。ところが、そこで見かけたのはもっぱら親子連れか高齢者で、若者は見かけませんでした。ひょっとしたら、混み合って身動きのできないほど多くの若者が集っていても、地元の物産にはあまりお金を落としていなかったのかもしれません。

 一方、練馬のアニメイベントには親子連れがもっぱらで、若者の姿はあまりなく、意外なほどでした。プログラムはとてもよく出来ていたのに盛り上がりに欠けていたのは、参加者数が少なかったからでしょう。そうはいっても、参加したトークショーは内容が充実しており、聴き応えがありました・・・、と書いてきて、ふと気づきました。

 練馬のアニメイベントで参加者が予想外に少なかったのは、若者に向けた参加型プログラムがなかったからではないかと思ったのです。

 アニメ制作ワークショップのような参加型のプログラムも用意されていましたが、ここでは親子連れが目立っていました。混んでいると思っていた上映会もグッズ販売も参加者が少なく、活気がありませんでした。イベントには付き物のお祭りの要素が欠けていたのです。それはおそらく、徳島のアニメイベントで見かけたような若者を対象にした参加型プログラムが用意されていなかったからでしょう。参加者の気持ちを弾ませる賑わいを生み出せなかったことが、集客力の弱さに結び付いたのではないかと思いました。

 もちろん、開催場所の状況も影響しているでしょう。徳島では眉山の頂上でイベントが開催されていました。大音量をあげ、参加者が打ち興じられる異空間が用意されていたのです。一方の練馬では開催場所が駅前広場とビル内だったので、大音量をあげることはできず、大人数も収容できませんでした。アニメイベントを通して日常空間から脱することができなかったのです。

 通りすがりに立ち寄ったとはいえ、私にとっては練馬イベントでのトークショー魅力的でした。日本アニメの作品や監督に詳しく、深い分析ができるヒトが登壇者として招待されていたのです。聞き始めるとたちまち引き込まれ、気が付くと、夢中でメモを取っていました。練馬のアニメイベントは集客力こそ弱かったですが、訴求力は強く、参加者の心に残るものは大きかったと思います。(2018/10/28 香取淳子)

日中友好漫画展:一コマ漫画の洗練されたユーモアと訴求力

■日中友好漫画展の開催
 2018年9月11日から21日まで、中国文化センターで「日中友好漫画展」が開催されています。日本漫画家協会、中国漫画創作基地(嘉興)、嘉興市文化広電新聞出版局、嘉興市文学芸術界連石古合会、等々主催、中国文化センター共催で行われました。会場では中国各地からの漫画作品50点と日本漫画家協会からの作品50点と合わせて100点、ユニークで風刺の効いた漫画作品が展示されています。

こちら →
https://www.ccctok.com/wp-content/uploads/2018/08/c1e6ce72345a2924d8f1b0a228262565.pdf#search=’日中友好漫画展’

 開催初日の9月11日、会場に出かけてみました。展示作品はすべて一コマ漫画でしたが、それだけに一枚の絵に凝縮した世界が表現されており、見応えがありました。中には社会観察力が深くて鋭く、思わず笑いがこみ上げてくる作品もありました。なるほどと思ってしまったからでしょう。この種の作品を見る機会があまりなかったせいか、とても新鮮な印象を受けました。

 印象に残った作品をいくつか取り上げてみましょう。

■漫画家がクリティカルに捉えた現代社会
 展示作品のうち、印象に残ったのはいずれも、中国の漫画家が捉えた現代社会を題材とした作品でした。

 たとえば、「家庭」という作品があります。

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 作者は浙江省の于保勋氏で、中国美術協会漫画委員会委員であり、中国ニュース漫画研究会常務理事です。

 眼鏡をかけネクタイに黒っぽいスーツ姿の男性が汗水を垂らしながら、巨大な荷物を背負って歩いています。背負っているのは、洋風の赤い屋根の家と赤いスポーツカーです。その家のバルコニーからは、まるでこれからパーティに出かけるかのように着飾った金髪の女性がバルコニーから身を乗り出し、「あなた!私まだ、自家用飛行機が欲しいわ」と叫んでいます。この男性の妻なのでしょう、その傍らにいるきれいにトリミングされた猫が笑っています。贅沢三昧の生活を楽しむ妻とそれを必死で支える夫という構図で、家庭が描かれています。

 この妻はすでにゴージャスな服や宝石を身につけ、オシャレな家に住み、スポーツカーまで所有しています。物欲はかなり満たされているはずなのに、それでもまだ自家用飛行機が欲しいと夫にねだっているのです。欲望には限りがないことが見事に表現されています。

 その背後に、欲望を次々と肥大化させていくことによって、経済活動が活性化し、社会が回っていく高度産業社会の仕組みの一端が透けて見えます。贅沢三昧の生活を汗水たらして支えているのが、ネクタイにスーツ姿の真面目そうな中年男性です。公務員なのでしょうか、巨額のお金を稼ぐことには犯罪につながりかねない危うさがあることも示唆されています。

 家庭内の光景を題材にした作品もあります。「夕食」という作品です。

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 作者は北京市の重磅动漫メディア総裁の権迎升氏、専業漫画家です。

 家族揃って食卓を囲んでいます。時計は7時を指していますから、きっと夕食の光景なのでしょう。ところが、団欒の雰囲気はかけらもなく、ひたすら静かです。それもそのはず、お父さんもお母さんもスマホを観ながら皿に箸をつけていますし、正面に座っている子どももタブレットを見ています。

 これまでスマホを題材にした作品は何度か目にしたことがありますが、若者か中年層がモチーフとして登場していました。ところが、この作品で幼児や犬がモチーフに加えられています。足が床に届かないような幼い子どもなのに、食事よりもタブレットの画面に夢中になっていますし、テーブルの下で寝そべる犬までも、大きなスマホの画面に見入っているのです。

 貴重な家族団欒の時間さえ、いまや、スマホに侵食されていることが象徴的に表現されています。せっかく家族が時間と場所を共有していながら、言葉を交わすことなく、意識はそれぞれ、スマホやタブレットを通してネット空間をさまよっているのです。

 ヒトとヒトの絆を対面で深めていく機会はスマホやタブレットで失われ、ネット空間でのコミュニケーションに移行していることが示されています。多様なデバイスやアプリケーションが開発されれば、幼児や犬も容易にネットの虜になってしまいます。この作品を見ていると、改めて、危うい時代に入ってしまったのではないかと思わせられます。

 肥大化する欲望を描いた「家庭」、スマホに乗っ取られた家族団欒を描いた「夕食」、いずれも、作品を通して、ヒトの存在基盤である家庭が崩壊寸前になっていることが示唆されています。

 人々の欲望を刺激することによって消費を促し、経済を活性化させるのが、高度産業化のメカニズムの一つだとすれば、ヒトが節度を忘れ、本来のコミュニケーションをなおざりにしてしまうのも無理はないのかもしれません。その高度産業化の行き着く果てが、環境汚染です。

 たとえば、「最後のオークション」という作品があります。

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 作者は北京市の張燿寧氏で、中国美術協会漫画芸術委員会副主任であり、中国ニュース漫画研究会会長です。

 この作品はオークション会場を題材に、環境汚染をユーモラスに捉えています。クリスティーズなのでしょうか、檀上では恰幅のいい男性がオークショニアとして会場を仕切っています。集まった買い手たちが次々と入札価格を提示する中、水の入ったボトルがひときわ大きく、立派に描かれています。

 絵画や骨董品など、次々に取引された高価な品々の中で、最後に登場したのが「純浄水」だという絵柄です。高価な美術品よりもさらに貴重なのが水だというわけです。物質的な欲望の果てに環境汚染が深刻になれば、飲み水こそがなによりも貴重で高価なものになるという皮肉が表現されています。

 以上、ご紹介した3点は会場でタイトルや名前も写るように撮影したので、作品自体は見づらいものになってしまいました。

 最後に、プラスティックによる汚染問題を象徴的に捉えた作品をご紹介しましょう。「プラスティックのお城」という作品です。下の写真は、会場ではうまく写せなかったので、チラシを撮影したものです。

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 作者は北京市の王立軍氏で、中国美術協会漫画芸術委員会秘書長です。都市を海底部分から捉えた断面図ですが、ほのぼのとした独特の味わいがあります。海底部分の面積が大きく、不安定な不定形の物体で都市が支えられているからでしょうか。不思議な絵柄に強く印象づけられました。

 海底で都市を支える奇妙な物体は一体、何なのでしょう。不思議に思って、ネットで検索してみると、同じような形のものに出会いました。

 実は、奇妙な不定形に見える物体は、スーパーなどで使われているプラスティックバッグだったのです。プラスティックバッグをひっくり返してみると、以下のようになります。

こちら →
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 プラスティックバッグを逆さまにすると、プラスティック都市を海底で支える物体と似たような形状になることがわかります。王氏は声高にプラスティックゴミの汚染を訴えるのではなく、さり気なく、プラスティックゴミで支えられた都市の危うさを表現しているのです。この表現はとても洗練されており、何度も抽象化過程を経た作品の趣が感じられます。

 会場で印象に残った作品を4点、ご紹介しました。興味深いのは、今回取り上げた作品がいずれも中国の漫画家の作品だったことです。日中の漫画家の作品が50点ずつ、同数展示されていたにもかかわらず、印象に残ったのがすべて中国の漫画家の作品だったということは、一コマ漫画では中国の漫画家の方が長じているといえるのかもしれません。

■日中漫画トークイベント
 2018年9月11日、13時30分から日中漫画トークイベントが開催されました。コーディネーターが日本の漫画評論家の石子順氏、登壇者が王立軍氏(中国美術協会漫画芸術委員会秘書長)、仲中暁氏(嘉興美術館副館長)、孔月華氏(嘉興文聯秘書処副処長)、岳陽氏(嘉興美術館職員)でした。

こちら →
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 石子順氏が登壇者に質問するという形で、トークイベントは進められました。聞いていて興味深かったのは、中国の漫画は一コマ漫画が主流なのに対し、日本の漫画はストーリ漫画が中心だということでした。それを聞いて、今回の展覧会で私が深く印象づけられた作品がいずれも中国の漫画家によるものだった理由がわかったような気がしました。一コマ漫画に対する造詣の深さが違っていたのです。

 さらに、中国では漫画創作基地として、嘉興美術館が指定されており、2年に一度、国際イベントを行う一方、絵を描くのが上手な子どもを対象に児童漫画のトレーニングを行い、将来の漫画家の揺り籠としての役割を果たしているということが紹介されました。

 嘉興国際漫画イベントは今年6月26日、上海市で開催されました。

こちら →
http://www.jxmsg.com/jxmsg/main/ArticleShow.asp?ArtID=1325&ArtClassID=10

 子どもたちを集めたトレーニング会は今年7月9日に行われたようです。

こちら →
http://www.jxmsg.com/jxmsg/main/ArticleShow.asp?ArtID=1329&ArtClassID=10
 一連のお話しを聞いていると、中国では着々と、漫画家の国際交流や次世代の漫画家育成が、国や地方政府に支援されて行われていることがわかります。
 
■豪Herald Sunの一コマ漫画
 同じころ、一コマ漫画が大きな話題になりました。オーストラリアの新聞Herald Sunがテニスの全米オープン戦でセリーナ・ウィリアムズ選手が見せた行為を表現した一コマ漫画です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。BBC Newsより)

 この一コマ漫画を見た途端、思わず、声を出して笑ってしまいました。私はYouTubeでこの時の状況を見たのですが、この一コマ漫画で描かれている通りの展開だったからです。試合情勢が悪くなってくると、セリーナ選手は苛立ちを隠しきれず、ラケットを壊し、ついには凄まじい勢いで審判に謝罪を求め、暴言を吐きました。見ていて、驚いてしまいましたが、この時の印象を絵で表現すると、まさしくこの絵柄になるでしょう。

