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桜が散り、ツツジが咲きました。

桜が散り、ツツジが咲きました。

■早緑色に染まった遊歩道
 4月16日、入間川の遊歩道に出かけると、桜の花は散り、葉桜として道の両側を覆っていました。あれほど華麗だった川辺から華やかさがすっかり失われ、まったく別の場所に来たような気分にさせられました。

 いつの間にか、遊歩道を取り囲む桜の木々が、華やかさから若さへと、アピールポイントを変貌させていたのです。

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 可憐な淡いピンクの花は、早緑色の葉桜となっていました。もちろん、ピンクであろうが、早緑であろうが、桜花(葉)の可憐さに変わりはありません。小さく群生した葉桜は、風にそよそよと揺らぎながら、太くて黒い幹や枝を引き立てていました。軽やかに揺れる桜葉は、雄々しく伸びる幹や枝の堅固さをことさらに強調し、見事な明と暗、動と静のコントラストを見せています。

 早緑(さみどり)という表現がぴったりの光景が、目の前に開けていました。

 見上げると、小枝の先に群生する葉が風にそよいでいました。葉の一つ一つがなんと小さく、そして、なんと繊細な動きを見せているのでしょう。薄く、柔らかく、まるでその先に見える空に溶け込んでいるかのようでした。

 よく見ると、周囲と溶け合っているようでいながら、一枚一枚、その形状は意外に明瞭で、空を背景に、しっかりと自らの存在を誇示していました。

 今、何気なく、早緑という言葉を使ってしまいましたが、これほど見事に春の訪れを示す言葉はないでしょう。

 桜の花が散ったかと思えば、そっとやって来て、その葉を淡く柔らかな色合いに染め上げます。そして、いつの間にか、誰も気づかないうちに去ってしまう・・・、そんなところに、「早緑(さみどり)」の妙味があります。

 ほんのひととき、自らを輝かせるところに、なんともいえず微笑ましい謙虚さが感じられるのです。まるで春の訪れを伝えるためだけに色づくのが「早緑」です。主張しているわけではないのに、不思議な存在感があって、心惹かれます。

 5月5日、再び、訪れてみると、桜の葉はすでに、「早緑」から「緑」に変貌しつつありました。

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 これを見ると、葉が大きくなり、色合いもやや濃くなりはじめているのがわかります。群生している葉が大きくなったせいか、桜並木はうっそうとした趣をみせはじめていました。

■母が教えてくれた「さみどり」
 どういうわけか、私はこの言葉が好きで、この季節になると使ってみたくなります。使う場がなければ、ひそかに、「さ・み・ど・り」と、一語一語区切って発音してみることもあるぐらいです。

 口に出してみると、言葉の響きが優しく、柔らかく、次第に、安らぎに満ちた気持ちになっていきます。ひょっとしたら、この言葉がきっかけで、若い頃の母を思い出すからかもしれません。

 小学校に入る直前の春、母と一緒に庭にいたことがあります。ちょうど木々が芽吹き始めたばかりで、そこかしこに柔らかい新芽が小枝から顔を出していました。黄緑色に光る葉の様子を見つめていると、母はその一つを指さし、「これは、さみどり、っていうのよ」と教えてくれました。

 聞きなれない言葉だったので、不思議に思い、「きみどり?」と聞き返すと、「さみどり、よ」と、はっきりと口調で母はいいました。そして、若葉に手を触れ、「小さな緑だから、さみどりっていうのよ」と説明してくれました。

 私は「きみどり」は知っていましたが、「さみどり」はそれまで聞いたことがありません。この時、はじめて聞いた言葉でした。

 母の説明を聞いて、緑にも小さいのがあることを知って、なんだか、とても嬉しくなってしまいました。途端に、「みどりいろ」をした葉や草がとても身近に思えるようになったことを思い出します。

