ヒト、メディア、社会を考える

桜を見て、新型コロナウイルス由来のパラダイムシフトを思う。

桜を見て、新型コロナウイルス由来のパラダイムシフトを思う。

■新型コロナウイルスが一変させた街の光景
 新型コロナウイルスがいま、世界を大きく変貌させています。メディアは日々、感染者数、死者数を報道し、人々の危機感を煽っています。一方、政府や都府県などの行政は人々に外出の自粛を求め、対面接触の自粛を要請しています。おかげで街の光景は一変してしまいました。

 通りを歩いても、道を行きかう人々はみなマスクをし、誰とも語らうことなく、足早に歩いています。見渡せば、ほとんどのお店はシャッターを下ろし、開店しているのはわずか、スーパー、コンビニ、ドラッグストアなどです。

 スーパーで買い物をして、清算しようとすると、いつもと違ってレジ前には透明のシールが設置されています。飛沫感染を防ぐためですが、キャッシュカードも自分で操作して支払う仕組みに変わっていました。店内では間隔を空けて並ぶよう何度もアナウンスがあり、レジ前にはラインが引かれ、待つ位置が決められています。いつの間にか、さまざまなところで非対面、非接触が徹底されていました。

 ほんの一か月ほど前は、街もこれほど閑散としていませんでした。まだお店は開いており、人々は明るく言葉を交わしながら、街を歩いていました。ところが、いまはそれが遠い昔の光景のように思えます。

 3月、4月といえば、例年、卒業式、入学式の季節です。これまでは晴れ姿の親子連れを度々、目にしたものですが、今年はそのような光景を目にすることもありませんでした。入園式、入学式、入社式など、桜とセットで行われてきた晴れの儀式も今年は行われず、ただ、桜だけが咲いて、散っていきました。

 2020年春、新型コロナウイルスが猛威を振るい、激動の様相を見せ始めています。その余波を受けて、桜が咲いて、散っていくプロセスを楽しむこともできないまま、春が過ぎていこうとしているのです。そこで、今回は、桜の開花から散るまでの様子を振り返ってみたいと思います。

 そういえば、3月29日、桜が咲いたというのに、季節外れの雪が降りました。ひょっとしたら、なんらかの予兆だったのでしょうか。

■季節外れの雪
 2020年3月29日、朝起きると、雪が降っていました。窓を開けると、辺り一面が少しずつ雪で白く覆われていくのが見えます。じっと見ているうちに、入間川の桜がどうなっているのか、気になってきました。

気になり始めると、もう居ても立っても居られません。雪が降りしきる中、西武線に乗り、桜並木を見に出かけました。酔狂だといわれるかもしれませんが、桜の季節に雪が降るなど、滅多に経験できるものではありません。出かけなければ、きっと後悔すると思い、出かけてみたのですが、決断して正解でした。

 着いてみると、入間川の遊歩道はこれまでとは違った趣を見せていました。

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 花も木も遊歩道も、いたるところ、雪に覆われていました。中には、雪の重みで枝がいまにもスロープについてしまいそうな木もありました。

 花弁もまた雪の重みで、大きくしな垂れています。見上げてみると、桜の花びらに雪が積もり、大きく膨らんで見えました。ボリューム感たっぷりで、前回見た、可憐な風情はすっかり消え失せていました。

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 路面をみると、一面に桜の花が散り、淡いピンクの道がどこまでも続いていました。風が吹き、雪が吹雪いて、花びらが散り、遊歩道を優雅な模様で飾り立てていたのです。

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 ただのアスファルトの遊歩道が、桜の花のおかげで、見違えるように変身していました。季節外れの雪と桜の花によって、辺り一帯が幻想的で、風雅な様相に変貌していたのです。

 もちろん、雪が降ったからと言って、これでもう今年の桜が終わったというわけではありません。まだ4月に入っていないのです。

■最後の輝きを見せる桜
 2020年4月6日、再び、入間川沿いの桜並木を訪れました。澄み渡った青空の下、桜の花は眩いばかりの美しさを見せていました。

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 黒く太い幹から四方八方に伸びた枝には、可憐な風情の花弁が群れたまま、軽やかに風にそよいでいます。淡いピンクの桜花は、黒く太い幹に引き立てられるように、辺り一面を明るく輝かせています。

 思わず、見惚れてしまいました。花と幹の色彩が絶妙なコントラストを見せていただけではありません。動と静、軽と重、儚さと堅固さといった具合に、想念をさまざまに刺激するコントラストが、桜の花と幹のモティーフには含まれていたのです。

