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桜の花が咲きました。

桜の花が咲きました。

■土手に咲く桜
 西武線の仏子駅で下車し、10分ほど歩くと、入間川沿いの遊歩道に辿り着きます。毎年、桜の季節になると、ここを訪れることにしていますが、今年は3月23日、時間に余裕ができたので出かけてみました。

 桜を鑑賞するにはちょっと早すぎたようですが、それでも一部、花が咲きかかっていました。遊歩道からは、生い茂る草が緑のスロープとなって川辺まで伸び、巨大な桜の根をしっかりと支えています。

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 枝の一部に花が咲き、その淡いピンクの花弁が夕陽に照らされて、ことさらに輝いて見えました。風にそよぐ可憐な風情がなんともいえず、つい、見入ってしまいます。まだ蕾のままの枝もあれば、花開いた枝もあり、同じ幹から出た枝でも、開花の時期はそれぞれで、そんなところに微妙な生命の営みを見る思いがしました。

 桜の花をじっと見つめていると、ふと、父の姿が思い出されました。

 春が近づくと、父は、家から歩いて5分ほどの川べりに植えられた桜を見るのを待ちかねるように過ごします。幅10mほどの小さな川ですが、やはり、川の両側に桜が植えられていて、毎年、春になると見事な桜花を楽しませてくれます。

 いつだったか、帰省した折、一緒に川沿いを散策していると、父が突然、「願わくば、花の下にて我死なん、その如月の望月のころ」と口ずさんだことがありました。そのとき、父はたぶん、80歳ぐらいだったと思います。私は驚いて思わず、振り返ってみましたが、父は何もいわず、ただ、桜の花をじっと見上げていました。

 他を寄せ付けない雰囲気に、私は声をかけることもできず、父の視線を追って、桜を見上げました。淡いピンクの花弁の背後には、所々、雲を漂わせながら、青空が広がっていました。

 その時に見たのと同じような光景が、ちょうど目の前に広がっていました。

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 見ているうちに、不意に、天高く吸い込まれていくような気持ちになりました。そして、なんとなく、あの時の父の気持ちがわかったような気がしてきたのです。

 私も、心の中でこの句を口ずさんでみました。

 「願はくば、花の下にて春死なむ、その如月の望月のころ」

 これは、続古今和歌集に収録された西行法師の歌です。花といい、月といい、この歌には日本人が好むモチーフが詠み込まれています。しかも、生命の誕生をイメージさせる「春」と、生命の終焉を意味する「死」が、一つの句の中に違和感なく、共存しているのです。日本人の感性が色濃く表出しているように私には思えました。

 日本人が桜を好むのは、この二律背反ともいえるアンビバレンツな感覚を呼び覚ましてくれるからではないでしょうか。ふっと、そんな気がしてきました。

 入間川沿いの桜木は、そのときに見た枝よりもはるかに太く、しっかりとしていて、一部咲きの小さな桜花をいっそう儚げに見せていました。手を伸ばせば、いまにも届きそうに見えるほど近く、桜花をつけた枝は垂れ下がっています。まるで手に取ってほしいと言わんばかりです。

父の気配を感じました。

 あのときの願いとは違って、父は紅葉の秋、まるで桜が散っていくように、さっと旅立っていきました。長患いすることもなく、83歳で人生を終えました。

■桜のトンネル
 さて、桜で両側を囲われたこの並木道は、入間川の上流に向けて、約300m続きます。昭和42年から43年にかけて植えられたそうです。

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 私は桜の季節になると、毎年、ここを訪れています。満開の時期に、この遊歩道を歩くと、桜トンネルをくぐる気分に浸ることができます。穏やかに流れる川面を眺めては、降り注ぐ桜の花弁を浴び、自然が与えてくれる悦楽を堪能することができるのです。

 ここに来るたび、日本人が古来、桜を愛でてきたことを再確認するような気分になりますが、今回もそうでした。桜といえば、すぐに思いつくのが本居宣長です。

 本居宣長はたいそう桜を好んだそうで、いくつも歌にしています。高齢になってから詠んだものに、有名な一句があります。

 「敷島のやまとごころを、人問はば、朝日に匂ふ山桜ばな」

 61歳の時に詠まれたといわれています。この歌は軍国主義と結びつけて取り上げられることが多く、歌意がそのまま伝わっていないように思えます。それが残念ですが、私は、この歌の中に、本居宣長の日本観が的確に表現されているのではないかと思っています。