 髪を逆立て、全身で怒りをぶちまけているセリーナ選手の姿は36歳の母親とは思えないほど幼稚でした。漫画では壊れたラケットの傍らにさり気なく、ころがった哺乳瓶の乳首が描かれています。

 一方、この試合で勝利した20歳の大坂なおみ選手に対し、審判が「あなた、ちょっとだけ彼女を勝たせてあげられる?」と聞いている様子が描かれています。この部分は漫画家のフィクションですが、審判員が、36歳の駄々っ子(セリーナ選手)をいさめるために、20歳の(精神年齢の高い)大坂なおみ選手に、(あれだけ騒いでいるから、仕方ない)、ちょっとだけ勝たせてあげてはどうかと提案している様子を、漫画家はセリーナ選手の幼稚さを際立たせるために描き加えているのです。

 実際、YouTubeで見た映像では、大坂なおみ選手は優勝インタビューで涙を流し、「こんな結果になってごめんなさい」とまで言っています。オーストラリアの漫画家が描いたように、セリーナファンがブーイングする会場でも、大坂なおみ選手は冷静さを失わず、勝者なのに謙虚な姿勢を崩さなかったのです。

 ところが、この漫画を掲載したところ、人種差別で、性差別的だと漫画家は非難されました。Herald Sunはこれに対し、漫画家を全面的に支援する姿勢を見せて、一面トップにこのイラストを再掲載したといいます。

■一コマ漫画のユーモアと訴求力
 それにしても、Herald Sunの一コマ漫画は何度見ても可笑しく、思わず声を出して笑ってしまうほどの訴求力がありました。それはおそらく、この一コマ漫画が、世界ランキング1位のセリーナが大坂なおみとの試合で見せた行動とその場の雰囲気を見事に捉えていたばかりか、両選手の本質までも描き切っていたからでしょう。

 本質を描き切った一コマ漫画には確かに、見る者の気持ちを強く動かす力があります。訴求力が強いだけに、言葉を超えた力で見る者の記憶に残るでしょう。そう思うと、この漫画は人種差別でも男女差別でもありませんが、訴求力が強いだけに、セリーナファンにしてみれば、こじつけでもいいから批判したくなるかもしれません。

 改めて、中国の漫画家たちの洗練された描写力を思わせられました。会場で私が印象づけられた作品はいずれも抽象度が高く、具体的に批判をしていても、ストレートな反感を呼ばないように処理されていたように思います。抽象度を高めて婉曲的に表現し、絵柄にユーモラスな味わいを加えるといった具合に、余裕のある洗練されたセンスが随所で光っていました。

 豪Herald Sun紙に掲載され、いま物議をかもしている一コマ漫画との違いはおそらく、この点でしょう。抽象度が低いので、ストレートな個人批判になってしまい、物議をかもしているのです。描きようによっては、テニスコート上でのマナー、あるいは、品格を訴える上質の作品になったかもしれませんが、この絵柄なので反発され、人種差別、性差別と捉えられ、一部の人々を刺激したのです。

 この展覧会で一コマ漫画を多数、見る機会を得ました。作品の多くは、社会をクリティカルに捉えた洞察力で支えられ、味わいのある絵柄で表現されていました。対象を深く観察し、考察し、それを絵の力でどう表現するか、モチーフの選択、構図の選択が巧みだと思いました。

 さらに、対象を抽象化すれば、洗練されたユーモアが醸し出されることにも気づかされました。高度な知性がなくてはこの種の作品は描き切れないでしょう。一コマ漫画には、洗練されたユーモアとクリティカルな訴求力が込められているからこそ、見る者を深く考えさせる力を持つのだと思いました。(2018/9/15 香取淳子)

「いわさき ちひろ、絵描きです」展が開催されています。

■生誕100年「いわさき ちひろ、絵描きです」展の開催
 2018年8月11日、たまたま東京駅に出向く用事があり、丸の内北口にあるステーションギャラリーの前を通りかかりました。入口付近を歩いていると、ふいに、あどけない少女の姿が目に止まりました。

 一目で、いわさきちひろの絵だということがわかりました。あどけない少女の顔から幼い不安感が滲み出ていたからでした。子どもの微妙な心理を表現できるのは、私が知っている限り、いわさきちひろしかいません。ですから、瞬間的にいわさきちひろの絵だと思ってしまったのですが、よく見ると、お馴染みの画風ではありませんでした。

 そのことが気になって、入口近くのスタンドに置かれているチラシを手に取ってみました。やはりこれまで何度も見たいわさきちひろの画風とは異なっていました。一見、子どもが描いた絵のように幼さを残しながらも、どことなく気になる作品でした。見つめているうちに、次第に、立ち去りがたい思いが募ってきます。気が付いてみると、ギャラリーの中に足を踏み入れていました。

こちら →http://www.nikkei-events.jp/art/chihiro/

 「生誕100年、いわさきちひろ、絵描きです」というのが、この展覧会のタイトルでした。展覧会の名称としては異質ですが、いかにも、ちひろらしい童心が感じられます。開催期間は2018年7月14日から9月9日、開館時間は10時から18時です。

 いわさきちひろの絵を私はこれまで何度も見たことがあります。そのほとんどが子どもをモチーフにしたものでした。誰もが一度は目にしたことのある日常の生活シーンが、題材として選択されていました。しかも、ラフなタッチで子どもの情景が描かれていることが多く、共感を覚えやすく、見ているだけで微笑ましい気持ちになったことを思い出します。

 私が、いわさきちひろの作品にそれなりの魅力を感じていたことは確かです。ところが、私はこれまで一度も展覧会に行ったことがなく、じっくり作品を鑑賞したこともありません。魅力のある画家ではありますが、その作品世界に強く引き込まれてしまうほどではなかったのです。

 もし、今回、たまたま目にしたチラシの絵に引き込まれなかったとしたら、大して気にすることもなく、通り過ぎてしまった画家たちの一人に過ぎなかったでしょう。ところが、この時、なぜか私は、この絵の前から立ち去りがたい思いに駆られたのです。

 彼女はいったい、これまでどのような絵を描いてきたのか、さらには、あの独特の画法はどのようにして生み出されたのか、このときはじめて、知りたいという気持ちになりました。チラシを裏返すと、「絵描きとしてのちひろの技術や作品の背景を振り返る展覧会です」と説明されています。いわさきちひろの画法を知るには恰好の展覧会なのかもしれません。

 それでは、まず、チラシに掲載されていた作品、次いで、会場で印象に残った作品を見ていくことにしましょう。

■ハマヒルガオと少女
 私が気になった絵のタイトルは、「ハマヒルガオと少女」でした。会場では第2コーナーに展示されており、1950年代半ばに制作された油彩画です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 画面の左半分に大きく描かれているのが、ピンク色の花を髪に付けた少女の姿です。顔は黒く日焼けし、眉も鼻も口も区別がつきません。その遠方には3人の裸の子どもたちが描かれていますが、これまた全身、焦げ茶色です。これだけで、灼熱の太陽の光が降り注ぐ浜辺の光景だということがわかります。

 メインモチーフの少女は、顔も髪の毛も服もすべて、濁った暗色の組み合わせだけで造形されています。目こそ黒く縁取りされていますが、鼻も口も際立った線を使わず、周囲とそれほど差のない暗色をそっと置いているだけです。

 もっとも、さすがにそれだけでは的確に表現しきれないと思ったのでしょう、いわさきちひろは、鼻先と小鼻だけは細く薄く線描きし、下唇にはやや明るい色を置いています。暗く重い色調の下、輪郭線や境界線を曖昧にしたまま、差異の少ない色面の組み合わせでモチーフを表現する姿勢を堅持していたのです。

 淡い透明感のある色調ではなく、濁った暗色を基調にした作品だったからでしょうか。いわさきちひろといえば定番の、あの軽やかで都会的な繊細さが見受けられません。鋭角的な要素は見られず、モチーフの輪郭線も境界線も曖昧で、すべてがぼんやりと描かれています。どちらかといえば泥臭く、素朴な作品でした。今思えば、だからこそ、私は気になったのでしょう。

 一方、画面のあちこちにピンクの大きな花、ハマヒルガオが飛び飛びに描かれています。まるで黒褐色の顔色や肌色を補うかのように、画面に華やぎとリズミカルな味わいが添えられています。

 また、画面の右半分には、砂地を示すかのように、灰色のスペースがいくつか設えられています。濁った暗色の中に適宜、明るい色が取り入れられることによって、画面が沈鬱した雰囲気になるのが回避されています。

 もう一つ、この絵がよく見るちひろの画風と異なっていると思ったのは、余白がなかったことでした。空想を広げてくれる余白がなく、キャンバス全体に絵具が塗りこめられています。画面の半分以上に明るい色が取り入れられているので、圧迫感はないのですが、これまで見慣れた作品とは異なり、素朴でプリミティブな力がありました。

 この作品の制作年を見ると、1950年代半ばでした。この時期、いわさきちひろはこのような画法を好んでいたのでしょうか。

■眼帯の少女
 第2コーナーをざっと見渡して見ると、同時期に制作された作品がいくつか展示されていました。油彩画はいずれも、「ハマヒルガオと少女」と同様、顔は輪郭線も曖昧なまま、黒褐色が使われていました。そのうち、私が惹かれたのが、「眼帯の少女」という作品です。

 これは、1954年に制作された油彩画です。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 少女が二人描かれています。後ろの少女はこちらに顔を向けて立っていますが、眼帯をした手前の少女は片方の目を伏せ、猫を抱いて座っています。全般に暗い色調の中で、眼帯の白さが目立ちます。

 二人とも頭の上部が画面からはみ出すほど、顔が大きく描かれており、「ハマヒルガオと少女」と同様、黒褐色の顔色です。顔色や髪の毛だけではなく、着用している衣服までも暗色です。しかも、立っている少女は無表情で、眼帯の少女は目を伏せています。感情が抑えられた画面からは逆に、悲しみと不安感、労りの情感がひしひしと伝わってきます。

 この少女にいったい、何が起こったのか、なぜ、眼帯をしなければならない羽目になったのかとつい、想像力を逞しくしてしまいます。それがおそらく、この絵にヒトを引き付ける力の源泉になっているのでしょう。空想を広げるための余白が設定されていないにもかかわらず、画面全体の色調とその色の取り合わせによって、観客の想像力を刺激し、気持ちをぐいとつかみ取っているのです。

 こうしてみてくると、「ハマヒルガオと少女」の顔は、日焼けしたから赤黒い色で描かれているのではなく、この時期、いわさきちひろはヒトの顔全般をこのような色で表現していたのかもしれません。そう思って同時期の作品を見渡してみると、「マッチ売りの少女」、「玉虫の厨子の物語」いずれも顔が赤黒く描かれていました。

 さらに遡って見渡してみると、1940年代前半に制作された「なでしことあざみ」は花がモチーフなのですが、似たような暗い色調で描かれています。1940年代後半に制作された「若い女性の顔」も顔色は赤銅色です。1950年代半ば以前のメインモチーフの色はほとんどすべて暗褐色が使われていました。

 変化がみられるのは、1957年に制作された「母の絵を描く子ども」です。ここでは子どもの顔いろはやや明るく黄土色、母親の顔も似たような色でやや明るく描かれています。いずれもキャンバスに油彩で描かれた作品です。

 さらに大きな変化がみられるのは、1960年代後半、画材を変えてからでした。

■引っ越しのトラックを見つめる少女
 第3コーナーでは水彩、鉛筆、パステルなど、油彩以外の画材で制作された作品が展示されていました。画材を変えて、表現の可能性への挑戦を始めたのでしょう。このコーナーで印象に残ったのが、「引っ越しのトラックを見つめる少女」です。

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 1970年に制作された作品で、洋紙にパステルで描かれています。モチーフは画材の特質を活かして造形され、子どもの微妙な気持ちが見事に表現されています。