 桜の花は鮮やかでありながら、清らかで、潔く、そして、可憐な風情を漂わせています。一方、黒く太い幹や枝に小さな花びらが群生する様子は妖しく、なんともいえない美しさをたたえています。

 見ているうちに、ふと、梶井基次郎の「桜の樹の下には死体が埋まっている!」というフレーズが脳裏をよぎりました。高校生のときに読んだままですが、美しさを表現するにはあまりにも衝撃的なので印象深く、いまだにこのフレーズを覚えていたのです。

 梶井は桜の花を見て、その美しさに打たれます。その部分を原作から引用してみましょう。

「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止を澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ」(※青空文庫より)

 梶井は桜の花を、「どんな樹の花でも」と一般化しながら、生命の盛りを迎えると、それは周囲に神秘的な雰囲気を発散させるというのです。ちょうど燃え盛る生への欲求が放つ後光のようなものであり、そのオーラが見る者の心を打つといいます。桜の花には、そのような得体の知れない、輝くような美しさがあるというのです。

 梶井は、桜の花を美しいと思い、それが得体の知れなさに根差していると思うだけに、やがて不安になっていきます。

 そして、次のように解釈します。

 「おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう」(※ 青空文庫より)

 梶井は、その得体の知れない美しさの起源を、「一つ一つ屍体が埋まっている」と想像することで納得するのです。この世のものとも思えないほどの美しさには、「死」のイメージが作用しているからだと考え、理解したといっていいでしょう。

 ところが、そう解釈して納得できるようになってみれば、今度は、不安に襲われてしまうのです。ここに、梶井の美に対する複雑な心理的反応を読み取ることができます。

 梶井は、桜の花の背後に、成熟と死を想像することで、その美しさを観念的に完結させています。そして、成熟し、いま、まさに枯れようとするとき、桜は最後の美しさを見せると総括するのです。

■多義性を孕む美しさ、そして、哀れの情感
 古来、日本を代表する花として、桜は多くの人々から好まれてきました。それは、桜にこのような多義性が含まれているからかもしれません。とくに、生と死といったアンビバレントな要素を合わせもつところに、多くの日本人は哀れを感じ、美しさを感じるようになっていたのでしょう。

 さて、桜並木は所々、木々の陰を路面に落としながら、どこまでも伸びています。路面を見ていると、まるで、どこか別世界に誘われでもするかのような錯覚に襲われます。

 ふと我に返り、頭上を見上げると、すでに花は落ち、葉だけをのぞかせている枝がいくつもあります。桜の花はもはや峠を越し、華やかさを失いつつあるということなのでしょう。とはいえ、下の写真を見ると、左上の枝にはまだ多くの花弁が陽光を受け、白く光って見えます。まさに、最後の輝きを見せているのです。

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 見ていると、ふと、「花の色は 移りにけりな・・・」というフレーズが頭の中で響き渡りました。子どもの頃、百人一首で親しんだ歌で、すぐにも暗唱することができます。

 「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

 これは、古今集に収録された小野小町の歌です。

 毎年、お正月を迎えると、家族で百人一首を楽しんでいました。子どもながら、「花の色は 移りにけりな」というところが気になって、すぐに覚えてしまいました。意味もはっきりとわからないまま、この歌は私の十八番でした。

 この写真の桜の木には、花が散って葉だけになった枝もあれば、まだ華麗な花弁を残している枝もあります。それを見て、脳裏をかすめたのが、この歌でした。桜を見るたび、反射的に思い出してしまいます。それは、時の経過がモノの姿を変え、存在意義すら大きく変えてしまう現実が詠み込まれているからでしょう。

 小野小町はたいそう美人だったといいます。だからこそ、時が移ろうにつれ、衰えていく容色に耐えられない悲しみを抱いたのかもしれません。

 鮮やかに開花してはすぐさま散ってしまう桜の花には、確かに、時の経過が凝縮して示されています。生(咲く)から死(散る)へのプロセスがとても短いのです。小野小町が桜にわが身を重ね合わせ、歌を詠んだのも、このドラマティックなプロセスに歌心を刺激された可能性があります。

 子どもの頃はわからなかったこの歌の意味がいま、手に取るようにわかるようになりました。大したこともできないまま、歳を重ねていくうちに、いつの間にか、容色が衰え、身体の自由も効かなくなってしまったという思い・・・。悔いてもはじまらないのですが、この歌には、高齢になれば誰しも味わうに違いない感情がとてもよく表されていると思います。