 どんなものでも、小さなものが好きだった私は、「小さな、みどり」という母の説明に惹きつけられました。そして、ヒトと同じように「みどり」にも、赤ちゃんや子ども、大人、老人といったものがあるのだと思うと、急に親近感を覚え、世界が広がったような気がしたものでした。

 この時期の葉の色を表現するのに、黄緑という言葉があります。ところが、「さみどり」という言葉を知ってからというもの、私にとって「きみどり」は、単に色を表現した色彩語にすぎなくなりました。音の響きが強く、しかも、「さみどり」に含まれている馥郁とした味わいも感じられず、ただ色彩情報を伝えるだけの記号でした。

 母は「さみどり」を、「小さいみどり」と説明してくれました。ところが、いま、パソコンで「さみどり」と入力すると、「早緑」と漢字に変換されて、「小緑」にはなりません。また、辞書には「さみどり」は「早緑」と登録され、「若葉や若草の緑色」と説明されています。ひょっとしたら、母は、小さな私が理解できるように、「さみどり」を「小さな、みどり」と説明してくれたのかもしれません。

 当時、母は30歳前後でした。優しく、穏やかな中に、どこか毅然としたところがありました。ちょうどこの時期の「さみどり」のような人だったといえるかもしれません。自己主張することなく、周囲と調和して暮らしていました。それでいて、決して流されることなく、そこかしこに母らしさを貫いていました。そんなところを見て、私は子ども心に、母には毅然としたものがあると感じていたのでしょう。

■桜木の間に咲くツツジ
 4月26日、木々の間にツツジが咲いていました。遊歩道には一定の間隔で、桜木の間にツツジが植えられています。そのツツジが花開くと、葉桜になっていた並木道が一転して、新たな景観を見せていました。

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 明るい陽射しを浴びて、木々や枝が遊歩道にくっきりとした陰影を落としています。ピンクがかった鮮やかな赤が、桜木の緑に華を添え、どことなく浮き立つ気分にさせてくれます。

 それにしても、なんと目に鮮やかな光景なのでしょう。

 大きく太い桜木の下に、そっと寄り添うように、灌木のツツジが咲いています。

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 つい一週間ほど前までは可憐な風情を漂わせていた桜が、いつの間にか、葉桜になり、緑が濃くなってくると、今度は、雄々しい威容を見せ始めていました。太くがっしりとした幹や枝には、時を経て、風雪に耐えてきた強さが表れています。改めて、桜には可憐さと雄々しさが共存していることがわかります。

 巨木の根元に蹲るように花を咲かせたツツジが、いま、この遊歩道の主人公です。遠くを見ると、白いツツジ、そして、その先には赤いツツジが見えます。

 まず、赤系ピンク色の花にズームインしてみましょう。

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 近づいてみると、存在を強く主張するかのように大きく開いた5枚の花弁が、ことさらに印象的です。この季節になると、どこでも見かけるツツジですが、じっと見ると、平凡ななかにも生活に根付いた美しさが感じられます。

 白い花も見事です。

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 花は大きく、花芯が数本、優雅な弧を描いています。ありふれた花なのに、こうして近づいてみると、典雅な美しさがあり、意外な存在感があります。

 中には、赤と白の花を咲かせる木を交えて植えられているところもありました。

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 こちらの花弁は開花しきっていないせいか、まだ小さく、量では圧倒されますが、花そのものの存在感はそれほどでもありません。むしろ、その後方に見える桜木の早緑色の葉が、さわやかに背後の空を染め上げているのが目につきます。

 枝先を見れば、早緑色の葉がさらに淡く、柔らかさを湛えたまま、まるで空に溶け込んでしまいそうです。枝先の辺り一帯は霞みがかったようにぼんやりとし、エッジがきわだっていないせいか、気持ちが緩み、思わずまどろんでしまいそうです。

