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第85回新制作展に見る百花繚乱 ①新たな表現の地平

第85回新制作展に見る百花繚乱 ①新たな表現の地平

■第85回新制作展の開催

 第85回新制作展が国立新美術館で開催されています。開催期間は2022年9月21日から10月3日までです。

 会場の出口辺りにポスターが置かれていました。会員である金森宰司氏の作品《ライフ「ビート」》が使用されています。

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 私は9月28日に行ってきました。2Fの2A、2B、3Fの3A、3Bが絵画部門の展示会場になっていました。

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 初めて見る公募展でしたが、そのスケールの大きさに圧倒されてしまいました。作品サイズが大きいというだけではなく、レベルが非常に高いのです。どのような応募規定で、どのような審査基準なのか、興味を覚えてしまいます。

 帰宅してから、HPを見てみると、応募規定等については次のように規定されていました。

こちら → https://www.shinseisaku.net/wp/archives/24691

 絵画部門では、サイズと年齢によって、以下のように、4部門に分かれて審査されます。

① カテゴリー1(H140㎝×W140㎝×D30㎝(該当木枠60号以内)、
② カテゴリーⅡ(H205㎝×W205㎝×D30㎝(該当木枠130~80号以内)、
③ カテゴリーⅢ(H300㎝×W300㎝×D30㎝(該当木枠300号~150号以内)、
④ データ審査(30歳以下、1992年以降生まれ)、または国外在住外国人(年齢制限なし)

 会場に入ってまず驚いたのが、作品サイズの大きいことでしたが、サイズの規程が最低で60号、最大で300号ですから、会場の壁面が圧倒的に大きな作品で埋め尽くされていたのも当然でした。

 それでは入選作品のご紹介を始めていくことにしましょう。素晴らしい作品が数多く、足を止めて見入ってしまったことが何度もありました。そんな中で、今回はとくに、表現方法で新鮮さを覚えた作品を取り上げ、ご紹介していくことにしたいと思います。

 なお、入選作品の場合、サイズについての記載がなかったので、ご紹介する作品については、タイトルと作家名のみ記しておきます。いずれも巨大な作品だったことを報告しておきます。

■イースターの休日

 ちぎり絵のような表現が面白いと思い、足を止めて見入ったのが、《イースターの休日》という作品です。作家は京都府の八木佳子氏です。

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 都会の街角を歩く人々が描かれています。手前で右方向に歩いていくのは地元の人々なのでしょう、スーツケースを持っておらず、軽装です。左側に太った女性、真ん中に2人の若い女性、そして、右側にリュックを背負った高齢の男性、手前に4人の男女が描かれています。この作品のメインモチーフです。

 いずれも雑誌のページを引きちぎって張り付けたように描かれているのですが、写実的に描くよりもはるかに的確に、イメージを喚起するように表現されているのに驚きました。

 例えば、左側の女性は、スーツケースを押して行く旅行者たちを見ながら、歩いています。好奇心旺盛で、太っているわりには歩幅は大きく、軽快に歩いている様子がわかります。真ん中の二人は、話に夢中になっているのでしょうか、旅行者を気にもしていません。そして、右側の高齢者は用心深くゆっくりとうつむきながら歩いており、周りに注意を払っているようには見えません。自分のことで精いっぱいなのでしょう。

 ふと、何故、この作品のタイトルが「イースターの休日」なのか、気になってきました。

 帰宅して調べてみると、処刑されたキリストが復活したのを記念して、イースターの休暇が生まれたとされています。毎年、決まった日にちで行われるのではないそうで、2022年は4月17日の日曜日だったそうです(※ Wikipedia)。

 だとすると、スーツケースを引く旅行者は、「イースターの休日」を示すためのモチーフだったのでしょうか。

 それにしては、彼らの存在感が希薄です。この作品は、前景にちぎり絵風に描かれた4人、中景に水彩画風に描かれた3人の旅行者、そして塀を挟んで、遠景にビルといった画面構成になっています。いかにも都会にありそうな風景が切り取られているのです。

