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藤田嗣治展が開催されています。

藤田嗣治展が開催されています。

■藤田嗣治展
 東武デパートの6F美術画廊で、いま、藤田嗣治展が開催されています。開催期間が3月30日から4月5日までだと聞いたので、開催初日、さっそく訪れてみました。

こちら →http://www.tobu-dept.jp/ikebukuro/shop/108623201/

 藤田嗣治氏の作品はこれまで雑誌でしか見たことはなく、今回の展覧会を楽しみにしていました。会場で実際に作品を目にしていくうちに、世界中に藤田嗣治ファンがいる理由がわかったような気がしてきました。

 出品作品は少女をモチーフにした小品が多かったのですが、どの作品からも独特の雰囲気がにじみ出ていたのです。一つずつ作品を見ていくたびに、個々の作品を超えた共通の要素があることに気づきます。そして、それらが積み重なって、やがて観客が、藤田ワールドとでもいえばいいような世界に引きずり込まれていくのを感じます。

■「二匹の猫と少女」から見えてくる二つのベクトル
 たとえば、「二匹の猫と少女」という作品があります。展覧会の開催案内のHPに掲載されていますが、この作品には、私が感じた藤田ワールドが端的に表現されているような気がするのです。
 
 この作品は、少女をモチーフにしています。ところが、興味深いことに、画面全体からはそこはかとないアンニュイが漂ってきます。それはおそらく、この少女から、観客が気怠く、人生を突き放したような虚無感を感じさせられるからでしょう。実は、これこそ、藤田ワールドのテイストとでもいえるものではないかと私は思っているのです。

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(36×27㎝、リトグラフ、1954年制作。図をクリックすると拡大します。)

 この絵の背景には、のどかな田園風景が描かれています。荒くスケッチ風に描かれていますが、ふとした瞬間に、土と木々の匂いが漂ってきそうです。何の特徴もない木々がただ立ち並んでいるだけの質朴な田園風景ですが、不思議な静謐感があります。

 一方、メインモチーフの少女は都会の雰囲気を漂わせています。肩を出した黒のドレスを身にまとい、赤い帽子をかぶっています。田園にはそぐわない服装ですが、このような色の取り合わせ、顔の表情などから、少女とは思えない成熟、あるいは、気怠さ、虚無感が感じられます。

 この作品には、メインのモチーフとその背景から受ける印象に大きなギャップがあります。ところが、よく見ると、この少女は一匹の猫を膝に置き、もう一匹の猫がスカートにまつわりついています。この二匹の猫を絵に取り込むことのよって、このギャップが埋められているように思えます。動きと野生、そして、黒という色彩をサブモチーフの猫に表象させることによって、背景とメインモチーフをつなげているのです。

 このように二匹の猫を少女の周辺に配置することによって、藤田氏は、背景の静謐感とメインモチーフの都会的な虚無感を見事に調和させています。猫というサブモチーフを組み込むことによって、メインモチーフと背景とのギャップを埋めるだけではなく、このギャップを豊かな表現空間に転換しているのです。

 今回、東武デパートで開催された「生誕130年 藤田嗣治展」に展示されていた諸作品を見て、私は、藤田氏の作品には二つのベクトルが内包されており、それらが相互に作用することによって、独特の世界を生み出していると思いました。

 すなわち、純朴、自然、土着的というベクトルと、洗練、技巧、都会的といったベクトルです。

 純朴な題材としては、子ども、土着的なるものが挙げられるでしょう。

■子ども、土着的なるもの
 目についたのが「指をくわえた赤ん坊」というタイトルの作品です。藤田氏の作品イメージには程遠い題材であったからかもしれません。なによりもまず、赤ん坊にしては大人びた表情が気になりました。

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(34×26㎝、銅版画、1929年制作。図をクリックすると拡大します。)

 タイトルに「赤ん坊」と書かれていますが、このモチーフがしっかりと起き上がっていること、細長い指がしなやかな動きを見せていることなどから、赤ん坊というよりむしろ、このモチーフは幼児のように見えます。

 右下方向に向けられた視線は定まらず、どこか遠い方向を見ているようです。そのせいか、現実にはないものを見ているようにも見えます。赤ん坊や幼児ならモノを凝視し、観察するのが通例ですが、この赤ん坊の視線を見ると、どうやら、そうではなさそうです。

 それが気になって、つい、立ち止まって見入ってしまいました。なにかしら、気持ちに引っかかるものが残るのです。赤ん坊や幼児に対する固定観念に反する描き方がされていたせいでしょうか。どうしても違和感を抱かざるをえないのです。そう思ってよく見ていくと、この赤ん坊の目の表情からは、気怠さのようなものが感じられます。

 自身は現実に存在していながら、実は、現実ではないものを見ている、そんな風情がモチーフの表情に含まれているのです。何かを見ているが、実は見ていない、見ているとしても、虚空を見ているとしかいえないような表情です。そんなところが、さきほどの少女にも共通しています。この視線の「気怠さ」こそ、藤田ワールドを支える要素の一つだといえるでしょう。