 ふと、「みどりの空」という表現が思い浮かびました。

■みどりの空
 かつて、日本には「みどりの空」という表現があったそうです。

 国文学者の森田直美氏は、色彩語としての「みどり」の色相領域を古典文学の様々な表現を踏まえ、考察しています。結論として、古典文学の「みどり」にはブルーが含まれていた可能性があると指摘しています(※ 「古代における「みどり」の色相領域を再考する」、『中古文学』第78号、2006年12月)。

 古典文学から様々な表現が紹介されていました。その中で、興味をひかれたのが、次の句です。

 かすみはれ みどりの空ものどけくて あるかなきかにあそぶ糸遊
(霞晴れ 緑の空ものどけくて あるかなきかに 遊ぶ糸遊)

 この歌は『和漢朗詠集』415の「読み人知らず」の作品です。この歌については、うっすらと記憶に残っていますから、きっと、高校の時に学習したのでしょう。うららかな春の日の情感がとてもよく表現されています。

 糸遊というのは、陽炎(かげろう)を指します。

 霞が晴れ、天気のいい春の日には、温度が上がった地面から空気が立ち上り、ゆらゆら揺れているように見えることがあります。それを、作者は、「あるかなきかにあそぶ糸遊」と表現し、愛で、楽しんでいるのです。

 この歌からは、平安時代の人々が自然現象の中に、愛おしさや美しさを見出し、それを言葉にして楽しんでいたことがわかります。そこには自然を観察し、なんらかの価値を発見し、作品化する過程が介在します。つまり、歌を詠むという行為には、美を堪能するセンスと表現欲、高度な言語処理能力が必要なのです。平安時代の人々は、それを一種の娯楽として楽しんでいました。なんと素晴らしい文化を日本人は育んでいたのでしょう。

 入間川遊歩道の葉桜やツツジを見れば、平安人はどのような歌を詠むでしょうか。

■「さみどり」の下で感じた、小さな幸せ
 早緑の季節に、遊歩道を歩いていると、わけもなく若い頃の母が思い出され、記憶に残る平安時代の歌が脳裏を横切りました。

 暖かい陽光を背に受けてゆっくり歩き、時に立ち止まって、歩を進めているうちに、幸せな気分が満ち溢れてきました。それはきっと、「さみどり」を教えてくれた若い頃の母や、「みどりの空」を詠み込んだ平安時代の歌人が、忘れかけていた大切なものを思い出させてくれたからでしょう。

 機能性、合理性が優先され、あらゆるものが尺度化された生活空間の中で暮らしていると、色彩ですら、カラーチャートに従って認識するようになってしまいます。

 あれほど気持ちを動かされた「さみどり」は、小学校に入ると、たちまち、無いも同然になってしまいました。母が教えてくれた「さみどり」は、カラーチャートのどこにも見当たらなかったのです。

 いつしか、草や葉を表現する色は、「黄緑」「緑」「深緑」に限定されてしまいました。クレパスやクレヨンの色彩のバリエーションがこのぐらいだったからです。気持ちを揺り動かされることなく、選択し、組み合わせて表現するしかありませんでした。そのことに、子どもの頃から、なんとなく違和感を覚えていました。それはおそらく、これらの言葉が色彩を即物的に表現する語でしかなかったからでしょう。

 草や葉にもライフサイクルがあり、生きてきた時間は着実にその色に反映されます。ところが、機能的に尺度化されたカラーチャートの色彩には、その種の情報が含まれていません。幼かった私が、「さみどり」という言葉から感じ取った葉の生命を、「きみどり」という語からは感じられないのです。「きみどり」は、機能的に色彩を識別する記号でしかありません。

 そんなことを思いながら、ふと、路辺を見下ろすと、下草に埋もれるように、小さな段ボール箱が置かれていました。

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 近づいてみると、水仙の球根が多数、入っていました。それらの球根の間に、「ご自由にお持ち帰りください」と書かれた札が添えられています。

 立ち止まって、見ているうちに、再び、幸せな気分になっていきました。(2020/5/7 香取淳子)

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