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知って理解し、実践して把握する、パラリンピック大会の意義

知って理解し、実践して把握する、パラリンピック大会の意義

■マセソン美季氏の日本社会に対する印象
 慌ただしく日々を過ごしているうちに、明日はもう大晦日です。今回は、前回書ききれなかった「日経2020フォーラム」のパネル討論をご紹介することから始めましょう。

 このパネル討論は2019年11月19日に行われ、「パラムーブメントがニッポンを変える」というタイトルの下、野村ホールディングスの池田肇執行役員、日本パラバレーボール協会代用理事の真野嘉久氏、UUUM社長の鎌田和樹氏、日本財団パラリンピックサポートセンターのマセソン美季氏、等々が登壇し、それぞれの立場から意見表明されました。

こちら →
(図をクリックすると、拡大します)

 最も印象に残ったのは、マセソン美季氏の日本社会に対する印象でした。

 すでにマセソン美季氏をご存じの方もいらっしゃるでしょうが、そうではない方もおられると思いますので、まず、略歴をご紹介しておきましょう。

 マセソン美季氏は東京学芸大学1年生だった1993年、交通事故で脊髄を損傷し、下半身不随になってしまいました。人生これからというときに車いす生活を強いられ、どれほど悲嘆にくれたことか、想像もできないほどです。

 ところが、1995年に車いす陸上競技に出会って、マセソン美季氏はアイススレッジ・スピードレースに打ち込むようになりました。その結果、1997年の長野パラリンピックプレ大会では3種目で2位に入り、1998年の長野パラリンピックでは金メダル3個(500m、1000m、1500m)、銀メダル1個(100m)を獲得しています。

 さらに、東京学芸大学を卒業後は米イリノイ州立大学に留学し、障碍者スポーツの指導について学びます。そして、2001年には長野オリンピックで出会ったカナダのアイススレッジホッケーの選手と結婚して、男児二人を出産し、現在はカナダのオタワに居住しています。

 このような輝かしい来歴を知ったとき、私はその精神力と絶え間なく続けてこられた努力に感銘せざるをえませんでした。

 それでは、本題に戻りましょう。

 私が強く印象づけられたのは、交通事故で車いすに乗るようになった途端に、周囲からの視線や態度が変わったとマキソン氏が述べられたことでした。そのとき、周囲の人々との間にバリアーができたことを感じたといいます。

 ところが、結婚してカナダに移住すると、そのような違和感を覚えることもなく、すんなりと周囲に溶け込めたそうです。カナダには多様な人種、国籍の人々が住んでおり、異質な存在を異質なまま受け入れる寛容性が社会の中に醸成されていたからでしょう。

 そのような経験があるからこそ、マセソン氏は、日本も障碍者が自然に受け入れられるような社会になってほしいと願い、さまざまな活動を展開しているといいます。このエピソードを聞いて、私は障碍者にはさまざまな物理的なバリアーがある一方で、心理的なバリアーもあることに気付かされました。

 今回のパラリンピックに向けて、マセソン氏はどのような活動をされているのでしょうか。

■「不可能」を」「可能」に
国際パラリンピック委員会は、今回のパラリンピックに向けて、公認教材を開発しました。そこでマセソン氏は中心的な役割を果たしています。

こちら →https://im-possible.paralympic.org/

 これを翻訳して日本版を作成し、日本の教育現場で使いやすいようにしていく過程でも、中心的役割を果たしています。

こちら →https://www.parasapo.tokyo/iampossible/
 
 この教材は座学と実技で構成されており、子どもたちはパラリンピックの歴史やその意義、競技の魅力などを学ぶことができるように組み立てられています。学習していく過程で、共生社会を構築するための考え方や障害についての理解も学べるようになっているといいます。

 実例として2分13秒の映像が用意されていますので、ご覧いただきましょう。

こちら →https://youtu.be/Tmv4VpIPTO0

 子どもが障碍者スポーツを知って、理解するようになると、次第に障碍者に対する認識が変わっていきます。その結果、子どもの認識の変化を通して教師が変わり、親が変わるといった連鎖が起きるというのです。

 子どもに起きた認識の変化がどれほど周囲に作用するものか、画面では、実際に経験した教師や親が登場してそれぞれ感想を述べています。障碍者スポーツを通して認識が変化すれば、それは子どもの認識の枠内にとどまらず、親や教師にまで影響を及ぼしていく可能性があるというのです。このメカニズムを敷衍させれば、パラリンピックを契機に、共生社会への道筋が開けていく可能性も考えられるでしょう。