 この歌は、「大和心はどういうものかと人に聞かれれば、朝日に照り輝く山桜のようだと答えよう」という意味を表しています。日本的な感性がどういうものか、山桜を引き合いにして、表現しているのです。

 街中や公園で桜を見るのではなく、山や川べりで桜を見ると、おそらく、宣長がこの歌に託した意味がよくわかるのでしょう。入間川沿いの遊歩道で桜を見て、私は改めて、宣長が捉えていた日本文化の真髄がわかったような気がしました。

 本居宣長もまた西行法師と同様、桜花に日本人の感性を見出し、その文化を重ね合わせてみていたのでしょう。

■夕陽が創り出す光景
 私が入間川沿いの遊歩道を訪れたのは、まもなく夕刻になろうとするころでした。桜の枝の後方に、沈む太陽が見え、辺り一面を暮色に染め上げていました。

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 宣長が詠んだ句に倣えば、この光景には、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」とでも表現できるような妙味がありました。

 宣長は「大和心」を、「朝日に匂ふ山桜ばな」の美しさを感じ取る心だと歌に詠みました。ところが、今回、私は夕刻の桜を見て、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」には、さらに、「あはれ」とでもいえるような風情が加わっていることに気づきました。「朝日に匂ふ山桜ばな」に劣らない魅力が、「夕陽に照り輝く川べりの桜花」にはあると思ったのです。

 太陽を背にすると、一部咲きの桜花が夕陽に照らされ、淡いピンクの花弁をそよがせているのが見えます。

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 背後に巨大な雲が流れているせいか、一部咲きのピンクの桜花がことさらに小さく見えます。なんともいえず可憐で、美しく、まるでそこだけが煌めいているかのようです。

 一方、太陽に向かうと、逆光になり、下の写真のようにすべてが色を失います。夕刻には、このようにポジとネガ、それぞれの美しさやその興趣を、同時に味わうことができるのです。

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 輝きの中だけに美しさが存在するのではなく、輝きを失ったところにも美しさを見出すのが、日本的な感性であり、日本文化の本質ではないかと私は思います。

 私が、桜に惹かれ、日本的感性が呼び覚まされると思うのは、桜にはそのようなアンビバレントな要素が多分にあるからなのです。

 もう一度、夕陽に包まれた光景を見てみましょう。桜木の枝の背後に、太陽が深く沈み込み、強い残照が川面に反映しています。

 まるで沈みかかった太陽が、最後の力を振り絞り、強大なエネルギーを空と川に放っているかのようでした。残照は辺り一面を別世界に変貌させていました。夕陽がもたらすこの空間は、明るい昼間から暗い夜へ誘う境界ともいえるものでした。

 見ていると、父が好んだ御文章が思い出されてきます。

■御文章
 どういうわけか、父は「御文章」が好きでした。子どもの頃、これを聞くのが怖かったのですが、文章のリズムがよく、しかも、父が朗々と、歌い上げるように詠むので、いまだに頭の隅にこびりついています。

Wikipediaからその一説をご紹介しましょう。

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ萬歳の人身をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体[8]を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず」

 子どもの頃、私が怖いと思ったのは、「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」という箇所でした。他の部分は意味がわからなかったのですが、ここだけはなんとなく意味がわかり、ヒトはあっという間に歳をとって、死んでしまうのだと思い、怖かったのです。

■彼岸としての夕刻
 いつもと違って、今回、夕刻に一部咲きの桜を見ました。そのせいか、桜の下に佇んでも、華やぎは感じられず、むしろ、桜のもつアンビバレントな要素に気づかされました。そして、その光景の中に、一種の境界とでもいえるようなものを感じさせられたのです。

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 蕾をつけた桜木の背後に、大きく広がった雲を抱えた青空と、それを反映した川面が見えます。地表の建物や土手が、空と川の境界になるのですが、夕刻のせいか、その地表部分が暗くてよく見えません。

 夕刻には、彼岸の存在感が強調されるのでしょうか。ヒトが生きて、暮らす地表がよくみえず、天空に広がった雲と、それを映し出した川、そして、手前の大きな桜木ばかりが目につきます。

 そういえば、桜並木を見に訪れたのは3月23日は、2020年のお彼岸期間最後の日でした。(2020/3/26 香取淳子)

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