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「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展が開催されました。

「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展が開催されました。

■「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展の開催
 「江戸と北京~18世紀の都市と暮らし~」展が、江戸東京博物館で開催されました。開催期間は比較的長く、2017年2月18日から4月9日まででした。

 案内チラシを手にしたときから、私は是非とも、見に行きたいと思っていました。18世紀の江戸と北京を比較するという企画が面白く、何をどのような形で比較して見せるのか、興味を掻き立てられたからです。ところが、なかなか時間の都合がつかず、終了前日の4月8日、ようやく江戸博物館を訪れることができました。建物の前はちょうど桜が満開で、訪れる人々の目を楽しませていました。

 まず、この展覧会のチラシがとてもよく出来ているのに感心しました。できるだけ多くの観客を動員するためでしょうか、コンセプトを的確に伝えようとする工夫の跡が、随所に見られました。実をいうと、私はそのようなところに惹かれ、展覧会に行ってみる気になったのでした。

 たとえば、チラシの開催期間を示す数字の上に、さり気なく、「似てて、違って、おもしろい」というキャッチコピーが入れられています。

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(図をクリックすると、拡大します。)

 あまりにも日常語すぎて、あれっと思ってしまいますが、おそらく、それがこのコピーの狙いなのでしょう。そもそもこの展覧会は、18世紀の江戸と北京の人々の暮らしを比較しようという企画です。華やかな宮廷の文物を扱うわけではなく、著名な人物の書画が展示されているわけでもありません。展示品は、当時の人々の暮らしを彷彿させるモノや書、絵画、衣類、建物の模型などです。ですから、一般には関心を持ってもらえない可能性の高い企画でした。

 そのような企画にどうすれば現代人の関心を引き寄せることができるか。大きな課題だったのではないかと思います。だからこそ、敢えてこのようなキャッチコピーが挿入されたのでしょう。まずは気軽に展覧会に足を運んでもらうという意図が透けて見えます。

 そうだとすると、今度は文字がそれほど大きくないのが気になります。これではうっかり見過ごされかねません。とはいえ、これ以上、この文字を大きくすると、展覧会の格式を保てないかもしれません。品位を保つギリギリのラインで、さり気なく、このキャッチコピーは挿入されていたと思います。

■「似てて、違って、おもしろい」
 「似てる」、「違っている」という二つの軸は比較の結果、生み出されるカテゴリーです。「似てる」カテゴリーにヒトは親しみを感じますし、「違っている」カテゴリーからは文化の違いを考えさせられます。それぞれに面白く、場合によっては、この展覧会で、固定観念を崩されかねないほどの文化体験ができるかもしれません。

 18世紀の江戸と北京で、人々はどのように暮らしていたのでしょうか。

 18世紀といえば、江戸は徳川幕府の下、人口100万にもおよぶ大都市として成熟期を迎えつつありました。一方、北京は清朝の治世下で繁栄を謳歌していました。いずれも近代化以前の身分制社会で、現代とは大幅に社会状況が異なります。21世紀のいま、江戸と北京の往時を振り返ってみるのも意義深いことでしょう。

 さて、展示品から両者を比較した場合、「似てる」、「違っている」という二つのカテゴリーから、観客はいったい何を見出すことができるのでしょうか。「似てて、違って、おもしろい」というキャッチコピーは、観客が気軽に参加できるよう、あらかじめこの展覧会の観方を提示する仕掛けともいえますが、会場で観客は実際、何を発見できるのでしょうか。

 そう思って再び、このチラシを手に取ってみると、興味深いことに、このキャッチコピーにふさわしい図もチラシに挿入されていました。真ん中の白地の部分に、「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし」という文字が書かれていますが、その下に、図が二つ並べて掲載されています。

 左の図は、一人で天秤棒を担ぐ、江戸の魚売りの男です。ちょっと腰をかがめ、顔を右方向に向けています。そして、江戸の男が首をねじって振り向いた先には、棒に盆栽をつるして運ぶ、北京の二人の男の姿が描かれています。こちらも同じように、ちょっと腰をかがめています。

 男たちが腰をかがめているのは、荷重の負担を軽減するためでしょうか。それとも、身分制社会の中でへりくだって生きざるをえなかった男たちを象徴する姿勢なのでしょうか。いずれにしても、二つの図がこのように並べて配置されると、「似てる」、「違っている」部分が見えてきます。