 ところが、前景以外はすべて水彩画風に表現されています。つまり、前景以外はすべて、都会の一角を印象づけるための背景として処理されているのです。スーツを引く旅行者といっても、背後のビルと同様、前景の4人を引き立てるための小道具にすぎないのです。

 この作品を見たとき、都会的で軽快、現代的な感覚に満ち溢れているように思えました。透明感があり、リズミカルでもあります。なぜそう思ったのかといえば、ちぎり絵風の描き方がメインモチーフに採用されていたからです。

 画面すべてをちぎり絵風の描き方をしなかったせいか、前景のちぎり絵風の表現がとても目立ちます。ちぎった紙の端の白い部分が、細かな輪郭線を数多く創り出しており、それがモチーフの色表現に大きな影響を与えていました。モチーフを構成するすべての色にわずかな白が加わることによって、明るく軽快で、都会的、洗練された雰囲気が醸し出されているのです。

 雑誌から切り取った紙切れには、アルファベット文字が印刷されているものがあったのでしょう。それらが髪の毛やワンピースや短いスカートやズボンに取り入れられ、ユニークでオシャレなファッションが創り出されているように見えました。

 例えば、左側の太った女性は白地に黄土色、黒の模様の入ったワンピースを着ているように見えますが、おそらく、文字の入ったページを切り取ったものなのでしょう。

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 黄土色、白、黒、茶色で構成されたページを切り取り、文字部分を模様として活かしながら、衣服、髪の毛、靴、タイツに変身させています。

 何故、都会的で洗練されたイメージがあるのかといえば、おそらく、すでに雑誌のページで確認された色バランスを、そのまま持ち込んでモチーフが造形されていたからでしょう。そして、紙をちぎってできる切れ端の白が、輪郭線として機能する一方、主張する色と色の確執を抑え、洗練の度合いを高めていたように見えました。

 メインモチーフに限定してちぎり絵風の画法を導入したからこそ、この画法の訴求力、あるいは画題とのマッチングが際立ったのでしょう。新たな表現の地平が拓かれたような気がします。

■不語仙

 巨大な画面に、何か得体の知れない造形物が描かれています。《不語仙》というタイトルでしたが、タイトルの意味も分からなければ、描かれている造形物が何なのかもわかりませんでした。作家は兵庫県の中川久氏です。

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 下の作品が《不語仙 氷の声聞く》で、上が《不語仙 風の声聞く》です。二つの作品のタイトルを見ると、《不語仙》という語は同じですが、サブタイトルが異なっていますから、別作品と考えていいのでしょう。

 まずは、《不語仙 氷の声聞く》から見ていくことにしましょう。

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 巨大な作品でありながら、精緻な筆致が異彩を放っていました。

 最初、このモチーフは枯れた葉が絡まって何かに引っかかっているのかと思っていましたが、どうも変です。枯れた植物だろうということはわかるのですが、モチーフの背景に描かれているものが何なのかよくわかりません。モチーフと背景がどう関係しているのかが見えてこず、手掛かりを掴むことができなかったのです。

 そもそも、《不語仙》という言葉がわかりませんでした。

 再び、背景をよく見ると、表面にさざ波のようなものが立っており、不透明の灰色で覆われています。一部、暗い部分があったので、そこに、何かがうごめいているようにも見えました。ただ、表面はなめらかに動いているように見えるので、モチーフの背後にあるものは川か水溜まりの可能性があります。

 ところが、川にしては魚のいる気配はないし、藻のようなものもありません。水溜まりにしては広すぎるし、深すぎました。

 しげしげとしばらく見続けて、ようやく、蓮の花が枯れた姿なのではないかと思い至りました。画面中ほどのモチーフが茎から下に垂れ下がりており、それが傘型をしていることに気づいたからでした。

 傘型に萎んだ形を見て、このモチーフが蓮の花が枯れ、茎から水に落ちそうになっている姿だと理解することができたのです。

 それでは、《不語仙 風の声聞く》を見ていくことにしましょう。

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こちらでも、真ん中のモチーフははっきりと、枯れた蓮の花だということがわかります。その後ろに見える枯れた蓮の花は、茎まで泥水に浸かって、変形しています。

