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第85回新制作展に見る百花繚乱 ②日常生活の中で、光はどう捉えられたか

第85回新制作展に見る百花繚乱 ②日常生活の中で、光はどう捉えられたか

■日常の中の光

 第85回新制作展の会場では、さまざまな画題の作品が多数、展示されていました。いずれもレベルが高く、つい、足を止めて、見入ってしまったことが何度もありました。そんな中、ありふれた光景を描いていながら、心に響く訴求力を持つ作品がいくつかありました。

 今回はそのような作品をご紹介していくことにしましょう。

 関谷泰子氏の作品、中村葉子氏の作品、能勢まゆ子氏の作品で、いずれも連作です。
 
■関谷泰子氏の作品

 窓から射し込む陽光の穏やかな優しさに惹きつけられました。関谷泰子氏は東京都の作家です。窓から射し込む陽光の姿が、午前と午後、様相を変えて、捉えられています。

 まず、《朝の光》から見ていくことにしましょう。

●朝の光

 庭に立つ人物を室内から捉えた光景です。

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 背後から強い陽光を浴びているのでしょう、庭に立つ人は逆光で捉えられ、シルエットだけが見えます。ところが、そのシルエットは胴体と伸ばした腕と手しか捉えられていませんでした。雪見窓越しのせいか、首から上は見えず、足は縁側で遮られていたからです。

 逆光で捉えられたシルエットはそのまま、縁側に影を落とし、室内に入り込んでいます。影はそれほど長く伸びていませんから、やはり、午前の陽射しなのでしょう。外側の光は淡い青系の色で表現され、室内に入ると淡い赤系の色で表現されています。

 よく見ると、外側のシルエットは、障子戸を通して見る影絵のように、障子紙の質感を残して描かれていました。ところが、廊下に落ちた影にはガラス窓越しの質感があります。どちらかといえば、鮮明で鋭角的に見えるのです。透過する材質によって、光が作り出すシルエットにも違いがあることがわかります。

 しかも、逆光を受けて障子窓に映し出されたシルエットと、ガラス窓を透過して廊下に映し出されたシルエットとが接合されていました。一見、ありふれた光景に見えますが、実は、高度な知識とテクニックを駆使し、トリッキーな空間が作り出されていたのです。

 影絵のようなシルエットを映し出した窓は、白を基調に青系の淡い濃淡で微妙なグラデーションをつけて表現されていました。淡く、均一ではないところに障子紙の痕跡が残されています。

 一方、シルエットを映し出した廊下は赤系を基調に、光の当たった部分は明るく、そうではない部分は暗く描かれていました。外に近いところは白色を混ぜた色調で、内に入るにつれ暗色を混ぜるといった具合に、光量に応じて赤系の淡い濃淡が描き分けられていました。

 ごく日常、誰もが目にする光景が、室外と室内とで映し出されたシルエットで再構成されていたのです。穏やかで優しい陽光の中に、ファンタジックな空間が創り出されており、ささやかな幸福が感じられます。

●午後の光

 窓から光が射し込み、直線の影が奥の方まで室内に入り込んでいます。影の異様な長さからは、射し込む光が夕刻に近い午後の陽光だということが示されています。

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 床には花柄模様のジュータンが敷かれ、そのジュータンの上に直接、ガラスの花瓶が置かれています。花瓶にはジュータンの模様と同じような花が生けられていますが、いまひとつ存在感がありません。ジュータンと一体化して見えるからでしょうか。

 さて、この花瓶も花も、低い位置から射し込む陽光によって、大きく形を変形させ、縦長に伸びています。花瓶の両側にも太さの異なる直線の影が長く伸び、室内の奥まで入り込んでいます。

 これらの影の長さを強調するためなのでしょうか、モチーフを捉えるアングルが特異でした。そして、この独特のアングルが、ありふれた光景を題材にしながら、画面を非凡なものに仕上げていました。