 それだけではありません。二つの図を並べて配置することによって、図らずもこのチラシにユーモラスな空間が生み出されているのです。

 異なる時間、空間の下で描かれた二つの図が、このようにレイアウトされることによって、一枚の絵に見えます。この二つの図が作り出す関係性が、ユーモラスな空間を生み出しています。それは、江戸の魚売りが振り向き、棒に盆栽を吊るして運ぶ北京の運搬人を見ている構図が触発するユーモアです。

 二つの図を並べて一枚の絵として見たとき、同じように棒でモノを担ぐ(似てる)のに、江戸は一人、北京は二人(違っている)だという比較の面白さが強調されます。その結果、江戸の男が北京の男たちを、うらやましそうに見ているように見えてきます。束の間、当時の庶民の素朴な感情に触れたような気がし、ほほえましくなります。二つの図の配置によって、図らずも、両者に関係性が生み出され、それが、このチラシに上質のユーモアを添えているのです。 

■『熈代勝覧』vs. 『乾隆八旬万寿慶典図巻』  
 さらに、このチラシには興味深い比較が示されています。それは、人々の暮らしぶりを俯瞰的な構図で描いた二つの図です。一つは、江戸の暮らしを描いた『熈代勝覧』の一部、もう一つは、北京の暮らしを描いた『乾隆八旬万寿慶典図巻』の一部です。

 いずれも、人々やその生活空間が俯瞰的に描かれていますから、これらの図から、当時の江戸や北京の社会の一端を垣間見ることができます。絵ですから、江戸あるいは北京で、当時、どのような建物があり、人々がどのような服装をし、何を持ち、どのような行事があるのか、何をしているのか、といったようなことが具体的にわかります。

 まず、『熈代勝覧』から見ていくことにしましょう。

 『熈代勝覧』は1805年に制作され、当時の日本橋通りを、東側から俯瞰する構図で描かれた絵巻物です。長さ12mにも及び、通りに立ち並ぶ多くの店舗や、1671人もの人物が描かれています。

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 日本橋には大勢の人々が行き交い、橋の下には多数の船が並んでいます。さまざまなモノが江戸に運び込まれ、それを販売する商家がその先にずらりと並んでいます。その前には大勢のヒトがひしめき合うように群がっています。江戸の繁栄ぶりが示されています。

 残念ながら、この壮大な絵巻は現在、ベルリン国立アジア美術館が所蔵しており、日本にはありません。

 一方、『乾隆八旬万寿慶典図巻』は、1790年に清朝の乾隆帝が80歳を迎えたときの祝賀行事を描いたものです。祝賀の行列が、離宮から北京場内に入り、紫禁城西華門に至る行程が事細かに描かれています。沿道には余興のためにわざわざ舞台が設えられています。カラフルに着色され、華麗に装飾された建物からは、清朝の技術力、経済力が示されています。

 路上では、清朝の治世下で暮らす人々の生活シーンが種々、見受けられます。道路を清掃するヒト、群がった人々を目当てにモノを売ろうとするヒト、子どもの手を引く親、等々。興味深いことに、ここで描かれている物売りは天秤棒の両側にモノを載せ、一人で担いでいます。江戸時代の魚売りと同じです。

 これは中国故宮博物院で所蔵されており、今回、日本で初公開されました。

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■展示品にみる、18世紀の江戸と北京の暮らし
 会場では、第1章「江戸・北京の城郭と治世」、第2章「江戸・北京の都市生活」、そして、第3章「清朝北京の芸術文化」という章立てで、展覧会は構成されていました。総計185点にも及ぶ書画、陶器、刀剣、看板などが、章立てに沿って展示されており、それらを見ていくうちに、18世紀の江戸と北京の暮らしぶりが自然に、目の前に浮かび上がってくるようでした。

 文字で書かれたものだけではなく、絵画、衣類、生活道具、建物の模型など、非言語的な展示品が多かったせいでしょう、それらを通して具体的に、当時の人々の生活風景を思い浮かべることができました。次々と見ていくうちに、いつの間にか、比較するという観点を忘れていました。

 展示された書や絵画、さまざまなモノ、建物の模型などが直接、観客に語りかけてくる濃密な空間にどっぷりと浸ってしまっていたのです。年月を経て伝えられてきただけに、展示品にはそれぞれ風格がありました。それに、長い歳月を経てきたものだけが持つ、なんともいえない魅力がありました。それらの展示品から、具体的に、18世紀の江戸と北京で暮らす人々の生活を偲ぶことができたのです。得難い経験でした。

 185点にもおよぶ展示品は以下のようなものでした。リストをご紹介しましょう。 

こちら →https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/assets/img/2017/02/list201702.pdf