 モチーフ3つは、手前から、枯れた葉、枯れて半分、泥水に浸かった蓮の花、そして、茎まで泥水に浸かって黒く変形した蓮の花、といった具合に、枯れて生命を終え、泥水の中に戻っていく3段階の過程が描かれていたのです。ふと、人の終末を連想させられました。

 生きていた世界から、枯れて、泥水に入り、別世界に向かっているプロセルそのものが描かれていたのです。

 画面の左上は泥煙が巻き上がって、濁っています。ところが、左下を見ると、石に張り付いた藻のようなものが揺らいでいます。泥水の中でありながら、まるで風に揺れているように見えます。泥水の中に所々、陽光がさしこんできているのでしょう、泥の中にぼんやりとした光が感じられます。やがて、おぼろながら光の筋が見えてきます。

 泥水の中の世界を、目を凝らして見ていると、藻が揺らぎ、海草がなびいているのが見え、聞こえるはずのない風の音すら聞こえてくるように思えてきます。

 興味深いことに、タイトルの《不語仙 氷の声聞く》も、《不語仙 風の声聞く》も、「音を聞く」ではなく、「声聞く」と表現されています。

 通常、「氷の割れる音を聞く」であり、「風の吹く音を聞く」のはずですが、「声を聞く」でもなく、「声聞く」と言い表されているのです。このようなタイトルの表現に、中川氏の感性、自然の捉え方、関わり方が見えてきます。

 自然を客体化せず、その中に包まれる存在として捉え、共に生き、関わってこられたのでしょう。だからこそ、中川氏には氷の割れる音や風の吹く音を自然の声として聞こえるのでしょう。

 中川氏は泥水に沈んでいく枯れた蓮の花をモチーフにこの連作を手掛け、枯れた後にも居場所はあることを示そうとしていたのではないでしょうか。

 蓮の花は泥水の中から生まれるといわれます。ところが、中川氏はこれら二つの作品で、枯れた蓮の花を描き、やがて泥水の中に沈んでいく過程を描いています。連作を通して、死の行く末を示唆しているのです。

 この作品には他の作品とは異なる吸引力のようなものがありました。たとえ何が描かれているかわからなくても、じっと見続けさせる力があったのです。

 得体が知れず、謎めいたモチーフが繊細で精緻な筆遣いで描かれていると、大抵の人は、その画面に惹きつけられ、見入ってしまうことでしょう。理解したいという衝動に駆られるからですが、タイトルや構図を容易に推察されないようなものにしておくと、理解は進まず、観客の関与はより深く、強くなります。

 コンセプトが明確で、確かな画力があって、モチーフや構図が戦略的に組み立てられていれば、一定数の観客を魅了することが出来るのではないかと思います。新たな表現の地平に、コンセプトや哲学が必要になってきているように思いました。

 帰宅して調べてみて、「不語仙」が「蓮の花の異称」だということを知りました。言葉の由来はわかりませんが、「蓮の花」よりもはるかに含蓄のある言葉だと思いました。

■神磐

 海水の煌めきの表現が素晴らしく、つい、見入ってしまいました。《神磐》というタイトルの連作です。下に描かれているのが《神磐Ⅱ》、上に描かれているのが《神磐1》です。手掛けた作家は愛知県の藤川妃都美氏です。

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 繊細で精緻な表現力に驚き、見入ってしまったのですが、これらのモチーフが何を意味しているのか、作者が何を言おうとしているのか、皆目わかりませんでした。そもそも《神磐》というタイトルすら、わかりません。

 ただ、どちらの作品にも、巨大な画面に巨大な亀が描かれ、亀の真上に、海辺で群れを成す巨石群が描かれていることが共通しています。異なるモチーフが上下に分かれて描かれているのです。

 このような構図、構成の作品は初めて見ました。

 大きすぎるので、つい、下に設置されている方を見てしまいましたが、《神磐》というタイトルに、Ⅰ、Ⅱと番号を振られていることを思えば、順序通り見ていく必要があるのでしょう。