 さて、この教材には「I’m POSSIBLE」というタイトルが付けられています。

 会場でも説明されていましたが、「IMPOSSIBLE」(不可能)に「‘」を加えるだけで、「私はできる」と意味が変化します。アポストロフィを加えるだけで、「不可能」から「可能」へと、意味が真逆に変化するのです。なんとポジティブなスローガンなのでしょう。

 公認教材の表紙にもこのスローガンが書き込まれています。

こちら →
(さまざまな公認教材。図をクリックすると、拡大します)

 パラリンピックの説明をいろいろ見聞きするにつれ、次第に、「不可能から可能へ」というメッセージの可視化こそが、パラリンピック大会の意義であり、訴求ポイントでもあるような気がしてきました。

 マセソン氏もこのタイトルを踏まえ、パラリンピック大会の障碍者スポーツを普及させることの社会的意義とその効果を指摘しています。(『社会科 NAVI 2019 vol.21』)

 少し工夫するだけで、障碍者たちのできることが増え、可能性が広がるといいます。そのようなことを座学と実技で具体的に伝えていけば、子どもたちは困難にぶつかっても、諦めずに工夫を凝らして解決しようとするでしょう。そう考えるマセソン氏は、パラリンピック大会は子どもたちにとって重要な学習機会でもあるといいます。

 たしかに、些細な心掛けひとつで心構えが変わり、気持ちが大きく変わっていくものだとすれば、まずは実践してみる必要があるでしょう。マセソン氏らは障碍者スポーツと座学とを重ね合わせ、具体的に教えていけるような教材を開発しました。

 障碍者スポーツを実践して見せることによって、マセソン氏らは子どもたちの背中をそっと押し、障碍者の理解と受け入れを促そうとしているといえるでしょう。それこそ、「アポストロフィ」を加えるだけで、「不可能」を「可能」に変えることができたように、実践を通して、障碍者理解を進めようとしているのです。

■「知らなかった」から、「知る」を経て、「希望」へ
 マセソン氏は、人生最大の危機に陥りながらもそこから立ち上がり、障碍者スポーツを実践してパラリンピックで素晴らしい成績を収めました。さらには、いまなお、障碍者スポーツを通して社会貢献をされています。輝かしいばかりのキャリアです。

 それにしても、マセソン氏は何故、突如、訪れた障碍から立ち上がることができたのでしょうか。

 国連広報センターのインタビュー記事を読んでいて、その理由がわかりました。

 マセソン氏は、事故で車いす生活を送るようになるまで、パラリンピックや障碍者スポーツについて何も知らなかったそうです。ところが、病院の担当医が、脚が動かず寝たきりになっていた時期に、「まだスポーツができる」と教えてくれたのだそうです。悲嘆に暮れていたマセソン氏の心に、さっと希望の光が差し込みました。

 もともと水泳をしていたマセソン氏は、初めて外出許可が出たとき、プールに連れて行って欲しいと願ったそうです。医者と一緒なら何かあっても大丈夫、という気持だったといいます。第1回目のチャレンジに成功したのです。

 その後、担当医から教えてもらい、比較的負荷の低い水泳を通して、運動機能を回復させていきました。身体の状態を知り、それにふさわしいスポーツを実践していくことによって、気持ちが晴れていったといいます。

 マセソン氏は「自分が集中できることを早い時期に見つけ出すことができたのは幸運でした」と述べています。(※国連広報センターブログ)

 実は、1964年のパラリンピックでも、マセソン氏と同様、脊椎損傷で寝たきりになっていた人々がいました。

■1964年パラリンピックに参加したアスリートたち
 東京パラリンピックは1964年11月8日に開催されました。22か国から372人のアスリートが参加しましたが、このうち日本からの参加者は53名でした。脊椎損傷で車いすを利用している人々が9競技に参加したのです。

 当時、アスリートたちのほとんどは病院や施設で暮らしていました。ベッドで寝たきりの中、「命の終わりを不安な中でじっと待っていただけ」だったそうです。当時、脊椎を損傷すれば寝たきりになるのは当然で、褥瘡や泌尿器科系の病気が原因で亡くなる人も少なくなかったといいますが、彼らの死因の大きな要因は、「生きる希望が持てないこと」だったそうです。

 そんな中、東京でパラリンピックが開催されることになりました。ある患者は医者から告げられ、パラリンピックに出場することになったといいます。参加者の多くがそうだったでしょう。彼らはそこで海外の障碍者アスリートたちを目にし、驚いてしまいました。

 海外のアスリートたちは競技の後、選手村のクラブで歌ったり踊ったり楽しく過ごしていたそうです。実際に話をしてみて、日本人アスリートたちはさらに驚きました。彼らは仕事を持ち、家庭を持ち、日常的にスポーツをしていたのです。