 会場には、この作品のための習作が2点、展示されていました。

 一つは、鉛筆と墨を使って洋紙に描かれたもの(習作①)で、落書きされた壁面を大きく配置し、一方の側に壁に隠れるように身を潜ませている女の子が描かれ、その反対側から男の子が覗いている構図です。壁のはるか先に、引っ越しのトラックの後部が少し見えます。その脇には三輪車と降ろされた荷物が描かれており、さり気なく、隣家に子どもが引っ越してきた状況が説明されています。

 もう一つは、洋紙にパステルで描かれた作品(習作②)です。こちらは、落書きされた壁が右に寄せられ、男の子の姿が消えています。女の子は全身を道路側に現す反面、まるで支えを求めてでもいるかのように壁に寄りかかり、そのそばには子犬が描かれています。女の子が身体を向けている先には、引っ越しのトラックが大きく描かれ、その傍らに三輪車や荷物が描かれています。

 これら2点の習作をみていると、いわさきちひろが本作を完成させるまでに行った試行錯誤が見えてきます。

 まず、鉛筆・墨絵による習作①では、トラックは小さく、落書きのある壁面が大きく配置されています。その壁の右側では男の子が壁の内側にいる女の子をそっと覗いており、左側の壁に隠れるように女の子がそっと引っ越しのトラックを見ている姿が描かれていました。

 ところが、パステルによる習作②では、男の子は消え、壁面は狭められて右に寄せられ、代わりに子犬が女の子の傍らに登場しました。女の子は両脚を踏ん張り、壁の内側から外側に全身を現していますが、頭と手はしっかりと壁にくっつけています。不安感を鎮めるための所作といえるでしょう。きめ細かな心理表現といえます。

 習作①から習作②への変化をみてくると、男の子と遊んでいた女の子が、引っ越しのトラックを見つけ、そこから降ろされた三輪車を見て、隣家に子どもがいると判断したのでしょう。女の子は、習作①では、壁に隠れるようにしてそっと見ていました。好奇心に駆られてはいたのでしょうが、どんな子が引っ越してくるのか、不安感も強かったでしょうから、身を隠しながら観察していたのです。

 ところが、習作②では壁の内側から外側へと全身を現しています。それと同時に、トラックの全体像が大きく描かれ、三輪車などもはっきりと描かれるようになっています。不安感よりも好奇心の方が勝ってきたことがわかります。

 そして、本作になると、習作②の子犬は消えており、女の子は壁に寄りかかることもせず、壁から離れてしっかりと立っています。女の子自身、やや大きく描かれていますから、引っ越してきた子を迎え入れる心の準備ができつつあるように思えます。

 一方、壁の落書きは、習作①や習作②と違って、本作でははっきりとした絵柄で、傘をさす女の子がまるで分身のように描かれています。ありのままの自分をさらけ出して、引っ越してきた子どもを受け入れようとする女の子の気持ちの変化が、見事に表現されています。

 習作①と②、本作を連続して見てみると、いわさきちひろが、子どもの心理に沿って、微妙にモチーフを変え、構図を変えていることがわかります。モチーフの組み合わせや大きさ、その配置、構図などがどれほど観客の絵の解釈に影響してくるか、詳細に推し量りながら制作されていることがわかります。

 輪郭線、境界線をしっかりと使ってモチーフを描き、粗いタッチで強弱をつけて色を置いています。モチーフの大きさ、色、形態に強弱をつけ、構図にメリハリをつけています。パステルならではの表現方法なのでしょうし、リアリティ、質感の出し方なのでしょう。このような表現方法によって、情景と女の子の心理状態を的確に抉り出すことができているように思えました。モチーフに沿って考え抜いたからこそ得られた表現方法だといえます。

■子犬と雨の日の子どもたち
 第4コーナーで印象付けられたのが、「子犬と雨の日の子どもたち」です。

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 1967年に制作された作品で、洋紙に水彩、クレヨン、鉛筆で描かれています。

 雨がちょっと小降りになったのでしょうか、レインコートを着た子どもは後方に気を取られて振り返り、前方にいる二人の子どものうち、男の子は雨に濡れるのもお構いなしに、傘を子犬に向けています。女の子は傘こそさしていますが、気持ちは足元の子犬に注がれ、じっと見つめています。雨の日、三人三様の子どもの姿が見事に描き分けられています。

 後方には、小さな家々が立ち並び、左前方には、紫色の花や葉や茎が小雨に打たれて、揺れています。土砂降りではなく、小雨模様の日、子どもたちにとってはなんと刺激的な状況が生み出されるのでしょう。

 道路には水溜まりができますし、時折、顔にかかる水滴も快い、おまけに子犬が雨に濡れて歩いてくるのをみれば、声をかけてみたくもなるでしょう。子どもたちの旺盛な好奇心が見事に捉えられており、見ているだけで微笑ましく、気持ちが和んでいくのが感じられます。誰もがいつかどこかで見たことのある子どもの情景がファンタジックに表現されています。

 さて、この作品で気になるのは、雨で滲んだような絵具の使い方であり、上から下に向けて垂れているように見える淡い色の帯です。これらは雨の表現のように見えますし、都会的で軽快な装飾的画法のようにも見えます。

 この絵の特徴は、子どもの情景が的確に表現されているだけではなく、幻想的でファンタジックな味わいが添えられていることだといえます。リアルでありながら、ファンタジックで装飾的な美しさもあり、とても魅力的です。絵具の滲みと上から下に向けての垂らしこみが、この絵をファンタジックで、都会的で、洗練されたものにしているのでしょう。

 この作品を見ていると、作品に深い情緒を込めるために、いわさきちひろが画材の特質を研究しつくしたことがわかります。モチーフの選択、構図や配置、色の構成はもちろんのこと、画材の持ち味を活かした画法の創出こそが、独自の作品世界を創り出すことになるのだと思いました。改めて、表現したいことと表現手段とのマッチングの重要性を感じさせられました。

■リアルでありながら、ファンタジックな画面を生み出す技法
 「いわさき ちひろ、絵描きです」展では約200点が展示されていました。その中から、私が印象深く感じたのが、上記でご紹介した油彩画2点、パステル画1点、水彩画1点です。それぞれ画材の特徴を活かして画法が考え抜かれており、ヒトの気持ちを捉える作品に仕上がっていました。

 この4作品を改めて眺めてみると、モチーフが何であれ、色調がどうであれ、構図がどんなものであれ、どの作品も、リアルでありながら、ファンタジックな要素があります。それが独特の画法と絡み合って、誰も真似のできない妙味を生み出していることに気づきます。

 たとえば、油彩画の場合、「ハマヒルガオを少女」にしても「眼帯の少女」にしても、顔色や肌色の暗褐色を使い、輪郭線も境界線も曖昧なままモチーフを色面で造形していました。その結果、観客は想像力を駆使して作品を読み取らざるをえず、ラフなタッチで描かれたモチーフに解釈の多様性が生まれます。これは、ファンタジックな要素が保持されたまま観客の想像力が作動する仕掛けといっていいかもしれません。

 一方、パステル画、水彩画では淡い色、透明感のある色調でモチーフが描かれています。元来、ファンタジックな要素を生み出しやすい色調です。ここでもタッチはラフですが、モチーフの本質はしっかりと押さえられています。それぞれ余白が適宜、設けられていますから、そこに観客の想像力の働く余地が生まれます。

 こうしてみてくると、リアルでありながらファンタジックな味わいは、モチーフの本質をラフなタッチで捉え、観客の想像力を刺激する仕掛けを画面の中に組み込むことだといえそうです。

 たまたま立ち寄った展覧会でしたが、モチーフと画材、画法のマッチングの重要性を感じさせられ、とても大きな刺激を受けました。表現者として、さまざまな挑戦を惜しまなかったいわさきちひろに敬意を表したいと思います。(2018/8/14 香取淳子)

「アニメ・マンガから見る戯曲の記憶」展が開催されています。

■開幕式の開催
 2018年7月31日午後2時から中国文化センターで「「アニメ・マンガから見る戯曲の記憶」展の開幕式が開催されました。来賓の挨拶の後、テープカットが行われました。

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 日中のアニメーションやマンガの関係者が一堂に会し、和気あいあいの雰囲気の中、開幕式が行われたのです。笑顔で語らい合う人々を見ていると、いまさらながら文化交流の大切さを思い知らされました。

■「戯曲百選」プロジェクト
 来賓としてまず、中国美術学院教授の常虹氏が挨拶されました。今回の展示および上映作品の背景となる「戯曲百選」プロジェクトを紹介され、2005年の構想に基づき、2006年から開始されたこのプロジェクトは現在、質量ともに、当初の予定をはるかに上回る結果を残していると説明されました。

 そういえば、会場でいただいたチラシにプロジェクトの概略と出品作品の一部が掲載されていました。

 雰囲気を知っていただくために、まず、作品の一端をご紹介しておきましょう。

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 チラシにはごく一部しか掲載されていませんが、会場には中国美術学院の挿絵・漫画コースの教員および学生の作品約40点が展示されています。多様で多彩な挿絵やマンガの世界に驚いてしまいました。

 後で具体的にいくつか作品をご紹介していきますが、この展覧会では、挿絵やマンガ以外に、期間中に短編アニメーションも24作品上映されるそうです。上映会は8月2日と9日、いずれも15:00から開催されます。ただし、こちらは事前に中国文化センターまで申し込みが必要です。

 …、と書いてきて、うっかり、この展覧会の開催期間を記すのを忘れていたことを思い出しました。開催期間は7月31日から8月10日、開催時間は10:30~17:30(ただし初日は14:00~、最終日は15:00まで)です。

 さて、「戯曲百選」プロジェクトは、中国の伝統文化である水墨画や戯曲をアニメーションと結合させて表現していくというもので、これまでにない斬新な企画です。それが時を経て、いつの間にか、内外で高い評価を得るようになっていると常虹氏がいわれたとき、私はふと、最近、読んだ記事を思い出しました。

 中国人自身、これまでと違って、国産アニメを評価するようになっているという内容の記事でした。文化的背景を踏まえたストーリーの構築、キャラクターの設計や造形といったような部分で、中国文化の魅力をうまく取り込めるようになってきているのかもしれません。

 この「戯曲百選」プロジェクトには、制作者が中国文化の魅力を再発見するための効果もあったのでしょう。会場に展示されていた挿絵やマンガを見ていると、その豊かな表現に驚かされました。40点ほどの作品の中にはさまざまな観点から中国文化を見つめなおす姿勢が感じられたのです。

 それでは、作品をいくつかご紹介していきましょう。

■展示作品
 素晴らしい作品が多く、驚いてしまいましたが、ここでは、わずか数点、印象に残った作品だけを簡単にご紹介します。タイトルと作者名等がわかるように撮影したため、全般に作品サイズが小さくなってしまいました。

・「祖父のカバンの中は何?」(学生)

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 これは挿絵なのでしょうか、女の子とお爺さんの交流が描かれています。とてもほのぼのとした絵柄と色調が印象的でした。いつまでも見入っていたいと思わせる温かさがあります。

・「華家垫」(学生)

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 この作品は日本的感覚からすれば、とてもマンガとはいえません。絵画といった方がしっくりくるのですが、この4つのカットがすべて、とても繊細で幻想的な画風で、惹きつけられます。画面から豊かな詩情が匂い立っているのが感じられます。

・「wonderland」(学生)

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 白黒の世界ながら、複雑な現代社会の諸相が感じられます。その中でどんなストーリーが紡がれているのでしょうか、硬質の魅力があります。精緻な筆力に圧倒されます。

・「多重イメージ」(学生)

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 先ほどの作品と似たような趣がありますが、こちらは自然の中で木々とたわむれる子どものシーンがピックアップされて描かれており、ヒトと自然の原初的な関係が連想されます。これもやはり筆力に圧倒されました。

・「気ままにタイ」(教員)