■江戸と北京の生活
 印象深い展示品はいくつもあったのですが、ここでは、端午の節句にまつわる行事をみていくことにしましょう。

 端午の節句は子どもの成長を願う年中行事で、中国から日本に伝わってきたものです。ですから、当然、江戸も北京も「似ている」はずなのですが、展示品はそうではありませんでした。子どもの成長を祝うという行事の主旨はそれほど変わらないのですが、行事の仕方、行事を象徴するモノが異なっていました。

 日本の場合、端午の節句といえば、鯉のぼりです。ですから、会場では、『名所江戸百景』から歌川広重の絵が展示されていました。

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 出典である『名所江戸百景』は1857年に刊行され、江戸の名所を描いた図が収録されています。この絵は、浮世絵師の歌川広重が水道橋、駿河台あたりを描いたものです。遠くに富士山が見えます。当時は高い建物もありませんから、晴れた日にはこのように富士山がはっきりと見えたのでしょう。

 この絵を見ると、江戸のいたるところで、鯉のぼりがあげられていることがわかります。ですから、当時すでに、子どもの成長を願う行事が鯉のぼりだったことがわかります。晴れた日、人々は富士山を遠景に見ながら、風にたなびく鯉のぼりを鑑賞していたのでしょう。鯉は立身出世の魚ですから、この行事が、男の子を対象にしたものだということがわかります。

 Wikipediaによると、端午の節句に鯉のぼりをするようになったのは、江戸時代からだそうです。男の子の出世と健康を願って、武家から始まった行事だと記されています。

 一方、中国では端午の節句には、腹かけで子どもの健康と成長を願うそうです。

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 この腹かけには、小動物や草花、虎の刺繍が施されています。虎が真ん中に配置され、それを囲んで円を描くように、草花や小動物が図案化され、刺繍されています。黒地の布に精緻な刺繍が美しく、芸術品といえるほどです。中国ではこの腹かけのことを「五毒肚兜」というそうです。

 よくわからなかったので、百度で調べてみると、「五毒肚兜」は、子どもの健康と安全を願って、五月の節句に着用させる腹かけのようです。それにしても、腹かけがなぜ端午の節句と関連づけられているのでしょうか、不思議でした。

 さらに、百度の説明文を読んでいくと、だんだんわかってきました。5月になると、寒さから取り放たれた子どもたちは戸外での遊びに興じ始めます。ところが、その時期、小動物たちも活発に活動を始めます。子どもたちが戸外で遊んでいるとき、小動物に咬まれたり、刺されたりして、その毒素が体内に入り込む危険性があります。

 そうした危険が子どもたちに及ばないように、警告を発する意味で、端午の節句に子どもたちにこのような腹かけをさせるようです。腹かけの由来を知ると、「五毒肚兜」は、とても理に適った子どものための行事だということがわかります。

 さて、百度を読んで、その由来はわかったのですが、刺繍された図案を見ただけでは、「五毒肚兜」の小動物が何を指すのか、わかりません。そこで、ふたたび、百度で調べると、「五毒」とされている五つの小動物は、「ヘビ、サソリ、クモ、ヤモリ、蛙」を指すことがわかりました。

 大人には大したことがなくても子どもには、このような小動物との接触が生命の危険にも及びかねません。古来、そのような悲劇が多々、あったのでしょう。そこで、このような小動物には気をつけなさいという警告が、端午の行事の中に盛り込まれているのです。

 日常的に使う腹かけに、「五毒」の原因となる小動物がデザインされ、刺繍が施されています。ですから、これは、すべての親に対し、常に注意喚起するよう配慮された行事といえます。そして、対象となる子どもに性別による差異はありません。男の子であれ、女の子であれ、すべての子どもの健康と安全が祈願されており、よく考えられた子どものための行事だと思いました。
 
■近代化以前の日本と中国
 この展覧会は、近代化以前の江戸と北京を、人々の暮らしの観点から比較するという大変、興味深い企画でした。18世紀といえば、江戸が都市として大きく発展し、独自の日本文化を育んでいた時代です。一方、北京もまた清朝の中心として当時、繁栄をきわめていました。江戸も北京もまだ西洋文化の影響を受けず、独自の文化を醸成させていた時代だったのです。

 その後、西洋文化への対応の違い、すなわち、近代化への取り組みの違いから、日本と中国は大幅に異なった道を歩むようになりました。そして、21世紀のいま、あらためて日本と中国との関係を問い直す必要が生まれ始めています。それだけに、この展覧会で示されたような、近代化以前の日本と中国の文化の源流をたどる試みは貴重なものだといえるでしょう。(2017/4/20 香取淳子)

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