 それに反し、日本のアスリートたちは病院で暮らし、スポーツをするわけでもなく、もちろん、仕事も家庭もない状態で生きていました。初めて海外のアスリートたちを見た彼らはあまりの違いに驚き、どう考えていいかわからなくなってしまったそうです。

 パラリンピック後、彼らは生活を大きく変えたといいます。海外のアスリートたちを見て、自身の生活を改善しようとしたのでしょう。地元に帰ってリハビリに取り組む人、免許を取って就職活動をする人、日常的にスポーツに取り組み記録を向上させる人、中にはパートナーを見つけて家庭を築く人もいたそうです。

 パラリンピックに出場して海外のアスリートと交流した結果、障碍をポジティブに受け入れ、社会とかかわって生きていくことの大切さに目覚めたのでしょう。彼らが自発的に生活スタイルを変えていったことの影響は大きかったようです。

 1964年のパラリンピック大会は障碍者の自立を促し、その翌年、日本身体障碍者スポーツ協会が設立されました。

 パラスポーツサイト「挑戦者たち」の編集長の伊藤数子氏は、「2020東京パラリンピックで私たちが遺していこうとしているレガシーの一つは共生社会の実現です」と書いています。(※「53年前の「東京パラリンピック」がくれた宝物」、『スポーツコミュニケーションズ』2017年7月1日)

 パラリンピックは果たして、共生社会に向けて、社会意識を変革しうるのでしょうか。

■パラリンピックは社会意識を変革しうるか
 もう一度、マセソン氏に戻りましょう。

こちら→
(図をクリックすると、拡大します)

 大学卒業後、マセソン氏はイリノイ州立大学で障碍者スポーツ指導法を学ぶようになりますが、そのきっかけとなったのが、海外の大会で何度も目にしたジュニアの選手が活躍する姿でした。

 当時20代だったマセソン氏は、海外では10代の障碍者アスリートたちが活躍していることを知って、驚きます。そして、海外には障碍者アスリートを受け入れる土壌があり、指導者層が厚いからこそ、彼らが十分に能力を発揮することができ、活躍できるのだということに気付きます。

 翻って、日本を見たとき、とてもそのような状況ではないことに愕然としてしまいます。そこで、マセソン氏は一念発起して留学し、障碍者アスリートたちを育てる指導法をイリノイ州立大学で学ぶことにしたのです。10代を育てていかなければ、障碍者スポーツのその後の展開はないと考えたからでした。

 さて、マセソン氏の来歴を辿ってみると、いくつかのターニングポイントを経て、現在に至っていることがわかります。まず、入院中に障碍者スポーツの存在を知ったことが大きなターニングポイントになりました。生きる希望を持てるようになったばかりか、スポーツをすることによって身体機能、精神機能が躍動させられ、機能回復の効果が表れたのです。

 さらに、スポーツを通して、生きる目標が生まれました。障碍者スポーツに邁進した結果、1998年のパラリンピックで金メダル3個、銀メダル1個という快挙を成し遂げたのです。これが第二のターニングポイントです。

 金メダルという大きな社会的承認を得ることによって、障碍者スポーツの指導、その普及への取り組みにも弾みがつきました。そして現在、2020パラリンピックに向けて公認教材の開発、障碍者スポーツの普及促進活動まで手掛けるようになっています。

 このようにみてくると、マセソン氏の場合、スポーツによって自身の障碍を克服することから始まり、障碍者に対する社会の意識変容を目指す働きにまで昇華されていったのです。いってみれば、個人的体験から社会的意識改革を目指すまで広がっているのです。それだけ障碍者を取り巻く現実が厳しいせいかもしれませんし、パラリンピック大会こそ、障碍者スポーツを多くの人々に知ってもらういい機会だと考えているからかもしれません。

 たしかに、障碍者スポーツに触れることによって、人々が障碍者を知り、理解することができるようになれば、障碍者とともに生きていける社会を構築していこうという気にもなっていくでしょう。ひょっとしたら、パラリンピック大会は大きな社会変革の契機になるかもしれません。

 超高齢社会が到来している日本では、心身機能の低下した高齢者の急増に備え、社会インフラの改良が求められています。物理的なバリアフリーが求められるのはもちろんのこと、視聴覚機能の低下による情報バリアフリーにも配慮する必要があるでしょう。

 日本は今後しばらく高齢人口が増大していきますから、障碍者や高齢者に優しい社会システムの構築が不可欠になります。誰もが共生できる社会を実現させようとすれば、社会の意識改革が必要ですが、2020年に開催される東京大会は十分、その契機になりうると思います。(2019/12/30 香取淳子)

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