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 タイの建物をモチーフにした作品ですが、複雑なモチーフを丁寧に、そして、情感豊かにモチーフの内に込められた力を引き出しています。建物なのに、生きているような動きとリズムが感じられます。そ撃感じさせる筆力、色彩、構図に惹かれました。素晴らしいとしかいいようがありません。

■伝統と革新
 常虹氏が挨拶で述べられたことが印象に残っています。伝統的な文化をどう活かしていくか、それが現代アニメーションに課せられた課題であり、美術教育に携わる我々にはその責務があると述べられたのです。そして、中国美術学院の動画コースの教員らが総力を結集して立ち上げたプロジェクトが紹介されました。

 プロジェクトの一環として制作された、挿絵とマンガの一部を簡単にご紹介しましたが、いずれも個性豊かに表現されており、目を奪われてしまいました。伝統文化を見つめ、表現方法を模索した結果なのでしょうか。

 中国に代々、伝わってきた水墨画や戯曲という表現芸術は、いま生きている世代が受け継ぎ、次の世代に伝えていかなければ、途絶えてしまいます。そのためには、新しい技法を組み込み、表現しなおす必要があります。それが革新であり、伝統は革新の連続によってようやく生き続けられるものなのでしょう。

 まだ、アニメーションを見ていませんが、展示されていた「挿絵とマンガ」を見ただけで、伝統と革新が結合したからこそ得られる強さが感じられました。ひょっとしたら、それは、このプロジェクトだからこそ持ちえたエネルギーなのかもしれません。

 実はこの展覧会のタイトルに「中国美術学院の挑戦」というサブタイトルが付いていました。展示されていた作品を観ていると、中国美術学院が推進してきた「戯曲百選」プロジェクトはまさに、創作者の表現活動への挑戦であり、絶えざる革新こそが創作の源泉だという気がしてきました。とてもいい刺激を受けました。(2018/7/31 香取淳子)

学会ははたして現実社会に向き合えるのか。

■日本マス・コミュニケーション学会
 6月23日から24日にかけて、学習院大学で日本マス・コミュニケーション学会が開催されました。興味深かったのは、24日の午後、開催された「若手セッション」で、タイトルは「変化するメディア環境とマス・コミュニケーション研究の今後」というものでした。

 近年、マス・コミュニケーションを巡る環境は激変しています。人々の情報接触行動が大きく変化しただけではなく、情報提供側の基盤も揺らいでいます。ところが、そのことに真正面から向き合った研究がほとんど見当たりません。どうしてなのかと私は、常日頃、疑問に思っていました。そんな折、恰好のテーマを取り上げたセッションを見つけたので、とても興味深く、是非とも参加することにしました。

■若手セッション
 このセッションは、「若手研究者の視点」と銘打たれているだけあって、司会者、問題提起者、討論者の計5名、いずれも若手でした(年齢は知りませんが、肩書からそう推察されます)。

 まず、問題提起者の一人が提起した諸問題の中で、私が気になったのは、中国人、韓国人の研究者が増加し、中国や韓国に関する日本語の研究が増えているという指摘でした。

 そして、もう一人の問題提起者が提起した諸問題の中で、私が気になったのは、メディア史、ジャーナリズム史の研究が増えているという指摘でした。

 いずれの指摘も、日本のマス・コミュニケーションが現在、向き合っている現状を、研究者たちが対象としきれていないことを傍証するものだといえます。このような若手研究者の問題提起を聞いていて、私が日頃、感じていたマス・コミュニケーション研究に対する不満の原因が多少、わかったような気がしました。

 この二点を手掛かりに、現在の日本マス・コミュニケーション研究について、考えてみることにしましょう。

■中国人、韓国人研究者の増加
 以前から気になっていましたが、研究発表やワークショップでの報告、研究会での報告等々で、中国人や韓国人の研究者の登壇が増えています。彼ら、彼女らは精力的に、日本語で自国メディアやコミュニケーションについて発表します。その多くはフロアからの質問にも適切に対応し、研究者としての自信も感じられます。

 いったい、日本の若手研究者はどうしているのか。

 ふと、そんなことを思ってしまいました。問題提起者はいずれも、日本マス・コミュニケーション学会は学際的な学会なので、自身の専門領域により近い学会で発表することが多いといいます。そして、彼らは異口同音に、そうした方が研究内容も理解されやすいし、より適切なコメントが得られやすく、自身の研究向上に役立つからだと説明します。

 おそらく、実情はその通りなのでしょう。ネットが情報流通の主流になりつつあるいま、もはや若手研究者に新聞やテレビなどのメディア研究を求めるのは無理かもしれません。ネットと関連づけてメディア研究を進めるにしても、今起きている変化はあまりにも大きく、捉えどころがなく、実証的な手法で研究するのはきわめて困難でしょう。

 もちろん、日本マス・コミュニケーション学会には、新聞社やテレビ局などメディア出身の研究者が多数、加入しています。若手ではありませんが、彼らこそ、メディア激変の現在、日本のマス・コミュニケーション研究を実践し、現場にフィードバックするには適しているはずです。

 ところが、メディアの問題状況に鋭く切り込み、分析し、有為な提言につながりそうな研究が行われているとは寡聞にして知りません。また、そのための研究会が立ち上げられてもいいようなものですが、それも残念ながら、聞いたことがありません。

 現状に立ち向かうだけの意欲と勇気のある研究者はいったい、どこに行ってしまったのでしょうか。

■歴史研究の増加
 メディア史、ジャーナリズム史の研究が増えているという指摘も気になりました。過去についての研究は文献、資料を入手しやすく、しかも、すでに評価の定まっている対象であれば、研究成果を出しやすいという事情もあるでしょう。研究者がリスクを恐れ、成果を急ぐようになると、この種の研究になだれ込む可能性があります。

 ネット主導、デジタル主導でメディアが激変しているいま、メディア研究の領域でもビッグデータをどう扱うか、データアナリストをどう育成するか、コンテンツ制作にAIをどう絡ませるかといったようなことが研究対象になってもいいはずなのに、実際はそうではなく、むしろ歴史研究が増えているというのです。

 研究動向からみても、やはり、現状にしっかりと立ち向かうだけの意欲と勇気のある研究者はどこに行ってしまったのかと思わざるをえませんでした。

■若手研究者の置かれた状況
 そういえば、最近、どの学会でも大学院生、若手研究者の研究発表や論文発表が目立ちます。研究成果を発表することで、認めてもらい、ポストの獲得、あるいは昇進につなげようとするからなのでしょう。その気持ちがわからないでもありませんが、学会によっては学会誌の構成はバランスよく配分する必要があるとしているところもあります。学会誌や学会が若手の研究成果の発表の場としてだけ機能することを回避しようとしているのです。

 一方、現実をみれば、多くの大学は経営状況が深刻化し、ポスト削減やカリキュラムの改編も常態化しています。若手研究者は、これまで以上に将来に不安を覚える事態に陥っているのかもしれません。だからこそ、リスクを避け、安定した評価が得られる方向に走っているのだとすれば、手間暇のかかる研究手法や評価が得られにくいテーマが回避されるのも無理はないと思えてきます。

 どの時代でも研究のための研究を排除できないとはいえ、研究対象が多様化し、研究手法が高度化してしまったいま、若手研究者に限らず、研究者全体が研究対象を掴み切れず、方向性を見失っているともいえそうです。

 今回、日頃の疑問に応えてくれるかと思って、この若手セッションに参加しましたが、疑問は一向に解消されず、逆に、若手研究者の置かれた立場に同情する羽目になってしまいました。研究者と現場はどのように交流し、現場の課題を踏まえて、研究者が研究を行い、適切な提言を現場にできるようになるのか、依然としてわからないまま、セッションは終わってしまいました。

 SNS、そして、AI時代を迎えた今、改めて、「マス・コミュニケーション研究はどうあるべきか」については、継続して取り上げるべきテーマだと思いました。試行錯誤を積み重ね、現場と研究者が切磋琢磨しあいながら、このテーマで検討しつづけていけば、いつかは相互に有益な研究ができるようになるのではないかという気がしています。(2018/06/30 香取淳子)

「第7回日本画大賞展」:違和感はどこからきたのか。

■第7回日本画大賞展の開催
 2018年5月18日から28日まで、上野の森美術館で、「第7回 東山魁夷記念 日経日本画大賞展」が開催されました。別段、馴染みはなかったのですが、日本画大賞展と聞いて、ふっと行ってみる気になりました。

 というのも最近、公募展などでは日本画領域の作品に素晴らしいと思えるものが多く、日本画の真髄とはいったい何なのか、気になっていたからでした。しかも、この展覧会には「東山魁夷記念」という冠が付けられています。東山魁夷といえば日本画の巨匠です。ひょっとしたら、この展覧会で日頃の疑問が解けるかもしれません。そんな期待を抱いて、開催期間も終わりに近づいた5月25日、上野に出かけてみました。

 午前中に出かけたせいか、会場には拍子抜けするほど観客が少なく、驚いてしまいました。見渡すと、観客同士が挨拶し合っています。どうやら出品者の関係者のようです。なんとなく、内輪の展覧会のような印象を受けました。

 展示されていたのは、大賞受賞作品と入選作品合わせ、わずか24点でした。この展覧会の観客の多くが出品者に関係する人々だとすれば、観客数が予想外に少なかったのも不思議ではありません。

 さて、観客が少なく、展示作品も少なかったので、それぞれの作品をゆっくりと鑑賞することができました。とはいえ、展示作品のほとんどが、大型の作品でしたから、鑑賞するのも大変です。中には鑑賞するための距離を十分に取れないほど巨大な作品も目につきました。これほど大きなサイズである必要があるのかと思ってしまうほど、全般に作品サイズが大きかったのが、この展覧会の第一印象でした。

 しかも、展示作品の中には、私がイメージしている日本画とはいいがたい作品も多々、見受けられました。1階から2階へと展示作品を順に見ていくうちに、日本画の真髄とはいったい何なのか、果たしてこの展覧会で理解しうるのか、疑問に思えてきました。

 当初、抱いていた期待はどこへやら、まるで巨大さを競い合っているかのように見える展示作品を前にして、疲れさえ覚え始めました。1階の作品を見終えた辺りで、早くも、ここで日本画の真髄を把握しようとするのは無理ではないかと思うようになっていました。

■大賞を受賞した「桜木影向図」
 会場で展示されていたのは、全国の美術館学芸員、大学教授、研究者、評論家が推薦した55作家、55作品の中から、6名の選考委員による第一次選考を経て、入選した24作品でした。公募制ではなく、絵画に関する有識者による推薦作品が第一選考の母集団だったのです。

 鑑識力のある人々が推薦した作品がベースになっていますから、第一次選考段階では相当、力量の高い作品が選ばれたことになります。その後、最終選考会を経て、大賞に選ばれたのが、浅見貴子氏の「桜木影向図」でした。

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(図をクリックすると、拡大します。http://www.tamabi.ac.jp/dept/jp/faculty/06/index.htmより)

 パネル三枚組のこの作品は、サイズが265.0×570.0㎝、材質が白麻紙、墨、顔料、樹脂膠で、2015年に制作されました。これだけ見ると巨大ですが、これ以上に大きな作品が同じコーナーに展示されていましたから、この作品はむしろ適度な大きさに見えます。観客を疲れさせることなく、画風も水墨画風で、ほっとした気分にさせられます。

 同じコーナーに展示されていたのが、「ウブスナ」(192.0×650.0㎝)、「高麗」(230.0×480.0㎝)、「わらう獣、山羊と花」(273.0×1104.0㎝)などの巨大な作品でした。モチーフにしろ、色彩にしろ、材質にしろ、これらの作品はいずれも強烈な存在感がありました。

 そのような作品を見てから、浅見氏の作品(「桜木影向図」)を見ると、繊細で洗練された美しさが際立っていることがわかります。静かな中に研ぎ澄まされた優雅さが匂い立ってくるようで、心惹かれます。