 この作品のモチーフは明らかに、花や花瓶ではなく、窓から射し込む縦長の影なのでしょう。というのも、影が画面の面積の大部分を占めているからですが、それだけに影の色調が作品に与える影響は大きいはずです。

 よく見ると、花やジュータンの色はもちろんのこと、カーテンや敷居や窓枠など、描かれているものすべてに固有色があるのですが、その上から青味がかった淡いペールピンクが影の色として全体を覆っていました。寂寥感のある色が使われていたのです。

 そのせいか、画面には優しく柔らかく、それでいて、やや寂し気な雰囲気が漂っていました。それは、陽が沈む前のそこはかとない寂しさであり、一日を振り返る内省的な気分を象徴しているようでもありました。

 室内に長く伸びる影をモチーフとし、特異なアングルでそれらを構成して、ファンタジックな空間が創り上げられていました。何気ない日常生活の中から詩情豊かな世界が生み出されていたのです。

■中村葉子氏の作品

 光と影のさまざまな効果に気づかされたのが、静岡県の中村葉子氏の作品です。よく見ると、《郷-秋の陽に》は、《郷―晩秋の頃》を拡大したものでした。二つの作品の描かれたシーンは同じもののようです。

 まずは全体像を描いた作品から見ていくことにしましょう。

●郷―晩秋の頃

 農村で見かける作業部屋なのでしょう。さまざまな道具が物が乱雑に置かれています。奥には押し入れのような棚があり、そこにもごみ袋や作業用道具箱のようなものが雑然と置かれています。

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 左手の格子窓から陽光が射し込み、作業小屋の室内が明るく照らし出されています。見えてくるのは、板や縄、プラスティックケース、ゴムホース、排管のようなもの、作業台、椅子、壊れた木枠などです。

 窓から射し込む光が、小屋の中の物を暗闇の中から浮かび上がらせ、観客に認識させる機能を果たしています。その機能に着目して制作されたのが、この作品といえるでしょう。

 光は物を明るく照らし出す一方で、その反対側に影を作ります。こうして光が当たる所、当たらない所ができ、同じ場所でも観客に見える部分と見えない部分とが創り出されていくのです。

 たとえば、画面の左下は暗くて、何があるのか全くわかりませんし、右下も、椅子の上に石油ケースが置かれていることぐらいしかわかりません。また、たくさんの縄が巻き付いているように見える太い柱のようなものも手前が影になっているので、実際には柱なのかどうかわかりません。

 このように、暗くて何があるのかわからないような影の部分は、画面に謎を創り出します。

 窓から射し込む陽射しが、室内を光と影で区分けしています。中央やや左の位置に、大きな面積を占めていながら、何なのかわからない影の部分があり、手前と上部にも影の部分があります。いずれも面積が大きく、暗くて何があるのかわからない状態です。

 影部分は画面に謎を持ち込み、ドラマティックな様相に転換させることができるのです。

 一方、これらの影部分は、雑然とした室内をすっきり見せる効果を果たしていました。左下と右下の影、中央左よりに柱のように立つ影、上部の影、これらが画面を単色で切り分け、雑多なモチーフで溢れた画面を整理し、安定させていることがわかります。

●郷-秋の陽に

 先ほどの作品では影になっていた部分がこの作品では明らかにされています。

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 先ほどの作品では影になっていて、その正体がよくわかりませんでしたが、この作品を見ると、どうやら柱のようです。その柱に結び目のついた縄が多数、引っかけられているのがわかり、驚きます。足元には黄色のプラスティックケースや棒や金属製の筒のようなもの、壊れた窓枠のようなものなどが散乱しています。

 この作品では、窓から射し込む光によって、さまざまなものが浮き彫りにされており、はっきりと認識することができます。彩度を抑えて表現されているせいか、あらゆるものが色褪せて見えます。陽光に晒されてきた年月の長さを示しているのかもしれませんし、積もった埃を表しているのかもしれません。