 もう一つが都会的、洗練さ、技巧という要素です。

 この赤ん坊の髪の毛を見ると、小さく束ねられ、その一つ一つがリボンで丁寧に結ばれています。赤ん坊でありながら、オシャレに手を抜かないのです。ここに都会的な洗練さを感じさせられます。

 これらの要素は「雪ん子」と名付けられた作品にも見受けられます。
 雪ん子といえば、子どもの姿をした雪の精を指し、日本の民話に頻繁に登場します。ですから、きわめて土着的要素の強いモチーフなのですが、藤田氏の手にかかると、こんなふうにとても都会的に洗練された印象になってしまいます。

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(34×26㎝、銅版画、1929年制作。図をクリックすると拡大します。)

 この少女の目の瞳孔は大きく開かれており、一見、何かを凝視しているように見えますが、実は何も見てはいない・・・、それこそ虚空を見ているような風情です。自身は現実に存在しながら、実は現実を見ていない、そんな気配がこの絵にはあります。

 こうしてみてくると、子どもや土着的要素の強い作品の中にも、しっかりと藤田氏風の虚無感が反映されていることがわかります。 
 
■都会の洗練、そして、虚無 
展示作品の中には、いかにも藤田氏の作品らしいと思えるものがありました。「カフェにて」という作品です。

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(76×64㎝、油彩、キャンバス、1949年制作。図をクリックすると拡大します。)

 カフェで女性が一人、片肘を突いて何やら考え事をしています。テーブルの上にはワイン、ハンドバック、そして、手紙を書きかけていたのでしょうか、インクがこぼれた白い紙があります。女性の背後にはシルクハットを被った男性が横顔を見せており、さらにその奥にはビルが見えます。典型的な都会の街角です。

 そんな街角のレストランで女性が一人、物憂げに腰を下ろしています。ここでも女性は肩を出した黒い服を着ています。目はうつろで、焦点の合わない視線が印象的です。自身は現実に存在していながら、実は現実を見ていない・・・、そんな虚ろな気持ちが透けて見えるようです。

 視線を絡ませるわけでもなく、伏せるわけでもない、ただひたすら、何かここにはないものを見つめている・・・、そんな女性の視線には、これまで見てきた赤ん坊や子どもの視線に共通するものがあります。すなわち、身体的存在と精神的存在との乖離によってもたらされた虚無ともいえる心情です。

 赤ん坊をモチーフにしても、子どもをモチーフにしても、作品からにじみ出ていたあの気怠さ、そして、田園の中でも都会の片隅でも、少女や女性が発散していたあの気怠さ、それこそが藤田嗣治の作品世界を特徴づけるものといえるのではないかと思います。

■アンニュイと藤田ワールド
 これまで紹介してきた作品のうち、銅版画の「指をくわえた赤ん坊」と「雪ん子」はいずれも1929年に制作されました。藤田氏が渡仏して16年、世界大恐慌の発端となったウォール街の大暴落が起こった年です。当時の世相を反映していたのでしょうか。

 この両作品はいずれも、微妙な線と濃淡によって、モチーフのきめ細かな肌とアンニュイな視線、表情を描き出しています。そのせいか両作品とも不思議な静謐感が漂っており、モチーフにそぐわない虚無感がにじみ出ています。

 次にご紹介した、油彩画「カフェにて」は、1949年にパリではなく、ニューヨークで制作されたといわれています。藤田氏は敗戦後の日本に嫌気がさし、1949年に日本を離れたのですが、渡仏許可が下りる前にニューヨークに出向き、その後、、パリに向かいました。以来、二度と日本に戻らなかったといいます。

 最初にご紹介した、リトグラフの「二匹の猫と少女」は1954年に制作されました。この時期、藤田氏は重大な決断をしています。翌1955年には日本国籍を捨て、フランス国籍を取得したのです。藤田氏は1886年生まれですから、69歳で日本人をやめる決断を下したことになります。晩年になって日本を離れる決意を固めたのですから、よほど日本に絶望するようなことを経験したのでしょう。

 藤田氏の来歴と作品を照合してみると、あのアンニュイの源泉がわかってくるような気がしてきます。詳細を知ることはできませんが、藤田氏のどの作品からも醸し出されてくるあの虚無的な心情はおそらく、当時の日本社会で生きづらかったことの反映かもしれません。

 どんなものであったかはわかりませんが、居場所を失うような経験をしてきたからこそ、藤田氏の創り出す作品は、色彩や造形の妙味を超えて、ヒトを引き付け続けるのでしょう。展覧会場で藤田嗣治氏の諸作品を見ることによって、作家の来歴と作風とに密接な関係があることがわかりました。絶望感が深ければ深いほど、そして、それが作品に反映されればされているほど、ヒトの心を打つのだと思いました。(2017/3/31 香取淳子)

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