 適度に設けられた余白、省略と間、そして、適度な距離感と節度、品の良さがあり、見ていると、知らず知らずのうちに気持ちが和んでいくのを感じます。脈々と受け継がれてきた日本画の本質の一端を見たような思いがしました。

 浅見氏は今回で4回目の入選だそうです。会場に入ってすぐ、観客の様子から内輪の展覧会のようだと思ったのですが、その通りでした。他の出品者も、おそらく審査員も、常連だったのでしょう。

■展示作品に感じた違和感
 展示作品は巨大サイズのものが多く、しかも、色調に違和感があり、日本画らしくない大雑把なものを感じさせられる作品が多々、見受けられました。それにしても、なぜ、こんなに大きなサイズにする必要があるのでしょうか。まるで壁のように見える作品を見ていると、もはや絵画という範疇を超えているのではないかという気がしてくるぐらいです。

 最初にいいましたように、私は日本画の真髄とは何か、日本的なものとは何かを知りたくて、この展覧会を訪れました。ところが、展示されていたのは、巨大すぎて焦点がぼやけてしまっているような作品、あるいは、他の公募展でも見られるようなモチーフや画法の作品が目につきました。正直なところ、期待外れでした。

 日本画大賞展で、しかも、わざわざ「東山魁夷記念」と銘打たれている展覧会なのに、日本画のすばらしさ、東山魁夷の片鱗を感じさせる作品がほとんど見られませんでした。ここで展示されていることの意味がよくわからない作品が多かったのが気になりました。

 展示作品の多くが、いたずらに巨大で自己主張が強く、慎ましやかさ、奥ゆかしさ、滲み出る内面の豊かさといったものを読み取ることが難しかったのです。私が勝手にイメージしているだけなのかもしれませんが、いわゆる日本的なるものを感じさせられることが少なかったのです。

 この展覧会に抱いていたイメージと、展示作品とのギャップが大きかっただけに、一体、どのような選考基準で入選作品が選ばれたのか、気になってきました。

 そもそも、選考委員はどのように選ばれたのでしょうか。選考委員の日本画あるいは東山魁夷への造詣はどの程度のものなのでしょうか。さらには、有識者から推薦された55作品の中から、どのような基準、選考方式で第一次選考が行われたのでしょうか。疑問が次々と浮かびます。とはいえ、それを解き明かすカギは何一つありません。

■選考基準
 55作品の中からいったい、どのような選考基準で入選作が選ばれたのか、手がかりを求めて、図録を購入しました。

 図録の最初に記載されている概要の中から、選考基準を見ると、「日本画作品を描く画家とする」「受賞時に満55歳以下とする」「積極的に日本画作品を発表し、次代の美術界をリードすることが期待される画家とする」「過去に日経日本画大賞を受賞した作家は、推薦対象から除外する」等々の4点でした。

 不思議なことに、東山魁夷記念と銘打たれた展覧会でしたが、選考基準に「東山魁夷」に関する要件が見当たりませんでした。日本画についての定義も「日本画作品を描く画家とする」「積極的に日本画作品を発表し」という曖昧なものでした。

 そこで、「設立趣旨」を見ると、以下のように書かれています。

 「本賞は21世紀の美術界を担う新進気鋭の日本画家を表彰する制度として設立する。1999年に亡くなられた日本画壇の巨匠・東山魁夷画伯が遺した功績を称えるとともに、これまで受け継がれてきた日本画の世界を後世に伝えることと、日々研鑽を積んでいる日本画家の仕事を客観的に評価し、次代をリードする画家の発掘を目的とする」

 「設立趣旨」はとても納得できる内容です。そこで、改めて「選考基準」と突き合わせてみると、「設立趣旨」で明記されていた「東山魁夷が遺した功績を称える」、「これまで受け継がれてきた日本画の世界を後世に伝える」という要件が、「選考基準」では無くなっています。

 「設立趣旨」では明確に示されていた要件が、「選考基準」では、「日本画作品を描く画家とする」「積極的に日本画作品を発表し」という程度の、とても要件ともいえない曖昧なものに変わってしまっていました。

 私は今回はじめてこの展覧会に参加したので、これまでの経緯は全く知りません。ただ、「日本画大賞」「東山魁夷記念」といったこの展覧会の名称と、展示作品との乖離に違和感を覚え、素朴な疑問から、選考基準等をチェックすると、「設立趣旨」と「選考基準」に齟齬がみられることがわかったのです。

 両者を照合してみると、「設立趣旨」で示されているいくつかの要件を、「選考基準」では、「次代をリードする画家の発掘」に絞り込んでいるふしが見受けられます。おそらく、そのせいで、伝統的な日本画らしくない作品が多く入選し、展示されることになったのかもしれません。

 出品リストから展示作品の技法や材質をみると、ほとんどが日本画を描く画家が使う材質を使っていましたが、中には、通常の日本画材質に加え、タイル、セメント、鉄、アルミニウム、といった日本画には似つかわしくない材質が使われている作品もありました。それでも、「日本画を描く画家」であれば、この選考基準に反するとはいえないのです。

 そして、私が気になっていた作品の大きさですが、選考基準では、「推薦作品の大きさは特に制限しない。ただし展覧会場での展示が困難な場合は、代替作品の出品も検討する」という程度の規定でした。選考基準に制限がないので、どの作品も野放図に大きくなってしまったのでしょう。

 それでは、これらの作品を、審査員はどう評価していたのでしょうか。

■選考委員の見解
 図録では、「審査を終えて」というタイトルの下、6名の審査員が所見を綴っています。わかりやすくするため、講評の中で取り上げられた作品を審査員ごとに集計し、表にしてみました。すると、審査員によって評価が大きく異なることがわかりました。

 審査員の専門領域と関連づけてみると、さらに明確な傾向を見て取ることができるのでしょうが、ここではそうすることはしません。ただ、これだけ評価に幅があるということは、審査員の間で、日本画についての基準が確認されないまま、選考に臨んだ可能性が考えられます。

 さて、会場では写真撮影が禁じられていたので、展示作品をご紹介することはできませんが、帰宅してネットをチェックしてみると、上記の作品のうちいくつかが掲載された記事を見つけましたので、さっそく、ご紹介することにしましょう。

こちら →http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/71413/

 ここでは、大賞の「桜木影向図」以外に、「斉唱―神7の唄」、「高麗」、「わらう獣」、「ウブスナ」、「箱庭療法」、「声」、「樹象二」、「熊本ものがたりの屏風」、「ある都市の肖像」、「水焔図」、「境界Ⅺ、境界Ⅻ」等の11点、合計12点が取り上げられています。展示作品のちょうど半数です。

■「第7回日本画大賞展」のコンセプトは?
 先ほどご紹介したのは、「第7回 東山魁夷記念 日経日本画大賞展」を紹介するための記事に取り上げられた作品です。展示作品の半数が取り上げられていることから、Art Annual onlineの記者ができるだけ多様な作品を紹介しようとしたことがわかります。ところが、いかにも「日本画」らしい作品はすべてカットされていました。記者が勝手に取り上げる作品を取捨選択したとも思えません。

 不思議に思いながら、記事を読んでいくと、選考委員長の高階秀爾氏が大賞を受賞した「桜木影向図」の前で挨拶をする写真に、以下のようなキャプションが添えられているのに気づきました。

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選考委員を務めた高階秀爾氏は「今回も従来の日本画のイメージを覆すような新鮮な作品が集まり、日本画というものの広がりを示す展覧会となった。若い入選作家も増えており、今後の展開にとても期待している」と語った。
******

 このキャプションを読んで、ようやく気づきました。「第7回 東山魁夷記念 日経日本画大賞展」は、「日本画のイメージを覆すような新鮮な」作品を求めるためのものだったのでした。全国から寄せられた55の作品もおそらく、このような基準で篩に掛けられたのでしょう。

 「今回も」と高階氏が述べていることから、いつごろからか、少なくともここ最近は、「設立趣旨」とは異なり、「日本画のイメージを覆すような新鮮な」をコンセプトに選考されてきたことがわかります。

 これでようやく、日本画の真髄を求めてこの展覧会を訪れた私が、会場に入ってすぐ、違和感を覚えた理由がわかりました。設立趣旨に掲げられている「これまで受け継がれてきた日本画の世界を後世に伝える」作品ではなく、「日本画のイメージを覆すような新鮮な」作品が選ばれていたからでした。

■強く印象に残った作品
 展示作品の中で、私がぱっと見て日本画らしさを感じたのは、浅見貴子氏の「桜木影向図」以外に、加藤良造氏の「三境図」、佐藤真美氏の「光の脈」、伴戸玲伊子氏の「流水譚」、土方朋子氏の「かへりゆく」、古賀あさみ氏の「黙」でした。

 それからもう一点、いわゆる日本画らしさを感じたわけではないのですが、日本的な感性を感じさせられたのが、椎名絢氏の「宿・中庭」でした。モチーフの捉え方や表現の仕方に融通無碍な制作姿勢を垣間見ることができる、不思議な味わいのある作品でした。

 これらの作品は、私が知りたかった日本画の真髄とは何か、といったようなことに、少しでも近づくことができる内容でした。ところが、先ほどの記事の中ではどれ一つ紹介されていませんでしたので、ここで、とくに印象に残った3作品について、ご紹介することにしましょう。

 残念ながら、会場では撮影が禁止されていましたので、ネットで見つけることができれば、ご紹介していくことにしましょう。

■日本画らしさを感じさせられた作品
 日本画らしさを感じさせられたのが、加藤良造氏の「三境図」という作品です。帰宅してからネットで検索してみましたが、この作品を見つけることはできませんでした。ただ、似たようなタッチの作品を見つけることができました。多少なりとも作品の雰囲気がわかると思いますので、ご紹介することにしましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。http://www.tamabi.ac.jp/dept/jp/faculty/06/index.htmより)

 今回の会場に展示されていた「三境図」は、パネル7枚組で、97.0×1134.0㎝の巨大な作品です。上記の作品とタッチが似ていますが、山と川、空気、木々のそよぎが感じられ、圧巻でした。自然の営みの微妙な要素が巧みに描かれており、興趣溢れた作品でしたが、なぜか、審査員から評価されていません。

 敢えて、その理由を探せば、隙間なく空間が描き込まれ、余白といったものがなかったからでしょうか。確かな画力でとても繊細にモチーフを捉え、濃密に細部まで表現されているのですが、何かを省略する、あるいは、余白で想像力を刺激する、といった要素が見られず、観客を巻き込む力が弱かったからかもしれません。

■日本社会の過去・現在・未来を感じさせられた作品
 とても印象深かったのが、伴戸玲伊子氏の「流水譚」という作品です。これもネットで検索しても見つけることができませんでした。探しているうちに、伴戸氏の他の作品を見つけました。少なくとも作品の雰囲気ぐらいはわかっていただけるかもしれません。ご紹介しましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。https://ameblo.jp/yoryry/entry-11733820965.htmlより)

 展示作品はこれよりもさらに風景の捉え方に深みがあり、画法に繊細なしなやかさがありました。

 伴戸玲伊子氏の「流水譚」には見た瞬間、引き込まれました。日本画らしさを備えながらも、現代的な切れ味の良さ、シャープで洗練された味わいがあったのです。一見、墨絵のような静けさがあるかと思えば、タッチに洋画を思わせる濃厚さがあります。さらに、ところどころ、淡く着色されているところがあり、着色されていないところとの異化作用が作品全体に弾力性をもたらせていました。

 とくに惹かれたのが、風景が多層的に捉えられ、多彩な様相を醸し出すことに成功していたところでした。そこには、フラットでありながら掴みどころのない現代社会そのものを彷彿させるものがありました。日本社会の過去・現在・未来を、この作品から感じさせられます。新しい才能だといわざるをえません。