 それでは、桜並木に戻ってみましょう。

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 この写真を見ると、上の方の枝にはまだ淡いピンクの花がついていますが、下の方の枝はすでに葉桜になっています。そして、桜花や葉桜をつけた枝がやさしく風にそよいでいます。花が散った後の新芽と、散らずに残った花とが一本の樹の中でみごとに共存しているのです。

 ヒトとは違って桜は、花が散れば、すぐさま若葉が出て、早緑の輝きを見せ始めます。死(散る)と誕生(新芽)がほぼ同時に発生します。死と生が密接に結びついているのです。桜ならではの情感といえるでしょう。

 さまざまな表情を見せてくれる桜の木をみてくると、古来、ヒトが桜にさまざまな思いを託して来た理由がわかったような気がします。

 さて、桜にはソメイヨシノと八重桜があります。これまでご紹介してきたのはソメイヨシノでした。3月中旬から下旬にかけて開花します。

 入間川遊歩道には、それよりも遅く開花する八重桜も植えてありました。

■葉桜から八重桜へ
 4月15日、性懲りもなく、また、入間川遊歩道を訪れました。

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 予想通り、ソメイヨシノは完全に葉桜になっていました。よく見ると、その先に赤紫色の花が見えます。

 近づいてみると、見事な八重桜でした。向きを変えて撮影したのがこの写真です。

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 ソメイヨシノとは違って、このボリューム感に圧倒されます。花の下から撮影すると、さらに、どっしりとした重厚感が感じられます。

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 桜といいながら、この花には可憐という表現は似合いません。楚々とした風情はなく、どちらかといえば、豪華なボタンのような印象です。

 新型コロナウイルスのせいで、桜見会は中止され、さまざまなイベントも次々と中止になりました。その代わりといってはなんですが、今回、入間川の桜並木をご紹介しました。人の往来も少なく、ゆっくりと桜の様相を見ることができたような気がします。

■新型コロナウイルスはパラダイムシフトの予兆か?
 桜の花が咲き、散って葉桜になってもなお、新型コロナウイルスの猛威はとどまりません。いまや世界中に拡散し、日々、感染者数、死者数が増えています。それに合わせ、各国政府は一様に、都市封鎖、外出禁止、外出自粛などの対策をとっています。新しいウイルスに対する治療方法はまだ確定されておらず、確たる治療薬もまだ開発されていません。ですから、感染源を物理的にシャットダウンするしか方法がないのが現状です。

 その結果、さまざまな社会活動に対する影響が出ており、経済活動が停滞しています。あっという間に、世界中が貧困化し、生命を絶とうとする人さえ出かねない状況に陥ってしまったのです。感染して死ぬか、経済的に行き詰って死ぬかの二択がささやかれるほど、死が身近なものになってきました。

 どうやら、このまま感染が終息しなければ、好むと好まざるとにかかわらず、人々は行動を制限された生活を強いられることになりそうです。仮に終息したように見えたとしても、ウイルスがヒトの体内で息を潜めているかもしれません。いずれにせよ、感染を避けるために、非対面、非接触のコミュニケーションに移行せざるをえなくなっています。

 テレワーク、オンライン授業、オンライン会議などは、新型コロナウイルス騒動によって、大きく推進されるでしょう。折しも先進諸国では5Gネットワークが開始されています。5G、AI、ビッグデータを活用した社会変革もまた当然、推進されるでしょう。

 このまま年内に終息するのか、あるいは、ウイルスが常態化してしまうのか、それはわかりません。仮に年内に終息したとしても、おそらく、新型コロナウイルス発生以前の社会にはもはや戻ることはできないのではないかと思います。

 世界が歩調を合わせて、感染者数、死者数を逐一報道し、一斉に都市封鎖、外出制限などの対策をとっています。感染力は弱いといわれ、死者数はインフルエンザの方が多いといわれながらも、各国とも過剰に思えるほどの対策をとっています。時間差で似たような政策を展開しているのをみると、世界各国が一斉に、新型コロナウイルスの発生を契機に、パラダイムシフトに取り組んでいるようにみえるのです。

 今年、桜が咲いてから、季節外れの雪が降りました。大きな社会変動の予兆でなければいいのですが・・・。(2020/4/20 香取淳子)

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