まず、《神磐1》からみていくことにしましょう。

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 上部に海辺の巨石が描かれ、下部に亀が描かれています。上部に描かれた巨石は亀の手指のような形をしています。その背後には同じような奇妙な形をした石が転がっています。その下には海があり、海は巨石や山並みを映し出す一方、晴れ渡った空も映し出しています。空に奇妙なものが浮かんでいるのが映っていますが、それが何かはわかりません。

 下部の亀は上部の様子を窺うように、動かずにじっとしています。海から射し込んだ陽光を受けて、辺り一面はさざ波の模様で覆われています。そのような中で、亀は手をつき、やや身をよじった姿勢をとっており、生きているように見えます。

 次に、《神磐Ⅱ》を見てみることにしましょう。

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 下部のモチーフは最初、亀だと思ったのですが、ひょっとしたが、岩かもしれません。所々に苔のようなものがついており、向かって右の手には、まるで足裏をひっくり返したかのように丸い模様が入っています。

 上部を見ると、巨石群が左右対称に真っ二つに分かれていて、ちょっと不自然です。さざ波の立ち方にも違和感があります。下部の亀の磁力が強く、その真上を真っ二つに割っただけではなく、波の動きまで狂わせてしまったのでしょうか。

 亀の真上のセンターラインに沿って海上を進むと、洞窟の入り口に辿り着き、その中央に偶像のようなものが設置されているのです。だとすると、この亀は神の化身なのでしょうか。

 そういえば、この連作のタイトルは《神磐》でした。この作品の新しさは、画面を上下に分け、時間、空間の異なる層で関連するモチーフを組み込み、画面を層化して構成していたことでしょう。一枚の画面では表現しきれない新たな表現の地平を感じさせられます。

■百花繚乱を支える審査方法

 第85回新制作展に参加し、数多くの力作を目にしました。サイズの大きな作品が多く、しかも、レベルが非常に高いのが印象的でした。会員の作品が素晴らしいのはもちろんですが、入選作品の中に斬新なものが多々、見られたのが興味深く思えました。

 そこで、気になったのが、応募作品の審査方法です。HPを見ると、審査及び賞については、次のように決められていました。

「審査は本協会会員がこれに当たる。優秀作品には協会賞、新作家賞を贈る。
受賞者には、当協会各部主催の受賞作家展が企画される。」

 審査は「新制作」の全会員が担当するというのです。冒頭でお知らせしましたように、「新制作」では募集作品を4つのカテゴリーに分けていました。それは、自分に合ったサイズで応募し、作品のサイズごとに丁寧に審査してもらうためでした。

 具体的な審査方法は、次のようになっていました。
 
 応募者の氏名は伏せられ、作品が一人分ずつ(何点応募してもいい)審査会場に運ばれます。それを見て、会員が1点ずつ入落の挙手をするのです(※『2022年新制作手帖』)。

 今回、私は会場で諸作品を見て、どの作品も圧倒的にレベルが高いと驚いてしまったのですが、それには、このような審査方法が関係しているのかもしれません。長年、絵画制作に励み、境地を切り拓いてきた会員たちがそれぞれ、作品サイズごとに丁寧に審査するのですから、入落の基準が高く維持されてきたのも当然かもしれません。

『2022年新制作手帖』には、「新制作では、芸術性を尊重し、それに基づく平等性を大切にしています」と書かれていました。様々な可能性に対し、門戸を大きく開いておくという姿勢です。

 確かに、この審査方法を採れば、審査員の嗜好性によるバイヤスを回避できますし、絵画の可能性、表現の可能性に対する見落としを減少させることができるでしょう。審査が応募者と会員の切磋琢磨の場になっているのかもしれません。

 ふと、「見巧者」という言葉を思い出しました。芝居に関する言葉ですが、絵画にも通用するような気がしました。目の肥えた「見巧者」に見てもらって、適切な批評をもらうことで芸に磨きがかかるという見方です。

 今回、新制作が会員全員による審査方法を採用し、作品サイズ別に応募を受け付けていることを知りました。この方法なら、様々な表現の可能性を排除することなく、しかも、丁寧に審査してもられるメリットがあると思いました(2022/9/30 香取淳子)。

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