 実はこの展覧会でもっとも惹きつけられたのが、この作品でした。

■日本的感性を感じさせられた作品
 作品を見て、なんとも不思議な感覚に囚われてしまったのが、椎名絢氏の「宿・中庭」でした。古い旅館の二階から中庭を見下ろした光景が描かれています。

 直線であるはずの廊下が曲線で描かれていたり、庭木が水の中で揺らいでいるように描かれていたり、石灯籠が不定形をしていたり、なんとも得体のしれない世界が描出されていて、この作品の前で思わず、立ち止まってしまいました。

こちらはネットで見つけることができましたので、ご紹介しましょう。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します。
http://www.makiimasaru.com/mmfa/archive/2015/1002/index.htmlより)

 日本画の材質を使って日本的モチーフを描きながら、捉え方に作家独特のフィルターがかけられており、時空を超えた世界が表現されていました。日本人なら誰もが一度は見たことがある、何気ない光景ですが、独自の捉え方で表現することによって、実はどこにもない光景に転化させています。その結果、時空を超えた世界を生み出すことができたのでしょう。これもまた、日本画の領域を切り開くものといえるでしょう。とても興味深い作品でした。

■絵画コンクールと審査員
 日本画の真髄とは何かを求めて、この展覧会に参加しました。展示作品の多くは私が抱いていた日本画イメージとはほど遠いものでしたが、中にはいくつか、日本画の真髄に迫ろうとするものではないかと思わせられるものがありました。一つは「流水譚」であり、もう一つは「宿・中庭」でした。

 先ほどご紹介しましたように、これらの作品は、奇をてらうことなく、重すぎることなく、さり気なく、日本画の新たな領域を切り拓いていました。残念ながら、審査員からは評価されていなかったようです。それだけに、絵画コンクールと審査員の関係について考えさせられました。

 今回、展示作品に違和感を覚えたので、選考基準、当該コンクールの趣旨などを調べてみました。その結果、両者に齟齬があることがわかりました。それが展示作品の傾向に反映されていたのです。

 全国どこにいても、才能のある人材が発掘されるためには、デビューの場として、絵画コンクールが果たす役割は重要です。有為の人材を適切に発掘するには、なによりもまず、その評価体系が整備されていなければないことがわかります。それには当該コンクールのコンセプトと審査員の専門領域、選考基準のマッチングが重要だということを、改めて感じさせられました。(2018/5/31 香取淳子)

子愷杯受賞作品にみる中国漫画の真髄

■子愷杯中国漫画展受賞作品展・浙江省桐郷市漫画作品展の開催
 2018年4月3日から13日まで、中国文化センターで、子愷杯中国漫画展受賞作品展・浙江省桐郷市漫画作品展が開催されました。子愷杯というのは、中国の有名な漫画家・豊子愷杯氏を記念し、新進気鋭の漫画家を育成するために設けられた賞です。

 今回の展覧会では、豊子愷杯氏の作品2点、子愷杯の受賞者たちの作品40点、豊子愷氏の故郷である浙江省桐郷市に居住する漫画家たちの作品32点、合わせて74点の作品が展示されました。

 漫画といえば、日本ではストーリー漫画を思い浮かべますが、ここで展示されていたのはすべて一コマ漫画です。一枚の絵の中に情景やメッセージが凝縮されており、それぞれ、とても見応えがありました。

 展示作品を見ていくと、どちらかといえば、浙江省桐郷市漫画作品展の方に豊子愷氏の作風に近い作品が多かったように思います。水墨画のような画風や、画に書が添えられているところなど、絵作りそのものに豊子愷氏の作風の継承を感じさせられました。

 興味深いことに、これらの作品の作者の多くは地元の小中学校の美術の先生でした。郷土文化に由来するのでしょうか。それとも、地元だからこそ、豊子愷氏の作風を踏襲しようとする思いが強いのでしょうか。豊子愷氏の影響を感じられる作品には魅力を感じました。

 日本人の感覚からすれば、漫画というより書画作品に見えるものが多かったのです。とても味わい深く、中国ならではの伝統を活かした作風にオリジナリティを感じさせられました。漫画と位置付けられていましたが、中には、ほとんど藝術作品といっていいような情緒豊かな作品もありました。

 ただ、残念なことに今回、私は会場で写真撮影ができませんでした。撮影は許されていたのですが、うっかりスマホを忘れてしまったのです。仕方なく、ここではチラシや中国文化センターのHPに掲載された作品を取り上げることにしました。

 まず、豊子愷氏の作品を1点(チラシから)、そして、子愷杯受賞作品の中から3点(HPから)をピックアップし、ご紹介することにしましょう。

■豊子愷氏の作品
 チラシに掲載されていた作品ですが、会場では似たような作風の作品も展示されていましたから、ひょっとしたら、得意とするモチーフだったのかもしれません。タイトルは「子どもは大学生に草はなぜ緑色をしているのと聞く」です。

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 柳の木の下で、子どもたちが若い女性を見上げています。視線を固定し、口を開けていますから、なにやら尋ねているのでしょう。男の子と女の子の表情がなんとも可愛らしく、惹きつけられます。

 子どもたちの顔は見えますが、若い女性は後ろ向きになっていますから、顔は見えません。明らかに、この絵の訴求ポイントは子どもたちの表情です。その表情がこの若い女性との関係で生み出されているところに、この作品の醍醐味があるのでしょう。何事にも疑問をもってしまう年代の子どもたちの様子が見事に描かれています。

 左側に高く伸びた柳の木を配し、その下に本を後ろ手で持った若い女性が立ち、やや距離を置いて、子どもたちがこの女性を見上げているという構図です。柳の葉のしな垂れ具合、幹の曲がり具合、そして、下草の茂り具合、緑色と黒の濃淡がバランスよく配置されており、安定感があります。

 若い女性は水色、男の子は赤、女の子はピンクの洋服を着ていますが、いずれもくすんだ色なので、一歩引いた印象を与えます。対象に肉薄するのではなく、一定の距離を置いて捉えているので、落ち着きがあります。

 男の子の靴がピンク、女の子の靴が赤といった具合に、服で使った色を逆にして靴を着色していますが、それも草で隠れています。色彩をできるだけ抑えて表現しようとする配慮が感じられます。

 柳の木と下草によって左下を縁取りした中に、身長差のある若い女性と子どもたちを入れ込んだ構図には、先ほども言いましたように安定感があります。そこに、本、男の子の服、女の子の靴に赤を配し、動きを生み出しているところ、色彩構成によって巧みな演出が行われていることがわかります。

■豊子愷氏の作品にみる中国絵画の伝統
 これは漫画というよりは、もはや一幅の画といっていいでしょう。画面の右側には「子どもは大学生に草はなぜ緑色をしているのと聞く」と書かれています。知識青年とは都会の学識のある青年という意味ですから、私は勝手に大学生と訳しましたが、知識階級の青年を指します。

 子どもたちはおそらく、このお姉さんには何を聞いても答えてくれると思ったのでしょう。そして、尋ねたのが、「草はなぜ緑色なの?」という素朴な質問でした。あまりにも他愛のない質問ですが、この字句が添えられることによって、画にほのぼのとした温かさが加味されました。

 このような光景は誰もが一度は経験したことがあるでしょう、ごく日常的な出来事です。ところが、豊子愷氏はそこに美しさを見出し、その光景を画と書で表現したのです。何気ない日常生活の一コマから美を見つけ出す繊細さ、それを温かく、優雅に表現する豊子愷氏のセンスと力量に打たれました。

 それでは、子愷杯受賞作品をいくつか見ていくことにしましょう。

■子愷杯受賞作品
 先ほどもいいましたが、今回、会場で写真撮影をしませんでしたので、中国文化センターのHPに掲載されている作品の中から、3点ピックアップしました。

 まず、「呑食」という作品から見ていくことにしましょう。

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 チラシの裏側にも掲載されていた作品です。作者は北京出身の艾辉氏です。

 画面一杯に、スマホが擬人化されて描かれています。凄まじい形相で歯をむき出しにし、時計にむしゃぶりついています。針は折れ曲がり、上の一部は噛み砕かれています。その時計にしがみついているのが、小さく描かれた人間です。振り落とされないよう、必死にしがみついているのが、なんとも哀れです。

 この作品に文字は添えられていませんが、作者が意図するメッセージは明確に伝わってきます。大きく描かれたスマホが時間の観念を破壊し、ヒトをも支配してしまっている様子が端的に描かれています。

 ヒトの生活時間を貪欲に奪ってしまっているのがスマホだというのに、もはや現代人はスマホなしに生きていくことはできません。時間の奴隷といわれたヒトがいまやスマホの奴隷になっている様子がユーモラスに描かれています。

 次に、「生存空間」という作品をみてみることにしましょう。

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 これは山東省出身の田昆氏の作品です。

 パソコンのキーボードの間の狭い空間を人々が行き交っています。

 食料を積みこんだショッピングカーを押す女性、握手を交わすビジネスマン、イヤホンをつけ犬の散歩をする男性、抱擁するカップル、スマホを見ながら歩く子ども、会話する主婦、立ち止まってスマホで会話する青年、等々。

 現代社会のヒトの生活行動を集約して表現されています。さまざまに描かれた行動や仕草が、パソコンのキーボードの狭い空間の狭間に押し込まれているところに、この作者のアイデアの妙を感じさせられました。しかもタイトルは「生存空間」です。

 現代社会の問題点を的確に掬い上げただけではなく、モチーフの大きさと配置、多様性と力点の置き方がクリティカルでシニカル、しかもユーモラスでもあります。人々は一見、自由にさまざまな生活行動をしているように見えますが、実はすべてコンピュータの手の中にあるという皮肉です。

 この作品も見事に現代社会の一端を描き切っています。

 最後に、「父も母も見つからない!」という作品を見てみましょう。

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 これは、黒竜江出身の张建淳氏の作品です。

 延々と並ぶ墓石の前で、女性は泣きながら膝をつき、男性は汗を流しながら、スマホを見ています。画面の大半が膨大な数の墓石で占められているところ、その前で中年夫婦が泣いたり、冷や汗を流したりしているところ、深刻な状況がひしひしと伝わってきます。しかも、墓石には何の表示もなく、ただバーコードが書かれているだけです。文字がなく、図案もなければ、識別するための手掛かりは何もありません。

 この作品のタイトルは、「父も母も見つからない!」です。

 墓地を訪れ、父母の供養をしようとしたのに、すべてバーコード表示になっているので、肝心の墓石がわかりません。慌てふためき、嘆き悲しむ中年夫婦の様子がユーモラスなタッチで描かれています。いまは笑いごとで済みますが、これが近未来の情景にならないとも限りません。

 どんなものであれモノの管理は、最終的にバーコードによる管理になっていくことでしょう。便利で整理しやすく、見つけやすいからです。扱う対象が膨大になればなるほど、バーコード管理は不可欠になっていくでしょう。効率優先の考えでいけば、膨大な人口を抱える中国は将来、墓地までもバーコード管理されるようになっているかもしれません。

 そうした場合、読み込む手掛かりをなくしてしまえば、見つけることは不可能です。ヒトにとって便利なように開発されたサービスも、結局は用をなさなくなってしまうという警告がこの作品には描かれています。

■子愷杯受賞作品からみた中国漫画の真髄
 子愷杯受賞作品として、40点展示されていた中から上記3点をご紹介しました。いずれも現代社会の一端を鋭くえぐり取った作品でした。全般的にこのような現代社会を危惧したり、風刺したりする作品が多くみられました。

 スマホ、パソコン、バーコード、森林破壊、大気汚染、干ばつ、SNS、カギっ子、交通渋滞、等々。ほとんどの作品がこうした現代社会の問題状況をモチーフに、ユーモラスな画風で作品化されていました。

 これらの作品を見て、改めて漫画がクリティカルなメディアであることを思い知らされました。まるで炭鉱のカナリアのように、中国の漫画家は現代社会の歪みや問題点を漫画という表現手段で取り上げ、ヒトに警告を発しているように思えました。とくに今回、ご紹介した3作品はそうした観点で優れた作品でした。

