ヒト、メディア、社会を考える

学会ははたして現実社会に向き合えるのか。

学会ははたして現実社会に向き合えるのか。

■日本マス・コミュニケーション学会
 6月23日から24日にかけて、学習院大学で日本マス・コミュニケーション学会が開催されました。興味深かったのは、24日の午後、開催された「若手セッション」で、タイトルは「変化するメディア環境とマス・コミュニケーション研究の今後」というものでした。

 近年、マス・コミュニケーションを巡る環境は激変しています。人々の情報接触行動が大きく変化しただけではなく、情報提供側の基盤も揺らいでいます。ところが、そのことに真正面から向き合った研究がほとんど見当たりません。どうしてなのかと私は、常日頃、疑問に思っていました。そんな折、恰好のテーマを取り上げたセッションを見つけたので、とても興味深く、是非とも参加することにしました。

■若手セッション
 このセッションは、「若手研究者の視点」と銘打たれているだけあって、司会者、問題提起者、討論者の計5名、いずれも若手でした(年齢は知りませんが、肩書からそう推察されます)。

 まず、問題提起者の一人が提起した諸問題の中で、私が気になったのは、中国人、韓国人の研究者が増加し、中国や韓国に関する日本語の研究が増えているという指摘でした。

 そして、もう一人の問題提起者が提起した諸問題の中で、私が気になったのは、メディア史、ジャーナリズム史の研究が増えているという指摘でした。

 いずれの指摘も、日本のマス・コミュニケーションが現在、向き合っている現状を、研究者たちが対象としきれていないことを傍証するものだといえます。このような若手研究者の問題提起を聞いていて、私が日頃、感じていたマス・コミュニケーション研究に対する不満の原因が多少、わかったような気がしました。

 この二点を手掛かりに、現在の日本マス・コミュニケーション研究について、考えてみることにしましょう。

■中国人、韓国人研究者の増加
 以前から気になっていましたが、研究発表やワークショップでの報告、研究会での報告等々で、中国人や韓国人の研究者の登壇が増えています。彼ら、彼女らは精力的に、日本語で自国メディアやコミュニケーションについて発表します。その多くはフロアからの質問にも適切に対応し、研究者としての自信も感じられます。

 いったい、日本の若手研究者はどうしているのか。

 ふと、そんなことを思ってしまいました。問題提起者はいずれも、日本マス・コミュニケーション学会は学際的な学会なので、自身の専門領域により近い学会で発表することが多いといいます。そして、彼らは異口同音に、そうした方が研究内容も理解されやすいし、より適切なコメントが得られやすく、自身の研究向上に役立つからだと説明します。

 おそらく、実情はその通りなのでしょう。ネットが情報流通の主流になりつつあるいま、もはや若手研究者に新聞やテレビなどのメディア研究を求めるのは無理かもしれません。ネットと関連づけてメディア研究を進めるにしても、今起きている変化はあまりにも大きく、捉えどころがなく、実証的な手法で研究するのはきわめて困難でしょう。

 もちろん、日本マス・コミュニケーション学会には、新聞社やテレビ局などメディア出身の研究者が多数、加入しています。若手ではありませんが、彼らこそ、メディア激変の現在、日本のマス・コミュニケーション研究を実践し、現場にフィードバックするには適しているはずです。

 ところが、メディアの問題状況に鋭く切り込み、分析し、有為な提言につながりそうな研究が行われているとは寡聞にして知りません。また、そのための研究会が立ち上げられてもいいようなものですが、それも残念ながら、聞いたことがありません。

 現状に立ち向かうだけの意欲と勇気のある研究者はいったい、どこに行ってしまったのでしょうか。

■歴史研究の増加
 メディア史、ジャーナリズム史の研究が増えているという指摘も気になりました。過去についての研究は文献、資料を入手しやすく、しかも、すでに評価の定まっている対象であれば、研究成果を出しやすいという事情もあるでしょう。研究者がリスクを恐れ、成果を急ぐようになると、この種の研究になだれ込む可能性があります。

 ネット主導、デジタル主導でメディアが激変しているいま、メディア研究の領域でもビッグデータをどう扱うか、データアナリストをどう育成するか、コンテンツ制作にAIをどう絡ませるかといったようなことが研究対象になってもいいはずなのに、実際はそうではなく、むしろ歴史研究が増えているというのです。

 研究動向からみても、やはり、現状にしっかりと立ち向かうだけの意欲と勇気のある研究者はどこに行ってしまったのかと思わざるをえませんでした。

■若手研究者の置かれた状況
 そういえば、最近、どの学会でも大学院生、若手研究者の研究発表や論文発表が目立ちます。研究成果を発表することで、認めてもらい、ポストの獲得、あるいは昇進につなげようとするからなのでしょう。その気持ちがわからないでもありませんが、学会によっては学会誌の構成はバランスよく配分する必要があるとしているところもあります。学会誌や学会が若手の研究成果の発表の場としてだけ機能することを回避しようとしているのです。

 一方、現実をみれば、多くの大学は経営状況が深刻化し、ポスト削減やカリキュラムの改編も常態化しています。若手研究者は、これまで以上に将来に不安を覚える事態に陥っているのかもしれません。だからこそ、リスクを避け、安定した評価が得られる方向に走っているのだとすれば、手間暇のかかる研究手法や評価が得られにくいテーマが回避されるのも無理はないと思えてきます。

 どの時代でも研究のための研究を排除できないとはいえ、研究対象が多様化し、研究手法が高度化してしまったいま、若手研究者に限らず、研究者全体が研究対象を掴み切れず、方向性を見失っているともいえそうです。

 今回、日頃の疑問に応えてくれるかと思って、この若手セッションに参加しましたが、疑問は一向に解消されず、逆に、若手研究者の置かれた立場に同情する羽目になってしまいました。研究者と現場はどのように交流し、現場の課題を踏まえて、研究者が研究を行い、適切な提言を現場にできるようになるのか、依然としてわからないまま、セッションは終わってしまいました。

 SNS、そして、AI時代を迎えた今、改めて、「マス・コミュニケーション研究はどうあるべきか」については、継続して取り上げるべきテーマだと思いました。試行錯誤を積み重ね、現場と研究者が切磋琢磨しあいながら、このテーマで検討しつづけていけば、いつかは相互に有益な研究ができるようになるのではないかという気がしています。(2018/06/30 香取淳子)

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