 背後の棚には、プラスティックの小物入れ、金属製の本立て、木製の壊れたおもちゃのようなもの、古新聞の入ったごみ袋など、不用品が無造作に置かれています。描かれているモチーフはすべて、日常生活を支える小道具か、もはや生活に必要のなくなった廃品です。

 丁寧に描かれた多種多様の生活用品や道具類を見ていると、私たちがどれほど多くの物に支えられて生きているかがわかります。ところが、長年、人の生活を支えてきたそれらの物は、持ち主から使われなくなると、不用品として放置され、やがて色褪せ、埃にまみれていかざるを得ないことも見えてきました。

 興味深いのはプラスティック製品です。画面にもいくつか描かれていますが、時間の経過とともに色褪せることはあっても、壊れることはなく、形を残しています。どれほど多くの生活用品、小道具がプラスティックで生産され、そして廃品となっているかが示されていますが、これはほんの一端です。

 この作品には、現代社会の問題点の一つがさり気なく、提起されていました。

 さて、この作品の興味深いところは、丁寧に写実的に描かれていながら、使われることなく、放置された物の悲哀が捉えられていることでした。明暗、遠近法を使って立体感をもたせて描かれていながら、それらの印象がとてもフラットなのです。

 アップしてみると、こんなふうでした。

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(前掲一部。図をクリックすると拡大します)

 彩度を抑え、色数を制限して描かれているから、そう見えたのかもしれません。いずれにしても、現代社会が孕む空虚感がフラットな表現の中に込められていたのです。壊れたわけではなく、まだ機能は残っていても、使われなくなると、物はその生命を失い、輝きを失っていくことが、このフラットな描き方の中に示されていたといえるでしょう。

■能勢まゆ子氏の作品

 庭石をモチーフに、ありふれた日常生活の一端が優しく捉えられているのが印象的でした。京都府の画家、能勢まゆ子氏の作品です。

●爺ちゃんの庭 -朝日-

 おそらく、巨大な石がこの作品のメインモチーフなのでしょう。ところが、その周辺に小さく描かれた木々や花の方が強く印象づけられます。

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 画面の大部分を巨大な庭石が占めています。見た途端に目に入るのはこの大きな石ですが、やがて画面左に小さく描かれた千両の赤に目が引かれます。赤色だからでしょうか、それとも、千両がお正月の縁起物だからでしょうか。

 その千両が大きな石にそっと寄り添うように、赤い実をつけています。小さな実は陽光を受けて艶やかに光り、その上を見ると、葉もまた明るい輝きを見せています。いずれも小さいながら、強い生命力を感じさせられます。

 よく見ると、千両と石の描き方は異なっていました。

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(前掲、部分。図をクリックすると、拡大します)

 この石には、まるで砂で出来ているような粗い感触があります。年月を経て、表面に凹凸ができ、陰影ができています。粗さを残したまま風格のある石に変化していったように見えます。青系、褐色系、黄土系など多様な色が使われており、その中に、この巨石がもつ歴史と風化過程が示されているように見えました。

●爺ちゃんの庭 -晦日-

 同じ庭の光景を別の角度から捉えたのがこの作品です。

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 やや上方から至近距離で、モチーフが捉えられています。大きな庭石に沿って、千両の実や二葉葵の葉が丁寧に描かれています。穏やかな陽光を受けて、色艶よく、生命力をたぎらせているように見えます。

 きめ細かく丁寧に描かれた葉や実を見て居ると、葉の一枚一枚、実の一つ一つに生命が宿っているのがわかります。石の背後には竹垣が設えており、庭の一隅で展開されるそれぞれの生の営みを、優しく見守って来た「爺ちゃん」の存在を感じることができます。