 漫画はユーモラスに誇張してモチーフを描くことができますから、問題状況をオブラートに包んで表現することができます。その一方で、最初にご紹介した豊子愷氏の作品のように、繊細で情感豊かな世界を表現することもできます。

 今回、この展覧会に参加し、日本の漫画では決して味わうことのできない多様な漫画の世界を味わうことができました。豊子愷氏の作品からは中国絵画の伝統を感じさせられましたし、子愷杯受賞作品からは漫画の持つ、社会問題の摘出力、オブラートに包んだ批判力などを感じさせられました。一見、かけ離れた特性のように見えますが、いずれも中国漫画の真髄のように私には思えました。(2018/4/28 香取淳子)

五美大展が開催されています。

■五美大展の開催
 新国立美術館でいま、「平成29年度第41回東京五美術大学連合卒業・修了制作展」が開催されています。期間は2018年2月22日から3月4日までです。六本木に行く用事があったので、3月1日、行ってきました。

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 1階の武蔵野美術大学、女子美術大学から、2階の多摩美術大学、日本大学芸術学部、東京造形大学まで、絵画部門を中心に展覧会場をすべて見てまわりました。総じて、活気がない、小粒、迫力がない、類型的・・・、といったネガティブな印象を抱いてしまいました。

 実は、この展覧会には昨年も来ているのですが、活気があり、若者らしく大胆で、しかも、画力に秀でており、凝視させるような作品がもっとあったような気がします。

 写真撮影が許可されていましたので、昨年と同様、今回も印象に残った作品を撮影しましたが、昨年は全体で24枚に上りましたが、今年はわずか13枚でした。それも昨年度の作品に比べれば、かなり見劣りがします。モチーフは面白くても画力が伴っていない、あるいは、画面を通して、工夫の跡や逡巡の軌跡といったものが見えてこない、といったような不満が残るのです。

 今回、私が撮影した絵画作品をジャンルで分けると、日本画が9点、油彩が1点、ミクストメディアが1点、アクリルが1点、ペンが1点でした。圧倒的に日本画が多いことがわかります。昨年度に撮影した作品を振り返ってみても同様でした。

 さまざまな公募展を思い返してみてもそうでした。どういうわけか、日本画に属する作品の方に、多様なモチーフの選択、画法の工夫、実験的な構図への挑戦といった、創造に関わる領域への貪欲さが見受けられました。その結果として、現代社会を的確に抉り出したような作品や意欲的な作品が油彩画よりもはるかに多く、日本画領域で見られました。もちろん、私の数少ない経験でしかありませんが・・・。

 なぜ、油彩画に存在感がみられず、現代を的確に表現することができなくなっているのでしょうか。

 私が展覧会に行くようになったのは、ここ2、3年のことですが、最近、感じさせられることの多い疑問の一つです。

 いつになく、くどくどと不満を述べてしまいましたが、実は、今回、素晴らしい作品に出会いました。13点の中でも特に印象に残った3点をご紹介していくことにしましょう。

■膳棚久稔氏の「暗やみの色」
 女子美術大学の領域に入って、目についたのが、この作品でした。作者は、大学院・美術研究科・博士前期課程・美術専攻日本画研究領域に所属する、膳棚久稔氏、タイトルは「暗やみの色」です。

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 材質は「楮紙、墨、胡粉」で、サイズは「168.5×183㎝」の作品が2点並べて展示されていました。楮紙というのをここで私ははじめて知りました。調べてみると、原料に楮を用いており、強靭で、しかも、軽くてしなやかという特徴をもつ手漉き和紙だそうです。その楮紙を支持体に、墨と胡粉で描いたのがこの作品です。

 右の作品は、3人の女性たちが何やら語らい、感情が複雑に絡まり合っていることがうかがえる光景です。カウンター席にいる二人の女性がやや高い位置に座り、そのうちの一人が見下ろす格好で、テーブル席に腰を下ろしている女性に何やら語り掛けています。

 テーブル席の女性は膝頭に手を添え、身構える体勢で応対しています。この二人のやり取りを、真ん中の女性はじっと聞いていながら、敢えて視線を伏せ、まるで厄介な関わりを避けようとしているかのようです。

 一方、左の作品は、テーブルをはさんで二人の男性が所在なげに時間を潰している様子が描かれています。二人とも手を頬にあてがっているのが印象的です。一瞥すると、所在無さげに見える二人の男性ですが、姿勢に注目すると、途方に暮れているようにも見えてきます。

 心なしか表情が疲れて見えます。語ることもなく、何かを待っている様子です。そのうちに、この二人はなんらかの問題を抱えているのではないかと思えてきます。ひょっとしたら、それは、右の作品で描かれた3人の女性たちの光景と関係しているのではないか・・・、こうして、右の作品と左の作品がストーリーでつながってくるという仕掛けです。

 膳棚氏のこの二つの作品からは、3人の女性の関係、そして、彼女たちに関係していると思われる2人の男性の心理状態が見事に伝わってきます。ヒトの位置関係、顔の向きや身体の傾き加減、ポーズなど、いわゆる身体所作を詳細に、そして、要領よく描くことによって得られた成果といえるでしょう。

 それも墨の濃淡と白だけで描き切っているのです。その背後に見え隠れする膳棚氏の鋭い観察力と的確な表現力に驚かざるをえません。

■眞瀬翼氏の「帰路」
 多摩美術大学の領域に入って、強く印象づけられたのが、眞瀬翼氏の「帰路」でした。眞瀬氏は、美術学部・絵画学科日本画専攻に所属していますから、これは卒業制作になるのでしょう。

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 材質は、「高知麻紙、岩絵具、水干絵具、顔料」、サイズは「180×180㎝」です。この作品を見た途端に、惹き込まれてしまいました。色彩のバランスといい、色調といい、形状といい、モチーフの扱いといい、画面全体から何か、ワクワクするようなものを感じさせられたのです。

 大地、地面、あるいは道路とでもいえばいいのでしょうか、着地面は、水色で表現されており、その上に無数の足がさまざまな方向に向けて描かれています。まさに、仕事を終え、帰宅する群衆の姿が浮き彫りにされているのです。平凡な日常生活の一シーンですが、極めて美しく、象徴的に捉えられています。

 地面に着地するといっても、同じ平面ではなく、位置を微妙にずらし、いくつもの靴、脚部が重なり合うように数多く描かれています。もちろん、よく見ると、ズボンのようなもの、スカートのようなものも幽かに浮き上がるように表現されています。

 そして、上部の身体は濃い闇に消失しています。まるで、昼間働き続けたヒトは闇に沈み込むことによってようやく、自分を取り戻すことを象徴しているかのようです。帰宅を急ぐ人々の足に注目し、シンボリックに表現することによって、大きな広がりを持った作品になったと思います。現代社会を見事に掬い取った作品だといえるでしょう。

■中田俊哉氏の「男女」
 日本大学芸術学部の領域に入って、目に留まったのが、中田俊哉氏の「男女」でした。中田氏は、日本大学芸術学部・美術学科絵画コース専攻に所属していますから、これは卒業制作になります。

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 この作品の材質はペンで、イラストボードに描かれています。サイズは「145.6 ×103㎝」です。

 左側が女性、右側が男性です。人体を葉や枝、幹、花、根を組み合わせて表現したところ、アルチンボルドを連想しないわけにはいきませんが、あちらは顔部分に焦点を当てて描いているのに対し、中田氏の作品は無彩色で、人体の動きそのものを表現しています。

 人体ならではの微妙でしなやかな動き、さらには、何らかの劇的シーンまでも想像させる所作を描ききっているところ、秀逸だと思いました。

 女性は括れた腰をねじり、左手を軽く頭に置いてシナを作り、まるで男性を誘っているかのようです。一方、男性の身体を見ると、胸板と膝が厚く、腰と二の腕の筋肉が盛り上がっています。逞しさが端的に表現されているのです。まるでフィギュアのように、セクシュアル・ポイントとなる身体部位が強調されて、描かれているのが特徴といえます。

 それにしても、なぜ、これほどまでに二人の間のスペースが空いているのでしょうか。これでは、二人の間に何らかの関係が生じようがありません。コミュニケーションが取れる距離ではないのです。

 彼らはまるでモデルのように、個別にポーズを取り、自らの身体をひたすら誇示しているように見えます。近づきすぎず遠すぎず、距離を一定に保ちながら、ポーズを取ること自体に注力しているように見えるのです。

 この男女の姿態と二人の間の距離を見ていると、この作品は、現代社会の若者に警鐘を鳴らしているようにも思えてきました。完璧な身体を求めすぎれば、自らに埋没せざるをえず、やがては他者と協調できなくなってしまうことを示唆しているように思えたのです。深読みかもしれませんが、そうだとすれば、この作品には現代らしさが端的に表現されているといえます。

 この作品のアイデア、構想、デッサン力は群を抜いていて、とても素晴らしいと思いました。

■フラットな現代文化を乗り越えるには
 第41回の美大の卒展、修了展を見終えて、全般的にパワーダウンしているような印象を受けました。アニメに触発されたような作品、どこかで見たような作品、ありきたりの構図・・・、等々。会場に展示されている諸作品を見ているうちに、これは、日常生活の文化的貧困の結果ではないかと思うようになりました。

 現代文化がフラットになってしまったからでしょうか。発想やアイデアに多様性がなくなり、構想力が貧弱になっているように思えたのです。とくに気になるのは、若者らしい冒険心、チャレンジ精神、さらには、実験精神すら見かけることが少なくなっていることでした。

 とはいえ、ご紹介したように、見ていてワクワクするような作品もありました。それでは、これらの作品から、どんな示唆が得られるでしょうか。ちょっと考えてみました。

 まず、これらの作品に共通していたのが、表現の可能性への挑戦です。色彩を制限し、形態を制限する・・・、そのような表現に必要な諸要素に制限をかけることによって、逆に、表現の幅を広げる結果になっていました。見る者の想像力を刺激し、豊かな作品世界に導いていくという手法です。

 現代社会では、色彩にしても形態にしても、過剰です。だからこそ、今回、ご紹介した作品のように、制限することによって、現代社会の本質を見事に抽出し、描き出すことができたといえるのかもしれません。

 今回、素晴らしいと思った作品を見ていて、改めて、絵画表現には、卓越した観察力、素晴らしいアイデア、デッサン力が必要なのだと思い知らされました。若いヒトには、これまで以上に積極果敢に、さまざまな表現の開拓に挑戦していただきたいと思います。(2018/3/1 香取淳子)

第49回練馬区民美術展が開催されています。

■第49回練馬区民美術展の開催
 2018年2月3日(土)から2月11日(日)まで、練馬区立美術館で、第49回練馬区民美術展が開催されています。

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 出品作品は、洋画Ⅰ(油絵)、洋画Ⅱ(油絵以外)、日本画、彫刻・工芸の4部門に分類され、約260点余が展示されています。私も油絵部門に出品しましたので、講評会が開催された2月4日(日)、練馬区立美術館に行ってきました。

 ざっと見て回ったのですが、今回、目を引く作品が少なかったような気がします。コンペではないので、仕方がないのかもしれませんが、題材もありきたりなら、表現方法にも工夫が感じられず、さっと通り過ぎてしまうような作品が多かったように思いました。

 もちろん、中には光る作品もあります。ご紹介していきましょう。

■黒田依莉子氏の作品:「kasumi」
 もっとも印象に残ったのが、黒田依莉子氏の「kasumi」という作品です。

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 海底に生息する魚類、ヒトデ、海草のようなものが画面の下半分にぎっしりと描かれています。これらの生物群がタイトルの「kasumi」とどのように関連しているのかはわかりませんが、この作品の前を通りかかったとき、思わず立ち止まって、見入ってしまいました。色調といい、モチーフの形態といい、その配置といい、すぐにはその場を立ち去りがたい不思議な魅力が放たれていたのです。

 さらに、画面の右上には海底トンネルのような建造物が描かれており、よく見ると、その暗闇の中にも生物が小さく描かれています。それらが何を指しているのかはわかりませんが、明らかに生物だとわかる動きが表現されていました。

 一つは明らかに鳥の形をしています。海猫でしょうか、それともカモメでしょうか。大きく羽を広げて、飛翔しようとしています。上空を目指す鳥の形態をみていると、このトンネルの中の暗闇が夜空に見えてきます。無数に散らばる白い点は星なのでしょうか。中には流れ星のような動きを見せているものもあります。

 もう一つはさらに小さく描かれていますが、これもまた生物だと認識することができます。何本もの透明の足のようなものをなびかせていますから、ひょっとしたら、クラゲでしょうか。こちらはゆっくりと波の動きに合わせて遊泳しているようです。この生物を注視した後、トンネルの暗闇を見渡すと、そこはまさしく海の中であり、無数に散らばる白い点はプランクトンに見えてきます。

 この作品には絵画でしか表現できない、見る者を捉えて離さない不思議な魅力がありました。画面の下半分は明らかに海底の生物群が描かれているのに、画面上右のトンネルの中は、海の上(空)のように見えるし、海の中(海中)のようにも見えます。多様な解釈を引き出す力がありました。

 興味深いことに、いったん、このトンネルの中の暗闇を覗いてしまうと、見る者がその深みに深くはまってしまうような仕掛けがこの作品にはあったのです。考え抜かれて構想されたに違いありません。とても知的な作品だと思いました。

 この作品は練馬区教育委員会賞を受賞しています。

■岸部純子氏の作品:「薔薇」
 会場をざっと見たときは通り過ぎ、見過ごしてしまったのですが、再度、丁寧に見て回って気づいたのが、岸部純子氏の「薔薇」という作品です。

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 庭に咲き誇るバラが描かれています。バラの葉陰に柵が見え、遠方に早緑色の木々の葉が見えます。ご自宅の庭なのでしょうか、新緑のころの幸せが画面全体から伝わってきます。あたり一面、バラの香りが馥郁と漂っているようで、絵を見ているといつの間にか、ささやかな幸せを感じさせられていきます。

 ありふれた日常生活の中でふと、目を止める瞬間があるとすれば、それはおそらく、この作品を見たときに感じた美に近いものを発見するからでしょう。何の変哲もない日常生活の中にも美しさはあり、心を打たれる瞬間があります。そのようなありふれたものの中に美しさを発見し、岸部氏は作品としてまとめ上げたのです。

 多数の展示品の中では、つい、見過ごしてしまうような作品です。火花の散るような瞬間が捉えられているわけではありませんし、技法上も目立ったものはありません。ただ見慣れた日常の風景が描かれているだけです。だからこそ、ヒトの目には留まりにくいのでしょう。それだけに、ありふれたものの中に美を見出し、ごく普通の画法で作品化した岸部氏の創作態度に共感を覚えました。

 残念ながら、この作品は受賞しませんでした。

■佐藤幸光氏の作品:「Sometime Ago」
 会場を見渡している中、吸い寄せられるように足をとどめたのが、佐藤幸光氏の「Sometime Ago」でした。どちらかといえば凡庸な作品が多い中で、異彩を放っており、迫力がありました。

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 この作品の前で私はしばらく佇んで見ていました。「Sometime Ago」というタイトルですが、タイトルにマッチしたモチーフなのかどうかもわかりません。ただ、シャープで洗練された色彩感覚に惹かれました。

 よく見ていくと、色彩はモチーフの形状、面積、配置に関連づけ、微妙に使い分けられていました。黒い無数の線で描かれたモチーフには主に、水色や青、群青色など寒色系のグラデーションが施されていました。中心は黒い線の集合体のような大きな円状の不定形です。ここには時の堆積が表現されているのでしょうか。

 そのうえに鮮やかな赤、鈍い褐色、そして、赤とオレンジの不定形のモノが配置されています。何か特別のことがあった時の記憶の表象なのでしょうか。時の流れに身をまかせるのではなく、ちょっと立ち止まってみたとき、見えてくる世界なのかもしれません。印象深い作品でした。

 この作品は第47回油絵部門で区長賞を受賞した佐藤幸光氏の作品でした。佐藤氏は第47回練馬区民美術展で「space in space 1507」という作品で受賞しています。

■コーナーに配置された作品
 私が出品した絵はコーナーの端に展示されていました。左側の女性像を描いた絵が私の作品です。

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 今回、私は「嵐の日」というタイトルの絵を出品しました。サイズは15号Fです。このところ、この女性像をモチーフにいくつか描いていますが、そのうちの一つです。女性像には博多人形のようなもろく、はかなく、繊細な質感を持たせ、背後の洞窟壁面には頑強で堅固な質感を持たせたいと思いました。

 「嵐」という過酷な状況の中で、メインモチーフと背景との質感の対比を狙いました。さらに、女性像には安らかで安定感のある表情を施し、「嵐」との対比を試みたのですが、残念ながら、受賞しませんでした。

■第49回練馬区民美術展、油絵部門の受賞者
 第49回練馬区民美術展では4つの部門に分かれ、それぞれ5つの賞が設定されていました。私が出品した油絵部門の受賞者は、区長賞1名、教育委員会賞1名、美術館長賞2名、奨励賞3名、努力賞7名が受賞しました。

 このように多数の受賞者が選ばれたのですが、私がざっと見渡して、印象に残ったのはこれまで紹介してきた3作品です。このうち受賞作品は、教育委員会賞を受賞した黒田氏だけで、岸部氏は受賞せず、さらに佐藤氏は第47回区長賞の受賞者でした。こうしてみてくると、改めて評価基準の多様性を感じずにはいられません。

 とはいえ、誰が見ても納得する「いい絵」の必須要件はあるはずです。黒田氏や佐藤氏の作品を見ていると、その必須要件が何かがわかってくるような気がします。それはおそらく、画力という言葉で表現できるものではないでしょうか。今回、会場を巡ってみて、さまざまなことを感じさせられました。(2018/2/7 香取淳子)

2018年(戌年)も、早や一か月が過ぎました。

■戌年
 つい先日、2018年を迎えたばかりなのに、早や1か月が過ぎようとしています。今年こそはと思って新年を迎えたのに、予定通りにコトが運ばないまま、すでに一か月が過ぎてしまいました。ちょっとした焦りを覚えてしまいます。

 さて、今年は干支でいえば、戌年です。年賀状もさまざまな犬のイメージが添えられていました。どれも私たちが日常的にみる「犬」です。ところが、干支では「戌」という漢字が使われています。「犬」と「戌」は同じものを指しているのでしょうか。

 Wikipediaを見ると、以下のように記されています。
「「戌」は「滅」(めつ:「ほろぶ」の意味)で、草木が枯れる状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために動物の犬が割り当てられた。犬はお産が軽いとされることから、安産については、戌の日が吉日とされ、帯祝いなどにはこの日を選ぶ風習がある。」と。

 そこで、中国語の辞書を開いてみました。すると、「戌」としては、以下のように説明されています。①干支の11番目、②夜7時から9時の間、③12の干支の動物の「狗」、等々。日本語の「犬」は「狗」を指すようです。

 そこで、「狗」の説明を見ると、①犬、②よくないヒトの喩え、③迎合、④ヒトをののしるときの言葉、⑤干支の動物の犬を指す、とされています。

 Wikipediaでは「草木が枯れる状態を表す」とされ、中国語の辞書では「よくないヒト、迎合する、ヒトをののしるときに使う言葉」とされ、いずれもいい意味ではありません。それなのになぜ、干支の一つに挙げられたのでしょうか。

 ネットで検索してみても、本を読んでみても、これと思われる説明が見当たりませんでした。ただ、犬は古来、ヒトと共に生活しており、馴染みがあったので、干支の動物の仲間入りができたのかもしれません。いずれにしても明快な説明に出会えませんでした。とりあえず、年末から年始にかけて、神社等を巡って買い集めた「犬」をご紹介することにしましょう。

■秩父神社
 晦日に秩父神社にお参りをしました。そのとき、買い求めたのが、可愛い表情の土鈴です。

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■とげぬき地蔵
 正月1日、ふらっと訪れてみたのが、巣鴨にあるとげぬき地蔵です。かつて「おばあちゃんの原宿」といわれ、高齢社会の象徴のようなスポットでしたが、高齢者が増えたいま、とくにきわだった印象はありません。干支にちなむ縁起物を探してみたのですが、地蔵だからでしょうか、なかなか見当たりません。ようやく見つけたのが、木製の起き上がりこぼし(小法師)です。

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■高麗神社
 正月3日、たまには変わったところを訪れてみようと思い、出かけたのが、埼玉県日高市にある高麗神社です。ここは3日だというのに、かなり混みあっていて、本殿にたどり着くのに相当、時間がかかりました。ここで購入したのは、秩父神社の比べ、はるかに大きい土鈴でした。可愛い犬が大きな鈴の上に乗っています。

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■鹿島神宮
 正月7日、東国三社巡りバスツアーに参加しました。最初に訪れたのが、鹿島神宮です。聳え立つ木々が醸し出す荘厳な雰囲気に圧倒されました。新年を迎えて一週間もたつというのに、大勢のヒトが参拝していました。並んで買い求めたのが、鈴と福を持った犬の土鈴です。

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■香取神宮
 同じ日、鹿島神宮、息栖神社の次に訪れたのが、香取神宮です。こちらも大勢のヒトが参拝に訪れており、活気がありました。神宮の前には延々と土産物店が立ち並び、なかなかの賑わいぶりです。ここでは胴体に扇の絵が描かれた犬の土鈴を買いました。

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■伊勢神宮
 次いでのことなら、伊勢神宮にも行ってみようと思い、伊勢神宮巡りのバスツアーに参加しました。こちらは鹿島神宮や香取神宮とは規模が違いました。大勢のヒトが訪れていましたが、それさえも呑み込んでしまうような広大な敷地に、巨木がそそり立っていました。知らず知らずのうちに、神聖な気持ちになっていきます。建物も置かれているものも、すべてが木か土か石など、自然の材料で作られています。そのせいか、大自然の中に包まれている思いがさらに強化されます。ここでは縁起物さえ、すべては土に帰るように、着色もされていませんでした。

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■デパートで購入した犬の置物
 年末年始にかけて神社等で買ってきた犬の縁起物は6つです。なんとなく、もう一つあった方がいいなと思い、デパートで唐三彩風の犬の置物を買いました。これで7つになりました。

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 唐三彩は唐の時代、副葬品として作られていたようです。馬や駱駝の置物が有名ですが、この唐三彩風に作られた犬もちょっとした風情があります。

■邪気を祓う鈴の音
 今回、訪れた神社のうち、鹿島神宮、香取神宮、秩父神社、高麗神社で買い求めたのが土鈴の犬でした。振ってみると、カラカラと清んだ音がします。静寂の中で聞くと、気持ちまで清み渡ってくるような気がしてきます。そういえば、鈴には邪気を祓う力があると聞いたことがあります。だからこそ、神社等では正月の縁起物として、干支にちなんだ動物の土鈴が売られているのでしょう。買い求めた土鈴を振り、その音で邪気や穢れを祓い、ヒトは新しい年を迎えたのです。

 年末年始にかけて買い求めた犬の置物を本棚に並べ、眺めていると、古来、ヒトが正月になると神社にお参りをし、一年の平安を祈る気持ちがわかったような気がしてきます。これまで単なる年中行事にしか見えなかった新年の神社詣でですが、今回、神社をいくつか巡って、建物や縁起物、参拝の光景などを見ていると、自然と一体化した日本文化の真髄が見えてきたような思いがしました。

 今年一年、いい年でありますように。(2018/1/31 香取淳子)