 これら二つの作品の直接のモチーフは庭石や千両や二葉葵ですが、その背後から、丹精込めて育ててきた「爺ちゃん」の日常が透けて見えてきます。

 朝、太陽が昇って陽光が射し込むと、葉や花の営みが輝きを増していきます。それらを通して見えてくるのが、ささやかな幸せです。画面を見ているだけで、その背景を想像することができ、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

■ありふれた生活空間の中で、光はどう捉えられたか

 第85回新制作展で印象に残ったのが、日常生活の中の光を取り上げた作品でした。3人の作家の作品をそれぞれ2点、取り上げてみました。どの作品も、奇をてらうことなく、見たままの光景が、淡々と描かれているだけのように見えました。

 ところが、その何気ない光景の中で、光はさまざまな効果を発揮し、画面を魅力あるものに変えていたことが、それぞれの作品の中で表現されていました。

 たとえば、関谷氏の作品からは、光には幻想を生み出す力があることを感じさせられました。《朝の光》では、逆光が障子戸に浮かび上がらせたシルエットのラインが、限りなく優しく、穏やかでした。逆光の鋭角的なラインが障子戸を通すことによって、朧気で、柔らかなラインに変化していたのです。現実の光景がファンタジックに捉え直されており、魅力的な画面になっていました。

 一方、陽光は射し込む角度によって、シルエットの形を変えていきます。そこに着目して制作されたのが、《午後の光》でした。午後の光が、ガラス窓越しに長いシルエットを作り出し、それが、日常生活の中に幻想的な空間を作り出していたのです。

 ジュータンに直に置かれたガラスの花瓶も花もかすんでしまうほど、異様に長く伸びたシルエットの群れが鋭角的に表現されており、興趣が感じられました。ありふれた日常生活に訪れる一瞬の美を見逃さず、その妙味を捉えた作家の感性が素晴らしいと思いました。

 中村葉子氏の作品からは、光が時に、ありふれた日常の光景をドラマティックに演出することを知らされました。光は、照らし出された領域とそうでない領域とに空間を分断します。その点に着目して制作されたのが、《郷‐晩秋の頃》です。

 窓越しに射し込む陽光が小屋の中を明暗で区分けし、物の形を認識できる領域と暗くて認識できない領域とに二分された世界が提示されます。

 手前と背後、そして中ほどの柱のような部分が暗く、中ほどの光が射し込む領域とが明確に分断されているのです。とくに手前と中ほどの柱の辺りが暗く、室内の様子がドラマティックに構成されているのが興味深く思えました。

 ありふれた日常の光景なのに、光がもたらす明暗によって二分された途端に、観客をドラマティックな世界に誘うのです。暗い影は、物や人の存在を隠してしまうからこそ、不安をかき立て、好奇心を喚起します。影部分の設定は、ドラマティックな世界を創る要素の一つなのだと認識させられました。

 《郷‐秋の陽に》では、光が当たっている領域が主に描かれていました。この作品を見て、改めて、暗い影の画面上の効果がわかりました。

 暗い影は、画面にメリハリをつけ、奥行きを感じさせる一方、観客の好奇心をそそり、なんらかの反応を引き起こします。その結果、観客の気持ちをかきたて、作品への関与を高めるのではないかとこの作品をみて、思いました。

 この作品で印象的だったのは、光が当たった箇所が写実的に描かれながらも、リアリティが感じられないほど、フラットに見えたことでした。現実味を喪失させるほどの平板さが見られたのです。

 これら二つの作品によって、光と影の果たす効果を知ることができました。

 能勢まゆ子氏の作品からは、ドラマティックでなければ、ファンタジックでもない日常の一場面でも、観客の想像力を刺激する仕掛けを画面に埋め込むことによって、訴求力が生まれることを知らされました。

 三者三様の光の捉え方をみてくると、改めて、光は絵画にとって古くて新しいテーマなのだと思わせられます。光と影、モチーフ、構図、それぞれの関係については、依然として新しい発見があり、気づきがあることがわかりました。(2022/10/11 香取淳子)

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